戦国ちょっといい話39
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0001人間七七四年
2013/12/28(土) 15:41:31.69ID:m9sYieeK戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1377700193/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386399929/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0002人間七七四年
2013/12/28(土) 16:43:58.47ID:Ay1S/ufz>>1のスレ立て御照覧あれ
0004人間七七四年
2013/12/30(月) 13:48:24.29ID:+IPoNwgD0006人間七七四年
2014/01/01(水) 11:23:37.71ID:ue4beeVoこの事により黒田如水は太閤秀吉の御前疎くなった。折節に殿中に出仕はするのだが、
久しく対面を許されなかった。
ある時秀吉は大老たちと朝鮮の軍の評議を行っていたが、如水はそれを壁越しに聞いて、
秀吉の耳に入るよう声高に叫んだ
「去年大軍を挑戦に遣わされた時に、徳川家康か前田利家、二人のうち一人を総大将として
遣わされ、万事一人の下知から出るようにすれば、軍法よく行われ滞りは無かった!
しかし、もしその両将を遣わされることが成り難いと考えられておられるのなら、
軍の道を知っている私を遣わされれば、軍法定まって上手くいくだろう。
その上で、和を以って人を懐け、朝鮮人を安堵させ日本人に帰伏させるのなら、大明を征伐するのも
容易いことである。
ところは今はどうか!?加藤(清正)、小西(行長)は若き大将で血気の勇のみしかなく、軍の道を
知らぬ。その上この両人は仲悪しきため、清正の仕置を行長が破り、行長の法令を清正は守らない。
この様に法令一様ではないために、朝鮮の人民も日本の下知法度を信用せず、頼みにならないと思い、
山林に逃げ隠れ、安心することが出来ないのだ!
日本から朝鮮への道は遠い。である以上、兵糧や武具などを日本から安定して運送するのは難しい。
我らは朝鮮の民を懐け、元のように耕作に従事させ、敵地においても糧を得られるようにする事こそ
然るべきなのだ。なのに今は仕置悪しき為に、日本軍の通る朝鮮の三道は人民散失し、荒野となって
五穀無し。かくの如く朝鮮が既に亡国となった以上、我々には大明に入るべき基板がないのだ。
朝鮮の人民散失し、日本からの運送もまた安定するのが難しい。であれば、今後味方の大軍は
兵糧が尽き、ただでさえ異国での在陣は不自由であるのだから、士卒の苦労は耐え難いほどとなり、
殿下が考えておられる大功が成就できない!」
この声を秀吉は壁越しに聞き、尤もだと思い
「来年、もし異国に出兵するなら、わし自ら朝鮮に入るか、それが出来なければわしは上洛し、
秀次を名代として遣わすであろう。」
と言った。
(黒田家譜)
黒田如水による、朝鮮の役への批判である。統帥の不徹底が最大の問題だと認識していたのですね。
0007人間七七四年
2014/01/01(水) 13:13:57.33ID:O0m81EuDしかし例の九州勢にそれを守らせるのは前田や徳川でも力不足だろうなあ
0008人間七七四年
2014/01/01(水) 14:26:59.95ID:GlJ5YPJX0009人間七七四年
2014/01/01(水) 16:33:42.31ID:grFRENw+傍輩たちはこの事を憎んだ。ある時、四、五人が申し合わせて銭湯の風呂に入った。
多くの人の中で、かの者は面を打たれて鼻血が流れ出た。風呂の中は暗かったので
相手が誰とも分からず、かの者は外に出て身体を拭い衣を着て、帯を締めて刀をさしはさむと、
「士の意趣は刀をもって勝負をするものぞ! 只今、拳をあげて我が面を打ったのは
女童のやり方のようである! 臆病者はまったく士の行為ではない! 志があるならば名乗れ!
名乗らなければ男とは言えないぞ!」
と、罵ったが、返答する者はいなかった。亭主が手をすってこれを止めたので、
かの者は裸者をことごとく撫で斬りにすることもなく、怒りを抑えて宿へ帰った。
それゆえに人々は口々に悪く取り沙汰した。これを聞いた左門は「かの者は平生の覚悟が良くないので、
我にまで恥辱を与えた」と言い、かの者が追放されそうなところを、
有楽軒は「『高木は風にあい、勇士は妬みにあう』と言われている。これはきっと傍輩どもの
仕業だろう。面を打つ程度の心で、名をも名乗らず黙っているのは、人知れず恥辱を与えたことを
勝ちとした臆病者だ。決してかの者が気後れしたわけではない」と言って、かの者を扶持して残した。
その後、かの者は合戦の場に赴き、大剛の働きあって名を揚げたのである。
――『武将感状記』
0010人間七七四年
2014/01/01(水) 20:01:18.92ID:6qnt/20+長岡の細川屋敷が、お城に近かったから、まず細川へと人質を差し出すよう使いを送った。
忠興の妻(ガラシャこと玉)は、
「夫の留守中に、女の身でお城へ登れなどとの申しつけは迷惑でございます。断ることをお許しください」
と返答し、二度目の使いにも同様に断ったが、三度目の使いから、
「承知いただけないなら、力ずくでも召し連れます」
と言い渡されると、玉は、
「しかたありません。登城いたしましょう。ただし女の身、身支度に時間がかかります。しばらくお待ちを」
と返答して屋敷内へ引き下がり、留守家老の小笠原正斎、川北某、石見某を呼び、
「わたしが主人と夫婦になったあと、父の明智光秀が不義の汚名を被る行いをしました。
主人は父に意見をなさったのですが、父がどうしても聞き入れないので、
不義の人と縁を結んでおくわけにもいかぬと、わたしを離縁なさいました。
そのうちに、父は戦乱のなか滅亡し、わたしはさらに浮き世に身の置き所がなくなるようになりました。
しかしそのとき、主人は憐れみをかけてくださり、離縁したとはいえ一度縁のあった女を不憫にしたとなれば細川の面目が立たぬ。
あの浮き世に居場所のない女人が、細川の元妻よと言われては武士の面目も立たぬゆえ、呼び戻そう
と仰せくださりとてもうれしく思いました。(1/2)
0011人間七七四年
2014/01/01(水) 20:02:54.38ID:6qnt/20+そして今、お城からの要請に従い不本意ながら登城したならば、主人へのわたしの感謝の思いが立ちません。
なおかつ、主人は徳川様にお味方なされておられるのに、妻子が人質にとられたとなれば、恩愛の絆に引かれお心変わりするかもしれません。
そのようになれば、主人に裏切り者の汚名が着せられることにもなりますでしょう。
それゆえ、主人へのご恩返しにわたしはこれより自害します。妻子が死んだと聞けば、主人は深く憤りになり無二の忠節で初志を貫けるでしょう。
覚悟を決めたなら時間を無駄にしてはなりませぬ。居間にはやく枯草を積み、わたしの自害した後に火をつけてください。
召使の者たちは、思い思いのがれてもし主人に会うことがあれば、わたしの最後をくわしくお伝えしてください」
と言い、居間へ入り、十歳の娘に事をしっかり説明したあと引き寄せて刺し殺した。
そして八歳の息子に、
「そなたは武士の子供です。腹を切りなさい」
と言うと、息子は、
「わかりました。」
と答え、肌を押し開き小さな脇差を腹に突き立てた。その小さく勇ましい姿に、苦しい目を見せるよりはとすぐに首を打ち落とした。
そうしたあと自身も自害をした。
家中の者は枯草に火をつけ、思い思いに立ち働き、火の中に飛び込み殉死する者も多かったという。
このことがあったから、女子供を人質にとる風習がなくなったとのことだ 【葉隠】(2/2)
散りぬべき時知りてこそ世の中の
花も花なれ人も人なれ
(細川ガラシャ辞世)
0012人間七七四年
2014/01/01(水) 20:07:03.12ID:6qnt/20+http://iiwarui.blog90.fc2.com/?mode=m&no=6537&cr=471d8d06b4c2f7169fde7f60df0681e9
0013人間七七四年
2014/01/02(木) 00:14:26.02ID:/dx51KMg0014人間七七四年
2014/01/02(木) 03:27:21.85ID:oDT6Cc1dそれと侍女の話だと石田方は稲富を連れて引き上げてるんだよね
