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戦国ちょっといい話39

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0001人間七七四年2013/12/28(土) 15:41:31.69ID:m9sYieeK
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1377700193/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386399929/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0758人間七七四年2014/04/13(日) 08:53:08.41ID:Jd7voNHh
まとめにこの話自体は見当たらなかったのでTERUが晩年に息子秀就に送った訓戒状の件。
豊臣氏が滅亡した後、徳川政権による支配体制が確立され、諸大名に対する幕府の監視の目が強まって改易も多々行われる中、TERUは悩んでいた。

(●▲●)こんな時代だからこそ一門の結束を強め、派手なことはせずに家の存続を考えねばならないのにうちの秀就と来たら・・・
(*^◯^*)駿府で大御所様の見舞いが終わったら猿楽見るんだ!江戸に帰ったら踊るんだ!酒飲むんだ!政治なんて知らないんだ!

(●▲●)・・・・・だめだこの馬鹿息子

そして、1621年に輝元は秀就に21か条の訓戒を送るのであった。

(●▲●)<老臣や奉行の意見を聞け、側近は才能を見て選びなさい、直ぐにはぶてる(拗ねる)な、遊びは控えろ、後他の大名との付き合い方は(以下略)
(●▲●)<家康の見舞いの後に猿楽など見とるから形見分けもらってねーのお前だけじゃろが、秀忠にワシに養生せよと言われた?お前の行状が改まるのが一番の養生にして親孝行じゃ、この馬鹿たれが。

と言った感じでTERUは細々と21か条の訓戒を秀就に送っている。
そして、秀就もそれについて一つ一つ了承した旨の書状を父に返している。
家の存続に心を砕き、家族に宛て長い訓戒を送るその様子は祖父元就の晩年を見ているようでもある。
この様子をかつての後見人である小早川隆景が見たら、彼は一体何を思ったであろうか?
0759人間七七四年2014/04/13(日) 08:53:46.38ID:62jbK+RU
加藤四天王
地味加藤、砂加藤、飛び加藤、清正加藤
0760人間七七四年2014/04/13(日) 09:04:43.33ID:9ph50VZh
フォーエバーコミュニケーション加藤
0761人間七七四年2014/04/13(日) 09:24:43.12ID:ZF6hgZ9O
なんで毛利家の人間は若いころダメさ加減と、年取ってからのギャップが激しいんだろ。
隆景さんでさえ、若いころの逸話見るとただのワガママ小僧だったりするし。
0762人間七七四年2014/04/13(日) 10:48:07.45ID:CvmebuPg
>>761
弘元「そんなことは」
興元「無いと」
隆元「思うよ」
0763人間七七四年2014/04/13(日) 11:33:14.45ID:8555LqJW
近年金沢市の研究家により、「最上駿河守辞世并詠哥」という五言絶句と和歌の掲載された文書が紹介された。
最上駿河守とは義光の子・家親をさすが、「六十余霜」とあることから、
義光の辞世である可能性が指摘されている。

一生居敬全
今日命帰天
六十余霜事
対花拍手眠

一生居するに 敬を全うし
今日 命天に帰す
六十余霜の事
花に対ひ手を拍ちて眠らん

私は一生敬を全うしてきた
わが命今日、天に帰る。
六十年あまりの年月はただ茫々。
咲く花に手を打ち、眠るとしよう。



有といひ 無しと教へて
久堅の 月白妙の
雪清きかな

有るといい無しとも言う、有無は心がけ次第だ。
空に高く月は白く、真白い雪は清らかだ。


和歌は義光の幼名(白寿)、諱(光=明るい、白い)、戒名(光禅寺殿玉山道白大居士)、
そしてこれが辞世だとすればここにも「白」が入っているのはなかなか興味深いと思う。
0764人間七七四年2014/04/13(日) 13:04:06.63ID:i9s/0g9s
最上ファンは相変わらず逸話じゃないコラムというか
ブログでやったほうがいい内容だな
0765人間七七四年2014/04/13(日) 13:15:37.31ID:5PtRY13x
砂加藤って朝鮮で吐血して死んでたよね...
0766人間七七四年2014/04/13(日) 13:28:27.06ID:0LlpbSRu
地獄から元春さんとか呼んできたほうがいいんじゃないか?
0767人間七七四年2014/04/13(日) 15:16:03.50ID:8555LqJW
>>764
辞世の句は扱っていけないというルールがあったなら失礼しました。
そうでないなら他の武将の詩歌などを扱った時もあなたはそういうことを言ってたんですか?
0768人間七七四年2014/04/13(日) 15:18:47.85ID:vTng5FF6
また鮭ヲタが発狂した
0769人間七七四年2014/04/13(日) 15:24:19.17ID:bPX53VYD
さわんなっての。NG入れとけ
0770人間七七四年2014/04/13(日) 15:37:15.45ID:0LlpbSRu
NGMSさん!お呼びです!
0771人間七七四年2014/04/13(日) 15:38:14.47ID:fJQvg67N
(´・ω・`)をNGに入れて対処、と思ったけどこの分じゃ鮭様、義光まで入れなきゃダメか
義光以外がメインの逸話まで見過ごしてしまいそうだ
0772人間七七四年2014/04/13(日) 15:38:54.40ID:i9s/0g9s
>>767
四六時中張り付いてるわけじゃないから他の例なんていちいち覚えてないが
過去に詩歌ネタがあったとしても、そういうこと気にならないような書き方してたかもな
0773人間七七四年2014/04/13(日) 16:14:04.79ID:2STj8sxT
>>771
その顔なんか違うな
NGされてないw
0774人間七七四年2014/04/13(日) 17:18:23.17ID:mvADEk6I
>>767
別に「ちょっといい話」じゃないから最上スレにでも書き込めばいい話
0775人間七七四年2014/04/13(日) 17:44:10.24ID:ZF21Gc/4
ひとつの家の逸話が連チャンすると目立つからそこらへんの気遣いが肝要かと。
いらぬ気遣いなんだけど、人が集まるとそういう事もある
0776人間七七四年2014/04/13(日) 18:00:03.17ID:R/VeEKGy
自己顕示欲を満たしたいのじゃなければ、最上スレがあるならそっちでやるのがいいと思うの・・・
本質を理解する能力とまとめる能力がないバカが会話調で話を進めるって内の指導教官が怒ってたな〜
0777人間七七四年2014/04/13(日) 21:23:50.69ID:f4KrSdC9
しょーもない言い争い自体がスレ違いだろ。余所でやれ
0778人間七七四年2014/04/13(日) 21:27:13.20ID:qtBEvqwL
武藤光安とかの話を書いてた者ですが>>763の方とは別人ですよ

