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戦国ちょっといい話39

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0001人間七七四年2013/12/28(土) 15:41:31.69ID:m9sYieeK
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1377700193/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386399929/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0507人間七七四年2014/03/02(日) 22:57:59.42ID:NLaQcctt
中野義時「最上義義殿はまことに果報者でござるな」
0508人間七七四年2014/03/03(月) 00:41:48.03ID:FyC8JvMy
元々最上の通字って義じゃんって思ったけどそもそも8代義春が義政からの偏諱なんだね
0509人間七七四年2014/03/03(月) 09:31:13.77ID:pplLvV05
嫡男生まれる度に将軍に金払うのかよ
しかも、高い方じゃん
0510人間七七四年2014/03/03(月) 13:19:47.23ID:StYziPN7
>>506
覇王伝でそれ見たとき眩暈したわ
0511人間七七四年2014/03/03(月) 13:22:11.58ID:RwypAZiN
浦上政宗「そなたにはこのワシの名より一字をやろう。本日より伊達政宗と名乗るがよい。」
伊達輝宗「ちょwww」
0512人間七七四年2014/03/03(月) 13:29:38.86ID:RwypAZiN
足利義輝からの偏諱って
地方の有力豪族や名族であって幕府から認められた者の条件の他に
「義」の字…金100両
「輝」の字…金30〜50両
でしたっけ?

史料元ご存じの方いらっしゃいます?
0513人間七七四年2014/03/03(月) 14:17:00.42ID:Z4nVCXkO
つまり名家の生まれで三百両を献上すると、義義義になれる・・・?!
0514人間七七四年2014/03/03(月) 14:31:18.95ID:wBN78BnR
それをやったのが義義義(みよし)長慶
0515人間七七四年2014/03/03(月) 14:41:45.61ID:eL9tIS29
「昭」は…「昭」はお幾らなの!?
0516人間七七四年2014/03/03(月) 15:38:00.43ID:/Kimv4y4
ちょっとまて。「栄」の存在を完全に忘れてるぞ
0517人間七七四年2014/03/03(月) 15:43:50.96ID:RwypAZiN
>>515
義秋時代
一色秋孝(一色四郎、御部屋衆の一人、のち重ねて「昭」の字を与えられて昭孝に改名)
大崎義隆
島津義弘
畠山秋高(のち重ねて「昭」の字を与えられて昭高に改名)ほか

義昭時代
石川昭光
飯尾昭連(奉公衆の一人)
大友義統
二本松義継
細川昭経(細川輝経の子)
朽木昭貞(三淵秋豪の実弟)
山名義親(山名祐豊の嫡男)
真木島昭光(近臣)
最上義康ほか

※義・秋・昭からそれぞれ適当にチョイス
足利義晴・義輝の偏諱の方もかなり多い
0518人間七七四年2014/03/03(月) 15:46:28.77ID:RwypAZiN
「昭」…信長に追われて権威が失墜するまでは
「輝」並の金銭は稼げたのだろうか?
0519人間七七四年2014/03/03(月) 23:09:05.05ID:1JXA8I25
>>511
つか伊達政宗は浦上政宗の生まれ変わりですから
0520人間七七四年2014/03/04(火) 19:18:43.12ID:GnGhmTSc
>>519
伊達輝宗が偏諱で政宗に改名したら
梵天丸が政宗を名乗るのはおかしくなる
0521人間七七四年2014/03/04(火) 19:21:13.62ID:GnGhmTSc
ifとは言っても浦上政宗に天下を取る程の力があったら
全国に「政」「宗」の偏諱が拡がってたわけか
0522人間七七四年2014/03/05(水) 12:49:56.28ID:/+e5qil0
福岡県、久留米にある永勝寺の御本尊である薬師如来には大変ないわれがある。
天武天皇のお后さまの病を癒したと伝わり、白河天皇に保護されたため、永勝寺は日本三薬師の一つと呼ばれるほどに繁盛した。

