戦国ちょっといい話39
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年
2013/12/28(土) 15:41:31.69ID:m9sYieeK戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1377700193/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386399929/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0287人間七七四年
2014/02/05(水) 21:01:28.98ID:rR/x2MNn0288人間七七四年
2014/02/05(水) 21:13:45.10ID:4Km9AmUL0289人間七七四年
2014/02/06(木) 04:23:47.99ID:k5Xtgbge0290人間七七四年
2014/02/06(木) 04:49:59.88ID:ASxUWjc70291人間七七四年
2014/02/06(木) 15:01:46.67ID:8SKyAvCh神祖(家康)が三川(三河)に居られた頃は、配下に侍大将が8人いた。
大久保忠世は家中に集められた人質を管理していた。
酒井忠次は5000の兵を預かり、先陣の大将であった。織田信長から東国33カ国の武功の者と賞賛されたお方である。
大須賀康高はその次、本多忠勝も軍勢を率いる。
後の4人は誰だかわからない。
(大泉叢誌)
他の4人については本当にこれ以上書いてありませんw
0292人間七七四年
2014/02/06(木) 17:09:03.14ID:uujho66q0293人間七七四年
2014/02/06(木) 17:54:53.35ID:ac0sYaDd信玄は確定でいいと思うけど
0294人間七七四年
2014/02/06(木) 20:47:34.45ID:2tOHNFTxいわゆる木曽川・合渡川の戦いである。
このとき黒田長政は、わざと敵陣の近い方に進んで川下の方に向かい、合渡の宿の東、川端湊という
所まで行ったが、その辺りは川の淀みであり、水深が深く渡り難いものであった。
長政は川上に浅い瀬があると聞いて、士を少々召し連れて浅瀬の方を見ようと川上の方に二町ばかり
戻ってみたところ、何とそこから川上の方では田中吉政の先手の兵が今から川を渡ろうと、川端に
足をかけているような状況であった。
これを見た長政は「田中に先を越されては良いがいもない!」と、その場の、藤内瀬という場所から
川に乗り入れた。
この時黒田家の家臣たちは川下の舟渡の場所に集まっていたのだが、長政よりこちらに来いとの使いが来て、
我先にと長政の跡に駆けつけ、さしも深き大河を船もなく渡り始めた。
さて、半分ほど渡ったところで、川向に敵が数多く鏃を揃えて待ち構えているのが見えた。
しかし長政はこれにもひるまず、敵の多い方に向かって進んで行った。
家臣の後藤又兵衛はこれを見て「これは危ない」と思い、
『向かいには敵が多く鏃を揃えて待ち構えています!その脇の方に向かって渡りましょう!』
と言おうと思った。が、長年の間、長政のいつもの勇気(無謀とも言う)を知っていたので、
敵が強いなど言えばなんとしてもその方に向かい、脇に行くことはないと思ったので、
長政に向かってこう叫んだ
「どうして悪しき方に向かっているのですか!?」
長政これを聞くと、後藤の方へキッと振り向いて
「なんだと!?私が向かう方を悪しきとはどういうことだ!?」
「ただ今向かっている方向に待ち構えている敵は雑兵ばかりです!良き敵は、あちらの方におります!」
と、敵の少ない方を指さした。長政はこれを着いて
「ならば、良き敵の有る方に向かおう!」
そう言って敵の側面になる方向に向かって川を渡った。
(黒田家譜)
そんな、実に黒田長政らしい合渡川合戦の逸話である。
0295人間七七四年
2014/02/06(木) 21:52:06.02ID:BQwMF9SG0296人間七七四年
2014/02/06(木) 21:52:44.61ID:j1QXlBv90297人間七七四年
2014/02/06(木) 22:21:11.47ID:lDWxsm2t相賀光重と下毛野武盈は、この時の詳細を『播州置塩夜話 六花亭物語』(播陽万宝知恵袋と播磨鑑に収録。)に記している。
では、「赤松のシェフ」が書き残した饗宴を追体験してみよう。(六花亭は置塩城の茶亭の名前らしい。)
才殿は晩7つ刻にお越しになり、ご馳走が始まった。
最初に供したのは「狸食」。
本膳の真ん中に白飯、右に澄ましのかけ汁が入った汁椀、左にはネギ、柚子、大根、唐辛子などを刻んだ「かうとう」(香頭=吸い口)の入った盃を置いた。
食椀の底には鴨、鯛、スルメ、シイタケ、麩、干瓢、きくらげ、ゴボウ、人参、大根、こんにゃく、雪豆腐、昆布などが隠されていて、
香頭を汁に混ぜ、食椀にかけていざ喰おうという時に、何の変哲もない白飯の下から色々なものが出てくるのだ。
化かされたような心地になるということで、この料理を「狸食」というのだとか。
次の膳は、真ん中に味噌仕立ての雁汁、右に刺身(鯉、スズキ、チヨク、煎り酒を高麗の皿に盛ったもの)、
左に貝焼き(大貝、アワビ、シイタケ、クラゲ、干瓢、レンコン、玉子油豆腐、玉子油こんにゃく、ウズラ、鴨など)
次は食椀、御汁を左の方に置き、膳の脇に鯉の味噌煮、鮭の塩引き、シギかウズラの焼き鳥を添えた。
それに、宝命酒1返と、熊掌(油揚げにして、澄まし汁に酒を入れて調味したもの。生姜をすり入れて味を付けた。)を供した。
さらに
・チンタの酒(赤ワイン)1返と、ウニ
・延命酒1返と、タラの吸い物(澄まし仕立て)、剥き海老、かまぼこ(播磨鑑ではカマスゴ(イカナゴ))
・御酒1返と、玉子のふわふわ、クシコモドキ(クシコを細かに切り、ふわふわに入れる)
を供した。ここまでは屋形殿と才殿二人だけで召し上がった。
才殿の家老の神村と太刀持ち2名は、秋津民部や御屋形の太刀持ちとともに、玄関の内「具足の間」で、
狸食、鯉の刺身、鴨汁、イカの青和え、飯、鮭の塩引き、鱈の吸い物、御酒、かまぼこ、剥き海老、御酒、サザエの壺炒り、御酒、鮎の寿司を食べている。
0298人間七七四年
2014/02/06(木) 22:23:44.30ID:lDWxsm2t松竹の台に載せられた肴(色々の刻み物、組み物(盛り合わせ))と、二合入り、三合入り、五合入りの椰子盃が出され、
家老や重臣達がそれを頂き、拙者(下毛野)も家老に御盃を頂いた。
猿楽師・明石小大夫は
「天津神、八千代も同じ日ノ本の、光絶えせぬ神の道、今末の世に受け継ぎて、下方民に至るまで、君の恵みを仰ぐなり♪」
と小謡を披露。
この時、鯛イッコンヤキ(ホンテ)、ナマコ・クラゲ・角小ヘキのふくら炒り、辛螺(巻貝イボニシ)の壺炒り、延命酒、ふわふわ、吸い物が各自に供された。
置塩家老・山田助九郎は、才殿の家老・神村を呼び出し、五合入りの椰子盃をさした。
この時に出ていた料理は、
かるも川という三升入りの緑の大皿鉢に生姜酢を溜め、アマノリ、但馬海苔を打ち振り、ヒジモ、葱、大根、人参、ゴボウなどを散らしたもの。
酢鯛も出た。
神村は置塩家老・福岡助九郎とともに猿楽立会を始めた。
片足を上げて手を振り足を振り、猿の顔真似でにらみ合い、口を開け扇を持って入れ違い、顔をしかめ首をねじらかす二人の面白いこと面白いこと!
料理の方は、酢イカ、柏の黒和え、玉子のふわふわ、
御挽き茶(抹茶)、お菓子(有平糖=ポルトガルから伝わったキャンディー)、柏など。
暇乞いにあたって福岡は、口上を述べ、ご馳走のお礼として3mほどの縄を使った富引(福引)を持ってきて、屏風の陰に隠れて袋を握った。
そして、無礼講の御免として、屋形殿を始め上下分ちなく、無刀にて縄を引き、屋形殿はエビラ、才殿は碁盤、神村は叩き鉦、
湯浅将監は下僕「毛八」、松田将監は箸箱、黒川道伯は床枕、橋庄蔵は腰元「たん」、猿楽師は猫、宮森道林は笛を引き当てた。
何と面白いことだろうか!
やがて上下ともくたびれ果て、宴はお開きとなった。
この乱酒で両家の家臣団12人が呑んだ酒は、合計6斗6升。
山田助九郎は5升、福岡十太夫は7升、黒川道伯は8升、神村は9升呑んでいる。
0299人間七七四年
2014/02/06(木) 22:24:48.38ID:lDWxsm2t神村達にも同じ料理を具足の間で振舞われた。
この時のメニューは
・鯛のなます。かまぼことアワビ入りのイモマキ汁。赤貝の澄まし物。粟飯。
・ドジョウ汁、焼き海苔(アマノリツクモ)。御酒1返。
・酢イカ。御酒1返。
・さざれ石という大皿鉢に、大根、人参、干瓢、きくらげ、紫海苔、柚子、サザエ、ニシ貝等の酢の物。
・酒1返。猿の木耳焼き。
・引き茶。御干菓子。(ただし、才殿には雀の焼き鳥)
であった。
これで才殿はお暇を乞われ、溝居へお帰りになられた。
なお、才殿からは鶴1羽、延命酒5升、鯉1コン、タイ1枚、勝男10節。神村からは鴨2羽、勝男10節がお礼として届けられた。
なお、相賀光重と下毛野武盈は、天正元年、赤松則房が宇野下野守をもてなした際にも狸食を出しているが、この時は精飯でなく、蕎麦に汁をかけている。
0300人間七七四年
2014/02/06(木) 22:32:14.15ID:kfvVTbbn0301人間七七四年
2014/02/06(木) 22:46:20.26ID:lDWxsm2t×猿の木耳焼
○猿の木取焼(ことりやき)
でも、どんなものかは分からない。
0302人間七七四年
2014/02/06(木) 22:49:31.01ID:qxnoQLjT0303人間七七四年
2014/02/06(木) 23:25:56.97ID:mKEDwHO3でも喰いたい。
赤松の献立には及ばぬが喰うぞ!
0304人間七七四年
2014/02/06(木) 23:47:25.36ID:j1QXlBv90305人間七七四年
2014/02/06(木) 23:51:04.11ID:r/x/pdyVこれ?江戸時代からとか書いてるけど
0306人間七七四年
2014/02/07(金) 00:20:16.37ID:2Xilqmmi0307人間七七四年
2014/02/07(金) 00:22:27.12ID:2Xilqmmi0308人間七七四年
2014/02/07(金) 00:27:36.23ID:523ZGKqr0309人間七七四年
2014/02/07(金) 00:29:59.23ID:9TqkH9Uqそれでも9升は多いが
0310人間七七四年
2014/02/07(金) 00:54:10.41ID:7Bv4cmy6地域おこしグルメとして復元してみては?
家老の神村のメニューとか、いい感じに収まりそうだし。
鍵はやはり調味料か・・・
0312人間七七四年
2014/02/07(金) 01:39:27.44ID:7Bv4cmy6となると、随分イメージが変わってくるね。
ちなみに『播州置塩夜話 屋形物語』(天正2年正月1日 相賀重茂、毛野武盈)では、
「右方すまし汁しるわん、左方そばゆで盛食わん、わんの前に小皿にかうとう、とうがらし、わさび、葱細に、大こん、かつほ、柚等きざむ。
さて客、食椀ふたをとり、汁わんふたを取、汁にかうとう望次第かきまぜ、そばにかくれば、下より種々の物、下より出る。
出と云か、鴨、鯛、しいたけ、あはび、木くらげ、麩、せん、玉子、油とうふ、雪とうふ、同こんにやく、雪もち、あぶら上のにんじん、
牛房、かうぺう等出る。下もりに仕也。」
となってます。
0313人間七七四年
2014/02/07(金) 11:35:31.20ID:xTjnP8DBこの日記は永禄八年分しか残ってないので、一年を通した食事の内容に相当します
主食
麺(饂飩・碁子麺・38回)・餅(焼餅・善哉・76回)・飯(麦飯・湯漬・焼飯・雑炊・茶漬・小豆飯・揚花・芋粥・割粥・挽粥・276回)・饅頭(20回)・茶菓子(38回)・その他(打麦・雲門など)
食材
米(餅米を含む自家製)・小麦・大麦・大豆・大角豆・山芋・里芋
蕪・茄子(自家製)・葱・韮・大根(自家製)・ウド・榎茸・松茸・筍・鶯菜・東坡
瓜(自家製)・梨・柚(自家製)・栗・柿・蜜柑(自家製)・杏・桃
豆腐・海苔・麩・串柿・昆布・干松茸・茶(自家製)・煎餅・菓子・宇治茶
副食についての記述は少ない(61回)ので、実際にはさらに沢山の食材が使われていたと思われる
寺領中には田や茶園や果樹園があり、また立野としていた山野まで備えているため山菜は豊富に供給出来た
不足していたのは昆布や干松茸のような加工品で、これは遠隔地と取引している土豪から貰っていたようだ
ちなみにここは禅寺なので、魚類肉類は皆無・・・ではなく元旦には食している
麺・蛸煮・田楽・曳干(魚の干物)・雑煮 等を肴に年始の客とともに八日間にわたって酒を飲んでいた
酒と雑煮は特に、大工や寺民や鍛冶・草刈りに至るまで広く振る舞われたようだ
なお料理の味付けはほぼ味噌である
0314人間七七四年
2014/02/07(金) 13:21:21.06ID:balV8J820315人間七七四年
2014/02/07(金) 14:44:25.43ID:KkgO+KmH0316人間七七四年
2014/02/07(金) 14:49:52.50ID:KkgO+KmH>なお、相賀光重と下毛野武盈は、天正元年、赤松則房が宇野下野守をもてなした際にも狸食を出しているが、この時は精飯でなく、蕎麦に汁をかけている。
天正元年なら宇野下野守は赤松政秀の事じゃないよね。息子の誰か?
それとも天正じゃなく元亀の元年?
0317人間七七四年
2014/02/07(金) 15:06:22.91ID:BI2ukBVI「徳川殿が諸将をひきいて攻め上られれば、拙者は居城清洲をそっくりお渡しします。」と
NGMSありきで言ったんだろうけれど、空け渡す序でに先陣を望んだ上に黒の駿馬賜ってる
事前に決まっていたのか、はたまた政治的やりとりも上手かったのだろうか
0318人間七七四年
2014/02/07(金) 18:59:56.10ID:7Bv4cmy6天正元年です。
「天正元年十月八日宇野下野守参上、夜食出と。ほら進上、鷹一羽、鯉二こん、鯛五枚・・・」
家臣団の名前から推測するに、宍粟郡長水城主・宇野下野守祐清かと。
0319人間七七四年
2014/02/07(金) 20:05:51.58ID:KkgO+KmH民部大輔の前の名乗りだったのかな?
0320人間七七四年
2014/02/08(土) 01:36:10.49ID:wfRVODml真のsuky(数奇)を本業とする人の中には、すべての点で他の誰よりも優れた人が必ず1人いて、
そのために他の人から重んぜられ、尊敬される。
その人は、この宗門または芸道の師匠や頭領であり、それはjenxos(禅宗)―この芸道はそれを模倣している―を真似て、
俗にsukynovoxo(数寄の和尚)と呼ばれている。
その頭領すなわち師匠は、あたかも我々が「博士」と呼ぶように、この名前で呼ばれている。
この事に関連して、注意しておかねばならないのは、すべての学術、工芸には、
ふつうその道において他のすべての人より優れている1人の師匠や頭領がいるが、全ての者が彼らをそういう人だとして認め、
その方面で彼の教えに従っているという事である。
それらの中の何人かは、国王から称号を授けられ選び出されて、権能を与えられる。
0321人間七七四年
2014/02/08(土) 01:38:25.13ID:wfRVODmlまた、往々にして、ある者たちは、自分たちを認めてくれるような者がいなくて、かかる者として自分で名乗り、
Tencaichi(天下一)を自称する。
それは、この道にかけては国内で最も主要な者、caxira(頭)、すなわち頭領の意であり、
もしも世襲で、同一の団体が多数あれば、団体または仲間の頭領の意味で、zagaxira(座頭)という。
これらの人々は自分の家の戸口に看板や表札を掲げるのが習慣となっていて、
たとえば、書写用などの毛筆を作ることで、全国で最も優れている者は、Fude tencaichi(筆天下一)と書いておく。
0322人間七七四年
2014/02/08(土) 01:40:37.72ID:wfRVODml天下の首都、Mayaco(都)という宮都では、門の入り口のように、全ての人が行きかう都市の広場や公道や大通りに、
次のように書いた立札を立てる。
「某地の某、日本国中、すなわち天下の剣術の達人、某通り、または某家に居住す。
異議ある者、挑戦を希望し、木刀または真剣をもって試合したい者は申し込まれたし」
もしも、誰をそれを求めず、挑戦する者もなければ、
天下の首都に、あえてそれを否定しようとするものがいないのであるから、確認されたことになる。
(日本教会史)
0324人間七七四年
2014/02/08(土) 17:25:26.50ID:mYm7n5SY正月二日、志州は唐津城下で馬揃をして見物した。この時、何としたことだろうか、
人喰馬が轡を脱して駆けて来た。
千賀はこれを見て袴のももだちを高くとって馬場の中に走り向かい、片膝をついて待った。
この馬が千賀を見て眼を開き牙を剥いて飛び掛ったところを、
千賀は立つやいなや馬の平首を抱いて押し伏せて膝で平首をしき、手を挙げて馬副を招くと、
口を割って轡をはめさせた。
――『武将感状記』
0325人間七七四年
2014/02/08(土) 20:43:21.72ID:DYVeuB5O同10日、尾州熱田に御着、11日に清州城に入られた。軍兵は城中から溢れ、町中付近に
充満した。
清須に1日滞在され、人馬の労を休め、13日岐阜に御着された。翌14日朝岐阜をお立ちになり、
この日は進軍する姿を敵に見せないために大垣の敵方をわざと避け長良川を越えて、横大路呂久川を
渡り、西の保片山を経て赤坂の後ろ、虚空蔵山と、その北南禅寺山との間にある金地越を通られた。
赤坂に居た東軍諸将は途中までこれを御迎えに出て家康公に拝謁した。家康公は、諸大将の
これまでの苦労を謝せられた。
ここで本多中務大輔(忠勝)が、家康公の輿の傍に寄り、あたりの人間を密かに下がらせ、申し上げた
「黒田甲斐守(長政)の計略により、筑前中納言(小早川)秀秋、御味方に参られ返り忠を
仕るということで、甲斐守より互いに人質を取り交わし、堅く契約申し置いたということです」
この詳細を聞くと、家康公は御輿の中より高らかに言った
「筑前中納言が、味方に参り返り忠をすると申し入れてきた!合戦はもはや勝ったぞ!」
諸人はこれを聞いて、喜び勇むこと限りなかった。
この日、西の保を通られた時、美濃国安八郡八條村瑞苑寺の禅僧が、大きな木練柿を一折り、
杭瀬川の傍で家康公に献じた。
家康公はその柿を一つ手に取られて、「大がき(大垣)既に手に入りたり!」と仰せられ喜び、
残りは近習に与えた、ちなみにこの瑞苑寺には後で田地を附け与え、寺号を『柿寺』と改めさせた。
14日午の刻(正午)、赤坂の岡山に到着された。
(黒田家譜)
黒田家譜より、徳川家康が江戸を出て赤坂に到着するまでの模様である。
ここでも神君のネーミングセンスが遺憾なく発揮されていたのである。
0327人間七七四年
2014/02/08(土) 20:54:15.11ID:34l7ZZPmこのコメントで
>209
家康「大柿が手に入ったわい」
ってあったのはそのせいか
0328人間七七四年
2014/02/08(土) 23:49:41.14ID:QmtTzYi70329人間七七四年
2014/02/09(日) 09:16:01.75ID:lmtg7MGEいろんな武将の前でこれから敵の誰かが裏切るとか言ってていいんだろうか。
0330人間七七四年
2014/02/09(日) 16:07:47.26ID:ZIqDdczn炭は湯が沸くように燃やし、茶はよく飲めるように点てるのがコツです」と答えた。問うた人は不機嫌に
なって「そんなことは誰でも承知していることです」と言うと、利休は「ならば、私が言った通りの茶を
点ててみてください。それが出来たら私はあなたの弟子になりましょう」と言い返した。
すると、その場に同席していた笑嶺和尚が「今の話は唐の道林和尚の『諸悪莫作 衆善奉行』の教えと
同じですな」と言った。(南方録)
唐の時代、仏僧の道林和尚は詩人の白楽天に『諸悪莫作 衆善奉行』(悪いことをせずに良いことをせよ)
と言うと白楽天は「そんなこと3歳の童子でも知っている」と答えた。すると道林和尚は
「3歳の童子が知っていることでも80歳の老人すら実践するのは難しい」と応じた。
0331人間七七四年
2014/02/09(日) 22:33:31.42ID:gXyZEWaL0332人間七七四年
2014/02/09(日) 22:39:18.24ID:lJkkkQqAこっちの話では笑嶺和尚は出てるが、『諸悪莫作 衆善奉行』だけ抜けてるな
0333人間七七四年
2014/02/10(月) 07:18:02.30ID:l/xnaAIKカイクジン(海狗腎)という魚を調理して進上した。
この魚を食せば長命になると言われているそうだ。
この魚には、向かい合ったヒレがあり、身体には毛が生え、長さ一尺(約30センチ)、横幅が
4,5寸(約15センチ)程であったという。
別名にヲツトセイとも言うそうだ。
(当代記)
徳川家康、オットセイ料理を献上されるというお話。
0336人間七七四年
2014/02/10(月) 10:38:12.91ID:lkxvww1I0338人間七七四年
2014/02/10(月) 18:07:05.63ID:MPRjJTKC天正8年(1580年)8月、佐久間信盛・信栄親子は対石山本願寺戦における怠慢を
叱責され、織田信長より追放処分を受けた。持ち場であった天王寺の砦から
すぐに退去せよ、という命令であったため、手持ちにあった黄金20枚ほどを持ち、
とりあえず高野山を目指した。当時、信盛は七カ国の兵を動員する権限を有し、
それは織田家中で最大の軍事力といってよかったらしい。それが一枚の譴責状で
このざまである。つき従う者もわずか三人。周囲が信長を恐れたためか住む所も
なかなか見つからず、天王寺を出てから一ヶ月後にようやく落ち着き先を得る
ことが出来た。親子はそこで頭を丸め、信長の怒りがおさまるのを待った。
このとき、いまや乏しくなった懐から半分を出し、落ち着き先の金剛峰寺の
坊主に食事など身の回りの世話を依頼している。そして、こうも頼んだ。
「この身に不測の事態が起きたならば、お預けした金子で石塔を建てて下され」
(震え声)( TДT)
哀れである。しかし、信長の怒りは解けない。
「高野山に住まうこともまかりならぬ」
わずか10日後、親子は新たな落ち着き先を求め旅立つ。去り際に、もしもお怒りが
解けて復帰がかなったら200石寄進します、と連名で認めて坊主に渡しているのが
わびしい。事態がここまで悪化すると、つき従っていた供の者も「こりゃあかん」
と親子を見捨てて逃げてしまったらしい。お先真っ暗、どん底である。
だが、僅かな光明が灯された。
親子を慕って一人の家臣が駆けつけてくれたのである。
その若者はまだ十七歳。少し前に父親を亡くし、近江国で喪に服していたが、
主親子が追放と聞いて、いてもたってもいられず、高野山に向かい、方々捜して
ようやく熊野に向かう途中の親子を見つけ出すことができたのである。若さって
すばらしい。信盛はその忠心に涙し、何も与えることができぬ、せめて我が姓を
受け取ってくれ、と佐久間姓を名乗ることを許したという。
さて、高野山を離れた親子は、最終的に現在の十津川村に落ち着き、この地の
温泉(湯泉地温泉)で湯治をすることとなった。若い信栄はともかく、既に老境
に入っていた信盛は、追放により精神的にも肉体的にも相当なダメージを受けた
と思われる。悲しいことに養生にもかかわらず、追放からおよそ1年後、信盛は
息子と若者に看取られながら十津川で没する。涙する若者 (;´Д⊂)
信盛の死から半年、さすがに哀れに思ったのだろう、信長は信栄を呼び戻し、
赦免を与え再び出仕することを命ずる。喜ぶ信栄の横にはまたまた涙する若者の
姿があった。
0339人間七七四年
2014/02/10(月) 18:08:49.85ID:MPRjJTKC政争に巻き込まれ、所領没収のうえ、息子とともに寺への蟄居を命ぜられる。
彼の脳裏に、旧主の姿がありありと映し出されたことだろう。だが、彼は旧主の
ように「待ち」の姿勢をとらず、己の運命を変えるべく親子して「攻め」に出たのだ。
自らの不遇を利用して、敵方勢力に味方すると見せかけ、相手の懐に飛び込んだ
うえで敵大名を暗殺してみせる、この献策が入れられぬと分かると、今度は息子の
方が勝手に寺を抜け出して戦に参加しようとする。関所で見破られ送り返される
と、あらためて通過のしやすい商人に成りすまし関所を突破、戦場へ駆けつけるが、
戦は和議が結ばれた後だった… ( TДT)
和議が破れ、再び戦が始まると、好機到来とばかりかつての同僚の軍勢に親子して
加えさせてもらい再起を懸ける。合戦が始まり敵勢目掛けて突進するも、前に出過ぎて
息子及び同道した弟は討ち死に……(;´Д⊂)(;´Д⊂)(;´Д⊂)
だが、彼等の死は無駄死にではなかった。失脚から15年、息子らの戦死から13年も
経っていたが、かつての若者、既に60歳を超えた老将は罪を許され、大名への復帰に
成功したのである。感涙を流す周囲の者を見つめ、はて、いつかどこかで見た風景…
と彼が思ったかどうか…。
彼の子孫は、二度と領地を手放すことはなかった。小さいながらも大名として存続し
続け、明治の代を迎えた。
牛久藩初代藩主、山口重政のお話。
0340人間七七四年
2014/02/10(月) 20:51:02.60ID:lkxvww1I0341人間七七四年
2014/02/10(月) 23:23:12.13ID:an7pd4us四民の行為も何ごとも急げ。たとえ立身できるとしても、老いていれば晩年は短い。
日が暮れて道を急ぐことになるであろう。
(人は少年に学び、壮年にはやく立身すべきことなり、四民の所業もなにも急ぐべし。
たとひ成得ても老あれば末短かし、日暮て道をいそぐなるべし。)
(以下、例えをまじえて同じことを述べている)
――『東海夜話(沢庵宗彭著)』
このように沢庵は学ぶことそのものは肯定しているので、
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8215.html の記述は学ぶなという話ではなくて、
「学ぶ人は自己を持って悪智慧を生じないようにしろ」ということなのだろう。
0342人間七七四年
2014/02/11(火) 00:17:20.77ID:12PwH1cW0343人間七七四年
2014/02/11(火) 00:39:34.08ID:ULwduIJgいまいち意味が理解できなかったのと、締めの言葉からして結局同じことのようだから省略した。
(北地陰寒の国には春の花おそし、陰寒にささへられて然り。しからば秋の花は末の陰寒を考えて
疾くひらくべけれども、節序あればこれも前年の寒気春に持こして、そのいたみにや、
秋の花もおそくさき出るゆゑに、又来る秋すゑの寒気にあたりて、さかりもほどなきなり。
人の中年すぎ立身して、すゑの短きが如し。)
註によると「皆少年に学ばざれば何の業も上達し難し、少年時は四季に於ける春なり、
此の時に於て充分養ひを取らざれば秋に良果を収むることかたし、」とのこと。
0344人間七七四年
2014/02/11(火) 01:08:01.70ID:U74Vycw/ドラマだねえ
しかし懐に忍び込んで暗殺してみせる敵大名って豊臣秀頼のことだよね、色々と凄いこと言うね
0345人間七七四年
2014/02/12(水) 16:32:39.93ID:1JpDUISNではここで山口さんが苦労するに至った、関係の深い方に伺いましょう。
いかがですか、このお話の御感想は?
正純「ふむふむ、で、佐久間信栄殿は200石を寄進されたのですかな?」
0346人間七七四年
2014/02/12(水) 22:00:29.59ID:eCUrkUs70348人間七七四年
2014/02/13(木) 14:12:10.66ID:3K72IIoxそりゃ周りがメダルを期待するのも当然
やっぱり重圧だったんだろうな
でも不利な条件でよくがんばったよ
彼女を責める日本人は一人もいないと思う
0349人間七七四年
2014/02/13(木) 14:13:07.98ID:3K72IIox0350人間七七四年
2014/02/13(木) 19:24:04.83ID:lpnw1paa張本人であったのだが、戦場にでも死なず、猶も命を逃れんとしたのか、ここかしこに隠れ居たのを、
皆搦め捕られて、先に大阪に遣わされ、諸大名登城の途中に晒された。
この時、石田治部少輔が搦め捕られているところを、諸大将は何の会釈もなく通り過ぎたが、
黒田長政ただ一人は、石田三成の傍に寄って、
「今度不慮のことが起こり、貴殿の成り行き斯くの如くとなり、無念千万な事でしょう。
去りながら武士は古よりかかるためしも多くあり、恥辱とは全く思いません。」
このように懇ろに懇ろに言ったので、治部少輔も流石その情けに感じ入ったのか
「このように成り果ててしまっては、誰かあって哀れという人も無いのに、誠に情け深く思われます。」
そう言って感涙を流した。
その後この3人は、町中を引き回し、また京都に遣わされ、十月朔日、あやしげなる荷車に乗せ、
天下の大敵であるので、先例に従って大路を渡された。京中の貴賎男女がこれを見物した。
一番は石田、二番は小西、三番は安国寺であった。そして六条河原で首を刎ねられ、
三条の橋の傍に獄門にかけられた。
(黒田家譜)
黒田家譜では、三成に声をかけたのは黒田長政一人だったということになっている、というお話。
0351人間七七四年
2014/02/13(木) 19:56:50.67ID:Tvnh2NTZ0352人間七七四年
2014/02/13(木) 20:04:08.47ID:2bWKOb590353人間七七四年
2014/02/13(木) 23:44:51.91ID:PTUORU8V慶長元年冬。豊臣秀吉の奥歯が、抜けた
すでに60をこえた老人であるから無理もないことだった
彼はそれを拾い上げて、しばし眺めると
「これを、左馬介(加藤嘉明)に預けておこう」
そう言い出した
『一歯一本、其方ヘ預ケ置候也 慶長元年 極月 秀吉
加藤左馬介とのへ』
そんな手紙と共に、豪華なケースに入れられた歯が京都・豊国神社の宝物殿にありましたとさ
秀吉は嘉明のことを結構気にかけていたのかもしれないと感じたわ
0354人間七七四年
2014/02/13(木) 23:53:05.86ID:CUk0U8Ep0355人間七七四年
2014/02/14(金) 00:02:47.44ID:mhY8AtC70356人間七七四年
2014/02/14(金) 01:37:30.09ID:AcbzGhjf0357人間七七四年
2014/02/14(金) 07:54:24.52ID:+JHJY72M矢沢永吉の奥歯だって価値が出るやもしれん
0358人間七七四年
2014/02/14(金) 08:01:12.67ID://AIZCJn…いい話なのか…
いい話…
いいはなし…
いい歯なし…
(゜m゜;)!
良い歯無しなのかっ!!
0360人間七七四年
2014/02/14(金) 08:49:03.93ID:M2m21C9Gとか秀家は?長束正家は?とかならないか
0362人間七七四年
2014/02/14(金) 14:14:57.25ID:0dMqAAbc0363人間七七四年
2014/02/14(金) 21:01:16.03ID:XBJy8bnzよく聞くけど?
逆に小西が首謀者とは全く聞いたことない。
小西は成り行きで西軍に組み込まれたタイプのはず。
0364人間七七四年
2014/02/14(金) 21:06:30.66ID:7BjaOQEG西の丸に移り、諸方に内通を勧める回状に判形し、あまつさえ四国へ派兵し、その罪は莫大である。
しかしながら一族の吉川広家が、東軍に志を通じたその功績により、輝元は死罪・流刑を相赦し、
広家には中国地方のうち1,2ヶ国を与えるべきである、と議定した。
これにより広家を兵部少輔(井伊直政)宅に召し寄せ、『広家の今度の忠義に感じ入った故に、
中国の押さえとして周防長門の両国を与える』という徳川家康の内意を伝え、毛利家よりの人質であった
粟屋十郎兵衛も差し返した。
しかしこれを聞いた吉川広家は
「思いもよらない、身に余る有難き仰せではありますが、もとより今回のことは、自分の身上を考えて
行ったのではありません。あくまで本家である毛利輝元の家を御立て下さるようにと存じ、先にも私は、
私に対しての報奨はお断り申し上げました。
今度のことは、決して輝元の心底より出たものではなく、ひとえに安国寺が策略をめぐらし、
奉行衆の言うに任せて、秀頼様のご命令であると信じてしまったために、是非に及ばず
ああなったのです。輝元に思慮がないことは、内府様も良くご存知のことです。
勿論、輝元のこれまでの分国を相違無きように、などということは申し上げるべきもない話ですが、
私に拝領される予定の国を、輝元に下されますように、どうか取り持ちをお願い致します。
もしこれをお聞き届けないのであれば、私についても、輝元同様に申し付けて下さるように、
幾度でもこれを申し上げ続ける覚悟を決めました。」
この返答に、黒田長政は福島左衛門大夫(正則)、井伊兵部少輔(直政)と相談した上で、
書状を広家に送った。その詞には
『尚々、今回のことは兎にも角にも井兵少(井伊直政)、福左大(福島正則)、そして私の
3人に任せ置いて下さるようにして下さい。さらにこの他に頼るような事は、決して無いようにして下さい。
さてもさても、中国についての事は、今日明日にも決定されます。あなたのご分別次第なのです。
井兵少に仰せになったあなたの御覚悟は、とても不可能なことだと思いますが、必ず、私と福左大が
家康公にお目にかかり、あなたの心底を残らず申し上げます。
しかし、中国の内、せめてあなただけでも大名として残ることは、家祖である毛利元就公に対し
報告するのにこれに過ぎた事は無いでしょう。中納言殿(輝元)と同じ処分を望まれるというのは、
一応二応まではご尤もにも思います。ですがそれで、あなたご自身も滅ぼしてしまえば、元就公に
どのように報告されるのでしょうか?どうか、分別のない考えはしないで下さい。
10月7日 長政 判
吉殿様参 』
しかし広家はこれでも承知せず、返書に、長政および福島正則に宛てて、起請文を付けて、心底の趣きは
変わらないということを申し越した。この事はついに家康の聞き及ぶこととなり、広家の誠実さを、
律儀至極であると感じ入り、「輝元の今回の罪は莫大であるが、安国寺の策略によってああなったというのは
紛れも無いと、輝元も誓紙を以って釈明したのであるから、この上は広家に与えるはずだった防長二国を
輝元親子に仰せ付ける」と決まった。
(黒田家譜)
毛利家が防長二州を安堵されるまでの顛末である。
0366人間七七四年
2014/02/14(金) 22:23:17.97ID:Nf6SSgKt家康と広家で一芝居うったって事にしてたな
0367人間七七四年
2014/02/14(金) 23:00:20.60ID:DrzEoWWRひとりは柳生流の高弟、紀伊家の木村助九郎、もうひとりは元茂さまであった。
どちらかに決めようとお考えになられ、
二人に剣法の極意を書いて差し出すようお命じになられた。
助九郎は奉書三枚に剣法の理を細かく説明書きしたものを差し出した。
元茂さまは、
「善いと思うのは悪い、悪いと思うのも悪い。
善悪ともに悪い。
無心となり雑念ないのが善い」
とだけ書いて差し出した。
それを家光公はたいそう感心なさり、元茂さまを師匠としてお稽古を始める予定であったが、
元茂さまが亡くなられたので、残念ながら実現することはなかった【葉隠】
0368人間七七四年
2014/02/15(土) 02:06:55.83ID:cqitO8670369人間七七四年
2014/02/15(土) 06:22:10.22ID:DuOpY85Q0371人間七七四年
2014/02/15(土) 12:10:02.55ID:sTbst9olいきなり「考えるな 感じろ」とかだけ教えられても困るじゃん?
0372人間七七四年
2014/02/15(土) 13:49:29.69ID:1/VgzNA7順路は自ら捜し給へ
0374人間七七四年
2014/02/15(土) 14:50:06.63ID:+Rpl3N9D0376人間七七四年
2014/02/15(土) 16:51:45.72ID:RtxR2MJ4家康公仰せられるは「輝元は愚かなりといえども、頼もしき人なり。石田が秀頼のためなりと称して、誑かしたるを誠と思い、
悪逆に与して家を破ること、余人にはちがひ、私の心はなし」とぞのたまいける。
(家康公が仰るには「輝元は愚かであるが、頼もしい人でもある。石田三成が秀頼のためだと称して騙したのを本当だと思い、
今回の悪逆に与して自らの家に被害を与えたが、他の者達とは違い、私心からの事ではないのだ」と言われた)
0378人間七七四年
2014/02/15(土) 17:56:15.49ID:m7sX+s0bいや、吉継は関ヶ原で戦死しとる
>>351のレスは>>350の黒田家譜の記述に
『石田、小西、安国寺は関ヶ原の大乱をおこした張本人なので』と書いてあることに対する揶揄だろう
0380人間七七四年
2014/02/15(土) 22:16:15.74ID:ms9BPVi/0381人間七七四年
2014/02/15(土) 23:58:57.11ID:m7sX+s0b0382人間七七四年
2014/02/16(日) 00:43:15.54ID:EFOL4QZL0383人間七七四年
2014/02/16(日) 00:44:28.08ID:D/Lsw+o+「仮初にも、能などは気安いものではない。太夫が翁をかけ、全ての役者が烏帽子を着るなど、
ただ常のことではない。第一能というものは、我が身の祈祷であるのだから、身を清め行儀よくして
座敷においては大声も出さないように、三番四番までは能くじっとして見物をしなさい。
しかしその後は気が退屈しないように、能の間々に休息しつつ、見物をせよ。見る分には面白いのだから、
身体もくたびれないものだ。能が終わったら今度はどんな話題でもいいので皆で集まって一笑いして、
またくたびれを忘れるようにせよ。
だいたい見物というものは、何であってもそうだが、その時のくたびれを直さないから、重ねて
見物に行くのを好まなくなるのだ。それは心持ちが下手な故なのだよ。」
そう仰られたのである。
(政宗公御名語集)
伊達政宗の、何かを鑑賞する時の心持ちについての話である。
まあつまり一定のマナーは守って、あとは気楽に、無駄に疲れないようにして楽しめよ、ということですね。
0384人間七七四年
2014/02/16(日) 01:14:29.72ID:JYim7sGM0385人間七七四年
2014/02/16(日) 09:12:34.29ID:TGT/Nq0I0386人間七七四年
2014/02/16(日) 10:16:00.53ID:EFOL4QZL■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています