戦国ちょっといい話39
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0001人間七七四年
2013/12/28(土) 15:41:31.69ID:m9sYieeK戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1377700193/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386399929/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0213人間七七四年
2014/01/27(月) 20:38:56.15ID:MuOgBD7Y0214人間七七四年
2014/01/27(月) 21:56:39.88ID:B1HV1VgD『珍しい話を知ったので、正三道人にもお聞かせしようとやって参りました。
とある町に六十過ぎにもかかわらず、道心の欠片なく、欲深な老人があり、
長年その無道な振舞いに泣かされてきた息子がいい加減にと思い、方便して父へ、
「ちょっと町で儲け話を持ちかけられたんだけど、おれはどうにも暇がない。
親父は暇そうだが、この仕事は道心ある人でなければ無理だからなあ…」
と思わせ振りに言うと、どんな儲け話なんだと問い詰めてきたそうです。
それに答え息子が、
「神仏をまるで信じない親父には無理な仕事だと思うけれど、
三年の間、依頼者のため、一日に念仏を六万回唱えてくれる者があれば、
金子十両出すと言う話があるんだ。」
それを聞いた父は、
「さてもさても、ワシにこそ似合う仕事ではないか。
余所に話が行く前に、早く請けとって来い。」
息子は喜び、絶対に不正だけはしてはいけないと堅く約束をし、金を父に渡したそうです。
その日より父は朝から晩まで、数珠を放さず、約束通り二年ほど念仏を続けたのですが、
ある日、息子を読んで、
「ワシは老いて先の短い身だ。何を考えて二年前金を請けとったのだろうか。
我ながら浅ましい事を引き受けたものだ。
ワシはこの歳までなんの道心なく生きて取り返しがつかないだろう。
それを自分の後世に気づかず、他人の後世を朝晩願い唱えているとはなんと口惜しいことだろうか。
これより御念仏は我が菩提の為に唱えたいと思う。
この金は謝罪料を加えてもかまわないから返してきてくれ。
依頼者には誠に申し訳ないと詫び言しておいてくれ。」
と言ったので、それを聞いた息子は、
「わかった。謝罪して返しておくよ。」
と受け取ったそうです。
その後、老人はいよいよ菩提心起こり道心に目覚めたとのことです』【驢鞍橋】
0215人間七七四年
2014/01/28(火) 00:09:05.93ID:xdUQWoFp相手の士気を挫くためなら平気で女子供を犯させた髭だからなあ
信長だったとしてもあんたより巧く取り入るのは間違いない
0216人間七七四年
2014/01/28(火) 00:16:30.60ID:h6uHEA2/0217人間七七四年
2014/01/28(火) 00:54:05.42ID:C5DCxId0と反省して本来面目に目覚める仏教話だと読んだ
0218人間七七四年
2014/01/28(火) 01:01:56.22ID:0tdmNWKz侍A「あー賭けに負けたけど、金もないし担保もないや」
侍B「それならお前、清水寺に二千度参りしたそうだからその御利益くれよ」
侍A「えーそんなんでいいの?じゃああげたってことで」
→その後、侍Aは思わぬ罪で獄門に、侍Bは出世したそうな
ってやつがあったが、金で功徳を積めるもんなんだな
0219人間七七四年
2014/01/28(火) 01:04:55.83ID:Sp2fTn9p菩提心もやむなし
0220人間七七四年
2014/01/28(火) 07:11:27.09ID:d6BcGrvd0221204
2014/01/28(火) 08:41:03.19ID:RzbAfeJM天正5(1577)年?に白鳥長久が織田信長に馬を贈る
(羽州探題を名乗る許可を得ようとする)
↓
1577〜1580年頃?最上義光が「羽州探題は斯波家の流れを組む最上家にある」と信長に鷹や馬を贈る
(※204の逸話の大筋)
