戦国ちょっといい話39
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0001人間七七四年
2013/12/28(土) 15:41:31.69ID:m9sYieeK戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1377700193/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386399929/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0181人間七七四年
2014/01/24(金) 06:49:15.21ID:m6s3wWSH400とン年前
・一栗高春→可児才蔵がササガニだから高春と合わせりゃサルカニ合戦だね♪
・高橋亥之助→武太之助と名乗りなさい♪
・豆、楓、胡桃、松→元気(まめ)に帰って来る身を待つ♪
0182人間七七四年
2014/01/24(金) 06:56:03.85ID:m6s3wWSH「服部天皇」で検索する事を勧める。
0183人間七七四年
2014/01/24(金) 07:24:45.54ID:HJng9cB20184人間七七四年
2014/01/24(金) 08:38:25.41ID:9QQQ8Gg9てか妖怪マットにも関わりあるんか?
0185人間七七四年
2014/01/24(金) 12:27:25.02ID:NDh5QxQf山形の子は三傑の名前より先に最上義光を覚えるのかな
0186人間七七四年
2014/01/24(金) 13:21:19.38ID:m6s3wWSHで、義光祭が潰されて代わりに花笠祭に替えたり、
でん六の社長が郷土の英雄として最上義光の像を作ろうとした時も、服部氏やその取り巻きの団体らが「霞城公園は市民の憩いの場なんだから、そんなとこに奸雄の像を設置すんな」なんて服部氏の影響下の山形新聞のコラムで叩いたりしてたんだわ。
死後20年経過しても
大分薄れたと言っても権力者の陰はあちこちに海間見えるよ。
昭和生まれの山形市の人なら
多分肌で少しはわかるはず。
0187人間七七四年
2014/01/24(金) 13:35:17.94ID:m6s3wWSH※記事元にあった生徒名は伏せ字にし、他の山形に関しての地方ニュース『義光公も「よろこんぶ」サケの給食』他の記事からの折り込みもあります。
校長先生の名前は公職の方でしたので
伏せ字にはしないであります。
0189人間七七四年
2014/01/25(土) 00:27:40.28ID:CBCN/LEuこいつぁ中々凄いなw
0190人間七七四年
2014/01/25(土) 02:19:50.20ID:0/jF8+qA直に見ると結構感動する
武将が突っ立ってるだけの銅像とか、わざわざ作る必要性を感じないしね
あんなの作るくらいなら説明板に肖像画を貼っておけばいいだけ
0191人間七七四年
2014/01/25(土) 06:15:06.77ID:iQ6lVeQj兜の前立に利剣も着けてくれんかな?
米沢の火坂天地人の景勝と兼続の銅像はイメージが先行で
兼続(口伝の身長180a強〜190a弱)と
景勝(口伝の身長150a弱)なのを
同じくらいの背丈の像として作っちゃったりしたもんな
鹿児島のお兄ちゃんの銅像が不憫すぐる…
0192人間七七四年
2014/01/25(土) 06:29:53.95ID:iQ6lVeQj賎ヶ岳の戦いに敗れた柴田勝家は北ノ庄に落ちると、城下の僧を呼び寄せ敗残の将の姿を描かせ城を枕に自害を果たした
現在、柴田勝次郎氏の所有する柴田勝家の画像は有名だが保存状態が悪く、あちこち欠損しているために胴や袖の細部が判らない部分が多かった
しかし同じ絵の写本とされるものが江戸時代に纏められた『本朝名将百図』に残されている
図版の「柴田勝家図」はちぢれ毛(天パ調?)に破れ袖、膝の脇には前立付きの兜も描かれている他に
腕や臑、足は剛毛で被われ
注釈には「顔赤メ」等といった書き入れも見受けられる
写しのために原本と景色が幾分変わるかも知れないが
当時の人名の判る武将像を伝える貴重な史料と思える
※絵の兜の前立は有名な連鳥の家紋に脇立の着いた物ではなく、三つ柏葉?の様なもの
0193人間七七四年
2014/01/25(土) 06:35:36.13ID:iQ6lVeQj陣羽織無し・龍の絵の描かれた鎧の像として出てきます
0194192
2014/01/25(土) 07:49:12.36ID:iQ6lVeQj誤)注釈には「顔赤メ」等
正)注釈には「面赤メ」等
でした
0195人間七七四年
2014/01/25(土) 09:06:46.53ID:ApPv4Ikg父や近習の眼を盗んで遠くまで出かけた時のことである。
突然の大雨に見舞われた彼は慌てて帰路に着いたが、
川に差し掛かったところで行きに使った橋が流されていた。
立ち往生していたところ、向こう岸に近習の園田某の姿が見えた。抜け出した貴久を慌てて追いかけてきたらしい。
貴久と自分の間に流れる川を見ると事情を察した彼はざんぶと川に身を乗り入れた。
肩まで水につかり水面に見えるのは顔だけという状態である。
「さ、早くお渡りください」自分の頭を足場に川を渡れというのである。
貴久は「以下に君臣と言えどもそのような真似は出来ぬ」とこれを拒むが
園田も「いやいや、一刻も早くお戻りにならねば」と引かない。
そうこうしている間にも水かさはどんどん増していく。
度重なる懇願に貴久はとうとう折れて、
「されば許せよ」と彼の頭上を渡って向こう岸へ渡り、二人してずぶ濡れになって帰った。
貴久はこのことを大いに反省し、以後は学問にも身を入れるようになったと言う。
尤も、父の忠良にも日新柱のエピソードがあることから血は争えない、と言ったところでしょうか。
0196人間七七四年
2014/01/25(土) 21:28:01.75ID:lsDq6YDf0197人間七七四年
2014/01/25(土) 22:25:35.19ID:ApPv4Ikg0199人間七七四年
2014/01/25(土) 22:56:02.23ID:a37AOTxo九州の歴史も随分変わったんだろうなぁ・・・
0200人間七七四年
2014/01/25(土) 22:56:10.32ID:H8Rw5SNu0203人間七七四年
2014/01/25(土) 23:38:32.54ID:pcLEwBfO0204人間七七四年
2014/01/27(月) 03:41:26.99ID:t92X13ZI1580年代、出羽の有力国人の一人である谷地の白鳥長久は次第に勢力を拡大する山形の最上義光に恐れを抱き、
強大な後楯を得ようと中央で急成長をする織田信長に「我は信長様を敬い、また現状は出羽をまとめる者である、そこで出羽守である事を認めてほしい」と使者を送った。
これを知った最上義光は「羽州探題と出羽守は最上家が名誉、なぜに長久が詐称をするのか」と怒りを顕にし、家臣の志村光安を使者として、
最上家の系図と大きな白鷹、出羽産の名馬、月山打の長身の槍や刀を持たせて安土の信長の下へと派遣した。
面会の申請をしてそう日を経ず信長に呼ばれた光安は
出羽における最上の役割と
白鳥長久の非を丁重に、かつ簡潔に信長公へと申し上げた
信長「羽州の事柄には疎い部分があり、白鳥某の言う事を疑いもせずに信じてしまったのはこちらの非。
山形殿(義光)、いや、『山形出羽守』殿には大変に悪い事をした」
−と信長公は光安の口上に「正当な出羽守は最上義光である」といった書面を書き与えた
(つづく)
0205人間七七四年
2014/01/27(月) 03:49:18.68ID:t92X13ZI信長「地域の者にあって、そち(光安)は珍しく口才名誉(達者)であるな」
−と、信長公は手ずから三宝に金兵糖(金平糖)を盛り、光安に褒美として渡し
重臣に命じて城と安土の町を案内させて饗(もてな)したとも言う
現在山形市の最上義光歴史館に飾られている
長谷堂合戦で最上義光が被り直江兼続に撃たれた弾跡の残る兜は
この面会により信長公から最上義光に贈られた物だと伝えられています
0206人間七七四年
2014/01/27(月) 03:52:37.76ID:t92X13ZI「戦国魂」のホームページ「信長の金平糖」で形が確認出来ますが
現在の形に比べ突起が少なくなだらかで
形状はでん六豆を小振りにした様なものになります
0207人間七七四年
2014/01/27(月) 04:09:07.29ID:t92X13ZIttp://www.sengokudama.jp/m/sengokudama/confeito
0208人間七七四年
2014/01/27(月) 04:12:25.69ID:t92X13ZI外交でお菓子が用いられる例があったという事で
0209人間七七四年
2014/01/27(月) 04:49:27.38ID:kLmfAAz20210人間七七四年
2014/01/27(月) 04:52:13.58ID:M8AqJ2j90212人間七七四年
2014/01/27(月) 09:37:07.45ID:zKVzDjvt0213人間七七四年
2014/01/27(月) 20:38:56.15ID:MuOgBD7Y0214人間七七四年
2014/01/27(月) 21:56:39.88ID:B1HV1VgD『珍しい話を知ったので、正三道人にもお聞かせしようとやって参りました。
とある町に六十過ぎにもかかわらず、道心の欠片なく、欲深な老人があり、
長年その無道な振舞いに泣かされてきた息子がいい加減にと思い、方便して父へ、
「ちょっと町で儲け話を持ちかけられたんだけど、おれはどうにも暇がない。
親父は暇そうだが、この仕事は道心ある人でなければ無理だからなあ…」
と思わせ振りに言うと、どんな儲け話なんだと問い詰めてきたそうです。
それに答え息子が、
「神仏をまるで信じない親父には無理な仕事だと思うけれど、
三年の間、依頼者のため、一日に念仏を六万回唱えてくれる者があれば、
金子十両出すと言う話があるんだ。」
それを聞いた父は、
「さてもさても、ワシにこそ似合う仕事ではないか。
余所に話が行く前に、早く請けとって来い。」
息子は喜び、絶対に不正だけはしてはいけないと堅く約束をし、金を父に渡したそうです。
その日より父は朝から晩まで、数珠を放さず、約束通り二年ほど念仏を続けたのですが、
ある日、息子を読んで、
「ワシは老いて先の短い身だ。何を考えて二年前金を請けとったのだろうか。
我ながら浅ましい事を引き受けたものだ。
ワシはこの歳までなんの道心なく生きて取り返しがつかないだろう。
それを自分の後世に気づかず、他人の後世を朝晩願い唱えているとはなんと口惜しいことだろうか。
これより御念仏は我が菩提の為に唱えたいと思う。
この金は謝罪料を加えてもかまわないから返してきてくれ。
依頼者には誠に申し訳ないと詫び言しておいてくれ。」
と言ったので、それを聞いた息子は、
「わかった。謝罪して返しておくよ。」
と受け取ったそうです。
その後、老人はいよいよ菩提心起こり道心に目覚めたとのことです』【驢鞍橋】
0215人間七七四年
2014/01/28(火) 00:09:05.93ID:xdUQWoFp相手の士気を挫くためなら平気で女子供を犯させた髭だからなあ
信長だったとしてもあんたより巧く取り入るのは間違いない
0216人間七七四年
2014/01/28(火) 00:16:30.60ID:h6uHEA2/0217人間七七四年
2014/01/28(火) 00:54:05.42ID:C5DCxId0と反省して本来面目に目覚める仏教話だと読んだ
0218人間七七四年
2014/01/28(火) 01:01:56.22ID:0tdmNWKz侍A「あー賭けに負けたけど、金もないし担保もないや」
侍B「それならお前、清水寺に二千度参りしたそうだからその御利益くれよ」
侍A「えーそんなんでいいの?じゃああげたってことで」
→その後、侍Aは思わぬ罪で獄門に、侍Bは出世したそうな
ってやつがあったが、金で功徳を積めるもんなんだな
0219人間七七四年
2014/01/28(火) 01:04:55.83ID:Sp2fTn9p菩提心もやむなし
0220人間七七四年
2014/01/28(火) 07:11:27.09ID:d6BcGrvd0221204
2014/01/28(火) 08:41:03.19ID:RzbAfeJM天正5(1577)年?に白鳥長久が織田信長に馬を贈る
(羽州探題を名乗る許可を得ようとする)
↓
1577〜1580年頃?最上義光が「羽州探題は斯波家の流れを組む最上家にある」と信長に鷹や馬を贈る
(※204の逸話の大筋)
↓
白鳥側が「出羽は土豪国人が各々分し、裁定や仲介を纏めているのは白鳥である」「白鳥は斯波最上氏よりも出羽に古くあり、(信長の語る先祖同様)藤原の流れを組む名家」と信長に使者を送り義光を再び牽制
↓
前後し庄内の大宝寺義氏が信長に使者を送り「屋形号」を許可される
と泥試合の様相もあった様です
0222人間七七四年
2014/01/28(火) 08:51:24.44ID:RzbAfeJM0224人間七七四年
2014/01/28(火) 09:33:54.55ID:RzbAfeJM大宝寺の屋形号は1979年頃
双方勢力拡大中の最上義光への対抗策と考えられます
0225人間七七四年
2014/01/28(火) 16:40:43.99ID:RzbAfeJM誤)「羽州探題は斯波家の流れを組む最上家にある」
正)「羽州探題職は斯波家の流れを組む最上家こそが正統である」
の方が流れがすんなりと繋がりそうです
0226人間七七四年
2014/01/28(火) 16:41:55.07ID:1UTboCdk0227人間七七四年
2014/01/28(火) 17:18:14.94ID:qHOiVRkbこのうちの一人は堀や屏を巧みに越したので、後に堀平右衛門(定則)と呼び、稲葉正則に仕えた。
(此内一人堀屏ヲヨクコシタル故後ニ堀平右衛門ト云稲葉美濃守殿事フ)
――『武功雑記』
0228人間七七四年
2014/01/28(火) 18:11:37.10ID:RzbAfeJMお隣りだと
奥州探題…大崎氏の慣例世襲
陸奥国守護職…伊達稙宗
の例も
>>104も言ってるように、例の武田信玄のラブレター「浮気の弁明」って、
ほぼ100%に近い確率で高坂弾正に送ったものじゃないらしい。
結構いろんな戦国を扱った本とかにも書かれていることだが
高坂昌信は幼名は源五郎で「源助」と名乗ったことはない、ばかりか
歴史新書刊の『戦国武将と男色』によると
宛名の名字は「原物の苗字を消して」書き変えてあるとか。
弥七郎との男色遊びにうつつを抜かしていたことを疑われ、口うるさい老臣=源助に咎められた。
その弁明のため弥七郎を尋問に来させようとしたところ断られたとする、
いわば弥七郎と男色関係になってないただ親しくしょうとしていただけだが迷惑をかけてしまったという
反省と釈明文だったのではないか、としている。
その老臣とは山本勘助だろうと。
勘助は源助を名乗っていたし、そしてそれがすごいシックリときた。
0230人間七七四年
2014/01/28(火) 20:42:55.07ID:hQLvISrNこの頃、江戸の普請が行われていたが、福島左衛門大夫(正則)から、池田三左衛門(輝政)へ
言い遣わした事があった。
それはどのような事かといえば、福島正則の下女が逃亡し、池田輝政の屋敷に居たのであるが、
ある時福島家の中間が、池田家の屋敷の門前を通った時に彼女の姿を見つけ、とっさに追いかけ
台所の前で押し倒しこれを捕らえた。しかしここに池田家の侍や中間が出てきて、狼藉者であると
この中間を捕らえて監禁した。
福島正則はこの事を聞いて、この様に言った
「私は今回国を出立する時、家中の上下にこのように命じた。江戸の普請の最中、喧嘩を致してはならない。
頭を張られても堪忍した輩には、褒美を与える、と。
そしてもし喧嘩を仕掛けたものには、一族妻子まで同罪にいたすと命じた。
そのような所にこんな事件が起こり、是非に及ばぬ。
どうか、三左衛門の屋敷に搦め置かれている中間、並びに逃亡した女をお返し頂きたい。」
この事を使いを以って申し入れ、彼らが返還されると即座に首を刎ねた。
そして、その中間を捕らえた池田輝政の中間たちに対しては、かまわないので折檻などしないようにと、
正則より申し入れた。
この正則の対応に、池田輝政は大変神妙なご存分であると感心し、福島正則の屋敷に自ら出向き、
謝礼に及んだ。
また正則も翌朝輝政の屋敷を訪れ、
「昨日御出になられたことは忝い事です」と述べ、双方の言い分も全て相済んだ。
この池田輝政、福島正則は短慮かつ荒々しい人で、その被官以下常に戦慄していたのだが、
今回このように、神妙に紛争を治めた事は、あまりに奇特な事であったため、時の人たちは
これに感じ入り、また有る者は、「時分を待っているのだろう」と言ったという。
(当代記)
紛争になりそうな事件を平穏に治めたら治めたで、逆に話題になってしまったというお話である。
0231人間七七四年
2014/01/28(火) 20:50:28.02ID:X4gEuo5r0232人間七七四年
2014/01/28(火) 22:06:47.72ID:M0Bu/3yb0233人間七七四年
2014/01/28(火) 22:19:06.98ID:C5DCxId0政治的な力で必ずしも守られるわけではないが…
鍋島家と加藤(清)家もそれで揉めたよね
この話は時期が時期だけにってことかな
0235人間七七四年
2014/01/28(火) 22:34:32.89ID:4y4SD1WI0239人間七七四年
2014/01/29(水) 16:41:07.43ID:d5QP/6IU「誠ニ君々タレバ 臣々タリトカヤ 時ノ執事氏家尾張守 元来忠アリテ義アリ 謀ハ楠カ肝肺ノ中ヨリ流レ出ルカ如キモノ也」
『最上記』『続群書類従』ほか
天童合戦での延沢満延の引き込み、上山里見越後・民部親子調略、兼山の庭月広綱の引き込み、由利諸将懐柔、白鳥暗殺等「最上の勢力拡大における策謀」の多くを立案しながら、おいしいところは鮭様に譲って大樹の陰に徹した最上家の屋台骨、執事長・氏家守棟の人物評
0240人間七七四年
2014/01/29(水) 16:50:47.32ID:d5QP/6IU※大崎家と最上家の先祖は元々は同じ一つの家(斯波家)
※守棟と吉継は奥羽に下向した宇都宮氏族・氏家氏の子孫(遠縁)
0241人間七七四年
2014/01/29(水) 17:08:02.00ID:vQMBmOyn0243人間七七四年
2014/01/29(水) 20:04:24.54ID:LhXBngxhもっとも、新しい解釈が正しいとは限らんが
0245人間七七四年
2014/01/30(木) 13:02:55.52ID:uE2pb5xB関ヶ原の戦いの前哨戦である岐阜城の戦いで西軍は敗北、岐阜城は陥落した。
勢いに乗る東軍は、次の目標を大垣に定め、長良川の河渡の渡しにおいて
石田三成の部将・杉江勘兵衛らと交戦、これを討ち取っている。
揖斐川の呂久の渡しの守備についていた三成と小西行長は、事態を憂慮、
墨俣を守っていた島津義弘と協議し、その結果大垣城へ退くこととなった。
このとき、島津義弘はわずかな供廻りしか連れておらず、兵のほとんどは
墨俣に残っていた。石田・小西両勢が撤退してしまえば、島津勢は敵中に
孤立してしまう。おのれのみあくまでも退こうとする三成に対して、義弘の
家臣新納弥太左衛門と川上久右衛門が三成の馬の口を取り、考え直すよう
迫ったが、三成を翻意させることは出来なかった。司馬遼太郎の歴史小説
『関ヶ原』でも採り上げられている話であり、小説では卑怯と責められた
三成が馬上で「卑怯ではない、卑怯ではない」と独白する場面もある。
これがもとで義弘は三成を信頼できなくなり、合戦当日に非協力的な態度を
とるにいたる―というのが小説の筋。上記の話は実際に従軍した島津家家臣
大重平六の覚書がもととなっている。無論、三成独白の場面は司馬の創作で
ある。
一方、あまり知られてないが、こんな話も残っている。
退却が決まり、墨俣の島津勢は前線から大垣城目指して急いでいた。はや
日も暮れようとする頃、行く手より一騎の武者が駆けてくるのが見えた。
その出で立ちは、黒の具足・水牛の角の立物の兜を被り、供廻りも従えず
ただ一騎のみで急ぎ駆けてくる…。
「あっ、あれは治部少輔殿だ」
そう、三成であった。
島津勢が墨俣からの退却に難渋していると聞き、見舞いに駆けつけたのだ。
出典は、これも島津側に残った神戸久五郎の覚書。
二つの記録に登場する三成、まるで正反対w。
ひょっとしたら、先の話は島津家がお家のために創作したのかも。
0246人間七七四年
2014/01/30(木) 13:15:18.76ID:pnHGcZ8rで東軍に入りたかったけど、ご存知の通りでご破算
0247人間七七四年
2014/01/30(木) 13:18:47.90ID:pZ7zDfLS西軍についた責任を鳥居におっかぶせただけじゃないか
0248人間七七四年
2014/01/30(木) 13:45:19.32ID:9Cqd3mn5三成に協力してくれなんてことは一度も連絡されてないし西軍なんてもんは知らんよ
0249人間七七四年
2014/01/30(木) 14:47:53.84ID:pnHGcZ8r0250人間七七四年
2014/01/30(木) 16:18:08.13ID:HkdSXETq最上の執事
南条くん…鮭様
ヤマオカ…守棟
最上家の黒執事
シエル・ファントムハイヴ…鮭様
セバスチャン・ミカエリス…守棟
伊達家で言うなら片倉小十郎
…どれが手っ取り早いんだろう…
0251人間七七四年
2014/01/30(木) 16:19:26.00ID:HkdSXETq0252人間七七四年
2014/01/30(木) 16:26:47.81ID:gVogvtODウジ・ヤモリ・棟
と読んだら怒られるな
0253人間七七四年
2014/01/30(木) 16:26:51.41ID:8Eq9Z+rj司馬の小説でその後の話も載ってたような。
島津見捨てて置いて帰ったけど、やっぱヤバイというので様子を見に行ったって感じで。
0254人間七七四年
2014/01/30(木) 17:25:29.40ID:2gxSQ0ZA0257人間七七四年
2014/01/30(木) 17:59:03.27ID:YH16w5ma0258人間七七四年
2014/01/30(木) 18:15:28.36ID:4KLIDOmA立花家の道雪の甥の立花統春が、加藤家から逃げてきた罪人を匿ったことで
騒動になって切腹した話もあるね
0261人間七七四年
2014/01/31(金) 20:37:10.35ID:cr09cwaY高橋紹運は岩屋城にて壮絶な最期を遂げた際にこんな話が残っている
いよいよ自刃の際に
「火を放って死体を焼き、首を敵に渡さないように致しましょう」という意見があった。
それを聞いた紹運はこう答えた。
「その儀無用である。そのまま敵に首をとらせてこそ義を守って討死した事が分る。
死体が見えなければ逃げたと思う者もあろう。武士は屍を晒さぬもの、というが
それは死ぬ場所によるのだ。敢えて首を取らせよ。」
(筑後実記)
0262人間七七四年
2014/01/31(金) 20:39:10.97ID:QpF9bl2g俺の首も・・・誰もいらないか
0263人間七七四年
2014/01/31(金) 21:31:15.96ID:Xg1VsbmI戦場や志半ばで死ねば義の人って言われるけど
下手に生き残ったりすると胡散臭く言われるんだよな
0264人間七七四年
2014/01/31(金) 21:47:20.30ID:xSFv6YZ/生き残った赤穂浪士の苦労をことさら大きく描いた作品だったよ。
まあでも派手に討ち死にした軍勢のなかで生き残ると肩身狭い場合もあるのかもしれないね。
討ち入りした四十七士には武士だけでなく町人たちからも助命嘆願が出たけれど、
あまりにも武士らしい討ち入りを果たしてしまったから余生で傷がつくよりは、
武士らしいままで終わりにしようって幕府の武家的な温情からの助命嘆願は受けなかったという話もあるし
0265人間七七四年
2014/02/01(土) 01:27:41.59ID:az4wvYAw有り難くわしがいただこうぞ?
0266人間七七四年
2014/02/01(土) 17:35:37.15ID:PQLhydbM主君が分家すると、譜代家臣も同じように分家してついていくよね。
河内畠山と能登畠山なんかそうだし、そもそも越後守護上杉と越後守護代長尾もそうか。
0271人間七七四年
2014/02/01(土) 23:03:22.69ID:MGmk0fOq中川清秀がラスボスに騙される事もなくなって
光秀が山崎で善戦する可能性もあった
0274人間七七四年
2014/02/02(日) 03:11:42.28ID:esxUOGfp0275人間七七四年
2014/02/02(日) 04:43:42.08ID:esxUOGfp失敬
信長と利家の衆道話も史料の誤読誤解によって生じた出鱈目ネタらしい
0277人間七七四年
2014/02/02(日) 13:43:02.89ID:OB4Ti4Gk0278人間七七四年
2014/02/02(日) 14:11:52.05ID:lcoNgjKKあれって、一緒に寝た仲だ。じゃなくて
若い頃は宿直して信長の身辺警護をした親衛隊員だった、という意味なんだよな
それをいいようにはき違えたモノだからw
0279人間七七四年
2014/02/02(日) 18:47:15.65ID:ylAObyzl俺は信じないぞ
0280人間七七四年
2014/02/02(日) 22:28:17.22ID:lcoNgjKK原文見たって衆道を示す特別なことは書かれていない
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