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関ヶ原、西軍勝利 その2

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0001人間七七四年2013/12/29(日) 06:13:43.15ID:bM6AZxpC
妄想垂れ流しスレです。
【前スレ】
関ヶ原、西軍勝利
http://unkar.org/r/sengoku/1150726266
0002 忍法帖【Lv=6,xxxP】(1+0:8) 2013/12/29(日) 12:09:15.29ID:QAuSs9C3
>>1
0003人間七七四年2013/12/29(日) 12:47:15.07ID:cN8hx+yf
史実の東軍西軍の分け方であれば、毛利、上杉、小早川が玉砕するまで戦うしかない。
ヲタがどう理屈をこねても秀忠が本隊を引き連れて、真田と遊んでたという史実が覆らない限り西軍に勝ち目はない
0004人間七七四年2013/12/29(日) 12:57:05.03ID:YDSTmCAb
なんで三成のために毛利、上杉、小早川が玉砕するまで戦わなければいけないのか?
そんな義理は上記3人に限らず誰にもないだろ
0005人間七七四年2013/12/29(日) 13:58:13.09ID:QKB8asI/
関ヶ原に持ち込まれた時点で西軍は8割方負けてた。
本気で勝つなら家康の本隊が来る前に濃尾地域を抑えなければダメ。
緒戦の時点で福島に蹴散らされて美濃をほぼ取られた時点で西軍は詰み。
0006人間七七四年2013/12/29(日) 15:28:33.49ID:cN8hx+yf
>>4
義理も糞もない
やらなきゃ負けるだけ
大平洋戦争に突っ込んだ日本と同じ

確かに勝ち目が無いのに戦争に飛び込んだ西軍主軸が屑だっただけ
0007HONGANZI2013/12/29(日) 16:45:03.38ID:bBXuBhE2
西軍勝利→家康逃亡→家康再起!→西軍敗北
0008人間七七四年2013/12/29(日) 19:52:44.49ID:QKB8asI/
そもそも上杉は徳川倒したかったんじゃなくて東西の戦乱のドサクサに紛れて
旧領の越後と飛び地の庄内への通り道の最上領を確保したかっただけだからな。
0009人間七七四年2013/12/30(月) 02:39:09.14ID:Mu/YUtsS
根拠は?
0010人間七七四年2013/12/30(月) 02:39:53.32ID:i3wHOWgJ
>>9
そんなもんない。
0011人間七七四年2013/12/30(月) 22:21:24.17ID:PtCXZ/OD
>>9
そもそもの上杉征伐の発端が上杉が旧領の越後に色気だして
堀氏に嫌がらせしまくったのをチクられたのが原因や。
0012人間七七四年2014/01/01(水) 20:35:29.90ID:MUjBk8jU
>>11
いや逆。
家康が前田や浅野にやったみたいに、上杉にありもしないいちゃもんつけて、上杉方に威圧吹っかけたら
前田や浅野と違って、書状でやり返してきたから、上杉討伐が決定されて
上杉は堀らがいる越後を牽制してただけ。
後上杉が東西の戦乱のドサクサに紛れたというのは絶対にありえない。なぜなら上杉は伊達最上結城秀康堀津軽南部ら東軍方諸侯の中で孤立した位置にあり、
まだ戦乱が始まってもいないのに、挙兵したら、徳川・結城・伊達・最上・堀・津軽ら大軍で瞬殺されるのは目に見えてるわけで
そんな危険な状況を自ら作ってまでドサクサ紛れの領土拡張とかありえないからな。
そもそもその「ドサクサ」は上杉が挙兵した事に始まったんだし、西で毛利や石田らが挙兵する事がもしなくなれば
上杉1人が滅ぼされるだけだし、ドサクサ紛れの領土拡張というのはありえない。
そもそも上杉が挙兵するまでまだ戦乱も始まっていないし。
0013人間七七四年2014/01/01(水) 20:38:47.75ID:t76PUZ3X
普通に考えて周囲が全て東軍方な状況で、ドサクサ紛れの領土拡張を狙って挙兵なんてありえないからな。
普通に家康の専横に対して石田らと盟約の上挙兵しただけだろ。
0014人間七七四年2014/01/01(水) 21:23:54.76ID:ZwFfkkXa
>>12
>危険な状況を自ら作ってまで
会津征伐受けている時点で自ら作ってますが。
石田が挙兵してなければ、キミの言うとおり瞬殺されてますな。

いちゃもんつけて、やり返して、って子供のケンカじゃないんだから。

山形出兵の目的は、庄内の飛び地の解消以外に有り得ないから。
山形に住んだ事のある人間なら、庄内と米沢の動線隔絶は常識レベル。
0015人間七七四年2014/01/01(水) 21:32:04.64ID:6IA5lQi8
>>14
だからドサクサ紛れの領土拡張ならそんな危険な状況でできるわけないし
それを目的にするわけないっていってんだろうが。
普通に考えて三成らとの盟約があったからこそ、挙兵したんだろ。
0016人間七七四年2014/01/01(水) 21:37:08.58ID:6IA5lQi8
>いちゃもんつけて、やり返して、って子供のケンカじゃない

いやだからその子供の喧嘩を家康が吹っかけてきて、前田や浅野みたいな腰抜け大名が抗戦すらする事なく家康に土下座したが
上杉はそれに否を唱えたってだけじゃん。

>山形出兵の目的は、庄内の飛び地の解消以外に有り得ない
上杉の当時の状況は伊達最上結城秀康堀津軽南部ら東軍方諸侯の中で孤立した位置にあり、
まだ戦乱が始まってもいないのに、挙兵したら、徳川・結城・伊達・最上・堀・津軽ら大軍で瞬殺されるのは目に見えてるわけで
そんな危険な状況を自ら作ってまでドサクサ紛れの領土拡張とかありえないからな。
そもそもその「ドサクサ」は上杉が挙兵した事に始まったんだし、西で毛利や石田らが挙兵する事がもしなくなれば
上杉1人が滅ぼされるだけだし、ドサクサ紛れの領土拡張というのはありえない。
そもそも上杉が挙兵するまでまだ戦乱も始まっていないし。

>山形に住んだ事のある人間なら、庄内と米沢の動線隔絶は常識

庄内の飛び地問題解消とかあくまで副次的な物だろ。
孤立無援の状況で挙兵しても、高確率で滅ぼされるだけだし、混乱に乗じた領土拡張が目的というのはありえない。
その混乱やドサクサ自体が始まってないからな。普通に家康の専横への異議や、三成らとの盟約を果たす意味で挙兵しただけ。
0017人間七七四年2014/01/01(水) 21:46:49.21ID:ysVDMu/7
混乱に乗じた領土確保が目的なら、その混乱が起きてから挙兵するだろうし
家康を安心させといて、隙を見せた(結城らが西上してから手薄になった状況で)挙兵してる
自分から戦乱も始まってもない状態で、周囲が敵国ばかりの状況の中挙兵するとかありえねーよ
0018人間七七四年2014/01/01(水) 21:52:24.53ID:ZwFfkkXa
>>15
三成との盟約について証跡は存在しないだろ?
もともと上杉に領土拡張欲があったと見る方が自然。
じゃ、何のために征伐を受けるような状況を作り出したの?
まさかと思うが、豊臣への『義』とか言わないでくれよ(笑

>>16
キミが子供だって言ってるんだよ(笑
実際に、孤立無援を覚悟で征伐を受けてるだろ?
繰り返すが、三成との盟約についての証跡は存在しない。
それを踏まえて、山形出兵の目的は?
もし盟約があるなら関東に攻め入るべき。
周辺環境がそれを許さないのなら、山形にも出兵すべきではない。
守りに徹するべきだ。
0019人間七七四年2014/01/01(水) 23:11:48.37ID:MUjBk8jU
>>18
そりゃ豊臣政権や三成への儀と、家康の専横に対しての異議に決まってるじゃん。
西軍諸侯が連署で内府たがい条を家康に突きつけたのは史料にちゃんと残ってるし
上杉もこれに同調してたから、西軍諸侯と結託して決起しただけ。

>>孤立無援を覚悟で征伐を受けてる

だからそんな状況にもかかわらず、挙兵したのは西軍諸侯との盟約や、豊臣政権や三成への義理や、家康への専横への異議じゃなきゃありえないといってるんだよ。

>>三成との盟約についての証跡は存在

ないふたがい条に西軍諸侯連署での家康への弾劾が書かれてるだろ。

>>山形出兵の目的
元々の目的は、家康を関東に引っ張り出して、三成らの挙兵後家康がそのまま北上したら白川口で決戦
もし家康が西上したら、東軍の伊達や最上や堀らを討伐。
前者になったら上杉は絶対絶命だが、その間に三成らが畿内を手中に治めて、時間がたてばたつほど、西軍全体では有利になるわけだから、
要は上杉は豊臣政権や三成ら西軍諸侯のために、決起して、家康の暴走に待ったをかけただけ。

>>盟約があるなら関東に攻め入る

家康が西上してしまった上に、背後に伊達最上堀津軽南部らが控えてるし、関東には結城がいるし
敵から攻めかかるならともかく、自分から関東侵攻なんて状況的に到底無理。
むしろそんな事したら、本国に周囲の敵が押し寄せてフルボッコになる可能性のが高い。
だからこそ、そんな状況なのにもかかわらず決起したのは、損得の利害感情ではなく、豊臣政権や、西軍諸侯への義理だてや
家康への異議じゃなきゃ、ありえないといってるんだよ。
0020人間七七四年2014/01/01(水) 23:20:27.85ID:ysVDMu/7
>>18
お前は相当馬鹿だな。
盟約がない状態で決起したというなら
家康ら東軍諸侯7万・秀忠三万・結城・堀・伊達・最上と
史実より遥かに巨大な兵力をもって上杉討伐が行われることになる。
そんな状況にもかかわらず、自ら挙兵する目的が、ドサクサに紛れた領土拡張とか
頭おかしいのか?

どこに「ドサクサ」が起きてるんだよ。ただの自殺じゃん。
0021人間七七四年2014/01/02(木) 01:02:10.31ID:P1URffWU
>>19
西軍信者は、いつもそうだよね。
徳川だけが不遜。他の外様は、秀吉亡き後も忠臣にしたがる。
本当に豊臣政権の事を考えているなら、上京して畳の上で勝負すればよい。
間違いなく常識だが、
・内府ちかひの条々に、景勝は署名していない。
・三成との盟約に係る証跡は存在しない。
である以上、キミのストーリーは全て推測に過ぎない。
上記2点がある以上、上杉一国で天下の兵を引き受けるつもりだったとしか言えない。
キミのような推測がありなら、直前で落し所を探る準備をしてたかもしれないし、
史実のような畿内挙兵を期待していたかもしれない。
圧倒的な相手に自殺行為かもしれないが、別におかしな話ではない。
長宗我部、島津、北条がやっていた事だ。

>>20
山形侵攻がドサクサ紛れと言っている。
0022人間七七四年2014/01/02(木) 02:10:57.22ID:fhJET2F8
西軍諸侯との盟約がないのなら、その挙兵は確実に上杉に不利な状況をもたらす。
西軍諸侯との盟約があっても、勝敗はわからないので、上杉に有利とは限らない。
だから挙兵自体が、上杉の領土拡張とか、ドサクサ紛れの利益を見込んでというのは確実にありえないんだよ。
だとすれば理由は家康への専横への異議や、西軍諸侯との盟約や、豊臣政権への忠義心しか考えられないからな。
0023人間七七四年2014/01/02(木) 12:17:48.66ID:P1URffWU
>>22
西軍諸侯との盟約なんて話はしてないだろ。表現は正確にね。
三成との盟約に係る証跡は存在しない。
存在しない以上、それを根拠とするキミの話は推測に過ぎない。
不利な状況で開戦に至るケースは普通に存在する。
長宗我部、島津、北条など。
0024人間七七四年2014/01/04(土) 04:35:24.66ID:T/rWkjFU
関ヶ原西軍勝利

真田昌幸は甲斐・信濃の加増の密約あるも信濃1国に留置く
0025人間七七四年2014/01/04(土) 05:59:18.29ID:pm4uQy80
>>22
>盟約
もし交わしてたとしたら、どんな内容だったんだろう
とりあえず、東北勢は一兵たりとも西には向かわせません。
(徳川は東北勢じゃないんで知りませんw)
って感じか?

もし、そうじゃなければ酷い裏切り行為だよな
0026人間七七四年2014/01/05(日) 03:22:40.82ID:rd5GuaUg
盟約が無いのなら、関ヶ原後に上杉が屈服する理屈がよくわからん。
盟約が無いのなら、関ヶ原と関係なく徳川とやり合うだけだろ。
0027人間七七四年2014/01/05(日) 08:19:43.88ID:NAiin2ul
>>26
盟約があったなら
もし盟約がバレたら、良くて改易、普通なら一族の命がとぶ
それなら一か八か江戸に突っ込むだろ

ゲームばりに相場が変わるほど石田三成が色々と買い込んでるのを見越して博打を打ったて考える方が無難だと思うが
0028人間七七四年2014/01/05(日) 11:37:25.39ID:A5j/oPo7
>>26
長谷堂で関ヶ原の報を聞いた上杉軍はパニックを起こして崩壊し
最上の追撃を受けて大勢の死傷者を出したからもう戦えなかった
だから盟約云々に関係なく屈服するしかないわけ
0029人間七七四年2014/01/06(月) 02:42:55.54ID:ObTUxHOt
盟約あったか真相はわからんが、俺は無いと思う。

そもそも徳川を葬る盟約があるなら家康を追うべく関東へ進むのがベターだろ。直江が最上領へ連れた三万だかを全体の守備に回して残りで家康の背後を牽制すれば家康の動きも鈍り三成らの幾内掌握を加速させる上でも得策となる、

それを景勝ほどの堅物が反故にして身勝手な行動で最上なんかに攻めいるとは思えない。
考えるに、三成が上杉征伐の状況を単に利用しただけに過ぎず、上杉としてはただただ思いがけない事だったのである。

江戸へ戻る東軍に追撃をせず「背後を襲うのはイカン」みたいな言ったか言わずかわからんが追わない姿勢を採り石田との連携プレーより独自の行動をしたのはやはりそういった約がないことを証明するものなのではと思います。まして人物が景勝ゆえに尚そう思うのであります
0030人間七七四年2014/01/06(月) 08:56:39.56ID:5rI40o7S
相変わらず上杉の当時の周辺状況を無視する馬鹿がいるな
伊達最上堀らを放置して南下とか頭がおかしいんじゃないか。
一挙に国内に攻め込まれてアボーンじゃん。
0031人間七七四年2014/01/06(月) 09:01:38.99ID:dl+ljG19
長谷堂城攻撃つっても2週間でわずかに15日24日と退却前の牽制で29日に攻撃しただけで
最上の降伏待ちしてただけだし、庄内軍もがっつり南下してて最上降伏前夜だしな。
背後を固めてから江戸へ向けて南下する軍略がおかしいとは思わないし、
わざわざ南下して、背後を襲われすぐまた北上するところを
徳川に噛み付かれたなんてブザマな行軍は避けるべきだしな。
誰もがあんな簡単にたかが一日で関が原決着がつくなんて思わなかった。
しかも大坂城まで簡単に明け渡すし、三成や輝元の失策だよな。
だいたい慶長4年に家康の方から和議の申し出があったって言うし
慶長5年に家康が景勝や直江を見て、その武功を褒め称えて歓迎したよな。
島津の記録にも上杉主従は少しも悪びれた様子も無く堂々としていたって書かれてるし。
それに講和交渉相手は家康の信頼を得ている要路の重鎮たる本多正信と直接やっていて
宰相殿の空弁当吉川広家みたいに
黒田長政・福島正則・榊原康政・本多忠勝なんてアテにならない人間と交渉してない。
親しくなってきたので慶長7年もしくは8年頃から本多正信の息子を養子にもらう申し出をしていて
慶長9年には兼続は農政に力を入れて郡中百姓相定覚を定めたり
近江国住友村や堺から呼んだ技術者を使って鉄砲密造したり、鉄や薬の研究したりしてる。
慶長9年に養子政重が直江に養子入りしてる。
0032人間七七四年2014/01/06(月) 09:50:59.41ID:xz4dTSkA
長谷堂攻撃軍は直江側近以外は言わば「2軍」。
最強部隊「安田とか岩井とか越後以来の上杉本隊」は若松に集結中。

その中であの3方面攻撃作戦といい撤退戦といい直江の凄さばかりが目につく。

最強部隊を使わず直江+蒲生徴兵隊の山形方面軍を急ごしらえした理由は「景勝」を守るため(景勝を戦闘に巻き込ませず直江自ら責任を取るつもりだった)。

上杉家思いの直江。泣ける話じゃないか。
0033人間七七四年2014/01/06(月) 09:53:20.10ID:dl+ljG19
慶長5年9月29日現在長谷堂近辺。

最上軍13,000名=山形城にいる最上側近精鋭部隊(楯岡満茂等)約9,000+長谷堂約1,000+伊達政景鉄砲隊3,000
直江軍18,000名=側近(春日+水原+溝口)約7,000+蒲生旧臣約5,000+新規召抱(前田+上泉)4,000(要するに上杉2軍)
庄内軍3,000名や中山軍4,000名が未到着の段階では決して「圧倒的大軍」とは言えないと思うのだが。

ましてや地理的には最上軍圧倒的有利だし。
逆に、難所である狐越街道を背後に抱えその道を撤退するのに、直江自ら殿隊(水原+溝口+前田)約2,500名を縦横無尽に指揮し、勢いに乗った最上義光追撃軍13,000名からの猛攻を凌ぎ切り無事撤退官僚させた所に直江の凄さがある。
昭和に入ってから、18,000名からなる大軍をどうやってあの難所を通り無事帰還させることが出来たのか?素直に疑問を呈する史家もいたことも事実。
直江にとって唯一の誤算は毛利宇喜多石田等が僅か一日で敗北したことのみ。
当時最上領は稲刈直前の時期でタダでさえ兵糧不足。そのうえ最上軍は直江軍庄内軍中山軍3方面から半径10キロ四方に押し込められていた。
当然今年の兵糧は見込めない。あと半月でもあれば確実に最上の兵糧は切れていた。

そこまで計算のうえの持久戦。直江恐るべし。

直江は撤退戦で殿の隊列を十三段に分け迎え撃った。
殿直江の少人数を見て突撃してくる最上と伊達の大軍は大挙して直江本隊に襲い掛かり段を突き崩していく。
不意に最上軍横の山の中腹から怒涛の雷鳴。上杉家自慢の水原・溝口鉄砲隊の一斉射撃。
最上義光は織田信長から送られた兜で九死に一生を得たのであった。
その後も直江は懸かられれば引き、引いては襲い掛かりを繰り返し撤退を成功させた。

その戦い振りを評し最上義光は「誠に影虎勇武残り足りけると感じ賜う。直江は古今無双の兵(つわもの)なり」と、
家臣に語ったと最上記斯波家伝に記載されている。
旧日本陸軍参謀本部の「日本戦史」に記載されている直江の撤退戦の一部を見た。
あらかた最上記や奥羽永軍記および上杉家御年譜等に記載されている通説と同様だが、一部兵数の記載だけちょっとおかしいと思った。
例えば直江方先陣春日元忠の兵数八千とか。
内容は確かに撤退戦の見本とも言うべき内容。直江軍恐るべし。
徳川秀忠は白河で直江と戦わなくて良かったね。上田城での無様な負け戦といい、たぶん先陣として白河入ったとたん大敗してたでしょ
0034人間七七四年2014/01/06(月) 10:20:02.61ID:CApKXc06
豊臣政権を守ることは、毛利が全国ベスト5としての既存利益を守ることだから、
別に秀頼を守る小説的な話でも無いし、
対豊臣協調路線の延長線でもある。
また西軍に従わないやつらを、 家康の西上前に従わせ、 反西軍勢力のせいで背後を心配するような戦いを回避し、
家康に出来うる限り戦力集中してあたる為の真っ当な戦略。
毛利が下手を打って大津城を反西軍で蜂起させて、立花隊を釘付けにされたりとアホ過ぎ。
また上杉が速攻土下座ってのもデタラメだな。
むしろ大坂に家康が入ろうが上杉は敵対状態を維持し、
結局のところ輝元みたいに死罪免除の代わりに責任を取らされ出家謹慎を強制される事も無く、
安国寺みたいに頃されることもなく、
景勝、直江主従はなんら責任を取らされず、豊臣政権に出仕している。
0035人間七七四年2014/01/06(月) 18:32:11.14ID:h6ze+IRc
>>31
日本語が不自由なんだろうが
後背の憂いを防ぐのと、進攻するのは決して同じじゃない

まあ、徳川を一度こっちに引っ張ってはやったから、後は知らんという盟約は成り立つのかも知らんがな
0036人間七七四年2014/01/06(月) 20:36:52.41ID:k1gDafdv
簡単な話だよ。
盟約の史料がないんだから、盟約があったとは絶対言えない。
逆は言える。それだけの話。
0037人間七七四年2014/01/06(月) 21:33:11.49ID:xz4dTSkA
盟約がなきゃあんな周辺敵だらけの状況で挙兵なんてしねぇっつーの
0038362014/01/06(月) 23:51:33.59ID:SR7ZNIKr
>>37
繰り返すけど簡単な話。盟約を示す史料がない。これに尽きる。
加えて、
・5月18日付森忠政宛秀忠書状
・6月10日付安田能元他四名宛景勝書状
において、景勝は伊奈昭綱に対して一旦上洛を約している。
上洛を取りやめたのは、家康が景勝の出した条件に応じなかったからだけど、
応じてたら上洛してたわけ。
盟約とやらはどうなっちゃうんでしょ?(笑
0039人間七七四年2014/01/09(木) 03:21:32.78ID:EAKtKlS7
盟約を示す史料なんてなくたって盟約がなかった根拠には全くならないし
上記書状も、家康への上洛約束と西軍への挙兵約束両方天秤にかけて、
西軍側の主張の方を正しく、筋目が通っていると判断して挙兵しただけという味方が十分可能
史料がない=盟約がなかったなんて馬鹿な理屈は到底成り立たない。
普通に考えて周囲が全て東軍方な状況で、ドサクサ紛れの領土拡張を狙って挙兵なんてありえないからな。
普通に家康の専横に対して石田らと盟約の上挙兵しただけだろ
0040人間七七四年2014/01/09(木) 22:27:15.03ID:rBgdgYbL
>>39
盟約があったとして
挙兵しました→
徳川他が来ましたから対峙しました→
徳川他、反転して西に向かいました→
東北に進攻します!

なんだよこれ?
上杉が実は、内情火の車で戦えません状態だとしても、追撃しないどころか、
徳川に背を向ける必要ないだろ。
0041人間七七四年2014/01/11(土) 23:00:06.20ID:k7+OTMhQ
ゲームじゃあるまいし巨大勢力との全面決戦なんて普通は論外だからね
徳川だって武力掃討の対象は文治派に絞って毛利・上杉との全面決戦なんて実際は避けるし
毛利・上杉だって徳川と滅ぼすか滅ぼされるかの殲滅戦争なんて御免なんだよ
駆け引きとして軍事展開したり小競り合い程度までならともかく
後戻りのしようがなくなるような本気の全面決戦は躊躇するのが大大名としての当然の思考なの
そうすれば勝敗の趨勢が決定的になっても減封くらいの現実的な解決が模索できる
これが滅ぼすか滅ぼされるかの殲滅戦争になったら勝つ方も負ける方も困るわけ
要するに徳川・毛利・上杉の間で大大名としての最低限度の常識の共有があったということ
そもそも徳川+武断派etcの超巨大戦力に妥協なしの全面戦争を本気で主張していた文治派の方が異常であり
異常だから付いて来れなくて日和見する大名が続出したわけだからね
0042人間七七四年2014/01/11(土) 23:29:08.95ID:W6kVvjZJ
つまり徳川毛利上杉はプロレスをしただけってことか
0043人間七七四年2014/01/14(火) 19:20:48.17ID:PQqBLByu
島左近って信長と同時期に活躍してた割にまったく武勇伝みたいなのないよね
松永を破ったり筒井家を盛り上げたりしたのに大河でもちょい役ばかり
大河ドラマ 島左近やらんかな
0044人間七七四年2014/01/14(火) 21:12:55.30ID:/hoRw1O+
>>43
>活躍してた
そんなことより実在したのか?
筒井順慶の家臣って伝承はあるけど、本当か?
真田信之の弟は確かに実在した(それが幸村かどうか別にして)
島左近って実在したのか?
0045人間七七四年2014/01/21(火) 09:26:55.14ID:iwvhoyNt
関ヶ原の戦いで西軍が敗れた理由は結局何なのか。 小早川とかいうカスのせい?
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1390220183/l50
0046人間七七四年2014/01/21(火) 10:54:48.72ID:CoFeIDMm
関ヶ原の戦いで西軍が敗れた理由は三成たちが臆病だったから
西軍も小山評定みたいに家康に付きたいなら付いていいよと言っておけば
小早川も最初から東軍に入っていたのだから寝返りも何もなかった
それを三成たちがビビって東軍に行くことを一切認めない態度を取ったため
東軍に付きたかった連中は内通をせざるを得ない状況に追い込まれた
0047人間七七四年2014/01/21(火) 11:23:53.06ID:09yxCjHy
>>46
で、家康が、
家康に付きたいなら付いていいよと言ったとする一次史料は?
0048人間七七四年2014/01/21(火) 17:42:55.69ID:vU/wkKDq
>>46
そもそも、西軍に付きたくない東軍に味方すると旗色を鮮明にして西軍に付くなんて基地外がいたって一次資料(笑)があるのか?
結果として東軍が勝ったし、戦後の論功行賞の都合があっての創作でっち上げが混ざってるんじゃないの?
0049人間七七四年2014/01/27(月) 06:40:35.07ID:479OZoPQ
石田三成に代わって黒田官兵衛だったら家康に勝てただろうか?
0050人間七七四年2014/01/27(月) 09:45:01.91ID:g7WyzGYi
三成が西軍にいないなら勝てるだろ
0051人間七七四年2014/01/27(月) 10:46:54.68ID:oDDZmQN8
黒田なんてろくな戦績ないし無理だろ
三成・小西ら西軍で戦った連中は実践経験少ないにもかかわらず
寡兵で黒田・細川勢およそ11000程度に互角以上の戦いしてたし
小西隊や宇喜多隊、大谷隊なんかも大軍の藤堂、京極、福島、古田・織田などを押し返したり
壊滅寸前まで追い込んだりと戦闘センス見せまくってた。
実践経験が少ないにもかかわらず東軍で戦ってた実践経験豊富な連中は苦戦してたんだし
戦闘センスでいえば三成小西大谷あたりのが遥かに上なのがわかる
0052人間七七四年2014/01/27(月) 12:12:15.78ID:CE+BY9IT
真田昌幸50万石ゲット
0053人間七七四年2014/01/28(火) 11:24:27.37ID:aqLL2IyI
石田・小西・大谷は文治派と呼ばれるけど実際は脳筋集団だからな
ただ目の前の相手と戦うだけなら有能かもしれないが
相手に調略や策謀を使われると見抜けず前に突っ込むしか出来ないアホ集団だから
秀吉がフォローしてあげた時代ならいざ知らず単独ではとても実戦において通用しない
0054人間七七四年2014/01/28(火) 12:56:52.10ID:xZaDY8/l
三成は明への侵攻について
「先々は兵糧もなくその上寒空に向かっており途中の道筋も無人になり返すことすらできなくなる」
と明侵攻において途中での補給が難しいことを説明し、
まずは国郡で政務を行うように命じ、秀吉の意向に対して、反対して方針変更してしまうほどの男
忍城攻めでも秀吉の指示による水攻めに反対し、強襲を意見するほど。
豊臣恩顧大名の書状を見ても、秀吉の絶対命令に対して、現場責任者としてちゃんと理を説いて反対意見を具申しているのは三成くらい。
これが秀吉の信用を得ていった理由だろう。
また筑前筑後の小早川領をやると言われた時には三成は反対し、
それらの領地を豊臣政権の財政基盤のため蔵入地にしてしまうなど、
当時の豊臣恩顧大名の領土欲とは正反対の志向を持っていた。

秀吉にも怒りを買うのを恐れず意見し、領土欲もない。
これが秀吉には唯々諾々と従い、強欲に領地を欲した武断派と相容れないところだったんだろう。
0055人間七七四年2014/01/28(火) 12:57:30.96ID:/VAUdrmt
当時の日本軍の北上はうまく行き過ぎて楽観論で支配されていた。
蔵に食料がたんまりあり、兵糧にこれほど困らない戦いはいままで無かったなどと言われるほど。
だけれどそれは現地の蔵にあるものを没収していたからで、
三成は日本との兵站線から先々は補給が厳しくなることを見通して朝鮮統治に力を割くようにしようとしていた。

そこに明軍が襲来である。
小早川隆景の馬鹿は後退により秀吉からの叱責を恐れて臨津江という大河を背に自分の守る開城で篭城することを主張し、
三成は背後の大河を使っての補給遮断の危険性を強調し、隆景が臆病者めと応じて大口論。
大谷と前野が仲介して、漢城へ後退し迎え撃つことに。結局、立花宗茂が活躍し明を撃退。
秀吉が後退をとがめるために浅野が使者としてやってくると、
隆景が奉行が臆病で仕方が無かったと連呼し、明軍撃退を自分ひとりの功績だと主張して得意がっていた。
三成は後退の叱責を一人でかぶり、開城撤退理由を話した。

三成が統治していた地域にはかなり三成が発給した行政文書が残ってるんだよな。
よほど三成の統治は喜ばれていたからこそ大事に保管されてるんだろうな。
千石に1人の賦役とちゃんと決まってたし、それ以上が必要になった場合は飯米を給金して補償だし、
土地の耕作権は未来永劫、検地帳に書いた氏の者であり、奪われることがない保証もあるし、
百姓が迷惑することがあれば、取次は一切なく三成へ直接、訴訟できる目安による救済制度もある。
これほどよい領主はいないだろうね。
0056人間七七四年2014/01/29(水) 11:05:33.58ID:L6AluZ4i
石高や戦経験などあらゆる面において隆景の方が三成よりも圧倒的に上なのだから
本来なら三成が隆景の意見を受け入れて譲るべきなんだよな
軍隊というのは規律を保つためにも上下の秩序というのは厳しく守らなければいけない
それなのに力も経験も乏しい三成がその場の思い付きを自分より遥か上の人間に向かって
ギャーギャーと騒ぎ立てて押し通そうとすれば秩序は崩壊し現場は混乱する
三成が現場の大名から嫌われたのは当然のことだった
それでも秀吉が生きているうちは秀吉の権威を振りかざして押さえつける方法ができたが
秀吉死後の関ヶ原ではそれも限界を迎え三成のせいで西軍の規律は最初から存在せず
兵力の2/3が内通や日和見に走り東軍と戦うことを嫌がったという三成の自業自得な結果に終わった
朝鮮出兵も関ヶ原も三成がいなければ成功の可能性が上がったのは間違いない
0057人間七七四年2014/01/29(水) 13:23:49.19ID:JAFD1Gvb
隆景は戦闘経験というか戦闘回数はそこそこ多いか知らんが
対大友戦や、宇喜多戦の辛川合戦、加茂崩れなどろくな戦績ないし
石高が高かったのも、本能寺で信長が殺され、毛利が秀吉を襲撃して毛利家が天下に名を馳せる大チャンスに
恵まれたにもかかわらず秀吉に即効ヘタレ土下座した情けない実績がたまたま吉と出ただけで本人に外交的・軍事的・統治的活躍があったわけでもなんでもない。
そもそも隆景の毛利家中での活躍なんて陰徳記とか講談とかにしかないデッチあげだし。
0058人間七七四年2014/01/29(水) 13:30:49.10ID:YPFWnZ9e
明軍襲来の際
アホ小早川隆景の主張どおり大河を背に自分の守る開城で籠城してたら
背後の大河を使って補給遮断されて日本軍は補給路断たれて全滅してたのは間違いない。
結局大谷と前野も中立的に仲裁しても、三成の主張に利のあるのは前線指揮官の誰の目にみても明らかで
漢城への後退が決まり迎え撃つことになったし。明を撃退したのは立花のおかげなのを浅野がやってくると、
隆景が奉行が臆病で仕方が無かったなどとデッチ上げ、明軍撃退を自分ひとりの功績だと主張して得意がっていた。
三成は後退の叱責を一人でかぶり、開城撤退理由を話した。
0059人間七七四年2014/01/29(水) 13:35:10.19ID:nWY/lBUN
隆景って相当雑魚だろ

・大内・尼子の内部分裂を利用して併合しようとするもガチで戦うと忍原崩れや富田城始め負けばかり
・大友なんて竜造寺にもボロ負けするヘタレ相手に反大友の国人の加勢がありながら大苦戦・敗戦して九州撤退。
・尼子・大内に再三、再興軍や一揆を起こされ大苦戦。
・僅か5万石の南条に大苦戦して援軍派遣まで阻止される。
・備前半国程度の宇喜田秀家相手に反宇喜田勢の加勢を受けながら大苦戦。
・今度は大大名となった宇喜田の加勢を受けながら浦上らに大苦戦。
・織田がやってくるとやはり中国から追い出すどころではなく宇喜多直家・忠家に辛川合戦・加茂崩れで大敗するなど大苦戦
 圧倒的国力差で支援もほとんど受けていない宇喜多と一進一退
・四国でも河野らの支援を得ながら事実上敗退。

こんな奴そうそういないだろ

決定的に隆景は立花道雪の猛追撃に付け狙われ大敗走してるよ。

西国盛衰記
毛利軍が立花から降雪の深夜に小倉へ向かって長躯敗走描写において
凍えて脱落していく兵すら見捨てて逃避行してる。

子が親を捨て、家臣が主を捨てて大敗走のあとに
「我一にと逃げ行くを小倉の津まで追討にせし程に、
其の行程十余里が間は、死人算を乱せるが如し・・・」と続く
その結果、永禄12年11/15の夜に3491の首を討たれ毛利軍崩壊。
この時の殿に大失敗したのが元春の殿の指揮。

その裏づけ史料として有名なのが吉弘文書で、これにも辛10/15のこととして
紹運の兄の鎮信だけでも100人以上を討ち取ってる。
辛10/27に吉弘家中の者たちの分捕高名の着到状を見た宗麟が激賞してる。
0060人間七七四年2014/01/30(木) 11:23:54.43ID:s/kRdxKR
>>58
>三成は後退の叱責を一人でかぶり、開城撤退理由を話した。

その報復として秀秋に代替わりした慶長の役では無断で加藤を助けに行ったなどと讒言を駆使して
領地没収処分に追い込むんだから三成は本当に陰湿な奴だよ
関ヶ原で秀秋が東軍に付いたのは裏切りでもなんでもない
単に三成の生来の陰湿さによる自業自得でしかない
どう見ても三成は関ヶ原よりも遥か前に処刑されてしかるべき人間だった
三成を処刑しなかったことは秀吉が犯した最大の過ちと言ってもいい
秀吉が三成を処刑していれば豊臣政権が250年以上続いていたのは確実だった
0061人間七七四年2014/01/30(木) 12:38:03.15ID:UGOFwWue
>>58>>59>>60
全部、自演マッチポンプだとしても、
この板では珍しいことではない
0062人間七七四年2014/01/30(木) 16:09:41.66ID:Mq3/4jWM
三成は官僚としては優秀だったかも知れないが武将としては暗愚というか分かっていない事が多過ぎた
天下人としての器量も無い
地方の小大名くらいが相応しい
0063人間七七四年2014/01/30(木) 16:27:53.24ID:hqlyt6AU
三成は実質的に西軍18万を召集した時点で天下を取ったようなものだったけど
当の毛利がどうしようもない馬鹿で使い物にならなかったからなぁ
しかも関ヶ原で三成・小西ら西軍で戦った連中は実践経験少ないにもかかわらず
寡兵で黒田・細川勢およそ11000程度に互角以上の戦いしてたし
小西隊や宇喜多隊、大谷隊なんかも大軍の藤堂、京極、福島、古田・織田などを押し返したり
壊滅寸前まで追い込んだりと戦闘センス見せまくってた。
実践経験が少ないにもかかわらず東軍で戦ってた実践経験豊富な連中は苦戦してたんだし
戦闘センスでいえば三成小西大谷あたりのが遥かに上なのがわかる
忍城攻めでも秀吉の水攻め命令に反対して強襲策を提言したり
朝鮮出兵の際の、兵站網の重要性を説いたり
豊臣の戦を全面的に支えてたのは他ならない奉行衆でしょ。
豊臣の戦ってのは異常な数を用いた位攻めを行う総力を使っての決戦や持久作戦だから
最も大変な役割を担うのは物資や兵糧調達を担う奉行衆なのは明白だしね
0064人間七七四年2014/01/30(木) 16:36:13.10ID:Ed/MDsEB
秀吉に天下人としての器量なんて全くないでしょ。
運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)

朝鮮出兵とか利休殺し秀次や縁者殺しなど愚行を繰り返してたから豊臣はあっさり崩壊したんだし。
0065人間七七四年2014/01/30(木) 16:38:14.49ID:p+pu7SwP
能力0の棚ボタ天下トリオが信長秀吉家康の三馬鹿アホ
器量?何それ?
全員他家の分裂内訌、足利嘉昭の訪問、大義名分の棚ボタ獲得などチート幸運があって
勢力広がっただけじゃん。
0066人間七七四年2014/01/30(木) 16:39:19.99ID:8L89gJnb
生まれたときからボタ餅が手に入ってたも同然の信長などと違って信玄はボタ餅の入った棚自体が
なかったといっていいからなぁ

畿内での有力者が動乱の影響などで次々消えうせ、足利義昭訪問やら和田や甲賀衆や浅井らや六角義秀らの
大協力の元、信長が何もしなくてもボタ餅が食べられるような状態が生まれたときから存在してたのに対して
信玄の場合超天嶮・難治の自国の2倍もある信濃やら自国よりも国力高い今川・北条連合やら
上杉・長尾・北信濃連合やら織田・徳川連合やらに阻まれてて食べられるはずのボタ餅が谷底に投げ捨てられたような状態といっていいし
0067人間七七四年2014/01/30(木) 16:41:22.77ID:Ed/MDsEB
信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年に 十河一存 斉藤義龍
1562年 三好義賢
1563年 細川晴元 細川氏綱 三好義興
1564年 安宅冬康 三好長慶
と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。
しかし北条は謙信や信玄らがなかなか死ななかった。これでは関東制覇も難しいだろう。
そういう意味では大内義隆や尼子晴久が死んだ元就もおいしい。
永禄3年に六角軍は北郡征伐に失敗し浅井長政に敗北。これをもって長政は家督を継ぎ六角からの再自立を達成(肥田・野良田の戦い)
六角は斉藤氏と共同しての浅井攻め戦略に移行。
翌年2月には逆に長政が美濃へ進攻する攻勢を示したが
3月に入るや背後から六角軍が進攻し佐和山城を落とされた(斉藤家の竹中重高への六角氏の感状あり)
しかし長政は反転し六角の退路を封鎖する動きを示すことで退却を誘い佐和山城の奪回に成功する。
またこの長期に渡る六角と斉藤との攻防の中で義龍が病死し美濃からの脅威は減少したこともあり、
畠山高政と六角義賢による三好長慶との京を巡る戦いが始まるや、長政は太尾城(米原市)を攻めるなど六角の背後を混乱させた。
このように浅井による北郡造反は畠山への援軍派兵の遅れを誘発し六角弱体化をさらに助長した。
そしてこの攻防は三好の勝利に終わり畠山の没落が確定し、
単体では三好にかなわない六角は三好と和睦を結び京を巡る戦いに終止符を打つ決断をすることになる。
三好政権に服従する義賢が騒動で家臣暗殺をして家中は一時的に統制されたかに見えたが、
義輝が暗殺されるや畠山や奉公衆や反義賢の六角家臣による義昭の近江脱出が図られ、
永禄9年4月になると義昭を左馬頭に任官させ、
一方、三好が働きかけている左馬頭義栄の将軍任命拒否を出させるなど朝廷工作を成功させた上で、
反義賢家臣や畠山や若狭武田や信長や徳川や北畠を率いて義昭が8月に上洛戦開始することになる。
しかし土壇場で信長が義昭が和睦斡旋した斎藤を奇襲する背反をした挙句に大敗し、
この上洛戦自体が崩壊し、三好の後援を受けている義賢の威勢が増し義昭は近江にいられなくなり朝倉を頼り逃げた。
そして信長の裏切りから脈なしと見た朝廷が三好が押す義栄を将軍にしてしまった。
このように義昭問題によりさらに混迷したものの、反義賢重臣たちは奉公衆と協力し、
織田と浅井の婚姻を成立させるなど上洛戦を成功させる手を打ち、
中央政界でも朝廷工作をして反三好+義賢+近衛の勢力と結託し、
ついに永禄10年に当主権限を制限する六角氏式目に同意せざるを得なくなるまで義賢らを追い詰められた。
これが可能になったのは再度、義昭上洛戦をする為であり、斎藤と義賢を凋落させることに成功。
これにより義昭は再度、近江に戻ってくる。
今回は奉公衆の他に大和衆や松永久秀も三好軍を引き付ける為に義昭上洛戦を前に挙兵させるなど辣腕を振るう。
しかしこの近江の反義賢勢力や浅井らを統合指揮して
高いレベルの朝廷工作もやってのけるだけの高い家格の持主が誰なのかわかんないんだよね。
京極は浅井の操り人形に過ぎず六角系家臣は操れないし(天文18年が京極氏奉公人奉書現存最古の発給)
信長公記から消された人物がいるのは間違いない。そもそも浅井氏が挙兵しての天文日記に書かれる
北郡錯乱・国錯乱は天文21年の六角定頼死去翌年であり、この時に浅井久政は六角軍に敗北し六角に従属したわけだが
このような大規模な近江国人を二分する近江国錯乱の理由として考えられるのは
六角義賢を六角氏相続には大きな大問題がはらんでいたのだろう。
六角義賢親子と朝廷との強いパイプを持つ近江の舊主(旧主)との対立・・・この六角分裂が義昭上洛と絡んでいくのである
0068人間七七四年2014/01/30(木) 16:42:07.00ID:hqlyt6AU
>>信長ですら尾張の小身からスタートして
はいはいすでにここからしてデタラメ捏造。
それに大仏を燃やした三好らに危機感を持ったため
畿内では義昭将軍擁立にむけてお膳立てしてもらったのが信長じゃん。
義昭を蔑ろにした途端、信玄に追い詰められてたった兵1万しか動員できないまで無力化され
自暴自棄で京で乱逆無道の賊行為を働いたのが信長。

そもそも美濃は斉藤の元で統一されてるから、
濃尾平野にあった井の口居城を攻略すれば簡単に美濃平定が完了するヌルゲーっぷりと違って
山谷国といわれた信濃は要害堅固を支えに群雄割拠する戦国っぷりで、
各地域に1000〜の兵が篭る国人だらけで篭城する敵相手に信濃全域で苦労したわけだ。
岐阜県の面積: 10,620 km2(井の口居城を落とすだけで一国平定)
長野県の面積: 13,590 km2(要害堅固・縦に領土が長く交通補給路に難儀・群雄割拠)
だいたい跡部氏や逸見氏らが専横していた甲斐では、
甲斐守護武田信重が甲斐への入国を将軍から言われても拒否するほどだった。
17年後に無理やり入国させたが穴山氏に暗殺される始末。
こんなに武田の基盤は崩壊していたわけだしな。
0069人間七七四年2014/01/30(木) 16:53:01.06ID:GIJ350M7
そもそも信長は天下なんて取ってないし、光秀に殺されて死んだだけなんだから
天下人としての器量も糞もないだろ。
光秀に殺されて死ぬレベルの器量しかないという事じゃね。結果論として語るなら。
0070人間七七四年2014/01/30(木) 16:54:59.96ID:UBP0Cu1s
信長の天下を信長・信忠が殺されて光秀が逆賊の汚名負った隙をついて棚ボタ的に盗み取った秀吉も
結局信雄や家康に大敗して家を滅ぼされることになったからね。
0071人間七七四年2014/01/30(木) 16:56:42.42ID:T8/Ojvzh
秀吉がもう少し三成や小西や大谷ら子飼いの名将を信頼して大版図やってたらあんな事にはならなかったのにな

個人的感情で凝り固まり、家康にマンマと篭絡されて恩を受けた豊臣家を崩壊させた馬鹿な武功派や
家康の示威行動に対してビビリまくり攻められてもいないのにヘタレ降伏する前田や浅野
総大将として積極的に決起を行いながら、中核となる軍隊をどうでもいい方向に分散させまくり
奉行衆らの美濃方面への防衛要請も無視して、結果徳川にグイグイ押し込まれ木っ端微塵にされた馬鹿毛利輝元

こんな馬鹿に大版図やるくらいなら、三成や小西や大谷ら、本当の豊臣家に忠義を尽くした連中に大版図やればよかっただけじゃん。
0072人間七七四年2014/01/30(木) 16:57:49.66ID:p+pu7SwP
三成は豊臣家の天下を守り、外様の暴走を防ぐのに必死だったが
武功派は自分の石高や欲しか考えないような馬鹿だったから家康にマンマと篭絡されて、主家を崩壊させただけ。
三成が五大老筆頭、200万石レベルの石高、豊臣家の外戚の地位についていたら間違いなく
すんなりと秀頼への後継はうまくいっていた。
0073人間七七四年2014/01/30(木) 16:59:55.51ID:UBP0Cu1s
吉田兼見が記した兼見卿記には利休事件について三成が利休の生母と娘に拷問を加えたとの
噂が流れたと書かれている。利休の生母は事件が起きる何年も前に亡くなっていたので
この噂は全くのデマだったのだが、当時から庶民の間では三成についてそういう
冷酷な官僚というイメージが定着してしまっていることがうかがえる。
0074人間七七四年2014/01/30(木) 17:01:50.82ID:8L89gJnb
確かにそれはいえてるね
家康は生前の盟約破って私婚すすめまくったり島津の領内問題に介入して恩売りつつちゃっかり
豊臣蔵入り地を減らそうとしたり前田や浅野にいちゃもんつけて攻め込むそぶりみせて降伏させたり
家康への糾弾を武功派連中を使って実力で排除したり好き勝手やりまくってたもんな
家康の横暴に異を唱えて豊臣を守ろうと懸命に努力したが
欲に目のくらんだ武功派諸侯が家康に篭絡され、総大将のアホ毛利がクズすぎて滅んだのが豊臣家。
三成は秀吉生前の大儀や盟約に基づいて賢明に豊臣の体制を守ろうと努力してただけ。西軍諸侯は畿内方面だけで18万も集まったが
これは三成の懸命な努力の結果だろ
0075人間七七四年2014/01/30(木) 18:40:58.45ID:5f5cKst8
加藤清正、福島正則、黒田長政らが西軍にいたら負けなかったかしら?
0076人間七七四年2014/01/31(金) 06:39:12.97ID:BvmideIJ
>>75
その状態なら関ヶ原の合戦なんて起こらないだろ
そいつらが西軍にいる=例えば石田三成に代表される奉行衆による統治が彼等に喜ばしい
そんな状態をひっくり返す才能が無いから豊臣による政権が出来たんだから
0077人間七七四年2014/01/31(金) 11:19:36.49ID:sr+iS4E0
三成を東軍に行かせてしまえば加藤清正、福島正則、黒田長政らが西軍に行くから勝てただろ
関ヶ原なんて三成をめぐるババ抜きと言っても過言ではない
三成というお荷物を背負った時点で西軍に勝ち目はなかった
0078人間七七四年2014/01/31(金) 13:03:29.89ID:zxRGJYav
つまり秀吉は三成なんか配下に入れるべきじゃ無かったんだな
信長も光秀なんかと知り合ったのが運の尽きだった
0079人間七七四年2014/01/31(金) 18:22:46.79ID:DeiE1jpf
黒田なんてろくな功績ないし無理だろ
三成・小西ら西軍で戦った連中は実践経験少ないにもかかわらず
寡兵で黒田・細川勢およそ11000程度に互角以上の戦いしてたし
小西隊や宇喜多隊、大谷隊なんかも大軍の藤堂、京極、福島、古田・織田などを押し返したり
壊滅寸前まで追い込んだりと戦闘センス見せまくってた。
実践経験が少ないにもかかわらず東軍で戦ってた実践経験豊富な連中は苦戦してたんだし
戦闘センスでいえば三成小西大谷あたりのが遥かに上なのがわかる
福島黒田藤堂らは戦闘が専門の武断派なのにもかかわらず、
専門外の石田や小西や大谷らに翻弄されまくるアホっぷりだしなぁ
0080人間七七四年2014/01/31(金) 21:40:42.99ID:H5drv3zN
福島翻弄したのは西軍最強の大部隊の宇喜多じゃん
0081人間七七四年2014/02/01(土) 11:10:39.18ID:cF/XuuR6
石田・小西・大谷は文治派と呼ばれるけど実際は脳筋集団だからな
ただ目の前の相手と戦うだけなら有能かもしれないが
相手に調略や策謀を使われると見抜けず前に突っ込むしか出来ないアホ集団だから
秀吉がフォローしてあげた時代ならいざ知らず単独ではとても実戦において通用しない
毛利や小早川が東軍と交渉していることさえ関ヶ原で戦闘が始まるまでまったく気付かないなんて
いくら実戦経験が少ないとはいえ将としてありえないこと
いかに石田・小西・大谷が戦の本質を理解していない突撃バカなのかが分かるよ
0082人間七七四年2014/02/01(土) 15:20:51.71ID:QWUqW47B
やはり黒田官兵衛に西軍補佐をやって貰うべきだった
0083人間七七四年2014/02/01(土) 15:44:10.48ID:61arUKPg
単純な社会構造と永遠ループのちゃぶ台返し易姓革命の中国みたいに
軍師ひとりでどうこうできるわけねーだろ。
0084人間七七四年2014/02/01(土) 16:24:20.78ID:fhLaLDVs
石田が戦下手、島津さんの言うこと聞かないで上から目線
三成さんを外せばもっと善戦できるでしょ
0085人間七七四年2014/02/01(土) 17:39:03.90ID:/hTRyECv
でさ、輝元や秀元が家康に内通してたとする一次史料を出してくれよwww
0086人間七七四年2014/02/01(土) 20:18:04.81ID:nNnOxsPF
布陣を見ると始めから小早川・毛利はやる気がない
いつ裏切るか分からない奴は最前線で戦わせるのが鉄則
あから小早川の後ろに主力が陣を張ればいい
たとえ東軍に関ヶ原を通過されてもね
0087人間七七四年2014/02/01(土) 20:53:52.39ID:BCqraEnB
毛利は徳川に次ぐ勢力を持ちながら糞過ぎたな
0088人間七七四年2014/02/01(土) 23:34:59.79ID:bck3/WxX
どう考えても毛利が下山してたら、
様子見してた秀秋の裏切りも発生せずに大勝できた。
願ってもないチャンスにビビり決断力が致命的になかったヘタレ毛利。
0089人間七七四年2014/02/02(日) 11:47:01.22ID:67CCneQI
>>86
毛利・小早川の方が官位も石高も兵力も石田より遥かに上なのに
裏切るか分からないから最前線で戦えなんて石田に命令する権利なんかないから
0090人間七七四年2014/02/02(日) 21:21:45.88ID:FK1Q67Ez
>>88
それは言えてる。
どう下手に戦っても、
毛利軍圧勝の望んでも無い千載一遇の超チャンスで、
毛利はビビり動かなかったバカ。
秀忠の徳川本隊到着前で東軍を反包囲体制下において、
しかも陣を構築し地の利まで得ていながら、
結果的に大敗無条件降伏同然になり、
輝元強制出家と家督強制譲渡と、
毛利領の城を次々と徳川が接収していくので、
毛利は全軍で毛利領から出て島津攻め先鋒として忠義を示せば大減封だが安堵してやるっていう屈辱だからな。
幸い、江戸に近い上杉と佐竹が家康に降伏せず、
島津がヘタレて和睦懇望してきたから、
島津攻め中止になったから良かったがな。
0091人間七七四年2014/02/03(月) 07:33:51.55ID:dlaQL7P2
そもそも、何故毛利が必死で戦わないといけないんだ?
0092人間七七四年2014/02/03(月) 07:56:06.17ID:fT14Xo6l
家康は天下を獲りにきてる
徳川にひれ伏すか対抗するかの選択をしなければならない
0093人間七七四年2014/02/03(月) 09:12:03.81ID:dlaQL7P2
>>92
ひれ伏せば良いんじゃね?
半島に出兵して疲弊してる上に自分と比して倍を越える身上の徳川と、まともにやり合える筈が無い。

積極的に大博打をうつ必然性があったのは、(仮に権力欲の権化だとしたら)石田三成と宇喜多秀家くらいだろ
0094人間七七四年2014/02/03(月) 10:21:02.24ID:SGffu9OH
前田という素晴らしい先例が示されたのだから
毛利も上杉もおとなしくひれ伏せば本領安堵の可能性もあるのに
意地を張りたいけど直接戦いたくはないという中途半端な態度を取ったのが良くない
両方とも豊臣子飼いでもなんでもない外様なんだから徳川と戦う必要などまったくない
毛利も上杉もおとなしく徳川にひれ伏すべきだった
0095人間七七四年2014/02/03(月) 10:22:54.64ID:aG1CNJTB
佐和山18万石しかない小身の三成が積極的に博打を打つわけが無い。
輝元は中国北九州、伊予に毛利一党の大勢力があるのだから、
博打を打てる元手がある。
元手があるものに指導権があるのも当たり前。
0096人間七七四年2014/02/03(月) 10:59:19.39ID:dlaQL7P2
>>95
博打は元手があるからうつもんじゃない
博打で勝つしか道が無いからうつもんだ

そして、往々にしてスッカラカンになる
0097人間七七四年2014/02/03(月) 11:38:40.44ID:dlaQL7P2
それと
毛利一党とかいう架空勢力の創造、
広島、島根、山口しかもってないのに中国地方の領有を匂わすハッタリ
そして一時期、毛利一門が継いだだけで、現在は太閤の一門が領有してる地域まで
毛利の影響圏に含めて勢力を膨らしてどうすんだ?

