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【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その17

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0001人間七七四年2014/01/13(月) 15:24:35.25ID:IQK4FwGT
家康の天下取りは我々現代人に多くのことを教えてくれる。
幼少期の人質時代の屈辱。信長との同盟を守りきった律儀さ。
武田信玄との対戦。小牧・長久手での熟練した軍略。
豊臣政権下での着実な勢力伸張。そして文句なしの関が原での勝利。
天領400万石の圧倒的な徳川幕府。天下泰平250年。江戸は世界最大
の都市の一つとなった。

東京が首都となったのも、家康が始原。
死ぬまで階段をかけ上がった人生の達人。

前スレ
【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その16
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1362291265/
0202人間七七四年2014/03/15(土) 09:34:31.34ID:evyujGWz
>>200
まともな研究者に現在も五徳の手紙があったと言い張ってる人って居たっけ?
0203人間七七四年2014/03/15(土) 10:03:56.58ID:PA90rY4l
>>201
信康切腹から徳姫出立までは半年程度なので、普通に服喪だったかと
0204人間七七四年2014/03/15(土) 11:25:56.13ID:gCk9RoeX
>>202
新行紀一は手紙はあったという前提で本を書いてたかと
0205人間七七四年2014/03/15(土) 17:23:53.69ID:Hn9Wd0l7
>>203
年が明けてから、というのも意味があったのかな、とね。
0206人間七七四年2014/03/17(月) 18:25:22.88ID:kmQ8h0/S
家康が伊賀を通過していないどころか甲賀郡の蒲生や山中や和田らから
人質まで取って案内させており、安全に通過してるのに
なんで神君伊賀越えとか捏造してるんだろね。
実際のルートは
6/2和泉堺から南山城路を通り山城国宇治田原山口館宿泊(徒歩十三里)
6/3南近江路を通り近江国甲賀郡信楽小川館宿泊(徒歩六里)
6/4北伊勢路から伊勢路に出て伊勢国長太から海路で深夜には三河着へ(徒歩十七里)
0207人間七七四年2014/03/18(火) 09:35:03.65ID:ixyA/4Tn
>>206

アフォな質問で申し訳ないが
堺で船を借りて、ひとまずどこかの安全地帯に逃げ込むことはできなかったのか?
0208人間七七四年2014/03/18(火) 11:31:18.05ID:DGAL5iAQ
どこかの安全地帯が存在するのかという話
0209人間七七四年2014/03/18(火) 12:23:04.66ID:ixyA/4Tn
>>208

淡路島は秀吉が押さえていたはず。
0210人間七七四年2014/03/18(火) 12:48:32.15ID:DGAL5iAQ
>>209
長宗我部が攻めればどうなるか分からない
それに光秀以外の織田家の家臣が家康の味方とは限らないし
0211人間七七四年2014/03/18(火) 19:56:39.32ID:b3i3ebi/
>>207
海路より山城や近江を通過して伊勢に出る陸路の方がより安全だと判断したのだろう。
0212人間七七四年2014/03/18(火) 22:18:41.99ID:juMQEK+k
>>209
天正九年説はもう廃れたと思ってたのだが
0213人間七七四年2014/03/18(火) 22:25:31.28ID:iRjc7V6g
戻って出陣したら秀吉の使いと
バッタリ会ったのだろうけど、その使いは
出陣してること知ってたのかな。
普通に岡崎に知らせに行ったらバッタリ
ってのもお互いがかなり
驚いたんだろか。
徳川から見て、もう敵討ち完了、ってのも
信じがたかったろうにね。
0214人間七七四年2014/03/21(金) 08:34:53.41ID:aEpxw71r
>>212
まだどっちか確定してねーだろがアホ在日織田チョン君www
0215人間七七四年2014/03/21(金) 09:58:26.98ID:3D0tuwym
>>214
アンチ秀吉の狂人は無視しとけ。
そいつは以前にも絶対に伊賀越えしたと狂ったように主張してたし。
家康が危機的だったのは三方が原と天正12年の秀吉との戦いの2回だけ。

>>206
老人雑話で信長が堺見学をさせたのは、
家康暗殺する謀があったからだが、
神君の御運が強く、光秀が信長を暗殺したので、
家康は伊賀越で三河に帰ったと書いてる。
ここから尾ひれが付いた神君伊賀越伝説が生まれたと思われる。
0216人間七七四年2014/03/21(金) 10:18:58.14ID:3D0tuwym
ちなみにイエズス会の記録にも
家康は多数の兵を連れていたが、
穴山は兵が少なかったので途中で略奪され兵を悉く殺されたと
書いていて、穴山が殺された理由は兵が少なかったから。
盗賊の略奪から身を守るだけの兵力を引き連れていた家康は楽勝で通過できたようだ。
もっとものちに甲斐国を横領した家康という結果から見たら、
穴山を襲撃したのも家康の手勢の可能性は否定できんが。

また石川忠総留書にも一応、伊賀路を経て伊勢神戸に着いた。
その際に信孝の母に信孝のことを頼入のよしと仰せられたなどとウソくさい話を書いてるが、
それでも伊賀越が大変だったとか、警戒したとかまったく書いてない。
ちなみにこの書留では穴山は家康一行の一里程後を付いて行ってたら、
家康通過後まもなく郷人が起って穴山一行を討ち殺したと書いていて
家康が村人に穴山暗殺を含み置いたとしか思えない。
0217人間七七四年2014/03/21(金) 12:04:15.63ID:DceLVBGk
菅沼くんはスルーで
0218人間七七四年2014/03/21(金) 12:08:56.54ID:uMkXleP/
普通に穴山は身代わりになったんだろう。
一里後、ってのはまさにそのためだな。
穴山を襲撃する意味がわからん。
0219人間七七四年2014/03/21(金) 12:18:45.56ID:XgHH2krf
家康のチート不運

・若くして織田家の人質に出され、その織田と松平が対立する
・今川の尾張攻めで先鋒を無理矢理勤めさせられる
・桶狭間合戦で主君義元が殺される
・貧国で一向一揆が根強い三河の数郡の小領主として独立する
・三河一向一揆で、家臣が二分するような危機に追い込まれる
・自国より遥かに強大な国力の今川や武田の侵攻を次々に受ける。
・自国より遥かに強大な武田の侵攻を受けながら、信長の畿内平定戦に次々刈りだされる(金ヶ崎の侵攻戦、上洛戦、滋賀の陣、姉川の戦い、長島侵攻戦、岩村攻囲戦など)
・自国より遥かに強大な武田の侵攻を受けながら、信長からはろくな援軍が来ない
・自国より遥かに強大な武田に苦戦している間、信長が内訌や内紛、有力者の病死に付け込んで火事場ドロして版図を拡張したため
従属に近いような関係を強いられる。
・自国より遥かに強大な武田に苦戦している間、信長が内訌や内紛、有力者の病死に付け込んで火事場ドロして版図を拡張したため
従属に近いような関係を強いられ、信康を命令で殺される
・ろくな援軍もなく、長年武田相手に敢闘し、単独で抑えてきたにもかかわらず、武田攻めでは駿河しかもらえない。
・堺で穴山と遊行中、信長が本能寺で殺され、同行してた穴山が殺され、家康も襲われて危うく死にかける
・命からがら戻ってきたものの、元の国力がしょぼ過ぎ、同盟者家康には大義名分に欠けるため、ろくな兵が集まらず、光秀討伐に行けない。
・信長が死んだ後の信濃・甲斐に上杉景勝と北条氏直が進出してくる
・北条との同盟後も、天正11年・12年と上杉景勝が揚北や越中戦線を放り出してまで川中島侵攻を続けてくる
・秀吉が馬鹿みたいな大軍を率いて、しつこく侵攻してくる。
・圧倒的に秀吉軍を蹴散らしまくってたにも関わらず、織田信雄がマンマと和議に応じ、家康も応じざるをえなくなる
・天正11年に領内で大洪水が起きて、その対応に追われ、徳政令を連発するハメになる
・天正12年に木曽義昌、天正13年に小笠原貞慶・真田昌幸・石川数正・水野忠重が離反し、領内の軍事機密が露見する
・秀吉死後、自分を敵視した奉行衆らが、自分を暗殺する計画を企てる
・秀吉死後、自分を敵視した前田が、天下の差配を牛耳ろうと威張り散らす。
・秀吉死後、自分を敵視した上杉が、自分の命に背いて、領内に立てこもり、戦線布告する。
・秀吉死後、自分を敵視した輝元や三成らが、規格外の大軍を率いて馬鹿みたいに戦をけしかけてくる。
・藤堂隊や黒田隊、細川隊などが弱過ぎて、寡兵でろくな戦闘経験もない雑魚三成相手に苦戦し、あやうく負けかける。
・関ヶ原後も、秀頼や幸村らが巨大な富と、戦国一の堅城大坂城に大軍で立てこもり、自分に歯向かう。
・ヨボヨボのジジイになっても、息子が無能すぎて頼りにならないため、仕方なく自分が采配を振るって前線まで一々出かける。
0220人間七七四年2014/03/21(金) 12:22:48.28ID:XgHH2krf
>>家康が危機的だったのは三方が原と天正12年の秀吉との戦いの2回

全く危機になってない。
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
>>伊賀、伊勢は連戦連敗でほとんど占領されてしまい
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が城主の中川が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
>>信雄は伊賀と伊勢の半国を割譲して秀吉の主人という立場から臣下
伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
>>戦略目標は達成
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)

小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
0221人間七七四年2014/03/21(金) 12:24:36.63ID:XgHH2krf
>>天正12年戦役でも秀吉に圧倒されヤバくなった家康は、
全く圧倒されてないしヤバくなってない。
むしろ秀吉方のは135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
>>秀吉にビビって清洲城で引き篭もったまま動けず
兵力差7〜8倍程度なら雑魚武将相手でも流石にビビるわwしかも小牧山などに秀吉は2万以上留守居部隊置いて
家康がなかなか動けないようにした上で、家康が寡兵では到底後詰にこれない敵陣深い木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の城を
攻めて、家康から逃げ回ってる。その上、家康が秀吉のいた大垣から眼前にある秀吉方の蟹江・前田・下市場の、超重要拠点をわずかな兵で攻めてたら
ビビリまくって大垣から一目散に大阪までヘタレ敗走してる。いかに長久手合戦で自軍の8分の1にすぎない兵力にもかかわらず規格外の兵力を殺された
雑魚の信雄や家康にビビリまくってたかわかるな。
>>信雄への援軍すら出せずに見捨て
小牧山城やその周辺拠点には秀吉方の兵力2万以上いたから、秋時点で8000程度しかいなかった信雄・家康勢ではどうしようもない(家忠日記や当代記で
8月時点で家康はただでさえ少ない兵力の半分を領国に帰してるのがわかる)
しかもそんなわずかな兵力にもかかわらず6月には前田・下市場7月には蟹江・浜田を奪回し11月に長久保城を奪回してるのが信雄。
雑魚の信雄でも秀吉よりは遥かに戦上手だったのがわかる。
>>秀吉から懇望があったからとか
織田信雄の書状によれば間逆で秀吉が懇望してきたが断ったといってる
また9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
  信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった
などとデタラメをいつもの如くデッチあげているが、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
等と、なぜか9月時点での懇望を断ったのに11月では容認という明らかにデッチ上げの内容を書き連ねてる。
池上裕子氏も、小牧長久手の講和は、秀吉の懇望によって行われたと書いてる。
0222人間七七四年2014/03/21(金) 12:26:13.27ID:XgHH2krf
秀吉の戦果報告は以下のようにデッチ上げがほとんどなので、人質と書いてるのは例の如く秀吉のハッタリ誇大喧伝と見るべき。
>>家康信雄連合は秀吉から雀の涙の如き一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的

信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。

秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし

秀吉方は135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
0223人間七七四年2014/03/21(金) 12:27:27.56ID:XgHH2krf
秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝

尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定w
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは2人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるしそれ以外のやつもほとんど織田信雄分限帳で生きてるのがわかるのにwww
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね。なぜ今更付け城の話を????
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記・織田信雄分限帳など)
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)w→いやはやこれは笑うしかないw3月上旬に留守居兵ろくにいなく、陥落した犬山を4月ってw
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→2人を除いて生き残ってる

尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分w これが本当なら防衛どころじゃないw
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンwギャグがすぎるだろwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るw
9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しい?
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
9月時点での懇望を断ったのに11月では容認 明らかにデタラメ
0224人間七七四年2014/03/21(金) 12:29:32.27ID:XgHH2krf
家康は一向一揆を基盤が大きく、今川氏真から侵攻を受けてる中奥三河や東三河を自力で侵攻し
大国武田の圧迫に、信長からろくな援軍もない中、長年耐え抜いてきたじゃん。
一方家康は信長の畿内平定には狩り出されまくり、寡兵にもかかわらず大軍朝倉相手を任されたりしてる
天正壬午で依田が活躍したのは、武田攻めの際、依田の命を救った家康の慈悲深さが功になっただけで
こういうのは自分の性格によるところだから棚ボタとはいえない。
関ヶ原では武断派は大軍で連携しながらろくな戦功もない寡兵の石田隊や小西隊や大谷隊、宇喜多隊などに苦戦しまくってたが、
家康が小早川を調略してくれたおかげでマンマと劣勢を覆す事のできた棚ボタっぷり。
こんな棚ボタ大名は他にはいないだろ。はっきりいって武断派なんて家康が小早川を調略せずにいたり、自分らを味方に退き入れなかったら
石田らに失脚させられるだけの雑魚でしかなかったのが史実。
その証拠に結局豊臣を見捨てて功利主義に走った武断派はマンマと改易されてるし
0225人間七七四年2014/03/21(金) 12:30:09.81ID:29yux2dD
家康はほとんどろくな支援も受けずに逆に信長の畿内平定戦やら岩村合戦などには
いやいや付き従わされて、大国武田の侵攻を1人で支えてきたのに
貰った領土が駿河だけとかいかに苦労の割りにろくな目にあってないかわかるな。
武田を滅ぼせたのは、武田相手に孤軍奮闘してきた家康のおかげなんだし、信濃も甲斐も家康に直接あげるくらいじゃないとおかしいからな
0226人間七七四年2014/03/21(金) 12:30:47.91ID:BHTIfZu6
家康の戦歴…大国今川相手に西三河数万石そこそこの所から吉良・今川の大軍相手に勝ちまくり三河一向一揆でも大勝。
その後も最強武田軍団相手に敢闘し、信長を滅亡寸前に追い込んだ大敵朝倉を大破した上に、戦上手の武田勝頼を多いに疲弊させ、
信長死後は甲斐信濃を巡り北条氏直の大軍相手に勝利。その後豊臣軍135000に対し織田信雄含めても16000そこそこの寡兵で豊臣軍を一万人戦死させる大勝利をあげた上に
秀吉はビビリまくって信雄相手に顕如送って必至に取り成しを懇願し、さらに自国の15分の1の国力しかなく、木曽小笠原石川水野真田の離反とそれによる軍事機密露見と
天正大地震と天正11年からの徳政令連発で領国が崩壊した家康にも母と妹を差し出すヘタレっぷり。
さらに関が原では畿内だけで18万もいる豊臣の大軍を大破する大勝利w
大阪の陣でもあれだけ規格外の堅固で大規模な城郭&城攻めとしては少ない2倍いくかいかないかくらいの兵力で短期間で大勝
信長の戦歴…チート尾張斯波家継ぎながら幼君でガタガタの斉藤領火事場泥棒しようとしたらまけまくり
長島侵攻では3回も敗北し餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ち&数万の大軍で一門10人以上殺されるなど負けまくり
本願寺攻めでも大苦戦し武田にも上村合戦や東美濃攻防で敗北し信玄在世中は追い込まれる一方で滅亡確定、
最後は光秀に殺されて死亡

秀吉…小牧長久手で家康より遥かに戦下手で織田家で最も無能で伊賀攻めに失敗し信長の勘気蒙り縁を切られそうになるアホ信雄に135000の大軍で挑んで
1万人殺される大敗。その後の攻防も二重堀・蟹江・前田・下市場・松ノ木・浜田・長久保・東駒野・河波・神戸攻防で敗北
二重堀合戦では防衛戦にもかかわらず1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられる
蟹江・前田・浜田・下市場・長久保・神戸は秀吉方本陣から程近い距離にあるにもかかわらず見事に寡兵の信雄に奪回される
結局実力では全く歯がたたず信雄・家康に顕如使って土下座してなんとか和議までこぎつける
北条氏直…神流川で織田家トップクラスの滝川の18000を24000そこそこで10倍の被害差で大破
朝倉義景…信長を滅亡寸前に追い込む。姉川の合戦では浅井軍は織田を押しまくり当時の織田四天王の一人の坂井の息子を討ち取る
勝頼…「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死と織田徳川を寡兵で圧倒しまくる
一揆勢…信長の数万の大軍を餓死寸前のところで騙まし討ちかけられた状態でわずか数百の寡兵で織田一門10人以上討ち取る


以上をまとめると勝頼>>>>家康>>>氏直>>>>>滝川>>>>>一揆勢・朝倉>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長
0227人間七七四年2014/03/21(金) 12:31:32.92ID:16i8tmzf
普通に考えて関ヶ原で棚ボタだったのは家康ではなく
家康のおかげで戦闘に勝利でき、ろくな戦功もなく石田や小西や宇喜多や大谷などの寡兵の雑魚に苦戦しまくってただけなのに
大版図もらえた福島池田黒田細川ら東軍の雑魚武将達だろ。
家康が味方に誘ってやらなきゃ、石田らに次々に実権を奪われて失脚するだけのアホでしかなかったが
家康のおかげでマンマと大版図もらえた。
ガチで実力0の癖にに棚ボタと漁夫の利と金魚の糞で大名になっただけのウンコみたいな大名でしかない。
0228人間七七四年2014/03/21(金) 12:32:22.32ID:16i8tmzf
>>天正12年戦役でも秀吉に圧倒されヤバくなった家康は、
全く圧倒されてないしヤバくなってない。
むしろ秀吉方のは135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
>>秀吉にビビって清洲城で引き篭もったまま動けず
兵力差7〜8倍程度なら雑魚武将相手でも流石にビビるわwしかも小牧山などに秀吉は2万以上留守居部隊置いて
家康がなかなか動けないようにした上で、家康が寡兵では到底後詰にこれない敵陣深い木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の城を
攻めて、家康から逃げ回ってる。その上、家康が秀吉のいた大垣から眼前にある秀吉方の蟹江・前田・下市場の、超重要拠点をわずかな兵で攻めてたら
ビビリまくって大垣から一目散に大阪までヘタレ敗走してる。いかに長久手合戦で自軍の8分の1にすぎない兵力にもかかわらず規格外の兵力を殺された
雑魚の信雄や家康にビビリまくってたかわかるな。
>>信雄への援軍すら出せずに見捨て
小牧山城やその周辺拠点には秀吉方の兵力2万以上いたから、秋時点で8000程度しかいなかった信雄・家康勢ではどうしようもない(家忠日記や当代記で
8月時点で家康はただでさえ少ない兵力の半分を領国に帰してるのがわかる)
しかもそんなわずかな兵力にもかかわらず6月には前田・下市場7月には蟹江・浜田を奪回し11月に長久保城を奪回してるのが信雄。
雑魚の信雄でも秀吉よりは遥かに戦上手だったのがわかる。
>>秀吉から懇望があったからとか
織田信雄の書状によれば間逆で秀吉が懇望してきたが断ったといってる
また9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
  信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった
などとデタラメをいつもの如くデッチあげているが、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
等と、なぜか9月時点での懇望を断ったのに11月では容認という明らかにデッチ上げの内容を書き連ねてる。
池上裕子氏も、小牧長久手の講和は、秀吉の懇望によって行われたと書いてる。
0229人間七七四年2014/03/21(金) 12:34:56.04ID:9C5QRyDs
うんこだのなんだの品性下劣を極めてますね
0230人間七七四年2014/03/21(金) 12:41:20.56ID:29yux2dD
イエズス会年報とフロイスの日本史は秀吉が垂れ流した歪曲情報を元にかかれてて
あってる記事はほとんどない。
これは小牧長久手合戦関連の記述を読めばわかる。
ほとんど秀吉のハッタリ喧伝や捏造を事実のように書いてて
一次資料と照合すると矛盾ばかりだからな。
0231人間七七四年2014/03/21(金) 12:45:35.38ID:29yux2dD
フロイスの捏造
>> 根来衆は秀吉に対して幾つか無礼を働き、ある陰謀をたくらんでいた
明らかに秀吉サイドの目線で、根来衆からいえば明らかに秀吉が自分らを迫害
>>秀吉は伊勢に入ると敵の諸城を包囲し始め、幾ばくかの苦労をしたが、武力をもってそれらを次々と陥落せしめ
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
>>敵方は長島と称する一城を残し国を挙げて彼に引き渡してしまった
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
>>秀吉の軍勢は同所(伊賀)から異常な迅速さをもって尾張に進撃し、犬山城はたちまち降伏
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
0232人間七七四年2014/03/21(金) 12:47:02.33ID:29yux2dD
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
>>三河の国主は夜に入ってからその新しい小牧城を出、天明を待って羽柴の甥の陣地を襲撃した。
明け方に行われたのは秀吉方先遣隊と池田勢との間で行われた岩崎城の戦いであって、家康が秀次の陣地を襲撃し合戦になったのはそれより大分後の
巳〜午の刻。
>> 三河の国主はこの勝利を博すると小牧城に戻った。すると羽柴(秀吉)はただちに2万の兵をもって同城を包囲するように命じた
そんな事全くやっておらず、小牧方面から目をそらして、大河に挟まれた進退の自由の利かない木曽川筋のデルタ地帯に家康・信雄を誘いだして
殲滅しようと岐阜城の秀勝につけた田中・伊藤・谷・石川・藤県に対し、岐阜から木曽川筋を長島に向かい12キロほど南下した所にある大浦城
への加勢を命じている(4/11秀吉→伊藤・田中・谷・石川)また、木造攻撃中の小島・榊原・田丸らに加勢する目的で津田・富田・八重羽らを派遣して
(4/12秀吉→津田・富田・八重羽)明らかに小牧方面への進出を諦め、伊勢や尾張北西部に戦局を転換しようとしている
>>こうした戦闘がすでに終わった頃になって、越前加賀能登から三万近い軍勢が羽柴を助けるために到着したが、秀吉はもはやそれだけの
>>大援軍は必要なしと認め、ただちに引き返させた。
>>羽柴がこのたびの戦いのために大阪を出発した後、根来及び雑賀と称する仏僧らは、彼の不在に乗じ、約1万五千名が一団となって出撃し羽柴が大阪に築いた新しい都市を
>>すべて焼き滅ぼしてしまおうと決意した。大阪を占拠した上はかつて信長が五年も六年も攻囲したかの石山本願寺の僧(顕如)を再びそこに
>>おらしめる事にした。敵(僧兵)は徐徐に前進し途中幾つかの場所を破壊したり焼いて行ったので、四日ないし五日かかった。
0233人間七七四年2014/03/21(金) 12:48:36.32ID:3D0tuwym
天正12年といえば、まだ秀忠は5歳
信康死後は秀康が徳川家嫡男。
秀康を秀吉の下へ差し出したのは
徳川の屈服をはっきり示すもの。
また故信康の妻も秀吉の下に送られ
徳川家臣のメンツは完全な敗北感しかないだろう。
だからこそ人質を養子と言い換えているが、
実のところ、徳川が秀吉に反抗したら
名誉の自刃をした信康の未亡人が恥ずかしめられ、
さらに秀康が殺されることにはかわりなく
徳川嫡子の生殺与奪の権を秀吉が握っている事実は隠せない。


またアンチ秀吉のキチガイ織田チョンが暴れているのかよ。
ガチうぜぇ。だいたい秀吉は天正12年戦役の結果、
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww

秀吉に嫡男を人質に出した酒井は徳川四天王筆頭じゃん。
最古参筆頭として石川数正と同格。
他の四天王って言っても本多忠勝と榊原康政は21歳も差があって親子並に離れていたし、
井伊直政に至ってはさらに13歳下。
本多重次も譜代最古参で三河三奉行の1人で民衆に慕われた行政のスペシャリスト。
つか出世より家康へのイラつく直言で有名で、
その命を惜しまぬ直言ぶりで三河武士の見本と呼ばれ鬼作左と言う名前の方が有名。
おかげで北条征伐後間もなく蟄居になってるからあまり有名になってないだけで、
一筆啓上、火の用心〜の日本一短い手紙でも有名で、
現存天守が残る福井県の作左の嫡男が封じらた丸岡城の宣伝文句にも採用されてる。

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


アンチ秀吉の織田チョンは相変わらずバカだねw
天正15年正月時点で、
本多重次は岡崎城代で、
酒井忠次が吉田城代なんだけどwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
0234人間七七四年2014/03/21(金) 12:51:26.79ID:3D0tuwym
本多隆成氏ですら定本徳川家康の中で、
天正12年12/12には秀吉への人質(養子ともいう)として、
第二子於義伊(のちの結城秀康)が浜松を発つ
などと書いているのになwww
家康が人質なんて出してない!なんてキチガイ主張してんのは在日織田チョンだけwww
0235人間七七四年2014/03/21(金) 13:27:07.54ID:4AihImh5
養子や側室として取ったのを無理矢理人質を取ったとハッタリ誇大喧伝してるのが秀吉。
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。

看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。
0236人間七七四年2014/03/21(金) 13:34:01.39ID:29yux2dD
秀吉は種なしだから、側室取りまくってたが、子供ができなかっただけ。
フロイスの日本史の20章に、柴田の息子の妻や家康の息子の妻や信忠の妻や信雄の娘を己のものとしたと書いてたり
主だった貴人の大勢の娘達を養女として召し上げ12になると情婦としたと書いてたり
器量がよいという評判の娘で、連行されなかった者は1人もいなかったと書いてる
秀吉は種なしで、側室を増やしまくっても子供が全くできずに焦ってたから
他家から養子を貰いまくって、後継者候補を増やす事で安心してた。
それをする事で、他家と自家の繋がりが密接になり、一体化する事ができるメリットもある、
それで、徳川家と豊臣家との一体化を測った結果、秀頼と千姫との婚姻を取り決め、
徳川が豊臣後継者という大義名分を血縁上でも得る事となり、家康はそのまま豊臣家を後継する事ができた。

講和の条件として養子に自分の子を出したり
自分と対等な同盟相手や、自分の従属者への養子で自分の子供出すってパターンは普通にあるんだが。
北条→里見の従属同盟
北条→藤田家
北条→大石家
毛利→吉川・小早川家
上杉北条同盟
織田→神戸・長野・北畠
徳川→結城
上田長尾家→古志長尾家
豊臣→小早川(秀秋)
佐竹家・伊達家→葦名家(義広・小十郎)

養子は当主が死ねば当然その家の後継者候補になるし
その家を継ぐ大義名分にもなるし家中で大きな権力・威信・名分・軍事力を持つきっかけにもなる
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
0237人間七七四年2014/03/21(金) 13:38:31.95ID:ByOvfgz1
まぁた発作か、薬飲めよ( ´,_ゝ`)
0238人間七七四年2014/03/21(金) 13:53:36.83ID:0d6uTirN
秀吉が顕如に土下座して必死に信雄との仲介取り成しを依頼して、信雄がマンマとこれにのって和睦したから、停戦になって、停戦の条件として秀康が秀吉の養子になっただけ。
秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
0239人間七七四年2014/03/21(金) 15:29:19.24ID:XovKqq8y
21 :菅沼遼太:2013/10/01(火) 15:05:14.00 HOST:g229.115-65-140.ppp.wakwak.ne.jp<8080><3128><8000><1080>[115.65.140.229]
対象区分:[個人・三種]優先削除あり
削除対象アドレス: http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1380092620/92
削除理由・詳細・その他: 個人の取り扱い
三種
 上記2つに当てはまらない全ての人物
三種:
 誹謗中傷の個人特定が目的である・文意により攻撃目的である

誹謗中傷
三種:
 個人を完全に特定する情報を伴っている。

22 :21:2013/10/01(火) 15:10:35.88 HOST:g229.115-65-140.ppp.wakwak.ne.jp
>>21も削除していただきたいです。

23 :不動 ◆HpcRk2ELiM @削除明王 ★:2013/10/01(火) 18:41:44.52 0
>>21-22
却下。名前だけなら削除対象ではなく、削除する理由なし。

#名前との組み合わせで削除対象になる記述がありません。
#予備知識のない第三者には個人を全然特定できない上に、
#誹謗中傷として扱う記述もありませんでした。
#なお、もし当スレの21を正式に削除依頼しても、削除する理由がないので却下あるのみです。

24 :うんこ:2013/10/01(火) 20:53:49.39 HOST:ntaich067177.aich.nt.ngn.ppp.infoweb.ne.jp
>>23
却下
じゃねぇよボケ
ちゃんと仕事しろよクズ野郎

25 :21:2013/10/01(火) 21:10:10.04 HOST:g71.124-45-254.ppp.wakwak.ne.jp
>>23
手前ら無能な運営の不手際で個人情報が漏れてクレカ変更までやって手間取らせておいて
個人情報晒しも却下とかどんだけ身勝手なんだよクズ
0240人間七七四年2014/03/21(金) 21:39:25.56ID:V5W2/Y6F
おい三河企業トヨタ
織田・豊臣は尾張だろ
早く郷土三河の偉人徳川家康を出せよ!



と思ってたらまさかのキャスティング・・・
http://long.2chan.tv/jlab-long/s/long1395405367510.jpg
0241人間七七四年2014/03/23(日) 17:56:55.14ID:Lku4C2Rl
秀吉の墓を暴いた家康サイテー!
0242人間七七四年2014/03/23(日) 19:36:37.50ID:sEidiM2M
可哀そうだからだれかかまってやれよ
0243人間七七四年2014/03/23(日) 21:50:27.04ID:5oVMgmHN
この前日光東照宮に行ってきたが豊臣大明神と源頼朝も祀られいるのな
敬称は家康公、秀吉公、頼朝卿だったから源氏の祖先舐めてんのかと思ったけど最終の官位とかかな
0244人間七七四年2014/03/24(月) 08:30:38.77ID:yBUW/sQI
>>243
あれまだ新しい感じだけど、やっぱり戦後に作られたん?
0245人間七七四年2014/03/24(月) 10:46:22.41ID:xUIGrsnE
>>241
仕方がないからかまってあげよう
淀や秀頼が死ぬまで一度も墓参りをしたことがなかったことから分かるように
当時から秀吉の墓は重要なものとはみなされていなかった
そもそも秀吉の葬儀自体が開催されていないわけだしね
当時は秀吉の墓なんてなくてもまったく問題なかったわけ
それを後世の人間が勝手に騒いで問題にしようとしているに過ぎない
0246人間七七四年2014/03/24(月) 22:36:38.92ID:cCe+EJel
http://dot.asahi.com/wa/2014031900079.html

>ここ1、2年は、体力的にだいぶつらくなってきました。早く後を継いでもらいたいのですが、長男には嫌がられています。

親の反対を押し切って外人と結婚した上に行事も引き継ぎたくないとか家広ェ……
0247人間七七四年2014/03/25(火) 08:35:52.27ID:eSdJ8cRs
神号を得て祀られた豊国神社にひっきりなしに参拝している事実は無かったことになるのかw
0248人間七七四年2014/03/25(火) 11:51:07.68ID:sA4hgXMj
事実として秀吉の葬儀はまったく行われていないし
法要も秀頼が参加するような公式の開催はなく無関係な連中が興行としてやってるだけ
事実だけ見れば豊国神社なんて何の重要性もない施設と考えざるをえない
豊臣自身がそういう態度を取っているのだから仕方がないだろ
0249人間七七四年2014/03/25(火) 12:59:16.37ID:gF8vWr/X
神として祀られたのだから葬儀は行われない
秀頼は慶長16年の上洛時には自身で、また木下勝俊や片桐且元を名代に参拝している、
また京にいた北政所は頻繁に参拝している
0250人間七七四年2014/03/25(火) 16:38:23.48ID:uLuvDoU2
秀吉は一周忌も七回忌も十三回忌もその他も
行われてるよ。
家康は行ってないけど、徳川一門や譜代大名が参詣してる。
徳川ー豊臣で入念な準備がされて運営されてて
特に七回忌は盛大で積極的に両者が交流してる。
もちろん家康も関連してるね、臨時祭では家康が「御尋」
してるし。

公式じゃないとか、無関係な興行とかはありえない。
両家の間を取り持つ重要な出来事だったろう。
0251人間七七四年2014/03/25(火) 16:51:33.64ID:uLuvDoU2
それと、豊国社も梵舜が徳川ー豊臣に
相当面会して運営に努力してる。
板倉自身も豊国社の運営には参加してるし
大きな影響力を持ってた。

重要性がないどころか徳川は豊国社の
存在を、豊臣のよりどころ、として非常に
重要視してたろう。
七回忌以降は距離を置くようになるが
それもまた重要性の裏返しで
公儀としての性格を薄めようとしたもの。

豊国社を豊臣が軽視してたなんてかなりの
事実誤認とは思うよ。
0252人間七七四年2014/03/26(水) 10:10:41.67ID:P9Av/821
豊国社と秀吉の墓を破壊した徳川の極悪非道は非難されていい。
0253人間七七四年2014/03/26(水) 11:32:20.60ID:4VEZ6K+9
菅沼遼太理論では武田信玄の○回忌だけが
官民親族が共同して行われるw
0254人間七七四年2014/03/26(水) 11:39:28.86ID:xfvQOGry
本来の秀吉の意向である方広寺の鎮守にするためです
0255人間七七四年2014/03/26(水) 19:14:03.92ID:ciGEOzGl
家康は故秀吉へ報復するために、
後陽成天皇の肝いりで追贈された正一位豊国大明神という神号を剥奪して
豊国寺の神の地位を追い、それを根拠に墓をほじくりだされ、秀吉の死体を破棄したのが家康。
秀吉の霊を方広寺へ移動したと称して誤魔化してる悪質さ。
結果、豊国神社は明治天皇が復興してくれるまで崩壊状態だったし。
0256人間七七四年2014/03/26(水) 19:39:59.76ID:AizLzH8s
方広寺の新築の大仏が一度の地震で大破するくらい豊臣の工事はいい加減だったし
どうせ秀吉の墓も地震や台風で勝手に崩壊したんだろう
豊臣の手抜き工事を家康に責任を擦り付けて誤魔化そうとしているだけ
むしろ危険な手抜き工事の墓から秀吉を救い出したのだから豊臣は徳川に感謝すべき
0257人間七七四年2014/03/26(水) 19:42:57.50ID:FY1AT6pr
>>256
> 方広寺の新築の大仏が一度の地震で大破するくらい豊臣の工事はいい加減だったし
> どうせ秀吉の墓も地震や台風で勝手に崩壊したんだろう
> 豊臣の手抜き工事を家康に責任を擦り付けて誤魔化そうとしているだけ
> むしろ危険な手抜き工事の墓から秀吉を救い出したのだから豊臣は徳川に感謝すべき


            ↑

          幕府の犬
0258人間七七四年2014/03/26(水) 19:55:22.60ID:AizLzH8s
秀吉は自ら聚楽第と豪語するほど立派な建造物も数年でぶち切れて徹底的に破壊するくらいだし
手抜き工事で崩壊した墓も撤退的に破壊した方が秀吉らしさが表現されることに疑いはないだろう
そういう意味でも豊臣は徳川に感謝するべきだろうな
明治になって豊国神社を再建したことは逆に秀吉への非礼であり徳川の配慮を踏みにじるものだった
0259人間七七四年2014/03/26(水) 20:21:08.09ID:ciGEOzGl
なんだwやっぱり織田在日の仕業か。
0260人間七七四年2014/03/26(水) 21:00:43.43ID:zczeU5pH
墓をほじくったのは豊臣滅亡後だもんな。
秀頼がいる間は何もできなかった
二重公儀制という説がでてくるのもわかる。
それを葬式が行われなかったとか
方広寺は豊臣も無視してたとか
よく架空歴史を捏造できるものだと感心する。
0261人間七七四年2014/03/26(水) 21:39:00.35ID:AizLzH8s
方広寺の大仏や聚楽第を見るまでもなく秀吉の建造物は生前から
パッと咲いてパッと散り跡形もなくなる美の風情がある
秀吉の辞世の句を見てもこの傾向が表されていることは明確だ
ならば秀吉の墓もそうあるべきなのは火を見るより明らかだろう
徳川のおかげで秀吉の一生をかけた芸術表現が完成したのだから
称賛されこそすれ非難されることなど何もないな
むしろ豊国神社なんて秀吉にふさわしくない醜悪な施設を再建した人間こそ非難されるべき
これのおかげで秀吉の一生をかけた芸術表現が冒涜されて台無しになった
0262人間七七四年2014/03/26(水) 21:42:19.23ID:HSyQvBZ+
というかそもそも秀吉の墓が掘り返されたってソースはどこよ
0263人間七七四年2014/03/27(木) 01:06:37.88ID:1NXSojha
菅沼クオリティ
0264人間七七四年2014/03/27(木) 07:50:23.20ID:rO/GqY8d
板倉勝重が馬塚を墳墓としているな
0265人間七七四年2014/03/27(木) 14:49:29.69ID:XYGoAhY3
徳川政権誕生は将軍宣下の日を
もってするのが普通だろうけど
二重公儀制だと、大阪落城の日、に
なっちゃうわなぁ。

話それて悪いが、秀吉政権の開始も
いろんな説があるもんだね。
信雄を安土から追い出した1583夏
家康上洛時、天皇から拝刀した1583・3とか。
もちろん視点の違いというのはわかるんだけど。
0266人間七七四年2014/03/27(木) 18:20:54.67ID:Yzq/Y+wD
二重公儀制とか言い出すと秀吉が関白に就任した時も
足利将軍は健在で朝廷から正式の将軍として認められているから
豊臣だって二重公儀スタートになるんだよね
ところが二重公儀制を主張する人間はこういう都合の悪いことを無視して
関白ですらない秀頼を公儀であるとか無理矢理に主張し始める
はっきりいって二重公儀制というのは豊臣の権威・権力を少しでも大きくしようとする豊臣史観の産物と考えていい
だから南北朝など権力が並立した他の時代には二重公儀制なんて言葉は一切使わず
豊臣を恣意的に持ち上げる目的でしかこの言葉を使わない
0267人間七七四年2014/03/27(木) 20:58:03.87ID:XYGoAhY3
山本は三重公儀制なんて言ってなかったっけ
朝廷を含めて。
まぁ二つの国家論のちょ〜延長上なんだろうが。
最近は、豊臣王朝、みたいな言い方もするもんな〜。
0268人間七七四年2014/03/27(木) 21:09:07.27ID:mw7t7Hm8
っていうか笠谷はもう二重公儀体制説ひっこめてたような
0269人間七七四年2014/03/27(木) 21:49:00.54ID:YUskk2W4
秀吉の遺体って行方不明なままなんだよな。
そもそも神格の場合は勧請などで神社に分霊できるが、
神号剥奪してしまったから、一般人に落とされてるので、
霊を移すなんて不可能だし、
ましてや仏教系である寺へ移すこと自体がそもそも成立しない。
徳川が不誠実であることは免れない。
0270人間七七四年2014/03/27(木) 21:51:21.97ID:rO/GqY8d
取り敢えず馬塚を発掘しろや
0271人間七七四年2014/03/27(木) 21:56:48.08ID:mw7t7Hm8
秀吉の遺骸が行方不明とか菅沼君は本当に嘘を言うのが好きだなあ
0272人間七七四年2014/03/27(木) 21:58:35.28ID:rO/GqY8d
秀吉の神号が廃されたという一次史料は確認できないんだよね
0273人間七七四年2014/03/27(木) 22:23:33.41ID:XYGoAhY3
駿府記に載ってたかったか。
一次扱いじゃないってことか。
0274人間七七四年2014/03/27(木) 22:46:14.74ID:rO/GqY8d
>>273
あれは建物の破壊と移転の指示だけで、神号の剥奪は記されていない
0275人間七七四年2014/03/28(金) 00:46:34.68ID:JsrMYaF0
駿府記が一次史料???
0276人間七七四年2014/03/28(金) 05:23:14.75ID:cexDYJii
じゃなきゃなんだ
0277人間七七四年2014/03/28(金) 06:53:37.51ID:JsrMYaF0
二次史料
0278人間七七四年2014/03/28(金) 08:38:12.86ID:tFzdd4X5
じゃあなぜ神号が失われてんだよwww
じゃあ参拝したいから秀吉の遺体が埋まってる場所を教えろよwww
0279人間七七四年2014/03/28(金) 09:13:25.18ID:ACOZY6L8
憶測はいらないから、家康の指示書を示そうか
0280人間七七四年2014/03/28(金) 09:21:22.77ID:LDie1w8u
>>278
気が付いたら無くなっていた感がある
この辺は幕府よりも妙法院が主体となって行われたと考えられる
0281人間七七四年2014/03/28(金) 12:49:32.23ID:tFzdd4X5
>>280
はいはいお前の願望妄想はいらないから。
0282人間七七四年2014/03/28(金) 15:40:19.52ID:7eH/1k8K
>>274
そか。戦国というか葬送儀礼なんかの本でも
普通に、破壊、剥奪みたいに一緒に書いてあるもんな。
二次でもいいなら、何が出典になってるんだろう。
0283人間七七四年2014/03/28(金) 16:38:03.56ID:LDie1w8u
>>282
『慶長見聞集』には本多正信から建物はそのままに大菩薩号を与え、寺にするとの
提案があったとしている

