戦国ちょっといい話39
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年
2013/12/28(土) 15:41:31.69ID:m9sYieeK戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1377700193/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386399929/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0096人間七七四年
2014/01/14(火) 20:53:03.42ID:YfpHYSoA0097人間七七四年
2014/01/14(火) 23:33:24.02ID:ArQiQufr0098人間七七四年
2014/01/15(水) 00:47:43.90ID:Ikn+QHqzカトリックから脱会してイギリス国教会を立ち上げたりとスペイン、カトリックとイギリス、オランダは対立していた。
で、ウィリアムも参戦したアルマダ海戦へと繋がる。
リーフデ号漂着した件を担当したのが権現様。
そこでイエズス会からリーフデ号は海賊船だと申し入れがあるが本当か?と聴かれ、
ウィリアムたちが自分たちは欧州の宗教争いには関係ないと堂々と述べた姿を権現様が気に入って、
その後もイエズス会から申し入れは続いたが、リーフデ号を日本で裁くことはしなかった。
って話がある
0099人間七七四年
2014/01/15(水) 09:17:22.95ID:PNmpsLYe0100人間七七四年
2014/01/16(木) 07:41:36.23ID:RJKrsCC3下々の者から子供たちまでからかって、
『保科弾正鑓弾正、高坂弾正逃げ弾正』(保科弾正は他人を先に”やる”弾正、高坂弾正は逃げ出す弾正)
と言いふらされたものだ。
私の家は春日源五郎の名を代々継いでいたと言っても、父は春日大隅という甲州井沢の大百姓の
出身であり、私は幼少から故郷を離れ、姉婿と田地のことで公事(訴)に及び、私が負けた時に、
この公事の場からご奉公の命を頂いた。
この時信玄公は22歳、わたしは16歳で、最初は小人(雑役)であったのに、幸運にも廿人衆(徒歩で
軍隊の先導をする下級武士)を経て、はからずも1ヶ月も経たないうちに近習の地位に任じられ、
信玄公の側近く、御膝元に奉公する身となったのだ。なんという幸運な機会に恵まれたことだろう。
その後は、ご意向に沿うことが出来ず仮にも一月もの間仕事を与えられない、などという事もなく、
無難に引き続き奉公いたし、春日弾正と称して尼飾城主に任じられ、今は海津城主の高坂家を継いで
高坂弾正と呼ばれるに至った。
まことに、ご奉公に出仕してから24歳までは、同輩には「あのようなマヌケ者の弾正を昇進させるのは
ひとえに信玄公の見込み違いだ」などと、あちこちから言われたものであった。しかし、この事は
私にとって薬となり、信玄公の意に沿うように。一段とご奉公に精を入れたのだ。
(甲陽軍鑑)
甲陽軍鑑より、高坂弾正が自身の立身を語った一節である。
0101人間七七四年
2014/01/16(木) 20:34:42.42ID:9idnpS5s0102人間七七四年
2014/01/16(木) 21:18:55.21ID:QyqN7lNg言わせんな恥ずかしい!
0103人間七七四年
2014/01/16(木) 21:36:55.83ID:0WnoPM870104人間七七四年
2014/01/16(木) 21:56:03.48ID:XRYkZD9m判明していて、なおかつ高坂弾正は「源助」と名乗ったことはないので、この書状は高坂弾正宛ではないと
現在はほぼ証明されてる。
0105人間七七四年
2014/01/16(木) 23:08:01.59ID:A2ZHz1rm0106人間七七四年
2014/01/17(金) 11:27:50.79ID:ME3V0Bit0107人間七七四年
2014/01/17(金) 15:47:17.60ID:YeGeqghYもし存分に骨身を傷つけるほどの力に任せて勝って喜ぶことになっても、
その一方で自分より力の勝る人には負けて身骨を傷つけられて苦しむのだ。
世間の人の心も「人を謗ろう、人が悪い」と思う人は、必ず自分の身に悪い。
自分より弱い人を押さえて滅したとしても、一方で自分に勝る人がいて
自分を押さえることは歴然だ。ただ「人も善くあれ、我も善くあれ」と、
思うべきである。
一、人として人のために善くあれと思うことは誠に難しいものだな。
およそ生きとし生けるものは争わないということがない。空をかける翅、
地を走る獣、螻蟻蚊虻にいたるまで争わないということがない。
だから、人として争わないことは難しい。心底では争っているけれども、
外では争わない顔をするのは礼である。これを人という。
この礼を持たずして人に向かう時は、とりもなおさず早々に共に争う。
これは人にして禽獣に近い。
――『東海夜話(沢庵宗彭著)』
0108人間七七四年
2014/01/17(金) 18:37:19.46ID:7DevHlyN0109人間七七四年
2014/01/17(金) 19:48:34.00ID:1Rx53UPY現代なら思いやりかな?
そして言うは易し行うは難しと
0110人間七七四年
2014/01/17(金) 21:10:15.38ID:yQct1QOq0111人間七七四年
2014/01/18(土) 00:00:09.79ID:Q9tscSoN酒井忠次は徳川家康の四天王とされ、井伊・本多・榊原と雄名を天下に表わしたる。
中興の祖を忠次とする。
忠次は本多忠勝に似たる豪雄ではない。
榊原康政の如く身に七十創を蒙る「曹参」の武勇にもない。
井伊直政が如き勇将の器でもない。
一言で約せば沈勇にして謀略に富し者である。
忠次の如きは将略の勇がある。
絶奇なる籌策を抱く人というべし。
本多忠勝は秀吉より源義経の家臣である佐藤忠信の兜を与えられたことがあったが、
その恩威にも心を動かさず、天下の御家人となることは彼が喜ぶ所ではなかった。
ただ、三河武士と唱えられ徳川累代の家臣と呼ばれることが、この上なき栄誉と思っている。
忠勝の勇は戦国の士に求め難きもので、忠勝の忠は全く絶倫である。
忠勝の勇は「樊噲」に適し、智は「韓信」に比す可きだ。
榊原康政は忠臣無双の将である。
英主に康政が如き臣あり、勇にして智あり。
康政の勇は人のよく知る所であり、彼の智は知らない人はいない。
井伊直政は悪木盗泉で徳川殿に仕えて二心なき武士なり。
かかる義列の直政は勇武の気性も鬼神を凌ぐ勢いがある。
長久手の役の折、この先陣に進みたるは言わずもがなの直政。
家名と共に照り輝く赤幟、赤旗、朱具足で白きは槍の身刃のみ。
この槍刀さえ一振りすれば唐紅に敵の血潮で染め上げて赤き心を表わす。
この赤隊はアサヒに輝き山よりこなたへ馳せ降り、天下の上方勢を遠慮なく縦に横にと掛け破り、
大将をあまた討ち取って、名もなき士卒は蕪大根を切るが如くスッパスッパと飛ばす。
この時より天下に轟く勇名は「赤鬼」と呼ばれるようになる。
また、士卒を率いて戦う将帥の器のみならず、打物執っても無双の武士なり。
昔日の武人が侍従といい、兵部を称するのは実に無上の栄誉であり
かかる高位の直政も君の馬前に死は塵芥より軽く、利は一足の草鞋に同じく、
婿君と仰ぐ下野守の初陣に手柄を取らせようと将たる地位を置き自ら手を下して敵に向かうは、
乳虎を叱咤する武夫の胸中に嫣然とした美人も愛してしまうであろう可憐な情もある。
直政こそ古今無類の武将と仰ぐべきだ。
0112111
2014/01/18(土) 00:18:57.12ID:Q9tscSoN・忠勝の勇は「樊噲」に適し→忠勝の勇は「樊カイ」に適し
・かかる義列の直政は→かかる義烈の直政は
0113人間七七四年
2014/01/18(土) 01:07:19.13ID:KRm5VfS30114人間七七四年
2014/01/18(土) 09:26:19.83ID:9JYqeLNU徳川家臣のいろんな逸話を幅広く集めて紹介しているが
読んでみるとやっぱり四天王は他の徳川家臣とは違うことが解る
>>111のような比較も興味深いね
0115人間七七四年
2014/01/18(土) 15:39:00.26ID:WhKpmH8n0116人間七七四年
2014/01/18(土) 15:41:37.00ID:seiNbtwq0117人間七七四年
2014/01/18(土) 15:54:04.78ID:RQ47MmjE0118人間七七四年
2014/01/18(土) 16:06:02.61ID:Nhc8m0pO0119人間七七四年
2014/01/18(土) 16:23:04.13ID:SSBslH6O0120人間七七四年
2014/01/18(土) 16:26:12.06ID:wE0h5lRb0121人間七七四年
2014/01/18(土) 16:37:09.03ID:9mmhZYgF0122人間七七四年
2014/01/18(土) 16:44:21.09ID:ZP9mQt3Q「身分の上下関係なく、時節が来れば一家の滅びることもあるだろう。
その時、無理に取り繕うならいかにも未練がましく、恥をさらすような滅び方をする。
いよいよ無常の風が吹き荒れるような時節が来たならば、きっぱりと滅びる覚悟を決めるのだ。
そうするとまた、滅亡をくい止め、一家が立ち直る方法も見つかるものである」
と話されたとのことだ。
この話は、元茂さまがいつものように話されていたから、直朗殿がよく覚えていたのである 【葉隠】
0123人間七七四年
2014/01/18(土) 16:57:22.50ID:9JYqeLNU海老すくいさんが例の件とかで冷遇されていたわけじゃないってのも子孫みてもわかるけど
パパにゃん冷遇なんて聞いたことないけどな
佐和山っつか彦根も都の守備や大坂城を見据え西の大名衆に睨みを効かすを要所でパパにゃん配置はすごく納得だし
0124人間七七四年
2014/01/19(日) 09:02:36.12ID:6oTVi26r団体に蹴鞠(けまり)を寄付することになった。
エージェントが現地へ赴き、少年たちに蹴鞠を渡す。
少年たちはとても喜んだが、渡された朝廷謹製の蹴鞠を見て
「朝廷謹製ではなくて、メーカーは『信長』が良かった。」
「『信長』の蹴鞠はとても使いやすかった」
と口々に言う。
遣欧使節団のエージェントは首をひねった。
…信長?そんなメーカーがあっただろうか。
「これだ」と、手渡されたボロボロの蹴鞠を見てエージェントは驚いた。
すでにかすれてしまっているものの、蹴鞠にははっきりとサインペンで
「夢をあきらめるな 信長」
と、現地の言葉で記した跡があった。
数年前に、信長もこの団体に200個もの蹴鞠を送っていた。
さらに信長は、そのボール全てに自筆のメッセージとサインを入れ、
それを子供たちは「信長」というメーカーの蹴鞠であると思い込んでいたのだ。
0125人間七七四年
2014/01/19(日) 10:46:01.74ID:j2ITi3xr本人は立派な人でも後継者の育成には失敗する
っていう事はよくあるけど、隆景はまさにそんな感じ。
養子の金吾もな
0126人間七七四年
2014/01/19(日) 10:52:24.90ID:3k3SFcgD隠居せずにちゃんと育てろというかも知れないが、どうせ3年で死んでるし
0127人間七七四年
2014/01/19(日) 11:07:00.89ID:l1uUsBe3名目上の父だからと言って教育する義務まで無いわなぁ。
0128人間七七四年
2014/01/19(日) 11:09:31.23ID:j2ITi3xrいやいや、引継ぎも含めての隠居でしょう
応仁の乱とかは将軍家も管領家も後継・養子が原因になったし
0129人間七七四年
2014/01/19(日) 12:26:27.47ID:/jpDduKl0130人間七七四年
2014/01/19(日) 13:37:09.26ID:ALzPck1e0131人間七七四年
2014/01/19(日) 13:53:41.17ID:f8xuhS7+0133人間七七四年
2014/01/19(日) 14:13:00.95ID:ALzPck1e0134人間七七四年
2014/01/19(日) 14:25:17.47ID:+Y+tN7PG人を逸話と世評と実績と一次資料だけで判断するんじゃない
0135人間七七四年
2014/01/19(日) 14:29:57.17ID:qkDQ1w1Cむしろ逸話を除け、てならわかるが
0136人間七七四年
2014/01/19(日) 14:55:37.99ID:JzWLEfc70137人間七七四年
2014/01/19(日) 17:26:38.32ID:l1uUsBe30138人間七七四年
2014/01/19(日) 20:39:20.29ID:dV2qOaNU御家人たちは忠次を崇敬し、忠次が他人の家を訪ねるときに下馬をしなくても、これを無礼だと思う者はいなかった。
秀忠公は忠次の武勇にあやかろうということで忠次の諱字を貰い、
また秀吉公からも諱字を賜ったので、秀忠公とお名乗りになったのである。
『武家事紀』より、忠次の項にある秀忠の諱の異説である。
0139人間七七四年
2014/01/20(月) 00:59:16.60ID:ODbzzr/b0140人間七七四年
2014/01/20(月) 01:01:49.28ID:ODbzzr/b0141人間七七四年
2014/01/20(月) 01:28:21.26ID:07eURHZG0142人間七七四年
2014/01/20(月) 01:36:04.32ID:lHcbYmax織田秀信「えっ、秀って曽祖父の信秀からとったんじゃないの?」
0143人間七七四年
2014/01/20(月) 01:45:57.09ID:7uIrQSkEその方の分際で義元を安んじる元康とは何事か!
古〜い漫画の台詞
0144人間七七四年
2014/01/20(月) 02:18:59.91ID:lHcbYmax元康でも義元がやすんじる、でいい意味だと思う
0145人間七七四年
2014/01/20(月) 03:30:16.27ID:QO2tIAkQ謙信も『輝』虎 『政』虎
武田晴信や伊達晴宗や南部晴政や長尾晴景とかのも頭にあるが形だけはエライ人からの戴きものだったハズ…
0147人間七七四年
2014/01/20(月) 19:38:58.55ID:07eURHZGこの頃、かぶき踊りという物が現れた。
これは出雲国の巫女(名は国。ただし美人ではなかった)が始め、京都へ上がった。
タチは異風な姿をした男の真似をして、刀脇差し、衣装以下全て異相で、この姿をした男役が、
茶屋の女と戯れる様子を表現していた。
京中の上下は多くがこれを賞翫した。またこの国は伏見城にも参上し度々踊った。
その後、この国に学んだかぶきの座が多く出来て、諸国へと下って各地で公演をした。
ただし、江戸の右大将秀忠公は、生涯これを見なかった。
(当代記)
当代記より、歌舞伎の始まりについての記事である。
0148人間七七四年
2014/01/20(月) 20:32:24.80ID:B6fvkGQ60149人間七七四年
2014/01/20(月) 20:49:56.65ID:mmedVXuk0150人間七七四年
2014/01/20(月) 21:40:58.46ID:smXxv4Y4そういや吉川広家って元かぶき者だったっけ。
0151人間七七四年
2014/01/21(火) 00:44:54.25ID:TQpS+d1D0152人間七七四年
2014/01/21(火) 00:47:09.54ID:p1jduoiW0153人間七七四年
2014/01/21(火) 10:03:36.43ID:n6PAoQW60154人間七七四年
2014/01/21(火) 18:04:16.70ID:UZE7uljm0155人間七七四年
2014/01/21(火) 18:28:56.74ID:89KYyHl6信長、利家など
若いころやんちゃ→死ぬまでやんちゃ
DQN眼竜
若い頃から悪→極悪
悪久
0156人間七七四年
2014/01/21(火) 18:38:51.89ID:RKM5WGP60157人間七七四年
2014/01/21(火) 19:37:16.66ID:86+1xQ7I0158人間七七四年
2014/01/21(火) 22:33:49.52ID:NnkDaGF6それか狐憑きとかお手紙に書かれたり
0159人間七七四年
2014/01/21(火) 23:08:47.44ID:dkrSRKuy姫若子
0160人間七七四年
2014/01/21(火) 23:11:38.91ID:b9ViauOW0163人間七七四年
2014/01/22(水) 08:57:59.99ID:gXT3m4K/0165人間七七四年
2014/01/22(水) 17:35:19.15ID:pB+3k27D0166人間七七四年
2014/01/22(水) 18:45:26.09ID:/2pnHzIC>茶屋の女と戯れる様子を表現していた
出雲の阿国をドラマ化するとしたら、阿国役は中谷美紀かな?
0167人間七七四年
2014/01/22(水) 21:48:51.96ID:kRxYgF7X出会い茶屋を描いた風俗芝居と今で言うストリップみたいな踊りで
当時のオタ民衆に人気出たから文献者好みじゃなくても民衆受けする可愛さだったかもしれんな
0169人間七七四年
2014/01/22(水) 22:25:34.85ID:DR1fBhki当時では珍しい事でもないがえろいな
0170人間七七四年
2014/01/22(水) 23:07:01.84ID:DEnjE4X/AV女優って月に何人デビューしてるんだ?ってくらいいるだろ
0172人間七七四年
2014/01/22(水) 23:17:01.17ID:30bh2vut0173人間七七四年
2014/01/22(水) 23:26:30.24ID:rekQxYeZ女が男装して着物肌蹴ながら性の倒錯的な色気のある踊りが狙い所でそれが大ヒット
可愛かったのか余程色気が凄かったのかは知らんが男受けは良かった訳だ
0174人間七七四年
2014/01/23(木) 00:34:14.86ID:OTQikQou0175人間七七四年
2014/01/23(木) 15:02:08.05ID:y76YEOgF0176人間七七四年
2014/01/23(木) 17:24:35.73ID:A8OYVZHq0177人間七七四年
2014/01/23(木) 19:58:03.90ID:bUkoER/g0178人間七七四年
2014/01/24(金) 06:34:56.81ID:m6s3wWSH山形の8小学校
サケ好きだったとされる戦国武将・最上義光にちなんだ給食が22日、山形市の小学校8校で提供された。山形三小(酒井智子校長、423人)には甲冑姿の武将や市の観光PRキャラクター「はながたベニちゃん」が訪れ、郷土の偉人をPRした。
(つづく)
0179人間七七四年
2014/01/24(金) 06:41:59.88ID:m6s3wWSH城下町山形の礎を築いた義光の没後400年を記念し、市学校給食センターが企画。
給食は15日から市内の学校で提供している。メニューは県産サケを用いた「義光公もよろこ(ん)ぶ」昆布巻きをメインに県産米「つや姫」のムースなど。
山形三小の4年生の前に、最上義光歴史館サポータークラブ「義光会」の会員が扮した義光とその家臣、ベニちゃんが登場し、サケをおいしく食べたとの手紙が残るなどのエピソードを紹介。
給食を味わったTさん(10)は「サケ好きだと初めて分かり、違った一面が知れて良かった」、K君(10)は「義光公についてもっと勉強したくなった」と話していた。
山形新聞ニュース
「鮭様」の愛称は最上義光歴史館のこどもページの元ネタはあれ、
この「戦国板」が本家だと思ってる。
…(´・ω・`)(●Д゚)「正月の帰省で市内のスーパーで輸入物しかほとんど見かけなかったと思ったのに、県産のサケだと!?」
0180人間七七四年
2014/01/24(金) 06:47:15.12ID:9QQQ8Gg9なんでいまさら持ち上げるんだ?
0181人間七七四年
2014/01/24(金) 06:49:15.21ID:m6s3wWSH400とン年前
・一栗高春→可児才蔵がササガニだから高春と合わせりゃサルカニ合戦だね♪
・高橋亥之助→武太之助と名乗りなさい♪
・豆、楓、胡桃、松→元気(まめ)に帰って来る身を待つ♪
0182人間七七四年
2014/01/24(金) 06:56:03.85ID:m6s3wWSH「服部天皇」で検索する事を勧める。
0183人間七七四年
2014/01/24(金) 07:24:45.54ID:HJng9cB20184人間七七四年
2014/01/24(金) 08:38:25.41ID:9QQQ8Gg9てか妖怪マットにも関わりあるんか?
0185人間七七四年
2014/01/24(金) 12:27:25.02ID:NDh5QxQf山形の子は三傑の名前より先に最上義光を覚えるのかな
0186人間七七四年
2014/01/24(金) 13:21:19.38ID:m6s3wWSHで、義光祭が潰されて代わりに花笠祭に替えたり、
でん六の社長が郷土の英雄として最上義光の像を作ろうとした時も、服部氏やその取り巻きの団体らが「霞城公園は市民の憩いの場なんだから、そんなとこに奸雄の像を設置すんな」なんて服部氏の影響下の山形新聞のコラムで叩いたりしてたんだわ。
死後20年経過しても
大分薄れたと言っても権力者の陰はあちこちに海間見えるよ。
昭和生まれの山形市の人なら
多分肌で少しはわかるはず。
0187人間七七四年
2014/01/24(金) 13:35:17.94ID:m6s3wWSH※記事元にあった生徒名は伏せ字にし、他の山形に関しての地方ニュース『義光公も「よろこんぶ」サケの給食』他の記事からの折り込みもあります。
校長先生の名前は公職の方でしたので
伏せ字にはしないであります。
0189人間七七四年
2014/01/25(土) 00:27:40.28ID:CBCN/LEuこいつぁ中々凄いなw
0190人間七七四年
2014/01/25(土) 02:19:50.20ID:0/jF8+qA直に見ると結構感動する
武将が突っ立ってるだけの銅像とか、わざわざ作る必要性を感じないしね
あんなの作るくらいなら説明板に肖像画を貼っておけばいいだけ
0191人間七七四年
2014/01/25(土) 06:15:06.77ID:iQ6lVeQj兜の前立に利剣も着けてくれんかな?
米沢の火坂天地人の景勝と兼続の銅像はイメージが先行で
兼続(口伝の身長180a強〜190a弱)と
景勝(口伝の身長150a弱)なのを
同じくらいの背丈の像として作っちゃったりしたもんな
鹿児島のお兄ちゃんの銅像が不憫すぐる…
0192人間七七四年
2014/01/25(土) 06:29:53.95ID:iQ6lVeQj賎ヶ岳の戦いに敗れた柴田勝家は北ノ庄に落ちると、城下の僧を呼び寄せ敗残の将の姿を描かせ城を枕に自害を果たした
現在、柴田勝次郎氏の所有する柴田勝家の画像は有名だが保存状態が悪く、あちこち欠損しているために胴や袖の細部が判らない部分が多かった
しかし同じ絵の写本とされるものが江戸時代に纏められた『本朝名将百図』に残されている
図版の「柴田勝家図」はちぢれ毛(天パ調?)に破れ袖、膝の脇には前立付きの兜も描かれている他に
腕や臑、足は剛毛で被われ
注釈には「顔赤メ」等といった書き入れも見受けられる
写しのために原本と景色が幾分変わるかも知れないが
当時の人名の判る武将像を伝える貴重な史料と思える
※絵の兜の前立は有名な連鳥の家紋に脇立の着いた物ではなく、三つ柏葉?の様なもの
0193人間七七四年
2014/01/25(土) 06:35:36.13ID:iQ6lVeQj陣羽織無し・龍の絵の描かれた鎧の像として出てきます
0194192
2014/01/25(土) 07:49:12.36ID:iQ6lVeQj誤)注釈には「顔赤メ」等
正)注釈には「面赤メ」等
でした
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています