戦国ちょっといい話39
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0001人間七七四年
2013/12/28(土) 15:41:31.69ID:m9sYieeK戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1377700193/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386399929/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0902人間七七四年
2014/05/07(水) 15:11:16.23ID:Emd4X/5xなので歌関連の逸話をリクエストします
0904人間七七四年
2014/05/07(水) 23:37:07.24ID:3uBS/IGE1524年、甥幸松丸の急死により毛利元就は毛利家の家督を継いだものの、それを危惧する尼子経久と亀井秀綱の策に乗って
元就に叛意を抱いた異腹弟の元綱を殺害。
以後も尼子に従いその要請で大内家に攻められた尼子方の仇敵・安芸武田氏を支援する物のその心の内は反尼子に大きく揺らいでいた。
1525年、毛利元就は先年武田氏の銀山城にて自らの夜襲策で撃破、撤兵させた大内家の家老、陶興房の説得に応じ尼子方より大内方に鞍替えする。
これにより、安芸の国の形勢は大内側に大きく傾くこととなる。
1529年、毛利元就は亡き甥で先代の毛利家当主、幸松丸の母方の実家である石見高橋家を攻略。
また、これ以降尼子方の安芸武田氏傘下であった熊谷氏や、先々代興元以来の長年の敵であった宍戸氏や天野氏などと縁組・調略し、
隣国備後の多賀谷氏を降伏させるなど徐々に安芸を束ねる国人衆の筆頭格としてその勢いを高めていく。
1540年、尼子家の家督を継いだ尼子晴久はこれ以上の毛利の台頭許すまじと、3万の兵を持って毛利家の居城、吉田郡山城攻略の兵を出さんとす。
これはその数年前のある日のこと・・・。一人の男が吉田郡山城の門を叩いた。男の名は内別作(うちわさ)助四郎。
尼子晴久の側近く使えた者だが、勘気を蒙り尼子家を出奔してきたと言う。
(つづく)
0905人間七七四年
2014/05/07(水) 23:41:21.60ID:3uBS/IGE元就は内別作を家臣として雇い、自らの近臣として用いることにした。
だが、実の所内別作はかつて尼子経久が三沢氏に送り込んだ山中勝重同様、偽りの出奔であり
その役目は毛利の様子を探る間諜であった。そんな内別作を側近く用い続ける元就。
そんな中、いよいよ尼子晴久が吉田郡山を攻めると言う不穏な噂が流れる、元就は家臣らを集め軍議を開く。
その席上、元就はこう言った。
「晴久が甲山(かぶとやま)に陣をしいてくれればええんじゃが…もし三猪口(みえくち)に布陣されでもしたら、防州への通路を断たれてしまい、
わしらはどがぁもできんようなってしまう…ほしたら、一日どころか半時と持たん。ここを捨て、大内を頼り山口にでも逃げにゃならんのぅ・・・」
その翌日、内別作は吉田郡山から姿を消した。さては尼子の間者であったかと家臣は大騒ぎとなった。
しかし、当の元就は一人「さてこそ軍は既に勝ちたり(これで勝ったも同然)」と、大喜びであったと言う。
と言うのも もし甲山から城を見下ろされるような形になればどうにもならないが、三猪口は平地であるから、敵が大軍であっても容易に戦えると。
(先の軍議の時、内別作以外の旧来の家臣は甲山に陣敷かれたら上から丸見えだし、逆じゃね?と、思っていたが殿には何か考えがあるのだろうとその言葉に従ったとも言う。)
そして1540年(天文9年)8月、先のとおり尼子晴久は3万の兵を率いて吉田郡山城へ出兵。元就が軍議で危惧したとおり、尼子勢は三猪口に布陣したところ
元就と駆けつけた陶隆房(後の晴賢)、杉隆相、内藤興盛ら大内からの援軍に散々に打ち破られ退散したと言う。
