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戦国ちょっといい話39

レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
0001人間七七四年2013/12/28(土) 15:41:31.69ID:m9sYieeK
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1377700193/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386399929/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0881人間七七四年2014/05/04(日) 12:13:56.96ID:bBTVdTLY
紀州征伐の際に秀吉側に付いた勢力が少なかったから目にかけたんじゃないか
0882人間七七四年2014/05/04(日) 13:02:21.25ID:K4fySxTS
>>880
秀吉「流石に陰田するような奴はフォローできねーわ」
0883人間七七四年2014/05/04(日) 14:24:37.06ID:LcVWaVfl
所領の把握とかじゃなくて、この当時によくあった大幅な打出しを計上して
在地領主から所領を巻き上げるための検地じゃなかろーか
0884人間七七四年2014/05/04(日) 14:59:35.46ID:eHCx+N3j
湯川さんと主膳さんはどうなったのかとぐぐって見たら徹底抗戦して本領安堵を勝ち取ったと思ったら、挨拶に出かけた大和郡山城で二人とも毒殺されてるのね。
地理的にしょうがないとはいえ、やっぱり酷い話では。
0885人間七七四年2014/05/05(月) 18:00:53.12ID:wcJH7pzk
香川之景(信景)の籠る天霧城が長曽我部に攻められた時のお話。

天霧城は頑強に抵抗したが、多勢に無勢。いよいよ最期の時がやってきた。
之景は近習の森久右衛門を呼び出し、一人娘の姫を守って城を落ちのびてくれと頼んだ後に討死した。
主命を受けた久右衛門は、燃え落ちる城から姫と共に落ち延び、大見の宮脇で姫を守りながら隠れ住んだという。

つづく
0886人間七七四年2014/05/05(月) 18:08:19.18ID:wcJH7pzk
つづき

時は流れ、世の中もすっかり平和になったころ。
帰農した久右衛門は、行くあてのない姫を妻として娶り、農業を営む傍ら村の若者らに弓を教えて暮らしていた。
ある年の春、藩主の生駒高俊が大見へ鷹狩りに来た時、どうしたわけか鷹の足につけた紐が大木の枝にからまり身動きができなくなってしまった。
あまりに高い枝のため、弓で鷹の紐を切ろうという話になったが、殿さまの鷹に傷をつけては・・・と誰も名乗り出るものがいない。
御付の者が地元に弓の達者はおらぬかと庄屋に尋ねると、庄屋は森久右衛門のことを言上し、直ちに久右衛門が召し出された。
期待にたがわず、久右衛門は雁俣の矢でもって見事に紐を射切った。
高俊は鷹が戻ったことを大いに喜び、その後は上機嫌で観音寺へ狩りに出かけたという。

その年も押し迫った頃、庄屋を通じて久右衛門に高俊から褒美をとらすので希望があらば申し出るようにと沙汰があった。
久右衛門は未開の地を開拓したい旨を言上し、荘内の伊砂子庄を賜ったそうな。
0887人間七七四年2014/05/05(月) 18:14:21.71ID:wcJH7pzk
昔話なので突っ込みどころも多いのですが、「こんな話もあるのね」ぐらいで読んでください
0888人間七七四年2014/05/05(月) 19:53:18.99ID:OZ2pLUDk
香川氏って親和婿養子にして元親の配下にならなかったっけ?
0889人間七七四年2014/05/06(火) 08:54:51.71ID:y3SA7FAq
>>888
まぁ、香川之景の娘は親和に嫁いでるし、
之景は秀吉の四国攻めの後は長曽我部にくっついて土佐に行ってるとか

この話、突っ込みどころが満載ですよね。

個人的には永禄のころに三好に天霧城を攻められて、
香川氏が讃岐から追い出された話とごっちゃになってるのかなと思います。
0890人間七七四年2014/05/06(火) 12:56:48.23ID:Qfg5SQO+
会津の黒川城は、至徳元年に蘆名直盛が築城した城である。天文7年に火災を受け改築され、
その後天正18年、蒲生氏郷の入部により再び改築が計画されることになった。

氏郷は最初、安芸の広島城を模して城を築こうとしていたが、
徳川家康と会うことがあった時にこの話に及んだ。
家康は築城に関して、

「おおよそ居城の大小については、城主の分限に関わることなので、予め論じがたいのだが、
大抵本丸を初め二の郭・三の郭は、塀・櫓ともに如何にも堅密にしておき、
また外郭においても、一の門・二の門と(それらにより形成される)升形は、
いざという時にすぐ作れるものではないから、予め設置して不測の事態に備えておくべきだ。
長塀の古くなった物は、いざと言うとき役に立たないから、外郭は土居・石垣のみにしておくのも悪くない。
必ずしも広島城のように外郭まで塀をめぐらしておくには及ばない。
それと、松永久秀が工夫して大和信貴山城に設けた多門櫓は、二の郭・三の郭に造っておくと一際便利なものだぞ。」

などと細かく氏郷に教えた。氏郷はそれを踏まえ、
文禄元年の夏より、大いに役夫を動員し築城を始め、家臣の曾根内匠らに命じ、
甲州流の縄張りを用いて内外の郭を築いたのである。

(新編会津風土記)


家康、氏郷に築城の心得を教えてあげる、というお話。
ちなみに孫の家光が完成させた江戸城の外郭には、八代将軍吉宗が撤去するまで長大な塀があったそうです・・・
0891人間七七四年2014/05/06(火) 15:24:27.21ID:P5XHWXJH
ドケチ野郎とか散々家康をdisってるくせに
0892人間七七四年2014/05/06(火) 19:40:14.89ID:EPE4j2wn
北条の老臣である松田尾張守(憲秀)とその嫡子である笠原新六郎(政尭)には北条家に対し異心があり、
小田原征伐の折、豊臣秀吉に内応し、豊臣の軍勢を小田原城内に引き入れる謀をした。
しかし、次男の松田左馬助(直秀)はこの計画を聞かされたものの、同心せず去ろうとしたので、
彼は座敷牢に監禁された。ところが左馬助は家臣の者と言い合わせ、具足箱の中に入って
脱出し、北条氏にこの事を伝えた。北条氏は左馬助に褒美として、即座に知行を与えた。

松田尾張守は大身であり、籠城の持ち口(担当箇所)は非常に広かったが、この事件により
混乱し、そこを豊臣軍は攻め立てたそうである。

北条氏の降伏後、豊臣秀吉は黒田如水に命じて、松田左馬助を誅殺するように命じた。
ところが如水は「松田を殺すのですね」と、秀吉に内応した松田尾張守と笠原新六郎を
誅殺した。

秀吉はこれを知ると激しく如水を叱責したが、如水は「聞き間違えてしまいました。」とのみ
答えた。その後、如水に特別の処罰もなかった。
この事は黒田如水、一生の勝事であるとされている。

生き残った松田左馬助は後に加賀大納言(前田利家)に仕え、五千石を所領した。
そして最近亡くなったそうである。

(老人雜話)

黒田如水、聞き間違えて殺す、というお話。

(老人雜話)
0893人間七七四年2014/05/06(火) 20:03:11.85ID:/FPUqS+C
親不孝なりとも君に忠ならば生かすべき、ってやつだったか
そんな如水さんのいい話?を聞いて後藤又兵衛が「君主はかくあるべき」とか言ってました
息子は川に落ちてた
0894人間七七四年2014/05/06(火) 22:08:09.65ID:ZwFfFYie
でもさすがに大道寺さんに対する仕打ちはあんまりだと思う
0895人間七七四年2014/05/06(火) 23:37:31.30ID:ewXniT8Z
北条氏政の家老の松田尾張は一老として大身ではあるが返り忠し、それを松田の次男が
北条氏直へ訴えたので、叛逆が露見して父子ともに閉じ込められた。

その後、和談によって開城の時、豊臣秀吉は黒田如水に、「松田の次男左馬介は、
父を訴えた者であるから誅し申すべし」と命令した。すると如水は間違えた振りをして
惣領の新六郎を殺し、左馬介を助けた。

これを聞いた秀吉は「どうして新六郎を殺したのだ。左馬介は我に忠のある尾張父子を
氏直へ訴えた憎き奴だから殺せと申し付けたのに」と言った。

これに如水は「それがしが承り違えたのは不調法でした。しかしながら、新六郎は譜代の
主人に背いた者なので武道に欠け、先祖の面まで穢したのですから、忠孝ともに無き
無道者です。左馬介は父には背きましたが、主人には忠のある者です。ですから左馬介と
取り違えて新六郎を殺してしまったからといって損とは申されますまい」と申し上げた。

秀吉はこれを聞いて「またちんばめが空とぼけをした」と言い、左馬介はそのままにした。
この如水の取り計らいを皆が褒め称えたということである。

――『明良洪範続編』
0896人間七七四年2014/05/07(水) 00:01:51.97ID:3uBS/IGE
可児才蔵の味噌合戦 笹の才蔵異聞 広島県大辞典より

いまからおよそ400年前安芸国城主・福島正則の家来に可児才蔵という槍の名人がいました。
ある夏洪水で堤が切れ、川水が城の濠に溢れ、城の石垣をだいぶ壊しました。ほってはおけないので正則は、
すぐさま石垣の修理にかかりました。
ところが幕府の許しを得ていなかったので正則は幕府に咎められ、安芸国から追われることになりました。
しかし、幕府の処置を恨みに思った可児才蔵ほか六十人の侍は、矢賀の小さな城に立て篭もったまま動こうとはしませんでした。
それを知った新しい城主・浅野長晟は家来に命じ矢賀の城を攻めさせました。
その兵が城の石垣を登りはじめると才蔵たちは石垣の上からグラグラと煮えたぎったみそ汁をぶっかけました。
そのため兵たちをヤケドさせられました。
そこで、浅野の殿様は今度は兵糧攻めにしようと、幾日も城をとりまきました。段々と貯えを失ってきた時、
才蔵はひとつの思案を立てました。
それは、城山のお地蔵さまに笹の葉を供えそれに味噌と米をのせておけば、どんな願い事も叶えられるという噂を
近郷近在に流すことだったのです。
城の者はかわるがわる忍び出て、その噂をふりまいて歩きました。その噂は噂をよび、城山のお地蔵さまには次々と
味噌や米が供えられました。●ヽ(゚∀゚)ノ● ウヒョー ! ミソイタダキマース
こうして、才蔵たちは長い間、城を支えることができ、篭城の侍たちは、何処へともなく落ちのびることができました。

地元の人たちは、やがて可児才蔵を真言寺に祀りそのお寺を才蔵寺と名付け、お地蔵さまはそのお寺の境内に移し「みそ地蔵」、
可児才蔵を「笹才蔵」と呼ぶようになったそうです。
このみそ地蔵には、いまは多くの受験生がお参りし、みそ玉をお地蔵さまの肩に供えています。「ミソをつける」肩代わりをしてもらったり、
お地蔵さまの脳みそを借りたりするためなのだそうです。

福島正則改易は一応可児才蔵死後の話ではございますが・・・彼も修羅道に堕ちた武田光和同様、主君の災難に迷って出たのでしょうか?w
0897人間七七四年2014/05/07(水) 01:54:43.27ID:6sn+TDjP
道雪の墓守

立花山麓にある曹洞宗の古刹梅岳寺
立花道雪の墓所である
中央に母養孝院の墓所、右に道雪、そして何故か左に一回り小さな異名の墓石

主君から恩賞として死後も使えることを許され同じ墓所に葬られた
名を菰野増時という
0898人間七七四年2014/05/07(水) 02:12:41.79ID:6sn+TDjP
ミス 薦野だ
福岡県の現在地名だと新宮あたり
柳川立花藩改易後黒田に使えた理由の一つだとも
地味だけど忠誠が高い九州武将の典型だと思う
0899人間七七四年2014/05/07(水) 10:02:36.34ID:genzl/yF
>>896
味噌合戦というから相手は権現様かと思ったら
0900人間七七四年2014/05/07(水) 10:58:13.63ID:OSlMwJ06
権現様は八丁専用だから
0901人間七七四年2014/05/07(水) 11:39:18.33ID:ACb3rfpI
家康「お前ら味噌って言うと俺出しやがって… どんだけ味噌好きなんだよ…」
0902人間七七四年2014/05/07(水) 15:11:16.23ID:Emd4X/5x
武士の歌が好きです
なので歌関連の逸話をリクエストします
0903人間七七四年2014/05/07(水) 23:29:14.39ID:F6Zsr9SH
>>901
味噌=権現様でしょ?
0904人間七七四年2014/05/07(水) 23:37:07.24ID:3uBS/IGE
謀神、敵の間者を用い策を成す 名 将 言 行 録 (陰徳太平記説もあり)より

1524年、甥幸松丸の急死により毛利元就は毛利家の家督を継いだものの、それを危惧する尼子経久と亀井秀綱の策に乗って
元就に叛意を抱いた異腹弟の元綱を殺害。
以後も尼子に従いその要請で大内家に攻められた尼子方の仇敵・安芸武田氏を支援する物のその心の内は反尼子に大きく揺らいでいた。

1525年、毛利元就は先年武田氏の銀山城にて自らの夜襲策で撃破、撤兵させた大内家の家老、陶興房の説得に応じ尼子方より大内方に鞍替えする。
これにより、安芸の国の形勢は大内側に大きく傾くこととなる。

1529年、毛利元就は亡き甥で先代の毛利家当主、幸松丸の母方の実家である石見高橋家を攻略。
また、これ以降尼子方の安芸武田氏傘下であった熊谷氏や、先々代興元以来の長年の敵であった宍戸氏や天野氏などと縁組・調略し、
隣国備後の多賀谷氏を降伏させるなど徐々に安芸を束ねる国人衆の筆頭格としてその勢いを高めていく。

1540年、尼子家の家督を継いだ尼子晴久はこれ以上の毛利の台頭許すまじと、3万の兵を持って毛利家の居城、吉田郡山城攻略の兵を出さんとす。
これはその数年前のある日のこと・・・。一人の男が吉田郡山城の門を叩いた。男の名は内別作(うちわさ)助四郎。
尼子晴久の側近く使えた者だが、勘気を蒙り尼子家を出奔してきたと言う。
(つづく)
0905人間七七四年2014/05/07(水) 23:41:21.60ID:3uBS/IGE
(つづき)
元就は内別作を家臣として雇い、自らの近臣として用いることにした。
だが、実の所内別作はかつて尼子経久が三沢氏に送り込んだ山中勝重同様、偽りの出奔であり
その役目は毛利の様子を探る間諜であった。そんな内別作を側近く用い続ける元就。

そんな中、いよいよ尼子晴久が吉田郡山を攻めると言う不穏な噂が流れる、元就は家臣らを集め軍議を開く。
その席上、元就はこう言った。

「晴久が甲山(かぶとやま)に陣をしいてくれればええんじゃが…もし三猪口(みえくち)に布陣されでもしたら、防州への通路を断たれてしまい、
 わしらはどがぁもできんようなってしまう…ほしたら、一日どころか半時と持たん。ここを捨て、大内を頼り山口にでも逃げにゃならんのぅ・・・」

その翌日、内別作は吉田郡山から姿を消した。さては尼子の間者であったかと家臣は大騒ぎとなった。
しかし、当の元就は一人「さてこそ軍は既に勝ちたり(これで勝ったも同然)」と、大喜びであったと言う。
と言うのも もし甲山から城を見下ろされるような形になればどうにもならないが、三猪口は平地であるから、敵が大軍であっても容易に戦えると。
(先の軍議の時、内別作以外の旧来の家臣は甲山に陣敷かれたら上から丸見えだし、逆じゃね?と、思っていたが殿には何か考えがあるのだろうとその言葉に従ったとも言う。)

そして1540年(天文9年)8月、先のとおり尼子晴久は3万の兵を率いて吉田郡山城へ出兵。元就が軍議で危惧したとおり、尼子勢は三猪口に布陣したところ
元就と駆けつけた陶隆房(後の晴賢)、杉隆相、内藤興盛ら大内からの援軍に散々に打ち破られ退散したと言う。
0906人間七七四年2014/05/08(木) 00:00:43.74ID:bLpvlG+u
>>905
陶さん援軍できてたのかw
なんともまあ。
0907人間七七四年2014/05/08(木) 06:30:40.14ID:VK3LLf/M
当時はお味方だし、この戦で負けると安芸はまた尼子にひっくり返されるしで、大内方に
とって大事な戦でしたからね…しかも何の因果か出兵前には将来自分の死地となる厳島で
戦勝祈願もしてると言う…
0908人間七七四年2014/05/08(木) 07:23:52.27ID:bLpvlG+u
後に似たような情報で厳島におびき出されてるからなあ。ほんとなんの因果なのか。
0909人間七七四年2014/05/08(木) 18:35:41.05ID:O8SFodjS
(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8452.htmlの続き)

後年、前述の甲斐守(本多政朝)が死去した時、前述の男子(本多政勝)は当時は
内記といったが、甲斐守の家督を相続した。だから系図では出雲守忠朝の孫に当たるが、
実は忠朝の嫡子であるから、父の家督を継いだのである。

しかし、忠朝以来五万石のところをこの度四万石にされ、残り一万石は一家の
能登守忠義へ加増されたので、忠義は五万石になり、政勝は四万石であった。
その頃の御定めでは五万石以上は乗輿、それ以下は馬上である。それが理由なのか、
政勝は四万石を受けなかった。一家の衆中は、

「たとえ一万石減るとしても、父の跡を継ぐのですから四万石をお受けするべきです」
と言ったが、政勝は承知しない。そこで細川越中守忠興を頼り、忠興が意見に及んだ時、

政勝は「父の出雲守忠朝は五万石の軍役を勤めたのに、私は五万石の軍役を
勤められないことの残念さにより受けないのである」と言った。これに忠興が、

「もっともな所存ではあるが、お受けしない時には本家に迷惑の事が起こるであろう。
分家の身で本家へ迷惑をかけては孝悌の道ではない」と言ったところ、政勝は、

「孝悌の道と仰せられるのならば、さっそく四万石のお受けをいたそう。しかしながら、
今も申した通り、父出雲守忠朝の通りに五万石の軍役を勤められないことが残念だ」
と言い、歯噛みをして落涙した。

すると忠興は政勝を褒めて「あっぱれ出雲守殿の子息かな。いつでも御身が出陣の折には
私めより弓、槍、鉄砲の人数どもを一万石だけ加勢するので、五万石の軍役を勤められよ」
と言ったので、政勝は大いに喜び、

「貴殿の御一言で私めの胸中は開けた。本当にかたじけない。一万石の軍勢のことを
なにとぞ頼み奉る」と言い、それから四万石をお受けして、公辺滞りなく家督のことは
済んだということである。

――『明良洪範続編』
0910人間七七四年2014/05/08(木) 22:32:11.40ID:VK3LLf/M
やっぱり三河だ、三代経ってもややこしや

まぁ忠勝以来、譜代きっての侍大将って誇りから来てるんだろうけれど。
0911人間七七四年2014/05/09(金) 08:33:46.13ID:TQg1iug6
働いてその分を取り返してやろうとは考えないんだな
武の家ではなおさらそんな風には思わんか
0912人間七七四年2014/05/09(金) 10:03:43.96ID:tFfucZBG
働くにしても元手が一備しか編成できない部隊長格の4万石と
二備を編成できる司令官格の5万石じゃ大違いだから父ちゃんと一緒がいい!ってことなんかね
0913人間七七四年2014/05/09(金) 21:27:01.72ID:2LcYOYIA
ある時政勝に四万石をやろうと思って彼を呼んだのだが、どのように思ったのか受け取らなかった
そのため忠興は一万石を投げ与えた
0914人間七七四年2014/05/09(金) 21:29:01.90ID:lnEBJtU6
黒田長政の晩年、病状が既に甚だしい時期、左右の者たちにこのように語った。

「私が今、死に臨んで残念なことが3つある。

一つは我が母に先立って死することだ。これは不孝である。

二つには、嫡子忠之が現在弱冠であり、歳が長じて国を治めることを見ること無く死することである。

三には、私は幼年の頃から戦をし、関が原に至るまでその功は多かった。
しかしその間小身であり、大軍の将にはなれなかった。その上若年でもあり、合戦についての
知識や経験も未だ熟していなかった。

それ以来、兵に将たる工夫も熟し、特に、その後大国を賜ったため、現在は2万の士卒の将となった。
これを普段からよく調練し、また戦に臨むため節制も厳粛にしており、軍の進退左右は、必ず心のまま
自由に出来るようになった。

私はこの士卒を使って、合戦を試みたかった。
この他には、浮世に思い残すことはないよ。」

長政の辞世の句は以下のものである

『 此ほどは うき世の旅にまよひきて
   いまこそかへれ あんらくの空 』

(黒田家譜)
0915人間七七四年2014/05/09(金) 21:39:51.27ID:EYi172T8
最後に己が鍛えた将兵と共に合戦に出たかった、と望む辺りはやっぱり戦国のお人だねえ
0916人間七七四年2014/05/09(金) 22:03:20.09ID:vmnPPJrr
関ヶ原の後加増されて大身になった人はそういう人が多かったんだろうな。
0917人間七七四年2014/05/09(金) 22:05:03.71ID:J9T9xBoQ
今の価値観だと違うかもしれないけれど、言われた方も嬉しいもんだったんだろうか
0918人間七七四年2014/05/10(土) 11:50:26.30ID:lPphQj1h
ngmsと共に老いた老臣達が男泣きしてそう。




部屋を出て行った後で
09199022014/05/10(土) 12:36:57.08ID:ht7X0ODI
>>914
素晴らしい歌です
0920人間七七四年2014/05/10(土) 23:48:43.24ID:VaD36Z1o
謀神の佐東銀山城攻め

1541年1月、尼子晴久率いる3万の軍は毛利元就の居城、吉田郡山城攻略を諦め撤退。

これを受け、同時期に杉隆宣・内藤隆時の大内軍と小早川興景などから攻撃を受けていた尼子傘下の頭崎城(現在の東広島市)の平賀興定は大内氏に降伏。
現在の広島市周辺を支配していた尼子傘下の安芸武田氏居城、佐東銀山城の城主・武田信実と尼子の援軍の将・牛尾幸清は出雲へ逃亡(1年ぶり2度目)。
佐東銀山城には武田一族の武田信重と守備兵僅か300が残るだけとなり、
厳島と対岸の桜尾城(現在の廿日市市)を乗っ取り蜂起した厳島神主家も大内氏の攻撃を受け滅亡。

安芸における尼子の勢力は風前の灯となったのであった。

1541年5月、大内義隆は安芸を完全に掌握する為、毛利元就に佐東銀山城攻略を命じ、大内軍は武田傘下で隣接する安芸府中を支配する
白井氏を攻略すべく兵を出す。

かつて、大内の名将・陶興房と初陣の大内義隆が1万5千の兵で囲みながら落とせなかった堅城・佐東銀山城であるが、その時城を守った猛将・武田光和は
1539年に急死し、武田有力家臣の品川左京亮と香川光景は武田の後継と大内との抗戦か講和かを巡って内輪もめを起こし、品川に居城八木城を攻められた
講和派の香川は「終わりやね、武田も終わりやね」と、大内に鞍替えし、かつての同僚である熊谷氏らに援軍を要請。
これに敗れた品川一族は逃亡。新たな武田当主として城に入った、武田信実も一時逃亡。
この後、吉田郡山攻め前に牛尾率いる兵2000と共に帰って来たものの、先のとおり尼子の吉田郡山攻めが失敗すると再度、出雲へ逃亡。
もはや武田家の崩壊は誰の目にも明らかであった。
0921人間七七四年2014/05/10(土) 23:49:51.84ID:VaD36Z1o
しかし、堅城・銀山城に篭る武田方の兵は士気も高く、正に窮鼠の如し。
半年に渡る篭城戦を終えたばかりの毛利元就が動員できる兵力も戦に継ぐ戦でそう多くは無い。
主家よりの命令とはいえ徒に兵を損ねる訳にも時間を掛ける訳にもいかぬ。

元就は二つの策を立てた。先ず、城を正面切って大手門の東側から攻めるのではなく搦め手の安(現在の安佐南区上安、銀山城の北西側)より攻めること。
ただ、安の側にある長楽寺は武田家と通じており、ここから兵を進めようとすれば長楽寺が鐘を鳴らして城側に通報し、城兵が駆けつける。
先ずはその調略を行う毛利方であった。

毛利からの説得を受け、事ここに及んではと長楽寺も城側への通報を行わぬことを約束。

そして、念には念を・・・と、元就が講じた二つ目の策。近隣住民に千足の草鞋を作らせ、それを油に浸し、城攻めの前夜、闇の深い日に
火をつけて城の正面を流れる大田川へ流すのであった。
これを見て篭城軍は毛利は正面から攻め寄せてくると、戦力を大手門に集中させたのであったが、これこそ元就の狙いであった。

こうして正面からではなく、搦め手から攻め込んだ毛利軍は佐東銀山城を落とし、最後まで城に残った、武田信重は切腹。
同時期に安芸府中を攻めた大内軍も白井氏を倒し、これにて安芸の反大内勢力はほぼ一掃されたのであった。

なお、この時元就が千足の草鞋を流したことに由来する地名が、大田川対岸の広島市東区戸坂に「戸坂千足」として残り、
大内軍が越えた広島市東区中山から矢賀、山根町などに続く道を「大内越峠」(おおちごだお)として今も残っている。
0922人間七七四年2014/05/11(日) 14:59:55.51ID:OhM2QlzQ
三歳、黒田長政は馬鹿にしてた石田三成に関ヶ原で互角以下だったのに口だけは達者だw
0923人間七七四年2014/05/11(日) 16:00:37.05ID:U01MixHc
そりゃ左近が相手だしw
0924人間七七四年2014/05/11(日) 16:05:31.32ID:VzABPf40
槍の一振りで兵5人位の首が飛ぶSAKONは戦国最強DA・YO・NE
0925人間七七四年2014/05/13(火) 14:21:20.22ID:QQRWsxBS
軍神さまにもそんな話無かったっけ?
0926人間七七四年2014/05/13(火) 19:43:55.67ID:3t5XuoUG
生駒讃岐守(親正)が讃岐国丸亀から、同国高松に新たな居城を築こうとしていた頃、
黒田如水は中津川から上方へと参勤の途中、丸亀に立ち寄った。
生駒親正は大いに喜び、如水に「高松の山は、築城に適した土地かお見立てしていただきたい。」
と熱心に頼んだため、如水は高松に行き城地を見聞することになった。

高松の地を見た如水は、「非常に良い城山だと思います。」と答えた。
ところがこの高松から半里ばかり西南に、石清尾という山があった。この山は、横幅は十町あまり、
長さは半里ほどもあり、これが高松に近かったため

「あの山は、高松の要害のためには悪しきものではないでしょうか?」

と、生駒親正は尋ねた。しかし如水

「あの石清尾山があるからこそ、高松は良き城になると私は考えます。
石清尾山は、この高松の城のために、味方千騎の強みとなるでしょう。
何故かといえば、この城の一方は海ですから、そちらから敵が寄せ来ることはありません。
そして石清尾山があれば、敵が大軍で押し寄せてきたとしても、道を狭くし不便でありますから、
これは敵の害となります。すなわち、味方の利となるのです。」

おおよそ軍のために地の利のある所を要害というのは、味方のために宜しき要地であり、かつ
敵のために害ある所を言うのだから、それはここに出ている高松のような地なのである。
(黒田家譜)

黒田如水、生駒親正にアドバイスをする、というお話。
0927人間七七四年2014/05/13(火) 20:02:17.15ID:voaUdy0i
砲撃に最適な山となるなw
0928人間七七四年2014/05/13(火) 21:00:21.74ID:DfE9uIi2
如水は広島城でも要害が悪いからこそ築城に適していると答えてるからなw
0929人間七七四年2014/05/13(火) 21:20:44.43ID:bUouYEIf
wikiったら高松城の築城開始は1588年だし大筒の脅威はまだ
それ程認識されてなかったんじゃないの
0930人間七七四年2014/05/13(火) 21:48:30.01ID:4hgn4ZEr
讃岐高松城って山どころか丘でもない平地にある平城(水城)だよ

大砲はいいとして城内が俯瞰出来る山の近くに築城するのは駄目だろ。

http://i.imgur.com/a3kMZXg.jpg
0931人間七七四年2014/05/13(火) 22:55:55.59ID:A3ljeNf4
権威ある奴の意見をホイホイ鵜呑みにする奴って馬鹿だと思う

まあ、>>926の話の後に別の場所に築城するのもなかなか勇気がいるがw
0932人間七七四年2014/05/13(火) 23:27:16.65ID:cPR4X3bD
クロカンはあえて弱点ありきな縄張りするイメージ。
0933人間七七四年2014/05/14(水) 01:02:20.95ID:qKg88vb0
藤堂高虎が伊予の板島城に在城していた、ある年の9月6日のことである。

その夜、高虎は数人の侍臣に酒を振る舞い、賑わしく過ごしていたが、話の半ばに至って
突然黙りこみ、じっと耳を傾けているふうであったが、やがて座を立ちひらりと庭に飛び降りた。

皆は驚いて立ち上がったが、高虎は振り向いて手を振ってこれを制し、そのまま足を進めて
暗い庭を、向こうの堀際まで進んだ、と思う頃、「バサリ」と太刀音が響き渡り、同時に
「燈火を持ってまいれ!」と、高虎の大声が響いた。

侍臣たちは応と答えて手燭を持って駆けつけると、そこには年頃40ばかりの大男が、
袈裟懸けに斬られて倒れていた。

高虎は笑って「酒の肴をしたぞ」と言いながらとどめを刺した。

夜が明けてこの大男の詮議をしたが、結局それがどこの何者なのか解らぬままに終わった。
しかし『曲者が忍び込んだのをただ一人早くも察知し、一刀に斬って捨てられた武運の強さよ』と、
この話を聞く者、高虎の武勇に感じないものはいなかったという。

(西島八郎兵衛留書)
0934人間七七四年2014/05/14(水) 03:41:10.57ID:NdIVTJAJ
黒田って本当に築城の名手なのか?自城以外に関してはいつもの黒田家譜な気がするが
0935人間七七四年2014/05/14(水) 21:25:27.86ID:kZIfLVmn
>>933
謎の男が結局謎のまま終わるモヤっとした感じが何か史実っぽさを感じる
0936人間七七四年2014/05/15(木) 03:29:34.65ID:8HMDW4Yy
>>931
「森を越えてくるやつなんていないだろ」とたかをくくって他の場所を固めてたら、
森を越えてきたのであっさり突破されたなんてことが20世紀にもあるんだっけ

「海を封鎖できない地形だから山から攻めてきたって大丈夫へーきへーき」とか、
俗に言う「英国面」に近いような実験的城郭だな
0937人間七七四年2014/05/15(木) 03:44:59.88ID:sxvNzCY9
どこのマジノ線ですか
0938人間七七四年2014/05/15(木) 05:42:56.12ID:8QFvCNjS
会津の鶴ヶ城は山から近すぎるから、直江が会津盆地のど真ん中にある
神指に巨大城郭を建設して移転を目指したけど関ヶ原後の転封で頓挫。

鶴ヶ城は弱点を残したまま戊辰戦争に突入して山から撃ち込まれるアームストロング砲の砲弾の餌食に
0939人間七七四年2014/05/15(木) 10:16:26.41ID:noHdHLZD
>>938
弱点を残したままっていうけど、200年以上間開いてるからね…
0940人間七七四年2014/05/15(木) 19:30:47.88ID:d/WLyF/q
武田信玄公が、武具の吟味をしたあと、この様に仰った

「一国一郡を守る身は言うに及ばず、人というものは、育ち方次第でよくも悪くも成るものなのだ。
生まれついて善意のあるものは、老功の者に頼って、弓矢のことは勿論、その他一切の良きことを
聞くことにより、次第に行儀よく、万事に巧者となるだろう。

人は大小によらず、7,8歳から12,3歳までの教育が重要である。
大名の子ならば、この間よき大将の行儀作法を語り聞かせ、育てることが良い。
小身なるものは、この間に大剛の者の武勇の働きを、後先詳しく解説し、うつけなる事を
しなくなった事なども語り聞かせるのが良い。

総じて、人の心に12,3歳の時に聞き入れて植え付けられた事は、一生の間忘れないものだ。
そしてそれは、谷水が川の水となり、川の水がやがて海の水と成るように、人の知恵も、
若輩の時聞いたこと、覚えたことが、歳が積もるに従って次第に広大なものとなっていくのだ。

良い事を聞き入れた心が広大になれば、善人となり、
悪事を聞き入れた心が広大となれば、悪人と成る。

善悪共に聞き入れるのが大将である。なので良き家臣を持てば良将となるし、悪しき者を持てば悪将となる。
小名であれば傍輩の善悪によって、よくも悪くも成るものである。

14,5歳より後は、女人への欲への嗜みを持てば人となるものだ。これは我が心にある理屈の例である。

(武道心鑑)
0941人間七七四年2014/05/15(木) 19:47:52.48ID:vOlTs5C7
三つ子の魂百までということですね、分かります。
0942人間七七四年2014/05/15(木) 21:13:59.93ID:Jbk8/6bg
>>939
幕府がうるさいからと思ったけど
あの会津じゃ言い訳不可だな
0943人間七七四年2014/05/15(木) 21:45:40.01ID:0N9ciUbJ
グラバーが維新軍にしかアームストロング砲売らないんだよ
0944人間七七四年2014/05/15(木) 21:50:49.16ID:rzRQx/J1
保科正之の「江戸城天守閣は平時には不要」
を自藩にも適用して、戦時に備えるように増築しなかったんだよ
0945人間七七四年2014/05/15(木) 23:28:39.58ID:CNMCzctp
>>944
>「江戸城天守閣は平時には不要」

むしろ逆だろ、。天守は戦争時にこそ不要。
天守が大砲の的にしかならない事は大坂の陣
で既に証明されていた時代で、もはや
権力の誇示以外に用途が無く
全国を完全掌握している幕府には不要だから
建設中止したんだろ。
0946人間七七四年2014/05/15(木) 23:36:06.63ID:qcwPZd5N
どのみち無益の金食い虫ってことだったんだね。
0947人間七七四年2014/05/16(金) 01:35:21.95ID:+rdtw0gN
作事奉行の得る袖の下が増えるか減るかだな
0948人間七七四年2014/05/16(金) 07:26:23.92ID:iS81qeh1
江戸二百年の平和がなければそのあたりもっと進歩したんだろうけど仕方ないやね
0949人間七七四年2014/05/16(金) 14:42:54.98ID:LFreK7Fj
天守が進歩したのが御三階だよ。大変財政にやさしい。
あと天守とは直接関係ないけど下見板張りとか。
漆喰塗りは雨で傷むから頻繁に塗り直さないといけないが、代わりに墨塗りの板張っとけば長持ちするし換えもカンタンなので大いに流行った
太平の世は黒いお城を沢山生み出したって事だな
0950人間七七四年2014/05/16(金) 14:55:45.77ID:tu+KmwW4
白漆喰だと鉄砲狭間の位置が目立つからじゃなかった?
0951人間七七四年2014/05/16(金) 19:28:55.91ID:jJk/7/vh
藤堂高虎は、度々三代将軍(家光)の夜話に参じた。
或夜の話の中で、高虎はこのように言った

「将軍様であっても、計算の心得は必要欠くべからざるものです。何故ならば、日本各国の
知行高、および戦時の出師人員、食糧弾薬の貯蔵高等も、詳細にご承知あらねばなりません。
もしそれを知らず、事実と相違した上意を仰せだされることなどあっては、人々はそれを聞き伝えて、
将軍の無能を謗り笑い、為にご威光を損ずるに至るであろうと存ずるのです。

ですので、将軍がお心得合ってしかるべき諸統計の概要を書き連ねて、差し上げます。」

そうして高虎は家臣の西島八兵衛に制作させた統計を、将軍に進呈したのである。

(木旦子集書)

藤堂高虎、家光に数字の大切さを説く、というお話し。
0952人間七七四年2014/05/16(金) 19:46:54.45ID:3xZPkeM0
「大将は大要を心得ていれば良いのであって詳細は相応の部下にうんぬんかんぬん」
とか言う人が出てきそうな話だね。こういう考え方の違いも面白い。
0953人間七七四年2014/05/16(金) 19:52:11.73ID:LfJwtT99
大事成してからの3代目は添え木しないと不味いという考え
0954人間七七四年2014/05/16(金) 22:01:26.54ID:1pYOc0z4
>>949-950
豊臣政権時の城は黒い天守が多く、徳川政権時の城は白い天守が多いのって、
単なる流行りというかブームだと思っていたけど、軍事的な理由もあったんだな。
当たり前と言えば当たり前だがw

>>952
陳平「スレ違いだけど、呼ばれた気がしました」
0955人間七七四年2014/05/17(土) 00:29:12.57ID:WDBF34wU
>>954
いや、姫路城つくる前までは白壁ができなかったので、黒壁の城が多かったんだよ。
0956人間七七四年2014/05/17(土) 04:56:26.40ID:eKCXPg0b
関ヶ原の頃に、白漆喰を固めるのに安価で大量に使用できる海藻糊が発見されて、それで白壁の使用が
一気に広まったらしいね。
0957人間七七四年2014/05/17(土) 05:09:52.53ID:tKRx9nzQ
出来るけど、数年おきに塗り替えなきゃいけないとか
手間とお金がかかるものだったからだれもやらなかったけど
それを富と権力の象徴として秀吉は白漆喰の聚楽第を作った
と何かの番組でやっていたよ
0958人間七七四年2014/05/17(土) 05:16:38.53ID:pciLv0NI
惣漆喰塗りの城って塗り直しに相当金かかるんだろ確か
山形城なんかは維持費出せなくてとんでもないボロ城になってたような
0959人間七七四年2014/05/17(土) 10:34:45.74ID:XWf9Iihi
家中の武士どもの中に、能力に劣る者や、何をやらせても下手な者がいても、
その気持ちにおいて真心で仕えているのならば、とくに目をかけてやり愛憐の心で扱ってやらねばならぬ。
また勇気に乏しく、か弱い者であっても、威儀を正して仕えようとするならば、
これもまた真心があり、いずれ何かの役に立つ侍であるから、人並みに扱ってやるべきであろう。
ところが、悪い点だけで、どこにも良い点のない者は、
目をかけていたわっても、或いは人並みに平等に扱ってやったとしても、到底、無駄と言うしかない
(朝倉敏景十七箇条)
0960人間七七四年2014/05/17(土) 10:49:18.39ID:aF8fyasC
織部「白い城より黒い城のほうが引き締まって渋いし強そうに見えるでござるよ」
0961人間七七四年2014/05/17(土) 18:13:55.00ID:zHkuet+a
>>958
それ以上に50万石クラスの城をその10分の1の石高まで落されたら維持できるわけがない
0962人間七七四年2014/05/17(土) 18:39:02.56ID:pciLv0NI
調べたら予想以上におんぼろでワロタ

本丸   櫓四つ・門三つ大破
二の丸 櫓二十・門四つ大破
三の丸 門・石垣・土居塀・堀・惣郭(城全体)大破

(山形城取縮修覆之覚・明和六年八月)

これに加えて、秋元氏が入る前の幕領時代に三の丸の武家屋敷も大規模に破壊されていたらしい
一体何が残ってたんだか
0963人間七七四年2014/05/17(土) 20:19:03.84ID:WDBF34wU
>>962
山形城?
御殿を再建したいらしいけど資料がまったくないらしく大変だっつう話し聞いた。
0964人間七七四年2014/05/18(日) 20:58:30.33ID:Wh8Oshgl
寛永七年(1630)十月五日、藤堂高虎は死去した。
この時、森石見が湯灌の任にあたった。後に石見は、この様に証言した

『高虎公の体は、隙間もないほど一面の傷痕で、鉄砲傷も有れば槍傷もあった。
右手の薬指と小指とは尖端が切り取られていて、爪がなかった。
中指は一寸ほど短かった。
右の足の指も、爪の生え際から先がなかった。
右手の指の腹が、節立ったように、豆がいくつとなく出来ていた。このため老後になると、
指の屈伸が頗る不自由になられたということだ。これは戦場で、我知らず鞍壺を叩かれたためであろう。』

(平尾留書)

高虎の死骸を湯灌した家臣による、その証言である。
0965人間七七四年2014/05/19(月) 13:03:10.26ID:RmZv/bAd
歴戦のモノノフ
0966人間七七四年2014/05/19(月) 15:47:22.45ID:g9BlCQ8s
平八郎「傷がないからといって武勇がないわけではないぞ」
0967人間七七四年2014/05/19(月) 15:53:49.78ID:hRKq4ClM
無傷の猛将も傷だらけの猛将もどっちもカッコいい
0968人間七七四年2014/05/19(月) 19:29:38.47ID:VEUi/lf+
ある夜、藤堂高虎の伊勢国津城の溜堀でしきりに投網を打ち漁をした者があった。

次の日、目付けの役人たちが色々と調べると、どうも藤堂家中の何者かの仕業であるらしい、
ということになった。しかし犯人を突き止める方法がないので、役人たちの評議の末、家中の
者達が所持する投網を残らず差し出させ、そのうち一番最近に、網に防水のための渋を引いた物を
証拠として、犯人を突き止めよう、ということとなった。

ところが、これを聞いた家中の投網を所有する者達は、出漁したか否かにかかわらず、
尽く皆、渋を引いて網を差し出した。このため取り調べはかえって困難となり、役人たちは
大いに困り果てた。

藤堂高虎はこれを聞いて、内心かえって快く感じられたのか、役人を咎めようとせず、
犯人を早く見つけろなどとは尚更言わず、そのままに捨て置いたそうである。
(洞津遺聞)
0969人間七七四年2014/05/19(月) 19:34:30.54ID:UHRAj7wz
天網恢々疎にして漏れ漏れ
0970人間七七四年2014/05/19(月) 19:34:50.40ID:4N12hM7m
漁、するんだ・・・
0971人間七七四年2014/05/19(月) 20:07:52.49ID:cMxPPJsr
犯人は高虎
0972人間七七四年2014/05/19(月) 20:40:18.90ID:+ccnCx4a
とっ捕まえたら高虎だったってオチを期待したw
0973人間七七四年2014/05/19(月) 22:15:27.79ID:OLEVOr5b
後々のことを考えると後味が悪いような気もして、どちらに書くか迷ったがこっちで

元和8年(1622年)4月に起こった、宇都宮城釣天井事件。
宿泊予定の宇都宮城の普請に不備があると聞いた秀忠が、御台が病気なので帰ると理由つけて江戸へ急遽帰還。
あまりにも急な帰りやその後の経過を見て、色々尾ひれがついたこの話。
御台が病気だというのは、不信に思った秀忠がでっちあげ嘘とよく聞くが、
実はこの時お江さん、本当に病気で臥せっていたらしい

この頃は家光の嫁探しや、江戸城本丸の天守閣築造を含む大工事が実施されており、
江戸城内で過ごしている人達も引っ越しなどで慌ただしかった。
病にかかったのはいつ頃かは不明だが、5月頃に少し回復したのでそれを期に秀忠と共に西の丸に移動。
しかしまたも病が再発し、9月に予定していた本丸移徙も延期となる。

10月に朝廷の内侍所において臨時神楽を奏して江の病気平癒を祈らせている秀忠。
それが功を奏したのか11月頃にようやく回復し西の丸から本丸へ移ったそうな。

こう見ると宇都宮から江戸へどこも観光などせずダッシュで帰ったのは、
秀忠がお江さんを本当に心配にして帰ったのではと感じる。
0974人間七七四年2014/05/19(月) 22:25:43.71ID:Lcck0UmS
良かったなオマエラ

【テレビ】戦国武将・藤堂高虎、人気じわり・・・大河ドラマ誘致気運高まる NHK「非常に作りがいがある」「企画のリストの中に入っている」
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1400486334/
0975人間七七四年2014/05/20(火) 00:03:46.95ID:JesdULt1
黒田六端城の一つ、松尾城(福岡県朝倉市)の城主は、豊前の国人出身の
中間六右衛門だった。

大隈城主の後藤又兵衛は中間と懇意で、たびたび訪問する仲であった。

街道筋から城下へ向かう途中の橋は、「後藤一本橋」と呼ばれる。



重臣同士が仲良しで密会しまくりって、大名には怖いわな。
0976人間七七四年2014/05/20(火) 00:12:50.53ID:W29iPA9Q
引用元くれ
0977人間七七四年2014/05/20(火) 00:27:24.42ID:68UWpeW8
>>974
幸村の次に来るのかねえ。
0978人間七七四年2014/05/20(火) 00:41:46.39ID:VByEoAZE
真田は飛ばして藤堂にしようぜ
0979人間七七四年2014/05/20(火) 00:53:17.41ID:RQzUvNlV
姉川での初陣から大坂の陣までの戦乱の時代、その後の平和な時代で秀忠、家光のブレーンとして、有名な出来事の殆どに何かしら関わってるから、信繁よりよっぽど大河向きだし話も作りやすいよな。
0980人間七七四年2014/05/20(火) 01:04:35.13ID:JesdULt1
>>976
975の?
出典は『福岡県地域史研究 No.13』
「伝承では」と。
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。