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戦国ちょっといい話39

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0001人間七七四年2013/12/28(土) 15:41:31.69ID:m9sYieeK
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1377700193/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386399929/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
07317302014/04/10(木) 03:47:38.97ID:hmeg8M3b
>>730
ああやってしまった。3行目、×対抗→◯太閤です。すいません
0732人間七七四年2014/04/10(木) 10:32:48.95ID:i5X0zE6N
白川堰

今は鳥居忠政の改修以来大きく川筋の流れが変えられたが、最上義光の時代には白川(現・馬見ヶ崎川)は盃山から山形北高の南側交番付近を経由し、遊学館南、旧県庁(文翔館)の辺りを流れていた

山形城下を流れるという事で「城の川→城川」とも、砂金を含んだ土砂が蔵王から流れてくる事に因んで「白い川→白川」とも呼ばれていたとも伝わる

川道から城や市街に掛けてはいくつかの堰(用水の一種)が設けられ
市井の民らが野菜を洗ったり、水を庭口に引いて魚を飼ったりしていた

平成になってから七日町に「御殿堰」が復元されたが
山形市民の方々は
最上由緒の堰の形跡を他にも見てはいないだろうか?

整備され様相は変わってしまったが山形大学脇の小川
(白川から水を引いた小さな白川で「小白川」の由来)

専称寺の清流など

他にも道路脇やブロックの下に結構隠れてはしまったが

最上、そして鳥居時代に作られた生活用水は
夏の暑い山形の冷を招くのに
現代でも一役を買っている

※現・馬見ヶ崎川の名称には複数の説があり

源義家が羽州に来た際に夢の中に馬が出た事に因む

源義経が(同上)

最上義光が氾濫した川道工事を馬上から見たから

鳥居忠政が川道を変える工事を(義光に同じ)

などの説があるため
古い時代の馬見ヶ崎川の別名の「白川」の方を使わせて頂きました
0733人間七七四年2014/04/10(木) 10:42:35.41ID:i5X0zE6N
※現・光禅寺(最上義光公墓所)を流れる小堰は
最上〜鳥居時代頃の物と考えられます

※明治から昭和に掛けて作られた双月、印役や山家の用水が
イメージとしては当時のものの姿に近いかと思われます
0734人間七七四年2014/04/10(木) 11:25:41.37ID:i5X0zE6N
武略で候

草苅備前は最上義光の腹心であったが、兼山の鮭延秀綱を攻める戦いで甥の武田兵庫が討ち死にしてから山形城への出仕が傍目には滞りがちとなっていた

義光は「心中察する。喪が明け落ち着いてからで良いから出仕をせよ」と備前に心ばかりの品を送った

しばらくして備前は山形城に登城し、義光に贈物の礼を言い、書院奥の一室でなにやら二人で話をした



屋敷に戻った備前の出仕は喪の際にも増して滞りがちになった

家族の者が登城をする様言葉を掛けても
「あ〜、俺に構うな、ほっとけほっとけ」と狩りや川干しへと遊び歩いた

城から出仕を呼び掛ける使いが来ても
仮病や居留守を使い会おうとはしなかった

そんなある日事件が起きる

生殺与奪禁止の最上義守の寺領で草苅備前が狩りを行った事が最上義光の耳に入った

義光はかんかんに怒った様に見え
小姓らが「草苅さまは何か誤ったのでございましょう、まずは理由を確認くださいませ」と宥めるのも振りほどき
自ら馬を駆り草苅備前の屋敷に乗り込む素振りを見せたが
「備前め許さん!今すぐ奴を呼べ!訳の如何によっては叩き斬ってくれるわ!」
と番の者を備前の下へと送ったが、備前は既に単身最上の敵である武藤(大宝寺)氏の所領である庄内へ向けて逐電した後であった

(つづく)
0735人間七七四年2014/04/10(木) 11:38:47.30ID:i5X0zE6N
(つづき)

武藤光安(※大宝寺義氏の一族で剛の者とされる)「…それで最上義光の下にはいられなくなったから、この庄内で働きたいと?」
草苅備前「もうあんな奴(義光)の下に仕えるのは御免です!それに私は山形の事に詳しいのでなにかとお役に立てると思います」

光安は草苅備前の身の上を家来の者に確かめさせたが
備前の言う通り山形では義光が怒り狂い、備前の行方を探しており「この手でをなんとしても備前をぶちのめす!奴を殺さず生かして連れて来い!」との命令をあちこちに発っしている事がわかった

草苅備前は武藤光安の近臣として取り立てられ
光安は備前から義光が近く庄内攻めを企んでいる事を聞くと軍備を備え、先を取ろうと諸兵に参陣を求めた

(つづく)
0736人間七七四年2014/04/10(木) 11:52:03.45ID:i5X0zE6N
(つづき)

庄内に来た草苅備前は武藤光安の重臣で高坂館主の川越中務といった老将の屋敷に人目を憚り出入りをしていた

中務の一人息子は武藤光安の小姓を勤めていたが、つまらない失敗を咎められ、武藤光安によって手討ちにされていた

他の武藤の家臣は中務を気の毒に思うも、光安の癇気を恐れ、中務は武藤家中でもほぼ孤立した状態であった

備前は気弱になっていた中務を見舞い
ある日機を見て打ち明けた

草苅備前「…中務殿、武藤の殿様は短気にわがままで自分勝手。中務殿は本当に気の毒じゃ」
川越中務「…老い先短いこの身、ほんまに口惜しいて口惜しいて」
備前「…武藤の殿を怨んでおいでと?」
中務「恨まずにいられるか!息子はもう戻ってこんのじゃ…」

備前「…」

備前「…中務殿、それなら山形の殿様に仕えぬか?」
中務「! はぇ!?」

(つづく)
0737人間七七四年2014/04/10(木) 12:09:24.99ID:i5X0zE6N
(つづき)

武藤光安の下に山形の最上義光が兵を上げ、庄内へと向かっているとの報が入った

武藤光安「草苅備前からの情報で用意は万端じゃ。この地を義光の死に場所にしてやろうぞ」

大川を挟み武藤軍と最上軍が対峙した

最上方の先鋒は白地に「の丸」の旗の楯岡満茂

いくさは武藤軍有利かと思えたが、武藤軍の後方の味方から叫び声が上がった

「後陣の川越中務、裏切りでございます!」

前に最上軍
後ろに中務の兵

武藤軍は蜘蛛の子を散らすかの様に打ち破られ
逃れられぬと悟った武藤光安は馬上で喉を掻き斬りあえない最期を遂げた



最上義光「備前、ご苦労。面倒を掛けたな」
草苅備前「いえいえ、お気になさらずに」

義光は川越中務に武藤光安の旧領を与えようとしたが
中務は武藤光安の菩提を弔うために仏門に入る事をお許しくださいと断り
義光は武藤光安と中務のためにその地に寺を建立した

『最上記』

鮭様の謀将を匂わす一面の記録

※武藤光安は実在が不確かとされています

※「悪屋形光安」と書かれる事から
武藤光安は大宝寺(武藤)義氏との同一人物説や混同の可能性もありますが
義氏は山形に身柄を移され
殺害されたといった話もあります
0738人間七七四年2014/04/10(木) 19:34:00.70ID:JDN5WJMR
輝元の苦悩

関ヶ原後、八カ国に膨らんだ家臣団を防長二カ国で賄わなければならず、
もういっそ二カ国も返上して浪人になるしかない・・・と考えたのは有名ですが
実際にその決意を幕府に取り次ぐように黒田如水に依頼したとか・・・

さすがの如水さんも
「防長を返上しても借金は返さなければなりません 
輝元公が浪人になっても借金は身の上にかかったことなので唐・天竺まで逃げてもどこまでも追いかけてきます
私にも名案があるわけではありませんが・・・」と輝元さんのことを心配しつつ浪人なることを思いとどまらせました


如水さんのいい話になるのかな〜
TERUさんがどーにでもなれ〜!してたら幕閣が随分早くから浪人問題に頭を悩してたんですかね〜
0739人間七七四年2014/04/10(木) 21:29:49.12ID:hW/qo2HE
まとめブログのコメント欄で権現様が泣いていたので、悪い話スレ>>921の後の話を。


家康公は忠佐が騒ぐのをお聞きになったが、何も仰らずに城内に入った。

その夜、大勢の家臣たちが家康公の御前に参り、今日の一言坂の合戦の話を申し上げていたが、
家康公が仰るには、

「今日、大久保、内藤、本多等がこの上なく苦戦していたため、儂は武田軍と戦わずに軍を引いた。
忠佐は、儂が合戦をせずに引き上げたことを情けなく思って悪口を言っていたな。

しかし、忠佐の申し分には一応は理があるように思えるが、大将の志には背いている。
大将たる者は死生をよく知り、戦うときは戦い、退くときは退くもので、これを良将というのだ。

士卒が戦場に残って主君の危機を救い、その場から落ちのびさせる事は古今珍しくない。
頼朝公が石橋山の合戦に負けた時、佐々木兄弟の4人が留まって敵を防ぎ、頼朝公を逃がした。
また、義経公が吉野山にて大勢の敵に追われた時、佐藤忠信がただ一人留まって敵を防ぎ、
義経公の命を救った。これらは全て、戦ってはいけない時を知り、
逃げて最後には勝利しようと思うがためなのだ。

もし忠佐がこのような類の話をも臆して逃げたというのなら、それは忠佐が自分の勇を誇って、
生地死地もわからずに儂を誹る匹夫の勇を持ち、将の志を察せられないためなのだ。

本多忠勝は、一言坂が戦うのに不利な地形であるのを察して、儂を諌めて引き返させた。
これはよく死生の地をわきまえている。つまり、儂は忠勝の武勇を賞したのではない。
奴が将の志を持っていると感じたために、我が家の良将であると賞したのだ。
敵を多く討って名を高めるのを良将というならば、渡辺半蔵や渥美源吾郎等は全員良将と呼ぶべきだな。」

御前の家臣たちは家康公の言葉に承伏した。
大久保忠佐は後でこの話を聞いて、本当に儂は大きな間違いをしてしまった、と後悔していたと聞く。



というわけで悪い話スレ>>921の後半と合わせて、「家康脱糞騒ぎ」の元の形となります。
要はこれは、一言坂が自軍に不利な地形であると判断したためにすぐに退却してきた家康と、
それを、武田軍が怖いから戦わずに逃げてきたと思った忠佐の話だったんでしょうね。
0740人間七七四年2014/04/10(木) 21:39:55.76ID:hW/qo2HE
つまり、わかりやすくまとめると、

忠佐「なんで殿は武田と戦わずに帰って来たんだよ情けない!しかも撤退を進言した忠勝が『我が家の良将』だと!?
    ははーん、きっと殿は武田が怖くて仕方ないから戦わずに逃げ帰って来たんだな!?このうんこたれ!」

家康「忠佐はああ言っていたが、そもそも引き際を心得るのが大将というものでな(省略」

忠佐「ごめんなさい殿……儂が間違っていました」
0741人間七七四年2014/04/10(木) 21:41:48.34ID:1uYCKLZW
つまり家康によれば、忠信=士卒レベル、忠勝=将レベル
忠勝が佐藤忠信の兜を秀吉からもらった時に
「義経の家来の兜などいらん」と言ったのはこの家康の言葉を尊重したためだったり
0742人間七七四年2014/04/10(木) 21:49:12.64ID:hW/qo2HE
>>741
いや、多分それは違う
原文ではこの話の直前が有名な忠勝の一言坂殿軍の話だから、
むしろ家康を逃がそうとする忠勝を佐々木兄弟や忠信と重ね合わせて論じているんだと思う
0743人間七七四年2014/04/10(木) 23:17:44.24ID:REjmcdSE
権現さまと三河武士団は組織バランスが絶妙だな
大原雪斎から古今の兵法、学問を教わった権現さまと、三河の田舎武士たちの気質がうまく融合してる
0744人間七七四年2014/04/10(木) 23:46:07.39ID:28AKjSb5
>>737
鮭様らしいこともしてんだな。
07457392014/04/11(金) 15:36:18.34ID:Gnyuzyvu
>>739をちょっと訂正

原文では「本多忠勝は戦ふに利あるまじき地形を察して」となっているところを
分かりやすくなるだろうと思って「一言坂が」と付け加えましたが、三河後風土記をちゃんと読んでみると
文中でいう「利あるまじき地形」は一言坂の事ではなくその前に家康が布陣した三加野という場所の事でした。
申し訳ありません。

三加野から浜松に引き上げる途中にあったのが一言坂で、ここが徳川軍に有利な地形であったため、
大久保、内藤、本多隊は奮戦し敵をよく防いだ、というのが三河後風土記における一言坂の戦いの様です。
0746人間七七四年2014/04/12(土) 00:00:18.39ID:z+vqym4m
一言坂は忠勝が単騎で武田軍に突っ込んだけど、
小杉左近に死兵に手出し無用とスルーされた戦いの場所だな
0747人間七七四年2014/04/12(土) 01:07:16.24ID:yawQd5P5
明智光秀は初め、細川幽斎の家臣であった。しかし幽斎の家老である米田助左衛門などが光秀に
辛く当たり、それに耐え切れずに信長に仕え、終には丹波一国(およそ50万石)と近江にて10万石を所領するまでになった。

明智光秀は常にこう言った、「私が今に至ったのは、全く米田のお陰だ。」
これ故に、光秀は幽斎の息子である忠興を婿としたのである。

(老人雑話)
0748人間七七四年2014/04/12(土) 01:08:48.06ID:3JXAJmVk
イイハナシダナー
0749人間七七四年2014/04/12(土) 02:35:51.67ID:cbW4eT2l
>丹波一国(およそ50万石)

盛り過ぎwwwwwwwwww
0750人間七七四年2014/04/12(土) 07:11:11.29ID:grim2RRR
坂本10万石も多くないか?w
0751人間七七四年2014/04/12(土) 07:32:15.74ID:nxOJYaOk
実際丹波一国で20万石くらいか?坂本が5万石くらい?だけど25万石でも織田家外様と考えると相当すごいね。
0752人間七七四年2014/04/12(土) 09:34:05.30ID:+r3aujj2
指揮権及ぶ範囲の石高だと240万石超になるとか
0753人間七七四年2014/04/12(土) 10:42:55.07ID:WgiqqBYR
最上義光が寒河江方面を攻めたあとのことである。

義光は寒河江を攻略すると、領内の地下人を召し出してこう述べた。
「近年の戦いで疲弊していることだろう。これからは民百姓、
安堵して妻子を養うがよい」
義光は民に扶持米を配り、所持仕置きをしてから谷地に入った。

さらに義光は領内を視察し、老人や歩くことができない者にも「非人米」
と称する配給を行ったので、まことにありがたいことであった。

義光公は誠に民の父母、手足を泰山の安きに置くようだと、
(=これからは生活が安定する)
喜ばない領民はいなかった、という。
0754人間七七四年2014/04/12(土) 22:28:24.35ID:yawQd5P5
朝鮮の役の時、既にその都を攻め落としたあと、加藤清正はそのまま進んで30里ばかりも
先に進出した。この間、諸軍は都にあってそこを守っていたが、兵糧が尽き、諸軍はこれに
耐えきれなくなった。

そこで諸将は皆このように言った。「この都を放棄し後方に下がって兵糧を得よう。」

ここで、独り加藤遠江守(光泰)だけが異を唱えた
「清正は既に30里も先に進んでいる!であるのに、彼を見捨てて都を守らずに去るような者は
男ではない!」

しかし皆は言った
「食がないのだ!仕方ないではないか!」

加藤光泰は答えた
「砂を食え!」

「砂なんか食えるか!!」
これには皆も総ツッコミである。しかし光泰は平然と
「砂には食い方というものがあるのだ。若い奴らはそれを知らんのだ!」

また福島正則に向かって
「おい市松、いつの間にそんなに大きくなったのだ?」と言い、
また備前中納言(宇喜多秀家)に対しては
「今まではお前のことを中納言様と呼んでいた。だが今後は、この中納言めと呼んでやる!」
と言った。

そしてその日の晩、加藤清正は帰ってきた。都から3里ばかりの場所に陣を張り、使いを光泰に立てて
このように伝えた

『私が今からここを守り、敵を寄せ付けないようにします。ですので安心して兵糧を取り寄せて下さい。』

これこそ誠に天命というものであろう。

(老人雑話)
0755人間七七四年2014/04/12(土) 22:36:15.75ID:u7/VKJ76
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5730.html
既出、かと思ったら出典が違った砂加藤
0756人間七七四年2014/04/13(日) 07:15:04.29ID:8555LqJW
ある日、最上義守の夢枕に立派な姿をした武将があらわれ、こう告げた。
「義守よ。立派な跡継ぎが欲しいと願っているようだな。おまえの願いをかなえてやろう。
これからも祖先や神仏を敬い、正しい行いをするように」
武将は最上一族の祖である斯波兼頼であった。

やがて義守も正室が懐妊し、天文十五年(1546)正月元日に、待望の男児が生まれた。
すると山形城門にまつられていた山王権現(現日枝神社)上空に白い旗に見える雲がたなびき、
男児の誕生を祝うようであったという。

男児は「白寿丸」と名付けられ、また源五郎とも称された。のちの義光である。
0757人間七七四年2014/04/13(日) 08:17:58.71ID:M0dTiUe0
空気加藤が、じゃりじゃり砂を食べるのを想像したら、なんか妖怪っぽいなと思った。
0758人間七七四年2014/04/13(日) 08:53:08.41ID:Jd7voNHh
まとめにこの話自体は見当たらなかったのでTERUが晩年に息子秀就に送った訓戒状の件。
豊臣氏が滅亡した後、徳川政権による支配体制が確立され、諸大名に対する幕府の監視の目が強まって改易も多々行われる中、TERUは悩んでいた。

(●▲●)こんな時代だからこそ一門の結束を強め、派手なことはせずに家の存続を考えねばならないのにうちの秀就と来たら・・・
(*^◯^*)駿府で大御所様の見舞いが終わったら猿楽見るんだ!江戸に帰ったら踊るんだ!酒飲むんだ!政治なんて知らないんだ!

(●▲●)・・・・・だめだこの馬鹿息子

そして、1621年に輝元は秀就に21か条の訓戒を送るのであった。

(●▲●)<老臣や奉行の意見を聞け、側近は才能を見て選びなさい、直ぐにはぶてる(拗ねる)な、遊びは控えろ、後他の大名との付き合い方は(以下略)
(●▲●)<家康の見舞いの後に猿楽など見とるから形見分けもらってねーのお前だけじゃろが、秀忠にワシに養生せよと言われた?お前の行状が改まるのが一番の養生にして親孝行じゃ、この馬鹿たれが。

と言った感じでTERUは細々と21か条の訓戒を秀就に送っている。
そして、秀就もそれについて一つ一つ了承した旨の書状を父に返している。
家の存続に心を砕き、家族に宛て長い訓戒を送るその様子は祖父元就の晩年を見ているようでもある。
この様子をかつての後見人である小早川隆景が見たら、彼は一体何を思ったであろうか?
0759人間七七四年2014/04/13(日) 08:53:46.38ID:62jbK+RU
加藤四天王
地味加藤、砂加藤、飛び加藤、清正加藤
0760人間七七四年2014/04/13(日) 09:04:43.33ID:9ph50VZh
フォーエバーコミュニケーション加藤
0761人間七七四年2014/04/13(日) 09:24:43.12ID:ZF6hgZ9O
なんで毛利家の人間は若いころダメさ加減と、年取ってからのギャップが激しいんだろ。
隆景さんでさえ、若いころの逸話見るとただのワガママ小僧だったりするし。
0762人間七七四年2014/04/13(日) 10:48:07.45ID:CvmebuPg
>>761
弘元「そんなことは」
興元「無いと」
隆元「思うよ」
0763人間七七四年2014/04/13(日) 11:33:14.45ID:8555LqJW
近年金沢市の研究家により、「最上駿河守辞世并詠哥」という五言絶句と和歌の掲載された文書が紹介された。
最上駿河守とは義光の子・家親をさすが、「六十余霜」とあることから、
義光の辞世である可能性が指摘されている。

一生居敬全
今日命帰天
六十余霜事
対花拍手眠

一生居するに 敬を全うし
今日 命天に帰す
六十余霜の事
花に対ひ手を拍ちて眠らん

私は一生敬を全うしてきた
わが命今日、天に帰る。
六十年あまりの年月はただ茫々。
咲く花に手を打ち、眠るとしよう。



有といひ 無しと教へて
久堅の 月白妙の
雪清きかな

有るといい無しとも言う、有無は心がけ次第だ。
空に高く月は白く、真白い雪は清らかだ。


和歌は義光の幼名(白寿)、諱(光=明るい、白い)、戒名(光禅寺殿玉山道白大居士)、
そしてこれが辞世だとすればここにも「白」が入っているのはなかなか興味深いと思う。
0764人間七七四年2014/04/13(日) 13:04:06.63ID:i9s/0g9s
最上ファンは相変わらず逸話じゃないコラムというか
ブログでやったほうがいい内容だな
0765人間七七四年2014/04/13(日) 13:15:37.31ID:5PtRY13x
砂加藤って朝鮮で吐血して死んでたよね...
0766人間七七四年2014/04/13(日) 13:28:27.06ID:0LlpbSRu
地獄から元春さんとか呼んできたほうがいいんじゃないか?
0767人間七七四年2014/04/13(日) 15:16:03.50ID:8555LqJW
>>764
辞世の句は扱っていけないというルールがあったなら失礼しました。
そうでないなら他の武将の詩歌などを扱った時もあなたはそういうことを言ってたんですか?
0768人間七七四年2014/04/13(日) 15:18:47.85ID:vTng5FF6
また鮭ヲタが発狂した
0769人間七七四年2014/04/13(日) 15:24:19.17ID:bPX53VYD
さわんなっての。NG入れとけ
0770人間七七四年2014/04/13(日) 15:37:15.45ID:0LlpbSRu
NGMSさん!お呼びです!
0771人間七七四年2014/04/13(日) 15:38:14.47ID:fJQvg67N
(´・ω・`)をNGに入れて対処、と思ったけどこの分じゃ鮭様、義光まで入れなきゃダメか
義光以外がメインの逸話まで見過ごしてしまいそうだ
0772人間七七四年2014/04/13(日) 15:38:54.40ID:i9s/0g9s
>>767
四六時中張り付いてるわけじゃないから他の例なんていちいち覚えてないが
過去に詩歌ネタがあったとしても、そういうこと気にならないような書き方してたかもな
0773人間七七四年2014/04/13(日) 16:14:04.79ID:2STj8sxT
>>771
その顔なんか違うな
NGされてないw
0774人間七七四年2014/04/13(日) 17:18:23.17ID:mvADEk6I
>>767
別に「ちょっといい話」じゃないから最上スレにでも書き込めばいい話
0775人間七七四年2014/04/13(日) 17:44:10.24ID:ZF21Gc/4
ひとつの家の逸話が連チャンすると目立つからそこらへんの気遣いが肝要かと。
いらぬ気遣いなんだけど、人が集まるとそういう事もある
0776人間七七四年2014/04/13(日) 18:00:03.17ID:R/VeEKGy
自己顕示欲を満たしたいのじゃなければ、最上スレがあるならそっちでやるのがいいと思うの・・・
本質を理解する能力とまとめる能力がないバカが会話調で話を進めるって内の指導教官が怒ってたな〜
0777人間七七四年2014/04/13(日) 21:23:50.69ID:f4KrSdC9
しょーもない言い争い自体がスレ違いだろ。余所でやれ
0778人間七七四年2014/04/13(日) 21:27:13.20ID:qtBEvqwL
武藤光安とかの話を書いてた者ですが>>763の方とは別人ですよ

行間や忍法帖で長い文章が利用できないので(つづく)とか使ってますが
同一人物視された方がかわいそうに
0779人間七七四年2014/04/13(日) 21:32:38.56ID:qtBEvqwL
>>763
最上駿河は家親以外に最上義智も使用
ただ、豊臣政権下の義光の伏見屋敷が地図等に「最上駿河」と表記される事もあるので、原典の由来がわからないと義光ではなく義智の可能性も出て来るとか?
(義智も享年は60過ぎ)
0780人間七七四年2014/04/13(日) 21:37:07.93ID:R/VeEKGy
そして、自己顕示欲もかなり強いと・・・
0781人間七七四年2014/04/13(日) 22:00:22.30ID:TZKu9ZS2
自分もここに逸話を投下してるけど
原典を素直に現代語訳するだけが一番無難かな。
妙な台詞を入れると創作小説になるし
自分の意見を押し出すと考察コラムになる。
「逸話」から離れないようにするのが肝要。
0782人間七七四年2014/04/13(日) 22:07:03.46ID:qtBEvqwL
>R/VeEKGy
文句書く前に手本ともなる逸話のサンプルでも投下なされては?

これ以上引きずる様ならあなたは単なる荒らしだわ
0783人間七七四年2014/04/13(日) 22:24:18.49ID:R/VeEKGy
昨日、いい話と悪い話にしたんで残念ながら弾はないんだ〜
0784人間七七四年2014/04/13(日) 22:27:31.37ID:R/VeEKGy
評判は良くないかもしれんし、手本になるかは知らないが、
とちあえずイチャモンは付けられなかった
0785人間七七四年2014/04/13(日) 22:33:30.23ID:R/VeEKGy
カキコする度に色々言われてるのに、直そうとしないのはなぜなの?
まぁ、オレが荒らしたといのは認めるが
0786人間七七四年2014/04/13(日) 22:35:57.64ID:Vu89JmMm
荒らしたのを認めるならその辺にしとけ、な
0787人間七七四年2014/04/14(月) 00:12:50.36ID:G0qkMeLP
荒らしに理性的に話しかけるのは無駄なんじゃなかろうか
0788人間七七四年2014/04/14(月) 03:09:14.30ID:DwRkVVM7
最上の人は読まなくても分かる特徴のある文体だから見かけたら速攻NG入れとけ
文句言うやつは荒らしのスタンスだから、何言っても絶対に改めようとしない。
荒れるだけ無駄。かまう奴も荒らし
NG入れとけ
0789人間七七四年2014/04/14(月) 06:39:11.29ID:g2KWYUFx
それでは全部NGになるんでは?
0790人間七七四年2014/04/14(月) 12:26:46.07ID:AUVkqdDj
連投最上どころか>>784も自己顕示欲の固まりか。クレクレでスマソ。誰かこの悪い流れをぶった切れるような話ない?
0791人間七七四年2014/04/14(月) 12:41:13.78ID:AUVkqdDj
みんなの気分転換になれば

宣教師の見た日本

「人々はいずれも色白く、極めて礼儀正しい。一般庶民や労働者でも社会では驚嘆すべき礼節をもって上品に育てられ、あたかも宮廷の使用人のように見受けられる。
東洋の他の諸民族のみならず、われらヨーロッパ人よりも優れている。国民は有能で、秀でた理解力を有し、子供達は我等の学問や規律をよく学び取り、ヨーロッパの子供より容易にかつ短期間に我等の言葉の読み書きを覚える。
また下層の人々の間にも我等ヨーロッパ人の間に見受けられる粗暴や無能力ということがなく、一般にみな優れた理解力を有し、上品で、仕事に熟練している。

彼らは感情の慎みが深く、胸中に抱く感情を外に出したりはしない。」

ヴァリニャーノ『日本諸事要録』

美しかった昔の日本人の記録。
0792人間七七四年2014/04/14(月) 14:29:40.19ID:0M2f/20D
ヴァリニャーノさんが日本に非常に馴染むことができ、
日本人もヴァリニャーノさんにかなり好意的だったのは
ヴァリニャーノさんの柔軟性と現地適応能力に拠るところも
大きいな
0793人間七七四年2014/04/14(月) 15:17:12.10ID:FCpoj8/g
>>791
俺らの知ってるヒャッハー戦国時代と違うw
0794人間七七四年2014/04/14(月) 16:02:04.35ID:AUVkqdDj
ロスでは大地震の後に大規模な略奪や暴動が起きた。
日本では大地震の後に残ったコンビニに整然と並ぶ、長蛇の人の列が出来た。

世界から後者のニュースは「実に日本人らしい。」と驚嘆されたと言う。ヴァリさんが見てた昔の風景と被ると思う。逸話じゃなくコラムだろとか突っ込むのは無しでお願い。
0795人間七七四年2014/04/14(月) 16:10:43.21ID:DwRkVVM7
ザビエル、ヴァリニャーノ系の「日本人すげー」
フロイスとかの「日本人ひたすら野蛮」
宣教師の評価も両極端だわな。まぁどっちもある意味正解なんですけど
0796人間七七四年2014/04/14(月) 16:22:49.42ID:s7lc4QLE
一人の人間でも振れ幅は大きいし、
どの宣教師の記述も正しいんだろうと思うわ〜
0797人間七七四年2014/04/14(月) 16:35:50.80ID:AUVkqdDj
足利義輝の室町御所

「公方(足利義輝)様の御殿は深い堀に囲まれ、幅の広く造りのよい木橋が架かっていた。入口には伺候するために各地から集まって来た三四百人の貴人がいる様であった。
また御殿の外の広場には多数の馬や輿が停まっていた。」
「極めて清潔で親しみを覚え、快適であった。
窓の外には杉、松、小さなオレンジ(蜜柑)や我等の国では名も知らぬ種類のみずみずしく青々とした珍しい木々が植えられた庭があり、実に巧妙に培い、手入れされていて、あるものはベル(鐘)の形、またあるものは塔の形及び様々な形をしている」

ルイス・フロイス『日本史』

織田信長によって造り変えられ、二条城になる前の室町御所の風景。
諸大名の居城だけでなく、将軍様の所にも宣教師が上がり込んでいた記録。
0798人間七七四年2014/04/14(月) 16:48:18.52ID:AUVkqdDj
>>796
後世に日本を訪れたイザベラバードの『日本紀行』と『朝鮮紀行』の対比も面白い。(amazonレビューで比較も簡単)
明治時代の外国人の技師や外交官らも概ね「OrientalJapan」と日本には好意的。
0799人間七七四年2014/04/14(月) 18:51:24.04ID:9Ue2NRPg
>>797
0800人間七七四年2014/04/14(月) 22:01:44.46ID:QMKSShto
ある日、石谷土入(貞清)は太田某の家宅を訪ねた。亭主の太田は石谷老人が来訪したのを
とても喜び、饗応した後に長子を呼んで石谷に面会させた。

石谷は「御子息は何歳になられたのですか?」と尋ねた。太田は「十四歳です」と答えた。
これを聞いて石谷は「甲冑は用意させなさったのですか?」と言った。太田は答えて、
「まだ申し付けていません」と言った。

すると石谷は、「愚老がむかし島原一乱に出陣した時、ある陪臣が十三、四歳の倅を連れて
戦場を往来したのを見たことがあります。その様子は父子ともにひと器量ある者と見受けました。
武士たる者は子供だからといって、いつまでも家にばかり置いては大事の時の用に立ちません。
御子息にも早く甲冑をお与えなさい」と言った。

――『明良洪範』
0801人間七七四年2014/04/15(火) 01:26:17.71ID:T7Ga6LeL
さすがに島原の乱をむかしと記する逸話はスレ違いかと
0802人間七七四年2014/04/15(火) 03:59:04.76ID:mlx71Fzz
>>793
実は当時のヨーロッパとかも大概だった可能性が
0803人間七七四年2014/04/15(火) 04:22:30.62ID:j8mHKhqv
門徒は根切りぞ!言うてるのも三十年戦争とあんま変わらんか
0804人間七七四年2014/04/15(火) 07:08:04.62ID:edWx2nWi
>>801
島原の乱の話なんだからOKなんじゃね?
0805人間七七四年2014/04/15(火) 10:26:33.73ID:DvbKzqHI
島原の乱要素が島原の乱のときに13,4の子供が戦場にいたって話しかないからイマイチ
0806人間七七四年2014/04/15(火) 11:26:48.19ID:YDFul9VB
島原の乱参加者による島原の乱の回想だから十分範囲内
0807人間七七四年2014/04/15(火) 15:09:35.16ID:DZwI8D85
アルマダ海戦でも三浦さん登場すればスレ範囲内だから逸話あれば語っていいよ
0808人間七七四年2014/04/15(火) 18:32:02.26ID:Cp/2duMU
そりゃ本願寺はアルカイダみたいなもんですから
0809人間七七四年2014/04/16(水) 03:24:08.29ID:SduEKGxr
天下友達ごっこ出来るぜ
http://i.imgur.com/6Eq0TNs.jpg
0810人間七七四年2014/04/16(水) 11:41:37.35ID:ozyHX9E1
>>809
それな

未だに北条時頼坐像と上杉重房坐像の区別がつかないんだわ
0811人間七七四年2014/04/16(水) 11:54:33.57ID:SduEKGxr
>>810
ラスボスが頼朝って言ってるから頼朝でいいんだよ...

http://www.emuseum.jp/detail/100430/000/000?mode=detail&;d_lang=ja&s_lang=ja&class=3&title=&c_e=&region=&era=&century=&cptype=&owner=&pos=9&num=2
0812人間七七四年2014/04/16(水) 21:19:15.46ID:k6etqqGP
世の中に金銀の通貨が豊富に出回るようになったのは、ここ50年ほどのことである。

台徳院殿(徳川秀忠)の時代、作馬不閑が所持していた雲山という茶入れを、金森殿が
黄金百錠にて求めたことがあった。
台徳院殿はこれをお聞きになって、その資金を金森殿に与えると言われた。しかしその時には
手元に黄金は三十錠しかなく、七十錠が不足していたという。今の世とは甚だしく相違していたのである。

昔、南都東大寺の奉加に、源頼朝が五十両を寄進すると言われたが、その年に旱魃があって整えることが
出来なかった、という話が吾妻鑑に見える。

(老人雑話)

秀忠の時代くらいまで高額通過の流通は少なかったらしい。というお話。
0813人間七七四年2014/04/16(水) 23:33:09.62ID:M9yvMrSr
誤字多すぎだろ
0814人間七七四年2014/04/17(木) 23:32:35.18ID:+axgPh5A
太閤秀吉は曰く「人の交わりは長く交わるほど猶のこと言行を慎むことである。

初めの頃は誰もが慎むけれども、長くなれば自然と互いにわがままになるので
終いには不和になるものだ。また、自分が嫌いなことは人も嫌いであると思うことだ。

また、人の過失はよく分かるものだが、自分の過失はさっぱり分からないものである。
また、諌める者は気に入らず、へつらう者は気に入るものである。

家人を使う時に、このところを心得て使わなければ、家人は難儀に及ぶことがある。
たびたび難儀する時は、終いには背くものである」と言ったということだ。

――『明良洪範』
0815人間七七四年2014/04/17(木) 23:41:36.29ID:vdxSbYo1
ラスボス「オレって天才だから戦で負けた事一回も無いんだよね」
0816人間七七四年2014/04/18(金) 00:38:07.06ID:1Mpd6BDo
>>815
吉岡定勝「そうでしたっけ?」
上杉謙信「理屈こねて敵前逃亡したことはあるよね?」
0817人間七七四年2014/04/18(金) 01:37:01.58ID:sc68QPd1
>>813
ラスボスって敵にこそ恨まれても政治的な事情を抜きにすると結構慕われてる気がする
流石人垂らし
815
長久手でのことをお忘れか!?って家康が絡んでくる話だっけか
0818人間七七四年2014/04/18(金) 01:45:28.82ID:Hh03wPku
小牧長久手に関しては権現様の尻ぬぐい部隊が頑張って装飾したんですよ
0819人間七七四年2014/04/18(金) 02:06:49.64ID:a0Tfevhs
>>818
権現様「それも味噌だろ!いい加減にしろ!」
0820人間七七四年2014/04/18(金) 02:29:53.16ID:J2LXxusn
>>819
家康「その話は創作だってこの前わかっただろ!いい加減に(ry」
0821人間七七四年2014/04/18(金) 11:26:56.30ID:W/4P81WZ
太閤さまが名護屋へ御出陣なされたときの話。
九州の大名たちの奥方をお集めになりお遊びなされたことがある。
陽泰院さま(直茂公室)にも、是非お出でなされますように、とお招きがあった。
陽泰院さまは、太閤さまの侍女、幸蔵主を通してお断りになられ、
そのときは、幸蔵主の取りはからいでお出かけにならずにすんだのである。
しかし、
「鍋島家のみが勝手な振る舞いをしてよいという前例を作っては後々よくないでしょう。
一度はお目見えになられたほうがよろしいかと思います」
と言ってきたので、陽泰院さまは、前髪を角が立つように剃り落とし、
顔に醜く化粧をして、太閤さまにお目にかかられた。
それから後はお出かけにならなかったということだ 【葉隠】
0822人間七七四年2014/04/18(金) 23:58:01.49ID:uArMOhiu
若き日の謀神

毛利元就がまだ毛利本家を継ぐ以前、毛利幸松丸の後見人の一人として、未だ多治比殿と呼ばれて居た時のこと。
当時毛利幸松丸のもう一人の後見人として元就以上の影響力を毛利家中に誇ったのが石見の豪族にして、幸松丸の外祖父である
高橋久光であった。先年、嫡子元光を戦で失い齢60を迎えたとはいえ、大内・尼子の狭間で生き抜いてきた男の力は伊達ではない。
先の有田合戦で力を示したとはいえ、20代前半の元就の発言力は久光には到底及ばぬものであったそうだ。

だが、高橋久光は大永元年(1521年)備後の豪族三吉氏を撃つべく、兵を出したものの三吉傘下の加井妻城(青屋城)で青屋友梅に討たれ戦死してしまう。
(一説によれば久光の息子元光も先年、この加井妻城攻めで死んだと言う。)

(続く)
0823人間七七四年2014/04/19(土) 00:11:37.44ID:GxnFKYrg
高橋の援軍として参加していた元就は久光の死後、単独で弔い合戦を展開。
攻めるに難しと見た元就は加井妻城を3500の兵で包囲、兵糧攻めを開始する。

しかし城主青屋友梅も去るもので、水・食料が尽きるのを待つ元就方に対し、
見えるところで米を馬にかけ、遠目には水で馬の体を洗ったように見せかけ
寄せ手の戦意を下げようとした。それを見た元就方では撤退や作戦の変更を申し出る者も
多数いたが元就はそのまま兵糧攻めを継続する。
そして数日後、元就は配下の井上光親を軍使として城内に送るのであった。
0824人間七七四年2014/04/19(土) 00:32:50.00ID:GxnFKYrg
城主青屋友梅は使者として訪れた光親を大いにもてなし、その上自らの趣味は
馬であるから長戦の慰めに見せてさしあげようと、光親の前に数頭の馬を引き出し、盥に
なみなみと満たした本物の水で馬の体を洗い、更には雑兵が無数の米俵を運ぶ様子を見せ、
光親は自陣に戻るとその有りのままを元就に報告した。

光親から城内の様子を聞いた多くの将兵は、
「こりゃいけんわい、敵方には水も飯もまだようけ有るで・・・」
「城がこがなじゃったら勝たれんのじゃないか?」
と落胆したものの、元就だけは一人
「城内の水は尽きた、敵はまもなく降伏するゆえ今しばらく堪えてより一層包囲を固めよ。」
と、指示を出した。果たして一月もせぬ間に青屋友梅は降伏。元就の言うとおり城内の水と食料は
絶えていたと言う。これにより元就はより一層の名声を高め、目の上のたんこぶで有った、高橋一族の
毛利家への影響力とその勢力自体を削ぐ事に成功する。敵の窮状を見抜いた若き日の謀神の姿である。
0825人間七七四年2014/04/19(土) 02:08:14.62ID:0R6USUEj
常套手段とはいえ、米を水に見せかけて馬を洗ってごまかせるか
現代の学者で実際に検討した人はいるのだろうか
0826人間七七四年2014/04/19(土) 02:26:10.43ID:MNIlPhKx
>>825
山を分け入って木々の合間の遠くの方に湖が見えたと思った
…近付いたら山中に似合わず白い砂利がただただ敷き詰められた広大な駐車場だった事がある。

視力は当時2.0だったけど、先入観や常識に囚われると
意外な物に嚇かされる事はたまにあるよ。
0827人間七七四年2014/04/19(土) 17:53:22.77ID:4D7S36vy
ある時、古田重治は青木一重に向かって話かけた。

古田「(*゚Д゚*)キミ、越前の真柄を討ち取ったんだって?その時の話を聞かせてくれよ。どうやったんだい?」

青木「いや、真柄って人は凄く強い人でさ、本当なら僕が討ち取れるような相手じゃないんだけど・・・巡り合わせがよくてね。
真柄がケガして疲れ果ててるところに出くわしてさ、たまたま僕が行きがかり上討ち取ったってだけなんだよ。
だから話すことなんて無いんだよね。(´-ω-`;)ゞ」

飾らない青木の態度に、古田や聞いていた者は皆感じ入ったという。
0828人間七七四年2014/04/19(土) 17:57:39.03ID:pS4iibVJ
「いい話」を悪い話スレに投稿してしまったからって、投稿しなおさなくても
0829人間七七四年2014/04/19(土) 23:58:21.13ID:GxnFKYrg
毛利元就と琵琶法師その1 三つに折れた刀

陰徳太平記からなので、史実かどうかはおいて毛利元就とその間諜として用いられた者達について

北条早雲が座頭などの盲目の者達を自領から追放すると言う例を出し、退去する盲目の者達に自らの間諜を
紛れ込ませて各地へと散らしたのは戦国スレでも既出であるが毛利元就にも同様の話が有り、
元就は4人の琵琶法師を座頭衆という間諜として代わり代わり周辺に派遣し、各地の領主の人物やその地の
情報を得たり、時には偽情報を流させるなど(尼子国久の新宮党粛清にも一枚噛んだとも)したと言う。

その座頭衆の一人に勝一と言う名の琵琶法師が居た。勝一は琵琶の弾き語りや弁舌に優れるだけでなく、病で盲目になる前は
勉学に励んでおり博識でもあった。
ある日、元就は先祖伝来の刀が3つに割れると言う夢を見、それを不吉に思い勝一に相談した。
夢の内容を聞き、勝一はそれについてこう答えたと言う。

「殿が見た夢は吉兆にござります。何故なら3つの刀はпA変じて州、すなわちクニとなりまする。
 故にこれは殿が将来一つの国の主となられることを意味しておるのです。」

それを聞き、元就は安堵するとともに大いに喜んだと言う。
0830人間七七四年2014/04/20(日) 10:09:16.55ID:VScin6KQ
毛利元就と琵琶法師その2 元綱粛清と間諜勝一

元就の異母弟、相合四郎元綱。元就と共に有田中井手合戦で初陣し、元就に劣らぬ武勇を示し
「今義経」とも称えられた毛利一門の若き担い手である。母は違えど兄元就との仲も良く、頼もしい弟であった。
毛利幸松丸が早世し、元就が家臣団の後押しで毛利家の家督を継ぐまでは・・・。

元就の毛利相続に不満を募らせた元綱は数名の有力な家臣と結託し、尼子や石見の高橋家と結んで元就に対する謀反を企図しはじめる。
それを察した元就は琵琶法師・勝一を元綱の元に「話し相手」として送り出す。
話し上手・琵琶上手の勝一は盲目の為警戒されずに元綱の居館・船山城に出入りし、元綱の謀反の計画を探り元就に伝える
間諜としての役を果たすのであった。

元綱一派の決起が近づく中、元綱は決起前の夜宴で平家物語の弾き語りをするよう勝一に依頼する。
もちろん元綱は勝一に謀反も決起も明かしては居ないが、元綱一派の決起が近いのを察した勝一は
元就に通報。事ここに至っては弟を討つも止むなしと決意した元就は夜宴の最中の襲撃を企て、合図などを決め
勝一を再度船山城へ送り出す。

夜宴当日、元綱の居館船山城を志道広良率いる300の兵が急襲、勝一の弾き語りが佳境となった時を見計らい
兵が突入し、元綱はじめ30人ほどがその場で討ち取られ、勝一から元綱の同調人として名の挙がっていた
坂広秀や渡辺通らも討たれたと言う。
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