戦国ちょっといい話39
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0001人間七七四年
2013/12/28(土) 15:41:31.69ID:m9sYieeK戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1377700193/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386399929/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0639人間七七四年
2014/03/15(土) 16:58:03.46ID:IxH71Qmzこの世は神が創った
人間中心
魂の永遠性
が儒教、仏教、神道とちがうところとか
0640人間七七四年
2014/03/15(土) 17:02:24.35ID:t5w+v5cY0641人間七七四年
2014/03/15(土) 17:17:26.26ID:ed+AMNJw陽明学なら良知とか心即理
南無阿弥陀仏なら善悪とか成否の迷いを阿弥陀仏に任せてしまうんだろう
キリスト教ならGODか…
なんでもそうだが一歩間違えると危ないな
0643人間七七四年
2014/03/16(日) 11:53:42.05ID:IvvXE4J2信雄の没落とともに豊臣秀吉の寵を得なくなったが、虎之助自身が不興をこうむったわけではなく、
時おり秀吉は虎之助について話すことがあった。そこで彼の友人たちは上洛して関白殿の目に触れるよう
虎之助にすすめた。
そこで、彼は京の都に出向いて、そして、秀吉が尾張に出かける際を見計らって、その途中にある小高い
場所でボロボロの着物をまとって待機していた。秀吉がその場所を通った時、ただちに虎之助に気づいたので
すぐに彼をそばに呼び寄せて親しく声をかけた。秀吉は「このように落ちぶれてしまったのは不憫だ」と言って
馬を一頭あたえて尾張まで一緒に連れて行き、そこで米二千俵の禄を扶養費としてあたえた。
(ルイス・フロイス書簡 1591、1592年イエズス会日本年報)
0644人間七七四年
2014/03/16(日) 18:55:45.74ID:3d41eKx2吉日を占い選んだり、縁起のよい方角を考えることに時間を費やすのは、
はなはだ無駄なことで、不満足であると言わざるをえない。
吉日だからと台風の日に船を出したり、吉日だからと多勢にひとりで突撃するのは、
いかに吉日だからと、それが無益であるのは火を見るよりも明らかである。
たとえ悪い方角に向かおうとも、仏滅の日であろうとも、
情勢をしっかりと洞察して、なにが虚か、なにが実かを考察し、
臨機応変に武士どもを動かして、敵に知られぬよう武略を敷くならば、
吉日だろうと悪日だろうと必ず勝利を招くものである
『朝倉敏景十七箇条』
0646人間七七四年
2014/03/17(月) 13:16:19.32ID:vZJIuX8Q蒲生氏郷は優れた人物であった。初めは伊勢松坂で12万国を所領し、その直後に会津120万石を領した。
これは太閤の時代のことであり、その時彼は40歳ほどであった。
佐々木承禎は江州一国を領した大名であったが、織田信長に滅ぼされて江州を取られた。承禎の子は四郎殿(六角義治)
と言って、太閤の時代には咄の者(御伽衆)となって二百石であった。
蒲生は元々その家臣であったのだが、その時は百万余石を領していた。
しかし、伏見などで太閤の御前に侍り、退散の時、氏郷は昔を思って、六角四郎殿の刀を持って従われる事もあったという。
蒲生が江州で承禎の家臣だった時代には、日野を領していた。氏郷の父(蒲生賢秀)は頑愚にして天性臆病の人であった、
その頃、俗人の間では小歌に
『日野の蒲生殿は、陣さえ云やへをこきやる』(日野の蒲生殿は、戦と聞いただけで臆病風にふかれる)
と言ったのは、この人のことを指しているのである。
(老人雑話)
蒲生氏郷が、旧主六角氏にも義理を通していた、という逸話である
0647人間七七四年
2014/03/17(月) 18:00:34.28ID:IFrmhOaB図らずも心に叶った松を取り寄せて殊の外秘蔵に思った。すぐに望んだ居間の小庭に
植えたところ、
御庭裁判役人は数寄屋足袋や立付の姿で杖を突いて下知した。家政はこれに立腹し、
自らその松の辺りへ立ち寄り、土を寄せて「秘蔵である!」と言った。
これによって裁判役人は急に働いた。家政は座敷へ上り、立腹の声で、
「この松が枯れた時は、弓矢八幡、裁判人を磔にかける!」と言って入った。
そうして二、三日が過ぎて松の葉の色が悪くなったため、枯れるのではないかと、
御庭裁判人は殊の外気遣った。そして四日目の早朝、家政は件の松を見て御側の面々に
「この松の裏を表へ植え替えさせろ」と言って、内証へ入った。
故に早速植え直してその旨を申し上げると、家政は出て見たうえで「これでは枝付きが悪い。
この枝を切れ」と、望んだ五枝ほどに付紙をした。そのため、早速枝下ろししたところ、
その翌朝、また松を見て「なんとまあ、枝下ろしが物の数寄を仕損じて枝振りが悪くなった。
根から切って捨てろ」と命じて、眼前で土際から切らせたとのこと。
この事を、その節に沙汰して「植木に人を替えなければならない事情も無いということ、
また、御誓言も無かったことにするべきではないとの御思案ではないか」と恐察した。
――『尊語集』
0648人間七七四年
2014/03/17(月) 18:21:26.47ID:N9X7t7tY枯れる前に捨ててしまえば、裁判人を磔にしなくて済むし、八幡大菩薩への誓いも嘘にはならない。
裁判人も怒られてからは一所懸命に松育ててるしな。
なにも最初の発言通りに枯れるまで待って反省した者を磔にする必要はない。
蜂須賀さんは良い大将だね
0649人間七七四年
2014/03/18(火) 21:38:28.03ID:9DuFYx0xあったという。普段の珍膳・妙衣は言うに及ばず、客殿屋形の美々しきこと、言語道断であると言われた。
この勝元は常に鯉を好んで食されていたので、家来の大名たちは勝元におもねって、数えきれないほどの
鯉を贈った。
ある日、とある人が勝元を招いて、様々の料理を尽くして饗した。この時もまた、
鯉を料理して出された。この時相伴の人3,4が、恭しく陪膳していた。
さて、この鯉料理を人々は多く賞翫し、それをよろしき料理であるとばかり褒めたが、
他の言葉がなかった。勝元も料理に一礼を述べたが、この時さらに言葉を進めて
「この鯉は、名物であると感じました。きっと客への饗しのため、使いをはせて求められたのでしょう。
それに対して、この場の人々の褒め様はあまりに無骨です。それはおおむね、膳部を賞翫するまでの
有り様についてです。折角の饗しに、その素材について語らないのは、あっていいはずがありません。
この鯉は、淀より遠来したものであると見ました。その印があります。他の国の鯉は、捌いて酒に浸すと、
一度箸を入れればその汁は濁ってしまいます。しかし、淀の鯉はそうではありません。
どれだけ浸しておいても、汁の色は薄く、濁りがありません。これこそ名物である淀の鯉の印です。
皆さんの中で、重ねてこのような饗しを受ける人が有れば、この勝元の言葉を忘れないようにして
料理を褒められるように。」
そう申された。
誠に淀の鯉のみに限らず、名物は大小となくその徳のあるべきものである。こういった心を持って、
よろずに心配りをして味あうべきであると、その時陪膳した人の子という人物が、ある人の所で
語ったという。
(塵塚物語)
細川勝元の、グルメマンガみたいな料理の賞翫についての教訓。
0650人間七七四年
2014/03/18(火) 21:42:35.02ID:Ytxw/L/I淀川の鯉
同じ話のはずなのに勝元の口調が違うのがなんか面白い
0651人間七七四年
2014/03/18(火) 23:34:27.03ID:AYAz2v/O0652人間七七四年
2014/03/19(水) 17:18:53.54ID:hizg0GYy今の人は生まれつき弱くて短命である」と言った。
傍には石谷土入がおり、彼は「いやそんなはずはない。
昔も弱い人は先に死に、強い人は残ったのだ。
今も弱い人は先に死に、強い人は残るはずだ。
だから、今よりも後世の人は、再び今の人のことを
昔の人は強く長命である、と言うことであろう。
人生にどうして今昔の変わりがあろうか。
現に聖人も『七十古来稀れ也』と言いなさったのだ。
人命の長短は古今同じはずである」と言った。
――『明良洪範』
0653人間七七四年
2014/03/19(水) 17:30:06.99ID:+ZJTRZRZ0654人間七七四年
2014/03/19(水) 22:49:23.05ID:zkx8ApC4同じ逸話が翁草にあったのを思い出した。
昔の人は強健にして長寿であり、今の人は性質が弱くなり夭折するものが多いと言う。
石谷長門入道という老人がこれを聞いて
「そう言われるのには訳がある。昔の事を思いだしてみると、やはり強弱二通りの人々
が居た。今と変わりないが、そのうち弱いものが多く強い者は少しであった。
昔いた弱い者は皆死んでしまい強い者だけが生き残ったので、その人たちだけを見て
あのように言うのであろう。
今の人も弱い者は早く死に強い者は生きのこる。後世からみれば今の人々を強健と言う
のだろうな」
と語られたのは、実にもっともな話であった。
(翁草)
0655人間七七四年
2014/03/19(水) 23:34:34.17ID:uWOxnezA0656人間七七四年
2014/03/19(水) 23:42:34.92ID:1nQR0pzi「ノアとかメトセラとか、昔はもっと長命だったのです。
古事記の日本の天皇も皆さん長命でしょ?」
って言ってた
戦国時代はこの説明で納得したかもな
0657人間七七四年
2014/03/20(木) 00:42:44.23ID:NUh5ntI+0658人間七七四年
2014/03/20(木) 07:34:25.58ID:/CsLEq9L0659人間七七四年
2014/03/20(木) 09:05:57.74ID:MdcInIhj口伝がその手段だったから
複数の人物の事績がまとめられて
長命の英雄が必然と多くなるんだよん。
0660人間七七四年
2014/03/20(木) 19:55:01.98ID:EAqBVhFK0661人間七七四年
2014/03/20(木) 21:52:19.68ID:WJ2skcef0662人間七七四年
2014/03/20(木) 22:12:04.81ID:7mF3I8oQ0663人間七七四年
2014/03/21(金) 07:49:28.42ID:6Bny1OIe犯人はいつも三成
0664人間七七四年
2014/03/21(金) 16:02:55.91ID:L3GgUvBf小田原を取った。
その時、新九郎は搗栗(勝栗)を持っていて、
その噛んだ歯の跡のある搗栗を北条家は代々受け伝えた。
それを『高祖出陣の守り』といって、出陣の時に歯にあてた。
新九郎は北条家の先祖なので高祖と呼ぶ。
(其時新九郎。搗栗を持て。かまれし歯あとあるを。
代々取伝て高祖出陣の守りとて出陣の時歯にあてらる。
新九郎は北条家の先祖ゆへ高祖と云)
――『武功雑記』
0665人間七七四年
2014/03/21(金) 18:10:02.99ID:vn2csnUK0666人間七七四年
2014/03/21(金) 20:33:01.98ID:xXn8FclR0667人間七七四年
2014/03/22(土) 19:12:41.37ID:/I3Yd6Px0668人間七七四年
2014/03/23(日) 02:11:42.81ID:Lz8X/cqC先の将軍義稙公(十代将軍足利義稙)は、お心正直にて優しき生まれつきであり、武臣家僕のともがらは
言うに及ばず、公家の人々へも心を配らせ、不便の無いようにされていた。
しかし乱世の国主であったので、将軍と言っても名前ばかりの存在であり、下の者達が計らって
上意と称し我儘をふるい、これによって領地を無くした者達により、批判されることも些かあった。
こういった状況のため、武臣たちの罪によって将軍である義稙が恨まれ、いよいよ騒動も静まり難く見えた。
この頃の公方の様子を観察すると、将軍というものは寺院の長老のようなものであり、武臣は
その塔頭の寺僧であると言えた。長老は尊い。しかし寺僧たちがその前に横たわって、住持をも
排除してその寺院を思いのままにする。この頃の公方はそう言う風情であったのだ。
ある時、義稙公は大納言の某というものを召されて談笑した。そこで仰られたことには
「私は書物を読むのも乏しくはないし、天下の広さを一瞬で見ることも難しくはない。
何でも心にかなう四海の主であるので、多くの人民が、毎日痛ましきことを訴えに来る。
その事は耳に入ると不憫であるが、目の当たりにしたわけではないので、身にしみるような
哀しみはない。
畢竟、自分が苦しんだことがなければ、人の悲しみを理解できないものなのだ。
私は先年、政元(細川政元)によって苦しめられたことにより(明応の政変)、下民への労りを
思う事を学んだ。
これは、死を恐れたわけではないのだが、近くに味方が居ない時は、非常に心細いものであった。
そこから、鰥寡孤独(身寄りの居ない孤独な状態)の者が普段どんなに無力な心でいるかを
推し量ることが出来た。
慈悲の心がない者には、生きるかいもない。ましてや天下を知る者ならなおそうではないか。
第一に不憫の心を先に立てねばならない。
つらつらと古今の歴史について考えてみたが、北条泰時、北条時頼は唯人ではない。
我が朝の武賢と呼ぶべきは、彼らの振る舞いであろう。
私は壮年の頃から、常に下僕を撫で匹夫を憐れむの心を持っていたが、今は我が身さえ
心に任せることのできない世の中であるので、人々に対してその気持ちを充分に表すことも出来す、
時ばかり過ぎてしまった。いま少し世の中にあって状況を伺い、我が志を遂げたいと思うのだが、
月日ばかり過ぎていき、人生ももはや終盤となってしまった。終にはその思いも虚しくして、
憤りを胸にいだいたまま泉下に行くのだろうと思っている。
人々は衰朽の状態になれば、自らを察して心を諦めてしまう。だから、一日でも生きているうちは、
その身に応じて人を扶助するべきなのだ。」
そう、しめやかに雑談されると、大納言の某もこれを聞いて、涙で狩衣の袖を絞られ、返答することも
出来なかった。誠に大樹(将軍)の身として、このような御心ばえは世に有難きことである。
義稙公が都落ちして田舎に移られた後は、京の貴賎は皆、灯火が消え暗くなったように思ったものである。
その時にも公は人々に暇乞いをされ、仰せおかれたことに関して、皆、優しきお振る舞いであったと、
現在でもそのことを語る人が多く居るのである。
(塵塚物語)
足利義稙の、下々を想う心についての記事である。
0669人間七七四年
2014/03/24(月) 19:18:50.21ID:2TSf/xla強大な領主が居る。かれは信長の姉妹を娶り、高貴な血統に属し、勇敢な武将であり、多数の家臣、
そして好戦的な部下を有するセニョール(殿)である。
彼は日本中で常に大いなる名声を得ていることを誇りとしていた。
関白(秀吉)が支配者の座につき始めた頃、家康は信長の息子(織田信雄)を援助し、武力を持って
彼をその父に変わって天下の主に就任させようとしたため、関白は大軍を率いて家康を襲撃した。
当時、関白は今ほどの名声、位階、権力、財産を有していなかったので、家康はこの戦争(小牧長久手合戦)
において、関白麾下の1万人近い兵を殺戮した。
和平が締結された後、関白はその一人の妹(朝日姫)を家康に嫁がせたが、同女は既に歳をとっており、
容姿も醜悪であったので、『もし妻にしたくなければせめて側室として迎えられたい』と伝えさせ、
『その代わりに、自分を天下の君として認めてほしい』と願った。
だが家康が、関白がその実母(大政所)を人質として送り届けてくるまで、彼の願いを受諾しようとしなかった。
このようにして家康は、立派な贈物を携え、大いなる威厳と豪壮華麗な供奉のものを率いて大阪に乗り込み、
関白からは携えたものに劣らぬ豪華な贈物を受けたのである。
(ルイス・フロイス『日本史』)
フロイスによる徳川家康についての記載である。
0670人間七七四年
2014/03/24(月) 22:26:23.85ID:cCe+EJel一体何がどうなってそう思われてしまったのか……
0671人間七七四年
2014/03/24(月) 22:46:25.09ID:AR+vZZ6Zまぁ、権現さまはあっちの気はないからそっちの兄弟ってことはないんだろうけど
0672人間七七四年
2014/03/25(火) 10:30:45.54ID:BdvUWxRu0673人間七七四年
2014/03/25(火) 21:57:36.88ID:ok9HMWmm君が人徳を施されたことにより、仏法王法ともに繁盛した。誠にありがたい御時代である。
そもそも日本五畿七道は人皇三十二代用明天皇の御代に定まり、六十六ヶ国に分けられたのは、
四十二代文武天皇の御代であった。そして道を、四十五代聖武天皇の御代に、行基菩薩が6町1里として
王城より陸奥の東浜に至って、三千五百八十七里と極め、また長門西浜に至って千五百七十八里と詳しく
図書に記されたが、今ではその境も定かならぬ物となっていた。
そのため当君(徳川家康)の御時代に、一里塚を作るべきだと仰せ出られた。
されば、日本橋は慶長8年(1603)の江戸町割の時に新設された橋である。この橋の名は、誰か特定の人間が
名付けたわけではなく、天より降ってきたのか地より湧いて出たのか、諸人が自然と、同じように日本橋と
呼ぶようになった。これは稀代の不思議とされたものである。
ところで武蔵国はおおよそ日本の東西の中間に当たる国であるので、江戸の日本橋を一里塚の始点と定め、
三十六町を道一里として、ここから東の果て、西の果てまで五畿七道を残ること無く一里塚を設置させられた。
日本は年久しく治まることがなく、諸国は乱れ、辺土遠境への交通が難しくなっていた所を、道路の
曲がったところは見計らって直につなげ、道幅を広げ、牛馬の蹄を労させないよう石を除き、大道の両側には
松や杉を植え、小川には尽く橋をかけ、大河には船橋を渡し、日本国中、民間の国内往来の需要に備えられた。
これは慶長9年の事である。
この事に萬人喜悦の思いを致し、万歳を願いあった。このように有難い将軍国王の深恩に、末代まで
これを仰がないでいられようか。
(慶長見聞集)
慶長見聞集より、江戸幕府の、日本橋や一里塚、天下道普請に関しての記事である。
0674人間七七四年
2014/03/25(火) 22:57:25.10ID:TZsmQyDT0675人間七七四年
2014/03/25(火) 23:08:15.50ID:EpKdq+8jねーよ
0676人間七七四年
2014/03/26(水) 09:34:12.06ID:DCoh3sBt0677人間七七四年
2014/03/26(水) 10:13:51.08ID:TG0rD5/315世紀の混一疆理歴代国都之図
うん、東西の中間だな
0678人間七七四年
2014/03/26(水) 18:39:11.46ID:8AIZ5yGq御側の面々は何れの人も試合を行い、家光はとても上機嫌だった。
その時、家光は御馬方の諏訪部文九郎を呼んで御側の人々と試合するように命じた。
すると文九郎は「馬上での試合ならば負けない」と独り言を言ったので、家光は
これを聞いて「ならば彼の望み通り馬上の試合がしかるべし」と言った。
それから馬上の試合が始まり互いに馬に乗って術を尽くした。
文九郎は流石馬の達人の程はあって、一太刀も打たれないのみならず、
すれ違う時に名乗り掛けて相手を打った。
家光は感心して「文九郎は馬上達者だから側の者には一人も勝者がいない。
この上は但馬守が出て試合せよ」と言った。但馬守は「畏まり候」と馬上で立ち合い、
二人は両方から乗り出した。二人の距離が三間程になった時、但馬守は馬を止めて
文九郎が乗って来る馬の面に一打を打った。これに馬が驚いて背いたところを但馬守は
馬を寄せて文九郎をはたと打った。家光はこれを見て「誠に名人の所作。
時に臨んでの働き実に妙である」と、はなはだ感心した。
但馬守は馬術では文九郎に及ばないことを察しての業であった。
臨機応変とはこの類のことである。
この時、但馬守の子飛騨守(宗冬)も御供して父と試合したが一度も勝てなかった。飛騨守は、
「寸の延びた太刀ならば勝てる」と言ったので、家光は「ならば大太刀で試合せよ」と命じた。
飛騨守は寸延びの大太刀を持って父子が立ち合ったところ、但馬守が、
「倅推参なり(倅よ、出過ぎた振る舞いだぞ)」と言いながら、ただ一打を打って静まり、
飛騨守はしばらく気絶していた。
結局は寸の延びた太刀ならば勝てるなどということは、柳生家に生まれた者の本意ではない
ということで強く打ったのだということだ。剣術の試合はたとえ御慰みであるとしても、
たとえ試合をする者は父子兄弟であるとしても、覚悟するべきことである。
――『明良洪範』
0679人間七七四年
2014/03/27(木) 09:08:50.53ID:Lsch2pLG0680人間七七四年
2014/03/28(金) 18:55:06.66ID:aeU6Q7LZ0681人間七七四年
2014/03/28(金) 21:09:29.90ID:lNP5DXHi高橋掃部介(池端鴨之助)の事
高橋掃部介は池の端城400貫の知行を領していました。
新発田勢の先方として各地の戦いで勇敢に働きました。
新発田重家の乱にて放生川合戦の前に小坂に陣を布いた景勝は新発田城と池の端城の連絡遮断を狙い竹の花を攻めてきました。
高橋掃部はこれと戦いましたが左乳の下に傷を負い新発田城への退去に遅れてしまいました。
やがて新発田城にこのことが聞こえ父の身を案じた14になる倅が猿橋口に迎えに出ると親の掃部介が太刀を杖につき一人帰ってきました。
親子は手を取り合い喜びあいました
その時掃部介が申すに
掃『この深傷じゃ本城つくまえに俺死んじゃうと思う。今から言うことよくきくんだよ?(・ω+)』
倅『(`・ω・;)ゴクリ』
掃『お前は明日から一族郎党を扶持して一旦軍を解散させなさい。
また、母ちゃんと10才の妹は池の端に立ち帰らせなさい。
来年景勝がまた来て新発田城が落ちるようなら中間の一人や二人つけ中条越前のもとに母妹の二人を落し、お前は重家殿の死後までお供しなさい。
池の端城は明年焼いちゃえ。あ、それからお前の太刀小さいから取り替えてやる。ちょっとまってろ…』
しかし城に入り間もなく傷が重く掃部介は息を引き取りました。
つづく
0682人間七七四年
2014/03/28(金) 21:29:59.31ID:lNP5DXHi掃部介は息を引き取りましたが宝刀は倅にしっかりと渡されました。
倅はそれから親の名を襲名し掃部介と名乗り翌年の新発田城籠城に際し、15歳にして兜首1つ母袋武者2騎を討ち取る手柄を挙げました。
その内三人目の母袋武者は先年の戦いで父に槍をつけた男で、因縁とは不思議であると人々は申したといいます。
しかし天正15年10月28日ついに新発田城は落城の朝を迎えてしまいます。
重家と別れた掃部介は太斉口にいる中条越前は叔父であれば備えも乗り切れると思い、また搦め手で討ち死にしようものなら末代までの恥と思い、堂々と表門から出ました。
寄せ手や落ちのこりの者は大将首が落ちるのをみて一斉にかかってきましたが、難なく打ち払い宮内の八幡林を目指し落ちていきました。
そして池の端城に入って母と妹を中条越前のもとへ落ち延びさせ、翌29日手勢30騎あまりを率い城門よりドッと突いて出て寄せ手を蹴散らしそのまま行方不明になりました。
あとで聞いた人々は天晴れ剛強の大将と褒め称えたとのこと です
つづく
0683人間七七四年
2014/03/28(金) 22:07:11.87ID:lNP5DXHiこうして池の端城は落城しましたが、戦が終わり世の中が穏やかになったころ、掃部介は宮内に住んでいました。18歳になっていた掃部介は40余年間宮内に住んで寛永の末ころ亡くなりました。
八幡林に柴垣をめぐらし、常々言っていたことは
『因州(重家)の供をしていたならば、身上も稼ぎ、損もしなかったものを、主の後先を見離したので周囲の人の目が恥ずかしい』
と、いつ襲い来るかわからない敵を注意して生活していました。
また、宮内の神主に折々神事の頼み事があったので協力していたとのことです。
そのうち宮内八幡の神主の跡が絶え、加治佐々木の一族で佐々木右京、後に相模と名乗る者を後継に迎えました。この者は元和年間に宮内へやって来て54歳で亡くなります。
その二十歳くらいまでは掃部介も生きており『爺様爺様』となついていたようです。
波乱に満ちた掃部介にとり最も穏やかな日々であったことでしょう。
というのが言い伝えであります。
ですが文禄三年の定納員数目録によると色部氏平林在番衆に池端鴨之助で20石5斗、2人3分5厘役と記されており、高橋掃部介(池端鴨之助)は実在の人物であり宮内に住んでいたのはあくまで逸話のようです。
ちなみに掃部介は美濃の出身。斎藤道三の一族であるとされています
終わり
地元には他にも新発田重家の遺児のその後など伝承があります。粗末な長文失礼しました
0684人間七七四年
2014/03/29(土) 23:48:36.36ID:VcugJRp4家臣たちが答えかねていると、秀吉は次の様に言った。
「儂なら家康につく。氏郷は剽悍な男だ。家康が氏郷の兵を5、6人倒せば、その中には必ず氏郷がいるだろう。
しかし氏郷が家康の兵を4、5000人倒したとしても、その中に家康の首は無いだろう」
『嗚呼古英雄』(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900045)より、家康と氏郷のお話し。
一般的には信長と氏郷のバージョンが有名だが、家康と氏郷の場合もあったようだ
0685人間七七四年
2014/03/30(日) 00:47:37.05ID:vGbXD4q7俺も家康に味方する
0686人間七七四年
2014/03/30(日) 14:22:53.03ID:DIHxGh2+平三郎は尾張の人で、三河へ行って徳川家康に仕え、三方ヶ原で討死した。
その半右衛門は福島正則に仕えた。正則が領国を召し上げられて信濃へ流される時、
江戸屋敷をも受取の人数が取り囲み、もし上意に背く者がいれば討ち捨てるとの
ことだったので、
家士は大方が落ち去り、七、八人が屋敷に残った。半右衛門も残った一人だったが、
主人正則が流される途中で殺されるであろうとの風聞があったので、
江戸屋敷を立ち出て正則の後ろ辺りに付き、信濃までやって来た。
その時、正則は平生の愛が深くなかったことを悔やみ、
懇ろに至忠の情を感謝したということである。半右衛門は後に水府公に仕えた。
――『明良洪範』
0687人間七七四年
2014/03/30(日) 20:51:19.39ID:2aPeRQvX宣教師の追放を決定。これにより京にあった教会(南蛮寺)も破却されることとなる。
この教会の司祭たちは都を去るにあたって、異教徒で関白の側近である都のゴベルナドール(奉行)、
前田玄以を訪問させた。彼は事情を聞いて激昂し、その母親の言葉を無視し、自らの身分すら省みず、
司祭からの使者に対し
「大阪で関白(豊臣秀吉)を殺したい!よって、この挙に抜かりはないから、伴天連たちは安心されよ」
と言った。同様のことを関白の甥の孫七郎殿(豊臣秀次)も司祭たちに伝えさせ、秘書のコスメ(庄林)に
答えて言った
「関白殿下は自分に何ら相談も通知もなく伴天連達を立ち去らせてしまったが、伴天連たちは明らかに、
関白に何か言いたかったに違いない。だがおそらく逡巡し、あるいは自分たちのための仲介してくれる
者が居なかったので、あのようにして去っていったのであろう。」
そこで孫七郎殿はオルガンティーノ師に宛てて非常に丁重な書状をしたためさせた。
近江国の領主であるこのプリンシベ(君侯)には五畿内で最初で最古の二人のキリシタンが奉仕していた。
一人は池田シメアン丹後殿といい、もう一人はコスメ・ショウヨと称する彼の秘書であった。
彼らは関白が下(九州)から五畿内に帰還した時には、棄教しないキリシタンを殺す決意である、との噂に
接すると、名望ある貴人である両人はともに主君なる孫七郎殿の前で、おのが信仰を宣言し、
「我らは既に27年間もキリシタンとして生きてまいりました。我らの妻子、家臣らも皆同様です。
デウスの教えを受け入れている今、我らにとってはこの教え以外に救いがないことは、あまりにも明確です。
殿の伯父君である関白殿下が、この件で我らを殺すように命じられるにおいては、我らは喜んで
関白殿下の前で信仰を表明する決意でございます。」
そのように申し出た、彼らはそれを、大いなる歓喜と平静さと信念を持って述べた。そしてさらに
「もしこのままキリシタンとして奉仕して差し支えなければ、身共としては従来と何ら変わりなく
忠誠に励むでありましょう。だがその許可が与えられぬにおいては、潔くデウスの名誉と信仰の証として
追放処分を受ける決意であります。」
と言った。
この若者(豊臣秀次)は、伯父(秀吉)とは全く異なって、万人から愛される性格の持ち主であった。
特に禁欲を保ち、野心家ではなかった。
日本では自然に反する悪癖(男色)が一般に行われていたが、彼はそのようなことを忌み嫌い、
数日前にも一家臣が他に対して日本ではそれまで今だ見聞きしたことがないようなことを犯したので、
その男を殺させた。
(ルイス・フロイス『日本史』)
宣教師によるバテレン追放令への対応と、豊臣秀次への評価に関する記述である。
0688人間七七四年
2014/03/30(日) 23:11:28.99ID:s9zM/PcZ0689人間七七四年
2014/03/31(月) 00:35:24.06ID:Id18rSAo0690人間七七四年
2014/03/31(月) 01:32:53.01ID:5EdZuoAO0691人間七七四年
2014/03/31(月) 02:49:48.81ID:yTnlAYgJ0693人間七七四年
2014/04/03(木) 17:02:10.23ID:hE78VDN9父の頼みで、安藤彦兵衛が初陣の手引きをすることを引き受けたという。
合戦は池田方が負け退くと、家康公の軍勢はさらに本城へと押し寄せ、
勝入が打ち出てきたところ、彦兵衛が渡り合い、槍で倒した。
彦兵衛は伝八郎を呼び、首を取るよう促すと、伝八郎は倒れた敵に馬乗りになり兜をとりのけた。
顔を確認した伝八郎は、
「初首に坊主の首は嫌だ」
と言い立ち去ろうとすると、倒れながら勝入が、
「見事な心がけの若武者である。
ワシこそが日本に隠れもない武勇の大将池田勝人斎だ。
我が首を取りて、末代までの手柄とせよ」
と言った。
すると伝八郎は引き返してきて、首をかき落とし、家康公のお目にかけた。
安藤は自身がまず槍をつけたことを言わず、伝八郎の手柄としたのである。
その後、和睦ということになり、家康公は勝入の息子三左衛門(輝政)を婿とされた。
その婿入りのとき、三左衛門が是非とも永井に会いたいと言い出した。
家康公をはじめ皆の者が、どうしたものかと気遣ったが、永井はそれを伝え聞くと、
「三左衛門殿にとって、拙者は親の敵であるから、婿入りの肴に我が首を御希望されるのかもしれない。
そうと知り出向かないとあっては武家の門に傷がつく」
と言い、すぐに御前へと参上した。三左衛門は永井に盃をさし、
「我が父の首を、あなたは十五歳にして討ち取ったと伝え聞いています。
十五にして比類なき高名手柄、日本が日本である間はその武勇隠れもないことでしょう。
ところで永井殿は知行はいかほどいただいているのか?」
と尋ねると、話を聞いておられた家康公が、
「永井には七万石与えている」
と仰せになられた。
すると三左衛門は、
「これほどの剛の者には少なく思われます。
永井殿へ御加増くださるよう、拙者からお願い申し上げます」
と言うと、家康公はその場で十五万石への加増を決めたとのことだ 【葉隠】
0694人間七七四年
2014/04/03(木) 17:57:41.77ID:tTCr7JUK0695人間七七四年
2014/04/03(木) 21:08:05.88ID:Zuu527790696人間七七四年
2014/04/03(木) 23:00:45.85ID:fIycXk3n三河牛久保の牧野右近大夫のところに仕えた時、光秀の知行は百石ほどであった。
光秀は傍輩の中野某に語って、
「侍の行末はお互い分からぬものだ。もし私が一城の主になったならば、
被官も欲しいことであろう。そうなった時には、貴殿は頼もしい人なので私のところへ
呼んで城代にしよう。貴殿が立身したなら、その時は私もまた被官となろう」
と約束した。そして後に丹波を拝領した時、光秀は中野を呼んで亀山の城代とした。
――『武功雑記』
0698人間七七四年
2014/04/04(金) 18:41:28.43ID:v7DrC6jR石高が十倍だっておかしくない…(白目で)
0699人間七七四年
2014/04/05(土) 00:10:29.69ID:FfYqcsdC京に赴く途中、不思議なものに出会ったという。
これは老人かと思うと、またにわかに若くなり、若いのかと思えばまた、忽然としてシワが寄って見えた。
一体どういう人物なのか一切判断できない、怪しい者であった。
この人物が浅いに語ったことは
「その方の家、必ず末に栄えて貴族の名を得るだろう。頼もしく覚えておくが良い。しかし慎みがなければまた憂うこともあるぞ。」
そこで浅井某が近づいて何か話しかけようとすると、たちどころに消え失せてしまった。
乱れた世には必ず魔障があると言われるが、この話のような類の事なのであろう。しかしこの曲者は良いことを言って
きたのであるから、只者では無いのであろう。
(塵塚物語)
天分21年(1552)成立とされる塵塚物語より、後の戦国大名近江浅井家の祖について書かれたと思われる逸話である。
0701人間七七四年
2014/04/05(土) 15:27:38.67ID:YSDBEeXL0702人間七七四年
2014/04/06(日) 21:19:44.61ID:wJYmAo3t妙堂崎の山手にさしかかったさい遥か東北の方に茫々と広がる芦原を望むと、
無住の地と思わる彼方に一大老樹が天を覆っていた。
その傍より一条の炊煙が立ち上るのを見つけ奇異の念をいだきその所を尋ねる事にした。
ようやくたどりついて見ると一大老柏木の傍に葦芽の家が三軒並んであった。
これは、工藤祐益、花巻頼母、山崎織部等落武者の庵で付近僅かに粟稗が耕されてあった。
一行は暫くこの草庵に憩をとることにした。昼時ともなったので、村人達は心をこめて粟や稗の酒飯を炊いてもてなした。
為信公はことのほか上機嫌で祐益老の願いを聞くと産土神の御加護の下に開墾を進めたい、とお宮の建立を上願した。
そして為信公はしの四方遥か広漠たる葦原を眺めこの土地を広須野と名づけ帰城して行ったという。
翌天正5年(1577)旧三月公命によりて国家安泰万民豊楽五穀成就、
新田開発成就の祈願の社として広須八幡宮が建立され祐益老の孫千之太夫が宮司となった。
(柏正八幡宮境内由緒書)
津軽為信が開墾を奨励したこの地域は、第二次世界大戦中に全国で最も米の供出量が多い地域となった。
0703人間七七四年
2014/04/07(月) 13:11:13.23ID:zo7V+3Jg1600年9月中旬、米沢の直江兼続は兵25000をもって「最上三堅」のひとつ畑谷城を包囲
城主江口道連に降伏勧告を出したが道連はこれを拒否
畑谷城の最上勢500は直江軍の猛攻の前に玉砕した
畑谷城主江口道連とかねてから親交のあった最上方の将、悪戸館主加藤清次は江口道連の死を聞いて大層憤慨し、畑谷方面の直江軍へと突っ込もうとしたが、主君最上義光から「兵を連れ、すぐに山形城へ入れ」との命令を律義者の清次が破る訳にもいかずに
一族郎党を連れて後ろ髪を引かれる思いを残しつつ悪戸を背にし山形城へと向かった
9月23日頃、最上義光もついに山形城を出、直江軍と対峙しつつ、悪戸から東に少し離れた本沢付近に陣を張る
加藤も「決戦地は我が領ゆえに是非軍にお加えくだされ」と義光に願い出、義光の先鋒の一翼となった
(つづく)
0704人間七七四年
2014/04/07(月) 13:14:01.38ID:zo7V+3Jg9月25日長谷堂北西で刈田狼藉を行っていた上杉兵を長谷堂の鮭延隊が急襲
仲間を守ろうとした上杉方の水原・春日軍が増援を出し、大規模な戦闘に発展
長谷堂城の失陥を畏れた最上義光もこの様子にいきり立ち、山形本隊も戦闘に本格的に参加
「名を惜しめ!命を惜しむな!」と激を飛ばし加藤清次はこの戦いで上杉軍に突っ込み凄絶なる討ち死にを遂げた
戦闘前に「吾(われ)元より生還は考えておらん」を郎党に宣言していたと言う
加藤の郎党が討ち死にした主の首級を敵に取られまいと
上杉方に十二十と向かい討ち死にする間
加藤の従者や小者が数人、主の亡骸を抱きかかえ時には背負い、最上の陣へと駆け戻った
加藤の悪戸衆は勇敢に戦ったがこの日多くの戦死傷者を出したと伝わる
加藤が身に着けていた甲冑は個人蔵として現存
平成の世の初期に最上歴史館で公開がなされた様だが
ネット上詳細や画像は公開なされていない模様
0705人間七七四年
2014/04/07(月) 13:33:23.13ID:zo7V+3Jgほかに「如何に死に花咲かせようか」等
覚悟というより死ぬ気満々だった様です
0706人間七七四年
2014/04/07(月) 15:18:03.98ID:zo7V+3Jg二ヶ月ほど前に話題になったものから
2014年2月、山形大の松尾教授は直江兼続が関ヶ原の戦いを前に、会津地方で伊達軍と戦っていた家臣に宛てて書いた直筆の手紙が見つかったと発表した。
写本はあったが兼続の直筆の現物の確認は初めて。伊達軍との戦いで善戦する家臣の頑張りを褒めながら「政宗は油断ならぬ相手、伊達軍の動向を滞りなく知らせるよう」指示を出している
書状は山形市の個人蔵
山形大の松尾剛次教授が花押や筆跡から本物であると鑑定した。
本村親盛と上泉泰綱を含む家臣4人に宛てたもので、日付は慶長5年7月27日。小山評定の二日後のもので、伊達政宗が旧領地の会津地方を奪還しようと攻勢を強めていた時期にあたる。
(つづく)
0707人間七七四年
2014/04/07(月) 15:20:27.41ID:zo7V+3Jg「すぐに城(福島県川俣町)を攻め落とし、城主の桜田氏をはじめ残ることなく討ち果たしたという。おのおのの頑張りは素晴らしいことである」とねぎらう一方で
「白石に伊達政宗がいるというので(上杉景勝から兼続も伊達の介入を防ぐ様後方支援の)後詰めを申しつけられた。(中略)。政宗の様子を注進するのを待っている」と要請している。
松尾教授は「当時の緊迫した状況がうかがえる。写本には誤りも多く、現物は上杉家の研究に役立つ貴重な資料。
上杉家の歴史だけではなく、東北史を見直すきっかけになれば」と話している。
(つづく)
0708人間七七四年
2014/04/07(月) 15:22:44.53ID:zo7V+3Jg文章はおおよそ縦15a、横75a。
他に兼続は書状で会津征伐に小山まで来ている家康が引き返したとの情報を「事実ではないだろう」と指摘。
関ヶ原の戦いを目前にした7月に、兼続は11通の文書をしたためているが、現物が見つかったのは3件目。
上杉文書を書き写した史料「覚書公御書集(かくじょうこうごしょしゅう)」に、この書状に該当する写しがあり、内容は基本的に同じだが、「書状を拝見しました」の部分を「連状」とするなど誤写があるという。
また今回、御書集の原本の一部と見られる書状が見つかり、内容も同じで貴重な資料。
松尾教授は「これにより御書集の資料的価値が上がった。さらなる直江文書の出現を期待している。また、上杉氏が会津に移封後の研究の活性化が期待される」と語っている。
0709人間七七四年
2014/04/07(月) 15:26:14.36ID:zo7V+3Jg誤)文章はおおよそ縦15a、横75a。
正)文書はおおよそ縦15a、横75a。
でした
0710人間七七四年
2014/04/07(月) 17:12:22.80ID:zo7V+3Jg現在の山形市の芋煮と言えば「醤油味ベースに牛肉」のもの
主に地元の水に「醤油」「砂糖」「日本酒」「みりん」等で味付けをし
中に入れる基本的な材料は「里芋」「牛肉」「ネギ」「蒟蒻(こんにゃく)」
「ゴボウ」と「きのこ(しめじ)」で味を引き立たせる事もあれ
牛肉が一般的に食べられる様になったのは明治維新を経て、山形では明治4〜8年の事と見られている
しかし最上義光の時代にも材料や呼び名は多少異なれ
「芋煮」の元となった「芋汁」が存在した
主な材料は村木沢で取れる里芋で
絹の様に繊細な歯ごたえと素晴らしい味から室町時代の頃から城の殿様への献上品とされ
タネいもや作物は畑荒らしや盗っ人が出ない様に畑や小屋に番が付けられ、外で作る作物ながら栽培方法も「門外不出」のものとされていた
(つづく)
0711人間七七四年
2014/04/07(月) 17:23:50.60ID:zo7V+3Jg慶長期頃の芋煮(芋汁)はこの村木沢の「里芋」をメインに「味噌」「塩」「しょっつる(魚醤)」「酒」などで味をつけ
「山菜」「野菜(大根・人参ほか)」「棒たら」「鮭(ほか魚)」やら時によっては「猪(しし)肉」や「鹿肉」までを具としたらしい
現在村木沢産の里芋でも特に「悪戸芋」と呼ばれる品種は人気があり
今でも山形市民の芋煮にはけして欠かせないものとなっている
最上義光(´・ω・`)里芋と最上の水の味は昔からそう変わるものではないんよ
「芋煮」→昔の呼び名は「芋汁」「芋っこ煮」「芋鍋」など
0712人間七七四年
2014/04/07(月) 17:31:18.36ID:zo7V+3Jg(´・ω・`)「芋煮は醤油ベースに牛肉なんよ」
(●∀゚)東北芋煮戦争(´・ω・`)
…ただし東北地方では牛肉派は山形市を除いてごく少数らしい…
0713人間七七四年
2014/04/07(月) 17:31:55.93ID:H5lHQBVH0714人間七七四年
2014/04/07(月) 17:46:43.99ID:zo7V+3Jg東北や北関東を除いて近畿や西日本にも芋煮ってあるんでしょうか?
ゲスト
豊臣秀吉・古田織部・佐竹親子・伊達政宗・最上義光・蒲生氏郷・上杉景勝・浅野長政・福島正則・加藤清正ら…
これがいわゆる「荒芋煮」か
0715人間七七四年
2014/04/07(月) 20:44:04.97ID:OswswczU0716人間七七四年
2014/04/07(月) 21:50:53.62ID:4noQd+5O0717人間七七四年
2014/04/07(月) 21:57:12.12ID:zo7V+3Jg「鶏肉」「鴨肉」も可能性あり
「蒟蒻」は当時はお寺さん絡みの精進料理や薬膳の一種のため、武士や一般の民らが普通に口にしていた(家庭料理の素材にしていた)かは不明
>>716
正則「キヨ!なに芋煮にヒゲつけてんのよ…」
0718人間七七四年
2014/04/07(月) 22:00:28.29ID:VUjE3zoE0719人間七七四年
2014/04/07(月) 22:06:19.52ID:GUC7Ww5M三成「治部煮」
信長「田楽」
家康「味噌」
0720人間七七四年
2014/04/07(月) 22:21:46.76ID:4noQd+5O宇喜多「まぁ一杯飲めや」
0721人間七七四年
2014/04/07(月) 22:45:17.86ID:8apv95LXしかし落語でも三歳様は作法に詳しいことになってるな
0722人間七七四年
2014/04/07(月) 23:19:30.69ID:O5g8gk6V0723人間七七四年
2014/04/08(火) 10:12:15.72ID:J51LNWDh世間では桜の季節ながら
鮭様が詠まれた和歌が過去の逸話には少なかったと思うので一首を追加
最上義光「冬来ぬと はや山里は霜寒み 沓に音ある 庭の通ひ路」
現代簡易訳
義光(´・ω・`)「いやー、冬ってやっぱり寒いんよ。あ!霜柱!踏むとしゃくしゃく音がして楽しいんよ!」
としよ姫「…あなた、いい歳してみっともない…」
義光(´・ω・`)「!」
和歌や連歌は文化教養を表すものだと言われているけど
「ポエム」と直すと人に見られた際の恥ずかしさが増すのは現代の感覚なのだろうか?
0724人間七七四年
2014/04/08(火) 18:08:03.77ID:MsP3+hWE和歌だろうとポエムだろうと上手く出来たと自負してればドヤ顔だろう
0725人間七七四年
2014/04/09(水) 17:06:11.84ID:O2kLbFHv秀次事件に連座して処刑された愛娘の駒姫を弔うため、最上義光は大石田から高僧を招致
寺を造るのに合わせ山形城から駒姫の居室を専称寺の本堂の一部として移築
また東北一の伽藍を造るのに名工左甚五郎に鎮魂の像を作ってはもらえないかと依頼した
途中の経過はわからない
山形を訪れた左は工房で片肌を露にし
木塊へ蚤を入れ、力士像を作っていた
寺の造営に来ていた人足らは
天下の名人が来ていると聞きつけ
作業の合間に左の工房の入口には野次馬が訪れた
人足「すげえな。元から木の中に力士が埋まってたみたいだ」
他の人足「んだんだ、すげえすげえ。さんすが天下の左だ」
左は手を止めると人足らに振り返った
左「そんなにまざまざと見つめられてもこっ恥ずかしくなります。木材には余裕がありますから、作業の合間に休まれているときに、なにかみなさんで眺められる様なものをついでですからお渡ししますか?」
人足「いいんだが?」
人足「銭こそんなねぇで?」
左「お褒め頂いたので特別ですよ」
専称寺の人足らには
左作の鳥やうさぎ?の像が渡された
(つづく)
0726人間七七四年
2014/04/09(水) 17:07:41.33ID:O2kLbFHv坂光秀「ほうほう、これは見事な出来栄えじゃな」
伊良子信濃「むう。今にも動き出しそうじゃ」
像の噂を聞き付け町民だけでなく
武士らも造営地を訪れる様になった
???(´・ω・`)「力士像のついでに???にも追加でなにか動物の木彫りを作ってくれない?お礼ももちろん追加するんよ」
左「はい、畏まりました」
やがて専称寺本堂は落成し
梁の四方には左の作った力士像が配された
左は山形滞在の折りに
いくつか木彫りの動物の像を残したといった話がある
慶長から元和に最上の殿様から功績によりこの左の像のひとつを賜った武士がいた
最上家の改易によりこの侍は野に下り商いを始めたが、左の像は家の宝として大切にされていた
しかし明治の大火でこの像は屋敷とともに灰に帰したという
言い伝えによれば日光東照宮のものと姿形の似た
ひなたぼっこをする猫の像だったという話である
「山形の昔話」
伝承通りならまだいくつかの像が見つかるかも知れないロマンのある話って事で
0727人間七七四年
2014/04/09(水) 17:11:23.49ID:O2kLbFHv山形を訪れた左がどの左だったかは謎ではありますが
0728人間七七四年
2014/04/09(水) 23:56:11.30ID:TDkkNI/t宮大工だっけ?
0729人間七七四年
2014/04/10(木) 00:02:43.63ID:U0k1fWg/0730人間七七四年
2014/04/10(木) 03:46:33.37ID:hmeg8M3bここでは、ある者は碁や将棋を楽しみ、ある者は乱舞を楽しむなど、それぞれの好みに従って遊んだ。
対抗は常にこう言った
「能き夢を見ているか?」(能き夢を見する哉)
この言葉を口癖のようにしていたという。
また太閤の身の回りは常に軽々としていた。ある時徳善院(前田玄以)がこの事を諌めたところ、
太閤はこのように答えた
「天下に俺に勝る主君は居ない。誰が謀反しようと思うのか。」
(老人雑話)
0732人間七七四年
2014/04/10(木) 10:32:48.95ID:i5X0zE6N今は鳥居忠政の改修以来大きく川筋の流れが変えられたが、最上義光の時代には白川(現・馬見ヶ崎川)は盃山から山形北高の南側交番付近を経由し、遊学館南、旧県庁(文翔館)の辺りを流れていた
山形城下を流れるという事で「城の川→城川」とも、砂金を含んだ土砂が蔵王から流れてくる事に因んで「白い川→白川」とも呼ばれていたとも伝わる
川道から城や市街に掛けてはいくつかの堰(用水の一種)が設けられ
市井の民らが野菜を洗ったり、水を庭口に引いて魚を飼ったりしていた
平成になってから七日町に「御殿堰」が復元されたが
山形市民の方々は
最上由緒の堰の形跡を他にも見てはいないだろうか?
整備され様相は変わってしまったが山形大学脇の小川
(白川から水を引いた小さな白川で「小白川」の由来)
専称寺の清流など
他にも道路脇やブロックの下に結構隠れてはしまったが
最上、そして鳥居時代に作られた生活用水は
夏の暑い山形の冷を招くのに
現代でも一役を買っている
※現・馬見ヶ崎川の名称には複数の説があり
源義家が羽州に来た際に夢の中に馬が出た事に因む
源義経が(同上)
最上義光が氾濫した川道工事を馬上から見たから
鳥居忠政が川道を変える工事を(義光に同じ)
などの説があるため
古い時代の馬見ヶ崎川の別名の「白川」の方を使わせて頂きました
0733人間七七四年
2014/04/10(木) 10:42:35.41ID:i5X0zE6N最上〜鳥居時代頃の物と考えられます
※明治から昭和に掛けて作られた双月、印役や山家の用水が
イメージとしては当時のものの姿に近いかと思われます
0734人間七七四年
2014/04/10(木) 11:25:41.37ID:i5X0zE6N草苅備前は最上義光の腹心であったが、兼山の鮭延秀綱を攻める戦いで甥の武田兵庫が討ち死にしてから山形城への出仕が傍目には滞りがちとなっていた
義光は「心中察する。喪が明け落ち着いてからで良いから出仕をせよ」と備前に心ばかりの品を送った
しばらくして備前は山形城に登城し、義光に贈物の礼を言い、書院奥の一室でなにやら二人で話をした
が
屋敷に戻った備前の出仕は喪の際にも増して滞りがちになった
家族の者が登城をする様言葉を掛けても
「あ〜、俺に構うな、ほっとけほっとけ」と狩りや川干しへと遊び歩いた
城から出仕を呼び掛ける使いが来ても
仮病や居留守を使い会おうとはしなかった
そんなある日事件が起きる
生殺与奪禁止の最上義守の寺領で草苅備前が狩りを行った事が最上義光の耳に入った
義光はかんかんに怒った様に見え
小姓らが「草苅さまは何か誤ったのでございましょう、まずは理由を確認くださいませ」と宥めるのも振りほどき
自ら馬を駆り草苅備前の屋敷に乗り込む素振りを見せたが
「備前め許さん!今すぐ奴を呼べ!訳の如何によっては叩き斬ってくれるわ!」
と番の者を備前の下へと送ったが、備前は既に単身最上の敵である武藤(大宝寺)氏の所領である庄内へ向けて逐電した後であった
(つづく)
0735人間七七四年
2014/04/10(木) 11:38:47.30ID:i5X0zE6N武藤光安(※大宝寺義氏の一族で剛の者とされる)「…それで最上義光の下にはいられなくなったから、この庄内で働きたいと?」
草苅備前「もうあんな奴(義光)の下に仕えるのは御免です!それに私は山形の事に詳しいのでなにかとお役に立てると思います」
光安は草苅備前の身の上を家来の者に確かめさせたが
備前の言う通り山形では義光が怒り狂い、備前の行方を探しており「この手でをなんとしても備前をぶちのめす!奴を殺さず生かして連れて来い!」との命令をあちこちに発っしている事がわかった
草苅備前は武藤光安の近臣として取り立てられ
光安は備前から義光が近く庄内攻めを企んでいる事を聞くと軍備を備え、先を取ろうと諸兵に参陣を求めた
(つづく)
0736人間七七四年
2014/04/10(木) 11:52:03.45ID:i5X0zE6N庄内に来た草苅備前は武藤光安の重臣で高坂館主の川越中務といった老将の屋敷に人目を憚り出入りをしていた
中務の一人息子は武藤光安の小姓を勤めていたが、つまらない失敗を咎められ、武藤光安によって手討ちにされていた
他の武藤の家臣は中務を気の毒に思うも、光安の癇気を恐れ、中務は武藤家中でもほぼ孤立した状態であった
備前は気弱になっていた中務を見舞い
ある日機を見て打ち明けた
草苅備前「…中務殿、武藤の殿様は短気にわがままで自分勝手。中務殿は本当に気の毒じゃ」
川越中務「…老い先短いこの身、ほんまに口惜しいて口惜しいて」
備前「…武藤の殿を怨んでおいでと?」
中務「恨まずにいられるか!息子はもう戻ってこんのじゃ…」
備前「…」
備前「…中務殿、それなら山形の殿様に仕えぬか?」
中務「! はぇ!?」
(つづく)
0737人間七七四年
2014/04/10(木) 12:09:24.99ID:i5X0zE6N武藤光安の下に山形の最上義光が兵を上げ、庄内へと向かっているとの報が入った
武藤光安「草苅備前からの情報で用意は万端じゃ。この地を義光の死に場所にしてやろうぞ」
大川を挟み武藤軍と最上軍が対峙した
最上方の先鋒は白地に「の丸」の旗の楯岡満茂
いくさは武藤軍有利かと思えたが、武藤軍の後方の味方から叫び声が上がった
「後陣の川越中務、裏切りでございます!」
前に最上軍
後ろに中務の兵
武藤軍は蜘蛛の子を散らすかの様に打ち破られ
逃れられぬと悟った武藤光安は馬上で喉を掻き斬りあえない最期を遂げた
最上義光「備前、ご苦労。面倒を掛けたな」
草苅備前「いえいえ、お気になさらずに」
義光は川越中務に武藤光安の旧領を与えようとしたが
中務は武藤光安の菩提を弔うために仏門に入る事をお許しくださいと断り
義光は武藤光安と中務のためにその地に寺を建立した
『最上記』
鮭様の謀将を匂わす一面の記録
※武藤光安は実在が不確かとされています
※「悪屋形光安」と書かれる事から
武藤光安は大宝寺(武藤)義氏との同一人物説や混同の可能性もありますが
義氏は山形に身柄を移され
殺害されたといった話もあります
0738人間七七四年
2014/04/10(木) 19:34:00.70ID:JDN5WJMR関ヶ原後、八カ国に膨らんだ家臣団を防長二カ国で賄わなければならず、
もういっそ二カ国も返上して浪人になるしかない・・・と考えたのは有名ですが
実際にその決意を幕府に取り次ぐように黒田如水に依頼したとか・・・
さすがの如水さんも
「防長を返上しても借金は返さなければなりません
輝元公が浪人になっても借金は身の上にかかったことなので唐・天竺まで逃げてもどこまでも追いかけてきます
私にも名案があるわけではありませんが・・・」と輝元さんのことを心配しつつ浪人なることを思いとどまらせました
如水さんのいい話になるのかな〜
TERUさんがどーにでもなれ〜!してたら幕閣が随分早くから浪人問題に頭を悩してたんですかね〜
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