ガラシャをはじめとした面々ははやまったのかねえ
0017人間七七四年
2014/01/02(木) 19:38:38.07ID:50GdH7Yn『一、以下のことは私の願いであります。
秀頼様はご幼少の間は、江戸か、もしくは伏見において、内府様(家康)のお側に
しかと置き申し上げて、立派に御成人なされれば、その時はいかようにも、内府様の
ご分別次第にお取り立て差し上げれば良いと思います。
また、いかに太閤様の御子であるとはいえ、日本の置目を執り行えるような人物で
なければ、内府様はそれを判断され、2,3ヶ国も与えおくべきでしょう。そのように
進めるのが、秀頼様のご進退として良き判断だと考えます。
何故なら、今のように大阪の方にふらりと置かれたままでは、時勢によって、世のいたずら者共が
出てきて、秀頼様をその主などと担ぎ出し、謀反を起こすこともありえます。
そんな者達の為に、何もご存知なく秀頼様が腹を切る事態になれば、太閤様の亡魂のためにも
悪しき事だと思っています。
一、私ではなく他人の意見のようにして、さしあてて、この意見を、見計らって内府様に申し上げて頂きたいと
思います。第一、これは秀頼様の御為であると考えます。
本佐(本多佐渡守正信)などには、戯言のようにしてでも是非語って頂きたく思います。』
(歓心寺文書)
有名な、伊達政宗による、豊臣秀頼の扱いへの提言である。
0018人間七七四年
2014/01/03(金) 12:32:54.37ID:Ktn9bM4a0019人間七七四年
2014/01/03(金) 17:51:27.77ID:0glh2iE30020人間七七四年
2014/01/03(金) 19:04:01.12ID:5A9KPlJT0021人間七七四年
2014/01/04(土) 08:48:37.24ID:5WRZvM+z0022人間七七四年
2014/01/04(土) 10:03:15.59ID:xcsPZ33V0023人間七七四年
2014/01/04(土) 11:53:46.14ID:DyNSvgKB0024人間七七四年
2014/01/04(土) 17:35:46.76ID:vYuYU8Ur0025人間七七四年
2014/01/04(土) 17:36:07.44ID:99zAx3Ly鯉を料理しようとする時、活鯉だったために、跳ねてまな板の上から落ちそうになった。
それを天野は左手にまな箸を取って、落ちそうな鯉を挟み留めた。
側にいた本多正信を初め一同は感心して「さすがは料理人だ」と誉めたたえ、家康もきっと
誉めるだろうと思われた。ところが思いがけず、家康は「たわけ者め!」と言った。
この事を正信は不審に思ったのだが、その後の御話の時、家康は、
「父より優れた子であっても、他人はそのようには思わないものである。やはり父の方が優れ、
子は劣ると思うのだ。私は天下を秀忠に譲る。秀忠は私よりも優れているが、家士たちはやはり
私を優れていると思い、秀忠を劣ると思っている。
劣っていると思えば、奉公は自然と怠るものだ。家士たちが奉公を怠る時は国家が乱れる基である。
だから、私は近年、心にもない無理を言って、誉めるべきことを叱るなどして、私が秀忠よりも
劣り、秀忠が私よりも優れている事を家士たちに知らしめ、奉公を怠りなくますます秀忠に
忠勤させようとしている」
と、言った。この時に正信は先日船中で家康が天野を叱った不審が晴れたと語ったのだと、
ある老人は言った。
――『明良洪範』
0026人間七七四年
2014/01/04(土) 17:47:05.00ID:yWIQ6+Xxこの話と似ているが、変形か、それとも親子の考えの差か
0027人間七七四年
2014/01/04(土) 17:50:26.79ID:VkcpSjUk0028人間七七四年
2014/01/04(土) 18:37:30.85ID:SXPad//M家士たち「何かよく分からんが多分良い事を言ってるのだろう。さすが大御所様」パチパチ
ってなる気もする
0029人間七七四年
2014/01/04(土) 20:55:34.54ID:cd7hYlBx0030人間七七四年
2014/01/04(土) 21:30:55.15ID:NtrdJ85Fあえて老害のように振る舞う的な。
たしかに料理人はかわいそう(笑)
0031人間七七四年
2014/01/04(土) 23:07:16.23ID:4/w0EZKk0032人間七七四年
2014/01/04(土) 23:11:38.81ID:ck5o9GXj0033人間七七四年
2014/01/06(月) 13:10:46.81ID:wMc1AOmC「知行配当覚
百五十石者
但 四物成
以上
坂紀伊守
(慶長七、1602)七月廿三日
(坂)光秀(花押)
志村伊豆守光安(花押)
大津助丞殿」
「大津藤右衛門とのへ
假遣之知行之事
弍百五十石 但 四物成
永代可致安堵者也 □如件
慶長十七(1612)年
五月九日 (最上)義光(小印)」
四物成は収納が四割、つまりは「四公六民」の事
大津藤右衛門は上杉家臣大津助丞の息子と思われる
最上家に尽くした者には加増有り、四公六民、多く発給された文書には「小割印」が用いられた等が文書によって判る良い見本
003433
2014/01/06(月) 13:18:41.99ID:wMc1AOmC0035人間七七四年
2014/01/07(火) 11:09:21.63ID:JlElPMt2その茶が大変うまかったので利休がもう一服 所望すると、小坊主は今度はもう少し熱くやや
少な目の茶を持ってきた。それを飲んだ利休がさらにもう一服 所望するとさらに少なくした
小服の熱い茶を持ってきた。それを飲み終えた利休は気が利く小坊主に「自分のもとで茶を
教えたいと思う」と言った。茶の道では点前よりもこういう心配りが肝要なのである。
ちなみに、この小坊主は京都の喜斎のことである。(茶道四祖伝書)
0036人間七七四年
2014/01/07(火) 11:53:55.17ID:bQYuyJ420037人間七七四年
2014/01/07(火) 11:57:29.25ID:9SLxjOdp0038人間七七四年
2014/01/07(火) 18:13:11.57ID:OC9wywyS頂き物の最上義光歴史館の平成12年の9月15日から10月22日までの約一ヶ月の間にあった特別展の出品目録より
・「慶長鎮東軍鑑」、・最上家伝「家傳覚書」、・「最上義光物語」、・「最上合戦記」、・「加藤掃部宛江口光清書状」、・「本村造酒他宛直江兼続書状」、・「成沢道忠像」、・「留守家文書」、・お東方所有「能面」、・山形大学附属博物館所蔵「長谷堂城大手門扉」
また特別展ならではか
・山野辺義忠所有「来國次刀」、・最上義光奉納「(大日輪最上)軍旗」、・志村光安所有「甲冑」、・志村光安所有「馬具」、・志村光安所有「火縄銃」、・加藤掃部所有「甲冑」
上杉軍の展示から
・上杉景勝所有「甲冑」、・直江兼続所有「甲冑」、・前田慶次所有「甲冑」、・(別な)前田慶次所有「トッパイ形兜」
…他にも目録に出品名はありますが、個人蔵や寺社蔵、他の博物館や史料館の収蔵品に世間に余り知られていなかった最上家関連のお宝が
これだけ集まった上に展示されていた実績のあった良い話って事で
…展示品の所有権他権利問題やらからで、画像や図版が入手出来ないのが哀しい…
0039人間七七四年
2014/01/07(火) 18:32:46.38ID:OC9wywyS最上家、最上義守、最上義光
楯岡満茂、志村光安、鮭延秀綱、延沢光昌、氏家光棟、加藤清次、池田盛周、松根弘親、鳥越家、最上家足軽胴丸他と
結構数は遺ってるのになかなか一堂に揃う機会が(大人の事情から)難しい…
0040人間七七四年
2014/01/08(水) 19:59:01.84ID:rdOem/Co「分別というものは、どのようにすればよいのでしょうか?」
隆景は答えて
「それは仔細もありません。ただ、久しく思案して、遅く決断するのが良いのです。」
長政はまた質問した
「分別するにおいて、肝要なことはあるのでしょうか?」
隆景は答えた
「あります。分別の肝要は『仁愛』です。どんな事であっても決断するときに、あわれみの心をその基礎において分別すれば、
その思慮に理屈に合わないところがあったとしても、最も良い判断から遠く離れることはありません。
逆に、仁愛のない分別は、才覚がどれだけ巧みであったとしても、みな道理に合わない間違いである。そのように
知られるべきです。」
(黒田家譜)
小早川隆景の考える、決断に必要なことである。
0041人間七七四年
2014/01/08(水) 21:38:02.33ID:nBPO5RDF0042人間七七四年
2014/01/08(水) 21:44:01.61ID:AXECxBXf0043人間七七四年
2014/01/08(水) 22:30:32.10ID:gy+T4pSw0044人間七七四年
2014/01/09(木) 00:11:32.93ID:8qqHtktQ0045人間七七四年
2014/01/09(木) 01:00:37.04ID:H1szDz4j0046人間七七四年
2014/01/09(木) 02:45:38.01ID:HtPcuGZB0047人間七七四年
2014/01/09(木) 13:22:00.35ID:y4Sym+yU0048人間七七四年
2014/01/09(木) 18:26:43.94ID:H1szDz4j0049人間七七四年
2014/01/09(木) 18:40:47.25ID:TKWnZxej0050人間七七四年
2014/01/09(木) 20:37:49.25ID:3tYSG7jwあらかじめ自分の行動を定めておけば、その時になって慌てることなく、粗略になることはないと
言われていた。これは古語に言う、『事前に定まれば躓かず、事前に定まれば困らない』と
同じ意味であろう。
この隆景という人は普段から虚言を言わず、少しのことであっても人と約束したことは
決して違えなかったため、人々は彼をただの人ではないと考えた。
備後の三原に隠居した後は、慶長元年に足利学校の玄修軒を招き、学問所を建設し孔子の像を安置し、
若者たちに学問を進めさせた。
ある時、緊急のことがあって、右筆に物を書かせたのだが、この時「急用のことである。
慌てず静かに書くべし」と言われた。
隆景はその気質、穏やかで静かであり、才知を外に輝かせるような事はしなかった。そのため
彼を知らない人には、最初に合うと心の鈍い、愚かな人のように映ったのだという。
古語に『大智は愚なるが如し』というが、これはこのことであろう。
また天性、智慮深密にして沈静温厚であった。
小早川隆景が亡くなった後、ある時安国寺恵瓊が、黒田如水の元に来て物語したことがあった。
このとき如水はこう言った。
「隆景殿が亡くなって、日本では賢人が絶えてしまった。この人の存在は毛利家にとって、
船にとっての船頭であった。彼によって中国はよく治められていた故に、亡くなられたと雖も、
今も生前と変わらないのは、ひとえに隆景殿の力の残りである。
例えば船を漕いでいて、にわかに船を止めたとしても、それ以前に艪によって作られた推進力が残っていて、
五間十間はその船は先に進む。これと同じことである。
毛利輝元殿も、隆景殿の遺産によって、今までは見事に見える。しかし今後は、輝元殿自身の思案が
大事になるだろう。」
小早川隆景には、普段から書かれた書類は多かったのだが、その死の前に、あらかじめ尽く
焼き捨てた。どのため、一巻も今に残っていない。
(黒田家譜)
殆ど聖賢小早川隆景伝と化した、黒田家譜の、隆景の死を悼む一節である。
0051人間七七四年
2014/01/09(木) 21:16:33.73ID:GtHaNkcS0052人間七七四年
2014/01/09(木) 23:37:34.60ID:954hZ8z00053人間七七四年
2014/01/10(金) 00:59:05.06ID:iGZ+576x焼き捨てた。
なんて勿体ないことを・・・後世の人のために残しといてくれりゃいいのに
0054人間七七四年
2014/01/10(金) 08:32:56.58ID:E1IeR+Pa実際そういうことあるしなw
万巻の書を読み尽くしてきたじっさまが賢人かというとめんどくせーだけの奴だったりしてw
0055人間七七四年
2014/01/10(金) 10:31:08.13ID:GlnBMz9t0056人間七七四年
2014/01/10(金) 10:48:18.57ID:9+URQCys0057人間七七四年
2014/01/10(金) 11:39:14.47ID:5wHJfV0Wそういう見通しが利かず、西軍についても結局積極的なのか寝返るのか
どっちつかずの中途半端な行動で終わるのがテルクオリティ
0058人間七七四年
2014/01/10(金) 12:55:04.68ID:9gOATlvrテルが石田をそそのかして、敗戦濃厚となるや石田や安国寺に全責任押し付けた、
ならむしろよく逃げたもんだと
0059人間七七四年
2014/01/10(金) 13:06:21.19ID:ykVO0jjq0060人間七七四年
2014/01/10(金) 13:40:39.32ID:jRM3ntvJ0061人間七七四年
2014/01/10(金) 14:04:55.09ID:qNsCaAQ10062人間七七四年
2014/01/10(金) 15:13:54.86ID:Fuuj+/DJそれで本当に蜂起したとき、会津へ向かってる暗黒寺が近江あたりで勝手に引き返してテルを二重召還した
こういう事情でテルはすごい速さで大坂入りした有能な人物のようになった
さらにあろう事か三奉行が石田に説得され公式戦争と化し、テルも聞いてるうちにもっともな気がしてきたので大将に収まったようだ
0063人間七七四年
2014/01/10(金) 18:46:03.21ID:Y3JDfVDJ歴史は随分と変わったんだろうな
0064人間七七四年
2014/01/10(金) 19:46:24.42ID:7MIMpHhj0065人間七七四年
2014/01/10(金) 23:05:47.16ID:eJKXNMqT日本を東西で徳川と分けるつもりだったのか
0069人間七七四年
2014/01/11(土) 13:38:58.41ID:M4Tq2IM4秀次は長久手のやらかしで評価低いがそのあとの四国攻め北条攻めではしっかりとこなしてる。そして公家からの評価高く、近江八幡も何事もなく治めていたどころか民衆からの評判よし。有能っぷりをラスボスが警戒してた説があるよ。
0070人間七七四年
2014/01/11(土) 13:54:29.86ID:5FuTbx2o0071人間七七四年
2014/01/11(土) 14:09:01.14ID:87W7T/cE0072人間七七四年
2014/01/11(土) 15:34:32.54ID:11NUCyDg太閤様から訓戒出されてるから、自らの立場に増長してたのは本当でしょ?
五条の第一条に、
『近頃、おまえはわたしの甥であることで日増しに増長し、
他人に対してしばしば傲慢に振る舞うとのこともってのほかである。
誰に対しても、低姿勢に接し、身を慎むことこそが、このわたしの甥としての振る舞いだろう。
誰からもさすが秀吉様の甥子様と崇め敬われるような心がけをもつように』
で、あと四条あるがそこは省略して、
『この五箇条のとおりに、今後は心を入れ換えられないのであれば、
八幡大菩薩も御照覧である。必ず人手にかけず、わたし自ら手討ちにする。
くわしいことは宮部善浄房と蜂須賀彦右衛門から聞いてくれ』
で閉めてある。
ちなみにこの訓戒状が秀次16歳のとき(切腹は28歳)
0073人間七七四年
2014/01/11(土) 15:51:22.22ID:11NUCyDg0074人間七七四年
2014/01/11(土) 16:23:44.44ID:dAdXRfP+0075人間七七四年
2014/01/11(土) 16:34:08.72ID:hkt37W6I0076人間七七四年
2014/01/11(土) 16:44:56.35ID:OWxl98js0077人間七七四年
2014/01/11(土) 18:56:27.88ID:M4Tq2IM40078人間七七四年
2014/01/11(土) 19:49:30.96ID:cTKZ0AnI0080人間七七四年
2014/01/11(土) 20:00:42.90ID:BiStOi140081人間七七四年
2014/01/11(土) 23:02:47.49ID:xp+4EPMR0082人間七七四年
2014/01/11(土) 23:28:01.16ID:2r6hMVrjままなりません。殊に一国を治めようと思う身分であれば、いっそう心がけなければならないことです。
天道に叶うのは、身の我儘をいたさない堪忍です。
地の理に叶うのは、先祖からの一郡、一域を失わないための堪忍。
人の和を得るのは、自分の気ままを出さない堪忍です。
その他、身体の尽くで、堪忍を用いることが大切なのです。』
慶長17年(1612)2月25日付、徳川家康が、秀忠の正妻崇源院(江)に宛てた教訓上の一節である
0083人間七七四年
2014/01/12(日) 00:50:31.87ID:z0+u1h7t0084人間七七四年
2014/01/12(日) 01:48:31.75ID:KX5T3hIg0085人間七七四年
2014/01/12(日) 10:04:36.90ID:uO5dnJqc0086人間七七四年
2014/01/12(日) 10:26:12.52ID:PEYCJOzI0088人間七七四年
2014/01/12(日) 15:38:42.61ID:2v0Zvogn男色関係を結んだのですか?
それとも、アナル・セックス無しのセックス・フレンドになっただけなの?
どちらでせうか?
0089人間七七四年
2014/01/13(月) 02:32:25.79ID:+iF04V+p0090人間七七四年
2014/01/13(月) 02:33:47.94ID:43eNQUIh0091人間七七四年
2014/01/13(月) 10:11:31.85ID:cD6+1UW4実は言及してるんだよなあ。というかこの慶長17年の教訓状はこっちがメインだけど
『幼少の者が利発だからといって、それを褒めたて、立木のままに育ててしまえば、成人した頃には気ままで我儘となり、
後々は親の言うことも聞かなくなるものです。
親の言うことさえ聞かないのですから、召し仕えている者の意見など、なおもって聞かなくなります。
そのようなので、後には国や郡を治めることはおろか、我が身さえ立てられなくなってしまいます。
一体、幼少の頃は何事も素直なものなのですから、どのような窮屈な育て方をしたとしても、要は最初からの
仕付け次第で、外から思うほどには、大儀なことではないものです。
これを植木に例えてみますと、始めに双葉に分かれた節は、人間の産立ちと同じことですので、随分と丁寧に養育し、
もはや2,3年も経って枝葉が多くなった頃、添え木をして真っ直ぐになるように結い立て、そのうちに、悪しき枝は
芽を出した時に切り取り、年々、この通りに手入れいたしましたら、成木になった頃には、真っ直ぐな良い木に成ります。
人もその通りです、4,5歳からは添え木となる人を付けおいて、悪しき枝が、我儘に育たないように致せば、
後に素直によき人となるものです。幼少の頃に育ちさえすれば良いと考えてしまい、我儘にさせたままおいていながら、
年頃になって急に異見をしても、我儘の枝ばかりが繁り、本心・本木には癖がついていて、それは治らないものです。
この事については、私には今もって思い当たることがあります。三郎(信康)の事ですが、この子が産まれた時は、
私も齢が若かったので子供が珍しく、その上ひがいす(痩せて産まれた子)だったので、育ってくれさえすれば良いと
考えてしまい、気の詰まりそうなことはさせず、気ままに育ててしまいました。
そのため成人してから急に色々と言い聞かせたのですが、とにかく幼少の頃に行儀作法もゆるやかに、放任して育てて
しまいましたので、親を敬することもせず、気安く思って、「あれはこれだから」「これはあれだから」などと言い訳ばかりいたし、
後には親子の言い争いのようになりまして、何度言っても聞き入れること無く、かえって親を恨み、また親どころか、
そもそもの自分の生まれつきが悪いと思うようになっていきました。
わたしはこれに懲りましたので、他の子供は幼少から、私の前でも子供に行儀作法を良く良く仕付けてくれる者に言いつけておき、
もし少しでも不行儀、我儘なことが有れば、私に隠さず、いちいち知らせてくれるように言いつけておいて、それを伝え聞き、
私の前に出た時には、毎回解るように言い聞かせ、あるいは叱り、また「これはそのようにはしないものだ」といちいち
言い聞かせるようにしましたので、みな陰日向なく素直に育ってくれました。』
この時徳川家康69歳。自身の失敗も踏まえた子育て論である。
0092人間七七四年
2014/01/14(火) 02:12:05.68ID:rtHIyGi0十で神童十五で才子二十過ぎればただの人、とはよくいったもので
小さいうちから道理ってもんを教えておかないとあとが大変よね
親もわきまえておかなきゃならんから難しいんだろうけど
0093人間七七四年
2014/01/14(火) 06:56:37.25ID:E1e17gad黒船(スペイン・ポルトガル船)の敵であると言われた。船中には具足や大鉄砲が多数あった。
具足は腰より上のものばかりであった。
内府公(徳川家康)はこれを見聞し、上から下までこれを見て、彼らに猩々皮以下の売買に関して
問題はない事を伝え、これを伝えるための帰国を命じた。
この船は唐船(中国船)の敵でもあったので、「誅伐を命じるべきなのに」と人々はみな
この措置に関して言った。
(当代記)
徳川家康の、イギリス船来航への対応である。
0094人間七七四年
2014/01/14(火) 14:42:24.24ID:CCjADilsイエズス会からのリーフデ号は海賊船だから処刑してくださいの要請無視したし
0096人間七七四年
2014/01/14(火) 20:53:03.42ID:YfpHYSoA0097人間七七四年
2014/01/14(火) 23:33:24.02ID:ArQiQufr0098人間七七四年
2014/01/15(水) 00:47:43.90ID:Ikn+QHqzカトリックから脱会してイギリス国教会を立ち上げたりとスペイン、カトリックとイギリス、オランダは対立していた。
で、ウィリアムも参戦したアルマダ海戦へと繋がる。
リーフデ号漂着した件を担当したのが権現様。
そこでイエズス会からリーフデ号は海賊船だと申し入れがあるが本当か?と聴かれ、
ウィリアムたちが自分たちは欧州の宗教争いには関係ないと堂々と述べた姿を権現様が気に入って、
その後もイエズス会から申し入れは続いたが、リーフデ号を日本で裁くことはしなかった。
って話がある
0099人間七七四年
2014/01/15(水) 09:17:22.95ID:PNmpsLYe0100人間七七四年
2014/01/16(木) 07:41:36.23ID:RJKrsCC3下々の者から子供たちまでからかって、
『保科弾正鑓弾正、高坂弾正逃げ弾正』(保科弾正は他人を先に”やる”弾正、高坂弾正は逃げ出す弾正)
と言いふらされたものだ。
私の家は春日源五郎の名を代々継いでいたと言っても、父は春日大隅という甲州井沢の大百姓の
出身であり、私は幼少から故郷を離れ、姉婿と田地のことで公事(訴)に及び、私が負けた時に、
この公事の場からご奉公の命を頂いた。
この時信玄公は22歳、わたしは16歳で、最初は小人(雑役)であったのに、幸運にも廿人衆(徒歩で
軍隊の先導をする下級武士)を経て、はからずも1ヶ月も経たないうちに近習の地位に任じられ、
信玄公の側近く、御膝元に奉公する身となったのだ。なんという幸運な機会に恵まれたことだろう。
その後は、ご意向に沿うことが出来ず仮にも一月もの間仕事を与えられない、などという事もなく、
無難に引き続き奉公いたし、春日弾正と称して尼飾城主に任じられ、今は海津城主の高坂家を継いで
高坂弾正と呼ばれるに至った。
まことに、ご奉公に出仕してから24歳までは、同輩には「あのようなマヌケ者の弾正を昇進させるのは
ひとえに信玄公の見込み違いだ」などと、あちこちから言われたものであった。しかし、この事は
私にとって薬となり、信玄公の意に沿うように。一段とご奉公に精を入れたのだ。
(甲陽軍鑑)
甲陽軍鑑より、高坂弾正が自身の立身を語った一節である。
0101人間七七四年
2014/01/16(木) 20:34:42.42ID:9idnpS5s■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています