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戦国ちょっといい話39

レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
0001人間七七四年2013/12/28(土) 15:41:31.69ID:m9sYieeK
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1377700193/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386399929/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0848人間七七四年2014/04/25(金) 20:26:11.04ID:KnPSQksW
> 付き従う士卒たちも、ただただ心耳を澄ますばかりであった。

もう当時を知らない若者ばかりになってたんだろうと思うと何とも寂しい話だ
0849人間七七四年2014/04/26(土) 00:29:15.06ID:sp3m1MgN
伊達政宗公がある時こう仰った

「男の生命は刀脇差なんだから、鞘は良い物にして束ねをつけて、刃が抜けないように
鞘止も良い物にすべきである。それでこそ主君の役にも立ち、自分の為にもなるのだ。

油断というのは勿体無い。緊急に手討などがあった時も、常に良い状態にして有れば、何の問題も無い
だろう?
しかしな、常に念を入れて良い状態にしておいたとしても、その時になるとここかしこに問題が
出てきてしまうものなんだ。勿論常々からそのようなたしなみが無い者は、いざという時
役に立てるわけがない。

それからな、これは若い者たちに心得ていて欲しいのだが、何時であっても、人を討つ時
一刀で納めようなんて思ってはならない。一刀討ちつけ斬れなかったら、叩き殺すのだ!
という覚悟を持たなければならないぞ。」

(政宗公御名語集)

伊達政宗の、刀についての心得である。
0850人間七七四年2014/04/26(土) 01:18:56.75ID:/NUGOV8U
手討ちは単なる刀の定期メンテナンス
0851人間七七四年2014/04/26(土) 10:00:27.35ID:AFZuOKes
越中守様も何か言いたそうにしています
0852人間七七四年2014/04/26(土) 14:38:03.58ID:+oJf3obP
悪久「手打ちを自分でするのは三流」
0853人間七七四年2014/04/26(土) 15:09:48.42ID:Ybu1meKV
名古屋山三郎「ですよねぇ」
0854人間七七四年2014/04/26(土) 16:30:44.68ID:gPH5kHCp
鮭様「バールのようなもののほうが使えないか」
0855人間七七四年2014/04/26(土) 18:22:01.99ID:iOXbuZnl
織田信長「茶坊主が隠れおったか…」
0856人間七七四年2014/04/26(土) 18:25:04.80ID:iOXbuZnl
東禅寺(弟)「斬れなかったら叩いておけば良かったのか」
0857人間七七四年2014/04/27(日) 16:59:36.60ID:2gYRKtfF
関ヶ原へ出陣の途中、徳川家康は清洲に泊まった。
その夜の夢で『是』という字を見た家康は、

この時、足利学校の三要閑室(第9世庠主)を御供に連れて
いたので、ただちに彼を呼び夢のことを尋ねた。これに三要は、

「『是』の字は『日の下の人』と書く字です。
つまり天下に一人ということであり、誠に目出度い御夢です」

と申し上げた。この三要は学才のみならず頓智の上手な人である。

三要は洛東一乗寺村の円覚寺(円光寺)の開基で、
寺領二百石を与えられた。

――『明良洪範』
0858人間七七四年2014/04/27(日) 18:25:18.57ID:2zh9jIa2
清康「わしもその夢見たけどあのザマだったぞ」
0859人間七七四年2014/04/27(日) 19:02:04.77ID:n+Ki6Z00
模外惟俊「天下人が出る吉夢です(それがお前だとは言っていない)」
0860人間七七四年2014/04/28(月) 15:52:37.99ID:k2hrdVmy
>>858
つまり、関ヶ原以降の権太味噌様は影武者…
0861人間七七四年2014/04/29(火) 00:31:03.69ID:fxvJ3oLR
家康「大黒頭巾兜とか一富士二鷹三茄子とか縁起が良い夢ネタを考えるのは楽しいのう」
0862人間七七四年2014/04/29(火) 18:42:15.80ID:zDAu+sY+
難読市町西の横綱こと、兵庫県宍粟市(しそうし)の五十波(いかば)にある長水山(ちょうずいさん)城の城主は宇野下総守政頼。赤松の一族である。
この宇野は芸州(毛利)の旗下だったので、秀吉公はこの城を攻めることをお決めになり、別所を攻め落とした翌年、広瀬の郷に馬をお寄せになった。
この時、近習の一人(里村紹巴とも)が「かがり火にうの首見ゆる広瀬かな」と門出の発句を奉った。
たいそう感心した秀吉公が一気に城をお攻めになると、宇野政頼とその子祐清はついに打ち負け、
近い親類である美作小原城主・新免伊賀守宗貫を頼ろうと、同じ宍粟郡の千草へと落ちていったのである。

だが、宇野父子の運命はすでに尽きていた。
折からの五月雨に増水した千種川を越えかねている間に、秀吉の勇士蜂須賀小六、荒木平太夫、神子田半左衛門に追い付かれてしまったのだ。
政頼は河畔で戦って討死、祐清も荒木平太夫と槍を合わせ、打ち取られてしまった。

最後まで秀吉公に降らず、討死して勇士の本懐を遂げた宇野に、当時の人々は大いに感じいったそうだ。
「長水の名は流さしや五月雨」
(播磨鑑)

なお、宍粟市では「笛石悲話」という話が語り継がれている。

新免宗貫の援軍は千種川の西岸まで駆けつけていたが、こちらも増水に阻まれて先に進めなかった。
窮した新免たちは山に登り、宇野勢のいる対岸に向かって笛を吹いた。援軍の存在を示すことで彼らを勇気付けようとしたのだ。
しかしこれが裏目に出た。
笛の音を聞いた宇野父子は「ああ、敵はすでに対岸に達したのか・・・」と絶望し、主従揃って自害してしまった。

新免たちが笛を吹いた山はそれ以来「笛石山」と呼ばれるようになり、戦国の悲哀を今に伝えている。
0863人間七七四年2014/04/30(水) 08:15:17.39ID:cpxAnI4S
新免宗貫って
武蔵の父親の新免無二と関わりあるのかないのか
0864人間七七四年2014/04/30(水) 18:48:35.65ID:E8TSbXg+
伊達政宗が自らの具足を飾らせた時、そこに立てられた日の丸の小旗を見て、この様に言った