行間や忍法帖で長い文章が利用できないので(つづく)とか使ってますが
同一人物視された方がかわいそうに
0779人間七七四年2014/04/13(日) 21:32:38.56ID:qtBEvqwL
>>763
最上駿河は家親以外に最上義智も使用
ただ、豊臣政権下の義光の伏見屋敷が地図等に「最上駿河」と表記される事もあるので、原典の由来がわからないと義光ではなく義智の可能性も出て来るとか?
(義智も享年は60過ぎ)
0780人間七七四年2014/04/13(日) 21:37:07.93ID:R/VeEKGy
そして、自己顕示欲もかなり強いと・・・
0781人間七七四年2014/04/13(日) 22:00:22.30ID:TZKu9ZS2
自分もここに逸話を投下してるけど
原典を素直に現代語訳するだけが一番無難かな。
妙な台詞を入れると創作小説になるし
自分の意見を押し出すと考察コラムになる。
「逸話」から離れないようにするのが肝要。
0782人間七七四年2014/04/13(日) 22:07:03.46ID:qtBEvqwL
>R/VeEKGy
文句書く前に手本ともなる逸話のサンプルでも投下なされては?

これ以上引きずる様ならあなたは単なる荒らしだわ
0783人間七七四年2014/04/13(日) 22:24:18.49ID:R/VeEKGy
昨日、いい話と悪い話にしたんで残念ながら弾はないんだ〜
0784人間七七四年2014/04/13(日) 22:27:31.37ID:R/VeEKGy
評判は良くないかもしれんし、手本になるかは知らないが、
とちあえずイチャモンは付けられなかった
0785人間七七四年2014/04/13(日) 22:33:30.23ID:R/VeEKGy
カキコする度に色々言われてるのに、直そうとしないのはなぜなの?
まぁ、オレが荒らしたといのは認めるが
0786人間七七四年2014/04/13(日) 22:35:57.64ID:Vu89JmMm
荒らしたのを認めるならその辺にしとけ、な
0787人間七七四年2014/04/14(月) 00:12:50.36ID:G0qkMeLP
荒らしに理性的に話しかけるのは無駄なんじゃなかろうか
0788人間七七四年2014/04/14(月) 03:09:14.30ID:DwRkVVM7
最上の人は読まなくても分かる特徴のある文体だから見かけたら速攻NG入れとけ
文句言うやつは荒らしのスタンスだから、何言っても絶対に改めようとしない。
荒れるだけ無駄。かまう奴も荒らし
NG入れとけ
0789人間七七四年2014/04/14(月) 06:39:11.29ID:g2KWYUFx
それでは全部NGになるんでは?
0790人間七七四年2014/04/14(月) 12:26:46.07ID:AUVkqdDj
連投最上どころか>>784も自己顕示欲の固まりか。クレクレでスマソ。誰かこの悪い流れをぶった切れるような話ない?
0791人間七七四年2014/04/14(月) 12:41:13.78ID:AUVkqdDj
みんなの気分転換になれば

宣教師の見た日本

「人々はいずれも色白く、極めて礼儀正しい。一般庶民や労働者でも社会では驚嘆すべき礼節をもって上品に育てられ、あたかも宮廷の使用人のように見受けられる。
東洋の他の諸民族のみならず、われらヨーロッパ人よりも優れている。国民は有能で、秀でた理解力を有し、子供達は我等の学問や規律をよく学び取り、ヨーロッパの子供より容易にかつ短期間に我等の言葉の読み書きを覚える。
また下層の人々の間にも我等ヨーロッパ人の間に見受けられる粗暴や無能力ということがなく、一般にみな優れた理解力を有し、上品で、仕事に熟練している。

彼らは感情の慎みが深く、胸中に抱く感情を外に出したりはしない。」

ヴァリニャーノ『日本諸事要録』

美しかった昔の日本人の記録。
0792人間七七四年2014/04/14(月) 14:29:40.19ID:0M2f/20D
ヴァリニャーノさんが日本に非常に馴染むことができ、
日本人もヴァリニャーノさんにかなり好意的だったのは
ヴァリニャーノさんの柔軟性と現地適応能力に拠るところも
大きいな
0793人間七七四年2014/04/14(月) 15:17:12.10ID:FCpoj8/g
>>791
俺らの知ってるヒャッハー戦国時代と違うw
0794人間七七四年2014/04/14(月) 16:02:04.35ID:AUVkqdDj
ロスでは大地震の後に大規模な略奪や暴動が起きた。
日本では大地震の後に残ったコンビニに整然と並ぶ、長蛇の人の列が出来た。

世界から後者のニュースは「実に日本人らしい。」と驚嘆されたと言う。ヴァリさんが見てた昔の風景と被ると思う。逸話じゃなくコラムだろとか突っ込むのは無しでお願い。
0795人間七七四年2014/04/14(月) 16:10:43.21ID:DwRkVVM7
ザビエル、ヴァリニャーノ系の「日本人すげー」
フロイスとかの「日本人ひたすら野蛮」
宣教師の評価も両極端だわな。まぁどっちもある意味正解なんですけど
0796人間七七四年2014/04/14(月) 16:22:49.42ID:s7lc4QLE
一人の人間でも振れ幅は大きいし、
どの宣教師の記述も正しいんだろうと思うわ〜
0797人間七七四年2014/04/14(月) 16:35:50.80ID:AUVkqdDj
足利義輝の室町御所

「公方(足利義輝)様の御殿は深い堀に囲まれ、幅の広く造りのよい木橋が架かっていた。入口には伺候するために各地から集まって来た三四百人の貴人がいる様であった。
また御殿の外の広場には多数の馬や輿が停まっていた。」
「極めて清潔で親しみを覚え、快適であった。
窓の外には杉、松、小さなオレンジ(蜜柑)や我等の国では名も知らぬ種類のみずみずしく青々とした珍しい木々が植えられた庭があり、実に巧妙に培い、手入れされていて、あるものはベル(鐘)の形、またあるものは塔の形及び様々な形をしている」

ルイス・フロイス『日本史』

織田信長によって造り変えられ、二条城になる前の室町御所の風景。
諸大名の居城だけでなく、将軍様の所にも宣教師が上がり込んでいた記録。
0798人間七七四年2014/04/14(月) 16:48:18.52ID:AUVkqdDj
>>796
後世に日本を訪れたイザベラバードの『日本紀行』と『朝鮮紀行』の対比も面白い。(amazonレビューで比較も簡単)
明治時代の外国人の技師や外交官らも概ね「OrientalJapan」と日本には好意的。
0799人間七七四年2014/04/14(月) 18:51:24.04ID:9Ue2NRPg
>>797
0800人間七七四年2014/04/14(月) 22:01:44.46ID:QMKSShto
ある日、石谷土入(貞清)は太田某の家宅を訪ねた。亭主の太田は石谷老人が来訪したのを
とても喜び、饗応した後に長子を呼んで石谷に面会させた。

石谷は「御子息は何歳になられたのですか?」と尋ねた。太田は「十四歳です」と答えた。
これを聞いて石谷は「甲冑は用意させなさったのですか?」と言った。太田は答えて、
「まだ申し付けていません」と言った。

すると石谷は、「愚老がむかし島原一乱に出陣した時、ある陪臣が十三、四歳の倅を連れて
戦場を往来したのを見たことがあります。その様子は父子ともにひと器量ある者と見受けました。
武士たる者は子供だからといって、いつまでも家にばかり置いては大事の時の用に立ちません。
御子息にも早く甲冑をお与えなさい」と言った。

――『明良洪範』
0801人間七七四年2014/04/15(火) 01:26:17.71ID:T7Ga6LeL
さすがに島原の乱をむかしと記する逸話はスレ違いかと
0802人間七七四年2014/04/15(火) 03:59:04.76ID:mlx71Fzz
>>793
実は当時のヨーロッパとかも大概だった可能性が
0803人間七七四年2014/04/15(火) 04:22:30.62ID:j8mHKhqv
門徒は根切りぞ!言うてるのも三十年戦争とあんま変わらんか
0804人間七七四年2014/04/15(火) 07:08:04.62ID:edWx2nWi
>>801
島原の乱の話なんだからOKなんじゃね?
0805人間七七四年2014/04/15(火) 10:26:33.73ID:DvbKzqHI
島原の乱要素が島原の乱のときに13,4の子供が戦場にいたって話しかないからイマイチ
0806人間七七四年2014/04/15(火) 11:26:48.19ID:YDFul9VB
島原の乱参加者による島原の乱の回想だから十分範囲内
0807人間七七四年2014/04/15(火) 15:09:35.16ID:DZwI8D85
アルマダ海戦でも三浦さん登場すればスレ範囲内だから逸話あれば語っていいよ
0808人間七七四年2014/04/15(火) 18:32:02.26ID:Cp/2duMU
そりゃ本願寺はアルカイダみたいなもんですから
0809人間七七四年2014/04/16(水) 03:24:08.29ID:SduEKGxr
天下友達ごっこ出来るぜ
http://i.imgur.com/6Eq0TNs.jpg
0810人間七七四年2014/04/16(水) 11:41:37.35ID:ozyHX9E1
>>809
それな

未だに北条時頼坐像と上杉重房坐像の区別がつかないんだわ
0811人間七七四年2014/04/16(水) 11:54:33.57ID:SduEKGxr
>>810
ラスボスが頼朝って言ってるから頼朝でいいんだよ...

http://www.emuseum.jp/detail/100430/000/000?mode=detail&;d_lang=ja&s_lang=ja&class=3&title=&c_e=&region=&era=&century=&cptype=&owner=&pos=9&num=2
0812人間七七四年2014/04/16(水) 21:19:15.46ID:k6etqqGP
世の中に金銀の通貨が豊富に出回るようになったのは、ここ50年ほどのことである。

台徳院殿(徳川秀忠)の時代、作馬不閑が所持していた雲山という茶入れを、金森殿が
黄金百錠にて求めたことがあった。
台徳院殿はこれをお聞きになって、その資金を金森殿に与えると言われた。しかしその時には
手元に黄金は三十錠しかなく、七十錠が不足していたという。今の世とは甚だしく相違していたのである。

昔、南都東大寺の奉加に、源頼朝が五十両を寄進すると言われたが、その年に旱魃があって整えることが
出来なかった、という話が吾妻鑑に見える。

(老人雑話)

秀忠の時代くらいまで高額通過の流通は少なかったらしい。というお話。
0813人間七七四年2014/04/16(水) 23:33:09.62ID:M9yvMrSr
誤字多すぎだろ
0814人間七七四年2014/04/17(木) 23:32:35.18ID:+axgPh5A
太閤秀吉は曰く「人の交わりは長く交わるほど猶のこと言行を慎むことである。

初めの頃は誰もが慎むけれども、長くなれば自然と互いにわがままになるので
終いには不和になるものだ。また、自分が嫌いなことは人も嫌いであると思うことだ。

また、人の過失はよく分かるものだが、自分の過失はさっぱり分からないものである。
また、諌める者は気に入らず、へつらう者は気に入るものである。

家人を使う時に、このところを心得て使わなければ、家人は難儀に及ぶことがある。
たびたび難儀する時は、終いには背くものである」と言ったということだ。

――『明良洪範』
0815人間七七四年2014/04/17(木) 23:41:36.29ID:vdxSbYo1
ラスボス「オレって天才だから戦で負けた事一回も無いんだよね」
0816人間七七四年2014/04/18(金) 00:38:07.06ID:1Mpd6BDo
>>815
吉岡定勝「そうでしたっけ?」
上杉謙信「理屈こねて敵前逃亡したことはあるよね?」
0817人間七七四年2014/04/18(金) 01:37:01.58ID:sc68QPd1
>>813
ラスボスって敵にこそ恨まれても政治的な事情を抜きにすると結構慕われてる気がする
流石人垂らし
815
長久手でのことをお忘れか!?って家康が絡んでくる話だっけか
0818人間七七四年2014/04/18(金) 01:45:28.82ID:Hh03wPku
小牧長久手に関しては権現様の尻ぬぐい部隊が頑張って装飾したんですよ
0819人間七七四年2014/04/18(金) 02:06:49.64ID:a0Tfevhs
>>818
権現様「それも味噌だろ!いい加減にしろ!」
0820人間七七四年2014/04/18(金) 02:29:53.16ID:J2LXxusn
>>819
家康「その話は創作だってこの前わかっただろ!いい加減に(ry」
0821人間七七四年2014/04/18(金) 11:26:56.30ID:W/4P81WZ
太閤さまが名護屋へ御出陣なされたときの話。
九州の大名たちの奥方をお集めになりお遊びなされたことがある。
陽泰院さま(直茂公室)にも、是非お出でなされますように、とお招きがあった。
陽泰院さまは、太閤さまの侍女、幸蔵主を通してお断りになられ、
そのときは、幸蔵主の取りはからいでお出かけにならずにすんだのである。
しかし、
「鍋島家のみが勝手な振る舞いをしてよいという前例を作っては後々よくないでしょう。
一度はお目見えになられたほうがよろしいかと思います」
と言ってきたので、陽泰院さまは、前髪を角が立つように剃り落とし、
顔に醜く化粧をして、太閤さまにお目にかかられた。
それから後はお出かけにならなかったということだ 【葉隠】
0822人間七七四年2014/04/18(金) 23:58:01.49ID:uArMOhiu
若き日の謀神

毛利元就がまだ毛利本家を継ぐ以前、毛利幸松丸の後見人の一人として、未だ多治比殿と呼ばれて居た時のこと。
当時毛利幸松丸のもう一人の後見人として元就以上の影響力を毛利家中に誇ったのが石見の豪族にして、幸松丸の外祖父である
高橋久光であった。先年、嫡子元光を戦で失い齢60を迎えたとはいえ、大内・尼子の狭間で生き抜いてきた男の力は伊達ではない。
先の有田合戦で力を示したとはいえ、20代前半の元就の発言力は久光には到底及ばぬものであったそうだ。

だが、高橋久光は大永元年(1521年)備後の豪族三吉氏を撃つべく、兵を出したものの三吉傘下の加井妻城(青屋城)で青屋友梅に討たれ戦死してしまう。
(一説によれば久光の息子元光も先年、この加井妻城攻めで死んだと言う。)

(続く)
0823人間七七四年2014/04/19(土) 00:11:37.44ID:GxnFKYrg
高橋の援軍として参加していた元就は久光の死後、単独で弔い合戦を展開。
攻めるに難しと見た元就は加井妻城を3500の兵で包囲、兵糧攻めを開始する。

しかし城主青屋友梅も去るもので、水・食料が尽きるのを待つ元就方に対し、
見えるところで米を馬にかけ、遠目には水で馬の体を洗ったように見せかけ
寄せ手の戦意を下げようとした。それを見た元就方では撤退や作戦の変更を申し出る者も
多数いたが元就はそのまま兵糧攻めを継続する。
そして数日後、元就は配下の井上光親を軍使として城内に送るのであった。
0824人間七七四年2014/04/19(土) 00:32:50.00ID:GxnFKYrg
城主青屋友梅は使者として訪れた光親を大いにもてなし、その上自らの趣味は
馬であるから長戦の慰めに見せてさしあげようと、光親の前に数頭の馬を引き出し、盥に
なみなみと満たした本物の水で馬の体を洗い、更には雑兵が無数の米俵を運ぶ様子を見せ、
光親は自陣に戻るとその有りのままを元就に報告した。

光親から城内の様子を聞いた多くの将兵は、
「こりゃいけんわい、敵方には水も飯もまだようけ有るで・・・」
「城がこがなじゃったら勝たれんのじゃないか?」
と落胆したものの、元就だけは一人
「城内の水は尽きた、敵はまもなく降伏するゆえ今しばらく堪えてより一層包囲を固めよ。」
と、指示を出した。果たして一月もせぬ間に青屋友梅は降伏。元就の言うとおり城内の水と食料は
絶えていたと言う。これにより元就はより一層の名声を高め、目の上のたんこぶで有った、高橋一族の
毛利家への影響力とその勢力自体を削ぐ事に成功する。敵の窮状を見抜いた若き日の謀神の姿である。
0825人間七七四年2014/04/19(土) 02:08:14.62ID:0R6USUEj
常套手段とはいえ、米を水に見せかけて馬を洗ってごまかせるか
現代の学者で実際に検討した人はいるのだろうか
0826人間七七四年2014/04/19(土) 02:26:10.43ID:MNIlPhKx
>>825
山を分け入って木々の合間の遠くの方に湖が見えたと思った
…近付いたら山中に似合わず白い砂利がただただ敷き詰められた広大な駐車場だった事がある。

視力は当時2.0だったけど、先入観や常識に囚われると
意外な物に嚇かされる事はたまにあるよ。
0827人間七七四年2014/04/19(土) 17:53:22.77ID:4D7S36vy
ある時、古田重治は青木一重に向かって話かけた。

古田「(*゚Д゚*)キミ、越前の真柄を討ち取ったんだって?その時の話を聞かせてくれよ。どうやったんだい?」

青木「いや、真柄って人は凄く強い人でさ、本当なら僕が討ち取れるような相手じゃないんだけど・・・巡り合わせがよくてね。
真柄がケガして疲れ果ててるところに出くわしてさ、たまたま僕が行きがかり上討ち取ったってだけなんだよ。
だから話すことなんて無いんだよね。(´-ω-`;)ゞ」

飾らない青木の態度に、古田や聞いていた者は皆感じ入ったという。
0828人間七七四年2014/04/19(土) 17:57:39.03ID:pS4iibVJ
「いい話」を悪い話スレに投稿してしまったからって、投稿しなおさなくても
0829人間七七四年2014/04/19(土) 23:58:21.13ID:GxnFKYrg
毛利元就と琵琶法師その1 三つに折れた刀

陰徳太平記からなので、史実かどうかはおいて毛利元就とその間諜として用いられた者達について

北条早雲が座頭などの盲目の者達を自領から追放すると言う例を出し、退去する盲目の者達に自らの間諜を
紛れ込ませて各地へと散らしたのは戦国スレでも既出であるが毛利元就にも同様の話が有り、
元就は4人の琵琶法師を座頭衆という間諜として代わり代わり周辺に派遣し、各地の領主の人物やその地の
情報を得たり、時には偽情報を流させるなど(尼子国久の新宮党粛清にも一枚噛んだとも)したと言う。

その座頭衆の一人に勝一と言う名の琵琶法師が居た。勝一は琵琶の弾き語りや弁舌に優れるだけでなく、病で盲目になる前は
勉学に励んでおり博識でもあった。
ある日、元就は先祖伝来の刀が3つに割れると言う夢を見、それを不吉に思い勝一に相談した。
夢の内容を聞き、勝一はそれについてこう答えたと言う。

「殿が見た夢は吉兆にござります。何故なら3つの刀はпA変じて州、すなわちクニとなりまする。
 故にこれは殿が将来一つの国の主となられることを意味しておるのです。」

それを聞き、元就は安堵するとともに大いに喜んだと言う。
0830人間七七四年2014/04/20(日) 10:09:16.55ID:VScin6KQ
毛利元就と琵琶法師その2 元綱粛清と間諜勝一

元就の異母弟、相合四郎元綱。元就と共に有田中井手合戦で初陣し、元就に劣らぬ武勇を示し
「今義経」とも称えられた毛利一門の若き担い手である。母は違えど兄元就との仲も良く、頼もしい弟であった。
毛利幸松丸が早世し、元就が家臣団の後押しで毛利家の家督を継ぐまでは・・・。

元就の毛利相続に不満を募らせた元綱は数名の有力な家臣と結託し、尼子や石見の高橋家と結んで元就に対する謀反を企図しはじめる。
それを察した元就は琵琶法師・勝一を元綱の元に「話し相手」として送り出す。
話し上手・琵琶上手の勝一は盲目の為警戒されずに元綱の居館・船山城に出入りし、元綱の謀反の計画を探り元就に伝える
間諜としての役を果たすのであった。

元綱一派の決起が近づく中、元綱は決起前の夜宴で平家物語の弾き語りをするよう勝一に依頼する。
もちろん元綱は勝一に謀反も決起も明かしては居ないが、元綱一派の決起が近いのを察した勝一は
元就に通報。事ここに至っては弟を討つも止むなしと決意した元就は夜宴の最中の襲撃を企て、合図などを決め
勝一を再度船山城へ送り出す。

夜宴当日、元綱の居館船山城を志道広良率いる300の兵が急襲、勝一の弾き語りが佳境となった時を見計らい
兵が突入し、元綱はじめ30人ほどがその場で討ち取られ、勝一から元綱の同調人として名の挙がっていた
坂広秀や渡辺通らも討たれたと言う。
0831人間七七四年2014/04/20(日) 11:01:35.31ID:VScin6KQ
>>830続きと訂正
勝一から元綱の同調人として名の挙がっていた坂広秀や渡辺通らも後日討たれた。
元就は弟の死を悼むとともに、事件の背後に尼子経久の策謀が有った事を知り、尼子と決別することを決意。
以後、大内側に付くこととなるのであった。

毛利元就と琵琶法師3

元就が座頭衆と言う琵琶法師の間諜集団を組織していたのは先に上げたとおりだが、後年
陶晴賢が主君・大内義隆に謀反、殺害した後に毛利家と争うようになった頃、陶晴賢も一人の
琵琶法師を間諜として元就の元に送り込む。この琵琶法師は元就に気に入られ、様々な情報を
陶側に流したため、元就側の情報は陶に筒抜けとなってしまった。

しかし、周辺に間諜が入り込んだことに気づいた元就は先ごろ迎えたその琵琶法師が怪しいと気づき、
逆にその法師を利用して偽の情報を敵側に流すことにした。
先ず陶配下で堅城、岩国城城主の永来丹後守がこちらに内通した。
と、偽の情報をかの法師から陶晴賢に流したうえ、更に岩国へその物証となる偽の書状を送り、
それをあえて陶側に奪われるよう手配した。自らの間諜からの情報と元就の偽手紙に引っかかった
陶晴賢は激怒して名将としても知られる永来丹後守を殺害してしまった。

計画が成功した元就は更にその法師を自分の側近として、厳島合戦直前の軍議にも参加させた。
そこで元就は
(●▲●)「陶軍に厳島に渡られると困るわー、厳島に作った城はがいにこまい(大変小さい)し、制海権取られて海から攻撃されるし困るわー(チラッチラッ)」
(*^◯^*)(ほうほう、これは良い情報なんだ!)
(●▲●)「陸路で草津・廿日市に攻めてくるなら岩国の弘中隆包がうちに寝返るけん、助かるんじゃがのー(チラッチラッ)」
(*^◯^*)(!これは一大事なんだ、殿にお知らせせねば!)

全部嘘である。
(つづく)
0832人間七七四年2014/04/20(日) 11:29:22.72ID:VScin6KQ
(つづき)
数に劣る元就は、険しい山で形成された厳島に陶軍を誘い込み、数の優劣を無くした上で
敵の船を焼き、退路を断って決戦することを狙ったのであった。

法師(*^◯^*)からの情報を受け取った陶晴賢は直前にも、毛利家老・桂元澄から内応の手紙(これも嘘)を受け取っており、
厳島に渡ることを決め、弘治元年(1555年)10月2-3万の大軍で厳島へ渡海。なお、この時弘中隆包が厳島への渡海を反対したが、
法師(*^◯^*)からの偽情報の為、却下されたと言う。

戦の経緯は省くが結果はご存知のとおり陶軍総大将・陶晴賢討ち死に、弘中隆包親子も討ち死に、陶軍は約5000人の使者を出し、
毛利側大勝利に終わった。
さて、例の法師(*^◯^*)の顛末であるが・・・

(○▽○)「おどれのおかげでわしゃあ、長年の思いを遂げることが出来たわい。褒美に塩(死を)くれちゃるわ、ありがたく飲めや」
(*^◯^*)「えっ?ぇっ?」(ざばーん)
(*^◯^*)「くぁwせdrftgyべいすたんlp;」

開戦直前に元就に海に沈められたそうである。めでたしめでたし。
あれ、良い話・・・・?
0833人間七七四年2014/04/20(日) 22:22:10.28ID:Isu6luxe
おぼれる者は久しからず、晴(賢)の世も夢の如し
といったところだろうか…( ;∀;)イイハナシダナー
0834人間七七四年2014/04/20(日) 22:49:58.73ID:VScin6KQ
某完璧超人以前に西国無双と呼ばれた人だけど、ちょっと騙され過ぎじゃないですかねぇ、晴賢さん
0835人間七七四年2014/04/21(月) 00:01:21.95ID:urSpSXSo
純粋な武辺者なんでしょ
0836人間七七四年2014/04/21(月) 01:08:33.59ID:Gj8yUMWz
>>829
>3つの刀はg、変じて州
ここがイマイチしっくり来ないけど当時の初代だと似たような字になったのかな
0837人間七七四年2014/04/21(月) 13:00:08.75ID:UxXlvqCG
gは州の異体字として使われることがあったらしい
gと州でググったらいろいろ出てくる
0838人間七七四年2014/04/22(火) 01:14:47.62ID:IZdYzDZT
大坂の役の時、木村重成の兵士松浦弥右衛門と堀田図書勝嘉の従士浅部清兵衛は
共に敵を斬って首を得た。

豊臣秀頼の右筆である白井甚右衛門はその日、首帖(首帳)の役だった。
松浦は早く首を持って来て白井に一番と書かせた。ところが、白井は
「首一つ松浦弥右衛門」と書いて一番とは書かなかった。

松浦は怒ったが白井は聞き入れない。そこに今度は浅部が首を持って来た。
白井がこれを正したところ、浅部は松浦よりも先に首を取ったけれど、
その場所が遠かったので遅参したということがわかった。

その証拠は明らかだったので白井は浅部を一番と書いて松浦を二番と書き、
松浦に向かって「ニの首を待って一の首を記すことは首帖の故実です」と言った。

――『武将感状記』
0839人間七七四年2014/04/24(木) 19:06:42.28ID:4Mkt4lor
元和9年7月、大御所徳川秀忠公、将軍家光公の上洛があり、黒田長政・忠之親子は、
御先に上洛したいという旨を申し上げ、土井利勝を上使として、御暇を賜った。
黒田親子はすぐに御礼として江戸城に登城すると、親子ともども、御太刀を下された。
この時、木曽路を通って上洛したいということを、土井利勝を通じて言上したところ、
『心のままにせよ』と赦されたため、親子共に、東山道を上ることとなった。
またこの時、松浦肥前守久信もこれに同道した。

長政は、美濃国合渡川の傍で忠之、松浦久信を待ち受け、ここに暫く留まり、二人に、
先年の岐阜城攻めの折、大垣の城の敵方が後攻めをしようとして大勢が川向うに備えていたのを、
長政がここを渡り、合戦して追い崩し、勝利を得たこと。田中、藤堂など諸将が渡川した場所、
戦いの形勢など、たった今、目の当たりに見るように詳しく語った。
これには付き従った者達まで、志あるものは耳を傾けて聞いたそうである。

このあたりの領主であった竹中丹後守重門は、その子である権之佐を迎えとして合渡川まで参らせた。
その夜は竹中氏の居館のある岩出という場所に宿泊した。
ここでは竹中重門自身が接待をした。

翌日、岩手を出て関ヶ原に至った。ここでは、また先年、家康公の先手として陣し、西軍の大敵と
大いに戦い、天下泰平の礎を作り上げた場所であったので、「若年の人に教学の為に」と、
忠之にその時の戦の有り様、地形、方角を、指さしながら詳細に語り聞かせた。
これに、付き従う士卒たちも、ただただ心耳を澄ますばかりであった。

長政はここで時刻を過ごし、いにしえの戦場に感じ入り、昔を恋しく思って落涙された。
心ある人中には、これを見て共に涙を落とす者もあった。

後で思い返してみれば、この時黒田長政は既に年老いて、しかも病を患っていたので、
もう一度ここを通りたいと思い、今回は忠之を伴って、こうしてここを見せ、語り置かれたのであろう。

(黒田家譜)

黒田長政、息子に関ヶ原の古戦場にて自分の戦いを語り聞かせる、という逸話である。
0840人間七七四年2014/04/24(木) 20:34:53.12ID:ZKXY3hr0
熱く語る長政と興味無さそうに適当に相槌打つ忠之の姿が目に浮かぶようだ。
0841人間七七四年2014/04/24(木) 23:31:27.99ID:zogf4qTm
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5662.html
この話か
0842人間七七四年2014/04/25(金) 08:52:47.72ID:PicnZp9z
幼馴染との邂逅ってやつですかね〜
0843人間七七四年2014/04/25(金) 15:36:10.10ID:xNX1/ysK
構想10年、工期数ヶ月

慶長6(1601)年、最上義光が酒田攻めで庄内を上杉軍から奪還すると、北館利長には田河狩川城と3000石が与えられた。

しかし利長が新領に赴くと、目の前には痩せた土地と広大な葦の生い茂る原野しかなかった。

利長は土地の者に尋ねた。「近くに川もあれば人も居るのに、この荒れ様にはなにか理由があるのか?」
農民「水が足り無いのでござえます」
利長「川ならあちらに流れているではないか?」
農民「お侍さまちょっとええだか?一緒に川まで来てくんろ」

利長は農民らと川へと向かった

農民「見てわかんべ」
利長「…川が田畑より一・二間(数メートル)も低い処を流れているのか…」
農民「そんだけじゃなく、ここいらは台地(河岸段丘の上)だし、土もすぐに水を吸うてしまって水が全然足りんのでごぜえます」

利長は水をどうにか出来ないものかと
毎日毎日領地のあちこちを朝から晩まで歩き回った
道で見掛けた農民に「水は無いか?なにか良い知恵は無いか?」と聞き込む事から
領民らは「おい、また水馬鹿の殿さまが来たぞ」と陰口を叩いた
0844人間七七四年2014/04/25(金) 15:55:08.83ID:xNX1/ysK
利長「水は高い処から低きに流れる。狩川よりも高い処に豊富な川や水はないか…」

利長「お山(月山)なら雪溶け水や川はあるが、十里(数十キロメートル)以上離れておる…」

利長「途中には沢や丘陵もある…どうしたらいいんじゃ…」

利長は櫃に絵図を描いては閉まい、閉まいは出しては描き直し検討を繰り返した

同時期に山形から庄内までを手中に収めた義光は最上川の水運の向上を図るために川底の掘削や難所の整備を進めていた

利長「最上川治水工事の一環として、大殿(最上義光)のお力を借りられれば…」

慶長16(1611)年、北館利長は櫃に狩川の絵図と工事の見積書を詰め、義光に月山山麓から数十キロに渡る農業用水の潅漑工事計画を願い出た

最上義光「これだけの細かな資料を集め、さぞ大変であったろう」
利長「水さえあれば庄内は更に豊かになります。何卒工事の許可を頂けませんでしょうか?」
義光「みな(万石取りの最上重臣)を集めて議題とする。そち(利長)も席には参加せよ」
0845人間七七四年2014/04/25(金) 16:23:33.55ID:xNX1/ysK
義光「…という訳で、利長から治水と潅漑工事の計画が出されておる。みなはどう思う?遠慮はいらん。申してみよ」

志村光安「仮にやるとしても莫大な予算が必要となりますが、それに見合うだけの結果は出せるのでしょうか?」
下吉忠「最上川の整備ですら数年に渡る工事を継続中です。戦災で荒れた寺社の復興も残っておりますし、今やる必要があるのでしょうか?」
楯岡満茂「人手の確保も簡単ではありますまい」

難工事が予想されたため反対意見も多かったが、義光の側近の新関久正が利長の労苦を汲み反対派を説得し、翌慶長17(1612)年3月、月山立谷川治水工事の命令が発動。

工事監督に北館利長、相談役と奉行に志村光安と新関久正が付けられた。

沢には水路の部分だけ盛り土をした土橋が引かれ、丘陵は掘削されたりトンネルが設けられた

同年7月、4ヶ月の期間と10000人以上の人足を注ぎ込み、40キロにも渡る潅漑用水工事が完成。

「現場の河風は身に凍みるだろう」と義光から贈られた黄色い綿帽子をかぶり、杖をついて工事を指揮した北館利長の念願が叶い、狩川3000石は十年ほどで石高が30000石にも飛躍した

今でも綿帽子をかぶった北館の像が大堰と米処庄内を見守っている

※北「楯」の名字は酒井氏が庄内に移封してから後のもの
本来は北「館」が正しい
0846人間七七四年2014/04/25(金) 16:46:40.12ID:xNX1/ysK
最上義光が北館利長に「庄内末世の重宝を致し置き候」と治水工事を絶賛し、今後この疏水を利用して開拓される新田が何万石に達しようと、全て利長の知行として取らせるという証書を下した美談はそこそこ知られているものの、
工事の規模や詳細がほとんど知られていないのと、当初は最上家中では工事消極・反対派が多かったといった点では悪い話?
0847人間七七四年2014/04/25(金) 16:54:44.28ID:xNX1/ysK
まとめの最上義光と北楯大学利長「米どころ庄内ビギンズ」・いい話
最上義光、北楯大学と埋蔵金・いい話
義光67歳の手紙
と大分かぶってますた…少し潜ります…
0848人間七七四年2014/04/25(金) 20:26:11.04ID:KnPSQksW
> 付き従う士卒たちも、ただただ心耳を澄ますばかりであった。

もう当時を知らない若者ばかりになってたんだろうと思うと何とも寂しい話だ
0849人間七七四年2014/04/26(土) 00:29:15.06ID:sp3m1MgN
伊達政宗公がある時こう仰った

「男の生命は刀脇差なんだから、鞘は良い物にして束ねをつけて、刃が抜けないように
鞘止も良い物にすべきである。それでこそ主君の役にも立ち、自分の為にもなるのだ。

油断というのは勿体無い。緊急に手討などがあった時も、常に良い状態にして有れば、何の問題も無い
だろう?
しかしな、常に念を入れて良い状態にしておいたとしても、その時になるとここかしこに問題が
出てきてしまうものなんだ。勿論常々からそのようなたしなみが無い者は、いざという時
役に立てるわけがない。

それからな、これは若い者たちに心得ていて欲しいのだが、何時であっても、人を討つ時
一刀で納めようなんて思ってはならない。一刀討ちつけ斬れなかったら、叩き殺すのだ!
という覚悟を持たなければならないぞ。」

(政宗公御名語集)

伊達政宗の、刀についての心得である。
0850人間七七四年2014/04/26(土) 01:18:56.75ID:/NUGOV8U
手討ちは単なる刀の定期メンテナンス
0851人間七七四年2014/04/26(土) 10:00:27.35ID:AFZuOKes
越中守様も何か言いたそうにしています
0852人間七七四年2014/04/26(土) 14:38:03.58ID:+oJf3obP
悪久「手打ちを自分でするのは三流」
0853人間七七四年2014/04/26(土) 15:09:48.42ID:Ybu1meKV
名古屋山三郎「ですよねぇ」
0854人間七七四年2014/04/26(土) 16:30:44.68ID:gPH5kHCp
鮭様「バールのようなもののほうが使えないか」
0855人間七七四年2014/04/26(土) 18:22:01.99ID:iOXbuZnl
織田信長「茶坊主が隠れおったか…」
0856人間七七四年2014/04/26(土) 18:25:04.80ID:iOXbuZnl
東禅寺(弟)「斬れなかったら叩いておけば良かったのか」
0857人間七七四年2014/04/27(日) 16:59:36.60ID:2gYRKtfF
関ヶ原へ出陣の途中、徳川家康は清洲に泊まった。
その夜の夢で『是』という字を見た家康は、

この時、足利学校の三要閑室(第9世庠主)を御供に連れて
いたので、ただちに彼を呼び夢のことを尋ねた。これに三要は、

「『是』の字は『日の下の人』と書く字です。
つまり天下に一人ということであり、誠に目出度い御夢です」

と申し上げた。この三要は学才のみならず頓智の上手な人である。

三要は洛東一乗寺村の円覚寺(円光寺)の開基で、
寺領二百石を与えられた。

――『明良洪範』
0858人間七七四年2014/04/27(日) 18:25:18.57ID:2zh9jIa2
清康「わしもその夢見たけどあのザマだったぞ」
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