↓
白鳥側が「出羽は土豪国人が各々分し、裁定や仲介を纏めているのは白鳥である」「白鳥は斯波最上氏よりも出羽に古くあり、(信長の語る先祖同様)藤原の流れを組む名家」と信長に使者を送り義光を再び牽制
↓
前後し庄内の大宝寺義氏が信長に使者を送り「屋形号」を許可される
と泥試合の様相もあった様です
0222人間七七四年
2014/01/28(火) 08:51:24.44ID:RzbAfeJM0224人間七七四年
2014/01/28(火) 09:33:54.55ID:RzbAfeJM大宝寺の屋形号は1979年頃
双方勢力拡大中の最上義光への対抗策と考えられます
0225人間七七四年
2014/01/28(火) 16:40:43.99ID:RzbAfeJM誤)「羽州探題は斯波家の流れを組む最上家にある」
正)「羽州探題職は斯波家の流れを組む最上家こそが正統である」
の方が流れがすんなりと繋がりそうです
0226人間七七四年
2014/01/28(火) 16:41:55.07ID:1UTboCdk0227人間七七四年
2014/01/28(火) 17:18:14.94ID:qHOiVRkbこのうちの一人は堀や屏を巧みに越したので、後に堀平右衛門(定則)と呼び、稲葉正則に仕えた。
(此内一人堀屏ヲヨクコシタル故後ニ堀平右衛門ト云稲葉美濃守殿事フ)
――『武功雑記』
0228人間七七四年
2014/01/28(火) 18:11:37.10ID:RzbAfeJMお隣りだと
奥州探題…大崎氏の慣例世襲
陸奥国守護職…伊達稙宗
の例も
>>104も言ってるように、例の武田信玄のラブレター「浮気の弁明」って、
ほぼ100%に近い確率で高坂弾正に送ったものじゃないらしい。
結構いろんな戦国を扱った本とかにも書かれていることだが
高坂昌信は幼名は源五郎で「源助」と名乗ったことはない、ばかりか
歴史新書刊の『戦国武将と男色』によると
宛名の名字は「原物の苗字を消して」書き変えてあるとか。
弥七郎との男色遊びにうつつを抜かしていたことを疑われ、口うるさい老臣=源助に咎められた。
その弁明のため弥七郎を尋問に来させようとしたところ断られたとする、
いわば弥七郎と男色関係になってないただ親しくしょうとしていただけだが迷惑をかけてしまったという
反省と釈明文だったのではないか、としている。
その老臣とは山本勘助だろうと。
勘助は源助を名乗っていたし、そしてそれがすごいシックリときた。
0230人間七七四年
2014/01/28(火) 20:42:55.07ID:hQLvISrNこの頃、江戸の普請が行われていたが、福島左衛門大夫(正則)から、池田三左衛門(輝政)へ
言い遣わした事があった。
それはどのような事かといえば、福島正則の下女が逃亡し、池田輝政の屋敷に居たのであるが、
ある時福島家の中間が、池田家の屋敷の門前を通った時に彼女の姿を見つけ、とっさに追いかけ
台所の前で押し倒しこれを捕らえた。しかしここに池田家の侍や中間が出てきて、狼藉者であると
この中間を捕らえて監禁した。
福島正則はこの事を聞いて、この様に言った
「私は今回国を出立する時、家中の上下にこのように命じた。江戸の普請の最中、喧嘩を致してはならない。
頭を張られても堪忍した輩には、褒美を与える、と。
そしてもし喧嘩を仕掛けたものには、一族妻子まで同罪にいたすと命じた。
そのような所にこんな事件が起こり、是非に及ばぬ。
どうか、三左衛門の屋敷に搦め置かれている中間、並びに逃亡した女をお返し頂きたい。」
この事を使いを以って申し入れ、彼らが返還されると即座に首を刎ねた。
そして、その中間を捕らえた池田輝政の中間たちに対しては、かまわないので折檻などしないようにと、
正則より申し入れた。
この正則の対応に、池田輝政は大変神妙なご存分であると感心し、福島正則の屋敷に自ら出向き、
謝礼に及んだ。
また正則も翌朝輝政の屋敷を訪れ、
「昨日御出になられたことは忝い事です」と述べ、双方の言い分も全て相済んだ。
この池田輝政、福島正則は短慮かつ荒々しい人で、その被官以下常に戦慄していたのだが、
今回このように、神妙に紛争を治めた事は、あまりに奇特な事であったため、時の人たちは
これに感じ入り、また有る者は、「時分を待っているのだろう」と言ったという。
(当代記)
紛争になりそうな事件を平穏に治めたら治めたで、逆に話題になってしまったというお話である。
0231人間七七四年
2014/01/28(火) 20:50:28.02ID:X4gEuo5r0232人間七七四年
2014/01/28(火) 22:06:47.72ID:M0Bu/3yb0233人間七七四年
2014/01/28(火) 22:19:06.98ID:C5DCxId0政治的な力で必ずしも守られるわけではないが…
鍋島家と加藤(清)家もそれで揉めたよね
この話は時期が時期だけにってことかな
0235人間七七四年
2014/01/28(火) 22:34:32.89ID:4y4SD1WI0239人間七七四年
2014/01/29(水) 16:41:07.43ID:d5QP/6IU「誠ニ君々タレバ 臣々タリトカヤ 時ノ執事氏家尾張守 元来忠アリテ義アリ 謀ハ楠カ肝肺ノ中ヨリ流レ出ルカ如キモノ也」
『最上記』『続群書類従』ほか
天童合戦での延沢満延の引き込み、上山里見越後・民部親子調略、兼山の庭月広綱の引き込み、由利諸将懐柔、白鳥暗殺等「最上の勢力拡大における策謀」の多くを立案しながら、おいしいところは鮭様に譲って大樹の陰に徹した最上家の屋台骨、執事長・氏家守棟の人物評
0240人間七七四年
2014/01/29(水) 16:50:47.32ID:d5QP/6IU※大崎家と最上家の先祖は元々は同じ一つの家(斯波家)
※守棟と吉継は奥羽に下向した宇都宮氏族・氏家氏の子孫(遠縁)
0241人間七七四年
2014/01/29(水) 17:08:02.00ID:vQMBmOyn0243人間七七四年
2014/01/29(水) 20:04:24.54ID:LhXBngxhもっとも、新しい解釈が正しいとは限らんが
0245人間七七四年
2014/01/30(木) 13:02:55.52ID:uE2pb5xB関ヶ原の戦いの前哨戦である岐阜城の戦いで西軍は敗北、岐阜城は陥落した。
勢いに乗る東軍は、次の目標を大垣に定め、長良川の河渡の渡しにおいて
石田三成の部将・杉江勘兵衛らと交戦、これを討ち取っている。
揖斐川の呂久の渡しの守備についていた三成と小西行長は、事態を憂慮、
墨俣を守っていた島津義弘と協議し、その結果大垣城へ退くこととなった。
このとき、島津義弘はわずかな供廻りしか連れておらず、兵のほとんどは
墨俣に残っていた。石田・小西両勢が撤退してしまえば、島津勢は敵中に
孤立してしまう。おのれのみあくまでも退こうとする三成に対して、義弘の
家臣新納弥太左衛門と川上久右衛門が三成の馬の口を取り、考え直すよう
迫ったが、三成を翻意させることは出来なかった。司馬遼太郎の歴史小説
『関ヶ原』でも採り上げられている話であり、小説では卑怯と責められた
三成が馬上で「卑怯ではない、卑怯ではない」と独白する場面もある。
これがもとで義弘は三成を信頼できなくなり、合戦当日に非協力的な態度を
とるにいたる―というのが小説の筋。上記の話は実際に従軍した島津家家臣
大重平六の覚書がもととなっている。無論、三成独白の場面は司馬の創作で
ある。
一方、あまり知られてないが、こんな話も残っている。
退却が決まり、墨俣の島津勢は前線から大垣城目指して急いでいた。はや
日も暮れようとする頃、行く手より一騎の武者が駆けてくるのが見えた。
その出で立ちは、黒の具足・水牛の角の立物の兜を被り、供廻りも従えず
ただ一騎のみで急ぎ駆けてくる…。
「あっ、あれは治部少輔殿だ」
そう、三成であった。
島津勢が墨俣からの退却に難渋していると聞き、見舞いに駆けつけたのだ。
出典は、これも島津側に残った神戸久五郎の覚書。
二つの記録に登場する三成、まるで正反対w。
ひょっとしたら、先の話は島津家がお家のために創作したのかも。
0246人間七七四年
2014/01/30(木) 13:15:18.76ID:pnHGcZ8rで東軍に入りたかったけど、ご存知の通りでご破算
0247人間七七四年
2014/01/30(木) 13:18:47.90ID:pZ7zDfLS西軍についた責任を鳥居におっかぶせただけじゃないか
0248人間七七四年
2014/01/30(木) 13:45:19.32ID:9Cqd3mn5三成に協力してくれなんてことは一度も連絡されてないし西軍なんてもんは知らんよ
0249人間七七四年
2014/01/30(木) 14:47:53.84ID:pnHGcZ8r0250人間七七四年
2014/01/30(木) 16:18:08.13ID:HkdSXETq最上の執事
南条くん…鮭様
ヤマオカ…守棟
最上家の黒執事
シエル・ファントムハイヴ…鮭様
セバスチャン・ミカエリス…守棟
伊達家で言うなら片倉小十郎
…どれが手っ取り早いんだろう…
0251人間七七四年
2014/01/30(木) 16:19:26.00ID:HkdSXETq0252人間七七四年
2014/01/30(木) 16:26:47.81ID:gVogvtODウジ・ヤモリ・棟
と読んだら怒られるな
0253人間七七四年
2014/01/30(木) 16:26:51.41ID:8Eq9Z+rj司馬の小説でその後の話も載ってたような。
島津見捨てて置いて帰ったけど、やっぱヤバイというので様子を見に行ったって感じで。
0254人間七七四年
2014/01/30(木) 17:25:29.40ID:2gxSQ0ZA0257人間七七四年
2014/01/30(木) 17:59:03.27ID:YH16w5ma0258人間七七四年
2014/01/30(木) 18:15:28.36ID:4KLIDOmA立花家の道雪の甥の立花統春が、加藤家から逃げてきた罪人を匿ったことで
騒動になって切腹した話もあるね
0261人間七七四年
2014/01/31(金) 20:37:10.35ID:cr09cwaY高橋紹運は岩屋城にて壮絶な最期を遂げた際にこんな話が残っている
いよいよ自刃の際に
「火を放って死体を焼き、首を敵に渡さないように致しましょう」という意見があった。
それを聞いた紹運はこう答えた。
「その儀無用である。そのまま敵に首をとらせてこそ義を守って討死した事が分る。
死体が見えなければ逃げたと思う者もあろう。武士は屍を晒さぬもの、というが
それは死ぬ場所によるのだ。敢えて首を取らせよ。」
(筑後実記)
0262人間七七四年
2014/01/31(金) 20:39:10.97ID:QpF9bl2g俺の首も・・・誰もいらないか
0263人間七七四年
2014/01/31(金) 21:31:15.96ID:Xg1VsbmI戦場や志半ばで死ねば義の人って言われるけど
下手に生き残ったりすると胡散臭く言われるんだよな
0264人間七七四年
2014/01/31(金) 21:47:20.30ID:xSFv6YZ/生き残った赤穂浪士の苦労をことさら大きく描いた作品だったよ。
まあでも派手に討ち死にした軍勢のなかで生き残ると肩身狭い場合もあるのかもしれないね。
討ち入りした四十七士には武士だけでなく町人たちからも助命嘆願が出たけれど、
あまりにも武士らしい討ち入りを果たしてしまったから余生で傷がつくよりは、
武士らしいままで終わりにしようって幕府の武家的な温情からの助命嘆願は受けなかったという話もあるし
0265人間七七四年
2014/02/01(土) 01:27:41.59ID:az4wvYAw有り難くわしがいただこうぞ?
0266人間七七四年
2014/02/01(土) 17:35:37.15ID:PQLhydbM主君が分家すると、譜代家臣も同じように分家してついていくよね。
河内畠山と能登畠山なんかそうだし、そもそも越後守護上杉と越後守護代長尾もそうか。
0271人間七七四年
2014/02/01(土) 23:03:22.69ID:MGmk0fOq中川清秀がラスボスに騙される事もなくなって
光秀が山崎で善戦する可能性もあった
0274人間七七四年
2014/02/02(日) 03:11:42.28ID:esxUOGfp0275人間七七四年
2014/02/02(日) 04:43:42.08ID:esxUOGfp失敬
信長と利家の衆道話も史料の誤読誤解によって生じた出鱈目ネタらしい
0277人間七七四年
2014/02/02(日) 13:43:02.89ID:OB4Ti4Gk0278人間七七四年
2014/02/02(日) 14:11:52.05ID:lcoNgjKKあれって、一緒に寝た仲だ。じゃなくて
若い頃は宿直して信長の身辺警護をした親衛隊員だった、という意味なんだよな
それをいいようにはき違えたモノだからw
0279人間七七四年
2014/02/02(日) 18:47:15.65ID:ylAObyzl俺は信じないぞ
0280人間七七四年
2014/02/02(日) 22:28:17.22ID:lcoNgjKK原文見たって衆道を示す特別なことは書かれていない
0281人間七七四年
2014/02/02(日) 22:52:12.17ID:IwFYMU/y七福神で知られる布袋和尚もその一つで、背負った袋(堪忍袋)を開いて寛容と和合を人に分け与えるのだ。
文明三年正月三日、播州網干(あぼし)村のとある人が、赤松政秀と岳林寺の長老・布袋和尚が並んで座り、談笑している夢を見た。
夢の中の二人は一心同体のようで、和尚は時々政秀に飯を分けてその口の中に入れていた。
その人は不思議な夢を見たものだとずっと思っていたが、その年、網干村大倉が赤松政秀の所領となったことで、夢の内容をますます信じるようになったのである。
その後、播磨は大乱となったが、政秀は動じることなく衣食を数万の兵卒に分け与えて戦い、播磨を再び修復した。
これこそが夢の中で布袋和尚(と、その分身である政秀)が分け与えていた「飯」に違いない。
夢を見た人はそう考えて、夢の中の布袋和尚の絵を描かせ、政秀に献上した。
文明十年十月、私、天隠龍沢が塩屋城で政秀公に謁した時、政秀公がその絵をお出しになり、賛詞をお求めになられたので、このことを記したのである。
(布袋の賛)
この赤松下野守政秀(高枕軒歓岩性喜)は、黒田官兵衛と戦った赤松下野守政秀の父の養父(異説あり)で、赤松政則を支えて主家再興に尽力し、
播磨守護代として活躍した人物。
政則を養育した高僧・天隠龍沢は、『赤松政秀公寿像賛』に、
「応仁の乱の際、単騎京から播州に馳せ下って播備作を瞬く間に奪回し、政則支持でまとめ上げた忠臣。」
「性格は温潤で民は皆その徳に服した。彼と接した者は春風の中に座しているような心地になり、和やかな気持ちに襲われずにはいられない。」
とも記している。
この人がいなければ、戦国の播磨は本当に赤松本家(&龍野赤松家)の存在しない世界になっていたかもしれない
というほどの人物であるが・・・ヨイショ、凄いなあ。
0283人間七七四年
2014/02/04(火) 12:50:00.24ID:bItx0+UD複数人と斬り合いになって取り囲まれて斬られ昏倒したせいで
幕府から背中に刀傷がある→士道不覚悟とか無茶判定され幽閉された話が可哀想すぎて
0284人間七七四年
2014/02/04(火) 15:44:44.81ID:InqVpmDwと思う
確実な資料があるなら別だけど
0285人間七七四年
2014/02/04(火) 21:27:54.68ID:o7f2ZXVx「内府公(家康)が西上なさる時に、清州城を空け貸すように」
と伝えた。正則はこれを聞くと
「1,2泊の事なら意義にも及ばないが、久しく居城を空けるというのは、多くの家来の
妻子らまで尽く露頭に佇み、もしくは敵に捕われ恥を晒すだろう。
武士が戦場に臨む時は、家を忘れてこそ戦にも勇むものである。我が家臣たちが戦場に臨んでも、
跡に残った妻子の居所を心もとなく思えば、合戦の障りとも成るだろう。総じて城を持つというのは
敵を防ぐだけではなく、こういう時に妻子を心やすく籠め置く為である。こういう事なので、
その要請はいかがかと思う。」
長政はこれを聞くと
「貴殿の言われること、道理がないわけではない。だが、よくよく考えて欲しい。
今度、内府公の、美濃における敵との御合戦は、天下の安否全てこの一挙にある。
それは我々の身の上は申すに及ばず、妻子らに至るまで、その生死を定めるだろう。
これ以上の大事の合戦はない。
内府公が西上されて大敵を引き受けこの地に御在陣の間、総大将の居城もなく野陣にあって、
敵に心やすく思われ侮られるような事態になれば、それは味方の弱り、敵の強みと成る。
また、もし内府公に御勝利がなく、敵が勝つような事になれば、貴殿が城を失うのは言うに及ばず、
我々の妻子までも残らず敵のために殺され、恥を晒すだろう。
願わくば家来、妻子ら暫くの間窮屈を堪忍され、城外に出し置き内府公を城に入れられるのならば、
貴殿の忠功は莫大であり、内府公はこの城にあって諸大将が先々に動けば、軍勢の根深く蔕堅くして、
士卒らも必ず、強く戦に励むだろう。
私が考えるに、貴殿の方からの希望として、この清洲城をお貸ししたい、と申し上げられるのが
良いと思う。何故なら、貴殿は太閤(秀吉)の旧恩有る人なのだから、内府公の疑いを散ぜるためにも、
わざと城を離れて二心無きしるしを見せられれば、内府公もお心やすく、感悦されるだろう。」
この理を尽くした言葉に正則も服し
「このことは私の思慮が及ばなかった。貴殿の異見、その理至極である。」
と、異議なく清州城を空けることを承諾した。
黒田長政がこの事を江戸に注進すると、家康は
「もし尾張に逗留することになった場合、居城無くてはいかがかと思い煩っていたが、
甲斐守(長政)の才覚によって福島が同心したこと、私が望んだとおりだ。」
と、大いに悦んだ。
(黒田家譜)
黒田長政、その才覚によって清州城を空けさせる、というお話。
0286人間七七四年
2014/02/05(水) 02:10:49.42ID:UqTaEuqH0287人間七七四年
2014/02/05(水) 21:01:28.98ID:rR/x2MNn0288人間七七四年
2014/02/05(水) 21:13:45.10ID:4Km9AmUL0289人間七七四年
2014/02/06(木) 04:23:47.99ID:k5Xtgbge0290人間七七四年
2014/02/06(木) 04:49:59.88ID:ASxUWjc70291人間七七四年
2014/02/06(木) 15:01:46.67ID:8SKyAvCh神祖(家康)が三川(三河)に居られた頃は、配下に侍大将が8人いた。
大久保忠世は家中に集められた人質を管理していた。
酒井忠次は5000の兵を預かり、先陣の大将であった。織田信長から東国33カ国の武功の者と賞賛されたお方である。
大須賀康高はその次、本多忠勝も軍勢を率いる。
後の4人は誰だかわからない。
(大泉叢誌)
他の4人については本当にこれ以上書いてありませんw
0292人間七七四年
2014/02/06(木) 17:09:03.14ID:uujho66q0293人間七七四年
2014/02/06(木) 17:54:53.35ID:ac0sYaDd信玄は確定でいいと思うけど
0294人間七七四年
2014/02/06(木) 20:47:34.45ID:2tOHNFTxいわゆる木曽川・合渡川の戦いである。
このとき黒田長政は、わざと敵陣の近い方に進んで川下の方に向かい、合渡の宿の東、川端湊という
所まで行ったが、その辺りは川の淀みであり、水深が深く渡り難いものであった。
長政は川上に浅い瀬があると聞いて、士を少々召し連れて浅瀬の方を見ようと川上の方に二町ばかり
戻ってみたところ、何とそこから川上の方では田中吉政の先手の兵が今から川を渡ろうと、川端に
足をかけているような状況であった。
これを見た長政は「田中に先を越されては良いがいもない!」と、その場の、藤内瀬という場所から
川に乗り入れた。
この時黒田家の家臣たちは川下の舟渡の場所に集まっていたのだが、長政よりこちらに来いとの使いが来て、
我先にと長政の跡に駆けつけ、さしも深き大河を船もなく渡り始めた。
さて、半分ほど渡ったところで、川向に敵が数多く鏃を揃えて待ち構えているのが見えた。
しかし長政はこれにもひるまず、敵の多い方に向かって進んで行った。
家臣の後藤又兵衛はこれを見て「これは危ない」と思い、
『向かいには敵が多く鏃を揃えて待ち構えています!その脇の方に向かって渡りましょう!』
と言おうと思った。が、長年の間、長政のいつもの勇気(無謀とも言う)を知っていたので、
敵が強いなど言えばなんとしてもその方に向かい、脇に行くことはないと思ったので、
長政に向かってこう叫んだ
「どうして悪しき方に向かっているのですか!?」
長政これを聞くと、後藤の方へキッと振り向いて
「なんだと!?私が向かう方を悪しきとはどういうことだ!?」
「ただ今向かっている方向に待ち構えている敵は雑兵ばかりです!良き敵は、あちらの方におります!」
と、敵の少ない方を指さした。長政はこれを着いて
「ならば、良き敵の有る方に向かおう!」
そう言って敵の側面になる方向に向かって川を渡った。
(黒田家譜)
そんな、実に黒田長政らしい合渡川合戦の逸話である。
0295人間七七四年
2014/02/06(木) 21:52:06.02ID:BQwMF9SG0296人間七七四年
2014/02/06(木) 21:52:44.61ID:j1QXlBv90297人間七七四年
2014/02/06(木) 22:21:11.47ID:lDWxsm2t相賀光重と下毛野武盈は、この時の詳細を『播州置塩夜話 六花亭物語』(播陽万宝知恵袋と播磨鑑に収録。)に記している。
では、「赤松のシェフ」が書き残した饗宴を追体験してみよう。(六花亭は置塩城の茶亭の名前らしい。)
才殿は晩7つ刻にお越しになり、ご馳走が始まった。
最初に供したのは「狸食」。
本膳の真ん中に白飯、右に澄ましのかけ汁が入った汁椀、左にはネギ、柚子、大根、唐辛子などを刻んだ「かうとう」(香頭=吸い口)の入った盃を置いた。
食椀の底には鴨、鯛、スルメ、シイタケ、麩、干瓢、きくらげ、ゴボウ、人参、大根、こんにゃく、雪豆腐、昆布などが隠されていて、
香頭を汁に混ぜ、食椀にかけていざ喰おうという時に、何の変哲もない白飯の下から色々なものが出てくるのだ。
化かされたような心地になるということで、この料理を「狸食」というのだとか。
次の膳は、真ん中に味噌仕立ての雁汁、右に刺身(鯉、スズキ、チヨク、煎り酒を高麗の皿に盛ったもの)、
左に貝焼き(大貝、アワビ、シイタケ、クラゲ、干瓢、レンコン、玉子油豆腐、玉子油こんにゃく、ウズラ、鴨など)
次は食椀、御汁を左の方に置き、膳の脇に鯉の味噌煮、鮭の塩引き、シギかウズラの焼き鳥を添えた。
それに、宝命酒1返と、熊掌(油揚げにして、澄まし汁に酒を入れて調味したもの。生姜をすり入れて味を付けた。)を供した。
さらに
・チンタの酒(赤ワイン)1返と、ウニ
・延命酒1返と、タラの吸い物(澄まし仕立て)、剥き海老、かまぼこ(播磨鑑ではカマスゴ(イカナゴ))
・御酒1返と、玉子のふわふわ、クシコモドキ(クシコを細かに切り、ふわふわに入れる)
を供した。ここまでは屋形殿と才殿二人だけで召し上がった。
才殿の家老の神村と太刀持ち2名は、秋津民部や御屋形の太刀持ちとともに、玄関の内「具足の間」で、
狸食、鯉の刺身、鴨汁、イカの青和え、飯、鮭の塩引き、鱈の吸い物、御酒、かまぼこ、剥き海老、御酒、サザエの壺炒り、御酒、鮎の寿司を食べている。
0298人間七七四年
2014/02/06(木) 22:23:44.30ID:lDWxsm2t松竹の台に載せられた肴(色々の刻み物、組み物(盛り合わせ))と、二合入り、三合入り、五合入りの椰子盃が出され、
家老や重臣達がそれを頂き、拙者(下毛野)も家老に御盃を頂いた。
猿楽師・明石小大夫は
「天津神、八千代も同じ日ノ本の、光絶えせぬ神の道、今末の世に受け継ぎて、下方民に至るまで、君の恵みを仰ぐなり♪」
と小謡を披露。
この時、鯛イッコンヤキ(ホンテ)、ナマコ・クラゲ・角小ヘキのふくら炒り、辛螺(巻貝イボニシ)の壺炒り、延命酒、ふわふわ、吸い物が各自に供された。
置塩家老・山田助九郎は、才殿の家老・神村を呼び出し、五合入りの椰子盃をさした。
この時に出ていた料理は、
かるも川という三升入りの緑の大皿鉢に生姜酢を溜め、アマノリ、但馬海苔を打ち振り、ヒジモ、葱、大根、人参、ゴボウなどを散らしたもの。
酢鯛も出た。
神村は置塩家老・福岡助九郎とともに猿楽立会を始めた。
片足を上げて手を振り足を振り、猿の顔真似でにらみ合い、口を開け扇を持って入れ違い、顔をしかめ首をねじらかす二人の面白いこと面白いこと!
料理の方は、酢イカ、柏の黒和え、玉子のふわふわ、
御挽き茶(抹茶)、お菓子(有平糖=ポルトガルから伝わったキャンディー)、柏など。
暇乞いにあたって福岡は、口上を述べ、ご馳走のお礼として3mほどの縄を使った富引(福引)を持ってきて、屏風の陰に隠れて袋を握った。
そして、無礼講の御免として、屋形殿を始め上下分ちなく、無刀にて縄を引き、屋形殿はエビラ、才殿は碁盤、神村は叩き鉦、
湯浅将監は下僕「毛八」、松田将監は箸箱、黒川道伯は床枕、橋庄蔵は腰元「たん」、猿楽師は猫、宮森道林は笛を引き当てた。
何と面白いことだろうか!
やがて上下ともくたびれ果て、宴はお開きとなった。
この乱酒で両家の家臣団12人が呑んだ酒は、合計6斗6升。
山田助九郎は5升、福岡十太夫は7升、黒川道伯は8升、神村は9升呑んでいる。
0299人間七七四年
2014/02/06(木) 22:24:48.38ID:lDWxsm2t神村達にも同じ料理を具足の間で振舞われた。
この時のメニューは
・鯛のなます。かまぼことアワビ入りのイモマキ汁。赤貝の澄まし物。粟飯。
・ドジョウ汁、焼き海苔(アマノリツクモ)。御酒1返。
・酢イカ。御酒1返。
・さざれ石という大皿鉢に、大根、人参、干瓢、きくらげ、紫海苔、柚子、サザエ、ニシ貝等の酢の物。
・酒1返。猿の木耳焼き。
・引き茶。御干菓子。(ただし、才殿には雀の焼き鳥)
であった。
これで才殿はお暇を乞われ、溝居へお帰りになられた。
なお、才殿からは鶴1羽、延命酒5升、鯉1コン、タイ1枚、勝男10節。神村からは鴨2羽、勝男10節がお礼として届けられた。
なお、相賀光重と下毛野武盈は、天正元年、赤松則房が宇野下野守をもてなした際にも狸食を出しているが、この時は精飯でなく、蕎麦に汁をかけている。
0300人間七七四年
2014/02/06(木) 22:32:14.15ID:kfvVTbbn0301人間七七四年
2014/02/06(木) 22:46:20.26ID:lDWxsm2t×猿の木耳焼
○猿の木取焼(ことりやき)
でも、どんなものかは分からない。
0302人間七七四年
2014/02/06(木) 22:49:31.01ID:qxnoQLjT0303人間七七四年
2014/02/06(木) 23:25:56.97ID:mKEDwHO3でも喰いたい。
赤松の献立には及ばぬが喰うぞ!
0304人間七七四年
2014/02/06(木) 23:47:25.36ID:j1QXlBv90305人間七七四年
2014/02/06(木) 23:51:04.11ID:r/x/pdyVこれ?江戸時代からとか書いてるけど
0306人間七七四年
2014/02/07(金) 00:20:16.37ID:2Xilqmmi0307人間七七四年
2014/02/07(金) 00:22:27.12ID:2Xilqmmi0308人間七七四年
2014/02/07(金) 00:27:36.23ID:523ZGKqr0309人間七七四年
2014/02/07(金) 00:29:59.23ID:9TqkH9Uqそれでも9升は多いが
0310人間七七四年
2014/02/07(金) 00:54:10.41ID:7Bv4cmy6地域おこしグルメとして復元してみては?
家老の神村のメニューとか、いい感じに収まりそうだし。
鍵はやはり調味料か・・・
0312人間七七四年
2014/02/07(金) 01:39:27.44ID:7Bv4cmy6となると、随分イメージが変わってくるね。
ちなみに『播州置塩夜話 屋形物語』(天正2年正月1日 相賀重茂、毛野武盈)では、
「右方すまし汁しるわん、左方そばゆで盛食わん、わんの前に小皿にかうとう、とうがらし、わさび、葱細に、大こん、かつほ、柚等きざむ。
さて客、食椀ふたをとり、汁わんふたを取、汁にかうとう望次第かきまぜ、そばにかくれば、下より種々の物、下より出る。
出と云か、鴨、鯛、しいたけ、あはび、木くらげ、麩、せん、玉子、油とうふ、雪とうふ、同こんにやく、雪もち、あぶら上のにんじん、
牛房、かうぺう等出る。下もりに仕也。」
となってます。
0313人間七七四年
2014/02/07(金) 11:35:31.20ID:xTjnP8DBこの日記は永禄八年分しか残ってないので、一年を通した食事の内容に相当します
主食
麺(饂飩・碁子麺・38回)・餅(焼餅・善哉・76回)・飯(麦飯・湯漬・焼飯・雑炊・茶漬・小豆飯・揚花・芋粥・割粥・挽粥・276回)・饅頭(20回)・茶菓子(38回)・その他(打麦・雲門など)
食材
米(餅米を含む自家製)・小麦・大麦・大豆・大角豆・山芋・里芋
蕪・茄子(自家製)・葱・韮・大根(自家製)・ウド・榎茸・松茸・筍・鶯菜・東坡
瓜(自家製)・梨・柚(自家製)・栗・柿・蜜柑(自家製)・杏・桃
豆腐・海苔・麩・串柿・昆布・干松茸・茶(自家製)・煎餅・菓子・宇治茶
副食についての記述は少ない(61回)ので、実際にはさらに沢山の食材が使われていたと思われる
寺領中には田や茶園や果樹園があり、また立野としていた山野まで備えているため山菜は豊富に供給出来た
不足していたのは昆布や干松茸のような加工品で、これは遠隔地と取引している土豪から貰っていたようだ
ちなみにここは禅寺なので、魚類肉類は皆無・・・ではなく元旦には食している
麺・蛸煮・田楽・曳干(魚の干物)・雑煮 等を肴に年始の客とともに八日間にわたって酒を飲んでいた
酒と雑煮は特に、大工や寺民や鍛冶・草刈りに至るまで広く振る舞われたようだ
なお料理の味付けはほぼ味噌である
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