戦国ちょっといい話39
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0001人間七七四年
2013/12/28(土) 15:41:31.69ID:m9sYieeK戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1377700193/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386399929/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0013人間七七四年
2014/01/02(木) 00:14:26.02ID:/dx51KMg0014人間七七四年
2014/01/02(木) 03:27:21.85ID:oDT6Cc1dそれと侍女の話だと石田方は稲富を連れて引き上げてるんだよね
ガラシャをはじめとした面々ははやまったのかねえ
0017人間七七四年
2014/01/02(木) 19:38:38.07ID:50GdH7Yn『一、以下のことは私の願いであります。
秀頼様はご幼少の間は、江戸か、もしくは伏見において、内府様(家康)のお側に
しかと置き申し上げて、立派に御成人なされれば、その時はいかようにも、内府様の
ご分別次第にお取り立て差し上げれば良いと思います。
また、いかに太閤様の御子であるとはいえ、日本の置目を執り行えるような人物で
なければ、内府様はそれを判断され、2,3ヶ国も与えおくべきでしょう。そのように
進めるのが、秀頼様のご進退として良き判断だと考えます。
何故なら、今のように大阪の方にふらりと置かれたままでは、時勢によって、世のいたずら者共が
出てきて、秀頼様をその主などと担ぎ出し、謀反を起こすこともありえます。
そんな者達の為に、何もご存知なく秀頼様が腹を切る事態になれば、太閤様の亡魂のためにも
悪しき事だと思っています。
一、私ではなく他人の意見のようにして、さしあてて、この意見を、見計らって内府様に申し上げて頂きたいと
思います。第一、これは秀頼様の御為であると考えます。
本佐(本多佐渡守正信)などには、戯言のようにしてでも是非語って頂きたく思います。』
(歓心寺文書)
有名な、伊達政宗による、豊臣秀頼の扱いへの提言である。
0018人間七七四年
2014/01/03(金) 12:32:54.37ID:Ktn9bM4a0019人間七七四年
2014/01/03(金) 17:51:27.77ID:0glh2iE30020人間七七四年
2014/01/03(金) 19:04:01.12ID:5A9KPlJT0021人間七七四年
2014/01/04(土) 08:48:37.24ID:5WRZvM+z0022人間七七四年
2014/01/04(土) 10:03:15.59ID:xcsPZ33V0023人間七七四年
2014/01/04(土) 11:53:46.14ID:DyNSvgKB0024人間七七四年
2014/01/04(土) 17:35:46.76ID:vYuYU8Ur0025人間七七四年
2014/01/04(土) 17:36:07.44ID:99zAx3Ly鯉を料理しようとする時、活鯉だったために、跳ねてまな板の上から落ちそうになった。
それを天野は左手にまな箸を取って、落ちそうな鯉を挟み留めた。
側にいた本多正信を初め一同は感心して「さすがは料理人だ」と誉めたたえ、家康もきっと
誉めるだろうと思われた。ところが思いがけず、家康は「たわけ者め!」と言った。
この事を正信は不審に思ったのだが、その後の御話の時、家康は、
「父より優れた子であっても、他人はそのようには思わないものである。やはり父の方が優れ、
子は劣ると思うのだ。私は天下を秀忠に譲る。秀忠は私よりも優れているが、家士たちはやはり
私を優れていると思い、秀忠を劣ると思っている。
劣っていると思えば、奉公は自然と怠るものだ。家士たちが奉公を怠る時は国家が乱れる基である。
だから、私は近年、心にもない無理を言って、誉めるべきことを叱るなどして、私が秀忠よりも
劣り、秀忠が私よりも優れている事を家士たちに知らしめ、奉公を怠りなくますます秀忠に
忠勤させようとしている」
と、言った。この時に正信は先日船中で家康が天野を叱った不審が晴れたと語ったのだと、
ある老人は言った。
――『明良洪範』
0026人間七七四年
2014/01/04(土) 17:47:05.00ID:yWIQ6+Xxこの話と似ているが、変形か、それとも親子の考えの差か
0027人間七七四年
2014/01/04(土) 17:50:26.79ID:VkcpSjUk0028人間七七四年
2014/01/04(土) 18:37:30.85ID:SXPad//M家士たち「何かよく分からんが多分良い事を言ってるのだろう。さすが大御所様」パチパチ
ってなる気もする
0029人間七七四年
2014/01/04(土) 20:55:34.54ID:cd7hYlBx0030人間七七四年
2014/01/04(土) 21:30:55.15ID:NtrdJ85Fあえて老害のように振る舞う的な。
たしかに料理人はかわいそう(笑)
0031人間七七四年
2014/01/04(土) 23:07:16.23ID:4/w0EZKk0032人間七七四年
2014/01/04(土) 23:11:38.81ID:ck5o9GXj0033人間七七四年
2014/01/06(月) 13:10:46.81ID:wMc1AOmC「知行配当覚
百五十石者
但 四物成
以上
坂紀伊守
(慶長七、1602)七月廿三日
(坂)光秀(花押)
志村伊豆守光安(花押)
大津助丞殿」
「大津藤右衛門とのへ
假遣之知行之事
弍百五十石 但 四物成
永代可致安堵者也 □如件
慶長十七(1612)年
五月九日 (最上)義光(小印)」
四物成は収納が四割、つまりは「四公六民」の事
大津藤右衛門は上杉家臣大津助丞の息子と思われる
最上家に尽くした者には加増有り、四公六民、多く発給された文書には「小割印」が用いられた等が文書によって判る良い見本
003433
2014/01/06(月) 13:18:41.99ID:wMc1AOmC0035人間七七四年
2014/01/07(火) 11:09:21.63ID:JlElPMt2その茶が大変うまかったので利休がもう一服 所望すると、小坊主は今度はもう少し熱くやや
少な目の茶を持ってきた。それを飲んだ利休がさらにもう一服 所望するとさらに少なくした
小服の熱い茶を持ってきた。それを飲み終えた利休は気が利く小坊主に「自分のもとで茶を
教えたいと思う」と言った。茶の道では点前よりもこういう心配りが肝要なのである。
ちなみに、この小坊主は京都の喜斎のことである。(茶道四祖伝書)
0036人間七七四年
2014/01/07(火) 11:53:55.17ID:bQYuyJ420037人間七七四年
2014/01/07(火) 11:57:29.25ID:9SLxjOdp0038人間七七四年
2014/01/07(火) 18:13:11.57ID:OC9wywyS頂き物の最上義光歴史館の平成12年の9月15日から10月22日までの約一ヶ月の間にあった特別展の出品目録より
・「慶長鎮東軍鑑」、・最上家伝「家傳覚書」、・「最上義光物語」、・「最上合戦記」、・「加藤掃部宛江口光清書状」、・「本村造酒他宛直江兼続書状」、・「成沢道忠像」、・「留守家文書」、・お東方所有「能面」、・山形大学附属博物館所蔵「長谷堂城大手門扉」
また特別展ならではか
・山野辺義忠所有「来國次刀」、・最上義光奉納「(大日輪最上)軍旗」、・志村光安所有「甲冑」、・志村光安所有「馬具」、・志村光安所有「火縄銃」、・加藤掃部所有「甲冑」
上杉軍の展示から
・上杉景勝所有「甲冑」、・直江兼続所有「甲冑」、・前田慶次所有「甲冑」、・(別な)前田慶次所有「トッパイ形兜」
…他にも目録に出品名はありますが、個人蔵や寺社蔵、他の博物館や史料館の収蔵品に世間に余り知られていなかった最上家関連のお宝が
これだけ集まった上に展示されていた実績のあった良い話って事で
…展示品の所有権他権利問題やらからで、画像や図版が入手出来ないのが哀しい…
0039人間七七四年
2014/01/07(火) 18:32:46.38ID:OC9wywyS最上家、最上義守、最上義光
楯岡満茂、志村光安、鮭延秀綱、延沢光昌、氏家光棟、加藤清次、池田盛周、松根弘親、鳥越家、最上家足軽胴丸他と
結構数は遺ってるのになかなか一堂に揃う機会が(大人の事情から)難しい…
0040人間七七四年
2014/01/08(水) 19:59:01.84ID:rdOem/Co「分別というものは、どのようにすればよいのでしょうか?」
隆景は答えて
「それは仔細もありません。ただ、久しく思案して、遅く決断するのが良いのです。」
長政はまた質問した
「分別するにおいて、肝要なことはあるのでしょうか?」
隆景は答えた
「あります。分別の肝要は『仁愛』です。どんな事であっても決断するときに、あわれみの心をその基礎において分別すれば、
その思慮に理屈に合わないところがあったとしても、最も良い判断から遠く離れることはありません。
逆に、仁愛のない分別は、才覚がどれだけ巧みであったとしても、みな道理に合わない間違いである。そのように
知られるべきです。」
(黒田家譜)
小早川隆景の考える、決断に必要なことである。
0041人間七七四年
2014/01/08(水) 21:38:02.33ID:nBPO5RDF0042人間七七四年
2014/01/08(水) 21:44:01.61ID:AXECxBXf0043人間七七四年
2014/01/08(水) 22:30:32.10ID:gy+T4pSw0044人間七七四年
2014/01/09(木) 00:11:32.93ID:8qqHtktQ0045人間七七四年
2014/01/09(木) 01:00:37.04ID:H1szDz4j0046人間七七四年
2014/01/09(木) 02:45:38.01ID:HtPcuGZB0047人間七七四年
2014/01/09(木) 13:22:00.35ID:y4Sym+yU0048人間七七四年
2014/01/09(木) 18:26:43.94ID:H1szDz4j0049人間七七四年
2014/01/09(木) 18:40:47.25ID:TKWnZxej0050人間七七四年
2014/01/09(木) 20:37:49.25ID:3tYSG7jwあらかじめ自分の行動を定めておけば、その時になって慌てることなく、粗略になることはないと
言われていた。これは古語に言う、『事前に定まれば躓かず、事前に定まれば困らない』と
同じ意味であろう。
この隆景という人は普段から虚言を言わず、少しのことであっても人と約束したことは
決して違えなかったため、人々は彼をただの人ではないと考えた。
備後の三原に隠居した後は、慶長元年に足利学校の玄修軒を招き、学問所を建設し孔子の像を安置し、
若者たちに学問を進めさせた。
ある時、緊急のことがあって、右筆に物を書かせたのだが、この時「急用のことである。
慌てず静かに書くべし」と言われた。
隆景はその気質、穏やかで静かであり、才知を外に輝かせるような事はしなかった。そのため
彼を知らない人には、最初に合うと心の鈍い、愚かな人のように映ったのだという。
古語に『大智は愚なるが如し』というが、これはこのことであろう。
また天性、智慮深密にして沈静温厚であった。
小早川隆景が亡くなった後、ある時安国寺恵瓊が、黒田如水の元に来て物語したことがあった。
このとき如水はこう言った。
「隆景殿が亡くなって、日本では賢人が絶えてしまった。この人の存在は毛利家にとって、
船にとっての船頭であった。彼によって中国はよく治められていた故に、亡くなられたと雖も、
今も生前と変わらないのは、ひとえに隆景殿の力の残りである。
例えば船を漕いでいて、にわかに船を止めたとしても、それ以前に艪によって作られた推進力が残っていて、
五間十間はその船は先に進む。これと同じことである。
毛利輝元殿も、隆景殿の遺産によって、今までは見事に見える。しかし今後は、輝元殿自身の思案が
大事になるだろう。」
小早川隆景には、普段から書かれた書類は多かったのだが、その死の前に、あらかじめ尽く
焼き捨てた。どのため、一巻も今に残っていない。
(黒田家譜)
殆ど聖賢小早川隆景伝と化した、黒田家譜の、隆景の死を悼む一節である。
0051人間七七四年
2014/01/09(木) 21:16:33.73ID:GtHaNkcS0052人間七七四年
2014/01/09(木) 23:37:34.60ID:954hZ8z00053人間七七四年
2014/01/10(金) 00:59:05.06ID:iGZ+576x焼き捨てた。
なんて勿体ないことを・・・後世の人のために残しといてくれりゃいいのに
0054人間七七四年
2014/01/10(金) 08:32:56.58ID:E1IeR+Pa実際そういうことあるしなw
万巻の書を読み尽くしてきたじっさまが賢人かというとめんどくせーだけの奴だったりしてw
0055人間七七四年
2014/01/10(金) 10:31:08.13ID:GlnBMz9t0056人間七七四年
2014/01/10(金) 10:48:18.57ID:9+URQCys0057人間七七四年
2014/01/10(金) 11:39:14.47ID:5wHJfV0Wそういう見通しが利かず、西軍についても結局積極的なのか寝返るのか
どっちつかずの中途半端な行動で終わるのがテルクオリティ
0058人間七七四年
2014/01/10(金) 12:55:04.68ID:9gOATlvrテルが石田をそそのかして、敗戦濃厚となるや石田や安国寺に全責任押し付けた、
ならむしろよく逃げたもんだと
0059人間七七四年
2014/01/10(金) 13:06:21.19ID:ykVO0jjq0060人間七七四年
2014/01/10(金) 13:40:39.32ID:jRM3ntvJ0061人間七七四年
2014/01/10(金) 14:04:55.09ID:qNsCaAQ10062人間七七四年
2014/01/10(金) 15:13:54.86ID:Fuuj+/DJそれで本当に蜂起したとき、会津へ向かってる暗黒寺が近江あたりで勝手に引き返してテルを二重召還した
こういう事情でテルはすごい速さで大坂入りした有能な人物のようになった
さらにあろう事か三奉行が石田に説得され公式戦争と化し、テルも聞いてるうちにもっともな気がしてきたので大将に収まったようだ
0063人間七七四年
2014/01/10(金) 18:46:03.21ID:Y3JDfVDJ歴史は随分と変わったんだろうな
0064人間七七四年
2014/01/10(金) 19:46:24.42ID:7MIMpHhj0065人間七七四年
2014/01/10(金) 23:05:47.16ID:eJKXNMqT日本を東西で徳川と分けるつもりだったのか
0069人間七七四年
2014/01/11(土) 13:38:58.41ID:M4Tq2IM4秀次は長久手のやらかしで評価低いがそのあとの四国攻め北条攻めではしっかりとこなしてる。そして公家からの評価高く、近江八幡も何事もなく治めていたどころか民衆からの評判よし。有能っぷりをラスボスが警戒してた説があるよ。
0070人間七七四年
2014/01/11(土) 13:54:29.86ID:5FuTbx2o0071人間七七四年
2014/01/11(土) 14:09:01.14ID:87W7T/cE0072人間七七四年
2014/01/11(土) 15:34:32.54ID:11NUCyDg太閤様から訓戒出されてるから、自らの立場に増長してたのは本当でしょ?
五条の第一条に、
『近頃、おまえはわたしの甥であることで日増しに増長し、
他人に対してしばしば傲慢に振る舞うとのこともってのほかである。
誰に対しても、低姿勢に接し、身を慎むことこそが、このわたしの甥としての振る舞いだろう。
誰からもさすが秀吉様の甥子様と崇め敬われるような心がけをもつように』
で、あと四条あるがそこは省略して、
『この五箇条のとおりに、今後は心を入れ換えられないのであれば、
八幡大菩薩も御照覧である。必ず人手にかけず、わたし自ら手討ちにする。
くわしいことは宮部善浄房と蜂須賀彦右衛門から聞いてくれ』
で閉めてある。
ちなみにこの訓戒状が秀次16歳のとき(切腹は28歳)
0073人間七七四年
2014/01/11(土) 15:51:22.22ID:11NUCyDg0074人間七七四年
2014/01/11(土) 16:23:44.44ID:dAdXRfP+0075人間七七四年
2014/01/11(土) 16:34:08.72ID:hkt37W6I0076人間七七四年
2014/01/11(土) 16:44:56.35ID:OWxl98js0077人間七七四年
2014/01/11(土) 18:56:27.88ID:M4Tq2IM40078人間七七四年
2014/01/11(土) 19:49:30.96ID:cTKZ0AnI0080人間七七四年
2014/01/11(土) 20:00:42.90ID:BiStOi140081人間七七四年
2014/01/11(土) 23:02:47.49ID:xp+4EPMR0082人間七七四年
2014/01/11(土) 23:28:01.16ID:2r6hMVrjままなりません。殊に一国を治めようと思う身分であれば、いっそう心がけなければならないことです。
天道に叶うのは、身の我儘をいたさない堪忍です。
地の理に叶うのは、先祖からの一郡、一域を失わないための堪忍。
人の和を得るのは、自分の気ままを出さない堪忍です。
その他、身体の尽くで、堪忍を用いることが大切なのです。』
慶長17年(1612)2月25日付、徳川家康が、秀忠の正妻崇源院(江)に宛てた教訓上の一節である
0083人間七七四年
2014/01/12(日) 00:50:31.87ID:z0+u1h7t0084人間七七四年
2014/01/12(日) 01:48:31.75ID:KX5T3hIg0085人間七七四年
2014/01/12(日) 10:04:36.90ID:uO5dnJqc0086人間七七四年
2014/01/12(日) 10:26:12.52ID:PEYCJOzI0088人間七七四年
2014/01/12(日) 15:38:42.61ID:2v0Zvogn男色関係を結んだのですか?
それとも、アナル・セックス無しのセックス・フレンドになっただけなの?
どちらでせうか?
0089人間七七四年
2014/01/13(月) 02:32:25.79ID:+iF04V+p0090人間七七四年
2014/01/13(月) 02:33:47.94ID:43eNQUIh0091人間七七四年
2014/01/13(月) 10:11:31.85ID:cD6+1UW4実は言及してるんだよなあ。というかこの慶長17年の教訓状はこっちがメインだけど
『幼少の者が利発だからといって、それを褒めたて、立木のままに育ててしまえば、成人した頃には気ままで我儘となり、
後々は親の言うことも聞かなくなるものです。
親の言うことさえ聞かないのですから、召し仕えている者の意見など、なおもって聞かなくなります。
そのようなので、後には国や郡を治めることはおろか、我が身さえ立てられなくなってしまいます。
一体、幼少の頃は何事も素直なものなのですから、どのような窮屈な育て方をしたとしても、要は最初からの
仕付け次第で、外から思うほどには、大儀なことではないものです。
これを植木に例えてみますと、始めに双葉に分かれた節は、人間の産立ちと同じことですので、随分と丁寧に養育し、
もはや2,3年も経って枝葉が多くなった頃、添え木をして真っ直ぐになるように結い立て、そのうちに、悪しき枝は
芽を出した時に切り取り、年々、この通りに手入れいたしましたら、成木になった頃には、真っ直ぐな良い木に成ります。
人もその通りです、4,5歳からは添え木となる人を付けおいて、悪しき枝が、我儘に育たないように致せば、
後に素直によき人となるものです。幼少の頃に育ちさえすれば良いと考えてしまい、我儘にさせたままおいていながら、
年頃になって急に異見をしても、我儘の枝ばかりが繁り、本心・本木には癖がついていて、それは治らないものです。
この事については、私には今もって思い当たることがあります。三郎(信康)の事ですが、この子が産まれた時は、
私も齢が若かったので子供が珍しく、その上ひがいす(痩せて産まれた子)だったので、育ってくれさえすれば良いと
考えてしまい、気の詰まりそうなことはさせず、気ままに育ててしまいました。
そのため成人してから急に色々と言い聞かせたのですが、とにかく幼少の頃に行儀作法もゆるやかに、放任して育てて
しまいましたので、親を敬することもせず、気安く思って、「あれはこれだから」「これはあれだから」などと言い訳ばかりいたし、
後には親子の言い争いのようになりまして、何度言っても聞き入れること無く、かえって親を恨み、また親どころか、
そもそもの自分の生まれつきが悪いと思うようになっていきました。
わたしはこれに懲りましたので、他の子供は幼少から、私の前でも子供に行儀作法を良く良く仕付けてくれる者に言いつけておき、
もし少しでも不行儀、我儘なことが有れば、私に隠さず、いちいち知らせてくれるように言いつけておいて、それを伝え聞き、
私の前に出た時には、毎回解るように言い聞かせ、あるいは叱り、また「これはそのようにはしないものだ」といちいち
言い聞かせるようにしましたので、みな陰日向なく素直に育ってくれました。』
この時徳川家康69歳。自身の失敗も踏まえた子育て論である。
0092人間七七四年
2014/01/14(火) 02:12:05.68ID:rtHIyGi0十で神童十五で才子二十過ぎればただの人、とはよくいったもので
小さいうちから道理ってもんを教えておかないとあとが大変よね
親もわきまえておかなきゃならんから難しいんだろうけど
0093人間七七四年
2014/01/14(火) 06:56:37.25ID:E1e17gad黒船(スペイン・ポルトガル船)の敵であると言われた。船中には具足や大鉄砲が多数あった。
具足は腰より上のものばかりであった。
内府公(徳川家康)はこれを見聞し、上から下までこれを見て、彼らに猩々皮以下の売買に関して
問題はない事を伝え、これを伝えるための帰国を命じた。
この船は唐船(中国船)の敵でもあったので、「誅伐を命じるべきなのに」と人々はみな
この措置に関して言った。
(当代記)
徳川家康の、イギリス船来航への対応である。
0094人間七七四年
2014/01/14(火) 14:42:24.24ID:CCjADilsイエズス会からのリーフデ号は海賊船だから処刑してくださいの要請無視したし
0096人間七七四年
2014/01/14(火) 20:53:03.42ID:YfpHYSoA0097人間七七四年
2014/01/14(火) 23:33:24.02ID:ArQiQufr0098人間七七四年
2014/01/15(水) 00:47:43.90ID:Ikn+QHqzカトリックから脱会してイギリス国教会を立ち上げたりとスペイン、カトリックとイギリス、オランダは対立していた。
で、ウィリアムも参戦したアルマダ海戦へと繋がる。
リーフデ号漂着した件を担当したのが権現様。
そこでイエズス会からリーフデ号は海賊船だと申し入れがあるが本当か?と聴かれ、
ウィリアムたちが自分たちは欧州の宗教争いには関係ないと堂々と述べた姿を権現様が気に入って、
その後もイエズス会から申し入れは続いたが、リーフデ号を日本で裁くことはしなかった。
って話がある
0099人間七七四年
2014/01/15(水) 09:17:22.95ID:PNmpsLYe0100人間七七四年
2014/01/16(木) 07:41:36.23ID:RJKrsCC3下々の者から子供たちまでからかって、
『保科弾正鑓弾正、高坂弾正逃げ弾正』(保科弾正は他人を先に”やる”弾正、高坂弾正は逃げ出す弾正)
と言いふらされたものだ。
私の家は春日源五郎の名を代々継いでいたと言っても、父は春日大隅という甲州井沢の大百姓の
出身であり、私は幼少から故郷を離れ、姉婿と田地のことで公事(訴)に及び、私が負けた時に、
この公事の場からご奉公の命を頂いた。
この時信玄公は22歳、わたしは16歳で、最初は小人(雑役)であったのに、幸運にも廿人衆(徒歩で
軍隊の先導をする下級武士)を経て、はからずも1ヶ月も経たないうちに近習の地位に任じられ、
信玄公の側近く、御膝元に奉公する身となったのだ。なんという幸運な機会に恵まれたことだろう。
その後は、ご意向に沿うことが出来ず仮にも一月もの間仕事を与えられない、などという事もなく、
無難に引き続き奉公いたし、春日弾正と称して尼飾城主に任じられ、今は海津城主の高坂家を継いで
高坂弾正と呼ばれるに至った。
まことに、ご奉公に出仕してから24歳までは、同輩には「あのようなマヌケ者の弾正を昇進させるのは
ひとえに信玄公の見込み違いだ」などと、あちこちから言われたものであった。しかし、この事は
私にとって薬となり、信玄公の意に沿うように。一段とご奉公に精を入れたのだ。
(甲陽軍鑑)
甲陽軍鑑より、高坂弾正が自身の立身を語った一節である。
0101人間七七四年
2014/01/16(木) 20:34:42.42ID:9idnpS5s0102人間七七四年
2014/01/16(木) 21:18:55.21ID:QyqN7lNg言わせんな恥ずかしい!
0103人間七七四年
2014/01/16(木) 21:36:55.83ID:0WnoPM870104人間七七四年
2014/01/16(木) 21:56:03.48ID:XRYkZD9m判明していて、なおかつ高坂弾正は「源助」と名乗ったことはないので、この書状は高坂弾正宛ではないと
現在はほぼ証明されてる。
0105人間七七四年
2014/01/16(木) 23:08:01.59ID:A2ZHz1rm0106人間七七四年
2014/01/17(金) 11:27:50.79ID:ME3V0Bit0107人間七七四年
2014/01/17(金) 15:47:17.60ID:YeGeqghYもし存分に骨身を傷つけるほどの力に任せて勝って喜ぶことになっても、
その一方で自分より力の勝る人には負けて身骨を傷つけられて苦しむのだ。
世間の人の心も「人を謗ろう、人が悪い」と思う人は、必ず自分の身に悪い。
自分より弱い人を押さえて滅したとしても、一方で自分に勝る人がいて
自分を押さえることは歴然だ。ただ「人も善くあれ、我も善くあれ」と、
思うべきである。
一、人として人のために善くあれと思うことは誠に難しいものだな。
およそ生きとし生けるものは争わないということがない。空をかける翅、
地を走る獣、螻蟻蚊虻にいたるまで争わないということがない。
だから、人として争わないことは難しい。心底では争っているけれども、
外では争わない顔をするのは礼である。これを人という。
この礼を持たずして人に向かう時は、とりもなおさず早々に共に争う。
これは人にして禽獣に近い。
――『東海夜話(沢庵宗彭著)』
0108人間七七四年
2014/01/17(金) 18:37:19.46ID:7DevHlyN0109人間七七四年
2014/01/17(金) 19:48:34.00ID:1Rx53UPY現代なら思いやりかな?
そして言うは易し行うは難しと
0110人間七七四年
2014/01/17(金) 21:10:15.38ID:yQct1QOq0111人間七七四年
2014/01/18(土) 00:00:09.79ID:Q9tscSoN酒井忠次は徳川家康の四天王とされ、井伊・本多・榊原と雄名を天下に表わしたる。
中興の祖を忠次とする。
忠次は本多忠勝に似たる豪雄ではない。
榊原康政の如く身に七十創を蒙る「曹参」の武勇にもない。
井伊直政が如き勇将の器でもない。
一言で約せば沈勇にして謀略に富し者である。
忠次の如きは将略の勇がある。
絶奇なる籌策を抱く人というべし。
本多忠勝は秀吉より源義経の家臣である佐藤忠信の兜を与えられたことがあったが、
その恩威にも心を動かさず、天下の御家人となることは彼が喜ぶ所ではなかった。
ただ、三河武士と唱えられ徳川累代の家臣と呼ばれることが、この上なき栄誉と思っている。
忠勝の勇は戦国の士に求め難きもので、忠勝の忠は全く絶倫である。
忠勝の勇は「樊噲」に適し、智は「韓信」に比す可きだ。
榊原康政は忠臣無双の将である。
英主に康政が如き臣あり、勇にして智あり。
康政の勇は人のよく知る所であり、彼の智は知らない人はいない。
井伊直政は悪木盗泉で徳川殿に仕えて二心なき武士なり。
かかる義列の直政は勇武の気性も鬼神を凌ぐ勢いがある。
長久手の役の折、この先陣に進みたるは言わずもがなの直政。
家名と共に照り輝く赤幟、赤旗、朱具足で白きは槍の身刃のみ。
この槍刀さえ一振りすれば唐紅に敵の血潮で染め上げて赤き心を表わす。
この赤隊はアサヒに輝き山よりこなたへ馳せ降り、天下の上方勢を遠慮なく縦に横にと掛け破り、
大将をあまた討ち取って、名もなき士卒は蕪大根を切るが如くスッパスッパと飛ばす。
この時より天下に轟く勇名は「赤鬼」と呼ばれるようになる。
また、士卒を率いて戦う将帥の器のみならず、打物執っても無双の武士なり。
昔日の武人が侍従といい、兵部を称するのは実に無上の栄誉であり
かかる高位の直政も君の馬前に死は塵芥より軽く、利は一足の草鞋に同じく、
婿君と仰ぐ下野守の初陣に手柄を取らせようと将たる地位を置き自ら手を下して敵に向かうは、
乳虎を叱咤する武夫の胸中に嫣然とした美人も愛してしまうであろう可憐な情もある。
直政こそ古今無類の武将と仰ぐべきだ。
0112111
2014/01/18(土) 00:18:57.12ID:Q9tscSoN・忠勝の勇は「樊噲」に適し→忠勝の勇は「樊カイ」に適し
・かかる義列の直政は→かかる義烈の直政は
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