『岩渕夜話』には家康が神像の束帯を取り、坊主にしろと命じたとある
北政所の懇望で朽ちるままに放棄されたとするのはこれが出典

1686年(貞享3)に刊行された『雍州府志』には、慶長年間に大明神から国秦院に変わった
とあるが、誰が行ったかは記していない
0284人間七七四年2014/03/28(金) 18:52:53.93ID:7eH/1k8K
>>283
さすが詳しいな。
朝廷とかの公式書類ではどうなんでしょう。
義昭がとりあえず将軍ではあった、みたいな感じかな。
0285人間七七四年2014/03/28(金) 18:57:07.71ID:0mwoX6Gn
そんなもん徳川しか実行できる権力を有してないだろ。
そもそも徳川によって豊国社の破却&木材売却による収入源のある土地を勝手に売却する等の事実上の兵糧攻めで、
みすぼらしく粗末になってしまったが、それでも秀吉を祀ろうとする神龍院梵舜や吉田兼見の子である萩原兼従まで
徳川は圧迫しまくって、天台宗による神道レイプ山王一実神道なるガセ宗教をデッチあげて、神道すら穢してるしな。
0286人間七七四年2014/03/28(金) 19:26:34.59ID:LDie1w8u
>>284
あまりないけど、元和二年でも豊国大明神と記しているね
ただし元和五年になると豊国社との記述になる
0287人間七七四年2014/03/28(金) 21:16:06.73ID:7eH/1k8K
>>286
へ〜、ということは大阪落城以降には
剥奪があったかもしれない、ということかな。
梵舜日記なんかではどうなんだろう。
豊国社の社領地が没収された時に、剥奪、というのが
一番ありそうかな。
0288人間七七四年2014/03/28(金) 23:01:23.62ID:0q3J5DCH
そもそも朝廷は豊臣秀頼を関白にしようとしてたくらいで、
家康を征夷大将軍にせざるを得なくなった時でさえ、
清正らに豊臣姓を与えて、お前は豊臣一族だからわかってんだろうな!って
家康への牽制をしていたくらいだからな。
朝廷は中臣鎌足に藤原、羽柴秀吉に豊臣を与えて、天皇の輔弼を任じていたように
朝廷中興の英雄へ与えるのが新姓だから、その面目にかけても吉田神社経由で豊国社を守ろうとしていた。
だから家康は神道を汚し、天皇を辱め、東の神である東照大権現となって京を監視したんだし。
それは幕末に朝敵に認定されたのでもわかる。
0289人間七七四年2014/03/28(金) 23:08:18.81ID:LDie1w8u
>>287
『梵舜日記』には元和5年以降も豊国社と豊国大明神の使用が入り混じっている
0290人間七七四年2014/03/29(土) 12:11:31.28ID:DJmz/jdr
ふむ。立場によって微妙に異なるわけか。
剥奪された、は確定できないとなるとなんだな。
徳川有利な記録だから残りそうだけど
一種の裏切りみたいなものだから
残しにくかった、というのもあるのかね。
悩ましいとこだ。
0291人間七七四年2014/03/29(土) 13:10:55.99ID:QVeU21eH
>>289
なんとか秀吉を祀りたいと願う吉田兼見の弟だった神龍院梵舜の心を折るために
ついには神宮寺まで没収するほど迫害し追い詰めてるのが徳川の非道に怒ってるよな。
逃げた先である吉田家の氏寺神龍院で死ぬまで豊国社と豊国大明神の再興を夢見ていた梵舜が可哀想だわ。
0292人間七七四年2014/03/29(土) 17:32:57.67ID:qMzjGXIi
神龍院梵舜は名前が最強だな。
0293人間七七四年2014/03/29(土) 17:48:05.53ID:tyPRb3SB
日本でよくある周りが空気を読んで、神号が剥奪されたように振る舞っている内に、
それが既成事実化した可能性もある
0294人間七七四年2014/03/30(日) 01:23:03.67ID:0Qk0Cgmo
>>293
はいはい、お前の願望妄想は書かなくていいから。
0295人間七七四年2014/03/30(日) 11:33:41.03ID:NvjnlhO5
神号を剥奪されたくなかったらしっかりと政権基盤を強化して長期安定政権を築けばいいだけ
何年も海外遠征にのめり込んだり関白を粛清して政権基盤をボロボロにした秀吉の自己責任だろ
むしろ秀吉のワガママにはこういう代償を払わせておかないと権力者が何をしてもいつまでも許されるという悪しき前例になる
墓だの神号だの豊臣厨が何を問題視しているのか理解できない
秀吉がアホだった以外の答えは存在しないのだから
0296人間七七四年2014/03/30(日) 11:36:32.86ID:ouuzHa7b
菅沼はスルーで
0297人間七七四年2014/03/31(月) 11:27:03.63ID:iiDIAGiq
>>288
相変わらず豊臣厨の頭はおめでたい妄想で満ち溢れているな
具体的に朝廷の誰が豊臣秀頼を関白にしようとしてたのか言ってみな?
本当に秀頼を関白にするなら現職の関白を辞めさせて他の要職に就く摂関家の候補生も黙らせなければいけないが
落ち目の秀頼に対してそんなことをしてくれる人間など実際には一人もいなかったんだよ
むしろ秀吉時代の末期は関白どころか公家の大臣まで一掃されたことで朝廷は豊臣への関白付与を後悔していた
だから家康が関ヶ原に勝つとその年の内に公家への関白返還が執り行われたわけ
これほどの早さで返還が行われたのは朝廷の要望がなければ有り得ない
もちろんその後の関白職は五摂家の持ち回りの戻され朝廷に秀頼を関白にする気など完全になかった
脳味噌空っぽの淀・秀頼と後世の豊臣厨だけが一時的な返還に過ぎずやがて秀頼が関白になるはずだったという妄想に逃避しているだけだ
0298人間七七四年2014/03/31(月) 22:46:30.22ID:n9GqoRYW
>>297
>>これほどの早さで返還が行われたのは朝廷の要望がなければ有り得ない
で、在日くんさーこの一次史料は?
0299人間七七四年2014/03/31(月) 22:58:18.66ID:bCS00YLC
菅沼遼太はーかw
0300人間七七四年2014/04/04(金) 21:47:04.86ID:xn6buoi2
織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座りしままに食うは家康
0301人間七七四年2014/04/04(金) 22:13:03.30ID:kuC3sTy1
秀吉が実力で勝った戦なんてないよ。小田原合戦もほとんど徳川や上杉・真田・佐竹らが北条方の兵力が集中した下野・上野などの要衝を自力で落したのに対し
秀吉は24万もの規格外の兵力でもって500か1000しかいない韮山城や小田原城や忍城で醜態晒しまくってたからね。
結局わずか34000程度の北条に対し24万程度の瞬殺するに十分すぎる兵力で持って前田重臣や堀尾嫡男、一柳など重臣を悉く殺されまくって北条方の重臣が運よく戦意なし&伊達の帰参の影響などで
開城になっただけだし。
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
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