戦国ちょっといい話39
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0325人間七七四年
2014/02/08(土) 20:43:21.72ID:DYVeuB5O同10日、尾州熱田に御着、11日に清州城に入られた。軍兵は城中から溢れ、町中付近に
充満した。
清須に1日滞在され、人馬の労を休め、13日岐阜に御着された。翌14日朝岐阜をお立ちになり、
この日は進軍する姿を敵に見せないために大垣の敵方をわざと避け長良川を越えて、横大路呂久川を
渡り、西の保片山を経て赤坂の後ろ、虚空蔵山と、その北南禅寺山との間にある金地越を通られた。
赤坂に居た東軍諸将は途中までこれを御迎えに出て家康公に拝謁した。家康公は、諸大将の
これまでの苦労を謝せられた。
ここで本多中務大輔(忠勝)が、家康公の輿の傍に寄り、あたりの人間を密かに下がらせ、申し上げた
「黒田甲斐守(長政)の計略により、筑前中納言(小早川)秀秋、御味方に参られ返り忠を
仕るということで、甲斐守より互いに人質を取り交わし、堅く契約申し置いたということです」
この詳細を聞くと、家康公は御輿の中より高らかに言った
「筑前中納言が、味方に参り返り忠をすると申し入れてきた!合戦はもはや勝ったぞ!」
諸人はこれを聞いて、喜び勇むこと限りなかった。
この日、西の保を通られた時、美濃国安八郡八條村瑞苑寺の禅僧が、大きな木練柿を一折り、
杭瀬川の傍で家康公に献じた。
家康公はその柿を一つ手に取られて、「大がき(大垣)既に手に入りたり!」と仰せられ喜び、
残りは近習に与えた、ちなみにこの瑞苑寺には後で田地を附け与え、寺号を『柿寺』と改めさせた。
14日午の刻(正午)、赤坂の岡山に到着された。
(黒田家譜)
黒田家譜より、徳川家康が江戸を出て赤坂に到着するまでの模様である。
ここでも神君のネーミングセンスが遺憾なく発揮されていたのである。
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