0907人間七七四年
2014/05/08(木) 06:30:40.14ID:VK3LLf/Mとって大事な戦でしたからね…しかも何の因果か出兵前には将来自分の死地となる厳島で
戦勝祈願もしてると言う…
0908人間七七四年
2014/05/08(木) 07:23:52.27ID:bLpvlG+u0909人間七七四年
2014/05/08(木) 18:35:41.05ID:O8SFodjS後年、前述の甲斐守(本多政朝)が死去した時、前述の男子(本多政勝)は当時は
内記といったが、甲斐守の家督を相続した。だから系図では出雲守忠朝の孫に当たるが、
実は忠朝の嫡子であるから、父の家督を継いだのである。
しかし、忠朝以来五万石のところをこの度四万石にされ、残り一万石は一家の
能登守忠義へ加増されたので、忠義は五万石になり、政勝は四万石であった。
その頃の御定めでは五万石以上は乗輿、それ以下は馬上である。それが理由なのか、
政勝は四万石を受けなかった。一家の衆中は、
「たとえ一万石減るとしても、父の跡を継ぐのですから四万石をお受けするべきです」
と言ったが、政勝は承知しない。そこで細川越中守忠興を頼り、忠興が意見に及んだ時、
政勝は「父の出雲守忠朝は五万石の軍役を勤めたのに、私は五万石の軍役を
勤められないことの残念さにより受けないのである」と言った。これに忠興が、
「もっともな所存ではあるが、お受けしない時には本家に迷惑の事が起こるであろう。
分家の身で本家へ迷惑をかけては孝悌の道ではない」と言ったところ、政勝は、
「孝悌の道と仰せられるのならば、さっそく四万石のお受けをいたそう。しかしながら、
今も申した通り、父出雲守忠朝の通りに五万石の軍役を勤められないことが残念だ」
と言い、歯噛みをして落涙した。
すると忠興は政勝を褒めて「あっぱれ出雲守殿の子息かな。いつでも御身が出陣の折には
私めより弓、槍、鉄砲の人数どもを一万石だけ加勢するので、五万石の軍役を勤められよ」
と言ったので、政勝は大いに喜び、
「貴殿の御一言で私めの胸中は開けた。本当にかたじけない。一万石の軍勢のことを
なにとぞ頼み奉る」と言い、それから四万石をお受けして、公辺滞りなく家督のことは
済んだということである。
――『明良洪範続編』
0910人間七七四年
2014/05/08(木) 22:32:11.40ID:VK3LLf/Mまぁ忠勝以来、譜代きっての侍大将って誇りから来てるんだろうけれど。
0911人間七七四年
2014/05/09(金) 08:33:46.13ID:TQg1iug6武の家ではなおさらそんな風には思わんか
0912人間七七四年
2014/05/09(金) 10:03:43.96ID:tFfucZBG二備を編成できる司令官格の5万石じゃ大違いだから父ちゃんと一緒がいい!ってことなんかね
0913人間七七四年
2014/05/09(金) 21:27:01.72ID:2LcYOYIAそのため忠興は一万石を投げ与えた
0914人間七七四年
2014/05/09(金) 21:29:01.90ID:lnEBJtU6「私が今、死に臨んで残念なことが3つある。
一つは我が母に先立って死することだ。これは不孝である。
二つには、嫡子忠之が現在弱冠であり、歳が長じて国を治めることを見ること無く死することである。
三には、私は幼年の頃から戦をし、関が原に至るまでその功は多かった。
しかしその間小身であり、大軍の将にはなれなかった。その上若年でもあり、合戦についての
知識や経験も未だ熟していなかった。
それ以来、兵に将たる工夫も熟し、特に、その後大国を賜ったため、現在は2万の士卒の将となった。
これを普段からよく調練し、また戦に臨むため節制も厳粛にしており、軍の進退左右は、必ず心のまま
自由に出来るようになった。
私はこの士卒を使って、合戦を試みたかった。
この他には、浮世に思い残すことはないよ。」
長政の辞世の句は以下のものである
『 此ほどは うき世の旅にまよひきて
いまこそかへれ あんらくの空 』
(黒田家譜)
0915人間七七四年
2014/05/09(金) 21:39:51.27ID:EYi172T80916人間七七四年
2014/05/09(金) 22:03:20.09ID:vmnPPJrr0917人間七七四年
2014/05/09(金) 22:05:03.71ID:J9T9xBoQ0918人間七七四年
2014/05/10(土) 11:50:26.30ID:lPphQj1h部屋を出て行った後で
0919902
2014/05/10(土) 12:36:57.08ID:ht7X0ODI素晴らしい歌です
0920人間七七四年
2014/05/10(土) 23:48:43.24ID:VaD36Z1o1541年1月、尼子晴久率いる3万の軍は毛利元就の居城、吉田郡山城攻略を諦め撤退。
これを受け、同時期に杉隆宣・内藤隆時の大内軍と小早川興景などから攻撃を受けていた尼子傘下の頭崎城(現在の東広島市)の平賀興定は大内氏に降伏。
現在の広島市周辺を支配していた尼子傘下の安芸武田氏居城、佐東銀山城の城主・武田信実と尼子の援軍の将・牛尾幸清は出雲へ逃亡(1年ぶり2度目)。
佐東銀山城には武田一族の武田信重と守備兵僅か300が残るだけとなり、
厳島と対岸の桜尾城(現在の廿日市市)を乗っ取り蜂起した厳島神主家も大内氏の攻撃を受け滅亡。
安芸における尼子の勢力は風前の灯となったのであった。
1541年5月、大内義隆は安芸を完全に掌握する為、毛利元就に佐東銀山城攻略を命じ、大内軍は武田傘下で隣接する安芸府中を支配する
白井氏を攻略すべく兵を出す。
かつて、大内の名将・陶興房と初陣の大内義隆が1万5千の兵で囲みながら落とせなかった堅城・佐東銀山城であるが、その時城を守った猛将・武田光和は
1539年に急死し、武田有力家臣の品川左京亮と香川光景は武田の後継と大内との抗戦か講和かを巡って内輪もめを起こし、品川に居城八木城を攻められた
講和派の香川は「終わりやね、武田も終わりやね」と、大内に鞍替えし、かつての同僚である熊谷氏らに援軍を要請。
これに敗れた品川一族は逃亡。新たな武田当主として城に入った、武田信実も一時逃亡。
この後、吉田郡山攻め前に牛尾率いる兵2000と共に帰って来たものの、先のとおり尼子の吉田郡山攻めが失敗すると再度、出雲へ逃亡。
もはや武田家の崩壊は誰の目にも明らかであった。
0921人間七七四年
2014/05/10(土) 23:49:51.84ID:VaD36Z1o半年に渡る篭城戦を終えたばかりの毛利元就が動員できる兵力も戦に継ぐ戦でそう多くは無い。
主家よりの命令とはいえ徒に兵を損ねる訳にも時間を掛ける訳にもいかぬ。
元就は二つの策を立てた。先ず、城を正面切って大手門の東側から攻めるのではなく搦め手の安(現在の安佐南区上安、銀山城の北西側)より攻めること。
ただ、安の側にある長楽寺は武田家と通じており、ここから兵を進めようとすれば長楽寺が鐘を鳴らして城側に通報し、城兵が駆けつける。
先ずはその調略を行う毛利方であった。
毛利からの説得を受け、事ここに及んではと長楽寺も城側への通報を行わぬことを約束。
そして、念には念を・・・と、元就が講じた二つ目の策。近隣住民に千足の草鞋を作らせ、それを油に浸し、城攻めの前夜、闇の深い日に
火をつけて城の正面を流れる大田川へ流すのであった。
これを見て篭城軍は毛利は正面から攻め寄せてくると、戦力を大手門に集中させたのであったが、これこそ元就の狙いであった。
こうして正面からではなく、搦め手から攻め込んだ毛利軍は佐東銀山城を落とし、最後まで城に残った、武田信重は切腹。
同時期に安芸府中を攻めた大内軍も白井氏を倒し、これにて安芸の反大内勢力はほぼ一掃されたのであった。
なお、この時元就が千足の草鞋を流したことに由来する地名が、大田川対岸の広島市東区戸坂に「戸坂千足」として残り、
大内軍が越えた広島市東区中山から矢賀、山根町などに続く道を「大内越峠」(おおちごだお)として今も残っている。
0922人間七七四年
2014/05/11(日) 14:59:55.51ID:OhM2QlzQ0923人間七七四年
2014/05/11(日) 16:00:37.05ID:U01MixHc0924人間七七四年
2014/05/11(日) 16:05:31.32ID:VzABPf400925人間七七四年
2014/05/13(火) 14:21:20.22ID:QQRWsxBS0926人間七七四年
2014/05/13(火) 19:43:55.67ID:3t5XuoUG黒田如水は中津川から上方へと参勤の途中、丸亀に立ち寄った。
生駒親正は大いに喜び、如水に「高松の山は、築城に適した土地かお見立てしていただきたい。」
と熱心に頼んだため、如水は高松に行き城地を見聞することになった。
高松の地を見た如水は、「非常に良い城山だと思います。」と答えた。
ところがこの高松から半里ばかり西南に、石清尾という山があった。この山は、横幅は十町あまり、
長さは半里ほどもあり、これが高松に近かったため
「あの山は、高松の要害のためには悪しきものではないでしょうか?」
と、生駒親正は尋ねた。しかし如水
「あの石清尾山があるからこそ、高松は良き城になると私は考えます。
石清尾山は、この高松の城のために、味方千騎の強みとなるでしょう。
何故かといえば、この城の一方は海ですから、そちらから敵が寄せ来ることはありません。
そして石清尾山があれば、敵が大軍で押し寄せてきたとしても、道を狭くし不便でありますから、
これは敵の害となります。すなわち、味方の利となるのです。」
おおよそ軍のために地の利のある所を要害というのは、味方のために宜しき要地であり、かつ
敵のために害ある所を言うのだから、それはここに出ている高松のような地なのである。
(黒田家譜)
黒田如水、生駒親正にアドバイスをする、というお話。
0927人間七七四年
2014/05/13(火) 20:02:17.15ID:voaUdy0i0928人間七七四年
2014/05/13(火) 21:00:21.74ID:DfE9uIi20929人間七七四年
2014/05/13(火) 21:20:44.43ID:bUouYEIfそれ程認識されてなかったんじゃないの
0930人間七七四年
2014/05/13(火) 21:48:30.01ID:4hgn4ZEr大砲はいいとして城内が俯瞰出来る山の近くに築城するのは駄目だろ。
http://i.imgur.com/a3kMZXg.jpg
0931人間七七四年
2014/05/13(火) 22:55:55.59ID:A3ljeNf4まあ、>>926の話の後に別の場所に築城するのもなかなか勇気がいるがw
0932人間七七四年
2014/05/13(火) 23:27:16.65ID:cPR4X3bD0933人間七七四年
2014/05/14(水) 01:02:20.95ID:qKg88vb0その夜、高虎は数人の侍臣に酒を振る舞い、賑わしく過ごしていたが、話の半ばに至って
突然黙りこみ、じっと耳を傾けているふうであったが、やがて座を立ちひらりと庭に飛び降りた。
皆は驚いて立ち上がったが、高虎は振り向いて手を振ってこれを制し、そのまま足を進めて
暗い庭を、向こうの堀際まで進んだ、と思う頃、「バサリ」と太刀音が響き渡り、同時に
「燈火を持ってまいれ!」と、高虎の大声が響いた。
侍臣たちは応と答えて手燭を持って駆けつけると、そこには年頃40ばかりの大男が、
袈裟懸けに斬られて倒れていた。
高虎は笑って「酒の肴をしたぞ」と言いながらとどめを刺した。
夜が明けてこの大男の詮議をしたが、結局それがどこの何者なのか解らぬままに終わった。
しかし『曲者が忍び込んだのをただ一人早くも察知し、一刀に斬って捨てられた武運の強さよ』と、
この話を聞く者、高虎の武勇に感じないものはいなかったという。
(西島八郎兵衛留書)
0934人間七七四年
2014/05/14(水) 03:41:10.57ID:NdIVTJAJ0936人間七七四年
2014/05/15(木) 03:29:34.65ID:8HMDW4Yy「森を越えてくるやつなんていないだろ」とたかをくくって他の場所を固めてたら、
森を越えてきたのであっさり突破されたなんてことが20世紀にもあるんだっけ
「海を封鎖できない地形だから山から攻めてきたって大丈夫へーきへーき」とか、
俗に言う「英国面」に近いような実験的城郭だな
0937人間七七四年
2014/05/15(木) 03:44:59.88ID:sxvNzCY90938人間七七四年
2014/05/15(木) 05:42:56.12ID:8QFvCNjS神指に巨大城郭を建設して移転を目指したけど関ヶ原後の転封で頓挫。
鶴ヶ城は弱点を残したまま戊辰戦争に突入して山から撃ち込まれるアームストロング砲の砲弾の餌食に
0939人間七七四年
2014/05/15(木) 10:16:26.41ID:noHdHLZD弱点を残したままっていうけど、200年以上間開いてるからね…
0940人間七七四年
2014/05/15(木) 19:30:47.88ID:d/WLyF/q「一国一郡を守る身は言うに及ばず、人というものは、育ち方次第でよくも悪くも成るものなのだ。
生まれついて善意のあるものは、老功の者に頼って、弓矢のことは勿論、その他一切の良きことを
聞くことにより、次第に行儀よく、万事に巧者となるだろう。
人は大小によらず、7,8歳から12,3歳までの教育が重要である。
大名の子ならば、この間よき大将の行儀作法を語り聞かせ、育てることが良い。
小身なるものは、この間に大剛の者の武勇の働きを、後先詳しく解説し、うつけなる事を
しなくなった事なども語り聞かせるのが良い。
総じて、人の心に12,3歳の時に聞き入れて植え付けられた事は、一生の間忘れないものだ。
そしてそれは、谷水が川の水となり、川の水がやがて海の水と成るように、人の知恵も、
若輩の時聞いたこと、覚えたことが、歳が積もるに従って次第に広大なものとなっていくのだ。
良い事を聞き入れた心が広大になれば、善人となり、
悪事を聞き入れた心が広大となれば、悪人と成る。
善悪共に聞き入れるのが大将である。なので良き家臣を持てば良将となるし、悪しき者を持てば悪将となる。
小名であれば傍輩の善悪によって、よくも悪くも成るものである。
14,5歳より後は、女人への欲への嗜みを持てば人となるものだ。これは我が心にある理屈の例である。
(武道心鑑)
0941人間七七四年
2014/05/15(木) 19:47:52.48ID:vOlTs5C70943人間七七四年
2014/05/15(木) 21:45:40.01ID:0N9ciUbJ0944人間七七四年
2014/05/15(木) 21:50:49.16ID:rzRQx/J1を自藩にも適用して、戦時に備えるように増築しなかったんだよ
0945人間七七四年
2014/05/15(木) 23:28:39.58ID:CNMCzctp>「江戸城天守閣は平時には不要」
むしろ逆だろ、。天守は戦争時にこそ不要。
天守が大砲の的にしかならない事は大坂の陣
で既に証明されていた時代で、もはや
権力の誇示以外に用途が無く
全国を完全掌握している幕府には不要だから
建設中止したんだろ。
0946人間七七四年
2014/05/15(木) 23:36:06.63ID:qcwPZd5N0947人間七七四年
2014/05/16(金) 01:35:21.95ID:+rdtw0gN0948人間七七四年
2014/05/16(金) 07:26:23.92ID:iS81qeh10949人間七七四年
2014/05/16(金) 14:42:54.98ID:LFreK7Fjあと天守とは直接関係ないけど下見板張りとか。
漆喰塗りは雨で傷むから頻繁に塗り直さないといけないが、代わりに墨塗りの板張っとけば長持ちするし換えもカンタンなので大いに流行った
太平の世は黒いお城を沢山生み出したって事だな
0950人間七七四年
2014/05/16(金) 14:55:45.77ID:tu+KmwW40951人間七七四年
2014/05/16(金) 19:28:55.91ID:jJk/7/vh或夜の話の中で、高虎はこのように言った
「将軍様であっても、計算の心得は必要欠くべからざるものです。何故ならば、日本各国の
知行高、および戦時の出師人員、食糧弾薬の貯蔵高等も、詳細にご承知あらねばなりません。
もしそれを知らず、事実と相違した上意を仰せだされることなどあっては、人々はそれを聞き伝えて、
将軍の無能を謗り笑い、為にご威光を損ずるに至るであろうと存ずるのです。
ですので、将軍がお心得合ってしかるべき諸統計の概要を書き連ねて、差し上げます。」
そうして高虎は家臣の西島八兵衛に制作させた統計を、将軍に進呈したのである。
(木旦子集書)
藤堂高虎、家光に数字の大切さを説く、というお話し。
0952人間七七四年
2014/05/16(金) 19:46:54.45ID:3xZPkeM0とか言う人が出てきそうな話だね。こういう考え方の違いも面白い。
0953人間七七四年
2014/05/16(金) 19:52:11.73ID:LfJwtT990954人間七七四年
2014/05/16(金) 22:01:26.54ID:1pYOc0z4豊臣政権時の城は黒い天守が多く、徳川政権時の城は白い天守が多いのって、
単なる流行りというかブームだと思っていたけど、軍事的な理由もあったんだな。
当たり前と言えば当たり前だがw
>>952
陳平「スレ違いだけど、呼ばれた気がしました」
0956人間七七四年
2014/05/17(土) 04:56:26.40ID:eKCXPg0b一気に広まったらしいね。
0957人間七七四年
2014/05/17(土) 05:09:52.53ID:tKRx9nzQ手間とお金がかかるものだったからだれもやらなかったけど
それを富と権力の象徴として秀吉は白漆喰の聚楽第を作った
と何かの番組でやっていたよ
0958人間七七四年
2014/05/17(土) 05:16:38.53ID:pciLv0NI山形城なんかは維持費出せなくてとんでもないボロ城になってたような
0959人間七七四年
2014/05/17(土) 10:34:45.74ID:XWf9Iihiその気持ちにおいて真心で仕えているのならば、とくに目をかけてやり愛憐の心で扱ってやらねばならぬ。
また勇気に乏しく、か弱い者であっても、威儀を正して仕えようとするならば、
これもまた真心があり、いずれ何かの役に立つ侍であるから、人並みに扱ってやるべきであろう。
ところが、悪い点だけで、どこにも良い点のない者は、
目をかけていたわっても、或いは人並みに平等に扱ってやったとしても、到底、無駄と言うしかない
(朝倉敏景十七箇条)
0960人間七七四年
2014/05/17(土) 10:49:18.39ID:aF8fyasC0962人間七七四年
2014/05/17(土) 18:39:02.56ID:pciLv0NI本丸 櫓四つ・門三つ大破
二の丸 櫓二十・門四つ大破
三の丸 門・石垣・土居塀・堀・惣郭(城全体)大破
(山形城取縮修覆之覚・明和六年八月)
これに加えて、秋元氏が入る前の幕領時代に三の丸の武家屋敷も大規模に破壊されていたらしい
一体何が残ってたんだか
0964人間七七四年
2014/05/18(日) 20:58:30.33ID:Wh8Oshglこの時、森石見が湯灌の任にあたった。後に石見は、この様に証言した
『高虎公の体は、隙間もないほど一面の傷痕で、鉄砲傷も有れば槍傷もあった。
右手の薬指と小指とは尖端が切り取られていて、爪がなかった。
中指は一寸ほど短かった。
右の足の指も、爪の生え際から先がなかった。
右手の指の腹が、節立ったように、豆がいくつとなく出来ていた。このため老後になると、
指の屈伸が頗る不自由になられたということだ。これは戦場で、我知らず鞍壺を叩かれたためであろう。』
(平尾留書)
高虎の死骸を湯灌した家臣による、その証言である。
0965人間七七四年
2014/05/19(月) 13:03:10.26ID:RmZv/bAd0966人間七七四年
2014/05/19(月) 15:47:22.45ID:g9BlCQ8s0967人間七七四年
2014/05/19(月) 15:53:49.78ID:hRKq4ClM0968人間七七四年
2014/05/19(月) 19:29:38.47ID:VEUi/lf+次の日、目付けの役人たちが色々と調べると、どうも藤堂家中の何者かの仕業であるらしい、
ということになった。しかし犯人を突き止める方法がないので、役人たちの評議の末、家中の
者達が所持する投網を残らず差し出させ、そのうち一番最近に、網に防水のための渋を引いた物を
証拠として、犯人を突き止めよう、ということとなった。
ところが、これを聞いた家中の投網を所有する者達は、出漁したか否かにかかわらず、
尽く皆、渋を引いて網を差し出した。このため取り調べはかえって困難となり、役人たちは
大いに困り果てた。
藤堂高虎はこれを聞いて、内心かえって快く感じられたのか、役人を咎めようとせず、
犯人を早く見つけろなどとは尚更言わず、そのままに捨て置いたそうである。
(洞津遺聞)
0969人間七七四年
2014/05/19(月) 19:34:30.54ID:UHRAj7wz0970人間七七四年
2014/05/19(月) 19:34:50.40ID:4N12hM7m0971人間七七四年
2014/05/19(月) 20:07:52.49ID:cMxPPJsr0972人間七七四年
2014/05/19(月) 20:40:18.90ID:+ccnCx4a0973人間七七四年
2014/05/19(月) 22:15:27.79ID:OLEVOr5b元和8年(1622年)4月に起こった、宇都宮城釣天井事件。
宿泊予定の宇都宮城の普請に不備があると聞いた秀忠が、御台が病気なので帰ると理由つけて江戸へ急遽帰還。
あまりにも急な帰りやその後の経過を見て、色々尾ひれがついたこの話。
御台が病気だというのは、不信に思った秀忠がでっちあげ嘘とよく聞くが、
実はこの時お江さん、本当に病気で臥せっていたらしい
この頃は家光の嫁探しや、江戸城本丸の天守閣築造を含む大工事が実施されており、
江戸城内で過ごしている人達も引っ越しなどで慌ただしかった。
病にかかったのはいつ頃かは不明だが、5月頃に少し回復したのでそれを期に秀忠と共に西の丸に移動。
しかしまたも病が再発し、9月に予定していた本丸移徙も延期となる。
10月に朝廷の内侍所において臨時神楽を奏して江の病気平癒を祈らせている秀忠。
それが功を奏したのか11月頃にようやく回復し西の丸から本丸へ移ったそうな。
こう見ると宇都宮から江戸へどこも観光などせずダッシュで帰ったのは、
秀忠がお江さんを本当に心配にして帰ったのではと感じる。
0974人間七七四年
2014/05/19(月) 22:25:43.71ID:Lcck0UmS【テレビ】戦国武将・藤堂高虎、人気じわり・・・大河ドラマ誘致気運高まる NHK「非常に作りがいがある」「企画のリストの中に入っている」
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1400486334/
0975人間七七四年
2014/05/20(火) 00:03:46.95ID:JesdULt1中間六右衛門だった。
大隈城主の後藤又兵衛は中間と懇意で、たびたび訪問する仲であった。
街道筋から城下へ向かう途中の橋は、「後藤一本橋」と呼ばれる。
重臣同士が仲良しで密会しまくりって、大名には怖いわな。
0976人間七七四年
2014/05/20(火) 00:12:50.53ID:W29iPA9Q0978人間七七四年
2014/05/20(火) 00:41:46.39ID:VByEoAZE0979人間七七四年
2014/05/20(火) 00:53:17.41ID:RQzUvNlV0982人間七七四年
2014/05/20(火) 01:13:19.19ID:MRCXSsdW何度も主人を変えた無節操な奴ぐらいの認識だ。
江戸時代の忠義の理念と企業の終身雇用制の元では日の目を
見ないかった高虎だけど、めまぐるしく変化する国際情勢や終身雇用制
の崩壊などを考えると時代のニーズと高虎は合致している気がする。
0983人間七七四年
2014/05/20(火) 01:38:26.92ID:vbFNPYwbそれを不忠と言われてもなぁ
勤めている会社が倒産したから再就職しただけなのに
倒産した会社見捨てて他に行きやがったと言われても
仕えている時はちゃんと仕事しているんだから普通に立派だと思うけど
0984人間七七四年
2014/05/20(火) 01:52:28.14ID:JesdULt1倒産した時だけじゃないじゃん?
主君の死に対して出家したあたりは十分忠臣の行動だから、
やっぱり「無節操」って言葉が間違いで、単に忠誠を尽くす相手を
探してただけなんだね。
>>982が言うように現代に合わせられるのも大きいけど、戦国時代は
渡り奉公が普通に認められてたことを啓蒙するチャンスでもあるね。
0986人間七七四年
2014/05/20(火) 02:05:11.30ID:AMyBCs8s0988人間七七四年
2014/05/20(火) 09:19:06.19ID:mfECj0EZ0989人間七七四年
2014/05/20(火) 09:21:17.38ID:mfECj0EZ戦国ちょっといい話40
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1400545233/
0990人間七七四年
2014/05/20(火) 09:34:23.37ID:4tJn1kcY0991人間七七四年
2014/05/20(火) 21:16:06.85ID:mfECj0EZ侍は、首を取らずとも不手柄とは言わない。事の難にあたって、退かず、主君と枕を並べて討ち死にを遂げ
忠節を守るものをさして、さむらいと申すものなり。
義理、恥を知らぬ輩は、物の吟味をしないゆえに、幾度もの首尾があっても、一つも床しいとは思えない。
禄を持って招く時は、譜代の主君を捨てて二君に使える輩が出てくるものだ。
そもそも、心というものは物に触れて移ろいやすいものなのだから、仮初にも、侍道の外を見ず聞かず、
朝夕身を修練し、武芸を心がけ学問するとも、忠義大功を聞き、兜の緒を締め、槍長刀太刀を提げ、
天下の難儀を救わんと志す。それこそが、侍の役割なのだ。
(本多中書家訓)
本多忠勝の「侍論」である。
0992人間七七四年
2014/05/20(火) 21:18:52.53ID:GXKdwK5m0993人間七七四年
2014/05/21(水) 00:18:44.84ID:uAXR+aFK0994人間七七四年
2014/05/21(水) 02:54:22.17ID:Vvd/2ByB0995人間七七四年
2014/05/21(水) 11:06:05.75ID:apf+YihX0996人間七七四年
2014/05/21(水) 12:27:07.73ID:avQZE43r0997人間七七四年
2014/05/21(水) 20:53:58.77ID:sHA1slqc0998人間七七四年
2014/05/21(水) 20:58:05.20ID:f30MqTxXさあ埋めた埋めた〜
0999人間七七四年
2014/05/21(水) 21:37:53.68ID:CcSkZeC01000人間七七四年
2014/05/21(水) 21:40:24.91ID:bmsgXC7A10011001
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