トップページsengoku
1001コメント485KB

戦国ちょっといい話39

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年2013/12/28(土) 15:41:31.69ID:m9sYieeK
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1377700193/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386399929/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0461人間七七四年2014/02/26(水) 11:09:08.55ID:xt96hlO6
妖怪の話が好きとかちょっとかわいいな
0462人間七七四年2014/02/26(水) 11:18:49.74ID:W0eMqxU+
「殿いつ」の蒲生氏郷の妖怪ネタ、ホラー話ネタに元ネタがあったとは
0463人間七七四年2014/02/26(水) 12:00:18.21ID:XgRdAlGC
>>460
夜中に「真宵タン(*´Д`)ハァハァ」とか言ってる工場長を想像してしまったw
0464人間七七四年2014/02/26(水) 16:16:14.48ID:aiM0GJBc
長曾我部元親が朝鮮の唐島という所に在陣した時の話である。

この頃何処からともなく大きな虎が現れ
あまたの軍兵が食い殺されたので、陣中騒動すること甚だしかった。
浅野孫次郎親忠の家臣、下元勘助・興次兵衛兄弟は
隠れなき鉄砲上手、大胆不敵の勇者だったので
目に物みせん!と駆け出でて、勘助が狙いすまして虎を撃つと
弟興次兵衛もこれに続いて撃ち放った。

ところが虎はこれをものともせず、いよいよ猛狂って本陣へ近づいたので
大高坂七三郎(この時十五歳)が本陣へは入れさせぬと
小刀を抜いて一文字に駆け向かった。
虎は七三郎に飛びかかり、その胴体を横ざまに咥え、駆け出そうとしたので
吉田市左衛門政重、走りかかって虎の首の根を丁と切った。
[1/2]
0465人間七七四年2014/02/26(水) 16:18:59.16ID:aiM0GJBc
虎は七三郎を打ち捨てて、市左衛門の首にただ一口に食らいついたが
かたい鎧のために砕くことができず、市左衛門、虎の喉笛に手をかけて
七たび刀で突き刺した。

さしもの虎も急所を刺され、鉄砲で撃たれてはかなわず、立ち竦んで死んだ。
七三郎も助かったので、元親大いに喜び
感状に康光の太刀を添えて市左衛門に与え、帰国後に加恩もあったそうだ。
「その虎の爪を取って、日本の土産にせよ」と元親が言ったので
市左衛門、畏まり候と虎の爪を切り取って国に持ち帰った。
その爪は子孫持ち伝えて、今も彼の家にあると聞いている。

「土佐物語」
[2/2]
0466人間七七四年2014/02/26(水) 19:21:47.80ID:V1cIhpSV
朝鮮てなんか動物しか存在しないサファリランドだな。
0467人間七七四年2014/02/26(水) 20:34:20.52ID:sCDBYhIN
「それがしは遂に功を挙げる事が出来ませんでした」
とある老武士が、話相手の老武士に言った。
二人は主従であり、話しかけたほうが従者である。
言われた側、即ち主人の方の老武士は怪訝な顔をした。
ともに隠居するまで、それはそれは数え切れぬほどの戦場に出ては生還してきた。
「功がないわけがなかろう」という主人の疑問である。

これに従者が笑って曰く
「兵と見れば殿が槍をふるって追い払い、将と見ればこれまた殿が御自ら討ち取っておられましたので」
大将が自ら陣頭に立って槍を振るう、従者としては頭と胃が痛くなるような悪癖が
「とうとう隠居するまで直りませんでしたなあ」と軽く皮肉ったのである。

これに主人はうまく返すこともできず「ああ、そうだったそうだった」と
苦笑いするばかりだったそうな。

関ヶ原も大阪の陣も過去となった泰平の世。
島津兵庫頭義弘と中馬大蔵重方主従の会話である。
0468人間七七四年2014/02/26(水) 21:00:26.04ID:xt96hlO6
>>464
朝鮮どんだけ虎の楽園なんだよ
0469人間七七四年2014/02/26(水) 22:20:38.43ID:QLVrXwlQ
黄色いお馬のおとのさま

山形市には次の様な話が残る

とのサマは
供も連ンれず
お寺参り
黄色い馬ッコが鈴を鳴らす

馬上のとのサマが今日も揺られていくヨ

黄色い馬に揺られているのは秀次事件で愛娘を失った最上義光

義光の山形城から専称寺へのお墓参りは
市井の民らも良く知るところだったと云う。

専称寺の境内内(本堂前)には現在も最上義光が寺を訪れた際に馬を繋いだとされる「駒(馬)つなぎの桜」が残る。
0470人間七七四年2014/02/26(水) 22:21:40.32ID:egPFUAPb
>>464
朝鮮武勇伝ネタで虎じゃないのはないのか?w
0471人間七七四年2014/02/26(水) 22:24:07.37ID:B1JE84mz
加藤清正の家臣が虎を退治して苗字が「金玉」になったり
虎退治は勇敢さを示すのに便利なんだなw
0472人間七七四年2014/02/26(水) 22:31:53.98ID:Zhf3pNOF
敵兵がそれほど強くなかった分、虎退治がより大きく扱われてるのもあるな
0473人間七七四年2014/02/27(木) 01:05:34.78ID:onJgSEDK
虎がいるのに平然と昼寝するジミー加藤の虎逸話もあるね
04741/32014/02/27(木) 12:02:38.03ID:F91xE93Q
池田光政の家老、池田伊賀守長明は加藤嘉明の外孫でもあり、父が早逝した長明は、一時期嘉明に
養われたこともあって、裸一貫から大大名にまでのし上がった祖父を大いに尊敬していた。

ある時、長明は嘉明にその武功を尋ねたが、嘉明の答えは「そんな昔のことは忘れたわい。」
と、そっけないものだった。

「ですが、おじい様は唐の島(巨済島)の海戦等で大手柄を立てた、と聞き及びますが……」

「十五〜六歳の小姓が敵船に乗り移ろうとして、矢に当たり海に落ちて死んだ。かわいそうな事をした。」
嘉明はそう言ったきり、口を閉ざしてしまった。
04752/32014/02/27(木) 12:04:50.57ID:F91xE93Q
慶長2年(1597)7月、日本軍は巨済島沖で朝鮮軍船団数百艘と対峙した。諸将は対策を話し合ったが、
加藤嘉明は「目に余るような大敵相手に、小勢で当たるのは如何なものか。」と主張した。

ところが肝心の嘉明隊から、敵船団に向かって行く船が現れた。

「あーこれはいかん。わが命に背くあの者共を止めてこい。」
嘉明の命により次々と船が漕ぎ出されたが、いっこうに先の抜け駆けした船に追いつかず、ついには
敵船団に迫ってしまった。

「うーむ。これは、わしが行って止めねば収まるまい。」そう嘉明が言い放つや否や、嘉明隊の全船が
動き出した。要するに、最初の嘉明発言からして仕組まれた、抜け駆けのための策である。
04763/32014/02/27(木) 12:07:05.87ID:F91xE93Q
河合庄大夫・庄次郎親子ら五人を連れた嘉明一行の船は、敵船団の中を進んでいった。
「殿、船はどちらに着けましょう?」「中央の大船に着けよ。」

船団の真ん中の大きな船に乗り移った嘉明一行を、敵は船内で剣を抜き、鏃を揃えて待ち構えていたが、
一行は恐れず敵中に飛び込んで斬りまくり、この船を乗っ取ることに成功した。
嘉明が船内から甲板に出ると、味方諸将の船団を追いついており、すでに火のついた敵船もあった。

嘉明一行は次の獲物を物色し、十六歳の河合庄次郎が真っ先に別の船へ飛び移った、その瞬間。
狙い撃ちされた庄次郎は海に落ち、そのまま浮かんで来なかった。(常山紀談より)


この武功等により十万石に加増され、大大名への足がかりをつかんだ嘉明だが、
己の無謀な策により海の藻屑と消えた若者たちがいたことを、生涯忘れていなかった。
0477人間七七四年2014/02/27(木) 21:28:12.41ID:g1JK3C+R
常山紀談も1の会話から回想シーンが始まるのか?
0478人間七七四年2014/02/28(金) 15:40:28.60ID:A/Vgrml8
雑談「兜がなければ死んでいた」

本日のGAMECITY/ニコニコアプリ版『のぶニャがの野望』
「兜がなければ死んでいた」アップデート

pbs.twimg.com/media/BhhldaSCQAARhr-.jpg

↑巨漢で突撃好きなところが描かれています

…どうせなら「戦国無双4」の新規プレイアブルで使いたかった…
0479人間七七四年2014/02/28(金) 15:56:45.44ID:A/Vgrml8
@oda_nobunyaga もがミー義光殿は慶長出羽合戦において、関ヶ原の勝報を聞き上杉方に猛追撃。あまりに突出しすぎて敵の火縄銃の弾が兜に命中したそうですが弾は兜にはじかれ助かったそうです。その兜、なんと織田のぶニャが様からの贈り物だったとか。
0480人間七七四年2014/02/28(金) 21:02:16.60ID:75UGw2mn
福島家の老臣の大橋茂右衛門重賢が、福島丹波守治重、尾関石見守らと相談して、
正則の行跡についての諫言を書状にして差し出した


      ∧_∧       近頃の殿のお振舞について申したき儀が…
      (,,゚д゚)       ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     / y/ ヽ         ∧_∧
     ヽ、ъc[_ノ        (゚Д゚ ,)⌒ヽ
      (ノノノ l l l )       □ ⊂‐U^(,,⊃'〜



それを聞くと正則は不機嫌となり、書付を見ずに席を立とうとした

    ∧_∧
    (#-д-)
   .ノ^ yヽ、
   ヽ,,ノ==l ノ
    /  l | ミ



茂右衛門はそれに追いすがり必死に裾をつかんだ
        
    ∧_∧
    (#。 。)
   .ノ^ yヽl丶l丶   ガシッ!
   ヽ,,ノ==l (   )
    /  l と   i



すると正則は怒り刀を抜いて茂右衛門の首元に突きつけ叫んだ

         ,、        人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人
          ‖       <                                 >
    ∧__∧‖      <  軽輩のお前を誰が取り立てて               >
    (#゚Д゚)ヽ      <  やったと思ってるんだ!                  >
   .ノ^ y l丶l丶    <  わしに向かって諫言するとは怪しからぬ奴め!    >
   ヽ,,ノ==l (   )     <                                 >
    /  l と   i       Y´`Y´`Y´`Y´`Y´`Y´`Y´`Y´`Y´`Y`Y´`Y´`Y´`Y´`Y´



茂右衛門は少しも驚かず


さればでござる
 ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄
    ∧∧  
   (゚Д゚,,)
   ⊂  ⊃ 
   (__(__っ




と一言
次のように続けた
0481人間七七四年2014/02/28(金) 21:04:00.40ID:75UGw2mn
「それがしのようなものをここまで取り立てていただきましたからには、
もしお眼鏡違いのようなことがありましてはと存じまして、
面と向かってお諫め申し上げておるのでござります
なにとぞ、諫言状をご一覧たまわりますように」

そういうと首を差し出した
茂右衛門の覚悟を見た正則は

         ,、
.         ‖
     ∧__∧‖  
     (#゚Д゚)ヽ
   .ノ^ y ノ 
   ヽ,,ノ==l  
    /  l | 


    ∧_∧
    (,,゚д゚) …
   .ノ^ yヽ、
   ヽ,,ノ==l ノ
    /  l |  \


    ∧_∧
    (TдT) ブワッ
   .ノ^ yヽ、
   ヽ,,ノ==l ノ
    /  l |  \



心を打たれはらはらと涙を流しながら刀を納めた


それなれば見ることにいたそう
 ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    ∧_∧
    (T∀T)
   .ノ^ yヽ、
   ヽ,,ノ==l ノ
    /  l | 



そういうと席に戻り書状をじっくりと読んだ


書状の一条一条、誠にもっともなこと。みな、そなたらが申すようにいたそう
 ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
      ∧_∧ 
      (,,゚д゚)
     / y/ ヽ 
     ヽ、b□[_ノ
      (ノノノ l l l )




と言ったので、茂右衛門はやっととらえていた正則の裾を離した
0482人間七七四年2014/02/28(金) 21:32:28.38ID:hrqRFxMJ
教訓:
瞬間湯沸かし器には率先して首を差し出し牽制せよ
さすれば後はただのおっさんを相手するだけですむ
0483人間七七四年2014/02/28(金) 21:55:22.16ID:sUUoIeUu
勝成「何故斬るのかだって?そこに首があるからさ。」
0484人間七七四年2014/02/28(金) 22:33:37.39ID:WPTBXxD9
水野家の勘定役の人かわいそうです・・・
0485人間七七四年2014/03/01(土) 00:39:14.86ID:1RLiU6mu
忠興「『ぶっ殺す』と心の中で思ったならッ!その時スデに行動は終わっているんだッ!」
0486人間七七四年2014/03/01(土) 01:23:32.48ID:d7dY7Lk6
正則は相手に凄まれるとしおらしくなっちゃう面があるよね。
0487人間七七四年2014/03/01(土) 07:27:14.23ID:03j6oYZr
正則は意外となだめることに成功すればそこそこ普通のおっちゃんだな
0488人間七七四年2014/03/01(土) 09:52:42.18ID:GFfIiZxC
でも、なだめる所までたどり着くのが大変だろ。
0489人間七七四年2014/03/01(土) 10:11:11.86ID:eZb0HtBf
切れる前に斬る!
0490人間七七四年2014/03/01(土) 13:14:28.54ID:E46mrwC0
西内喜兵衛という者は国中武辺の強力(ごうりき)であった。
長宗我部元親の土佐一国平定後、本山城の城任番として
七日詰めに行ったのだが、常に言うことには
「わしは小身なので、食糧を揃え、嶮岨(けんそ)な山坂を持ち運ぶのは
人馬の費えである。僅か七日間の逗留なれば、その間の飯は自分の家で食えば良い」
そうして七日分の飯を炊かせ、これを一度に食すと
「ああ、これで安心だ。家人共は勝手気ままにさせて良いぞ」と言い残し
馬にも乗らず立ち越えて、七日番を勤めて帰ってきた。
そうして「しばらく飯を食ってないので力が落ちたのか、草履が少し重く感じるわい」
と笑いながら人に語った。

さてその頃、どういうことか国中の牛が悉く死んでしまい
農民は田を返す(※耕すこと)のに犁(すき)を使うことができなくなった。
仕方なく若者十人程が一つの犁に取り付き、牛に代わって田を返したが
これを見た喜兵衛、大いに笑って
「お前たち、そこをのけ。わしが引いて見せてやる」と言い
その犁を取って牛の如く往来し、田を返し始めたので
往来の男女は皆立ち留まり、呆れ果ててこれを見物した。
そこに元親が通りかかり、人が群がり集まってるのを見て
一体何事かと尋ねその理由を知ると、喜兵衛を召し出し
「士たる者が畜生の役をするとはどういうことだ。重ねてこの様な振る舞いはしてはならぬぞ」
と堅く制したので、喜兵衛は恐れ入って退去したということだ。

「土佐物語」
土佐侍の純朴でユーモラスな面が伝わってくる、ちょっといい話。
0491人間七七四年2014/03/01(土) 13:51:53.20ID:pUH9TpJ/
>さてその頃、どういうことか国中の牛が悉く死んでしまい

     )、._人_人__,.イ.、._人_人_人
   <´ 口蹄疫じゃ、口蹄疫の仕業じゃ! >
    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ  //
///// /::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|  /
// //,|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| /
/ // |:::     +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;|// ////
/// :|::       ( (||||! i: |||! !| |) )      ;;;|// ///
////|::::    +   U | |||| !! !!||| :U   ;;; ;;;| ///
////|:::::       | |!!||l ll|| !! !!| |    ;;;;;;| ////
// / ヽ:::::       | ! || | ||!!|    ;;;;;;/// //
// // ゝ:::::::: :   | `ー----−' |__////
0492人間七七四年2014/03/01(土) 15:20:56.43ID:lwFTNeiw
>478,光安さん命がけだな
0493人間七七四年2014/03/01(土) 17:20:59.48ID:7GCf6foH
島原の陣の二月中に、松平信綱は連れてきた江州甲賀の者を呼んで、

「これまで諸将は敵城の様子を探らせようと忍びの者を遣わしたが、
敵城の守衛は堅固で忍びの者が城中へ忍び入ることができない。
御身らは忍び入って、様子を見届けて来てくれ」と言った。

甲賀の者たちはかねがね内々の願いの筋でもあれば功を立てようと思っており、
「畏まり候」と速やかに承知し、仲間の中から菅川七郎兵衛、望月与左衛門、
夏目角助、吉田五兵衛、鳥飼勘右衛門ら五人の者が暗夜に紛れて

塀下までは忍び寄ったものの守衛は堅く、城中へいまだ入らずに見合わせて
いたところ、城中より猿火を渡して塀下廻りを調べたので、その火を引き入れる時に、
引き続いて菅川と望月の両人が城中へ紛れ入った。あとの三人の者は入り遅れて
塀下で躊躇していた。

さて、忍び入った両人のうち望月は塀を越えて城内へ入ったところ、
塀裏の落とし穴へ落ちた。菅川は引き上げようとするが、穴が深いので上げられない。
とやかくする間に城兵たちは気付いたのか、「寄手が忍び入ったぞ、討ち取れ!」と
立ち騒いだけれども暗夜なので見分けがつかず、その間に菅川はどうにか望月を引き上げ、

闇夜に紛れて城内のあちらこちらを忍び廻り様子を見届け、やがて塀を越して
城外へ飛び出た。この両人は甲賀忍び組の中でも取り分けて忍びの名人であるとか
いうことだ。

――『明良洪範』
0494人間七七四年2014/03/01(土) 19:05:08.26ID:Us+HUH3X
城兵は明かり持ってこいよw
0495人間七七四年2014/03/01(土) 19:05:10.23ID:cxkJyzHN
落とし穴をもっと沢山掘ろう!
0496人間七七四年2014/03/02(日) 01:27:11.82ID:CxSCJIi/
最上義守、息子と京へ

永禄6(1563)年、最上義守は18歳になる息子の義光を連れて京に上り、将軍足利義輝に馬や太刀を献上した。

「6月14日、久しぶりに将軍(足利義輝公)の屋敷に伺ったら、丁度出羽の御所(屋形号)の山形殿父子(最上義守と義光)が来ておられた。
父子は将軍に馬と太刀を献上して、義光に頂いた義の文字や、常日頃からの感謝と御礼を申されていた。
将軍は二人をもてなす宴会を開かれ、私もそこに顔を出させてもらった。将軍から下された杯を、二人は「かたじけないことです」と言って頂戴した。私も深夜までご馳走になり、すっかり酔ってしまった」

「山科言継卿記」

公家の日記に書き残された、最上父子の京都旅行の一幕
0497人間七七四年2014/03/02(日) 01:59:44.64ID:CxSCJIi/
「姫武将政宗伝ぼんたん!」の義守と義光で脳内再生
0498人間七七四年2014/03/02(日) 04:08:18.84ID:CxSCJIi/
高湯(蔵王)温泉で義守は義光に笹切の名刀を与えたり、足利将軍から一字拝領出来る様大枚まで叩いたのに
いつから仲が悪くなったのやら
0499人間七七四年2014/03/02(日) 10:26:37.23ID:UTJyG6Sf
ちゃっかりしたやつだなと思ったが、山科言継なら納得
0500人間七七四年2014/03/02(日) 10:31:18.63ID:nv323lgY
うむ、言継なら仕方ない
0501人間七七四年2014/03/02(日) 10:38:44.71ID:aZwEZyei
言継が酔うって、どんだけ大量の酒が出たんだよ
0502人間七七四年2014/03/02(日) 10:46:17.46ID:tMbAxVxs
ところで義光の「義」は義輝から拝領したものとして
義守の「義」はどっから?
代々拝領してきたから、ほとんど通字になってたとしたら、
あんまりありがたみがないような
0503人間七七四年2014/03/02(日) 11:16:21.39ID:uiUgpBUc
官位と同じで、自称と公認の違いじゃないの。
0504人間七七四年2014/03/02(日) 17:07:00.44ID:1KnOREGZ
原文では義の字拝領について礼をしたとは書かれていないようだが
0505人間七七四年2014/03/02(日) 19:58:02.71ID:CxSCJIi/
>>504
息子の義光は元服しての父のお供だったから状況証拠で

(義光に頂いた義の文字や、以下略…社交辞令の挨拶など カッコカリ)常日頃からの感謝と御礼を申されていた。

でOK?

あくまで()で
0506人間七七四年2014/03/02(日) 22:06:20.55ID:NlEk3RxH
義輝「本日より義義と名乗るがよい。」
0507人間七七四年2014/03/02(日) 22:57:59.42ID:NLaQcctt
中野義時「最上義義殿はまことに果報者でござるな」
0508人間七七四年2014/03/03(月) 00:41:48.03ID:FyC8JvMy
元々最上の通字って義じゃんって思ったけどそもそも8代義春が義政からの偏諱なんだね
0509人間七七四年2014/03/03(月) 09:31:13.77ID:pplLvV05
嫡男生まれる度に将軍に金払うのかよ
しかも、高い方じゃん
0510人間七七四年2014/03/03(月) 13:19:47.23ID:StYziPN7
>>506
覇王伝でそれ見たとき眩暈したわ
0511人間七七四年2014/03/03(月) 13:22:11.58ID:RwypAZiN
浦上政宗「そなたにはこのワシの名より一字をやろう。本日より伊達政宗と名乗るがよい。」
伊達輝宗「ちょwww」
0512人間七七四年2014/03/03(月) 13:29:38.86ID:RwypAZiN
足利義輝からの偏諱って
地方の有力豪族や名族であって幕府から認められた者の条件の他に
「義」の字…金100両
「輝」の字…金30〜50両
でしたっけ?

史料元ご存じの方いらっしゃいます?
0513人間七七四年2014/03/03(月) 14:17:00.42ID:Z4nVCXkO
つまり名家の生まれで三百両を献上すると、義義義になれる・・・?!
0514人間七七四年2014/03/03(月) 14:31:18.95ID:wBN78BnR
それをやったのが義義義(みよし)長慶
0515人間七七四年2014/03/03(月) 14:41:45.61ID:eL9tIS29
「昭」は…「昭」はお幾らなの!?
0516人間七七四年2014/03/03(月) 15:38:00.43ID:/Kimv4y4
ちょっとまて。「栄」の存在を完全に忘れてるぞ
0517人間七七四年2014/03/03(月) 15:43:50.96ID:RwypAZiN
>>515
義秋時代
一色秋孝(一色四郎、御部屋衆の一人、のち重ねて「昭」の字を与えられて昭孝に改名)
大崎義隆
島津義弘
畠山秋高(のち重ねて「昭」の字を与えられて昭高に改名)ほか

義昭時代
石川昭光
飯尾昭連(奉公衆の一人)
大友義統
二本松義継
細川昭経(細川輝経の子)
朽木昭貞(三淵秋豪の実弟)
山名義親(山名祐豊の嫡男)
真木島昭光(近臣)
最上義康ほか

※義・秋・昭からそれぞれ適当にチョイス
足利義晴・義輝の偏諱の方もかなり多い
0518人間七七四年2014/03/03(月) 15:46:28.77ID:RwypAZiN
「昭」…信長に追われて権威が失墜するまでは
「輝」並の金銭は稼げたのだろうか?
0519人間七七四年2014/03/03(月) 23:09:05.05ID:1JXA8I25
>>511
つか伊達政宗は浦上政宗の生まれ変わりですから
0520人間七七四年2014/03/04(火) 19:18:43.12ID:GnGhmTSc
>>519
伊達輝宗が偏諱で政宗に改名したら
梵天丸が政宗を名乗るのはおかしくなる
0521人間七七四年2014/03/04(火) 19:21:13.62ID:GnGhmTSc
ifとは言っても浦上政宗に天下を取る程の力があったら
全国に「政」「宗」の偏諱が拡がってたわけか
0522人間七七四年2014/03/05(水) 12:49:56.28ID:/+e5qil0
福岡県、久留米にある永勝寺の御本尊である薬師如来には大変ないわれがある。
天武天皇のお后さまの病を癒したと伝わり、白河天皇に保護されたため、永勝寺は日本三薬師の一つと呼ばれるほどに繁盛した。

戦国時代、豊後の大友宗麟が筑後に乱入した時の兵火で永勝寺は焼けてしまったが、不思議なことに薬師如来は無傷で山陰に隠れていたという。
「薬師如来が自ら歩いて火難を避けたのだ」
と村人は仏力に感じ入り、仏堂を再建した。

何年かの後、久留米を領した毛利秀包は無道であったため、領内の寺社仏閣を壊し、放火した。
永勝寺も焼けてしまったが、またしても薬師如来は山陰に隠れ無事であった。
これを見た村人たちは不思議な仏力に感じ入り、毛利秀包の目を逃れるために、山中の洞穴に薬師如来をかくまった。

その後に田中吉政がこの地を領した。
すると毎晩、山が五色に光るので吉政の家来が調査すると、この薬師如来が見つかった。
その家来が村人から話を聞き、吉政に報告すると、吉政は
「勿体無いことである」
と言い、堂の再建を許可した。

永勝寺は廃寺になったこともあったが再建され、今も薬師如来を御本尊としている。
0523人間七七四年2014/03/05(水) 13:21:59.60ID:qe3dCNG+
神仏習合で八幡大菩薩の本地が阿弥陀如来、東照大権現の本地が薬師如来
西方極楽浄土と東方浄瑠璃界をそれぞれ受けもっているわけだ
0524人間七七四年2014/03/05(水) 13:22:24.49ID:5s7Zj3cG
山陰を「やまかげ」と読まずに普通に「さんいん」と読んで毛利氏とかの庇護を求めたのかと
0525人間七七四年2014/03/05(水) 14:34:49.62ID:+DgisHE0
山形大学、最上義光の霊屋を科学的に分析

山形大は山寺立石寺域内の最上義光(1546〜1614年)の霊屋が江戸時代前期、1620年頃以降の建築物である可能性が濃厚と発表。

これは言い伝えにある「山野辺義忠が山寺の霊屋を建立した」といったものに時期的に符合する。

義光の霊屋は1623年に死去した米沢の上杉景勝をまつる上杉家廟所と並び、県内で最も古い時期の霊屋とみられる。

山形大によると、地域教育文化学部の永井康雄教授(建築史)が昨年11月、地元郷土史研究会などの依頼で調査を開始。住職の了解を得て、霊屋と、位牌などを安置する内部の厨子の柱、壁、扉などの建築部材からサンプルを採取した。

山形大総合研究所の高感度加速器質量分析センターで、残存炭素量から年代測定した結果、

(つづく)
0526人間七七四年2014/03/05(水) 14:41:23.81ID:+DgisHE0
(つづき)

厨子の建築時期が1607〜23年頃、霊屋の方はやや遅い1620〜51年頃と判明。

(最上義光の死は1614年、最上騒動は1622年)

厨子の装飾に桃山時代を象徴するおおらかなデザインがあり、測定結果や最上義光の死の年代とも符合する。山寺のものは義光の死後すぐに作られたとみられる。

霊屋は立石寺周辺で3、4回、移築や修繕を繰り返しており、最も古い部分が江戸時代前期の建築と判定。

義光の霊屋は、これまでも山寺を描いた絵図などに登場し、立石寺にあることはよく知られている。だが、建築経緯や建築時期は研究者が少なく、明らかでなかった。

(つづく)
0527人間七七四年2014/03/05(水) 14:44:48.78ID:+DgisHE0
(つづき)

永井教授は「仙台にも伊達政宗の霊屋、瑞鳳殿があるが、空襲で焼けてしまい現存するのは再建された建物だ。建築当時の状態で残っているのは珍しく、全国的にも貴重ではないか」と語った。

※元は河北新報の記事。伝承や年代を追加及び編集。
0528人間七七四年2014/03/05(水) 14:46:49.12ID:+DgisHE0
言い伝えと科学分析の結果から
最上義光の山寺の霊屋の建立時期が裏付けされたいい話って事で
0529人間七七四年2014/03/05(水) 14:50:10.32ID:+DgisHE0
元記事のタイトルが

山形・山寺、最上義光の霊屋 建築江戸前期か 山形大分析

↑最上義光の死の年代と霊屋建立主とされる山野辺義忠の生存時期を考えたら江戸前期以外になにがある−といった意味では悪い話
0530人間七七四年2014/03/05(水) 14:56:57.49ID:+DgisHE0
(光禅寺の本廟の霊屋と別に、)鮭様の死後からやや後に山寺の霊屋が作られ、寺域内でもあちこち移動されていた事は知らなかったから、こちらは興味深い情報。

義光の本廟(慶長寺→光禅寺)が明治の南大火で焼けていなければ…
0531人間七七四年2014/03/05(水) 15:36:22.25ID:xaCxh04a
戦災って戦国史好きにとっては厄介だよなぁ
広島城も原爆で吹き飛んだし、各都市も空襲で大抵焼けてもうた・・・
0532人間七七四年2014/03/05(水) 15:39:11.87ID:oIyPMcjc
細川元総理「私の家の家宝もこの間の戦争で沢山焼けてしまいました、応仁の乱さえなければ」
0533人間七七四年2014/03/05(水) 15:59:19.57ID:VN4MSzz7
でも、応仁の乱が無ければそのお宝は全部京兆家の物だったんじゃね?
まあ、応仁の乱が起きなければ歴史がどう変わったかなんて想像もつかないけど。
0534人間七七四年2014/03/05(水) 16:18:41.20ID:jLa1623B
桃花坊文庫が焼けてなかったら風土記レベルの書物が現存してたかも
0535人間七七四年2014/03/05(水) 16:22:22.79ID:+DgisHE0
>>531
上野寛永寺
皇居御殿
仙台城大手門
名古屋城天守閣

…戦災ェ
0536人間七七四年2014/03/05(水) 16:24:35.36ID:oIyPMcjc
大化の改新で蘇我氏の所蔵していた歴史書が焼けてなかったら
0537人間七七四年2014/03/05(水) 16:25:20.00ID:+DgisHE0
本能寺・安土城「せやな」
0538人間七七四年2014/03/05(水) 16:31:18.05ID:K65h4yHy
でも一番文化財被害が多かったのは自分達(政府と民衆)でやった廃仏毀釈という
0539人間七七四年2014/03/05(水) 16:38:06.02ID:+DgisHE0
短刀にされた正宗 割られた茶碗 真っ二つの書物

伊達政宗「俺はまだおとなしいよ」
0540人間七七四年2014/03/05(水) 16:39:16.32ID:oIyPMcjc
そもそもマサムネのマサムネはマサムネじゃないのにマサムネにされたから
0541人間七七四年2014/03/05(水) 16:42:14.85ID:+DgisHE0
悪い話ばかりだな…

文化財が残ってたらいい話だったのに
0542人間七七四年2014/03/05(水) 17:56:33.77ID:PecF9m1i
こんなこともあろうかと燃えたらやばいもんは燃えないとこにしまっておこうとか考えてそう
0543人間七七四年2014/03/05(水) 17:58:57.63ID:R5Jpo6Py
織田秀信は慶長五年の石田三成の呼び集めに応じて一味し岐阜に籠城した。

関東の先手ならびに軍鑑の井伊と本多たちはこれを攻め、
先手田中兵部少輔(吉政)の合渡川の先陣に織田勢は敗軍した。

池田と福島が大手と搦め手より攻めたために、ついに落城するという時、
秀信は硯を取り寄せて戦労の者へ感状を与え、それぞれに暇を遣わして
自身は高野山へ遁世した。

「この急戦中に静かに感状を書き与えるなどとは、若将ながらさすがは
右大臣信長公の御嫡孫かな」と、その頃、敵方においても賞美された
ということだ。

その時、秀信は少々の御供とともに敵数万の中を参然として通った。
その折に生け捕るべきだと相談したところ、福島正則は、

「家来に暇をやるのは命を助けたいと思ってのことだ。こうして僅かに
十人ほどの小姓者ばかりを連れて、この大事の中を落ちて行くのを
生け捕ったからといって功にもならない。かえって非義無道である。
士の情はこのような時にこそあるのだ」と言って、制止した。

――『明良洪範』
0544人間七七四年2014/03/05(水) 18:01:12.58ID:1g42XEis
>>542
中世の話に、所領権利関係の大切な書類が紛失しないように寺に預けたら、その寺が戦乱に巻き込まれて
寺ごと燃えた、という悲惨な例も
0545人間七七四年2014/03/05(水) 18:13:09.08ID:jLa1623B
一方言継卿は私物を内裏に預けた
0546人間七七四年2014/03/05(水) 18:51:05.64ID:nGuJho9e
シラフの市松.....
0547人間七七四年2014/03/05(水) 22:59:24.27ID:bX2q3DZ5
帰雲城の皆さんがウチは大丈夫だってゆってた
0548人間七七四年2014/03/06(木) 15:17:17.08ID:LcMxfBHr
いい話じゃないけど522のつながりで


毛利秀包が久留米に入ったころ、領内の高良山には大きな宗教勢力があった。
高良山は座主の麟圭を中心に、秀包に敵対的な行為を繰り返したため、ついには合戦となった。
しかし高良山は要害だし、僧兵も満ち満ちている。しかも座主の麟圭は若いころに久留米城主をしていたこともあり、地の利を知り尽くしている難敵だった。

秀包は勝ちを収めることができず、遂には秀包から和議を申し入れることになったが、これは罠だった。
秀包は、座主の麟圭と息子の良巴を和議の宴の席で謀殺することにしたのである。
宴の最中に麟圭と良巴は殺気を感じ、脱出するも追っ手に惨殺された。

所の人々はこれを悼み、討ち取られた麟圭主従八人を弔うために墓を建て供養した。
これを八ツ墓という。
しかし麟圭の霊は慰められなかったらしく、幽霊になった怪談がある。

八ツ墓は久留米駅の側にあったが、昭和のころ医王寺というお寺に移転した。
0549人間七七四年2014/03/06(木) 17:30:22.35ID:ut4gekwu
きたないな秀包さすがきたない・・・元就の子供だっけ。じゃあ仕方ないな
0550人間七七四年2014/03/06(木) 17:32:52.62ID:95x29Z4S
むしろ立花宗茂と義兄弟の契りを結んだとか、勇猛だったとかきれいなイメージだったが
0551人間七七四年2014/03/06(木) 17:53:18.88ID:Aqlq0mLu
惨殺された麟圭は怪談となって生き続けています
0552人間七七四年2014/03/06(木) 18:11:02.29ID:tE/xc2/c
wikiみたら末子を座主にしてるじゃねーか
0553人間七七四年2014/03/07(金) 01:34:48.79ID:PpZAWpP4
黒田「さすが毛利きたない」
0554人間七七四年2014/03/07(金) 01:44:16.33ID:A0TphRWE
小早川秀包「誰のせいで小早川本家を継げなかったのか忘れたか」
0555人間七七四年2014/03/07(金) 09:44:23.06ID:FhnW4AgG
いい話か悪い話かよくわからんけど、流れ的にこっちに

548の麟圭はどうも成仏できなかったらしい。

とある侍の女房が留守番をしていると、夜中に訪ねてくるものがあった。
女房が戸を開けると、そこには
立派な袈裟を着た、血まみれの坊さんがいた

坊さんは
「何故あの木を伐ってしまったんだ!俺が愛してやまない木だったのに!」
と言うようなことをまくし立ててくるが、女房はよくわからないし、気味も悪いので
戸を閉めて無視した。
すると、いつの間にか坊さんの姿は無くなったが、墓地から鬼火が出るようになった。

女房は帰ってきた主人にこの話を伝えると
「和尚さんに相談してみよう」
となった。
和尚さんは話を聞くと
「それは毛利秀包にだまし討ちされた麟圭だろう。」
と麟圭の墓に行き、ねんごろに経を読んだ。
すると鬼火は出なくなったという。
0556人間七七四年2014/03/07(金) 11:34:27.38ID:Zj3W59Uv
何事かまくしたてる悪霊をスルーかw
女房つよいな
0557人間七七四年2014/03/07(金) 20:19:13.83ID:CDHEUHJN
三州の大融和尚が病人を見舞いに訪れると、
「ただ今、亡くなりました」
と家の者が答えた。
和尚は、
「すぐに亡くなる状態ではなかったと思うが、養生に問題があったのではなかろうか。
残念なことです」
と言葉をかけた。
すると障子越しに会話を聞いていた医者が怒り心頭の様子で飛び出して、
「養生に問題があり亡くなったとの言葉確かに聞きましたぞ。
たしかにわたしなどは下手な医者ですからそうなのかもしれません。
ところで、出家には法力があると聞いておりますが、
ひとつ和尚の法力でこの死人を甦らせてみせてください。
法力の効果があらわれないのであれば、仏法などは役に立たぬものでしょう」
と仏法をあざけるように言った。
和尚は迷惑な言い分だと思ったが、仏法を謗られては我が身一人のことではすまぬと思い、
「それでは祈って生き返らせて御覧に入れよう。
準備をするので、しばらくお待ちを」
と言い残して寺へ帰り、また戻り来て、死人の横で坐禅を組んだ。
しばらくすると、死人が息を吹き返すようになり、生き返った。
その後、半年ほど生きたそうである。
この話は湛然和尚が直にお聞きになったことで、間違いない。
さて、その死人を生き返らせる法力について大融和尚は、
「死人を生き返らせるなどは我々の宗派では行わないことなので、
祈り方に儀式になにも知らなかったのだが、
ただ一心に仏法のためにと、寺へ帰り、供養として納められた短刀を研ぎ上げ、
それを懷に入れて、もしこの世に法力などというものがあるならば、
いまここで、ただちによみがえられよと、ひたすら念じたのだ。
もし生き返らなければ、腹をかき破って死人とともに旅立ってしまおうと覚悟を決めたまでよ」
と語ったそうである 【葉隠】

理不尽、非合理と評されることのある葉隠ですが、この話は本当に登場人物全員むちゃくちゃ(笑)
0558人間七七四年2014/03/07(金) 21:06:06.30ID:NR7+un7G
昔だと、死んだように見えた人が息を吹き返すってのは時々あったみたいだからな
0559人間七七四年2014/03/07(金) 22:26:56.40ID:sOzeb44I
>>548
この話は八ツ墓村と関係はあるのか?
0560人間七七四年2014/03/07(金) 22:34:54.07ID:A+OqaWOT
>>555
>坊さんは 「何故あの木を伐ってしまったんだ!俺が愛してやまない木だったのに!」
>と言うようなことをまくし立ててくるが、女房はよくわからないし、気味も悪いので戸を閉めて無視した。

なんという冷静な対応w
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています