戦国ちょっといい話39
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年
2013/12/28(土) 15:41:31.69ID:m9sYieeK戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1377700193/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386399929/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0378人間七七四年
2014/02/15(土) 17:56:15.49ID:m7sX+s0bいや、吉継は関ヶ原で戦死しとる
>>351のレスは>>350の黒田家譜の記述に
『石田、小西、安国寺は関ヶ原の大乱をおこした張本人なので』と書いてあることに対する揶揄だろう
0380人間七七四年
2014/02/15(土) 22:16:15.74ID:ms9BPVi/0381人間七七四年
2014/02/15(土) 23:58:57.11ID:m7sX+s0b0382人間七七四年
2014/02/16(日) 00:43:15.54ID:EFOL4QZL0383人間七七四年
2014/02/16(日) 00:44:28.08ID:D/Lsw+o+「仮初にも、能などは気安いものではない。太夫が翁をかけ、全ての役者が烏帽子を着るなど、
ただ常のことではない。第一能というものは、我が身の祈祷であるのだから、身を清め行儀よくして
座敷においては大声も出さないように、三番四番までは能くじっとして見物をしなさい。
しかしその後は気が退屈しないように、能の間々に休息しつつ、見物をせよ。見る分には面白いのだから、
身体もくたびれないものだ。能が終わったら今度はどんな話題でもいいので皆で集まって一笑いして、
またくたびれを忘れるようにせよ。
だいたい見物というものは、何であってもそうだが、その時のくたびれを直さないから、重ねて
見物に行くのを好まなくなるのだ。それは心持ちが下手な故なのだよ。」
そう仰られたのである。
(政宗公御名語集)
伊達政宗の、何かを鑑賞する時の心持ちについての話である。
まあつまり一定のマナーは守って、あとは気楽に、無駄に疲れないようにして楽しめよ、ということですね。
0384人間七七四年
2014/02/16(日) 01:14:29.72ID:JYim7sGM0385人間七七四年
2014/02/16(日) 09:12:34.29ID:TGT/Nq0I0386人間七七四年
2014/02/16(日) 10:16:00.53ID:EFOL4QZL0387人間七七四年
2014/02/16(日) 16:31:48.39ID:L5CwiN+g関ヶ原の戦い当日も、八十島は三成本陣に居たのだが、
東軍勢がいよいよ迫り来るまさにその時、なにを思ったか、ただ一騎駆け出していった。
「なんだなんだ?」と皆が見守る中、
八十島はそのまま両鐙で馬の腹を思いっきり打ち、さらに速度を上げると
あっという間に何処ともなく逃亡してしまった。
おそらく呆気にとられていたであろう石田本陣。
そんな中、ある三成近臣が、古歌を引いてこう詠じてみせた。
「関が原 八十島かけて にげ出ぬと 人にはつげよ あまりにくさに」
この歌に、三成も家臣達も皆々大笑いした、ということである。
(関原軍記大成)
誰がうまい歌詠めと。ってことで、いい話にいれとく
0388人間七七四年
2014/02/16(日) 18:19:28.91ID:VGZzl4fM馬上から伝令したとか?そんな話聞いたことあるけど
とんずらしたのはその後かな?
0389人間七七四年
2014/02/16(日) 18:34:49.33ID:9lC7bs1m誰か解説してエロい人
0390人間七七四年
2014/02/16(日) 18:39:44.54ID:3CY9DrX5http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/72/19/tefu_tefutefu/folder/1297533/img_1297533_31615652_0
0391人間七七四年
2014/02/16(日) 19:07:31.73ID:9lC7bs1m0392人間七七四年
2014/02/16(日) 22:16:21.44ID:f6D5EAro0393人間七七四年
2014/02/16(日) 23:47:28.69ID:JYim7sGM0394人間七七四年
2014/02/18(火) 12:40:08.11ID:DoakL7WC笠を付けることを許されていた。
御旅行中でも御国中であっても
「町に入るときは笠を脱ぐようにするのだ、しかし道中においては苦しからず。
町々には諸国の者がいるので、人の口を考えねばならない。しかし町を出てしまえば、
いつものように笠を着けるのだ。」
と、特に心付けをされていた。また、政宗公は日に幾度も水を飲まれたが、良き水のあるところでは
徒衆から供をしている家臣たちに
「ここには良き水があるので、皆々も飲み、下々にも飲ませ、馬の口も洗わせるようにせよ。」
と仰せ付けられ、どれほどお急ぎの道中でも、その場所で馬からしばらく降りて、下々徒の物まで
水を飲ませ息をつがせ、その上で馬に乗られた。
誠にこのようにかたじけない事ゆえに、伊達家中の者達は手足を軽々と下々に至るまで勇み、
御供を仕ったのである。
(政宗公御名語集)
伊達政宗の、供の者たちへの気遣い、というお話。
0396人間七七四年
2014/02/18(火) 22:54:47.13ID:2vjxxELn0397人間七七四年
2014/02/18(火) 23:38:52.48ID:MB1uegMq0398人間七七四年
2014/02/18(火) 23:48:50.23ID:6D+aR1/t0399人間七七四年
2014/02/18(火) 23:53:18.81ID:UbZNyEn50400人間七七四年
2014/02/19(水) 00:48:33.25ID:57MX0Bveでたまにそのきさくさが暴走してとんでもないことにw
0401人間七七四年
2014/02/19(水) 01:28:09.74ID:o9PMhOAH0402人間七七四年
2014/02/19(水) 12:49:11.70ID:EyfveLt7石垣原の戦いを直前に控えていた。
ここで如水は、士卒に言い聞かせることがあると、軍勢9千あまりを広野にみな留め置き、
そこで大声で語りかけた
「今度上方において治部少輔(石田三成)が乱を起こし、内府公(徳川家康)を敵としたという事が
聞こえてきた。
治部少輔は、天性知恵なき臆病者である!その上総大将も居ない寄り合いの軍勢であるから、
諸大将は下知を受けず、諸人一致せず、彼らは必ず敗軍するであろう!
殊に、内府公は古今無双の良将であり、その下に属する味方も、みな優れたる武将、勇士が多く、
心も一同して内府公の御下知に従うのであるから、必ず、味方の勝利疑いなきこと、この手に既に
握ったかのように思われる!
これにより、それがしは今回内府公に一味して、九州を平らげんと思う故に、先に豊後に出兵し、
かの国にある敵どもを討ち従えた後、残る国々を治めるつもりである。
豊後の城はその大半が留守であり、これを接収するのはいと容易きことである。
そんな中、大友義統がかつて本国であった豊後を賜り、こちらに下ったとの情報が聞こえてきた。
太閤殿下の時代、私は大友の取次をした関係があったので、今回治部少輔に与することをやめさせ、
降参させるため、上関まで使いを遣わしたのであるが、これに同心しなかった。まったく痴愚の至り
であり、もうどうしようもない!まず、彼を退治するための出陣する!
義統は先年、朝鮮において大明人が来るという情報を聞き、敵をも見ずに逃げ退いたような
臆病者である!それゆえに豊後国を召し上げられ、毛利に預けられ、居るのかいないのか解らないような
状態で居たが、今回豊後に下り、私に対して挙兵するとは、実に片腹痛きことである。
今回出陣する士卒たちよ、良く心得よ!義統は大臆病者である!その下にある家人どもも、類を以って
集まり、上を学ぶ下であるのだから、皆臆病者と心得よ!大友の人数が例え何万騎あったとしても、
今度の合戦は百に一つも負けることはない!相手を強敵だと思って躊躇してはならない!
よいか!わたしは九州を片端から平らげようと思っているのだ!だから、合戦は今回に限ったものではない!
鑓、薙刀、刀、脇差しの刃をたしなんで、大事の時の用にたてよ!大友の兵たちは、武器を無駄に
破損させないよう、生け捕りにするか、峰打ちにして打ち倒してやれ!
総じて鷹を使う時、それが逸物であっても、最初から鶴を取らせるようなことはしない。先ず
鷺からはじめて、その後、鶴を取れるようにしていくのだ。
それと同じことである。大友の人数は鷺だ!若き者共もよくこれを捕らえ、諸士にも手柄を
させるであろう!相手は弱敵なのだから、棒で雪を撫でるように何の造作もなく一時に打ち払うであろう。
そして、大友義統を捕虜にせよ!彼を生け捕ったものには、直参や譜代に限らない、例え下人であっても
褒美として領地千石を与える!おのおの、随分精を出して手柄をいたせ!その功により、一層の
恩賞を与えるであろう。
九州には手強い敵は居ない!豊後を打ち従えてしまえば、九州を治めること、その勢いに乗じて実に簡単に
成せるであろう。さあ、はや打ち立て!!」
これを聞いた者達は、いすれも心の勇みが強くなり、たった今からでも敵を手の中で取り拉ぐように
思ったという。
(黒田家譜)
黒田如水、石垣原の戦い直前の、出陣演説である。
0403人間七七四年
2014/02/19(水) 19:12:17.51ID:bvc/8DBl0404人間七七四年
2014/02/19(水) 20:09:33.52ID:pFw0VTHk0405人間七七四年
2014/02/19(水) 21:02:54.68ID:VIWRN4+10406人間七七四年
2014/02/19(水) 21:21:08.91ID:/rYhpsZn0407人間七七四年
2014/02/19(水) 22:10:09.50ID:UIPUBk/80408人間七七四年
2014/02/19(水) 22:41:16.18ID:jVvDkbWDつまりこの戦いは知恵と勇気で決まると。
0410人間七七四年
2014/02/20(木) 06:40:34.44ID:cbil7jZC関ヶ原が100日続けば第三勢力として挙兵し漁夫の利を得る算段だった、そう聞かされた際の長政の顔をご想像下さい
0411人間七七四年
2014/02/20(木) 06:58:18.05ID:ZWzjOELx0413人間七七四年
2014/02/20(木) 08:27:12.43ID:FHYBFlt+三成について近い時代の評価が聞けるのはありがたい。
0414人間七七四年
2014/02/20(木) 10:37:18.21ID:+JvkXSg20415人間七七四年
2014/02/20(木) 13:51:04.18ID:T5Wxlqfu文才のある人物が書いたものは真偽は別として
とにかく面白いから伝搬力がすごい。
近代なら吉川英治の三国志。
張遼の「遼来来」なんか吉川の造語なのに
21世紀のゲームやアニメでも出てくるからね。
本場中国人が遼来来ってどういう意味だ?と首をかしげてたわ。
0416人間七七四年
2014/02/20(木) 14:14:59.21ID:BmUXqrDb孫夫人の弓腰姫の方が完全なオリジナルな分影響力の指標にならないか
0417人間七七四年
2014/02/20(木) 14:37:29.89ID:7vkze9SN0418人間七七四年
2014/02/20(木) 15:53:22.89ID:UaFBONA8寿亭侯の印綬を返してきた関羽に「漢」寿亭侯の印綬にして渡したら喜んで受け取ったという話もそうらしいな
0419人間七七四年
2014/02/20(木) 16:14:51.48ID:BmUXqrDb現在普及している毛宗崗版では「漢寿亭侯」=漢寿+亭侯と正しく認識してるから省いただけ
0422人間七七四年
2014/02/21(金) 06:11:38.07ID:sezvsa4b信玄は遠州只来、飯田の両城を落とし、さらに久能城へと進んだ時、家康方の侍対象の率いる
4千あまりの兵が三ケ野付近に現れた。
信玄は「あれを逃さぬように討ち取れ!」と命じた。家康方は武田軍の攻勢を見て引き上げようとしたが、
武田勢はこれを食い止めようとする。家康勢がまさに危機に陥った時、家康の侍大将、内藤三左衛門(信成)
という者が言った
「我が軍の総兵力8千のうち、ここにいるのは5千人だけで、家康公もご出陣されていない!
この状態では信玄のような名称に率いられた、3万あまりの大軍と合戦しても敗北は目に見えている。
もしここで敗れようものなら、残った家康公直属の部隊だけで、どうして信玄と戦うことが出来るだろうか!
ここのところは、なんとしても退却して浜松へ帰り、改めて一戦を遂げよう。その時には織田信長公の
加勢も期待できるだろう。8千の三河武者にそれを加えて、無二の一戦を遂げようではないか!」
しかし、そうは言っても既に戦闘は起こっており、内藤三左衛門もその場から引き上げることの出来かねる
状況であった。
その時、本多平八郎(忠勝)は25歳で、家康の下で度々巧妙をあげていたことで、おいおい武田の家にも
知られていたが、この平八郎が黒い鹿の角の前立てを飾った兜をつけて、身命を惜しまず敵と味方の
間に乗り入れ、無事に徳川勢を引き上げさせた。
その様子は、かつての甲州の足軽大将であった、原美濃守(虎胤)、横田備中(高松)、小幡山城(虎盛)、
多田淡路(満頼)、そして山本勘助の5人以後は、信玄の家中でも多く見られぬ武者振りであった。
家康の小身の家には過ぎた、本多平八郎の働きである。
そのうえ、三河武者は10人の内7,8人までは唐の頭(ヤクの毛)を兜につけていた。
これも家康には過ぎたものだというので、小杉右近助という信玄の旗本の近習が、歌に作って
見付坂(静岡県磐田市)に立てた。その歌は
『家康に過ぎたるものは二つあり 唐の頭に本多平八』
というものである。
(甲陽軍鑑)
有名な「家康に過ぎたるもの」の逸話である。
0423人間七七四年
2014/02/21(金) 10:30:04.12ID:l2Tpa5dM0424人間七七四年
2014/02/21(金) 15:04:23.94ID:VVpA5cFN壱岐島の海辺に福島左衛門大夫正則、戸田民部少補氏繁、蜂須賀阿波守家政、生駒雅楽頭近世、長宗我部宮内少補元親の五大将が集まり
対馬への渡海について詮議していた。
この時、沖の方で鳥が飛び回っているのが見えたので
正則が「昔、本間孫四郎(南北朝期の武士)は沖の鳥を敵船へ射落としたそうだ。当世ではいかがであろう?」
と言ったところ、元親が「近代は昔と違い、弓の射手は少なくなりました。
しかし鉄砲ならば昔の射手に劣らぬ者がおりましょう」と答えた。
正則これを聞き「土佐の士には鉄砲の名人ありと伝え聞いています。いずれかを召して
あの鳥を撃たせて見せてくださいませんか?」と言い出した。
元親は「家中に鉄砲を撃つ者は数多いが、飛んでいる鳥を撃てる程の者は知りません」と断ったが
正則が「いやいや、たとえ外れたとしても苦しからず、ただ慰みに撃たせてみせてください」と重ねて言うので
元親はそれならば、と足軽の俵兵衛を呼び、あの鳥を撃ち落とせる者を呼んで来いと命じた。
すると俵兵衛「わざわざ人を呼ぶまでもありません。私にお命じ下さい。
常日頃飛ぶ鳥を撃っているので、あの程度の鳥ならば必ず仕留めます」と申し上げた。
元親は打ち笑い「諸将の前を憚らぬその心意気や良し、たとえ撃ち外したとしても恥辱にはあらず。やってみろ」と
命じた。
四人の大将を始めとして、その下の諸士がみな集まり見物となったので、これ以上の晴れがましさはなかったが
元親はもし外れたのならば恥辱とはならずとも、場が白ける事は必至であると内心穏やかではなかった。
(1/2)
0425人間七七四年
2014/02/21(金) 15:05:38.15ID:VVpA5cFN沖の方の岩の上へと落ちていった。
大将を始め、皆一同に「やや!撃ち落としたぞ!」と叫び、その賞賛はしばらく鳴りやまなかった。
されば間(距離)を打たせるべしと縄を張らせたところ、おおよそ五十八間であった。
正則は感極まり、昔の那須与一にも劣るべからずとして着ていた羽織を俵兵衛に賜ったので
残り三人の大将もこれにならって羽織を下された。
元親も悦に堪えず、また諸将への返礼なればとして俵兵衛をその場で士分に取り立て
太刀一腰を与えたので、当家他家の面々でこれを羨ましく思わないものはいなかった。
「土佐物語」 (2/2)
0426人間七七四年
2014/02/21(金) 17:36:03.92ID:xCa6m9ns0427人間七七四年
2014/02/21(金) 19:12:26.24ID:n57Yst7q0428人間七七四年
2014/02/21(金) 19:37:09.59ID:3Cg7k0Cq0430人間七七四年
2014/02/22(土) 10:07:43.39ID:BHA/r5hE0431人間七七四年
2014/02/22(土) 12:17:41.69ID:ALZChEIt0432人間七七四年
2014/02/22(土) 12:20:21.36ID:1dTZhzw90433人間七七四年
2014/02/22(土) 12:52:47.65ID:xGyPtrxp九月に、母が次郎兵衛の子を連れて寺の説法を聞きに行った。
その帰り際、子が草履を取ろうとしたとき誤って横にいた男の足を踏んだ。
男は母と次郎兵衛の子を咎め立て、因縁をつけた末に脇差を抜き、子を突き殺した。
母が次郎兵衛の子を守ろうと男にしがみつくと、男は母をも突き殺し、帰って行った。
この男は、中島茂庵という浪人者の子で五郎右衛門、その弟に山伏の中蔵坊という者がいた。
茂庵は美作殿と交流があったので、息子の五郎右衛門は美作殿から知行を与えられていた。
やがて事件が次郎兵衛の家に伝わると、次郎兵衛の弟某は五郎右衛門へ仕返しに向かった。
五郎右衛門は内から戸を閉め出てくる気配がないので、訪問客のふりで柔らかい声をかけた。
すると戸が開いたので、すかさず名乗りをあげ斬り合い、ごみために落ちながら、五郎右衛門を突き殺した。
すると中蔵坊が駆け出してきて、次郎兵衛の弟某を斬り殺してしまった。
事の次第を聞いた伝湖和尚は兄の次郎兵衛のところへ行き、
「中島方は一人死んだだけなのに、こちらは女子供含む三人も斬り殺された。
無念千万この上ない。兄上、どうか中蔵坊を討ち果たしてください」
と仕返しをすすめたが、兄の次郎兵衛が首を縦にふることはなかった。
伝湖和尚は口惜しく思い、出家の身ながら母、弟、甥の敵討ちを決心した。(1/2)
0434人間七七四年
2014/02/22(土) 12:57:31.30ID:xGyPtrxpそれから一心に仏道修行に励み、やがて竜雲寺の住職にまで出世をした。
そして佐賀の境伊予掾という刀鍛治のところへ、手習の弟子に与えると言い大小を注文し、
差料としてのこしらえまでして準備をととのえた。
翌年九月二十三日、寺に客が来ていたので、馳走を出すよう言いつけると、自らは方丈から忍び出で、
俗人の身ごしらえをして、大小を差し多久へと出かけた。
中蔵坊のところへ着いてみると、月待ちの行事で大勢の人が集まっていた。
その人数では手に負えそうもなかったが、もう延引することも出来ないので、
中蔵坊の親、茂庵を討つことで本望を遂げようと思い、茂庵の家に討ち入り、
寝間へ駆け込み名乗りをあげ、相手が起き上がったところを突きに突いて突き殺した。
近所の者たちが何事かと駆けつけ囲んだので、和尚はわけを話し、大小をその場に投げ捨て帰った。
そして事が佐賀にまで伝わり、伝湖の寺の檀家どもはすぐに駆けつけ、伝湖を守り寺へと引き上げた。
事件を知った美作殿はとてもお怒りになられたが、殿が御建立なさった寺の住職にどうにも手が出せない。
そこで鍋島舎人普周を通じて、高伝寺の湛然和尚に、
「あの者は人を殺した出家だから死罪にしてほしい」
と申し入れられると、湛然和尚は、
「宗門内の処置は高伝寺のやり方で行うから、お口出しはしないでいただきたい」
と返事をした。美作殿はますますお怒りになられ、
「ならば、どんな処置をなさると言うのか、お聞かせ願いたい」
とお尋ねになると、湛然和尚は、
「お聞きになっても無益であるが、どうしてもとお尋ねになるならお聞かせします。
出家の破戒は法衣を奪い追放するのが宗門の定めである」
と返事をした。
そして、伝湖は高伝寺で法衣を脱ぎ、追放されることとなったが、
追放の日には弟子たちみなが大小を差し集まり、数十人の檀家たちも同じく集まった。
そして、みなで伝湖を守りながら、轟木まで送った。
途中、猟師風の男たちがあらわれ、
「多久から来たのか?」
と問いかけてきたが、なんの手出しも出来なかった。
伝湖はその後、筑前に住んだが、町人たちが世話をし、侍たちとも友好な関係だった。
それは敵討ちの次第が伝わっていたので、武家も町人もみな親切に伝湖を世話したのである 【葉隠】(2/2)
0435人間七七四年
2014/02/22(土) 14:46:46.21ID:QbYwAeyQ0436人間七七四年
2014/02/22(土) 14:57:17.73ID:46enqYsO0437人間七七四年
2014/02/22(土) 16:13:06.59ID:FB03ychG0438人間七七四年
2014/02/22(土) 18:57:46.65ID:9RK3raC20439人間七七四年
2014/02/22(土) 19:21:08.51ID:pZr0eyF6|(´・ω・`) これでも飲んで落ち着かれよ
|o ヾ
|―u' 旦 <コトッ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
0440人間七七四年
2014/02/22(土) 20:06:06.55ID:GO9A0zPx長宗我部元親は全羅道の担当で、西南の方へ平押しに十四、五日ほど行くと、平々たる広野に出た。
そこには村もなく里もなく、また山もなく、ただ大きな川原があった。
東西の方向も定かではない広野にたたずんでいると、どこからともなく雷のような音が鳴り響いた。
一体なんだろうと、諸人が怪しみながら川端に近づくと、音も次第に大きくなる。
元親が「誰かある、あれを見てくるのだ」と言うと、若侍二人がかしこまって駆け走り
その後に別の三人が続いていった。
驚くなかれ、そこにはふた抱えほどある大木で、枝のない松のようなものが一丈ばかり立ち上っており、見るとそれは大蛇であった。
両の耳は唐犬の如く垂れ、目は日の如く光り、口広く耳の根まで裂け、紅のような舌をひらめかせて立ち上がった。
先の二人は驚いて立ち止まり見入ると、続いた三人も同様に立ち止まってしまった。
そこに土佐国韮生の住人小松左衛門が馬で駆け寄せ、鉄砲で狙いすまして撃つと、喉笛に発止と命中した。
大蛇とてこれは急所なので、仰傾けに倒れ川に入り、身悶えしてしばらく流れていたが
ついに沈んで見えなくなり、たちまちに川は紅色に染まった。
左衛門が川端に馳せ寄せみると、大蛇が倒れた際、石か何かに当たったのであろうか
大きな鱗が落ちているのを見つけたので、元親に差し出した。
元親は「これは日本では見たことのないものである。故郷への土産にせよ」と言い
そのまま左衛門に賜わったそうである。
「土佐物語」
0441人間七七四年
2014/02/22(土) 20:45:31.03ID:f27vMd/J0442人間七七四年
2014/02/22(土) 22:39:05.06ID:QphLMAUJ0443人間七七四年
2014/02/23(日) 10:14:10.77ID:U2GCbk1u0444人間七七四年
2014/02/23(日) 10:33:22.46ID:cWrDbmU50445人間七七四年
2014/02/23(日) 12:24:31.29ID:vrRx5zHc図体でかいのに、鉄砲一発とは情けない。
0446人間七七四年
2014/02/23(日) 12:39:48.99ID:3rGzu6Jd現存してるのかな?
0447人間七七四年
2014/02/23(日) 17:46:07.12ID:9GhmNLc7「とにかく家康公へ御付きになるのが適当です」と諌めた。
安房守はこれを受けて「いやいや、家康公へ付いても、
わしほどの者はたくさんいるので、重宝に思ってはくださらないだろう。
太閤へ付いたならば、重宝に思ってくださるだろう」と言って、
最後には太閤へ属した。そうではあるが、子息伊豆守(信之)を家康へ出した。
――『武功雑記』
0448人間七七四年
2014/02/23(日) 20:56:20.44ID:vLF4YCSg長刀に金鍔を打ち、衣服等にも紅裏をつけ、その他不行跡な事があり、江戸中の上下の取りざたとなり、
お付の家老、中山備前守(信吉)が、毎回色々と異見申し上げても、それを聞くことはなかった。
ある時、幕府の老中より備前守に奉書を以って『御用の義これ有り候。明四ツ時(午前10時頃)
登城候様に』との命があったので、備前守が登城した所、老中たちは彼に
「今日そこもとを召した御用に関しては、我々も存じていません。この後、公方様(秀忠)の御前において、
直接に御用を申し付けられる、とのことです。」
これを聞くと中山は
「皆様いずれもご存じない御用のことで、私が御前に召される、と言うことは、私にも存じ当たりが
あります。これはきっと、水戸殿(頼房)の行跡についてお尋ねになるのだと、推察いたします。
つまり、有り体に申し上げれば、主人の悪事を訴えろ、ということです。
しかし、『何事も私は知りません』と申し上げる、もしくは悪しき事をも宜しきように取りなして
申し上げるというのは、御上を欺く、後ろ暗いと申すものです。
ですので、私は御前に出てしまっては、もうどうしようもありません。
私が御前に召されるという件については、登城はいたしましたが、このまま退出させていただきます。
この場合、御上の御意に違うのは私のことであり、その御機嫌を損ないお仕置きなどを仰せ付けられても、
それは覚悟しております。」
老中たちはこれを聞いて何れも留まるように説得したが、備前守は承知せず帰宅した。
帰宅の途中、中山は水戸家の上屋敷に立ち寄った。そこでは頼房も、この日備前守一人が
御用として召されたことを納得できずに居たので、御用が済んで備前守が帰ってくるのを待っていたため、
早速召し出すと、備前守は江戸城内での次第を申し上げ
「私については、公方様より、今後どんなお咎めを受けるかわかりません。わたしは切腹と
覚悟を決めております。ですが、この上ながら残念なことが3つあります。
1つは、私に才知が無いため、御前様(頼房)のご行跡を聞くたびに、それをお改めなされるように
ご異見申し上げても、これを聞き入れて頂くことが出来ませんでした。
2つ目は、御前様はご若年でありますが、この備前守を付ければ気遣いもない、とご安堵なされた
権現様のおめがねを相違いになし奉ってしまい、これは今更申し訳も出来ないことです。
3つには、とくに考えていなかったわけではないのですが、かれこれと見合わせているうちに
すっかり引き伸びにしてしまいまい、御前様の不行跡の相手をする、不届きの奴原を成敗せずに
安穏に差し置いたまま私が相果ててしまえば、いよいよその行跡に差し障るのは必定です。
たとえ、私は切腹しこの身命が終わりましても、魂はここで、殿のお側を離れません!
願わくば、ご行跡をお改に成り、御上の思し召しにも叶いあそばされるようあってほしいと、存じ奉ります。
これは、私の今生の暇乞いですので、願わくば御酒を頂戴いたしたく、これを持ってくるように
申し付けさせて下さい。小姓衆!酒と盃を!」
そう備前守が言った所、頼房は小納戸衆を呼び集め、日頃用いていた伊達な拵えの刀、脇差、衣服等
尽く取り出し持ってくるように、と命じ、備前守の見ている前で、それらを小姓衆に残らず分け下し、
その上で挿していた脇差しの鍔元を小刀で打ち、
「今後は行跡を改める!であるので、備前守も気遣いせぬように!」
と言った。
ところでこの時の、中山備前守が無断で江戸城から帰宅したことについては、その内容が
老中達から秀忠の上聞に達し、秀忠は
「備前がそのような了見であるのなら、水戸の行跡もきっと治るであろう。重畳の事だ。」
と語ったそうである。
(駿河土産)
中山備前守、命がけで徳川頼房の不行跡を改めさせる、というお話
0449人間七七四年
2014/02/23(日) 21:15:54.81ID:JJQL3nwu命がけで諌める中山備前守
金打までして誓って見せる頼房
そして安定の秀忠クオリティ
0451人間七七四年
2014/02/23(日) 23:18:29.25ID:WFUz0RTY今回の話は善く動かす典型だ
0452人間七七四年
2014/02/24(月) 17:16:24.28ID:kb6mO7pp武を講じ、孫子呉子三略の趣旨を今日の和法に用いて古の軍学者などの及ぶところではなく、
まことに常用の武備はこの人に在りと、世間はこぞってほめている。
ある人が池田光政にその山鹿某を推挙したところ、光政は次のように言ったということだ。
「軍法兵学は、旧家にはそれぞれその家の軍法がある。武田家に山本勘助の軍法が、
上杉家に宇佐美駿河守の軍法があるようにな。我が池田家にも軍法があって、
信長の代より数十度の戦場に一度もおくれを取ったことがない。だがら我が家においては
(軍学者を)召し抱える必要がない。
いまは太平の代だから軍学などと言うが、乱世に生まれた者の軍学は皆自己の鍛練だ。
それは加藤清正、小西行長などが、朝鮮までも切りなびいたことから知ることができる。
それに古来未曾有と言われた豊臣太閤が軍学をしたということを聞いたことがない。
また、神君(徳川家康)に軍学の師という者はいないが、このように天下を平治なさった。
いま太平の代に立身して大名となった人で、先祖よりの軍法がなく自身で立てた法令のために
心許なく思う人こそ、軍師を召し抱えて法令を定めるのがよい。我が家には先祖よりの
軍法があり、乱世を過ぎて治世にあって国家はよく治まっているので、軍学は家に伝わるもので
足りるのである。新たに師を召し抱える必要はない。
そのうえ『乱世には武を以てし治世には文を以てす』といって、治世に国家を治めるには
仁義の道こそ肝要だ。故に熊沢五郎八(二郎八、蕃山)を召し抱えている」
その後、山鹿を津軽信政が召し抱えたいと思ったが、家老の神保三右衛門が無理をおして
留めたということである。
――『明良洪範』
0453人間七七四年
2014/02/25(火) 10:30:09.25ID:uo9gp8npーーくろだかふ
0454人間七七四年
2014/02/26(水) 00:56:58.84ID:uosgN0Ftなったなら、かわるがわる退屈しないものと氏郷は思っていた。
化物話から武話になり移ると夜が白むので、とにかく蝋燭を
二挺に限って夜話を止めて退出した。
夏の短夜には二挺でも夜が更けるので、短夜には蝋燭を
短く切って風所に灯して置くなどし、夜話を止めたとのこと。
――『武功雑記』
0455人間七七四年
2014/02/26(水) 01:01:03.95ID:3hl+ZanM0456人間七七四年
2014/02/26(水) 01:06:34.37ID:Qyp0wR8S0459人間七七四年
2014/02/26(水) 09:58:23.75ID:hO0IlIDZ0460人間七七四年
2014/02/26(水) 10:44:53.77ID:ETajhrlZ0461人間七七四年
2014/02/26(水) 11:09:08.55ID:xt96hlO60462人間七七四年
2014/02/26(水) 11:18:49.74ID:W0eMqxU+0463人間七七四年
2014/02/26(水) 12:00:18.21ID:XgRdAlGC夜中に「真宵タン(*´Д`)ハァハァ」とか言ってる工場長を想像してしまったw
0464人間七七四年
2014/02/26(水) 16:16:14.48ID:aiM0GJBcこの頃何処からともなく大きな虎が現れ
あまたの軍兵が食い殺されたので、陣中騒動すること甚だしかった。
浅野孫次郎親忠の家臣、下元勘助・興次兵衛兄弟は
隠れなき鉄砲上手、大胆不敵の勇者だったので
目に物みせん!と駆け出でて、勘助が狙いすまして虎を撃つと
弟興次兵衛もこれに続いて撃ち放った。
ところが虎はこれをものともせず、いよいよ猛狂って本陣へ近づいたので
大高坂七三郎(この時十五歳)が本陣へは入れさせぬと
小刀を抜いて一文字に駆け向かった。
虎は七三郎に飛びかかり、その胴体を横ざまに咥え、駆け出そうとしたので
吉田市左衛門政重、走りかかって虎の首の根を丁と切った。
[1/2]
0465人間七七四年
2014/02/26(水) 16:18:59.16ID:aiM0GJBcかたい鎧のために砕くことができず、市左衛門、虎の喉笛に手をかけて
七たび刀で突き刺した。
さしもの虎も急所を刺され、鉄砲で撃たれてはかなわず、立ち竦んで死んだ。
七三郎も助かったので、元親大いに喜び
感状に康光の太刀を添えて市左衛門に与え、帰国後に加恩もあったそうだ。
「その虎の爪を取って、日本の土産にせよ」と元親が言ったので
市左衛門、畏まり候と虎の爪を切り取って国に持ち帰った。
その爪は子孫持ち伝えて、今も彼の家にあると聞いている。
「土佐物語」
[2/2]
0466人間七七四年
2014/02/26(水) 19:21:47.80ID:V1cIhpSV0467人間七七四年
2014/02/26(水) 20:34:20.52ID:sCDBYhINとある老武士が、話相手の老武士に言った。
二人は主従であり、話しかけたほうが従者である。
言われた側、即ち主人の方の老武士は怪訝な顔をした。
ともに隠居するまで、それはそれは数え切れぬほどの戦場に出ては生還してきた。
「功がないわけがなかろう」という主人の疑問である。
これに従者が笑って曰く
「兵と見れば殿が槍をふるって追い払い、将と見ればこれまた殿が御自ら討ち取っておられましたので」
大将が自ら陣頭に立って槍を振るう、従者としては頭と胃が痛くなるような悪癖が
「とうとう隠居するまで直りませんでしたなあ」と軽く皮肉ったのである。
これに主人はうまく返すこともできず「ああ、そうだったそうだった」と
苦笑いするばかりだったそうな。
関ヶ原も大阪の陣も過去となった泰平の世。
島津兵庫頭義弘と中馬大蔵重方主従の会話である。
0469人間七七四年
2014/02/26(水) 22:20:38.43ID:QLVrXwlQ山形市には次の様な話が残る
とのサマは
供も連ンれず
お寺参り
黄色い馬ッコが鈴を鳴らす
馬上のとのサマが今日も揺られていくヨ
黄色い馬に揺られているのは秀次事件で愛娘を失った最上義光
義光の山形城から専称寺へのお墓参りは
市井の民らも良く知るところだったと云う。
専称寺の境内内(本堂前)には現在も最上義光が寺を訪れた際に馬を繋いだとされる「駒(馬)つなぎの桜」が残る。
0471人間七七四年
2014/02/26(水) 22:24:07.37ID:B1JE84mz虎退治は勇敢さを示すのに便利なんだなw
0472人間七七四年
2014/02/26(水) 22:31:53.98ID:Zhf3pNOF0473人間七七四年
2014/02/27(木) 01:05:34.78ID:onJgSEDK04741/3
2014/02/27(木) 12:02:38.03ID:F91xE93Q養われたこともあって、裸一貫から大大名にまでのし上がった祖父を大いに尊敬していた。
ある時、長明は嘉明にその武功を尋ねたが、嘉明の答えは「そんな昔のことは忘れたわい。」
と、そっけないものだった。
「ですが、おじい様は唐の島(巨済島)の海戦等で大手柄を立てた、と聞き及びますが……」
「十五〜六歳の小姓が敵船に乗り移ろうとして、矢に当たり海に落ちて死んだ。かわいそうな事をした。」
嘉明はそう言ったきり、口を閉ざしてしまった。
04752/3
2014/02/27(木) 12:04:50.57ID:F91xE93Q加藤嘉明は「目に余るような大敵相手に、小勢で当たるのは如何なものか。」と主張した。
ところが肝心の嘉明隊から、敵船団に向かって行く船が現れた。
「あーこれはいかん。わが命に背くあの者共を止めてこい。」
嘉明の命により次々と船が漕ぎ出されたが、いっこうに先の抜け駆けした船に追いつかず、ついには
敵船団に迫ってしまった。
「うーむ。これは、わしが行って止めねば収まるまい。」そう嘉明が言い放つや否や、嘉明隊の全船が
動き出した。要するに、最初の嘉明発言からして仕組まれた、抜け駆けのための策である。
04763/3
2014/02/27(木) 12:07:05.87ID:F91xE93Q「殿、船はどちらに着けましょう?」「中央の大船に着けよ。」
船団の真ん中の大きな船に乗り移った嘉明一行を、敵は船内で剣を抜き、鏃を揃えて待ち構えていたが、
一行は恐れず敵中に飛び込んで斬りまくり、この船を乗っ取ることに成功した。
嘉明が船内から甲板に出ると、味方諸将の船団を追いついており、すでに火のついた敵船もあった。
嘉明一行は次の獲物を物色し、十六歳の河合庄次郎が真っ先に別の船へ飛び移った、その瞬間。
狙い撃ちされた庄次郎は海に落ち、そのまま浮かんで来なかった。(常山紀談より)
この武功等により十万石に加増され、大大名への足がかりをつかんだ嘉明だが、
己の無謀な策により海の藻屑と消えた若者たちがいたことを、生涯忘れていなかった。
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています