戦国ちょっといい話39
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0001人間七七四年
2013/12/28(土) 15:41:31.69ID:m9sYieeK戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1377700193/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386399929/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0461人間七七四年
2014/02/26(水) 11:09:08.55ID:xt96hlO60462人間七七四年
2014/02/26(水) 11:18:49.74ID:W0eMqxU+0463人間七七四年
2014/02/26(水) 12:00:18.21ID:XgRdAlGC夜中に「真宵タン(*´Д`)ハァハァ」とか言ってる工場長を想像してしまったw
0464人間七七四年
2014/02/26(水) 16:16:14.48ID:aiM0GJBcこの頃何処からともなく大きな虎が現れ
あまたの軍兵が食い殺されたので、陣中騒動すること甚だしかった。
浅野孫次郎親忠の家臣、下元勘助・興次兵衛兄弟は
隠れなき鉄砲上手、大胆不敵の勇者だったので
目に物みせん!と駆け出でて、勘助が狙いすまして虎を撃つと
弟興次兵衛もこれに続いて撃ち放った。
ところが虎はこれをものともせず、いよいよ猛狂って本陣へ近づいたので
大高坂七三郎(この時十五歳)が本陣へは入れさせぬと
小刀を抜いて一文字に駆け向かった。
虎は七三郎に飛びかかり、その胴体を横ざまに咥え、駆け出そうとしたので
吉田市左衛門政重、走りかかって虎の首の根を丁と切った。
[1/2]
0465人間七七四年
2014/02/26(水) 16:18:59.16ID:aiM0GJBcかたい鎧のために砕くことができず、市左衛門、虎の喉笛に手をかけて
七たび刀で突き刺した。
さしもの虎も急所を刺され、鉄砲で撃たれてはかなわず、立ち竦んで死んだ。
七三郎も助かったので、元親大いに喜び
感状に康光の太刀を添えて市左衛門に与え、帰国後に加恩もあったそうだ。
「その虎の爪を取って、日本の土産にせよ」と元親が言ったので
市左衛門、畏まり候と虎の爪を切り取って国に持ち帰った。
その爪は子孫持ち伝えて、今も彼の家にあると聞いている。
「土佐物語」
[2/2]
0466人間七七四年
2014/02/26(水) 19:21:47.80ID:V1cIhpSV0467人間七七四年
2014/02/26(水) 20:34:20.52ID:sCDBYhINとある老武士が、話相手の老武士に言った。
二人は主従であり、話しかけたほうが従者である。
言われた側、即ち主人の方の老武士は怪訝な顔をした。
ともに隠居するまで、それはそれは数え切れぬほどの戦場に出ては生還してきた。
「功がないわけがなかろう」という主人の疑問である。
これに従者が笑って曰く
「兵と見れば殿が槍をふるって追い払い、将と見ればこれまた殿が御自ら討ち取っておられましたので」
大将が自ら陣頭に立って槍を振るう、従者としては頭と胃が痛くなるような悪癖が
「とうとう隠居するまで直りませんでしたなあ」と軽く皮肉ったのである。
これに主人はうまく返すこともできず「ああ、そうだったそうだった」と
苦笑いするばかりだったそうな。
関ヶ原も大阪の陣も過去となった泰平の世。
島津兵庫頭義弘と中馬大蔵重方主従の会話である。
0469人間七七四年
2014/02/26(水) 22:20:38.43ID:QLVrXwlQ山形市には次の様な話が残る
とのサマは
供も連ンれず
お寺参り
黄色い馬ッコが鈴を鳴らす
馬上のとのサマが今日も揺られていくヨ
黄色い馬に揺られているのは秀次事件で愛娘を失った最上義光
義光の山形城から専称寺へのお墓参りは
市井の民らも良く知るところだったと云う。
専称寺の境内内(本堂前)には現在も最上義光が寺を訪れた際に馬を繋いだとされる「駒(馬)つなぎの桜」が残る。
0471人間七七四年
2014/02/26(水) 22:24:07.37ID:B1JE84mz虎退治は勇敢さを示すのに便利なんだなw
0472人間七七四年
2014/02/26(水) 22:31:53.98ID:Zhf3pNOF0473人間七七四年
2014/02/27(木) 01:05:34.78ID:onJgSEDK04741/3
2014/02/27(木) 12:02:38.03ID:F91xE93Q養われたこともあって、裸一貫から大大名にまでのし上がった祖父を大いに尊敬していた。
ある時、長明は嘉明にその武功を尋ねたが、嘉明の答えは「そんな昔のことは忘れたわい。」
と、そっけないものだった。
「ですが、おじい様は唐の島(巨済島)の海戦等で大手柄を立てた、と聞き及びますが……」
「十五〜六歳の小姓が敵船に乗り移ろうとして、矢に当たり海に落ちて死んだ。かわいそうな事をした。」
嘉明はそう言ったきり、口を閉ざしてしまった。
04752/3
2014/02/27(木) 12:04:50.57ID:F91xE93Q加藤嘉明は「目に余るような大敵相手に、小勢で当たるのは如何なものか。」と主張した。
ところが肝心の嘉明隊から、敵船団に向かって行く船が現れた。
「あーこれはいかん。わが命に背くあの者共を止めてこい。」
嘉明の命により次々と船が漕ぎ出されたが、いっこうに先の抜け駆けした船に追いつかず、ついには
敵船団に迫ってしまった。
「うーむ。これは、わしが行って止めねば収まるまい。」そう嘉明が言い放つや否や、嘉明隊の全船が
動き出した。要するに、最初の嘉明発言からして仕組まれた、抜け駆けのための策である。
04763/3
2014/02/27(木) 12:07:05.87ID:F91xE93Q「殿、船はどちらに着けましょう?」「中央の大船に着けよ。」
船団の真ん中の大きな船に乗り移った嘉明一行を、敵は船内で剣を抜き、鏃を揃えて待ち構えていたが、
一行は恐れず敵中に飛び込んで斬りまくり、この船を乗っ取ることに成功した。
嘉明が船内から甲板に出ると、味方諸将の船団を追いついており、すでに火のついた敵船もあった。
嘉明一行は次の獲物を物色し、十六歳の河合庄次郎が真っ先に別の船へ飛び移った、その瞬間。
狙い撃ちされた庄次郎は海に落ち、そのまま浮かんで来なかった。(常山紀談より)
この武功等により十万石に加増され、大大名への足がかりをつかんだ嘉明だが、
己の無謀な策により海の藻屑と消えた若者たちがいたことを、生涯忘れていなかった。
0477人間七七四年
2014/02/27(木) 21:28:12.41ID:g1JK3C+R0478人間七七四年
2014/02/28(金) 15:40:28.60ID:A/Vgrml8本日のGAMECITY/ニコニコアプリ版『のぶニャがの野望』
「兜がなければ死んでいた」アップデート
pbs.twimg.com/media/BhhldaSCQAARhr-.jpg
↑巨漢で突撃好きなところが描かれています
…どうせなら「戦国無双4」の新規プレイアブルで使いたかった…
0479人間七七四年
2014/02/28(金) 15:56:45.44ID:A/Vgrml80480人間七七四年
2014/02/28(金) 21:02:16.60ID:75UGw2mn正則の行跡についての諫言を書状にして差し出した
∧_∧ 近頃の殿のお振舞について申したき儀が…
(,,゚д゚)  ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/ y/ ヽ ∧_∧
ヽ、ъc[_ノ (゚Д゚ ,)⌒ヽ
(ノノノ l l l ) □ ⊂‐U^(,,⊃'〜
それを聞くと正則は不機嫌となり、書付を見ずに席を立とうとした
∧_∧
(#-д-)
.ノ^ yヽ、
ヽ,,ノ==l ノ
/ l | ミ
茂右衛門はそれに追いすがり必死に裾をつかんだ
∧_∧
(#。 。)
.ノ^ yヽl丶l丶 ガシッ!
