戦国ちょっといい話39
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年
2013/12/28(土) 15:41:31.69ID:m9sYieeK戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1377700193/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386399929/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0671人間七七四年
2014/03/24(月) 22:46:25.09ID:AR+vZZ6Zまぁ、権現さまはあっちの気はないからそっちの兄弟ってことはないんだろうけど
0672人間七七四年
2014/03/25(火) 10:30:45.54ID:BdvUWxRu0673人間七七四年
2014/03/25(火) 21:57:36.88ID:ok9HMWmm君が人徳を施されたことにより、仏法王法ともに繁盛した。誠にありがたい御時代である。
そもそも日本五畿七道は人皇三十二代用明天皇の御代に定まり、六十六ヶ国に分けられたのは、
四十二代文武天皇の御代であった。そして道を、四十五代聖武天皇の御代に、行基菩薩が6町1里として
王城より陸奥の東浜に至って、三千五百八十七里と極め、また長門西浜に至って千五百七十八里と詳しく
図書に記されたが、今ではその境も定かならぬ物となっていた。
そのため当君(徳川家康)の御時代に、一里塚を作るべきだと仰せ出られた。
されば、日本橋は慶長8年(1603)の江戸町割の時に新設された橋である。この橋の名は、誰か特定の人間が
名付けたわけではなく、天より降ってきたのか地より湧いて出たのか、諸人が自然と、同じように日本橋と
呼ぶようになった。これは稀代の不思議とされたものである。
ところで武蔵国はおおよそ日本の東西の中間に当たる国であるので、江戸の日本橋を一里塚の始点と定め、
三十六町を道一里として、ここから東の果て、西の果てまで五畿七道を残ること無く一里塚を設置させられた。
日本は年久しく治まることがなく、諸国は乱れ、辺土遠境への交通が難しくなっていた所を、道路の
曲がったところは見計らって直につなげ、道幅を広げ、牛馬の蹄を労させないよう石を除き、大道の両側には
松や杉を植え、小川には尽く橋をかけ、大河には船橋を渡し、日本国中、民間の国内往来の需要に備えられた。
これは慶長9年の事である。
この事に萬人喜悦の思いを致し、万歳を願いあった。このように有難い将軍国王の深恩に、末代まで
これを仰がないでいられようか。
(慶長見聞集)
慶長見聞集より、江戸幕府の、日本橋や一里塚、天下道普請に関しての記事である。
0674人間七七四年
2014/03/25(火) 22:57:25.10ID:TZsmQyDT0675人間七七四年
2014/03/25(火) 23:08:15.50ID:EpKdq+8jねーよ
0676人間七七四年
2014/03/26(水) 09:34:12.06ID:DCoh3sBt0677人間七七四年
2014/03/26(水) 10:13:51.08ID:TG0rD5/315世紀の混一疆理歴代国都之図
うん、東西の中間だな
0678人間七七四年
2014/03/26(水) 18:39:11.46ID:8AIZ5yGq御側の面々は何れの人も試合を行い、家光はとても上機嫌だった。
その時、家光は御馬方の諏訪部文九郎を呼んで御側の人々と試合するように命じた。
すると文九郎は「馬上での試合ならば負けない」と独り言を言ったので、家光は
これを聞いて「ならば彼の望み通り馬上の試合がしかるべし」と言った。
それから馬上の試合が始まり互いに馬に乗って術を尽くした。
文九郎は流石馬の達人の程はあって、一太刀も打たれないのみならず、
すれ違う時に名乗り掛けて相手を打った。
家光は感心して「文九郎は馬上達者だから側の者には一人も勝者がいない。
この上は但馬守が出て試合せよ」と言った。但馬守は「畏まり候」と馬上で立ち合い、
二人は両方から乗り出した。二人の距離が三間程になった時、但馬守は馬を止めて
文九郎が乗って来る馬の面に一打を打った。これに馬が驚いて背いたところを但馬守は
馬を寄せて文九郎をはたと打った。家光はこれを見て「誠に名人の所作。
時に臨んでの働き実に妙である」と、はなはだ感心した。
但馬守は馬術では文九郎に及ばないことを察しての業であった。
臨機応変とはこの類のことである。
この時、但馬守の子飛騨守(宗冬)も御供して父と試合したが一度も勝てなかった。飛騨守は、
「寸の延びた太刀ならば勝てる」と言ったので、家光は「ならば大太刀で試合せよ」と命じた。
飛騨守は寸延びの大太刀を持って父子が立ち合ったところ、但馬守が、
「倅推参なり(倅よ、出過ぎた振る舞いだぞ)」と言いながら、ただ一打を打って静まり、
飛騨守はしばらく気絶していた。
結局は寸の延びた太刀ならば勝てるなどということは、柳生家に生まれた者の本意ではない
ということで強く打ったのだということだ。剣術の試合はたとえ御慰みであるとしても、
たとえ試合をする者は父子兄弟であるとしても、覚悟するべきことである。
――『明良洪範』
0679人間七七四年
2014/03/27(木) 09:08:50.53ID:Lsch2pLG0680人間七七四年
2014/03/28(金) 18:55:06.66ID:aeU6Q7LZ0681人間七七四年
2014/03/28(金) 21:09:29.90ID:lNP5DXHi高橋掃部介(池端鴨之助)の事
高橋掃部介は池の端城400貫の知行を領していました。
新発田勢の先方として各地の戦いで勇敢に働きました。
新発田重家の乱にて放生川合戦の前に小坂に陣を布いた景勝は新発田城と池の端城の連絡遮断を狙い竹の花を攻めてきました。
高橋掃部はこれと戦いましたが左乳の下に傷を負い新発田城への退去に遅れてしまいました。
やがて新発田城にこのことが聞こえ父の身を案じた14になる倅が猿橋口に迎えに出ると親の掃部介が太刀を杖につき一人帰ってきました。
親子は手を取り合い喜びあいました
その時掃部介が申すに
掃『この深傷じゃ本城つくまえに俺死んじゃうと思う。今から言うことよくきくんだよ?(・ω+)』
倅『(`・ω・;)ゴクリ』
掃『お前は明日から一族郎党を扶持して一旦軍を解散させなさい。
また、母ちゃんと10才の妹は池の端に立ち帰らせなさい。
来年景勝がまた来て新発田城が落ちるようなら中間の一人や二人つけ中条越前のもとに母妹の二人を落し、お前は重家殿の死後までお供しなさい。
池の端城は明年焼いちゃえ。あ、それからお前の太刀小さいから取り替えてやる。ちょっとまってろ…』
しかし城に入り間もなく傷が重く掃部介は息を引き取りました。
つづく
0682人間七七四年
2014/03/28(金) 21:29:59.31ID:lNP5DXHi掃部介は息を引き取りましたが宝刀は倅にしっかりと渡されました。
倅はそれから親の名を襲名し掃部介と名乗り翌年の新発田城籠城に際し、15歳にして兜首1つ母袋武者2騎を討ち取る手柄を挙げました。
その内三人目の母袋武者は先年の戦いで父に槍をつけた男で、因縁とは不思議であると人々は申したといいます。
しかし天正15年10月28日ついに新発田城は落城の朝を迎えてしまいます。
重家と別れた掃部介は太斉口にいる中条越前は叔父であれば備えも乗り切れると思い、また搦め手で討ち死にしようものなら末代までの恥と思い、堂々と表門から出ました。
寄せ手や落ちのこりの者は大将首が落ちるのをみて一斉にかかってきましたが、難なく打ち払い宮内の八幡林を目指し落ちていきました。
そして池の端城に入って母と妹を中条越前のもとへ落ち延びさせ、翌29日手勢30騎あまりを率い城門よりドッと突いて出て寄せ手を蹴散らしそのまま行方不明になりました。
あとで聞いた人々は天晴れ剛強の大将と褒め称えたとのこと です
つづく
0683人間七七四年
2014/03/28(金) 22:07:11.87ID:lNP5DXHiこうして池の端城は落城しましたが、戦が終わり世の中が穏やかになったころ、掃部介は宮内に住んでいました。18歳になっていた掃部介は40余年間宮内に住んで寛永の末ころ亡くなりました。
八幡林に柴垣をめぐらし、常々言っていたことは
『因州(重家)の供をしていたならば、身上も稼ぎ、損もしなかったものを、主の後先を見離したので周囲の人の目が恥ずかしい』
と、いつ襲い来るかわからない敵を注意して生活していました。
また、宮内の神主に折々神事の頼み事があったので協力していたとのことです。
そのうち宮内八幡の神主の跡が絶え、加治佐々木の一族で佐々木右京、後に相模と名乗る者を後継に迎えました。この者は元和年間に宮内へやって来て54歳で亡くなります。
その二十歳くらいまでは掃部介も生きており『爺様爺様』となついていたようです。
波乱に満ちた掃部介にとり最も穏やかな日々であったことでしょう。
というのが言い伝えであります。
ですが文禄三年の定納員数目録によると色部氏平林在番衆に池端鴨之助で20石5斗、2人3分5厘役と記されており、高橋掃部介(池端鴨之助)は実在の人物であり宮内に住んでいたのはあくまで逸話のようです。
ちなみに掃部介は美濃の出身。斎藤道三の一族であるとされています
終わり
地元には他にも新発田重家の遺児のその後など伝承があります。粗末な長文失礼しました
0684人間七七四年
2014/03/29(土) 23:48:36.36ID:VcugJRp4家臣たちが答えかねていると、秀吉は次の様に言った。
「儂なら家康につく。氏郷は剽悍な男だ。家康が氏郷の兵を5、6人倒せば、その中には必ず氏郷がいるだろう。
しかし氏郷が家康の兵を4、5000人倒したとしても、その中に家康の首は無いだろう」
『嗚呼古英雄』(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900045)より、家康と氏郷のお話し。
一般的には信長と氏郷のバージョンが有名だが、家康と氏郷の場合もあったようだ
0685人間七七四年
2014/03/30(日) 00:47:37.05ID:vGbXD4q7俺も家康に味方する
0686人間七七四年
2014/03/30(日) 14:22:53.03ID:DIHxGh2+平三郎は尾張の人で、三河へ行って徳川家康に仕え、三方ヶ原で討死した。
その半右衛門は福島正則に仕えた。正則が領国を召し上げられて信濃へ流される時、
江戸屋敷をも受取の人数が取り囲み、もし上意に背く者がいれば討ち捨てるとの
ことだったので、
家士は大方が落ち去り、七、八人が屋敷に残った。半右衛門も残った一人だったが、
主人正則が流される途中で殺されるであろうとの風聞があったので、
江戸屋敷を立ち出て正則の後ろ辺りに付き、信濃までやって来た。
その時、正則は平生の愛が深くなかったことを悔やみ、
懇ろに至忠の情を感謝したということである。半右衛門は後に水府公に仕えた。
――『明良洪範』
0687人間七七四年
2014/03/30(日) 20:51:19.39ID:2aPeRQvX宣教師の追放を決定。これにより京にあった教会(南蛮寺)も破却されることとなる。
この教会の司祭たちは都を去るにあたって、異教徒で関白の側近である都のゴベルナドール(奉行)、
前田玄以を訪問させた。彼は事情を聞いて激昂し、その母親の言葉を無視し、自らの身分すら省みず、
司祭からの使者に対し
「大阪で関白(豊臣秀吉)を殺したい!よって、この挙に抜かりはないから、伴天連たちは安心されよ」
と言った。同様のことを関白の甥の孫七郎殿(豊臣秀次)も司祭たちに伝えさせ、秘書のコスメ(庄林)に
答えて言った
「関白殿下は自分に何ら相談も通知もなく伴天連達を立ち去らせてしまったが、伴天連たちは明らかに、
関白に何か言いたかったに違いない。だがおそらく逡巡し、あるいは自分たちのための仲介してくれる
者が居なかったので、あのようにして去っていったのであろう。」
そこで孫七郎殿はオルガンティーノ師に宛てて非常に丁重な書状をしたためさせた。
近江国の領主であるこのプリンシベ(君侯)には五畿内で最初で最古の二人のキリシタンが奉仕していた。
一人は池田シメアン丹後殿といい、もう一人はコスメ・ショウヨと称する彼の秘書であった。
彼らは関白が下(九州)から五畿内に帰還した時には、棄教しないキリシタンを殺す決意である、との噂に
接すると、名望ある貴人である両人はともに主君なる孫七郎殿の前で、おのが信仰を宣言し、
「我らは既に27年間もキリシタンとして生きてまいりました。我らの妻子、家臣らも皆同様です。
デウスの教えを受け入れている今、我らにとってはこの教え以外に救いがないことは、あまりにも明確です。
殿の伯父君である関白殿下が、この件で我らを殺すように命じられるにおいては、我らは喜んで
関白殿下の前で信仰を表明する決意でございます。」
そのように申し出た、彼らはそれを、大いなる歓喜と平静さと信念を持って述べた。そしてさらに
「もしこのままキリシタンとして奉仕して差し支えなければ、身共としては従来と何ら変わりなく
忠誠に励むでありましょう。だがその許可が与えられぬにおいては、潔くデウスの名誉と信仰の証として
追放処分を受ける決意であります。」
と言った。
この若者(豊臣秀次)は、伯父(秀吉)とは全く異なって、万人から愛される性格の持ち主であった。
特に禁欲を保ち、野心家ではなかった。
日本では自然に反する悪癖(男色)が一般に行われていたが、彼はそのようなことを忌み嫌い、
数日前にも一家臣が他に対して日本ではそれまで今だ見聞きしたことがないようなことを犯したので、
その男を殺させた。
(ルイス・フロイス『日本史』)
宣教師によるバテレン追放令への対応と、豊臣秀次への評価に関する記述である。
0688人間七七四年
2014/03/30(日) 23:11:28.99ID:s9zM/PcZ0689人間七七四年
2014/03/31(月) 00:35:24.06ID:Id18rSAo0690人間七七四年
2014/03/31(月) 01:32:53.01ID:5EdZuoAO0691人間七七四年
2014/03/31(月) 02:49:48.81ID:yTnlAYgJ0693人間七七四年
2014/04/03(木) 17:02:10.23ID:hE78VDN9父の頼みで、安藤彦兵衛が初陣の手引きをすることを引き受けたという。
合戦は池田方が負け退くと、家康公の軍勢はさらに本城へと押し寄せ、
勝入が打ち出てきたところ、彦兵衛が渡り合い、槍で倒した。
彦兵衛は伝八郎を呼び、首を取るよう促すと、伝八郎は倒れた敵に馬乗りになり兜をとりのけた。
顔を確認した伝八郎は、
「初首に坊主の首は嫌だ」
と言い立ち去ろうとすると、倒れながら勝入が、
「見事な心がけの若武者である。
ワシこそが日本に隠れもない武勇の大将池田勝人斎だ。
我が首を取りて、末代までの手柄とせよ」
と言った。
すると伝八郎は引き返してきて、首をかき落とし、家康公のお目にかけた。
安藤は自身がまず槍をつけたことを言わず、伝八郎の手柄としたのである。
その後、和睦ということになり、家康公は勝入の息子三左衛門(輝政)を婿とされた。
その婿入りのとき、三左衛門が是非とも永井に会いたいと言い出した。
家康公をはじめ皆の者が、どうしたものかと気遣ったが、永井はそれを伝え聞くと、
「三左衛門殿にとって、拙者は親の敵であるから、婿入りの肴に我が首を御希望されるのかもしれない。
そうと知り出向かないとあっては武家の門に傷がつく」
と言い、すぐに御前へと参上した。三左衛門は永井に盃をさし、
「我が父の首を、あなたは十五歳にして討ち取ったと伝え聞いています。
十五にして比類なき高名手柄、日本が日本である間はその武勇隠れもないことでしょう。
ところで永井殿は知行はいかほどいただいているのか?」
と尋ねると、話を聞いておられた家康公が、
「永井には七万石与えている」
と仰せになられた。
すると三左衛門は、
「これほどの剛の者には少なく思われます。
永井殿へ御加増くださるよう、拙者からお願い申し上げます」
と言うと、家康公はその場で十五万石への加増を決めたとのことだ 【葉隠】
0694人間七七四年
2014/04/03(木) 17:57:41.77ID:tTCr7JUK0695人間七七四年
2014/04/03(木) 21:08:05.88ID:Zuu527790696人間七七四年
2014/04/03(木) 23:00:45.85ID:fIycXk3n三河牛久保の牧野右近大夫のところに仕えた時、光秀の知行は百石ほどであった。
光秀は傍輩の中野某に語って、
「侍の行末はお互い分からぬものだ。もし私が一城の主になったならば、
被官も欲しいことであろう。そうなった時には、貴殿は頼もしい人なので私のところへ
呼んで城代にしよう。貴殿が立身したなら、その時は私もまた被官となろう」
と約束した。そして後に丹波を拝領した時、光秀は中野を呼んで亀山の城代とした。
――『武功雑記』
0698人間七七四年
2014/04/04(金) 18:41:28.43ID:v7DrC6jR石高が十倍だっておかしくない…(白目で)
0699人間七七四年
2014/04/05(土) 00:10:29.69ID:FfYqcsdC京に赴く途中、不思議なものに出会ったという。
これは老人かと思うと、またにわかに若くなり、若いのかと思えばまた、忽然としてシワが寄って見えた。
一体どういう人物なのか一切判断できない、怪しい者であった。
この人物が浅いに語ったことは
「その方の家、必ず末に栄えて貴族の名を得るだろう。頼もしく覚えておくが良い。しかし慎みがなければまた憂うこともあるぞ。」
そこで浅井某が近づいて何か話しかけようとすると、たちどころに消え失せてしまった。
乱れた世には必ず魔障があると言われるが、この話のような類の事なのであろう。しかしこの曲者は良いことを言って
きたのであるから、只者では無いのであろう。
(塵塚物語)
天分21年(1552)成立とされる塵塚物語より、後の戦国大名近江浅井家の祖について書かれたと思われる逸話である。
0701人間七七四年
2014/04/05(土) 15:27:38.67ID:YSDBEeXL0702人間七七四年
2014/04/06(日) 21:19:44.61ID:wJYmAo3t妙堂崎の山手にさしかかったさい遥か東北の方に茫々と広がる芦原を望むと、
無住の地と思わる彼方に一大老樹が天を覆っていた。
その傍より一条の炊煙が立ち上るのを見つけ奇異の念をいだきその所を尋ねる事にした。
ようやくたどりついて見ると一大老柏木の傍に葦芽の家が三軒並んであった。
これは、工藤祐益、花巻頼母、山崎織部等落武者の庵で付近僅かに粟稗が耕されてあった。
一行は暫くこの草庵に憩をとることにした。昼時ともなったので、村人達は心をこめて粟や稗の酒飯を炊いてもてなした。
為信公はことのほか上機嫌で祐益老の願いを聞くと産土神の御加護の下に開墾を進めたい、とお宮の建立を上願した。
そして為信公はしの四方遥か広漠たる葦原を眺めこの土地を広須野と名づけ帰城して行ったという。
翌天正5年(1577)旧三月公命によりて国家安泰万民豊楽五穀成就、
新田開発成就の祈願の社として広須八幡宮が建立され祐益老の孫千之太夫が宮司となった。
(柏正八幡宮境内由緒書)
津軽為信が開墾を奨励したこの地域は、第二次世界大戦中に全国で最も米の供出量が多い地域となった。
0703人間七七四年
2014/04/07(月) 13:11:13.23ID:zo7V+3Jg1600年9月中旬、米沢の直江兼続は兵25000をもって「最上三堅」のひとつ畑谷城を包囲
城主江口道連に降伏勧告を出したが道連はこれを拒否
畑谷城の最上勢500は直江軍の猛攻の前に玉砕した
畑谷城主江口道連とかねてから親交のあった最上方の将、悪戸館主加藤清次は江口道連の死を聞いて大層憤慨し、畑谷方面の直江軍へと突っ込もうとしたが、主君最上義光から「兵を連れ、すぐに山形城へ入れ」との命令を律義者の清次が破る訳にもいかずに
一族郎党を連れて後ろ髪を引かれる思いを残しつつ悪戸を背にし山形城へと向かった
9月23日頃、最上義光もついに山形城を出、直江軍と対峙しつつ、悪戸から東に少し離れた本沢付近に陣を張る
加藤も「決戦地は我が領ゆえに是非軍にお加えくだされ」と義光に願い出、義光の先鋒の一翼となった
(つづく)
0704人間七七四年
2014/04/07(月) 13:14:01.38ID:zo7V+3Jg9月25日長谷堂北西で刈田狼藉を行っていた上杉兵を長谷堂の鮭延隊が急襲
仲間を守ろうとした上杉方の水原・春日軍が増援を出し、大規模な戦闘に発展
長谷堂城の失陥を畏れた最上義光もこの様子にいきり立ち、山形本隊も戦闘に本格的に参加
「名を惜しめ!命を惜しむな!」と激を飛ばし加藤清次はこの戦いで上杉軍に突っ込み凄絶なる討ち死にを遂げた
戦闘前に「吾(われ)元より生還は考えておらん」を郎党に宣言していたと言う
加藤の郎党が討ち死にした主の首級を敵に取られまいと
上杉方に十二十と向かい討ち死にする間
加藤の従者や小者が数人、主の亡骸を抱きかかえ時には背負い、最上の陣へと駆け戻った
加藤の悪戸衆は勇敢に戦ったがこの日多くの戦死傷者を出したと伝わる
加藤が身に着けていた甲冑は個人蔵として現存
平成の世の初期に最上歴史館で公開がなされた様だが
ネット上詳細や画像は公開なされていない模様
0705人間七七四年
2014/04/07(月) 13:33:23.13ID:zo7V+3Jgほかに「如何に死に花咲かせようか」等
覚悟というより死ぬ気満々だった様です
0706人間七七四年
2014/04/07(月) 15:18:03.98ID:zo7V+3Jg二ヶ月ほど前に話題になったものから
2014年2月、山形大の松尾教授は直江兼続が関ヶ原の戦いを前に、会津地方で伊達軍と戦っていた家臣に宛てて書いた直筆の手紙が見つかったと発表した。
写本はあったが兼続の直筆の現物の確認は初めて。伊達軍との戦いで善戦する家臣の頑張りを褒めながら「政宗は油断ならぬ相手、伊達軍の動向を滞りなく知らせるよう」指示を出している
書状は山形市の個人蔵
山形大の松尾剛次教授が花押や筆跡から本物であると鑑定した。
本村親盛と上泉泰綱を含む家臣4人に宛てたもので、日付は慶長5年7月27日。小山評定の二日後のもので、伊達政宗が旧領地の会津地方を奪還しようと攻勢を強めていた時期にあたる。
(つづく)
0707人間七七四年
2014/04/07(月) 15:20:27.41ID:zo7V+3Jg「すぐに城(福島県川俣町)を攻め落とし、城主の桜田氏をはじめ残ることなく討ち果たしたという。おのおのの頑張りは素晴らしいことである」とねぎらう一方で
「白石に伊達政宗がいるというので(上杉景勝から兼続も伊達の介入を防ぐ様後方支援の)後詰めを申しつけられた。(中略)。政宗の様子を注進するのを待っている」と要請している。
松尾教授は「当時の緊迫した状況がうかがえる。写本には誤りも多く、現物は上杉家の研究に役立つ貴重な資料。
上杉家の歴史だけではなく、東北史を見直すきっかけになれば」と話している。
(つづく)
0708人間七七四年
2014/04/07(月) 15:22:44.53ID:zo7V+3Jg文章はおおよそ縦15a、横75a。
他に兼続は書状で会津征伐に小山まで来ている家康が引き返したとの情報を「事実ではないだろう」と指摘。
関ヶ原の戦いを目前にした7月に、兼続は11通の文書をしたためているが、現物が見つかったのは3件目。
上杉文書を書き写した史料「覚書公御書集(かくじょうこうごしょしゅう)」に、この書状に該当する写しがあり、内容は基本的に同じだが、「書状を拝見しました」の部分を「連状」とするなど誤写があるという。
また今回、御書集の原本の一部と見られる書状が見つかり、内容も同じで貴重な資料。
松尾教授は「これにより御書集の資料的価値が上がった。さらなる直江文書の出現を期待している。また、上杉氏が会津に移封後の研究の活性化が期待される」と語っている。
0709人間七七四年
2014/04/07(月) 15:26:14.36ID:zo7V+3Jg誤)文章はおおよそ縦15a、横75a。
正)文書はおおよそ縦15a、横75a。
でした
0710人間七七四年
2014/04/07(月) 17:12:22.80ID:zo7V+3Jg現在の山形市の芋煮と言えば「醤油味ベースに牛肉」のもの
主に地元の水に「醤油」「砂糖」「日本酒」「みりん」等で味付けをし
中に入れる基本的な材料は「里芋」「牛肉」「ネギ」「蒟蒻(こんにゃく)」
「ゴボウ」と「きのこ(しめじ)」で味を引き立たせる事もあれ
牛肉が一般的に食べられる様になったのは明治維新を経て、山形では明治4〜8年の事と見られている
しかし最上義光の時代にも材料や呼び名は多少異なれ
「芋煮」の元となった「芋汁」が存在した
主な材料は村木沢で取れる里芋で
絹の様に繊細な歯ごたえと素晴らしい味から室町時代の頃から城の殿様への献上品とされ
タネいもや作物は畑荒らしや盗っ人が出ない様に畑や小屋に番が付けられ、外で作る作物ながら栽培方法も「門外不出」のものとされていた
(つづく)
0711人間七七四年
2014/04/07(月) 17:23:50.60ID:zo7V+3Jg慶長期頃の芋煮(芋汁)はこの村木沢の「里芋」をメインに「味噌」「塩」「しょっつる(魚醤)」「酒」などで味をつけ
「山菜」「野菜(大根・人参ほか)」「棒たら」「鮭(ほか魚)」やら時によっては「猪(しし)肉」や「鹿肉」までを具としたらしい
現在村木沢産の里芋でも特に「悪戸芋」と呼ばれる品種は人気があり
今でも山形市民の芋煮にはけして欠かせないものとなっている
最上義光(´・ω・`)里芋と最上の水の味は昔からそう変わるものではないんよ
「芋煮」→昔の呼び名は「芋汁」「芋っこ煮」「芋鍋」など
0712人間七七四年
2014/04/07(月) 17:31:18.36ID:zo7V+3Jg(´・ω・`)「芋煮は醤油ベースに牛肉なんよ」
(●∀゚)東北芋煮戦争(´・ω・`)
…ただし東北地方では牛肉派は山形市を除いてごく少数らしい…
0713人間七七四年
2014/04/07(月) 17:31:55.93ID:H5lHQBVH0714人間七七四年
2014/04/07(月) 17:46:43.99ID:zo7V+3Jg東北や北関東を除いて近畿や西日本にも芋煮ってあるんでしょうか?
ゲスト
豊臣秀吉・古田織部・佐竹親子・伊達政宗・最上義光・蒲生氏郷・上杉景勝・浅野長政・福島正則・加藤清正ら…
これがいわゆる「荒芋煮」か
0715人間七七四年
2014/04/07(月) 20:44:04.97ID:OswswczU0716人間七七四年
2014/04/07(月) 21:50:53.62ID:4noQd+5O0717人間七七四年
2014/04/07(月) 21:57:12.12ID:zo7V+3Jg「鶏肉」「鴨肉」も可能性あり
「蒟蒻」は当時はお寺さん絡みの精進料理や薬膳の一種のため、武士や一般の民らが普通に口にしていた(家庭料理の素材にしていた)かは不明
>>716
正則「キヨ!なに芋煮にヒゲつけてんのよ…」
0718人間七七四年
2014/04/07(月) 22:00:28.29ID:VUjE3zoE0719人間七七四年
2014/04/07(月) 22:06:19.52ID:GUC7Ww5M三成「治部煮」
信長「田楽」
家康「味噌」
0720人間七七四年
2014/04/07(月) 22:21:46.76ID:4noQd+5O宇喜多「まぁ一杯飲めや」
0721人間七七四年
2014/04/07(月) 22:45:17.86ID:8apv95LXしかし落語でも三歳様は作法に詳しいことになってるな
0722人間七七四年
2014/04/07(月) 23:19:30.69ID:O5g8gk6V0723人間七七四年
2014/04/08(火) 10:12:15.72ID:J51LNWDh世間では桜の季節ながら
鮭様が詠まれた和歌が過去の逸話には少なかったと思うので一首を追加
最上義光「冬来ぬと はや山里は霜寒み 沓に音ある 庭の通ひ路」
現代簡易訳
義光(´・ω・`)「いやー、冬ってやっぱり寒いんよ。あ!霜柱!踏むとしゃくしゃく音がして楽しいんよ!」
としよ姫「…あなた、いい歳してみっともない…」
義光(´・ω・`)「!」
和歌や連歌は文化教養を表すものだと言われているけど
「ポエム」と直すと人に見られた際の恥ずかしさが増すのは現代の感覚なのだろうか?
0724人間七七四年
2014/04/08(火) 18:08:03.77ID:MsP3+hWE和歌だろうとポエムだろうと上手く出来たと自負してればドヤ顔だろう
0725人間七七四年
2014/04/09(水) 17:06:11.84ID:O2kLbFHv秀次事件に連座して処刑された愛娘の駒姫を弔うため、最上義光は大石田から高僧を招致
寺を造るのに合わせ山形城から駒姫の居室を専称寺の本堂の一部として移築
また東北一の伽藍を造るのに名工左甚五郎に鎮魂の像を作ってはもらえないかと依頼した
途中の経過はわからない
山形を訪れた左は工房で片肌を露にし
木塊へ蚤を入れ、力士像を作っていた
寺の造営に来ていた人足らは
天下の名人が来ていると聞きつけ
作業の合間に左の工房の入口には野次馬が訪れた
人足「すげえな。元から木の中に力士が埋まってたみたいだ」
他の人足「んだんだ、すげえすげえ。さんすが天下の左だ」
左は手を止めると人足らに振り返った
左「そんなにまざまざと見つめられてもこっ恥ずかしくなります。木材には余裕がありますから、作業の合間に休まれているときに、なにかみなさんで眺められる様なものをついでですからお渡ししますか?」
人足「いいんだが?」
人足「銭こそんなねぇで?」
左「お褒め頂いたので特別ですよ」
専称寺の人足らには
左作の鳥やうさぎ?の像が渡された
(つづく)
0726人間七七四年
2014/04/09(水) 17:07:41.33ID:O2kLbFHv坂光秀「ほうほう、これは見事な出来栄えじゃな」
伊良子信濃「むう。今にも動き出しそうじゃ」
像の噂を聞き付け町民だけでなく
武士らも造営地を訪れる様になった
???(´・ω・`)「力士像のついでに???にも追加でなにか動物の木彫りを作ってくれない?お礼ももちろん追加するんよ」
左「はい、畏まりました」
やがて専称寺本堂は落成し
梁の四方には左の作った力士像が配された
左は山形滞在の折りに
いくつか木彫りの動物の像を残したといった話がある
慶長から元和に最上の殿様から功績によりこの左の像のひとつを賜った武士がいた
最上家の改易によりこの侍は野に下り商いを始めたが、左の像は家の宝として大切にされていた
しかし明治の大火でこの像は屋敷とともに灰に帰したという
言い伝えによれば日光東照宮のものと姿形の似た
ひなたぼっこをする猫の像だったという話である
「山形の昔話」
伝承通りならまだいくつかの像が見つかるかも知れないロマンのある話って事で
0727人間七七四年
2014/04/09(水) 17:11:23.49ID:O2kLbFHv山形を訪れた左がどの左だったかは謎ではありますが
0728人間七七四年
2014/04/09(水) 23:56:11.30ID:TDkkNI/t宮大工だっけ?
0729人間七七四年
2014/04/10(木) 00:02:43.63ID:U0k1fWg/0730人間七七四年
2014/04/10(木) 03:46:33.37ID:hmeg8M3bここでは、ある者は碁や将棋を楽しみ、ある者は乱舞を楽しむなど、それぞれの好みに従って遊んだ。
対抗は常にこう言った
「能き夢を見ているか?」(能き夢を見する哉)
この言葉を口癖のようにしていたという。
また太閤の身の回りは常に軽々としていた。ある時徳善院(前田玄以)がこの事を諌めたところ、
太閤はこのように答えた
「天下に俺に勝る主君は居ない。誰が謀反しようと思うのか。」
(老人雑話)
0732人間七七四年
2014/04/10(木) 10:32:48.95ID:i5X0zE6N今は鳥居忠政の改修以来大きく川筋の流れが変えられたが、最上義光の時代には白川(現・馬見ヶ崎川)は盃山から山形北高の南側交番付近を経由し、遊学館南、旧県庁(文翔館)の辺りを流れていた
山形城下を流れるという事で「城の川→城川」とも、砂金を含んだ土砂が蔵王から流れてくる事に因んで「白い川→白川」とも呼ばれていたとも伝わる
川道から城や市街に掛けてはいくつかの堰(用水の一種)が設けられ
市井の民らが野菜を洗ったり、水を庭口に引いて魚を飼ったりしていた
平成になってから七日町に「御殿堰」が復元されたが
山形市民の方々は
最上由緒の堰の形跡を他にも見てはいないだろうか?
整備され様相は変わってしまったが山形大学脇の小川
(白川から水を引いた小さな白川で「小白川」の由来)
専称寺の清流など
他にも道路脇やブロックの下に結構隠れてはしまったが
最上、そして鳥居時代に作られた生活用水は
夏の暑い山形の冷を招くのに
現代でも一役を買っている
※現・馬見ヶ崎川の名称には複数の説があり
源義家が羽州に来た際に夢の中に馬が出た事に因む
源義経が(同上)
最上義光が氾濫した川道工事を馬上から見たから
鳥居忠政が川道を変える工事を(義光に同じ)
などの説があるため
古い時代の馬見ヶ崎川の別名の「白川」の方を使わせて頂きました
0733人間七七四年
2014/04/10(木) 10:42:35.41ID:i5X0zE6N最上〜鳥居時代頃の物と考えられます
※明治から昭和に掛けて作られた双月、印役や山家の用水が
イメージとしては当時のものの姿に近いかと思われます
0734人間七七四年
2014/04/10(木) 11:25:41.37ID:i5X0zE6N草苅備前は最上義光の腹心であったが、兼山の鮭延秀綱を攻める戦いで甥の武田兵庫が討ち死にしてから山形城への出仕が傍目には滞りがちとなっていた
義光は「心中察する。喪が明け落ち着いてからで良いから出仕をせよ」と備前に心ばかりの品を送った
しばらくして備前は山形城に登城し、義光に贈物の礼を言い、書院奥の一室でなにやら二人で話をした
が
屋敷に戻った備前の出仕は喪の際にも増して滞りがちになった
家族の者が登城をする様言葉を掛けても
「あ〜、俺に構うな、ほっとけほっとけ」と狩りや川干しへと遊び歩いた
城から出仕を呼び掛ける使いが来ても
仮病や居留守を使い会おうとはしなかった
そんなある日事件が起きる
生殺与奪禁止の最上義守の寺領で草苅備前が狩りを行った事が最上義光の耳に入った
義光はかんかんに怒った様に見え
小姓らが「草苅さまは何か誤ったのでございましょう、まずは理由を確認くださいませ」と宥めるのも振りほどき
自ら馬を駆り草苅備前の屋敷に乗り込む素振りを見せたが
「備前め許さん!今すぐ奴を呼べ!訳の如何によっては叩き斬ってくれるわ!」
と番の者を備前の下へと送ったが、備前は既に単身最上の敵である武藤(大宝寺)氏の所領である庄内へ向けて逐電した後であった
(つづく)
0735人間七七四年
2014/04/10(木) 11:38:47.30ID:i5X0zE6N武藤光安(※大宝寺義氏の一族で剛の者とされる)「…それで最上義光の下にはいられなくなったから、この庄内で働きたいと?」
草苅備前「もうあんな奴(義光)の下に仕えるのは御免です!それに私は山形の事に詳しいのでなにかとお役に立てると思います」
光安は草苅備前の身の上を家来の者に確かめさせたが
備前の言う通り山形では義光が怒り狂い、備前の行方を探しており「この手でをなんとしても備前をぶちのめす!奴を殺さず生かして連れて来い!」との命令をあちこちに発っしている事がわかった
草苅備前は武藤光安の近臣として取り立てられ
光安は備前から義光が近く庄内攻めを企んでいる事を聞くと軍備を備え、先を取ろうと諸兵に参陣を求めた
(つづく)
0736人間七七四年
2014/04/10(木) 11:52:03.45ID:i5X0zE6N庄内に来た草苅備前は武藤光安の重臣で高坂館主の川越中務といった老将の屋敷に人目を憚り出入りをしていた
中務の一人息子は武藤光安の小姓を勤めていたが、つまらない失敗を咎められ、武藤光安によって手討ちにされていた
他の武藤の家臣は中務を気の毒に思うも、光安の癇気を恐れ、中務は武藤家中でもほぼ孤立した状態であった
備前は気弱になっていた中務を見舞い
ある日機を見て打ち明けた
草苅備前「…中務殿、武藤の殿様は短気にわがままで自分勝手。中務殿は本当に気の毒じゃ」
川越中務「…老い先短いこの身、ほんまに口惜しいて口惜しいて」
備前「…武藤の殿を怨んでおいでと?」
中務「恨まずにいられるか!息子はもう戻ってこんのじゃ…」
備前「…」
備前「…中務殿、それなら山形の殿様に仕えぬか?」
中務「! はぇ!?」
(つづく)
0737人間七七四年
2014/04/10(木) 12:09:24.99ID:i5X0zE6N武藤光安の下に山形の最上義光が兵を上げ、庄内へと向かっているとの報が入った
武藤光安「草苅備前からの情報で用意は万端じゃ。この地を義光の死に場所にしてやろうぞ」
大川を挟み武藤軍と最上軍が対峙した
最上方の先鋒は白地に「の丸」の旗の楯岡満茂
いくさは武藤軍有利かと思えたが、武藤軍の後方の味方から叫び声が上がった
「後陣の川越中務、裏切りでございます!」
前に最上軍
後ろに中務の兵
武藤軍は蜘蛛の子を散らすかの様に打ち破られ
逃れられぬと悟った武藤光安は馬上で喉を掻き斬りあえない最期を遂げた
最上義光「備前、ご苦労。面倒を掛けたな」
草苅備前「いえいえ、お気になさらずに」
義光は川越中務に武藤光安の旧領を与えようとしたが
中務は武藤光安の菩提を弔うために仏門に入る事をお許しくださいと断り
義光は武藤光安と中務のためにその地に寺を建立した
『最上記』
鮭様の謀将を匂わす一面の記録
※武藤光安は実在が不確かとされています
※「悪屋形光安」と書かれる事から
武藤光安は大宝寺(武藤)義氏との同一人物説や混同の可能性もありますが
義氏は山形に身柄を移され
殺害されたといった話もあります
0738人間七七四年
2014/04/10(木) 19:34:00.70ID:JDN5WJMR関ヶ原後、八カ国に膨らんだ家臣団を防長二カ国で賄わなければならず、
もういっそ二カ国も返上して浪人になるしかない・・・と考えたのは有名ですが
実際にその決意を幕府に取り次ぐように黒田如水に依頼したとか・・・
さすがの如水さんも
「防長を返上しても借金は返さなければなりません
輝元公が浪人になっても借金は身の上にかかったことなので唐・天竺まで逃げてもどこまでも追いかけてきます
私にも名案があるわけではありませんが・・・」と輝元さんのことを心配しつつ浪人なることを思いとどまらせました
如水さんのいい話になるのかな〜
TERUさんがどーにでもなれ〜!してたら幕閣が随分早くから浪人問題に頭を悩してたんですかね〜
0739人間七七四年
2014/04/10(木) 21:29:49.12ID:hW/qo2HE家康公は忠佐が騒ぐのをお聞きになったが、何も仰らずに城内に入った。
その夜、大勢の家臣たちが家康公の御前に参り、今日の一言坂の合戦の話を申し上げていたが、
家康公が仰るには、
「今日、大久保、内藤、本多等がこの上なく苦戦していたため、儂は武田軍と戦わずに軍を引いた。
忠佐は、儂が合戦をせずに引き上げたことを情けなく思って悪口を言っていたな。
しかし、忠佐の申し分には一応は理があるように思えるが、大将の志には背いている。
大将たる者は死生をよく知り、戦うときは戦い、退くときは退くもので、これを良将というのだ。
士卒が戦場に残って主君の危機を救い、その場から落ちのびさせる事は古今珍しくない。
頼朝公が石橋山の合戦に負けた時、佐々木兄弟の4人が留まって敵を防ぎ、頼朝公を逃がした。
また、義経公が吉野山にて大勢の敵に追われた時、佐藤忠信がただ一人留まって敵を防ぎ、
義経公の命を救った。これらは全て、戦ってはいけない時を知り、
逃げて最後には勝利しようと思うがためなのだ。
もし忠佐がこのような類の話をも臆して逃げたというのなら、それは忠佐が自分の勇を誇って、
生地死地もわからずに儂を誹る匹夫の勇を持ち、将の志を察せられないためなのだ。
本多忠勝は、一言坂が戦うのに不利な地形であるのを察して、儂を諌めて引き返させた。
これはよく死生の地をわきまえている。つまり、儂は忠勝の武勇を賞したのではない。
奴が将の志を持っていると感じたために、我が家の良将であると賞したのだ。
敵を多く討って名を高めるのを良将というならば、渡辺半蔵や渥美源吾郎等は全員良将と呼ぶべきだな。」
御前の家臣たちは家康公の言葉に承伏した。
大久保忠佐は後でこの話を聞いて、本当に儂は大きな間違いをしてしまった、と後悔していたと聞く。
というわけで悪い話スレ>>921の後半と合わせて、「家康脱糞騒ぎ」の元の形となります。
要はこれは、一言坂が自軍に不利な地形であると判断したためにすぐに退却してきた家康と、
それを、武田軍が怖いから戦わずに逃げてきたと思った忠佐の話だったんでしょうね。
0740人間七七四年
2014/04/10(木) 21:39:55.76ID:hW/qo2HE忠佐「なんで殿は武田と戦わずに帰って来たんだよ情けない!しかも撤退を進言した忠勝が『我が家の良将』だと!?
ははーん、きっと殿は武田が怖くて仕方ないから戦わずに逃げ帰って来たんだな!?このうんこたれ!」
家康「忠佐はああ言っていたが、そもそも引き際を心得るのが大将というものでな(省略」
忠佐「ごめんなさい殿……儂が間違っていました」
0741人間七七四年
2014/04/10(木) 21:41:48.34ID:1uYCKLZW忠勝が佐藤忠信の兜を秀吉からもらった時に
「義経の家来の兜などいらん」と言ったのはこの家康の言葉を尊重したためだったり
0742人間七七四年
2014/04/10(木) 21:49:12.64ID:hW/qo2HEいや、多分それは違う
原文ではこの話の直前が有名な忠勝の一言坂殿軍の話だから、
むしろ家康を逃がそうとする忠勝を佐々木兄弟や忠信と重ね合わせて論じているんだと思う
0743人間七七四年
2014/04/10(木) 23:17:44.24ID:REjmcdSE大原雪斎から古今の兵法、学問を教わった権現さまと、三河の田舎武士たちの気質がうまく融合してる
0745739
2014/04/11(金) 15:36:18.34ID:Gnyuzyvu原文では「本多忠勝は戦ふに利あるまじき地形を察して」となっているところを
分かりやすくなるだろうと思って「一言坂が」と付け加えましたが、三河後風土記をちゃんと読んでみると
文中でいう「利あるまじき地形」は一言坂の事ではなくその前に家康が布陣した三加野という場所の事でした。
申し訳ありません。
三加野から浜松に引き上げる途中にあったのが一言坂で、ここが徳川軍に有利な地形であったため、
大久保、内藤、本多隊は奮戦し敵をよく防いだ、というのが三河後風土記における一言坂の戦いの様です。
0746人間七七四年
2014/04/12(土) 00:00:18.39ID:z+vqym4m小杉左近に死兵に手出し無用とスルーされた戦いの場所だな
0747人間七七四年
2014/04/12(土) 01:07:16.24ID:yawQd5P5辛く当たり、それに耐え切れずに信長に仕え、終には丹波一国(およそ50万石)と近江にて10万石を所領するまでになった。
明智光秀は常にこう言った、「私が今に至ったのは、全く米田のお陰だ。」
これ故に、光秀は幽斎の息子である忠興を婿としたのである。
(老人雑話)
0748人間七七四年
2014/04/12(土) 01:08:48.06ID:3JXAJmVk0749人間七七四年
2014/04/12(土) 02:35:51.67ID:cbW4eT2l盛り過ぎwwwwwwwwww
0750人間七七四年
2014/04/12(土) 07:11:11.29ID:grim2RRR0751人間七七四年
2014/04/12(土) 07:32:15.74ID:nxOJYaOk0752人間七七四年
2014/04/12(土) 09:34:05.30ID:+r3aujj20753人間七七四年
2014/04/12(土) 10:42:55.07ID:WgiqqBYR義光は寒河江を攻略すると、領内の地下人を召し出してこう述べた。
「近年の戦いで疲弊していることだろう。これからは民百姓、
安堵して妻子を養うがよい」
義光は民に扶持米を配り、所持仕置きをしてから谷地に入った。
さらに義光は領内を視察し、老人や歩くことができない者にも「非人米」
と称する配給を行ったので、まことにありがたいことであった。
義光公は誠に民の父母、手足を泰山の安きに置くようだと、
(=これからは生活が安定する)
喜ばない領民はいなかった、という。
0754人間七七四年
2014/04/12(土) 22:28:24.35ID:yawQd5P5先に進出した。この間、諸軍は都にあってそこを守っていたが、兵糧が尽き、諸軍はこれに
耐えきれなくなった。
そこで諸将は皆このように言った。「この都を放棄し後方に下がって兵糧を得よう。」
ここで、独り加藤遠江守(光泰)だけが異を唱えた
「清正は既に30里も先に進んでいる!であるのに、彼を見捨てて都を守らずに去るような者は
男ではない!」
しかし皆は言った
「食がないのだ!仕方ないではないか!」
加藤光泰は答えた
「砂を食え!」
「砂なんか食えるか!!」
これには皆も総ツッコミである。しかし光泰は平然と
「砂には食い方というものがあるのだ。若い奴らはそれを知らんのだ!」
また福島正則に向かって
「おい市松、いつの間にそんなに大きくなったのだ?」と言い、
また備前中納言(宇喜多秀家)に対しては
「今まではお前のことを中納言様と呼んでいた。だが今後は、この中納言めと呼んでやる!」
と言った。
そしてその日の晩、加藤清正は帰ってきた。都から3里ばかりの場所に陣を張り、使いを光泰に立てて
このように伝えた
『私が今からここを守り、敵を寄せ付けないようにします。ですので安心して兵糧を取り寄せて下さい。』
これこそ誠に天命というものであろう。
(老人雑話)
0755人間七七四年
2014/04/12(土) 22:36:15.75ID:u7/VKJ76既出、かと思ったら出典が違った砂加藤
0756人間七七四年
2014/04/13(日) 07:15:04.29ID:8555LqJW「義守よ。立派な跡継ぎが欲しいと願っているようだな。おまえの願いをかなえてやろう。
これからも祖先や神仏を敬い、正しい行いをするように」
武将は最上一族の祖である斯波兼頼であった。
やがて義守も正室が懐妊し、天文十五年(1546)正月元日に、待望の男児が生まれた。
すると山形城門にまつられていた山王権現(現日枝神社)上空に白い旗に見える雲がたなびき、
男児の誕生を祝うようであったという。
男児は「白寿丸」と名付けられ、また源五郎とも称された。のちの義光である。
0757人間七七四年
2014/04/13(日) 08:17:58.71ID:M0dTiUe00758人間七七四年
2014/04/13(日) 08:53:08.41ID:Jd7voNHh豊臣氏が滅亡した後、徳川政権による支配体制が確立され、諸大名に対する幕府の監視の目が強まって改易も多々行われる中、TERUは悩んでいた。
(●▲●)こんな時代だからこそ一門の結束を強め、派手なことはせずに家の存続を考えねばならないのにうちの秀就と来たら・・・
(*^◯^*)駿府で大御所様の見舞いが終わったら猿楽見るんだ!江戸に帰ったら踊るんだ!酒飲むんだ!政治なんて知らないんだ!
(●▲●)・・・・・だめだこの馬鹿息子
そして、1621年に輝元は秀就に21か条の訓戒を送るのであった。
(●▲●)<老臣や奉行の意見を聞け、側近は才能を見て選びなさい、直ぐにはぶてる(拗ねる)な、遊びは控えろ、後他の大名との付き合い方は(以下略)
(●▲●)<家康の見舞いの後に猿楽など見とるから形見分けもらってねーのお前だけじゃろが、秀忠にワシに養生せよと言われた?お前の行状が改まるのが一番の養生にして親孝行じゃ、この馬鹿たれが。
と言った感じでTERUは細々と21か条の訓戒を秀就に送っている。
そして、秀就もそれについて一つ一つ了承した旨の書状を父に返している。
家の存続に心を砕き、家族に宛て長い訓戒を送るその様子は祖父元就の晩年を見ているようでもある。
この様子をかつての後見人である小早川隆景が見たら、彼は一体何を思ったであろうか?
0759人間七七四年
2014/04/13(日) 08:53:46.38ID:62jbK+RU地味加藤、砂加藤、飛び加藤、清正加藤
0760人間七七四年
2014/04/13(日) 09:04:43.33ID:9ph50VZh0761人間七七四年
2014/04/13(日) 09:24:43.12ID:ZF6hgZ9O隆景さんでさえ、若いころの逸話見るとただのワガママ小僧だったりするし。
0763人間七七四年
2014/04/13(日) 11:33:14.45ID:8555LqJW最上駿河守とは義光の子・家親をさすが、「六十余霜」とあることから、
義光の辞世である可能性が指摘されている。
一生居敬全
今日命帰天
六十余霜事
対花拍手眠
一生居するに 敬を全うし
今日 命天に帰す
六十余霜の事
花に対ひ手を拍ちて眠らん
私は一生敬を全うしてきた
わが命今日、天に帰る。
六十年あまりの年月はただ茫々。
咲く花に手を打ち、眠るとしよう。
有といひ 無しと教へて
久堅の 月白妙の
雪清きかな
有るといい無しとも言う、有無は心がけ次第だ。
空に高く月は白く、真白い雪は清らかだ。
和歌は義光の幼名(白寿)、諱(光=明るい、白い)、戒名(光禅寺殿玉山道白大居士)、
そしてこれが辞世だとすればここにも「白」が入っているのはなかなか興味深いと思う。
0764人間七七四年
2014/04/13(日) 13:04:06.63ID:i9s/0g9sブログでやったほうがいい内容だな
0765人間七七四年
2014/04/13(日) 13:15:37.31ID:5PtRY13x0766人間七七四年
2014/04/13(日) 13:28:27.06ID:0LlpbSRu0767人間七七四年
2014/04/13(日) 15:16:03.50ID:8555LqJW辞世の句は扱っていけないというルールがあったなら失礼しました。
そうでないなら他の武将の詩歌などを扱った時もあなたはそういうことを言ってたんですか?
0768人間七七四年
2014/04/13(日) 15:18:47.85ID:vTng5FF60769人間七七四年
2014/04/13(日) 15:24:19.17ID:bPX53VYD0770人間七七四年
2014/04/13(日) 15:37:15.45ID:0LlpbSRu0771人間七七四年
2014/04/13(日) 15:38:14.47ID:fJQvg67N義光以外がメインの逸話まで見過ごしてしまいそうだ
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています