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戦国ちょっといい話39

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0001人間七七四年2013/12/28(土) 15:41:31.69ID:m9sYieeK
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1377700193/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386399929/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0181人間七七四年2014/01/24(金) 06:49:15.21ID:m6s3wWSH
義光公のおやじギャグの伝統まで…

400とン年前
・一栗高春→可児才蔵がササガニだから高春と合わせりゃサルカニ合戦だね♪
・高橋亥之助→武太之助と名乗りなさい♪
・豆、楓、胡桃、松→元気(まめ)に帰って来る身を待つ♪
0182人間七七四年2014/01/24(金) 06:56:03.85ID:m6s3wWSH
>>180
「服部天皇」で検索する事を勧める。
0183人間七七四年2014/01/24(金) 07:24:45.54ID:HJng9cB2
山形いってみるとわかるけど、義光アゲで町おこししてるぜ。独眼竜でイメージ悪くされたが、実はって話が多いからだろうね。
0184人間七七四年2014/01/24(金) 08:38:25.41ID:9QQQ8Gg9
服部って義光公が嫌いなんか
てか妖怪マットにも関わりあるんか?
0185人間七七四年2014/01/24(金) 12:27:25.02ID:NDh5QxQf
10歳の子が義光公の違った一面があって良かったなんて言うなんて流石地元での知名度って凄いんだな…
山形の子は三傑の名前より先に最上義光を覚えるのかな
0186人間七七四年2014/01/24(金) 13:21:19.38ID:m6s3wWSH
生前県知事や市長よりも権力のあった山形の首領の服部氏個人が最上義光を個人的に嫌悪してたみたいなんだよね。
で、義光祭が潰されて代わりに花笠祭に替えたり、
でん六の社長が郷土の英雄として最上義光の像を作ろうとした時も、服部氏やその取り巻きの団体らが「霞城公園は市民の憩いの場なんだから、そんなとこに奸雄の像を設置すんな」なんて服部氏の影響下の山形新聞のコラムで叩いたりしてたんだわ。
死後20年経過しても
大分薄れたと言っても権力者の陰はあちこちに海間見えるよ。
昭和生まれの山形市の人なら
多分肌で少しはわかるはず。
0187人間七七四年2014/01/24(金) 13:35:17.94ID:m6s3wWSH
南沼原小や鈴川小の生徒数が1000人以上いた時代を知ってると、記事の三小の生徒数を見て大分こどもが減ったんだなとしみじみと昔を懐かしく思う。

※記事元にあった生徒名は伏せ字にし、他の山形に関しての地方ニュース『義光公も「よろこんぶ」サケの給食』他の記事からの折り込みもあります。
校長先生の名前は公職の方でしたので
伏せ字にはしないであります。
0188人間七七四年2014/01/24(金) 16:29:57.12ID:jb5Gis20
>>186
>そんなとこに奸雄の像を設置すんな

おまえが言うなって感じだなww
0189人間七七四年2014/01/25(土) 00:27:40.28ID:CBCN/LEu
なるほど、服部天皇でググってみたけど、
こいつぁ中々凄いなw
0190人間七七四年2014/01/25(土) 02:19:50.20ID:0/jF8+qA
確かに義光は奸雄だろうけど、正直あの銅像は傑作だと思う。デザイン性が。
直に見ると結構感動する

武将が突っ立ってるだけの銅像とか、わざわざ作る必要性を感じないしね
あんなの作るくらいなら説明板に肖像画を貼っておけばいいだけ
0191人間七七四年2014/01/25(土) 06:15:06.77ID:iQ6lVeQj
鮭様の銅像は酸性雨からの保護はあったとは言え、化粧直しの塗装でケバくなって風情が落ちたと思う。周囲の景観に馴染むのにあと数年必要だとか
兜の前立に利剣も着けてくれんかな?

米沢の火坂天地人の景勝と兼続の銅像はイメージが先行で
兼続(口伝の身長180a強〜190a弱)と
景勝(口伝の身長150a弱)なのを
同じくらいの背丈の像として作っちゃったりしたもんな

鹿児島のお兄ちゃんの銅像が不憫すぐる…
0192人間七七四年2014/01/25(土) 06:29:53.95ID:iQ6lVeQj
柴田勝家の肖像画

賎ヶ岳の戦いに敗れた柴田勝家は北ノ庄に落ちると、城下の僧を呼び寄せ敗残の将の姿を描かせ城を枕に自害を果たした

現在、柴田勝次郎氏の所有する柴田勝家の画像は有名だが保存状態が悪く、あちこち欠損しているために胴や袖の細部が判らない部分が多かった

しかし同じ絵の写本とされるものが江戸時代に纏められた『本朝名将百図』に残されている

図版の「柴田勝家図」はちぢれ毛(天パ調?)に破れ袖、膝の脇には前立付きの兜も描かれている他に
腕や臑、足は剛毛で被われ
注釈には「顔赤メ」等といった書き入れも見受けられる

写しのために原本と景色が幾分変わるかも知れないが
当時の人名の判る武将像を伝える貴重な史料と思える

※絵の兜の前立は有名な連鳥の家紋に脇立の着いた物ではなく、三つ柏葉?の様なもの
0193人間七七四年2014/01/25(土) 06:35:36.13ID:iQ6lVeQj
『本朝名将百図』の肖像画は「柴田勝家」で画像検索をすると
陣羽織無し・龍の絵の描かれた鎧の像として出てきます
01941922014/01/25(土) 07:49:12.36ID:iQ6lVeQj
>>192
誤)注釈には「顔赤メ」等
正)注釈には「面赤メ」等

でした
0195人間七七四年2014/01/25(土) 09:06:46.53ID:ApPv4Ikg
島津貴久は子供の頃、勉強をほったらかして鷹狩りに出かけることがしばしばであった。

父や近習の眼を盗んで遠くまで出かけた時のことである。
突然の大雨に見舞われた彼は慌てて帰路に着いたが、
川に差し掛かったところで行きに使った橋が流されていた。

立ち往生していたところ、向こう岸に近習の園田某の姿が見えた。抜け出した貴久を慌てて追いかけてきたらしい。
貴久と自分の間に流れる川を見ると事情を察した彼はざんぶと川に身を乗り入れた。
肩まで水につかり水面に見えるのは顔だけという状態である。

「さ、早くお渡りください」自分の頭を足場に川を渡れというのである。
貴久は「以下に君臣と言えどもそのような真似は出来ぬ」とこれを拒むが
園田も「いやいや、一刻も早くお戻りにならねば」と引かない。
そうこうしている間にも水かさはどんどん増していく。

度重なる懇願に貴久はとうとう折れて、
「されば許せよ」と彼の頭上を渡って向こう岸へ渡り、二人してずぶ濡れになって帰った。

貴久はこのことを大いに反省し、以後は学問にも身を入れるようになったと言う。
尤も、父の忠良にも日新柱のエピソードがあることから血は争えない、と言ったところでしょうか。
0196人間七七四年2014/01/25(土) 21:28:01.75ID:lsDq6YDf
意外と川幅は狭かったのか
0197人間七七四年2014/01/25(土) 22:25:35.19ID:ApPv4Ikg
おそらく三段跳びの要領で
0198人間七七四年2014/01/25(土) 22:55:24.26ID:H8Rw5SNu
>>900
だからそういう話をしたんじゃないのに、そんな源氏でムキになられても
0199人間七七四年2014/01/25(土) 22:56:02.23ID:a37AOTxo
そこで貴久が園田さんの頭で足を滑らせて溺死なんてことになってたら、
九州の歴史も随分変わったんだろうなぁ・・・
0200人間七七四年2014/01/25(土) 22:56:10.32ID:H8Rw5SNu
誤爆
0201人間七七四年2014/01/25(土) 23:00:49.35ID:ErwK29vC
>>198
佐竹義重「いいやゆるさん!我が佐竹こそ新羅三郎義光の嫡流!武田など庶流にすぎぬ!」
0202人間七七四年2014/01/25(土) 23:02:43.10ID:JOFVkQNj
某スレのID:q6/KlW4lは自分
>>201とは別人なので一応

スレ汚し失礼
0203人間七七四年2014/01/25(土) 23:38:32.54ID:pcLEwBfO
新羅三郎義ア・・・光?
0204人間七七四年2014/01/27(月) 03:41:26.99ID:t92X13ZI
志村光安、織田信長に面会を許される

1580年代、出羽の有力国人の一人である谷地の白鳥長久は次第に勢力を拡大する山形の最上義光に恐れを抱き、
強大な後楯を得ようと中央で急成長をする織田信長に「我は信長様を敬い、また現状は出羽をまとめる者である、そこで出羽守である事を認めてほしい」と使者を送った。

これを知った最上義光は「羽州探題と出羽守は最上家が名誉、なぜに長久が詐称をするのか」と怒りを顕にし、家臣の志村光安を使者として、
最上家の系図と大きな白鷹、出羽産の名馬、月山打の長身の槍や刀を持たせて安土の信長の下へと派遣した。

面会の申請をしてそう日を経ず信長に呼ばれた光安は
出羽における最上の役割と
白鳥長久の非を丁重に、かつ簡潔に信長公へと申し上げた

信長「羽州の事柄には疎い部分があり、白鳥某の言う事を疑いもせずに信じてしまったのはこちらの非。
山形殿(義光)、いや、『山形出羽守』殿には大変に悪い事をした」

−と信長公は光安の口上に「正当な出羽守は最上義光である」といった書面を書き与えた

(つづく)
0205人間七七四年2014/01/27(月) 03:49:18.68ID:t92X13ZI
(つづき)

信長「地域の者にあって、そち(光安)は珍しく口才名誉(達者)であるな」

−と、信長公は手ずから三宝に金兵糖(金平糖)を盛り、光安に褒美として渡し
重臣に命じて城と安土の町を案内させて饗(もてな)したとも言う

現在山形市の最上義光歴史館に飾られている
長谷堂合戦で最上義光が被り直江兼続に撃たれた弾跡の残る兜は
この面会により信長公から最上義光に贈られた物だと伝えられています
0206人間七七四年2014/01/27(月) 03:52:37.76ID:t92X13ZI
※当時のコンペイトウを復元したものは
「戦国魂」のホームページ「信長の金平糖」で形が確認出来ますが
現在の形に比べ突起が少なくなだらかで
形状はでん六豆を小振りにした様なものになります
0207人間七七四年2014/01/27(月) 04:09:07.29ID:t92X13ZI
信長の金平糖
ttp://www.sengokudama.jp/m/sengokudama/confeito
0208人間七七四年2014/01/27(月) 04:12:25.69ID:t92X13ZI
長宗我部元親の「饅頭」の話以外にも
外交でお菓子が用いられる例があったという事で
0209人間七七四年2014/01/27(月) 04:49:27.38ID:kLmfAAz2
三成「干し柿はいかがかな?」
0210人間七七四年2014/01/27(月) 04:52:13.58ID:M8AqJ2j9
実際あんた忠興に柿出してましたやん
0211人間七七四年2014/01/27(月) 05:10:10.79ID:LUyerPKn
>>205
んでこの数年後に白鳥は桜の木に血を吸わせることになるのか…
0212人間七七四年2014/01/27(月) 09:37:07.45ID:zKVzDjvt
>201、お人よしの佐竹がきたない義光の嫡流なんて言っちゃいけません!
0213人間七七四年2014/01/27(月) 20:38:56.15ID:MuOgBD7Y
??「信長公だったらヒゲモジャに領土を掠め取られる事は無かった…」
0214人間七七四年2014/01/27(月) 21:56:39.88ID:B1HV1VgD
ある日、出家した鈴木正三のもとへ訪ねてくる者があり、こう語った。
『珍しい話を知ったので、正三道人にもお聞かせしようとやって参りました。
とある町に六十過ぎにもかかわらず、道心の欠片なく、欲深な老人があり、
長年その無道な振舞いに泣かされてきた息子がいい加減にと思い、方便して父へ、
「ちょっと町で儲け話を持ちかけられたんだけど、おれはどうにも暇がない。
親父は暇そうだが、この仕事は道心ある人でなければ無理だからなあ…」
と思わせ振りに言うと、どんな儲け話なんだと問い詰めてきたそうです。
それに答え息子が、
「神仏をまるで信じない親父には無理な仕事だと思うけれど、
三年の間、依頼者のため、一日に念仏を六万回唱えてくれる者があれば、
金子十両出すと言う話があるんだ。」
それを聞いた父は、
「さてもさても、ワシにこそ似合う仕事ではないか。
余所に話が行く前に、早く請けとって来い。」
息子は喜び、絶対に不正だけはしてはいけないと堅く約束をし、金を父に渡したそうです。
その日より父は朝から晩まで、数珠を放さず、約束通り二年ほど念仏を続けたのですが、
ある日、息子を読んで、
「ワシは老いて先の短い身だ。何を考えて二年前金を請けとったのだろうか。
我ながら浅ましい事を引き受けたものだ。
ワシはこの歳までなんの道心なく生きて取り返しがつかないだろう。
それを自分の後世に気づかず、他人の後世を朝晩願い唱えているとはなんと口惜しいことだろうか。
これより御念仏は我が菩提の為に唱えたいと思う。
この金は謝罪料を加えてもかまわないから返してきてくれ。
依頼者には誠に申し訳ないと詫び言しておいてくれ。」
と言ったので、それを聞いた息子は、
「わかった。謝罪して返しておくよ。」
と受け取ったそうです。
その後、老人はいよいよ菩提心起こり道心に目覚めたとのことです』【驢鞍橋】
0215人間七七四年2014/01/28(火) 00:09:05.93ID:xdUQWoFp
>>213
相手の士気を挫くためなら平気で女子供を犯させた髭だからなあ
信長だったとしてもあんたより巧く取り入るのは間違いない
0216人間七七四年2014/01/28(火) 00:16:30.60ID:h6uHEA2/
無理にでも形から入るのは有効だって話?
0217人間七七四年2014/01/28(火) 00:54:05.42ID:C5DCxId0
ところで金と他人のために念仏してる自分は誰なんだ?
と反省して本来面目に目覚める仏教話だと読んだ
0218人間七七四年2014/01/28(火) 01:01:56.22ID:0tdmNWKz
なんか、宇治拾遺物語で
侍A「あー賭けに負けたけど、金もないし担保もないや」
侍B「それならお前、清水寺に二千度参りしたそうだからその御利益くれよ」
侍A「えーそんなんでいいの?じゃああげたってことで」
→その後、侍Aは思わぬ罪で獄門に、侍Bは出世したそうな

ってやつがあったが、金で功徳を積めるもんなんだな
0219人間七七四年2014/01/28(火) 01:04:55.83ID:Sp2fTn9p
六万回って毎秒念仏唱えても16時間以上かかるからな
菩提心もやむなし
0220人間七七四年2014/01/28(火) 07:11:27.09ID:d6BcGrvd
某漫画の協会の会長のように覚醒するかもしれん
02212042014/01/28(火) 08:41:03.19ID:RzbAfeJM
白鳥や大宝寺等の史料も比較すると

天正5(1577)年?に白鳥長久が織田信長に馬を贈る
(羽州探題を名乗る許可を得ようとする)

1577〜1580年頃?最上義光が「羽州探題は斯波家の流れを組む最上家にある」と信長に鷹や馬を贈る
(※204の逸話の大筋)

白鳥側が「出羽は土豪国人が各々分し、裁定や仲介を纏めているのは白鳥である」「白鳥は斯波最上氏よりも出羽に古くあり、(信長の語る先祖同様)藤原の流れを組む名家」と信長に使者を送り義光を再び牽制

前後し庄内の大宝寺義氏が信長に使者を送り「屋形号」を許可される

と泥試合の様相もあった様です
0222人間七七四年2014/01/28(火) 08:51:24.44ID:RzbAfeJM
信長「贈り物はいいけど、おまえらほどほどにしとけ(にっこり)」
02232042014/01/28(火) 09:11:13.83ID:RzbAfeJM
>>204の冒頭を

1580年代

1580年頃

と直して頂いた方が適切な様です
0224人間七七四年2014/01/28(火) 09:33:54.55ID:RzbAfeJM
白鳥は「羽州探題」と「出羽守(または出羽国守護)」を名乗ろうとした風の書き物もあり

大宝寺の屋形号は1979年頃

双方勢力拡大中の最上義光への対抗策と考えられます
0225人間七七四年2014/01/28(火) 16:40:43.99ID:RzbAfeJM
>>221
誤)「羽州探題は斯波家の流れを組む最上家にある」
正)「羽州探題職は斯波家の流れを組む最上家こそが正統である」

の方が流れがすんなりと繋がりそうです
0226人間七七四年2014/01/28(火) 16:41:55.07ID:1UTboCdk
探題と守護両方あるのか
0227人間七七四年2014/01/28(火) 17:18:14.94ID:qHOiVRkb
勢州亀山城を攻める時、黒田氏の家来で功の多い内に三人の中間がおり、優れてよく働いた。

このうちの一人は堀や屏を巧みに越したので、後に堀平右衛門(定則)と呼び、稲葉正則に仕えた。
(此内一人堀屏ヲヨクコシタル故後ニ堀平右衛門ト云稲葉美濃守殿事フ)

――『武功雑記』
0228人間七七四年2014/01/28(火) 18:11:37.10ID:RzbAfeJM
>>226
お隣りだと

奥州探題…大崎氏の慣例世襲
陸奥国守護職…伊達稙宗

の例も
0229            2014/01/28(火) 20:13:27.89ID:oXF87jrd
亀過ぎてなんだが
>>104も言ってるように、例の武田信玄のラブレター「浮気の弁明」って、
ほぼ100%に近い確率で高坂弾正に送ったものじゃないらしい。
結構いろんな戦国を扱った本とかにも書かれていることだが
高坂昌信は幼名は源五郎で「源助」と名乗ったことはない、ばかりか
歴史新書刊の『戦国武将と男色』によると
宛名の名字は「原物の苗字を消して」書き変えてあるとか。
弥七郎との男色遊びにうつつを抜かしていたことを疑われ、口うるさい老臣=源助に咎められた。
その弁明のため弥七郎を尋問に来させようとしたところ断られたとする、
いわば弥七郎と男色関係になってないただ親しくしょうとしていただけだが迷惑をかけてしまったという
反省と釈明文だったのではないか、としている。
その老臣とは山本勘助だろうと。
勘助は源助を名乗っていたし、そしてそれがすごいシックリときた。
0230人間七七四年2014/01/28(火) 20:42:55.07ID:hQLvISrN
これは慶長11年(1606)の事である。

この頃、江戸の普請が行われていたが、福島左衛門大夫(正則)から、池田三左衛門(輝政)へ
言い遣わした事があった。

それはどのような事かといえば、福島正則の下女が逃亡し、池田輝政の屋敷に居たのであるが、
ある時福島家の中間が、池田家の屋敷の門前を通った時に彼女の姿を見つけ、とっさに追いかけ
台所の前で押し倒しこれを捕らえた。しかしここに池田家の侍や中間が出てきて、狼藉者であると
この中間を捕らえて監禁した。

福島正則はこの事を聞いて、この様に言った
「私は今回国を出立する時、家中の上下にこのように命じた。江戸の普請の最中、喧嘩を致してはならない。
頭を張られても堪忍した輩には、褒美を与える、と。
そしてもし喧嘩を仕掛けたものには、一族妻子まで同罪にいたすと命じた。
そのような所にこんな事件が起こり、是非に及ばぬ。
どうか、三左衛門の屋敷に搦め置かれている中間、並びに逃亡した女をお返し頂きたい。」

この事を使いを以って申し入れ、彼らが返還されると即座に首を刎ねた。
そして、その中間を捕らえた池田輝政の中間たちに対しては、かまわないので折檻などしないようにと、
正則より申し入れた。

この正則の対応に、池田輝政は大変神妙なご存分であると感心し、福島正則の屋敷に自ら出向き、
謝礼に及んだ。

また正則も翌朝輝政の屋敷を訪れ、
「昨日御出になられたことは忝い事です」と述べ、双方の言い分も全て相済んだ。

この池田輝政、福島正則は短慮かつ荒々しい人で、その被官以下常に戦慄していたのだが、
今回このように、神妙に紛争を治めた事は、あまりに奇特な事であったため、時の人たちは
これに感じ入り、また有る者は、「時分を待っているのだろう」と言ったという。

(当代記)

紛争になりそうな事件を平穏に治めたら治めたで、逆に話題になってしまったというお話である。
0231人間七七四年2014/01/28(火) 20:50:28.02ID:X4gEuo5r
伊奈昭綱の時にこそ平穏におさめとけよ
0232人間七七四年2014/01/28(火) 22:06:47.72ID:M0Bu/3yb
市松さんのいい話を初めて目にしたかもしれないw
0233人間七七四年2014/01/28(火) 22:19:06.98ID:C5DCxId0
武家は屋敷に駆け込んで来た者を一度匿ったなら見捨てないって暗黙の風習あったよな?
政治的な力で必ずしも守られるわけではないが…
鍋島家と加藤(清)家もそれで揉めたよね
この話は時期が時期だけにってことかな
0234人間七七四年2014/01/28(火) 22:22:38.43ID:Y0k8Yh2o
>>229
まあ昔から今に至るまでそっちの人たちは
「あの有名人も男色だった」って創作するのが好きだしな
0235人間七七四年2014/01/28(火) 22:34:32.89ID:4y4SD1WI
この時は酒が入ってなかったんだろう
0236人間七七四年2014/01/28(火) 22:37:47.10ID:W2h1GP8n
>>229
高坂昌信の価値値下がり
0237人間七七四年2014/01/29(水) 01:06:36.35ID:4N27C86U
>>224
戦後でござるか
0238人間七七四年2014/01/29(水) 01:10:36.73ID:d5QP/6IU
>>224
>>237
大宝寺の屋形号は1579年ですな
0239人間七七四年2014/01/29(水) 16:41:07.43ID:d5QP/6IU
氏家守棟の人物評

「誠ニ君々タレバ 臣々タリトカヤ 時ノ執事氏家尾張守 元来忠アリテ義アリ 謀ハ楠カ肝肺ノ中ヨリ流レ出ルカ如キモノ也」
『最上記』『続群書類従』ほか

天童合戦での延沢満延の引き込み、上山里見越後・民部親子調略、兼山の庭月広綱の引き込み、由利諸将懐柔、白鳥暗殺等「最上の勢力拡大における策謀」の多くを立案しながら、おいしいところは鮭様に譲って大樹の陰に徹した最上家の屋台骨、執事長・氏家守棟の人物評
0240人間七七四年2014/01/29(水) 16:50:47.32ID:d5QP/6IU
この人(守棟)が大崎家の氏家吉継さんみたいに動いていたら、最上家も危なかったかも…

※大崎家と最上家の先祖は元々は同じ一つの家(斯波家)
※守棟と吉継は奥羽に下向した宇都宮氏族・氏家氏の子孫(遠縁)
0241人間七七四年2014/01/29(水) 17:08:02.00ID:vQMBmOyn
氏家だと氏家直元と氏家ト全のほうが先に出てくる
0242人間七七四年2014/01/29(水) 20:03:18.92ID:KqdjWVtZ
>>229
老臣てそんな事まであーだこーだ言うのか?
0243人間七七四年2014/01/29(水) 20:04:24.54ID:LhXBngxh
男色のもつれで、殺し合いとか謀反とかもある時代だからねぇ
もっとも、新しい解釈が正しいとは限らんが
0244人間七七四年2014/01/29(水) 20:14:00.11ID:utcKB+T2
>>242
信玄の若いころの話だからねえ。

グレてた信長にガンガン言いまくった平手政秀の例もあるし
0245人間七七四年2014/01/30(木) 13:02:55.52ID:uE2pb5xB
過去ログ見ずに投稿。かぶってたらすいません。


関ヶ原の戦いの前哨戦である岐阜城の戦いで西軍は敗北、岐阜城は陥落した。

勢いに乗る東軍は、次の目標を大垣に定め、長良川の河渡の渡しにおいて
石田三成の部将・杉江勘兵衛らと交戦、これを討ち取っている。
揖斐川の呂久の渡しの守備についていた三成と小西行長は、事態を憂慮、
墨俣を守っていた島津義弘と協議し、その結果大垣城へ退くこととなった。


このとき、島津義弘はわずかな供廻りしか連れておらず、兵のほとんどは
墨俣に残っていた。石田・小西両勢が撤退してしまえば、島津勢は敵中に
孤立してしまう。おのれのみあくまでも退こうとする三成に対して、義弘の
家臣新納弥太左衛門と川上久右衛門が三成の馬の口を取り、考え直すよう
迫ったが、三成を翻意させることは出来なかった。司馬遼太郎の歴史小説
『関ヶ原』でも採り上げられている話であり、小説では卑怯と責められた
三成が馬上で「卑怯ではない、卑怯ではない」と独白する場面もある。
これがもとで義弘は三成を信頼できなくなり、合戦当日に非協力的な態度を
とるにいたる―というのが小説の筋。上記の話は実際に従軍した島津家家臣
大重平六の覚書がもととなっている。無論、三成独白の場面は司馬の創作で
ある。


一方、あまり知られてないが、こんな話も残っている。



退却が決まり、墨俣の島津勢は前線から大垣城目指して急いでいた。はや
日も暮れようとする頃、行く手より一騎の武者が駆けてくるのが見えた。
その出で立ちは、黒の具足・水牛の角の立物の兜を被り、供廻りも従えず
ただ一騎のみで急ぎ駆けてくる…。

「あっ、あれは治部少輔殿だ」

そう、三成であった。

島津勢が墨俣からの退却に難渋していると聞き、見舞いに駆けつけたのだ。


出典は、これも島津側に残った神戸久五郎の覚書。


二つの記録に登場する三成、まるで正反対w。
ひょっとしたら、先の話は島津家がお家のために創作したのかも。
0246人間七七四年2014/01/30(木) 13:15:18.76ID:pnHGcZ8r
島津義弘は最初から東軍が勝つと思っていたんだよな
で東軍に入りたかったけど、ご存知の通りでご破算
0247人間七七四年2014/01/30(木) 13:18:47.90ID:pZ7zDfLS
検地で三成と親しかったし、もとから西軍派だったけど負けたから死人に口なしってことで
西軍についた責任を鳥居におっかぶせただけじゃないか
0248人間七七四年2014/01/30(木) 13:45:19.32ID:9Cqd3mn5
義弘は最初から中央の要請で上杉征伐行くつもりで大坂行ったらきな臭いことになってたからやむなく流れで入っただけでしょ

三成に協力してくれなんてことは一度も連絡されてないし西軍なんてもんは知らんよ
0249人間七七四年2014/01/30(木) 14:47:53.84ID:pnHGcZ8r
井伊の赤備え VS 島津ステガマリ は関ヶ原のクライマックスにふさわしいね
0250人間七七四年2014/01/30(木) 16:18:08.13ID:HkdSXETq
守棟を他人に説明するときは

最上の執事
南条くん…鮭様
ヤマオカ…守棟

最上家の黒執事
シエル・ファントムハイヴ…鮭様
セバスチャン・ミカエリス…守棟

伊達家で言うなら片倉小十郎

…どれが手っ取り早いんだろう…
0251人間七七四年2014/01/30(木) 16:19:26.00ID:HkdSXETq
小田家で言う菅えもん?
0252人間七七四年2014/01/30(木) 16:26:47.81ID:gVogvtOD
氏家守棟
ウジ・ヤモリ・棟
と読んだら怒られるな
0253人間七七四年2014/01/30(木) 16:26:51.41ID:8Eq9Z+rj
>245
司馬の小説でその後の話も載ってたような。

島津見捨てて置いて帰ったけど、やっぱヤバイというので様子を見に行ったって感じで。
0254人間七七四年2014/01/30(木) 17:25:29.40ID:2gxSQ0ZA
やるおが鮭様でやらないおが光安さん?
0255人間七七四年2014/01/30(木) 17:35:31.66ID:Ygv7vstz
>>253
色眼鏡で三成見てるなあ。
それでなくては小説家になれんのかな?
0256人間七七四年2014/01/30(木) 17:58:30.35ID:AuvVqLon
>>255
色眼鏡って言うかどっちも資料に残ってる話をミックスさせただけじゃないの?
0257人間七七四年2014/01/30(木) 17:59:03.27ID:YH16w5ma
ミックスさせればそうなるよな
0258人間七七四年2014/01/30(木) 18:15:28.36ID:4KLIDOmA
>>233
立花家の道雪の甥の立花統春が、加藤家から逃げてきた罪人を匿ったことで
騒動になって切腹した話もあるね
0259人間七七四年2014/01/30(木) 18:38:04.13ID:HkdSXETq
>>254
つ「やる夫が山形城に生まれたようです」
0260人間七七四年2014/01/30(木) 22:49:05.67ID:w60+8gyk
>>245
水牛の角で黒田長政が単騎で突撃してきたかと思った
0261人間七七四年2014/01/31(金) 20:37:10.35ID:cr09cwaY
流れを読まずに申し訳ないが、衝撃を受けた話を見たので投下

高橋紹運は岩屋城にて壮絶な最期を遂げた際にこんな話が残っている

いよいよ自刃の際に
「火を放って死体を焼き、首を敵に渡さないように致しましょう」という意見があった。

それを聞いた紹運はこう答えた。
「その儀無用である。そのまま敵に首をとらせてこそ義を守って討死した事が分る。
死体が見えなければ逃げたと思う者もあろう。武士は屍を晒さぬもの、というが
それは死ぬ場所によるのだ。敢えて首を取らせよ。」

(筑後実記)
0262人間七七四年2014/01/31(金) 20:39:10.97ID:QpF9bl2g
自分の首を取らせる事が義を守った証明になるか
俺の首も・・・誰もいらないか
0263人間七七四年2014/01/31(金) 21:31:15.96ID:Xg1VsbmI
同じ義を守ったと言うのでも
戦場や志半ばで死ねば義の人って言われるけど
下手に生き残ったりすると胡散臭く言われるんだよな
0264人間七七四年2014/01/31(金) 21:47:20.30ID:xSFv6YZ/
数年前に見た赤穂浪士の映画思い出した。
生き残った赤穂浪士の苦労をことさら大きく描いた作品だったよ。
まあでも派手に討ち死にした軍勢のなかで生き残ると肩身狭い場合もあるのかもしれないね。

討ち入りした四十七士には武士だけでなく町人たちからも助命嘆願が出たけれど、
あまりにも武士らしい討ち入りを果たしてしまったから余生で傷がつくよりは、
武士らしいままで終わりにしようって幕府の武家的な温情からの助命嘆願は受けなかったという話もあるし
0265人間七七四年2014/02/01(土) 01:27:41.59ID:az4wvYAw
>>262最後まで本分を全うした末なら貴殿の首にも義を貫いた勇士としての価値がある。

有り難くわしがいただこうぞ?
0266人間七七四年2014/02/01(土) 17:35:37.15ID:PQLhydbM
>>240
主君が分家すると、譜代家臣も同じように分家してついていくよね。
河内畠山と能登畠山なんかそうだし、そもそも越後守護上杉と越後守護代長尾もそうか。
0267人間七七四年2014/02/01(土) 22:16:08.19ID:VjFREPUp
>>261
本能寺で焼け死んだ織田信長くんをディスってますなこれは さすが武神
0268人間七七四年2014/02/01(土) 22:27:15.63ID:MTNyMZiK
>>266
遊佐とか温井とか名前だけ見るとどこの畠山家臣か分からなかったりする
0269人間七七四年2014/02/01(土) 22:29:54.54ID:PTa4V7PY
>>267
>それは死ぬ場所による

本能寺のような場所と比べたらダメでしょ
0270人間七七四年2014/02/01(土) 22:31:46.12ID:1XTGgDWv
>>267
っていうか、高橋紹運のような「部将」と、信長みたいな「大将」じゃその死も意味が違うよ
0271人間七七四年2014/02/01(土) 23:03:22.69ID:MGmk0fOq
信長が首取られた都で晒し首にされるのは確実

中川清秀がラスボスに騙される事もなくなって
光秀が山崎で善戦する可能性もあった
0272人間七七四年2014/02/01(土) 23:17:13.48ID:PTa4V7PY
>>271
流石にその頃の機内は情報が落ち着いてきてるので信長生存なんて誰も信じてないと思われ
0273人間七七四年2014/02/02(日) 01:11:52.29ID:ldaR4LiS
>>266
山県有朋は安芸武田家の家臣筋の山県氏出身だっけ
0274人間七七四年2014/02/02(日) 03:11:42.28ID:esxUOGfp
板垣とかもそういうことになってるんじゃなかったっけ
0275人間七七四年2014/02/02(日) 04:43:42.08ID:esxUOGfp
板垣は甲斐のほうなのか
失敬
0276            2014/02/02(日) 09:37:08.50ID:I4i1AjXA
>>243
信長と利家の衆道話も史料の誤読誤解によって生じた出鱈目ネタらしい
0277人間七七四年2014/02/02(日) 13:43:02.89ID:OB4Ti4Gk
あれは利家夜話のせいなんじゃ…
0278人間七七四年2014/02/02(日) 14:11:52.05ID:lcoNgjKK
>>276-277
あれって、一緒に寝た仲だ。じゃなくて
若い頃は宿直して信長の身辺警護をした親衛隊員だった、という意味なんだよな
それをいいようにはき違えたモノだからw
0279人間七七四年2014/02/02(日) 18:47:15.65ID:ylAObyzl
本当かよそれ
俺は信じないぞ
0280人間七七四年2014/02/02(日) 22:28:17.22ID:lcoNgjKK
本当だよ
原文見たって衆道を示す特別なことは書かれていない
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