ヽ,,ノ==l ( )
/ l と i
すると正則は怒り刀を抜いて茂右衛門の首元に突きつけ叫んだ
,、 人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人
‖ < >
∧__∧‖ < 軽輩のお前を誰が取り立てて >
(#゚Д゚)ヽ < やったと思ってるんだ! >
.ノ^ y l丶l丶 < わしに向かって諫言するとは怪しからぬ奴め! >
ヽ,,ノ==l ( ) < >
/ l と i Y´`Y´`Y´`Y´`Y´`Y´`Y´`Y´`Y´`Y`Y´`Y´`Y´`Y´`Y´
茂右衛門は少しも驚かず
さればでござる
 ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄
∧∧
(゚Д゚,,)
⊂ ⊃
(__(__っ
と一言
次のように続けた
0481人間七七四年
2014/02/28(金) 21:04:00.40ID:75UGw2mnもしお眼鏡違いのようなことがありましてはと存じまして、
面と向かってお諫め申し上げておるのでござります
なにとぞ、諫言状をご一覧たまわりますように」
そういうと首を差し出した
茂右衛門の覚悟を見た正則は
,、
. ‖
∧__∧‖
(#゚Д゚)ヽ
.ノ^ y ノ
ヽ,,ノ==l
/ l |
∧_∧
(,,゚д゚) …
.ノ^ yヽ、
ヽ,,ノ==l ノ
/ l | \
∧_∧
(TдT) ブワッ
.ノ^ yヽ、
ヽ,,ノ==l ノ
/ l | \
心を打たれはらはらと涙を流しながら刀を納めた
それなれば見ることにいたそう
 ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧
(T∀T)
.ノ^ yヽ、
ヽ,,ノ==l ノ
/ l |
そういうと席に戻り書状をじっくりと読んだ
書状の一条一条、誠にもっともなこと。みな、そなたらが申すようにいたそう
 ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧
(,,゚д゚)
/ y/ ヽ
ヽ、b□[_ノ
(ノノノ l l l )
と言ったので、茂右衛門はやっととらえていた正則の裾を離した
0482人間七七四年
2014/02/28(金) 21:32:28.38ID:hrqRFxMJ瞬間湯沸かし器には率先して首を差し出し牽制せよ
さすれば後はただのおっさんを相手するだけですむ
0483人間七七四年
2014/02/28(金) 21:55:22.16ID:sUUoIeUu0484人間七七四年
2014/02/28(金) 22:33:37.39ID:WPTBXxD90485人間七七四年
2014/03/01(土) 00:39:14.86ID:1RLiU6mu0486人間七七四年
2014/03/01(土) 01:23:32.48ID:d7dY7Lk60487人間七七四年
2014/03/01(土) 07:27:14.23ID:03j6oYZr0488人間七七四年
2014/03/01(土) 09:52:42.18ID:GFfIiZxC0489人間七七四年
2014/03/01(土) 10:11:11.86ID:eZb0HtBf0490人間七七四年
2014/03/01(土) 13:14:28.54ID:E46mrwC0長宗我部元親の土佐一国平定後、本山城の城任番として
七日詰めに行ったのだが、常に言うことには
「わしは小身なので、食糧を揃え、嶮岨(けんそ)な山坂を持ち運ぶのは
人馬の費えである。僅か七日間の逗留なれば、その間の飯は自分の家で食えば良い」
そうして七日分の飯を炊かせ、これを一度に食すと
「ああ、これで安心だ。家人共は勝手気ままにさせて良いぞ」と言い残し
馬にも乗らず立ち越えて、七日番を勤めて帰ってきた。
そうして「しばらく飯を食ってないので力が落ちたのか、草履が少し重く感じるわい」
と笑いながら人に語った。
さてその頃、どういうことか国中の牛が悉く死んでしまい
農民は田を返す(※耕すこと)のに犁(すき)を使うことができなくなった。
仕方なく若者十人程が一つの犁に取り付き、牛に代わって田を返したが
これを見た喜兵衛、大いに笑って
「お前たち、そこをのけ。わしが引いて見せてやる」と言い
その犁を取って牛の如く往来し、田を返し始めたので
往来の男女は皆立ち留まり、呆れ果ててこれを見物した。
そこに元親が通りかかり、人が群がり集まってるのを見て
一体何事かと尋ねその理由を知ると、喜兵衛を召し出し
「士たる者が畜生の役をするとはどういうことだ。重ねてこの様な振る舞いはしてはならぬぞ」
と堅く制したので、喜兵衛は恐れ入って退去したということだ。
「土佐物語」
土佐侍の純朴でユーモラスな面が伝わってくる、ちょっといい話。
0491人間七七四年
2014/03/01(土) 13:51:53.20ID:pUH9TpJ/)、._人_人__,.イ.、._人_人_人
<´ 口蹄疫じゃ、口蹄疫の仕業じゃ! >
⌒ v'⌒ヽr -、_ ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: < _,ノ`' 、ヽ、_ ノ ;;;ヽ //
///// /:::: (y○')`ヽ) ( ´(y○') ;;| /
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// / ヽ::::: | ! || | ||!!| ;;;;;;/// //
// // ゝ:::::::: : | `ー----−' |__////
0492人間七七四年
2014/03/01(土) 15:20:56.43ID:lwFTNeiw0493人間七七四年
2014/03/01(土) 17:20:59.48ID:7GCf6foH「これまで諸将は敵城の様子を探らせようと忍びの者を遣わしたが、
敵城の守衛は堅固で忍びの者が城中へ忍び入ることができない。
御身らは忍び入って、様子を見届けて来てくれ」と言った。
甲賀の者たちはかねがね内々の願いの筋でもあれば功を立てようと思っており、
「畏まり候」と速やかに承知し、仲間の中から菅川七郎兵衛、望月与左衛門、
夏目角助、吉田五兵衛、鳥飼勘右衛門ら五人の者が暗夜に紛れて
塀下までは忍び寄ったものの守衛は堅く、城中へいまだ入らずに見合わせて
いたところ、城中より猿火を渡して塀下廻りを調べたので、その火を引き入れる時に、
引き続いて菅川と望月の両人が城中へ紛れ入った。あとの三人の者は入り遅れて
塀下で躊躇していた。
さて、忍び入った両人のうち望月は塀を越えて城内へ入ったところ、
塀裏の落とし穴へ落ちた。菅川は引き上げようとするが、穴が深いので上げられない。
とやかくする間に城兵たちは気付いたのか、「寄手が忍び入ったぞ、討ち取れ!」と
立ち騒いだけれども暗夜なので見分けがつかず、その間に菅川はどうにか望月を引き上げ、
闇夜に紛れて城内のあちらこちらを忍び廻り様子を見届け、やがて塀を越して
城外へ飛び出た。この両人は甲賀忍び組の中でも取り分けて忍びの名人であるとか
いうことだ。
――『明良洪範』
0494人間七七四年
2014/03/01(土) 19:05:08.26ID:Us+HUH3X0495人間七七四年
2014/03/01(土) 19:05:10.23ID:cxkJyzHN0496人間七七四年
2014/03/02(日) 01:27:11.82ID:CxSCJIi/永禄6(1563)年、最上義守は18歳になる息子の義光を連れて京に上り、将軍足利義輝に馬や太刀を献上した。
「6月14日、久しぶりに将軍(足利義輝公)の屋敷に伺ったら、丁度出羽の御所(屋形号)の山形殿父子(最上義守と義光)が来ておられた。
父子は将軍に馬と太刀を献上して、義光に頂いた義の文字や、常日頃からの感謝と御礼を申されていた。
将軍は二人をもてなす宴会を開かれ、私もそこに顔を出させてもらった。将軍から下された杯を、二人は「かたじけないことです」と言って頂戴した。私も深夜までご馳走になり、すっかり酔ってしまった」
「山科言継卿記」
公家の日記に書き残された、最上父子の京都旅行の一幕
0497人間七七四年
2014/03/02(日) 01:59:44.64ID:CxSCJIi/0498人間七七四年
2014/03/02(日) 04:08:18.84ID:CxSCJIi/いつから仲が悪くなったのやら
0499人間七七四年
2014/03/02(日) 10:26:37.23ID:UTJyG6Sf0500人間七七四年
2014/03/02(日) 10:31:18.63ID:nv323lgY0501人間七七四年
2014/03/02(日) 10:38:44.71ID:aZwEZyei0502人間七七四年
2014/03/02(日) 10:46:17.46ID:tMbAxVxs義守の「義」はどっから?
代々拝領してきたから、ほとんど通字になってたとしたら、
あんまりありがたみがないような
0503人間七七四年
2014/03/02(日) 11:16:21.39ID:uiUgpBUc0504人間七七四年
2014/03/02(日) 17:07:00.44ID:1KnOREGZ0505人間七七四年
2014/03/02(日) 19:58:02.71ID:CxSCJIi/息子の義光は元服しての父のお供だったから状況証拠で
(義光に頂いた義の文字や、以下略…社交辞令の挨拶など カッコカリ)常日頃からの感謝と御礼を申されていた。
でOK?
あくまで()で
0506人間七七四年
2014/03/02(日) 22:06:20.55ID:NlEk3RxH0507人間七七四年
2014/03/02(日) 22:57:59.42ID:NLaQcctt0508人間七七四年
2014/03/03(月) 00:41:48.03ID:FyC8JvMy0509人間七七四年
2014/03/03(月) 09:31:13.77ID:pplLvV05しかも、高い方じゃん
0511人間七七四年
2014/03/03(月) 13:22:11.58ID:RwypAZiN伊達輝宗「ちょwww」
0512人間七七四年
2014/03/03(月) 13:29:38.86ID:RwypAZiN地方の有力豪族や名族であって幕府から認められた者の条件の他に
「義」の字…金100両
「輝」の字…金30〜50両
でしたっけ?
史料元ご存じの方いらっしゃいます?
0513人間七七四年
2014/03/03(月) 14:17:00.42ID:Z4nVCXkO0514人間七七四年
2014/03/03(月) 14:31:18.95ID:wBN78BnR0515人間七七四年
2014/03/03(月) 14:41:45.61ID:eL9tIS290516人間七七四年
2014/03/03(月) 15:38:00.43ID:/Kimv4y40517人間七七四年
2014/03/03(月) 15:43:50.96ID:RwypAZiN義秋時代
一色秋孝(一色四郎、御部屋衆の一人、のち重ねて「昭」の字を与えられて昭孝に改名)
大崎義隆
島津義弘
畠山秋高(のち重ねて「昭」の字を与えられて昭高に改名)ほか
義昭時代
石川昭光
飯尾昭連(奉公衆の一人)
大友義統
二本松義継
細川昭経(細川輝経の子)
朽木昭貞(三淵秋豪の実弟)
山名義親(山名祐豊の嫡男)
真木島昭光(近臣)
最上義康ほか
※義・秋・昭からそれぞれ適当にチョイス
足利義晴・義輝の偏諱の方もかなり多い
0518人間七七四年
2014/03/03(月) 15:46:28.77ID:RwypAZiN「輝」並の金銭は稼げたのだろうか?
0521人間七七四年
2014/03/04(火) 19:21:13.62ID:GnGhmTSc全国に「政」「宗」の偏諱が拡がってたわけか
0522人間七七四年
2014/03/05(水) 12:49:56.28ID:/+e5qil0天武天皇のお后さまの病を癒したと伝わり、白河天皇に保護されたため、永勝寺は日本三薬師の一つと呼ばれるほどに繁盛した。
戦国時代、豊後の大友宗麟が筑後に乱入した時の兵火で永勝寺は焼けてしまったが、不思議なことに薬師如来は無傷で山陰に隠れていたという。
「薬師如来が自ら歩いて火難を避けたのだ」
と村人は仏力に感じ入り、仏堂を再建した。
何年かの後、久留米を領した毛利秀包は無道であったため、領内の寺社仏閣を壊し、放火した。
永勝寺も焼けてしまったが、またしても薬師如来は山陰に隠れ無事であった。
これを見た村人たちは不思議な仏力に感じ入り、毛利秀包の目を逃れるために、山中の洞穴に薬師如来をかくまった。
その後に田中吉政がこの地を領した。
すると毎晩、山が五色に光るので吉政の家来が調査すると、この薬師如来が見つかった。
その家来が村人から話を聞き、吉政に報告すると、吉政は
「勿体無いことである」
と言い、堂の再建を許可した。
永勝寺は廃寺になったこともあったが再建され、今も薬師如来を御本尊としている。
0523人間七七四年
2014/03/05(水) 13:21:59.60ID:qe3dCNG+西方極楽浄土と東方浄瑠璃界をそれぞれ受けもっているわけだ
0524人間七七四年
2014/03/05(水) 13:22:24.49ID:5s7Zj3cG0525人間七七四年
2014/03/05(水) 14:34:49.62ID:+DgisHE0山形大は山寺立石寺域内の最上義光(1546〜1614年)の霊屋が江戸時代前期、1620年頃以降の建築物である可能性が濃厚と発表。
これは言い伝えにある「山野辺義忠が山寺の霊屋を建立した」といったものに時期的に符合する。
義光の霊屋は1623年に死去した米沢の上杉景勝をまつる上杉家廟所と並び、県内で最も古い時期の霊屋とみられる。
山形大によると、地域教育文化学部の永井康雄教授(建築史)が昨年11月、地元郷土史研究会などの依頼で調査を開始。住職の了解を得て、霊屋と、位牌などを安置する内部の厨子の柱、壁、扉などの建築部材からサンプルを採取した。
山形大総合研究所の高感度加速器質量分析センターで、残存炭素量から年代測定した結果、
(つづく)
0526人間七七四年
2014/03/05(水) 14:41:23.81ID:+DgisHE0厨子の建築時期が1607〜23年頃、霊屋の方はやや遅い1620〜51年頃と判明。
(最上義光の死は1614年、最上騒動は1622年)
厨子の装飾に桃山時代を象徴するおおらかなデザインがあり、測定結果や最上義光の死の年代とも符合する。山寺のものは義光の死後すぐに作られたとみられる。
霊屋は立石寺周辺で3、4回、移築や修繕を繰り返しており、最も古い部分が江戸時代前期の建築と判定。
義光の霊屋は、これまでも山寺を描いた絵図などに登場し、立石寺にあることはよく知られている。だが、建築経緯や建築時期は研究者が少なく、明らかでなかった。
(つづく)
0527人間七七四年
2014/03/05(水) 14:44:48.78ID:+DgisHE0永井教授は「仙台にも伊達政宗の霊屋、瑞鳳殿があるが、空襲で焼けてしまい現存するのは再建された建物だ。建築当時の状態で残っているのは珍しく、全国的にも貴重ではないか」と語った。
※元は河北新報の記事。伝承や年代を追加及び編集。
0528人間七七四年
2014/03/05(水) 14:46:49.12ID:+DgisHE0最上義光の山寺の霊屋の建立時期が裏付けされたいい話って事で
0529人間七七四年
2014/03/05(水) 14:50:10.32ID:+DgisHE0山形・山寺、最上義光の霊屋 建築江戸前期か 山形大分析
↑最上義光の死の年代と霊屋建立主とされる山野辺義忠の生存時期を考えたら江戸前期以外になにがある−といった意味では悪い話
0530人間七七四年
2014/03/05(水) 14:56:57.49ID:+DgisHE0義光の本廟(慶長寺→光禅寺)が明治の南大火で焼けていなければ…
0531人間七七四年
2014/03/05(水) 15:36:22.25ID:xaCxh04a広島城も原爆で吹き飛んだし、各都市も空襲で大抵焼けてもうた・・・
0532人間七七四年
2014/03/05(水) 15:39:11.87ID:oIyPMcjc0533人間七七四年
2014/03/05(水) 15:59:19.57ID:VN4MSzz7まあ、応仁の乱が起きなければ歴史がどう変わったかなんて想像もつかないけど。
0534人間七七四年
2014/03/05(水) 16:18:41.20ID:jLa1623B0536人間七七四年
2014/03/05(水) 16:24:35.36ID:oIyPMcjc0537人間七七四年
2014/03/05(水) 16:25:20.00ID:+DgisHE00538人間七七四年
2014/03/05(水) 16:31:18.05ID:K65h4yHy0539人間七七四年
2014/03/05(水) 16:38:06.02ID:+DgisHE0伊達政宗「俺はまだおとなしいよ」
0540人間七七四年
2014/03/05(水) 16:39:16.32ID:oIyPMcjc0541人間七七四年
2014/03/05(水) 16:42:14.85ID:+DgisHE0文化財が残ってたらいい話だったのに
0542人間七七四年
2014/03/05(水) 17:56:33.77ID:PecF9m1i0543人間七七四年
2014/03/05(水) 17:58:57.63ID:R5Jpo6Py関東の先手ならびに軍鑑の井伊と本多たちはこれを攻め、
先手田中兵部少輔(吉政)の合渡川の先陣に織田勢は敗軍した。
池田と福島が大手と搦め手より攻めたために、ついに落城するという時、
秀信は硯を取り寄せて戦労の者へ感状を与え、それぞれに暇を遣わして
自身は高野山へ遁世した。
「この急戦中に静かに感状を書き与えるなどとは、若将ながらさすがは
右大臣信長公の御嫡孫かな」と、その頃、敵方においても賞美された
ということだ。
その時、秀信は少々の御供とともに敵数万の中を参然として通った。
その折に生け捕るべきだと相談したところ、福島正則は、
「家来に暇をやるのは命を助けたいと思ってのことだ。こうして僅かに
十人ほどの小姓者ばかりを連れて、この大事の中を落ちて行くのを
生け捕ったからといって功にもならない。かえって非義無道である。
士の情はこのような時にこそあるのだ」と言って、制止した。
――『明良洪範』
0544人間七七四年
2014/03/05(水) 18:01:12.58ID:1g42XEis中世の話に、所領権利関係の大切な書類が紛失しないように寺に預けたら、その寺が戦乱に巻き込まれて
寺ごと燃えた、という悲惨な例も
0545人間七七四年
2014/03/05(水) 18:13:09.08ID:jLa1623B0546人間七七四年
2014/03/05(水) 18:51:05.64ID:nGuJho9e0547人間七七四年
2014/03/05(水) 22:59:24.27ID:bX2q3DZ50548人間七七四年
2014/03/06(木) 15:17:17.08ID:LcMxfBHr毛利秀包が久留米に入ったころ、領内の高良山には大きな宗教勢力があった。
高良山は座主の麟圭を中心に、秀包に敵対的な行為を繰り返したため、ついには合戦となった。
しかし高良山は要害だし、僧兵も満ち満ちている。しかも座主の麟圭は若いころに久留米城主をしていたこともあり、地の利を知り尽くしている難敵だった。
秀包は勝ちを収めることができず、遂には秀包から和議を申し入れることになったが、これは罠だった。
秀包は、座主の麟圭と息子の良巴を和議の宴の席で謀殺することにしたのである。
宴の最中に麟圭と良巴は殺気を感じ、脱出するも追っ手に惨殺された。
所の人々はこれを悼み、討ち取られた麟圭主従八人を弔うために墓を建て供養した。
これを八ツ墓という。
しかし麟圭の霊は慰められなかったらしく、幽霊になった怪談がある。
八ツ墓は久留米駅の側にあったが、昭和のころ医王寺というお寺に移転した。
0549人間七七四年
2014/03/06(木) 17:30:22.35ID:ut4gekwu0550人間七七四年
2014/03/06(木) 17:32:52.62ID:95x29Z4S0551人間七七四年
2014/03/06(木) 17:53:18.88ID:Aqlq0mLu0552人間七七四年
2014/03/06(木) 18:11:02.29ID:tE/xc2/c0553人間七七四年
2014/03/07(金) 01:34:48.79ID:PpZAWpP40554人間七七四年
2014/03/07(金) 01:44:16.33ID:A0TphRWE0555人間七七四年
2014/03/07(金) 09:44:23.06ID:FhnW4AgG548の麟圭はどうも成仏できなかったらしい。
とある侍の女房が留守番をしていると、夜中に訪ねてくるものがあった。
女房が戸を開けると、そこには
立派な袈裟を着た、血まみれの坊さんがいた
坊さんは
「何故あの木を伐ってしまったんだ!俺が愛してやまない木だったのに!」
と言うようなことをまくし立ててくるが、女房はよくわからないし、気味も悪いので
戸を閉めて無視した。
すると、いつの間にか坊さんの姿は無くなったが、墓地から鬼火が出るようになった。
女房は帰ってきた主人にこの話を伝えると
「和尚さんに相談してみよう」
となった。
和尚さんは話を聞くと
「それは毛利秀包にだまし討ちされた麟圭だろう。」
と麟圭の墓に行き、ねんごろに経を読んだ。
すると鬼火は出なくなったという。
0556人間七七四年
2014/03/07(金) 11:34:27.38ID:Zj3W59Uv女房つよいな
0557人間七七四年
2014/03/07(金) 20:19:13.83ID:CDHEUHJN「ただ今、亡くなりました」
と家の者が答えた。
和尚は、
「すぐに亡くなる状態ではなかったと思うが、養生に問題があったのではなかろうか。
残念なことです」
と言葉をかけた。
すると障子越しに会話を聞いていた医者が怒り心頭の様子で飛び出して、
「養生に問題があり亡くなったとの言葉確かに聞きましたぞ。
たしかにわたしなどは下手な医者ですからそうなのかもしれません。
ところで、出家には法力があると聞いておりますが、
ひとつ和尚の法力でこの死人を甦らせてみせてください。
法力の効果があらわれないのであれば、仏法などは役に立たぬものでしょう」
と仏法をあざけるように言った。
和尚は迷惑な言い分だと思ったが、仏法を謗られては我が身一人のことではすまぬと思い、
「それでは祈って生き返らせて御覧に入れよう。
準備をするので、しばらくお待ちを」
と言い残して寺へ帰り、また戻り来て、死人の横で坐禅を組んだ。
しばらくすると、死人が息を吹き返すようになり、生き返った。
その後、半年ほど生きたそうである。
この話は湛然和尚が直にお聞きになったことで、間違いない。
さて、その死人を生き返らせる法力について大融和尚は、
「死人を生き返らせるなどは我々の宗派では行わないことなので、
祈り方に儀式になにも知らなかったのだが、
ただ一心に仏法のためにと、寺へ帰り、供養として納められた短刀を研ぎ上げ、
それを懷に入れて、もしこの世に法力などというものがあるならば、
いまここで、ただちによみがえられよと、ひたすら念じたのだ。
もし生き返らなければ、腹をかき破って死人とともに旅立ってしまおうと覚悟を決めたまでよ」
と語ったそうである 【葉隠】
理不尽、非合理と評されることのある葉隠ですが、この話は本当に登場人物全員むちゃくちゃ(笑)
0558人間七七四年
2014/03/07(金) 21:06:06.30ID:NR7+un7G0560人間七七四年
2014/03/07(金) 22:34:54.07ID:A+OqaWOT>坊さんは 「何故あの木を伐ってしまったんだ!俺が愛してやまない木だったのに!」
>と言うようなことをまくし立ててくるが、女房はよくわからないし、気味も悪いので戸を閉めて無視した。
なんという冷静な対応w
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