そんなレベルで膨らすんなら常陸を除く関東と、三河、遠駿、甲信を掌握する徳川って話になっちまうw
0098人間七七四年2014/02/03(月) 13:29:55.27ID:XNZ2frEe
立花や筑紫と一緒に行動していた小早川秀包とか知らねーのかよ織田チョンってw
で彼らを与力にして統率してたのが筑前筑後旗頭の秀秋。
小早川は隆景遺封問題と小早川転封騒動で、
三成家臣へ行く予定だった者、残留組、毛利家臣に出戻る予定だった者、秀吉から付けられた家臣から加賀で独立を認められた者に分けられ、
結局、それらの処理を棚上げにして関ヶ原だから、
毛利両川としての関係性も強いし。
伊予に安国寺領もあるし。
0099人間七七四年2014/02/03(月) 13:53:17.98ID:XNZ2frEe
>>96
そもそも三成には元手が無いので、
打つために参加すらできない国力差じゃん。
250万石と18万石で本気で家康打倒なんて思いつかないだろ。
思いついていたら伏見城に私戦禁止令を無視した武断派がやってきた時に、
罰さない家康を叩き潰して伏見城を防衛してただろ。
0100人間七七四年2014/02/03(月) 15:59:21.65ID:dlaQL7P2
>>98
小早川秀秋の家老他は太閤が付けてきた人間のはずだが?
秀包の所領ってどんだけだ?
関ヶ原の前に戻って来てるけど越前に左遷もされてるが?
薬飲んで寝ろ
>>99
襲撃云々の対応は、単純に三成が腑抜けてただけだろ
>元手
少なくとも7000は兵隊を出してる
身上潰す覚悟なら博打は打てるだろ
何せ政権中枢にいて蔵入地の管理に一枚噛んでるんだから
0101人間七七四年2014/02/03(月) 17:24:25.13ID:xA0G9Zbm
秀吉「官兵衛に10万石も与えたら天下を取られてしまうわい!」
0102人間七七四年2014/02/03(月) 18:22:32.53ID:oA2wZPQS
秀秋の家老他は太閤が付けてきた人間とする一次史料をください。
ちなみに越前転封は秀吉の死で中止になってるから移動してないのも知らんのか?
0103人間七七四年2014/02/03(月) 22:34:33.35ID:m9TfIAdD
筑前筑後の旗頭は秀秋。
そのうち筑後26万石中半分の13万石を所領にしていたのが筑後の中心部の久留米に領地を得た筑後守小早川秀包。
ちなみに立花宗茂は筑後柳川13万石で両人は秀秋与力。
秀秋と秀包は両人とも隆景養子。
双方とも秀を貰った。

つか、そもそも大津城攻撃には秀包、宗茂ら秀秋与力と輝元からも毛利元康が派遣されてんだから、
どう考えても秀秋も輝元も東軍と戦う気まんまんなんだよな。
大津が早く落城していたら彼らは関ヶ原の乱戦に突入するだろうしな。
0104人間七七四年2014/02/03(月) 22:53:54.31ID:fT14Xo6l
毛利は小早川まで混ぜれば200万石ぐらいいくだろ
本気で家康に対抗しようと思えばできたはずだぜ
0105人間七七四年2014/02/03(月) 23:13:33.22ID:LKcxw81j
>>94
バカだなあ。豊臣子飼いの連中から見ればむしろ家康は秀吉よりも格上だったこともある別格の存在なのよ。
だから頭下げることに抵抗ないわけ。
上杉だの毛利だのは信長時代は家康よりも格上だったからそう簡単には頭下げられんわ。
0106人間七七四年2014/02/03(月) 23:27:52.48ID:bF7e0oMN
>>94
上杉は東西両軍の合戦がまだ始まってない状態で最初から家康の示威行動に対して強行的にはねつけて
喧嘩吹っかけてる時点で中途半端な行動など何もとっていない。

毛利は首謀者かそれに近い積極的な関与でもって西軍総大将として大々的に家康に対決を挑んだが
当主の輝元が余りにも馬鹿すぎて、伊勢湾だの四国だのどうでもいい方向に戦力分散しまくったあげく大敗しただけ。
家康にヘタレ土下座の前田や浅野みたいに土下座する事は武士としての恥であり
恩義を受けた豊臣家を見捨てる行為。
こういうヘタレ無能大名や三成にくしで凝り固まった豊臣武功派みたいな馬鹿が政権中枢にいたのが豊臣家滅亡の原因
0107人間七七四年2014/02/03(月) 23:29:16.67ID:R2AW0054
まだ攻められてもいないし、攻められるべきちゃんとした理由もなく、
勝てるか負けるかもわからない相手(つか、当時の徳川の規模からしたら、敵対勢力の方が強大で、徳川が勝てない可能性のが高い)に対して
戦わずして土下座とか情けないにも程があるわな。何のための武士なんだか。
0108人間七七四年2014/02/03(月) 23:30:07.48ID:sh5xOWye
いざという時主家を守って家康の簒奪行為を見過ごすどころか、結果的に貢献する事になったんだしな。
大体攻められるべき大義名分も家康が勝手にデッチ上げただけの物の可能性が高く
何ら自分らに責任もなく、しかも、戦って負ける可能性が高いとはいえない、当時の勢力差の相手に対して
戦う前からヘタレ土下座とかウンコ武士もいいとこだろ。
0109人間七七四年2014/02/03(月) 23:35:44.81ID:QtkBLeAa
>>96
そもそも西軍は毛利軍45000を中心に畿内方面だけで18万人も存在するので
関ヶ原での毛利軍の参戦は到底ばくちとはいえない。
むしろ史実の輝元みたいに中途半端な行動取るほうが博打。
それも勝っても非常にメリットの少ない、リスクはほとんど変わらない博打だな(成功しても参戦した場合より恩恵は少なく
失敗したら大減封か改易)

>>97
毛利は120万石だろ。
それに分家の小早川家もいれればさらに膨れ上がる
関ヶ原合戦時の陣立書を見ても毛利の軍勢数はずば抜けてるし
総大将としての地位まで持ってるのに何もできずに大敗して大減封食らうとか情けないにもほどがあるだろ。
0110人間七七四年2014/02/03(月) 23:46:23.92ID:sh5xOWye
>>93

>ひれ伏せば良い

ひれ伏した場合のメリット→なし
ひれ伏した場合のデメリット→家康や秀忠の気分次第で改易か大減封、前田や浅野はたまたま助かっただけなので毛利がそうなるとは到底限らない
実際勝った大名でも後年減封や改易になった連中もいるし。

家康に抵抗した場合のメリット→かなり高確率で勝てる(毛利が参戦すれば西軍の参加人数の方が遥かに多い)
から、天下を得るか、そうでなくとも総大将として勝てば毛利が大繁栄する。
家康に抵抗した場合のデメリット→かなり低確率だが負ければ家が取り潰しか、家康の気分次第で斬首される


どうみても対抗した方がよい件

>半島に出兵して疲弊してる

朝鮮出兵の疲弊とか何年前の話だよ。そんなもんが数年経ったこの時期に影響してる根拠の史料をくれ。

>自分と比して倍を越える身上の徳川

石高は高いだけで家康に味方した連中なんて三成にくしで凝り固まったアホな武功大名くらいで
大老も奉行もほとんど西軍で関ヶ原合戦時の陣立書みても畿内だけで西軍は18万もいるほど大軍だし
家康は豊臣政権下禁止された私婚を行いまくったり豊臣蔵入地削って外様大名の物にしたり
不忠やりまくってるから、内府たがい条たたきつけて、西軍としては格好の大義名分があり、名分でも軍勢数でも圧倒的に西軍が有利なわけで、
毛利が参戦したら家康はとても勝てるわけがない。

>まともにやり合える筈が無い。

毛利が参戦すれば、家康がまともに西軍と戦えるわけがない。
西軍の中の中核となり、最も巨大な軍勢があるのが毛利
その毛利がアホすぎて全く使いものにならなかったために大敗したのが関ヶ原の西軍
0111人間七七四年2014/02/04(火) 00:01:50.45ID:qF7u+cEi
そもそも毛利は豊臣家の中で重要な大老をおおせつかった身分。
大老として豊臣家や秀頼のために支え続けるのが輝元の役目なので
私婚・蔵入り地削り・前田や浅野への難癖つけや、威圧や人質召集、自分への弾劾に対して武力を用いて排除するなど
豊臣政権下で禁止された行為や簒奪行為を行いまくり豊臣政権を揺るがしまくってる家康を
大老として、討伐するのが役目。

あるいは、家康と協調するか、協調せず独自のやり方で、豊臣政権を崩壊させて、自分がのし上がろうとするか
どちらかを選択するのが普通の武将だし輝元の場合石高も身分もそれをするに十分すぎる物は持ってるのだが
当主がアホすぎて家康の行動を否定して西軍として名乗り出たはいいが、
いざ戦う段になると戦い方がわからない馬鹿輝元はあさっての方向にばかり戦力を進めたあげく、
西軍本陣はスッカスかになり、そこを家康に付かれて大敗した。

西軍がどんな名将ぞろいでも総大将がこんなアホでは到底勝ち目がない。
0112人間七七四年2014/02/04(火) 10:25:03.46ID:+Q+9SBLy
>>105
はいはい在日くん乙
0113人間七七四年2014/02/04(火) 10:38:16.57ID:g0lky3oZ
>>107
毛利も上杉も本能寺後に台頭した秀吉には戦わずに臣従しているのだから
家康に対しても同じことをすればいいだけ(結果的には同じだったが)
それに東軍は三成さえ倒せれば勝利に持ち込めるのに対して
西軍は家康自身を倒さなければ勝利に持ち込めないのだから
西軍の方が敵対勢力が強大で毛利が勝てない可能性のが高い
0114人間七七四年2014/02/04(火) 11:24:21.52ID:oe84L3GM
>>113
それはちと違う
秀吉に対しては他勢力としての立場での臣従
一旦秀吉が天下平定をしたのだから関ヶ原当時の毛利が置かれてる立場は柴田勝家と秀吉の争いで織田の家臣がどちらに組するかの戦いと同じ
0115人間七七四年2014/02/04(火) 12:12:45.55ID:kVtdX2A9
>>113

>それに東軍は三成さえ倒せれば勝利に持ち込めるのに対して
>西軍は家康自身を倒さなければ勝利に持ち込めないのだから
>西軍の方が敵対勢力が強大で毛利が勝てない可能性のが高い

意味がわからん
>>109>>110のように、まともに戦えば西軍が勝つ可能性の方が遥かに高い。
0116人間七七四年2014/02/04(火) 12:39:12.58ID:5fMKky7h
家康が簒奪行為をしてる中で大老として豊臣家や秀頼のために支え続けるのが輝元の役目なので
私婚・蔵入り地削り・前田や浅野への難癖つけや、威圧や人質召集、自分への弾劾に対して武力を用いて排除するなど
豊臣政権下で禁止された行為や簒奪行為を行いまくり豊臣政権を揺るがしまくってる家康を
大老として、討伐するのが役目。

あるいは、家康と協調するか、協調せず独自のやり方で、豊臣政権を崩壊させて、自分がのし上がろうとするか
どちらかを選択するのが普通の武将だし輝元の場合石高も身分もそれをするに十分すぎる物は持ってるのだが
当主がアホすぎて家康の行動を否定して西軍として名乗り出たはいいが、
いざ戦う段になると戦い方がわからない馬鹿輝元はあさっての方向にばかり戦力を進めたあげく、
西軍本陣はスッカスかになり、そこを家康に付かれて大敗した。

西軍がどんな名将ぞろいでも総大将がこんなアホでは到底勝ち目がない。
0117人間七七四年2014/02/04(火) 15:00:43.11ID:eIDWcVAe
豊臣家家臣としていざという時主家を守って、家を簒奪する相手を排除するのが豊臣家家臣としての務め。
前田や浅野は豊臣に恩を受けてるし、毛利も豊臣家の中で五大老の職と大版図をもらい重大な役目を仰せつかってる。
ならば主家を簒奪する家康を、たがい条を突きつけたりして、排除し、家を存続を測るか
それを利用して、自家の繁栄を意図するのが、普通の武士のあるべき姿。
それが家康の簒奪行為を見過ごすどころか、結果的に貢献する事になったんだしな。
大体攻められるべき大義名分も家康が勝手にデッチ上げただけの物の可能性が高く
何ら自分らに責任もなく、しかも、戦って負ける可能性が高いとはいえない、当時の勢力差の相手に対して
戦う前からヘタレ土下座とかウンコ武士もいいとこだろ。
0118人間七七四年2014/02/04(火) 15:02:10.52ID:LwKkOo5y
まだ攻められてもいないし、攻められるべきちゃんとした理由もなく、
勝てるか負けるかもわからない相手(つか、当時の徳川の規模からしたら、敵対勢力の方が強大で、徳川が勝てない可能性のが高い)に対して
戦わずして土下座とか情けないにも程があるわな。何のための武士なんだか。
0119人間七七四年2014/02/04(火) 15:10:16.00ID:kVtdX2A9
>>113
本能寺の後の秀吉と上杉は徳川や柴田といった共通の敵がいて
元々天正10年〜13年頃にかけて上杉と柴田(佐々)とは越中で、上杉と徳川が信濃中部の安曇筑摩などで抗争を繰り広げていた所に
秀吉が外から入ってきて、徳川と対立しだしたから共闘する形になっただけ。柴田や徳川と元々対立してる上杉としては
秀吉に協力しないという選択肢は、対立してる徳川や柴田に越中や信濃の利権を譲る事になるからありえない(徳川は既に北条と同盟してるから
信濃での版図を上杉に譲る選択はまずないし、上杉と北条は御館の乱以来犬猿の中)
関ヶ原の合戦では、主家簒奪をもくろむ家康に対して毛利も浅野も上杉も前田も、主家を守るという重要な役目があるし
実際に上杉も毛利も、家康の専横に待ったをかける意図で挙兵したり大軍をかき集めたりしてる。
でも前田や浅野はヘタレすぎて豊臣家に受けた恩義も忠義も忘れて即効土下座してるし
毛利もいざ徳川と戦う段になると、戦略が糞すぎて全く使い物にならなかっただけ。
0120人間七七四年2014/02/04(火) 15:15:23.72ID:LwKkOo5y
関ヶ原の合戦の頃は家康に歯向かう大名が圧倒的に多く
西軍は畿内方面だけで18万もいるほど圧倒的だったし
損得勘定でいっても、自家の発展のためにも、あるいは豊臣家への忠義や、存続を守るといった名分上のことでも
どの観点でいっても毛利からすれば家康に歯向かったほうが得。
毛利は本能寺後の時点での毛利や上杉と全く違って
120万石+分家の小早川勢までいて、家康に対抗するには十分過ぎるほどの戦力持ってるし
関ヶ原では毛利軍不参戦の状況ですら、小早川寝返りまでは戦局が五分五分だったほど。
ここに毛利軍45000が加われば東軍に初めから勝ち目なんてない。
そんな天下取れる圧倒的な大チャンスに何もせずに大敗して、自家を大きく衰退させたのが輝元。

ひれ伏した場合のメリット→なし
ひれ伏した場合のデメリット→家康や秀忠の気分次第で改易か大減封、前田や浅野はたまたま助かっただけなので毛利がそうなるとは到底限らない
実際勝った大名でも後年減封や改易になった連中もいるし。

家康に抵抗した場合のメリット→かなり高確率で勝てる(毛利が参戦すれば西軍の参加人数の方が遥かに多い)
から、天下を得るか、そうでなくとも総大将として勝てば毛利が大繁栄する。
家康に抵抗した場合のデメリット→かなり低確率だが負ければ家が取り潰しか、家康の気分次第で斬首される


どうみても対抗した方がよい件
0121人間七七四年2014/02/04(火) 15:16:36.53ID:kVtdX2A9
そもそも西軍は毛利軍45000を中心に畿内方面だけで18万人も存在するので
関ヶ原での毛利軍の参戦は到底ばくちとはいえない。
むしろ史実の輝元みたいに中途半端な行動取るほうが博打。
それも勝っても非常にメリットの少ない、リスクはほとんど変わらない博打だな(成功しても参戦した場合より恩恵は少なく
失敗したら大減封か改易)
毛利は120万石だろ。
それに分家の小早川家もいれればさらに膨れ上がる
関ヶ原合戦時の陣立書を見ても毛利の軍勢数はずば抜けてるし
総大将としての地位まで持ってるのに何もできずに大敗して大減封食らうとか情けないにもほどがあるだろ。
0122人間七七四年2014/02/04(火) 15:17:08.12ID:LWgk03X5
毛利は豊臣家の中で重要な大老をおおせつかった身分。
大老として豊臣家や秀頼のために支え続けるのが輝元の役目なので
私婚・蔵入り地削り・前田や浅野への難癖つけや、威圧や人質召集、自分への弾劾に対して武力を用いて排除するなど
豊臣政権下で禁止された行為や簒奪行為を行いまくり豊臣政権を揺るがしまくってる家康を
大老として、討伐するのが役目。

あるいは、家康と協調するか、協調せず独自のやり方で、豊臣政権を崩壊させて、自分がのし上がろうとするか
どちらかを選択するのが普通の武将だし輝元の場合石高も身分もそれをするに十分すぎる物は持ってるのだが
当主がアホすぎて家康の行動を否定して西軍として名乗り出たはいいが、
いざ戦う段になると戦い方がわからない馬鹿輝元はあさっての方向にばかり戦力を進めたあげく、
西軍本陣はスッカスかになり、そこを家康に付かれて大敗した。

西軍がどんな名将ぞろいでも総大将がこんなアホでは到底勝ち目がない。
0123人間七七四年2014/02/04(火) 18:27:41.16ID:24vSaPOE
関ヶ原どころか岐阜城が落ちた時点で大勢は7割方決してたよ。
あとはどういう風に戦後処理もってくかの消化試合。
家康が慌てたのは下手したら福島たちだけで石田を倒しちゃいそうな勢いだったから。
0124人間七七四年2014/02/04(火) 18:52:34.11ID:kVtdX2A9
三成・小西ら西軍で戦った連中は実践経験少ないにもかかわらず
寡兵で黒田・細川勢およそ11000程度に互角以上の戦いしてたし
小西隊や宇喜多隊、大谷隊なんかも大軍の藤堂、京極、福島、古田・織田などを押し返したり
壊滅寸前まで追い込んだりと戦闘センス見せまくってた。
実践経験が少ないにもかかわらず東軍で戦ってた実践経験豊富な連中は苦戦してたんだし
戦闘センスでいえば三成小西大谷あたりのが遥かに上なのがわかる
福島黒田藤堂らは戦闘が専門の武断派なのにもかかわらず、
専門外の石田や小西や大谷らに翻弄されまくるアホっぷりだしなぁ
毛利軍が西軍で参戦してたら100%西軍圧勝だったろ
0125人間七七四年2014/02/04(火) 19:23:39.70ID:IzVsx6pX
武断派に大垣で包囲されそうになるなど、
美濃方面の兵力不足は深刻だったのに、
とんでもない無能輝元は、
いくら順調にいったところで、
どうせ長島を落とせず苦戦するのはわかりきっていた伊勢に派兵する馬鹿さ加減。
0126人間七七四年2014/02/04(火) 19:43:59.64ID:LWgk03X5
そもそも最初から石田の戦略どおり毛利軍を含めた全軍結集して
美濃から尾張→三河・遠州方面に先手を打って侵攻すれば
東海道筋の去就が微妙な大名も次々西軍につくだろうし
史実よりも遥かに有利な状態で会戦できただろうし
尾張方面に東軍が到着した後も、伊勢戦線を南下したり、伊勢湾で活動するより
尾張の東軍を美濃と伊勢の両面から押し潰し、殲滅する方が戦略として遥かに優れてる。
なぜなら、伊勢戦線は最低限の兵を残すだけで十分だし
東軍が遠州から伊勢に海軍で進出してきたら
当然尾張口の東軍は其の分手薄になるから、西軍としては全軍結集すれば
東軍を叩き潰す大チャンスといえる。
仮に伊勢に上陸された所で尾張の東軍を殲滅してしまえば、あとは遠州を制圧するか
伊勢での防衛強化かどちらかをすれば難なく対処できるしな(東軍が伊勢南部に上陸した場合なら
伊勢北部まで到着するまで大分時間的猶予がある)
順当に三成ら奉行衆らが考えてた通り東海道筋に毛利含めた総軍で尾張→三河→遠州と進出してれば
100%勝ってた。
0127人間七七四年2014/02/04(火) 19:47:42.80ID:LwKkOo5y
西軍総大将で最も規格外の大軍持ってるにもかかわらず目的が火事場泥棒で
軍分散させまくったあげく東軍の尾張口の進軍にも対応せず石田らからの要請無視して
大敗し大厳封くらうんだから相当馬鹿だな
伊達最上堀らに囲まれてた上杉と違って毛利は兵力的にも状況的にも十分すぎるほど東軍ぶち破るチャンスがあったのに
むざむざ無駄にして何もしないまま大厳封
西軍総大将として存在しながら本決戦に負けたら勢力拡大も火事場泥棒も糞もないのにクズすぎる
0128人間七七四年2014/02/04(火) 19:49:35.66ID:eIDWcVAe
正則の弟の福島高晴が長島へ籠城してる中で西軍の毛利軍は鍋島隊を長島への備えに配置して攻めずに関が原へ急行してる。
関が原を無視して、長島城を落として尾張国に雪崩れ込み背後を襲う戦略をつかわなかったのは
それだけ長島城が堅固だったと言うことだろうけどそもそもなら、なんで伊勢攻略軍なんて編成したんだよって話だよな。
素直に、岐阜城を策源地に尾張に攻め込んでれば良かったじゃんwってもんで。
やっぱり毛利ってのは戦略眼がまるで無い。
0129人間七七四年2014/02/04(火) 19:57:21.44ID:fKes4fqO
毛利家は勝永さんが失態を拭う事になるワケか
0130人間七七四年2014/02/04(火) 20:01:51.19ID:/89aM5ga
>>128
清州城の開城交渉が失敗した時点で、尾張攻めは無理。
0131人間七七四年2014/02/04(火) 20:14:27.77ID:kVtdX2A9
>>130
は?何で無理なんだ?
全軍終結させて電撃戦で落せばいいだけだろ。
0132人間七七四年2014/02/05(水) 11:20:51.89ID:44BcUIoI
西軍は豊臣への忠義のために戦うという誇り高い軍隊だから
三成が自己の権力簒奪に利用しようと私欲を見せれば東軍以上に反発が出るんだよ
三成が総大将のような傲慢な振る舞いを始めて他の大名を顎で使おうとすれば
西軍大名の多くは毅然とした態度で三成の命令を拒否し
たとえ目の前で戦が始まっても三成の私欲に臣従するくらいなら負けを受け入れる
毛利も小早川も石田ではなく豊臣に忠義を尽くす意思を示しただけで何の問題もない
三成が西軍の高潔さを見くびっていたのが西軍の敗因であることに疑いはない
0133人間七七四年2014/02/05(水) 11:41:40.09ID:zGqEmxiL
>三成が自己の権力簒奪に利用しようと私欲を見せ
>東軍以上に反発
>三成が総大将のような傲慢な振る舞いを始めて他の大名を顎で使
>西軍大名の多くは毅然とした態度で三成の命令を拒否

何それ?聞いた事もない話なので
具体的な事例と、ソース元の史料や文献などを提示してくれ。
0134人間七七四年2014/02/05(水) 18:19:59.18ID:0ktbjNG5
三成はガラシャを人質にしようとして死なれたり陰湿極まり無いからな
誰もついていくわけ無い
0135人間七七四年2014/02/05(水) 18:42:31.56ID:zgTlWCEF
>>134
それ実は一次史料には存在しない話。
そもそも三成はまだ佐和山城にいて大坂にはいない。
後年になって細川がでっち上げた侍女のアリバイ覚書の二次史料にしか無い。
そもそも内府たがい条には、
大坂の人質を勝手に領国に返した家康を非難してるし。
0136人間七七四年2014/02/06(木) 08:31:02.21ID:qxnoQLjT
>>131
> 電撃戦

お前電撃戦の意味を全くわかってないな
0137人間七七四年2014/02/06(木) 08:37:06.70ID:qxnoQLjT
>>135
大阪城への人質確保なんて大名統制に関わる重要政策に関わっていないとしたら、三成は西軍首脳でも何でもない、
ただのその他大勢部将の一人に過ぎなくなるぞ?
君が三成をだーい好きなのは良くわかるが、少しは常識的に考えようや。

あと、「そもそも〜」のあと文脈つながってないぞ。ちょっと落ち着いてから書き込もう
0138人間七七四年2014/02/06(木) 09:37:08.62ID:F07tFH4x
そもそも三成は清華成すらしてない低い身分で、18万石しかない小身なんだから、
西軍首脳じゃないし、
西軍参加したのは7月末だから。
それまで佐竹や真田から、
三成が挙兵したって言う風聞は事実かどうかの問い合わせに全く返事すら出してないし。
0139人間七七四年2014/02/06(木) 11:14:02.49ID:E2OXWSrp
低い身分で石高もない三成が西軍に参加したところでメリットなど何もない
そればかりか三成の参加によって東軍には三成が謀反に関与しているという大義名分を手にして
武断派を始めとした東軍大名の士気は大きく上昇し
逆に多くの西軍大名は東軍の主張に動揺し戦うことが出来なくなった
三成など西軍にとってお荷物でしかなく西軍首脳は参加を拒否するべきだった
0140人間七七四年2014/02/06(木) 12:10:38.58ID:T1eGv2wb
>>136
電撃戦→速攻で。
意味を理解してないのはお前。
0141人間七七四年2014/02/06(木) 16:30:48.02ID:+BRLjeOZ
五大老
毛利・宇喜多・前田・徳川・上杉

家康はまず始めに前田を潰しに動いたんだよな
ここで前田が屈服したもんだから次に上杉を潰しに動く
んで関ヶ原と・・・。
豊臣からすれば前田のへたれが一番の悪だろ
何のための100万石なのか・・・。
0142人間七七四年2014/02/06(木) 20:05:33.04ID:T1eGv2wb
浅野も十分ヘタレだろ。
前田と浅野と毛利のへたれっぷりや
豊臣恩顧武功派のアホっぷりで大敗したのが西軍
0143人間七七四年2014/02/06(木) 20:59:27.18ID:No6Tjy/D
一番のヘタレはやっぱ毛利だよ
前田浅野は結果だしたけど
毛利は事の重大さもわからず
軽い気分でやってただけとしか思えん
上杉宇喜多は立派だな
0144人間七七四年2014/02/06(木) 21:57:00.51ID:WwX178Zm
蒲生氏郷がもっと長生きしていたらどうなったのだろうか。
上杉の会津移封が無くなるし、氏郷自身も家康嫌いなんだっけ?
そして関ヶ原自体起きなくなるのか?
0145人間七七四年2014/02/06(木) 22:38:16.10ID:No6Tjy/D
親の仇の家康嫌いの池田輝政もああなったし
蒲生も長生きすると気が変わるかもよ
0146人間七七四年2014/02/07(金) 02:19:51.06ID:GGE0ied8
うん、恨みを必ずしも引きずる訳ではないだろうからな。

蒲生工場長は優秀な人材かもしれんが独立経験ねえから実際に強者からの圧力に対し上杉みたくやるならやる っていう気概、強気な態度でいくかどうかは疑問。
周辺から支援を得れないならあっさり臣従も考えられる
0147人間七七四年2014/02/07(金) 10:34:49.98ID:wbgkltrH
上杉も惰弱
謙信以降ダメダメだ
0148人間七七四年2014/02/07(金) 11:29:49.26ID:5OBOBFSm
>>141
そもそも長期の天下泰平を目指すなら五大老五奉行そのものが無用な存在だろう
権力者の乱立は天下に不安定を生み出す要因になるからな
五大老五奉行なんて関白を粛清した後に慶長の役にのめり込んでいた秀吉が
死の直前に慌てて考えただけの中身のない無意味な制度であり
秀吉が自分は国内統治についても熟慮していたというアリバイ作りのために見せ掛けの看板を用意しただけ
長期の天下泰平を実現するならやはり豊臣と徳川の合併しかない
そこから上杉や毛利の力を削いでいくことによって日本に数百年の安定統治がもたらされるのは明らかだった
三成もそういう事情を理解していたから大量の大名を巻き込んだ自爆テロを敢行したのだろう
0149人間七七四年2014/02/07(金) 16:04:33.42ID:rJDUfAZp
上杉が惰弱とかないわ。
上杉の当時の状況は伊達最上結城秀康堀津軽南部ら東軍方諸侯の中で孤立した位置にあり、
まだ戦乱が始まってもいないのに、挙兵したら、徳川・結城・伊達・最上・堀・津軽ら大軍で瞬殺されるのは目に見えてるわけで
そんな死を覚悟した状況ですら挙兵して
最上を押しまくり滅亡寸前まで追い込むチートっぷり。
0150人間七七四年2014/02/07(金) 16:12:09.90ID:OjR+ZPiL
上杉が西軍決起しなかったら前田や浅野みたいに無理矢理いちゃもんつけられて潰される家が増えていくだけ
石田三成襲撃事件や家康の私婚問題に対する西軍方諸侯の家康の軍事力での排除と家康は好き勝手やりまくってた所に
上杉が決起した上に三成がタイミングよく決起したために西軍は畿内方面だけで18万も集まっただけ。
上杉の背後には伊達最上堀がしっかりひかえている
上杉が南下したら最上伊達堀らが会津領になだれ込んでくるだけだろ
三成はこの点も考慮にいれて三河方面へ毛利軍含めた大軍で侵攻する計画を8月上旬時点で真田や佐竹にあてて書いてる。

南下するなら当然下野で秀康ら2万と衝突するわけだから領国の総軍挙げないと無理
領国からっぽになった状態で伊達最上堀の本国襲撃受けたらひとたまりもねーだろw
0151人間七七四年2014/02/07(金) 16:15:20.96ID:POWw+Ye1
上杉は伊達最上堀津軽結城南部など東軍諸侯だらけの中で孤立した位置にいたにもかかわらず
決起して出兵してどうどうと最上領を攻略しまくり滅亡寸前まで追い込んでるのに対して
毛利は周辺諸国が西軍だらけの味方だらけの西国で決起したにもかかわらずほとんど空白地に近い四国や伊勢の火事場ドロボウすら失敗して
西軍本隊を壊滅させられるアホっぷりだからな。
0152人間七七四年2014/02/07(金) 21:23:23.01ID:5OBOBFSm
上杉は最上を滅亡寸前まで追い込みながら
関ヶ原の報を聞いただけでパニックを起こし総崩れになって
最上の追撃を受けて死者を大量に出すくらいのチートっぷりだからな
これだけの逆転劇を見せられるのは上杉しかいない
0153人間七七四年2014/02/07(金) 22:20:44.11ID:OjR+ZPiL
長谷堂城攻撃つっても2週間でわずかに15日24日と退却前の牽制で29日に攻撃しただけで
最上の降伏待ちしてただけだし、庄内軍もがっつり南下してて最上降伏前夜だしな。
背後を固めてから江戸へ向けて南下する軍略がおかしいとは思わないし、
わざわざ南下して、背後を襲われすぐまた北上するところを
徳川に噛み付かれたなんてブザマな行軍は避けるべきだしな。
誰もがあんな簡単にたかが一日で関が原決着がつくなんて思わなかった。
しかも大坂城まで簡単に明け渡すし、三成や輝元の失策だよな。
だいたい慶長4年に家康の方から和議の申し出があったって言うし
慶長5年に家康が景勝や直江を見て、その武功を褒め称えて歓迎したよな。
島津の記録にも上杉主従は少しも悪びれた様子も無く堂々としていたって書かれてるし。
それに講和交渉相手は家康の信頼を得ている要路の重鎮たる本多正信と直接やっていて
宰相殿の空弁当吉川広家みたいに
黒田長政・福島正則・榊原康政・本多忠勝なんてアテにならない人間と交渉してない。
親しくなってきたので慶長7年もしくは8年頃から本多正信の息子を養子にもらう申し出をしていて
慶長9年には兼続は農政に力を入れて郡中百姓相定覚を定めたり
近江国住友村や堺から呼んだ技術者を使って鉄砲密造したり、鉄や薬の研究したりしてる。
慶長9年に養子政重が直江に養子入りしてる。
0154人間七七四年2014/02/07(金) 22:21:27.12ID:m/7ApBrm
長谷堂攻撃軍は直江側近以外は言わば「2軍」。
最強部隊「安田とか岩井とか越後以来の上杉本隊」は若松に集結中。

その中であの3方面攻撃作戦といい撤退戦といい直江の凄さばかりが目につく。

最強部隊を使わず直江+蒲生徴兵隊の山形方面軍を急ごしらえした理由は「景勝」を守るため(景勝を戦闘に巻き込ませず直江自ら責任を取るつもりだった)。

上杉家思いの直江。泣ける話じゃないか。
0155人間七七四年2014/02/07(金) 22:22:38.96ID:2GiUcBKC
慶長5年9月29日現在長谷堂近辺。

最上軍13,000名=山形城にいる最上側近精鋭部隊(楯岡満茂等)約9,000+長谷堂約1,000+伊達政景鉄砲隊3,000
直江軍18,000名=側近(春日+水原+溝口)約7,000+蒲生旧臣約5,000+新規召抱(前田+上泉)4,000(要するに上杉2軍)
庄内軍3,000名や中山軍4,000名が未到着の段階では決して「圧倒的大軍」とは言えないと思うのだが。

ましてや地理的には最上軍圧倒的有利だし。
逆に、難所である狐越街道を背後に抱えその道を撤退するのに、直江自ら殿隊(水原+溝口+前田)約2,500名を縦横無尽に指揮し、勢いに乗った最上義光追撃軍13,000名からの猛攻を凌ぎ切り無事撤退官僚させた所に直江の凄さがある。
昭和に入ってから、18,000名からなる大軍をどうやってあの難所を通り無事帰還させることが出来たのか?素直に疑問を呈する史家もいたことも事実。
直江にとって唯一の誤算は毛利宇喜多石田等が僅か一日で敗北したことのみ。
当時最上領は稲刈直前の時期でタダでさえ兵糧不足。そのうえ最上軍は直江軍庄内軍中山軍3方面から半径10キロ四方に押し込められていた。
当然今年の兵糧は見込めない。あと半月でもあれば確実に最上の兵糧は切れていた。

そこまで計算のうえの持久戦。直江恐るべし。

直江は撤退戦で殿の隊列を十三段に分け迎え撃った。
殿直江の少人数を見て突撃してくる最上と伊達の大軍は大挙して直江本隊に襲い掛かり段を突き崩していく。
不意に最上軍横の山の中腹から怒涛の雷鳴。上杉家自慢の水原・溝口鉄砲隊の一斉射撃。
最上義光は織田信長から送られた兜で九死に一生を得たのであった。
その後も直江は懸かられれば引き、引いては襲い掛かりを繰り返し撤退を成功させた。

その戦い振りを評し最上義光は「誠に影虎勇武残り足りけると感じ賜う。直江は古今無双の兵(つわもの)なり」と、
家臣に語ったと最上記斯波家伝に記載されている。
旧日本陸軍参謀本部の「日本戦史」に記載されている直江の撤退戦の一部を見た。
あらかた最上記や奥羽永軍記および上杉家御年譜等に記載されている通説と同様だが、一部兵数の記載だけちょっとおかしいと思った。
例えば直江方先陣春日元忠の兵数八千とか。
内容は確かに撤退戦の見本とも言うべき内容。直江軍恐るべし。
徳川秀忠は白河で直江と戦わなくて良かったね。上田城での無様な負け戦といい、たぶん先陣として白河入ったとたん大敗してたでしょ
0156人間七七四年2014/02/08(土) 12:29:26.17ID:bsBR5tcK
前田慶次郎の奮闘も虚しく上杉は終わった
上杉謙信といい戦国時代最強の人材が揃っていながらこのザマよ
0157人間七七四年2014/02/08(土) 14:12:11.02ID:TMFIJ5dW
でも上杉の場合は、家康からケンカふっかけてきたんだし、
その家康が武断派の協力を得られず、
やむなく家康が上杉に講和を頼んだからな。
0158人間七七四年2014/02/08(土) 15:54:34.09ID:7k5ULt1M
上杉は直江18000でもって最上13000を瞬殺したし
関ヶ原の敗報が伝わって士気が崩壊する中、天才的な撤退戦でもって、被害をほぼ0におさえて退却に成功したよ。
松川の合戦でも伊達軍を瞬殺したし、伊達最上結城堀の大軍に領国を囲まれた状況で
敵に勝ちまくれるのは上杉くらいでしょ。
対織田戦の時も御館の乱や新発田の乱で領内が崩壊した状況に付け込んで織田方に
9倍もの兵力で火事場泥棒されたのに越中中部〜魚津松倉で2年も食い止めてたし

柴田軍45000は天正8年中頃から2年も越中中部〜魚津松倉付近で立ち往生し小島や須田などに大苦戦
ろくな備えもない魚津城に大苦戦
金森ら飛騨口部隊も松倉に手も足も出ず
森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北
新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞
上杉5000〜8000に対して総勢8万そこそこで廻りから総勢で攻め込みまくって勝てなかったのが織田だし。
0159人間七七四年2014/02/08(土) 15:55:01.36ID:474nmIC1
しかも当時の上杉は石高もしょぼく御館の乱や新発田の乱で極度に弱体化
武田滅亡がもう少し遅れてたら
魚津城攻防で柴田ら45000の大軍は5000そこそこの上杉軍に瞬殺されてただろうな
何せ御館の乱や新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で
能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに越中中部で天正8年から天正10年半ばまで
2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の魚津城で大苦戦。
こんな体たらくじゃ史実で上杉が信濃に派兵した隙をついて居留守泥棒的に奪った魚津攻防でも
初めから越中に軍動かして魚津城外で圧倒的な大敗劇を演じていたんじゃないか。
何せ松倉の須田に手も足も出ずに苦戦していたんだしな
新発田なんて完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞に追い詰められていただけだし。
0160人間七七四年2014/02/08(土) 21:10:21.85ID:EBVkGULL
移封したばかりで、
在国して領国経営の仕置きをやろうとしたそばから、
秀吉死去で一時的に上洛せざるを得ない状況になり、
やっとまた帰国し領国経営に専念できると思ったら家康にケンカ売られたから、
上杉はろくに領国仕置きすら出来てなかったので、
本来の能力が出せてなかったのが痛い。
だから南下より先に背後を片付けようとしたのだろう。
0161人間七七四年2014/02/08(土) 21:12:56.31ID:Gjl6XsZj
>>157
上杉から石高1/4でいいから許してくださいと言われれば
家康でなくても講和に応じるからな
さすが直江恐るべし
0162人間七七四年2014/02/09(日) 09:46:51.14ID:SfWxybBl
下記の一次史料は?


上杉から石高1/4でいいから許してくださいと言った。
0163人間七七四年2014/02/09(日) 12:40:32.93ID:9V3yZ2Wj
東西連携説が無いとすれば
上杉はなぜ関ヶ原のあと
速攻土下座したの?
0164人間七七四年2014/02/09(日) 13:20:59.20ID:I/zQgFmE
土下座したとする一次史料はまだなの?

景勝は、ヘタレ輝元みたいに責任取って強制出家させられてないし。
輝元みたいに罪を許す代わりに島津攻め先鋒やれなんて条件も景勝には付いてないし。
0165人間七七四年2014/02/09(日) 15:36:22.93ID:7g0jWZPx
全ての事柄に1次資料があると思うの?
0166人間七七四年2014/02/09(日) 18:49:13.43ID:zUvrivbT
会津にいる上杉に正反対の方向の島津攻め先鋒なんて罰ゲームでも無理だろ
日本地図も分からない馬鹿ですか?
0167人間七七四年2014/02/09(日) 19:25:28.58ID:OhwTMVKY
だったらその分に当たる土下座条件つければいいだけだろ。
それも何もついてないし。
0168人間七七四年2014/02/09(日) 20:37:23.64ID:ELx2kDdS
>>165
つまりお前の悪意の妄想が根拠だと白状したなw
0169人間七七四年2014/02/10(月) 08:47:52.51ID:Bsu4lsFk
武略は聞いておりますぞって家康が大喜びで直江を歓待したしな。
義光も上杉強かったって言ってるし。
0170人間七七四年2014/02/10(月) 12:41:00.87ID:pkClAU9i
>>169
アスペルガーだが嘘のごり押しウザ
0171人間七七四年2014/02/10(月) 16:27:20.58ID:ulE7oiLK
全部事実じゃんw
0172人間七七四年2014/02/10(月) 20:49:12.50ID:8eVJoA0e
鮭延の口述記録は面白いね。
長谷堂城に上杉軍が来るころの最上内の雰囲気は年寄衆までもが
「最後には我々が負ける。厳しい戦いだ」といいあっていたと書かれてるし
長谷堂合戦で包囲後に唯一、上杉が攻撃してきた24日の戦いの記述では
義光が自ら長谷堂で指揮を執っていて、夜になっても戦いは終わらず
晩遅くについに最上側が追い立てられ義光の雁金の指物が完全包囲に陥り
撤退不可能になっちゃう。そこで鮭延が小高いところにそれを押したてた。
義光からの伝令で「なんとしも俺の指物を引かせろ」と命令がきて
鮭延が「鉄砲50でも100でも届けてくれ。鉄砲で相手を怯ませて、そのタイミングで引く」
と答えたものの義光は鮭延が留まっていたのを知らずにシカトしてたが
それを知って自らやってきて指物をひかせろと再度命令。
「だからさっきも言ったじゃん!鉄砲よこせ」「わかった」
これで30挺が届けられた。ついでに伊達の援軍が近くを通過したから
ここに上がってきてくれと頼むもシカトしてどっか行っちゃう。
安食七兵衛が今度は通過してきたので「ここに上がってきてくれ」というと
「わぁった」って行って上ってきたが上杉側から鉄砲の集中攻撃が加えられ
鮭延にあたった玉は鎧を通過せず、安食は股を打ち抜かれた。
そして30挺で反撃したタイミングで二人は引き上げてる。
直江ものちに出羽守雁金指物の激しい取り合いで牛のように驚かず
立ち回った方がいて取れなかったが、あとで鮭延と聞いた」と言ってたそうだし
最上方の誰もが直江方は強かったと話していたという。
また10/1の上杉の撤退戦では16時ごろ敵を追い崩したところ
上杉方が踏みとどまって200挺で反撃してきて、
敵軍もそれに合わせて引き返してきたから
最上軍が慌てて撤退する状況になったが
のちに鮭延がそれにしても見事な鉄砲殿だったと感嘆したところ
直江の鉄砲大将の鉄孫左衛門と言う人物だったのがわかった話とか。
0173人間七七四年2014/02/12(水) 07:51:26.49ID:kzjlNFWw
武断派の力を借りないと上杉討伐なんて無理だからな。
棚ぼた家康は上杉にビビっていたからね。
景勝は死線をくぐり抜けてきた歴戦の猛者だからな。
信長の侵攻にも死ぬ覚悟を佐竹に表明してるくらいだし。
0174人間七七四年2014/02/12(水) 09:19:24.54ID:426WYpbM
豊臣家に上杉討伐の意思なんて無いんだから、
武断派が協力するわけもなく、
家康単独で上杉を攻撃して敗北したら、
家康なんて周囲すべてが敵に豹変するだけだからな。
そりゃ家康も上杉討伐を断念して和睦するだろ。
上杉は徹底抗戦を本庄らに命じていたからな。
0175人間七七四年2014/02/12(水) 14:22:26.88ID:PTcjT4KC
それだけ有利な条件がありながら石高1/4を受け入れた上杉は随分と太っ腹だな
家康からすれば上杉なんて三成を暴走させるための餌でしかないからわざわざ戦うほどの相手でもないし
三成を処刑した後に少し脅せば大幅減封を呑むことなんて分かりきったことだったろう
0176人間七七四年2014/02/12(水) 14:32:55.87ID:xoxVNcC9
上杉征伐なんて三成暴走させるためとかw
またまたいい加減なデタラメwww

輝元養女が小早川秀秋に嫁ぎ、
毛利と秀秋の同盟の絆になりながら、
関ヶ原の戦いの後に、
速攻で秀秋に離縁させられ、
毛利との縁を切られるほど惨めな輝元と比べて、
上杉は威風堂々と家康と面談してるしwww
この落差が全てを表してるだろwww
0177人間七七四年2014/02/12(水) 15:24:34.18ID:WM+yrkC5
頭丸めて出家した義父輝元が20歳そこそこのガキ婿秀秋に三行半を突き付けられるとかwww
さすがお笑いヘタレ大名輝元www
0178人間七七四年2014/02/12(水) 17:51:36.21ID:PZzNlOMe
毛利家は勝永さんが全て背負ったのだ
0179人間七七四年2014/02/12(水) 18:48:13.57ID:zhZKGgvd
輝元が毛利家督者であることを家康が拒否したから、
家督を強制剥奪されて、
ただの隠居爺にされたから仕方が無い。
家康から排除された輝元との関係なんて離縁する方が賢い保身術。
0180人間七七四年2014/02/12(水) 22:17:22.02ID:n1s1JP3k
上杉は最上領だけでなく旧領の越後も奪取しようとしてたよな
両方が実現すると石高で家康に並ぶ
0181人間七七四年2014/02/13(木) 11:44:09.82ID:FjPZ3ygu
輝元は佐村河内のように野心はあっても本人に能力がないからな
三成が作った糾弾状と戦略案に自分の名義だけ入れてさも大将であるかのように演技をしていたに過ぎない
輝元なりの精一杯の演技が見破られて三成首謀説を唱えられた時点で毛利の戦いは既に終わっていた
輝元が精神的ショックを受けて表に出られなくなったのも仕方がないし
秀秋だってそんな輝元には三行半を突き付けざるを得ないだろう
広家はこんな状況の中でも何とか東軍と交渉して毛利家の存続だけは実現したのだから
むしろ毛利家への忠義と功績に対して称賛されてしかるべきだろう
0182人間七七四年2014/02/13(木) 12:24:04.07ID:uMt1LNfG
>>179
輝元は首謀者だが清華成の殿上人だから死刑にでき無いからね。
家康としても、そこまでが虐め抜く限界点だったんだろう。
0183人間七七四年2014/02/13(木) 12:37:34.34ID:tbZDX6rP
>>181
基地外在日くんさー、三成が作った糾弾状ってどの書状を指しているんですか?
相変わらずバカですね。
0184人間七七四年2014/02/14(金) 11:52:43.04ID:n+Tp4w3h
それでも東軍としては誰かを戦犯に仕立てて処刑することによって公式の決着を付ける必要があるからな
そういう意味では現場から嫌われて身分の低い石田と小西が西軍にいてくれたのは良かった
石田と小西を謀反人として処刑することによって徳川も毛利も武断派も豊臣も満足できる
石田と小西はここで処刑されるために生まれてきたといっても過言ではないな
0185人間七七四年2014/02/16(日) 17:35:09.24ID:wi7c9qmU
江戸幕府はホントに運がいい。
ペリー来航まで外国からの侵略がなかったからね。
まあ秀吉が朝鮮出兵で日本侮りがたし!と宣教師が報告してたことが最大の理由だが。
しかし秀吉の中央集権全国支配体制なら外国からの侵略なんて怖くもないどころか、敵地に報復侵攻できるし、
南朝鮮をはじめ、沿岸地域に拠点を設けて大航海時代→重商主義→産業革命が始まってただろう。
それだけの蓄積が日本にはあった。

しかし家康は大名たちに媚びた土下座っぷりで天下を盗んでバカ幕府を作ったので幕府には力がなかったからペリー来たら呆気なく内乱へ向けて混迷。

関が原土下座外交の結果、
豊臣恩顧大名が20カ国で日本の1/3を支配。
伊達や毛利や上杉や毛利や佐竹など旧族外様大名達が1/3支配。
かろうじて徳川系大名は20カ国1/3支配したものの、
東海道など小国が多く面積レベルはかなり下回る劣弱な基盤しか徳川幕府にはない。
豊臣政権は立ち入り検地、太閤蔵入地設定、
与力大名による監視、
領地宛行において有力家臣の知行地や石高を指定し、
豊臣政権と有力家臣を結びつけ支配、
奉行による指南による内政干渉をしたり、
一国一円領有支配をできるだけ許さないなど、
秀吉は強力な全国支配体制を構築した。
しかし家康は立ち入り検地も蔵入地も大名家臣狙いの加増も廃止、
越後の溝口と村上の例外以外は与力大名廃止。
中小大名を移動させての一国一円支配の国持大名の増加による大名領有権の自立性の強化を背景に、
藩による分権自治を容認せざるを得なかったのが家康。
これは全て関が原で味方につけようと武断派に媚びた結果であり、
関が原が武断派によって勝利し、
西軍支持の北政所や淀とその意向で動いた女性たちも家康は処罰できず、
結果、武断派の奉ずる豊臣による論功行賞が行われ、
強欲武断派の要求を飲むハメになったからである。
幕府体制と呼ばずに幕藩体制と呼ばれる藩王による分割統治という弱体国を作ったのが家康。
0186人間七七四年2014/02/16(日) 17:36:43.35ID:wi7c9qmU
豊臣秀勝の娘の豊臣完子を妻に持つ九条幸家が23歳で関白に就任するという行動で
朝廷が仕掛けてきたので、天皇の義弟の摂関家秀頼を関白にさせる時に、
まだ秀頼は若いから関白はもう少し成長してからと言ういいわけができなくなったので、
家康は秀頼が23歳になる前に殺さなければならない立場に追込まれ
方広寺鐘銘事件をでっち上げて必死になっていた。
秀吉の養女を妻に持つ天皇の義弟にして摂関家の人物である秀頼を殺すなんて大逆無道なのは信長以下の所業だよな。
豊臣秀勝の娘を娶っていた慶長13年に九条幸家が22歳で関白に就任させて朝廷がしかけてきたので、
23歳で関白になれる年齢下限が設定され、
もはや若年だから秀頼に関白はまだ早いという言い訳ができない形にしたために、
23歳の秀頼が関白になる前に鐘の刻印に理不尽なイチャモンつけて、
必死に殺したのが悪辣老人家康。

はいはいw何でもかんでも秀吉が悪いとかアホですねw
それ実際は、吉川元春と嫡男の元長が行ったことだし。
しかも東大の家わけ文書の吉川文書の該当書状の注釈にも
吉川氏の豊前宇留津城攻略の戦功と解説してるし。
この千人の首を刎ね、男女残らず磔の残虐な殺戮を11/7に行ったあと、
11/15に元春が急死したので祟りにあったと騒いでるし。
元長もまた半年後に急死してるし。呪われたと思うのも当然。

看羊録の作者が日本に連行され伏見に来たのは秀吉が死ぬ寸前。
その前後の日本国内の話は信憑性が非常に高いが、
逆にそれ以前の話の信憑性は低い。
だから、看羊録作者は北条氏がいたことを知らずに、
相模の領主を代々引き継いでいる家康などと大きく誤認してるのが露呈している。
徳川のことと北条の内容を区別できずに混同し間違ったことを書いているため、
史料として採用出来るのは慶長期の記述のみである。
宣教師はずっと日本にいるから、それ以前の記録は宣教師の記述を利用すると良い。
しかしこれも条件付きであり、
秀吉が九州征伐後にキリシタン大名に棄教命令を出して、
宣教師や信者たちが天草に逃げ隠れてから、
宣教師の記録が秀吉を信仰を妨害する悪魔だと悪口三昧言い出すように豹変するから、
宣教師の記録は天正14年以降、 かなり秀吉についてねじ曲がったことを
書き連ねて罵倒していることに留意せねばならない。
0187人間七七四年2014/02/16(日) 19:19:26.79ID:eqHcQp7J
フロイスは京以西の秀吉の捏造フィルターを通した戦果とハッタリを間に受けまくって
秀吉をマンセーしまくってるよ。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1372941295/614-615
を見ればわかるが、そのまま秀吉の歪曲情報や、書状にもないハッタリばかりデッチあげて書かれてるほど
秀吉マンセーしまくってる。
そんな歪曲デッチあげ史料ですら、秀吉の悪魔的所業をつらつらと書きまくってるんだから、秀吉がいかに悪行の限りをつくしていたかわかるな
宇留津城の悲劇

秀吉による九州征伐において小早川勢を主力とする中国勢2万8千は
高橋元種の小倉城を攻略。高橋元種は筑豊の香春城に退却しさらな
る抵抗をしめしていた。

そのため中国勢は香春城の属城の宇津留城(現福岡県築城郡椎田町)
攻略に取りかかる。しかし宇津留城は周囲を深田と沼に囲まれた要
害の城であり、2万を超える中国勢も攻略に手間取り攻めあぐねて
いたのだった。

そんな中、城の周囲をうろつく1匹の白い犬が現れ、沼の浅瀬を泳
ぎ渡っているのを兵士が目撃する。報告を受けた小早川隆景は検使
の黒田官兵衛と相談の上、翌朝より白い犬が泳いで渡った地点より
攻撃を開始。

浅瀬を見つけた中国勢は数にものをいわせ1日で宇留津城を攻略す
るのだった。この宇留津城、城主の加来与次郎は討ち死に降伏した
男女約400名も見せしめのため全て磔になり処刑されている。
この磔になった遺体は城周辺で処理しきれず海に廃棄することにな
り、周防灘が赤く染まったそうである。
0188人間七七四年2014/02/16(日) 19:20:26.35ID:Yfy9opjo
フロイスは日本でキリスト教を広めたかったために日本の情報操作において最も広範な影響力を持つ秀吉の顔色を伺いまくり
元々秀吉のハッタリ誇大喧伝によって捏造された情報ばかりを事実かのように記すなど秀吉マンセーしまくってたが、
秀吉が禁教の構えを見せだすと、日本で秀吉の影響によって、キリスト教が禁止される事を恐れて
それまで全く書かなかった秀吉の本来の闇の部分をちゃんと事実として書くようになった。

フロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。

・三木城や鳥取城など中国地方の城で虐殺を繰り返す(信長の命令だったなんて根拠はない)
・恩を受けた主君を裏切って光秀と協力して暗殺し、協力した光秀を主殺しの汚名を負った隙をついてまんまとだましうちにする。
・恩を受けた主家を、主君不在、後継者不在、幼君、信雄や信孝の争い、家臣達の空中分解を利用し
煽りまくり主家をマンマと火事場ドロする。
・何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込む。何の罪もない織田信雄重臣の人質
・何の罪もない朝鮮にいちゃもんつけて攻め込んで、何の罪もない朝鮮人を殺しまくる
・何の罪もない養子の秀次やその一派や親族を殺しまくる。(他大名の親族らも殺しまくる)
・何の罪もないどころか、佐々攻めや雑賀征伐や家康との仲介など、恩が一杯あり
清洲会議後には臨時での織田家の後継者に利用させてもらった織田信雄をいちゃもんつけて改易する。
・佐々成政にいちゃもんつけて改易する。
・関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を殺しまくる
・里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護して守られる。
・宇都宮を改易する
・南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
・信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させる
0189人間七七四年2014/02/16(日) 19:21:11.09ID:dnhKGlv8
毛利軍は基本的に独自に虐殺の類は行わないから秀吉の命令によるものと見るのが妥当
そもそも毛利はとっくにその頃秀吉に臣従してて、秀包を養子に取るなど半分親藩みたいなもんだしな。
秀吉は中国遠征でも小田原合戦でも朝鮮出兵でも虐殺やりまくってるし
自分の血縁者でも、殺しまくる残虐非道の王だしね。
自分に従った宇都宮やら南奥州勢やら、主筋の信雄ですら改易したりしてるし
相当非道・残虐なのが秀吉

家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね

看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。

看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...

関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐

秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
0190人間七七四年2014/02/16(日) 19:25:28.26ID:dnhKGlv8
棚ボタだったのは家康ではなくむしろ武断派の方でしょ。
三成・小西ら西軍で戦った連中は実践経験少ないにもかかわらず
寡兵で黒田・細川勢およそ11000程度に互角以上の戦いしてたし
小西隊や宇喜多隊、大谷隊なんかも大軍の藤堂、京極、福島、古田・織田などを押し返したり
壊滅寸前まで追い込んだりと戦闘センス見せまくってた。
実践経験が少ないにもかかわらず東軍で戦ってた実践経験豊富な連中は苦戦してたんだし
戦闘センスでいえば三成小西大谷あたりのが遥かに上なのがわかる

結局家康が小早川らを篭絡してくれたから実力では全くと言っていいほど歯が立たなかった奉行衆らにたまたま運よく棚ボタ的に
勝てたし、小早川らを調略した家康のおかげで運よく領土が広がっただけ。

福島黒田藤堂らは戦闘が専門の武断派なのにもかかわらず、
戦闘が専門外の奉行の石田や小西や大谷らに翻弄されまくるアホっぷりだしなぁ
元々石田らは家康派だったのが、家康が西軍に喧嘩売りまくってたから、
都合よく利害が一致したおかげで恩を受けた豊臣家への忠心を忘れて
憎しみに凝り固まってた武功派は、たまたま運よく家康の元に参じる事ができ、
家康が毛利や小早川らを調略してくれたおかげで、自力では歯が立たなかった西軍奉行衆になんとか勝てただけ。
悉く棚ボタ金魚の糞大名なのが豊臣武功派連中。
家康のお情けで大版図を加増されたし家康の調略のおかげで武断派は奉行衆らに勝てただけ。
家康が外様に恩を売るため、大版図を一時的にやっただけだし後年になると馬鹿みたいに改易が増えてる
(つか関ヶ原合戦時ですら、家康によって改易された領土や減封された領土は数百万石に及ぶ)
秀頼もあっさり天下人の地位から60万石程度の領土にされてる時点で豊臣家は完璧に敗北してる。
三成・小西ら西軍で戦った連中は実践経験少ないにもかかわらず
寡兵で黒田・細川勢およそ11000程度に互角以上の戦いしてたし
小西隊や宇喜多隊、大谷隊なんかも大軍の藤堂、京極、福島、古田・織田などを押し返したり
壊滅寸前まで追い込んだりと戦闘センス見せまくってた。
実践経験が少ないにもかかわらず東軍で戦ってた実践経験豊富な連中は苦戦してたんだし
戦闘センスでいえば三成小西大谷あたりのが遥かに上なのがわかる

結局家康が小早川らを篭絡してくれたから実力では全くと言っていいほど歯が立たなかった奉行衆らにたまたま運よく棚ボタ的に
勝てたし、小早川らを調略した家康のおかげで運よく領土が広がっただけ。
0191人間七七四年2014/02/16(日) 19:26:03.96ID:eqHcQp7J
フロイスは日本でキリスト教を広めたかったために日本の情報操作において最も広範な影響力を持つ秀吉の顔色を伺いまくり
元々秀吉のハッタリ誇大喧伝によって捏造された情報ばかりを事実かのように記すなど秀吉マンセーしまくってたが、
秀吉が禁教の構えを見せだすと、日本で秀吉の影響によって、キリスト教が禁止される事を恐れて
それまで全く書かなかった秀吉の本来の闇の部分をちゃんと事実として書くようになった。

フロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。

・三木城や鳥取城など中国地方の城で虐殺を繰り返す(信長の命令だったなんて根拠はない)
・恩を受けた主君を裏切って光秀と協力して暗殺し、協力した光秀を主殺しの汚名を負った隙をついてまんまとだましうちにする。
・恩を受けた主家を、主君不在、後継者不在、幼君、信雄や信孝の争い、家臣達の空中分解を利用し
煽りまくり主家をマンマと火事場ドロする。
・何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込む。何の罪もない織田信雄重臣の人質
・何の罪もない朝鮮にいちゃもんつけて攻め込んで、何の罪もない朝鮮人を殺しまくる
・何の罪もない養子の秀次やその一派や親族を殺しまくる。(他大名の親族らも殺しまくる)
・何の罪もないどころか、佐々攻めや雑賀征伐や家康との仲介など、恩が一杯あり
清洲会議後には臨時での織田家の後継者に利用させてもらった織田信雄をいちゃもんつけて改易する。
・佐々成政にいちゃもんつけて改易する。
・関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を殺しまくる
・里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護して守られる。
・宇都宮を改易する
・南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
・信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させる
0192人間七七四年2014/02/16(日) 19:26:54.08ID:p7jyumUO
家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛大で慈悲深い性格だからなだからな
依田ら武田旧臣も信長は殺そうとしたところを、家康は命を救って家臣にしたし
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね

看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。

看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...

関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐

秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね

フロイス第二0章
私は毎日、かの暴君(関白)の卑劣で下品なことどもを数々話し聞かされ、ただただ驚き入るばかりであります。
彼は自らを汚濁と不浄の堆積と化してしまいました。と申しますのも、それ以外に彼を例えようもなく、彼を語り得ないからであります。
彼の野心はあまりにも増長し過ぎた結果、彼をして自らの高位とか尊厳を慮る事を許さぬばかりか、人間本来の勤めまでまったく忘れさせるに至りました。
かくて彼はもはや、人とは申せなくなり、獣よりも劣った物となり果てました。けだし彼には、いかなる環境の人に対しても片鱗の愛情すらなく、金銀を取り立てるためには万人を酷使虐待し
人々をば追放に処して、その封録所領を没収する有様で、彼には他人の封禄を横領するのに道理もなにもないのです。
日本の君候達は、関白の寵愛を保ち、滅ぼされまいとの一念から、心ならずも能力の許す限りの贈物を毎年彼に捧げるのですが、関白はすでに
0193人間七七四年2014/02/16(日) 19:27:34.99ID:p7jyumUO
フロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。

秀吉の行った悪行の数々

・三木城や鳥取城など中国地方の城で虐殺を繰り返す(信長の命令だったなんて根拠はない)
・恩を受けた主君を裏切って光秀と協力して暗殺し、協力した光秀を主殺しの汚名を負った隙をついてまんまとだましうちにする。
・恩を受けた主家を、主君不在、後継者不在、幼君、信雄や信孝の争い、家臣達の空中分解を利用し
煽りまくり主家をマンマと火事場ドロする。
・何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込む。何の罪もない織田信雄重臣の人質
・何の罪もない朝鮮にいちゃもんつけて攻め込んで、何の罪もない朝鮮人を殺しまくる
・何の罪もない養子の秀次やその一派や親族を殺しまくる。(他大名の親族らも殺しまくる)
・何の罪もないどころか、佐々攻めや雑賀征伐や家康との仲介など、恩が一杯あり
清洲会議後には臨時での織田家の後継者に利用させてもらった織田信雄をいちゃもんつけて改易する。
・佐々成政にいちゃもんつけて改易する。
・関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を殺しまくる
・里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護して守られる。
・宇都宮を改易する
・南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
・信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させる

秀吉が悪行の限りを付くしまくってたから全く人望がなく
最も豊臣に恩を受けた武功派連中まで東軍についたし、西軍は豊臣親藩の小早川や外様中で最も豊臣寄りの毛利家まで寝返るなど次々に篭絡されて
家康についた。だからこそあっさり家康は征夷大将軍取れたし
豊臣家はあっさり崩壊した。
0194人間七七四年2014/02/16(日) 20:47:32.95ID:Er5c9uPu
フロイスの捏造

>> 根来衆は秀吉に対して幾つか無礼を働き、ある陰謀をたくらんでいた
明らかに秀吉サイドの目線で、根来衆からいえば明らかに秀吉が自分らを迫害
>>秀吉は伊勢に入ると敵の諸城を包囲し始め、幾ばくかの苦労をしたが、武力をもってそれらを次々と陥落せしめ
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
>>敵方は長島と称する一城を残し国を挙げて彼に引き渡してしまった
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
>>秀吉の軍勢は同所(伊賀)から異常な迅速さをもって尾張に進撃し、犬山城はたちまち降伏
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
0195人間七七四年2014/02/16(日) 20:50:34.48ID:Er5c9uPu
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
>>三河の国主は夜に入ってからその新しい小牧城を出、天明を待って羽柴の甥の陣地を襲撃した。
明け方に行われたのは秀吉方先遣隊と池田勢との間で行われた岩崎城の戦いであって、家康が秀次の陣地を襲撃し合戦になったのはそれより大分後の
巳〜午の刻。
>> 三河の国主はこの勝利を博すると小牧城に戻った。すると羽柴(秀吉)はただちに2万の兵をもって同城を包囲するように命じた
そんな事全くやっておらず、小牧方面から目をそらして、大河に挟まれた進退の自由の利かない木曽川筋のデルタ地帯に家康・信雄を誘いだして
殲滅しようと岐阜城の秀勝につけた田中・伊藤・谷・石川・藤県に対し、岐阜から木曽川筋を長島に向かい12キロほど南下した所にある大浦城
への加勢を命じている(4/11秀吉→伊藤・田中・谷・石川)また、木造攻撃中の小島・榊原・田丸らに加勢する目的で津田・富田・八重羽らを派遣して
(4/12秀吉→津田・富田・八重羽)明らかに小牧方面への進出を諦め、伊勢や尾張北西部に戦局を転換しようとしている
>>こうした戦闘がすでに終わった頃になって、越前加賀能登から三万近い軍勢が羽柴を助けるために到着したが、秀吉はもはやそれだけの
>>大援軍は必要なしと認め、ただちに引き返させた。
>>羽柴がこのたびの戦いのために大阪を出発した後、根来及び雑賀と称する仏僧らは、彼の不在に乗じ、約1万五千名が一団となって出撃し羽柴が大阪に築いた新しい都市を
>>すべて焼き滅ぼしてしまおうと決意した。大阪を占拠した上はかつて信長が五年も六年も攻囲したかの石山本願寺の僧(顕如)を再びそこに
>>おらしめる事にした。敵(僧兵)は徐徐に前進し途中幾つかの場所を破壊したり焼いて行ったので、四日ないし五日かかった。
0196人間七七四年2014/02/16(日) 20:52:56.12ID:uKxRTCAM
秀吉は種なしで、側室を増やしまくっても子供が全くできずに焦ってたから
他家から養子を貰いまくって、後継者候補を増やす事で安心してた。
それをする事で、他家と自家の繋がりが密接になり、一体化する事ができるメリットもある、
それで、徳川家と豊臣家との一体化を測った結果、秀頼と千姫との婚姻を取り決め、
徳川が豊臣後継者という大義名分を血縁上でも得る事となり、家康はそのまま豊臣家を後継する事ができた。
0197人間七七四年2014/02/16(日) 23:52:13.83ID:RPgjdNtU
豊臣恩顧の武将で東軍ついた奴って
関ヶ原の合戦を名目上の豊臣vs豊臣の戦いだと本気で思ってたのか?
それとも決起の首謀者である石田三成に対する遺恨からか?
或いは豊臣の世より徳川の世を選んだということか?
家康の行動は野心丸出しで隠してないよな?
あれで気づかないとか普通に考えたら有り得ない
0198人間七七四年2014/02/17(月) 10:29:55.80ID:tsjOpQrl
むしろ豊臣恩顧の武将で西軍ついた奴って
関ヶ原の合戦を本当に豊臣vs徳川の戦いだと本気で思ってたのか?
家康以上に三成の行動が野心丸出しで隠していないだろう
つい少し前に関白の命を奪ってそれからすぐに筆頭大老の命を狙いだしたら
三成の狙いが天下簒奪であることはどんな馬鹿でも分かるはずだが
あれで気づかないとか普通に考えたら有り得ない
0199人間七七四年2014/02/20(木) 12:16:28.53ID:XHSDXlqM
つうか秀吉恩顧の連中程秀吉が信長の死後伸し上がってく様を見て育ったんだから
天下は一番強い奴が治めるべきって意識だったろうよ。
その流れの中でなんとか秀頼が生きる道を模索してたのにすべてブチ壊しにしたのがKYの石田。
0200人間七七四年2014/02/20(木) 14:13:28.59ID:2kOYf+37
基本的に豊臣の中での忠心である石田小西大谷らは西軍についてるからそれはない。
0201人間七七四年2014/02/20(木) 14:24:07.27ID:BCse/FpC
豊臣家が滅亡したのは、秀吉が広大な版図持ちながら自力ではどこにも勝てず上杉佐竹毛利長宗我部木曽小笠原真田石川水野十河河野大友龍造寺前田
柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権だったおかげ。
所詮自力で取った天下じゃないのであっさり徳川に敗戦し潰されたのが史実
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)

7倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗だろ

わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒して
責任を池田森らに押し付けるとか基地外だな
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな

秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるしさすがに別働隊だから秀吉の責任じゃないとか全くそれは言い訳にならん
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな
0202人間七七四年2014/02/20(木) 14:24:41.55ID:MluOVdSm
秀吉は元々あった対立関係利用して漁夫の利得ただけ。中身のないゴミ政権だからすぐにボロが露呈した。
信長に従い土下座外交してた氏政が秀吉に従わなかったのも秀吉の実力のなさを見抜いてたからだろうな
本能寺時点でも光秀が運良く信長を打ち逆賊の汚名被り毛利も運良く追撃せず
柴田戦でも運良く勝家が雪で動けないのを利用し勝家と勝豊の運よく不仲なのを利用し寝返らせ
運良く権力基盤が弱い信孝を攻め運良く稲葉を寝返らせてへタレ前田が運よく軍を引きやっと勝てただけ
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり
陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚。そういう優位な状況は秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。

長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、真田
石川の場合は秀吉の威信が強大になっていたのが大きく小笠原は石川が小笠原の人質もって逃げたから寝返った。
水野は元々外様だし石川と同じく秀吉の威信が高まりすぎたのが原因だろうな。
どれも秀吉が自力で作ったというより運よく強大な勢力を持てたのと元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ
よく秀吉は城攻めの達人とか人たらしの名人とか言われるがこれも間違い。どこの大名でも漁夫の利を狙うような芸当はやってるし
城攻めに関しても鮮やかと言われるのは対中国戦くらいだろう。しかも水攻めといい兵糧攻めといい時間や金ばかり無駄に浪費した下策でこんなもんは織田家が
経済的に圧倒的なものをもってるからなせる芸当。少数しか兵のいない忍城や竹ヶ鼻城、紀州の城を正攻法で瞬殺できないのは終わってる
0203人間七七四年2014/02/20(木) 14:25:54.57ID:OGUNJOkt
秀吉の天下自体100%棚ボタでしょ
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入で
ぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多く
あつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
0204人間七七四年2014/02/20(木) 14:27:09.96ID:C3V2yBer
そもそも単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
0205人間七七四年2014/02/20(木) 14:27:53.57ID:TthYq9iy
確かにそれはいえてるね。そういう中身0で配下の諸大名の力に頼りまくった傀儡的な棚ボタ他力本願の政権だからこそ
本人の死後あっさり崩壊したんだろうね
0206人間七七四年2014/02/20(木) 14:28:41.80ID:OGUNJOkt
家康の戦歴…大国今川相手に西三河数万石そこそこの所から吉良・今川の大軍相手に勝ちまくり三河一向一揆でも大勝。
その後も最強武田軍団相手に敢闘し、信長を滅亡寸前に追い込んだ大敵朝倉を大破した上に、戦上手の武田勝頼を多いに疲弊させ、
信長死後は甲斐信濃を巡り北条氏直の大軍相手に勝利。その後豊臣軍135000に対し織田信雄含めても16000そこそこの寡兵で豊臣軍を一万人戦死させる大勝利をあげた上に
秀吉はビビリまくって信雄相手に顕如送って必至に取り成しを懇願し、さらに自国の15分の1の国力しかなく、木曽小笠原石川水野真田の離反とそれによる軍事機密露見と
天正大地震と天正11年からの徳政令連発で領国が崩壊した家康にも母と妹を差し出すヘタレっぷり。
さらに関が原では畿内だけで18万もいる豊臣の大軍を大破する大勝利w
大阪の陣でもあれだけ規格外の堅固で大規模な城郭&城攻めとしては少ない2倍いくかいかないかくらいの兵力で短期間で大勝
信長の戦歴…チート尾張斯波家継ぎながら幼君でガタガタの斉藤領火事場泥棒しようとしたらまけまくり
長島侵攻では3回も敗北し餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ち&数万の大軍で一門10人以上殺されるなど負けまくり
本願寺攻めでも大苦戦し武田にも上村合戦や東美濃攻防で敗北し信玄在世中は追い込まれる一方で滅亡確定、
最後は光秀に殺されて死亡

秀吉…小牧長久手で家康より遥かに戦下手で織田家で最も無能で伊賀攻めに失敗し信長の勘気蒙り縁を切られそうになるアホ信雄に135000の大軍で挑んで
1万人殺される大敗。その後の攻防も二重堀・蟹江・前田・下市場・松ノ木・浜田・長久保・東駒野・河波・神戸攻防で敗北
二重堀合戦では防衛戦にもかかわらず1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられる
蟹江・前田・浜田・下市場・長久保・神戸は秀吉方本陣から程近い距離にあるにもかかわらず見事に寡兵の信雄に奪回される
結局実力では全く歯がたたず信雄・家康に顕如使って土下座してなんとか和議までこぎつける
北条氏直…神流川で織田家トップクラスの滝川の18000を24000そこそこで10倍の被害差で大破
朝倉義景…信長を滅亡寸前に追い込む。姉川の合戦では浅井軍は織田を押しまくり当時の織田四天王の一人の坂井の息子を討ち取る
勝頼…「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死と織田徳川を寡兵で圧倒しまくる
一揆勢…信長の数万の大軍を餓死寸前のところで騙まし討ちかけられた状態でわずか数百の寡兵で織田一門10人以上討ち取る


以上をまとめると勝頼>>>>家康>>>氏直>>>>>滝川>>>>>一揆勢・朝倉>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
0207人間七七四年2014/02/20(木) 18:53:03.84ID:2VRSYr1K
家康ほどの棚ぼた大名はいないね。
棚ぼただから、とにかく武功なんてものがロクにない。
だから家臣団も全く加増されるような感状がほとんど無い無い無い。
勝って切り取った領地が無い無い無い。
とにかく極限まで棚ぼた領地拡大大名が家康。
それを証明するように、関東移封になった時の3万を超えた家臣なんてほとんどいない。
12万石の井伊直政
10万石の結城秀康、榊原康政、本多忠勝
4万石の鳥居元忠、大久保忠世
3万3000石の平岩親吉
3万石の松平康貞、奥平信昌、酒井家次、大須賀忠政

たったこれっぽっち。
あとは戦力にすらないザコ。
当時、10万石を超えていない大名の意見は聞かれない、発言権が無いとされて無力扱いされていた時代だからね。
棚ぼた領地だから、家臣の武功によって領地加増する必要性が無かった。
だから家康は100万石の蔵入地を持ってた。
しかも井伊直政なんて戦経験もロクにない新参のガキ扱いされてたくせに、
家康の尻を突いてブッチュウってディープキスしただけで、
意味不明な加増してもらった挙句に最大領地だよw
結城秀康は秀吉の養子だからだしよ。
松平シリーズなんて武功ではなく、親族だから加増になってるだけ。
もうね、家臣団は誰も家康との石高差が激し過ぎて奴隷だよ奴隷。
ほんとケチ家康の家臣団なんてやってた三河武士はバカだね。
徳川家臣団なんてぶっちゃけ清正だけで勝てるレベル。
当時、もっともハンパねぇ勇猛さで恐れられていたのは清正と忠興の二人だったからね。

確かに家康って感状をほとんど出してないんだよな。
3万石の松平康貞=依田信蕃の次男説が事実だとしたら、
武田旧臣で真田調略して北条氏直の背後を閉じた父の功績だけで、
速攻で徳川家臣8位だしね。
奥平信昌に至っては長篠の戦いの後に、
調略の条件になった家康の長女との婚姻関係だけが理由だからね。
0208人間七七四年2014/02/20(木) 18:54:42.07ID:2VRSYr1K
むしろ榊原康政と本多忠勝って、
家康より5歳歳下の子飼いなだけで、
武功らしい武功がまるでないよね。
鳥居元忠は家康の4歳上、
平岩親吉は家康より1歳歳上で、
家康を弟として守り支えた側近中の側近小姓として苦労を共にしていたから完全に今までありがとう功労賞だろうし。
大須賀忠政の場合は実父が榊原康政だからだし。
大久保一族なんて三河物語で誇張されてるだけで実体はよくわからん典型。
ただ徳川家の場合、家康との関係が近くて、ほぼ三河以来の小姓側近からの子飼いじゃないと万石大名になれない。
ホモ関係だけで家中第一にのし上がった井伊直政は例外中の例外。

そもそも三河一向一揆なんて大したこと無かった。
そもそも西三河の安城周辺だけの話なのに、なぜか三河全域の一向一揆のように描いたり、
すごかったように見せてるのは大久保一族の功績を強調しようとする三河物語の超誇張。

家康って秀吉との天正12〜13年戦役で、
信雄、雑賀衆、高野山、長宗我部、佐々を奪い取られて、
秀吉に追い詰められて縁戚にしてくれたら上洛するから許してって懇願した人だからね。
自分の保身だけに固執してただけ。


数字じゃなくて、
一揆に参加した人名を根拠をつけて列挙しろと書いてるだけなのに、
必死に誤魔化して逃げようとするなよwww
なんら根拠が出せないで逃げようとしてるあたり、
やっぱり三河一向一揆との戦いなんて大したことは無かったってことで結論だな。

家康の三大危機のうち、
三河一向一揆と伊賀越えの二つは捏造歪曲だからな。

で、具体的に徳川家臣を二分したという顔ぶれは誰なの?

本多隆成氏
「三河一向一揆が起こったのは永禄6年の秋からで、
翌年のはじめまでのほぼ半年間」
すぐ解決されてるwww
「本来ならば一家衆寺院として一揆を指導すべき本宗寺の住職が不在であり、
いわば統一的な司令部がなく、各人ばらばらの戦いになったことである。
さらに門徒武士達の多くが、家康が出てくれば逃げるというような有様では、
とうてい勝てようはずがなかった」
主君家康とは絶対に戦わない自作自演の戦いwwww


家康がガチでやばかったのは信玄との三方ヶ原の戦いと秀吉との天正12年戦役の二つの時だけだからね。
あとは常に棚ぼたの超イージーモード。
0209人間七七四年2014/02/20(木) 18:56:46.81ID:2VRSYr1K
遠江国人の大反乱で駿河から孤立した三河を棚ぼた。
武田の駿河攻めで、遠江が棚ぼた。
織田の武田征伐で、家康は大苦戦。北条が順調に侵攻したのに、
信長から駿河をもらい棚ぼた。
上杉軍の川中島南下と武田旧臣の依田が信濃佐久郡〜上野沼田エリアを支配していた
真田を北条から離反させた為に、
北条氏直が挟撃され上野国へも帰れなくなり孤立し和議になり信濃と甲斐が棚ぼた。
婚姻先の北条が滅亡し関東移封で国人家臣団の官僚化が進み棚ぼた。
秀長が死去し、秀次が自滅し、利家が死去して、いつのまにか大老筆頭で棚ぼた。
会津征伐をする家康を無視放置して、
三成を討ちに西上した武断派が三成を大垣に包囲して追い詰め、
関ヶ原でも秀忠が来援しないうちに、主力の武断派が勝利し、天下様の棚ぼた。
清正や浅野長政親子などが相次いで死去して勝手に豊臣側の戦力が大幅弱体化で棚ぼた。




またアンチ秀吉のキチガイ織田チョンが暴れているのかよ。
ガチうぜぇ。だいたい秀吉は天正12年戦役の結果、
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww

秀吉に嫡男を人質に出した酒井は徳川四天王筆頭じゃん。
最古参筆頭として石川数正と同格。
他の四天王って言っても本多忠勝と榊原康政は21歳も差があって親子並に離れていたし、
井伊直政に至ってはさらに13歳下。
本多重次も譜代最古参で三河三奉行の1人で民衆に慕われた行政のスペシャリスト。
つか出世より家康へのイラつく直言で有名で、
その命を惜しまぬ直言ぶりで三河武士の見本と呼ばれ鬼作左と言う名前の方が有名。
おかげで北条征伐後間もなく蟄居になってるからあまり有名になってないだけで、
一筆啓上、火の用心〜の日本一短い手紙でも有名で、
現存天守が残る福井県の作左の嫡男が封じらた丸岡城の宣伝文句にも採用されてる。

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
0210人間七七四年2014/02/20(木) 18:57:44.52ID:2VRSYr1K
アンチ秀吉の織田チョンは相変わらずバカだねw
天正15年正月時点で、
本多重次は岡崎城代で、
酒井忠次が吉田城代なんだけどwww
天正17年6/22時点ではまだ重次は岡崎城代を続けているのがわかる。
その後は不明になる為、失脚したと言われており、
天正17年末から小田原征伐準備が始まり、
天正18年3/21の時点で徳川方の城は次々と秀吉に接収されていき、
京衆先罷下、三?遠?駿城々請取妻子以下迄押出候、
〜省略〜久能城二家康之御一類御入候、是モ押出ト申口二候
などと徳川一族も追い出されている状況下で、
4/2には秀吉が吉川広家に岡崎城を受けとるように命じている為、
秀吉と重次がトラブって失脚したとされてる。
その為に関東移封では蟄居となってる。
そもそも関東移封する前の徳川家臣の石高は重次だけでなく全員が全く不明なのも知らないで、
他の家臣と石高比較してる辺り、
ガチで無知なんだなwww

調略をかけてくる秀吉との最前線の岡崎城を任されてるのが重次だからねぇ。
信頼が置ける絶対に離反しない頑固者の鬼作左が選ばれたんだろうねぇ。
その代わり過激過ぎて秀吉の怒りを買ったんだろうね。

天正16年には酒井忠次が家督を譲ったりしてるから、
秀康問題が絡んでるでしょ。
本多重次の蟄居先も結城藩の近くに変更され、
息子は秀康に付いて越前に移動してるからな。
岡崎衆は信康事件や秀康擁立などで、
家康から苦湯を飲ませられてるからね。
石川に続いて秀康を支持してる三河が秀吉に寝返る可能性が高かったんだろ。

信濃の新領と父祖の地三河じゃ全く違うだろ。
特に新参外様と違い、三河武士を統括してる西三河の岡崎城本多と東三河の吉田城酒井は別格。
浜松城にいる家康に次ぐ序列だろ。

秀吉が従属した家康が裏切らないように、
徳川政権超重要人物から人質を取ってるのに、
新参新規家臣の信濃の諸将から人質を取っても家康の意向に影響力無いんだから、
そんな人質は意味ないだろ…
だいたい新参者から秀吉へ人質を出させるってことは、
そのまま家康を見限り秀吉に寝返りされるだけだろ。
重代の忠義がまだ無いんだから。
0211人間七七四年2014/02/20(木) 18:58:47.55ID:2VRSYr1K
酒井、石川、本多からも人質を取って、
家康を従属させた秀吉は、
家康の同盟相手だった雑賀衆、高野山、長宗我部、佐々を討ち従えた。
しかも佐々を討った際に、
秀吉は家康に佐々の本領安堵してやる代わりに、
お前はさらに人質を出せや!と言われる始末。
従属したくせになかなか上洛して挨拶に来ない家康を、
秀吉は表裏と捉え始め、
上洛しないなら、さらなる人質提出を要求。
怖いので上洛したくない家康は家臣を集めた大会議をして家臣らに人質を出すよう説得。
そして秀吉も美濃での緊張を高めて、
家康を圧迫しまくる。
家康は家臣説得に失敗し、
これを契機に徳川を見限った石川が豊臣へ逃亡。
同時期に小笠原も秀吉に寝返り、高遠の保科を攻め始める始末。
ついに進退極まった家康は、秀吉の信雄に懇望し、
秀吉と婚姻して縁戚になったら上洛しますと土下座。
しかしやっぱり殺される恐怖から上洛を躊躇する。
秀吉は天皇即位式には義弟家康を出席させようとしていた為に、
天皇のため、自分の母を、義弟家康の上洛中だけ限定の人質に出すことにして朝廷の面目をたてた。


柴裕之氏
石川数正の徳川氏からの出奔について
「指南下にあった貞慶の離反という政治情勢と、
これに伴い徳川家中において政治力を失ったことを起因とした事件であったことが言える」

つまり小笠原が先に離反し、その後に秀吉に徳川家臣団が追加人質を出す説得に失敗した石川が離反。


つかさ、
そもそも、
秀吉の母を人質に
出したときって、
徳川家臣団の
女房衆を
尾張に
差し出しまくってから
やっと秀吉の母が、
三河に
入国したんだよな。
それを記さない本が
あまりにも多く、
このキチガイみたいなやつが、
曲解する隙を
与えているわな

wwww
0212人間七七四年2014/02/20(木) 19:53:14.88ID:2VRSYr1K
信長の譲位要求の脅迫では仙洞御所すら造ろうとしない悪魔のような所業だけど、
秀吉は家康と戦っている最中であっても、正親町天皇が譲位の思召を伝えると
すぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してるからなー。
譲位と新帝即位は天正14年(文禄元年)
正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく、
本多隆成氏ですら定本徳川家康の中で、
天正12年12/12には秀吉への人質(養子ともいう)として、
第二子於義伊(のちの結城秀康)が浜松を発つ
などと書いているのになwww
家康が人質なんて出してない!なんてキチガイ主張してんのは在日織田チョンだけwww

天正12年戦役の結果、圧倒的な秀吉からの征伐から逃れる為、
家康や家臣らは秀吉に人質を出して属した。
人質を得て家康の服属を以って東国平定がなった秀吉は、
背後を気にする必要もなく、
安心して紀伊和泉の惣国一揆や四国や越中と言った親家康勢力を全て制圧した。
いにさらなる追加人質を要求した秀吉は、
征伐されたくない家康が言いわけをして人質提出先送り曖昧うやむや化を狙う態度を表裏と捉えた。
実際、家康は家臣団とさらなる人質提出において家臣団の同意意見統一がまとまらず破談していただけである。
それは秀吉による徳川家臣団離間への揺さぶり術でもあり、
石川は意見統一出来ない家康を見限って逃げた。
2月までに秀吉の怒りを解かないと徳川は滅亡確定である。
秀吉は家康取次の信雄を通して人質提出ではなく、家康本人の上洛の要求にハードルが上がり始めた。
意見統一が出来ない家康は2月寸前ギリギリに至り信雄に秀吉への斡旋を懇願し岡崎で降伏条件の最終会談をして、
秀吉との婚姻を条件に、さらにハードルをあげられた自らの上洛するリスクを約束して秀吉政権への完全臣従を申し入れ征伐を免れた。
しかし上洛したら殺されると恐怖する日々が家康を襲うことになる。
秀吉は早く朝鮮出兵したくて仕方がなく、
家康の小心っぷりが際立っていた。

秀吉は母を10/18に三河岡崎に送り、11/1に家康がやっと上洛してきて、
秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に正三位に任じてもらい、7日に譲位と新帝即位式典と間に合わせた。
家康がグダグダ言ってたから母を送ってまで、後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉はやはり凄いよ。
11日、秀吉は大友支援で筑前に入った黒田や小早川と吉川の陣に検使として森吉成を派遣、
12日には前日に岡崎に着いた家康が早速、井伊直政を護衛に秀吉の母を大坂に送ってる。
新天皇の威令を広める為に自分の母を公を優先し人質に出す秀吉の忠勤の姿勢は素晴らしい一方、
私を優先するヘタレびびり家康の天皇への不忠っぷりは非難されるべき。
0213人間七七四年2014/02/20(木) 19:56:28.82ID:2VRSYr1K
天正13年1/3に顕如が秀吉に使者を送った時は秀吉と人質秀康、誠仁親王にも挨拶してるな。
家康と徳川家臣から人質を取った秀吉は親家康だった紀伊和泉雑賀&長宗我部征伐のため出馬し
4/2には景勝に同じく親徳川の佐々成政討伐のため出馬を約束し、
4/3には紀伊雑賀にいた秀吉の陣所に顕如と教如が陣中見舞いし、
4/10には秀吉がついに高野山真言宗総本山金剛峯寺に到着し、
4/14に紀伊和泉平定と四国征伐宣言を小早川隆景に通知。
4/17には信雄と秀康も雑賀陣に到着。22日に秀吉が大坂へ凱旋しに出立。
4/25に信雄が四国出陣準備を命令。
5/4秀吉が摂津中島渡辺の地を顕如に与えて、顕如の大坂移転と近江末寺門徒による伽藍造営を始め、
本願寺の再興がなされたのであった。そして秀吉の卓越した戦略で家康はあっという間に完全孤立してしまった。
信長があれほど苦戦しまくった紀伊惣国一揆をいとも簡単に制圧してみせたのである。さすが天才である。

信長の譲位要求の脅迫では仙洞御所すら造ろうとしない悪魔のような所業だけど、
秀吉は家康と戦っている最中であっても、正親町天皇が譲位の思召を伝えると
すぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してるからなー。
譲位と新帝即位は天正14年(文禄元年)
正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく、
秀吉は母を10/18に三河岡崎に送り、11/1に家康がやっと上洛してきて、
秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に正三位に任じてもらい、7日に譲位と新帝即位式典と間に合わせた。
家康がグダグダ言ってたから母を送ってまで、後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉はやはり凄いよ。
11日、秀吉は大友支援で筑前に入った黒田や小早川と吉川の陣に検使として森吉成を派遣、
12日には前日に岡崎に着いた家康が早速、井伊直政を護衛に秀吉の母を大坂に送ってる。
新天皇の威令を広める為に自分の母を公を優先し人質に出す秀吉の忠勤の姿勢は素晴らしい一方、
私を優先するヘタレびびり家康の天皇への不忠っぷりは非難されるべき。
0214人間七七四年2014/02/20(木) 20:26:02.30ID:oQJB3zMh
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。

石川→天正12年時点で秀吉に篭絡されかかってて完全な秀吉親派。
三河物語で小牧合戦に勝利後秀吉を襲うぞ!と息巻いてる本多らに対して石川は秀吉に篭絡されてたから
反対してやめさせたという逸話が書いてるが、嘘くさいようだが、下記のように本当に秀吉と連絡をとりあっていたようだ
6/10秀吉→石川
去八日御状今日十日竹鼻で拝見しました。前より散々よい機会がなく、あなたのご家中宿老衆は言うに及ばず
下々の者まで存じる事になるため、音信をなし、馬・鎧1走御意にかけられ、自然家康の耳に入れられ
その方に相届かぬように候へは、如何しき候条、これにより、後の書状は下々の者まで通達は無用だ。
堀秀政より申し知らせる。 恐々謹言

本多→奉行衆の下っ端で、ろくな影響力もない雑魚。雑魚の人質なんてあげたって、家康と秀吉の上下関係の証明には全くならない。
0215人間七七四年2014/02/20(木) 20:26:27.39ID:BCse/FpC
石川は天正12年春の時点ですでに秀吉に篭絡されつつあったのが三河物語や松平記6/10秀吉→石川
でわかるし
小笠原は石川が小笠原の人質を連れて秀吉の元に逃げ込んだから鞍替えしただけ(織豊政権と東国、小笠原貞慶考)
木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
11/15家康→氏直 去13日石川数正が尾張に退散し信州小笠原貞慶の人質を召し連れ上方申合子細ニ付〜
12/14家康→保科正直で石川出奔に同調した小笠原貞慶との戦闘における戦功を賞している
今度小笠原大夫逆意を企てその表相動く処、一戦を遂げられ敵随一の者数多被討捕由〜
実際に小笠原が離反したのは石川の出奔後だろ。12/14家康→保科で「今後小笠原大夫逆意を企て」
などと書いてて、小笠原が出奔してから間もない事だとわかるし

家康は秀吉の威圧行動と対真田の敗戦や上杉景勝の川中島侵攻や天正13年夏の領内大地震や木曽小笠原石川水野真田の離反とそれに伴う領国機密露見
といった、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw
0216人間七七四年2014/02/20(木) 20:26:54.65ID:TthYq9iy
正しい年表は以下の通りね。
秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
0217人間七七四年2014/02/20(木) 20:27:33.24ID:MluOVdSm
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな

>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。
0218人間七七四年2014/02/20(木) 20:30:20.15ID:DgAzMAWA
看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。


翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。

>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる

下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
0219人間七七四年2014/02/20(木) 20:31:23.89ID:DgAzMAWA
>>秀吉から表裏と捉えられかねない状況に追い込

表裏も糞も、最初から単に停戦和睦して養子を出しただけなのを、秀吉が勝手に人質だの臣従だの勘違いして家康にいちゃもんつけてただけじゃん。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ

>>自分可愛さの家康は上洛したら殺されるとビビっており何とか誤魔化していたが

下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。

>>背後を気にする必要もなく、
>>安心して紀伊和泉の惣国一揆や四国や越中と言った親家康勢力を全て制圧
家康に土下座して和睦した隙をついて、孤立無援の、雑魚国力の勢力をこれ見よがしに棚ボタ的に火事場ドロしただけじゃん。
豊臣の国力からいえば各地に散在する勢力なんて蟻みたいな雑魚でしかないんだし家康に土下座して和議を結んで、孤立無援にさせた上で、その隙にドロボウしただけ。
>>征伐されたくない家康
どこにそんな事が書いてあるんだよアホ。
対真田の敗戦や、天正大地震や、天正初頭からの領内の天災の連続(家忠日記に毎年のように洪水や堤防の決壊などが起こってるのがわかり
家康の徳政免除の文書はこれに対応するためと久保田氏が書いてる)や木曽小笠原石川水野真田と立て続けに離反し続け
徳川領国は軍事機密も露見し丸はだかになった後ですら、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、
天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw
0220人間七七四年2014/02/20(木) 20:31:47.45ID:BCse/FpC
>>言い訳をして人質提出先送り曖昧うやむや化を狙う態度を表裏と捉えた。
言い訳ってなんだそれ(笑)いつものお前の妄想か?
最初から家康は人質なんて出してねーよクズ
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

>>秀吉は臣従の証として上洛を要求して威圧しており天正12年戦役で家康から人質を取り臣従させた

家康は臣従なんてしてねーよボケ。
停戦しただけなのを家康が土下座したとか曲解したり
養子を人質とかデッチ上げたり秀吉厨の脳内は相当腐ってるな。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
0221人間七七四年2014/02/20(木) 20:32:10.51ID:MluOVdSm
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

>>臣従の証として家康の上洛を要求
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな


翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
0222人間七七四年2014/02/20(木) 20:32:33.35ID:DgAzMAWA
>>佐々の領国安堵と家康重臣のさらなる人質提出のどちらか選べと最期通牒を突き付
そんな事全くやってない。
>>家中を纏められない家康に呆れた石川数正もヘタレ家康を見限り11月に秀吉の元に走
石川は天正12年の長久手合戦の頃から秀吉に篭絡されかかってたし、別に家中をまとめられないから逃げたとか関係ない。
秀吉のお得意のヘタレ土下座が功を奏して、大した相手でもないのに石川は過大評価してただけ。
>>秀吉は見せしめに閏8/13に丹羽長重が越前加賀を召し上げをやって威を示していたから
>>丹羽は若狭12万石に減封にされた姿に家康も上洛しなかったら自分も丹羽家のようになると恐怖
丹羽みたいな雑魚と、家康や信雄は全く違うからその比較は根拠にならない。

史実で秀吉は家康はおろかザコの信雄に負けまくったから会戦になったり100%負けるのは秀吉だろ。
何せ小牧長久手合戦時は北条の変身の風聞や上杉の川中島侵攻で家康はわずか8000程度しかつれてこれなかったにもかかわらずあの圧勝ppるいだったからね。
秀吉方のは135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ

>>信雄は秀吉は佐々も潰すけど、お前どうすんの?って家康へ最後通牒を叩き
そんな事全くやってない。信雄は家康に秀吉は秀康を全く人質としては扱ってないよ。
だから秀吉にもっと人質出して臣従してしたら?と、家康にビビリまくった秀吉の必死の土下座要請に応じて、取り成しをやってただけ。
秀吉の家康討伐の際(天正14年初頭)にも秀吉は信雄に取り成しやってもらって母や妹まで送って必死に戦い避けてるし。
>>さらなる人質を出して秀吉の騎下に服しない場合は、討伐する
そんな事信雄の文書に書いてねーよクズ。
>>家康はビビッた
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
0223人間七七四年2014/02/20(木) 20:34:03.02ID:MluOVdSm
>>あまりにも見事かつ完璧に秀吉に敗北した事を意味した。
家康に土下座和睦して後ろの心配をなくした上に上杉や毛利や宇喜多や木曽らの力に頼りまくって
雑魚イジメした事の何が敗北なんだよアホ
>>紀伊惣国一揆を従属させた秀吉は彼らの船を総動員してすぐさま四国に攻め寄せ圧倒
これも信雄や家康が怖くてビビリまくって、和睦した隙に、少しでも敵領土を削って味方を強大にするために雑魚イジメしてただけじゃん。
>>秀吉が天才と呼ばれる所以は高野山を速攻で制圧
当時の秀吉の領土は畿内一円に、毛利・上杉・宇喜多・木曽・信雄。
高野山なんて10万石いくかいかないかわからん雑魚なんていじめて何が凄いんだよタコ
>>第二陣として出陣してきた信雄と秀康らの軍が雑賀に着陣してきた時にはすでに平定してしまっていた程の巧者
はぁ?秀吉軍畿内総結集すれば15万くらいいくだろ。
5000もいくか怪しい高野山なんて、馬鹿でも叩き潰せるわwこんな指揮采配能力と全く関係ない雑魚イジメで
将の資質や戦のうまさなんてとわれねーよクズ。
そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
0224人間七七四年2014/02/20(木) 20:35:20.75ID:CNuPVJaa
家康は臣従なんてしてねーよボケ。
停戦しただけなのを家康が土下座したとか曲解したり
養子を人質とかデッチ上げたり秀吉厨の脳内は相当腐ってるな。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
0225人間七七四年2014/02/20(木) 20:35:54.80ID:CNuPVJaa
>>石川数正や小笠原らが家康を見限り、秀吉陣営に鞍替え

石川は天正12年春の時点ですでに秀吉に篭絡されつつあったのが三河物語や松平記などでわかるし
小笠原は石川が小笠原の人質を連れて秀吉の元に逃げ込んだから鞍替えしただけ(織豊政権と東国、小笠原貞慶考)
木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
ウザイからさっさと出てけよクズ野郎
>>和睦を成したあと、秀吉に上洛して来いと言われた
そんな事秀吉は言ってない。秀吉は直前まで出兵計画立ててたが
いざとなるとビビリまくって、信雄送って仲介やってもらった上に母や妹まで差し出して必死に土下座して戦いを避けただけ。
>>殺される恐怖から上洛だけは嫌がるヘタレ家康。
殺される恐怖ではなく、秀吉をナメくさって暢気に過ごしてただけだろ。前年には北条との同盟強化や浜松会談など、
秀吉の三河出兵計画や、木曽小笠原石川水野真田の離反や逸れに伴う軍事機密露見や天正13年夏の大地震、対真田の敗戦など
種種の領国崩壊要素があったにもかかわらず、秀吉の討伐計画に対して、全く危機感0で暢気に無視していただけなのが家康。
>>天皇の譲位と新帝即位の晴れの舞台を演出したい秀吉は自分の母を三河に遣わし
妄想乙。家康が怖くて母や妹を差し出したのを、晴れの舞台を演出するためとか曲解乙。
家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
0226人間七七四年2014/02/20(木) 20:37:01.96ID:MluOVdSm
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな

ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
>>秀吉が好意で家康からの人質を養子とした
いやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。
0227人間七七四年2014/02/20(木) 20:38:09.55ID:MluOVdSm
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
>>秀吉が好意で家康からの人質を養子とした
いやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
0228人間七七四年2014/02/20(木) 20:41:13.36ID:BCse/FpC
>>臣従の証として家康の上洛を要求
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。

>>天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
0229人間七七四年2014/02/20(木) 20:41:52.70ID:TthYq9iy
>>自分可愛さの家康は上洛したら殺されるとビビっており何とか誤魔化していたが

下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな

>>秀吉から表裏と捉えられかねない状況に追い込

表裏も糞も、最初から単に停戦和睦して養子を出しただけなのを、秀吉が勝手に人質だの臣従だの勘違いして家康にいちゃもんつけてただけじゃん。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ

>>佐々の領国安堵と家康重臣のさらなる人質提出のどちらか選べと最期通牒を突き付
そんな事全くやってない。
>>家中を纏められない家康に呆れた石川数正もヘタレ家康を見限り11月に秀吉の元に走
石川は天正12年の長久手合戦の頃から秀吉に篭絡されかかってたし、別に家中をまとめられないから逃げたとか関係ない。
秀吉のお得意のヘタレ土下座が功を奏して、大した相手でもないのに石川は過大評価してただけ。
>>秀吉は見せしめに閏8/13に丹羽長重が越前加賀を召し上げをやって威を示していたから
>>丹羽は若狭12万石に減封にされた姿に家康も上洛しなかったら自分も丹羽家のようになると恐怖
丹羽みたいな雑魚と、家康や信雄は全く違うからその比較は根拠にならない。

史実で秀吉は家康はおろかザコの信雄に負けまくったから会戦になったり100%負けるのは秀吉だろ。
何せ小牧長久手合戦時は北条の変身の風聞や上杉の川中島侵攻で家康はわずか8000程度しかつれてこれなかったにもかかわらずあの圧勝ppるいだったからね。
秀吉方のは135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
0230人間七七四年2014/02/20(木) 20:43:47.42ID:C3V2yBer
>>信雄は秀吉は佐々も潰すけど、お前どうすんの?って家康へ最後通牒を叩き
そんな事全くやってない。信雄は家康に秀吉は秀康を全く人質としては扱ってないよ。
だから秀吉にもっと人質出して臣従してしたら?と、家康にビビリまくった秀吉の必死の土下座要請に応じて、取り成しをやってただけ。
秀吉の家康討伐の際(天正14年初頭)にも秀吉は信雄に取り成しやってもらって母や妹まで送って必死に戦い避けてるし。
>>さらなる人質を出して秀吉の騎下に服しない場合は、討伐する
そんな事信雄の文書に書いてねーよクズ。
>>家康はビビッた
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな

>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる
0231人間七七四年2014/02/20(木) 20:44:46.47ID:C3V2yBer
>>秀吉に臣従する以外に生存する道が無くなった
家康は秀吉の威圧行動と対真田の敗戦や上杉景勝の川中島侵攻や天正13年夏の領内大地震や木曽小笠原石川水野真田の離反とそれに伴う領国機密露見
といった、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw
>>家康が沼田問題で指導力発揮出来ない無能なことが露呈した会談
何それ指導力って(笑)北条が真田の領土問題で援軍をよこさなかったため
北条からの加勢を得る事や北条との結束を強化する意味で浜松会談や真田との戦いに挑んだだけじゃん
家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
天正13は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
0232人間七七四年2014/02/20(木) 20:45:12.16ID:OGUNJOkt
>>背後を気にする必要もなく、
>>安心して紀伊和泉の惣国一揆や四国や越中と言った親家康勢力を全て制圧
家康に土下座して和睦した隙をついて、孤立無援の、雑魚国力の勢力をこれ見よがしに棚ボタ的に火事場ドロしただけじゃん。
豊臣の国力からいえば各地に散在する勢力なんて蟻みたいな雑魚でしかないんだし家康に土下座して和議を結んで、孤立無援にさせた上で、その隙にドロボウしただけ。
>>征伐されたくない家康
どこにそんな事が書いてあるんだよアホ。
対真田の敗戦や、天正大地震や、天正初頭からの領内の天災の連続(家忠日記に毎年のように洪水や堤防の決壊などが起こってるのがわかり
家康の徳政免除の文書はこれに対応するためと久保田氏が書いてる)や木曽小笠原石川水野真田と立て続けに離反し続け
徳川領国は軍事機密も露見し丸はだかになった後ですら、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、
天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw

>>言い訳をして人質提出先送り曖昧うやむや化を狙う態度を表裏と捉えた。
言い訳ってなんだそれ(笑)いつものお前の妄想か?
最初から家康は人質なんて出してねーよクズ
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
0233人間七七四年2014/02/20(木) 20:47:04.39ID:rf4TnE3e
>>家康は家臣団とさらなる人質提出において家臣団の同意意見統一がまとまらず破談
ハイハイ、ソースなし。
石川なんて天正12年春時点で篭絡されつつあたのが三河物語でわかるし木曽も前年春にあっさり裏切ってる。
真田に関しては対北条の同盟要請の結果、天正壬午の際の空手形の恩賞が不履行に終わって徳川から上杉に離反しただけ。
小笠原は石川が小笠原が石川の人質連れて逃げたのと、徳川の対真田の連敗や、上杉景勝の川中島侵攻による圧力で北部への拡張が滞って
寝返っただけ。
>>秀吉による徳川家臣団離間への揺さぶり術
どこにそんな事書いてるんだよアホ
>>石川は意見統一出来ない家康を見限って逃げた
意見なら既に統一しているが石川がただ1人秀吉に篭絡されてて小笠原らの人質連れて逃げただけ。
>>2月までに秀吉の怒りを解かないと徳川は滅亡確定である。
会戦になったら100%徳川が勝つから、滅亡確定なのは秀吉の方だな。
何せ史実でさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
>>秀吉は家康取次の信雄を通して人質提出ではなく、家康本人の上洛の要求にハードルが上が
ハードルが上がるも糞も、人質を提出する=秀吉への臣従なので、全く要求は変わっていない。
>>意見統一が出来ない家康
ハイハイソースなし。
>>2月寸前ギリギリに至り信雄に秀吉への斡旋を懇願し
そんな事やってない。秀吉の方が信雄にたのんで仲介やってもらって、母や妹を差し出してまで戦いを避けてる。
>>岡崎で降伏条件の最終会談をして、
そんな事やってない。
>>秀吉との婚姻を条件
秀吉が「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに家康に必死に土下座して母や妹を差し出しただけ。
>>さらにはードルをあげられた自らの上洛するリスクを約束して秀吉政権への完全臣従を申し入れ征伐を免れた。
なんだそれ(笑)またいつものお前の妄想か?
>>上洛したら殺されると恐怖する日々が家康を襲うことになる。
恐怖する日々ってなんだそれ(笑)お前の妄想か?
>>秀吉は早く朝鮮出兵したくて仕方がなく、
この時点で秀吉が早く朝鮮出兵したかったというソースをくれ。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
0234人間七七四年2014/02/20(木) 20:48:14.91ID:rf4TnE3e
>>1/24〜29 三河家康御成敗に付き家康が信雄に秀吉へ属する為の斡旋を懇願し岡崎で条件をつめる会談をする
そんな事家康はやってない。
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる

下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
0235人間七七四年2014/02/20(木) 20:49:32.00ID:MluOVdSm
>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
>>もうビビッて有楽斎に、信雄との冷え切った関係の修復の斡旋
そんな事全くやってないし、全くビビってない。下記をよめばわかるが秀吉のが圧倒的にビビってる。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし
0236人間七七四年2014/02/20(木) 20:50:02.26ID:rf4TnE3e
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康が織田に復讐www
信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
流石武田正嫡の武田信道が日本本土から隔離されて
宇喜多秀家と同レベルの冷遇をされただけはあるなw
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許しているけど
唯一存続を許さなかったのが武田だもんな。
挙句の果てには自分の息子に武田氏始祖の武田信義の名前をもじって名付け
まるで己の息子が武田始祖であるかのような振る舞いをしている有様
しまいには信玄直系を大久保事件にかこつけて無一文で伊豆大島に配流し
結局武田信道は伊豆大島で生涯を終えてしまうんだよね。
後北条や織田、羽柴ですら石高を貰って徳川幕府の体制下にいたことを考えると
家康の武田に対する扱いは極めて冷酷と言わざるを得ない
0237人間七七四年2014/02/20(木) 20:51:14.43ID:OGUNJOkt
>>石川数正や小笠原らが家康を見限り、秀吉陣営に鞍替え

石川は天正12年春の時点ですでに秀吉に篭絡されつつあったのが三河物語や松平記などでわかるし
小笠原は石川が小笠原の人質を連れて秀吉の元に逃げ込んだから鞍替えしただけ(織豊政権と東国、小笠原貞慶考)
木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
ウザイからさっさと出てけよクズ野郎
>>和睦を成したあと、秀吉に上洛して来いと言われた
そんな事秀吉は言ってない。秀吉は直前まで出兵計画立ててたが
いざとなるとビビリまくって、信雄送って仲介やってもらった上に母や妹まで差し出して必死に土下座して戦いを避けただけ。
>>殺される恐怖から上洛だけは嫌がるヘタレ家康。
殺される恐怖ではなく、秀吉をナメくさって暢気に過ごしてただけだろ。前年には北条との同盟強化や浜松会談など、
秀吉の三河出兵計画や、木曽小笠原石川水野真田の離反や逸れに伴う軍事機密露見や天正13年夏の大地震、対真田の敗戦など
種種の領国崩壊要素があったにもかかわらず、秀吉の討伐計画に対して、全く危機感0で暢気に無視していただけなのが家康。
>>天皇の譲位と新帝即位の晴れの舞台を演出したい秀吉は自分の母を三河に遣わし
妄想乙。家康が怖くて母や妹を差し出したのを、晴れの舞台を演出するためとか曲解乙。
家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
>>秀吉の妹が徳川家の正室になることを命欲しさの家康が懇望
ハイハイ、根拠なし。妄想乙。
>>賛成している者は徳川家臣団には
ソースは?
>>明らかに秀吉に強制的に押し付けられて拒めないようにされ
ソースなし。
しかも>>そもそも秀吉の妹が徳川家の正室になることを命欲しさの家康が懇望
これと見事なまでに矛盾したアホ乙
>>天正14年5/25の秀吉書状には家康事種々縁辺等之儀迄令懇望候条、誓紙・人質以下堅相ト令赦免候
秀吉は天正12年の時の和睦停戦の時にも信雄が人質を差し出して種種懇望して来たが許さなかったとか
信雄が人質を差し出して種種懇望してきたから許してやったとか
嘘ばかりデッチあげてるし(9月時点で許さなかった和睦条件を、11月に許してやる理由が全くない。)

>>戦を回避する為に家康が懇望
ソースなし。妄想乙。秀吉が直前まで出兵計画を立ててたがいざ其の時期になると
信雄に土下座して和睦の仲介やってもらった上に母や妹を差し出して土下座してきたから
家康がしょうがねぇなやれやれと思って仕方なく応じてやっただけ。
家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
0238人間七七四年2014/02/20(木) 20:52:57.21ID:BCse/FpC
家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>5/28の祝言日にも酒井忠次や本多忠勝や榊原康政がそっち行ねーからと露骨な反抗姿勢を示した
それだけ家中では秀吉への臣従を拒む風潮があったが、家康が義理固く慈悲深い性格だったから、秀吉との盟約を重んじただけだろ。
>>謀反を恐れた家康
なぜ婚姻への反対=謀反になるのか意味が分からん。
>>いろいろ難しくて事切候ハんかと嘆息して婚姻破綻を申し入れ
そんな事やってない。
>>信雄の面目が失われ、秀吉立腹
秀吉立腹も糞も、最初から秀吉としては規格外の兵力と、徳川領国の崩壊状態に付け込んで出兵するはずだったのが
直前になってビビリまくって信雄に仲介やってもらって母や妹を出しだして土下座したんだから、家康がそれに応じるも否かも家康次第。
土下座した秀吉が、一々腹を立てる筋合いなんぞない。
>>ビビった家康
そんな事全くやってないし、全くビビってない。下記をよめばわかるが秀吉のが圧倒的にビビってる。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>何とか秀吉の怒りを鎮める為に近日中に祝言を強行しようと試み
ビビッてないし、そんな事やってない。
0239人間七七四年2014/02/20(木) 20:54:09.82ID:cI/nptcO
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな

ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
>>秀吉が好意で家康からの人質を養子とした
いやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。

家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
0240人間七七四年2014/02/20(木) 20:55:45.57ID:BCse/FpC
家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね

看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。

看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...

関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐

秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。

その後妹も同じように殺されてる。

秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
0241人間七七四年2014/02/20(木) 20:56:12.58ID:OGUNJOkt
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
石川は小牧長久手の頃から秀吉に半分篭絡されつつあったし、小笠原が石川の人質連れて秀吉の元に逃げたから
離反しただけ。翌年も家康は秀吉に従うどころか、諸城普請とか浜松会議とか北条との同盟強化とか対秀吉に備えて動きまくってたし
秀吉も天正13年中頃から天正14年初等まで上杉や真田などに天正14年春の家康討伐計画細かく書いてるが、いざその頃になるとビビリまくって信雄を家康の元に送って仲介させたり、
母と妹人質に出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
0242人間七七四年2014/02/20(木) 20:57:51.08ID:TthYq9iy
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。

看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。
0243人間七七四年2014/02/20(木) 22:44:32.98ID:cI/nptcO
>>天正12年戦役の結果、圧倒的な秀吉からの征伐から逃れる為家康や家臣らは秀吉に人質を出して属した。
家康は人質なんて出してない。下記が正しい年表ね。
秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
0244人間七七四年2014/02/20(木) 22:45:13.99ID:R11yGFhx
>>人質を得て家康の服属を以って東国平定がなった秀吉
家康は人質なんて出してないし、全く服属してねーよカス
家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
天正13は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
>>背後を気にする必要もなく、
>>安心して紀伊和泉の惣国一揆や四国や越中と言った親家康勢力を全て制圧
家康に土下座して和睦した隙をついて、孤立無援の、雑魚国力の勢力をこれ見よがしに棚ボタ的に火事場ドロしただけじゃん。
豊臣の国力からいえば各地に散在する勢力なんて蟻みたいな雑魚でしかないんだし家康に土下座して和議を結んで、孤立無援にさせた上で、その隙にドロボウしただけ。
>>征伐されたくない家康
どこにそんな事が書いてあるんだよアホ。
対真田の敗戦や、天正大地震や、天正初頭からの領内の天災の連続(家忠日記に毎年のように洪水や堤防の決壊などが起こってるのがわかり
家康の徳政免除の文書はこれに対応するためと久保田氏が書いてる)や木曽小笠原石川水野真田と立て続けに離反し続け
徳川領国は軍事機密も露見し丸はだかになった後ですら、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、
天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw
0245人間七七四年2014/02/20(木) 22:47:39.59ID:C3V2yBer
>>言い訳をして人質提出先送り曖昧うやむや化を狙う態度を表裏と捉えた。
言い訳ってなんだそれ(笑)いつものお前の妄想か?
最初から家康は人質なんて出してねーよクズ
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

>>家康は家臣団とさらなる人質提出において家臣団の同意意見統一がまとまらず破談
ハイハイ、ソースなし。
石川なんて天正12年春時点で篭絡されつつあたのが三河物語でわかるし木曽も前年春にあっさり裏切ってる。
真田に関しては対北条の同盟要請の結果、天正壬午の際の空手形の恩賞が不履行に終わって徳川から上杉に離反しただけ。
小笠原は石川が小笠原が石川の人質連れて逃げたのと、徳川の対真田の連敗や、上杉景勝の川中島侵攻による圧力で北部への拡張が滞って
寝返っただけ。
>>秀吉による徳川家臣団離間への揺さぶり術
どこにそんな事書いてるんだよアホ
>>石川は意見統一出来ない家康を見限って逃げた
意見なら既に統一しているが石川がただ1人秀吉に篭絡されてて小笠原らの人質連れて逃げただけ。
>>2月までに秀吉の怒りを解かないと徳川は滅亡確定である。
会戦になったら100%徳川が勝つから、滅亡確定なのは秀吉の方だな。
何せ史実でさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
0246人間七七四年2014/02/20(木) 22:48:47.73ID:C3V2yBer
>>信雄と家康が土下座した
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケhttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/717
>>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
0247人間七七四年2014/02/20(木) 22:49:29.35ID:C3V2yBer
豊臣家が滅ぼされたのは単に秀吉が馬鹿だったからというだけ。
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。

こんな体制じゃあっさり崩壊して当然

なんで負けたかって言えば、そもそも秀吉から政務を委託された正当な大老であり、豊臣家を蔑ろにしていたわけでもない
家康を討つことには大義名分が少なく、家康が会津討伐に向かうため畿内を離れたというチャンスに機械的に
反応してしまい、自陣営の体制を構築する前に挙兵してしまったこと。

実態としては、明智光秀の本能寺の挙兵に近いものがあった。
会津征伐に飛びつかず、もっとじっくりと待つ必要があったと思うよ。勿論その場合は家康も着々と体制がためをしてくるが、
そこは政治力の勝負だ。 むしろ政治力の勝負を諦めたために関ヶ原がおこったとも言える。
そもそも合議の結果何かを決定するのは家康の役割だし、前田は豊臣家にすら無断帰国したのだから謀反を疑われて当然だし
上杉も穏便に処理しようとした家康の提案を蹴って、武装して割拠状態になったのでこれも謀反とされて当然
島津や毛利や宇喜多の家中の争いを喜んだ?そんな証拠は一切ない。というか介入すら最低限だ。
北政所にいたっては自分から西の丸を家康に譲ってるし大名への加増は三成ら奉行衆もそれこそ「合意」してる
ついさっきまで秀吉という専制独裁者が君臨していた政権において合議を破った専制独裁者という非難そのものが馴染まないんだよ
秀吉自身は一度も合議による政権運営なんてしたことがないから
普通の大名からすれば誰も見たことがない体験したことがないものを破ったと言われてもピンとこない
それに三成の家康批判は一歩間違えれば秀吉批判にも取られかねない危険な主張だ
三成が家康に名前を変えて秀吉の専制独裁を批判していると受け取れば豊臣のため三成を討伐することに何も問題はない
そもそも徳川が体制ぶち壊したとかいうけどぶち壊されるような体制とか諸将の配置にしなきゃよかっただけじゃん
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり自分から家康が天下取りやすい状態作っといて
ぶち壊したも糞もねーじゃん

秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻を進めている。自分の死後を見据え、最有力大名徳川家との融合を企図したものだ。
秀頼・千姫の間に出来た世継ぎが、徳川家の傀儡になる事は、秀吉が認識していて当然。
実は反徳川的な行動を起こし、豊臣家を滅亡に導いた輩こそ、秀吉の意思に背いた不忠といえる。秀頼・千姫の間の子は世継ぎになるわけで。
徳川の血が、豊臣宗家に組み込まれるわけだけど。実際融合されなかったのは、邪魔をした者がいたから。そしてそのせいで、豊臣滅亡。不忠でしょ。
千姫は正室なので、当然千姫との間の子が世継ぎでしょ。そうなれば、政権における徳川家の影響力が増す
0248人間七七四年2014/02/25(火) 18:24:55.14ID:WFoNk5MX
>>200
宗とグルになって詐欺働いた小西が忠臣とかないわ。
0249人間七七四年2014/02/25(火) 18:51:20.76ID:V2yW2lvh
本当に詐欺を働いていたら秀吉にとっくに殺されていたわwww
0250人間七七四年2014/02/25(火) 22:32:52.66ID:hdDY4XDK
>>248
せっかく朝鮮では日本側が武力で圧倒していたのに小西の売国詐欺によって
日本側の努力がすべて水の泡になったからな
関ヶ原で処刑に持ち込めたからいいものの豊臣は売国詐欺師である小西をもっと早く処刑するべきだった
秀吉が小西をきちんと処刑していたら豊臣の天下は磐石となり奸臣を処刑するための関ヶ原など必要なかった
0251人間七七四年2014/02/25(火) 23:36:07.32ID:WFoNk5MX
>>249
殺そうとしたけど淀と利家が庇ったんだよ。
0252人間七七四年2014/02/26(水) 21:24:45.93ID:d1ra2rKo
>>251
で、一次史料は?
0253人間七七四年2014/02/28(金) 18:18:12.63ID:Uu/rGUHF?2BP(0)
戦いの状況が八百長であった戦いの酷似

http://music.geocities.jp/jphope21/0203/39/266_1.html

ワーテルローの戦いと関ヶ原の戦いにあった。

( http://music.geocities.jp/jphope21/0102/3/149.html )
0254人間七七四年2014/03/14(金) 10:27:13.58ID:Gwd7S0vs
もしも関ヶ原の戦いで西軍が勝利して、徳川家が滅亡したのなら、
秀吉の遺言である秀頼と千姫の結婚はどうなるんだろう。
淀殿の妹で、豊臣完子の母であるお江の方が徳川家滅亡と運命を共にしたら、
淀殿は怒るんじゃないのかな。
0255人間七七四年2014/03/16(日) 14:03:03.78ID:qfN7CT7K
毛利が本気で戦ってたら勝ってたかね?
いや、関ヶ原決戦って意味だけじゃなくて
毛利家が率先して勝とうとした場合って意味も含めて。
俺はそれでも厳しいと思うんだが・・・
0256人間七七四年2014/03/16(日) 20:37:29.54ID:9aVIqxMa
先ず、西軍にとっての具体的な勝利目的が何かが統一されていないし
0257人間七七四年2014/03/16(日) 22:45:26.34ID:qfN7CT7K
家康倒して豊臣政権の維持だろ。
0258人間七七四年2014/03/17(月) 07:29:04.65ID:Z2OZ15n1
倒すというのが本気で滅ぼすか、適当な所で和睦するかも不明
0259人間七七四年2014/03/18(火) 19:23:40.43ID:8jqdtkpM
東海道筋を速攻で押さえられなかった時点で西軍は詰んでる。
家康を関東に封じ込めるはずが逆に東海道一帯を徳川の領国化されちまったんだから。
東軍主力が戻ってくるよりも前に濃尾地域一帯を抑えられるかどうかのタイムアタックだったからね。
0260人間七七四年2014/03/19(水) 19:15:54.34ID:N904Dz+c
伏見で時間食いすぎた。
0261人間七七四年2014/03/19(水) 19:52:09.52ID:cuhWQ9w/
やはり鳥居元忠以下三河武士パネェである
0262人間七七四年2014/03/20(木) 13:25:26.77ID:FwljxCwi
あと大津と田辺に無駄に兵力裂きすぎた。
虎の子の立花宗茂を大津城なんかに張り付けておくのは勿体ない。
0263人間七七四年2014/03/20(木) 13:56:41.61ID:WHOl6fGm
>>261
ずっと囲んで攻めなかっただけで
攻めたら半日経たずに落ちたんですがw
0264人間七七四年2014/03/20(木) 14:58:25.42ID:X9QqmJIt
>>263
射撃が攻撃に入らないとは面白いw
0265人間七七四年2014/03/21(金) 13:32:31.15ID:rFD76nhh
それ敢えて指摘して欲しいの?
0266人間七七四年2014/03/21(金) 17:04:42.43ID:oCnDtMFi
>>263
攻め手の小早川が徳川に恨まれたくないんでのらりくらりやってたからな。
0267人間七七四年2014/03/22(土) 10:06:34.29ID:Six/2DX/
>>263
いや想定外になかなか落ちずに苦戦してるぞ。
おかげで毛利軍の伊勢侵攻タイムスケジュールが遅れた。
>>266
まーたデタラメ書いて馬鹿なんじゃないか。
0268 忍法帖【Lv=9,xxxP】(2+0:8) 2014/03/23(日) 00:04:08.03ID:aiJ9q6OC
西軍勝利

真田昌幸は信濃・甲斐加増の密約あるも
信濃一国に留置く
0269人間七七四年2014/04/13(日) 22:08:51.02ID:8o6afvkW
>>262
立花は京極ごときの城攻めに使う器じゃないよね。
さっさと落としてケリ付けてしまいたいからエース投入だったんだろうが
結果論で見ると大失敗だったとしか言えないな。
0270人間七七四年2014/04/14(月) 06:32:59.88ID:dJJUYRqb
誰が立花隊を大津に向かわせたのかわからんが
それもまた、策略だったんじゃないの?東軍側の内通者の・・・
0271人間七七四年2014/04/14(月) 08:12:49.58ID:EYt1Zhix
当時、大垣周辺にいた中で、三成が一番信用できない奴だから
0272人間七七四年2014/04/21(月) 01:57:45.32ID:QqZMKonU
つうか、田辺とか安濃津とか大津とか放置もしくは足止めでよかっただろう。

小早川なんて伏見、伊勢、近江、美濃と酷使しすぎ。

関ヶ原到着と同時に石田領半分あげるとかしてもいいレベル。
0273人間七七四年2014/04/21(月) 11:34:57.70ID:mtgEHLU/
美濃をあんだけ速攻でボロボロ落されるのは想定外だったんだろうな。
それにしてもチンタラしすぎだたけど。
0274人間七七四年2014/04/21(月) 21:32:09.30ID:THHde2gK
>>273
私見だが、三成ら西軍首脳陣は小田原征伐なみにぬるい勝ち確ゲーのつもりで仕掛けたんじゃないかなと思ってる。
挙兵直後の状況なら西軍に有利な材料のほうが遥かに多いじゃん。

どうせ勝つから悠然と構えてたつもりが、ところがどっこい蓋を開けたらとなったけど
0275人間七七四年2014/04/21(月) 23:08:20.96ID:QqZMKonU
というか、天下の名城であるはずの岐阜城が1日で落城とはねえ
0276人間七七四年2014/04/22(火) 07:38:45.80ID:01eLj+Ko
だって攻め手に元城主だった池田輝政がいるから。
そりゃ攻略法看破されるわ。
0277人間七七四年2014/04/22(火) 11:10:21.60ID:fKuEvf4L
あと、岐阜にもミッツは援軍送ってるけど、前哨戦からして負け戦の連続。
本戦前に完全に呑まれてたろうな。
0278人間七七四年2014/04/22(火) 19:37:42.42ID:9XKmIraR
美濃攻略に大苦戦したのは戦略眼皆無の信長のみだからね。
0279人間七七四年2014/04/23(水) 19:37:17.94ID:Gq8d6d/X
んじゃ、ミッツは負けるところを選んで自爆したわけだ
0280人間七七四年2014/05/10(土) 00:22:14.24ID:ZQaAAw7c
宇喜多秀家

関東250万石をゲット
0281人間七七四年2014/05/12(月) 17:30:17.80ID:H4ZQW0yZ
そもそもなんで家康を敵に回して西軍結成したの?
すぐに三成を処刑すればそこで終わるとおもうんだが。
0282人間七七四年2014/05/12(月) 18:45:46.10ID:HHr5QDgV
誰が何の権限で三成処刑なんて出来るんだ?
0283人間七七四年2014/05/12(月) 19:28:00.54ID:BvabncC8
二大老・三奉行が合意すれば可能でしょう
0284人間七七四年2014/05/13(火) 08:42:45.67ID:OpOUVFVU
首謀者の毛利輝元が殿上人の清華家の家格だったから死刑にはできない為に、
三成がスケープゴートされただけだからな。
それでも輝元は強制的に家督譲渡させられ隠居の刑にされて、
政治的には殺されたけどな。
島津征伐が中止になっからよかったが、
中止されてなかったら毛利の城を徳川方に明け渡して、
輝元先鋒による島津攻撃だったしな。
秀吉の小田原征伐で、家康が城を次々に明け渡した結果、
家康が旧北条領に行かされたのと同じで、
島津攻撃に失敗したら毛利領召し上げられたまま、
成功したら島津領への転封っていう死に物狂いで輝元は働くハメになってた。
0285人間七七四年2014/05/13(火) 20:37:12.92ID:DsZSdtYQ
毛利や上杉や佐竹は強いから完全に潰そうと思うと被害ハンパなくなるので減封で済ませた。
石田以下の雑魚は弱いから遠慮なく叩き潰された。
0286人間七七四年2014/05/16(金) 16:44:22.14ID:Xh5/5NOt
三成や小西は危険だから殺された。
上杉は敵にすると頑固だが、逆に味方だとそこそこ信用できる義理や信義があるので厳封した。
毛利は総大将だが、輝元が無能すぎるのと、吉川の土下座によって、吉川・小早川の改易と本家の厳封で済ませた。
佐竹や島津は辺境だから、ノータッチ&小減封で済んだ。
0287人間七七四年2014/05/18(日) 19:36:13.79ID:eR2LYZ5+
江戸の陣
0288人間七七四年2014/06/01(日) 14:30:31.60ID:2qhX1NF+
やはり西軍のデットラインは美濃制圧ってことになるんのか

ところで西軍がもし勝ってたら温床などはだれが仕切るんだ?
三成か
0289人間七七四年2014/06/01(日) 15:40:20.16ID:MM5HLNr9
三成単独では無理。その権限がない。解任された五奉行の一人にすぎないから。
普通に考えたら大老の毛利の名の下で仕切ることになる。
0290人間七七四年2014/06/01(日) 16:19:28.98ID:ve8w8q3p
三成謀反の風聞が事実化どうか、佐竹や真田が問い合わせてきても
家康派の三成はずっと黙殺して返事すら書かなかった。
しかし伏見城が攻略される状況となると毛利軍が勢多の大橋を占拠するなど近江への進出を計り、
佐和山の三成もついに圧力に屈して西軍に参加せざるを得なくなる。
そして7月末に、伏見城へ出頭してきた三成がはじめて真田宛に西軍参加していることを知らせる書状を書く。
つまり三成は西軍の首謀者ではなく、奉行や大老の連署状にも署名するほどの立場があったわけでもない。
0291人間七七四年2014/06/03(火) 19:56:30.16ID:UVTNDD/f
毛利は負けたときの保険のために輝元を後方に置き三成を前面に押し出して
西軍は三成が仕切っているという体裁を整えることで東軍の矛先をそらそうとした
東軍も三成が仕切っているという形態の方が都合がいいためそれを受け入れたわけ
東軍が美濃を制すると毛利も負けを受け入れ関ヶ原の前に講和を結び
関ヶ原は東軍が謀反の首謀者として三成に天誅を加えるのを毛利ら大多数の西軍が黙って見ているという
手続きを踏むだけの儀式でしかなかった
0292人間七七四年2014/06/04(水) 09:19:11.48ID:08vKOFAT
アンチ豊臣のキチガイ織田チョンの輝元むりやり擁護www
伊勢侵攻の西軍本隊が毛利が主力で、
反西軍に対して四国にも派兵しており大坂城で秀頼を擁して総大将やってる輝元が首謀者じゃないなんて誤認するわけねーだろw
美濃制圧されたから急いで西軍本隊が伊勢から急遽、関ヶ原に集結したのであって、
負けを認めたからなんてお前の願望妄想じゃねーかwww
清華の殿上人だから死刑にできない輝元が強制出家&家督強制譲渡の上で、輝元の島津攻め先陣など責任を取らされてるじゃん。
景勝と直江なんてのうのうと現役続けるどころか、
直江は幕府から10万石の役儀免除で藩財政が楽になる厚遇ぶりだし。
0293人間七七四年2014/06/04(水) 19:32:02.08ID:U0GX0UWW
三成が権力を奪おうと謀反を起こした事実が露呈したことで西軍は大義名分を失ったため
毛利を含めて西軍の大多数が関ヶ原で戦うことができなかったのは仕方のないことだった
奸臣である三成の処刑はむしろ豊臣にとってプラスだった
0294人間七七四年2014/06/04(水) 20:07:00.07ID:gUjnC2qU
三成が権力を奪おうと謀反を起こした事実が露呈したとする根拠の一次史料を書いてください。
0295人間七七四年2014/06/05(木) 14:47:35.31ID:eoFkD9iY
>>294
そんなもんない。
0296人間七七四年2014/06/05(木) 19:35:51.06ID:lC4UmnMU
東軍が三成が権力を奪おうと謀反を起こしたとして三成を処刑したのに何を疑う必要があるのか
西軍の大半も東軍の主張を認めて関ヶ原での戦闘を回避していることからも明らかだろ
否定したいならまず東軍が三成を謀反人として処刑しなかったとする一次史料を出してもらわないと
0297人間七七四年2014/06/06(金) 10:16:54.08ID:JPFAZWOP
ところでもし関ヶ原で西軍が勝ったら追撃は中山道か東海道かどっちに向かってたんだ
0298人間七七四年2014/06/07(土) 10:30:55.25ID:Oh5rUYaF
東海道の豊臣恩顧が軒並み降伏するから一挙に関東攻めでしょ。
ほっといても如水が九州でやってたように、
真田が喜んで信濃の大名を帰順させていくだろうし。
0299人間七七四年2014/06/08(日) 00:30:19.63ID:1WmlBHYg
小西に野望なんてねーよ。
関が原の時に大垣にある、8/27はやし村や9/5赤坂西圓寺に出した禁制ですら、
署名順は、三成、小西、義弘、秀家で、
島津より下の地位なんだぞ。
なにも出来ねーよアホ。
まぁ三成より地位が上な程度だ。

島津亮二氏も秀吉がメンツを守った形での明との講和条約にあげていた、
朝鮮の王子の人質の入朝という条件を、
秀吉が死んだ際に全面撤退方針が朝鮮在陣諸将に伝わった後も、
小西は義弘と寺沢らは死んだ秀吉の意志を尊重し、
龍涯を通じて明との講和交渉をしており、
島津亮二氏も日本の対面が保てる条件による講和締結を土壇場まで模索し続けたのであり、
その努力が実って明側から二人の人質を得ることに成功したと書いており、
看羊録の記事にある
清正は朝鮮の王子を待たずに、陣営を焼き払ってあわてて退却し、
和議そのものを、ほとんど成功させる寸前にぶちこわした。
私と島津とは唐の質官を連れ、落ち着いて殿をつとめながら、後からもどったのだ。私が怯懦か、清正が怯懦かと宣言した。
毛利輝元らは和議不成立の咎を清正のせいにしたと書いている事実に触れている。
結局、清正が和睦をぶち壊した為に、
最前線で殿をしていた小西の順天が包囲を受けるなど日本軍は撤退に苦戦。
小西は秀吉の面目を立てる形で、
朝鮮から王子を人質に帰国する忠義を示していた。
これは生前の秀吉が朝鮮の王子に南朝鮮の支配を任せようとした戦略を奉じていたからである。
0300人間七七四年2014/06/08(日) 11:02:30.73ID:BRqhooBq
石田と小西は明が朝鮮にやってくると恐怖に震えて降伏しようと泣き出した
実際の明との戦闘では日本の方が優勢だったにもかかわらず
恐怖心に支配された文治派は関白降表を捏造して偽講和を結び
自らの命乞いのために秀吉を明の家臣に貶めた
さらに南朝鮮の支配権どころか勘合貿易すら要求しないというヘタレぶり
武断派からすれば自分達が必死に戦っているのに文治派が足を引っ張り続けたせいで勝利を逃したのだから
戦後に文治派への怒りを爆発させるのも仕方がなかった
とはいえ現実というものは因果応報で成り立っているわけで
文治派が関ヶ原で天下を我が物にしようと死に物狂いで戦っている時に
他の西軍大名は東軍に内通して戦わないという朝鮮とは逆のことが起きたのだから痛快である
0301人間七七四年2014/06/09(月) 04:35:37.65ID:/CURYG8S
>石田と小西は明が朝鮮にやってくると恐怖に震えて降伏しようと泣き出した

史料plz
0302人間七七四年2014/06/16(月) 22:20:50.11ID:3jXrjMA0
三成が家康に従えば全て解決
0303人間七七四年2014/06/17(火) 01:30:00.70ID:H2EhDoPX
政務は五大老が担当だが、他の四人は死んだり引きこもりだったり領国経営に失敗したり謀反の準備起こしてたりと散々だった。
どれほど綺麗事をのべようと実際に秀吉の代わりが務まるのは家康しか居なかったんだから家康にやらせるのが正しい。
0304人間七七四年2014/06/17(火) 07:15:56.29ID:CNByiVuS
毛利や上杉は中央の政務ボイコットして自分の領地で好き勝手やってたからな。
それで徳川に文句つけようとしても虫がよすぎる。
0305人間七七四年2014/06/17(火) 08:48:27.91ID:s1HgeLjC
そもそもなぜ家康を敵視するかわかんない。
どう考えたって謀反おこした三成が逆賊なのは明らか。
0306人間七七四年2014/06/17(火) 17:12:57.91ID:CNByiVuS
損なん答えは単純明快。
自分たちが好きなようにやるには一番強い奴が邪魔だから。
0307人間七七四年2014/06/17(火) 19:00:34.32ID:s1HgeLjC
>>306
家康は三成を武断派から守って佐和山まで護送した。
その恩を忘れ、奴は征伐に出払った隙を狙い家康に戦を仕掛けて日本中を混乱させた。悪党だよ。
0308人間七七四年2014/06/17(火) 21:24:35.45ID:EhJnqqKh
2014年9月15日

関ヶ原検定

http://www.kentei-uketsuke.com/sekigahara/
0309人間七七四年2014/06/17(火) 21:34:16.50ID:4IHq+tIK
そもそも奉行連中が無能や奸臣ばかりなせいで関白が粛清されたり海外遠征が泥沼化したから
家康が豊臣政権に招聘されたわけだからな
家康が無能や奸臣を排除して今までにないアプローチで豊臣の改革を進めるのは当然のことだろう
それで自分達の既得権益が侵されることを恐れた奸臣どもが謀反を企てたのが関ヶ原であり
西軍の逆賊であることは火を見るより明らかなことだった
三成が野心を抱いて謀反を起こさなければ豊臣は家康の改革によって安泰になるはずだった
0310人間七七四年2014/06/19(木) 18:00:44.32ID:Co2Toei/
あの水戸光圀でさえ、三成を忠臣と呼び
福島らを不忠者と呼んでいる。

これが全てだろ。反豊臣の朝鮮人に
黄門様以上の知識なんて無いし。
0311佐吉2014/06/19(木) 18:25:29.07ID:oQNFnV3W
同感!簡潔明快に論破。
0312人間七七四年2014/06/19(木) 19:33:54.92ID:Km6R3Wc2
水戸光圀って若い頃は辻斬りを楽しんで
年取ってからは家格あげるためにでっち上げの開墾で
表高吊り上げて民から鬼のように重税搾り取ったただのキチガイクソジジイじゃん。
0313人間七七四年2014/06/19(木) 20:10:40.37ID:cqWk58nF
>>312
しかも一番遠出した時ですら鎌倉までというね
権力がなきゃくされ外道だわ
0314人間七七四年2014/06/19(木) 20:16:32.03ID:Co2Toei/
家康の孫だから腐ってると言いたい訳ですね
0315人間七七四年2014/06/19(木) 21:21:34.82ID:Km6R3Wc2
正直、家康の孫世代ってろくなのいなくね?
忠直とか家光とか。
0316人間七七四年2014/06/19(木) 23:06:43.15ID:XfuaqfWp
>>310
逆に言えば三成を讃えているのは遥か後世の人間だけなんだよね
同時代の人間の三成への評価なんて辛らつ極まりない
大名でもなんでもない高野山の僧である木食上人さえ
「治少御奉行のその随一なるがほにて候つる、少しも背きそうらえばたちまち身の障りを為す仁にてそうろう」と
三成が秀吉の意を借りて威張り散らし少しでも気に食わない奴には仕返しで身の破滅をもたらす人間であると評している
三成は斬首されるべきクズ人間であることに疑いの余地はないのに
後世の何も知らない人間が判官贔屓で勝手に三成を忠臣扱いしているのが実情だろう
0317人間七七四年2014/06/20(金) 00:28:35.27ID:FSh1pfrp
公儀に罷免されてたんだから同時代は良く書けないよ
石田と特別親しい訳でもないのに自ら進んで家康との対決に挑んだ宇喜多が素敵だ
0318人間七七四年2014/06/20(金) 01:19:47.94ID:L6mpEyc4
>>317
ありゃ、単に家康に大恥かかされたことの仕返しなんじゃないのか?
三成が嫌いだから東軍に入った連中の逆パターンだとしか思えんがね。
0319人間七七四年2014/06/20(金) 06:27:32.52ID:DdwPir2q
地理的に毛利のすぐ隣の宇喜多が西軍に入らないわけにはいかんやろ。
まして坂崎の一件で遺恨があるんだし。
0320人間七七四年2014/06/20(金) 07:58:10.38ID:LlDaIH3Q
>>317
目と鼻の先に敵がいる状況で軍の2/3が色んな理由をつけて戦いをボイコットしているくらいだから
東軍に限らず西軍諸大名からも内心で三成がどれほど嫌われていたかがよく分かる
そもそも奉行を罷免されたのも三成に対する不満が大きくなりすぎて抑えられなくなったからだしな
罷免されたから良く書かれないのではなく良く書きようがない人間だから罷免されたわけ
0321人間七七四年2014/06/20(金) 08:17:32.11ID:DdwPir2q
なぜに嫌われたかと言えば検地の実行役だったからに尽きる
三成個人がどうこうというよりどうあがいても嫌われるポジションにいたということ
三成の過ちはさっさと家康に組しなかったこと
家康の下で嫌われポジション引きついでりゃ家康もそれなりに重宝しただろうに
家康も本音では三成の方と組みたかった。福島たちは自分を担ぎ上げて後で実権奪う気満々だったし。
いかに福島たちに手柄たてさせずに事をおさめるかが関ヶ原における家康の一番の難関だった
0322人間七七四年2014/06/20(金) 09:09:28.40ID:xI5Y5Qxu
関ヶ原って無駄な戦だと思う
0323人間七七四年2014/06/20(金) 11:21:38.23ID:jQvJwERj
>>322
あれのおかげで全ての大名が徳川に屈することになったのだから
三成は戦功第一だと誰かさんは皮肉たっぷりに仰ったそうな
0324人間七七四年2014/06/20(金) 19:12:31.93ID:LlDaIH3Q
>>321
三成の過ちは検知を実行するだけの文官なのに戦の指揮をしようとしたこと
まして関ヶ原のような大戦において三成に諸大名のマネジメントなど出来るわけがない
例えるならろくにサッカーも知らない役所の公務員がW杯の代表監督をやろうとしているようなもの
組織が空中分解を起こすのは必然の結末だった
0325人間七七四年2014/06/20(金) 20:06:39.59ID:FSh1pfrp
家康がこんなに早く関ヶ原に来ると予測出来なかったのが石田の失敗だな
福島らの快進撃に美味しい所は福島らに全部持ってかれてしまうと
危険を承知で慌てて江戸を出発したのが家康
石田は情報分析と決断力で家康に負けた
福島らの勝利に喜んでのんびりと中仙道を進んでた秀忠もそうだな
0326人間七七四年2014/06/20(金) 23:59:35.27ID:DdwPir2q
>>324
三成って一番槍とったこともあるし実は結構武闘派なんだけどね。
家臣団も左近とか蒲生家から拾った奴らとか屈強の猛者が多かったし
なまじ事務能力に長けてたからそっち方面で秀吉に重宝されてただけで
武力に関しては福島らとそう引けはとらない
忍城に関しては完全に秀吉の指示ミス
0327佐吉2014/06/21(土) 00:48:37.15ID:QmGtH4Lg
>>326
治部少家中

島左近勝猛(清興)、蒲生備中真令(頼郷)、舞兵庫(前野忠康)、
高野越中、樫原彦右衛門、大場土佐、北川平左衛門、
蒲生郷舎、大山伯耆、河瀬左馬助、杉江勘兵衛、
森九兵衛、大橋掃部、林半介、横山監物、松田重太夫、
渡辺勘兵衛、曾根高光、小幡信世、荻野鹿之助、水野庄次郎…
思いつくままにざっと名前を挙げるだけでも、
石田三成家臣団は他家と比べても(一騎当千級の)粒揃いだった
と言えるのではないか。
0328人間七七四年2014/06/21(土) 01:16:12.79ID:RK7RwtOf
実際関ヶ原で西軍が勝ってたらどうなったのかな。
秀忠がそっこーでヘタれて徳川家が10万石レベルの中堅大名まで沈んだとしても
そのあとすぐ西軍首脳陣どうしで豊臣政権の主導権をめぐる戦をする未来しか想像できないのだが。
毛利も宇喜多も三成に顎で使われるためにあんな大博打を張ったわけじゃないだろう。
0329人間七七四年2014/06/21(土) 03:07:52.65ID:K8v7TgZF
徳川に代わって毛利が筆頭大老になるって
事で話がついてるだろ
0330人間七七四年2014/06/21(土) 08:03:44.83ID:nSx2zqqm
総大将は毛利だからな。
毛利の都合のいいように論功行賞進むんじゃね?
三成は東国に50万石ぐらいで飛ばされるかもな。
ただ三成や長束が健在なら徳川がやったように
豊臣の蔵入地から恩賞削りだすことにはならんかったと思う
0331人間七七四年2014/06/21(土) 10:52:45.26ID:FY+dVvGQ
実際当時の東軍も首謀者は三成だとわかってたんだろうな
0332人間七七四年2014/06/21(土) 11:33:51.04ID:4BUGl2Y3
>>326
忍城に関しては秀吉の指示が正しいかどうか以前の問題だろう
本来なら忍城における三成の選択肢は2つしかない
秀吉の指示が絶対に正しいと信じて水攻めをやりぬくか
結果で秀吉を黙らせてみせると自分の首をかけて自身の策を取るか
ところが三成は水攻めなんて間違っていると不満を露にしながら水攻めをするという最悪の行動をした
これでは現場の人間に立派な堤防を造ろうという意欲が湧くはずもなく堤防が決壊するのも必然の結果だった
朝鮮や関ヶ原でもそうだが三成が戦下手なのは戦術に疎いというよりも
問題のある態度で現場の雰囲気を悪くして諸大名の士気を上げられないことだろう
これでは家臣団をいくら充実させても意味がない
0333人間七七四年2014/06/21(土) 13:19:23.35ID:wxqrAmZc
奉行衆は石高低い癖に家康に歯向かったのが×
奉行衆は大老衆に対抗出来る兵力ないしね
0334人間七七四年2014/06/21(土) 13:21:11.15ID:jFA7kggo
アンチ秀吉三成の在日織田ちょん今日も必死に自演しててワロタw
0335人間七七四年2014/06/21(土) 15:30:42.72ID:nSx2zqqm
>>333
奴らは蔵入地の管理になってたからそこから捻りだせる兵力も結構あったけどね。
単純な石高以上の実力はあった。まあ、家康とやりあうには不相応だけど。
0336人間七七四年2014/06/22(日) 10:48:44.75ID:HPj1MUfZ
蔵入地は奉行の所有物じゃないから捻り出したら横領でしかないけどね
もっとも奉行は「豊臣のものは俺達のもの、俺達の敵は豊臣の敵」と考えているから気にも留めないだろうが
0337人間七七四年2014/06/22(日) 11:10:29.75ID:IBECmfvi
豊臣の蔵入地管理は杜撰だったからなあ
実際は地方に行けば行くほど管理委託された大名連中がちょろまかし放題
どこからどこまで豊臣の取り分かすげえ曖昧だったもんだから
家康もめんどくさくなってそんじゃあ今管理してる奴らの領地ってことでいいよもう
ってことにしたもんだから200万石が65万石に減ることに。
0338人間七七四年2014/06/22(日) 15:01:54.59ID:vrTyZpKu
>>336
横領じゃねーよアホ。ちゃんと役得収入として、ある程度は認められていた収入だわ。
しかし三成はその当然、利用できる役得を自分の収入にはしなかったけどな。
>>337
杜撰もなにもほとんど現在まで、蔵入地に関する史料がほとんど残ってなくて
杜撰か杜撰じゃなかったかすら判断できない状態じゃねーかよw
そもそも全国に散らばっていた蔵入地の大半が不明なわけだし。
ほんと織田朝鮮人は自作自演でデタラメばっかり吐いてんなw
0339人間七七四年2014/06/22(日) 17:56:22.84ID:wzGH7VNN
史料が残っていないということはいい加減を反映していない?
0340人間七七四年2014/06/22(日) 18:16:00.36ID:Forf4A3S
>>338
菅沼さん北条スレで論破されたからって暴れないでください
0341人間七七四年2014/06/22(日) 18:40:28.75ID:IBECmfvi
>全国に散らばっていた蔵入地の大半が不明

その時点で杜撰と普通はいいます。
0342人間七七四年2014/06/22(日) 19:32:49.89ID:g/NpVIy9
可哀想に。戦災だろうが天変地異だろうが、
何がなんでも史料は400年にわたり現代まで失われないで残っていると
思っている無知っぷりを恥ずかしいとも思わんとはw
0343人間七七四年2014/06/22(日) 19:45:28.57ID:wzGH7VNN
全国各地にあったのに無いのでしょ
0344人間七七四年2014/06/22(日) 21:01:56.53ID:bWVw+mDu
蔵入地から予算や兵を出しちゃったら
「(この一連の争乱は)家臣同士の主導権を巡る内輪揉めです」
って落とし所には持っていけなくなるんじゃない?
長束などの奉行らは出さなかったんじゃなくて、出すに出せなかったんじゃないのかな。
0345人間七七四年2014/06/22(日) 23:23:01.95ID:Forf4A3S
>>344
そりゃ単なる内輪もめのために親のサイフに手を突っ込むのと同義だからな。
そんな事をした日には勝っても落とし前つけるかばっくれるしかない。
奉行連中は大目玉どころか物理的に首になるかもしれんし
主導権を毛利上杉が握るのは目に見えている。
流石に石田もそこまで読めないほど馬鹿じゃないだろう。
0346人間七七四年2014/06/22(日) 23:32:02.28ID:Forf4A3S
付け加えるなら石田ら奉行連中は結局自分の命と権力は惜しかったということ。
戦後処理のことを考慮して他力本願の布陣で挑んだ結果大敗したわけ。
0347人間七七四年2014/06/23(月) 00:23:32.23ID:xNU6AN0I
戦場に居て、一番に奮戦した石田隊を見て
どっから自分の命は惜しいとか言えるんだか・・・
やっぱ朝鮮人は下種だな。
0348人間七七四年2014/06/23(月) 08:11:49.28ID:Tq91N70j
>>347
真性の馬鹿か?
豊臣の存続のための義憤なら身命を省みずに蔵入地から何万も兵力をひり出すわ
それが出来ずに関所で西国武将をせき止めて戦力起用なんて
まさしく下種な手段を使ったから内部崩壊するのは最初から決まっていた

一番に奮戦してるフィルター使いながら成り上がった下種は徳川にもいるだろうが
そいつは家康の愛人だから諸大名も悪く書けず超人として扱われてばっかだ
最近の三成は判官贔屓で過大評価されてるが当時の行動を見るに褒められるような奴じゃない
0349人間七七四年2014/06/23(月) 09:08:33.71ID:YcJHmQCw
井伊直政なら散々こき使われていますが?
0350人間七七四年2014/06/23(月) 09:16:49.70ID:82LWixgO
>>348
菅沼さん落ち着いて落ち着いて
0351人間七七四年2014/06/23(月) 10:50:38.36ID:Tq91N70j
>>349
こき使われてるのは外様の寄せ集めである部下のほうだろ
本人は黒田に仕事が多すぎて辛いわって手紙で弱音吐いてる
しかも政治的理由から島津を追撃して功立てようとして重症負うというオチ
このスレとは直接関係はないからここで切るが逸話ほど功はないぞ

>>350
気に入らない奴を菅沼認定するだけの池沼は黙ってろ
むしろスレ見りゃ分かるが菅沼って秀吉sage三成マンセーばっかしてるぞ
0352人間七七四年2014/06/23(月) 11:18:01.73ID:aY2/zi8s
君が菅沼遼太じゃなくても遼太みたいなアホ口調は
控えたほうがいいよ
0353人間七七四年2014/06/23(月) 15:51:08.34ID:YcJHmQCw
>>351
辛いわと言っているのだがら、こき使われているんだろ
0354人間七七四年2014/06/23(月) 16:38:01.88ID:pw5cTqgW
>>351
正直、菅沼の自演のマッチポンプ野郎としか思っていない
そんぐらい口調が菅沼っぽい
0355人間七七四年2014/06/23(月) 16:42:36.19ID:82LWixgO
よって菅沼だと判明しました
0356人間七七四年2014/06/23(月) 17:00:08.11ID:Tq91N70j
これが冤罪を生み出すメカニズムです
いかがでしょうか?
0357人間七七四年2014/06/23(月) 17:33:05.59ID:pw5cTqgW
・マッチポンプ菅沼
・菅沼2号
・菅沼っぽいもの
・菅沼他人だけと似たようなもの

上から好きなの選びな。嫌なら菅沼っぽい言動を控えましょう。
0358人間七七四年2014/06/23(月) 18:10:45.15ID:82LWixgO
そうだそうだ!控えろ不浄役人
0359人間七七四年2014/06/23(月) 22:58:43.65ID:Haw55cQ+
>>347
大半の西軍大名からすれば石田隊は自分達が朝鮮で死ぬ思いで戦っている時に
命惜しさに安全な後方から高みの見物をしていた連中に過ぎないからな
関ヶ原では逆にこっちが石田隊に対して高みの見物をしようくらいにしか考えていない
朝鮮で命を惜しんだしっぺ返しが来ただけだ
0360人間七七四年2014/06/23(月) 23:38:25.96ID:pw5cTqgW
流石にそれ逆恨みや。悪いのは秀吉。
まあ、そんなもん承知の上でみんなやり場のない怒りを奉行連中にぶつけてたんだろうけど。
0361人間七七四年2014/06/24(火) 03:13:10.00ID:RFyW7DvE
確かにやり場の無い怒りは奉行に向いたろうな。
特に秀吉の懐刀の三成に。

三成カワイソス
0362人間七七四年2014/06/24(火) 07:57:58.22ID:Q4Ptdwmd
一番諫止できる位置にあったからな
0363人間七七四年2014/06/24(火) 08:08:21.91ID:JzqWdYBz
垣見、熊谷ら目付にも
0364人間七七四年2014/06/24(火) 13:19:00.10ID:jr46N63s
>>362
反対だけして方針転換も何も出来ていない以上、ただ豊臣の和を乱す者でしかない。
そんな三成が指揮を執るのだから、関ヶ原でも結束や統率が生まれるはずなどなかった。
徳川に歯向かった時点で既に勝敗は決していたのだろう。
0365人間七七四年2014/06/24(火) 13:41:06.57ID:JzqWdYBz
それは江戸期の御用学者そのままであり、石治少だって現実的に勝算があったから決起したのである。
0366人間七七四年2014/06/24(火) 14:38:51.85ID:Q4Ptdwmd
それは大坂の陣と同様に「彼の脳内では勝利を確信して」となる
0367人間七七四年2014/06/24(火) 22:35:05.66ID:FSXcPoz8
>>361
それで三成が解任されて一件落着したはずだったのだから
三成は表舞台に戻ろうなどと野心を抱くべきではなかった
そんなことをすれば東軍の怒りの火に油を注ぐだけでなく
西軍大名の多くも白けて戦意を失うのは当然だった
0368人間七七四年2014/06/24(火) 22:36:27.82ID:jr46N63s
>>365
菅沼かぁ。
0369人間七七四年2014/06/25(水) 01:12:25.99ID:M/TkjdYR
三成が家康に歯向かったから。
関ヶ原を三成が起こしたからって意見があるが
じゃあ、三成が何もしなかったら豊臣の天下は続いて
家康は何もしなかったと思うか?

邪魔者が居なくなった家康は、そのまま豊臣を乗っ取っただけだと思うが。
更に言えば、福島や加藤は家康に何も言えないまま、豊臣を売り渡しただろう。

そう思ったから、三成や宇喜田らは行動を起こしたんだろう。
0370人間七七四年2014/06/25(水) 02:04:57.12ID:JiTRJwIp
>>369
そんな甘い見積りで突っ走って徳川の天下を確定させてりゃ世話ないよね。

つうか「秀吉に取り立ててもらって大名になれた。亡き主である秀吉の遺命を果たしたい」
って共通項があるはずの加藤や福島とすら団結できないのに他家と連携とか無理に決まってるじゃん。
案の定頼みにしてた毛利や上杉はそっこーで自家生き残りモードにスライドしたわけでさ。
0371人間七七四年2014/06/25(水) 03:26:06.47ID:M/TkjdYR
無理でもやらざるおえなかったって話しをしてるんだが・・・w
だから、何もしなかったら豊臣の天下は続いたのか?って聞いてるんだけど。
0372人間七七四年2014/06/25(水) 07:17:13.61ID:8G21G2S8
豊臣の世なんてものは秀吉が秀次を殺した時点で終わってたんだよ。
0373人間七七四年2014/06/25(水) 07:51:44.65ID:tAQVI9Rp
端っから詰んでいる豊臣政権
0374人間七七四年2014/06/25(水) 07:53:00.86ID:PkQUbiqt
>>371
消えろ菅沼。
0375人間七七四年2014/06/25(水) 08:05:50.69ID:JiTRJwIp
だって豊臣の天下じゃないと困るのは元秀吉の子飼い大名達だけでしょ?
その子飼い大名達ですら政権維持という大目標のために団結出来なかった。
もうこの時点で仕掛けるタイミングがどうとか以前の問題として終わってるんだよ。
0376人間七七四年2014/06/25(水) 21:18:28.80ID:M/TkjdYR
>>375
そうとは言い切れん。と言うのも、天下人が最初にやる事と言えば
諸大名に負担させて、城や建造物を作らせる事だ。
江戸城建築の諸大名負担は、凄まじかったようだ。

あの大阪城を超える規模で作らせるんだから
当然と言えば当然だな。
0377人間七七四年2014/06/25(水) 21:54:17.11ID:tAQVI9Rp
>>376
豊臣政権はそれに加えて外征という二重コンボだけどね
0378人間七七四年2014/06/25(水) 22:12:59.98ID:PkQUbiqt
>>376
だから黙れよ菅沼。
関係ない話を展開して押し切ろうとしないでね。

>>377
さらに占領失敗で、禄に与える領土も増えず三重苦とも言えるね。
秀吉が長生きして出征が続いていても、負担は莫大になった可能性もあるけど。
0379人間七七四年2014/06/25(水) 22:17:36.64ID:gIj/1LLv
>>369
そもそも三成たち奉行は家康が招聘される10年以上前から政権中枢部で活動していた
もしも奉行が立派に活動していれば家康が招聘されることなどなかった
逆に言えば奉行が政権運営の役に立たなかったから家康が政権に招聘されたわけだから
三成たちが家康に文句を言う資格はないし家康が奉行を無視して新しいアプローチで泰平の世を築こうとしても問題ない
どうしても家康のやり方が受け入れられないならまず家康を招聘せざるをえないほど豊臣をダメにした責任を取って
奉行全員が辞任を表明したうえで家康の打倒を訴えるしかない
単に奉行が政権にしがみつきたいという理由で家康を打倒しようとしても失敗するに決まっている
0380人間七七四年2014/06/26(木) 20:31:02.61ID:P7E77igP
独裁者秀吉の存在があるから奉行による取次が機能した
家康招聘したのは秀吉死後も奉行を機能させるためだろ
0381人間七七四年2014/06/26(木) 22:10:49.46ID:TuAfbQw2
>>380
でも肝心の奉行が家康に歯向かって、目論見を潰してしまったというわけか。
大局を見据えず目先の利益を優先した結果が関ヶ原だって、はっきりわかるんだよね。
0382人間七七四年2014/06/27(金) 01:56:01.07ID:Ulm3+BNg
( ゚д゚)…
0383人間七七四年2014/06/27(金) 19:53:58.16ID:twgIeVwl
同じく、ポカーン
0384人間七七四年2014/06/27(金) 21:06:35.70ID:4ca4XDx7
>>380の的外れなレスを無理矢理解釈したが故の悲劇か
0385人間七七四年2014/06/28(土) 00:57:34.77ID:NGkwIf+o
そもそも奉行というのは独裁者の命令どおりに仕事をするだけの手足でしかない
手足が勝手な考えを持って行動すれば組織を破綻に追い込んでしまう
奉行は余計なことなど考えずに秀吉や家康の言うことにひたすら従い機械的に官僚仕事をしていればよかった
奉行のエゴが豊臣を崩壊に導いたのは間違いない
0386人間七七四年2014/06/28(土) 08:38:54.65ID:VzG15urN
家康も五大老の一人でしかないんですケド(^^:
勝手に前田家を滅ぼそうとしたり、同じ大老の上杉を攻めようとしたり
それって同僚殺しじゃないんですか?
0387人間七七四年2014/06/28(土) 09:46:58.52ID:fDsg/5bS
奉行は豊臣家のために必死に家康の専横に待ったをかけたり
島津の庄内の乱問題で、家康の介入を排除したり
禁止された私婚を連発する家康に対して糾弾したり
さしたる理由もなく前田や浅野に圧力かけて降伏させた家康の暴れっぷりに
大老や奉行連署での弾劾を突きつけるなど
豊臣家のために必死に働いてたじゃん。
総大将の毛利が馬鹿すぎてどうにもならなかったけど
0388人間七七四年2014/06/28(土) 10:19:01.05ID:0OUCP3BW
庄内の乱はむしろ家康介入しなかった方が余計に泥沼だろ。
元はと言えば島津が太閤直々に領地与えた家老を一方的に無礼うちしたのが発端なんだから。
島津は取り潰し喰らっても文句言えない。
0389人間七七四年2014/06/28(土) 10:20:38.87ID:0OUCP3BW
>>386
上杉は大老の責も果たさずに自分とこの領地に戻って戦準備して
掘や最上を侵略する気まんまんだったから討たれて当然
0390人間七七四年2014/06/28(土) 11:51:46.83ID:/vkhadIH
>>389
80年代後半からの上杉は虎の威を借る狐だからね。
惣無事令が布かれてる中で戦を何度もしてるが例外的に黙認されている。
家康としても潰しておきたい相手だ。
0391人間七七四年2014/06/28(土) 11:53:43.80ID:VzG15urN
>>389
上杉は正当な手続きで帰国したんですよ?w
大老の責務と関係ないでしょw

それなら、大老の責務とやらを果たさずに
禁止されてた大名間の婚姻を進めたり
朝廷に献金したりした徳川は討たれて当然でしょw
0392人間七七四年2014/06/28(土) 11:57:22.72ID:t5YXrvWV
上杉は惣無事令が法被される直前に本庄繁長をして羽州荘内を攻め取り、荘内を上杉領として併呑した
0393人間七七四年2014/06/28(土) 13:03:58.90ID:fDsg/5bS
上杉は伊達・最上・堀・結城・南部ら東軍諸侯の大軍に取り囲まれ
徳川の東軍10万も領内に攻め寄せかねない状況でも豊臣家のために必死に挙兵したじゃん。
0394人間七七四年2014/06/28(土) 13:07:40.80ID:aFY6gf3f
>>390
むしろ豊臣が上杉の威を借る狐だった。
天正12年戦役の時も、天正13年の徳川との調略戦でも、しずヶ岳合戦の時も、小田原合戦でも
上杉が信濃に度々侵攻したり、越中で佐々とやりあったり
北条方兵力が集中してる北武蔵や上野の諸城を必死に攻め落としてくれたおかげで
豊臣は敵主力と対戦せずに済むヌルゲーの戦ばかりやってた。
しかし、豊臣は大将の指揮・采配能力に欠如してたので、
そんなヌルゲーの戦でも家臣を大量に討たれたり、300そこそこしかいない雑魚城に攻めあぐねて自力では攻略失敗する始末だった。
0395人間七七四年2014/06/28(土) 13:11:00.15ID:37EYdPrG
景勝の場合は領地拡大ではなく
単純に豊臣家のために挙兵しただけだな。
景勝の周辺には伊達最上堀南部結城秀康など合計自国の3倍以上の勢力に囲まれてて
敵地孤立状態だし
挙兵すればこれに家康の討伐軍まで加わる事になるので、領土拡張どころか瞬殺される状態でしかない。
そんな状況で領地拡張を目的に挙兵とかありえないし、自殺するようなもの。
にもかかわらず挙兵したのは、西軍の連署した家康への弾劾状に基づいて
豊臣軍の一翼として挙兵しただけ。
0396人間七七四年2014/06/28(土) 13:12:00.89ID:fDsg/5bS
本能寺の変の時は、上杉は柴田と睨み合ってて、柴田が動けない要因を作ったし
毛利は秀吉との和議に速攻で応じてくれた。
しずヶ岳の合戦では、毛利は相変わらず確定的ではないが親秀吉的だったし、上杉は佐々を釘付けにして柴田軍のしずヶ岳での動員戦力を削いだ。
小牧長久手合戦〜天正14年の家康恭順までの間は
豊臣と上杉は実際に示し合わせてて景勝は下越や越中戦線を後回しにしてでも
川中島侵攻を優先したから、徳川方は大量の兵を領国に残したし
上田合戦でも上杉は援軍を送ったり、信濃に何回も派兵して、家康方の平岩大久保鳥居依田など大部分の戦力を徳川領内に置き去りにさせる事に成功した。
毛利も秀包を秀吉に援軍として送り、秀吉の要請に従って四国に出兵して、反秀吉方と交戦した。
その後四国征伐九州征伐小田原征伐朝鮮出兵と上杉毛利とも豊臣の平定戦に参加どころか、主力となって、功を立てるほど、豊臣政権にしっかり貢献するほど親豊臣だった。
0397人間七七四年2014/06/28(土) 13:13:49.63ID:fDsg/5bS
西軍

秀頼を擁してる。
大坂城と近畿の大部分を掌握してる。
五大老五奉行の大部分が参加している。
形とはいえ秀頼直属軍が参加している。
公儀と称して改易、加増、転封の強権を発動している。
だから二大老四奉行連合政権は公儀として成立していた。

秀吉親藩の宇喜多は勿論だが
盛親・立花・秀包・筑紫茂成・龍造寺高房・堀内・脇坂・滝川雄利・山崎定勝・蒔田・中江・
長長束・秀信・稲葉貞通・稲葉典通・通重島津・小西・大谷・木下・丹波七頭衆・但馬仁頭・木下頼継・播磨姫路衆・越前東郷衆・戸田勝成・
福原・溝口・上田・寺西・奥山・小川・生駒・青木・青山・太田一吉・垣谷・熊谷・秋月・相良・高橋・伊東・竹中・中川・木村と
多くの豊臣恩顧系・ほとんどの五大老と五奉行と九州大名・畿内大名が西軍だもんな。
東軍なんて何の大義名分もないただのクーデター軍じゃん。


東軍

・大義名分なし
・家康が禁止された私婚で取り込んだだけの連中
・さしたる理由もなく前田や浅野に喧嘩ふかっけて、威圧をかけて降伏させてる。
・自分に対する島津領問題や私婚問題などの糾弾に対し武力で無理矢理排除している。
0398人間七七四年2014/06/28(土) 13:18:02.87ID:37EYdPrG
島津庄内の乱
宇喜多家内紛の処理
毛利家分封問題
小西の九州取次の取り上げ
豊臣政権下禁止された私婚の連発
自分への奉行衆からの糾弾に対し、話し合いではなく武力で排除する。
これが輝元、秀家、義弘、小西らが家康にキレて挙兵した動機だよなあ。
家康は自分以外の大名の弱体化と自派の拡大を謀っていた。
0399人間七七四年2014/06/28(土) 13:57:34.72ID:/vkhadIH
ここにきて菅沼ラッシュか壊れるなぁ。
0400人間七七四年2014/06/28(土) 14:02:40.47ID:37EYdPrG
意見自体は真っ当な内容だけどね。
0401人間七七四年2014/06/28(土) 14:24:44.58ID:0OUCP3BW
>島津庄内の乱
先にも述べたとおり島津の自業自得。家老をろくな理由もなく無礼うちするDQNが悪い。

>宇喜多家内紛の処理
自分とこの家中をまとめられない宇喜多に能力がなかっただけ

>毛利家分封問題
元々、毛利の側から秀元の独立の便宜をはかるようにしてもらっていた。後から実子ができる可能性考慮せずに安易に養子を取ったツケ

>小西の九州取次の取り上げ
朝鮮出兵をグダグダにした戦犯。本来なら処刑されても文句言えない

>豊臣政権下禁止された私婚の連発
そもそも大老トップの家康の裁量で結婚の許可とかできなかったら
全国の結婚適齢期の大名の娘はこぞっていき遅れになる
0402人間七七四年2014/06/28(土) 17:27:59.26ID:/vkhadIH
>>400
だからジエンゴするなよ菅沼遼太。
どれだけスレを荒らせば気が済むんだ?
0403人間七七四年2014/06/28(土) 18:56:38.56ID:/oJ5yfcj
秀包小早川安国寺らと合わせると唯一徳川に対抗できる勢力だった毛利の責任は重い
謀略好きだけど決断力のないボンボン大名の輝元さんは
袁紹とキャラが被るな
0404人間七七四年2014/06/28(土) 18:57:23.83ID:0OUCP3BW
特に宇喜多内紛なんて嫁の実家から付き人で来たやつにいいようにやらせた秀家さんサイドに問題ありすぎや。
0405人間七七四年2014/06/28(土) 20:22:35.19ID:/vkhadIH
>>403
輝元は兄の家系である両川を制御できなかったのは致命的。
いかに3本の矢の教えが重要だったかを教えてくれる。
0406人間七七四年2014/06/28(土) 21:23:12.85ID:JBCh2kNH
安国寺恵瓊が色々と調子こいた面も大きいかと
0407人間七七四年2014/06/28(土) 23:16:25.84ID:/oJ5yfcj
>>404
秀家さんは戦場で十分働いてくれたから許してやって…
毛利石田らと関係なく豊国廟に参詣して戦う決意してんだし
0408人間七七四年2014/06/29(日) 06:24:33.85ID:XbzvRhGA
毛利はどうせなら精一杯戦って負けた方が
降伏の時に譲歩させられただろうにな
0409人間七七四年2014/06/29(日) 12:24:59.86ID:lSZgEvYQ
>>401
結局のところ秀吉時代に奉行連中と親しくなって我侭を見逃してもらった連中が
家康が来てから綱紀粛正のために取り締まりが始まり見逃してもらえなくなったから
不満をためて武力蜂起で家康を排除し自分達が好き勝手できるようにしようとしただけ
こんなものは豊臣のためでもなんでもない自分たちの既得権益保護のためのクーデターでしかない
だから西軍諸大名の戦意は著しく低く大半が関ヶ原で東軍との戦闘を放棄した
家康が不運だったのは奸臣の巣窟と化した豊臣家中に入って改革をしなければならなかったことだろう
これならいっそ新政権に変えたほうがスムーズに改革を行えると家康が考えても仕方がない
0410人間七七四年2014/06/29(日) 16:05:49.74ID:bYaX+T/6
家康が専横していたのは事実だが専横だろうがなんだろうが誰か強い奴がまとめないと
立ちゆきいかんぐらいに豊臣政権なんてものは破綻してた。
九鬼の海賊行為(秀吉存命時は黙認)に対する訴え一つでも大老・奉行でそれぞれ意見分かれてまとまらん有様だったからな。
↑の問題で一番無責任だったのは毛利。立場鮮明にしちゃうと自分のとこで飼ってる村上に文句言われるから。
0411人間七七四年2014/06/29(日) 19:35:02.74ID:lSZgEvYQ
専横なんて言い出したら豊臣はついさっきまで秀吉による完全な専横体制だった
大老にも奉行にも関係ない多くの大名にとってはいつもの体制が続いているくらいの感覚しかなかった
むしろ秀吉の死亡直後の難しい時期なのだから普段通りに治めてもらえる方が安心だろう
西軍なんて大袈裟な名前を付けられているが実態は一部の連中が権力欲しさにギャーギャー騒いでいただけ
だからいざ関ヶ原で戦闘になれば実際に反抗したのはごく少数に過ぎなかった
所詮は石田たちなど声がでかいだけのノイジーマイノリティだったことが証明された
0412人間七七四年2014/06/30(月) 01:57:36.46ID:cUT244RI
良い悪いじゃなくて、ここは西軍の勝利のためのスレなんですが・・・(^^;
0413人間七七四年2014/06/30(月) 07:30:51.07ID:Nc+wAJ+U
結果論だけど大津城と田辺城に無駄に送った兵隊が関ヶ原にいたらだいぶ違っただろうな。
真面目に戦う西軍がもう1,2万もあの場にいたら毛利も日和見せずに山下ったろうし
小早川も東軍の方になだれこんだ可能性も。
なにげに京極さんはキーマンだったのよね。
0414人間七七四年2014/06/30(月) 07:59:12.54ID:rO63MU10
>>412
菅沼以上のド腐れ野郎が建てたスレがそっち専門にある
悪事がバラされて大人しくなったみたいだが未だに粘着してると思われる

もしも、関ヶ原で東軍が勝っていたら 巻の二
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1402413433
0415人間七七四年2014/06/30(月) 09:56:03.02ID:Q7/VX2/d
菅沼以上のど腐れなんか存在するのか?
そのスレ見てきたが誰のことかわからんかった。
0416人間七七四年2014/06/30(月) 13:06:14.65ID:cUT244RI
>>413
田辺に送った兵は1万5000だったか?
その内、関ヶ原に来てたとして、戦ったと思われるのは
立花隊だけだろうな〜 

田辺組が着ても、戦うのは立花4000程度だと思われる。
ちょっと少ないな・・・鍋島は戦わないだろうし・・・
0417人間七七四年2014/06/30(月) 17:27:58.37ID:rO63MU10
>>415
ド腐れ野郎は年表綴ってるやつで度々荒唐無稽な内容の書き込みをしていた
おそらく年表の中でも近代の部分は殆どコイツの書き込みによるもの
前スレでも他人のを否定して自分が正史作ってる状態で
紺碧の艦隊パロでご都合主義を皮肉られてファビョってる
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1328953329

ほかにも別板だが
こんなゾイドオフ会は嫌…(・∀・)イイ!3台目
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/zoid/1403197734
こんなゾイドオフ会は嫌…(・∀・)イイ!2台目
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/zoid/1378793334

ここで話題になっているジャンク収集人コバ(通称主催)って奴なんだが
菅沼と違ってオフ会でのイジメ公認や転売とかリアル方面でも害をバラまいてる
関連性はちょいと長いから分割する
0418人間七七四年2014/06/30(月) 17:32:11.77ID:rO63MU10
20 :名無し獣@リアルに歩行:2014/06/20(金) 23:42:11.92 ID:???
□戦国時代板の空白改行の癖が発覚したら
 (実際に関係のない書き込みならば、いいがかりと言うべきところを)
 ストーカーされてると主催の擁護発言で自白をしてしまう… ようなことはない

□空白改行で作品と製作者の批判、中傷されていた相手の一人が
 ゾイドを作っている会社、タカラトミーに入社したため
 空白改行で中傷してた人は、本社にめでたく認知されてしまった… のはデマである

 ちなみに、社員さんの談で、まさかあの人が中傷やっていたとは、ではなく、
 多分そうだろうと思っていた、だから〜(プライバシー保護のため検閲削除)した。とのこと… なんて言ってないから
 本人に直接その件を、決して聞いてはいけない


簡単に言うとマイナー玩具コンテンツで重鎮ぶっている横暴なクズが
奇しくも同じスタンスでさっき挙げたスレを私物化していたわけ
生産性のない中傷で通ぶるところだけでなく書き込みの特徴すらも一致していて
上記のように擁護で自白までしてしまったオマケつき
玩具製造元にすら個人単位で警戒されている時点で相当だぞ
0419人間七七四年2014/06/30(月) 17:43:47.18ID:rO63MU10
>>416
立花4000がどれだけ日和見している連中に利を感じさせるかが勝負かな
先鋒の福島をメタメタにしたら心が動く大名もいるだろう
他の戦線みたいに拮抗状態では結果は覆らないが
0420人間七七四年2014/06/30(月) 19:58:44.82ID:Q7/VX2/d
>>417
俺には年表作ってる奴も、他人に緋色厨とか言ってる奴も、他人にコバがどうこう言ってる奴も全部同一人物に見えるんだけど違うの?
0421人間七七四年2014/06/30(月) 20:19:37.92ID:rO63MU10
>>420
その可能性もあるかもしれん
前スレの960あたりから悪者扱いされて
不貞腐れてスレ荒らしに化けたという見方もできる

937 :名無し獣@リアルに歩行:2014/06/18(水) 10:37:00.57 ID:???
>>935
むしろ何故そんなに焦って擁護してるのか聞きたいな
在日乙なんて日付変わった途端にほざいた奴もいるけどそれって主催の特徴だろ?
俺とオレとワタシと自らと話を展開するのに疲れたのか?
でも悪名は広まるとネット世界がある現代は収拾がつかないぞ

962 :名無し獣@リアルに歩行:2014/06/19(木) 23:40:18.37 ID:BKYWXA9i
主催が書き込んでいた戦国板のスレが
癖や書き込み時間の偏りで同一人物の証拠出されてから大人しくなっているな
スレを半分以上自演で回してたって可能性も低くはなさそうだ

こういう指摘もある
0422人間七七四年2014/06/30(月) 23:36:53.41ID:sUQwVfvB
西軍の主力であり総大将である毛利一族がどうしようもない馬鹿だったのが痛い。
大坂城に引き篭もったまま、伊勢方面だの伊勢湾だの四国だの北陸だのあさっての方向にばかり兵力を進めて
美濃・近江ラインの防衛をおざなりにして大敗。
もし三成らが総大将の立場なら、石田の7月の戦略通り、三河や遠江に速攻で攻め込んで
一挙に東海道が西軍の支配下となり、
家康は駿河方面で15万〜16万程度の西軍と対決するハメになってた。
輝元の無駄な戦力分散と大坂引き篭もりアホ策が最たる敗因。
0423人間七七四年2014/07/01(火) 00:24:27.18ID:92wbGV7X
>>420
スレ覗いてきたが、他人に緋色厨とか言ってる奴とコバがどうこう言ってる奴、そしてIDrO63MU10が同一人物くさい。
おそらく菅沼だろう。
0424人間七七四年2014/07/01(火) 00:26:25.36ID:ah+hpstc
>>416
立花は田辺じゃなくて大津な。

大津城攻略メンバー 末次元康 立花宗茂 小早川秀包 筑紫広門

田辺城攻略メンバー 小野木重次 前田茂勝 織田信包 小出吉政
0425人間七七四年2014/07/01(火) 00:28:33.12ID:ah+hpstc
>>422
三成が総大将じゃそもそも西軍自体が成り立たない。
三成が自前で用意できる兵隊なんて一族全部掻き集めても1万いくかどうかだし。
0426人間七七四年2014/07/01(火) 00:58:08.17ID:cuhNklAO
>>423
うん、気づいてて乗ってたw
どうやら菅沼くん。自分以上の荒らしとして「ジャンク回収人コバ」なる人物を設定したいらしい。
本人的には戦術変えてきたつもりなんだろうけど、「織田厨、織田厨」てわめいてるのと何のかわりもないよねw
0427人間七七四年2014/07/01(火) 01:05:27.31ID:LMf5gEMM
>>422
尾張に集結した福島黒田たちを仲間と勘違いして
迎撃態勢とらないまま美濃荒らされた石田が総大将なんですか?
0428人間七七四年2014/07/01(火) 01:10:20.96ID:92wbGV7X
>>426
やっぱり気づいてたか。
串刺して自演してる疑いも濃厚だな。
ご苦労なこったw
0429人間七七四年2014/07/01(火) 01:13:34.13ID:ah+hpstc
三成が淀と仲が悪かったのが敗因。
関ヶ原で三成は浅井三姉妹全員を敵に回した。
0430人間七七四年2014/07/01(火) 01:44:38.39ID:cuhNklAO
>>428
実はあのスレで「うっとおしい」で釣りしてたのも俺なんだw
当の本人に頑張って説明してやんのw
WCまでの暇潰しにやったんだけど、アンカも付けてないのに菅沼くんたら毎回この手にひっ掛かってくれて、なんですか、超イージーモードw
0431人間七七四年2014/07/01(火) 01:57:42.54ID:92wbGV7X
>>430
笑える奴だなw
0432人間七七四年2014/07/01(火) 07:33:32.90ID:WhvFehJs
ID:92wbGV7X
ID:cuhNklAO
やっぱり気づいてたか。
串刺して自演してる疑いも濃厚だな。
ご苦労なこったw

自己紹介乙ですな。
書き込み癖や擁護自白って明らかなクロ要素ないのに
決めつけとかかっこ悪い。
それとも俺の書き込みに反するクズは菅沼だって思う池沼?
0433人間七七四年2014/07/01(火) 07:34:29.94ID:WhvFehJs
はっきりいって菅沼遼太?
という架空の人物持ち上げてつまらないんだよ。

菅沼遼太という
虚像を使って核心を避けてその周囲をうねうねと蛇行するかのような、地面すれすれ
のボール球投げていては読者として何が言いたいのか分からない。

「ミミズになってのたくり回っている」ようなものなのである。
もっと背をすっとたてて、愚直に直球勝負してもらいたい。

それが「菅沼遼太」という意味不明なクソ面白くない名前を見せ付けられた
読者の素直な感想だ。
0434人間七七四年2014/07/01(火) 08:59:00.19ID:cuhNklAO
おはよう。
余計なおせわだと思うけど、たまには書き込む時間を変えたほうが菅沼遼太くんだとバレにくいと思いますよ。
0435人間七七四年2014/07/01(火) 10:41:56.24ID:mbWVDaEl
架空の存在で実が存在しないはずの「菅沼遼太」が
なぜかしたらば板で要望つきでNG登録されたり
虚像が拡散されただけで「織田チョンのやってることは完全に犯罪だらなw(原文ママ)」って
誤記するほど焦って犯罪者認定する必要ないと思うんですけどw

http://www26.atwiki.jp/dagamatome/pages/65.html
0436人間七七四年2014/07/01(火) 11:47:11.65ID:KtYre1VU
西軍が勝つなら、先ず情報戦の「じ」の字からやり直せというレベルを何とかしないと
0437人間七七四年2014/07/01(火) 16:19:08.12ID:GOT5Md9y
>>434
菅沼は20行超のバカ長文で織田豊臣age上杉武田sageする分かりやすいレスから
一次資料要求や氏政擁護というやや分かりづらいレスもあるが
基本的にヒキニートのはずだから神出鬼没だぞ?
ニワカか知らんが

>>436
いくら鶴翼で包囲していても戦う兵が少なけりゃ意味がない
無理に西軍に巻き込むより先に派閥広げておけば違ったものを
やはり情報と駆け引きが劣っている
0438人間七七四年2014/07/01(火) 16:39:10.64ID:2/FdTd0e
ドリーミングハウスは日曜日以外毎日8時から18時過ぎまで長期間に渡って周囲に騒音をまき散らさないように
配慮して工事する金儲けより公共の利益を重視するすばらしい会社です
0439人間七七四年2014/07/01(火) 16:56:01.82ID:cuhNklAO
>>437
> >>434
> 菅沼は20行超のバカ長文で織田豊臣age上杉武田sageする分かりやすいレスから
> 一次資料要求や氏政擁護というやや分かりづらいレスもあるが
> 基本的にヒキニートのはずだから神出鬼没だぞ?
> ニワカか知らんが


へ〜〜菅沼くんが織田ageで武田Sagとは初耳だなぁw
ま、興奮すんなよ先輩
0440人間七七四年2014/07/01(火) 19:05:06.51ID:WhvFehJs
>>435
コピペにマジレスとは恥ずかしいな。
菅沼って奴を追い込みたいんなら、勝手にしたら?
的外れな言いがかりをつけられた時以外は、特段俺に被害はないし。
0441人間七七四年2014/07/01(火) 19:57:21.67ID:cuhNklAO
まさか本人からお許しが出るとは思わなかった。
0442人間七七四年2014/07/01(火) 20:44:12.65ID:X2+TrD7Z
>>422
むしろまったく逆で三成が戦略に口出しをして西軍を仕切ろうとしたから
毛利が主導権を握れず積極的な行動が取れなくなった
輝元はもちろん家臣団も三成の指揮下に入ることなど論外であったため
三成が独断で大垣での篭城を放棄し自分主導で関ヶ原をやろうとすれば
吉川に限らず多数の毛利家臣団が不満を爆発させてしまい
輝元も毛利が石田配下でないことを天下に証明するために東軍への不戦を選択せざるを得なくなった
0443人間七七四年2014/07/01(火) 23:53:36.34ID:WhvFehJs
>>442
たられば論だが、毛利も選択を誤らなければ秀吉を討てた存在。
豊臣体制でも五大老まで上り詰め、日本でも有数の大大名として君臨していた。
そんな輝元が格下官僚の言いなりになるわけがない。
石田だから関ヶ原の口火を切れたものの、逆に勝算はなかったと言える。
むしろ上杉が呼応した事が驚くほど。
0444人間七七四年2014/07/01(火) 23:56:05.99ID:WhvFehJs
http://hissi.org/read.php/sengoku/20140701/Y3VoTmtsQU8
http://hissi.org/read.php/sengoku/20140701/OTJ3YkdWN1g
昨日
http://hissi.org/read.php/sengoku/20140630/VUFjRVJXbVY
一昨日(自白済み)
http://hissi.org/read.php/sengoku/20140629/MTFiaGlpMlo

ダボハゼ並の喰いつきのID:cuhNklAOの最初以外も、けっこう時間が固まってる。
どうせID:92wbGV7XもID変えてるんだろうけど。
>>426の戦術も「菅沼、菅沼」に変えれば自分の手口のタネ明かしで、
>>434の時間云々も、以上のように自らへの戒めにしか見えない。
ここまで自爆してくれるとは、素晴らしいコメディアンだな。
0445人間七七四年2014/07/02(水) 00:38:53.91ID:EtEqNms4
>>444
自分がそうだからって他人もID分身の術を使ってるなんて思っちゃいけないよ菅沼くん。
「ジャンク収集人コバ」作戦はどうやら不発に終わっちゃったみたいだから、次の手を考えてね。楽しみにしてるから。
そうそう、ボクは菅沼くんのこと大好きだから、架空の人物みたいに言われるとせつなくなっちゃうな。
0446人間七七四年2014/07/02(水) 11:08:44.38ID:xA2BOe5g
アスペルガーなレスをするのが菅沼遼太
0447人間七七四年2014/07/02(水) 11:45:18.40ID:XnPwWb+K
中2数学の勉強しろよ菅沼遼太
ホイッスルのゲームやってる場合じゃないぞ
0448人間七七四年2014/07/02(水) 13:57:09.26ID:UqIEg1MF
>>442
三成って主力の毛利軍含めた総軍で三河や遠州方面に速攻で攻撃をかける事が肝要とか
7月の書状で書いてて、明らかに東海道筋の戦略を重視してて
当の輝元がこれを無視して大坂に居座り続けたり
伊勢湾や四国や北陸などどうでもいい方面に戦力を分散させて大敗したんだが。
0449人間七七四年2014/07/02(水) 16:31:55.66ID:17MwJq69
>>448
菅沼遼太はまずネット断ちを薦めるよ
0450人間七七四年2014/07/02(水) 17:08:08.47ID:VxX+dJBv
妙に伸びてるなとおもったらやっぱり菅沼君のしわざか
戦国板でやたら伸びてるスレある時は、開いてみると大概菅沼君がハッスルしてるんだよね
0451人間七七四年2014/07/02(水) 22:22:02.00ID:Td+1K3kV
>>448
最もな意見を書くと織田厨がネチネチケチをつけるので無駄。
気に入らない意見だと全て菅沼認定だし。
0452人間七七四年2014/07/02(水) 22:28:17.34ID:17MwJq69
>>451
超理論だな菅沼は
昨日のほうがまともな人格だったのに
ついに織田厨って言葉に頼っちゃったか
0453人間七七四年2014/07/02(水) 23:43:53.31ID:1png42hz
実際この掲示板のアホ書き込みのほとんどは1人の馬鹿織田厨によるものだからな。
頼るもクソもない。
0454人間七七四年2014/07/02(水) 23:59:33.60ID:17MwJq69
>>453
ID変更してまで必死だな菅沼遼太
0455人間七七四年2014/07/03(木) 22:41:59.61ID:d6KoD3gJ
>>448
そうやって三成が不要な口出しするから関ヶ原は三成の私戦の要素が強くなり
西軍大名の多くは士気を保つことが出来なかった
毛利も大将としてのメンツに泥を塗られたせいで身動きがとれず
三成の介入を跳ねのけて自分達が傀儡でないことを示すのがだった
西軍が勝利するためには三成を追放して三成の私戦ではないことを明確に天下に示すべきだった
0456人間七七四年2014/07/04(金) 21:21:10.18ID:lH+C3oT3
>>455
三成は造反されても仕方ないくらいクソだからな
細川強制の顛末といい分不相応な野心を抱きすぎた
輝元も奴の下心など見え見えだったのかもしれん
0457人間七七四年2014/07/04(金) 21:39:11.87ID:x+1MqApA
当時、三成の私戦だなんて思ってた大名いたのか?
0458人間七七四年2014/07/04(金) 22:07:47.57ID:XcKpIOpb
わりとノリノリだった輝元と家康憎しの逆恨みで凝り固まってた宇喜多と
三成のお友達・親戚連中以外は余計なことしてくれたせいで巻き込まれたって感じだったぞ
輝が恵瓊に乗せられるもんだから吉川他が死ぬほど苦労させられた
あいつは大阪の陣のときもやらかすし伊達政宗並にトラブルメーカー。
0459人間七七四年2014/07/04(金) 22:21:30.62ID:dvCb8rdj
輝元は何もせずいたら家康死後は大老筆頭になれただろうに
家康死ぬまで待てなかったのかな
0460人間七七四年2014/07/04(金) 22:23:22.28ID:XcKpIOpb
自分の祖父さんが長生きだったから家康もそんぐらい生きるもんだと思ったんじゃね?
実際そうだったし。
0461人間七七四年2014/07/04(金) 23:32:30.15ID:7/0rHnBI
輝元や秀家は頭が空っぽだから奉行の讒言にすぐに踊らされる
こういうアホが大老になったせいで家康も苦労させられた
天下を安定統治するためには奉行のような奸臣やアホ大老どもを無視して政治を行わざるを得ず
家康は専横者のような言いがかりをつけられる羽目になった
0462人間七七四年2014/07/04(金) 23:47:34.95ID:dvCb8rdj
奉行衆は増田石田長束も行政官僚としては優秀だろ
0463人間七七四年2014/07/05(土) 10:18:44.43ID:BH+3G446
>>459
>輝元は何もせずいたら家康死後は大老筆頭になれただろうに
>家康死ぬまで待てなかったのかな


フイタ
0464人間七七四年2014/07/05(土) 11:01:15.17ID:JG+alNrj
>>462
徳川家の上で一万石程度の代官、数万石程度の年寄位の優秀さかと
0465人間七七四年2014/07/05(土) 11:01:56.14ID:hEaWZUJn
増田は三成のせいで改易くらってカワイソス。裏では徳川に通じてたんだけどな。
家康もほとぼり冷めたら復帰させるつもりあったんだろうがバカ息子のせいで自害するハメに。
0466人間七七四年2014/07/05(土) 12:59:32.63ID:BH+3G446
( ゚д゚)
0467人間七七四年2014/07/07(月) 13:33:25.71ID:MXtUOIqM
田辺城、大津城言ってる奴はバカなのか?
お前ら中山道の徳川本隊の事忘れてるだろ?
大津城の連中が本戦に到着しそうなら家康は本戦の開戦を3日遅らせるだけで
2万以上のお釣りが来る。
田辺城の場合やる気のない小大名の寄せ集めでそのうち何人わざわざ関ヶ原まで
来たかわからんだろww。
0468人間七七四年2014/07/07(月) 16:33:50.20ID:hNPGh+/n
輝元も赤坂の家康着陣の報が届けば出陣すると思うが、さて何日を要するか
0469人間七七四年2014/07/07(月) 16:39:14.03ID:3k7G8alC
>>467
馬鹿はお前だ。田辺や大津は放っておいて
最初から一緒に居たらって話しだろうがw
読解力無さ杉は疲れるはw
0470人間七七四年2014/07/07(月) 17:21:26.98ID:MXtUOIqM
>>469
田辺の連中がわざわざ関ヶ原まで出張って来るとは思えないし、やる気皆無でしょうよ。
大津に関しては立花隊は4000しかいないのだから
広家と元康、秀包の毛利家中での政治的影響力がどっちが上かって話だが
さあどっちだ?
こう考えると関ヶ原西軍勝利の条件って実は簡単なんだよ。
秀吉が秀秋を小早川の養子に送らなければ良かった。
こうなった場合小早川家の跡は当初の予定通り秀包が継いだわけだ。
秀包は毛利家中で安国寺に次ぐ親豊臣派だし
武将としての実績も立花宗茂と並び称されるほど
隆景、元春の代から両川の力関係は小早川家の方が上だし
所領も広家14万石に大して秀包50万石超。年齢もほぼ一緒だし
秀包の場合小早川を相続していたら5大老の一員になってた可能性すらある。
まあ少なくとも毛利家の実権は秀包が握っていただろうから
きちんと毛利vs徳川という構図になったはず。
0471人間七七四年2014/07/07(月) 17:46:04.61ID:RvgVhQwa
隆景が身を挺して秀秋引き受けてなかったら毛利本家が秀秋おくりこまれて乗っ取られてただろうけどね。
0472人間七七四年2014/07/07(月) 18:06:00.40ID:MXtUOIqM
ここが結局晩年の秀吉の判断力が落ちてると言われるゆえんなんだよね。
そもそも元当主が親豊臣の家で次期当主も同様な家に養子に送り込んでも
効果は薄いでしょ。
実子のいない反豊臣系なら龍伯の所で良いんだし。
0473人間七七四年2014/07/07(月) 18:42:25.61ID:P0qED9OS
秀秋を養子に迎えたから隆景は大老になったわけで、秀包が継いだままだと大老の目はないでしょ。
0474人間七七四年2014/07/07(月) 18:43:58.15ID:MXtUOIqM
>>473
別に大老になれなくても秀包がつげばその時点で毛利の最高実力者は
秀包でしょ。
0475人間七七四年2014/07/07(月) 18:53:32.31ID:P0qED9OS
別にそこには言及してないよ。
0476人間七七四年2014/07/07(月) 19:06:45.82ID:RvgVhQwa
>>472
単に秀秋を他家の養子にだして秀頼の対抗馬から引きずりおろしたかっただけ。
どこがいいかなってところで当時、当主に実子のいなかった毛利に白羽の矢が立った。
0477人間七七四年2014/07/07(月) 19:07:46.15ID:MXtUOIqM
>>476
実子がいないなら島津で良いじゃん。
0478人間七七四年2014/07/07(月) 19:10:13.33ID:RvgVhQwa
島津は既に事実上、義弘の方が当主だから。
0479人間七七四年2014/07/07(月) 19:13:20.98ID:MXtUOIqM
>>478
義弘の方は対外的で実際はずっと義久じゃなかった?
だから秀吉も亀寿を人質にして手放さなかったわけだし。
0480人間七七四年2014/07/07(月) 20:02:17.58ID:53Rulrrq
>>477
領土が広く、実子がいなく、豊臣政権に都合がよく、
で、領地的に大坂までの移動が楽、ついでに送り込んでも文句ので無さそうな所。
となれば毛利しかないでしょ。

島津は当主が義久、実権が義弘、
後継は「家久→久保→忠恒」と既定路線。
0481人間七七四年2014/07/07(月) 20:11:28.73ID:MXtUOIqM
>>480
逆じゃなかったっけ?
実権は義久で当主(対外的)が義久だったはず。
毛利だって秀元がいたわけだしさ。
結城秀康だって10万石だし、そこまで領地の広さにこだわる必要ないでしょ。
0482人間七七四年2014/07/07(月) 21:06:16.82ID:MXtUOIqM
あと個人的に関ヶ原最大の謎は北政所が東軍よりなんて無茶苦茶な説がいつまでも
転換されないの?
少なくとも関ヶ原の直前に家康が京都新城の防御機能を壊した事、
西軍副将の宇喜多秀家と豊国社に戦勝祈願の参拝に行ってる事
大津城開城交渉の経緯、家康勝利の報を聞いた北政所が当時の天皇の母の
元に逃げ込んだ事、これだけ揃ってりゃ確実に西軍寄りだった事は確かなのに。
0483人間七七四年2014/07/07(月) 21:28:12.39ID:VEbmMm+g
研究者の間では寧々が西軍なのは常識
マスコミ、文壇、教育関係者が認めないだけ
0484人間七七四年2014/07/07(月) 21:29:32.00ID:hNPGh+/n
1つ目は中立表明
2つ目は会津征伐と判断した
3つ目の前段はあくまで奥向トップとして松の丸や常高院を守るため
3つ目の後段は西軍の敗残兵や東軍から難を逃れるため
とも考えられる

豊臣家の奥向は秀頼も含め、中立だったかと
0485人間七七四年2014/07/07(月) 21:41:48.49ID:MXtUOIqM
>>484
4つ目はちょっと無理無いかい?
慌てて裸足で逃げ込んだって記録があるのに。

それに北政所の実家の人間は関ヶ原では秀秋以外は中立か西軍。
肝心の秀秋は北政所が全く可愛がらなかった事を秀吉に叱責されてる文章まで残ってる。
西の丸退去の一件は追いだしたって内府ちかいの条々に書いてあるしさ。
辰姫の一件だってある。
逆に淀は大野治長が東軍だったりするのにそれはスルー。
俺は淀が中立で北政所は西軍だとしか思えないんだけど。
0486人間七七四年2014/07/07(月) 21:50:54.64ID:hNPGh+/n
>>485
北政所は西軍蜂起前後に撹乱を生じたとしている
これが本当か詐病のいずれでも西軍蜂起に同意したとは思えんけど

西軍よりとする行動は畿内が西軍に制圧された状況に対する
愛想に過ぎたいと考えています
0487人間七七四年2014/07/07(月) 21:57:54.10ID:MXtUOIqM
>>486
大阪城の陣の時に大阪城に入ろうとして家康に京都を封鎖された一件は?
北政所撹乱って木下家の相続争いの一件でしょ?
あれ家康が難癖つけて木下家を取り潰したかったとしか思えないんだけど。
0488人間七七四年2014/07/07(月) 22:04:37.72ID:RvgVhQwa
北政所は自分から積極的になにかするって感じではなかったんだろう。
強いて言うならその場の状況任せで西軍よりって感じで。
淀の方は徹底して三成信用してなかったから立場上は中立だけど
心情的には東軍寄りだったと思う。
京極高次が大津城で立てこもったのも姉の心情組んだ初の影響かもな。
0489人間七七四年2014/07/07(月) 22:05:29.70ID:hNPGh+/n
>>487
軍事行動を発動した後で大坂城に入られても困るだけかと
後撹乱は関ヶ原合戦で西軍が挙兵した際
0490人間七七四年2014/07/07(月) 22:08:22.59ID:MXtUOIqM
>>488
これについては同意。

>>489
後撹乱は関ヶ原合戦で西軍が挙兵した際 >これは初耳。
0491人間七七四年2014/07/07(月) 22:15:21.16ID:hNPGh+/n
>>490
『時慶卿記』の7月10日の条に記述がある
0492人間七七四年2014/07/07(月) 22:31:55.75ID:MXtUOIqM
やっぱり利家が早く死に過ぎたな。
0493人間七七四年2014/07/07(月) 22:32:58.28ID:P0qED9OS
えらい話が飛んだな
0494人間七七四年2014/07/07(月) 22:35:25.58ID:MXtUOIqM
>>493
どうIFを想定しても利家が死んだ時点で詰んでるんだもの。
0495人間七七四年2014/07/07(月) 22:44:27.13ID:j+wFEsi4
利家が生きていたら詰んでいなかったと?
0496人間七七四年2014/07/07(月) 22:49:30.62ID:P0qED9OS
よし、家康が生まれる前まで話を戻すんだ!
0497人間七七四年2014/07/07(月) 22:49:41.32ID:MXtUOIqM
>>495
7将のうち4人利家についてるんだぞ。
0498人間七七四年2014/07/07(月) 22:54:12.43ID:j+wFEsi4
3人はついてないの?
0499人間七七四年2014/07/08(火) 01:42:37.51ID:S3qifBmw
単純に家康に天下取らせない、ということで巻き戻すのであれば北条討伐後時点で

・家康の処遇(何だかんだで手当ては必要)
・旧北条領を誰に任せる?

秀吉本人は東北征伐後、さっさと唐入りしたいだろうから
人選は慎重に選ばないと。
そいつが第2第3の家康にならないようにしないといけないからさ。
0500人間七七四年2014/07/08(火) 07:46:27.70ID:wvLh0XM4
>>499
関東征伐への段階の家康の所領は130万石ほど。
懲罰的でない転封なら所領増加は止むをえなきから200万石弱は最低でも必要。
でもこれは同等程度の土地の場合
秀吉の目的は交通の要地の東海から家康を切り離す事にあるので
東海から関東の僻地に飛ばされた分を考慮すると250万は妥当。
そもそも濃尾平野から畿内のラインから家康を遠ざけた上で
200万石確保しようとすると関東平野か北九州しか土地が無い。
0501人間七七四年2014/07/08(火) 09:32:34.75ID:Jgr6bZmg
>>500
会津上杉みたく、いびつな形で移封は出来なかったろうか
信濃、甲斐、武蔵、下野みたいな感じで
0502人間七七四年2014/07/08(火) 15:03:47.21ID:S3qifBmw
>>500
つまり「北条征伐時点まで巻き戻しても結果は一緒、もっと前に戻さなければ」ってことだね?
どこまで戻せばいい?
0503人間七七四年2014/07/08(火) 15:40:40.88ID:Lh903gwy
>>502
誰がそんな事言ったよ?
選択肢としては前田がもうちょっと長生きする。
上にもあるけど秀秋を小早川に送り込まない。(きちんと殺しておく)
家康を朝鮮に渡海させる。
これだけで全然違うはず。
0504人間七七四年2014/07/08(火) 16:32:29.19ID:hGtnqt5b
なぜ家康を渡海させなかったの?
0505人間七七四年2014/07/08(火) 16:48:13.91ID:S3qifBmw
>>503

・利家を長生きさせる、っていくつまで長生きなら家康の勝ちの目を潰せるの?
・秀秋を抹殺するってことは豊臣政権にはダメージあるけど、意味無き抹殺はマイナスにしかならないよ?
・家康を渡海させるさせるなら輸送数的に考えてどこかと交代しないと家康が出せない。
数的には毛利を徳川と交代させるのが妥当だけど、そういう認識でいいのかな?
0506人間七七四年2014/07/08(火) 16:51:17.84ID:HIoRLBEJ
>>505
最低でもあと5年。娘婿の秀家が政治的に自立するまで。
秀次事件は最上の娘筆頭に豊臣恩顧とか秀次にかかわった人間すべてを抹殺したからの
ダメージであって秀秋一人なら大してダメージはない。
0507人間七七四年2014/07/08(火) 17:52:33.87ID:toopeRiF
>>504
家康は東国の面倒を見ています
0508人間七七四年2014/07/08(火) 18:21:24.84ID:7iWVobL+
面倒って?
0509人間七七四年2014/07/08(火) 18:29:56.38ID:hGtnqt5b
>>507
じゃあ「家康渡海は無理」てことでいいの?
0510人間七七四年2014/07/08(火) 19:23:15.61ID:Z0Pec2iW
>>508
すぐ上の奥州は火種状態。会津与えた蒲生家が氏郷死んでからグダグダになったし。
とてもじゃないが家康を関東から動かせる状況でなかった。
ちょっとでもタガが緩めば奥州・関東発でまだ戦国時代に逆戻りという。
実際、秀吉死んだら上杉は旧領回復しようとやりたい放題だったしなあ。
0511人間七七四年2014/07/08(火) 19:23:54.14ID:toopeRiF
>>508
伊達と蒲生の喧嘩の仲裁とか
>>509
難しいかと
0512人間七七四年2014/07/08(火) 19:32:10.33ID:hGtnqt5b
なら結論は
「豊臣政権に必要不可欠な徳川家康が、秀吉の死後、当たり前のように天下を取った」
てこと?
0513人間七七四年2014/07/08(火) 20:10:10.46ID:Z0Pec2iW
だいたいそうなる。
本来なら君主が代替わりしても政治が機能する官僚制度による中央集権を確立すべきだったんだが
そのために費やすべき労力を唐入りで無駄遣いしてしまったのが大失策
秀次事件で藩屏となる親族を軒並み潰してしまったのがトドメ
0514人間七七四年2014/07/08(火) 20:24:05.38ID:S3qifBmw
・・・ここ妄想スレなんですが・・・。
0515人間七七四年2014/07/08(火) 20:38:30.65ID:wvLh0XM4
利家は?
0516人間七七四年2014/07/08(火) 20:48:27.87ID:hGtnqt5b
そうは言うけど正直なとこ、みんな
「関ヶ原では遅すぎる」
と思い始めてない?
0517人間七七四年2014/07/08(火) 21:06:41.94ID:S3qifBmw
関ヶ原本戦の時点で「ほぼ7〜8割は徳川の勝ち」と思ってる。
色々シミュレートしてみても「西軍が勝とうが東軍が勝とうが豊臣の一人勝ち」
に辿りつけないんだもん。
0518人間七七四年2014/07/08(火) 22:16:30.93ID:ZjYpM/KO
>>514
既に100レスくらい前に誘導あったが、キチガイが粘着してパーになっているな。
0519人間七七四年2014/07/08(火) 22:17:40.60ID:ZjYpM/KO
一応持ってくるか。
今は両方とも菅沼認定厨が消えてるから平和だが。
ttp://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1402413433
0520人間七七四年2014/07/08(火) 22:25:00.06ID:DuSCKfTI
輝元次第では西軍勝てたんじゃないか
家康と違って輝元なら豊臣政権の中で権勢振るったと思う
増田が上手く補佐するだろうし
宇喜多も抑えになるしな
0521人間七七四年2014/07/08(火) 22:27:06.57ID:Z0Pec2iW
まあ西軍が勝った場合は上杉が東国でほぼ独立国と化して
徳川のいたポジションに毛利が滑り込むだけだろうからな
豊臣から見れば徳川に牛耳られるか毛利に牛耳られるかの違いでしかなく
毛利だった場合は徳川のそれよりも不安定な政権になること請け合いという
0522人間七七四年2014/07/08(火) 22:29:56.69ID:Z0Pec2iW
>家康と違って輝元なら豊臣政権の中で権勢振るったと思う

意味不明。家康は「豊臣第一の家臣」として権勢ふるってたんだが。関ヶ原当時は。
毛利も力強くなって豊臣本家凌駕するようになったら徳川のようにとって変わるよ
0523人間七七四年2014/07/08(火) 22:33:30.63ID:hGtnqt5b
だな。能力的な違いはあれど、いく道は家康ルートだろ。
0524人間七七四年2014/07/08(火) 23:01:04.24ID:EljbG2vR
西軍

秀頼を擁してる。
大坂城と近畿の大部分を掌握してる。
五大老五奉行の大部分が参加している。
形とはいえ秀頼直属軍が参加している。
公儀と称して改易、加増、転封の強権を発動している。
だから二大老四奉行連合政権は公儀として成立していた。

秀吉親藩の宇喜多は勿論だが
盛親・立花・秀包・筑紫茂成・龍造寺高房・堀内・脇坂・滝川雄利・山崎定勝・蒔田・中江・
長長束・秀信・稲葉貞通・稲葉典通・通重島津・小西・大谷・木下・丹波七頭衆・但馬仁頭・木下頼継・播磨姫路衆・越前東郷衆・戸田勝成・
福原・溝口・上田・寺西・奥山・小川・生駒・青木・青山・太田一吉・垣谷・熊谷・秋月・相良・高橋・伊東・竹中・中川・木村と
多くの豊臣恩顧系・ほとんどの五大老と五奉行と九州大名・畿内大名が西軍だもんな。
東軍なんて何の大義名分もないただのクーデター軍じゃん。


東軍

・大義名分なし
・家康が禁止された私婚で取り込んだだけの連中
・さしたる理由もなく前田や浅野に喧嘩ふかっけて、威圧をかけて降伏させてる。
・自分に対する島津領問題や私婚問題などの糾弾に対し武力で無理矢理排除している。
0525人間七七四年2014/07/08(火) 23:01:55.44ID:OiYWqI8w
景勝の場合は領地拡大ではなく
単純に豊臣家のために挙兵しただけだな。
景勝の周辺には伊達最上堀南部結城秀康など合計自国の3倍以上の勢力に囲まれてて
敵地孤立状態だし
挙兵すればこれに家康の討伐軍まで加わる事になるので、領土拡張どころか瞬殺される状態でしかない。
そんな状況で領地拡張を目的に挙兵とかありえないし、自殺するようなもの。
にもかかわらず挙兵したのは、西軍の連署した家康への弾劾状に基づいて
豊臣軍の一翼として挙兵しただけ。
0526人間七七四年2014/07/08(火) 23:02:39.69ID:DuSCKfTI
輝元には家康ほどの人望はないから家康みたいにはならんだろ
0527人間七七四年2014/07/08(火) 23:02:41.36ID:+LnWZXUy
島津庄内の乱
宇喜多家内紛の処理
毛利家分封問題
小西の九州取次の取り上げ
豊臣政権下禁止された私婚の連発
自分への奉行衆からの糾弾に対し、話し合いではなく武力で排除する。
これが輝元、秀家、義弘、小西らが家康にキレて挙兵した動機だよなあ。
家康は自分以外の大名の弱体化と自派の拡大を謀っていた。
0528人間七七四年2014/07/08(火) 23:12:46.13ID:pTqWkgOK
毛利は関ヶ原だけではなく
本能寺の変やそれ以前の天正年間や元亀期の攻防など
天下を取れる棚ボタ幸運に何回も恵まれてるが
両川や輝元の馬鹿な戦略判断によって悉くチャンスを潰して
減封喰らってるからな。
毛利は武将が有能といわないまでも平均レベルなら天下取れる幸運は何回も得てるが
ずば抜けて馬鹿だから何回も棚ボタラッキーチャンスを悉く潰してる。
0529人間七七四年2014/07/08(火) 23:14:54.18ID:hGtnqt5b
>>526
最後まで成功するかどうかはわからんけど「関ヶ原に勝った輝元」なら人望はあるだろ。
まぁ、能力的に???な人だから、どっかでチョンボするとは思うけどさ。
0530人間七七四年2014/07/08(火) 23:42:12.70ID:CKasbaNz
関が原以前までifが許されるんだったらやっぱり秀次事件を起こさないってのが一番なんだよな
そうすると関が原がなくなっちゃいそうだけど
0531人間七七四年2014/07/08(火) 23:57:09.29ID:ZjYpM/KO
>>530
小田原征伐に勝つには、御館の乱に積極的に関与して景勝を潰すのが得策というのに近いな。
他にも、明智が天下取るには明智の使者が無事に輝元に接触するとか、
柴田が羽柴に勝つには上杉と和睦して明智誅殺の筆頭になるとか、前段階から変わればという物は多いと思う。
0532人間七七四年2014/07/08(火) 23:57:38.31ID:E4LpbXHE
>>530
関ヶ原の戦いなんてこだわらなくてもいいんじゃない
ようは豊臣家を守れればいいわけだし三成なんかも邪魔になるなら排除しても構わない
0533人間七七四年2014/07/09(水) 07:40:24.67ID:RAveOHSW
菅沼くんはいまだに毛利分封なんてあげてるのか。
あれ毛利の方からどうにかしてくれと頼みこんだ案件なのに。
0534人間七七四年2014/07/09(水) 07:49:39.44ID:RAveOHSW
一連の流れ

輝元、実子がいなかったので従兄弟の秀元を養子にして秀吉も認可。この際、輝元に実子が生まれたら秀元を分封すると確約
→輝元に実子誕生、秀元は嫡子を辞退。朝鮮出兵のゴタゴタで分封問題は一時棚上げ
→そうこうしている内に秀吉死去。勝手に領地の配分できないからどうすべかと困ったんで申し入れる
→秀吉生前の約束通り毛利領から約17万石を秀元に正式に分封する

これでなんで家康が恨まれるのか訳がわかりません。菅沼君の思考回路は謎。
0535人間七七四年2014/07/09(水) 08:02:32.55ID:uRdBh2Fc
>>534
スレ遡れば分かるが既にボコボコにされたコピペだぞ。
あんな内容をマンセーするなら、流石に菅沼かと疑いたくもなる。
0536人間七七四年2014/07/09(水) 08:28:26.64ID:xFJNe4eB
朝鮮人からすると、家康の専横は綺麗な専横なんだなw
0537人間七七四年2014/07/09(水) 09:28:40.61ID:fooL2+cW
失敗政権の尻ぬぐいだからな
0538人間七七四年2014/07/09(水) 13:30:17.57ID:xFJNe4eB
・禁止された婚姻破り

・朝廷への献金

・同じ大老への弾圧

・禁止されていた加増勝手にやる(しかも豊臣の領土)

これで私心が無い根拠ってなんだ?
ただのハイエナじゃねーか。
0539人間七七四年2014/07/09(水) 22:39:45.86ID:GXvXw6ze
>・禁止された婚姻破り
別に婚姻は禁止されていない
大老の許可があれば問題ないことは遺言にも明記されており
筆頭大老が許可しているのでまったく問題はない

>・朝廷への献金
朝廷への献金は秀次を糾弾する時にも使われた常套句であり
奸臣が騒ぎを起こす時のいつものパターンだから論外だろう

>・同じ大老への弾圧
これは他の大老が近隣の大名とトラブルを起こしたり御家騒動を起こしたりした結果に過ぎない
悪いのは他の大老であり家康は問題を押し付けられた被害者だろう

>・禁止されていた加増勝手にやる(しかも豊臣の領土)
関ヶ原前の加増は全て朝鮮で戦った大名への褒賞であり
豊臣は自分で朝鮮出兵に起こして諸大名をこき使っておきながら
秀吉が死んだらドサクサ紛れに兵役の対価を踏み倒そうとしている
豊臣の行為の方が遥かに許されないことだろう
それに関ヶ原については謀反を起こした三成たちを成敗した東軍大名に対して
豊臣が恩賞として自分の領地を差し出すのは当たり前なので何の問題もない
0540人間七七四年2014/07/09(水) 22:59:23.80ID:Tw53lkCO
こういう強弁の言い合いってはたから見てるとあほらしいな
0541人間七七四年2014/07/09(水) 23:08:31.01ID:GXvXw6ze
むしろ豊臣崩壊の原因は強欲な奉行連中だろう
奉行連中は少しでも気に食わないことがあるとすぐに不満を爆発させ
関白だろうが筆頭大老だろうが構わずに騒ぎを起こして排除しようと謀略を企ててきた
誰よりも豊臣の秩序に従わないければいけない奉行が秩序を破壊し続けているのだから
豊臣が政権として存続することは不可能だった
0542人間七七四年2014/07/10(木) 17:16:16.00ID:vGSLokCN
三成が私腹を肥やしてなかった事は
当の家康の手によって佐和山落城の際に証明されたぞ。
0543人間七七四年2014/07/10(木) 17:25:33.63ID:16cT26C6
際立って戦を得意としたわけでもなく人望もそこまででもないのに
経験豊富なうえに剛勇な三河武士を従えている徳川と戦おうとした事が間違い。
大人しく軍門に下って官僚になっていれば安泰だったと思う。
もしくは秀次事件など著しく豊臣政権が弱る事態が発生しなければ関ヶ原も起こらなかった。
0544人間七七四年2014/07/10(木) 21:28:11.76ID:zuULLmS+
>>542
政権復帰を企み全財産をはたいて破産したことと
私腹を肥やしていたかどうかは無関係だろ
0545人間七七四年2014/07/10(木) 22:16:48.79ID:9yuLRlja
徳川軍団の中で三河武士なんてほんのごく一部だし
大久保や鳥居や榊原や酒井は関ヶ原本戦に参戦すらしてないじゃん。
0546人間七七四年2014/07/10(木) 22:18:43.88ID:Nw78y33j
前田や浅野みたいなただのヘたれや
毛利みたいな雑魚に大封与えるくらいなら、石田らに120万石だの与えてたら間違いなく豊臣政権は安泰だった。
三成は豊臣蔵入り地を少しでも確保しようと島津の領土問題に立ち入ったり
家康の専横に異を唱えたりと東奔西走した。
不運は、武功派連中がアホすぎて豊臣への恩を忘れて家康にマンマと篭絡される形になったこと。
東軍なんて徳川勢以外は、三成にくしで凝り固まってたアホ武功派くらいしかいないからな。
0547人間七七四年2014/07/10(木) 22:19:30.82ID:sJbOR81a
西軍なんて三成が考えてた作戦通り戦ってたら100%勝ってたのに
三成ら奉行衆らの早期での三河・遠州方面への侵攻作戦をアホ輝元が無視し続けて
東軍が三河を越えて尾張までやってきても、輝元は奉行衆らからの防衛要請を無視し続け
結局大破されただけ。総大将がここまでアホでは黒田だろうが石田だろうが、現場指揮官が誰でも勝てるわけがない。
むしろ石田は畿内だけで18万もかき集めて家康に決戦しかけるなどかなりよく頑張ったしな
0548人間七七四年2014/07/10(木) 22:23:35.14ID:sJbOR81a
福島黒田藤堂らは戦闘が専門の武断派なのにもかかわらず、
戦闘が専門外の奉行の石田や小西や大谷らに翻弄されまくるアホっぷりだしなぁ
元々石田らは家康派だったのが、家康が西軍に喧嘩売りまくってたから、
都合よく利害が一致したおかげで恩を受けた豊臣家への忠心を忘れて
憎しみに凝り固まってた武功派は、たまたま運よく家康の元に参じる事ができ、
家康が毛利や小早川らを調略してくれたおかげで、自力では歯が立たなかった西軍奉行衆になんとか勝てただけ。
悉く棚ボタ金魚の糞大名なのが豊臣武功派連中。
0549人間七七四年2014/07/10(木) 22:24:37.53ID:6J/Eu0Hk
武断派とかいわれても実際の具体的戦功や功積なんて皆無だからな
朝鮮半島で主に活躍してたのって小西宇喜多立花あたりで加藤とか福島とか悉く何もやってないし
0550人間七七四年2014/07/10(木) 22:57:48.09ID:vGSLokCN
そう、豊臣の武断派って、他に挙げる特徴が無いから
言ってただけだよなw

清正は強いが、他は全員雑魚に等しい。
健康体なら大谷は文武両道の良将だが。
0551人間七七四年2014/07/10(木) 22:59:34.26ID:vGSLokCN
それと、三河武士強兵伝説も徳川が後世に流布しただけで
実際は強くもなんともなかったってのが、学会での定説だ。
0552人間七七四年2014/07/11(金) 08:12:36.43ID:DMSl7iqP
三河武士が強くはないというのは同意だが
徳川幕府は強く流布なんてしてないし
むしろ司馬とか馬鹿な小説家が流布しただけだろ。
0553人間七七四年2014/07/11(金) 08:14:24.03ID:kdKGxTee
清正って強いといわれるような戦なんて一つもないだろ。
朝鮮出兵で活躍してたのって立花とか小西とかで清正は悉く何もやってないし
0554人間七七四年2014/07/11(金) 12:32:16.39ID:rVNyd/r0
小西はねえは。奴は外交詐欺働いて戦線引っ掻き回しただけだろ。
本来なら斬罪に処されても文句いえない大罪人。
0555人間七七四年2014/07/11(金) 20:49:48.50ID:W+kapsJT
いや、小西は朝鮮で確かな軍功を挙げてるよ。
それすら知らないのか?清正は軍功をでっち上げて
秀吉の勘気に触れた。

それを三成のせいだと逆恨みして、朋友を誘って襲撃しようと
までした。

器量はあると思うが、いかんせん単純思考すぎる。
0556人間七七四年2014/07/11(金) 23:43:44.21ID:etbjfV8c
その報告書を書いているのは文治派なんだから信用は出来ないだろ
日本国内の戦いなら難しいかもしれないが遥か海の向こうの戦いの報告なら
小西の軍功をでっちあげて加藤の軍功を揉み消すなんて簡単だろう
実際に講和交渉で秀吉を騙した奴らが軍功報告だけ正直だなんてむしろ考えにくい
加藤以外の多くの大名が文治派の報告に不満を露にしていることからも小西の軍功がデタラメである可能性の方が高い
0557人間七七四年2014/07/12(土) 11:52:17.02ID:21dQ5qRY
>小西の軍功をでっちあげて加藤の軍功を揉み消すなんて簡単だろう

それをやった。もしくはやろうとした証拠や根拠ってあるの?
0558人間七七四年2014/07/12(土) 20:04:37.50ID:I7pfiLQU
実際に秀吉の死後は文治派の報告で決まった処罰や恩賞のほぼ全てが取り消されているからな
家康の人気取りだとか専横だとか言われるが逆に言えば(文治派を除く)皆がそれを望んでいたわけで
朝鮮での賞罰がデタラメで論外なのは当時の全員が分かっていたことだろう
ただ秀吉の決定である以上は死後とはいえそれを取り消すことができるのは家康しかいなかっただけ
0559人間七七四年2014/07/12(土) 21:38:00.66ID:21dQ5qRY
朝鮮出征の当時は秀吉は生きてるだろ?
朝鮮における、奉行達の捏造の話ししてんじゃないのか?
証拠や根拠が無く、想像ですって言えばいいじゃないか。
0560人間七七四年2014/07/13(日) 09:09:38.20ID:Zz9oa51F
>>558
武断派の怒りが収まらないから
仕方なくそうなっただけ
朝鮮の恩賞が出鱈目だった訳ではない
0561人間七七四年2014/07/13(日) 12:11:47.04ID:33bwBgaw
結局秀吉に子宝が恵まれなかったことが大きいんだよ
信長麾下の間に側室って儲けることはできなかったのか
0562人間七七四年2014/07/13(日) 16:48:28.65ID:5zIzVCT3
朝鮮の論功行賞が不十分だったのは秀吉の老害によるところが大で
奉行連中は痴呆老人の指示のままに動いただけやけどね。
そりゃ秀吉死ねば恨みの矛先がそっち向くわ。
本来なら秀吉に向けられるべき恨みつらみだが。
0563人間七七四年2014/07/13(日) 17:15:57.06ID:Zz9oa51F
武断派が自分に都合のいい報告だけ送ってたのは事実
武断派の報告信じて朝鮮に行った奉行衆は現状に驚いて
ありのまま秀吉に報告しただけだろ
0564人間七七四年2014/07/13(日) 21:00:20.80ID:P7wMW5CC
現状に驚いたところで関白降表を書いて明に渡したのは捏造としか言えないだろ
0565人間七七四年2014/07/13(日) 21:56:58.30ID:A/8P6pkS
既に秀吉が病に臥せって、戦える状態じゃないからな。
和睦するにはそうするしかなかっただろう。

それについて、三成ら奉行衆らが格別に特をする訳じゃない。
完全に日本国全体のために動いただろう。

更に、奉行衆らだけが主導して動いたと思うか?
おそらく、如水辺りは絶対関わってたぞ。
0566人間七七四年2014/07/13(日) 22:42:45.48ID:EGhM9q0L
おそらく、絶対、w
0567人間七七四年2014/07/15(火) 22:48:45.07ID:KifQk4O2
>>547
そもそも三成には西軍の作戦を考える権利などない
毛利を含めて西軍の誰も三成を指揮官と認めてなどいないし
そもそも官位も石高も戦経験もしょぼくて現場とトラブルばかり起こす三成が
「僕の考えた最高の作戦」を披露したところで諸大名は白けて士気をなくすだけ
三成がしゃしゃりでて口出しをしたせいで西軍は戦意喪失に追い込まれて戦闘が困難になった
こんな素人の仕切りたがり屋がいては毛利であろうとなかろうと勝ち目はなかった
0568人間七七四年2014/07/15(火) 22:59:01.63ID:xKrMw8DF
ゴミみたいな主張だな
0569人間七七四年2014/07/15(火) 23:41:06.51ID:5PfI1rQm
淀をたらしこめなかったことが全て。
淀さえ籠絡していれば秀頼御旗に西軍の士気も大義名分も大いに高まり
東軍の戦意を大きく挫くことも可能だったろうし大津城の京極が東軍につくこともなく
無駄に兵をロスすることもなかった。
0570人間七七四年2014/07/26(土) 01:22:13.36ID:ch8EvkC5
後から考えたり、結果を知っているとターニングポイントを感じららるがその時その当事者は…。

お前さんや俺の細やかな人生でさえ、あの時が頑張りどころだったな、あれだけはやるべきだったと今になって過去の分岐点について当時とは違う見方や判断をするように。

当事者はその時々で最善を尽くすのみ。
それが正しいかどうか客観性と100%の確信などはどうやったって得られないんだから。
0571人間七七四年2014/08/03(日) 21:17:00.64ID:e/iBGVRe
総大将の考えがその当事者にとって絶対的に正しいこと
未来も過去もなくこれが軍隊における鉄則なわけ
そして三成は西軍の大将でもなんでもなく本人が勝手に大将気取りをしているだけ
だから西軍大名は三成の考えに従う必要などまったくなかった
むしろ総大将たる毛利が戦闘を忌避したなら西軍大名は同じ様に戦闘を忌避しなければいけない
関ヶ原は軍隊として当たり前のことが遂行されただけで後から振り返って違う見方をする必要など何もない
関ヶ原で西軍の大半が戦闘を忌避したことは客観性と100%の確信を伴った結果だったといえる
0572人間七七四年2014/08/03(日) 21:51:52.44ID:EJ6hu6zI
別に毛利の家来いうわけでもないんやで?
0573人間七七四年2014/08/05(火) 20:10:45.81ID:k/Z5mlae
>>571
>関ヶ原で西軍の大半が戦闘を忌避したことは客観性と100%の確信を伴った結果だったといえる

確信してたら西軍に参加しないで篭城でもしてただろうよw
0574人間七七四年2014/08/05(火) 20:11:28.91ID:k/Z5mlae
当の家康本人ですら、金吾が裏切るかどうかで
戦場で火病起こしてたっつーのにw
0575人間七七四年2014/08/05(火) 21:09:02.12ID:Q52D9xoh
むしろ家康よりも官位も石高も全てが圧倒的に低い三成が
何の心配もせずに関ヶ原に行ったことがおかしいだろう
普通なら三成の方が裏切られるんじゃないかと恐れて警戒するべきだろうに
小早川なんて三成よりも官位も石高も上なのに何で三成の言うことを聞いて素直に戦わねばならないのか
家康ではなく逆に三成の無警戒ぶりが異常と言える
0576人間七七四年2014/08/05(火) 21:22:19.09ID:ahQhHjmk
三成は西軍主力を自爆させて、天下を徳川に献上しようとしたのかもね。
0577人間七七四年2014/08/06(水) 16:38:57.23ID:OWWoHGx1
>>575
大筋同意なんだが、まず三成が主導だったのか?って所に
疑問点がある。

司馬遼太郎の関ヶ原のせいで、西軍=三成主導ってイメージが出来上がりすぎだろう。
発案者と云うか、発端者は三成だろうが、西軍が出来上がってからの主導は
大将は毛利で、実働は宇喜田だろう。

で、三成が安心しきっていたように見えるのは、自分は発案者に過ぎないと
思ってたからじゃないか?
0578人間七七四年2014/08/06(水) 16:43:46.04ID:OWWoHGx1
ところで、毛利や宇喜田は調略活動はしなかったのかね?
東軍は、家康がしなくても黒田長政や藤堂高虎なんかが
率先してやっていたが・・・

毛利や宇喜田くらいの実力者の勧誘なら
多少なりとも東軍で動かせた連中も居たんじゃないかと
思うんだがなぁ。
0579人間七七四年2014/08/06(水) 16:57:15.12ID:eC4sWoE1
>>578
やっていたけど後世まで証拠になる手紙が遺されていないんだろうな。
敗軍の将からの手紙なんてどんな災いをよぶかわからんし、処分しちゃうだろ。
0580人間七七四年2014/08/06(水) 16:59:17.11ID:hxQpC07j
大坂から正則や長政に手紙は来ていたようである
直ぐ様本多正純にチクったけど
0581人間七七四年2014/08/06(水) 18:24:42.78ID:3UhwXcgU
その時期の手紙といえば山内一豊の逸話が思い出されるけど
東海道筋の諸大名が軒並み東軍についたのはやっぱ痛いな
0582人間七七四年2014/08/06(水) 20:17:54.42ID:OWWoHGx1
東海道筋の大名が根こそぎ徳川に付いたのは痛いが
福島を除いて、みんな10万石そこそこだからな・・・
そんな小身で反徳川やれって言われても無理ゲー過ぎるだろ・・・
家康嫌いな俺でも無理だわw
0583人間七七四年2014/08/06(水) 21:01:27.66ID:jjNGVTcw
東海は宇喜多にやればよかったんだよな
徳川上杉のように家臣と土地を切り離せば
家中のゴタゴタも起こらなかっただろうし
0584人間七七四年2014/08/06(水) 21:45:03.62ID:hxQpC07j
移封時点で空中分解しかねん>宇喜多
0585人間七七四年2014/08/07(木) 17:14:49.78ID:yI4AJ3Cj
秀吉が健在の頃なら宇喜多の家中の動揺も抑えられるかもしれないけどどうだろうね
0586人間七七四年2014/08/07(木) 17:38:03.40ID:lgHsD4+Z
蒲生騒動という例もあるし
0587人間七七四年2014/08/12(火) 07:51:10.56ID:mJF0Utq2
宇喜田秀家は割りと聡明で戦も上手かったが家政を見る事を
しなかったからな。

移封した場合、当然相当な加増があるのだろうが
それをまとめる事が出来たかどうか微妙。
奴は50万石くらいが限界だったと思う。
0588人間七七四年2014/08/31(日) 20:28:34.65ID:MmwLIHLR
徳川家だって大久保長安や本多正純の事件でずっとガタガタだったとも言える
宇喜多軍は関ヶ原でも活躍してるし
家中の騒動なんてどこでもある些細な事だと思うよ
0589人間七七四年2014/08/31(日) 23:31:52.62ID:5SUbB8mF
>>583
宇喜多の家中はずっと備前・美作に根を張ってた連中ばっかやぞ。
そんな仕打ちを受けたら家臣一同が秀家ぶっ殺して豊臣に反旗を翻す。
だから秀吉も手をつけられなかった。
0590人間七七四年2014/09/01(月) 00:35:41.56ID:vvAlWBkN
>>589
だから土地と家臣を切り離すんだよ
武家の棟梁である豊臣家に移封を命じられれば
陪臣である家臣は逆らえない
0591人間七七四年2014/09/01(月) 08:36:13.36ID:jGlT1fmW
移封はできない訳じゃない。
徳川や上杉だってやってるからな。
0592人間七七四年2014/09/02(火) 01:37:21.79ID:P67f6L+a
秀吉健在なら、そもそも宇喜多の軍勢を大坂に入れさせない。
0593人間七七四年2014/09/08(月) 19:33:18.78ID:LhL9d0R7
秀吉死去から関ヶ原までの数年足らずで各地での問題続出っぷりを見るにもう豊臣政権は限界だったんじゃないの
権力の一元化が必要になって家康が権力一元化を図るも他の大老の反発で関ヶ原って感じでしょ
五大老五奉行制度で政権を引っ張るなら五奉行に加藤福島等を加えて政権運営すればよかったんでないの
0594人間七七四年2014/09/08(月) 23:01:55.94ID:jQZMnZrm
>>593
イメージと違って福島加藤は内政は巧いよな
今の広島熊本あるのは福島加藤のおかげだし
0595人間七七四年2014/09/09(火) 13:18:09.82ID:Mg0qAMdX
>>593
その問題の大多数を家康が出してるんですが・・・w
0596人間七七四年2014/09/09(火) 16:58:12.09ID:U5K5icvB
>>595
対応したのは家康だけど、発端は別でしょ
0597人間七七四年2014/09/09(火) 21:52:09.08ID:Mg0qAMdX
内府ちかひの条々に散々書いてあるだろう
0598人間七七四年2014/09/09(火) 23:08:50.83ID:dDfPzjD/
内府ちかひの条々を見ても家康が悪いとは見えないけどなあ
あれって五奉行に対して都合の悪い内容をあげつらってるだけでしょ
秀吉死後の問題って内府ちかひの条々にあるどうでもいい内容じゃなく庄内の乱とか宇喜多騒動とかじゃないかな
そういうのを裁定した家康にみんなついていったってことじゃない?
0599人間七七四年2014/09/11(木) 00:49:08.38ID:plb28R7n
盲目なレベルで家康ageしたい人間と議論になるわけない
0600人間七七四年2014/09/11(木) 01:00:35.21ID:2IO7lDqC
>>598
ついていったんじゃなくて、対立したくなかった。
秀吉死後なぜ家康がほとんど思うがまま政権内の決定をできたか?
対抗しうる人物がなく、もし表だって異を唱えればどうなるか容易に想像できたからだ。
上杉征伐に喜んで従った大名はいたか?
進んで胃を唱えた大名はいたか?
それは家康が推戴されていたからじゃなかったのは明らか。
0601人間七七四年2014/09/11(木) 17:35:39.91ID:ESc5jMen
まあ当時の権力者ってそんなもんだよね
家康を倒すのに成功したって三成か輝元かだれかが同じように権力握って好きにやるんだろうし
秀頼にとってはいいんだろうけど他の多くの大名にとっちゃどっちでも変わらんかも
関ヶ原でもヒャッハー大戦だぜ!勢力拡大のチャンス!ぐらいにか思ってないやつ多そう
0602人間七七四年2014/09/11(木) 18:52:16.42ID:YlHdDX1m
家康があのまま秀頼に誠心誠意仕えていたとしても勢力が大きすぎて危険だから
秀頼が成人した後には沢山いる子供に分割相続&全国に分散するように国替えさせて
拒否すれば取り潰しっていうパターンになるのが容易に想像できるからなあ
家康が天下を取りにいったのはある意味仕方の無いことだとは思う
0603人間七七四年2014/09/11(木) 19:05:41.42ID:YlHdDX1m
最初の行「あのまま」だと変なので「仮に」に置き換えてください
0604人間七七四年2014/09/11(木) 23:28:29.98ID:ESdLwGe1
>>602
正室の実家を潰さないだろう
0605人間七七四年2014/09/12(金) 00:33:08.42ID:mTXLD92H
西軍が勝った場合
秀秋が羽柴に復縁して関白就任
寧々系の秀秋含む木下氏と
秀吉系の秀頼の派閥に別れて争うと予想
小早川には秀包復帰で毛利は秀秋側に付く
0606人間七七四年2014/09/23(火) 19:16:35.62ID:B5ZNXPE4
黒田長政が武将調略に大きな役割果たしてたから
荒木反乱の時信長の命に従って長政を誅してたら
結果は結構変わってたかね
良かれと思ったことが仇となってしまった
0607人間七七四年2014/09/23(火) 20:29:41.53ID:tH0LO9/8
黒田がいようがいまいが福島加藤は東軍につくから何も変わらない
0608人間七七四年2014/09/25(木) 11:07:11.88ID:aDb2UPmA
そうとは言い切れない。
もし黒田家が西に付いていたら
如水が西の軍師になっていたはずだ。
如水の影響力と智謀は図り知れんぞ。
0609人間七七四年2014/09/25(木) 11:11:08.30ID:VBre02Ti
さて如水が西軍について誰のために動くかだがw
0610人間七七四年2014/09/25(木) 13:02:57.60ID:GOU7Jhjb
三成を中心としたクーデターに如水が従うとはとても思えないけどなあ
如水が家康から主権奪取を狙うならきちんとした神輿を用意して加藤福島等を味方に引き入れるように動くだろう
てことは神輿は秀秋が相応しいから秀秋を秀頼元服までの関白としてそれを五奉行五大老で支えるとか
五奉行五大老制度の人入れ替えとか制度変更とかで加藤福島とかを政権に関わらせるようにすれば付いてくるかもね
もうすでに関ヶ原関係ないけどw
0611人間七七四年2014/09/25(木) 15:18:33.52ID:BefmJxM5
加藤、福島は豊臣家中からの出で大老になるからそれまでの大老が納得せんだろうw
じゃあ奉行は?ということになるが三成や吉継、下手すれば増田や長束もそれは納得しないだろう。

中途半端に加藤と福島遇するとかえって政権内のバランス崩れるから隔離する方向しかない。
しかも政権外の隠居の身の如水にそれをする大義も権限も黒幕になる影響力もない。
舞台を降りた人には役がないという舞台役者の格言通り関ヶ原の時点での役はない。
0612人間七七四年2014/09/25(木) 16:32:22.80ID:GOU7Jhjb
加藤福島を味方に引き入れるにはどうしたらいいかってところから想像しただけなんで勘弁w
まあでも五奉行五大老制度を見るに五大老が強くて五奉行が弱い感じなのよね
実際の奉行の仕事って意味じゃなくある程度影響力ある人に代えたほうが秀吉死後も上手くいったんじゃないかな
増田や長束に代わって加藤や福島が入ってればと思わないでもない
0613人間七七四年2014/09/25(木) 18:23:20.05ID:VBre02Ti
奉行は官僚で謂わば内臣、大老は政権の諮問機関的で外様。
官僚たる奉行で30万石で三成は桁外れの待遇。
さて加藤や福島みたいに戦場駆けずり回って知行増やし身を大きくした立場で今更奉行職与えて三成以下10万石そこそこの大名と並べられて不満漏らさないかだw

要するにポイントは三成ら官僚として政権内で確固たる立場を持っている人と加藤や福島みたいに子飼いで大身になったものの政権内にハッキリした役割を与えられなかった人の対立。
大老で徳川方につくか豊臣方につくかはそれまでの経緯で親豊臣が明らかな上杉、宇喜多、風次第な前田、毛利。

そして勝敗の鍵を最終的に分けたのは大老の次ぐ石高を与えられていた小早川、加藤、福島、黒田ら。
大身ながら奉行の下知には従わざるを得ず、しかも奉行のリーダーは大嫌いな三成。
0614人間七七四年2014/09/25(木) 18:43:11.95ID:GOU7Jhjb
五奉行五大老制度を作って政権運営していくことが決まったのが朝鮮との戦争中だったのが反三成になっていく要因の一つだよね
自身は朝鮮でずっと戦ってたのに帰ってきたら戦争に参加してないやつらが軒並み実権握って偉そうに命令されたらそりゃ切れるわw
死ぬ思いして帰ってきたら蔵入地の年貢払えてなかったから商人に借金しといてやったぞ払えよとか言われたら俺なら絞め殺すわw
0615人間七七四年2014/09/25(木) 22:29:33.29ID:NQDVPb9b
そこから考えると朝鮮への出兵はやはり豊臣政権崩壊に向けたあらゆる原因になったと言える。
アホや、太閤はん。
せめて一回目上手くいかなかった時点で諦めて因縁つけて徳川さん苛めた方が良かった。
秀吉存命中なら家康さん苛めても誰も文句言えないし、煮え切らない前田や毛利も必死こいて点数稼ぎに出るだろう。
0616人間七七四年2014/09/25(木) 22:36:27.00ID:iTQVrqKx
家康は文禄の役時点で秀吉不在時の代行を勤めており、
この頃から豊臣政権に必要な存在だし
0617人間七七四年2014/09/26(金) 00:46:20.88ID:2d8mABbm
北条上洛させられなかった時点で徳川潰すべきだったな
九州平定後は適当な因縁つけて徳川潰すことは簡単だし
0618人間七七四年2014/09/26(金) 07:52:33.59ID:OIJPzCfw
秀吉はそう考えなかった、以上
0619人間七七四年2014/09/26(金) 19:13:07.17ID:8F8szAwX
それができるなら
妹嫁がせたり、母親を人質にしたりとかしないよ
0620人間七七四年2014/09/26(金) 19:25:27.07ID:EEVf0/f4
徳川潰すだけなら可能だったとは思う
が、それやると遺臣を押さえるのやら、外様大名の動揺やらで統治の問題が出てくる
0621人間七七四年2014/09/26(金) 22:18:10.14ID:2d8mABbm
四国九州平定後に「甲斐信濃を秀信に返せ」
と言われれば家康は拒めなかった
拒めば北条もろとも徳川も滅ぼされてたからな
0622人間七七四年2014/09/26(金) 22:23:49.36ID:OIJPzCfw
秀吉はそう考えなかった、以上
0623人間七七四年2014/09/26(金) 22:40:18.34ID:gMo4Kncb
>>620
徳川幕府の外様潰しは酷かったぞ。
それでも、潰された側の遺臣は黙ってたからな。
赤穂浪士くらいだろう。
0624人間七七四年2014/09/30(火) 10:41:04.70ID:RNViMQ17
>>619
速い方選んだだけだろ
どんだけ徳川過大評価するんだよ
0625人間七七四年2014/10/05(日) 17:25:09.15ID:jGKLundd
実際潰せなかったんだから、仕方ないだろ
どんだけ秀吉を過大評価するんだよ
0626人間七七四年2014/10/05(日) 18:36:09.47ID:MVGI9qyx
という事だと本当に思う。
徳川が豊臣潰した時の名分なんて言い掛かりとしか表現のらしようがないもの。
豊臣恩顧の大名も多くても将軍二代続き人質までとっている徳川に今更楯突く大名は現れなかった。


徳川は政権固める為には非道も鬼のような仕打ちもやるという覚悟をハッキリ示したことで、大義名分なんてどうにでもなる世の中だと示した。
俺に従わないのは悪、悪は滅ぼす。
シンプルなルールながら力を持った勢力が政権基盤を強固にする上では必要な部分かと思う。
0627人間七七四年2014/11/02(日) 13:59:58.57ID:/wZiUh5A
秀吉は家康どころか散々やらかしまくった伊達政宗すら首切ることができんかった
そんだけ豊臣の東国支配体制は不安定なもので仮に立てを潰せば
ただでさえまとまらん奥州情勢が更に混沌とするからそれを避けたかった
これが家康なら余計に言わずもがな。
結局、各地の有力者の力頼みで無理やりまとめていた支配体制だから
大粒の大名連中を安易にどうこうすることができない
それが秀吉の限界
0628人間七七四年2014/11/09(日) 21:11:02.21ID:sePLdJwI
いっそ黒田勘兵衛を東北に置いたらよかったのに
0629人間七七四年2014/11/13(木) 00:26:24.99ID:yWJPP6bb
木村吉清の代わりに黒田官兵衛が奥州で30万石か・・・

伊達・黒田・蒲生で謀略合戦
0630人間七七四年2014/11/13(木) 01:42:44.97ID:80qadu1w
の予定が連衡
0631人間七七四年2014/11/13(木) 05:38:26.64ID:DiOVMiKu
九州も九州で不安定だったからなあ
奥州以上に秀吉にとっちゃ大事だった
唐入りの前線基地になるわけだし
だから信頼できる武将をできるだけ九州に置いた
0632人間七七四年2014/11/21(金) 08:37:53.32ID:W7VrDgHy
豊臣家が豊臣ではなく将軍になれる家系を買って将軍になっていたら
家康が将軍になることはなかったから
いざこざは起こらなかったのではないか
0633人間七七四年2014/11/21(金) 21:39:56.08ID:oaKipZM5
それは一緒だったと思うぞ。
豊臣幕府倒して徳川幕府作るだけだから。
0634人間七七四年2014/11/21(金) 23:02:22.27ID:I9isNusZ
近衛の猶子だから当然将軍になれる
現に秀吉は将軍なれたけど断ってんだぞ
将軍は源氏ってのは徳川が作り出した妄想
0635人間七七四年2014/11/22(土) 00:33:00.24ID:2J6fzCcE
結局秀吉が全ての原因を作った訳で。

秀頼が生まれてようが秀次続行なら当座問題は無かった。
その後秀次が秀頼をどうしようが、それは秀吉が死んだ後の話であって。

秀次の補佐に三中老、そこに5・5制を加える方式なら、何とかなったんじゃね?
・・・何ともならない可能性もあるけど。
0636人間七七四年2014/11/24(月) 00:46:27.70ID:GDEtEr1Z
摂家将軍の例も有る九条家の猶子となって
将軍と関白どちらも取るべきだった
0637人間七七四年2014/11/24(月) 01:27:47.54ID:mV06VVwT
>>635
そらまあどちらの可能性もあるのはあるが、それいったらなんでもどちらかに転ぶ可能性は常にあるわけでw

より良い結果に繋げるための根回し、仕組み、情勢、人情をどうやったら意図的に作り出せるかっていうのはまた別の話だわな。

それが豊臣と徳川の違いなわけで。
0638人間七七四年2014/11/25(火) 10:51:58.25ID:3G6Abf0B
豊臣の最盛期は秀吉の直轄だけで200万石
弟の秀長が100万石、甥の秀次が100万国で
豊臣一族だけで400万石あってその下に子飼い大名がたくさんだから
徳川や毛利がどうやっても抗いようがなかったんだよ
それを大和大納言家も秀次家も取り潰すだけ取り潰して
その後を直轄地に組みこむわけでもなく他の大名にあげちゃったから
力関係が逆転してしまったと。
0639人間七七四年2014/11/25(火) 11:18:48.27ID:Xi4myDwl
あっ、大納言家潰したまんまだったの痛いな。
かといって他に誰か立てるべき後継者がいたのか??
0640人間七七四年2014/11/25(火) 11:39:29.89ID:CxTC9PxZ
いないんじゃね
近親血縁が少ないのは周知の事実
ガキが10人ぐらいいたらなあ
0641人間七七四年2014/11/25(火) 15:04:14.11ID:jx1/Ffnc
>>633
将軍と言う肩書のない家康に
豊臣家を倒す求心力があるだろうか
0642人間七七四年2014/11/25(火) 20:11:42.16ID:Y+ZpLG+m
全国に蔵入地を設定していたから
実は豊臣直轄地は500万石以上あったのではと言われている。
()
0643人間七七四年2014/11/25(火) 20:21:09.37ID:S9ZWISMu
徳川と違って親藩はろくにいない
譜代は武断派と文治派が仲違い
0644人間七七四年2014/11/25(火) 22:52:35.48ID:MLxS/c9T
親藩と言えば木下小早川杉原浅野宇喜多くらいか
大和は秀長の養子だった藤堂に継がせて
美濃は小早川の秀包でも養子にすりゃよかったのにな
0645人間七七四年2014/11/26(水) 00:12:03.41ID:IoUHwXJM
藤堂さんなら結局家康方についてしまいそうだがw

毛利の一族引き入れるにしてもすでに大老に毛利本家ある上に、秀秋が継いだ一門の小早川も大老格、更に吉川も国持ちという状況だからな。
更に畿内に一国与えるようになったら最早豊臣、毛利の連合政権というより毛利ありきの政権w
0646人間七七四年2014/11/26(水) 00:35:02.32ID:jrJaDhve
秀次の娘の子孫の系統だと
江戸時代も難を逃れて岩城氏とか大名で残れたようだな。
0647人間七七四年2014/11/26(水) 06:16:58.78ID:tdUioHLa
実際、豊臣政権は中央集権政権ではなく豊臣を中心にした徳川・毛利・上杉といった有力諸侯の連合政権だからなあ。
秀次事件以降は一層にその性格が強くなった。
0648人間七七四年2014/11/26(水) 14:21:59.38ID:Hsb2qtnV
秀吉生存時は大老を強力に統制した独裁中央集権。
秀吉は大老を地方統治の監視の駒にしていた。
秀吉が死去するにあたり、いまだ幼い秀頼では独裁的命令が出せないために利家を後見役にした。
利家は伏見の家康を違令破りとして伏見郊外の向島へ謹慎させるなど秀吉から秀頼へ引き継ぐべき権威を継承していた。
しかし利家もすぐ死去したから崩壊しただけ。
秀吉も利家死後について何も言及してなかったのが失敗だった。
0649人間七七四年2014/11/26(水) 15:50:43.59ID:Bodms95t
>>648
秀吉は利家の跡には利長と、家康の跡は秀忠にと同様の遺言を遺しているけど
後、秀頼への後見は家康にも求めている
0650人間七七四年2014/11/26(水) 16:21:19.07ID:rmyhHxWG
家康を大老筆頭にして秀頼のことを頼んだのは神君正当化のための江戸幕府の大ウソ。

残念ながら秀吉の遺言と称する二次史料の覚書に関しては、
家康を特別扱いした文面に限り 直江状と同じで関ヶ原後の改竄で家康の正当化の作為指摘されてんだよ。

早稲田大学が持つ豊臣秀吉遺言覚書案は 清水亮氏が宮部氏が家康の体面を重んじて江戸時代になって作成したと指摘してるし、
浅野家に伝わる秀吉遺言覚書も 矢部健太郎氏が内府以外の文字の時に、大納言殿、江戸中納言殿、羽柴肥前殿などと、
徳川家と前田家だけは律儀を強調したり、『殿』の敬称を付ける反面、他の大老は呼び捨てになっていて呼び捨てになってる異様さ。
さらに人質もろともみんなで大坂に政治中枢を移動した後のさみしい伏見に家康を閉じ込めて帰国禁止にし、
いつでも武政の大坂から権威の伏見を討てる形を作ったのに、二次史料の遺言だと徳川と前田に任せるような矛盾する話になっており、
そもそも伏見に家康が置き去りで、奉行衆も検地などで下向して全員揃うことがあまり無いのに、
バラバラで合議制なんて成立しないという点。
極めつけは、この秀吉の遺言に関して上杉や毛利ら関ヶ原で負けた側には全く伝わってない不審さ。
これらを挙げて浅野家文書の遺言は関ヶ原後に手が加えられた可能性があるとされてる。
実際は秀吉がもともと上杉よりも下の家格だった前田家を急速に引き上げ、
ついには秀家、景勝、輝元より早く権中納言に利家が就任するなど、
利家を政権の後見役にしようとする動きが見えるため、
秀吉の遺言には前田家の秀頼後見役にする話しかなかったのでないかと考えられる。
秀吉が家康を特別扱いする必要性が無い。 家康の地位に関して歪曲して関が原での家康を正当化しようと工作している。
浅野が関が原での行動について後ろめたさを感じていた証拠であろう。

清華成には内府たがい条を発給し挙兵した
毛利や宇喜多もなっているのも知らんとか恥ずかし過ぎるw
もちろん上杉も清華成で同格だし。
秀吉は同家格の彼らの中に徳川が埋没することを狙っていたわけだ。
五大老筆頭なんて言葉は江戸幕府が作った捏造語で、
秀吉は五大老なんて言葉は知らんから。
いよいよ諸大夫成の一番下の立場でしかない三成が、
公家成の島津らはともかく、 清華成の殿上人を差し押いて、
家康打倒の首謀者に成り得る可能性は皆無だな。
どう考えても輝元が首謀者としか考えられない。 三成では家格が低過ぎて取次ぎなしに直接、書状すら出せない。
内府たがい状に 家康が諸大名の妻子を贔屓屓に国元に帰したことを弾劾してるから、
大坂には人質なんていなかった。 完全に作り話。
挙兵した西軍が伏見城を落とした辺りで、
帰属してきた美濃諸将から人質を取り始めたりしてるしな。
0651人間七七四年2014/11/26(水) 16:39:07.22ID:Bodms95t
七月一日付三成宛政宗書状写にも家康と利家に秀頼の後見を頼んだとする記述があります
というか史料全てを後世の捏造とする論はバカの一言で返させてもらいます
0652人間七七四年2014/11/26(水) 20:00:31.73ID:Hsb2qtnV
東大の家わけ文書伊達編に乗ってないなあと思ったら、
なんだ写しかよ。
0653人間七七四年2014/11/26(水) 20:07:44.11ID:Bodms95t
>>652
元は宇和島伊達家の所蔵だけどね
0654人間七七四年2014/11/26(水) 20:18:47.25ID:+FGMfd1G
秀次 関白
秀頼 将軍
だと完璧だったと思われる
0655人間七七四年2014/11/26(水) 20:20:15.59ID:tdUioHLa
いや、それ将来的に殺しあうフラグだから。
やはり秀頼が生まれてきたこと自体が過ち。
茶々を全力で流産させるべきだった。
0656人間七七四年2014/11/26(水) 20:42:28.33ID:Hsb2qtnV
>>653
どんな内容の書状なん?
政宗は三成とほぼ接点ないし、
秀吉との取次役だった浅野とは絶交したから、
その書状にわかに信用できないけど。
0657人間七七四年2014/11/26(水) 21:13:59.73ID:Bodms95t
>>656
秀吉の容態を伝えるとともに、五日以前に家康が増田長盛・前田玄以と共に
秀吉と面会した際に、利家と共に秀頼の後見を行い、不和の大名が仲直りする
ことを求めている
また大坂へ秀頼を移し、その際には北国・東国大名は秀頼に従うこと、
その際の引っ越し金として米・銀を与えるとしている

で、28日家康が諸大名を招集して、そのための米・銀の朱印を与え、
また仲直りの斡旋を行ったとある
政宗に対しても浅野長政との仲直りを斡旋されたとあり、その点について
三成上洛の折に考えを聞きたいとしている

なお、この頃(7月1日)は三成は筑前・筑後の太閤蔵入地管理のため下向中
0658人間七七四年2014/11/27(木) 00:53:45.15ID:OJ7DN92L
それは遺言ではないのでは?
ただ単に家康が面会にきたから挨拶がわりに
よろしくって言っただけでは。
0659人間七七四年2014/11/27(木) 07:39:47.62ID:n4l4/V9E
死んだら云々とあるので、立派な遺言
むしろ秀吉存命中の時点で代理人的な行動を始めている点に注目するべき
0660人間七七四年2014/11/27(木) 20:47:16.09ID:44yuxn7P
遺言覚書みたいな性格とは違うような
0661人間七七四年2014/11/28(金) 20:56:26.70ID:doe6ImTu
宮本義己「徳川家康の豊臣政権運営−「秀吉遺言覚書」体制の分析を通して」(『大日光』74号、2004年3月26日発行)
0662人間七七四年2014/11/29(土) 21:45:11.01ID:noGsd9q8
>>657
なんの本に載ってるの?
原文を読んでみたい。
0663人間七七四年2014/11/29(土) 22:38:02.34ID:m+4zZnJ/
>>662
仙台市史資料編11
0664人間七七四年2014/11/30(日) 17:14:29.08ID:AL4W2Bqy
大軍宇喜多が6000の福島を圧倒してれば、小早川の裏切りも無く西軍勝利に終わってたかも…
0665人間七七四年2014/11/30(日) 17:28:48.90ID:ynKUleGi
回りが動いてなかったから
宇喜多は福島を追い払うしかできなかったんだよな
0666人間七七四年2014/11/30(日) 17:57:38.96ID:L9eMup6x
>>664
宇喜多は宇喜多騒動による家臣出奔で実戦力は大きく低下していた
また福島正則だけでなく井伊直政の先手も相手にしていた
0667人間七七四年2014/11/30(日) 18:54:04.77ID:G++QxRFX
明石や長船が揉めたんだっけ?
0668人間七七四年2014/11/30(日) 21:02:47.86ID:L9eMup6x
>>667
明石は局外、長船は出奔した者と対立したが、騒動の前に死亡
離反して東軍に加わったのは戸川達安・岡利勝・宇喜多詮家、
花房正成は高野山に蟄居、外にも出奔した者多数
0669人間七七四年2014/11/30(日) 22:42:51.57ID:QXaVPe2R
まあ秀家なんて子どもの頃からほとんど秀吉に飼育された豊臣の尖兵みたいなもんだったからな。
古くからいる連中にとっちゃ自分たちの権益害する鼻つまみ者でしかなかったわけで。
0670人間七七四年2014/12/01(月) 21:17:29.59ID:f7NiWkHA
渡邉大門氏が宇喜多騒動の原因は秀家の贅沢だけじゃない
豊臣大名としての交際費・軍役のせいじゃないかと指摘してた
0671人間七七四年2014/12/01(月) 21:30:04.46ID:y6hH468L
島津宇喜多みたいな国人集が強いとこは
どうしても家中が分裂すんだよ
上杉みたいに縁のない土地に移封すりゃよかったんだよ
秀勝死後の美濃とかにさ
0672人間七七四年2014/12/02(火) 17:30:42.67ID:9yy/rWv7
NHKのとかでももし豊臣が将軍になってたらっていうのは言う人いないよね
木曜のBSのやつでやってみればいいのに
将軍秀頼に肩書きのない家康がどのていど味方を集められるか
0673人間七七四年2014/12/02(火) 19:57:49.35ID:6EEM02oW
ぶっちゃけて言うとその当時の将軍にそうたいした権威はない。
少なくとも秀吉の武家関白以上の権威はな。
前任の室町将軍があっさり殺されたり追放されたりばっかなんやで。
将軍が名実ともに武家の頂点になったのは江戸幕府以降。
0674人間七七四年2014/12/03(水) 20:59:59.35ID:69S5+HNh
秀吉は、足利義昭じゃなくて足利義栄の系統に猶子を打診すればよかった
秀頼を将軍に、三好秀次を管領にすれば丸く収まった
0675人間七七四年2014/12/03(水) 23:19:36.50ID:M9XuKnpQ
そもそもハードルの高さで言えば
関白>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>越えられない壁>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>将軍
ぐらいの格の差があったんで関白ゲットできた時点で征夷大将軍なん格下の官職はイラネだったんだよ。
0676人間七七四年2014/12/04(木) 05:19:11.97ID:A3QwdusE
秀吉がどんな官位や地位を持ってようが
死んじゃえば関係ないっつーの。家康は秀頼倒して天下狙ってたさ。
0677人間七七四年2014/12/04(木) 06:48:15.11ID:SlGCY0Tb
15代 信長に追放
14代 松永の傀儡で信長に負けて追放され病死
13代 松永に殺される
12代 息子ともども三好に追放される

こんな縁起の悪い官位を好き好んでなろうとは思わんよ
頼朝びいきな家康ぐらいしか
0678人間七七四年2014/12/04(木) 08:10:49.01ID:3BOcsuRx
肥前名護屋に豊臣氏が征西府を再興し征西大将軍として軍政
建武政府の失敗から学び、家康は関東に下向させないで
0679人間七七四年2014/12/05(金) 06:16:37.45ID:xdG5oUvd
あ、秀次を殺さず関白を返上させて征夷大将軍にする。
そして豊臣幕府を作らせ秀頼が成人した暁には関白にする。
豊臣幕府は秀頼(関白職)の傀儡政権としてしまう。

どうだろ?関白返上して将軍になれるかとか、ツッコミ所は満載だがw
0680人間七七四年2014/12/05(金) 10:33:09.91ID:3SbSDrj/
>>679
そんなの秀次が自分の正当性を主張するようになるだけ
秀頼に後つがせようと思うなら秀次は絶対に殺さなきゃいかん
けれど秀次殺した時点で豊臣政権は行き詰まり
やはり秀頼を殺すべきだったな
0681人間七七四年2014/12/05(金) 23:13:32.09ID:6ksxW72D
輝元が愚痴ったり、政争の悩み相談の相手だった
0682人間七七四年2014/12/06(土) 01:01:34.62ID:YbE96ibu
輝元が愚痴ったり、政争の悩み相談の相手だった毛利元康は
ギリギリまで輝元のそばにいたよね。
最後は大津城攻略に出撃させることにしたけど。
元就の息子として毛利家を案じた元康が一番、輝元の意向通りに動いていたんだろうなあ。
秀元や広家らは毛利家よりも自分の利益しか考えてないアホばっかだったからな。
0683人間七七四年2014/12/06(土) 08:08:43.27ID:AyWWeNrq
恐らくこの段階でも、毛利家は国人一揆ですから
0684人間七七四年2014/12/06(土) 10:19:05.52ID:7Xd8EwIl
というか中央集権化してた大名家の方が希少でしょ
島津なんか内乱やってる真っ最中だったし。
宇喜多も分裂したし佐竹も家中が原因で身動き取れんかったし。
0685人間七七四年2014/12/06(土) 10:47:56.35ID:AyWWeNrq
だから徳川家は化物なのだ
0686人間七七四年2014/12/06(土) 10:51:41.19ID:7Xd8EwIl
秀吉に関東移封されたことでかえって家臣団がそれまで地元に張ってた根から切り離されたからなあ。
0687人間七七四年2014/12/09(火) 13:00:44.06ID:QNYhHHag
もともと大名間で家康は超絶ケチだから天下人になれる器じゃないといわれていた。
事実、家康家臣はほとんど戦功自体がないこともあり、感状もほとんど発給されてないゆえに
領地加増も少ない者ばかり。
新参の井伊がホモ力で最大加増になるくらい三河武士は奴隷精神が強い。
0688人間七七四年2014/12/09(火) 13:14:12.20ID:um1zc4ib
十万石もらってた井伊、榊原、本田も秀吉からそんだけやれって指示されたからあげただけだしな。
それ以外の連中は多くても3万石ほど。
0689人間七七四年2014/12/09(火) 13:39:23.58ID:z/O04SoF
まぁ家康は究極の棚ボタ大名だからね。
まともに戦ったら我慢大会で引き分け和睦に持ち込むのがせいぜいで
加増する必要がなかったってのもある。
そのかわり豊臣家の大老時代は、他人の蔵なので奮発して大盤振る舞いして支持率アップやってる。
0690人間七七四年2014/12/09(火) 21:44:37.29ID:cvWM8DIn
乞食大名か
0691人間七七四年2014/12/09(火) 23:58:59.78ID:dyxMe1mb
>>687
井伊は遠州侍だから三河者と一緒にされちゃ可哀想だぞ
0692人間七七四年2014/12/10(水) 00:18:18.31ID:PsTUedve
徳川家臣に全く武功がないのは事実なんだよな。
三河自体が東三河の吉田雑説→三河騒乱&遠江総劇の国人大反乱の火事泥だし
今川攻め正面は武田が攻めてたから、
家康曰く、たまたま遠江が手に入ったって書いてるし
駿河だって家康が大苦戦して一歩も進軍できず
逆に北条が伊豆を快調に西進したから穴山が降伏。
結果、信長が駿河をくれただけ。
甲斐信濃でも家康大苦戦してたら荒廃して無価値の甲斐を北条があっさり諦めるし、
信濃は旧武田家臣が調略で佐久郡を徳川側にさせたので、
退却路を心配した氏直が和睦撤退。
秀吉が関東をプレゼントだしな。
0693人間七七四年2014/12/10(水) 12:26:52.59ID:PsTUedve
家康は大坂で20万人虐殺し、
100万人を誘拐拉致した極悪人
0694人間七七四年2014/12/10(水) 23:31:45.61ID:ifuEtx1s
秀吉は生前家康に、大坂城を攻めるにはいったん和睦に持ち込み堀を埋めて
再び攻め寄せるのがいいとアドバイスしたと伝えられるけど
三成にも、東から軍が攻め寄せたら関ヶ原で食い止めるのがいい、
天然の要塞だみたいなアドバイスしてたんじゃないだろうかと想像してみる。
0695人間七七四年2014/12/11(木) 00:27:59.08ID:Q4oT6J7Z
だとしても指揮するのが三成だとは思わなかっただろうな。
三成はあくまで兵站、戦後和平での仕事を見込まれてただろうよ。
0696人間七七四年2014/12/11(木) 06:41:17.59ID:OSQYfJ/r
>大坂城を攻めるにはいったん和睦に持ち込み堀を埋めて

それかなり眉唾もんの話だけどなあ。
0697人間七七四年2014/12/11(木) 10:39:43.21ID:zmWI5xHK
慶長4年に家康は京都阿弥陀ヶ峰の豊国大明神社に諸大名が参詣するのを禁止し、
修理もせず立ち腐れにせよとと通達をしたのに
清正はこの年の11/29に豊国大明神社を肥後の立田山の勧進して阿蘇社復興を約束してる。
一見、家康に背いて豊臣へ忠節を示しているようにみえるも
清正はこの年に家康養女と結婚して家康と接近しており、
この武断派重鎮清正との婚姻同盟が家康の豊国神社立ち枯れ政策を進めさせた原動力にも思える。
農民出身の秀吉が光明皇后が730年に発願して作られた施薬院が400年間打ち捨てられていたのを嘆き悲しみ
施薬院復興を天皇に涙で直訴してみたら天皇も大喜びで許可し、
秀吉が推薦した比叡山延暦寺の僧であった全宗を早速に施薬院使に任命、
従五位下に叙され昇殿も許す破格の出世をさせた上で派遣し
貧しい人や病人や孤児へ自愛の施しをしたわけだが、
そのことを敬愛して豊国大明神社を慈悲の象徴と捉え肥後統治のアイテムとしていただけなのだろうか。
ちなみにバテレン追放令は全宗の筆によって書かれたものである。
しかし家康が信長を真似た破壊屋で、おまけに超がつく吝嗇家で
一度恨みに思ったら絶対に忘れず報復するため誰もが恐れて表面上は従っているが心では従ってない人徳ゼロの人物で
秀吉が創業の人で、敵であったものでも簡単に許すどころか領地までくれるかたじけない人
っていう世情の評価も納得できるものだねぇ。
0698人間七七四年2014/12/11(木) 11:18:09.64ID:WHh9yh84
>>697
取り敢えず慶長と元和を勘違いしていない?
0699人間七七四年2014/12/11(木) 11:32:33.15ID:zmWI5xHK
>>698
荒木栄司がそう書いているから勘違いしていない。
0700人間七七四年2014/12/11(木) 12:22:24.68ID:eSTa8NpF
家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね

看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。

看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...

関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
0701人間七七四年2014/12/11(木) 12:22:55.29ID:H1dqOMuL
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね

フロイス第二0章
私は毎日、かの暴君(関白)の卑劣で下品なことどもを数々話し聞かされ、ただただ驚き入るばかりであります。
彼は自らを汚濁と不浄の堆積と化してしまいました。と申しますのも、それ以外に彼を例えようもなく、彼を語り得ないからであります。
彼の野心はあまりにも増長し過ぎた結果、彼をして自らの高位とか尊厳を慮る事を許さぬばかりか、人間本来の勤めまでまったく忘れさせるに至りました。
かくて彼はもはや、人とは申せなくなり、獣よりも劣った物となり果てました。けだし彼には、いかなる環境の人に対しても片鱗の愛情すらなく、金銀を取り立てるためには万人を酷使虐待し
人々をば追放に処して、その封録所領を没収する有様で、彼には他人の封禄を横領するのに道理もなにもないのです。
日本の君候達は、関白の寵愛を保ち、滅ぼされまいとの一念から、心ならずも能力の許す限りの贈物を毎年彼に捧げるのですが、関白はすでに
0702人間七七四年2014/12/11(木) 12:23:17.75ID:eSTa8NpF
フロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。

・三木城や鳥取城など中国地方の城で虐殺を繰り返す(信長の命令だったなんて根拠はない)
・恩を受けた主君を裏切って光秀と協力して暗殺し、協力した光秀を主殺しの汚名を負った隙をついてまんまとだましうちにする。
・恩を受けた主家を、主君不在、後継者不在、幼君、信雄や信孝の争い、家臣達の空中分解を利用し
煽りまくり主家をマンマと火事場ドロする。
・何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込む。何の罪もない織田信雄重臣の人質
・何の罪もない朝鮮にいちゃもんつけて攻め込んで、何の罪もない朝鮮人を殺しまくる
・何の罪もない養子の秀次やその一派や親族を殺しまくる。(他大名の親族らも殺しまくる)
・何の罪もないどころか、佐々攻めや雑賀征伐や家康との仲介など、恩が一杯あり
清洲会議後には臨時での織田家の後継者に利用させてもらった織田信雄をいちゃもんつけて改易する。
・佐々成政にいちゃもんつけて改易する。
・関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を殺しまくる
・里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護して守られる。
・宇都宮を改易する
・南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
・信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させる

フロイス第二0章

私は毎日、かの暴君(関白)の卑劣で下品なことどもを数々話し聞かされ、ただただ驚き入るばかりであります。
彼は自らを汚濁と不浄の堆積と化してしまいました。と申しますのも、それ以外に彼を例えようもなく、彼を語り得ないからであります。
彼の野心はあまりにも増長し過ぎた結果、彼をして自らの高位とか尊厳を慮る事を許さぬばかりか、人間本来の勤めまでまったく忘れさせるに至りました。
かくて彼はもはや、人とは申せなくなり、獣よりも劣った物となり果てました。けだし彼には、いかなる環境の人に対しても片鱗の愛情すらなく、金銀を取り立てるためには万人を酷使虐待し
人々をば追放に処して、その封録所領を没収する有様で、彼には他人の封禄を横領するのに道理もなにもないのです。
日本の君候達は、関白の寵愛を保ち、滅ぼされまいとの一念から、心ならずも能力の許す限りの贈物を毎年彼に捧げるのですが、関白はすでに
秀吉が柴田の息子の妻や家康の息子の妻や信忠の妻や信雄の娘を己のものとしたと書いてて
主だった貴人の大勢の娘達を養女として召し上げ12になると情婦としたと書いてる
器量がよいという評判の娘で、連行されなかった者は1人もいなかったと書いてる
秀吉の好色というのは有名な話で、秀吉は他家から女を片っ端から奪いまくるただのエロジジイだった。
こういうところもちゃんとドラマでしっかり描くべきだな
0703人間七七四年2014/12/11(木) 13:25:31.08ID:54FcCQlU
また朝鮮人がアンチ秀吉で捏造歪曲開始w
0704人間七七四年2014/12/11(木) 14:26:03.61ID:qpkTBvJx
>>703
事実だからな
むしろ秀吉を寛大なんて書いてるのはチョンが書いた観羊録だし
これによると
看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。
0705人間七七四年2014/12/11(木) 14:27:00.37ID:qpkTBvJx
継承というなら織田家当主の秀信の部下というのが織田家中での秀吉の立場なんだし
信雄や信孝をないがしろにして大阪築城のために織田家臣の連中を無理やり転封させたり信雄に何ら理由なくいちゃもんつけて攻め込んだり
いちゃもんつけて改易したり
織田家当主のはずの秀信に領土や官位を授けず
美濃の国主としての地位にとどまらせるなんておかしいわな
信包や信張ら他の織田一門もさしたる理由もなく
織田政権から排除されて
どこにいったかわからん状態にまでされてるし
信張信包蒲生池田丹羽ら織田親類衆がいる
それに織田家に仕える身分なら、能力とか関係なく主君の命によって、家臣は政務や軍事を行うのが道理。
しかし清洲会議以降これが逆転し
家臣達の合議によって織田一門の領地などの裁決が行われるという逆転が発生した。
信孝と信雄が国境線争いで対立し始めてるし
さらに秀吉がそろそろ安土へ三法師を!との意見に
清洲会議の屈辱から巻き返すべく柴田が秀吉への反発を強めていて
柴田が畿内がよく治まった上で宿老総意を得て安土へ移す方がいいと
秀吉方だった丹羽に同意を求めて味方化しようとしたが見事に拒否られてる。
(柴田が合意不可能な条件を提示していて、あからさまに三法師を手元から離さない信孝とつながっていたのがわかる)
これが9/3の情勢であり、
その後、11/1になると三法師を安土に移そうとしない信孝の違背から
秀吉は信雄を柴田を除く三家老合意で担ぐことを家康へ書状を出してる。



秀吉は清洲会議から数ヶ月後の10/22時点で5畿内の配下の悉くから人質を徴収してるし
清洲会議時点でも丹羽への叱責の意を表す書状を書いたり池田の領分にまで介入してる始末。
その上蒲生や堀や筒井などもいつの間にか取り込んでて
細川とは血判状交わして臣従関係結んでる

信雄が秀吉を父に仕える如く態度で従っていたため信雄を三法師の守役にしてから清洲会談開始。
そもそも清洲会談の時点で池田や丹羽らを味方につけて派閥を形成して
秀吉のおもうがままに会談を主導。
結果、秀吉(秀長も京以西から河内まで)が大版図を獲得し領国を形成
(大和一円も貰った筒井も秀吉に入魂になっているなど多数派工作を進めていた)
信雄と信孝が名代を争っていたから、結局、三法師後見役も決めていない。

清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに
宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。
そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉)
五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。
信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。
柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。
堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?)

柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。
秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。
石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、
安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので
信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。
(良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する)
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。

信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており
信雄はその者の専横を怒り斬っている。
秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か。
0706人間七七四年2014/12/11(木) 14:59:30.00ID:zmWI5xHK
看羊録の作者が日本に連行され伏見に来たのは秀吉が死ぬ寸前。
その前後の日本国内の話は信憑性が非常に高いが、
逆にそれ以前の話の信憑性は低い。
だから、看羊録作者は北条氏がいたことを知らずに、
相模の領主を代々引き継いでいる家康などと大きく誤認してるのが露呈している。
徳川のことと北条の内容を区別できずに混同し間違ったことを書いているため、
史料として採用出来るのは慶長期の記述のみである。
宣教師はずっと日本にいるから、それ以前の記録は宣教師の記述を利用すると良い。
しかしこれも条件付きであり、
秀吉が九州征伐時にキリシタン大名に棄教命令を出して、
宣教師や信者たちが天草に逃げ隠れてから、
宣教師の記録が秀吉を信仰を妨害する悪魔だと悪口三昧言い出すように豹変するから、
宣教師の記録は天正14年の記述以降、 かなり秀吉についてねじ曲がったことを
書き連ねて罵倒していることに留意せねばならない。
(フロイス日本史はフロイスが慶長2年死去しており、ローマの総長への報告も文禄3年あたりで
終わっているらしいが現存は文禄2年までで、慶長3年に死んだ秀吉のことを最後まで記してない。
その後の慶長期の研究史料は看羊録が引き継ぐ形になっているがここで致命的な事実に気づくだろう。
それは文禄4年の秀次事件に関する第三者的客観史料がない事実である)

はいはいw何でもかんでも秀吉が悪いとかアホですねw
それ実際は、吉川元春と嫡男の元長が行ったことだし。
しかも東大の家わけ文書の吉川文書の天正14年11/20付の該当書状の注釈にも
吉川氏の豊前宇留津城攻略の戦功と解説してるし。
この千人の首を刎ね、男女残らず磔の残虐な殺戮を11/7に行ったあと、
11/15に元春が急死したので祟りにあったと騒いでるし。
元長もまた半年後に急死してるし。呪われたと思うのも当然。
>>遺体は城周辺で処理しきれず海に廃棄
それは毛利の軍記である陰徳太平記に出てくる記述であって一次史料にはないのも知らんとかwww
しかも軍記には豊前肥前両国の敵城は一揆の城と言えども、土民ではなくみんな国人どもであり、
一国の大将はおらず皆が各々に一城に拠っている。人はこれを一揆と呼んだなどと書いていて
良民層ではなく抵抗する意志があった支配国人層を磔にしていただけだし。
0707人間七七四年2014/12/11(木) 15:03:15.92ID:zmWI5xHK
1587年の日本史には、 尾張に秀吉の姉妹がいるという話を耳にした秀吉が、
大坂でその人々を死刑にしている。
要するに伊勢から来た秀吉の兄弟やら、
尾張から来た秀吉の姉妹など、
秀吉の家族を称する詐欺師が大量にいたことを表してるだけ。
そりゃあ治安を守るために秀吉だって、その職務にある者に命じて罪人は処断するわ。
秀吉の家族を自称していたやつを捕まえて殺しただけなのに、
キチガイ朝鮮人は、これを取捨選択し我田引水で残虐者扱いするいつもの重度曲解ぶりを発揮。
ウソだって言ってるじゃん。 それを宣教師が勝手に本当のことを告白しなければならなかったのに、
などとトンデモ解釈を、なんら証拠を挙げずにぶっ込んできただけじゃん。
兄弟殺したのは信長 子供を殺したのは家康
ヨーロッパのキリスト社会ではヘンリー8世の離婚問題などでわかるように
どうも英雄色を好むという概念がないため、その手の話が悪口として常套句だったようで、
言わば「妊婦の腹を割いた」という暴君批判の常套句と同じ性格を持つ貶しパターンだったようだ。
この話が秀吉の女好き伝説に拡大解釈されている。
実際、人質として取っただけで、性行為があったかどうか怪しい話も、
このフロイスの悪口慣用表現によって悪意の解釈がなされている。
0708人間七七四年2014/12/11(木) 15:05:17.89ID:zmWI5xHK
中国大返しって高松から情報物資集積地の根拠地である姫路に戻るまでを指すのも知らんのかw
播磨姫路の着陣。その後は2日間の休養期間を置いて兵を休ませつつ、
ゆっくりと上方の情報収集と摂津や大和や河内の諸将への調略を開始を始め、
9日に摂津へ向け行軍。信孝らとの合流のためにゆっくりしてて
11日の午前中に摂津尼崎に着き、長く留まり3万の兵を集めてる。
摂津に入った後の秀吉は勝つための戦略外交をしてて、もう急いではいない。
そして13日に山崎合戦が行われている。
なんで敵前調略戦を開始している摂津での募兵行動期まで含めて平均速度を出す誤魔化しをしてんだw

だからwなんで姫路についた後、まったく急がなくなった時期まで加算してんだよw
アホキチガイらしく、それ以降のゆるゆる行軍まで含めて10日もかかったとか
ミスリードへ誘導する歪曲捏造を連呼してんだよw
敵前退却し速やかに本拠地姫路へ帰り着くまでが中国大返しであって、
それ以後は明智討伐の戦略外交と兵力集中に時間を割いて慎重に行軍してんだよ。

中国高松城〜沼城(浮田小学校東隣弁天神社) 毛利の追撃を警戒し戦闘態勢のまま午後2時から日没までの行軍
背後を気にせず戦闘体制を解除し背後や河川も山谷もなく雨などの天候を気にせずに済む舗装されほぼ直線でまっすぐ走れる山陽自動車道使用 32.3km

沼城(浮田小学校東隣弁天神社)〜現姫路城  豪雨の中を苦戦しつつ1日かけて行軍
背後を気にせず戦闘体制を解除し背後や河川も山谷もなく雨などの天候を気にせずに済む舗装されほぼ直線でまっすぐ走れる山陽自動車道使用 85.6km

敵地からの急速反転の中国大返しの成功に安堵し姫路城の蔵をすべて開いて将兵たちに褒美を分け与えて二日間の休養を与える。
0709人間七七四年2014/12/11(木) 15:07:43.72ID:zmWI5xHK
思考回路
いや秀吉の業績は全部、 信長から考えていたことで、
全て信長がやろうとしていたことを盗んだだけって論法で
秀吉を貶しているので、 在日は信長がむちゃくちゃ好き。
しかも信長なら半島侵略じゃなくて、
大航海時代みたいな進出で各地に日本街を作り、
家康みたいな鎖国もせずに貿易立国していたとか妄想するからな。
在日は家康の場合は好きなんじゃなく、秀吉を貶すツールとして利用してるだけ。
(朝鮮を侵略した秀吉の全人格を否定し悪魔と罵倒しつつ、
日本人を大量虐殺した信長や家康をマンセーする左翼脳。
それどころか豊臣政権を守ろうとした忠臣三成を自分ででっち上げた噂で中傷しつつ
看羊録曰く朝鮮人に囲まれていた輝元を全力擁護。)




>>(天下ハ朝倉(義景)殿持給え。我ハ二度望ミ無」ト起請ヲ書給ひて、無事ヲツクリて岐阜ヱ引給ふなどとデタラメをデッチ上げている
武田厨を装い、キチガイ爆撃コピペをして荒らしまわっていたが、ついに織田厨チョンの顔を現したかwww

勝手に俺の武田レスをコピペしまくってあちこちには貼っては、追い討ち自演で荒らし認定してまわんじゃねぇよカス織田在日チョン。
俺は不等号なんてガキくさいもん使って序列なんてつけないわ。つか俺のコピペから織田厨として一番不都合な部分は編集削除してんのなw
パクるなら下記みたいにキッチリ全文コピペしろや! つか絶対にコピペしない文章とかあるのは何でwww

どこに家康の勝利なんて書いてる馬鹿がいるんだよwww
家康と信長が大好きでわざわざ引っ越してまで三河安城市に住んでるならもう少し調べてから書けよwww
おっとw信長にスレ住人の怒りが向かないように自分は武田と徳川が好きなフリをしてる在日君だったよな〜。
あくまで武田寄りの大昔のレスをコレクトして、大量投下し武田厨を荒らし認定しつつ、
在日チョンとしては決して譲れない秀吉・三成擁護レスにはムキになってスレごと埋め立てする勢いで超大規模投下レスをしてるんだもんな。
つか教科書まで捏造して自演したりとお前面白いなwww
秀吉が嫌いな為に家康擁護・信長大好き・武田厨は荒らしの罪を擦り付ける愛知県民らしい行動だなwww
0710人間七七四年2014/12/11(木) 15:14:40.72ID:zmWI5xHK
>>天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)

天正13年8/25に木曽川大洪水が起きて、天正12年戦役で秀吉が信雄・家康から奪い取った
尾張北西部で前代未聞の大損害が発生。葉栗郡などの地形が河川氾濫洪水で大きく変化してしまい
美濃と尾張の国境が東に大きく移り郡の分断が起こった。

この災害をなんで、あたかも天正14年1/25の大雨降、水出候と
同じ時期の出来事のように見せかけようとして混ぜてんの?アホなの?

天正13年11/29の天正大地震は飛騨の白川断層説と尾張美濃の養老断層説で議論が分かれているのに
徳川領国だけでしか被害がなかったわけねーだろキチガイw
近江では琵琶湖で津波がおき多数の被害者、長浜城も被害を受け
越中でも木舟城が被害を受け、伊勢でも人家多数倒壊死者続出、
京の東寺や大和興福寺でも被害続出で混乱しとるし、
三十三間堂でも仏像600体倒れて、公家や僧は祈祷しまくりだしよ。

木曽川の氾濫なんて三河は関係ねーだろアホw
以前にも下記で指摘してんだろ。
荘厳講記録(経聞坊文書)において天正13年8/25申時に大洪水が起きて
田畑流され郡内中数多家共二流死候 前代未聞候 上下迷惑不過之候
などと書いてあって、木曽川で大洪水が発生しててこれを「前代未聞」と特筆している。

それと並列して家忠日記7/5 の記事をかぶせているが、
それは大洪水の被害ではなくて、地震の話だろw堤の話で誤読してんじゃねーよ文盲。
幡豆郡で堤を築いている最中に大きな揺れが続いたって話で、
結局、堤が崩れるわけでもなく被害なんてなかったじゃねーかよw
0711人間七七四年2014/12/11(木) 15:17:07.77ID:zmWI5xHK
>>吉村氏吉、澤井雄重、森晴光、平手大炊 小坂孫九郎、天野雄光も人質を要求されていない
よくそんな飛躍した妄言を思いつくもんだなw
吉村とかは信雄の家老でもなんでもねぇ末端城主で政策に関与してる立場じゃねぇだろが同一視すんじゃねぇよアホ。
だいたいその織田信雄分限帖って秀吉との和睦成立後の論功行賞後の奴だよねぇw遡って大身だからとあぁだこうだいうんだw
そもそも大身の基準ってなに?吉村の参千貫文程度が大身なのかw羽柴三郎兵衛(滝川雄利)の13万8370貫は超SSS大身とか呼称するしかねーなw
そもそも木曽や真田や小笠原ら信濃最有力国人3氏が家康から離反した理由は、真田が家康への不満を吐いた諏訪郡知行宛行約束で騙しておいて
その約束を忘れて沼田割譲しろなんてお前はアホかと離反した事実経緯を分析した池亨氏が家康からの離反組は秀吉との戦いにおいて約束された所領の獲得が
実際には家康の空手形でなんとか必死に出鱈目発給で繋ぎとめてたが、その誤魔化しも限界に達したからで、その最終段階でついに岡崎城代石川数正まで離反したんであって
ウソの連発で必死に繕ってた張子の虎のような徳川軍が秀吉軍とまともに戦えるような状況にはなく、時間が経てば経つほど徳川が一方的に不利になるだけの話。
>>天正大地震で壊滅的被害受けたのは信雄領国の尾張や三河だタコw
天正地震は飛騨の白川断層説と尾張美濃の養老断層説で議論が分かれているのに三河と尾張でしか被害がなかったわけねーだろキチガイw
近江では琵琶湖で津波がおき多数の被害者、長浜城も被害を受け越中でも木舟城が被害を受け
伊勢でも人家多数倒壊死者続出、京の東寺や大和興福寺でも被害続出で混乱しとるし、三十三間堂でも仏像600体倒れて、公家や僧は祈祷しまくりだぞw
天正14年の木曽川被害も信雄や家康だけ被害とか頭が壊れてるとしか思えんwむしろ被害をもっとも受けたのは
信雄や家康との戦いで秀吉が削り取った尾張北西部だわwなんせ葉栗郡などの地形が河川氾濫洪水で大きく変化してしまい
美濃と尾張の国境が東に大きく移り郡の分断が起こってしまったほどだからなw
>>二重掘合戦
これも一次史料にまったくない細川家の自称武功捏造。お前があるある詐欺してる家忠日記にも当然書いてない。いつなのか日付提示しろよw無理だろうけどw
つかお前が主張する「秀吉は東駒野・松の木・河波・神戸・長久保などで相次いで敗戦する醜態ぶり」とやらの具体的ソースを早く出せよこの嘘つきw
家忠日記でもお前は我田引水で主語を家忠では無くて秀吉の母だなどとトンデモ解釈してたよなw
0712人間七七四年2014/12/11(木) 20:15:50.57ID:zmWI5xHK
自分に都合よく主語を変えて屁理屈捏造歪曲してばかりだなwww
アンチ秀吉大量コピペ厨基地外、日本史板で論破され逃亡
・日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。
あまりの無知さを日本史板住民に飽きれられ、スレから落ちろと言われると、捏造コピペ大量貼り付けして逃亡。
・秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきたという捏造コピペをあちこちに貼り付け。
朝日姫が家康の人質だったという一次史料を出せと言われると、全部無視して逃亡。
・「家忠日記」で、家忠本人の行動には主語がついていないことを知らず、家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所を提示しろと言われると、何も言わずに逃亡。
・大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っているが、「大政所御帰候」がどうしても訳せず、
すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り、大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろ、と捏造。
大政所に家康は同行していないし、自由に京や大阪に住める人質がいるの、と問われると無視して逃亡。
天正14年11月12日以降も大政所が三河にいたという一次史料を上げろと言われると、それも一切無視して逃亡。
0713人間七七四年2014/12/11(木) 20:16:57.47ID:zmWI5xHK
またアンチ秀吉のキチガイ織田チョンが暴れているのかよ。
ガチうぜぇ。だいたい秀吉は天正12年戦役の結果、
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww

秀吉に嫡男を人質に出した酒井は徳川四天王筆頭じゃん。
最古参筆頭として石川数正と同格。
他の四天王って言っても本多忠勝と榊原康政は21歳も差があって親子並に離れていたし、
井伊直政に至ってはさらに13歳下。
本多重次も譜代最古参で三河三奉行の1人で民衆に慕われた行政のスペシャリスト。
つか出世より家康へのイラつく直言で有名で、
その命を惜しまぬ直言ぶりで三河武士の見本と呼ばれ鬼作左と言う名前の方が有名。
おかげで北条征伐後間もなく蟄居になってるからあまり有名になってないだけで、
一筆啓上、火の用心〜の日本一短い手紙でも有名で、
現存天守が残る福井県の作左の嫡男が封じらた丸岡城の宣伝文句にも採用されてる。

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww

アンチ秀吉の織田チョンは相変わらずバカだねw
天正15年正月時点で、
本多重次は岡崎城代で、
酒井忠次が吉田城代なんだけどwww
天正17年6/22時点ではまだ重次は岡崎城代を続けているのがわかる。
0714人間七七四年2014/12/11(木) 20:18:37.74ID:zmWI5xHK
このキチガイ在日織田チョンのコピペ爆撃まじうぜぇ。
他人のレスを盗用改竄の上で武田厨のフリをして自演して気持ち悪いし。
鴨川達夫先生も小牧長久手での秀吉軍の被害は3000であり、
1万というのは家康側の誇張吹聴だと断じてますね。
これ2011年5月に鴨川氏が発表したあと、
誰も反論する人がいないよね。なんで、ほぼ決着したね。

そうだね。鴨川の発表に反論した学者は誰もいないよね。
そりゃ今までのは徳川幕府史観のただの家康贔屓だから反論できるわけがない。
キチガイ在日コピペ爆撃アンチ秀吉の織田チョンは
藤田達生編纂「小牧・長久手の戦いの構造 上下巻)
っていう最初から家康勝利ありきを大前提にして我田引水してる
2006年の大昔の糞本を持ち出して必死なだけのアホだから
相手すんな。白峰旬や谷口などと、さも分けて書いているが
すべてこの本に書いている古いもんばっかで 誰もいまさら見向きもしない。

続く2014年6/10発表での鴨川氏は三河から尾張を分断すべく
小牧の東方を縦に楽田(秀吉本陣)・柏井(重点強化)・小幡(壊滅させた)・岩崎(三河尾張国境)と
長く長城の如く半包囲しつつ、家康が出撃してきても取り合わないことを秀吉の計画だとしているね。
楽田・柏井・岩崎で半包囲して家康を窮せしめ、家康が捨て身で戦闘を挑んできても
要害堅固にして守る大網戦略(大あみ)を遂行していたと。
それが柏井・大草を普請丈夫に構えて、敵が身を捨てて攻めてきても取り合わず
いかにも嬲りまくって大網を置いて家康を取巻くのが完成した後に討ち果たすという宣言でもわかる。
しかし秀次が暴走して岩崎から出撃してさらに三河方面へと先へ先へと焦って進出してしまったのだろう。
森長可は出撃前に遺書を書いて死後の森家のことを家族に託しているように自殺出撃であったわけだし。
(だから岩崎から一番近い位置にいて柏井を堅く守っていた生駒や一柳らは、徳川が出てきても
こちらからは出撃せずに要害に留まり間違いがないようにとの命令を受けていたため秀次救援に出撃しなかった)
鴨川氏は陸軍参謀本部の妄想戦記の思考を踏襲した岩澤愿彦氏が2000年に発表した
愛知県史研究「羽柴秀吉と小牧・長久手の戦い」という論文の定説化に対して下記のように論難してる。
【三河行きの部隊に誘き出された家康を楽田の本陣と一緒に挟撃するのが秀吉の策だと断じた件を批判し、
秀吉はちゃくちゃくと包囲を築き家康が捨て身の攻勢に出てきても取り合わないと言っており、
家康とあえて戦わないというのが秀吉の考えだと断じています】
小牧から出た兵力が小幡へ(補充のため)移動するなら納得するという秀吉の考えを
小牧から家康が誘き出されて満足に思うと間違った解釈をしているのを批判しています。
これについても鴨川への批判はいまのところ皆無です。
はっきり言って原文の正確翻訳の達人鴨川への反論など不可能ですしね。
0715人間七七四年2014/12/11(木) 20:20:02.49ID:zmWI5xHK
鴨川氏は秀次の迅速な侵攻は見事で、まんまと家康を出し抜いて
岩崎城を落してしまってそれを知って焦った家康がなんとか巻き返しただけと書いていますね。
鴨川氏が指摘するように長久手は主戦場ではなく、一次史料などを見ても岩崎の戦いと書いていて
後世に4/9に勃発した戦を長久手の戦いと呼んでいるのも徳川史観による捏造歪曲なのでしょうね。
一年に渡る小牧対陣をあたかも長久手での家康の勝ち戦だけをクローズアップさせて
天正12年戦役全体を家康の勝利にミスジャッジさせてきた徳川史観が鴨川によって論破された。

織田在日アホすぎwお前こそ自分の都合よいものだけしか抽出してねーし。しかも捏造歪曲しまくりじゃんw
鴨川は一次史料の原文書状を確認し一字一句レベルでキチンと読み込む達人だしw
鴨川は武田、毛利に続いて秀吉研究をしていたからな。 だから誰も反論できないのよ。
原文書状確認作業やれる人は限られてるからな。 むしろ小牧・長久手の戦いの構造って本の方がまったく
史料列挙してねーじゃん。ウソはいてんなよ。
幕府史観のままに疑念もなく家康勝利を前提にした結果ありきの願望妄想を背景に戦を論じてる本だろうが。
そんな8年も前の当時の常識で語った本なんて読む価値すらないわ。

森は羽黒の戦いで敗北するや、鬼武蔵の異名を穢した汚名返上したいと秀吉の助力を嘆願するようになる。
秀吉は伊勢戦線と紀州一揆が気にかかり、東美濃戦線にはあまり興味が無かったため、
森は26日にむさしの名で自筆遺言書を書き、死を決意し、宛先には秀吉軍監だった尾藤になっており、
尾藤この由御申し候べく候と書き、自分の死後に遺された家族の身の振り方を指図してる。
つまり最初から死ぬつもりで無謀な進軍をするつもりで秀吉に嘆願していた。
ちょうどそのタイミングで家康が28日に小牧山を占拠したこともあり秀吉も対応し29日に楽田に集結。
この際、三鬼氏は秀吉軍戦力を10万は誇張で実際は6万と指摘しており、
その中から別働隊に割ける兵力も少ないながら、死に急ぐ森らを危惧し三好秀次を支援に付ける温情を示した。
0716人間七七四年2014/12/11(木) 21:34:00.49ID:DLRwoQIX
長い
0717人間七七四年2014/12/11(木) 22:27:37.87ID:eSTa8NpF
>>小牧の東方を縦に楽田(秀吉本陣)・柏井(重点強化)・小幡(壊滅させた)・岩崎(三河尾張国境)と
>>長く長城の如く半包囲しつつ、家康が出撃してきても取り合わないことを秀吉の計画

そんな事秀吉の書状のどこにも書いてないし秀吉が短期決戦構想で戦いを挑んでるのは
3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。

白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀吉は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。



あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。
仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が
頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も
京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた
5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
0718人間七七四年2014/12/11(木) 22:28:40.72ID:eSTa8NpF
>>楽田・柏井・岩崎で半包囲して家康を窮せしめ、家康が捨て身で戦闘を挑んできても
>>要害堅固にして守る大網戦略(大あみ)を遂行していたと。

そんな事秀吉はどこにも書いてないし、秀吉が持久戦戦法に変わり出すのは小牧長久手合戦より後の事だよ
しかしそれでも何回も三河遠州への大々的な出兵画を何回も書状で書いてる
この戦いは3/13の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3/22渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4/8の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰めと家康への討伐意思と行動が読み取れる
0719人間七七四年2014/12/11(木) 22:29:16.62ID:rLMt02pV
>>柏井・大草を普請丈夫に構えて、敵が身を捨てて攻めてきても取り合わず
>>いかにも嬲りまくって大網を置いて家康を取巻くのが完成した後に討ち果たすという宣言

それが書かれてるのは小早川隆景の5/2の書状だけど原文を読むと
三河衆勝利を得、其後は一円取り合わず、小牧山を要害に取り誘い持ち固められ
と書かれてて明らかに家康の事なんだがw

>秀次が暴走して岩崎から出撃してさらに三河方面へと先へ先へと焦って進出してしまったのだろう

秀次が襲撃されたのは白山林で岩崎城よりも北に位置してるからそれはまずない
秀吉の書状によれば、岩崎城を攻略しさらに岡崎方面へ行軍中、不慮の体となり勝利を失ったと書いてるから。
ついでに敗戦前日の丹羽長秀宛書状を読んでも
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかるし
秀次は秀吉の命令通り、岩崎城を攻略のち、岡崎方面へ行軍中背後を襲撃されて敗北しただけでしょ

>森長可は出撃前に遺書を書いて死後の森家のことを家族に託しているように自殺出撃であったわけだし。
何で今度の戦が熾烈なものであり戦死する可能性があったから、遺書を書いただけなのを最初から無謀な進軍の予定に摩り替わるんだよアホ
秀吉が献策によって軍を動かしたとするのは年次レベルでも誤りばかりで
世間からけちょんけちょんに批判されている哺庵の創作にしかなく、またこの捏造太閤記ですら
秀吉がしぶしぶ従ったとはかかれず、池田の意見を聞き、よく考え、尤もだと賛成している
また秀吉の敗戦前日書状から龍泉寺に根城を拵え柏井、大草、篠木に構えを堅固に申し付け、
三河に向けて手勢を発向し九鬼嘉隆も船手にて三河に差し向けるというように三河への大規模軍事計画を綴っていて
池田の献策的な事は一言も読み取れないばかりか、秀吉自身この作戦に向け、兵を集め、陸海から派遣するというように
積極的に動いている様子が見て取れる

追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない

>(だから岩崎から一番近い位置にいて柏井を堅く守っていた生駒や一柳らは、徳川が出てきても
>こちらからは出撃せずに要害に留まり間違いがないようにとの命令を受けていたため秀次救援に出撃しなかった)

彼らは最初から情報収集目的と砦や屋敷の普請が目的で派遣されてるだけでしょ
0720人間七七四年2014/12/11(木) 22:29:39.40ID:eSTa8NpF
>秀吉はちゃくちゃくと包囲を築き家康が捨て身の攻勢に出てきても取り合わない

それはおそらく5月9日の毛利宛書状とか6/4の佐竹宛書状の秀吉のハッタリ喧伝書状を曲解した解釈だと思うが
どちらも小牧長久手合戦前後で秀吉の戦略が少し変更された後だし、
原文を読むと小牧表10町15町陣を張り、野合之合戦を挑むと雖も、家康小牧山城中一切罷出候間、便々在之も不入儀と存じ
などと書いてて、家康が秀吉からの合戦の挑戦を受けないと書いてるだけだぞ。
しかもこれも秀吉のハッタリ誇大喧伝で、実際には秀吉からの挑戦受けて小牧長久手で秀吉を木端微塵にしたからね

>家康とあえて戦わないというのが秀吉の考えだと断じています

小牧長久手の戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

秀吉が短期戦構想で決戦を挑んでいるのは

3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。

白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀雄氏は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。
0721人間七七四年2014/12/11(木) 22:30:20.71ID:eSTa8NpF
>小牧から出た兵力が小幡へ(補充のため)移動するなら納得するという秀吉の考えを
>小牧から家康が誘き出されて満足に思うと間違った解釈をしているのを批判しています。

それは柏井に宛てた一柳宛書状の解釈だろうがどちらの解釈も明らかにおかしいね
小幡城=家康方の拠点
小牧山=家康方拠点
だから小牧出候人数、小幡へうつり候者、得其意候は
小牧を出た家康方の軍勢が小幡城へ移ったら、その旨を知らせるように
という白峰や谷口が小牧長久手の戦いの時系列データベースに書いてる解釈が正しいでしょ
鴨川は小牧や小幡城を秀吉方拠点と勘違いしてとんでも解釈してるけど。

4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗

長久手町史通史編 谷口央氏

P276
4月8日付丹羽長秀宛秀吉書状で
楽田からかなり南東へ移動した小幡城への攻撃と竜泉寺砦への移動が記されてる
この書状からは、この行軍は隠密行動ではなくかなり堂々としたしかも戦闘を行いながらのものであったことになる
大軍での移動であり隠密とは程遠いものであったといえよう。
続いて史料を見ていくと秀吉は一柳直末や、山内、矢部らに宛てて柏井、大草などの普請を行わせる書状をだし₍長久手町史102号103号₎
その後に三河国への進軍を計画していたところである

以上長久手の戦い前日となる4/8付け丹羽宛書状を詳細に見てきたがこれによると秀吉はかなり計画的に三河中入り作戦を立てていたことがわかる
この書状の内容を裏付ける事柄として前記のように長久手への行軍と同時に道中にある屋敷の普請が秀吉の命令のもと行われてあり
その行軍状況が計画的に見えること、同時に大がかりな計画であったことを彷彿とさせるようなゆっくりとした行軍状況であったことがあげられる
このような事実を考え合わせるとこの書状に記された内容はほぼ事実を反映しているといってよい。
そうすると長久手への行軍は隠密ではなくかなり堂々としたものであったのである


谷口央氏

「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」

秀吉は、小牧長久手敗戦当日となる九日に「小牧出候人数小幡へうつり候者、得其意候椰」₍長久手町史106号
と柏井にいる一柳に伝えている

このことから、家康自らか、もしくはその一部の部隊の小幡方面への進軍を把握していたことがわかる
しかし秀吉は、このときすぐに進軍せず、長久手での敗報を受けた後、竜泉寺を経て長久手まで進軍した。
しかし家康が小牧に戻ったことを知り、楽田もしくは犬山に引き返した。₎
0722人間七七四年2014/12/11(木) 22:31:12.75ID:eSTa8NpF
秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね。
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから


小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)


小牧長久手合戦後の出来事

4/30日〜5/2頃
二重堀合戦が起こり、信雄1000が秀吉50000を奇襲して楽田から叩きだす(家忠日記)
6/19信雄が秀吉の尾張下市場城攻略(家忠日記)
6/23信雄が秀吉の尾張前田城攻略(家忠日記)
7/3信雄が秀吉の尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10信雄が秀吉の伊勢浜田城攻略(7/14秀吉→津田)
11/10信雄が秀吉の尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)

4/12には秀吉が吉村氏吉に敗北(信雄→吉村書状)
秀吉はそれ以外でも5/5に小浜・間宮に伊勢の生津・村松で敗北してる(5/5家康→小浜・間宮)
また、3月から戸木城
4月から松の木城、東駒野城
6月から河波城、
などを攻略していたが
いずれも落ちずに撃退されてる
6月は特に信雄から吉村などへ感状ラッシュで度々秀吉軍を撃退した功績を賞賛されてる

元春は秀吉との関係が悪いどころか広家を人質に出したりして関係は良好だったからねえ
ドラマは無理矢理すぎて違和感だらけだった。

秀吉が短期戦構想で決戦を挑んでいるのは

3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。

白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より

P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀雄氏は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した

P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。

自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
0723人間七七四年2014/12/11(木) 22:32:23.06ID:eSTa8NpF
◎小牧長久手合戦の戦死者は1万人以上

4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人

戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太

また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる

吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい
長久手合戦後に京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる 。

さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね。
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから

イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな

京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
0724人間七七四年2014/12/11(木) 22:33:07.16ID:eSTa8NpF
小牧長久手合戦は秀吉の立てた三河方面総攻撃作戦がウンコすぎたからね。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
0725人間七七四年2014/12/11(木) 22:33:41.67ID:eSTa8NpF
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。
仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が
頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も
京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた
5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、
これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
0726人間七七四年2014/12/11(木) 22:34:58.47ID:eSTa8NpF
小牧長久手の戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

3月13日の丹羽長秀宛書状では『14、5日程で一気に酒の酔いを醒ますごとく
決着つけてやる』と言ってるししかも大軍結集してるから実行にも移してる。
敗戦前日の丹羽宛書状等複数の書状では『家康さへ討果候へは』
とあるし龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、
生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河
へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦も
その一貫であり自分の意思で池田等の兵力を三河に向け発向させる予定である旨
を報じてる。
北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被
仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀かねに同道してた
渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる。
その後も秀吉の決戦構想は
は秋頃まで一貫してて11月の信雄との和睦時ですら
「家康には恨みが深いので年内であっても攻め滅ぼしてくれん」とか言ってる

伊勢にいた軍勢北尾張に呼び寄せてるし留守居に最低限の兵
残して北尾張に秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄、
細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、
赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、
小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、
蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、越中衆、伊藤祐時、加藤清正、
加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、長久手方面進軍者を除きこれだけ
主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、
一柳、生駒吉一、矢部、山内 彼らが柏井の屋敷に在番してる。
上記の最低限の留守居除く全て総力でかき集めたといっていい

21日に美濃池尻に来た時は125000(細川軍記)100000(当代記や野坂文書)
これだけ大軍を連れてきたとある。伊勢の兵も四月にはだいぶ尾張に進めてるし。
それから詳細な地図ないから説明しずらいが犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、
小口、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでてそこにも兵をある程度配置してると思われる
し、さらに楽田〜龍泉寺までの大草、柏井、篠木にも屋敷が普請さ れている
0727人間七七四年2014/12/11(木) 22:36:15.43ID:eSTa8NpF
別働隊の隊長は池田親子森木下兄弟堀長谷川でそのうち半分が戦死してる。
また別働隊の兵力は24000。つまり戦死率から考えても普通に別働隊の半数は戦死してないとおかしい。
つか顕如日記は明らかに秀吉の捏造歪曲フィルターによって捻じ曲げられた事実ばかり書かれてるし、その顕如日記でも
その後の沙汰(噂)にてと真横に加筆されて書かれてる。明らかにこれは敗戦の事実を隠蔽したい秀吉の工作であって、
家康の誇大喧伝なんて存在しない。つか、秀吉によって捻じ曲げられた捏造情報ばかり書かれてるイエズス会年報やフロイスの日本史ですら
一万人戦死と書かれてるし看羊録でも秀吉は家康に大敗して和議を結んだと書かれてるしな

小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
0728人間七七四年2014/12/11(木) 22:36:41.80ID:eSTa8NpF
つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと

顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね
近世成立記の大規模戦争86ページ
信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
83ページ
公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた
0729人間七七四年2014/12/11(木) 22:40:14.63ID:eSTa8NpF
藤田達生 秀吉神話をくつがえす より  P169−172

天正10年9/18と9/20において行われた秀吉と丹羽長秀との会談において秀吉が養子としていた織田信長5男秀勝を施主として
10/15に信長の葬儀を挙行するという決定した

これは長秀が軍勢を率いて近江坂本城から上洛し 堀や長谷川も交えての会談で決定したものである
会談翌日の9/21には秀吉自ら「信長御仏事」のために同寺に向かった。
これは信雄・信孝をないがしろにするものであり
彼らに大きな衝撃を与えた。
秀吉は丹羽長秀の三男仙丸を実弟秀長の養子にして羽柴ー丹羽体制の構築を測った。

秀吉はかねてより入魂だった摂津衆の池田・中川・高山に加えて筒井ら大和衆、三好康長に加え、若江三人衆といわれた池田教正・多羅尾綱知・野間康久らの河内衆から人質を取って陣営内に取り込み、軍事再編を行った。

愛知県史資料編より

天正10年11/1秀吉→石川数正書状 真田宝物館所蔵文書

柴田勝家が織田信孝と図って謀反を企てている
丹羽・池田と自分で申し合わせて信雄を御代にたてる
五機内の主要な武将から人質を残さず取った
江州衆も人質を全く残さず出した
毛利輝元とは暇なくもうし合わせている

12/16 秀吉→高木

西美濃衆が大垣城へ出頭し人質を出したことを報じ
高木親子にも同様の行動をとることを勧告してる

12/18秀吉→宇喜多
織田信孝が和睦を申し出て
柴田勝豊は人質にだし近江の横山城には秀長を入れた。
稲葉親子と西美濃衆から人質を受け取ったことを伝えている

秀吉は実際に信雄信孝だけではなく 広大な領土獲得に邁進して
実際に河内、丹波、丹後、山城、大和など広範な領土獲得してるし
坂本など近江の一部の要求は 自分の息がかかっている丹羽に譲ったようだが。

しかも清洲会議が終わってまもなく丹後の細川と秀吉は血判同盟を取り交わして備えているのは、
清洲会議で対立した為に旧織田重臣間で徒党を組んで全面戦争に備えていた証拠。

秀長は河内の他に大和、摂津の一部を領地にしてもらってる。
(池田恒興摂津12万石以外は秀長。しかも池田を犬山城に飛ばして大坂城築城開始してる)
岸和田など和泉も秀長領になっていたとも言われているな。
だから筒井などは秀長配下。
のちの高野山征伐の伏線であり大和大納言領の前身を清洲会議を契機に形作っている。
だから大和興福寺の僧が、
羽柴の思惑通りになったと言っている。
0730人間七七四年2014/12/11(木) 22:41:16.25ID:/C5Og0bY
>>最初から死ぬつもりで無謀な進軍をするつもりで秀吉に嘆願していた

何で今度の戦が熾烈なものであり戦死する可能性があったから、遺書を書いただけなのを最初から無謀な進軍の予定に摩り替わるんだよアホ
秀吉が献策によって軍を動かしたとするのは年次レベルでも誤りばかりで
世間からけちょんけちょんに批判されている哺庵の創作にしかなく、またこの捏造太閤記ですら
秀吉がしぶしぶ従ったとはかかれず、池田の意見を聞き、よく考え、尤もだと賛成している
また秀吉の敗戦前日書状から龍泉寺に根城を拵え柏井、大草、篠木に構えを堅固に申し付け、
三河に向けて手勢を発向し九鬼嘉隆も船手にて三河に差し向けるというように三河への大規模軍事計画を綴っていて
池田の献策的な事は一言も読み取れないばかりか、秀吉自身この作戦に向け、兵を集め、陸海から派遣するというように
積極的に動いている様子が見て取れる

追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない

あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
0731人間七七四年2014/12/11(木) 22:42:11.74ID:/C5Og0bY
あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
0732人間七七四年2014/12/11(木) 22:43:04.24ID:/C5Og0bY
つうか尾張口突破がそんな困難なら権力基盤弱い伊勢攻めるか
間接的統治を行うだけで支配力が弱く、木曽が寝返り、翌年に真田、小笠原が寝返るなど
不安定な支配の信濃を上杉とともに攻めりゃいいだけだろ
だらだら尾張口や木曽川筋で対陣続けて晩秋になるまで突破口見出せん秀吉は馬鹿すぎる


中入り勢は突出などしとらん
秀吉の命令通り動いただけ
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるし
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。

あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。
0733人間七七四年2014/12/11(木) 22:44:22.09ID:eSTa8NpF
>>死に急ぐ森ら
森らは全く死に急いではいない。4/8秀吉→丹羽にあるように軍令に忠実に三河方面へ淡々と行軍してただけ。
>>三好秀次を支援に付ける温情
秀次は当時秀吉の数少ない血縁者。森が自殺を考えてるなら生きるか死ぬかもわからん戦に秀吉が行軍させるわけがない。
>>秀次は素人丸出しで、徳川軍に背後を襲われ不意だったために混乱。敗因を作ったのは秀次
背後を襲わせたのは、秀吉のアホ戦術。

4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。 白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
>>汚名返上のために死ぬ覚悟だった森ら
ハイハイ、ソースなし。
国境地帯にいる森らがいつ命落すかは全くわからんし、去就が注目されてた程なので秀吉に従った後
いつ先陣をやらされるかわからんから、遺言状を念のため書いただけ。それを無理矢理森が命を省みず無謀な行軍をするつもりだったとか
中入りが森らが名乗り出たとか相当馬鹿だな。森らは>>863-864>>868のようにとっくに秀吉家臣だから
4/8丹羽宛書状にあるように秀吉の命令で三河侵攻に派遣され、秀吉の命に忠実に動き、三河方面に放火や城攻めや築城をしながら行軍してただけだろアホ

>>秀次を生きて帰すことが恥辱をそそぐことにつながると考えた結果、

恥辱も糞も仮に背後から襲われる結果になった場合真っ先に狙われるのは最後尾の秀次軍であり
森らは最も安全な、徳川や信雄から離れた位置で行軍してたのだから、最初からこれが無謀な行軍なわけがない。
そんな危険な戦を考えていたならなら、秀次が一緒に派遣されるわけがないし、秀吉の親戚筋の木下兄弟まで一緒に派遣されて戦死してるほどなんだがw

>>森らが生還を考えず勝手に討ち死に
生還を考えずも糞も、尾張方面から進出してくる徳川軍に退却路をふさがれてただけだろ。
池田元助という、未来のある武将まで逃げ切れず戦死してるし。
>>秀次や長谷川や堀らは無事生還
秀吉のアホ作戦のせいで秀次が急襲されて、ねねの兄弟の木下兄弟が戦死し、長谷川や堀らが榊原隊に蹴散らされあっさり敗走したために
徳川勢と信雄勢がわらわら集まってきて、池田と森らが退却できなくなって、戦死しただけ。
池田元助まで逃げ切れずに戦死してるから、逃げようとして逃げられなかっただけであって自ら死を選んだわけじゃない。
0734人間七七四年2014/12/11(木) 22:47:27.55ID:QQ2vxXLS
>>岩田氏覚書によれば、天正12年2月には酒井重忠を使者に信雄と家康は密談していて、
>>3/6に信雄が三重臣殺害をしていてあきらかに家康が悪しき謀略をしたのが事の発端

多聞院日記2/2条で秀吉方の脇坂安治が伊賀の国衆を組織して伊賀上野城を乗っ取っている。これが発端
また津川ら信雄ら三家老は秀吉がこぞって彼らの人質を取っていたために操り人形だった(家中対秀吉心合候者共両三人)

>>美濃の池田と娘婿森の自立勢力の帰属を巡る外交調略戦で、信雄家康陣営は完敗

何それ?外交戦って?ソースを書いてくれ。

>>鬼武蔵の異名を穢した汚名返上したいと秀吉の助力を嘆願

全くそんな事嘆願していない。
森の3月26日遺言状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
「森家の後継ぎは忠政が長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい」
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
俗にいわれてるようなDQNっぽさは全く読み取れない。

池田・森も秀吉が伊勢に侵攻するや否やさっさと秀吉に従属
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている

さらに宇喜多も援軍を秀吉の要請に応えて尾張に派遣し上杉・木曽・河野・十河、
信包・神戸ら南伊勢諸将も従属。石川もこの頃から秀吉に離反しかけているのが徳川方史料でわかる

小牧長久手では尾張転進時の兵力10万に加え、伊勢方面軍2万4千に岐阜後詰6千で総勢13万もの圧倒的大軍を動因している
0735人間七七四年2014/12/11(木) 22:47:59.87ID:QQ2vxXLS
アホか。秀吉が単に秀次に敗戦の責任をなすりつけてるだけで、作戦自体全面的に秀吉が結構したものだし
奇襲されたのは秀吉が敵地のど真中で無謀な行軍させたからだから100%秀吉のせいだわw
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

>>秀次を罪人同様に縄目の恥をかかせたのでうれしく思ってくださいと書いている。
秀次は縄目の恥なんて書いてねーよボケ
0736人間七七四年2014/12/11(木) 22:49:02.75ID:QQ2vxXLS
わずか10町ほどの近距離にいる信雄・家康勢に対して仕掛けた軍事作戦が秀吉のせいじゃなく秀次のせいだというなら
秀吉が指揮した合戦なんてほとんど後方の離れた場所から悠々と命令出してただけだから
秀吉の合戦なんて全て秀吉の功責じゃなくなるだろバーカ
九州征伐や小田原征伐に至っては、100%秀吉とは関係なくなるなw
都合の悪い事を全て部下になすりつけて、都合のいい手柄だけ秀吉の才覚でとか妄想してんじゃねぇよボォケwwww

秀吉が自分の戦術ミスで徳川方に大敗したのを池田家からの非難を恐れて無理矢理秀次に押し付けてるだけじゃねぇかアホ
秀吉が池田隊や秀次隊に無謀な行軍中入りを命じたのは明らかだろうがタコ
秀吉が自分の作戦失敗を部下になすりつけるのは滝川の蟹江合戦の時とかいつもの事だしな(蟹江から眼前の大垣にいながら滝川を見捨

自分のアホ作戦で1万人を超える甚大な被害を出した秀吉は
池田家からの非難を恐れて気を使いまくっておおちさまにあてて、勝入のとむらい合戦を絶対行う!
等と息まいてたからね。
0737人間七七四年2014/12/11(木) 22:51:27.14ID:QQ2vxXLS
唯一長久手合戦での戦死者を3000と後年の加筆によって捏造してる顕如日記自体が秀吉によって歪曲されまくった捏造フィルターを通した情報ばかりを事実として書き記してるし日記形式の癖に
日付の順番とは関係なく後から加筆されまくってるからな。

・3/8晩より前の時点なのに3/20や3/27の出来事(大坂出兵など)が書かれてる。
・3/23の出来事が3/22条より前に加筆されて書かれてる
・根来寺よりは懇望、但泉州知行方について望みこれあり、秀吉は同心あるまじきと云々、それに付き同寺の儀堅く仰せ付けられた。
・来る15日尾張表へ諸勢を差し遣わされる予定を3/8時点で書いてる
→実際には秀吉の当初の出兵計画は尾張ではなく伊勢だし到着予定日も席に3/11と大きく異なる
・3/14の峰城の合戦の後に尾張犬山に池田と森を派遣して犬山まで切り取り、そのほか所々放火して存分に任せられ、尾張も秀吉に味方したと書いてる
→実際には池田や森による犬山奪取は3/13で峰城の合戦より前だし池田も森も当初秀吉につく事が予想されておらず
「申合令手遣」は明らかにおかしい。尾張で秀吉に味方した勢力があったのは事実だが(両毛利氏や松の木城近辺の将など)
「存分に任せられ秀吉一味」というのは明らかに秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて書いてるだけ。
・岸和田城での雑賀衆との合戦の日付が3/18になってる→実際には3/22
・4/10で尾張表は過半秀吉の理運とか書いてる→明らかにデタラメで秀吉のハッタリ。
北部にある小牧山やその周辺の砦や蟹江など西部の城すら攻略してないし、隅っこにある加賀野井竹鼻奥の三城もこの時点でしっかり残ってる
・4/9の大敗の条で「然れども秀吉が覚悟を堅固にしてやがてかちかためられ」という秀吉が「ほんのさわりにもならない」とか書いてた強がりのハッタリと同内容がしっかり書いてる
(実際には秀吉は池田や森らが死んで大変不便だ。これを次やったら親子の縁を切られるのを覚悟しろ。などと秀次に譴責状を書いてる)
・秀吉が6/27の夜に馬五六騎で大坂に帰ったとか書いてる→秀吉が帰ったのは6/28だし五・六騎で帰ったとか明らかに捏造
・8/26に木曽川を渡って8/28に清洲辺りを放火したと書いてる→実際には秀吉が渡河したのは8/19で大きく異なるし
そこから一回美濃に戻った形跡もない。8月下旬の秀吉は小牧や丹羽郡小折などを攻撃目標として定めてるのが家忠日記・9/1秀吉→石川・蜘庵や8/18秀吉→景勝・須田でもわかる
・9/8条に「御書の日付7日也」と書いてる
・9/8条に「9/2に合戦、家康敗戦とも風聞在之」と書いてる→実際には9/2には合戦はなかったし
その前日の9/1家康→尾張黒田城の澤井雄重で尾張島東での戦功を賞され感状がでてるように、信雄が勝利してる。
秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
0738人間七七四年2014/12/11(木) 22:56:29.80ID:QQ2vxXLS
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
0739人間七七四年2014/12/11(木) 22:58:06.83ID:eSTa8NpF
84年一杯を対信雄&家康に使って伊勢口や美濃の押さえ合わせて計135000ほどの圧倒的大軍引き連れて
砦間の戦闘や城の取り合いや信濃の木曽、上杉ら周辺大名への働きかけもガチガチにあったのに
滅ぼす気がないとかアホ。3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明
陣立書や書状から上記のように秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦やってる
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。堀と長谷川は中入り組。(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。丹羽長重も派遣されてる。信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる。北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、
八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄もそれに合わせ多く兵残してる。
秀吉方は秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、
稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島。長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、
生駒吉一、矢部、山内。彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる。上記のように一次資料類から秀吉側は領国中主力武将ほとんどかき集めている。当代記や三河物語などでも楽田周辺の秀吉軍だけで
10万かそれ以上としている。
0740人間七七四年2014/12/11(木) 23:03:05.57ID:eSTa8NpF
>>家康は人質提出でも、養子だよ!とかいい訳
翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。

>>天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった形で終わった
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。

>>家康信雄連合は秀吉から雀の涙の如き一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的

信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。

秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
0741人間七七四年2014/12/11(木) 23:03:55.54ID:RSpcONBf
敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
0742人間七七四年2014/12/11(木) 23:17:46.54ID:a5QHLPHx
長い
0743人間七七四年2014/12/11(木) 23:39:34.53ID:eSTa8NpF
正しい年表は以下の通りね。
秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
0744人間七七四年2014/12/11(木) 23:39:57.86ID:fStH4q2e
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな

>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。
0745人間七七四年2014/12/11(木) 23:40:56.38ID:fStH4q2e
>>それ原本ない武江創業録なるもんに収録されてるどんな家康花押かすら写してない鑑定不可能の怪しい写し書状だろ。
お前の妄想の中でどう思おうが、愛知県史資料編でも「織豊政権と東国」でもちゃんと本物認定されてて
偽者などと勝手にデッチ上げてるのはお前だけ。萩藩閥越録や児玉家文書の時と一緒でお前の脳内で偽物と認定しようが、それが本当に偽物になるわけではない。
>>石川は「足弱」「女房衆」を連れて逃げたって書いてるだけ
だからそれが人質なんだろって話なんだが。
>>百歩譲っても、石川出奔の大事件を利用して小笠原氏離反を石川のせいにして、
>>木曽氏や真田氏に続いて小笠原氏にまで俺が見限られたわけじゃないと北条相手に虚勢を張る言い訳
はいはい、根拠なし。妄想乙。

>>12/14 高遠を攻めた小笠原軍がすでに撤兵後の家康からの感状であり、とっくの昔に小笠原は離反済み

今後小笠原大夫逆意を企てと書いてるから文字通り今回裏切っただけで、とっくの前から離反してた根拠はない。
そもそも小笠原の離反理由は石川の人質連れて逃げた事以外に上杉景勝の川中島侵攻や天正壬午の際の空手形の連発などで生じた
家康の恩賞約束(安曇筑摩両郡あてがい?)が不履行に終わった事による事が推測されるから、無理矢理秀吉の調略と結び付けても根拠がない。

>>1/24〜29 三河家康御成敗に付き家康が信雄に秀吉へ属する為の斡旋を懇願し岡崎で条件をつめる会談をする
そんな事家康はやってない。
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
0746人間七七四年2014/12/11(木) 23:45:07.18ID:fStH4q2e
>>人質を得て家康の服属を以って東国平定がなった秀吉
家康は人質なんて出してないし、全く服属してねーよカス
家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
天正13は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
0747人間七七四年2014/12/11(木) 23:45:47.02ID:eSTa8NpF
>>家康は家臣団とさらなる人質提出において家臣団の同意意見統一がまとまらず破談
ハイハイ、ソースなし。
石川なんて天正12年春時点で篭絡されつつあたのが三河物語でわかるし木曽も前年春にあっさり裏切ってる。
真田に関しては対北条の同盟要請の結果、天正壬午の際の空手形の恩賞が不履行に終わって徳川から上杉に離反しただけ。
小笠原は石川が小笠原が石川の人質連れて逃げたのと、徳川の対真田の連敗や、上杉景勝の川中島侵攻による圧力で北部への拡張が滞って
寝返っただけ。
>>秀吉による徳川家臣団離間への揺さぶり術
どこにそんな事書いてるんだよアホ
>>石川は意見統一出来ない家康を見限って逃げた
意見なら既に統一しているが石川がただ1人秀吉に篭絡されてて小笠原らの人質連れて逃げただけ。
>>2月までに秀吉の怒りを解かないと徳川は滅亡確定である。
会戦になったら100%徳川が勝つから、滅亡確定なのは秀吉の方だな。
何せ史実でさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
0748人間七七四年2014/12/11(木) 23:46:06.61ID:fStH4q2e
>>秀吉は家康取次の信雄を通して人質提出ではなく、家康本人の上洛の要求にハードルが上が
ハードルが上がるも糞も、人質を提出する=秀吉への臣従なので、全く要求は変わっていない。
>>意見統一が出来ない家康
ハイハイソースなし。
>>2月寸前ギリギリに至り信雄に秀吉への斡旋を懇願し
そんな事やってない。秀吉の方が信雄にたのんで仲介やってもらって、母や妹を差し出してまで戦いを避けてる。
>>岡崎で降伏条件の最終会談をして、
そんな事やってない。
>>秀吉との婚姻を条件
秀吉が「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに家康に必死に土下座して母や妹を差し出しただけ。
>>さらにはードルをあげられた自らの上洛するリスクを約束して秀吉政権への完全臣従を申し入れ征伐を免れた。
なんだそれ(笑)またいつものお前の妄想か?
>>上洛したら殺されると恐怖する日々が家康を襲うことになる。
恐怖する日々ってなんだそれ(笑)お前の妄想か?
>>秀吉は早く朝鮮出兵したくて仕方がなく、
この時点で秀吉が早く朝鮮出兵したかったというソースをくれ。

天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
0749人間七七四年2014/12/11(木) 23:46:23.43ID:eSTa8NpF
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
0750人間七七四年2014/12/11(木) 23:46:40.83ID:fStH4q2e
>>信雄と家康が土下座した
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケhttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/717
>>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
0751人間七七四年2014/12/11(木) 23:47:05.56ID:eSTa8NpF
近世成立期の大規模戦争、小牧長久手の戦いの構造、秀吉の天下統一戦争、戦国織豊期の朝廷と公家社会
池上裕子氏「日本の歴史 15織豊政権と江戸幕府」立花京子「織豊期研究」「秀吉権力と「天皇の静謐」」
このあたりも上記と同じ見解を示している
秀吉は84年から頻繁に上洛したり御所を造営したり禁裏での饗応に参加したり
連歌興行に参加したり積極的に朝廷への接触をはかるようになるよ。
また秀吉がこれ以前にはほとんど見られなかった献上行為
が天正12年6月 秀吉⇒天皇 鳥、百羽
天正13年3月 秀吉⇒天皇 太刀代折り紙 銀百枚
       秀吉⇒誠仁親王 銀50枚
       秀吉⇒和仁親王 銀20枚
    7月 秀吉⇒天皇  白鳥三 蝶子三十
        ⇒誠仁親王  白鳥ニ 綿百吊 
        ⇒和仁親王  太刀
        ⇒若御方   料紙

と献品しまくり

また寺社衆への所領安堵もしまくっている 長久手で一敗地にまみれた秀吉が朝廷を利用する事を考えたんだろう
そもそも秀吉は政権なんて取ってない。実力のない公家とか朝廷とかが形式的に従えてるのと同じ
秀吉が天下取ったというなら公家や朝廷が天下取ったというのと同じ事
秀吉が本当の意味で天下取ったといえるなら秀吉死んだくらいで豊臣が揺らぐはずがないし
家康三成のごたごたでめちゃめちゃになるなんておかしい
結局皆うわべだけ従ってただけ。武力で統一したわけじゃなく停戦令を通達して
戦いをやめさせただけの間接支配だったからあっさり瓦解しただけ。
それで敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
0752人間七七四年2014/12/11(木) 23:47:25.27ID:fStH4q2e
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康が織田に復讐www
信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
流石武田正嫡の武田信道が日本本土から隔離されて
宇喜多秀家と同レベルの冷遇をされただけはあるなw
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許しているけど
唯一存続を許さなかったのが武田だもんな。
挙句の果てには自分の息子に武田氏始祖の武田信義の名前をもじって名付け
まるで己の息子が武田始祖であるかのような振る舞いをしている有様
しまいには信玄直系を大久保事件にかこつけて無一文で伊豆大島に配流し
結局武田信道は伊豆大島で生涯を終えてしまうんだよね。
後北条や織田、羽柴ですら石高を貰って徳川幕府の体制下にいたことを考えると
家康の武田に対する扱いは極めて冷酷と言わざるを得ない
0753人間七七四年2014/12/11(木) 23:48:02.85ID:eSTa8NpF
>>信雄と家康が土下座
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケhttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/717
>>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
0754人間七七四年2014/12/11(木) 23:48:27.26ID:dFkILHXE
>>日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。

はいはい根拠なし。日記は書いた記録の日付と時間を表すだけであって、時間ではなく日付を干支で現したとか曲解乙

>>秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきた

戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。
また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
0755人間七七四年2014/12/11(木) 23:50:14.85ID:h0o2qfHy
>>家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
そもそも短い短文の一区切りの文章の中で文章の主語がころころ入れ替わる文なんてねーよ
たとえていうなら、あの人は深溝にいき、(私は)←省略  家に帰った。
こんな事書いても主語があの人としか解釈できねーだろうがアホ
つか、そのあとに井伊直正が大政所を送ったというくだりがでてきて、文の中心の話題が大政所なのに
急にころころ主語がいれかわるわけねーだろw
11/12のふかうすに帰ったのと家忠と決め付けるとか相当馬鹿だな。
仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ

>>家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ
>>家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所
なんでそんな議論と関係ない事を証明しなきゃならんのだよタコw
11/12のふかうすに帰ったのと家忠と決め付けるとか相当馬鹿だな。
仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ
0756人間七七四年2014/12/11(木) 23:50:53.05ID:h0o2qfHy
>>家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ
>>家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所
なんでそんな議論と関係ない事を証明しなきゃならんのだよタコw
>>大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っている
デタラメ乙。天正14年11/12条家忠日記には大政所が帰った。深溝に帰ったと書いてあるだけだわアホ
主語の転換がされてないからどうみても大政所が深溝に帰っただけだろ。仮に大政所が帰ったのが深溝じゃなかったとしても
大政所=家康の人質(上記史料)なんだから人質の帰る場所=岡崎か浜松だろ。
>>すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り
当たり前だろ。大政所の主語が出てきてるのに。主語の転記がされてないからな。
大政所が帰った。深溝に帰った。それだけ。
>>大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
それ以降も糞も最初から人質なんであって一時的・限定的条件での人質なんて書いてねーよクズw
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
0757人間七七四年2014/12/11(木) 23:53:12.03ID:eSTa8NpF
11/12のふかうすに帰ったのと家忠と決め付けるとか相当馬鹿だな。
仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ

>>家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ
>>家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所
なんでそんな議論と関係ない事を証明しなきゃならんのだよタコw
>>大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っている
デタラメ乙。天正14年11/12条家忠日記には大政所が帰った。深溝に帰ったと書いてあるだけだわアホ
主語の転換がされてないからどうみても大政所が深溝に帰っただけだろ。仮に大政所が帰ったのが深溝じゃなかったとしても
大政所=家康の人質(上記史料)なんだから人質の帰る場所=岡崎か浜松だろ。
>>すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り
当たり前だろ。大政所の主語が出てきてるのに。主語の転記がされてないからな。
大政所が帰った。深溝に帰った。それだけ。
>>大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
それ以降も糞も最初から人質なんであって一時的・限定的条件での人質なんて書いてねーよクズw
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。

そんな主張してねーよ。家康の居城かどうか知らんが深溝に11/12に帰ったって事だろ。それから先は京に行ったりもしてるようだな。
>>天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
>>一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろと捏造。
そりゃ家康の人質じゃなくなったとか一言も書いてねーからな。だから人質の本来帰る場所=岡崎か浜松
にもかかわらず京や大阪にいるのは秀吉が騙しうち的に奪い取ったか家康の慈悲と好意で京や大阪に一時的に住まわせてやっただけだろ。
>>大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っている
デタラメ乙。天正14年11/12条家忠日記には大政所が帰った。深溝に帰ったと書いてあるだけだわアホ
主語の転換がされてないからどうみても大政所が深溝に帰っただけだろ。仮に大政所が帰ったのが深溝じゃなかったとしても
大政所=家康の人質(上記史料)なんだから人質の帰る場所=岡崎か浜松だろ。
>>すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り
当たり前だろ。大政所の主語が出てきてるのに。主語の転記がされてないからな。
大政所が帰った。深溝に帰った。それだけ。
0758人間七七四年2014/12/11(木) 23:55:43.96ID:eSTa8NpF
11/12のふかうすに帰ったのと家忠と決め付けるとか相当馬鹿だな。
仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ

>>家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ
>>家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所
なんでそんな議論と関係ない事を証明しなきゃならんのだよタコw
>>大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っている
デタラメ乙。天正14年11/12条家忠日記には大政所が帰った。深溝に帰ったと書いてあるだけだわアホ
主語の転換がされてないからどうみても大政所が深溝に帰っただけだろ。仮に大政所が帰ったのが深溝じゃなかったとしても
大政所=家康の人質(上記史料)なんだから人質の帰る場所=岡崎か浜松だろ。
>>すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り
当たり前だろ。大政所の主語が出てきてるのに。主語の転記がされてないからな。
大政所が帰った。深溝に帰った。それだけ。
>>大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
それ以降も糞も最初から人質なんであって一時的・限定的条件での人質なんて書いてねーよクズw
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。

そんな主張してねーよ。家康の居城かどうか知らんが深溝に11/12に帰ったって事だろ。それから先は京に行ったりもしてるようだな。
>>天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
>>一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろと捏造。
そりゃ家康の人質じゃなくなったとか一言も書いてねーからな。だから人質の本来帰る場所=岡崎か浜松
にもかかわらず京や大阪にいるのは秀吉が騙しうち的に奪い取ったか家康の慈悲と好意で京や大阪に一時的に住まわせてやっただけだろ。
>>大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っている
デタラメ乙。天正14年11/12条家忠日記には大政所が帰った。深溝に帰ったと書いてあるだけだわアホ
主語の転換がされてないからどうみても大政所が深溝に帰っただけだろ。仮に大政所が帰ったのが深溝じゃなかったとしても
大政所=家康の人質(上記史料)なんだから人質の帰る場所=岡崎か浜松だろ。
>>すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り
当たり前だろ。大政所の主語が出てきてるのに。主語の転記がされてないからな。
大政所が帰った。深溝に帰った。それだけ。
0759人間七七四年2014/12/11(木) 23:56:32.48ID:eSTa8NpF
>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる

下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
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