「この日の丸についてはこんな物語がある。昔、ある所で合戦をした折、敵は西の方に夥しい軍勢で
陣所を固めていた。その大将の小旗も日の丸であった。

我々は、突然の合戦であったので、その当時方々に人数を出しており、僅かな旗本だけで出陣し、
東のほうの平原になっている場所で馬を休めていた所、家老どもが私の馬を取り巻くようにしてこう言ってきた

『今、敵の人数と御味方の人数をざっと見比べてみましたが、我らは敵10人に1人と言っても、未だ足りない
有り様です。敵はここから松原の方に見えるだけでも夥しいのに、ましてやあの山の後の森の中には、
一体どれほどの軍勢が控えているのか、測りがたいことです。ですので、今日はこの近くのしかるべき場所に
馬を一旦入れましょう。準備が整い次第、御見方も駆けつけるでしょうから、ここは人数を待つ事こそ
然るべきと考えます。』

このように口を揃えて言うことに、私はこのように返答した

『それは尤もの事だ。さりながら私は若年より今日まで、合戦において、敵を少人数だと侮ったことはないし、
逆に大人数だからといって怖気づいたこともない。突然のことであるから旗本ばかりで出たとしても、
敵の多数を見てここを退くべきではない。とにかくここは、私は馬を乗り回して敵の様子を斥候してくる。
その間、皆々は鷹狩の時のように味方の人数を隠せ、敵に見えないようにせよ!』

そう言って馬を乗り出し敵陣近くに寄せて、詳細に観察し元の場所へと帰り、家老どもを呼び集め

『鷹狩のように見方を隠したか?』と聞くと

『ずいぶん隠しました。只今でも鷹を放ちましたら、敵の小頭くらいは外すことはありません!』
と、どっと笑った。

そこで私はこのように言った
『皆々聞け!一段と良い吉左右がある!敵の大将も日の丸の小旗であるが、あれは西の方の山に立てているので、
もはや入り日である。一方我が方の日の丸は東のほうに懸かっている。これは出ずる日ではないか!
今日の勝利疑いなし!』

これに皆々も『尤もだ!』と言い、馬を敵に向けて

『出ずる日に付け!』

と言って乗り出すと、諸人一度に勇み掛かり、これにて思いの外にも敵を追い散らし、多くの人数を
討ち取ったのだ。

(政宗公御名語集)

伊達政宗の、日の丸の小旗の思い出、である。
0865人間七七四年2014/04/30(水) 23:03:12.72ID:M+goDXef
家康公がお亡くなりになる前、秀忠公をお呼びになられ、
「わたしが死んだ後の処置をどうするか書きだしてみよ」
と仰せになられたので、秀忠公はすべてお書き出しになり、それをお見せになった。
そして第一条を、
「諸大名たちは長々と江戸に滞在し、御病中詰めきり大儀であった。
さっそく暇を出し、皆のものには休息を申しつける」
と読み上げると、
「天下は泰平、めでたきことなり。あとは聞くに及ばない」
と仰せになられたとのことた 【葉隠】
0866人間七七四年2014/04/30(水) 23:27:02.45ID:KRoA5+w9
詰めてたのは駿府だよなぁ…
0867人間七七四年2014/04/30(水) 23:34:16.26ID:Lke9R01t
必要かね?そのツッコミは
0868人間七七四年2014/05/01(木) 01:24:20.61ID:g7HUxJat
無用だが、
皆が、ん?と思うところではあるなw
0869人間七七四年2014/05/01(木) 01:39:10.33ID:XqTpLk25
思わないだろ。
諸大名は江戸に屋敷があるんだから長く滞在する拠点という意味に読めばなにもおかしくない
0870人間七七四年2014/05/01(木) 07:06:24.01ID:IHxYTrMq
え…どうやったらそう読めるんだ?
0871人間七七四年2014/05/01(木) 09:06:48.69ID:XqTpLk25
>>870
わざと輩して絡んでるのか?
そう読めないほうがおかしいと思うけど
0872人間七七四年2014/05/02(金) 17:58:21.49ID:XyY6Ocfd
安見隠岐(元勝)は西国の生まれである。後に前田家に仕えて一万石を領した。

大坂夏の陣の時、前田勢も出陣して城門近くに攻め寄せたところ、城方からも
打って出てきた。城門の前で合戦となり、城方は強く、前田勢は三度追い立てられた。

その度ごとに隠岐一人は一歩も引かずに苦戦した。そのため味方はまた取って返して戦い、
最後にはこの攻口を前田勢は打ち破った。加賀守(前田利常のことか)は、
「この攻口を取り得たのは、本当に隠岐の武功によるものだ」と大いに褒め称えた。

この合戦の時、隠岐は敵兵と組み合って組み敷かれた。危うく見えたところに伴某が駆けて来て
「隠岐! 手助けしてやろうか!」と声をかけた。隠岐は組み敷かれてなお取り合いながら答えて、
「討つとも討たれようとも、これは私の勝負だ! 御身は御身の勝負をなされよ!」と言った。

そのため伴某はそのまま他へ駆けて行ったのだが、「隠岐は下に敷かれているから
働きは自由にならず、最後には討たれるだろう。彼が討たれてしまったならば私はその敵を
討ち取って隠岐の仇を報じよう」と思い、急いで隠岐のもとへ駆けて来たところ、
隠岐は敵の首を取って立ち上がるところだったので、大いに驚き感心したということである。

後年、太平の時代のこと。隠岐は夜分に道路に立って帯刀している者さえ見かければ辻斬りを行い、
白昼にも帯刀の者さえ見かければ喧嘩口論を仕掛け、あるいは傷を負わせ、あるいは斬り殺すなど
荒々しい所行ばかりしたとのことを家老衆が聞き、評議を行うとの内容を隠岐は伝え聞いた。

その日からニ、三日が過ぎて「御用があるので罷り出よ」との使いが来たので、隠岐は、
「さては切腹を仰せ付けられるのであろう。申し渡しは大方、家老衆であろうな。
切腹は主命であるから速やかに行うが、しかしただ一人で死ぬのも面白くない。
家老衆であろうとも、申し渡しなさる人を一人伴いにしよう」と覚悟して殿中へ出た。

刀ははるかに間を隔てて置いたが、指副(指添え。脇指)は腰から放さずに控えていた。
やがて横山山城守が立ち出て書付を取り出し読み上げた。「其の方は先年の大坂陣の折に
抜群な働き…」と読む半ばまでを聞くと、隠岐は腰の指副を取り、後ろの間へ遠く投げて
謹んで仰せ付けを承り、逆らわずに能登国へ流されたということである。

――『明良洪範』
0873人間七七四年2014/05/02(金) 20:11:54.28ID:fvb0URI3
おきのとへ渡る侍かぜを絶え
いのちも知らぬ臣の道かな
0874人間七七四年2014/05/02(金) 23:24:39.29ID:jU/LHzoB
太平の世では生きられないもののふか
ランボーを思い出したw
0875人間七七四年2014/05/03(土) 13:18:08.75ID:eneZePcc
太平を生きる術などシルベスタ
過去の武辺は夢にスタローン
0876人間七七四年2014/05/03(土) 20:26:42.82ID:e7QsL0hS
茶会に、丿貫(観)(へちかん)流というものがある。これは上京の坂本屋という茶を好むものがあり、
おどけた茶会を出していた。彼は、初め号を如夢観と言っていたが、後に改めて丿貫とした。
一説に拠れば曲直瀬道三の姪婿であるという。

丿の字は、「人」と言う文字の片方だけであるので、『人に及ばぬ』という意味を表している
そうである。

(老人雜話)

丿貫さんいついてのお話
0877人間七七四年2014/05/04(日) 07:58:42.14ID:lnSzv3gR
紀伊国日高郡に、玉置直和という国人がいた。
玉置氏は太平記に登場する玉置荘司の子孫と言われており、居城・手取城の周りの領地は
3千5百石ほどの石高とされていた。(※徳川時代の検地では1万6千石ほどであった)
羽柴秀吉の紀州征伐が始まると、直和は秀吉への帰順を決意し、
徹底抗戦を叫ぶ舅の湯川直春や相婿の山本主膳と袂を分かった。
その結果直和は湯川氏に攻撃されたが、その後湯川氏も征伐軍に降ったので、
直和の地位も安泰かと思われた。


そして直和は新たに紀伊の領主となった羽柴秀長に挨拶するため、大和郡山城に赴いた。
秀長との対面では所領の石高を尋ねられたので、直和は3千5百石という
自分が知っている石高を返答したのだが・・・

その後、秀長が玉置氏の領地に対して検地を行ったところ、実際の石高は本人の申告よりもかなり多い事が判明、
これを知った秀長は玉置氏の領地を没収し、その上で直和には新たに申告通りの3千5百石を与えることにした。
直和はこの仕打ちに情けなさがこみ上げ、城を家臣の三十木右馬之丞に預けると、
高野山に上って剃髪してしまった。

ところが、ここで直和の境遇をを憐れんでくれた人物がいた。
秀長の兄・羽柴秀吉である。

秀吉は秀長に命じて、出家して千光院と名乗っていた直和を慰撫させ、
直和の方も、一時の感情で城を飛び出してしまったのを少し後悔していたので
高野山を降りて新封を受けることになったのであった。


その後直和は慶長4年に亡くなり、息子の小平太は関ヶ原・大坂と西軍についてしまったが
後に尾張藩に仕えることができたという。

「紀伊続風土記」より


太閤検地がらみで地方の領主が酷い目に遭うお話
秀吉自らフォロー入れて丸く収まってるので、一応いい話ってことで…
0878人間七七四年2014/05/04(日) 10:16:56.22ID:gYXHuHPK
あら珍しい
0879人間七七四年2014/05/04(日) 10:53:20.87ID:fX2fjI+L
自領の(実際の)石高を把握してなかっただけで減封は可哀想と思われたのか?
太閤様もこの頃の寛大さを最後まで保っていられたらよかったのに
0880人間七七四年2014/05/04(日) 11:44:28.61ID:rTyi5c7F
柳生「・・・」
0881人間七七四年2014/05/04(日) 12:13:56.96ID:bBTVdTLY
紀州征伐の際に秀吉側に付いた勢力が少なかったから目にかけたんじゃないか
0882人間七七四年2014/05/04(日) 13:02:21.25ID:K4fySxTS
>>880
秀吉「流石に陰田するような奴はフォローできねーわ」
0883人間七七四年2014/05/04(日) 14:24:37.06ID:LcVWaVfl
所領の把握とかじゃなくて、この当時によくあった大幅な打出しを計上して
在地領主から所領を巻き上げるための検地じゃなかろーか
0884人間七七四年2014/05/04(日) 14:59:35.46ID:eHCx+N3j
湯川さんと主膳さんはどうなったのかとぐぐって見たら徹底抗戦して本領安堵を勝ち取ったと思ったら、挨拶に出かけた大和郡山城で二人とも毒殺されてるのね。
地理的にしょうがないとはいえ、やっぱり酷い話では。
0885人間七七四年2014/05/05(月) 18:00:53.12ID:wcJH7pzk
香川之景(信景)の籠る天霧城が長曽我部に攻められた時のお話。

天霧城は頑強に抵抗したが、多勢に無勢。いよいよ最期の時がやってきた。
之景は近習の森久右衛門を呼び出し、一人娘の姫を守って城を落ちのびてくれと頼んだ後に討死した。
主命を受けた久右衛門は、燃え落ちる城から姫と共に落ち延び、大見の宮脇で姫を守りながら隠れ住んだという。

つづく
0886人間七七四年2014/05/05(月) 18:08:19.18ID:wcJH7pzk
つづき

時は流れ、世の中もすっかり平和になったころ。
帰農した久右衛門は、行くあてのない姫を妻として娶り、農業を営む傍ら村の若者らに弓を教えて暮らしていた。
ある年の春、藩主の生駒高俊が大見へ鷹狩りに来た時、どうしたわけか鷹の足につけた紐が大木の枝にからまり身動きができなくなってしまった。
あまりに高い枝のため、弓で鷹の紐を切ろうという話になったが、殿さまの鷹に傷をつけては・・・と誰も名乗り出るものがいない。
御付の者が地元に弓の達者はおらぬかと庄屋に尋ねると、庄屋は森久右衛門のことを言上し、直ちに久右衛門が召し出された。
期待にたがわず、久右衛門は雁俣の矢でもって見事に紐を射切った。
高俊は鷹が戻ったことを大いに喜び、その後は上機嫌で観音寺へ狩りに出かけたという。

その年も押し迫った頃、庄屋を通じて久右衛門に高俊から褒美をとらすので希望があらば申し出るようにと沙汰があった。
久右衛門は未開の地を開拓したい旨を言上し、荘内の伊砂子庄を賜ったそうな。
0887人間七七四年2014/05/05(月) 18:14:21.71ID:wcJH7pzk
昔話なので突っ込みどころも多いのですが、「こんな話もあるのね」ぐらいで読んでください
0888人間七七四年2014/05/05(月) 19:53:18.99ID:OZ2pLUDk
香川氏って親和婿養子にして元親の配下にならなかったっけ?
0889人間七七四年2014/05/06(火) 08:54:51.71ID:y3SA7FAq
>>888
まぁ、香川之景の娘は親和に嫁いでるし、
之景は秀吉の四国攻めの後は長曽我部にくっついて土佐に行ってるとか

この話、突っ込みどころが満載ですよね。

個人的には永禄のころに三好に天霧城を攻められて、
香川氏が讃岐から追い出された話とごっちゃになってるのかなと思います。
0890人間七七四年2014/05/06(火) 12:56:48.23ID:Qfg5SQO+
会津の黒川城は、至徳元年に蘆名直盛が築城した城である。天文7年に火災を受け改築され、
その後天正18年、蒲生氏郷の入部により再び改築が計画されることになった。

氏郷は最初、安芸の広島城を模して城を築こうとしていたが、
徳川家康と会うことがあった時にこの話に及んだ。
家康は築城に関して、

「おおよそ居城の大小については、城主の分限に関わることなので、予め論じがたいのだが、
大抵本丸を初め二の郭・三の郭は、塀・櫓ともに如何にも堅密にしておき、
また外郭においても、一の門・二の門と(それらにより形成される)升形は、
いざという時にすぐ作れるものではないから、予め設置して不測の事態に備えておくべきだ。
長塀の古くなった物は、いざと言うとき役に立たないから、外郭は土居・石垣のみにしておくのも悪くない。
必ずしも広島城のように外郭まで塀をめぐらしておくには及ばない。
それと、松永久秀が工夫して大和信貴山城に設けた多門櫓は、二の郭・三の郭に造っておくと一際便利なものだぞ。」

などと細かく氏郷に教えた。氏郷はそれを踏まえ、
文禄元年の夏より、大いに役夫を動員し築城を始め、家臣の曾根内匠らに命じ、
甲州流の縄張りを用いて内外の郭を築いたのである。

(新編会津風土記)


家康、氏郷に築城の心得を教えてあげる、というお話。
ちなみに孫の家光が完成させた江戸城の外郭には、八代将軍吉宗が撤去するまで長大な塀があったそうです・・・
0891人間七七四年2014/05/06(火) 15:24:27.21ID:P5XHWXJH
ドケチ野郎とか散々家康をdisってるくせに
0892人間七七四年2014/05/06(火) 19:40:14.89ID:EPE4j2wn
北条の老臣である松田尾張守(憲秀)とその嫡子である笠原新六郎(政尭)には北条家に対し異心があり、
小田原征伐の折、豊臣秀吉に内応し、豊臣の軍勢を小田原城内に引き入れる謀をした。
しかし、次男の松田左馬助(直秀)はこの計画を聞かされたものの、同心せず去ろうとしたので、
彼は座敷牢に監禁された。ところが左馬助は家臣の者と言い合わせ、具足箱の中に入って
脱出し、北条氏にこの事を伝えた。北条氏は左馬助に褒美として、即座に知行を与えた。

松田尾張守は大身であり、籠城の持ち口(担当箇所)は非常に広かったが、この事件により
混乱し、そこを豊臣軍は攻め立てたそうである。

北条氏の降伏後、豊臣秀吉は黒田如水に命じて、松田左馬助を誅殺するように命じた。
ところが如水は「松田を殺すのですね」と、秀吉に内応した松田尾張守と笠原新六郎を
誅殺した。

秀吉はこれを知ると激しく如水を叱責したが、如水は「聞き間違えてしまいました。」とのみ
答えた。その後、如水に特別の処罰もなかった。
この事は黒田如水、一生の勝事であるとされている。

生き残った松田左馬助は後に加賀大納言(前田利家)に仕え、五千石を所領した。
そして最近亡くなったそうである。

(老人雜話)

黒田如水、聞き間違えて殺す、というお話。

(老人雜話)
0893人間七七四年2014/05/06(火) 20:03:11.85ID:/FPUqS+C
親不孝なりとも君に忠ならば生かすべき、ってやつだったか
そんな如水さんのいい話?を聞いて後藤又兵衛が「君主はかくあるべき」とか言ってました
息子は川に落ちてた
0894人間七七四年2014/05/06(火) 22:08:09.65ID:ZwFfFYie
でもさすがに大道寺さんに対する仕打ちはあんまりだと思う
0895人間七七四年2014/05/06(火) 23:37:31.30ID:ewXniT8Z
北条氏政の家老の松田尾張は一老として大身ではあるが返り忠し、それを松田の次男が
北条氏直へ訴えたので、叛逆が露見して父子ともに閉じ込められた。

その後、和談によって開城の時、豊臣秀吉は黒田如水に、「松田の次男左馬介は、
父を訴えた者であるから誅し申すべし」と命令した。すると如水は間違えた振りをして
惣領の新六郎を殺し、左馬介を助けた。

これを聞いた秀吉は「どうして新六郎を殺したのだ。左馬介は我に忠のある尾張父子を
氏直へ訴えた憎き奴だから殺せと申し付けたのに」と言った。

これに如水は「それがしが承り違えたのは不調法でした。しかしながら、新六郎は譜代の
主人に背いた者なので武道に欠け、先祖の面まで穢したのですから、忠孝ともに無き
無道者です。左馬介は父には背きましたが、主人には忠のある者です。ですから左馬介と
取り違えて新六郎を殺してしまったからといって損とは申されますまい」と申し上げた。

秀吉はこれを聞いて「またちんばめが空とぼけをした」と言い、左馬介はそのままにした。
この如水の取り計らいを皆が褒め称えたということである。

――『明良洪範続編』
0896人間七七四年2014/05/07(水) 00:01:51.97ID:3uBS/IGE
可児才蔵の味噌合戦 笹の才蔵異聞 広島県大辞典より

いまからおよそ400年前安芸国城主・福島正則の家来に可児才蔵という槍の名人がいました。
ある夏洪水で堤が切れ、川水が城の濠に溢れ、城の石垣をだいぶ壊しました。ほってはおけないので正則は、
すぐさま石垣の修理にかかりました。
ところが幕府の許しを得ていなかったので正則は幕府に咎められ、安芸国から追われることになりました。
しかし、幕府の処置を恨みに思った可児才蔵ほか六十人の侍は、矢賀の小さな城に立て篭もったまま動こうとはしませんでした。
それを知った新しい城主・浅野長晟は家来に命じ矢賀の城を攻めさせました。
その兵が城の石垣を登りはじめると才蔵たちは石垣の上からグラグラと煮えたぎったみそ汁をぶっかけました。
そのため兵たちをヤケドさせられました。
そこで、浅野の殿様は今度は兵糧攻めにしようと、幾日も城をとりまきました。段々と貯えを失ってきた時、
才蔵はひとつの思案を立てました。
それは、城山のお地蔵さまに笹の葉を供えそれに味噌と米をのせておけば、どんな願い事も叶えられるという噂を
近郷近在に流すことだったのです。
城の者はかわるがわる忍び出て、その噂をふりまいて歩きました。その噂は噂をよび、城山のお地蔵さまには次々と
味噌や米が供えられました。●ヽ(゚∀゚)ノ● ウヒョー ! ミソイタダキマース
こうして、才蔵たちは長い間、城を支えることができ、篭城の侍たちは、何処へともなく落ちのびることができました。

地元の人たちは、やがて可児才蔵を真言寺に祀りそのお寺を才蔵寺と名付け、お地蔵さまはそのお寺の境内に移し「みそ地蔵」、
可児才蔵を「笹才蔵」と呼ぶようになったそうです。
このみそ地蔵には、いまは多くの受験生がお参りし、みそ玉をお地蔵さまの肩に供えています。「ミソをつける」肩代わりをしてもらったり、
お地蔵さまの脳みそを借りたりするためなのだそうです。

福島正則改易は一応可児才蔵死後の話ではございますが・・・彼も修羅道に堕ちた武田光和同様、主君の災難に迷って出たのでしょうか?w
0897人間七七四年2014/05/07(水) 01:54:43.27ID:6sn+TDjP
道雪の墓守

立花山麓にある曹洞宗の古刹梅岳寺
立花道雪の墓所である
中央に母養孝院の墓所、右に道雪、そして何故か左に一回り小さな異名の墓石

主君から恩賞として死後も使えることを許され同じ墓所に葬られた
名を菰野増時という
0898人間七七四年2014/05/07(水) 02:12:41.79ID:6sn+TDjP
ミス 薦野だ
福岡県の現在地名だと新宮あたり
柳川立花藩改易後黒田に使えた理由の一つだとも
地味だけど忠誠が高い九州武将の典型だと思う
0899人間七七四年2014/05/07(水) 10:02:36.34ID:genzl/yF
>>896
味噌合戦というから相手は権現様かと思ったら
0900人間七七四年2014/05/07(水) 10:58:13.63ID:OSlMwJ06
権現様は八丁専用だから
0901人間七七四年2014/05/07(水) 11:39:18.33ID:ACb3rfpI
家康「お前ら味噌って言うと俺出しやがって… どんだけ味噌好きなんだよ…」
0902人間七七四年2014/05/07(水) 15:11:16.23ID:Emd4X/5x
武士の歌が好きです
なので歌関連の逸話をリクエストします
0903人間七七四年2014/05/07(水) 23:29:14.39ID:F6Zsr9SH
>>901
味噌=権現様でしょ?
0904人間七七四年2014/05/07(水) 23:37:07.24ID:3uBS/IGE
謀神、敵の間者を用い策を成す 名 将 言 行 録 (陰徳太平記説もあり)より

1524年、甥幸松丸の急死により毛利元就は毛利家の家督を継いだものの、それを危惧する尼子経久と亀井秀綱の策に乗って
元就に叛意を抱いた異腹弟の元綱を殺害。
以後も尼子に従いその要請で大内家に攻められた尼子方の仇敵・安芸武田氏を支援する物のその心の内は反尼子に大きく揺らいでいた。

1525年、毛利元就は先年武田氏の銀山城にて自らの夜襲策で撃破、撤兵させた大内家の家老、陶興房の説得に応じ尼子方より大内方に鞍替えする。
これにより、安芸の国の形勢は大内側に大きく傾くこととなる。

1529年、毛利元就は亡き甥で先代の毛利家当主、幸松丸の母方の実家である石見高橋家を攻略。
また、これ以降尼子方の安芸武田氏傘下であった熊谷氏や、先々代興元以来の長年の敵であった宍戸氏や天野氏などと縁組・調略し、
隣国備後の多賀谷氏を降伏させるなど徐々に安芸を束ねる国人衆の筆頭格としてその勢いを高めていく。

1540年、尼子家の家督を継いだ尼子晴久はこれ以上の毛利の台頭許すまじと、3万の兵を持って毛利家の居城、吉田郡山城攻略の兵を出さんとす。
これはその数年前のある日のこと・・・。一人の男が吉田郡山城の門を叩いた。男の名は内別作(うちわさ)助四郎。
尼子晴久の側近く使えた者だが、勘気を蒙り尼子家を出奔してきたと言う。
(つづく)
0905人間七七四年2014/05/07(水) 23:41:21.60ID:3uBS/IGE
(つづき)
元就は内別作を家臣として雇い、自らの近臣として用いることにした。
だが、実の所内別作はかつて尼子経久が三沢氏に送り込んだ山中勝重同様、偽りの出奔であり
その役目は毛利の様子を探る間諜であった。そんな内別作を側近く用い続ける元就。

そんな中、いよいよ尼子晴久が吉田郡山を攻めると言う不穏な噂が流れる、元就は家臣らを集め軍議を開く。
その席上、元就はこう言った。

「晴久が甲山(かぶとやま)に陣をしいてくれればええんじゃが…もし三猪口(みえくち)に布陣されでもしたら、防州への通路を断たれてしまい、
 わしらはどがぁもできんようなってしまう…ほしたら、一日どころか半時と持たん。ここを捨て、大内を頼り山口にでも逃げにゃならんのぅ・・・」

その翌日、内別作は吉田郡山から姿を消した。さては尼子の間者であったかと家臣は大騒ぎとなった。
しかし、当の元就は一人「さてこそ軍は既に勝ちたり(これで勝ったも同然)」と、大喜びであったと言う。
と言うのも もし甲山から城を見下ろされるような形になればどうにもならないが、三猪口は平地であるから、敵が大軍であっても容易に戦えると。
(先の軍議の時、内別作以外の旧来の家臣は甲山に陣敷かれたら上から丸見えだし、逆じゃね?と、思っていたが殿には何か考えがあるのだろうとその言葉に従ったとも言う。)

そして1540年(天文9年)8月、先のとおり尼子晴久は3万の兵を率いて吉田郡山城へ出兵。元就が軍議で危惧したとおり、尼子勢は三猪口に布陣したところ
元就と駆けつけた陶隆房(後の晴賢)、杉隆相、内藤興盛ら大内からの援軍に散々に打ち破られ退散したと言う。
0906人間七七四年2014/05/08(木) 00:00:43.74ID:bLpvlG+u
>>905
陶さん援軍できてたのかw
なんともまあ。
0907人間七七四年2014/05/08(木) 06:30:40.14ID:VK3LLf/M
当時はお味方だし、この戦で負けると安芸はまた尼子にひっくり返されるしで、大内方に
とって大事な戦でしたからね…しかも何の因果か出兵前には将来自分の死地となる厳島で
戦勝祈願もしてると言う…
0908人間七七四年2014/05/08(木) 07:23:52.27ID:bLpvlG+u
後に似たような情報で厳島におびき出されてるからなあ。ほんとなんの因果なのか。
0909人間七七四年2014/05/08(木) 18:35:41.05ID:O8SFodjS
(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8452.htmlの続き)

後年、前述の甲斐守(本多政朝)が死去した時、前述の男子(本多政勝)は当時は
内記といったが、甲斐守の家督を相続した。だから系図では出雲守忠朝の孫に当たるが、
実は忠朝の嫡子であるから、父の家督を継いだのである。

しかし、忠朝以来五万石のところをこの度四万石にされ、残り一万石は一家の
能登守忠義へ加増されたので、忠義は五万石になり、政勝は四万石であった。
その頃の御定めでは五万石以上は乗輿、それ以下は馬上である。それが理由なのか、
政勝は四万石を受けなかった。一家の衆中は、

「たとえ一万石減るとしても、父の跡を継ぐのですから四万石をお受けするべきです」
と言ったが、政勝は承知しない。そこで細川越中守忠興を頼り、忠興が意見に及んだ時、

政勝は「父の出雲守忠朝は五万石の軍役を勤めたのに、私は五万石の軍役を
勤められないことの残念さにより受けないのである」と言った。これに忠興が、

「もっともな所存ではあるが、お受けしない時には本家に迷惑の事が起こるであろう。
分家の身で本家へ迷惑をかけては孝悌の道ではない」と言ったところ、政勝は、

「孝悌の道と仰せられるのならば、さっそく四万石のお受けをいたそう。しかしながら、
今も申した通り、父出雲守忠朝の通りに五万石の軍役を勤められないことが残念だ」
と言い、歯噛みをして落涙した。

すると忠興は政勝を褒めて「あっぱれ出雲守殿の子息かな。いつでも御身が出陣の折には
私めより弓、槍、鉄砲の人数どもを一万石だけ加勢するので、五万石の軍役を勤められよ」
と言ったので、政勝は大いに喜び、

「貴殿の御一言で私めの胸中は開けた。本当にかたじけない。一万石の軍勢のことを
なにとぞ頼み奉る」と言い、それから四万石をお受けして、公辺滞りなく家督のことは
済んだということである。

――『明良洪範続編』
0910人間七七四年2014/05/08(木) 22:32:11.40ID:VK3LLf/M
やっぱり三河だ、三代経ってもややこしや

まぁ忠勝以来、譜代きっての侍大将って誇りから来てるんだろうけれど。
0911人間七七四年2014/05/09(金) 08:33:46.13ID:TQg1iug6
働いてその分を取り返してやろうとは考えないんだな
武の家ではなおさらそんな風には思わんか
0912人間七七四年2014/05/09(金) 10:03:43.96ID:tFfucZBG
働くにしても元手が一備しか編成できない部隊長格の4万石と
二備を編成できる司令官格の5万石じゃ大違いだから父ちゃんと一緒がいい!ってことなんかね
0913人間七七四年2014/05/09(金) 21:27:01.72ID:2LcYOYIA
ある時政勝に四万石をやろうと思って彼を呼んだのだが、どのように思ったのか受け取らなかった
そのため忠興は一万石を投げ与えた
0914人間七七四年2014/05/09(金) 21:29:01.90ID:lnEBJtU6
黒田長政の晩年、病状が既に甚だしい時期、左右の者たちにこのように語った。

「私が今、死に臨んで残念なことが3つある。

一つは我が母に先立って死することだ。これは不孝である。

二つには、嫡子忠之が現在弱冠であり、歳が長じて国を治めることを見ること無く死することである。

三には、私は幼年の頃から戦をし、関が原に至るまでその功は多かった。
しかしその間小身であり、大軍の将にはなれなかった。その上若年でもあり、合戦についての
知識や経験も未だ熟していなかった。

それ以来、兵に将たる工夫も熟し、特に、その後大国を賜ったため、現在は2万の士卒の将となった。
これを普段からよく調練し、また戦に臨むため節制も厳粛にしており、軍の進退左右は、必ず心のまま
自由に出来るようになった。

私はこの士卒を使って、合戦を試みたかった。
この他には、浮世に思い残すことはないよ。」

長政の辞世の句は以下のものである

『 此ほどは うき世の旅にまよひきて
   いまこそかへれ あんらくの空 』

(黒田家譜)
0915人間七七四年2014/05/09(金) 21:39:51.27ID:EYi172T8
最後に己が鍛えた将兵と共に合戦に出たかった、と望む辺りはやっぱり戦国のお人だねえ
0916人間七七四年2014/05/09(金) 22:03:20.09ID:vmnPPJrr
関ヶ原の後加増されて大身になった人はそういう人が多かったんだろうな。
0917人間七七四年2014/05/09(金) 22:05:03.71ID:J9T9xBoQ
今の価値観だと違うかもしれないけれど、言われた方も嬉しいもんだったんだろうか
0918人間七七四年2014/05/10(土) 11:50:26.30ID:lPphQj1h
ngmsと共に老いた老臣達が男泣きしてそう。




部屋を出て行った後で
09199022014/05/10(土) 12:36:57.08ID:ht7X0ODI
>>914
素晴らしい歌です
0920人間七七四年2014/05/10(土) 23:48:43.24ID:VaD36Z1o
謀神の佐東銀山城攻め

1541年1月、尼子晴久率いる3万の軍は毛利元就の居城、吉田郡山城攻略を諦め撤退。

これを受け、同時期に杉隆宣・内藤隆時の大内軍と小早川興景などから攻撃を受けていた尼子傘下の頭崎城(現在の東広島市)の平賀興定は大内氏に降伏。
現在の広島市周辺を支配していた尼子傘下の安芸武田氏居城、佐東銀山城の城主・武田信実と尼子の援軍の将・牛尾幸清は出雲へ逃亡(1年ぶり2度目)。
佐東銀山城には武田一族の武田信重と守備兵僅か300が残るだけとなり、
厳島と対岸の桜尾城(現在の廿日市市)を乗っ取り蜂起した厳島神主家も大内氏の攻撃を受け滅亡。

安芸における尼子の勢力は風前の灯となったのであった。

1541年5月、大内義隆は安芸を完全に掌握する為、毛利元就に佐東銀山城攻略を命じ、大内軍は武田傘下で隣接する安芸府中を支配する
白井氏を攻略すべく兵を出す。

かつて、大内の名将・陶興房と初陣の大内義隆が1万5千の兵で囲みながら落とせなかった堅城・佐東銀山城であるが、その時城を守った猛将・武田光和は
1539年に急死し、武田有力家臣の品川左京亮と香川光景は武田の後継と大内との抗戦か講和かを巡って内輪もめを起こし、品川に居城八木城を攻められた
講和派の香川は「終わりやね、武田も終わりやね」と、大内に鞍替えし、かつての同僚である熊谷氏らに援軍を要請。
これに敗れた品川一族は逃亡。新たな武田当主として城に入った、武田信実も一時逃亡。
この後、吉田郡山攻め前に牛尾率いる兵2000と共に帰って来たものの、先のとおり尼子の吉田郡山攻めが失敗すると再度、出雲へ逃亡。
もはや武田家の崩壊は誰の目にも明らかであった。
0921人間七七四年2014/05/10(土) 23:49:51.84ID:VaD36Z1o
しかし、堅城・銀山城に篭る武田方の兵は士気も高く、正に窮鼠の如し。
半年に渡る篭城戦を終えたばかりの毛利元就が動員できる兵力も戦に継ぐ戦でそう多くは無い。
主家よりの命令とはいえ徒に兵を損ねる訳にも時間を掛ける訳にもいかぬ。

元就は二つの策を立てた。先ず、城を正面切って大手門の東側から攻めるのではなく搦め手の安(現在の安佐南区上安、銀山城の北西側)より攻めること。
ただ、安の側にある長楽寺は武田家と通じており、ここから兵を進めようとすれば長楽寺が鐘を鳴らして城側に通報し、城兵が駆けつける。
先ずはその調略を行う毛利方であった。

毛利からの説得を受け、事ここに及んではと長楽寺も城側への通報を行わぬことを約束。

そして、念には念を・・・と、元就が講じた二つ目の策。近隣住民に千足の草鞋を作らせ、それを油に浸し、城攻めの前夜、闇の深い日に
火をつけて城の正面を流れる大田川へ流すのであった。
これを見て篭城軍は毛利は正面から攻め寄せてくると、戦力を大手門に集中させたのであったが、これこそ元就の狙いであった。

こうして正面からではなく、搦め手から攻め込んだ毛利軍は佐東銀山城を落とし、最後まで城に残った、武田信重は切腹。
同時期に安芸府中を攻めた大内軍も白井氏を倒し、これにて安芸の反大内勢力はほぼ一掃されたのであった。

なお、この時元就が千足の草鞋を流したことに由来する地名が、大田川対岸の広島市東区戸坂に「戸坂千足」として残り、
大内軍が越えた広島市東区中山から矢賀、山根町などに続く道を「大内越峠」(おおちごだお)として今も残っている。
0922人間七七四年2014/05/11(日) 14:59:55.51ID:OhM2QlzQ
三歳、黒田長政は馬鹿にしてた石田三成に関ヶ原で互角以下だったのに口だけは達者だw
0923人間七七四年2014/05/11(日) 16:00:37.05ID:U01MixHc
そりゃ左近が相手だしw
0924人間七七四年2014/05/11(日) 16:05:31.32ID:VzABPf40
槍の一振りで兵5人位の首が飛ぶSAKONは戦国最強DA・YO・NE
0925人間七七四年2014/05/13(火) 14:21:20.22ID:QQRWsxBS
軍神さまにもそんな話無かったっけ?
0926人間七七四年2014/05/13(火) 19:43:55.67ID:3t5XuoUG
生駒讃岐守(親正)が讃岐国丸亀から、同国高松に新たな居城を築こうとしていた頃、
黒田如水は中津川から上方へと参勤の途中、丸亀に立ち寄った。
生駒親正は大いに喜び、如水に「高松の山は、築城に適した土地かお見立てしていただきたい。」
と熱心に頼んだため、如水は高松に行き城地を見聞することになった。

高松の地を見た如水は、「非常に良い城山だと思います。」と答えた。
ところがこの高松から半里ばかり西南に、石清尾という山があった。この山は、横幅は十町あまり、
長さは半里ほどもあり、これが高松に近かったため

「あの山は、高松の要害のためには悪しきものではないでしょうか?」

と、生駒親正は尋ねた。しかし如水

「あの石清尾山があるからこそ、高松は良き城になると私は考えます。
石清尾山は、この高松の城のために、味方千騎の強みとなるでしょう。
何故かといえば、この城の一方は海ですから、そちらから敵が寄せ来ることはありません。
そして石清尾山があれば、敵が大軍で押し寄せてきたとしても、道を狭くし不便でありますから、
これは敵の害となります。すなわち、味方の利となるのです。」

おおよそ軍のために地の利のある所を要害というのは、味方のために宜しき要地であり、かつ
敵のために害ある所を言うのだから、それはここに出ている高松のような地なのである。
(黒田家譜)

黒田如水、生駒親正にアドバイスをする、というお話。
0927人間七七四年2014/05/13(火) 20:02:17.15ID:voaUdy0i
砲撃に最適な山となるなw
0928人間七七四年2014/05/13(火) 21:00:21.74ID:DfE9uIi2
如水は広島城でも要害が悪いからこそ築城に適していると答えてるからなw
0929人間七七四年2014/05/13(火) 21:20:44.43ID:bUouYEIf
wikiったら高松城の築城開始は1588年だし大筒の脅威はまだ
それ程認識されてなかったんじゃないの
0930人間七七四年2014/05/13(火) 21:48:30.01ID:4hgn4ZEr
讃岐高松城って山どころか丘でもない平地にある平城(水城)だよ

大砲はいいとして城内が俯瞰出来る山の近くに築城するのは駄目だろ。

http://i.imgur.com/a3kMZXg.jpg
0931人間七七四年2014/05/13(火) 22:55:55.59ID:A3ljeNf4
権威ある奴の意見をホイホイ鵜呑みにする奴って馬鹿だと思う

まあ、>>926の話の後に別の場所に築城するのもなかなか勇気がいるがw
0932人間七七四年2014/05/13(火) 23:27:16.65ID:cPR4X3bD
クロカンはあえて弱点ありきな縄張りするイメージ。
0933人間七七四年2014/05/14(水) 01:02:20.95ID:qKg88vb0
藤堂高虎が伊予の板島城に在城していた、ある年の9月6日のことである。

その夜、高虎は数人の侍臣に酒を振る舞い、賑わしく過ごしていたが、話の半ばに至って
突然黙りこみ、じっと耳を傾けているふうであったが、やがて座を立ちひらりと庭に飛び降りた。

皆は驚いて立ち上がったが、高虎は振り向いて手を振ってこれを制し、そのまま足を進めて
暗い庭を、向こうの堀際まで進んだ、と思う頃、「バサリ」と太刀音が響き渡り、同時に
「燈火を持ってまいれ!」と、高虎の大声が響いた。

侍臣たちは応と答えて手燭を持って駆けつけると、そこには年頃40ばかりの大男が、
袈裟懸けに斬られて倒れていた。

高虎は笑って「酒の肴をしたぞ」と言いながらとどめを刺した。

夜が明けてこの大男の詮議をしたが、結局それがどこの何者なのか解らぬままに終わった。
しかし『曲者が忍び込んだのをただ一人早くも察知し、一刀に斬って捨てられた武運の強さよ』と、
この話を聞く者、高虎の武勇に感じないものはいなかったという。

(西島八郎兵衛留書)
0934人間七七四年2014/05/14(水) 03:41:10.57ID:NdIVTJAJ
黒田って本当に築城の名手なのか?自城以外に関してはいつもの黒田家譜な気がするが
0935人間七七四年2014/05/14(水) 21:25:27.86ID:kZIfLVmn
>>933
謎の男が結局謎のまま終わるモヤっとした感じが何か史実っぽさを感じる
0936人間七七四年2014/05/15(木) 03:29:34.65ID:8HMDW4Yy
>>931
「森を越えてくるやつなんていないだろ」とたかをくくって他の場所を固めてたら、
森を越えてきたのであっさり突破されたなんてことが20世紀にもあるんだっけ

「海を封鎖できない地形だから山から攻めてきたって大丈夫へーきへーき」とか、
俗に言う「英国面」に近いような実験的城郭だな
0937人間七七四年2014/05/15(木) 03:44:59.88ID:sxvNzCY9
どこのマジノ線ですか
0938人間七七四年2014/05/15(木) 05:42:56.12ID:8QFvCNjS
会津の鶴ヶ城は山から近すぎるから、直江が会津盆地のど真ん中にある
神指に巨大城郭を建設して移転を目指したけど関ヶ原後の転封で頓挫。

鶴ヶ城は弱点を残したまま戊辰戦争に突入して山から撃ち込まれるアームストロング砲の砲弾の餌食に
0939人間七七四年2014/05/15(木) 10:16:26.41ID:noHdHLZD
>>938
弱点を残したままっていうけど、200年以上間開いてるからね…
0940人間七七四年2014/05/15(木) 19:30:47.88ID:d/WLyF/q
武田信玄公が、武具の吟味をしたあと、この様に仰った

「一国一郡を守る身は言うに及ばず、人というものは、育ち方次第でよくも悪くも成るものなのだ。
生まれついて善意のあるものは、老功の者に頼って、弓矢のことは勿論、その他一切の良きことを
聞くことにより、次第に行儀よく、万事に巧者となるだろう。

人は大小によらず、7,8歳から12,3歳までの教育が重要である。
大名の子ならば、この間よき大将の行儀作法を語り聞かせ、育てることが良い。
小身なるものは、この間に大剛の者の武勇の働きを、後先詳しく解説し、うつけなる事を
しなくなった事なども語り聞かせるのが良い。

総じて、人の心に12,3歳の時に聞き入れて植え付けられた事は、一生の間忘れないものだ。
そしてそれは、谷水が川の水となり、川の水がやがて海の水と成るように、人の知恵も、
若輩の時聞いたこと、覚えたことが、歳が積もるに従って次第に広大なものとなっていくのだ。

良い事を聞き入れた心が広大になれば、善人となり、
悪事を聞き入れた心が広大となれば、悪人と成る。

善悪共に聞き入れるのが大将である。なので良き家臣を持てば良将となるし、悪しき者を持てば悪将となる。
小名であれば傍輩の善悪によって、よくも悪くも成るものである。

14,5歳より後は、女人への欲への嗜みを持てば人となるものだ。これは我が心にある理屈の例である。

(武道心鑑)
0941人間七七四年2014/05/15(木) 19:47:52.48ID:vOlTs5C7
三つ子の魂百までということですね、分かります。
0942人間七七四年2014/05/15(木) 21:13:59.93ID:Jbk8/6bg
>>939
幕府がうるさいからと思ったけど
あの会津じゃ言い訳不可だな
0943人間七七四年2014/05/15(木) 21:45:40.01ID:0N9ciUbJ
グラバーが維新軍にしかアームストロング砲売らないんだよ
0944人間七七四年2014/05/15(木) 21:50:49.16ID:rzRQx/J1
保科正之の「江戸城天守閣は平時には不要」
を自藩にも適用して、戦時に備えるように増築しなかったんだよ
0945人間七七四年2014/05/15(木) 23:28:39.58ID:CNMCzctp
>>944
>「江戸城天守閣は平時には不要」

むしろ逆だろ、。天守は戦争時にこそ不要。
天守が大砲の的にしかならない事は大坂の陣
で既に証明されていた時代で、もはや
権力の誇示以外に用途が無く
全国を完全掌握している幕府には不要だから
建設中止したんだろ。
0946人間七七四年2014/05/15(木) 23:36:06.63ID:qcwPZd5N
どのみち無益の金食い虫ってことだったんだね。
0947人間七七四年2014/05/16(金) 01:35:21.95ID:+rdtw0gN
作事奉行の得る袖の下が増えるか減るかだな
0948人間七七四年2014/05/16(金) 07:26:23.92ID:iS81qeh1
江戸二百年の平和がなければそのあたりもっと進歩したんだろうけど仕方ないやね
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。