戦国ちょっといい話39
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0001人間七七四年
2013/12/28(土) 15:41:31.69ID:m9sYieeK戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1377700193/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386399929/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0811人間七七四年
2014/04/16(水) 11:54:33.57ID:SduEKGxrラスボスが頼朝って言ってるから頼朝でいいんだよ...
http://www.emuseum.jp/detail/100430/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=3&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=9&num=2
0812人間七七四年
2014/04/16(水) 21:19:15.46ID:k6etqqGP台徳院殿(徳川秀忠)の時代、作馬不閑が所持していた雲山という茶入れを、金森殿が
黄金百錠にて求めたことがあった。
台徳院殿はこれをお聞きになって、その資金を金森殿に与えると言われた。しかしその時には
手元に黄金は三十錠しかなく、七十錠が不足していたという。今の世とは甚だしく相違していたのである。
昔、南都東大寺の奉加に、源頼朝が五十両を寄進すると言われたが、その年に旱魃があって整えることが
出来なかった、という話が吾妻鑑に見える。
(老人雑話)
秀忠の時代くらいまで高額通過の流通は少なかったらしい。というお話。
0813人間七七四年
2014/04/16(水) 23:33:09.62ID:M9yvMrSr0814人間七七四年
2014/04/17(木) 23:32:35.18ID:+axgPh5A初めの頃は誰もが慎むけれども、長くなれば自然と互いにわがままになるので
終いには不和になるものだ。また、自分が嫌いなことは人も嫌いであると思うことだ。
また、人の過失はよく分かるものだが、自分の過失はさっぱり分からないものである。
また、諌める者は気に入らず、へつらう者は気に入るものである。
家人を使う時に、このところを心得て使わなければ、家人は難儀に及ぶことがある。
たびたび難儀する時は、終いには背くものである」と言ったということだ。
――『明良洪範』
0815人間七七四年
2014/04/17(木) 23:41:36.29ID:vdxSbYo10817人間七七四年
2014/04/18(金) 01:37:01.58ID:sc68QPd1ラスボスって敵にこそ恨まれても政治的な事情を抜きにすると結構慕われてる気がする
流石人垂らし
815
長久手でのことをお忘れか!?って家康が絡んでくる話だっけか
0818人間七七四年
2014/04/18(金) 01:45:28.82ID:Hh03wPku0821人間七七四年
2014/04/18(金) 11:26:56.30ID:W/4P81WZ九州の大名たちの奥方をお集めになりお遊びなされたことがある。
陽泰院さま(直茂公室)にも、是非お出でなされますように、とお招きがあった。
陽泰院さまは、太閤さまの侍女、幸蔵主を通してお断りになられ、
そのときは、幸蔵主の取りはからいでお出かけにならずにすんだのである。
しかし、
「鍋島家のみが勝手な振る舞いをしてよいという前例を作っては後々よくないでしょう。
一度はお目見えになられたほうがよろしいかと思います」
と言ってきたので、陽泰院さまは、前髪を角が立つように剃り落とし、
顔に醜く化粧をして、太閤さまにお目にかかられた。
それから後はお出かけにならなかったということだ 【葉隠】
0822人間七七四年
2014/04/18(金) 23:58:01.49ID:uArMOhiu毛利元就がまだ毛利本家を継ぐ以前、毛利幸松丸の後見人の一人として、未だ多治比殿と呼ばれて居た時のこと。
当時毛利幸松丸のもう一人の後見人として元就以上の影響力を毛利家中に誇ったのが石見の豪族にして、幸松丸の外祖父である
高橋久光であった。先年、嫡子元光を戦で失い齢60を迎えたとはいえ、大内・尼子の狭間で生き抜いてきた男の力は伊達ではない。
先の有田合戦で力を示したとはいえ、20代前半の元就の発言力は久光には到底及ばぬものであったそうだ。
だが、高橋久光は大永元年(1521年)備後の豪族三吉氏を撃つべく、兵を出したものの三吉傘下の加井妻城(青屋城)で青屋友梅に討たれ戦死してしまう。
(一説によれば久光の息子元光も先年、この加井妻城攻めで死んだと言う。)
(続く)
0823人間七七四年
2014/04/19(土) 00:11:37.44ID:GxnFKYrg攻めるに難しと見た元就は加井妻城を3500の兵で包囲、兵糧攻めを開始する。
しかし城主青屋友梅も去るもので、水・食料が尽きるのを待つ元就方に対し、
見えるところで米を馬にかけ、遠目には水で馬の体を洗ったように見せかけ
寄せ手の戦意を下げようとした。それを見た元就方では撤退や作戦の変更を申し出る者も
多数いたが元就はそのまま兵糧攻めを継続する。
そして数日後、元就は配下の井上光親を軍使として城内に送るのであった。
0824人間七七四年
2014/04/19(土) 00:32:50.00ID:GxnFKYrg馬であるから長戦の慰めに見せてさしあげようと、光親の前に数頭の馬を引き出し、盥に
なみなみと満たした本物の水で馬の体を洗い、更には雑兵が無数の米俵を運ぶ様子を見せ、
光親は自陣に戻るとその有りのままを元就に報告した。
光親から城内の様子を聞いた多くの将兵は、
「こりゃいけんわい、敵方には水も飯もまだようけ有るで・・・」
「城がこがなじゃったら勝たれんのじゃないか?」
と落胆したものの、元就だけは一人
「城内の水は尽きた、敵はまもなく降伏するゆえ今しばらく堪えてより一層包囲を固めよ。」
と、指示を出した。果たして一月もせぬ間に青屋友梅は降伏。元就の言うとおり城内の水と食料は
絶えていたと言う。これにより元就はより一層の名声を高め、目の上のたんこぶで有った、高橋一族の
毛利家への影響力とその勢力自体を削ぐ事に成功する。敵の窮状を見抜いた若き日の謀神の姿である。
0825人間七七四年
2014/04/19(土) 02:08:14.62ID:0R6USUEj現代の学者で実際に検討した人はいるのだろうか
0826人間七七四年
2014/04/19(土) 02:26:10.43ID:MNIlPhKx山を分け入って木々の合間の遠くの方に湖が見えたと思った
…近付いたら山中に似合わず白い砂利がただただ敷き詰められた広大な駐車場だった事がある。
視力は当時2.0だったけど、先入観や常識に囚われると
意外な物に嚇かされる事はたまにあるよ。
0827人間七七四年
2014/04/19(土) 17:53:22.77ID:4D7S36vy古田「(*゚Д゚*)キミ、越前の真柄を討ち取ったんだって?その時の話を聞かせてくれよ。どうやったんだい?」
青木「いや、真柄って人は凄く強い人でさ、本当なら僕が討ち取れるような相手じゃないんだけど・・・巡り合わせがよくてね。
真柄がケガして疲れ果ててるところに出くわしてさ、たまたま僕が行きがかり上討ち取ったってだけなんだよ。
だから話すことなんて無いんだよね。(´-ω-`;)ゞ」
飾らない青木の態度に、古田や聞いていた者は皆感じ入ったという。
0828人間七七四年
2014/04/19(土) 17:57:39.03ID:pS4iibVJ0829人間七七四年
2014/04/19(土) 23:58:21.13ID:GxnFKYrg陰徳太平記からなので、史実かどうかはおいて毛利元就とその間諜として用いられた者達について
北条早雲が座頭などの盲目の者達を自領から追放すると言う例を出し、退去する盲目の者達に自らの間諜を
紛れ込ませて各地へと散らしたのは戦国スレでも既出であるが毛利元就にも同様の話が有り、
元就は4人の琵琶法師を座頭衆という間諜として代わり代わり周辺に派遣し、各地の領主の人物やその地の
情報を得たり、時には偽情報を流させるなど(尼子国久の新宮党粛清にも一枚噛んだとも)したと言う。
その座頭衆の一人に勝一と言う名の琵琶法師が居た。勝一は琵琶の弾き語りや弁舌に優れるだけでなく、病で盲目になる前は
勉学に励んでおり博識でもあった。
ある日、元就は先祖伝来の刀が3つに割れると言う夢を見、それを不吉に思い勝一に相談した。
夢の内容を聞き、勝一はそれについてこう答えたと言う。
「殿が見た夢は吉兆にござります。何故なら3つの刀はпA変じて州、すなわちクニとなりまする。
故にこれは殿が将来一つの国の主となられることを意味しておるのです。」
それを聞き、元就は安堵するとともに大いに喜んだと言う。
0830人間七七四年
2014/04/20(日) 10:09:16.55ID:VScin6KQ元就の異母弟、相合四郎元綱。元就と共に有田中井手合戦で初陣し、元就に劣らぬ武勇を示し
「今義経」とも称えられた毛利一門の若き担い手である。母は違えど兄元就との仲も良く、頼もしい弟であった。
毛利幸松丸が早世し、元就が家臣団の後押しで毛利家の家督を継ぐまでは・・・。
元就の毛利相続に不満を募らせた元綱は数名の有力な家臣と結託し、尼子や石見の高橋家と結んで元就に対する謀反を企図しはじめる。
それを察した元就は琵琶法師・勝一を元綱の元に「話し相手」として送り出す。
話し上手・琵琶上手の勝一は盲目の為警戒されずに元綱の居館・船山城に出入りし、元綱の謀反の計画を探り元就に伝える
間諜としての役を果たすのであった。
元綱一派の決起が近づく中、元綱は決起前の夜宴で平家物語の弾き語りをするよう勝一に依頼する。
もちろん元綱は勝一に謀反も決起も明かしては居ないが、元綱一派の決起が近いのを察した勝一は
元就に通報。事ここに至っては弟を討つも止むなしと決意した元就は夜宴の最中の襲撃を企て、合図などを決め
勝一を再度船山城へ送り出す。
夜宴当日、元綱の居館船山城を志道広良率いる300の兵が急襲、勝一の弾き語りが佳境となった時を見計らい
兵が突入し、元綱はじめ30人ほどがその場で討ち取られ、勝一から元綱の同調人として名の挙がっていた
坂広秀や渡辺通らも討たれたと言う。
0831人間七七四年
2014/04/20(日) 11:01:35.31ID:VScin6KQ勝一から元綱の同調人として名の挙がっていた坂広秀や渡辺通らも後日討たれた。
元就は弟の死を悼むとともに、事件の背後に尼子経久の策謀が有った事を知り、尼子と決別することを決意。
以後、大内側に付くこととなるのであった。
毛利元就と琵琶法師3
元就が座頭衆と言う琵琶法師の間諜集団を組織していたのは先に上げたとおりだが、後年
陶晴賢が主君・大内義隆に謀反、殺害した後に毛利家と争うようになった頃、陶晴賢も一人の
琵琶法師を間諜として元就の元に送り込む。この琵琶法師は元就に気に入られ、様々な情報を
陶側に流したため、元就側の情報は陶に筒抜けとなってしまった。
しかし、周辺に間諜が入り込んだことに気づいた元就は先ごろ迎えたその琵琶法師が怪しいと気づき、
逆にその法師を利用して偽の情報を敵側に流すことにした。
先ず陶配下で堅城、岩国城城主の永来丹後守がこちらに内通した。
と、偽の情報をかの法師から陶晴賢に流したうえ、更に岩国へその物証となる偽の書状を送り、
それをあえて陶側に奪われるよう手配した。自らの間諜からの情報と元就の偽手紙に引っかかった
陶晴賢は激怒して名将としても知られる永来丹後守を殺害してしまった。
計画が成功した元就は更にその法師を自分の側近として、厳島合戦直前の軍議にも参加させた。
そこで元就は
(●▲●)「陶軍に厳島に渡られると困るわー、厳島に作った城はがいにこまい(大変小さい)し、制海権取られて海から攻撃されるし困るわー(チラッチラッ)」
(*^◯^*)(ほうほう、これは良い情報なんだ!)
(●▲●)「陸路で草津・廿日市に攻めてくるなら岩国の弘中隆包がうちに寝返るけん、助かるんじゃがのー(チラッチラッ)」
(*^◯^*)(!これは一大事なんだ、殿にお知らせせねば!)
全部嘘である。
(つづく)
0832人間七七四年
2014/04/20(日) 11:29:22.72ID:VScin6KQ数に劣る元就は、険しい山で形成された厳島に陶軍を誘い込み、数の優劣を無くした上で
敵の船を焼き、退路を断って決戦することを狙ったのであった。
法師(*^◯^*)からの情報を受け取った陶晴賢は直前にも、毛利家老・桂元澄から内応の手紙(これも嘘)を受け取っており、
厳島に渡ることを決め、弘治元年(1555年)10月2-3万の大軍で厳島へ渡海。なお、この時弘中隆包が厳島への渡海を反対したが、
法師(*^◯^*)からの偽情報の為、却下されたと言う。
戦の経緯は省くが結果はご存知のとおり陶軍総大将・陶晴賢討ち死に、弘中隆包親子も討ち死に、陶軍は約5000人の使者を出し、
毛利側大勝利に終わった。
さて、例の法師(*^◯^*)の顛末であるが・・・
(○▽○)「おどれのおかげでわしゃあ、長年の思いを遂げることが出来たわい。褒美に塩(死を)くれちゃるわ、ありがたく飲めや」
(*^◯^*)「えっ?ぇっ?」(ざばーん)
(*^◯^*)「くぁwせdrftgyべいすたんlp;」
開戦直前に元就に海に沈められたそうである。めでたしめでたし。
あれ、良い話・・・・?
0833人間七七四年
2014/04/20(日) 22:22:10.28ID:Isu6luxeといったところだろうか…( ;∀;)イイハナシダナー
0834人間七七四年
2014/04/20(日) 22:49:58.73ID:VScin6KQ0835人間七七四年
2014/04/21(月) 00:01:21.95ID:urSpSXSo0836人間七七四年
2014/04/21(月) 01:08:33.59ID:Gj8yUMWz>3つの刀はg、変じて州
ここがイマイチしっくり来ないけど当時の初代だと似たような字になったのかな
0837人間七七四年
2014/04/21(月) 13:00:08.75ID:UxXlvqCGgと州でググったらいろいろ出てくる
0838人間七七四年
2014/04/22(火) 01:14:47.62ID:IZdYzDZT共に敵を斬って首を得た。
豊臣秀頼の右筆である白井甚右衛門はその日、首帖(首帳)の役だった。
松浦は早く首を持って来て白井に一番と書かせた。ところが、白井は
「首一つ松浦弥右衛門」と書いて一番とは書かなかった。
松浦は怒ったが白井は聞き入れない。そこに今度は浅部が首を持って来た。
白井がこれを正したところ、浅部は松浦よりも先に首を取ったけれど、
その場所が遠かったので遅参したということがわかった。
その証拠は明らかだったので白井は浅部を一番と書いて松浦を二番と書き、
松浦に向かって「ニの首を待って一の首を記すことは首帖の故実です」と言った。
――『武将感状記』
0839人間七七四年
2014/04/24(木) 19:06:42.28ID:4Mkt4lor御先に上洛したいという旨を申し上げ、土井利勝を上使として、御暇を賜った。
黒田親子はすぐに御礼として江戸城に登城すると、親子ともども、御太刀を下された。
この時、木曽路を通って上洛したいということを、土井利勝を通じて言上したところ、
『心のままにせよ』と赦されたため、親子共に、東山道を上ることとなった。
またこの時、松浦肥前守久信もこれに同道した。
長政は、美濃国合渡川の傍で忠之、松浦久信を待ち受け、ここに暫く留まり、二人に、
先年の岐阜城攻めの折、大垣の城の敵方が後攻めをしようとして大勢が川向うに備えていたのを、
長政がここを渡り、合戦して追い崩し、勝利を得たこと。田中、藤堂など諸将が渡川した場所、
戦いの形勢など、たった今、目の当たりに見るように詳しく語った。
これには付き従った者達まで、志あるものは耳を傾けて聞いたそうである。
このあたりの領主であった竹中丹後守重門は、その子である権之佐を迎えとして合渡川まで参らせた。
その夜は竹中氏の居館のある岩出という場所に宿泊した。
ここでは竹中重門自身が接待をした。
翌日、岩手を出て関ヶ原に至った。ここでは、また先年、家康公の先手として陣し、西軍の大敵と
大いに戦い、天下泰平の礎を作り上げた場所であったので、「若年の人に教学の為に」と、
忠之にその時の戦の有り様、地形、方角を、指さしながら詳細に語り聞かせた。
これに、付き従う士卒たちも、ただただ心耳を澄ますばかりであった。
長政はここで時刻を過ごし、いにしえの戦場に感じ入り、昔を恋しく思って落涙された。
心ある人中には、これを見て共に涙を落とす者もあった。
後で思い返してみれば、この時黒田長政は既に年老いて、しかも病を患っていたので、
もう一度ここを通りたいと思い、今回は忠之を伴って、こうしてここを見せ、語り置かれたのであろう。
(黒田家譜)
黒田長政、息子に関ヶ原の古戦場にて自分の戦いを語り聞かせる、という逸話である。
0840人間七七四年
2014/04/24(木) 20:34:53.12ID:ZKXY3hr00841人間七七四年
2014/04/24(木) 23:31:27.99ID:zogf4qTmこの話か
0842人間七七四年
2014/04/25(金) 08:52:47.72ID:PicnZp9z0843人間七七四年
2014/04/25(金) 15:36:10.10ID:xNX1/ysK慶長6(1601)年、最上義光が酒田攻めで庄内を上杉軍から奪還すると、北館利長には田河狩川城と3000石が与えられた。
しかし利長が新領に赴くと、目の前には痩せた土地と広大な葦の生い茂る原野しかなかった。
利長は土地の者に尋ねた。「近くに川もあれば人も居るのに、この荒れ様にはなにか理由があるのか?」
農民「水が足り無いのでござえます」
利長「川ならあちらに流れているではないか?」
農民「お侍さまちょっとええだか?一緒に川まで来てくんろ」
利長は農民らと川へと向かった
農民「見てわかんべ」
利長「…川が田畑より一・二間(数メートル)も低い処を流れているのか…」
農民「そんだけじゃなく、ここいらは台地(河岸段丘の上)だし、土もすぐに水を吸うてしまって水が全然足りんのでごぜえます」
利長は水をどうにか出来ないものかと
毎日毎日領地のあちこちを朝から晩まで歩き回った
道で見掛けた農民に「水は無いか?なにか良い知恵は無いか?」と聞き込む事から
領民らは「おい、また水馬鹿の殿さまが来たぞ」と陰口を叩いた
0844人間七七四年
2014/04/25(金) 15:55:08.83ID:xNX1/ysK利長「お山(月山)なら雪溶け水や川はあるが、十里(数十キロメートル)以上離れておる…」
利長「途中には沢や丘陵もある…どうしたらいいんじゃ…」
利長は櫃に絵図を描いては閉まい、閉まいは出しては描き直し検討を繰り返した
同時期に山形から庄内までを手中に収めた義光は最上川の水運の向上を図るために川底の掘削や難所の整備を進めていた
利長「最上川治水工事の一環として、大殿(最上義光)のお力を借りられれば…」
慶長16(1611)年、北館利長は櫃に狩川の絵図と工事の見積書を詰め、義光に月山山麓から数十キロに渡る農業用水の潅漑工事計画を願い出た
最上義光「これだけの細かな資料を集め、さぞ大変であったろう」
利長「水さえあれば庄内は更に豊かになります。何卒工事の許可を頂けませんでしょうか?」
義光「みな(万石取りの最上重臣)を集めて議題とする。そち(利長)も席には参加せよ」
0845人間七七四年
2014/04/25(金) 16:23:33.55ID:xNX1/ysK志村光安「仮にやるとしても莫大な予算が必要となりますが、それに見合うだけの結果は出せるのでしょうか?」
下吉忠「最上川の整備ですら数年に渡る工事を継続中です。戦災で荒れた寺社の復興も残っておりますし、今やる必要があるのでしょうか?」
楯岡満茂「人手の確保も簡単ではありますまい」
難工事が予想されたため反対意見も多かったが、義光の側近の新関久正が利長の労苦を汲み反対派を説得し、翌慶長17(1612)年3月、月山立谷川治水工事の命令が発動。
工事監督に北館利長、相談役と奉行に志村光安と新関久正が付けられた。
沢には水路の部分だけ盛り土をした土橋が引かれ、丘陵は掘削されたりトンネルが設けられた
同年7月、4ヶ月の期間と10000人以上の人足を注ぎ込み、40キロにも渡る潅漑用水工事が完成。
「現場の河風は身に凍みるだろう」と義光から贈られた黄色い綿帽子をかぶり、杖をついて工事を指揮した北館利長の念願が叶い、狩川3000石は十年ほどで石高が30000石にも飛躍した
今でも綿帽子をかぶった北館の像が大堰と米処庄内を見守っている
※北「楯」の名字は酒井氏が庄内に移封してから後のもの
本来は北「館」が正しい
0846人間七七四年
2014/04/25(金) 16:46:40.12ID:xNX1/ysK工事の規模や詳細がほとんど知られていないのと、当初は最上家中では工事消極・反対派が多かったといった点では悪い話?
0847人間七七四年
2014/04/25(金) 16:54:44.28ID:xNX1/ysK最上義光、北楯大学と埋蔵金・いい話
義光67歳の手紙
と大分かぶってますた…少し潜ります…
0848人間七七四年
2014/04/25(金) 20:26:11.04ID:KnPSQksWもう当時を知らない若者ばかりになってたんだろうと思うと何とも寂しい話だ
0849人間七七四年
2014/04/26(土) 00:29:15.06ID:sp3m1MgN「男の生命は刀脇差なんだから、鞘は良い物にして束ねをつけて、刃が抜けないように
鞘止も良い物にすべきである。それでこそ主君の役にも立ち、自分の為にもなるのだ。
油断というのは勿体無い。緊急に手討などがあった時も、常に良い状態にして有れば、何の問題も無い
だろう?
しかしな、常に念を入れて良い状態にしておいたとしても、その時になるとここかしこに問題が
出てきてしまうものなんだ。勿論常々からそのようなたしなみが無い者は、いざという時
役に立てるわけがない。
それからな、これは若い者たちに心得ていて欲しいのだが、何時であっても、人を討つ時
一刀で納めようなんて思ってはならない。一刀討ちつけ斬れなかったら、叩き殺すのだ!
という覚悟を持たなければならないぞ。」
(政宗公御名語集)
伊達政宗の、刀についての心得である。
0850人間七七四年
2014/04/26(土) 01:18:56.75ID:/NUGOV8U0851人間七七四年
2014/04/26(土) 10:00:27.35ID:AFZuOKes0852人間七七四年
2014/04/26(土) 14:38:03.58ID:+oJf3obP0853人間七七四年
2014/04/26(土) 15:09:48.42ID:Ybu1meKV0854人間七七四年
2014/04/26(土) 16:30:44.68ID:gPH5kHCp0855人間七七四年
2014/04/26(土) 18:22:01.99ID:iOXbuZnl0856人間七七四年
2014/04/26(土) 18:25:04.80ID:iOXbuZnl0857人間七七四年
2014/04/27(日) 16:59:36.60ID:2gYRKtfFその夜の夢で『是』という字を見た家康は、
この時、足利学校の三要閑室(第9世庠主)を御供に連れて
いたので、ただちに彼を呼び夢のことを尋ねた。これに三要は、
「『是』の字は『日の下の人』と書く字です。
つまり天下に一人ということであり、誠に目出度い御夢です」
と申し上げた。この三要は学才のみならず頓智の上手な人である。
三要は洛東一乗寺村の円覚寺(円光寺)の開基で、
寺領二百石を与えられた。
――『明良洪範』
0858人間七七四年
2014/04/27(日) 18:25:18.57ID:2zh9jIa20859人間七七四年
2014/04/27(日) 19:02:04.77ID:n+Ki6Z000861人間七七四年
2014/04/29(火) 00:31:03.69ID:fxvJ3oLR0862人間七七四年
2014/04/29(火) 18:42:15.80ID:zDAu+sY+この宇野は芸州(毛利)の旗下だったので、秀吉公はこの城を攻めることをお決めになり、別所を攻め落とした翌年、広瀬の郷に馬をお寄せになった。
この時、近習の一人(里村紹巴とも)が「かがり火にうの首見ゆる広瀬かな」と門出の発句を奉った。
たいそう感心した秀吉公が一気に城をお攻めになると、宇野政頼とその子祐清はついに打ち負け、
近い親類である美作小原城主・新免伊賀守宗貫を頼ろうと、同じ宍粟郡の千草へと落ちていったのである。
だが、宇野父子の運命はすでに尽きていた。
折からの五月雨に増水した千種川を越えかねている間に、秀吉の勇士蜂須賀小六、荒木平太夫、神子田半左衛門に追い付かれてしまったのだ。
政頼は河畔で戦って討死、祐清も荒木平太夫と槍を合わせ、打ち取られてしまった。
最後まで秀吉公に降らず、討死して勇士の本懐を遂げた宇野に、当時の人々は大いに感じいったそうだ。
「長水の名は流さしや五月雨」
(播磨鑑)
なお、宍粟市では「笛石悲話」という話が語り継がれている。
新免宗貫の援軍は千種川の西岸まで駆けつけていたが、こちらも増水に阻まれて先に進めなかった。
窮した新免たちは山に登り、宇野勢のいる対岸に向かって笛を吹いた。援軍の存在を示すことで彼らを勇気付けようとしたのだ。
しかしこれが裏目に出た。
笛の音を聞いた宇野父子は「ああ、敵はすでに対岸に達したのか・・・」と絶望し、主従揃って自害してしまった。
新免たちが笛を吹いた山はそれ以来「笛石山」と呼ばれるようになり、戦国の悲哀を今に伝えている。
0863人間七七四年
2014/04/30(水) 08:15:17.39ID:cpxAnI4S武蔵の父親の新免無二と関わりあるのかないのか
0864人間七七四年
2014/04/30(水) 18:48:35.65ID:E8TSbXg+「この日の丸についてはこんな物語がある。昔、ある所で合戦をした折、敵は西の方に夥しい軍勢で
陣所を固めていた。その大将の小旗も日の丸であった。
我々は、突然の合戦であったので、その当時方々に人数を出しており、僅かな旗本だけで出陣し、
東のほうの平原になっている場所で馬を休めていた所、家老どもが私の馬を取り巻くようにしてこう言ってきた
『今、敵の人数と御味方の人数をざっと見比べてみましたが、我らは敵10人に1人と言っても、未だ足りない
有り様です。敵はここから松原の方に見えるだけでも夥しいのに、ましてやあの山の後の森の中には、
一体どれほどの軍勢が控えているのか、測りがたいことです。ですので、今日はこの近くのしかるべき場所に
馬を一旦入れましょう。準備が整い次第、御見方も駆けつけるでしょうから、ここは人数を待つ事こそ
然るべきと考えます。』
このように口を揃えて言うことに、私はこのように返答した
『それは尤もの事だ。さりながら私は若年より今日まで、合戦において、敵を少人数だと侮ったことはないし、
逆に大人数だからといって怖気づいたこともない。突然のことであるから旗本ばかりで出たとしても、
敵の多数を見てここを退くべきではない。とにかくここは、私は馬を乗り回して敵の様子を斥候してくる。
その間、皆々は鷹狩の時のように味方の人数を隠せ、敵に見えないようにせよ!』
そう言って馬を乗り出し敵陣近くに寄せて、詳細に観察し元の場所へと帰り、家老どもを呼び集め
『鷹狩のように見方を隠したか?』と聞くと
『ずいぶん隠しました。只今でも鷹を放ちましたら、敵の小頭くらいは外すことはありません!』
と、どっと笑った。
そこで私はこのように言った
『皆々聞け!一段と良い吉左右がある!敵の大将も日の丸の小旗であるが、あれは西の方の山に立てているので、
もはや入り日である。一方我が方の日の丸は東のほうに懸かっている。これは出ずる日ではないか!
今日の勝利疑いなし!』
これに皆々も『尤もだ!』と言い、馬を敵に向けて
『出ずる日に付け!』
と言って乗り出すと、諸人一度に勇み掛かり、これにて思いの外にも敵を追い散らし、多くの人数を
討ち取ったのだ。
(政宗公御名語集)
伊達政宗の、日の丸の小旗の思い出、である。
0865人間七七四年
2014/04/30(水) 23:03:12.72ID:M+goDXef「わたしが死んだ後の処置をどうするか書きだしてみよ」
と仰せになられたので、秀忠公はすべてお書き出しになり、それをお見せになった。
そして第一条を、
「諸大名たちは長々と江戸に滞在し、御病中詰めきり大儀であった。
さっそく暇を出し、皆のものには休息を申しつける」
と読み上げると、
「天下は泰平、めでたきことなり。あとは聞くに及ばない」
と仰せになられたとのことた 【葉隠】
0866人間七七四年
2014/04/30(水) 23:27:02.45ID:KRoA5+w90867人間七七四年
2014/04/30(水) 23:34:16.26ID:Lke9R01t0868人間七七四年
2014/05/01(木) 01:24:20.61ID:g7HUxJat皆が、ん?と思うところではあるなw
0869人間七七四年
2014/05/01(木) 01:39:10.33ID:XqTpLk25諸大名は江戸に屋敷があるんだから長く滞在する拠点という意味に読めばなにもおかしくない
0870人間七七四年
2014/05/01(木) 07:06:24.01ID:IHxYTrMq0872人間七七四年
2014/05/02(金) 17:58:21.49ID:XyY6Ocfd大坂夏の陣の時、前田勢も出陣して城門近くに攻め寄せたところ、城方からも
打って出てきた。城門の前で合戦となり、城方は強く、前田勢は三度追い立てられた。
その度ごとに隠岐一人は一歩も引かずに苦戦した。そのため味方はまた取って返して戦い、
最後にはこの攻口を前田勢は打ち破った。加賀守(前田利常のことか)は、
「この攻口を取り得たのは、本当に隠岐の武功によるものだ」と大いに褒め称えた。
この合戦の時、隠岐は敵兵と組み合って組み敷かれた。危うく見えたところに伴某が駆けて来て
「隠岐! 手助けしてやろうか!」と声をかけた。隠岐は組み敷かれてなお取り合いながら答えて、
「討つとも討たれようとも、これは私の勝負だ! 御身は御身の勝負をなされよ!」と言った。
そのため伴某はそのまま他へ駆けて行ったのだが、「隠岐は下に敷かれているから
働きは自由にならず、最後には討たれるだろう。彼が討たれてしまったならば私はその敵を
討ち取って隠岐の仇を報じよう」と思い、急いで隠岐のもとへ駆けて来たところ、
隠岐は敵の首を取って立ち上がるところだったので、大いに驚き感心したということである。
後年、太平の時代のこと。隠岐は夜分に道路に立って帯刀している者さえ見かければ辻斬りを行い、
白昼にも帯刀の者さえ見かければ喧嘩口論を仕掛け、あるいは傷を負わせ、あるいは斬り殺すなど
荒々しい所行ばかりしたとのことを家老衆が聞き、評議を行うとの内容を隠岐は伝え聞いた。
その日からニ、三日が過ぎて「御用があるので罷り出よ」との使いが来たので、隠岐は、
「さては切腹を仰せ付けられるのであろう。申し渡しは大方、家老衆であろうな。
切腹は主命であるから速やかに行うが、しかしただ一人で死ぬのも面白くない。
家老衆であろうとも、申し渡しなさる人を一人伴いにしよう」と覚悟して殿中へ出た。
刀ははるかに間を隔てて置いたが、指副(指添え。脇指)は腰から放さずに控えていた。
やがて横山山城守が立ち出て書付を取り出し読み上げた。「其の方は先年の大坂陣の折に
抜群な働き…」と読む半ばまでを聞くと、隠岐は腰の指副を取り、後ろの間へ遠く投げて
謹んで仰せ付けを承り、逆らわずに能登国へ流されたということである。
――『明良洪範』
0873人間七七四年
2014/05/02(金) 20:11:54.28ID:fvb0URI3いのちも知らぬ臣の道かな
0874人間七七四年
2014/05/02(金) 23:24:39.29ID:jU/LHzoBランボーを思い出したw
0875人間七七四年
2014/05/03(土) 13:18:08.75ID:eneZePcc過去の武辺は夢にスタローン
0876人間七七四年
2014/05/03(土) 20:26:42.82ID:e7QsL0hSおどけた茶会を出していた。彼は、初め号を如夢観と言っていたが、後に改めて丿貫とした。
一説に拠れば曲直瀬道三の姪婿であるという。
丿の字は、「人」と言う文字の片方だけであるので、『人に及ばぬ』という意味を表している
そうである。
(老人雜話)
丿貫さんいついてのお話
0877人間七七四年
2014/05/04(日) 07:58:42.14ID:lnSzv3gR玉置氏は太平記に登場する玉置荘司の子孫と言われており、居城・手取城の周りの領地は
3千5百石ほどの石高とされていた。(※徳川時代の検地では1万6千石ほどであった)
羽柴秀吉の紀州征伐が始まると、直和は秀吉への帰順を決意し、
徹底抗戦を叫ぶ舅の湯川直春や相婿の山本主膳と袂を分かった。
その結果直和は湯川氏に攻撃されたが、その後湯川氏も征伐軍に降ったので、
直和の地位も安泰かと思われた。
そして直和は新たに紀伊の領主となった羽柴秀長に挨拶するため、大和郡山城に赴いた。
秀長との対面では所領の石高を尋ねられたので、直和は3千5百石という
自分が知っている石高を返答したのだが・・・
その後、秀長が玉置氏の領地に対して検地を行ったところ、実際の石高は本人の申告よりもかなり多い事が判明、
これを知った秀長は玉置氏の領地を没収し、その上で直和には新たに申告通りの3千5百石を与えることにした。
直和はこの仕打ちに情けなさがこみ上げ、城を家臣の三十木右馬之丞に預けると、
高野山に上って剃髪してしまった。
ところが、ここで直和の境遇をを憐れんでくれた人物がいた。
秀長の兄・羽柴秀吉である。
秀吉は秀長に命じて、出家して千光院と名乗っていた直和を慰撫させ、
直和の方も、一時の感情で城を飛び出してしまったのを少し後悔していたので
高野山を降りて新封を受けることになったのであった。
その後直和は慶長4年に亡くなり、息子の小平太は関ヶ原・大坂と西軍についてしまったが
後に尾張藩に仕えることができたという。
「紀伊続風土記」より
太閤検地がらみで地方の領主が酷い目に遭うお話
秀吉自らフォロー入れて丸く収まってるので、一応いい話ってことで…
0878人間七七四年
2014/05/04(日) 10:16:56.22ID:gYXHuHPK0879人間七七四年
2014/05/04(日) 10:53:20.87ID:fX2fjI+L太閤様もこの頃の寛大さを最後まで保っていられたらよかったのに
0880人間七七四年
2014/05/04(日) 11:44:28.61ID:rTyi5c7F0881人間七七四年
2014/05/04(日) 12:13:56.96ID:bBTVdTLY0883人間七七四年
2014/05/04(日) 14:24:37.06ID:LcVWaVfl在地領主から所領を巻き上げるための検地じゃなかろーか
0884人間七七四年
2014/05/04(日) 14:59:35.46ID:eHCx+N3j地理的にしょうがないとはいえ、やっぱり酷い話では。
0885人間七七四年
2014/05/05(月) 18:00:53.12ID:wcJH7pzk天霧城は頑強に抵抗したが、多勢に無勢。いよいよ最期の時がやってきた。
之景は近習の森久右衛門を呼び出し、一人娘の姫を守って城を落ちのびてくれと頼んだ後に討死した。
主命を受けた久右衛門は、燃え落ちる城から姫と共に落ち延び、大見の宮脇で姫を守りながら隠れ住んだという。
つづく
0886人間七七四年
2014/05/05(月) 18:08:19.18ID:wcJH7pzk時は流れ、世の中もすっかり平和になったころ。
帰農した久右衛門は、行くあてのない姫を妻として娶り、農業を営む傍ら村の若者らに弓を教えて暮らしていた。
ある年の春、藩主の生駒高俊が大見へ鷹狩りに来た時、どうしたわけか鷹の足につけた紐が大木の枝にからまり身動きができなくなってしまった。
あまりに高い枝のため、弓で鷹の紐を切ろうという話になったが、殿さまの鷹に傷をつけては・・・と誰も名乗り出るものがいない。
御付の者が地元に弓の達者はおらぬかと庄屋に尋ねると、庄屋は森久右衛門のことを言上し、直ちに久右衛門が召し出された。
期待にたがわず、久右衛門は雁俣の矢でもって見事に紐を射切った。
高俊は鷹が戻ったことを大いに喜び、その後は上機嫌で観音寺へ狩りに出かけたという。
その年も押し迫った頃、庄屋を通じて久右衛門に高俊から褒美をとらすので希望があらば申し出るようにと沙汰があった。
久右衛門は未開の地を開拓したい旨を言上し、荘内の伊砂子庄を賜ったそうな。
0887人間七七四年
2014/05/05(月) 18:14:21.71ID:wcJH7pzk0888人間七七四年
2014/05/05(月) 19:53:18.99ID:OZ2pLUDk0889人間七七四年
2014/05/06(火) 08:54:51.71ID:y3SA7FAqまぁ、香川之景の娘は親和に嫁いでるし、
之景は秀吉の四国攻めの後は長曽我部にくっついて土佐に行ってるとか
この話、突っ込みどころが満載ですよね。
個人的には永禄のころに三好に天霧城を攻められて、
香川氏が讃岐から追い出された話とごっちゃになってるのかなと思います。
0890人間七七四年
2014/05/06(火) 12:56:48.23ID:Qfg5SQO+その後天正18年、蒲生氏郷の入部により再び改築が計画されることになった。
氏郷は最初、安芸の広島城を模して城を築こうとしていたが、
徳川家康と会うことがあった時にこの話に及んだ。
家康は築城に関して、
「おおよそ居城の大小については、城主の分限に関わることなので、予め論じがたいのだが、
大抵本丸を初め二の郭・三の郭は、塀・櫓ともに如何にも堅密にしておき、
また外郭においても、一の門・二の門と(それらにより形成される)升形は、
いざという時にすぐ作れるものではないから、予め設置して不測の事態に備えておくべきだ。
長塀の古くなった物は、いざと言うとき役に立たないから、外郭は土居・石垣のみにしておくのも悪くない。
必ずしも広島城のように外郭まで塀をめぐらしておくには及ばない。
それと、松永久秀が工夫して大和信貴山城に設けた多門櫓は、二の郭・三の郭に造っておくと一際便利なものだぞ。」
などと細かく氏郷に教えた。氏郷はそれを踏まえ、
文禄元年の夏より、大いに役夫を動員し築城を始め、家臣の曾根内匠らに命じ、
甲州流の縄張りを用いて内外の郭を築いたのである。
(新編会津風土記)
家康、氏郷に築城の心得を教えてあげる、というお話。
ちなみに孫の家光が完成させた江戸城の外郭には、八代将軍吉宗が撤去するまで長大な塀があったそうです・・・
0891人間七七四年
2014/05/06(火) 15:24:27.21ID:P5XHWXJH0892人間七七四年
2014/05/06(火) 19:40:14.89ID:EPE4j2wn小田原征伐の折、豊臣秀吉に内応し、豊臣の軍勢を小田原城内に引き入れる謀をした。
しかし、次男の松田左馬助(直秀)はこの計画を聞かされたものの、同心せず去ろうとしたので、
彼は座敷牢に監禁された。ところが左馬助は家臣の者と言い合わせ、具足箱の中に入って
脱出し、北条氏にこの事を伝えた。北条氏は左馬助に褒美として、即座に知行を与えた。
松田尾張守は大身であり、籠城の持ち口(担当箇所)は非常に広かったが、この事件により
混乱し、そこを豊臣軍は攻め立てたそうである。
北条氏の降伏後、豊臣秀吉は黒田如水に命じて、松田左馬助を誅殺するように命じた。
ところが如水は「松田を殺すのですね」と、秀吉に内応した松田尾張守と笠原新六郎を
誅殺した。
秀吉はこれを知ると激しく如水を叱責したが、如水は「聞き間違えてしまいました。」とのみ
答えた。その後、如水に特別の処罰もなかった。
この事は黒田如水、一生の勝事であるとされている。
生き残った松田左馬助は後に加賀大納言(前田利家)に仕え、五千石を所領した。
そして最近亡くなったそうである。
(老人雜話)
黒田如水、聞き間違えて殺す、というお話。
(老人雜話)
0893人間七七四年
2014/05/06(火) 20:03:11.85ID:/FPUqS+Cそんな如水さんのいい話?を聞いて後藤又兵衛が「君主はかくあるべき」とか言ってました
息子は川に落ちてた
0894人間七七四年
2014/05/06(火) 22:08:09.65ID:ZwFfFYie0895人間七七四年
2014/05/06(火) 23:37:31.30ID:ewXniT8Z北条氏直へ訴えたので、叛逆が露見して父子ともに閉じ込められた。
その後、和談によって開城の時、豊臣秀吉は黒田如水に、「松田の次男左馬介は、
父を訴えた者であるから誅し申すべし」と命令した。すると如水は間違えた振りをして
惣領の新六郎を殺し、左馬介を助けた。
これを聞いた秀吉は「どうして新六郎を殺したのだ。左馬介は我に忠のある尾張父子を
氏直へ訴えた憎き奴だから殺せと申し付けたのに」と言った。
これに如水は「それがしが承り違えたのは不調法でした。しかしながら、新六郎は譜代の
主人に背いた者なので武道に欠け、先祖の面まで穢したのですから、忠孝ともに無き
無道者です。左馬介は父には背きましたが、主人には忠のある者です。ですから左馬介と
取り違えて新六郎を殺してしまったからといって損とは申されますまい」と申し上げた。
秀吉はこれを聞いて「またちんばめが空とぼけをした」と言い、左馬介はそのままにした。
この如水の取り計らいを皆が褒め称えたということである。
――『明良洪範続編』
0896人間七七四年
2014/05/07(水) 00:01:51.97ID:3uBS/IGEいまからおよそ400年前安芸国城主・福島正則の家来に可児才蔵という槍の名人がいました。
ある夏洪水で堤が切れ、川水が城の濠に溢れ、城の石垣をだいぶ壊しました。ほってはおけないので正則は、
すぐさま石垣の修理にかかりました。
ところが幕府の許しを得ていなかったので正則は幕府に咎められ、安芸国から追われることになりました。
しかし、幕府の処置を恨みに思った可児才蔵ほか六十人の侍は、矢賀の小さな城に立て篭もったまま動こうとはしませんでした。
それを知った新しい城主・浅野長晟は家来に命じ矢賀の城を攻めさせました。
その兵が城の石垣を登りはじめると才蔵たちは石垣の上からグラグラと煮えたぎったみそ汁をぶっかけました。
そのため兵たちをヤケドさせられました。
そこで、浅野の殿様は今度は兵糧攻めにしようと、幾日も城をとりまきました。段々と貯えを失ってきた時、
才蔵はひとつの思案を立てました。
それは、城山のお地蔵さまに笹の葉を供えそれに味噌と米をのせておけば、どんな願い事も叶えられるという噂を
近郷近在に流すことだったのです。
城の者はかわるがわる忍び出て、その噂をふりまいて歩きました。その噂は噂をよび、城山のお地蔵さまには次々と
味噌や米が供えられました。●ヽ(゚∀゚)ノ● ウヒョー ! ミソイタダキマース
こうして、才蔵たちは長い間、城を支えることができ、篭城の侍たちは、何処へともなく落ちのびることができました。
地元の人たちは、やがて可児才蔵を真言寺に祀りそのお寺を才蔵寺と名付け、お地蔵さまはそのお寺の境内に移し「みそ地蔵」、
可児才蔵を「笹才蔵」と呼ぶようになったそうです。
このみそ地蔵には、いまは多くの受験生がお参りし、みそ玉をお地蔵さまの肩に供えています。「ミソをつける」肩代わりをしてもらったり、
お地蔵さまの脳みそを借りたりするためなのだそうです。
福島正則改易は一応可児才蔵死後の話ではございますが・・・彼も修羅道に堕ちた武田光和同様、主君の災難に迷って出たのでしょうか?w
0897人間七七四年
2014/05/07(水) 01:54:43.27ID:6sn+TDjP立花山麓にある曹洞宗の古刹梅岳寺
立花道雪の墓所である
中央に母養孝院の墓所、右に道雪、そして何故か左に一回り小さな異名の墓石
主君から恩賞として死後も使えることを許され同じ墓所に葬られた
名を菰野増時という
0898人間七七四年
2014/05/07(水) 02:12:41.79ID:6sn+TDjP福岡県の現在地名だと新宮あたり
柳川立花藩改易後黒田に使えた理由の一つだとも
地味だけど忠誠が高い九州武将の典型だと思う
0900人間七七四年
2014/05/07(水) 10:58:13.63ID:OSlMwJ060901人間七七四年
2014/05/07(水) 11:39:18.33ID:ACb3rfpI0902人間七七四年
2014/05/07(水) 15:11:16.23ID:Emd4X/5xなので歌関連の逸話をリクエストします
0904人間七七四年
2014/05/07(水) 23:37:07.24ID:3uBS/IGE1524年、甥幸松丸の急死により毛利元就は毛利家の家督を継いだものの、それを危惧する尼子経久と亀井秀綱の策に乗って
元就に叛意を抱いた異腹弟の元綱を殺害。
以後も尼子に従いその要請で大内家に攻められた尼子方の仇敵・安芸武田氏を支援する物のその心の内は反尼子に大きく揺らいでいた。
1525年、毛利元就は先年武田氏の銀山城にて自らの夜襲策で撃破、撤兵させた大内家の家老、陶興房の説得に応じ尼子方より大内方に鞍替えする。
これにより、安芸の国の形勢は大内側に大きく傾くこととなる。
1529年、毛利元就は亡き甥で先代の毛利家当主、幸松丸の母方の実家である石見高橋家を攻略。
また、これ以降尼子方の安芸武田氏傘下であった熊谷氏や、先々代興元以来の長年の敵であった宍戸氏や天野氏などと縁組・調略し、
隣国備後の多賀谷氏を降伏させるなど徐々に安芸を束ねる国人衆の筆頭格としてその勢いを高めていく。
1540年、尼子家の家督を継いだ尼子晴久はこれ以上の毛利の台頭許すまじと、3万の兵を持って毛利家の居城、吉田郡山城攻略の兵を出さんとす。
これはその数年前のある日のこと・・・。一人の男が吉田郡山城の門を叩いた。男の名は内別作(うちわさ)助四郎。
尼子晴久の側近く使えた者だが、勘気を蒙り尼子家を出奔してきたと言う。
(つづく)
0905人間七七四年
2014/05/07(水) 23:41:21.60ID:3uBS/IGE元就は内別作を家臣として雇い、自らの近臣として用いることにした。
だが、実の所内別作はかつて尼子経久が三沢氏に送り込んだ山中勝重同様、偽りの出奔であり
その役目は毛利の様子を探る間諜であった。そんな内別作を側近く用い続ける元就。
そんな中、いよいよ尼子晴久が吉田郡山を攻めると言う不穏な噂が流れる、元就は家臣らを集め軍議を開く。
その席上、元就はこう言った。
「晴久が甲山(かぶとやま)に陣をしいてくれればええんじゃが…もし三猪口(みえくち)に布陣されでもしたら、防州への通路を断たれてしまい、
わしらはどがぁもできんようなってしまう…ほしたら、一日どころか半時と持たん。ここを捨て、大内を頼り山口にでも逃げにゃならんのぅ・・・」
その翌日、内別作は吉田郡山から姿を消した。さては尼子の間者であったかと家臣は大騒ぎとなった。
しかし、当の元就は一人「さてこそ軍は既に勝ちたり(これで勝ったも同然)」と、大喜びであったと言う。
と言うのも もし甲山から城を見下ろされるような形になればどうにもならないが、三猪口は平地であるから、敵が大軍であっても容易に戦えると。
(先の軍議の時、内別作以外の旧来の家臣は甲山に陣敷かれたら上から丸見えだし、逆じゃね?と、思っていたが殿には何か考えがあるのだろうとその言葉に従ったとも言う。)
そして1540年(天文9年)8月、先のとおり尼子晴久は3万の兵を率いて吉田郡山城へ出兵。元就が軍議で危惧したとおり、尼子勢は三猪口に布陣したところ
元就と駆けつけた陶隆房(後の晴賢)、杉隆相、内藤興盛ら大内からの援軍に散々に打ち破られ退散したと言う。
0907人間七七四年
2014/05/08(木) 06:30:40.14ID:VK3LLf/Mとって大事な戦でしたからね…しかも何の因果か出兵前には将来自分の死地となる厳島で
戦勝祈願もしてると言う…
0908人間七七四年
2014/05/08(木) 07:23:52.27ID:bLpvlG+u0909人間七七四年
2014/05/08(木) 18:35:41.05ID:O8SFodjS後年、前述の甲斐守(本多政朝)が死去した時、前述の男子(本多政勝)は当時は
内記といったが、甲斐守の家督を相続した。だから系図では出雲守忠朝の孫に当たるが、
実は忠朝の嫡子であるから、父の家督を継いだのである。
しかし、忠朝以来五万石のところをこの度四万石にされ、残り一万石は一家の
能登守忠義へ加増されたので、忠義は五万石になり、政勝は四万石であった。
その頃の御定めでは五万石以上は乗輿、それ以下は馬上である。それが理由なのか、
政勝は四万石を受けなかった。一家の衆中は、
「たとえ一万石減るとしても、父の跡を継ぐのですから四万石をお受けするべきです」
と言ったが、政勝は承知しない。そこで細川越中守忠興を頼り、忠興が意見に及んだ時、
政勝は「父の出雲守忠朝は五万石の軍役を勤めたのに、私は五万石の軍役を
勤められないことの残念さにより受けないのである」と言った。これに忠興が、
「もっともな所存ではあるが、お受けしない時には本家に迷惑の事が起こるであろう。
分家の身で本家へ迷惑をかけては孝悌の道ではない」と言ったところ、政勝は、
「孝悌の道と仰せられるのならば、さっそく四万石のお受けをいたそう。しかしながら、
今も申した通り、父出雲守忠朝の通りに五万石の軍役を勤められないことが残念だ」
と言い、歯噛みをして落涙した。
すると忠興は政勝を褒めて「あっぱれ出雲守殿の子息かな。いつでも御身が出陣の折には
私めより弓、槍、鉄砲の人数どもを一万石だけ加勢するので、五万石の軍役を勤められよ」
と言ったので、政勝は大いに喜び、
「貴殿の御一言で私めの胸中は開けた。本当にかたじけない。一万石の軍勢のことを
なにとぞ頼み奉る」と言い、それから四万石をお受けして、公辺滞りなく家督のことは
済んだということである。
――『明良洪範続編』
0910人間七七四年
2014/05/08(木) 22:32:11.40ID:VK3LLf/Mまぁ忠勝以来、譜代きっての侍大将って誇りから来てるんだろうけれど。
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。