戦国時代、豊後の大友宗麟が筑後に乱入した時の兵火で永勝寺は焼けてしまったが、不思議なことに薬師如来は無傷で山陰に隠れていたという。
「薬師如来が自ら歩いて火難を避けたのだ」
と村人は仏力に感じ入り、仏堂を再建した。

何年かの後、久留米を領した毛利秀包は無道であったため、領内の寺社仏閣を壊し、放火した。
永勝寺も焼けてしまったが、またしても薬師如来は山陰に隠れ無事であった。
これを見た村人たちは不思議な仏力に感じ入り、毛利秀包の目を逃れるために、山中の洞穴に薬師如来をかくまった。

その後に田中吉政がこの地を領した。
すると毎晩、山が五色に光るので吉政の家来が調査すると、この薬師如来が見つかった。
その家来が村人から話を聞き、吉政に報告すると、吉政は
「勿体無いことである」
と言い、堂の再建を許可した。

永勝寺は廃寺になったこともあったが再建され、今も薬師如来を御本尊としている。
0523人間七七四年2014/03/05(水) 13:21:59.60ID:qe3dCNG+
神仏習合で八幡大菩薩の本地が阿弥陀如来、東照大権現の本地が薬師如来
西方極楽浄土と東方浄瑠璃界をそれぞれ受けもっているわけだ
0524人間七七四年2014/03/05(水) 13:22:24.49ID:5s7Zj3cG
山陰を「やまかげ」と読まずに普通に「さんいん」と読んで毛利氏とかの庇護を求めたのかと
0525人間七七四年2014/03/05(水) 14:34:49.62ID:+DgisHE0
山形大学、最上義光の霊屋を科学的に分析

山形大は山寺立石寺域内の最上義光(1546〜1614年)の霊屋が江戸時代前期、1620年頃以降の建築物である可能性が濃厚と発表。

これは言い伝えにある「山野辺義忠が山寺の霊屋を建立した」といったものに時期的に符合する。

義光の霊屋は1623年に死去した米沢の上杉景勝をまつる上杉家廟所と並び、県内で最も古い時期の霊屋とみられる。

山形大によると、地域教育文化学部の永井康雄教授(建築史)が昨年11月、地元郷土史研究会などの依頼で調査を開始。住職の了解を得て、霊屋と、位牌などを安置する内部の厨子の柱、壁、扉などの建築部材からサンプルを採取した。

山形大総合研究所の高感度加速器質量分析センターで、残存炭素量から年代測定した結果、

(つづく)
0526人間七七四年2014/03/05(水) 14:41:23.81ID:+DgisHE0
(つづき)

厨子の建築時期が1607〜23年頃、霊屋の方はやや遅い1620〜51年頃と判明。

(最上義光の死は1614年、最上騒動は1622年)

厨子の装飾に桃山時代を象徴するおおらかなデザインがあり、測定結果や最上義光の死の年代とも符合する。山寺のものは義光の死後すぐに作られたとみられる。

霊屋は立石寺周辺で3、4回、移築や修繕を繰り返しており、最も古い部分が江戸時代前期の建築と判定。

義光の霊屋は、これまでも山寺を描いた絵図などに登場し、立石寺にあることはよく知られている。だが、建築経緯や建築時期は研究者が少なく、明らかでなかった。

(つづく)
0527人間七七四年2014/03/05(水) 14:44:48.78ID:+DgisHE0
(つづき)

永井教授は「仙台にも伊達政宗の霊屋、瑞鳳殿があるが、空襲で焼けてしまい現存するのは再建された建物だ。建築当時の状態で残っているのは珍しく、全国的にも貴重ではないか」と語った。

※元は河北新報の記事。伝承や年代を追加及び編集。
0528人間七七四年2014/03/05(水) 14:46:49.12ID:+DgisHE0
言い伝えと科学分析の結果から
最上義光の山寺の霊屋の建立時期が裏付けされたいい話って事で
0529人間七七四年2014/03/05(水) 14:50:10.32ID:+DgisHE0
元記事のタイトルが

山形・山寺、最上義光の霊屋 建築江戸前期か 山形大分析

↑最上義光の死の年代と霊屋建立主とされる山野辺義忠の生存時期を考えたら江戸前期以外になにがある−といった意味では悪い話
0530人間七七四年2014/03/05(水) 14:56:57.49ID:+DgisHE0
(光禅寺の本廟の霊屋と別に、)鮭様の死後からやや後に山寺の霊屋が作られ、寺域内でもあちこち移動されていた事は知らなかったから、こちらは興味深い情報。

義光の本廟(慶長寺→光禅寺)が明治の南大火で焼けていなければ…
0531人間七七四年2014/03/05(水) 15:36:22.25ID:xaCxh04a
戦災って戦国史好きにとっては厄介だよなぁ
広島城も原爆で吹き飛んだし、各都市も空襲で大抵焼けてもうた・・・
0532人間七七四年2014/03/05(水) 15:39:11.87ID:oIyPMcjc
細川元総理「私の家の家宝もこの間の戦争で沢山焼けてしまいました、応仁の乱さえなければ」
0533人間七七四年2014/03/05(水) 15:59:19.57ID:VN4MSzz7
でも、応仁の乱が無ければそのお宝は全部京兆家の物だったんじゃね?
まあ、応仁の乱が起きなければ歴史がどう変わったかなんて想像もつかないけど。
0534人間七七四年2014/03/05(水) 16:18:41.20ID:jLa1623B
桃花坊文庫が焼けてなかったら風土記レベルの書物が現存してたかも
0535人間七七四年2014/03/05(水) 16:22:22.79ID:+DgisHE0
>>531
上野寛永寺
皇居御殿
仙台城大手門
名古屋城天守閣

…戦災ェ
0536人間七七四年2014/03/05(水) 16:24:35.36ID:oIyPMcjc
大化の改新で蘇我氏の所蔵していた歴史書が焼けてなかったら
0537人間七七四年2014/03/05(水) 16:25:20.00ID:+DgisHE0
本能寺・安土城「せやな」
0538人間七七四年2014/03/05(水) 16:31:18.05ID:K65h4yHy
でも一番文化財被害が多かったのは自分達(政府と民衆)でやった廃仏毀釈という
0539人間七七四年2014/03/05(水) 16:38:06.02ID:+DgisHE0
短刀にされた正宗 割られた茶碗 真っ二つの書物

伊達政宗「俺はまだおとなしいよ」
0540人間七七四年2014/03/05(水) 16:39:16.32ID:oIyPMcjc
そもそもマサムネのマサムネはマサムネじゃないのにマサムネにされたから
0541人間七七四年2014/03/05(水) 16:42:14.85ID:+DgisHE0
悪い話ばかりだな…

文化財が残ってたらいい話だったのに
0542人間七七四年2014/03/05(水) 17:56:33.77ID:PecF9m1i
こんなこともあろうかと燃えたらやばいもんは燃えないとこにしまっておこうとか考えてそう
0543人間七七四年2014/03/05(水) 17:58:57.63ID:R5Jpo6Py
織田秀信は慶長五年の石田三成の呼び集めに応じて一味し岐阜に籠城した。

関東の先手ならびに軍鑑の井伊と本多たちはこれを攻め、
先手田中兵部少輔(吉政)の合渡川の先陣に織田勢は敗軍した。

池田と福島が大手と搦め手より攻めたために、ついに落城するという時、
秀信は硯を取り寄せて戦労の者へ感状を与え、それぞれに暇を遣わして
自身は高野山へ遁世した。

「この急戦中に静かに感状を書き与えるなどとは、若将ながらさすがは
右大臣信長公の御嫡孫かな」と、その頃、敵方においても賞美された
ということだ。

その時、秀信は少々の御供とともに敵数万の中を参然として通った。
その折に生け捕るべきだと相談したところ、福島正則は、

「家来に暇をやるのは命を助けたいと思ってのことだ。こうして僅かに
十人ほどの小姓者ばかりを連れて、この大事の中を落ちて行くのを
生け捕ったからといって功にもならない。かえって非義無道である。
士の情はこのような時にこそあるのだ」と言って、制止した。

――『明良洪範』
0544人間七七四年2014/03/05(水) 18:01:12.58ID:1g42XEis
>>542
中世の話に、所領権利関係の大切な書類が紛失しないように寺に預けたら、その寺が戦乱に巻き込まれて
寺ごと燃えた、という悲惨な例も
0545人間七七四年2014/03/05(水) 18:13:09.08ID:jLa1623B
一方言継卿は私物を内裏に預けた
0546人間七七四年2014/03/05(水) 18:51:05.64ID:nGuJho9e
シラフの市松.....
0547人間七七四年2014/03/05(水) 22:59:24.27ID:bX2q3DZ5
帰雲城の皆さんがウチは大丈夫だってゆってた
0548人間七七四年2014/03/06(木) 15:17:17.08ID:LcMxfBHr
いい話じゃないけど522のつながりで


毛利秀包が久留米に入ったころ、領内の高良山には大きな宗教勢力があった。
高良山は座主の麟圭を中心に、秀包に敵対的な行為を繰り返したため、ついには合戦となった。
しかし高良山は要害だし、僧兵も満ち満ちている。しかも座主の麟圭は若いころに久留米城主をしていたこともあり、地の利を知り尽くしている難敵だった。

秀包は勝ちを収めることができず、遂には秀包から和議を申し入れることになったが、これは罠だった。
秀包は、座主の麟圭と息子の良巴を和議の宴の席で謀殺することにしたのである。
宴の最中に麟圭と良巴は殺気を感じ、脱出するも追っ手に惨殺された。

所の人々はこれを悼み、討ち取られた麟圭主従八人を弔うために墓を建て供養した。
これを八ツ墓という。
しかし麟圭の霊は慰められなかったらしく、幽霊になった怪談がある。

八ツ墓は久留米駅の側にあったが、昭和のころ医王寺というお寺に移転した。
0549人間七七四年2014/03/06(木) 17:30:22.35ID:ut4gekwu
きたないな秀包さすがきたない・・・元就の子供だっけ。じゃあ仕方ないな
0550人間七七四年2014/03/06(木) 17:32:52.62ID:95x29Z4S
むしろ立花宗茂と義兄弟の契りを結んだとか、勇猛だったとかきれいなイメージだったが
0551人間七七四年2014/03/06(木) 17:53:18.88ID:Aqlq0mLu
惨殺された麟圭は怪談となって生き続けています
0552人間七七四年2014/03/06(木) 18:11:02.29ID:tE/xc2/c
wikiみたら末子を座主にしてるじゃねーか
0553人間七七四年2014/03/07(金) 01:34:48.79ID:PpZAWpP4
黒田「さすが毛利きたない」
0554人間七七四年2014/03/07(金) 01:44:16.33ID:A0TphRWE
小早川秀包「誰のせいで小早川本家を継げなかったのか忘れたか」
0555人間七七四年2014/03/07(金) 09:44:23.06ID:FhnW4AgG
いい話か悪い話かよくわからんけど、流れ的にこっちに

548の麟圭はどうも成仏できなかったらしい。

とある侍の女房が留守番をしていると、夜中に訪ねてくるものがあった。
女房が戸を開けると、そこには
立派な袈裟を着た、血まみれの坊さんがいた

坊さんは
「何故あの木を伐ってしまったんだ!俺が愛してやまない木だったのに!」
と言うようなことをまくし立ててくるが、女房はよくわからないし、気味も悪いので
戸を閉めて無視した。
すると、いつの間にか坊さんの姿は無くなったが、墓地から鬼火が出るようになった。

女房は帰ってきた主人にこの話を伝えると
「和尚さんに相談してみよう」
となった。
和尚さんは話を聞くと
「それは毛利秀包にだまし討ちされた麟圭だろう。」
と麟圭の墓に行き、ねんごろに経を読んだ。
すると鬼火は出なくなったという。
0556人間七七四年2014/03/07(金) 11:34:27.38ID:Zj3W59Uv
何事かまくしたてる悪霊をスルーかw
女房つよいな
0557人間七七四年2014/03/07(金) 20:19:13.83ID:CDHEUHJN
三州の大融和尚が病人を見舞いに訪れると、
「ただ今、亡くなりました」
と家の者が答えた。
和尚は、
「すぐに亡くなる状態ではなかったと思うが、養生に問題があったのではなかろうか。
残念なことです」
と言葉をかけた。
すると障子越しに会話を聞いていた医者が怒り心頭の様子で飛び出して、
「養生に問題があり亡くなったとの言葉確かに聞きましたぞ。
たしかにわたしなどは下手な医者ですからそうなのかもしれません。
ところで、出家には法力があると聞いておりますが、
ひとつ和尚の法力でこの死人を甦らせてみせてください。
法力の効果があらわれないのであれば、仏法などは役に立たぬものでしょう」
と仏法をあざけるように言った。
和尚は迷惑な言い分だと思ったが、仏法を謗られては我が身一人のことではすまぬと思い、
「それでは祈って生き返らせて御覧に入れよう。
準備をするので、しばらくお待ちを」
と言い残して寺へ帰り、また戻り来て、死人の横で坐禅を組んだ。
しばらくすると、死人が息を吹き返すようになり、生き返った。
その後、半年ほど生きたそうである。
この話は湛然和尚が直にお聞きになったことで、間違いない。
さて、その死人を生き返らせる法力について大融和尚は、
「死人を生き返らせるなどは我々の宗派では行わないことなので、
祈り方に儀式になにも知らなかったのだが、
ただ一心に仏法のためにと、寺へ帰り、供養として納められた短刀を研ぎ上げ、
それを懷に入れて、もしこの世に法力などというものがあるならば、
いまここで、ただちによみがえられよと、ひたすら念じたのだ。
もし生き返らなければ、腹をかき破って死人とともに旅立ってしまおうと覚悟を決めたまでよ」
と語ったそうである 【葉隠】

理不尽、非合理と評されることのある葉隠ですが、この話は本当に登場人物全員むちゃくちゃ(笑)
0558人間七七四年2014/03/07(金) 21:06:06.30ID:NR7+un7G
昔だと、死んだように見えた人が息を吹き返すってのは時々あったみたいだからな
0559人間七七四年2014/03/07(金) 22:26:56.40ID:sOzeb44I
>>548
この話は八ツ墓村と関係はあるのか?
0560人間七七四年2014/03/07(金) 22:34:54.07ID:A+OqaWOT
>>555
>坊さんは 「何故あの木を伐ってしまったんだ!俺が愛してやまない木だったのに!」
>と言うようなことをまくし立ててくるが、女房はよくわからないし、気味も悪いので戸を閉めて無視した。

なんという冷静な対応w
0561人間七七四年2014/03/07(金) 22:38:12.91ID:HGwOwZIU
木ってなんだ
幽霊の癖にボケたのか
0562人間七七四年2014/03/07(金) 22:40:43.56ID:sOzeb44I
きにしない、きにしない
一休み、一休み
0563人間七七四年2014/03/08(土) 06:33:58.46ID:HWfbcSpl
>>557
もうどうにでもなれーという気持ちが奇跡を産んだのか、
ただ医者がへっぽこすぎた結果なのかもうわけがわからん
0564人間七七四年2014/03/08(土) 10:14:55.92ID:VHgKencF
>昔だと、死んだように見えた人が息を吹き返すってのは時々あったみたいだからな
そのための通夜だとかって聞いたな
0565人間七七四年2014/03/08(土) 10:18:59.46ID:exdl8bBF
救急隊員が死亡確認して呼ばれた警察が再確認したら生きてたとか今でもあるし
最近は医師が最終確認するまでは心配停止と表現するようになったよね
0566人間七七四年2014/03/08(土) 10:25:28.09ID:Aq1T/Ovh
最終確認するまで心配はしてた方がいいと思います
0567人間七七四年2014/03/08(土) 15:28:55.99ID:vnHElv4O
王大人だとアテにはならん・・・まあ首を落としておけば確実に殺せるだろう
0568人間七七四年2014/03/08(土) 16:12:26.40ID:azbI1sEk
「三島由紀夫は割腹し、介錯を受け、首が千切れている。生死は不明、首と胴体の距離、約1メートル」

なんていう警察無線思い出した
0569人間七七四年2014/03/08(土) 17:07:17.50ID:K48X/a48
さすがに警察も動揺したんだろうな。
まさか現代人が腹切りして介錯成功したわけだから。
このスレでは切腹介錯の逸話は見慣れてるんだが、
う〜ん、時代が近いからなのか生々しい
0570人間七七四年2014/03/08(土) 17:23:10.50ID:kNInOyCH
テンパってたというよりは医師しか死亡判断が出来ないって原則に従ったんじゃないかな?
だからたぶん死んでいる、って意味で「首と胴体の距離、約1メートル」って入れたんだと思う
0571人間七七四年2014/03/08(土) 17:35:40.54ID:vnHElv4O
首がぽぽぽぽーん!してりゃ死んでるって言ってよかったと記憶してる
0572人間七七四年2014/03/08(土) 17:36:17.27ID:K48X/a48
なるほどね
まあそれでも驚いただろうな
主張を聞いてる自衛隊員たちはその後、腹切るとは思ってなさそうな雰囲気
映像見る限りだと、聞いてる隊員、罵倒する隊員、止めろと制止する隊員がいる
0573人間七七四年2014/03/08(土) 17:51:52.60ID:VHgKencF
介錯、上手くいかなくてなかなか大変だったとも聞いたけど・・・
公儀介錯人なんて役職つくちゃった作品もありましたな
0574人間七七四年2014/03/08(土) 20:02:22.53ID:Ev4rxz7M
最初の切る位置が上すぎて、顎に切り込んでしまったために
刃が奥歯に当たって止まってしまったそうですねガクブル
0575人間七七四年2014/03/08(土) 20:47:23.95ID:gFMN8LTe
なるほど、歯って固いもんね
想像したくないのにしてもうた・・・
0576人間七七四年2014/03/08(土) 21:52:00.85ID:waEV2N1M
>>573
新撰組でそんな話があったな
介錯に失敗した谷三十郎の逸話
0577人間七七四年2014/03/08(土) 22:33:14.50ID:epc325by
ギロチンは慈悲の顕現でござる
0578人間七七四年2014/03/09(日) 01:21:32.18ID:7sBTc9zI
平野遠州(長泰)の物語に曰く「当代、だれも武辺話を聞きなさる姿は、
誰はそこで討死した、誰はそこで首を取った、

あるいは負けるだの勝つだのなどとばかりのことである。これは悪しき聞き様だ。

その戦いはどうして負けた、どうして勝ったというように、
その勝ち負けの理由を尋ね聞くのをこそ、武辺物語と申す」と云々。

――『武功雑記』
0579人間七七四年2014/03/09(日) 02:44:50.88ID:Ev17vN9S
信心の他に必要なもの

山寺立石寺に室町時代の古い文書が残る

最上義光(´・ω・`)「本願を叶えてくれたら山寺を大切に扱います。喜捨をし、重ねて丁重に扱う事も誓います」

本願とは最上義守から無事に家督を相続する事を指していると言われる

神様仏様に頼み事をするには祈るだけではなく
ギブ アンド テイク も交渉術の内といった、神仏に対しても一種の契約を行った鮭様の話
0580人間七七四年2014/03/09(日) 02:52:14.28ID:Ev17vN9S
ちりつも?継続は力?風が吹けば桶屋が儲かる?
やれば報われるって何か良い表現ありましたっけ?

とらぬ狸の皮算用と真逆の意味の言葉で
0581人間七七四年2014/03/09(日) 04:23:36.94ID:flh++7vY
愚公山を移す
雨垂れ石を穿つ
0582人間七七四年2014/03/09(日) 05:10:51.29ID:73+9rch4
菅谷政貞
0583人間七七四年2014/03/09(日) 13:12:31.76ID:E2cXG/E9
>>580
南無阿弥陀仏
0584人間七七四年2014/03/09(日) 21:20:24.09ID:PEGY2JJi
神仏にたいしては、頼るのではなく、頑張るから見守ってくださいとお願いするのが本質だとか誰かが言うとった
0585人間七七四年2014/03/09(日) 21:35:57.95ID:vYwalrHz
>>580
命あっての物種
死んで花実の咲くものか
ヤバいと思ったらすぐ逃げろ

>>582
菅谷さんが報われたことってありましたっけ?
0586人間七七四年2014/03/09(日) 22:39:32.76ID:E2cXG/E9
退けば無間地獄 進めば往生極楽 by一向衆

斬り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ
踏み込みゆけばあとは極楽 by宮本武蔵

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ by空也上人

生を必する者は死に、死を必する者は生く by上杉謙信

逃げ出した先に楽園なんてありゃしねえのさ
辿り着いた先、そこにあるのは戦場だけだ byガッツ
0587人間七七四年2014/03/10(月) 19:40:56.62ID:DmghnVup
Wikipediaの織田信雄の人物の記述誰が書いたw
火病ってwwwww


>信忠の同母弟であるにも関わらず、其の容姿は似ても似つかぬもので、キリリと引き締った信忠に対し
>信雄はブヨブヨと太っていたと謂う。また安土城への放火と併せると彼が遺伝子欠陥或いは重度の知的障害を患っていた事が判る。

>信忠の同母弟であるにも関わらず、其の容姿は似ても似つかぬもので、キリリと引き締った信忠に対し信雄はブヨブヨと太っていたと謂う。
>また安土城への放火と併せると彼が遺伝子欠陥或いは重度の知的障害を患っていた事が判る。

>平時から父の叱責を受けていた為に安土城を見て憎悪と怨恨で火病を発症し、衝動的に放火した可能性は否定出来ない。
0588人間七七四年2014/03/10(月) 19:46:40.14ID:c8Oqgbsm
ノブオって最後どうなったんだっけ?
0589人間七七四年2014/03/10(月) 20:37:21.52ID:iG3evuam
楽しい夕食を作る最中に亡くなりました
0590人間七七四年2014/03/10(月) 21:00:04.65ID:S4iA8xTd
日本人は一枚のハンカチで、ただの一度しか鼻をかまない。と言うと、ヨーロッパの読者は
滑稽に思うであろうが、これは奇異とするに足らない。それはマラバール(インド・ケーララ州)の
国王達が同じ皿からただの一度しか食べないと言おうとするのと一緒であって、彼らはバナナの皮で
食事をするので、食事が終わればそれを捨てるのである。

従って日本人について、彼らが一度ハンカチに唾を吐いたり鼻をかんだりすると、それを洗わずに
捨ててしまうと言う時には、次のようなことが説明されねばならないであろう。
すなわち、日本人は鼻をかんだり唾を吐くためにハンカチの代わりに、ハンカチのように折りたたんだ
薄い紙をたくさん懐に入れて持ち歩いているということである。

この紙は非常に安いので、彼らは非常にわずかの費用で幾枚でも使用することが出来る。
貴人たちはその紙の間に、白または青色の亜麻布を一枚携えているが、これは汗を拭くためだけに
用いられる。だが商人や一般の人々は、紙以外に亜麻製の半幅の手拭いを帯の中に携えており、
汗を拭いたり、手や顔を洗う的にそれを用いる。

(ルイス・フロイス『日本史』)

日本人が戦国時代からちり紙を使っていた、という記録である
0591人間七七四年2014/03/10(月) 22:23:51.54ID:9KsNTFiM
一度鼻かんだハンカチでまた鼻かむのか?
0592人間七七四年2014/03/10(月) 23:20:59.39ID:iG3evuam
フランス人とか今でもハンカチで何度も鼻かむぞ
んでカピカピになってから洗う
0593人間七七四年2014/03/10(月) 23:22:23.90ID:ZH4Ve3AV
支倉常長が鼻かんだちり紙を捨てたら、珍しがって西欧人が拾ってったって話もあったような
0594人間七七四年2014/03/11(火) 00:25:47.57ID:SRL2EFdo
権現様が落としただか風に飛ばされたちり紙を無駄にすまいと拾った話があったな
0595人間七七四年2014/03/11(火) 12:09:19.46ID:1WiNGMWd
チョイ前までのヨーロッパでは紙は高級品だから
明治のパリ万国の日本館の大工がちり紙捨てたら周りのフランス人がびびったとか
いまでもなごりで>>592
おかげで識字率も低かった
0596人間七七四年2014/03/11(火) 15:23:18.92ID:RcrVH+Jv
鼻紙と識字率?って思ったけど
学習用の紙が使えるかってことか
0597人間七七四年2014/03/11(火) 18:00:46.12ID:HKVyWUHd
フロイス日本史に志賀親次が入信した際に、紙製の記録帳を修練院の院長から
贈呈されたって話もあるから、それなりに紙工技術はあったんだろうけどね
0598人間七七四年2014/03/11(火) 19:20:47.08ID:VMcXdHz3
インクで文字書いて記録残してるんだからヨーロッパにも紙くらいあっただろ
0599人間七七四年2014/03/11(火) 20:27:52.43ID:2ViOfgOs
羊皮紙はけっこう長持ちするだよ。作るのが面倒臭い
0600人間七七四年2014/03/11(火) 22:04:20.32ID:wHPCYBug
太閤秀吉公は聚楽の城が完成した時、何とお思いになったのであろうか、
和歌一首を詠じなさった。

その和歌を『露と置き露と消へぬる吾身哉難波の事は夢の世の中』と自筆で書きなさり、
尼孝蔵主に命じて「深く納め置くべし。用がある時に出すのだぞ」とのたまった。

年を経て慶長三年八月十七日、孝蔵主をお呼びになって「いつぞや預け置いた和歌は」
と、お尋ねになった。孝蔵主がただちに出して差し上げたところ、
年月日御諱をも書き加えなさって、そのまま差し置きなさり、翌日に薨御された。

前述の和歌を太閤の辞世であるということで木下家に伝えて、
いまなお、肥後守豊臣公定(木下公定)が所持しているということである。

――『明良洪範』
0601人間七七四年2014/03/12(水) 13:19:39.41ID:yPc6s9KS
>>577
源頼義、ヘンリー8世「憎い相手は楽に殺さない」
0602人間七七四年2014/03/12(水) 13:56:54.81ID:noa2iYo0
>>601
大賀弥四郎「おいやめろ」
0603人間七七四年2014/03/12(水) 17:02:39.22ID:Lr3Cz+B0
油入れた大なべ持ってきたよ!
0604人間七七四年2014/03/12(水) 17:32:00.97ID:q2f38PII
鋸引きは誰が最初に始めたんだろうか
やっぱりノブが杉谷善住坊にやったのを後世
パクったのかね
0605人間七七四年2014/03/12(水) 17:55:14.55ID:hTWr+4y/
廃れてた鋸挽きを戦国時代に復活させたのは細川晴元
0606人間七七四年2014/03/12(水) 19:44:32.32ID:Rm/k90hs
>>604
山椒大夫で厨子王が山椒大夫を鋸挽きにしてたはずだから、平安年間にはあったんじゃないかな
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