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戦国ちょっといい話39

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0001人間七七四年2013/12/28(土) 15:41:31.69ID:m9sYieeK
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1377700193/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386399929/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0002人間七七四年2013/12/28(土) 16:43:58.47ID:Ay1S/ufz
南無八幡大菩薩
>>1のスレ立て御照覧あれ
0003人間七七四年2013/12/30(月) 08:53:18.24ID:yP9wrPun
>>1
時は年末、貸し付けの取り立てじゃ〜
0004人間七七四年2013/12/30(月) 13:48:24.29ID:+IPoNwgD
>3、前田さん乙
0005人間七七四年2013/12/30(月) 16:41:43.19ID:lRXq67Jv
時は今>>1に乙する師走かな
0006人間七七四年2014/01/01(水) 11:23:37.71ID:ue4beeVo
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386399929/146
この事により黒田如水は太閤秀吉の御前疎くなった。折節に殿中に出仕はするのだが、
久しく対面を許されなかった。

ある時秀吉は大老たちと朝鮮の軍の評議を行っていたが、如水はそれを壁越しに聞いて、
秀吉の耳に入るよう声高に叫んだ

「去年大軍を挑戦に遣わされた時に、徳川家康か前田利家、二人のうち一人を総大将として
遣わされ、万事一人の下知から出るようにすれば、軍法よく行われ滞りは無かった!

しかし、もしその両将を遣わされることが成り難いと考えられておられるのなら、
軍の道を知っている私を遣わされれば、軍法定まって上手くいくだろう。

その上で、和を以って人を懐け、朝鮮人を安堵させ日本人に帰伏させるのなら、大明を征伐するのも
容易いことである。

ところは今はどうか!?加藤(清正)、小西(行長)は若き大将で血気の勇のみしかなく、軍の道を
知らぬ。その上この両人は仲悪しきため、清正の仕置を行長が破り、行長の法令を清正は守らない。
この様に法令一様ではないために、朝鮮の人民も日本の下知法度を信用せず、頼みにならないと思い、
山林に逃げ隠れ、安心することが出来ないのだ!

日本から朝鮮への道は遠い。である以上、兵糧や武具などを日本から安定して運送するのは難しい。
我らは朝鮮の民を懐け、元のように耕作に従事させ、敵地においても糧を得られるようにする事こそ
然るべきなのだ。なのに今は仕置悪しき為に、日本軍の通る朝鮮の三道は人民散失し、荒野となって
五穀無し。かくの如く朝鮮が既に亡国となった以上、我々には大明に入るべき基板がないのだ。

朝鮮の人民散失し、日本からの運送もまた安定するのが難しい。であれば、今後味方の大軍は
兵糧が尽き、ただでさえ異国での在陣は不自由であるのだから、士卒の苦労は耐え難いほどとなり、
殿下が考えておられる大功が成就できない!」

この声を秀吉は壁越しに聞き、尤もだと思い

「来年、もし異国に出兵するなら、わし自ら朝鮮に入るか、それが出来なければわしは上洛し、
秀次を名代として遣わすであろう。」

と言った。

(黒田家譜)

黒田如水による、朝鮮の役への批判である。統帥の不徹底が最大の問題だと認識していたのですね。
0007人間七七四年2014/01/01(水) 13:13:57.33ID:O0m81EuD
人取りの停止令さえ徹底してたら朝鮮の役は成功してたと思う
しかし例の九州勢にそれを守らせるのは前田や徳川でも力不足だろうなあ
0008人間七七四年2014/01/01(水) 14:26:59.95ID:GlJ5YPJX
はて…その程度で成功するだろうか
0009人間七七四年2014/01/01(水) 16:33:42.31ID:grFRENw+
織田有楽軒の息子左門(頼長)の家士に、常に武を心がけ、万事につけて埒が明く小身の者がいた。

傍輩たちはこの事を憎んだ。ある時、四、五人が申し合わせて銭湯の風呂に入った。
多くの人の中で、かの者は面を打たれて鼻血が流れ出た。風呂の中は暗かったので
相手が誰とも分からず、かの者は外に出て身体を拭い衣を着て、帯を締めて刀をさしはさむと、

「士の意趣は刀をもって勝負をするものぞ! 只今、拳をあげて我が面を打ったのは
女童のやり方のようである! 臆病者はまったく士の行為ではない! 志があるならば名乗れ!
名乗らなければ男とは言えないぞ!」

と、罵ったが、返答する者はいなかった。亭主が手をすってこれを止めたので、
かの者は裸者をことごとく撫で斬りにすることもなく、怒りを抑えて宿へ帰った。

それゆえに人々は口々に悪く取り沙汰した。これを聞いた左門は「かの者は平生の覚悟が良くないので、
我にまで恥辱を与えた」と言い、かの者が追放されそうなところを、

有楽軒は「『高木は風にあい、勇士は妬みにあう』と言われている。これはきっと傍輩どもの
仕業だろう。面を打つ程度の心で、名をも名乗らず黙っているのは、人知れず恥辱を与えたことを
勝ちとした臆病者だ。決してかの者が気後れしたわけではない」と言って、かの者を扶持して残した。

その後、かの者は合戦の場に赴き、大剛の働きあって名を揚げたのである。

――『武将感状記』
0010人間七七四年2014/01/01(水) 20:01:18.92ID:6qnt/20+
慶長五年、石田三成は関東へ下った大名たちの妻子を人質にとり伏見城へ幽閉しようとした。
長岡の細川屋敷が、お城に近かったから、まず細川へと人質を差し出すよう使いを送った。
忠興の妻(ガラシャこと玉)は、
「夫の留守中に、女の身でお城へ登れなどとの申しつけは迷惑でございます。断ることをお許しください」
と返答し、二度目の使いにも同様に断ったが、三度目の使いから、
「承知いただけないなら、力ずくでも召し連れます」
と言い渡されると、玉は、
「しかたありません。登城いたしましょう。ただし女の身、身支度に時間がかかります。しばらくお待ちを」
と返答して屋敷内へ引き下がり、留守家老の小笠原正斎、川北某、石見某を呼び、
「わたしが主人と夫婦になったあと、父の明智光秀が不義の汚名を被る行いをしました。
主人は父に意見をなさったのですが、父がどうしても聞き入れないので、
不義の人と縁を結んでおくわけにもいかぬと、わたしを離縁なさいました。
そのうちに、父は戦乱のなか滅亡し、わたしはさらに浮き世に身の置き所がなくなるようになりました。
しかしそのとき、主人は憐れみをかけてくださり、離縁したとはいえ一度縁のあった女を不憫にしたとなれば細川の面目が立たぬ。
あの浮き世に居場所のない女人が、細川の元妻よと言われては武士の面目も立たぬゆえ、呼び戻そう
と仰せくださりとてもうれしく思いました。(1/2)
0011人間七七四年2014/01/01(水) 20:02:54.38ID:6qnt/20+
そして主人とわたしは男女二人の子をもうけました。このご恩は生きている間にはお返しできぬだろうと常々思っていました。
そして今、お城からの要請に従い不本意ながら登城したならば、主人へのわたしの感謝の思いが立ちません。
なおかつ、主人は徳川様にお味方なされておられるのに、妻子が人質にとられたとなれば、恩愛の絆に引かれお心変わりするかもしれません。
そのようになれば、主人に裏切り者の汚名が着せられることにもなりますでしょう。
それゆえ、主人へのご恩返しにわたしはこれより自害します。妻子が死んだと聞けば、主人は深く憤りになり無二の忠節で初志を貫けるでしょう。
覚悟を決めたなら時間を無駄にしてはなりませぬ。居間にはやく枯草を積み、わたしの自害した後に火をつけてください。
召使の者たちは、思い思いのがれてもし主人に会うことがあれば、わたしの最後をくわしくお伝えしてください」
と言い、居間へ入り、十歳の娘に事をしっかり説明したあと引き寄せて刺し殺した。
そして八歳の息子に、
「そなたは武士の子供です。腹を切りなさい」
と言うと、息子は、
「わかりました。」
と答え、肌を押し開き小さな脇差を腹に突き立てた。その小さく勇ましい姿に、苦しい目を見せるよりはとすぐに首を打ち落とした。
そうしたあと自身も自害をした。
家中の者は枯草に火をつけ、思い思いに立ち働き、火の中に飛び込み殉死する者も多かったという。
このことがあったから、女子供を人質にとる風習がなくなったとのことだ 【葉隠】(2/2)

散りぬべき時知りてこそ世の中の
花も花なれ人も人なれ
(細川ガラシャ辞世)
0012人間七七四年2014/01/01(水) 20:07:03.12ID:6qnt/20+
関連逸話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?mode=m&;no=6537&cr=471d8d06b4c2f7169fde7f60df0681e9
0013人間七七四年2014/01/02(木) 00:14:26.02ID:/dx51KMg
いい話…?
0014人間七七四年2014/01/02(木) 03:27:21.85ID:oDT6Cc1d
長男の嫁御は宇喜多の屋敷に入ったんだっけ?
それと侍女の話だと石田方は稲富を連れて引き上げてるんだよね
ガラシャをはじめとした面々ははやまったのかねえ
0015人間七七四年2014/01/02(木) 08:52:55.91ID:oDT6Cc1d
ああ>>12はそのことだったのか
携帯からだとそこまで飛ばなかったから気づかんかった
0016人間七七四年2014/01/02(木) 16:31:56.29ID:9u7tv5/R
>>13
〉このことがあったから、女子供を人質にとる風習がなくなったとのことだ
0017人間七七四年2014/01/02(木) 19:38:38.07ID:50GdH7Yn
慶長6年(1601)4月21日付、今井宗薫宛て伊達政宗書状、より

『一、以下のことは私の願いであります。
   秀頼様はご幼少の間は、江戸か、もしくは伏見において、内府様(家康)のお側に
   しかと置き申し上げて、立派に御成人なされれば、その時はいかようにも、内府様の
   ご分別次第にお取り立て差し上げれば良いと思います。

   また、いかに太閤様の御子であるとはいえ、日本の置目を執り行えるような人物で
   なければ、内府様はそれを判断され、2,3ヶ国も与えおくべきでしょう。そのように
   進めるのが、秀頼様のご進退として良き判断だと考えます。
   何故なら、今のように大阪の方にふらりと置かれたままでは、時勢によって、世のいたずら者共が
   出てきて、秀頼様をその主などと担ぎ出し、謀反を起こすこともありえます。

   そんな者達の為に、何もご存知なく秀頼様が腹を切る事態になれば、太閤様の亡魂のためにも
   悪しき事だと思っています。

一、私ではなく他人の意見のようにして、さしあてて、この意見を、見計らって内府様に申し上げて頂きたいと
  思います。第一、これは秀頼様の御為であると考えます。
  本佐(本多佐渡守正信)などには、戯言のようにしてでも是非語って頂きたく思います。』

(歓心寺文書)

有名な、伊達政宗による、豊臣秀頼の扱いへの提言である。
0018人間七七四年2014/01/03(金) 12:32:54.37ID:Ktn9bM4a
良き話を
0019人間七七四年2014/01/03(金) 17:51:27.77ID:0glh2iE3
いたずら者筆頭がまーくんなのですね。わかります
0020人間七七四年2014/01/03(金) 19:04:01.12ID:5A9KPlJT
つまり…大坂だと介入しずらいので秀頼様を江戸に置いてくださいと?
0021人間七七四年2014/01/04(土) 08:48:37.24ID:5WRZvM+z
実際に起きた事を考えるとこの提言は慧眼だな
0022人間七七四年2014/01/04(土) 10:03:15.59ID:xcsPZ33V
誰かの入れ知恵入ってるっぽいな
0023人間七七四年2014/01/04(土) 11:53:46.14ID:DyNSvgKB
(俺が天下を取るには)豊臣家が存続してた方が都合がいい。疑いの目は分散させるに限るしなwそれに豊臣の次は俺か島津を潰しにかかるだろうし・・・ぐらいにしか思ってないかと。まーくんだしw
0024人間七七四年2014/01/04(土) 17:35:46.76ID:vYuYU8Ur
そらまた随分と捻くれた見方だな
0025人間七七四年2014/01/04(土) 17:36:07.44ID:99zAx3Ly
ある日、徳川家康が漁猟に出た時のこと。船中の御前で料理人の天野五郎太夫が
鯉を料理しようとする時、活鯉だったために、跳ねてまな板の上から落ちそうになった。
それを天野は左手にまな箸を取って、落ちそうな鯉を挟み留めた。

側にいた本多正信を初め一同は感心して「さすがは料理人だ」と誉めたたえ、家康もきっと
誉めるだろうと思われた。ところが思いがけず、家康は「たわけ者め!」と言った。

この事を正信は不審に思ったのだが、その後の御話の時、家康は、

「父より優れた子であっても、他人はそのようには思わないものである。やはり父の方が優れ、
子は劣ると思うのだ。私は天下を秀忠に譲る。秀忠は私よりも優れているが、家士たちはやはり
私を優れていると思い、秀忠を劣ると思っている。

劣っていると思えば、奉公は自然と怠るものだ。家士たちが奉公を怠る時は国家が乱れる基である。
だから、私は近年、心にもない無理を言って、誉めるべきことを叱るなどして、私が秀忠よりも
劣り、秀忠が私よりも優れている事を家士たちに知らしめ、奉公を怠りなくますます秀忠に
忠勤させようとしている」

と、言った。この時に正信は先日船中で家康が天野を叱った不審が晴れたと語ったのだと、
ある老人は言った。

――『明良洪範』
0026人間七七四年2014/01/04(土) 17:47:05.00ID:yWIQ6+Xx
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7972.html
この話と似ているが、変形か、それとも親子の考えの差か
0027人間七七四年2014/01/04(土) 17:50:26.79ID:VkcpSjUk
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0028人間七七四年2014/01/04(土) 18:37:30.85ID:SXPad//M
「私は近年、心にもない無理を言って」も

家士たち「何かよく分からんが多分良い事を言ってるのだろう。さすが大御所様」パチパチ

ってなる気もする
0029人間七七四年2014/01/04(土) 20:55:34.54ID:cd7hYlBx
料理人かわいそう
0030人間七七四年2014/01/04(土) 21:30:55.15ID:NtrdJ85F
二代目体制に移るとき権現様のときのほうが良かった派閥と秀忠様派閥を作らないための工夫なんだろうな。
あえて老害のように振る舞う的な。
たしかに料理人はかわいそう(笑)
0031人間七七四年2014/01/04(土) 23:07:16.23ID:4/w0EZKk
そういや如水もやってたね
0032人間七七四年2014/01/04(土) 23:11:38.81ID:ck5o9GXj
バリバリ家康派の本多親子には「権現様メッチャスゲー」にしかなってない件
0033人間七七四年2014/01/06(月) 13:10:46.81ID:wMc1AOmC
慶長出羽合戦の後で庄内に取り残された上杉旧臣への最上家からの知行

「知行配当覚
百五十石者
但 四物成
以上
坂紀伊守
(慶長七、1602)七月廿三日
(坂)光秀(花押)
志村伊豆守光安(花押)
大津助丞殿」

「大津藤右衛門とのへ
假遣之知行之事
弍百五十石 但 四物成
永代可致安堵者也 □如件
慶長十七(1612)年
五月九日 (最上)義光(小印)」

四物成は収納が四割、つまりは「四公六民」の事

大津藤右衛門は上杉家臣大津助丞の息子と思われる

最上家に尽くした者には加増有り、四公六民、多く発給された文書には「小割印」が用いられた等が文書によって判る良い見本
0034332014/01/06(月) 13:18:41.99ID:wMc1AOmC
文書1の「知行配当覚」は「知行配当之覚」の間違いでしたorz
0035人間七七四年2014/01/07(火) 11:09:21.63ID:JlElPMt2
法華寺で千利休は喉が渇いたので茶を所望すると、小坊主が大服でぬるい茶を持ってきた。
その茶が大変うまかったので利休がもう一服 所望すると、小坊主は今度はもう少し熱くやや
少な目の茶を持ってきた。それを飲んだ利休がさらにもう一服 所望するとさらに少なくした
小服の熱い茶を持ってきた。それを飲み終えた利休は気が利く小坊主に「自分のもとで茶を
教えたいと思う」と言った。茶の道では点前よりもこういう心配りが肝要なのである。
ちなみに、この小坊主は京都の喜斎のことである。(茶道四祖伝書)
0036人間七七四年2014/01/07(火) 11:53:55.17ID:bQYuyJ42
三成の三献茶とどっちが先だろ
0037人間七七四年2014/01/07(火) 11:57:29.25ID:9SLxjOdp
三成の話は>35が元ネタだといわれてる
0038人間七七四年2014/01/07(火) 18:13:11.57ID:OC9wywyS
過去の特別展の出品目録

頂き物の最上義光歴史館の平成12年の9月15日から10月22日までの約一ヶ月の間にあった特別展の出品目録より

・「慶長鎮東軍鑑」、・最上家伝「家傳覚書」、・「最上義光物語」、・「最上合戦記」、・「加藤掃部宛江口光清書状」、・「本村造酒他宛直江兼続書状」、・「成沢道忠像」、・「留守家文書」、・お東方所有「能面」、・山形大学附属博物館所蔵「長谷堂城大手門扉」

また特別展ならではか
・山野辺義忠所有「来國次刀」、・最上義光奉納「(大日輪最上)軍旗」、・志村光安所有「甲冑」、・志村光安所有「馬具」、・志村光安所有「火縄銃」、・加藤掃部所有「甲冑」

上杉軍の展示から
・上杉景勝所有「甲冑」、・直江兼続所有「甲冑」、・前田慶次所有「甲冑」、・(別な)前田慶次所有「トッパイ形兜」

…他にも目録に出品名はありますが、個人蔵や寺社蔵、他の博物館や史料館の収蔵品に世間に余り知られていなかった最上家関連のお宝が
これだけ集まった上に展示されていた実績のあった良い話って事で

…展示品の所有権他権利問題やらからで、画像や図版が入手出来ないのが哀しい…
0039人間七七四年2014/01/07(火) 18:32:46.38ID:OC9wywyS
最上家と最上旧臣の甲冑も
最上家、最上義守、最上義光
楯岡満茂、志村光安、鮭延秀綱、延沢光昌、氏家光棟、加藤清次、池田盛周、松根弘親、鳥越家、最上家足軽胴丸他と
結構数は遺ってるのになかなか一堂に揃う機会が(大人の事情から)難しい…
0040人間七七四年2014/01/08(水) 19:59:01.84ID:rdOem/Co
ある時、黒田長政が小早川隆景に尋ねたことがあった
「分別というものは、どのようにすればよいのでしょうか?」

隆景は答えて
「それは仔細もありません。ただ、久しく思案して、遅く決断するのが良いのです。」

長政はまた質問した
「分別するにおいて、肝要なことはあるのでしょうか?」

隆景は答えた
「あります。分別の肝要は『仁愛』です。どんな事であっても決断するときに、あわれみの心をその基礎において分別すれば、
その思慮に理屈に合わないところがあったとしても、最も良い判断から遠く離れることはありません。

逆に、仁愛のない分別は、才覚がどれだけ巧みであったとしても、みな道理に合わない間違いである。そのように
知られるべきです。」

(黒田家譜)

小早川隆景の考える、決断に必要なことである。
0041人間七七四年2014/01/08(水) 21:38:02.33ID:nBPO5RDF
もはや聖書の一節と化してる
0042人間七七四年2014/01/08(水) 21:44:01.61ID:AXECxBXf
論語にありそうな問答だよな
0043人間七七四年2014/01/08(水) 22:30:32.10ID:gy+T4pSw
?「叔父上に仁愛なんて無いだろ」
0044人間七七四年2014/01/09(木) 00:11:32.93ID:8qqHtktQ
隆景「まだ殴られ足り無いようだなTERU」
0045人間七七四年2014/01/09(木) 01:00:37.04ID:H1szDz4j
馬鹿を折檻した後には鮭弁当でもいかがですか?
0046人間七七四年2014/01/09(木) 02:45:38.01ID:HtPcuGZB
デカくなった家を纏める立派な当主となるべく鉄拳制裁も辞さない教育というのも、纏めきれずに潰れたら腹切るか、一族郎党路頭に迷うことになるからそれはそれで仁愛だからね、仕方ないね
0047人間七七四年2014/01/09(木) 13:22:00.35ID:y4Sym+yU
絶対親父に聞けない質問....
0048人間七七四年2014/01/09(木) 18:26:43.94ID:H1szDz4j
両川、雷神様、小十郎さん、ほかに戦国の教師はおったっけ?
0049人間七七四年2014/01/09(木) 18:40:47.25ID:TKWnZxej
小田氏治・大友義鎮・畠山義継・一条兼定
0050人間七七四年2014/01/09(木) 20:37:49.25ID:3tYSG7jw
小早川隆景は、明日成すべき事は、必ず先ず今日の内にそのことを思案し、様々に想定して、
あらかじめ自分の行動を定めておけば、その時になって慌てることなく、粗略になることはないと
言われていた。これは古語に言う、『事前に定まれば躓かず、事前に定まれば困らない』と
同じ意味であろう。

この隆景という人は普段から虚言を言わず、少しのことであっても人と約束したことは
決して違えなかったため、人々は彼をただの人ではないと考えた。

備後の三原に隠居した後は、慶長元年に足利学校の玄修軒を招き、学問所を建設し孔子の像を安置し、
若者たちに学問を進めさせた。

ある時、緊急のことがあって、右筆に物を書かせたのだが、この時「急用のことである。
慌てず静かに書くべし」と言われた。

隆景はその気質、穏やかで静かであり、才知を外に輝かせるような事はしなかった。そのため
彼を知らない人には、最初に合うと心の鈍い、愚かな人のように映ったのだという。
古語に『大智は愚なるが如し』というが、これはこのことであろう。
また天性、智慮深密にして沈静温厚であった。

小早川隆景が亡くなった後、ある時安国寺恵瓊が、黒田如水の元に来て物語したことがあった。
このとき如水はこう言った。

「隆景殿が亡くなって、日本では賢人が絶えてしまった。この人の存在は毛利家にとって、
船にとっての船頭であった。彼によって中国はよく治められていた故に、亡くなられたと雖も、
今も生前と変わらないのは、ひとえに隆景殿の力の残りである。
例えば船を漕いでいて、にわかに船を止めたとしても、それ以前に艪によって作られた推進力が残っていて、
五間十間はその船は先に進む。これと同じことである。

毛利輝元殿も、隆景殿の遺産によって、今までは見事に見える。しかし今後は、輝元殿自身の思案が
大事になるだろう。」

小早川隆景には、普段から書かれた書類は多かったのだが、その死の前に、あらかじめ尽く
焼き捨てた。どのため、一巻も今に残っていない。

(黒田家譜)

殆ど聖賢小早川隆景伝と化した、黒田家譜の、隆景の死を悼む一節である。
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