戦国ちょっといい話39
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0001人間七七四年
2013/12/28(土) 15:41:31.69ID:m9sYieeK戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1377700193/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386399929/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0002人間七七四年
2013/12/28(土) 16:43:58.47ID:Ay1S/ufz>>1のスレ立て御照覧あれ
0004人間七七四年
2013/12/30(月) 13:48:24.29ID:+IPoNwgD0006人間七七四年
2014/01/01(水) 11:23:37.71ID:ue4beeVoこの事により黒田如水は太閤秀吉の御前疎くなった。折節に殿中に出仕はするのだが、
久しく対面を許されなかった。
ある時秀吉は大老たちと朝鮮の軍の評議を行っていたが、如水はそれを壁越しに聞いて、
秀吉の耳に入るよう声高に叫んだ
「去年大軍を挑戦に遣わされた時に、徳川家康か前田利家、二人のうち一人を総大将として
遣わされ、万事一人の下知から出るようにすれば、軍法よく行われ滞りは無かった!
しかし、もしその両将を遣わされることが成り難いと考えられておられるのなら、
軍の道を知っている私を遣わされれば、軍法定まって上手くいくだろう。
その上で、和を以って人を懐け、朝鮮人を安堵させ日本人に帰伏させるのなら、大明を征伐するのも
容易いことである。
ところは今はどうか!?加藤(清正)、小西(行長)は若き大将で血気の勇のみしかなく、軍の道を
知らぬ。その上この両人は仲悪しきため、清正の仕置を行長が破り、行長の法令を清正は守らない。
この様に法令一様ではないために、朝鮮の人民も日本の下知法度を信用せず、頼みにならないと思い、
山林に逃げ隠れ、安心することが出来ないのだ!
日本から朝鮮への道は遠い。である以上、兵糧や武具などを日本から安定して運送するのは難しい。
我らは朝鮮の民を懐け、元のように耕作に従事させ、敵地においても糧を得られるようにする事こそ
然るべきなのだ。なのに今は仕置悪しき為に、日本軍の通る朝鮮の三道は人民散失し、荒野となって
五穀無し。かくの如く朝鮮が既に亡国となった以上、我々には大明に入るべき基板がないのだ。
朝鮮の人民散失し、日本からの運送もまた安定するのが難しい。であれば、今後味方の大軍は
兵糧が尽き、ただでさえ異国での在陣は不自由であるのだから、士卒の苦労は耐え難いほどとなり、
殿下が考えておられる大功が成就できない!」
この声を秀吉は壁越しに聞き、尤もだと思い
「来年、もし異国に出兵するなら、わし自ら朝鮮に入るか、それが出来なければわしは上洛し、
秀次を名代として遣わすであろう。」
と言った。
(黒田家譜)
黒田如水による、朝鮮の役への批判である。統帥の不徹底が最大の問題だと認識していたのですね。
0007人間七七四年
2014/01/01(水) 13:13:57.33ID:O0m81EuDしかし例の九州勢にそれを守らせるのは前田や徳川でも力不足だろうなあ
0008人間七七四年
2014/01/01(水) 14:26:59.95ID:GlJ5YPJX0009人間七七四年
2014/01/01(水) 16:33:42.31ID:grFRENw+傍輩たちはこの事を憎んだ。ある時、四、五人が申し合わせて銭湯の風呂に入った。
多くの人の中で、かの者は面を打たれて鼻血が流れ出た。風呂の中は暗かったので
相手が誰とも分からず、かの者は外に出て身体を拭い衣を着て、帯を締めて刀をさしはさむと、
「士の意趣は刀をもって勝負をするものぞ! 只今、拳をあげて我が面を打ったのは
女童のやり方のようである! 臆病者はまったく士の行為ではない! 志があるならば名乗れ!
名乗らなければ男とは言えないぞ!」
と、罵ったが、返答する者はいなかった。亭主が手をすってこれを止めたので、
かの者は裸者をことごとく撫で斬りにすることもなく、怒りを抑えて宿へ帰った。
それゆえに人々は口々に悪く取り沙汰した。これを聞いた左門は「かの者は平生の覚悟が良くないので、
我にまで恥辱を与えた」と言い、かの者が追放されそうなところを、
有楽軒は「『高木は風にあい、勇士は妬みにあう』と言われている。これはきっと傍輩どもの
仕業だろう。面を打つ程度の心で、名をも名乗らず黙っているのは、人知れず恥辱を与えたことを
勝ちとした臆病者だ。決してかの者が気後れしたわけではない」と言って、かの者を扶持して残した。
その後、かの者は合戦の場に赴き、大剛の働きあって名を揚げたのである。
――『武将感状記』
0010人間七七四年
2014/01/01(水) 20:01:18.92ID:6qnt/20+長岡の細川屋敷が、お城に近かったから、まず細川へと人質を差し出すよう使いを送った。
忠興の妻(ガラシャこと玉)は、
「夫の留守中に、女の身でお城へ登れなどとの申しつけは迷惑でございます。断ることをお許しください」
と返答し、二度目の使いにも同様に断ったが、三度目の使いから、
「承知いただけないなら、力ずくでも召し連れます」
と言い渡されると、玉は、
「しかたありません。登城いたしましょう。ただし女の身、身支度に時間がかかります。しばらくお待ちを」
と返答して屋敷内へ引き下がり、留守家老の小笠原正斎、川北某、石見某を呼び、
「わたしが主人と夫婦になったあと、父の明智光秀が不義の汚名を被る行いをしました。
主人は父に意見をなさったのですが、父がどうしても聞き入れないので、
不義の人と縁を結んでおくわけにもいかぬと、わたしを離縁なさいました。
そのうちに、父は戦乱のなか滅亡し、わたしはさらに浮き世に身の置き所がなくなるようになりました。
しかしそのとき、主人は憐れみをかけてくださり、離縁したとはいえ一度縁のあった女を不憫にしたとなれば細川の面目が立たぬ。
あの浮き世に居場所のない女人が、細川の元妻よと言われては武士の面目も立たぬゆえ、呼び戻そう
と仰せくださりとてもうれしく思いました。(1/2)
0011人間七七四年
2014/01/01(水) 20:02:54.38ID:6qnt/20+そして今、お城からの要請に従い不本意ながら登城したならば、主人へのわたしの感謝の思いが立ちません。
なおかつ、主人は徳川様にお味方なされておられるのに、妻子が人質にとられたとなれば、恩愛の絆に引かれお心変わりするかもしれません。
そのようになれば、主人に裏切り者の汚名が着せられることにもなりますでしょう。
それゆえ、主人へのご恩返しにわたしはこれより自害します。妻子が死んだと聞けば、主人は深く憤りになり無二の忠節で初志を貫けるでしょう。
覚悟を決めたなら時間を無駄にしてはなりませぬ。居間にはやく枯草を積み、わたしの自害した後に火をつけてください。
召使の者たちは、思い思いのがれてもし主人に会うことがあれば、わたしの最後をくわしくお伝えしてください」
と言い、居間へ入り、十歳の娘に事をしっかり説明したあと引き寄せて刺し殺した。
そして八歳の息子に、
「そなたは武士の子供です。腹を切りなさい」
と言うと、息子は、
「わかりました。」
と答え、肌を押し開き小さな脇差を腹に突き立てた。その小さく勇ましい姿に、苦しい目を見せるよりはとすぐに首を打ち落とした。
そうしたあと自身も自害をした。
家中の者は枯草に火をつけ、思い思いに立ち働き、火の中に飛び込み殉死する者も多かったという。
このことがあったから、女子供を人質にとる風習がなくなったとのことだ 【葉隠】(2/2)
散りぬべき時知りてこそ世の中の
花も花なれ人も人なれ
(細川ガラシャ辞世)
0012人間七七四年
2014/01/01(水) 20:07:03.12ID:6qnt/20+http://iiwarui.blog90.fc2.com/?mode=m&no=6537&cr=471d8d06b4c2f7169fde7f60df0681e9
0013人間七七四年
2014/01/02(木) 00:14:26.02ID:/dx51KMg0014人間七七四年
2014/01/02(木) 03:27:21.85ID:oDT6Cc1dそれと侍女の話だと石田方は稲富を連れて引き上げてるんだよね
ガラシャをはじめとした面々ははやまったのかねえ
0017人間七七四年
2014/01/02(木) 19:38:38.07ID:50GdH7Yn『一、以下のことは私の願いであります。
秀頼様はご幼少の間は、江戸か、もしくは伏見において、内府様(家康)のお側に
しかと置き申し上げて、立派に御成人なされれば、その時はいかようにも、内府様の
ご分別次第にお取り立て差し上げれば良いと思います。
また、いかに太閤様の御子であるとはいえ、日本の置目を執り行えるような人物で
なければ、内府様はそれを判断され、2,3ヶ国も与えおくべきでしょう。そのように
進めるのが、秀頼様のご進退として良き判断だと考えます。
何故なら、今のように大阪の方にふらりと置かれたままでは、時勢によって、世のいたずら者共が
出てきて、秀頼様をその主などと担ぎ出し、謀反を起こすこともありえます。
そんな者達の為に、何もご存知なく秀頼様が腹を切る事態になれば、太閤様の亡魂のためにも
悪しき事だと思っています。
一、私ではなく他人の意見のようにして、さしあてて、この意見を、見計らって内府様に申し上げて頂きたいと
思います。第一、これは秀頼様の御為であると考えます。
本佐(本多佐渡守正信)などには、戯言のようにしてでも是非語って頂きたく思います。』
(歓心寺文書)
有名な、伊達政宗による、豊臣秀頼の扱いへの提言である。
0018人間七七四年
2014/01/03(金) 12:32:54.37ID:Ktn9bM4a0019人間七七四年
2014/01/03(金) 17:51:27.77ID:0glh2iE30020人間七七四年
2014/01/03(金) 19:04:01.12ID:5A9KPlJT0021人間七七四年
2014/01/04(土) 08:48:37.24ID:5WRZvM+z0022人間七七四年
2014/01/04(土) 10:03:15.59ID:xcsPZ33V0023人間七七四年
2014/01/04(土) 11:53:46.14ID:DyNSvgKB0024人間七七四年
2014/01/04(土) 17:35:46.76ID:vYuYU8Ur0025人間七七四年
2014/01/04(土) 17:36:07.44ID:99zAx3Ly鯉を料理しようとする時、活鯉だったために、跳ねてまな板の上から落ちそうになった。
それを天野は左手にまな箸を取って、落ちそうな鯉を挟み留めた。
側にいた本多正信を初め一同は感心して「さすがは料理人だ」と誉めたたえ、家康もきっと
誉めるだろうと思われた。ところが思いがけず、家康は「たわけ者め!」と言った。
この事を正信は不審に思ったのだが、その後の御話の時、家康は、
「父より優れた子であっても、他人はそのようには思わないものである。やはり父の方が優れ、
子は劣ると思うのだ。私は天下を秀忠に譲る。秀忠は私よりも優れているが、家士たちはやはり
私を優れていると思い、秀忠を劣ると思っている。
劣っていると思えば、奉公は自然と怠るものだ。家士たちが奉公を怠る時は国家が乱れる基である。
だから、私は近年、心にもない無理を言って、誉めるべきことを叱るなどして、私が秀忠よりも
劣り、秀忠が私よりも優れている事を家士たちに知らしめ、奉公を怠りなくますます秀忠に
忠勤させようとしている」
と、言った。この時に正信は先日船中で家康が天野を叱った不審が晴れたと語ったのだと、
ある老人は言った。
――『明良洪範』
0026人間七七四年
2014/01/04(土) 17:47:05.00ID:yWIQ6+Xxこの話と似ているが、変形か、それとも親子の考えの差か
0027人間七七四年
2014/01/04(土) 17:50:26.79ID:VkcpSjUk0028人間七七四年
2014/01/04(土) 18:37:30.85ID:SXPad//M家士たち「何かよく分からんが多分良い事を言ってるのだろう。さすが大御所様」パチパチ
ってなる気もする
0029人間七七四年
2014/01/04(土) 20:55:34.54ID:cd7hYlBx0030人間七七四年
2014/01/04(土) 21:30:55.15ID:NtrdJ85Fあえて老害のように振る舞う的な。
たしかに料理人はかわいそう(笑)
0031人間七七四年
2014/01/04(土) 23:07:16.23ID:4/w0EZKk0032人間七七四年
2014/01/04(土) 23:11:38.81ID:ck5o9GXj0033人間七七四年
2014/01/06(月) 13:10:46.81ID:wMc1AOmC「知行配当覚
百五十石者
但 四物成
以上
坂紀伊守
(慶長七、1602)七月廿三日
(坂)光秀(花押)
志村伊豆守光安(花押)
大津助丞殿」
「大津藤右衛門とのへ
假遣之知行之事
弍百五十石 但 四物成
永代可致安堵者也 □如件
慶長十七(1612)年
五月九日 (最上)義光(小印)」
四物成は収納が四割、つまりは「四公六民」の事
大津藤右衛門は上杉家臣大津助丞の息子と思われる
最上家に尽くした者には加増有り、四公六民、多く発給された文書には「小割印」が用いられた等が文書によって判る良い見本
003433
2014/01/06(月) 13:18:41.99ID:wMc1AOmC0035人間七七四年
2014/01/07(火) 11:09:21.63ID:JlElPMt2その茶が大変うまかったので利休がもう一服 所望すると、小坊主は今度はもう少し熱くやや
少な目の茶を持ってきた。それを飲んだ利休がさらにもう一服 所望するとさらに少なくした
小服の熱い茶を持ってきた。それを飲み終えた利休は気が利く小坊主に「自分のもとで茶を
教えたいと思う」と言った。茶の道では点前よりもこういう心配りが肝要なのである。
ちなみに、この小坊主は京都の喜斎のことである。(茶道四祖伝書)
0036人間七七四年
2014/01/07(火) 11:53:55.17ID:bQYuyJ420037人間七七四年
2014/01/07(火) 11:57:29.25ID:9SLxjOdp0038人間七七四年
2014/01/07(火) 18:13:11.57ID:OC9wywyS頂き物の最上義光歴史館の平成12年の9月15日から10月22日までの約一ヶ月の間にあった特別展の出品目録より
・「慶長鎮東軍鑑」、・最上家伝「家傳覚書」、・「最上義光物語」、・「最上合戦記」、・「加藤掃部宛江口光清書状」、・「本村造酒他宛直江兼続書状」、・「成沢道忠像」、・「留守家文書」、・お東方所有「能面」、・山形大学附属博物館所蔵「長谷堂城大手門扉」
また特別展ならではか
・山野辺義忠所有「来國次刀」、・最上義光奉納「(大日輪最上)軍旗」、・志村光安所有「甲冑」、・志村光安所有「馬具」、・志村光安所有「火縄銃」、・加藤掃部所有「甲冑」
上杉軍の展示から
・上杉景勝所有「甲冑」、・直江兼続所有「甲冑」、・前田慶次所有「甲冑」、・(別な)前田慶次所有「トッパイ形兜」
…他にも目録に出品名はありますが、個人蔵や寺社蔵、他の博物館や史料館の収蔵品に世間に余り知られていなかった最上家関連のお宝が
これだけ集まった上に展示されていた実績のあった良い話って事で
…展示品の所有権他権利問題やらからで、画像や図版が入手出来ないのが哀しい…
0039人間七七四年
2014/01/07(火) 18:32:46.38ID:OC9wywyS最上家、最上義守、最上義光
楯岡満茂、志村光安、鮭延秀綱、延沢光昌、氏家光棟、加藤清次、池田盛周、松根弘親、鳥越家、最上家足軽胴丸他と
結構数は遺ってるのになかなか一堂に揃う機会が(大人の事情から)難しい…
0040人間七七四年
2014/01/08(水) 19:59:01.84ID:rdOem/Co「分別というものは、どのようにすればよいのでしょうか?」
隆景は答えて
「それは仔細もありません。ただ、久しく思案して、遅く決断するのが良いのです。」
長政はまた質問した
「分別するにおいて、肝要なことはあるのでしょうか?」
隆景は答えた
「あります。分別の肝要は『仁愛』です。どんな事であっても決断するときに、あわれみの心をその基礎において分別すれば、
その思慮に理屈に合わないところがあったとしても、最も良い判断から遠く離れることはありません。
逆に、仁愛のない分別は、才覚がどれだけ巧みであったとしても、みな道理に合わない間違いである。そのように
知られるべきです。」
(黒田家譜)
小早川隆景の考える、決断に必要なことである。
0041人間七七四年
2014/01/08(水) 21:38:02.33ID:nBPO5RDF0042人間七七四年
2014/01/08(水) 21:44:01.61ID:AXECxBXf0043人間七七四年
2014/01/08(水) 22:30:32.10ID:gy+T4pSw0044人間七七四年
2014/01/09(木) 00:11:32.93ID:8qqHtktQ0045人間七七四年
2014/01/09(木) 01:00:37.04ID:H1szDz4j0046人間七七四年
2014/01/09(木) 02:45:38.01ID:HtPcuGZB0047人間七七四年
2014/01/09(木) 13:22:00.35ID:y4Sym+yU0048人間七七四年
2014/01/09(木) 18:26:43.94ID:H1szDz4j0049人間七七四年
2014/01/09(木) 18:40:47.25ID:TKWnZxej0050人間七七四年
2014/01/09(木) 20:37:49.25ID:3tYSG7jwあらかじめ自分の行動を定めておけば、その時になって慌てることなく、粗略になることはないと
言われていた。これは古語に言う、『事前に定まれば躓かず、事前に定まれば困らない』と
同じ意味であろう。
この隆景という人は普段から虚言を言わず、少しのことであっても人と約束したことは
決して違えなかったため、人々は彼をただの人ではないと考えた。
備後の三原に隠居した後は、慶長元年に足利学校の玄修軒を招き、学問所を建設し孔子の像を安置し、
若者たちに学問を進めさせた。
ある時、緊急のことがあって、右筆に物を書かせたのだが、この時「急用のことである。
慌てず静かに書くべし」と言われた。
隆景はその気質、穏やかで静かであり、才知を外に輝かせるような事はしなかった。そのため
彼を知らない人には、最初に合うと心の鈍い、愚かな人のように映ったのだという。
古語に『大智は愚なるが如し』というが、これはこのことであろう。
また天性、智慮深密にして沈静温厚であった。
小早川隆景が亡くなった後、ある時安国寺恵瓊が、黒田如水の元に来て物語したことがあった。
このとき如水はこう言った。
「隆景殿が亡くなって、日本では賢人が絶えてしまった。この人の存在は毛利家にとって、
船にとっての船頭であった。彼によって中国はよく治められていた故に、亡くなられたと雖も、
今も生前と変わらないのは、ひとえに隆景殿の力の残りである。
例えば船を漕いでいて、にわかに船を止めたとしても、それ以前に艪によって作られた推進力が残っていて、
五間十間はその船は先に進む。これと同じことである。
毛利輝元殿も、隆景殿の遺産によって、今までは見事に見える。しかし今後は、輝元殿自身の思案が
大事になるだろう。」
小早川隆景には、普段から書かれた書類は多かったのだが、その死の前に、あらかじめ尽く
焼き捨てた。どのため、一巻も今に残っていない。
(黒田家譜)
殆ど聖賢小早川隆景伝と化した、黒田家譜の、隆景の死を悼む一節である。
0051人間七七四年
2014/01/09(木) 21:16:33.73ID:GtHaNkcS0052人間七七四年
2014/01/09(木) 23:37:34.60ID:954hZ8z00053人間七七四年
2014/01/10(金) 00:59:05.06ID:iGZ+576x焼き捨てた。
なんて勿体ないことを・・・後世の人のために残しといてくれりゃいいのに
0054人間七七四年
2014/01/10(金) 08:32:56.58ID:E1IeR+Pa実際そういうことあるしなw
万巻の書を読み尽くしてきたじっさまが賢人かというとめんどくせーだけの奴だったりしてw
0055人間七七四年
2014/01/10(金) 10:31:08.13ID:GlnBMz9t0056人間七七四年
2014/01/10(金) 10:48:18.57ID:9+URQCys0057人間七七四年
2014/01/10(金) 11:39:14.47ID:5wHJfV0Wそういう見通しが利かず、西軍についても結局積極的なのか寝返るのか
どっちつかずの中途半端な行動で終わるのがテルクオリティ
0058人間七七四年
2014/01/10(金) 12:55:04.68ID:9gOATlvrテルが石田をそそのかして、敗戦濃厚となるや石田や安国寺に全責任押し付けた、
ならむしろよく逃げたもんだと
0059人間七七四年
2014/01/10(金) 13:06:21.19ID:ykVO0jjq0060人間七七四年
2014/01/10(金) 13:40:39.32ID:jRM3ntvJ0061人間七七四年
2014/01/10(金) 14:04:55.09ID:qNsCaAQ10062人間七七四年
2014/01/10(金) 15:13:54.86ID:Fuuj+/DJそれで本当に蜂起したとき、会津へ向かってる暗黒寺が近江あたりで勝手に引き返してテルを二重召還した
こういう事情でテルはすごい速さで大坂入りした有能な人物のようになった
さらにあろう事か三奉行が石田に説得され公式戦争と化し、テルも聞いてるうちにもっともな気がしてきたので大将に収まったようだ
0063人間七七四年
2014/01/10(金) 18:46:03.21ID:Y3JDfVDJ歴史は随分と変わったんだろうな
0064人間七七四年
2014/01/10(金) 19:46:24.42ID:7MIMpHhj0065人間七七四年
2014/01/10(金) 23:05:47.16ID:eJKXNMqT日本を東西で徳川と分けるつもりだったのか
0069人間七七四年
2014/01/11(土) 13:38:58.41ID:M4Tq2IM4秀次は長久手のやらかしで評価低いがそのあとの四国攻め北条攻めではしっかりとこなしてる。そして公家からの評価高く、近江八幡も何事もなく治めていたどころか民衆からの評判よし。有能っぷりをラスボスが警戒してた説があるよ。
0070人間七七四年
2014/01/11(土) 13:54:29.86ID:5FuTbx2o0071人間七七四年
2014/01/11(土) 14:09:01.14ID:87W7T/cE0072人間七七四年
2014/01/11(土) 15:34:32.54ID:11NUCyDg太閤様から訓戒出されてるから、自らの立場に増長してたのは本当でしょ?
五条の第一条に、
『近頃、おまえはわたしの甥であることで日増しに増長し、
他人に対してしばしば傲慢に振る舞うとのこともってのほかである。
誰に対しても、低姿勢に接し、身を慎むことこそが、このわたしの甥としての振る舞いだろう。
誰からもさすが秀吉様の甥子様と崇め敬われるような心がけをもつように』
で、あと四条あるがそこは省略して、
『この五箇条のとおりに、今後は心を入れ換えられないのであれば、
八幡大菩薩も御照覧である。必ず人手にかけず、わたし自ら手討ちにする。
くわしいことは宮部善浄房と蜂須賀彦右衛門から聞いてくれ』
で閉めてある。
ちなみにこの訓戒状が秀次16歳のとき(切腹は28歳)
0073人間七七四年
2014/01/11(土) 15:51:22.22ID:11NUCyDg0074人間七七四年
2014/01/11(土) 16:23:44.44ID:dAdXRfP+0075人間七七四年
2014/01/11(土) 16:34:08.72ID:hkt37W6I0076人間七七四年
2014/01/11(土) 16:44:56.35ID:OWxl98js0077人間七七四年
2014/01/11(土) 18:56:27.88ID:M4Tq2IM40078人間七七四年
2014/01/11(土) 19:49:30.96ID:cTKZ0AnI0080人間七七四年
2014/01/11(土) 20:00:42.90ID:BiStOi140081人間七七四年
2014/01/11(土) 23:02:47.49ID:xp+4EPMR0082人間七七四年
2014/01/11(土) 23:28:01.16ID:2r6hMVrjままなりません。殊に一国を治めようと思う身分であれば、いっそう心がけなければならないことです。
天道に叶うのは、身の我儘をいたさない堪忍です。
地の理に叶うのは、先祖からの一郡、一域を失わないための堪忍。
人の和を得るのは、自分の気ままを出さない堪忍です。
その他、身体の尽くで、堪忍を用いることが大切なのです。』
慶長17年(1612)2月25日付、徳川家康が、秀忠の正妻崇源院(江)に宛てた教訓上の一節である
0083人間七七四年
2014/01/12(日) 00:50:31.87ID:z0+u1h7t0084人間七七四年
2014/01/12(日) 01:48:31.75ID:KX5T3hIg0085人間七七四年
2014/01/12(日) 10:04:36.90ID:uO5dnJqc0086人間七七四年
2014/01/12(日) 10:26:12.52ID:PEYCJOzI0088人間七七四年
2014/01/12(日) 15:38:42.61ID:2v0Zvogn男色関係を結んだのですか?
それとも、アナル・セックス無しのセックス・フレンドになっただけなの?
どちらでせうか?
0089人間七七四年
2014/01/13(月) 02:32:25.79ID:+iF04V+p0090人間七七四年
2014/01/13(月) 02:33:47.94ID:43eNQUIh0091人間七七四年
2014/01/13(月) 10:11:31.85ID:cD6+1UW4実は言及してるんだよなあ。というかこの慶長17年の教訓状はこっちがメインだけど
『幼少の者が利発だからといって、それを褒めたて、立木のままに育ててしまえば、成人した頃には気ままで我儘となり、
後々は親の言うことも聞かなくなるものです。
親の言うことさえ聞かないのですから、召し仕えている者の意見など、なおもって聞かなくなります。
そのようなので、後には国や郡を治めることはおろか、我が身さえ立てられなくなってしまいます。
一体、幼少の頃は何事も素直なものなのですから、どのような窮屈な育て方をしたとしても、要は最初からの
仕付け次第で、外から思うほどには、大儀なことではないものです。
これを植木に例えてみますと、始めに双葉に分かれた節は、人間の産立ちと同じことですので、随分と丁寧に養育し、
もはや2,3年も経って枝葉が多くなった頃、添え木をして真っ直ぐになるように結い立て、そのうちに、悪しき枝は
芽を出した時に切り取り、年々、この通りに手入れいたしましたら、成木になった頃には、真っ直ぐな良い木に成ります。
人もその通りです、4,5歳からは添え木となる人を付けおいて、悪しき枝が、我儘に育たないように致せば、
後に素直によき人となるものです。幼少の頃に育ちさえすれば良いと考えてしまい、我儘にさせたままおいていながら、
年頃になって急に異見をしても、我儘の枝ばかりが繁り、本心・本木には癖がついていて、それは治らないものです。
この事については、私には今もって思い当たることがあります。三郎(信康)の事ですが、この子が産まれた時は、
私も齢が若かったので子供が珍しく、その上ひがいす(痩せて産まれた子)だったので、育ってくれさえすれば良いと
考えてしまい、気の詰まりそうなことはさせず、気ままに育ててしまいました。
そのため成人してから急に色々と言い聞かせたのですが、とにかく幼少の頃に行儀作法もゆるやかに、放任して育てて
しまいましたので、親を敬することもせず、気安く思って、「あれはこれだから」「これはあれだから」などと言い訳ばかりいたし、
後には親子の言い争いのようになりまして、何度言っても聞き入れること無く、かえって親を恨み、また親どころか、
そもそもの自分の生まれつきが悪いと思うようになっていきました。
わたしはこれに懲りましたので、他の子供は幼少から、私の前でも子供に行儀作法を良く良く仕付けてくれる者に言いつけておき、
もし少しでも不行儀、我儘なことが有れば、私に隠さず、いちいち知らせてくれるように言いつけておいて、それを伝え聞き、
私の前に出た時には、毎回解るように言い聞かせ、あるいは叱り、また「これはそのようにはしないものだ」といちいち
言い聞かせるようにしましたので、みな陰日向なく素直に育ってくれました。』
この時徳川家康69歳。自身の失敗も踏まえた子育て論である。
0092人間七七四年
2014/01/14(火) 02:12:05.68ID:rtHIyGi0十で神童十五で才子二十過ぎればただの人、とはよくいったもので
小さいうちから道理ってもんを教えておかないとあとが大変よね
親もわきまえておかなきゃならんから難しいんだろうけど
0093人間七七四年
2014/01/14(火) 06:56:37.25ID:E1e17gad黒船(スペイン・ポルトガル船)の敵であると言われた。船中には具足や大鉄砲が多数あった。
具足は腰より上のものばかりであった。
内府公(徳川家康)はこれを見聞し、上から下までこれを見て、彼らに猩々皮以下の売買に関して
問題はない事を伝え、これを伝えるための帰国を命じた。
この船は唐船(中国船)の敵でもあったので、「誅伐を命じるべきなのに」と人々はみな
この措置に関して言った。
(当代記)
徳川家康の、イギリス船来航への対応である。
0094人間七七四年
2014/01/14(火) 14:42:24.24ID:CCjADilsイエズス会からのリーフデ号は海賊船だから処刑してくださいの要請無視したし
0096人間七七四年
2014/01/14(火) 20:53:03.42ID:YfpHYSoA0097人間七七四年
2014/01/14(火) 23:33:24.02ID:ArQiQufr0098人間七七四年
2014/01/15(水) 00:47:43.90ID:Ikn+QHqzカトリックから脱会してイギリス国教会を立ち上げたりとスペイン、カトリックとイギリス、オランダは対立していた。
で、ウィリアムも参戦したアルマダ海戦へと繋がる。
リーフデ号漂着した件を担当したのが権現様。
そこでイエズス会からリーフデ号は海賊船だと申し入れがあるが本当か?と聴かれ、
ウィリアムたちが自分たちは欧州の宗教争いには関係ないと堂々と述べた姿を権現様が気に入って、
その後もイエズス会から申し入れは続いたが、リーフデ号を日本で裁くことはしなかった。
って話がある
0099人間七七四年
2014/01/15(水) 09:17:22.95ID:PNmpsLYe0100人間七七四年
2014/01/16(木) 07:41:36.23ID:RJKrsCC3下々の者から子供たちまでからかって、
『保科弾正鑓弾正、高坂弾正逃げ弾正』(保科弾正は他人を先に”やる”弾正、高坂弾正は逃げ出す弾正)
と言いふらされたものだ。
私の家は春日源五郎の名を代々継いでいたと言っても、父は春日大隅という甲州井沢の大百姓の
出身であり、私は幼少から故郷を離れ、姉婿と田地のことで公事(訴)に及び、私が負けた時に、
この公事の場からご奉公の命を頂いた。
この時信玄公は22歳、わたしは16歳で、最初は小人(雑役)であったのに、幸運にも廿人衆(徒歩で
軍隊の先導をする下級武士)を経て、はからずも1ヶ月も経たないうちに近習の地位に任じられ、
信玄公の側近く、御膝元に奉公する身となったのだ。なんという幸運な機会に恵まれたことだろう。
その後は、ご意向に沿うことが出来ず仮にも一月もの間仕事を与えられない、などという事もなく、
無難に引き続き奉公いたし、春日弾正と称して尼飾城主に任じられ、今は海津城主の高坂家を継いで
高坂弾正と呼ばれるに至った。
まことに、ご奉公に出仕してから24歳までは、同輩には「あのようなマヌケ者の弾正を昇進させるのは
ひとえに信玄公の見込み違いだ」などと、あちこちから言われたものであった。しかし、この事は
私にとって薬となり、信玄公の意に沿うように。一段とご奉公に精を入れたのだ。
(甲陽軍鑑)
甲陽軍鑑より、高坂弾正が自身の立身を語った一節である。
0101人間七七四年
2014/01/16(木) 20:34:42.42ID:9idnpS5s0102人間七七四年
2014/01/16(木) 21:18:55.21ID:QyqN7lNg言わせんな恥ずかしい!
0103人間七七四年
2014/01/16(木) 21:36:55.83ID:0WnoPM870104人間七七四年
2014/01/16(木) 21:56:03.48ID:XRYkZD9m判明していて、なおかつ高坂弾正は「源助」と名乗ったことはないので、この書状は高坂弾正宛ではないと
現在はほぼ証明されてる。
0105人間七七四年
2014/01/16(木) 23:08:01.59ID:A2ZHz1rm0106人間七七四年
2014/01/17(金) 11:27:50.79ID:ME3V0Bit0107人間七七四年
2014/01/17(金) 15:47:17.60ID:YeGeqghYもし存分に骨身を傷つけるほどの力に任せて勝って喜ぶことになっても、
その一方で自分より力の勝る人には負けて身骨を傷つけられて苦しむのだ。
世間の人の心も「人を謗ろう、人が悪い」と思う人は、必ず自分の身に悪い。
自分より弱い人を押さえて滅したとしても、一方で自分に勝る人がいて
自分を押さえることは歴然だ。ただ「人も善くあれ、我も善くあれ」と、
思うべきである。
一、人として人のために善くあれと思うことは誠に難しいものだな。
およそ生きとし生けるものは争わないということがない。空をかける翅、
地を走る獣、螻蟻蚊虻にいたるまで争わないということがない。
だから、人として争わないことは難しい。心底では争っているけれども、
外では争わない顔をするのは礼である。これを人という。
この礼を持たずして人に向かう時は、とりもなおさず早々に共に争う。
これは人にして禽獣に近い。
――『東海夜話(沢庵宗彭著)』
0108人間七七四年
2014/01/17(金) 18:37:19.46ID:7DevHlyN0109人間七七四年
2014/01/17(金) 19:48:34.00ID:1Rx53UPY現代なら思いやりかな?
そして言うは易し行うは難しと
0110人間七七四年
2014/01/17(金) 21:10:15.38ID:yQct1QOq0111人間七七四年
2014/01/18(土) 00:00:09.79ID:Q9tscSoN酒井忠次は徳川家康の四天王とされ、井伊・本多・榊原と雄名を天下に表わしたる。
中興の祖を忠次とする。
忠次は本多忠勝に似たる豪雄ではない。
榊原康政の如く身に七十創を蒙る「曹参」の武勇にもない。
井伊直政が如き勇将の器でもない。
一言で約せば沈勇にして謀略に富し者である。
忠次の如きは将略の勇がある。
絶奇なる籌策を抱く人というべし。
本多忠勝は秀吉より源義経の家臣である佐藤忠信の兜を与えられたことがあったが、
その恩威にも心を動かさず、天下の御家人となることは彼が喜ぶ所ではなかった。
ただ、三河武士と唱えられ徳川累代の家臣と呼ばれることが、この上なき栄誉と思っている。
忠勝の勇は戦国の士に求め難きもので、忠勝の忠は全く絶倫である。
忠勝の勇は「樊噲」に適し、智は「韓信」に比す可きだ。
榊原康政は忠臣無双の将である。
英主に康政が如き臣あり、勇にして智あり。
康政の勇は人のよく知る所であり、彼の智は知らない人はいない。
井伊直政は悪木盗泉で徳川殿に仕えて二心なき武士なり。
かかる義列の直政は勇武の気性も鬼神を凌ぐ勢いがある。
長久手の役の折、この先陣に進みたるは言わずもがなの直政。
家名と共に照り輝く赤幟、赤旗、朱具足で白きは槍の身刃のみ。
この槍刀さえ一振りすれば唐紅に敵の血潮で染め上げて赤き心を表わす。
この赤隊はアサヒに輝き山よりこなたへ馳せ降り、天下の上方勢を遠慮なく縦に横にと掛け破り、
大将をあまた討ち取って、名もなき士卒は蕪大根を切るが如くスッパスッパと飛ばす。
この時より天下に轟く勇名は「赤鬼」と呼ばれるようになる。
また、士卒を率いて戦う将帥の器のみならず、打物執っても無双の武士なり。
昔日の武人が侍従といい、兵部を称するのは実に無上の栄誉であり
かかる高位の直政も君の馬前に死は塵芥より軽く、利は一足の草鞋に同じく、
婿君と仰ぐ下野守の初陣に手柄を取らせようと将たる地位を置き自ら手を下して敵に向かうは、
乳虎を叱咤する武夫の胸中に嫣然とした美人も愛してしまうであろう可憐な情もある。
直政こそ古今無類の武将と仰ぐべきだ。
0112111
2014/01/18(土) 00:18:57.12ID:Q9tscSoN・忠勝の勇は「樊噲」に適し→忠勝の勇は「樊カイ」に適し
・かかる義列の直政は→かかる義烈の直政は
0113人間七七四年
2014/01/18(土) 01:07:19.13ID:KRm5VfS30114人間七七四年
2014/01/18(土) 09:26:19.83ID:9JYqeLNU徳川家臣のいろんな逸話を幅広く集めて紹介しているが
読んでみるとやっぱり四天王は他の徳川家臣とは違うことが解る
>>111のような比較も興味深いね
0115人間七七四年
2014/01/18(土) 15:39:00.26ID:WhKpmH8n0116人間七七四年
2014/01/18(土) 15:41:37.00ID:seiNbtwq0117人間七七四年
2014/01/18(土) 15:54:04.78ID:RQ47MmjE0118人間七七四年
2014/01/18(土) 16:06:02.61ID:Nhc8m0pO0119人間七七四年
2014/01/18(土) 16:23:04.13ID:SSBslH6O0120人間七七四年
2014/01/18(土) 16:26:12.06ID:wE0h5lRb0121人間七七四年
2014/01/18(土) 16:37:09.03ID:9mmhZYgF0122人間七七四年
2014/01/18(土) 16:44:21.09ID:ZP9mQt3Q「身分の上下関係なく、時節が来れば一家の滅びることもあるだろう。
その時、無理に取り繕うならいかにも未練がましく、恥をさらすような滅び方をする。
いよいよ無常の風が吹き荒れるような時節が来たならば、きっぱりと滅びる覚悟を決めるのだ。
そうするとまた、滅亡をくい止め、一家が立ち直る方法も見つかるものである」
と話されたとのことだ。
この話は、元茂さまがいつものように話されていたから、直朗殿がよく覚えていたのである 【葉隠】
0123人間七七四年
2014/01/18(土) 16:57:22.50ID:9JYqeLNU海老すくいさんが例の件とかで冷遇されていたわけじゃないってのも子孫みてもわかるけど
パパにゃん冷遇なんて聞いたことないけどな
佐和山っつか彦根も都の守備や大坂城を見据え西の大名衆に睨みを効かすを要所でパパにゃん配置はすごく納得だし
0124人間七七四年
2014/01/19(日) 09:02:36.12ID:6oTVi26r団体に蹴鞠(けまり)を寄付することになった。
エージェントが現地へ赴き、少年たちに蹴鞠を渡す。
少年たちはとても喜んだが、渡された朝廷謹製の蹴鞠を見て
「朝廷謹製ではなくて、メーカーは『信長』が良かった。」
「『信長』の蹴鞠はとても使いやすかった」
と口々に言う。
遣欧使節団のエージェントは首をひねった。
…信長?そんなメーカーがあっただろうか。
「これだ」と、手渡されたボロボロの蹴鞠を見てエージェントは驚いた。
すでにかすれてしまっているものの、蹴鞠にははっきりとサインペンで
「夢をあきらめるな 信長」
と、現地の言葉で記した跡があった。
数年前に、信長もこの団体に200個もの蹴鞠を送っていた。
さらに信長は、そのボール全てに自筆のメッセージとサインを入れ、
それを子供たちは「信長」というメーカーの蹴鞠であると思い込んでいたのだ。
0125人間七七四年
2014/01/19(日) 10:46:01.74ID:j2ITi3xr本人は立派な人でも後継者の育成には失敗する
っていう事はよくあるけど、隆景はまさにそんな感じ。
養子の金吾もな
0126人間七七四年
2014/01/19(日) 10:52:24.90ID:3k3SFcgD隠居せずにちゃんと育てろというかも知れないが、どうせ3年で死んでるし
0127人間七七四年
2014/01/19(日) 11:07:00.89ID:l1uUsBe3名目上の父だからと言って教育する義務まで無いわなぁ。
0128人間七七四年
2014/01/19(日) 11:09:31.23ID:j2ITi3xrいやいや、引継ぎも含めての隠居でしょう
応仁の乱とかは将軍家も管領家も後継・養子が原因になったし
0129人間七七四年
2014/01/19(日) 12:26:27.47ID:/jpDduKl0130人間七七四年
2014/01/19(日) 13:37:09.26ID:ALzPck1e0131人間七七四年
2014/01/19(日) 13:53:41.17ID:f8xuhS7+0133人間七七四年
2014/01/19(日) 14:13:00.95ID:ALzPck1e0134人間七七四年
2014/01/19(日) 14:25:17.47ID:+Y+tN7PG人を逸話と世評と実績と一次資料だけで判断するんじゃない
0135人間七七四年
2014/01/19(日) 14:29:57.17ID:qkDQ1w1Cむしろ逸話を除け、てならわかるが
0136人間七七四年
2014/01/19(日) 14:55:37.99ID:JzWLEfc70137人間七七四年
2014/01/19(日) 17:26:38.32ID:l1uUsBe30138人間七七四年
2014/01/19(日) 20:39:20.29ID:dV2qOaNU御家人たちは忠次を崇敬し、忠次が他人の家を訪ねるときに下馬をしなくても、これを無礼だと思う者はいなかった。
秀忠公は忠次の武勇にあやかろうということで忠次の諱字を貰い、
また秀吉公からも諱字を賜ったので、秀忠公とお名乗りになったのである。
『武家事紀』より、忠次の項にある秀忠の諱の異説である。
0139人間七七四年
2014/01/20(月) 00:59:16.60ID:ODbzzr/b0140人間七七四年
2014/01/20(月) 01:01:49.28ID:ODbzzr/b0141人間七七四年
2014/01/20(月) 01:28:21.26ID:07eURHZG0142人間七七四年
2014/01/20(月) 01:36:04.32ID:lHcbYmax織田秀信「えっ、秀って曽祖父の信秀からとったんじゃないの?」
0143人間七七四年
2014/01/20(月) 01:45:57.09ID:7uIrQSkEその方の分際で義元を安んじる元康とは何事か!
古〜い漫画の台詞
0144人間七七四年
2014/01/20(月) 02:18:59.91ID:lHcbYmax元康でも義元がやすんじる、でいい意味だと思う
0145人間七七四年
2014/01/20(月) 03:30:16.27ID:QO2tIAkQ謙信も『輝』虎 『政』虎
武田晴信や伊達晴宗や南部晴政や長尾晴景とかのも頭にあるが形だけはエライ人からの戴きものだったハズ…
0147人間七七四年
2014/01/20(月) 19:38:58.55ID:07eURHZGこの頃、かぶき踊りという物が現れた。
これは出雲国の巫女(名は国。ただし美人ではなかった)が始め、京都へ上がった。
タチは異風な姿をした男の真似をして、刀脇差し、衣装以下全て異相で、この姿をした男役が、
茶屋の女と戯れる様子を表現していた。
京中の上下は多くがこれを賞翫した。またこの国は伏見城にも参上し度々踊った。
その後、この国に学んだかぶきの座が多く出来て、諸国へと下って各地で公演をした。
ただし、江戸の右大将秀忠公は、生涯これを見なかった。
(当代記)
当代記より、歌舞伎の始まりについての記事である。
0148人間七七四年
2014/01/20(月) 20:32:24.80ID:B6fvkGQ60149人間七七四年
2014/01/20(月) 20:49:56.65ID:mmedVXuk0150人間七七四年
2014/01/20(月) 21:40:58.46ID:smXxv4Y4そういや吉川広家って元かぶき者だったっけ。
0151人間七七四年
2014/01/21(火) 00:44:54.25ID:TQpS+d1D0152人間七七四年
2014/01/21(火) 00:47:09.54ID:p1jduoiW0153人間七七四年
2014/01/21(火) 10:03:36.43ID:n6PAoQW60154人間七七四年
2014/01/21(火) 18:04:16.70ID:UZE7uljm0155人間七七四年
2014/01/21(火) 18:28:56.74ID:89KYyHl6信長、利家など
若いころやんちゃ→死ぬまでやんちゃ
DQN眼竜
若い頃から悪→極悪
悪久
0156人間七七四年
2014/01/21(火) 18:38:51.89ID:RKM5WGP60157人間七七四年
2014/01/21(火) 19:37:16.66ID:86+1xQ7I0158人間七七四年
2014/01/21(火) 22:33:49.52ID:NnkDaGF6それか狐憑きとかお手紙に書かれたり
0159人間七七四年
2014/01/21(火) 23:08:47.44ID:dkrSRKuy姫若子
0160人間七七四年
2014/01/21(火) 23:11:38.91ID:b9ViauOW0163人間七七四年
2014/01/22(水) 08:57:59.99ID:gXT3m4K/0165人間七七四年
2014/01/22(水) 17:35:19.15ID:pB+3k27D0166人間七七四年
2014/01/22(水) 18:45:26.09ID:/2pnHzIC>茶屋の女と戯れる様子を表現していた
出雲の阿国をドラマ化するとしたら、阿国役は中谷美紀かな?
0167人間七七四年
2014/01/22(水) 21:48:51.96ID:kRxYgF7X出会い茶屋を描いた風俗芝居と今で言うストリップみたいな踊りで
当時のオタ民衆に人気出たから文献者好みじゃなくても民衆受けする可愛さだったかもしれんな
0169人間七七四年
2014/01/22(水) 22:25:34.85ID:DR1fBhki当時では珍しい事でもないがえろいな
0170人間七七四年
2014/01/22(水) 23:07:01.84ID:DEnjE4X/AV女優って月に何人デビューしてるんだ?ってくらいいるだろ
0172人間七七四年
2014/01/22(水) 23:17:01.17ID:30bh2vut0173人間七七四年
2014/01/22(水) 23:26:30.24ID:rekQxYeZ女が男装して着物肌蹴ながら性の倒錯的な色気のある踊りが狙い所でそれが大ヒット
可愛かったのか余程色気が凄かったのかは知らんが男受けは良かった訳だ
0174人間七七四年
2014/01/23(木) 00:34:14.86ID:OTQikQou0175人間七七四年
2014/01/23(木) 15:02:08.05ID:y76YEOgF0176人間七七四年
2014/01/23(木) 17:24:35.73ID:A8OYVZHq0177人間七七四年
2014/01/23(木) 19:58:03.90ID:bUkoER/g0178人間七七四年
2014/01/24(金) 06:34:56.81ID:m6s3wWSH山形の8小学校
サケ好きだったとされる戦国武将・最上義光にちなんだ給食が22日、山形市の小学校8校で提供された。山形三小(酒井智子校長、423人)には甲冑姿の武将や市の観光PRキャラクター「はながたベニちゃん」が訪れ、郷土の偉人をPRした。
(つづく)
0179人間七七四年
2014/01/24(金) 06:41:59.88ID:m6s3wWSH城下町山形の礎を築いた義光の没後400年を記念し、市学校給食センターが企画。
給食は15日から市内の学校で提供している。メニューは県産サケを用いた「義光公もよろこ(ん)ぶ」昆布巻きをメインに県産米「つや姫」のムースなど。
山形三小の4年生の前に、最上義光歴史館サポータークラブ「義光会」の会員が扮した義光とその家臣、ベニちゃんが登場し、サケをおいしく食べたとの手紙が残るなどのエピソードを紹介。
給食を味わったTさん(10)は「サケ好きだと初めて分かり、違った一面が知れて良かった」、K君(10)は「義光公についてもっと勉強したくなった」と話していた。
山形新聞ニュース
「鮭様」の愛称は最上義光歴史館のこどもページの元ネタはあれ、
この「戦国板」が本家だと思ってる。
…(´・ω・`)(●Д゚)「正月の帰省で市内のスーパーで輸入物しかほとんど見かけなかったと思ったのに、県産のサケだと!?」
0180人間七七四年
2014/01/24(金) 06:47:15.12ID:9QQQ8Gg9なんでいまさら持ち上げるんだ?
0181人間七七四年
2014/01/24(金) 06:49:15.21ID:m6s3wWSH400とン年前
・一栗高春→可児才蔵がササガニだから高春と合わせりゃサルカニ合戦だね♪
・高橋亥之助→武太之助と名乗りなさい♪
・豆、楓、胡桃、松→元気(まめ)に帰って来る身を待つ♪
0182人間七七四年
2014/01/24(金) 06:56:03.85ID:m6s3wWSH「服部天皇」で検索する事を勧める。
0183人間七七四年
2014/01/24(金) 07:24:45.54ID:HJng9cB20184人間七七四年
2014/01/24(金) 08:38:25.41ID:9QQQ8Gg9てか妖怪マットにも関わりあるんか?
0185人間七七四年
2014/01/24(金) 12:27:25.02ID:NDh5QxQf山形の子は三傑の名前より先に最上義光を覚えるのかな
0186人間七七四年
2014/01/24(金) 13:21:19.38ID:m6s3wWSHで、義光祭が潰されて代わりに花笠祭に替えたり、
でん六の社長が郷土の英雄として最上義光の像を作ろうとした時も、服部氏やその取り巻きの団体らが「霞城公園は市民の憩いの場なんだから、そんなとこに奸雄の像を設置すんな」なんて服部氏の影響下の山形新聞のコラムで叩いたりしてたんだわ。
死後20年経過しても
大分薄れたと言っても権力者の陰はあちこちに海間見えるよ。
昭和生まれの山形市の人なら
多分肌で少しはわかるはず。
0187人間七七四年
2014/01/24(金) 13:35:17.94ID:m6s3wWSH※記事元にあった生徒名は伏せ字にし、他の山形に関しての地方ニュース『義光公も「よろこんぶ」サケの給食』他の記事からの折り込みもあります。
校長先生の名前は公職の方でしたので
伏せ字にはしないであります。
0189人間七七四年
2014/01/25(土) 00:27:40.28ID:CBCN/LEuこいつぁ中々凄いなw
0190人間七七四年
2014/01/25(土) 02:19:50.20ID:0/jF8+qA直に見ると結構感動する
武将が突っ立ってるだけの銅像とか、わざわざ作る必要性を感じないしね
あんなの作るくらいなら説明板に肖像画を貼っておけばいいだけ
0191人間七七四年
2014/01/25(土) 06:15:06.77ID:iQ6lVeQj兜の前立に利剣も着けてくれんかな?
米沢の火坂天地人の景勝と兼続の銅像はイメージが先行で
兼続(口伝の身長180a強〜190a弱)と
景勝(口伝の身長150a弱)なのを
同じくらいの背丈の像として作っちゃったりしたもんな
鹿児島のお兄ちゃんの銅像が不憫すぐる…
0192人間七七四年
2014/01/25(土) 06:29:53.95ID:iQ6lVeQj賎ヶ岳の戦いに敗れた柴田勝家は北ノ庄に落ちると、城下の僧を呼び寄せ敗残の将の姿を描かせ城を枕に自害を果たした
現在、柴田勝次郎氏の所有する柴田勝家の画像は有名だが保存状態が悪く、あちこち欠損しているために胴や袖の細部が判らない部分が多かった
しかし同じ絵の写本とされるものが江戸時代に纏められた『本朝名将百図』に残されている
図版の「柴田勝家図」はちぢれ毛(天パ調?)に破れ袖、膝の脇には前立付きの兜も描かれている他に
腕や臑、足は剛毛で被われ
注釈には「顔赤メ」等といった書き入れも見受けられる
写しのために原本と景色が幾分変わるかも知れないが
当時の人名の判る武将像を伝える貴重な史料と思える
※絵の兜の前立は有名な連鳥の家紋に脇立の着いた物ではなく、三つ柏葉?の様なもの
0193人間七七四年
2014/01/25(土) 06:35:36.13ID:iQ6lVeQj陣羽織無し・龍の絵の描かれた鎧の像として出てきます
0194192
2014/01/25(土) 07:49:12.36ID:iQ6lVeQj誤)注釈には「顔赤メ」等
正)注釈には「面赤メ」等
でした
0195人間七七四年
2014/01/25(土) 09:06:46.53ID:ApPv4Ikg父や近習の眼を盗んで遠くまで出かけた時のことである。
突然の大雨に見舞われた彼は慌てて帰路に着いたが、
川に差し掛かったところで行きに使った橋が流されていた。
立ち往生していたところ、向こう岸に近習の園田某の姿が見えた。抜け出した貴久を慌てて追いかけてきたらしい。
貴久と自分の間に流れる川を見ると事情を察した彼はざんぶと川に身を乗り入れた。
肩まで水につかり水面に見えるのは顔だけという状態である。
「さ、早くお渡りください」自分の頭を足場に川を渡れというのである。
貴久は「以下に君臣と言えどもそのような真似は出来ぬ」とこれを拒むが
園田も「いやいや、一刻も早くお戻りにならねば」と引かない。
そうこうしている間にも水かさはどんどん増していく。
度重なる懇願に貴久はとうとう折れて、
「されば許せよ」と彼の頭上を渡って向こう岸へ渡り、二人してずぶ濡れになって帰った。
貴久はこのことを大いに反省し、以後は学問にも身を入れるようになったと言う。
尤も、父の忠良にも日新柱のエピソードがあることから血は争えない、と言ったところでしょうか。
0196人間七七四年
2014/01/25(土) 21:28:01.75ID:lsDq6YDf0197人間七七四年
2014/01/25(土) 22:25:35.19ID:ApPv4Ikg0199人間七七四年
2014/01/25(土) 22:56:02.23ID:a37AOTxo九州の歴史も随分変わったんだろうなぁ・・・
0200人間七七四年
2014/01/25(土) 22:56:10.32ID:H8Rw5SNu0203人間七七四年
2014/01/25(土) 23:38:32.54ID:pcLEwBfO0204人間七七四年
2014/01/27(月) 03:41:26.99ID:t92X13ZI1580年代、出羽の有力国人の一人である谷地の白鳥長久は次第に勢力を拡大する山形の最上義光に恐れを抱き、
強大な後楯を得ようと中央で急成長をする織田信長に「我は信長様を敬い、また現状は出羽をまとめる者である、そこで出羽守である事を認めてほしい」と使者を送った。
これを知った最上義光は「羽州探題と出羽守は最上家が名誉、なぜに長久が詐称をするのか」と怒りを顕にし、家臣の志村光安を使者として、
最上家の系図と大きな白鷹、出羽産の名馬、月山打の長身の槍や刀を持たせて安土の信長の下へと派遣した。
面会の申請をしてそう日を経ず信長に呼ばれた光安は
出羽における最上の役割と
白鳥長久の非を丁重に、かつ簡潔に信長公へと申し上げた
信長「羽州の事柄には疎い部分があり、白鳥某の言う事を疑いもせずに信じてしまったのはこちらの非。
山形殿(義光)、いや、『山形出羽守』殿には大変に悪い事をした」
−と信長公は光安の口上に「正当な出羽守は最上義光である」といった書面を書き与えた
(つづく)
0205人間七七四年
2014/01/27(月) 03:49:18.68ID:t92X13ZI信長「地域の者にあって、そち(光安)は珍しく口才名誉(達者)であるな」
−と、信長公は手ずから三宝に金兵糖(金平糖)を盛り、光安に褒美として渡し
重臣に命じて城と安土の町を案内させて饗(もてな)したとも言う
現在山形市の最上義光歴史館に飾られている
長谷堂合戦で最上義光が被り直江兼続に撃たれた弾跡の残る兜は
この面会により信長公から最上義光に贈られた物だと伝えられています
0206人間七七四年
2014/01/27(月) 03:52:37.76ID:t92X13ZI「戦国魂」のホームページ「信長の金平糖」で形が確認出来ますが
現在の形に比べ突起が少なくなだらかで
形状はでん六豆を小振りにした様なものになります
0207人間七七四年
2014/01/27(月) 04:09:07.29ID:t92X13ZIttp://www.sengokudama.jp/m/sengokudama/confeito
0208人間七七四年
2014/01/27(月) 04:12:25.69ID:t92X13ZI外交でお菓子が用いられる例があったという事で
0209人間七七四年
2014/01/27(月) 04:49:27.38ID:kLmfAAz20210人間七七四年
2014/01/27(月) 04:52:13.58ID:M8AqJ2j90212人間七七四年
2014/01/27(月) 09:37:07.45ID:zKVzDjvt0213人間七七四年
2014/01/27(月) 20:38:56.15ID:MuOgBD7Y0214人間七七四年
2014/01/27(月) 21:56:39.88ID:B1HV1VgD『珍しい話を知ったので、正三道人にもお聞かせしようとやって参りました。
とある町に六十過ぎにもかかわらず、道心の欠片なく、欲深な老人があり、
長年その無道な振舞いに泣かされてきた息子がいい加減にと思い、方便して父へ、
「ちょっと町で儲け話を持ちかけられたんだけど、おれはどうにも暇がない。
親父は暇そうだが、この仕事は道心ある人でなければ無理だからなあ…」
と思わせ振りに言うと、どんな儲け話なんだと問い詰めてきたそうです。
それに答え息子が、
「神仏をまるで信じない親父には無理な仕事だと思うけれど、
三年の間、依頼者のため、一日に念仏を六万回唱えてくれる者があれば、
金子十両出すと言う話があるんだ。」
それを聞いた父は、
「さてもさても、ワシにこそ似合う仕事ではないか。
余所に話が行く前に、早く請けとって来い。」
息子は喜び、絶対に不正だけはしてはいけないと堅く約束をし、金を父に渡したそうです。
その日より父は朝から晩まで、数珠を放さず、約束通り二年ほど念仏を続けたのですが、
ある日、息子を読んで、
「ワシは老いて先の短い身だ。何を考えて二年前金を請けとったのだろうか。
我ながら浅ましい事を引き受けたものだ。
ワシはこの歳までなんの道心なく生きて取り返しがつかないだろう。
それを自分の後世に気づかず、他人の後世を朝晩願い唱えているとはなんと口惜しいことだろうか。
これより御念仏は我が菩提の為に唱えたいと思う。
この金は謝罪料を加えてもかまわないから返してきてくれ。
依頼者には誠に申し訳ないと詫び言しておいてくれ。」
と言ったので、それを聞いた息子は、
「わかった。謝罪して返しておくよ。」
と受け取ったそうです。
その後、老人はいよいよ菩提心起こり道心に目覚めたとのことです』【驢鞍橋】
0215人間七七四年
2014/01/28(火) 00:09:05.93ID:xdUQWoFp相手の士気を挫くためなら平気で女子供を犯させた髭だからなあ
信長だったとしてもあんたより巧く取り入るのは間違いない
0216人間七七四年
2014/01/28(火) 00:16:30.60ID:h6uHEA2/0217人間七七四年
2014/01/28(火) 00:54:05.42ID:C5DCxId0と反省して本来面目に目覚める仏教話だと読んだ
0218人間七七四年
2014/01/28(火) 01:01:56.22ID:0tdmNWKz侍A「あー賭けに負けたけど、金もないし担保もないや」
侍B「それならお前、清水寺に二千度参りしたそうだからその御利益くれよ」
侍A「えーそんなんでいいの?じゃああげたってことで」
→その後、侍Aは思わぬ罪で獄門に、侍Bは出世したそうな
ってやつがあったが、金で功徳を積めるもんなんだな
0219人間七七四年
2014/01/28(火) 01:04:55.83ID:Sp2fTn9p菩提心もやむなし
0220人間七七四年
2014/01/28(火) 07:11:27.09ID:d6BcGrvd0221204
2014/01/28(火) 08:41:03.19ID:RzbAfeJM天正5(1577)年?に白鳥長久が織田信長に馬を贈る
(羽州探題を名乗る許可を得ようとする)
↓
1577〜1580年頃?最上義光が「羽州探題は斯波家の流れを組む最上家にある」と信長に鷹や馬を贈る
(※204の逸話の大筋)
↓
白鳥側が「出羽は土豪国人が各々分し、裁定や仲介を纏めているのは白鳥である」「白鳥は斯波最上氏よりも出羽に古くあり、(信長の語る先祖同様)藤原の流れを組む名家」と信長に使者を送り義光を再び牽制
↓
前後し庄内の大宝寺義氏が信長に使者を送り「屋形号」を許可される
と泥試合の様相もあった様です
0222人間七七四年
2014/01/28(火) 08:51:24.44ID:RzbAfeJM0224人間七七四年
2014/01/28(火) 09:33:54.55ID:RzbAfeJM大宝寺の屋形号は1979年頃
双方勢力拡大中の最上義光への対抗策と考えられます
0225人間七七四年
2014/01/28(火) 16:40:43.99ID:RzbAfeJM誤)「羽州探題は斯波家の流れを組む最上家にある」
正)「羽州探題職は斯波家の流れを組む最上家こそが正統である」
の方が流れがすんなりと繋がりそうです
0226人間七七四年
2014/01/28(火) 16:41:55.07ID:1UTboCdk0227人間七七四年
2014/01/28(火) 17:18:14.94ID:qHOiVRkbこのうちの一人は堀や屏を巧みに越したので、後に堀平右衛門(定則)と呼び、稲葉正則に仕えた。
(此内一人堀屏ヲヨクコシタル故後ニ堀平右衛門ト云稲葉美濃守殿事フ)
――『武功雑記』
0228人間七七四年
2014/01/28(火) 18:11:37.10ID:RzbAfeJMお隣りだと
奥州探題…大崎氏の慣例世襲
陸奥国守護職…伊達稙宗
の例も
>>104も言ってるように、例の武田信玄のラブレター「浮気の弁明」って、
ほぼ100%に近い確率で高坂弾正に送ったものじゃないらしい。
結構いろんな戦国を扱った本とかにも書かれていることだが
高坂昌信は幼名は源五郎で「源助」と名乗ったことはない、ばかりか
歴史新書刊の『戦国武将と男色』によると
宛名の名字は「原物の苗字を消して」書き変えてあるとか。
弥七郎との男色遊びにうつつを抜かしていたことを疑われ、口うるさい老臣=源助に咎められた。
その弁明のため弥七郎を尋問に来させようとしたところ断られたとする、
いわば弥七郎と男色関係になってないただ親しくしょうとしていただけだが迷惑をかけてしまったという
反省と釈明文だったのではないか、としている。
その老臣とは山本勘助だろうと。
勘助は源助を名乗っていたし、そしてそれがすごいシックリときた。
0230人間七七四年
2014/01/28(火) 20:42:55.07ID:hQLvISrNこの頃、江戸の普請が行われていたが、福島左衛門大夫(正則)から、池田三左衛門(輝政)へ
言い遣わした事があった。
それはどのような事かといえば、福島正則の下女が逃亡し、池田輝政の屋敷に居たのであるが、
ある時福島家の中間が、池田家の屋敷の門前を通った時に彼女の姿を見つけ、とっさに追いかけ
台所の前で押し倒しこれを捕らえた。しかしここに池田家の侍や中間が出てきて、狼藉者であると
この中間を捕らえて監禁した。
福島正則はこの事を聞いて、この様に言った
「私は今回国を出立する時、家中の上下にこのように命じた。江戸の普請の最中、喧嘩を致してはならない。
頭を張られても堪忍した輩には、褒美を与える、と。
そしてもし喧嘩を仕掛けたものには、一族妻子まで同罪にいたすと命じた。
そのような所にこんな事件が起こり、是非に及ばぬ。
どうか、三左衛門の屋敷に搦め置かれている中間、並びに逃亡した女をお返し頂きたい。」
この事を使いを以って申し入れ、彼らが返還されると即座に首を刎ねた。
そして、その中間を捕らえた池田輝政の中間たちに対しては、かまわないので折檻などしないようにと、
正則より申し入れた。
この正則の対応に、池田輝政は大変神妙なご存分であると感心し、福島正則の屋敷に自ら出向き、
謝礼に及んだ。
また正則も翌朝輝政の屋敷を訪れ、
「昨日御出になられたことは忝い事です」と述べ、双方の言い分も全て相済んだ。
この池田輝政、福島正則は短慮かつ荒々しい人で、その被官以下常に戦慄していたのだが、
今回このように、神妙に紛争を治めた事は、あまりに奇特な事であったため、時の人たちは
これに感じ入り、また有る者は、「時分を待っているのだろう」と言ったという。
(当代記)
紛争になりそうな事件を平穏に治めたら治めたで、逆に話題になってしまったというお話である。
0231人間七七四年
2014/01/28(火) 20:50:28.02ID:X4gEuo5r0232人間七七四年
2014/01/28(火) 22:06:47.72ID:M0Bu/3yb0233人間七七四年
2014/01/28(火) 22:19:06.98ID:C5DCxId0政治的な力で必ずしも守られるわけではないが…
鍋島家と加藤(清)家もそれで揉めたよね
この話は時期が時期だけにってことかな
0235人間七七四年
2014/01/28(火) 22:34:32.89ID:4y4SD1WI0239人間七七四年
2014/01/29(水) 16:41:07.43ID:d5QP/6IU「誠ニ君々タレバ 臣々タリトカヤ 時ノ執事氏家尾張守 元来忠アリテ義アリ 謀ハ楠カ肝肺ノ中ヨリ流レ出ルカ如キモノ也」
『最上記』『続群書類従』ほか
天童合戦での延沢満延の引き込み、上山里見越後・民部親子調略、兼山の庭月広綱の引き込み、由利諸将懐柔、白鳥暗殺等「最上の勢力拡大における策謀」の多くを立案しながら、おいしいところは鮭様に譲って大樹の陰に徹した最上家の屋台骨、執事長・氏家守棟の人物評
0240人間七七四年
2014/01/29(水) 16:50:47.32ID:d5QP/6IU※大崎家と最上家の先祖は元々は同じ一つの家(斯波家)
※守棟と吉継は奥羽に下向した宇都宮氏族・氏家氏の子孫(遠縁)
0241人間七七四年
2014/01/29(水) 17:08:02.00ID:vQMBmOyn0243人間七七四年
2014/01/29(水) 20:04:24.54ID:LhXBngxhもっとも、新しい解釈が正しいとは限らんが
0245人間七七四年
2014/01/30(木) 13:02:55.52ID:uE2pb5xB関ヶ原の戦いの前哨戦である岐阜城の戦いで西軍は敗北、岐阜城は陥落した。
勢いに乗る東軍は、次の目標を大垣に定め、長良川の河渡の渡しにおいて
石田三成の部将・杉江勘兵衛らと交戦、これを討ち取っている。
揖斐川の呂久の渡しの守備についていた三成と小西行長は、事態を憂慮、
墨俣を守っていた島津義弘と協議し、その結果大垣城へ退くこととなった。
このとき、島津義弘はわずかな供廻りしか連れておらず、兵のほとんどは
墨俣に残っていた。石田・小西両勢が撤退してしまえば、島津勢は敵中に
孤立してしまう。おのれのみあくまでも退こうとする三成に対して、義弘の
家臣新納弥太左衛門と川上久右衛門が三成の馬の口を取り、考え直すよう
迫ったが、三成を翻意させることは出来なかった。司馬遼太郎の歴史小説
『関ヶ原』でも採り上げられている話であり、小説では卑怯と責められた
三成が馬上で「卑怯ではない、卑怯ではない」と独白する場面もある。
これがもとで義弘は三成を信頼できなくなり、合戦当日に非協力的な態度を
とるにいたる―というのが小説の筋。上記の話は実際に従軍した島津家家臣
大重平六の覚書がもととなっている。無論、三成独白の場面は司馬の創作で
ある。
一方、あまり知られてないが、こんな話も残っている。
退却が決まり、墨俣の島津勢は前線から大垣城目指して急いでいた。はや
日も暮れようとする頃、行く手より一騎の武者が駆けてくるのが見えた。
その出で立ちは、黒の具足・水牛の角の立物の兜を被り、供廻りも従えず
ただ一騎のみで急ぎ駆けてくる…。
「あっ、あれは治部少輔殿だ」
そう、三成であった。
島津勢が墨俣からの退却に難渋していると聞き、見舞いに駆けつけたのだ。
出典は、これも島津側に残った神戸久五郎の覚書。
二つの記録に登場する三成、まるで正反対w。
ひょっとしたら、先の話は島津家がお家のために創作したのかも。
0246人間七七四年
2014/01/30(木) 13:15:18.76ID:pnHGcZ8rで東軍に入りたかったけど、ご存知の通りでご破算
0247人間七七四年
2014/01/30(木) 13:18:47.90ID:pZ7zDfLS西軍についた責任を鳥居におっかぶせただけじゃないか
0248人間七七四年
2014/01/30(木) 13:45:19.32ID:9Cqd3mn5三成に協力してくれなんてことは一度も連絡されてないし西軍なんてもんは知らんよ
0249人間七七四年
2014/01/30(木) 14:47:53.84ID:pnHGcZ8r0250人間七七四年
2014/01/30(木) 16:18:08.13ID:HkdSXETq最上の執事
南条くん…鮭様
ヤマオカ…守棟
最上家の黒執事
シエル・ファントムハイヴ…鮭様
セバスチャン・ミカエリス…守棟
伊達家で言うなら片倉小十郎
…どれが手っ取り早いんだろう…
0251人間七七四年
2014/01/30(木) 16:19:26.00ID:HkdSXETq0252人間七七四年
2014/01/30(木) 16:26:47.81ID:gVogvtODウジ・ヤモリ・棟
と読んだら怒られるな
0253人間七七四年
2014/01/30(木) 16:26:51.41ID:8Eq9Z+rj司馬の小説でその後の話も載ってたような。
島津見捨てて置いて帰ったけど、やっぱヤバイというので様子を見に行ったって感じで。
0254人間七七四年
2014/01/30(木) 17:25:29.40ID:2gxSQ0ZA0257人間七七四年
2014/01/30(木) 17:59:03.27ID:YH16w5ma0258人間七七四年
2014/01/30(木) 18:15:28.36ID:4KLIDOmA立花家の道雪の甥の立花統春が、加藤家から逃げてきた罪人を匿ったことで
騒動になって切腹した話もあるね
0261人間七七四年
2014/01/31(金) 20:37:10.35ID:cr09cwaY高橋紹運は岩屋城にて壮絶な最期を遂げた際にこんな話が残っている
いよいよ自刃の際に
「火を放って死体を焼き、首を敵に渡さないように致しましょう」という意見があった。
それを聞いた紹運はこう答えた。
「その儀無用である。そのまま敵に首をとらせてこそ義を守って討死した事が分る。
死体が見えなければ逃げたと思う者もあろう。武士は屍を晒さぬもの、というが
それは死ぬ場所によるのだ。敢えて首を取らせよ。」
(筑後実記)
0262人間七七四年
2014/01/31(金) 20:39:10.97ID:QpF9bl2g俺の首も・・・誰もいらないか
0263人間七七四年
2014/01/31(金) 21:31:15.96ID:Xg1VsbmI戦場や志半ばで死ねば義の人って言われるけど
下手に生き残ったりすると胡散臭く言われるんだよな
0264人間七七四年
2014/01/31(金) 21:47:20.30ID:xSFv6YZ/生き残った赤穂浪士の苦労をことさら大きく描いた作品だったよ。
まあでも派手に討ち死にした軍勢のなかで生き残ると肩身狭い場合もあるのかもしれないね。
討ち入りした四十七士には武士だけでなく町人たちからも助命嘆願が出たけれど、
あまりにも武士らしい討ち入りを果たしてしまったから余生で傷がつくよりは、
武士らしいままで終わりにしようって幕府の武家的な温情からの助命嘆願は受けなかったという話もあるし
0265人間七七四年
2014/02/01(土) 01:27:41.59ID:az4wvYAw有り難くわしがいただこうぞ?
0266人間七七四年
2014/02/01(土) 17:35:37.15ID:PQLhydbM主君が分家すると、譜代家臣も同じように分家してついていくよね。
河内畠山と能登畠山なんかそうだし、そもそも越後守護上杉と越後守護代長尾もそうか。
0271人間七七四年
2014/02/01(土) 23:03:22.69ID:MGmk0fOq中川清秀がラスボスに騙される事もなくなって
光秀が山崎で善戦する可能性もあった
0274人間七七四年
2014/02/02(日) 03:11:42.28ID:esxUOGfp0275人間七七四年
2014/02/02(日) 04:43:42.08ID:esxUOGfp失敬
信長と利家の衆道話も史料の誤読誤解によって生じた出鱈目ネタらしい
0277人間七七四年
2014/02/02(日) 13:43:02.89ID:OB4Ti4Gk0278人間七七四年
2014/02/02(日) 14:11:52.05ID:lcoNgjKKあれって、一緒に寝た仲だ。じゃなくて
若い頃は宿直して信長の身辺警護をした親衛隊員だった、という意味なんだよな
それをいいようにはき違えたモノだからw
0279人間七七四年
2014/02/02(日) 18:47:15.65ID:ylAObyzl俺は信じないぞ
0280人間七七四年
2014/02/02(日) 22:28:17.22ID:lcoNgjKK原文見たって衆道を示す特別なことは書かれていない
0281人間七七四年
2014/02/02(日) 22:52:12.17ID:IwFYMU/y七福神で知られる布袋和尚もその一つで、背負った袋(堪忍袋)を開いて寛容と和合を人に分け与えるのだ。
文明三年正月三日、播州網干(あぼし)村のとある人が、赤松政秀と岳林寺の長老・布袋和尚が並んで座り、談笑している夢を見た。
夢の中の二人は一心同体のようで、和尚は時々政秀に飯を分けてその口の中に入れていた。
その人は不思議な夢を見たものだとずっと思っていたが、その年、網干村大倉が赤松政秀の所領となったことで、夢の内容をますます信じるようになったのである。
その後、播磨は大乱となったが、政秀は動じることなく衣食を数万の兵卒に分け与えて戦い、播磨を再び修復した。
これこそが夢の中で布袋和尚(と、その分身である政秀)が分け与えていた「飯」に違いない。
夢を見た人はそう考えて、夢の中の布袋和尚の絵を描かせ、政秀に献上した。
文明十年十月、私、天隠龍沢が塩屋城で政秀公に謁した時、政秀公がその絵をお出しになり、賛詞をお求めになられたので、このことを記したのである。
(布袋の賛)
この赤松下野守政秀(高枕軒歓岩性喜)は、黒田官兵衛と戦った赤松下野守政秀の父の養父(異説あり)で、赤松政則を支えて主家再興に尽力し、
播磨守護代として活躍した人物。
政則を養育した高僧・天隠龍沢は、『赤松政秀公寿像賛』に、
「応仁の乱の際、単騎京から播州に馳せ下って播備作を瞬く間に奪回し、政則支持でまとめ上げた忠臣。」
「性格は温潤で民は皆その徳に服した。彼と接した者は春風の中に座しているような心地になり、和やかな気持ちに襲われずにはいられない。」
とも記している。
この人がいなければ、戦国の播磨は本当に赤松本家(&龍野赤松家)の存在しない世界になっていたかもしれない
というほどの人物であるが・・・ヨイショ、凄いなあ。
0283人間七七四年
2014/02/04(火) 12:50:00.24ID:bItx0+UD複数人と斬り合いになって取り囲まれて斬られ昏倒したせいで
幕府から背中に刀傷がある→士道不覚悟とか無茶判定され幽閉された話が可哀想すぎて
0284人間七七四年
2014/02/04(火) 15:44:44.81ID:InqVpmDwと思う
確実な資料があるなら別だけど
0285人間七七四年
2014/02/04(火) 21:27:54.68ID:o7f2ZXVx「内府公(家康)が西上なさる時に、清州城を空け貸すように」
と伝えた。正則はこれを聞くと
「1,2泊の事なら意義にも及ばないが、久しく居城を空けるというのは、多くの家来の
妻子らまで尽く露頭に佇み、もしくは敵に捕われ恥を晒すだろう。
武士が戦場に臨む時は、家を忘れてこそ戦にも勇むものである。我が家臣たちが戦場に臨んでも、
跡に残った妻子の居所を心もとなく思えば、合戦の障りとも成るだろう。総じて城を持つというのは
敵を防ぐだけではなく、こういう時に妻子を心やすく籠め置く為である。こういう事なので、
その要請はいかがかと思う。」
長政はこれを聞くと
「貴殿の言われること、道理がないわけではない。だが、よくよく考えて欲しい。
今度、内府公の、美濃における敵との御合戦は、天下の安否全てこの一挙にある。
それは我々の身の上は申すに及ばず、妻子らに至るまで、その生死を定めるだろう。
これ以上の大事の合戦はない。
内府公が西上されて大敵を引き受けこの地に御在陣の間、総大将の居城もなく野陣にあって、
敵に心やすく思われ侮られるような事態になれば、それは味方の弱り、敵の強みと成る。
また、もし内府公に御勝利がなく、敵が勝つような事になれば、貴殿が城を失うのは言うに及ばず、
我々の妻子までも残らず敵のために殺され、恥を晒すだろう。
願わくば家来、妻子ら暫くの間窮屈を堪忍され、城外に出し置き内府公を城に入れられるのならば、
貴殿の忠功は莫大であり、内府公はこの城にあって諸大将が先々に動けば、軍勢の根深く蔕堅くして、
士卒らも必ず、強く戦に励むだろう。
私が考えるに、貴殿の方からの希望として、この清洲城をお貸ししたい、と申し上げられるのが
良いと思う。何故なら、貴殿は太閤(秀吉)の旧恩有る人なのだから、内府公の疑いを散ぜるためにも、
わざと城を離れて二心無きしるしを見せられれば、内府公もお心やすく、感悦されるだろう。」
この理を尽くした言葉に正則も服し
「このことは私の思慮が及ばなかった。貴殿の異見、その理至極である。」
と、異議なく清州城を空けることを承諾した。
黒田長政がこの事を江戸に注進すると、家康は
「もし尾張に逗留することになった場合、居城無くてはいかがかと思い煩っていたが、
甲斐守(長政)の才覚によって福島が同心したこと、私が望んだとおりだ。」
と、大いに悦んだ。
(黒田家譜)
黒田長政、その才覚によって清州城を空けさせる、というお話。
0286人間七七四年
2014/02/05(水) 02:10:49.42ID:UqTaEuqH0287人間七七四年
2014/02/05(水) 21:01:28.98ID:rR/x2MNn0288人間七七四年
2014/02/05(水) 21:13:45.10ID:4Km9AmUL0289人間七七四年
2014/02/06(木) 04:23:47.99ID:k5Xtgbge0290人間七七四年
2014/02/06(木) 04:49:59.88ID:ASxUWjc70291人間七七四年
2014/02/06(木) 15:01:46.67ID:8SKyAvCh神祖(家康)が三川(三河)に居られた頃は、配下に侍大将が8人いた。
大久保忠世は家中に集められた人質を管理していた。
酒井忠次は5000の兵を預かり、先陣の大将であった。織田信長から東国33カ国の武功の者と賞賛されたお方である。
大須賀康高はその次、本多忠勝も軍勢を率いる。
後の4人は誰だかわからない。
(大泉叢誌)
他の4人については本当にこれ以上書いてありませんw
0292人間七七四年
2014/02/06(木) 17:09:03.14ID:uujho66q0293人間七七四年
2014/02/06(木) 17:54:53.35ID:ac0sYaDd信玄は確定でいいと思うけど
0294人間七七四年
2014/02/06(木) 20:47:34.45ID:2tOHNFTxいわゆる木曽川・合渡川の戦いである。
このとき黒田長政は、わざと敵陣の近い方に進んで川下の方に向かい、合渡の宿の東、川端湊という
所まで行ったが、その辺りは川の淀みであり、水深が深く渡り難いものであった。
長政は川上に浅い瀬があると聞いて、士を少々召し連れて浅瀬の方を見ようと川上の方に二町ばかり
戻ってみたところ、何とそこから川上の方では田中吉政の先手の兵が今から川を渡ろうと、川端に
足をかけているような状況であった。
これを見た長政は「田中に先を越されては良いがいもない!」と、その場の、藤内瀬という場所から
川に乗り入れた。
この時黒田家の家臣たちは川下の舟渡の場所に集まっていたのだが、長政よりこちらに来いとの使いが来て、
我先にと長政の跡に駆けつけ、さしも深き大河を船もなく渡り始めた。
さて、半分ほど渡ったところで、川向に敵が数多く鏃を揃えて待ち構えているのが見えた。
しかし長政はこれにもひるまず、敵の多い方に向かって進んで行った。
家臣の後藤又兵衛はこれを見て「これは危ない」と思い、
『向かいには敵が多く鏃を揃えて待ち構えています!その脇の方に向かって渡りましょう!』
と言おうと思った。が、長年の間、長政のいつもの勇気(無謀とも言う)を知っていたので、
敵が強いなど言えばなんとしてもその方に向かい、脇に行くことはないと思ったので、
長政に向かってこう叫んだ
「どうして悪しき方に向かっているのですか!?」
長政これを聞くと、後藤の方へキッと振り向いて
「なんだと!?私が向かう方を悪しきとはどういうことだ!?」
「ただ今向かっている方向に待ち構えている敵は雑兵ばかりです!良き敵は、あちらの方におります!」
と、敵の少ない方を指さした。長政はこれを着いて
「ならば、良き敵の有る方に向かおう!」
そう言って敵の側面になる方向に向かって川を渡った。
(黒田家譜)
そんな、実に黒田長政らしい合渡川合戦の逸話である。
0295人間七七四年
2014/02/06(木) 21:52:06.02ID:BQwMF9SG0296人間七七四年
2014/02/06(木) 21:52:44.61ID:j1QXlBv90297人間七七四年
2014/02/06(木) 22:21:11.47ID:lDWxsm2t相賀光重と下毛野武盈は、この時の詳細を『播州置塩夜話 六花亭物語』(播陽万宝知恵袋と播磨鑑に収録。)に記している。
では、「赤松のシェフ」が書き残した饗宴を追体験してみよう。(六花亭は置塩城の茶亭の名前らしい。)
才殿は晩7つ刻にお越しになり、ご馳走が始まった。
最初に供したのは「狸食」。
本膳の真ん中に白飯、右に澄ましのかけ汁が入った汁椀、左にはネギ、柚子、大根、唐辛子などを刻んだ「かうとう」(香頭=吸い口)の入った盃を置いた。
食椀の底には鴨、鯛、スルメ、シイタケ、麩、干瓢、きくらげ、ゴボウ、人参、大根、こんにゃく、雪豆腐、昆布などが隠されていて、
香頭を汁に混ぜ、食椀にかけていざ喰おうという時に、何の変哲もない白飯の下から色々なものが出てくるのだ。
化かされたような心地になるということで、この料理を「狸食」というのだとか。
次の膳は、真ん中に味噌仕立ての雁汁、右に刺身(鯉、スズキ、チヨク、煎り酒を高麗の皿に盛ったもの)、
左に貝焼き(大貝、アワビ、シイタケ、クラゲ、干瓢、レンコン、玉子油豆腐、玉子油こんにゃく、ウズラ、鴨など)
次は食椀、御汁を左の方に置き、膳の脇に鯉の味噌煮、鮭の塩引き、シギかウズラの焼き鳥を添えた。
それに、宝命酒1返と、熊掌(油揚げにして、澄まし汁に酒を入れて調味したもの。生姜をすり入れて味を付けた。)を供した。
さらに
・チンタの酒(赤ワイン)1返と、ウニ
・延命酒1返と、タラの吸い物(澄まし仕立て)、剥き海老、かまぼこ(播磨鑑ではカマスゴ(イカナゴ))
・御酒1返と、玉子のふわふわ、クシコモドキ(クシコを細かに切り、ふわふわに入れる)
を供した。ここまでは屋形殿と才殿二人だけで召し上がった。
才殿の家老の神村と太刀持ち2名は、秋津民部や御屋形の太刀持ちとともに、玄関の内「具足の間」で、
狸食、鯉の刺身、鴨汁、イカの青和え、飯、鮭の塩引き、鱈の吸い物、御酒、かまぼこ、剥き海老、御酒、サザエの壺炒り、御酒、鮎の寿司を食べている。
0298人間七七四年
2014/02/06(木) 22:23:44.30ID:lDWxsm2t松竹の台に載せられた肴(色々の刻み物、組み物(盛り合わせ))と、二合入り、三合入り、五合入りの椰子盃が出され、
家老や重臣達がそれを頂き、拙者(下毛野)も家老に御盃を頂いた。
猿楽師・明石小大夫は
「天津神、八千代も同じ日ノ本の、光絶えせぬ神の道、今末の世に受け継ぎて、下方民に至るまで、君の恵みを仰ぐなり♪」
と小謡を披露。
この時、鯛イッコンヤキ(ホンテ)、ナマコ・クラゲ・角小ヘキのふくら炒り、辛螺(巻貝イボニシ)の壺炒り、延命酒、ふわふわ、吸い物が各自に供された。
置塩家老・山田助九郎は、才殿の家老・神村を呼び出し、五合入りの椰子盃をさした。
この時に出ていた料理は、
かるも川という三升入りの緑の大皿鉢に生姜酢を溜め、アマノリ、但馬海苔を打ち振り、ヒジモ、葱、大根、人参、ゴボウなどを散らしたもの。
酢鯛も出た。
神村は置塩家老・福岡助九郎とともに猿楽立会を始めた。
片足を上げて手を振り足を振り、猿の顔真似でにらみ合い、口を開け扇を持って入れ違い、顔をしかめ首をねじらかす二人の面白いこと面白いこと!
料理の方は、酢イカ、柏の黒和え、玉子のふわふわ、
御挽き茶(抹茶)、お菓子(有平糖=ポルトガルから伝わったキャンディー)、柏など。
暇乞いにあたって福岡は、口上を述べ、ご馳走のお礼として3mほどの縄を使った富引(福引)を持ってきて、屏風の陰に隠れて袋を握った。
そして、無礼講の御免として、屋形殿を始め上下分ちなく、無刀にて縄を引き、屋形殿はエビラ、才殿は碁盤、神村は叩き鉦、
湯浅将監は下僕「毛八」、松田将監は箸箱、黒川道伯は床枕、橋庄蔵は腰元「たん」、猿楽師は猫、宮森道林は笛を引き当てた。
何と面白いことだろうか!
やがて上下ともくたびれ果て、宴はお開きとなった。
この乱酒で両家の家臣団12人が呑んだ酒は、合計6斗6升。
山田助九郎は5升、福岡十太夫は7升、黒川道伯は8升、神村は9升呑んでいる。
0299人間七七四年
2014/02/06(木) 22:24:48.38ID:lDWxsm2t神村達にも同じ料理を具足の間で振舞われた。
この時のメニューは
・鯛のなます。かまぼことアワビ入りのイモマキ汁。赤貝の澄まし物。粟飯。
・ドジョウ汁、焼き海苔(アマノリツクモ)。御酒1返。
・酢イカ。御酒1返。
・さざれ石という大皿鉢に、大根、人参、干瓢、きくらげ、紫海苔、柚子、サザエ、ニシ貝等の酢の物。
・酒1返。猿の木耳焼き。
・引き茶。御干菓子。(ただし、才殿には雀の焼き鳥)
であった。
これで才殿はお暇を乞われ、溝居へお帰りになられた。
なお、才殿からは鶴1羽、延命酒5升、鯉1コン、タイ1枚、勝男10節。神村からは鴨2羽、勝男10節がお礼として届けられた。
なお、相賀光重と下毛野武盈は、天正元年、赤松則房が宇野下野守をもてなした際にも狸食を出しているが、この時は精飯でなく、蕎麦に汁をかけている。
0300人間七七四年
2014/02/06(木) 22:32:14.15ID:kfvVTbbn0301人間七七四年
2014/02/06(木) 22:46:20.26ID:lDWxsm2t×猿の木耳焼
○猿の木取焼(ことりやき)
でも、どんなものかは分からない。
0302人間七七四年
2014/02/06(木) 22:49:31.01ID:qxnoQLjT0303人間七七四年
2014/02/06(木) 23:25:56.97ID:mKEDwHO3でも喰いたい。
赤松の献立には及ばぬが喰うぞ!
0304人間七七四年
2014/02/06(木) 23:47:25.36ID:j1QXlBv90305人間七七四年
2014/02/06(木) 23:51:04.11ID:r/x/pdyVこれ?江戸時代からとか書いてるけど
0306人間七七四年
2014/02/07(金) 00:20:16.37ID:2Xilqmmi0307人間七七四年
2014/02/07(金) 00:22:27.12ID:2Xilqmmi0308人間七七四年
2014/02/07(金) 00:27:36.23ID:523ZGKqr0309人間七七四年
2014/02/07(金) 00:29:59.23ID:9TqkH9Uqそれでも9升は多いが
0310人間七七四年
2014/02/07(金) 00:54:10.41ID:7Bv4cmy6地域おこしグルメとして復元してみては?
家老の神村のメニューとか、いい感じに収まりそうだし。
鍵はやはり調味料か・・・
0312人間七七四年
2014/02/07(金) 01:39:27.44ID:7Bv4cmy6となると、随分イメージが変わってくるね。
ちなみに『播州置塩夜話 屋形物語』(天正2年正月1日 相賀重茂、毛野武盈)では、
「右方すまし汁しるわん、左方そばゆで盛食わん、わんの前に小皿にかうとう、とうがらし、わさび、葱細に、大こん、かつほ、柚等きざむ。
さて客、食椀ふたをとり、汁わんふたを取、汁にかうとう望次第かきまぜ、そばにかくれば、下より種々の物、下より出る。
出と云か、鴨、鯛、しいたけ、あはび、木くらげ、麩、せん、玉子、油とうふ、雪とうふ、同こんにやく、雪もち、あぶら上のにんじん、
牛房、かうぺう等出る。下もりに仕也。」
となってます。
0313人間七七四年
2014/02/07(金) 11:35:31.20ID:xTjnP8DBこの日記は永禄八年分しか残ってないので、一年を通した食事の内容に相当します
主食
麺(饂飩・碁子麺・38回)・餅(焼餅・善哉・76回)・飯(麦飯・湯漬・焼飯・雑炊・茶漬・小豆飯・揚花・芋粥・割粥・挽粥・276回)・饅頭(20回)・茶菓子(38回)・その他(打麦・雲門など)
食材
米(餅米を含む自家製)・小麦・大麦・大豆・大角豆・山芋・里芋
蕪・茄子(自家製)・葱・韮・大根(自家製)・ウド・榎茸・松茸・筍・鶯菜・東坡
瓜(自家製)・梨・柚(自家製)・栗・柿・蜜柑(自家製)・杏・桃
豆腐・海苔・麩・串柿・昆布・干松茸・茶(自家製)・煎餅・菓子・宇治茶
副食についての記述は少ない(61回)ので、実際にはさらに沢山の食材が使われていたと思われる
寺領中には田や茶園や果樹園があり、また立野としていた山野まで備えているため山菜は豊富に供給出来た
不足していたのは昆布や干松茸のような加工品で、これは遠隔地と取引している土豪から貰っていたようだ
ちなみにここは禅寺なので、魚類肉類は皆無・・・ではなく元旦には食している
麺・蛸煮・田楽・曳干(魚の干物)・雑煮 等を肴に年始の客とともに八日間にわたって酒を飲んでいた
酒と雑煮は特に、大工や寺民や鍛冶・草刈りに至るまで広く振る舞われたようだ
なお料理の味付けはほぼ味噌である
0314人間七七四年
2014/02/07(金) 13:21:21.06ID:balV8J820315人間七七四年
2014/02/07(金) 14:44:25.43ID:KkgO+KmH0316人間七七四年
2014/02/07(金) 14:49:52.50ID:KkgO+KmH>なお、相賀光重と下毛野武盈は、天正元年、赤松則房が宇野下野守をもてなした際にも狸食を出しているが、この時は精飯でなく、蕎麦に汁をかけている。
天正元年なら宇野下野守は赤松政秀の事じゃないよね。息子の誰か?
それとも天正じゃなく元亀の元年?
0317人間七七四年
2014/02/07(金) 15:06:22.91ID:BI2ukBVI「徳川殿が諸将をひきいて攻め上られれば、拙者は居城清洲をそっくりお渡しします。」と
NGMSありきで言ったんだろうけれど、空け渡す序でに先陣を望んだ上に黒の駿馬賜ってる
事前に決まっていたのか、はたまた政治的やりとりも上手かったのだろうか
0318人間七七四年
2014/02/07(金) 18:59:56.10ID:7Bv4cmy6天正元年です。
「天正元年十月八日宇野下野守参上、夜食出と。ほら進上、鷹一羽、鯉二こん、鯛五枚・・・」
家臣団の名前から推測するに、宍粟郡長水城主・宇野下野守祐清かと。
0319人間七七四年
2014/02/07(金) 20:05:51.58ID:KkgO+KmH民部大輔の前の名乗りだったのかな?
0320人間七七四年
2014/02/08(土) 01:36:10.49ID:wfRVODml真のsuky(数奇)を本業とする人の中には、すべての点で他の誰よりも優れた人が必ず1人いて、
そのために他の人から重んぜられ、尊敬される。
その人は、この宗門または芸道の師匠や頭領であり、それはjenxos(禅宗)―この芸道はそれを模倣している―を真似て、
俗にsukynovoxo(数寄の和尚)と呼ばれている。
その頭領すなわち師匠は、あたかも我々が「博士」と呼ぶように、この名前で呼ばれている。
この事に関連して、注意しておかねばならないのは、すべての学術、工芸には、
ふつうその道において他のすべての人より優れている1人の師匠や頭領がいるが、全ての者が彼らをそういう人だとして認め、
その方面で彼の教えに従っているという事である。
それらの中の何人かは、国王から称号を授けられ選び出されて、権能を与えられる。
0321人間七七四年
2014/02/08(土) 01:38:25.13ID:wfRVODmlまた、往々にして、ある者たちは、自分たちを認めてくれるような者がいなくて、かかる者として自分で名乗り、
Tencaichi(天下一)を自称する。
それは、この道にかけては国内で最も主要な者、caxira(頭)、すなわち頭領の意であり、
もしも世襲で、同一の団体が多数あれば、団体または仲間の頭領の意味で、zagaxira(座頭)という。
これらの人々は自分の家の戸口に看板や表札を掲げるのが習慣となっていて、
たとえば、書写用などの毛筆を作ることで、全国で最も優れている者は、Fude tencaichi(筆天下一)と書いておく。
0322人間七七四年
2014/02/08(土) 01:40:37.72ID:wfRVODml天下の首都、Mayaco(都)という宮都では、門の入り口のように、全ての人が行きかう都市の広場や公道や大通りに、
次のように書いた立札を立てる。
「某地の某、日本国中、すなわち天下の剣術の達人、某通り、または某家に居住す。
異議ある者、挑戦を希望し、木刀または真剣をもって試合したい者は申し込まれたし」
もしも、誰をそれを求めず、挑戦する者もなければ、
天下の首都に、あえてそれを否定しようとするものがいないのであるから、確認されたことになる。
(日本教会史)
0324人間七七四年
2014/02/08(土) 17:25:26.50ID:mYm7n5SY正月二日、志州は唐津城下で馬揃をして見物した。この時、何としたことだろうか、
人喰馬が轡を脱して駆けて来た。
千賀はこれを見て袴のももだちを高くとって馬場の中に走り向かい、片膝をついて待った。
この馬が千賀を見て眼を開き牙を剥いて飛び掛ったところを、
千賀は立つやいなや馬の平首を抱いて押し伏せて膝で平首をしき、手を挙げて馬副を招くと、
口を割って轡をはめさせた。
――『武将感状記』
0325人間七七四年
2014/02/08(土) 20:43:21.72ID:DYVeuB5O同10日、尾州熱田に御着、11日に清州城に入られた。軍兵は城中から溢れ、町中付近に
充満した。
清須に1日滞在され、人馬の労を休め、13日岐阜に御着された。翌14日朝岐阜をお立ちになり、
この日は進軍する姿を敵に見せないために大垣の敵方をわざと避け長良川を越えて、横大路呂久川を
渡り、西の保片山を経て赤坂の後ろ、虚空蔵山と、その北南禅寺山との間にある金地越を通られた。
赤坂に居た東軍諸将は途中までこれを御迎えに出て家康公に拝謁した。家康公は、諸大将の
これまでの苦労を謝せられた。
ここで本多中務大輔(忠勝)が、家康公の輿の傍に寄り、あたりの人間を密かに下がらせ、申し上げた
「黒田甲斐守(長政)の計略により、筑前中納言(小早川)秀秋、御味方に参られ返り忠を
仕るということで、甲斐守より互いに人質を取り交わし、堅く契約申し置いたということです」
この詳細を聞くと、家康公は御輿の中より高らかに言った
「筑前中納言が、味方に参り返り忠をすると申し入れてきた!合戦はもはや勝ったぞ!」
諸人はこれを聞いて、喜び勇むこと限りなかった。
この日、西の保を通られた時、美濃国安八郡八條村瑞苑寺の禅僧が、大きな木練柿を一折り、
杭瀬川の傍で家康公に献じた。
家康公はその柿を一つ手に取られて、「大がき(大垣)既に手に入りたり!」と仰せられ喜び、
残りは近習に与えた、ちなみにこの瑞苑寺には後で田地を附け与え、寺号を『柿寺』と改めさせた。
14日午の刻(正午)、赤坂の岡山に到着された。
(黒田家譜)
黒田家譜より、徳川家康が江戸を出て赤坂に到着するまでの模様である。
ここでも神君のネーミングセンスが遺憾なく発揮されていたのである。
0327人間七七四年
2014/02/08(土) 20:54:15.11ID:34l7ZZPmこのコメントで
>209
家康「大柿が手に入ったわい」
ってあったのはそのせいか
0328人間七七四年
2014/02/08(土) 23:49:41.14ID:QmtTzYi70329人間七七四年
2014/02/09(日) 09:16:01.75ID:lmtg7MGEいろんな武将の前でこれから敵の誰かが裏切るとか言ってていいんだろうか。
0330人間七七四年
2014/02/09(日) 16:07:47.26ID:ZIqDdczn炭は湯が沸くように燃やし、茶はよく飲めるように点てるのがコツです」と答えた。問うた人は不機嫌に
なって「そんなことは誰でも承知していることです」と言うと、利休は「ならば、私が言った通りの茶を
点ててみてください。それが出来たら私はあなたの弟子になりましょう」と言い返した。
すると、その場に同席していた笑嶺和尚が「今の話は唐の道林和尚の『諸悪莫作 衆善奉行』の教えと
同じですな」と言った。(南方録)
唐の時代、仏僧の道林和尚は詩人の白楽天に『諸悪莫作 衆善奉行』(悪いことをせずに良いことをせよ)
と言うと白楽天は「そんなこと3歳の童子でも知っている」と答えた。すると道林和尚は
「3歳の童子が知っていることでも80歳の老人すら実践するのは難しい」と応じた。
0331人間七七四年
2014/02/09(日) 22:33:31.42ID:gXyZEWaL0332人間七七四年
2014/02/09(日) 22:39:18.24ID:lJkkkQqAこっちの話では笑嶺和尚は出てるが、『諸悪莫作 衆善奉行』だけ抜けてるな
0333人間七七四年
2014/02/10(月) 07:18:02.30ID:l/xnaAIKカイクジン(海狗腎)という魚を調理して進上した。
この魚を食せば長命になると言われているそうだ。
この魚には、向かい合ったヒレがあり、身体には毛が生え、長さ一尺(約30センチ)、横幅が
4,5寸(約15センチ)程であったという。
別名にヲツトセイとも言うそうだ。
(当代記)
徳川家康、オットセイ料理を献上されるというお話。
0336人間七七四年
2014/02/10(月) 10:38:12.91ID:lkxvww1I0338人間七七四年
2014/02/10(月) 18:07:05.63ID:MPRjJTKC天正8年(1580年)8月、佐久間信盛・信栄親子は対石山本願寺戦における怠慢を
叱責され、織田信長より追放処分を受けた。持ち場であった天王寺の砦から
すぐに退去せよ、という命令であったため、手持ちにあった黄金20枚ほどを持ち、
とりあえず高野山を目指した。当時、信盛は七カ国の兵を動員する権限を有し、
それは織田家中で最大の軍事力といってよかったらしい。それが一枚の譴責状で
このざまである。つき従う者もわずか三人。周囲が信長を恐れたためか住む所も
なかなか見つからず、天王寺を出てから一ヶ月後にようやく落ち着き先を得る
ことが出来た。親子はそこで頭を丸め、信長の怒りがおさまるのを待った。
このとき、いまや乏しくなった懐から半分を出し、落ち着き先の金剛峰寺の
坊主に食事など身の回りの世話を依頼している。そして、こうも頼んだ。
「この身に不測の事態が起きたならば、お預けした金子で石塔を建てて下され」
(震え声)( TДT)
哀れである。しかし、信長の怒りは解けない。
「高野山に住まうこともまかりならぬ」
わずか10日後、親子は新たな落ち着き先を求め旅立つ。去り際に、もしもお怒りが
解けて復帰がかなったら200石寄進します、と連名で認めて坊主に渡しているのが
わびしい。事態がここまで悪化すると、つき従っていた供の者も「こりゃあかん」
と親子を見捨てて逃げてしまったらしい。お先真っ暗、どん底である。
だが、僅かな光明が灯された。
親子を慕って一人の家臣が駆けつけてくれたのである。
その若者はまだ十七歳。少し前に父親を亡くし、近江国で喪に服していたが、
主親子が追放と聞いて、いてもたってもいられず、高野山に向かい、方々捜して
ようやく熊野に向かう途中の親子を見つけ出すことができたのである。若さって
すばらしい。信盛はその忠心に涙し、何も与えることができぬ、せめて我が姓を
受け取ってくれ、と佐久間姓を名乗ることを許したという。
さて、高野山を離れた親子は、最終的に現在の十津川村に落ち着き、この地の
温泉(湯泉地温泉)で湯治をすることとなった。若い信栄はともかく、既に老境
に入っていた信盛は、追放により精神的にも肉体的にも相当なダメージを受けた
と思われる。悲しいことに養生にもかかわらず、追放からおよそ1年後、信盛は
息子と若者に看取られながら十津川で没する。涙する若者 (;´Д⊂)
信盛の死から半年、さすがに哀れに思ったのだろう、信長は信栄を呼び戻し、
赦免を与え再び出仕することを命ずる。喜ぶ信栄の横にはまたまた涙する若者の
姿があった。
0339人間七七四年
2014/02/10(月) 18:08:49.85ID:MPRjJTKC政争に巻き込まれ、所領没収のうえ、息子とともに寺への蟄居を命ぜられる。
彼の脳裏に、旧主の姿がありありと映し出されたことだろう。だが、彼は旧主の
ように「待ち」の姿勢をとらず、己の運命を変えるべく親子して「攻め」に出たのだ。
自らの不遇を利用して、敵方勢力に味方すると見せかけ、相手の懐に飛び込んだ
うえで敵大名を暗殺してみせる、この献策が入れられぬと分かると、今度は息子の
方が勝手に寺を抜け出して戦に参加しようとする。関所で見破られ送り返される
と、あらためて通過のしやすい商人に成りすまし関所を突破、戦場へ駆けつけるが、
戦は和議が結ばれた後だった… ( TДT)
和議が破れ、再び戦が始まると、好機到来とばかりかつての同僚の軍勢に親子して
加えさせてもらい再起を懸ける。合戦が始まり敵勢目掛けて突進するも、前に出過ぎて
息子及び同道した弟は討ち死に……(;´Д⊂)(;´Д⊂)(;´Д⊂)
だが、彼等の死は無駄死にではなかった。失脚から15年、息子らの戦死から13年も
経っていたが、かつての若者、既に60歳を超えた老将は罪を許され、大名への復帰に
成功したのである。感涙を流す周囲の者を見つめ、はて、いつかどこかで見た風景…
と彼が思ったかどうか…。
彼の子孫は、二度と領地を手放すことはなかった。小さいながらも大名として存続し
続け、明治の代を迎えた。
牛久藩初代藩主、山口重政のお話。
0340人間七七四年
2014/02/10(月) 20:51:02.60ID:lkxvww1I0341人間七七四年
2014/02/10(月) 23:23:12.13ID:an7pd4us四民の行為も何ごとも急げ。たとえ立身できるとしても、老いていれば晩年は短い。
日が暮れて道を急ぐことになるであろう。
(人は少年に学び、壮年にはやく立身すべきことなり、四民の所業もなにも急ぐべし。
たとひ成得ても老あれば末短かし、日暮て道をいそぐなるべし。)
(以下、例えをまじえて同じことを述べている)
――『東海夜話(沢庵宗彭著)』
このように沢庵は学ぶことそのものは肯定しているので、
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8215.html の記述は学ぶなという話ではなくて、
「学ぶ人は自己を持って悪智慧を生じないようにしろ」ということなのだろう。
0342人間七七四年
2014/02/11(火) 00:17:20.77ID:12PwH1cW0343人間七七四年
2014/02/11(火) 00:39:34.08ID:ULwduIJgいまいち意味が理解できなかったのと、締めの言葉からして結局同じことのようだから省略した。
(北地陰寒の国には春の花おそし、陰寒にささへられて然り。しからば秋の花は末の陰寒を考えて
疾くひらくべけれども、節序あればこれも前年の寒気春に持こして、そのいたみにや、
秋の花もおそくさき出るゆゑに、又来る秋すゑの寒気にあたりて、さかりもほどなきなり。
人の中年すぎ立身して、すゑの短きが如し。)
註によると「皆少年に学ばざれば何の業も上達し難し、少年時は四季に於ける春なり、
此の時に於て充分養ひを取らざれば秋に良果を収むることかたし、」とのこと。
0344人間七七四年
2014/02/11(火) 01:08:01.70ID:U74Vycw/ドラマだねえ
しかし懐に忍び込んで暗殺してみせる敵大名って豊臣秀頼のことだよね、色々と凄いこと言うね
0345人間七七四年
2014/02/12(水) 16:32:39.93ID:1JpDUISNではここで山口さんが苦労するに至った、関係の深い方に伺いましょう。
いかがですか、このお話の御感想は?
正純「ふむふむ、で、佐久間信栄殿は200石を寄進されたのですかな?」
0346人間七七四年
2014/02/12(水) 22:00:29.59ID:eCUrkUs70348人間七七四年
2014/02/13(木) 14:12:10.66ID:3K72IIoxそりゃ周りがメダルを期待するのも当然
やっぱり重圧だったんだろうな
でも不利な条件でよくがんばったよ
彼女を責める日本人は一人もいないと思う
0349人間七七四年
2014/02/13(木) 14:13:07.98ID:3K72IIox0350人間七七四年
2014/02/13(木) 19:24:04.83ID:lpnw1paa張本人であったのだが、戦場にでも死なず、猶も命を逃れんとしたのか、ここかしこに隠れ居たのを、
皆搦め捕られて、先に大阪に遣わされ、諸大名登城の途中に晒された。
この時、石田治部少輔が搦め捕られているところを、諸大将は何の会釈もなく通り過ぎたが、
黒田長政ただ一人は、石田三成の傍に寄って、
「今度不慮のことが起こり、貴殿の成り行き斯くの如くとなり、無念千万な事でしょう。
去りながら武士は古よりかかるためしも多くあり、恥辱とは全く思いません。」
このように懇ろに懇ろに言ったので、治部少輔も流石その情けに感じ入ったのか
「このように成り果ててしまっては、誰かあって哀れという人も無いのに、誠に情け深く思われます。」
そう言って感涙を流した。
その後この3人は、町中を引き回し、また京都に遣わされ、十月朔日、あやしげなる荷車に乗せ、
天下の大敵であるので、先例に従って大路を渡された。京中の貴賎男女がこれを見物した。
一番は石田、二番は小西、三番は安国寺であった。そして六条河原で首を刎ねられ、
三条の橋の傍に獄門にかけられた。
(黒田家譜)
黒田家譜では、三成に声をかけたのは黒田長政一人だったということになっている、というお話。
0351人間七七四年
2014/02/13(木) 19:56:50.67ID:Tvnh2NTZ0352人間七七四年
2014/02/13(木) 20:04:08.47ID:2bWKOb590353人間七七四年
2014/02/13(木) 23:44:51.91ID:PTUORU8V慶長元年冬。豊臣秀吉の奥歯が、抜けた
すでに60をこえた老人であるから無理もないことだった
彼はそれを拾い上げて、しばし眺めると
「これを、左馬介(加藤嘉明)に預けておこう」
そう言い出した
『一歯一本、其方ヘ預ケ置候也 慶長元年 極月 秀吉
加藤左馬介とのへ』
そんな手紙と共に、豪華なケースに入れられた歯が京都・豊国神社の宝物殿にありましたとさ
秀吉は嘉明のことを結構気にかけていたのかもしれないと感じたわ
0354人間七七四年
2014/02/13(木) 23:53:05.86ID:CUk0U8Ep0355人間七七四年
2014/02/14(金) 00:02:47.44ID:mhY8AtC70356人間七七四年
2014/02/14(金) 01:37:30.09ID:AcbzGhjf0357人間七七四年
2014/02/14(金) 07:54:24.52ID:+JHJY72M矢沢永吉の奥歯だって価値が出るやもしれん
0358人間七七四年
2014/02/14(金) 08:01:12.67ID://AIZCJn…いい話なのか…
いい話…
いいはなし…
いい歯なし…
(゜m゜;)!
良い歯無しなのかっ!!
0360人間七七四年
2014/02/14(金) 08:49:03.93ID:M2m21C9Gとか秀家は?長束正家は?とかならないか
0362人間七七四年
2014/02/14(金) 14:14:57.25ID:0dMqAAbc0363人間七七四年
2014/02/14(金) 21:01:16.03ID:XBJy8bnzよく聞くけど?
逆に小西が首謀者とは全く聞いたことない。
小西は成り行きで西軍に組み込まれたタイプのはず。
0364人間七七四年
2014/02/14(金) 21:06:30.66ID:7BjaOQEG西の丸に移り、諸方に内通を勧める回状に判形し、あまつさえ四国へ派兵し、その罪は莫大である。
しかしながら一族の吉川広家が、東軍に志を通じたその功績により、輝元は死罪・流刑を相赦し、
広家には中国地方のうち1,2ヶ国を与えるべきである、と議定した。
これにより広家を兵部少輔(井伊直政)宅に召し寄せ、『広家の今度の忠義に感じ入った故に、
中国の押さえとして周防長門の両国を与える』という徳川家康の内意を伝え、毛利家よりの人質であった
粟屋十郎兵衛も差し返した。
しかしこれを聞いた吉川広家は
「思いもよらない、身に余る有難き仰せではありますが、もとより今回のことは、自分の身上を考えて
行ったのではありません。あくまで本家である毛利輝元の家を御立て下さるようにと存じ、先にも私は、
私に対しての報奨はお断り申し上げました。
今度のことは、決して輝元の心底より出たものではなく、ひとえに安国寺が策略をめぐらし、
奉行衆の言うに任せて、秀頼様のご命令であると信じてしまったために、是非に及ばず
ああなったのです。輝元に思慮がないことは、内府様も良くご存知のことです。
勿論、輝元のこれまでの分国を相違無きように、などということは申し上げるべきもない話ですが、
私に拝領される予定の国を、輝元に下されますように、どうか取り持ちをお願い致します。
もしこれをお聞き届けないのであれば、私についても、輝元同様に申し付けて下さるように、
幾度でもこれを申し上げ続ける覚悟を決めました。」
この返答に、黒田長政は福島左衛門大夫(正則)、井伊兵部少輔(直政)と相談した上で、
書状を広家に送った。その詞には
『尚々、今回のことは兎にも角にも井兵少(井伊直政)、福左大(福島正則)、そして私の
3人に任せ置いて下さるようにして下さい。さらにこの他に頼るような事は、決して無いようにして下さい。
さてもさても、中国についての事は、今日明日にも決定されます。あなたのご分別次第なのです。
井兵少に仰せになったあなたの御覚悟は、とても不可能なことだと思いますが、必ず、私と福左大が
家康公にお目にかかり、あなたの心底を残らず申し上げます。
しかし、中国の内、せめてあなただけでも大名として残ることは、家祖である毛利元就公に対し
報告するのにこれに過ぎた事は無いでしょう。中納言殿(輝元)と同じ処分を望まれるというのは、
一応二応まではご尤もにも思います。ですがそれで、あなたご自身も滅ぼしてしまえば、元就公に
どのように報告されるのでしょうか?どうか、分別のない考えはしないで下さい。
10月7日 長政 判
吉殿様参 』
しかし広家はこれでも承知せず、返書に、長政および福島正則に宛てて、起請文を付けて、心底の趣きは
変わらないということを申し越した。この事はついに家康の聞き及ぶこととなり、広家の誠実さを、
律儀至極であると感じ入り、「輝元の今回の罪は莫大であるが、安国寺の策略によってああなったというのは
紛れも無いと、輝元も誓紙を以って釈明したのであるから、この上は広家に与えるはずだった防長二国を
輝元親子に仰せ付ける」と決まった。
(黒田家譜)
毛利家が防長二州を安堵されるまでの顛末である。
0366人間七七四年
2014/02/14(金) 22:23:17.97ID:Nf6SSgKt家康と広家で一芝居うったって事にしてたな
0367人間七七四年
2014/02/14(金) 23:00:20.60ID:DrzEoWWRひとりは柳生流の高弟、紀伊家の木村助九郎、もうひとりは元茂さまであった。
どちらかに決めようとお考えになられ、
二人に剣法の極意を書いて差し出すようお命じになられた。
助九郎は奉書三枚に剣法の理を細かく説明書きしたものを差し出した。
元茂さまは、
「善いと思うのは悪い、悪いと思うのも悪い。
善悪ともに悪い。
無心となり雑念ないのが善い」
とだけ書いて差し出した。
それを家光公はたいそう感心なさり、元茂さまを師匠としてお稽古を始める予定であったが、
元茂さまが亡くなられたので、残念ながら実現することはなかった【葉隠】
0368人間七七四年
2014/02/15(土) 02:06:55.83ID:cqitO8670369人間七七四年
2014/02/15(土) 06:22:10.22ID:DuOpY85Q0371人間七七四年
2014/02/15(土) 12:10:02.55ID:sTbst9olいきなり「考えるな 感じろ」とかだけ教えられても困るじゃん?
0372人間七七四年
2014/02/15(土) 13:49:29.69ID:1/VgzNA7順路は自ら捜し給へ
0374人間七七四年
2014/02/15(土) 14:50:06.63ID:+Rpl3N9D0376人間七七四年
2014/02/15(土) 16:51:45.72ID:RtxR2MJ4家康公仰せられるは「輝元は愚かなりといえども、頼もしき人なり。石田が秀頼のためなりと称して、誑かしたるを誠と思い、
悪逆に与して家を破ること、余人にはちがひ、私の心はなし」とぞのたまいける。
(家康公が仰るには「輝元は愚かであるが、頼もしい人でもある。石田三成が秀頼のためだと称して騙したのを本当だと思い、
今回の悪逆に与して自らの家に被害を与えたが、他の者達とは違い、私心からの事ではないのだ」と言われた)
0378人間七七四年
2014/02/15(土) 17:56:15.49ID:m7sX+s0bいや、吉継は関ヶ原で戦死しとる
>>351のレスは>>350の黒田家譜の記述に
『石田、小西、安国寺は関ヶ原の大乱をおこした張本人なので』と書いてあることに対する揶揄だろう
0380人間七七四年
2014/02/15(土) 22:16:15.74ID:ms9BPVi/0381人間七七四年
2014/02/15(土) 23:58:57.11ID:m7sX+s0b0382人間七七四年
2014/02/16(日) 00:43:15.54ID:EFOL4QZL0383人間七七四年
2014/02/16(日) 00:44:28.08ID:D/Lsw+o+「仮初にも、能などは気安いものではない。太夫が翁をかけ、全ての役者が烏帽子を着るなど、
ただ常のことではない。第一能というものは、我が身の祈祷であるのだから、身を清め行儀よくして
座敷においては大声も出さないように、三番四番までは能くじっとして見物をしなさい。
しかしその後は気が退屈しないように、能の間々に休息しつつ、見物をせよ。見る分には面白いのだから、
身体もくたびれないものだ。能が終わったら今度はどんな話題でもいいので皆で集まって一笑いして、
またくたびれを忘れるようにせよ。
だいたい見物というものは、何であってもそうだが、その時のくたびれを直さないから、重ねて
見物に行くのを好まなくなるのだ。それは心持ちが下手な故なのだよ。」
そう仰られたのである。
(政宗公御名語集)
伊達政宗の、何かを鑑賞する時の心持ちについての話である。
まあつまり一定のマナーは守って、あとは気楽に、無駄に疲れないようにして楽しめよ、ということですね。
0384人間七七四年
2014/02/16(日) 01:14:29.72ID:JYim7sGM0385人間七七四年
2014/02/16(日) 09:12:34.29ID:TGT/Nq0I0386人間七七四年
2014/02/16(日) 10:16:00.53ID:EFOL4QZL0387人間七七四年
2014/02/16(日) 16:31:48.39ID:L5CwiN+g関ヶ原の戦い当日も、八十島は三成本陣に居たのだが、
東軍勢がいよいよ迫り来るまさにその時、なにを思ったか、ただ一騎駆け出していった。
「なんだなんだ?」と皆が見守る中、
八十島はそのまま両鐙で馬の腹を思いっきり打ち、さらに速度を上げると
あっという間に何処ともなく逃亡してしまった。
おそらく呆気にとられていたであろう石田本陣。
そんな中、ある三成近臣が、古歌を引いてこう詠じてみせた。
「関が原 八十島かけて にげ出ぬと 人にはつげよ あまりにくさに」
この歌に、三成も家臣達も皆々大笑いした、ということである。
(関原軍記大成)
誰がうまい歌詠めと。ってことで、いい話にいれとく
0388人間七七四年
2014/02/16(日) 18:19:28.91ID:VGZzl4fM馬上から伝令したとか?そんな話聞いたことあるけど
とんずらしたのはその後かな?
0389人間七七四年
2014/02/16(日) 18:34:49.33ID:9lC7bs1m誰か解説してエロい人
0390人間七七四年
2014/02/16(日) 18:39:44.54ID:3CY9DrX5http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/72/19/tefu_tefutefu/folder/1297533/img_1297533_31615652_0
0391人間七七四年
2014/02/16(日) 19:07:31.73ID:9lC7bs1m0392人間七七四年
2014/02/16(日) 22:16:21.44ID:f6D5EAro0393人間七七四年
2014/02/16(日) 23:47:28.69ID:JYim7sGM0394人間七七四年
2014/02/18(火) 12:40:08.11ID:DoakL7WC笠を付けることを許されていた。
御旅行中でも御国中であっても
「町に入るときは笠を脱ぐようにするのだ、しかし道中においては苦しからず。
町々には諸国の者がいるので、人の口を考えねばならない。しかし町を出てしまえば、
いつものように笠を着けるのだ。」
と、特に心付けをされていた。また、政宗公は日に幾度も水を飲まれたが、良き水のあるところでは
徒衆から供をしている家臣たちに
「ここには良き水があるので、皆々も飲み、下々にも飲ませ、馬の口も洗わせるようにせよ。」
と仰せ付けられ、どれほどお急ぎの道中でも、その場所で馬からしばらく降りて、下々徒の物まで
水を飲ませ息をつがせ、その上で馬に乗られた。
誠にこのようにかたじけない事ゆえに、伊達家中の者達は手足を軽々と下々に至るまで勇み、
御供を仕ったのである。
(政宗公御名語集)
伊達政宗の、供の者たちへの気遣い、というお話。
0396人間七七四年
2014/02/18(火) 22:54:47.13ID:2vjxxELn0397人間七七四年
2014/02/18(火) 23:38:52.48ID:MB1uegMq0398人間七七四年
2014/02/18(火) 23:48:50.23ID:6D+aR1/t0399人間七七四年
2014/02/18(火) 23:53:18.81ID:UbZNyEn50400人間七七四年
2014/02/19(水) 00:48:33.25ID:57MX0Bveでたまにそのきさくさが暴走してとんでもないことにw
0401人間七七四年
2014/02/19(水) 01:28:09.74ID:o9PMhOAH0402人間七七四年
2014/02/19(水) 12:49:11.70ID:EyfveLt7石垣原の戦いを直前に控えていた。
ここで如水は、士卒に言い聞かせることがあると、軍勢9千あまりを広野にみな留め置き、
そこで大声で語りかけた
「今度上方において治部少輔(石田三成)が乱を起こし、内府公(徳川家康)を敵としたという事が
聞こえてきた。
治部少輔は、天性知恵なき臆病者である!その上総大将も居ない寄り合いの軍勢であるから、
諸大将は下知を受けず、諸人一致せず、彼らは必ず敗軍するであろう!
殊に、内府公は古今無双の良将であり、その下に属する味方も、みな優れたる武将、勇士が多く、
心も一同して内府公の御下知に従うのであるから、必ず、味方の勝利疑いなきこと、この手に既に
握ったかのように思われる!
これにより、それがしは今回内府公に一味して、九州を平らげんと思う故に、先に豊後に出兵し、
かの国にある敵どもを討ち従えた後、残る国々を治めるつもりである。
豊後の城はその大半が留守であり、これを接収するのはいと容易きことである。
そんな中、大友義統がかつて本国であった豊後を賜り、こちらに下ったとの情報が聞こえてきた。
太閤殿下の時代、私は大友の取次をした関係があったので、今回治部少輔に与することをやめさせ、
降参させるため、上関まで使いを遣わしたのであるが、これに同心しなかった。まったく痴愚の至り
であり、もうどうしようもない!まず、彼を退治するための出陣する!
義統は先年、朝鮮において大明人が来るという情報を聞き、敵をも見ずに逃げ退いたような
臆病者である!それゆえに豊後国を召し上げられ、毛利に預けられ、居るのかいないのか解らないような
状態で居たが、今回豊後に下り、私に対して挙兵するとは、実に片腹痛きことである。
今回出陣する士卒たちよ、良く心得よ!義統は大臆病者である!その下にある家人どもも、類を以って
集まり、上を学ぶ下であるのだから、皆臆病者と心得よ!大友の人数が例え何万騎あったとしても、
今度の合戦は百に一つも負けることはない!相手を強敵だと思って躊躇してはならない!
よいか!わたしは九州を片端から平らげようと思っているのだ!だから、合戦は今回に限ったものではない!
鑓、薙刀、刀、脇差しの刃をたしなんで、大事の時の用にたてよ!大友の兵たちは、武器を無駄に
破損させないよう、生け捕りにするか、峰打ちにして打ち倒してやれ!
総じて鷹を使う時、それが逸物であっても、最初から鶴を取らせるようなことはしない。先ず
鷺からはじめて、その後、鶴を取れるようにしていくのだ。
それと同じことである。大友の人数は鷺だ!若き者共もよくこれを捕らえ、諸士にも手柄を
させるであろう!相手は弱敵なのだから、棒で雪を撫でるように何の造作もなく一時に打ち払うであろう。
そして、大友義統を捕虜にせよ!彼を生け捕ったものには、直参や譜代に限らない、例え下人であっても
褒美として領地千石を与える!おのおの、随分精を出して手柄をいたせ!その功により、一層の
恩賞を与えるであろう。
九州には手強い敵は居ない!豊後を打ち従えてしまえば、九州を治めること、その勢いに乗じて実に簡単に
成せるであろう。さあ、はや打ち立て!!」
これを聞いた者達は、いすれも心の勇みが強くなり、たった今からでも敵を手の中で取り拉ぐように
思ったという。
(黒田家譜)
黒田如水、石垣原の戦い直前の、出陣演説である。
0403人間七七四年
2014/02/19(水) 19:12:17.51ID:bvc/8DBl0404人間七七四年
2014/02/19(水) 20:09:33.52ID:pFw0VTHk0405人間七七四年
2014/02/19(水) 21:02:54.68ID:VIWRN4+10406人間七七四年
2014/02/19(水) 21:21:08.91ID:/rYhpsZn0407人間七七四年
2014/02/19(水) 22:10:09.50ID:UIPUBk/80408人間七七四年
2014/02/19(水) 22:41:16.18ID:jVvDkbWDつまりこの戦いは知恵と勇気で決まると。
0410人間七七四年
2014/02/20(木) 06:40:34.44ID:cbil7jZC関ヶ原が100日続けば第三勢力として挙兵し漁夫の利を得る算段だった、そう聞かされた際の長政の顔をご想像下さい
0411人間七七四年
2014/02/20(木) 06:58:18.05ID:ZWzjOELx0413人間七七四年
2014/02/20(木) 08:27:12.43ID:FHYBFlt+三成について近い時代の評価が聞けるのはありがたい。
0414人間七七四年
2014/02/20(木) 10:37:18.21ID:+JvkXSg20415人間七七四年
2014/02/20(木) 13:51:04.18ID:T5Wxlqfu文才のある人物が書いたものは真偽は別として
とにかく面白いから伝搬力がすごい。
近代なら吉川英治の三国志。
張遼の「遼来来」なんか吉川の造語なのに
21世紀のゲームやアニメでも出てくるからね。
本場中国人が遼来来ってどういう意味だ?と首をかしげてたわ。
0416人間七七四年
2014/02/20(木) 14:14:59.21ID:BmUXqrDb孫夫人の弓腰姫の方が完全なオリジナルな分影響力の指標にならないか
0417人間七七四年
2014/02/20(木) 14:37:29.89ID:7vkze9SN0418人間七七四年
2014/02/20(木) 15:53:22.89ID:UaFBONA8寿亭侯の印綬を返してきた関羽に「漢」寿亭侯の印綬にして渡したら喜んで受け取ったという話もそうらしいな
0419人間七七四年
2014/02/20(木) 16:14:51.48ID:BmUXqrDb現在普及している毛宗崗版では「漢寿亭侯」=漢寿+亭侯と正しく認識してるから省いただけ
0422人間七七四年
2014/02/21(金) 06:11:38.07ID:sezvsa4b信玄は遠州只来、飯田の両城を落とし、さらに久能城へと進んだ時、家康方の侍対象の率いる
4千あまりの兵が三ケ野付近に現れた。
信玄は「あれを逃さぬように討ち取れ!」と命じた。家康方は武田軍の攻勢を見て引き上げようとしたが、
武田勢はこれを食い止めようとする。家康勢がまさに危機に陥った時、家康の侍大将、内藤三左衛門(信成)
という者が言った
「我が軍の総兵力8千のうち、ここにいるのは5千人だけで、家康公もご出陣されていない!
この状態では信玄のような名称に率いられた、3万あまりの大軍と合戦しても敗北は目に見えている。
もしここで敗れようものなら、残った家康公直属の部隊だけで、どうして信玄と戦うことが出来るだろうか!
ここのところは、なんとしても退却して浜松へ帰り、改めて一戦を遂げよう。その時には織田信長公の
加勢も期待できるだろう。8千の三河武者にそれを加えて、無二の一戦を遂げようではないか!」
しかし、そうは言っても既に戦闘は起こっており、内藤三左衛門もその場から引き上げることの出来かねる
状況であった。
その時、本多平八郎(忠勝)は25歳で、家康の下で度々巧妙をあげていたことで、おいおい武田の家にも
知られていたが、この平八郎が黒い鹿の角の前立てを飾った兜をつけて、身命を惜しまず敵と味方の
間に乗り入れ、無事に徳川勢を引き上げさせた。
その様子は、かつての甲州の足軽大将であった、原美濃守(虎胤)、横田備中(高松)、小幡山城(虎盛)、
多田淡路(満頼)、そして山本勘助の5人以後は、信玄の家中でも多く見られぬ武者振りであった。
家康の小身の家には過ぎた、本多平八郎の働きである。
そのうえ、三河武者は10人の内7,8人までは唐の頭(ヤクの毛)を兜につけていた。
これも家康には過ぎたものだというので、小杉右近助という信玄の旗本の近習が、歌に作って
見付坂(静岡県磐田市)に立てた。その歌は
『家康に過ぎたるものは二つあり 唐の頭に本多平八』
というものである。
(甲陽軍鑑)
有名な「家康に過ぎたるもの」の逸話である。
0423人間七七四年
2014/02/21(金) 10:30:04.12ID:l2Tpa5dM0424人間七七四年
2014/02/21(金) 15:04:23.94ID:VVpA5cFN壱岐島の海辺に福島左衛門大夫正則、戸田民部少補氏繁、蜂須賀阿波守家政、生駒雅楽頭近世、長宗我部宮内少補元親の五大将が集まり
対馬への渡海について詮議していた。
この時、沖の方で鳥が飛び回っているのが見えたので
正則が「昔、本間孫四郎(南北朝期の武士)は沖の鳥を敵船へ射落としたそうだ。当世ではいかがであろう?」
と言ったところ、元親が「近代は昔と違い、弓の射手は少なくなりました。
しかし鉄砲ならば昔の射手に劣らぬ者がおりましょう」と答えた。
正則これを聞き「土佐の士には鉄砲の名人ありと伝え聞いています。いずれかを召して
あの鳥を撃たせて見せてくださいませんか?」と言い出した。
元親は「家中に鉄砲を撃つ者は数多いが、飛んでいる鳥を撃てる程の者は知りません」と断ったが
正則が「いやいや、たとえ外れたとしても苦しからず、ただ慰みに撃たせてみせてください」と重ねて言うので
元親はそれならば、と足軽の俵兵衛を呼び、あの鳥を撃ち落とせる者を呼んで来いと命じた。
すると俵兵衛「わざわざ人を呼ぶまでもありません。私にお命じ下さい。
常日頃飛ぶ鳥を撃っているので、あの程度の鳥ならば必ず仕留めます」と申し上げた。
元親は打ち笑い「諸将の前を憚らぬその心意気や良し、たとえ撃ち外したとしても恥辱にはあらず。やってみろ」と
命じた。
四人の大将を始めとして、その下の諸士がみな集まり見物となったので、これ以上の晴れがましさはなかったが
元親はもし外れたのならば恥辱とはならずとも、場が白ける事は必至であると内心穏やかではなかった。
(1/2)
0425人間七七四年
2014/02/21(金) 15:05:38.15ID:VVpA5cFN沖の方の岩の上へと落ちていった。
大将を始め、皆一同に「やや!撃ち落としたぞ!」と叫び、その賞賛はしばらく鳴りやまなかった。
されば間(距離)を打たせるべしと縄を張らせたところ、おおよそ五十八間であった。
正則は感極まり、昔の那須与一にも劣るべからずとして着ていた羽織を俵兵衛に賜ったので
残り三人の大将もこれにならって羽織を下された。
元親も悦に堪えず、また諸将への返礼なればとして俵兵衛をその場で士分に取り立て
太刀一腰を与えたので、当家他家の面々でこれを羨ましく思わないものはいなかった。
「土佐物語」 (2/2)
0426人間七七四年
2014/02/21(金) 17:36:03.92ID:xCa6m9ns0427人間七七四年
2014/02/21(金) 19:12:26.24ID:n57Yst7q0428人間七七四年
2014/02/21(金) 19:37:09.59ID:3Cg7k0Cq0430人間七七四年
2014/02/22(土) 10:07:43.39ID:BHA/r5hE0431人間七七四年
2014/02/22(土) 12:17:41.69ID:ALZChEIt0432人間七七四年
2014/02/22(土) 12:20:21.36ID:1dTZhzw90433人間七七四年
2014/02/22(土) 12:52:47.65ID:xGyPtrxp九月に、母が次郎兵衛の子を連れて寺の説法を聞きに行った。
その帰り際、子が草履を取ろうとしたとき誤って横にいた男の足を踏んだ。
男は母と次郎兵衛の子を咎め立て、因縁をつけた末に脇差を抜き、子を突き殺した。
母が次郎兵衛の子を守ろうと男にしがみつくと、男は母をも突き殺し、帰って行った。
この男は、中島茂庵という浪人者の子で五郎右衛門、その弟に山伏の中蔵坊という者がいた。
茂庵は美作殿と交流があったので、息子の五郎右衛門は美作殿から知行を与えられていた。
やがて事件が次郎兵衛の家に伝わると、次郎兵衛の弟某は五郎右衛門へ仕返しに向かった。
五郎右衛門は内から戸を閉め出てくる気配がないので、訪問客のふりで柔らかい声をかけた。
すると戸が開いたので、すかさず名乗りをあげ斬り合い、ごみために落ちながら、五郎右衛門を突き殺した。
すると中蔵坊が駆け出してきて、次郎兵衛の弟某を斬り殺してしまった。
事の次第を聞いた伝湖和尚は兄の次郎兵衛のところへ行き、
「中島方は一人死んだだけなのに、こちらは女子供含む三人も斬り殺された。
無念千万この上ない。兄上、どうか中蔵坊を討ち果たしてください」
と仕返しをすすめたが、兄の次郎兵衛が首を縦にふることはなかった。
伝湖和尚は口惜しく思い、出家の身ながら母、弟、甥の敵討ちを決心した。(1/2)
0434人間七七四年
2014/02/22(土) 12:57:31.30ID:xGyPtrxpそれから一心に仏道修行に励み、やがて竜雲寺の住職にまで出世をした。
そして佐賀の境伊予掾という刀鍛治のところへ、手習の弟子に与えると言い大小を注文し、
差料としてのこしらえまでして準備をととのえた。
翌年九月二十三日、寺に客が来ていたので、馳走を出すよう言いつけると、自らは方丈から忍び出で、
俗人の身ごしらえをして、大小を差し多久へと出かけた。
中蔵坊のところへ着いてみると、月待ちの行事で大勢の人が集まっていた。
その人数では手に負えそうもなかったが、もう延引することも出来ないので、
中蔵坊の親、茂庵を討つことで本望を遂げようと思い、茂庵の家に討ち入り、
寝間へ駆け込み名乗りをあげ、相手が起き上がったところを突きに突いて突き殺した。
近所の者たちが何事かと駆けつけ囲んだので、和尚はわけを話し、大小をその場に投げ捨て帰った。
そして事が佐賀にまで伝わり、伝湖の寺の檀家どもはすぐに駆けつけ、伝湖を守り寺へと引き上げた。
事件を知った美作殿はとてもお怒りになられたが、殿が御建立なさった寺の住職にどうにも手が出せない。
そこで鍋島舎人普周を通じて、高伝寺の湛然和尚に、
「あの者は人を殺した出家だから死罪にしてほしい」
と申し入れられると、湛然和尚は、
「宗門内の処置は高伝寺のやり方で行うから、お口出しはしないでいただきたい」
と返事をした。美作殿はますますお怒りになられ、
「ならば、どんな処置をなさると言うのか、お聞かせ願いたい」
とお尋ねになると、湛然和尚は、
「お聞きになっても無益であるが、どうしてもとお尋ねになるならお聞かせします。
出家の破戒は法衣を奪い追放するのが宗門の定めである」
と返事をした。
そして、伝湖は高伝寺で法衣を脱ぎ、追放されることとなったが、
追放の日には弟子たちみなが大小を差し集まり、数十人の檀家たちも同じく集まった。
そして、みなで伝湖を守りながら、轟木まで送った。
途中、猟師風の男たちがあらわれ、
「多久から来たのか?」
と問いかけてきたが、なんの手出しも出来なかった。
伝湖はその後、筑前に住んだが、町人たちが世話をし、侍たちとも友好な関係だった。
それは敵討ちの次第が伝わっていたので、武家も町人もみな親切に伝湖を世話したのである 【葉隠】(2/2)
0435人間七七四年
2014/02/22(土) 14:46:46.21ID:QbYwAeyQ0436人間七七四年
2014/02/22(土) 14:57:17.73ID:46enqYsO0437人間七七四年
2014/02/22(土) 16:13:06.59ID:FB03ychG0438人間七七四年
2014/02/22(土) 18:57:46.65ID:9RK3raC20439人間七七四年
2014/02/22(土) 19:21:08.51ID:pZr0eyF6|(´・ω・`) これでも飲んで落ち着かれよ
|o ヾ
|―u' 旦 <コトッ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
0440人間七七四年
2014/02/22(土) 20:06:06.55ID:GO9A0zPx長宗我部元親は全羅道の担当で、西南の方へ平押しに十四、五日ほど行くと、平々たる広野に出た。
そこには村もなく里もなく、また山もなく、ただ大きな川原があった。
東西の方向も定かではない広野にたたずんでいると、どこからともなく雷のような音が鳴り響いた。
一体なんだろうと、諸人が怪しみながら川端に近づくと、音も次第に大きくなる。
元親が「誰かある、あれを見てくるのだ」と言うと、若侍二人がかしこまって駆け走り
その後に別の三人が続いていった。
驚くなかれ、そこにはふた抱えほどある大木で、枝のない松のようなものが一丈ばかり立ち上っており、見るとそれは大蛇であった。
両の耳は唐犬の如く垂れ、目は日の如く光り、口広く耳の根まで裂け、紅のような舌をひらめかせて立ち上がった。
先の二人は驚いて立ち止まり見入ると、続いた三人も同様に立ち止まってしまった。
そこに土佐国韮生の住人小松左衛門が馬で駆け寄せ、鉄砲で狙いすまして撃つと、喉笛に発止と命中した。
大蛇とてこれは急所なので、仰傾けに倒れ川に入り、身悶えしてしばらく流れていたが
ついに沈んで見えなくなり、たちまちに川は紅色に染まった。
左衛門が川端に馳せ寄せみると、大蛇が倒れた際、石か何かに当たったのであろうか
大きな鱗が落ちているのを見つけたので、元親に差し出した。
元親は「これは日本では見たことのないものである。故郷への土産にせよ」と言い
そのまま左衛門に賜わったそうである。
「土佐物語」
0441人間七七四年
2014/02/22(土) 20:45:31.03ID:f27vMd/J0442人間七七四年
2014/02/22(土) 22:39:05.06ID:QphLMAUJ0443人間七七四年
2014/02/23(日) 10:14:10.77ID:U2GCbk1u0444人間七七四年
2014/02/23(日) 10:33:22.46ID:cWrDbmU50445人間七七四年
2014/02/23(日) 12:24:31.29ID:vrRx5zHc図体でかいのに、鉄砲一発とは情けない。
0446人間七七四年
2014/02/23(日) 12:39:48.99ID:3rGzu6Jd現存してるのかな?
0447人間七七四年
2014/02/23(日) 17:46:07.12ID:9GhmNLc7「とにかく家康公へ御付きになるのが適当です」と諌めた。
安房守はこれを受けて「いやいや、家康公へ付いても、
わしほどの者はたくさんいるので、重宝に思ってはくださらないだろう。
太閤へ付いたならば、重宝に思ってくださるだろう」と言って、
最後には太閤へ属した。そうではあるが、子息伊豆守(信之)を家康へ出した。
――『武功雑記』
0448人間七七四年
2014/02/23(日) 20:56:20.44ID:vLF4YCSg長刀に金鍔を打ち、衣服等にも紅裏をつけ、その他不行跡な事があり、江戸中の上下の取りざたとなり、
お付の家老、中山備前守(信吉)が、毎回色々と異見申し上げても、それを聞くことはなかった。
ある時、幕府の老中より備前守に奉書を以って『御用の義これ有り候。明四ツ時(午前10時頃)
登城候様に』との命があったので、備前守が登城した所、老中たちは彼に
「今日そこもとを召した御用に関しては、我々も存じていません。この後、公方様(秀忠)の御前において、
直接に御用を申し付けられる、とのことです。」
これを聞くと中山は
「皆様いずれもご存じない御用のことで、私が御前に召される、と言うことは、私にも存じ当たりが
あります。これはきっと、水戸殿(頼房)の行跡についてお尋ねになるのだと、推察いたします。
つまり、有り体に申し上げれば、主人の悪事を訴えろ、ということです。
しかし、『何事も私は知りません』と申し上げる、もしくは悪しき事をも宜しきように取りなして
申し上げるというのは、御上を欺く、後ろ暗いと申すものです。
ですので、私は御前に出てしまっては、もうどうしようもありません。
私が御前に召されるという件については、登城はいたしましたが、このまま退出させていただきます。
この場合、御上の御意に違うのは私のことであり、その御機嫌を損ないお仕置きなどを仰せ付けられても、
それは覚悟しております。」
老中たちはこれを聞いて何れも留まるように説得したが、備前守は承知せず帰宅した。
帰宅の途中、中山は水戸家の上屋敷に立ち寄った。そこでは頼房も、この日備前守一人が
御用として召されたことを納得できずに居たので、御用が済んで備前守が帰ってくるのを待っていたため、
早速召し出すと、備前守は江戸城内での次第を申し上げ
「私については、公方様より、今後どんなお咎めを受けるかわかりません。わたしは切腹と
覚悟を決めております。ですが、この上ながら残念なことが3つあります。
1つは、私に才知が無いため、御前様(頼房)のご行跡を聞くたびに、それをお改めなされるように
ご異見申し上げても、これを聞き入れて頂くことが出来ませんでした。
2つ目は、御前様はご若年でありますが、この備前守を付ければ気遣いもない、とご安堵なされた
権現様のおめがねを相違いになし奉ってしまい、これは今更申し訳も出来ないことです。
3つには、とくに考えていなかったわけではないのですが、かれこれと見合わせているうちに
すっかり引き伸びにしてしまいまい、御前様の不行跡の相手をする、不届きの奴原を成敗せずに
安穏に差し置いたまま私が相果ててしまえば、いよいよその行跡に差し障るのは必定です。
たとえ、私は切腹しこの身命が終わりましても、魂はここで、殿のお側を離れません!
願わくば、ご行跡をお改に成り、御上の思し召しにも叶いあそばされるようあってほしいと、存じ奉ります。
これは、私の今生の暇乞いですので、願わくば御酒を頂戴いたしたく、これを持ってくるように
申し付けさせて下さい。小姓衆!酒と盃を!」
そう備前守が言った所、頼房は小納戸衆を呼び集め、日頃用いていた伊達な拵えの刀、脇差、衣服等
尽く取り出し持ってくるように、と命じ、備前守の見ている前で、それらを小姓衆に残らず分け下し、
その上で挿していた脇差しの鍔元を小刀で打ち、
「今後は行跡を改める!であるので、備前守も気遣いせぬように!」
と言った。
ところでこの時の、中山備前守が無断で江戸城から帰宅したことについては、その内容が
老中達から秀忠の上聞に達し、秀忠は
「備前がそのような了見であるのなら、水戸の行跡もきっと治るであろう。重畳の事だ。」
と語ったそうである。
(駿河土産)
中山備前守、命がけで徳川頼房の不行跡を改めさせる、というお話
0449人間七七四年
2014/02/23(日) 21:15:54.81ID:JJQL3nwu命がけで諌める中山備前守
金打までして誓って見せる頼房
そして安定の秀忠クオリティ
0451人間七七四年
2014/02/23(日) 23:18:29.25ID:WFUz0RTY今回の話は善く動かす典型だ
0452人間七七四年
2014/02/24(月) 17:16:24.28ID:kb6mO7pp武を講じ、孫子呉子三略の趣旨を今日の和法に用いて古の軍学者などの及ぶところではなく、
まことに常用の武備はこの人に在りと、世間はこぞってほめている。
ある人が池田光政にその山鹿某を推挙したところ、光政は次のように言ったということだ。
「軍法兵学は、旧家にはそれぞれその家の軍法がある。武田家に山本勘助の軍法が、
上杉家に宇佐美駿河守の軍法があるようにな。我が池田家にも軍法があって、
信長の代より数十度の戦場に一度もおくれを取ったことがない。だがら我が家においては
(軍学者を)召し抱える必要がない。
いまは太平の代だから軍学などと言うが、乱世に生まれた者の軍学は皆自己の鍛練だ。
それは加藤清正、小西行長などが、朝鮮までも切りなびいたことから知ることができる。
それに古来未曾有と言われた豊臣太閤が軍学をしたということを聞いたことがない。
また、神君(徳川家康)に軍学の師という者はいないが、このように天下を平治なさった。
いま太平の代に立身して大名となった人で、先祖よりの軍法がなく自身で立てた法令のために
心許なく思う人こそ、軍師を召し抱えて法令を定めるのがよい。我が家には先祖よりの
軍法があり、乱世を過ぎて治世にあって国家はよく治まっているので、軍学は家に伝わるもので
足りるのである。新たに師を召し抱える必要はない。
そのうえ『乱世には武を以てし治世には文を以てす』といって、治世に国家を治めるには
仁義の道こそ肝要だ。故に熊沢五郎八(二郎八、蕃山)を召し抱えている」
その後、山鹿を津軽信政が召し抱えたいと思ったが、家老の神保三右衛門が無理をおして
留めたということである。
――『明良洪範』
0453人間七七四年
2014/02/25(火) 10:30:09.25ID:uo9gp8npーーくろだかふ
0454人間七七四年
2014/02/26(水) 00:56:58.84ID:uosgN0Ftなったなら、かわるがわる退屈しないものと氏郷は思っていた。
化物話から武話になり移ると夜が白むので、とにかく蝋燭を
二挺に限って夜話を止めて退出した。
夏の短夜には二挺でも夜が更けるので、短夜には蝋燭を
短く切って風所に灯して置くなどし、夜話を止めたとのこと。
――『武功雑記』
0455人間七七四年
2014/02/26(水) 01:01:03.95ID:3hl+ZanM0456人間七七四年
2014/02/26(水) 01:06:34.37ID:Qyp0wR8S0459人間七七四年
2014/02/26(水) 09:58:23.75ID:hO0IlIDZ0460人間七七四年
2014/02/26(水) 10:44:53.77ID:ETajhrlZ0461人間七七四年
2014/02/26(水) 11:09:08.55ID:xt96hlO60462人間七七四年
2014/02/26(水) 11:18:49.74ID:W0eMqxU+0463人間七七四年
2014/02/26(水) 12:00:18.21ID:XgRdAlGC夜中に「真宵タン(*´Д`)ハァハァ」とか言ってる工場長を想像してしまったw
0464人間七七四年
2014/02/26(水) 16:16:14.48ID:aiM0GJBcこの頃何処からともなく大きな虎が現れ
あまたの軍兵が食い殺されたので、陣中騒動すること甚だしかった。
浅野孫次郎親忠の家臣、下元勘助・興次兵衛兄弟は
隠れなき鉄砲上手、大胆不敵の勇者だったので
目に物みせん!と駆け出でて、勘助が狙いすまして虎を撃つと
弟興次兵衛もこれに続いて撃ち放った。
ところが虎はこれをものともせず、いよいよ猛狂って本陣へ近づいたので
大高坂七三郎(この時十五歳)が本陣へは入れさせぬと
小刀を抜いて一文字に駆け向かった。
虎は七三郎に飛びかかり、その胴体を横ざまに咥え、駆け出そうとしたので
吉田市左衛門政重、走りかかって虎の首の根を丁と切った。
[1/2]
0465人間七七四年
2014/02/26(水) 16:18:59.16ID:aiM0GJBcかたい鎧のために砕くことができず、市左衛門、虎の喉笛に手をかけて
七たび刀で突き刺した。
さしもの虎も急所を刺され、鉄砲で撃たれてはかなわず、立ち竦んで死んだ。
七三郎も助かったので、元親大いに喜び
感状に康光の太刀を添えて市左衛門に与え、帰国後に加恩もあったそうだ。
「その虎の爪を取って、日本の土産にせよ」と元親が言ったので
市左衛門、畏まり候と虎の爪を切り取って国に持ち帰った。
その爪は子孫持ち伝えて、今も彼の家にあると聞いている。
「土佐物語」
[2/2]
0466人間七七四年
2014/02/26(水) 19:21:47.80ID:V1cIhpSV0467人間七七四年
2014/02/26(水) 20:34:20.52ID:sCDBYhINとある老武士が、話相手の老武士に言った。
二人は主従であり、話しかけたほうが従者である。
言われた側、即ち主人の方の老武士は怪訝な顔をした。
ともに隠居するまで、それはそれは数え切れぬほどの戦場に出ては生還してきた。
「功がないわけがなかろう」という主人の疑問である。
これに従者が笑って曰く
「兵と見れば殿が槍をふるって追い払い、将と見ればこれまた殿が御自ら討ち取っておられましたので」
大将が自ら陣頭に立って槍を振るう、従者としては頭と胃が痛くなるような悪癖が
「とうとう隠居するまで直りませんでしたなあ」と軽く皮肉ったのである。
これに主人はうまく返すこともできず「ああ、そうだったそうだった」と
苦笑いするばかりだったそうな。
関ヶ原も大阪の陣も過去となった泰平の世。
島津兵庫頭義弘と中馬大蔵重方主従の会話である。
0469人間七七四年
2014/02/26(水) 22:20:38.43ID:QLVrXwlQ山形市には次の様な話が残る
とのサマは
供も連ンれず
お寺参り
黄色い馬ッコが鈴を鳴らす
馬上のとのサマが今日も揺られていくヨ
黄色い馬に揺られているのは秀次事件で愛娘を失った最上義光
義光の山形城から専称寺へのお墓参りは
市井の民らも良く知るところだったと云う。
専称寺の境内内(本堂前)には現在も最上義光が寺を訪れた際に馬を繋いだとされる「駒(馬)つなぎの桜」が残る。
0471人間七七四年
2014/02/26(水) 22:24:07.37ID:B1JE84mz虎退治は勇敢さを示すのに便利なんだなw
0472人間七七四年
2014/02/26(水) 22:31:53.98ID:Zhf3pNOF0473人間七七四年
2014/02/27(木) 01:05:34.78ID:onJgSEDK04741/3
2014/02/27(木) 12:02:38.03ID:F91xE93Q養われたこともあって、裸一貫から大大名にまでのし上がった祖父を大いに尊敬していた。
ある時、長明は嘉明にその武功を尋ねたが、嘉明の答えは「そんな昔のことは忘れたわい。」
と、そっけないものだった。
「ですが、おじい様は唐の島(巨済島)の海戦等で大手柄を立てた、と聞き及びますが……」
「十五〜六歳の小姓が敵船に乗り移ろうとして、矢に当たり海に落ちて死んだ。かわいそうな事をした。」
嘉明はそう言ったきり、口を閉ざしてしまった。
04752/3
2014/02/27(木) 12:04:50.57ID:F91xE93Q加藤嘉明は「目に余るような大敵相手に、小勢で当たるのは如何なものか。」と主張した。
ところが肝心の嘉明隊から、敵船団に向かって行く船が現れた。
「あーこれはいかん。わが命に背くあの者共を止めてこい。」
嘉明の命により次々と船が漕ぎ出されたが、いっこうに先の抜け駆けした船に追いつかず、ついには
敵船団に迫ってしまった。
「うーむ。これは、わしが行って止めねば収まるまい。」そう嘉明が言い放つや否や、嘉明隊の全船が
動き出した。要するに、最初の嘉明発言からして仕組まれた、抜け駆けのための策である。
04763/3
2014/02/27(木) 12:07:05.87ID:F91xE93Q「殿、船はどちらに着けましょう?」「中央の大船に着けよ。」
船団の真ん中の大きな船に乗り移った嘉明一行を、敵は船内で剣を抜き、鏃を揃えて待ち構えていたが、
一行は恐れず敵中に飛び込んで斬りまくり、この船を乗っ取ることに成功した。
嘉明が船内から甲板に出ると、味方諸将の船団を追いついており、すでに火のついた敵船もあった。
嘉明一行は次の獲物を物色し、十六歳の河合庄次郎が真っ先に別の船へ飛び移った、その瞬間。
狙い撃ちされた庄次郎は海に落ち、そのまま浮かんで来なかった。(常山紀談より)
この武功等により十万石に加増され、大大名への足がかりをつかんだ嘉明だが、
己の無謀な策により海の藻屑と消えた若者たちがいたことを、生涯忘れていなかった。
0477人間七七四年
2014/02/27(木) 21:28:12.41ID:g1JK3C+R0478人間七七四年
2014/02/28(金) 15:40:28.60ID:A/Vgrml8本日のGAMECITY/ニコニコアプリ版『のぶニャがの野望』
「兜がなければ死んでいた」アップデート
pbs.twimg.com/media/BhhldaSCQAARhr-.jpg
↑巨漢で突撃好きなところが描かれています
…どうせなら「戦国無双4」の新規プレイアブルで使いたかった…
0479人間七七四年
2014/02/28(金) 15:56:45.44ID:A/Vgrml80480人間七七四年
2014/02/28(金) 21:02:16.60ID:75UGw2mn正則の行跡についての諫言を書状にして差し出した
∧_∧ 近頃の殿のお振舞について申したき儀が…
(,,゚д゚)  ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/ y/ ヽ ∧_∧
ヽ、ъc[_ノ (゚Д゚ ,)⌒ヽ
(ノノノ l l l ) □ ⊂‐U^(,,⊃'〜
それを聞くと正則は不機嫌となり、書付を見ずに席を立とうとした
∧_∧
(#-д-)
.ノ^ yヽ、
ヽ,,ノ==l ノ
/ l | ミ
茂右衛門はそれに追いすがり必死に裾をつかんだ
∧_∧
(#。 。)
.ノ^ yヽl丶l丶 ガシッ!
ヽ,,ノ==l ( )
/ l と i
すると正則は怒り刀を抜いて茂右衛門の首元に突きつけ叫んだ
,、 人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人
‖ < >
∧__∧‖ < 軽輩のお前を誰が取り立てて >
(#゚Д゚)ヽ < やったと思ってるんだ! >
.ノ^ y l丶l丶 < わしに向かって諫言するとは怪しからぬ奴め! >
ヽ,,ノ==l ( ) < >
/ l と i Y´`Y´`Y´`Y´`Y´`Y´`Y´`Y´`Y´`Y`Y´`Y´`Y´`Y´`Y´
茂右衛門は少しも驚かず
さればでござる
 ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄
∧∧
(゚Д゚,,)
⊂ ⊃
(__(__っ
と一言
次のように続けた
0481人間七七四年
2014/02/28(金) 21:04:00.40ID:75UGw2mnもしお眼鏡違いのようなことがありましてはと存じまして、
面と向かってお諫め申し上げておるのでござります
なにとぞ、諫言状をご一覧たまわりますように」
そういうと首を差し出した
茂右衛門の覚悟を見た正則は
,、
. ‖
∧__∧‖
(#゚Д゚)ヽ
.ノ^ y ノ
ヽ,,ノ==l
/ l |
∧_∧
(,,゚д゚) …
.ノ^ yヽ、
ヽ,,ノ==l ノ
/ l | \
∧_∧
(TдT) ブワッ
.ノ^ yヽ、
ヽ,,ノ==l ノ
/ l | \
心を打たれはらはらと涙を流しながら刀を納めた
それなれば見ることにいたそう
 ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧
(T∀T)
.ノ^ yヽ、
ヽ,,ノ==l ノ
/ l |
そういうと席に戻り書状をじっくりと読んだ
書状の一条一条、誠にもっともなこと。みな、そなたらが申すようにいたそう
 ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧
(,,゚д゚)
/ y/ ヽ
ヽ、b□[_ノ
(ノノノ l l l )
と言ったので、茂右衛門はやっととらえていた正則の裾を離した
0482人間七七四年
2014/02/28(金) 21:32:28.38ID:hrqRFxMJ瞬間湯沸かし器には率先して首を差し出し牽制せよ
さすれば後はただのおっさんを相手するだけですむ
0483人間七七四年
2014/02/28(金) 21:55:22.16ID:sUUoIeUu0484人間七七四年
2014/02/28(金) 22:33:37.39ID:WPTBXxD90485人間七七四年
2014/03/01(土) 00:39:14.86ID:1RLiU6mu0486人間七七四年
2014/03/01(土) 01:23:32.48ID:d7dY7Lk60487人間七七四年
2014/03/01(土) 07:27:14.23ID:03j6oYZr0488人間七七四年
2014/03/01(土) 09:52:42.18ID:GFfIiZxC0489人間七七四年
2014/03/01(土) 10:11:11.86ID:eZb0HtBf0490人間七七四年
2014/03/01(土) 13:14:28.54ID:E46mrwC0長宗我部元親の土佐一国平定後、本山城の城任番として
七日詰めに行ったのだが、常に言うことには
「わしは小身なので、食糧を揃え、嶮岨(けんそ)な山坂を持ち運ぶのは
人馬の費えである。僅か七日間の逗留なれば、その間の飯は自分の家で食えば良い」
そうして七日分の飯を炊かせ、これを一度に食すと
「ああ、これで安心だ。家人共は勝手気ままにさせて良いぞ」と言い残し
馬にも乗らず立ち越えて、七日番を勤めて帰ってきた。
そうして「しばらく飯を食ってないので力が落ちたのか、草履が少し重く感じるわい」
と笑いながら人に語った。
さてその頃、どういうことか国中の牛が悉く死んでしまい
農民は田を返す(※耕すこと)のに犁(すき)を使うことができなくなった。
仕方なく若者十人程が一つの犁に取り付き、牛に代わって田を返したが
これを見た喜兵衛、大いに笑って
「お前たち、そこをのけ。わしが引いて見せてやる」と言い
その犁を取って牛の如く往来し、田を返し始めたので
往来の男女は皆立ち留まり、呆れ果ててこれを見物した。
そこに元親が通りかかり、人が群がり集まってるのを見て
一体何事かと尋ねその理由を知ると、喜兵衛を召し出し
「士たる者が畜生の役をするとはどういうことだ。重ねてこの様な振る舞いはしてはならぬぞ」
と堅く制したので、喜兵衛は恐れ入って退去したということだ。
「土佐物語」
土佐侍の純朴でユーモラスな面が伝わってくる、ちょっといい話。
0491人間七七四年
2014/03/01(土) 13:51:53.20ID:pUH9TpJ/)、._人_人__,.イ.、._人_人_人
<´ 口蹄疫じゃ、口蹄疫の仕業じゃ! >
⌒ v'⌒ヽr -、_ ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: < _,ノ`' 、ヽ、_ ノ ;;;ヽ //
///// /:::: (y○')`ヽ) ( ´(y○') ;;| /
// //,|::: ( ( / ヽ) )+ ;| /
/ // |::: + ) )|~ ̄ ̄~.|( ( ;;;|// ////
/// :|:: ( (||||! i: |||! !| |) ) ;;;|// ///
////|:::: + U | |||| !! !!||| :U ;;; ;;;| ///
////|::::: | |!!||l ll|| !! !!| | ;;;;;;| ////
// / ヽ::::: | ! || | ||!!| ;;;;;;/// //
// // ゝ:::::::: : | `ー----−' |__////
0492人間七七四年
2014/03/01(土) 15:20:56.43ID:lwFTNeiw0493人間七七四年
2014/03/01(土) 17:20:59.48ID:7GCf6foH「これまで諸将は敵城の様子を探らせようと忍びの者を遣わしたが、
敵城の守衛は堅固で忍びの者が城中へ忍び入ることができない。
御身らは忍び入って、様子を見届けて来てくれ」と言った。
甲賀の者たちはかねがね内々の願いの筋でもあれば功を立てようと思っており、
「畏まり候」と速やかに承知し、仲間の中から菅川七郎兵衛、望月与左衛門、
夏目角助、吉田五兵衛、鳥飼勘右衛門ら五人の者が暗夜に紛れて
塀下までは忍び寄ったものの守衛は堅く、城中へいまだ入らずに見合わせて
いたところ、城中より猿火を渡して塀下廻りを調べたので、その火を引き入れる時に、
引き続いて菅川と望月の両人が城中へ紛れ入った。あとの三人の者は入り遅れて
塀下で躊躇していた。
さて、忍び入った両人のうち望月は塀を越えて城内へ入ったところ、
塀裏の落とし穴へ落ちた。菅川は引き上げようとするが、穴が深いので上げられない。
とやかくする間に城兵たちは気付いたのか、「寄手が忍び入ったぞ、討ち取れ!」と
立ち騒いだけれども暗夜なので見分けがつかず、その間に菅川はどうにか望月を引き上げ、
闇夜に紛れて城内のあちらこちらを忍び廻り様子を見届け、やがて塀を越して
城外へ飛び出た。この両人は甲賀忍び組の中でも取り分けて忍びの名人であるとか
いうことだ。
――『明良洪範』
0494人間七七四年
2014/03/01(土) 19:05:08.26ID:Us+HUH3X0495人間七七四年
2014/03/01(土) 19:05:10.23ID:cxkJyzHN0496人間七七四年
2014/03/02(日) 01:27:11.82ID:CxSCJIi/永禄6(1563)年、最上義守は18歳になる息子の義光を連れて京に上り、将軍足利義輝に馬や太刀を献上した。
「6月14日、久しぶりに将軍(足利義輝公)の屋敷に伺ったら、丁度出羽の御所(屋形号)の山形殿父子(最上義守と義光)が来ておられた。
父子は将軍に馬と太刀を献上して、義光に頂いた義の文字や、常日頃からの感謝と御礼を申されていた。
将軍は二人をもてなす宴会を開かれ、私もそこに顔を出させてもらった。将軍から下された杯を、二人は「かたじけないことです」と言って頂戴した。私も深夜までご馳走になり、すっかり酔ってしまった」
「山科言継卿記」
公家の日記に書き残された、最上父子の京都旅行の一幕
0497人間七七四年
2014/03/02(日) 01:59:44.64ID:CxSCJIi/0498人間七七四年
2014/03/02(日) 04:08:18.84ID:CxSCJIi/いつから仲が悪くなったのやら
0499人間七七四年
2014/03/02(日) 10:26:37.23ID:UTJyG6Sf0500人間七七四年
2014/03/02(日) 10:31:18.63ID:nv323lgY0501人間七七四年
2014/03/02(日) 10:38:44.71ID:aZwEZyei0502人間七七四年
2014/03/02(日) 10:46:17.46ID:tMbAxVxs義守の「義」はどっから?
代々拝領してきたから、ほとんど通字になってたとしたら、
あんまりありがたみがないような
0503人間七七四年
2014/03/02(日) 11:16:21.39ID:uiUgpBUc0504人間七七四年
2014/03/02(日) 17:07:00.44ID:1KnOREGZ0505人間七七四年
2014/03/02(日) 19:58:02.71ID:CxSCJIi/息子の義光は元服しての父のお供だったから状況証拠で
(義光に頂いた義の文字や、以下略…社交辞令の挨拶など カッコカリ)常日頃からの感謝と御礼を申されていた。
でOK?
あくまで()で
0506人間七七四年
2014/03/02(日) 22:06:20.55ID:NlEk3RxH0507人間七七四年
2014/03/02(日) 22:57:59.42ID:NLaQcctt0508人間七七四年
2014/03/03(月) 00:41:48.03ID:FyC8JvMy0509人間七七四年
2014/03/03(月) 09:31:13.77ID:pplLvV05しかも、高い方じゃん
0511人間七七四年
2014/03/03(月) 13:22:11.58ID:RwypAZiN伊達輝宗「ちょwww」
0512人間七七四年
2014/03/03(月) 13:29:38.86ID:RwypAZiN地方の有力豪族や名族であって幕府から認められた者の条件の他に
「義」の字…金100両
「輝」の字…金30〜50両
でしたっけ?
史料元ご存じの方いらっしゃいます?
0513人間七七四年
2014/03/03(月) 14:17:00.42ID:Z4nVCXkO0514人間七七四年
2014/03/03(月) 14:31:18.95ID:wBN78BnR0515人間七七四年
2014/03/03(月) 14:41:45.61ID:eL9tIS290516人間七七四年
2014/03/03(月) 15:38:00.43ID:/Kimv4y40517人間七七四年
2014/03/03(月) 15:43:50.96ID:RwypAZiN義秋時代
一色秋孝(一色四郎、御部屋衆の一人、のち重ねて「昭」の字を与えられて昭孝に改名)
大崎義隆
島津義弘
畠山秋高(のち重ねて「昭」の字を与えられて昭高に改名)ほか
義昭時代
石川昭光
飯尾昭連(奉公衆の一人)
大友義統
二本松義継
細川昭経(細川輝経の子)
朽木昭貞(三淵秋豪の実弟)
山名義親(山名祐豊の嫡男)
真木島昭光(近臣)
最上義康ほか
※義・秋・昭からそれぞれ適当にチョイス
足利義晴・義輝の偏諱の方もかなり多い
0518人間七七四年
2014/03/03(月) 15:46:28.77ID:RwypAZiN「輝」並の金銭は稼げたのだろうか?
0521人間七七四年
2014/03/04(火) 19:21:13.62ID:GnGhmTSc全国に「政」「宗」の偏諱が拡がってたわけか
0522人間七七四年
2014/03/05(水) 12:49:56.28ID:/+e5qil0天武天皇のお后さまの病を癒したと伝わり、白河天皇に保護されたため、永勝寺は日本三薬師の一つと呼ばれるほどに繁盛した。
戦国時代、豊後の大友宗麟が筑後に乱入した時の兵火で永勝寺は焼けてしまったが、不思議なことに薬師如来は無傷で山陰に隠れていたという。
「薬師如来が自ら歩いて火難を避けたのだ」
と村人は仏力に感じ入り、仏堂を再建した。
何年かの後、久留米を領した毛利秀包は無道であったため、領内の寺社仏閣を壊し、放火した。
永勝寺も焼けてしまったが、またしても薬師如来は山陰に隠れ無事であった。
これを見た村人たちは不思議な仏力に感じ入り、毛利秀包の目を逃れるために、山中の洞穴に薬師如来をかくまった。
その後に田中吉政がこの地を領した。
すると毎晩、山が五色に光るので吉政の家来が調査すると、この薬師如来が見つかった。
その家来が村人から話を聞き、吉政に報告すると、吉政は
「勿体無いことである」
と言い、堂の再建を許可した。
永勝寺は廃寺になったこともあったが再建され、今も薬師如来を御本尊としている。
0523人間七七四年
2014/03/05(水) 13:21:59.60ID:qe3dCNG+西方極楽浄土と東方浄瑠璃界をそれぞれ受けもっているわけだ
0524人間七七四年
2014/03/05(水) 13:22:24.49ID:5s7Zj3cG0525人間七七四年
2014/03/05(水) 14:34:49.62ID:+DgisHE0山形大は山寺立石寺域内の最上義光(1546〜1614年)の霊屋が江戸時代前期、1620年頃以降の建築物である可能性が濃厚と発表。
これは言い伝えにある「山野辺義忠が山寺の霊屋を建立した」といったものに時期的に符合する。
義光の霊屋は1623年に死去した米沢の上杉景勝をまつる上杉家廟所と並び、県内で最も古い時期の霊屋とみられる。
山形大によると、地域教育文化学部の永井康雄教授(建築史)が昨年11月、地元郷土史研究会などの依頼で調査を開始。住職の了解を得て、霊屋と、位牌などを安置する内部の厨子の柱、壁、扉などの建築部材からサンプルを採取した。
山形大総合研究所の高感度加速器質量分析センターで、残存炭素量から年代測定した結果、
(つづく)
0526人間七七四年
2014/03/05(水) 14:41:23.81ID:+DgisHE0厨子の建築時期が1607〜23年頃、霊屋の方はやや遅い1620〜51年頃と判明。
(最上義光の死は1614年、最上騒動は1622年)
厨子の装飾に桃山時代を象徴するおおらかなデザインがあり、測定結果や最上義光の死の年代とも符合する。山寺のものは義光の死後すぐに作られたとみられる。
霊屋は立石寺周辺で3、4回、移築や修繕を繰り返しており、最も古い部分が江戸時代前期の建築と判定。
義光の霊屋は、これまでも山寺を描いた絵図などに登場し、立石寺にあることはよく知られている。だが、建築経緯や建築時期は研究者が少なく、明らかでなかった。
(つづく)
0527人間七七四年
2014/03/05(水) 14:44:48.78ID:+DgisHE0永井教授は「仙台にも伊達政宗の霊屋、瑞鳳殿があるが、空襲で焼けてしまい現存するのは再建された建物だ。建築当時の状態で残っているのは珍しく、全国的にも貴重ではないか」と語った。
※元は河北新報の記事。伝承や年代を追加及び編集。
0528人間七七四年
2014/03/05(水) 14:46:49.12ID:+DgisHE0最上義光の山寺の霊屋の建立時期が裏付けされたいい話って事で
0529人間七七四年
2014/03/05(水) 14:50:10.32ID:+DgisHE0山形・山寺、最上義光の霊屋 建築江戸前期か 山形大分析
↑最上義光の死の年代と霊屋建立主とされる山野辺義忠の生存時期を考えたら江戸前期以外になにがある−といった意味では悪い話
0530人間七七四年
2014/03/05(水) 14:56:57.49ID:+DgisHE0義光の本廟(慶長寺→光禅寺)が明治の南大火で焼けていなければ…
0531人間七七四年
2014/03/05(水) 15:36:22.25ID:xaCxh04a広島城も原爆で吹き飛んだし、各都市も空襲で大抵焼けてもうた・・・
0532人間七七四年
2014/03/05(水) 15:39:11.87ID:oIyPMcjc0533人間七七四年
2014/03/05(水) 15:59:19.57ID:VN4MSzz7まあ、応仁の乱が起きなければ歴史がどう変わったかなんて想像もつかないけど。
0534人間七七四年
2014/03/05(水) 16:18:41.20ID:jLa1623B0536人間七七四年
2014/03/05(水) 16:24:35.36ID:oIyPMcjc0537人間七七四年
2014/03/05(水) 16:25:20.00ID:+DgisHE00538人間七七四年
2014/03/05(水) 16:31:18.05ID:K65h4yHy0539人間七七四年
2014/03/05(水) 16:38:06.02ID:+DgisHE0伊達政宗「俺はまだおとなしいよ」
0540人間七七四年
2014/03/05(水) 16:39:16.32ID:oIyPMcjc0541人間七七四年
2014/03/05(水) 16:42:14.85ID:+DgisHE0文化財が残ってたらいい話だったのに
0542人間七七四年
2014/03/05(水) 17:56:33.77ID:PecF9m1i0543人間七七四年
2014/03/05(水) 17:58:57.63ID:R5Jpo6Py関東の先手ならびに軍鑑の井伊と本多たちはこれを攻め、
先手田中兵部少輔(吉政)の合渡川の先陣に織田勢は敗軍した。
池田と福島が大手と搦め手より攻めたために、ついに落城するという時、
秀信は硯を取り寄せて戦労の者へ感状を与え、それぞれに暇を遣わして
自身は高野山へ遁世した。
「この急戦中に静かに感状を書き与えるなどとは、若将ながらさすがは
右大臣信長公の御嫡孫かな」と、その頃、敵方においても賞美された
ということだ。
その時、秀信は少々の御供とともに敵数万の中を参然として通った。
その折に生け捕るべきだと相談したところ、福島正則は、
「家来に暇をやるのは命を助けたいと思ってのことだ。こうして僅かに
十人ほどの小姓者ばかりを連れて、この大事の中を落ちて行くのを
生け捕ったからといって功にもならない。かえって非義無道である。
士の情はこのような時にこそあるのだ」と言って、制止した。
――『明良洪範』
0544人間七七四年
2014/03/05(水) 18:01:12.58ID:1g42XEis中世の話に、所領権利関係の大切な書類が紛失しないように寺に預けたら、その寺が戦乱に巻き込まれて
寺ごと燃えた、という悲惨な例も
0545人間七七四年
2014/03/05(水) 18:13:09.08ID:jLa1623B0546人間七七四年
2014/03/05(水) 18:51:05.64ID:nGuJho9e0547人間七七四年
2014/03/05(水) 22:59:24.27ID:bX2q3DZ50548人間七七四年
2014/03/06(木) 15:17:17.08ID:LcMxfBHr毛利秀包が久留米に入ったころ、領内の高良山には大きな宗教勢力があった。
高良山は座主の麟圭を中心に、秀包に敵対的な行為を繰り返したため、ついには合戦となった。
しかし高良山は要害だし、僧兵も満ち満ちている。しかも座主の麟圭は若いころに久留米城主をしていたこともあり、地の利を知り尽くしている難敵だった。
秀包は勝ちを収めることができず、遂には秀包から和議を申し入れることになったが、これは罠だった。
秀包は、座主の麟圭と息子の良巴を和議の宴の席で謀殺することにしたのである。
宴の最中に麟圭と良巴は殺気を感じ、脱出するも追っ手に惨殺された。
所の人々はこれを悼み、討ち取られた麟圭主従八人を弔うために墓を建て供養した。
これを八ツ墓という。
しかし麟圭の霊は慰められなかったらしく、幽霊になった怪談がある。
八ツ墓は久留米駅の側にあったが、昭和のころ医王寺というお寺に移転した。
0549人間七七四年
2014/03/06(木) 17:30:22.35ID:ut4gekwu0550人間七七四年
2014/03/06(木) 17:32:52.62ID:95x29Z4S0551人間七七四年
2014/03/06(木) 17:53:18.88ID:Aqlq0mLu0552人間七七四年
2014/03/06(木) 18:11:02.29ID:tE/xc2/c0553人間七七四年
2014/03/07(金) 01:34:48.79ID:PpZAWpP40554人間七七四年
2014/03/07(金) 01:44:16.33ID:A0TphRWE0555人間七七四年
2014/03/07(金) 09:44:23.06ID:FhnW4AgG548の麟圭はどうも成仏できなかったらしい。
とある侍の女房が留守番をしていると、夜中に訪ねてくるものがあった。
女房が戸を開けると、そこには
立派な袈裟を着た、血まみれの坊さんがいた
坊さんは
「何故あの木を伐ってしまったんだ!俺が愛してやまない木だったのに!」
と言うようなことをまくし立ててくるが、女房はよくわからないし、気味も悪いので
戸を閉めて無視した。
すると、いつの間にか坊さんの姿は無くなったが、墓地から鬼火が出るようになった。
女房は帰ってきた主人にこの話を伝えると
「和尚さんに相談してみよう」
となった。
和尚さんは話を聞くと
「それは毛利秀包にだまし討ちされた麟圭だろう。」
と麟圭の墓に行き、ねんごろに経を読んだ。
すると鬼火は出なくなったという。
0556人間七七四年
2014/03/07(金) 11:34:27.38ID:Zj3W59Uv女房つよいな
0557人間七七四年
2014/03/07(金) 20:19:13.83ID:CDHEUHJN「ただ今、亡くなりました」
と家の者が答えた。
和尚は、
「すぐに亡くなる状態ではなかったと思うが、養生に問題があったのではなかろうか。
残念なことです」
と言葉をかけた。
すると障子越しに会話を聞いていた医者が怒り心頭の様子で飛び出して、
「養生に問題があり亡くなったとの言葉確かに聞きましたぞ。
たしかにわたしなどは下手な医者ですからそうなのかもしれません。
ところで、出家には法力があると聞いておりますが、
ひとつ和尚の法力でこの死人を甦らせてみせてください。
法力の効果があらわれないのであれば、仏法などは役に立たぬものでしょう」
と仏法をあざけるように言った。
和尚は迷惑な言い分だと思ったが、仏法を謗られては我が身一人のことではすまぬと思い、
「それでは祈って生き返らせて御覧に入れよう。
準備をするので、しばらくお待ちを」
と言い残して寺へ帰り、また戻り来て、死人の横で坐禅を組んだ。
しばらくすると、死人が息を吹き返すようになり、生き返った。
その後、半年ほど生きたそうである。
この話は湛然和尚が直にお聞きになったことで、間違いない。
さて、その死人を生き返らせる法力について大融和尚は、
「死人を生き返らせるなどは我々の宗派では行わないことなので、
祈り方に儀式になにも知らなかったのだが、
ただ一心に仏法のためにと、寺へ帰り、供養として納められた短刀を研ぎ上げ、
それを懷に入れて、もしこの世に法力などというものがあるならば、
いまここで、ただちによみがえられよと、ひたすら念じたのだ。
もし生き返らなければ、腹をかき破って死人とともに旅立ってしまおうと覚悟を決めたまでよ」
と語ったそうである 【葉隠】
理不尽、非合理と評されることのある葉隠ですが、この話は本当に登場人物全員むちゃくちゃ(笑)
0558人間七七四年
2014/03/07(金) 21:06:06.30ID:NR7+un7G0560人間七七四年
2014/03/07(金) 22:34:54.07ID:A+OqaWOT>坊さんは 「何故あの木を伐ってしまったんだ!俺が愛してやまない木だったのに!」
>と言うようなことをまくし立ててくるが、女房はよくわからないし、気味も悪いので戸を閉めて無視した。
なんという冷静な対応w
0561人間七七四年
2014/03/07(金) 22:38:12.91ID:HGwOwZIU幽霊の癖にボケたのか
0562人間七七四年
2014/03/07(金) 22:40:43.56ID:sOzeb44I一休み、一休み
0563人間七七四年
2014/03/08(土) 06:33:58.46ID:HWfbcSplもうどうにでもなれーという気持ちが奇跡を産んだのか、
ただ医者がへっぽこすぎた結果なのかもうわけがわからん
0564人間七七四年
2014/03/08(土) 10:14:55.92ID:VHgKencFそのための通夜だとかって聞いたな
0565人間七七四年
2014/03/08(土) 10:18:59.46ID:exdl8bBF最近は医師が最終確認するまでは心配停止と表現するようになったよね
0566人間七七四年
2014/03/08(土) 10:25:28.09ID:Aq1T/Ovh0567人間七七四年
2014/03/08(土) 15:28:55.99ID:vnHElv4O0568人間七七四年
2014/03/08(土) 16:12:26.40ID:azbI1sEkなんていう警察無線思い出した
0569人間七七四年
2014/03/08(土) 17:07:17.50ID:K48X/a48まさか現代人が腹切りして介錯成功したわけだから。
このスレでは切腹介錯の逸話は見慣れてるんだが、
う〜ん、時代が近いからなのか生々しい
0570人間七七四年
2014/03/08(土) 17:23:10.50ID:kNInOyCHだからたぶん死んでいる、って意味で「首と胴体の距離、約1メートル」って入れたんだと思う
0571人間七七四年
2014/03/08(土) 17:35:40.54ID:vnHElv4O0572人間七七四年
2014/03/08(土) 17:36:17.27ID:K48X/a48まあそれでも驚いただろうな
主張を聞いてる自衛隊員たちはその後、腹切るとは思ってなさそうな雰囲気
映像見る限りだと、聞いてる隊員、罵倒する隊員、止めろと制止する隊員がいる
0573人間七七四年
2014/03/08(土) 17:51:52.60ID:VHgKencF公儀介錯人なんて役職つくちゃった作品もありましたな
0574人間七七四年
2014/03/08(土) 20:02:22.53ID:Ev4rxz7M刃が奥歯に当たって止まってしまったそうですねガクブル
0575人間七七四年
2014/03/08(土) 20:47:23.95ID:gFMN8LTe想像したくないのにしてもうた・・・
0576人間七七四年
2014/03/08(土) 21:52:00.85ID:waEV2N1M新撰組でそんな話があったな
介錯に失敗した谷三十郎の逸話
0577人間七七四年
2014/03/08(土) 22:33:14.50ID:epc325by0578人間七七四年
2014/03/09(日) 01:21:32.18ID:7sBTc9zI誰はそこで討死した、誰はそこで首を取った、
あるいは負けるだの勝つだのなどとばかりのことである。これは悪しき聞き様だ。
その戦いはどうして負けた、どうして勝ったというように、
その勝ち負けの理由を尋ね聞くのをこそ、武辺物語と申す」と云々。
――『武功雑記』
0579人間七七四年
2014/03/09(日) 02:44:50.88ID:Ev17vN9S山寺立石寺に室町時代の古い文書が残る
最上義光(´・ω・`)「本願を叶えてくれたら山寺を大切に扱います。喜捨をし、重ねて丁重に扱う事も誓います」
本願とは最上義守から無事に家督を相続する事を指していると言われる
神様仏様に頼み事をするには祈るだけではなく
ギブ アンド テイク も交渉術の内といった、神仏に対しても一種の契約を行った鮭様の話
0580人間七七四年
2014/03/09(日) 02:52:14.28ID:Ev17vN9Sやれば報われるって何か良い表現ありましたっけ?
とらぬ狸の皮算用と真逆の意味の言葉で
0581人間七七四年
2014/03/09(日) 04:23:36.94ID:flh++7vY雨垂れ石を穿つ
0582人間七七四年
2014/03/09(日) 05:10:51.29ID:73+9rch40584人間七七四年
2014/03/09(日) 21:20:24.09ID:PEGY2JJi0585人間七七四年
2014/03/09(日) 21:35:57.95ID:vYwalrHz命あっての物種
死んで花実の咲くものか
ヤバいと思ったらすぐ逃げろ
>>582
菅谷さんが報われたことってありましたっけ?
0586人間七七四年
2014/03/09(日) 22:39:32.76ID:E2cXG/E9斬り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ
踏み込みゆけばあとは極楽 by宮本武蔵
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ by空也上人
生を必する者は死に、死を必する者は生く by上杉謙信
逃げ出した先に楽園なんてありゃしねえのさ
辿り着いた先、そこにあるのは戦場だけだ byガッツ
0587人間七七四年
2014/03/10(月) 19:40:56.62ID:DmghnVup火病ってwwwww
>信忠の同母弟であるにも関わらず、其の容姿は似ても似つかぬもので、キリリと引き締った信忠に対し
>信雄はブヨブヨと太っていたと謂う。また安土城への放火と併せると彼が遺伝子欠陥或いは重度の知的障害を患っていた事が判る。
>信忠の同母弟であるにも関わらず、其の容姿は似ても似つかぬもので、キリリと引き締った信忠に対し信雄はブヨブヨと太っていたと謂う。
>また安土城への放火と併せると彼が遺伝子欠陥或いは重度の知的障害を患っていた事が判る。
>平時から父の叱責を受けていた為に安土城を見て憎悪と怨恨で火病を発症し、衝動的に放火した可能性は否定出来ない。
0588人間七七四年
2014/03/10(月) 19:46:40.14ID:c8Oqgbsm0589人間七七四年
2014/03/10(月) 20:37:21.52ID:iG3evuam0590人間七七四年
2014/03/10(月) 21:00:04.65ID:S4iA8xTd滑稽に思うであろうが、これは奇異とするに足らない。それはマラバール(インド・ケーララ州)の
国王達が同じ皿からただの一度しか食べないと言おうとするのと一緒であって、彼らはバナナの皮で
食事をするので、食事が終わればそれを捨てるのである。
従って日本人について、彼らが一度ハンカチに唾を吐いたり鼻をかんだりすると、それを洗わずに
捨ててしまうと言う時には、次のようなことが説明されねばならないであろう。
すなわち、日本人は鼻をかんだり唾を吐くためにハンカチの代わりに、ハンカチのように折りたたんだ
薄い紙をたくさん懐に入れて持ち歩いているということである。
この紙は非常に安いので、彼らは非常にわずかの費用で幾枚でも使用することが出来る。
貴人たちはその紙の間に、白または青色の亜麻布を一枚携えているが、これは汗を拭くためだけに
用いられる。だが商人や一般の人々は、紙以外に亜麻製の半幅の手拭いを帯の中に携えており、
汗を拭いたり、手や顔を洗う的にそれを用いる。
(ルイス・フロイス『日本史』)
日本人が戦国時代からちり紙を使っていた、という記録である
0591人間七七四年
2014/03/10(月) 22:23:51.54ID:9KsNTFiM0592人間七七四年
2014/03/10(月) 23:20:59.39ID:iG3evuamんでカピカピになってから洗う
0593人間七七四年
2014/03/10(月) 23:22:23.90ID:ZH4Ve3AV0594人間七七四年
2014/03/11(火) 00:25:47.57ID:SRL2EFdo0595人間七七四年
2014/03/11(火) 12:09:19.46ID:1WiNGMWd明治のパリ万国の日本館の大工がちり紙捨てたら周りのフランス人がびびったとか
いまでもなごりで>>592
おかげで識字率も低かった
0596人間七七四年
2014/03/11(火) 15:23:18.92ID:RcrVH+Jv学習用の紙が使えるかってことか
0597人間七七四年
2014/03/11(火) 18:00:46.12ID:HKVyWUHd贈呈されたって話もあるから、それなりに紙工技術はあったんだろうけどね
0598人間七七四年
2014/03/11(火) 19:20:47.08ID:VMcXdHz30599人間七七四年
2014/03/11(火) 20:27:52.43ID:2ViOfgOs0600人間七七四年
2014/03/11(火) 22:04:20.32ID:wHPCYBug和歌一首を詠じなさった。
その和歌を『露と置き露と消へぬる吾身哉難波の事は夢の世の中』と自筆で書きなさり、
尼孝蔵主に命じて「深く納め置くべし。用がある時に出すのだぞ」とのたまった。
年を経て慶長三年八月十七日、孝蔵主をお呼びになって「いつぞや預け置いた和歌は」
と、お尋ねになった。孝蔵主がただちに出して差し上げたところ、
年月日御諱をも書き加えなさって、そのまま差し置きなさり、翌日に薨御された。
前述の和歌を太閤の辞世であるということで木下家に伝えて、
いまなお、肥後守豊臣公定(木下公定)が所持しているということである。
――『明良洪範』
0603人間七七四年
2014/03/12(水) 17:02:39.22ID:Lr3Cz+B00604人間七七四年
2014/03/12(水) 17:32:00.97ID:q2f38PIIやっぱりノブが杉谷善住坊にやったのを後世
パクったのかね
0605人間七七四年
2014/03/12(水) 17:55:14.55ID:hTWr+4y/0607人間七七四年
2014/03/12(水) 20:03:25.04ID:SsMYHoSi光秀が築いた近江坂本城から程近い唐崎神社には、昔からしばしば歌に詠まれた立派な松の木があった。
柿本人麻呂や紀貫之らの目にも留まった松の木を是非自分も見たいと、光秀は唐崎を訪れるが、既にこの地に松は無かった。
がっかりした光秀だが、それならばもう一度この地に松を植えてやろう、
と未だ競り合いの続く浅井領から一本の松の木を持ってきて植えたのだった。
それからというもの、光秀はこの松を気に入り、馬で出かけては木の周りをくるくると歩き回って楽しんでいたとのこと。
坂本城址公園に建つ明智光秀公の像にはこんな歌が添えられている。
『我ならで 誰かは植ゑむ 一つ松
こころして吹けしがの浦風』
……おれ以外に誰が苦労してここに松を植えると言うんだよ。だからもう折ったり吹き飛ばしたりしないように気をつけて吹いてくれ、志賀の風よ。
悪い話スレの方には随分前ににこの話が信長公の耳に入るエピソードが投稿されているけど、いい話として少し詳しく書かせてもらいました
0608人間七七四年
2014/03/12(水) 21:37:26.05ID:yPc6s9KShttp://blog-imgs-31.fc2.com/m/a/r/maropinkpalace/20110419203849e48.jpg
http://waretadataruwosiru.txt-nifty.com/photos/uncategorized/2011/04/19/henry8.jpg
0609人間七七四年
2014/03/12(水) 21:38:50.93ID:Y12sJYTz善くも悪くも
0611人間七七四年
2014/03/12(水) 22:54:41.59ID:8kA+OyTU0612人間七七四年
2014/03/12(水) 23:01:01.48ID:3XorX+lM光秀「動物など呼んでおらん」
0613人間七七四年
2014/03/12(水) 23:13:34.58ID:hQDTSnkr0614人間七七四年
2014/03/12(水) 23:35:43.89ID:IZmwJkBF0615人間七七四年
2014/03/12(水) 23:38:30.26ID:+KZo44bk単に人権派のメシの種にされただけ?
0616人間七七四年
2014/03/12(水) 23:39:04.79ID:Rm/k90hsttp://hiyoshitaisha.jp/wp-content/themes/hiyoshi/images/karasaki/img_karasaki_top.png
でも唐崎神社は唐崎の松を植えたのは光秀じゃなくて新庄直頼と言ってる。
こっちも植えた新庄直頼の弟直忠の和歌が残ってる。
「おのづから 千代も経ぬべし辛崎の まつにひかるみそぎなりせば」
0617人間七七四年
2014/03/13(木) 00:10:22.65ID:7jSOMkF80619人間七七四年
2014/03/13(木) 02:09:15.37ID:iPKuK0x/0620人間七七四年
2014/03/13(木) 02:13:30.47ID:dvCANMA3なんか白楽天か誰かの逸話で同じようなのがあった気がするんだよな
70になって種を植えてバカにされたが結局80まで生きて実を食べることができたとかいう話
0621人間七七四年
2014/03/13(木) 12:37:45.78ID:emG5Mp3v0622人間七七四年
2014/03/13(木) 14:10:23.31ID:YuRs7tcL接ぎ木するのが良いらしい
0623人間七七四年
2014/03/13(木) 14:13:07.47ID:SJ42h76T先月発表されていたニュースによれば
ストレス環境によって細胞が若返るんだってさ
なんでもSTAPとかいうらしい
0624人間七七四年
2014/03/13(木) 17:13:24.32ID:zcPRJFtN/ .| | .\ スタァーップ!
/____| |__ \
/ ___ ___ \
| / (●)|_|(●) \ |
| | .(__人__) | |
| | |::::::| | |
.\| l;;;;;;l | /
/ `ー´ \
-----
0625人間七七四年
2014/03/13(木) 17:37:57.67ID:7jSOMkF80626人間七七四年
2014/03/13(木) 17:39:19.41ID:qARA01Qk0627人間七七四年
2014/03/13(木) 18:12:35.41ID:Ju2v0KU+0629人間七七四年
2014/03/14(金) 03:15:09.36ID:wpMZ0G6zやっぱり短命なんじゃないか
0630人間七七四年
2014/03/14(金) 14:55:20.47ID:9D/eaQgf0631人間七七四年
2014/03/14(金) 18:39:47.90ID:00PVhXC7その家士に野村治右衛門という新参者がいたのだが、
長門守の死骸が品川に捨ててあるのを乞い請けて浅草金性院に葬った。
譜代旧恩の士も多くいるのにそれらはどこへか退散し、
新参者がかえって忠を尽くしたのだ。
また、同家の士に内藤瀬兵衛という者がいた。長門守は罰せられる前に
金三百両を持たせ上京させていた。その後、長門守ならびに
弟の右近、三弥たちはそれぞれ御仕置となり家は断絶に至ったために
金子を返すべき人がいないので所司代のもとに持参し、その由を申して
「闕所金なので差し上げます」と言った。所司代の板倉周防守(重宗)は
その義心を感じて「お前の金子にせよ」と言って与えた。
瀬兵衛はやむを得ず受納して旅宿へも帰らず、ただちに大徳寺へ持参し、
「主人が御仕置になり家は断絶したので、この金を納めますから、
永く主人の追善を頼み入ります」と言って三百両を寄付した。
島原で武功の家士は多いけれども、この二人の至忠のようなものは
ふたつと無い。『国亡びて忠臣顕る』という古語に違わないことである。
――『明良洪範』
0632人間七七四年
2014/03/15(土) 00:16:09.89ID:JPexOhDu0633人間七七四年
2014/03/15(土) 00:38:50.06ID:ADSPrJrm捨て捨て
0634人間七七四年
2014/03/15(土) 03:37:02.68ID:JPexOhDuその中には日根野織部(デス武将こと日根野備中の子だから彼もまた兜職人なんだろう)より献上された甲冑と千利休より献上された石灯籠があった。
織部の兜の前立は八日月(半月)、利休の灯篭の窓の形もまた八日月であった。
2人で同じテーマの物を関白殿にプレゼントしようと示し合わせたのだろうか?
武の道の数寄者、茶の道の数寄者、両人の心が同体となり面白いことになったなあと人々の感動を生んだとさ。
0635人間七七四年
2014/03/15(土) 04:11:56.00ID:fS2xynar0636人間七七四年
2014/03/15(土) 15:29:40.99ID:m5glyeEn大支柱になり得る素質を備えていた。しかし後日人が変わり、後述するように極めて悲しく不運な末路を
たどることになった。
信長の多くの息子に中にあって、彼は全ての武将たちから最も好かれ、愛されていた。彼は安土の司祭や
日本人に修道士たちと交際し始め、しばしばデウスの掟について説教を聞く内に、たとえキリシタンで
あったとしてもそれ以上望み得ないほどの愛情と親近感を我らの修道院に対して抱くようになった。
彼は週に1,2度は必ず修道院に姿を見せ、ロレンソ修道士が、それに劣らぬほど頻繁に彼の家に
来訪することを希望した。また種々の贈物を度々司祭らに届け、万事において彼らに対する大いなる愛情と
親切を示した。彼は司祭らを自らの教師とみなしていると公言し、大物の武将たちの前で、深い尊敬を込めて
デウスの掟について語り、司祭らに対しては極めて恭順の意を示したので、異教徒たちは驚愕した。
彼は仏教の宗派は欺瞞と迷信であるとしてこれを軽蔑し、我らの聖なる掟だけが真理と道理にかなっており、
真理を弁えるいかなる者も、デウスの教えを聞いては未リシタンにならずにはおれぬと述べ、
多くの言葉を以ってそれを激賞した。彼自身も、いくつかの事情から延期を余儀なくされていなければ、
既にキリシタンになっていた所であり、その数名の家臣は彼の説得により、既に受洗していた。
彼は修道士にコンタツ(ロザリオ)を求め、それで祈りたいと言い、時々それを腰に帯びていた。
彼は大きな邸宅と相当の封禄を付与されていたが、時節が到来するまで、彼の父はまだいかなる国をも
与えていなかったので、父がいずれかの領地を与えるのを、当然の事として待機していたのであった。
彼は既に25歳になっていたであろう。父から気に入られ、城中の一同から愛されていた。
この若者は、父が喜ぶか、少なくとも悪く思わぬということを示唆するまでは、キリシタンになることを
留保していた。何故なら信長は、その子供たちに対しても顧慮することがなく、子供たちからさえ
恐れられていたので、進んで彼と話そうとするものはなく、誰も皆、彼の気に触るようなことは
避けるように注意していた。
三七殿は父の重臣たちと親しく交際していたが、彼らに向かっては、キリシタンになりたいと公言し、
父がそれをどう思うか知ろうとして、父がそれについて考えてくれるよう手をつくしていた。
三七殿は我らのことを母親に話していたので、彼女も2,3度説教を聞き、デウスの教えに愛着を感じていた。
(ルイス・フロイス『日本史』)
ルイス・フロイスによる、織田信孝についての描写である。
0637人間七七四年
2014/03/15(土) 16:38:55.30ID:xNY1rIaH0638人間七七四年
2014/03/15(土) 16:53:51.93ID:ed+AMNJw聖書は家にあるけど個人的にはなかなか読み進まない書物だ
高杉晋作が聖書を読んだときの感想が、
『「キリスト教は陽明学に似ている。我が国の分解は此を以て始まらん」
維新の志士として有名な長州の軍略家、高杉晋作は、
長崎にて始めて基督教聖書を調べて、然う叫んだ』(内村鑑三、代表的日本人より抜粋)
だそうですね。
内村鑑三がキリシタンだから信憑性は謎
ところでキリスト教ってどういう思想なの?
0639人間七七四年
2014/03/15(土) 16:58:03.46ID:IxH71Qmzこの世は神が創った
人間中心
魂の永遠性
が儒教、仏教、神道とちがうところとか
0640人間七七四年
2014/03/15(土) 17:02:24.35ID:t5w+v5cY0641人間七七四年
2014/03/15(土) 17:17:26.26ID:ed+AMNJw陽明学なら良知とか心即理
南無阿弥陀仏なら善悪とか成否の迷いを阿弥陀仏に任せてしまうんだろう
キリスト教ならGODか…
なんでもそうだが一歩間違えると危ないな
0643人間七七四年
2014/03/16(日) 11:53:42.05ID:IvvXE4J2信雄の没落とともに豊臣秀吉の寵を得なくなったが、虎之助自身が不興をこうむったわけではなく、
時おり秀吉は虎之助について話すことがあった。そこで彼の友人たちは上洛して関白殿の目に触れるよう
虎之助にすすめた。
そこで、彼は京の都に出向いて、そして、秀吉が尾張に出かける際を見計らって、その途中にある小高い
場所でボロボロの着物をまとって待機していた。秀吉がその場所を通った時、ただちに虎之助に気づいたので
すぐに彼をそばに呼び寄せて親しく声をかけた。秀吉は「このように落ちぶれてしまったのは不憫だ」と言って
馬を一頭あたえて尾張まで一緒に連れて行き、そこで米二千俵の禄を扶養費としてあたえた。
(ルイス・フロイス書簡 1591、1592年イエズス会日本年報)
0644人間七七四年
2014/03/16(日) 18:55:45.74ID:3d41eKx2吉日を占い選んだり、縁起のよい方角を考えることに時間を費やすのは、
はなはだ無駄なことで、不満足であると言わざるをえない。
吉日だからと台風の日に船を出したり、吉日だからと多勢にひとりで突撃するのは、
いかに吉日だからと、それが無益であるのは火を見るよりも明らかである。
たとえ悪い方角に向かおうとも、仏滅の日であろうとも、
情勢をしっかりと洞察して、なにが虚か、なにが実かを考察し、
臨機応変に武士どもを動かして、敵に知られぬよう武略を敷くならば、
吉日だろうと悪日だろうと必ず勝利を招くものである
『朝倉敏景十七箇条』
0646人間七七四年
2014/03/17(月) 13:16:19.32ID:vZJIuX8Q蒲生氏郷は優れた人物であった。初めは伊勢松坂で12万国を所領し、その直後に会津120万石を領した。
これは太閤の時代のことであり、その時彼は40歳ほどであった。
佐々木承禎は江州一国を領した大名であったが、織田信長に滅ぼされて江州を取られた。承禎の子は四郎殿(六角義治)
と言って、太閤の時代には咄の者(御伽衆)となって二百石であった。
蒲生は元々その家臣であったのだが、その時は百万余石を領していた。
しかし、伏見などで太閤の御前に侍り、退散の時、氏郷は昔を思って、六角四郎殿の刀を持って従われる事もあったという。
蒲生が江州で承禎の家臣だった時代には、日野を領していた。氏郷の父(蒲生賢秀)は頑愚にして天性臆病の人であった、
その頃、俗人の間では小歌に
『日野の蒲生殿は、陣さえ云やへをこきやる』(日野の蒲生殿は、戦と聞いただけで臆病風にふかれる)
と言ったのは、この人のことを指しているのである。
(老人雑話)
蒲生氏郷が、旧主六角氏にも義理を通していた、という逸話である
0647人間七七四年
2014/03/17(月) 18:00:34.28ID:IFrmhOaB図らずも心に叶った松を取り寄せて殊の外秘蔵に思った。すぐに望んだ居間の小庭に
植えたところ、
御庭裁判役人は数寄屋足袋や立付の姿で杖を突いて下知した。家政はこれに立腹し、
自らその松の辺りへ立ち寄り、土を寄せて「秘蔵である!」と言った。
これによって裁判役人は急に働いた。家政は座敷へ上り、立腹の声で、
「この松が枯れた時は、弓矢八幡、裁判人を磔にかける!」と言って入った。
そうして二、三日が過ぎて松の葉の色が悪くなったため、枯れるのではないかと、
御庭裁判人は殊の外気遣った。そして四日目の早朝、家政は件の松を見て御側の面々に
「この松の裏を表へ植え替えさせろ」と言って、内証へ入った。
故に早速植え直してその旨を申し上げると、家政は出て見たうえで「これでは枝付きが悪い。
この枝を切れ」と、望んだ五枝ほどに付紙をした。そのため、早速枝下ろししたところ、
その翌朝、また松を見て「なんとまあ、枝下ろしが物の数寄を仕損じて枝振りが悪くなった。
根から切って捨てろ」と命じて、眼前で土際から切らせたとのこと。
この事を、その節に沙汰して「植木に人を替えなければならない事情も無いということ、
また、御誓言も無かったことにするべきではないとの御思案ではないか」と恐察した。
――『尊語集』
0648人間七七四年
2014/03/17(月) 18:21:26.47ID:N9X7t7tY枯れる前に捨ててしまえば、裁判人を磔にしなくて済むし、八幡大菩薩への誓いも嘘にはならない。
裁判人も怒られてからは一所懸命に松育ててるしな。
なにも最初の発言通りに枯れるまで待って反省した者を磔にする必要はない。
蜂須賀さんは良い大将だね
0649人間七七四年
2014/03/18(火) 21:38:28.03ID:9DuFYx0xあったという。普段の珍膳・妙衣は言うに及ばず、客殿屋形の美々しきこと、言語道断であると言われた。
この勝元は常に鯉を好んで食されていたので、家来の大名たちは勝元におもねって、数えきれないほどの
鯉を贈った。
ある日、とある人が勝元を招いて、様々の料理を尽くして饗した。この時もまた、
鯉を料理して出された。この時相伴の人3,4が、恭しく陪膳していた。
さて、この鯉料理を人々は多く賞翫し、それをよろしき料理であるとばかり褒めたが、
他の言葉がなかった。勝元も料理に一礼を述べたが、この時さらに言葉を進めて
「この鯉は、名物であると感じました。きっと客への饗しのため、使いをはせて求められたのでしょう。
それに対して、この場の人々の褒め様はあまりに無骨です。それはおおむね、膳部を賞翫するまでの
有り様についてです。折角の饗しに、その素材について語らないのは、あっていいはずがありません。
この鯉は、淀より遠来したものであると見ました。その印があります。他の国の鯉は、捌いて酒に浸すと、
一度箸を入れればその汁は濁ってしまいます。しかし、淀の鯉はそうではありません。
どれだけ浸しておいても、汁の色は薄く、濁りがありません。これこそ名物である淀の鯉の印です。
皆さんの中で、重ねてこのような饗しを受ける人が有れば、この勝元の言葉を忘れないようにして
料理を褒められるように。」
そう申された。
誠に淀の鯉のみに限らず、名物は大小となくその徳のあるべきものである。こういった心を持って、
よろずに心配りをして味あうべきであると、その時陪膳した人の子という人物が、ある人の所で
語ったという。
(塵塚物語)
細川勝元の、グルメマンガみたいな料理の賞翫についての教訓。
0650人間七七四年
2014/03/18(火) 21:42:35.02ID:Ytxw/L/I淀川の鯉
同じ話のはずなのに勝元の口調が違うのがなんか面白い
0651人間七七四年
2014/03/18(火) 23:34:27.03ID:AYAz2v/O0652人間七七四年
2014/03/19(水) 17:18:53.54ID:hizg0GYy今の人は生まれつき弱くて短命である」と言った。
傍には石谷土入がおり、彼は「いやそんなはずはない。
昔も弱い人は先に死に、強い人は残ったのだ。
今も弱い人は先に死に、強い人は残るはずだ。
だから、今よりも後世の人は、再び今の人のことを
昔の人は強く長命である、と言うことであろう。
人生にどうして今昔の変わりがあろうか。
現に聖人も『七十古来稀れ也』と言いなさったのだ。
人命の長短は古今同じはずである」と言った。
――『明良洪範』
0653人間七七四年
2014/03/19(水) 17:30:06.99ID:+ZJTRZRZ0654人間七七四年
2014/03/19(水) 22:49:23.05ID:zkx8ApC4同じ逸話が翁草にあったのを思い出した。
昔の人は強健にして長寿であり、今の人は性質が弱くなり夭折するものが多いと言う。
石谷長門入道という老人がこれを聞いて
「そう言われるのには訳がある。昔の事を思いだしてみると、やはり強弱二通りの人々
が居た。今と変わりないが、そのうち弱いものが多く強い者は少しであった。
昔いた弱い者は皆死んでしまい強い者だけが生き残ったので、その人たちだけを見て
あのように言うのであろう。
今の人も弱い者は早く死に強い者は生きのこる。後世からみれば今の人々を強健と言う
のだろうな」
と語られたのは、実にもっともな話であった。
(翁草)
0655人間七七四年
2014/03/19(水) 23:34:34.17ID:uWOxnezA0656人間七七四年
2014/03/19(水) 23:42:34.92ID:1nQR0pzi「ノアとかメトセラとか、昔はもっと長命だったのです。
古事記の日本の天皇も皆さん長命でしょ?」
って言ってた
戦国時代はこの説明で納得したかもな
0657人間七七四年
2014/03/20(木) 00:42:44.23ID:NUh5ntI+0658人間七七四年
2014/03/20(木) 07:34:25.58ID:/CsLEq9L0659人間七七四年
2014/03/20(木) 09:05:57.74ID:MdcInIhj口伝がその手段だったから
複数の人物の事績がまとめられて
長命の英雄が必然と多くなるんだよん。
0660人間七七四年
2014/03/20(木) 19:55:01.98ID:EAqBVhFK0661人間七七四年
2014/03/20(木) 21:52:19.68ID:WJ2skcef0662人間七七四年
2014/03/20(木) 22:12:04.81ID:7mF3I8oQ0663人間七七四年
2014/03/21(金) 07:49:28.42ID:6Bny1OIe犯人はいつも三成
0664人間七七四年
2014/03/21(金) 16:02:55.91ID:L3GgUvBf小田原を取った。
その時、新九郎は搗栗(勝栗)を持っていて、
その噛んだ歯の跡のある搗栗を北条家は代々受け伝えた。
それを『高祖出陣の守り』といって、出陣の時に歯にあてた。
新九郎は北条家の先祖なので高祖と呼ぶ。
(其時新九郎。搗栗を持て。かまれし歯あとあるを。
代々取伝て高祖出陣の守りとて出陣の時歯にあてらる。
新九郎は北条家の先祖ゆへ高祖と云)
――『武功雑記』
0665人間七七四年
2014/03/21(金) 18:10:02.99ID:vn2csnUK0666人間七七四年
2014/03/21(金) 20:33:01.98ID:xXn8FclR0667人間七七四年
2014/03/22(土) 19:12:41.37ID:/I3Yd6Px0668人間七七四年
2014/03/23(日) 02:11:42.81ID:Lz8X/cqC先の将軍義稙公(十代将軍足利義稙)は、お心正直にて優しき生まれつきであり、武臣家僕のともがらは
言うに及ばず、公家の人々へも心を配らせ、不便の無いようにされていた。
しかし乱世の国主であったので、将軍と言っても名前ばかりの存在であり、下の者達が計らって
上意と称し我儘をふるい、これによって領地を無くした者達により、批判されることも些かあった。
こういった状況のため、武臣たちの罪によって将軍である義稙が恨まれ、いよいよ騒動も静まり難く見えた。
この頃の公方の様子を観察すると、将軍というものは寺院の長老のようなものであり、武臣は
その塔頭の寺僧であると言えた。長老は尊い。しかし寺僧たちがその前に横たわって、住持をも
排除してその寺院を思いのままにする。この頃の公方はそう言う風情であったのだ。
ある時、義稙公は大納言の某というものを召されて談笑した。そこで仰られたことには
「私は書物を読むのも乏しくはないし、天下の広さを一瞬で見ることも難しくはない。
何でも心にかなう四海の主であるので、多くの人民が、毎日痛ましきことを訴えに来る。
その事は耳に入ると不憫であるが、目の当たりにしたわけではないので、身にしみるような
哀しみはない。
畢竟、自分が苦しんだことがなければ、人の悲しみを理解できないものなのだ。
私は先年、政元(細川政元)によって苦しめられたことにより(明応の政変)、下民への労りを
思う事を学んだ。
これは、死を恐れたわけではないのだが、近くに味方が居ない時は、非常に心細いものであった。
そこから、鰥寡孤独(身寄りの居ない孤独な状態)の者が普段どんなに無力な心でいるかを
推し量ることが出来た。
慈悲の心がない者には、生きるかいもない。ましてや天下を知る者ならなおそうではないか。
第一に不憫の心を先に立てねばならない。
つらつらと古今の歴史について考えてみたが、北条泰時、北条時頼は唯人ではない。
我が朝の武賢と呼ぶべきは、彼らの振る舞いであろう。
私は壮年の頃から、常に下僕を撫で匹夫を憐れむの心を持っていたが、今は我が身さえ
心に任せることのできない世の中であるので、人々に対してその気持ちを充分に表すことも出来す、
時ばかり過ぎてしまった。いま少し世の中にあって状況を伺い、我が志を遂げたいと思うのだが、
月日ばかり過ぎていき、人生ももはや終盤となってしまった。終にはその思いも虚しくして、
憤りを胸にいだいたまま泉下に行くのだろうと思っている。
人々は衰朽の状態になれば、自らを察して心を諦めてしまう。だから、一日でも生きているうちは、
その身に応じて人を扶助するべきなのだ。」
そう、しめやかに雑談されると、大納言の某もこれを聞いて、涙で狩衣の袖を絞られ、返答することも
出来なかった。誠に大樹(将軍)の身として、このような御心ばえは世に有難きことである。
義稙公が都落ちして田舎に移られた後は、京の貴賎は皆、灯火が消え暗くなったように思ったものである。
その時にも公は人々に暇乞いをされ、仰せおかれたことに関して、皆、優しきお振る舞いであったと、
現在でもそのことを語る人が多く居るのである。
(塵塚物語)
足利義稙の、下々を想う心についての記事である。
0669人間七七四年
2014/03/24(月) 19:18:50.21ID:2TSf/xla強大な領主が居る。かれは信長の姉妹を娶り、高貴な血統に属し、勇敢な武将であり、多数の家臣、
そして好戦的な部下を有するセニョール(殿)である。
彼は日本中で常に大いなる名声を得ていることを誇りとしていた。
関白(秀吉)が支配者の座につき始めた頃、家康は信長の息子(織田信雄)を援助し、武力を持って
彼をその父に変わって天下の主に就任させようとしたため、関白は大軍を率いて家康を襲撃した。
当時、関白は今ほどの名声、位階、権力、財産を有していなかったので、家康はこの戦争(小牧長久手合戦)
において、関白麾下の1万人近い兵を殺戮した。
和平が締結された後、関白はその一人の妹(朝日姫)を家康に嫁がせたが、同女は既に歳をとっており、
容姿も醜悪であったので、『もし妻にしたくなければせめて側室として迎えられたい』と伝えさせ、
『その代わりに、自分を天下の君として認めてほしい』と願った。
だが家康が、関白がその実母(大政所)を人質として送り届けてくるまで、彼の願いを受諾しようとしなかった。
このようにして家康は、立派な贈物を携え、大いなる威厳と豪壮華麗な供奉のものを率いて大阪に乗り込み、
関白からは携えたものに劣らぬ豪華な贈物を受けたのである。
(ルイス・フロイス『日本史』)
フロイスによる徳川家康についての記載である。
0670人間七七四年
2014/03/24(月) 22:26:23.85ID:cCe+EJel一体何がどうなってそう思われてしまったのか……
0671人間七七四年
2014/03/24(月) 22:46:25.09ID:AR+vZZ6Zまぁ、権現さまはあっちの気はないからそっちの兄弟ってことはないんだろうけど
0672人間七七四年
2014/03/25(火) 10:30:45.54ID:BdvUWxRu0673人間七七四年
2014/03/25(火) 21:57:36.88ID:ok9HMWmm君が人徳を施されたことにより、仏法王法ともに繁盛した。誠にありがたい御時代である。
そもそも日本五畿七道は人皇三十二代用明天皇の御代に定まり、六十六ヶ国に分けられたのは、
四十二代文武天皇の御代であった。そして道を、四十五代聖武天皇の御代に、行基菩薩が6町1里として
王城より陸奥の東浜に至って、三千五百八十七里と極め、また長門西浜に至って千五百七十八里と詳しく
図書に記されたが、今ではその境も定かならぬ物となっていた。
そのため当君(徳川家康)の御時代に、一里塚を作るべきだと仰せ出られた。
されば、日本橋は慶長8年(1603)の江戸町割の時に新設された橋である。この橋の名は、誰か特定の人間が
名付けたわけではなく、天より降ってきたのか地より湧いて出たのか、諸人が自然と、同じように日本橋と
呼ぶようになった。これは稀代の不思議とされたものである。
ところで武蔵国はおおよそ日本の東西の中間に当たる国であるので、江戸の日本橋を一里塚の始点と定め、
三十六町を道一里として、ここから東の果て、西の果てまで五畿七道を残ること無く一里塚を設置させられた。
日本は年久しく治まることがなく、諸国は乱れ、辺土遠境への交通が難しくなっていた所を、道路の
曲がったところは見計らって直につなげ、道幅を広げ、牛馬の蹄を労させないよう石を除き、大道の両側には
松や杉を植え、小川には尽く橋をかけ、大河には船橋を渡し、日本国中、民間の国内往来の需要に備えられた。
これは慶長9年の事である。
この事に萬人喜悦の思いを致し、万歳を願いあった。このように有難い将軍国王の深恩に、末代まで
これを仰がないでいられようか。
(慶長見聞集)
慶長見聞集より、江戸幕府の、日本橋や一里塚、天下道普請に関しての記事である。
0674人間七七四年
2014/03/25(火) 22:57:25.10ID:TZsmQyDT0675人間七七四年
2014/03/25(火) 23:08:15.50ID:EpKdq+8jねーよ
0676人間七七四年
2014/03/26(水) 09:34:12.06ID:DCoh3sBt0677人間七七四年
2014/03/26(水) 10:13:51.08ID:TG0rD5/315世紀の混一疆理歴代国都之図
うん、東西の中間だな
0678人間七七四年
2014/03/26(水) 18:39:11.46ID:8AIZ5yGq御側の面々は何れの人も試合を行い、家光はとても上機嫌だった。
その時、家光は御馬方の諏訪部文九郎を呼んで御側の人々と試合するように命じた。
すると文九郎は「馬上での試合ならば負けない」と独り言を言ったので、家光は
これを聞いて「ならば彼の望み通り馬上の試合がしかるべし」と言った。
それから馬上の試合が始まり互いに馬に乗って術を尽くした。
文九郎は流石馬の達人の程はあって、一太刀も打たれないのみならず、
すれ違う時に名乗り掛けて相手を打った。
家光は感心して「文九郎は馬上達者だから側の者には一人も勝者がいない。
この上は但馬守が出て試合せよ」と言った。但馬守は「畏まり候」と馬上で立ち合い、
二人は両方から乗り出した。二人の距離が三間程になった時、但馬守は馬を止めて
文九郎が乗って来る馬の面に一打を打った。これに馬が驚いて背いたところを但馬守は
馬を寄せて文九郎をはたと打った。家光はこれを見て「誠に名人の所作。
時に臨んでの働き実に妙である」と、はなはだ感心した。
但馬守は馬術では文九郎に及ばないことを察しての業であった。
臨機応変とはこの類のことである。
この時、但馬守の子飛騨守(宗冬)も御供して父と試合したが一度も勝てなかった。飛騨守は、
「寸の延びた太刀ならば勝てる」と言ったので、家光は「ならば大太刀で試合せよ」と命じた。
飛騨守は寸延びの大太刀を持って父子が立ち合ったところ、但馬守が、
「倅推参なり(倅よ、出過ぎた振る舞いだぞ)」と言いながら、ただ一打を打って静まり、
飛騨守はしばらく気絶していた。
結局は寸の延びた太刀ならば勝てるなどということは、柳生家に生まれた者の本意ではない
ということで強く打ったのだということだ。剣術の試合はたとえ御慰みであるとしても、
たとえ試合をする者は父子兄弟であるとしても、覚悟するべきことである。
――『明良洪範』
0679人間七七四年
2014/03/27(木) 09:08:50.53ID:Lsch2pLG0680人間七七四年
2014/03/28(金) 18:55:06.66ID:aeU6Q7LZ0681人間七七四年
2014/03/28(金) 21:09:29.90ID:lNP5DXHi高橋掃部介(池端鴨之助)の事
高橋掃部介は池の端城400貫の知行を領していました。
新発田勢の先方として各地の戦いで勇敢に働きました。
新発田重家の乱にて放生川合戦の前に小坂に陣を布いた景勝は新発田城と池の端城の連絡遮断を狙い竹の花を攻めてきました。
高橋掃部はこれと戦いましたが左乳の下に傷を負い新発田城への退去に遅れてしまいました。
やがて新発田城にこのことが聞こえ父の身を案じた14になる倅が猿橋口に迎えに出ると親の掃部介が太刀を杖につき一人帰ってきました。
親子は手を取り合い喜びあいました
その時掃部介が申すに
掃『この深傷じゃ本城つくまえに俺死んじゃうと思う。今から言うことよくきくんだよ?(・ω+)』
倅『(`・ω・;)ゴクリ』
掃『お前は明日から一族郎党を扶持して一旦軍を解散させなさい。
また、母ちゃんと10才の妹は池の端に立ち帰らせなさい。
来年景勝がまた来て新発田城が落ちるようなら中間の一人や二人つけ中条越前のもとに母妹の二人を落し、お前は重家殿の死後までお供しなさい。
池の端城は明年焼いちゃえ。あ、それからお前の太刀小さいから取り替えてやる。ちょっとまってろ…』
しかし城に入り間もなく傷が重く掃部介は息を引き取りました。
つづく
0682人間七七四年
2014/03/28(金) 21:29:59.31ID:lNP5DXHi掃部介は息を引き取りましたが宝刀は倅にしっかりと渡されました。
倅はそれから親の名を襲名し掃部介と名乗り翌年の新発田城籠城に際し、15歳にして兜首1つ母袋武者2騎を討ち取る手柄を挙げました。
その内三人目の母袋武者は先年の戦いで父に槍をつけた男で、因縁とは不思議であると人々は申したといいます。
しかし天正15年10月28日ついに新発田城は落城の朝を迎えてしまいます。
重家と別れた掃部介は太斉口にいる中条越前は叔父であれば備えも乗り切れると思い、また搦め手で討ち死にしようものなら末代までの恥と思い、堂々と表門から出ました。
寄せ手や落ちのこりの者は大将首が落ちるのをみて一斉にかかってきましたが、難なく打ち払い宮内の八幡林を目指し落ちていきました。
そして池の端城に入って母と妹を中条越前のもとへ落ち延びさせ、翌29日手勢30騎あまりを率い城門よりドッと突いて出て寄せ手を蹴散らしそのまま行方不明になりました。
あとで聞いた人々は天晴れ剛強の大将と褒め称えたとのこと です
つづく
0683人間七七四年
2014/03/28(金) 22:07:11.87ID:lNP5DXHiこうして池の端城は落城しましたが、戦が終わり世の中が穏やかになったころ、掃部介は宮内に住んでいました。18歳になっていた掃部介は40余年間宮内に住んで寛永の末ころ亡くなりました。
八幡林に柴垣をめぐらし、常々言っていたことは
『因州(重家)の供をしていたならば、身上も稼ぎ、損もしなかったものを、主の後先を見離したので周囲の人の目が恥ずかしい』
と、いつ襲い来るかわからない敵を注意して生活していました。
また、宮内の神主に折々神事の頼み事があったので協力していたとのことです。
そのうち宮内八幡の神主の跡が絶え、加治佐々木の一族で佐々木右京、後に相模と名乗る者を後継に迎えました。この者は元和年間に宮内へやって来て54歳で亡くなります。
その二十歳くらいまでは掃部介も生きており『爺様爺様』となついていたようです。
波乱に満ちた掃部介にとり最も穏やかな日々であったことでしょう。
というのが言い伝えであります。
ですが文禄三年の定納員数目録によると色部氏平林在番衆に池端鴨之助で20石5斗、2人3分5厘役と記されており、高橋掃部介(池端鴨之助)は実在の人物であり宮内に住んでいたのはあくまで逸話のようです。
ちなみに掃部介は美濃の出身。斎藤道三の一族であるとされています
終わり
地元には他にも新発田重家の遺児のその後など伝承があります。粗末な長文失礼しました
0684人間七七四年
2014/03/29(土) 23:48:36.36ID:VcugJRp4家臣たちが答えかねていると、秀吉は次の様に言った。
「儂なら家康につく。氏郷は剽悍な男だ。家康が氏郷の兵を5、6人倒せば、その中には必ず氏郷がいるだろう。
しかし氏郷が家康の兵を4、5000人倒したとしても、その中に家康の首は無いだろう」
『嗚呼古英雄』(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900045)より、家康と氏郷のお話し。
一般的には信長と氏郷のバージョンが有名だが、家康と氏郷の場合もあったようだ
0685人間七七四年
2014/03/30(日) 00:47:37.05ID:vGbXD4q7俺も家康に味方する
0686人間七七四年
2014/03/30(日) 14:22:53.03ID:DIHxGh2+平三郎は尾張の人で、三河へ行って徳川家康に仕え、三方ヶ原で討死した。
その半右衛門は福島正則に仕えた。正則が領国を召し上げられて信濃へ流される時、
江戸屋敷をも受取の人数が取り囲み、もし上意に背く者がいれば討ち捨てるとの
ことだったので、
家士は大方が落ち去り、七、八人が屋敷に残った。半右衛門も残った一人だったが、
主人正則が流される途中で殺されるであろうとの風聞があったので、
江戸屋敷を立ち出て正則の後ろ辺りに付き、信濃までやって来た。
その時、正則は平生の愛が深くなかったことを悔やみ、
懇ろに至忠の情を感謝したということである。半右衛門は後に水府公に仕えた。
――『明良洪範』
0687人間七七四年
2014/03/30(日) 20:51:19.39ID:2aPeRQvX宣教師の追放を決定。これにより京にあった教会(南蛮寺)も破却されることとなる。
この教会の司祭たちは都を去るにあたって、異教徒で関白の側近である都のゴベルナドール(奉行)、
前田玄以を訪問させた。彼は事情を聞いて激昂し、その母親の言葉を無視し、自らの身分すら省みず、
司祭からの使者に対し
「大阪で関白(豊臣秀吉)を殺したい!よって、この挙に抜かりはないから、伴天連たちは安心されよ」
と言った。同様のことを関白の甥の孫七郎殿(豊臣秀次)も司祭たちに伝えさせ、秘書のコスメ(庄林)に
答えて言った
「関白殿下は自分に何ら相談も通知もなく伴天連達を立ち去らせてしまったが、伴天連たちは明らかに、
関白に何か言いたかったに違いない。だがおそらく逡巡し、あるいは自分たちのための仲介してくれる
者が居なかったので、あのようにして去っていったのであろう。」
そこで孫七郎殿はオルガンティーノ師に宛てて非常に丁重な書状をしたためさせた。
近江国の領主であるこのプリンシベ(君侯)には五畿内で最初で最古の二人のキリシタンが奉仕していた。
一人は池田シメアン丹後殿といい、もう一人はコスメ・ショウヨと称する彼の秘書であった。
彼らは関白が下(九州)から五畿内に帰還した時には、棄教しないキリシタンを殺す決意である、との噂に
接すると、名望ある貴人である両人はともに主君なる孫七郎殿の前で、おのが信仰を宣言し、
「我らは既に27年間もキリシタンとして生きてまいりました。我らの妻子、家臣らも皆同様です。
デウスの教えを受け入れている今、我らにとってはこの教え以外に救いがないことは、あまりにも明確です。
殿の伯父君である関白殿下が、この件で我らを殺すように命じられるにおいては、我らは喜んで
関白殿下の前で信仰を表明する決意でございます。」
そのように申し出た、彼らはそれを、大いなる歓喜と平静さと信念を持って述べた。そしてさらに
「もしこのままキリシタンとして奉仕して差し支えなければ、身共としては従来と何ら変わりなく
忠誠に励むでありましょう。だがその許可が与えられぬにおいては、潔くデウスの名誉と信仰の証として
追放処分を受ける決意であります。」
と言った。
この若者(豊臣秀次)は、伯父(秀吉)とは全く異なって、万人から愛される性格の持ち主であった。
特に禁欲を保ち、野心家ではなかった。
日本では自然に反する悪癖(男色)が一般に行われていたが、彼はそのようなことを忌み嫌い、
数日前にも一家臣が他に対して日本ではそれまで今だ見聞きしたことがないようなことを犯したので、
その男を殺させた。
(ルイス・フロイス『日本史』)
宣教師によるバテレン追放令への対応と、豊臣秀次への評価に関する記述である。
0688人間七七四年
2014/03/30(日) 23:11:28.99ID:s9zM/PcZ0689人間七七四年
2014/03/31(月) 00:35:24.06ID:Id18rSAo0690人間七七四年
2014/03/31(月) 01:32:53.01ID:5EdZuoAO0691人間七七四年
2014/03/31(月) 02:49:48.81ID:yTnlAYgJ0693人間七七四年
2014/04/03(木) 17:02:10.23ID:hE78VDN9父の頼みで、安藤彦兵衛が初陣の手引きをすることを引き受けたという。
合戦は池田方が負け退くと、家康公の軍勢はさらに本城へと押し寄せ、
勝入が打ち出てきたところ、彦兵衛が渡り合い、槍で倒した。
彦兵衛は伝八郎を呼び、首を取るよう促すと、伝八郎は倒れた敵に馬乗りになり兜をとりのけた。
顔を確認した伝八郎は、
「初首に坊主の首は嫌だ」
と言い立ち去ろうとすると、倒れながら勝入が、
「見事な心がけの若武者である。
ワシこそが日本に隠れもない武勇の大将池田勝人斎だ。
我が首を取りて、末代までの手柄とせよ」
と言った。
すると伝八郎は引き返してきて、首をかき落とし、家康公のお目にかけた。
安藤は自身がまず槍をつけたことを言わず、伝八郎の手柄としたのである。
その後、和睦ということになり、家康公は勝入の息子三左衛門(輝政)を婿とされた。
その婿入りのとき、三左衛門が是非とも永井に会いたいと言い出した。
家康公をはじめ皆の者が、どうしたものかと気遣ったが、永井はそれを伝え聞くと、
「三左衛門殿にとって、拙者は親の敵であるから、婿入りの肴に我が首を御希望されるのかもしれない。
そうと知り出向かないとあっては武家の門に傷がつく」
と言い、すぐに御前へと参上した。三左衛門は永井に盃をさし、
「我が父の首を、あなたは十五歳にして討ち取ったと伝え聞いています。
十五にして比類なき高名手柄、日本が日本である間はその武勇隠れもないことでしょう。
ところで永井殿は知行はいかほどいただいているのか?」
と尋ねると、話を聞いておられた家康公が、
「永井には七万石与えている」
と仰せになられた。
すると三左衛門は、
「これほどの剛の者には少なく思われます。
永井殿へ御加増くださるよう、拙者からお願い申し上げます」
と言うと、家康公はその場で十五万石への加増を決めたとのことだ 【葉隠】
0694人間七七四年
2014/04/03(木) 17:57:41.77ID:tTCr7JUK0695人間七七四年
2014/04/03(木) 21:08:05.88ID:Zuu527790696人間七七四年
2014/04/03(木) 23:00:45.85ID:fIycXk3n三河牛久保の牧野右近大夫のところに仕えた時、光秀の知行は百石ほどであった。
光秀は傍輩の中野某に語って、
「侍の行末はお互い分からぬものだ。もし私が一城の主になったならば、
被官も欲しいことであろう。そうなった時には、貴殿は頼もしい人なので私のところへ
呼んで城代にしよう。貴殿が立身したなら、その時は私もまた被官となろう」
と約束した。そして後に丹波を拝領した時、光秀は中野を呼んで亀山の城代とした。
――『武功雑記』
0698人間七七四年
2014/04/04(金) 18:41:28.43ID:v7DrC6jR石高が十倍だっておかしくない…(白目で)
0699人間七七四年
2014/04/05(土) 00:10:29.69ID:FfYqcsdC京に赴く途中、不思議なものに出会ったという。
これは老人かと思うと、またにわかに若くなり、若いのかと思えばまた、忽然としてシワが寄って見えた。
一体どういう人物なのか一切判断できない、怪しい者であった。
この人物が浅いに語ったことは
「その方の家、必ず末に栄えて貴族の名を得るだろう。頼もしく覚えておくが良い。しかし慎みがなければまた憂うこともあるぞ。」
そこで浅井某が近づいて何か話しかけようとすると、たちどころに消え失せてしまった。
乱れた世には必ず魔障があると言われるが、この話のような類の事なのであろう。しかしこの曲者は良いことを言って
きたのであるから、只者では無いのであろう。
(塵塚物語)
天分21年(1552)成立とされる塵塚物語より、後の戦国大名近江浅井家の祖について書かれたと思われる逸話である。
0701人間七七四年
2014/04/05(土) 15:27:38.67ID:YSDBEeXL0702人間七七四年
2014/04/06(日) 21:19:44.61ID:wJYmAo3t妙堂崎の山手にさしかかったさい遥か東北の方に茫々と広がる芦原を望むと、
無住の地と思わる彼方に一大老樹が天を覆っていた。
その傍より一条の炊煙が立ち上るのを見つけ奇異の念をいだきその所を尋ねる事にした。
ようやくたどりついて見ると一大老柏木の傍に葦芽の家が三軒並んであった。
これは、工藤祐益、花巻頼母、山崎織部等落武者の庵で付近僅かに粟稗が耕されてあった。
一行は暫くこの草庵に憩をとることにした。昼時ともなったので、村人達は心をこめて粟や稗の酒飯を炊いてもてなした。
為信公はことのほか上機嫌で祐益老の願いを聞くと産土神の御加護の下に開墾を進めたい、とお宮の建立を上願した。
そして為信公はしの四方遥か広漠たる葦原を眺めこの土地を広須野と名づけ帰城して行ったという。
翌天正5年(1577)旧三月公命によりて国家安泰万民豊楽五穀成就、
新田開発成就の祈願の社として広須八幡宮が建立され祐益老の孫千之太夫が宮司となった。
(柏正八幡宮境内由緒書)
津軽為信が開墾を奨励したこの地域は、第二次世界大戦中に全国で最も米の供出量が多い地域となった。
0703人間七七四年
2014/04/07(月) 13:11:13.23ID:zo7V+3Jg1600年9月中旬、米沢の直江兼続は兵25000をもって「最上三堅」のひとつ畑谷城を包囲
城主江口道連に降伏勧告を出したが道連はこれを拒否
畑谷城の最上勢500は直江軍の猛攻の前に玉砕した
畑谷城主江口道連とかねてから親交のあった最上方の将、悪戸館主加藤清次は江口道連の死を聞いて大層憤慨し、畑谷方面の直江軍へと突っ込もうとしたが、主君最上義光から「兵を連れ、すぐに山形城へ入れ」との命令を律義者の清次が破る訳にもいかずに
一族郎党を連れて後ろ髪を引かれる思いを残しつつ悪戸を背にし山形城へと向かった
9月23日頃、最上義光もついに山形城を出、直江軍と対峙しつつ、悪戸から東に少し離れた本沢付近に陣を張る
加藤も「決戦地は我が領ゆえに是非軍にお加えくだされ」と義光に願い出、義光の先鋒の一翼となった
(つづく)
0704人間七七四年
2014/04/07(月) 13:14:01.38ID:zo7V+3Jg9月25日長谷堂北西で刈田狼藉を行っていた上杉兵を長谷堂の鮭延隊が急襲
仲間を守ろうとした上杉方の水原・春日軍が増援を出し、大規模な戦闘に発展
長谷堂城の失陥を畏れた最上義光もこの様子にいきり立ち、山形本隊も戦闘に本格的に参加
「名を惜しめ!命を惜しむな!」と激を飛ばし加藤清次はこの戦いで上杉軍に突っ込み凄絶なる討ち死にを遂げた
戦闘前に「吾(われ)元より生還は考えておらん」を郎党に宣言していたと言う
加藤の郎党が討ち死にした主の首級を敵に取られまいと
上杉方に十二十と向かい討ち死にする間
加藤の従者や小者が数人、主の亡骸を抱きかかえ時には背負い、最上の陣へと駆け戻った
加藤の悪戸衆は勇敢に戦ったがこの日多くの戦死傷者を出したと伝わる
加藤が身に着けていた甲冑は個人蔵として現存
平成の世の初期に最上歴史館で公開がなされた様だが
ネット上詳細や画像は公開なされていない模様
0705人間七七四年
2014/04/07(月) 13:33:23.13ID:zo7V+3Jgほかに「如何に死に花咲かせようか」等
覚悟というより死ぬ気満々だった様です
0706人間七七四年
2014/04/07(月) 15:18:03.98ID:zo7V+3Jg二ヶ月ほど前に話題になったものから
2014年2月、山形大の松尾教授は直江兼続が関ヶ原の戦いを前に、会津地方で伊達軍と戦っていた家臣に宛てて書いた直筆の手紙が見つかったと発表した。
写本はあったが兼続の直筆の現物の確認は初めて。伊達軍との戦いで善戦する家臣の頑張りを褒めながら「政宗は油断ならぬ相手、伊達軍の動向を滞りなく知らせるよう」指示を出している
書状は山形市の個人蔵
山形大の松尾剛次教授が花押や筆跡から本物であると鑑定した。
本村親盛と上泉泰綱を含む家臣4人に宛てたもので、日付は慶長5年7月27日。小山評定の二日後のもので、伊達政宗が旧領地の会津地方を奪還しようと攻勢を強めていた時期にあたる。
(つづく)
0707人間七七四年
2014/04/07(月) 15:20:27.41ID:zo7V+3Jg「すぐに城(福島県川俣町)を攻め落とし、城主の桜田氏をはじめ残ることなく討ち果たしたという。おのおのの頑張りは素晴らしいことである」とねぎらう一方で
「白石に伊達政宗がいるというので(上杉景勝から兼続も伊達の介入を防ぐ様後方支援の)後詰めを申しつけられた。(中略)。政宗の様子を注進するのを待っている」と要請している。
松尾教授は「当時の緊迫した状況がうかがえる。写本には誤りも多く、現物は上杉家の研究に役立つ貴重な資料。
上杉家の歴史だけではなく、東北史を見直すきっかけになれば」と話している。
(つづく)
0708人間七七四年
2014/04/07(月) 15:22:44.53ID:zo7V+3Jg文章はおおよそ縦15a、横75a。
他に兼続は書状で会津征伐に小山まで来ている家康が引き返したとの情報を「事実ではないだろう」と指摘。
関ヶ原の戦いを目前にした7月に、兼続は11通の文書をしたためているが、現物が見つかったのは3件目。
上杉文書を書き写した史料「覚書公御書集(かくじょうこうごしょしゅう)」に、この書状に該当する写しがあり、内容は基本的に同じだが、「書状を拝見しました」の部分を「連状」とするなど誤写があるという。
また今回、御書集の原本の一部と見られる書状が見つかり、内容も同じで貴重な資料。
松尾教授は「これにより御書集の資料的価値が上がった。さらなる直江文書の出現を期待している。また、上杉氏が会津に移封後の研究の活性化が期待される」と語っている。
0709人間七七四年
2014/04/07(月) 15:26:14.36ID:zo7V+3Jg誤)文章はおおよそ縦15a、横75a。
正)文書はおおよそ縦15a、横75a。
でした
0710人間七七四年
2014/04/07(月) 17:12:22.80ID:zo7V+3Jg現在の山形市の芋煮と言えば「醤油味ベースに牛肉」のもの
主に地元の水に「醤油」「砂糖」「日本酒」「みりん」等で味付けをし
中に入れる基本的な材料は「里芋」「牛肉」「ネギ」「蒟蒻(こんにゃく)」
「ゴボウ」と「きのこ(しめじ)」で味を引き立たせる事もあれ
牛肉が一般的に食べられる様になったのは明治維新を経て、山形では明治4〜8年の事と見られている
しかし最上義光の時代にも材料や呼び名は多少異なれ
「芋煮」の元となった「芋汁」が存在した
主な材料は村木沢で取れる里芋で
絹の様に繊細な歯ごたえと素晴らしい味から室町時代の頃から城の殿様への献上品とされ
タネいもや作物は畑荒らしや盗っ人が出ない様に畑や小屋に番が付けられ、外で作る作物ながら栽培方法も「門外不出」のものとされていた
(つづく)
0711人間七七四年
2014/04/07(月) 17:23:50.60ID:zo7V+3Jg慶長期頃の芋煮(芋汁)はこの村木沢の「里芋」をメインに「味噌」「塩」「しょっつる(魚醤)」「酒」などで味をつけ
「山菜」「野菜(大根・人参ほか)」「棒たら」「鮭(ほか魚)」やら時によっては「猪(しし)肉」や「鹿肉」までを具としたらしい
現在村木沢産の里芋でも特に「悪戸芋」と呼ばれる品種は人気があり
今でも山形市民の芋煮にはけして欠かせないものとなっている
最上義光(´・ω・`)里芋と最上の水の味は昔からそう変わるものではないんよ
「芋煮」→昔の呼び名は「芋汁」「芋っこ煮」「芋鍋」など
0712人間七七四年
2014/04/07(月) 17:31:18.36ID:zo7V+3Jg(´・ω・`)「芋煮は醤油ベースに牛肉なんよ」
(●∀゚)東北芋煮戦争(´・ω・`)
…ただし東北地方では牛肉派は山形市を除いてごく少数らしい…
0713人間七七四年
2014/04/07(月) 17:31:55.93ID:H5lHQBVH0714人間七七四年
2014/04/07(月) 17:46:43.99ID:zo7V+3Jg東北や北関東を除いて近畿や西日本にも芋煮ってあるんでしょうか?
ゲスト
豊臣秀吉・古田織部・佐竹親子・伊達政宗・最上義光・蒲生氏郷・上杉景勝・浅野長政・福島正則・加藤清正ら…
これがいわゆる「荒芋煮」か
0715人間七七四年
2014/04/07(月) 20:44:04.97ID:OswswczU0716人間七七四年
2014/04/07(月) 21:50:53.62ID:4noQd+5O0717人間七七四年
2014/04/07(月) 21:57:12.12ID:zo7V+3Jg「鶏肉」「鴨肉」も可能性あり
「蒟蒻」は当時はお寺さん絡みの精進料理や薬膳の一種のため、武士や一般の民らが普通に口にしていた(家庭料理の素材にしていた)かは不明
>>716
正則「キヨ!なに芋煮にヒゲつけてんのよ…」
0718人間七七四年
2014/04/07(月) 22:00:28.29ID:VUjE3zoE0719人間七七四年
2014/04/07(月) 22:06:19.52ID:GUC7Ww5M三成「治部煮」
信長「田楽」
家康「味噌」
0720人間七七四年
2014/04/07(月) 22:21:46.76ID:4noQd+5O宇喜多「まぁ一杯飲めや」
0721人間七七四年
2014/04/07(月) 22:45:17.86ID:8apv95LXしかし落語でも三歳様は作法に詳しいことになってるな
0722人間七七四年
2014/04/07(月) 23:19:30.69ID:O5g8gk6V0723人間七七四年
2014/04/08(火) 10:12:15.72ID:J51LNWDh世間では桜の季節ながら
鮭様が詠まれた和歌が過去の逸話には少なかったと思うので一首を追加
最上義光「冬来ぬと はや山里は霜寒み 沓に音ある 庭の通ひ路」
現代簡易訳
義光(´・ω・`)「いやー、冬ってやっぱり寒いんよ。あ!霜柱!踏むとしゃくしゃく音がして楽しいんよ!」
としよ姫「…あなた、いい歳してみっともない…」
義光(´・ω・`)「!」
和歌や連歌は文化教養を表すものだと言われているけど
「ポエム」と直すと人に見られた際の恥ずかしさが増すのは現代の感覚なのだろうか?
0724人間七七四年
2014/04/08(火) 18:08:03.77ID:MsP3+hWE和歌だろうとポエムだろうと上手く出来たと自負してればドヤ顔だろう
0725人間七七四年
2014/04/09(水) 17:06:11.84ID:O2kLbFHv秀次事件に連座して処刑された愛娘の駒姫を弔うため、最上義光は大石田から高僧を招致
寺を造るのに合わせ山形城から駒姫の居室を専称寺の本堂の一部として移築
また東北一の伽藍を造るのに名工左甚五郎に鎮魂の像を作ってはもらえないかと依頼した
途中の経過はわからない
山形を訪れた左は工房で片肌を露にし
木塊へ蚤を入れ、力士像を作っていた
寺の造営に来ていた人足らは
天下の名人が来ていると聞きつけ
作業の合間に左の工房の入口には野次馬が訪れた
人足「すげえな。元から木の中に力士が埋まってたみたいだ」
他の人足「んだんだ、すげえすげえ。さんすが天下の左だ」
左は手を止めると人足らに振り返った
左「そんなにまざまざと見つめられてもこっ恥ずかしくなります。木材には余裕がありますから、作業の合間に休まれているときに、なにかみなさんで眺められる様なものをついでですからお渡ししますか?」
人足「いいんだが?」
人足「銭こそんなねぇで?」
左「お褒め頂いたので特別ですよ」
専称寺の人足らには
左作の鳥やうさぎ?の像が渡された
(つづく)
0726人間七七四年
2014/04/09(水) 17:07:41.33ID:O2kLbFHv坂光秀「ほうほう、これは見事な出来栄えじゃな」
伊良子信濃「むう。今にも動き出しそうじゃ」
像の噂を聞き付け町民だけでなく
武士らも造営地を訪れる様になった
???(´・ω・`)「力士像のついでに???にも追加でなにか動物の木彫りを作ってくれない?お礼ももちろん追加するんよ」
左「はい、畏まりました」
やがて専称寺本堂は落成し
梁の四方には左の作った力士像が配された
左は山形滞在の折りに
いくつか木彫りの動物の像を残したといった話がある
慶長から元和に最上の殿様から功績によりこの左の像のひとつを賜った武士がいた
最上家の改易によりこの侍は野に下り商いを始めたが、左の像は家の宝として大切にされていた
しかし明治の大火でこの像は屋敷とともに灰に帰したという
言い伝えによれば日光東照宮のものと姿形の似た
ひなたぼっこをする猫の像だったという話である
「山形の昔話」
伝承通りならまだいくつかの像が見つかるかも知れないロマンのある話って事で
0727人間七七四年
2014/04/09(水) 17:11:23.49ID:O2kLbFHv山形を訪れた左がどの左だったかは謎ではありますが
0728人間七七四年
2014/04/09(水) 23:56:11.30ID:TDkkNI/t宮大工だっけ?
0729人間七七四年
2014/04/10(木) 00:02:43.63ID:U0k1fWg/0730人間七七四年
2014/04/10(木) 03:46:33.37ID:hmeg8M3bここでは、ある者は碁や将棋を楽しみ、ある者は乱舞を楽しむなど、それぞれの好みに従って遊んだ。
対抗は常にこう言った
「能き夢を見ているか?」(能き夢を見する哉)
この言葉を口癖のようにしていたという。
また太閤の身の回りは常に軽々としていた。ある時徳善院(前田玄以)がこの事を諌めたところ、
太閤はこのように答えた
「天下に俺に勝る主君は居ない。誰が謀反しようと思うのか。」
(老人雑話)
0732人間七七四年
2014/04/10(木) 10:32:48.95ID:i5X0zE6N今は鳥居忠政の改修以来大きく川筋の流れが変えられたが、最上義光の時代には白川(現・馬見ヶ崎川)は盃山から山形北高の南側交番付近を経由し、遊学館南、旧県庁(文翔館)の辺りを流れていた
山形城下を流れるという事で「城の川→城川」とも、砂金を含んだ土砂が蔵王から流れてくる事に因んで「白い川→白川」とも呼ばれていたとも伝わる
川道から城や市街に掛けてはいくつかの堰(用水の一種)が設けられ
市井の民らが野菜を洗ったり、水を庭口に引いて魚を飼ったりしていた
平成になってから七日町に「御殿堰」が復元されたが
山形市民の方々は
最上由緒の堰の形跡を他にも見てはいないだろうか?
整備され様相は変わってしまったが山形大学脇の小川
(白川から水を引いた小さな白川で「小白川」の由来)
専称寺の清流など
他にも道路脇やブロックの下に結構隠れてはしまったが
最上、そして鳥居時代に作られた生活用水は
夏の暑い山形の冷を招くのに
現代でも一役を買っている
※現・馬見ヶ崎川の名称には複数の説があり
源義家が羽州に来た際に夢の中に馬が出た事に因む
源義経が(同上)
最上義光が氾濫した川道工事を馬上から見たから
鳥居忠政が川道を変える工事を(義光に同じ)
などの説があるため
古い時代の馬見ヶ崎川の別名の「白川」の方を使わせて頂きました
0733人間七七四年
2014/04/10(木) 10:42:35.41ID:i5X0zE6N最上〜鳥居時代頃の物と考えられます
※明治から昭和に掛けて作られた双月、印役や山家の用水が
イメージとしては当時のものの姿に近いかと思われます
0734人間七七四年
2014/04/10(木) 11:25:41.37ID:i5X0zE6N草苅備前は最上義光の腹心であったが、兼山の鮭延秀綱を攻める戦いで甥の武田兵庫が討ち死にしてから山形城への出仕が傍目には滞りがちとなっていた
義光は「心中察する。喪が明け落ち着いてからで良いから出仕をせよ」と備前に心ばかりの品を送った
しばらくして備前は山形城に登城し、義光に贈物の礼を言い、書院奥の一室でなにやら二人で話をした
が
屋敷に戻った備前の出仕は喪の際にも増して滞りがちになった
家族の者が登城をする様言葉を掛けても
「あ〜、俺に構うな、ほっとけほっとけ」と狩りや川干しへと遊び歩いた
城から出仕を呼び掛ける使いが来ても
仮病や居留守を使い会おうとはしなかった
そんなある日事件が起きる
生殺与奪禁止の最上義守の寺領で草苅備前が狩りを行った事が最上義光の耳に入った
義光はかんかんに怒った様に見え
小姓らが「草苅さまは何か誤ったのでございましょう、まずは理由を確認くださいませ」と宥めるのも振りほどき
自ら馬を駆り草苅備前の屋敷に乗り込む素振りを見せたが
「備前め許さん!今すぐ奴を呼べ!訳の如何によっては叩き斬ってくれるわ!」
と番の者を備前の下へと送ったが、備前は既に単身最上の敵である武藤(大宝寺)氏の所領である庄内へ向けて逐電した後であった
(つづく)
0735人間七七四年
2014/04/10(木) 11:38:47.30ID:i5X0zE6N武藤光安(※大宝寺義氏の一族で剛の者とされる)「…それで最上義光の下にはいられなくなったから、この庄内で働きたいと?」
草苅備前「もうあんな奴(義光)の下に仕えるのは御免です!それに私は山形の事に詳しいのでなにかとお役に立てると思います」
光安は草苅備前の身の上を家来の者に確かめさせたが
備前の言う通り山形では義光が怒り狂い、備前の行方を探しており「この手でをなんとしても備前をぶちのめす!奴を殺さず生かして連れて来い!」との命令をあちこちに発っしている事がわかった
草苅備前は武藤光安の近臣として取り立てられ
光安は備前から義光が近く庄内攻めを企んでいる事を聞くと軍備を備え、先を取ろうと諸兵に参陣を求めた
(つづく)
0736人間七七四年
2014/04/10(木) 11:52:03.45ID:i5X0zE6N庄内に来た草苅備前は武藤光安の重臣で高坂館主の川越中務といった老将の屋敷に人目を憚り出入りをしていた
中務の一人息子は武藤光安の小姓を勤めていたが、つまらない失敗を咎められ、武藤光安によって手討ちにされていた
他の武藤の家臣は中務を気の毒に思うも、光安の癇気を恐れ、中務は武藤家中でもほぼ孤立した状態であった
備前は気弱になっていた中務を見舞い
ある日機を見て打ち明けた
草苅備前「…中務殿、武藤の殿様は短気にわがままで自分勝手。中務殿は本当に気の毒じゃ」
川越中務「…老い先短いこの身、ほんまに口惜しいて口惜しいて」
備前「…武藤の殿を怨んでおいでと?」
中務「恨まずにいられるか!息子はもう戻ってこんのじゃ…」
備前「…」
備前「…中務殿、それなら山形の殿様に仕えぬか?」
中務「! はぇ!?」
(つづく)
0737人間七七四年
2014/04/10(木) 12:09:24.99ID:i5X0zE6N武藤光安の下に山形の最上義光が兵を上げ、庄内へと向かっているとの報が入った
武藤光安「草苅備前からの情報で用意は万端じゃ。この地を義光の死に場所にしてやろうぞ」
大川を挟み武藤軍と最上軍が対峙した
最上方の先鋒は白地に「の丸」の旗の楯岡満茂
いくさは武藤軍有利かと思えたが、武藤軍の後方の味方から叫び声が上がった
「後陣の川越中務、裏切りでございます!」
前に最上軍
後ろに中務の兵
武藤軍は蜘蛛の子を散らすかの様に打ち破られ
逃れられぬと悟った武藤光安は馬上で喉を掻き斬りあえない最期を遂げた
最上義光「備前、ご苦労。面倒を掛けたな」
草苅備前「いえいえ、お気になさらずに」
義光は川越中務に武藤光安の旧領を与えようとしたが
中務は武藤光安の菩提を弔うために仏門に入る事をお許しくださいと断り
義光は武藤光安と中務のためにその地に寺を建立した
『最上記』
鮭様の謀将を匂わす一面の記録
※武藤光安は実在が不確かとされています
※「悪屋形光安」と書かれる事から
武藤光安は大宝寺(武藤)義氏との同一人物説や混同の可能性もありますが
義氏は山形に身柄を移され
殺害されたといった話もあります
0738人間七七四年
2014/04/10(木) 19:34:00.70ID:JDN5WJMR関ヶ原後、八カ国に膨らんだ家臣団を防長二カ国で賄わなければならず、
もういっそ二カ国も返上して浪人になるしかない・・・と考えたのは有名ですが
実際にその決意を幕府に取り次ぐように黒田如水に依頼したとか・・・
さすがの如水さんも
「防長を返上しても借金は返さなければなりません
輝元公が浪人になっても借金は身の上にかかったことなので唐・天竺まで逃げてもどこまでも追いかけてきます
私にも名案があるわけではありませんが・・・」と輝元さんのことを心配しつつ浪人なることを思いとどまらせました
如水さんのいい話になるのかな〜
TERUさんがどーにでもなれ〜!してたら幕閣が随分早くから浪人問題に頭を悩してたんですかね〜
0739人間七七四年
2014/04/10(木) 21:29:49.12ID:hW/qo2HE家康公は忠佐が騒ぐのをお聞きになったが、何も仰らずに城内に入った。
その夜、大勢の家臣たちが家康公の御前に参り、今日の一言坂の合戦の話を申し上げていたが、
家康公が仰るには、
「今日、大久保、内藤、本多等がこの上なく苦戦していたため、儂は武田軍と戦わずに軍を引いた。
忠佐は、儂が合戦をせずに引き上げたことを情けなく思って悪口を言っていたな。
しかし、忠佐の申し分には一応は理があるように思えるが、大将の志には背いている。
大将たる者は死生をよく知り、戦うときは戦い、退くときは退くもので、これを良将というのだ。
士卒が戦場に残って主君の危機を救い、その場から落ちのびさせる事は古今珍しくない。
頼朝公が石橋山の合戦に負けた時、佐々木兄弟の4人が留まって敵を防ぎ、頼朝公を逃がした。
また、義経公が吉野山にて大勢の敵に追われた時、佐藤忠信がただ一人留まって敵を防ぎ、
義経公の命を救った。これらは全て、戦ってはいけない時を知り、
逃げて最後には勝利しようと思うがためなのだ。
もし忠佐がこのような類の話をも臆して逃げたというのなら、それは忠佐が自分の勇を誇って、
生地死地もわからずに儂を誹る匹夫の勇を持ち、将の志を察せられないためなのだ。
本多忠勝は、一言坂が戦うのに不利な地形であるのを察して、儂を諌めて引き返させた。
これはよく死生の地をわきまえている。つまり、儂は忠勝の武勇を賞したのではない。
奴が将の志を持っていると感じたために、我が家の良将であると賞したのだ。
敵を多く討って名を高めるのを良将というならば、渡辺半蔵や渥美源吾郎等は全員良将と呼ぶべきだな。」
御前の家臣たちは家康公の言葉に承伏した。
大久保忠佐は後でこの話を聞いて、本当に儂は大きな間違いをしてしまった、と後悔していたと聞く。
というわけで悪い話スレ>>921の後半と合わせて、「家康脱糞騒ぎ」の元の形となります。
要はこれは、一言坂が自軍に不利な地形であると判断したためにすぐに退却してきた家康と、
それを、武田軍が怖いから戦わずに逃げてきたと思った忠佐の話だったんでしょうね。
0740人間七七四年
2014/04/10(木) 21:39:55.76ID:hW/qo2HE忠佐「なんで殿は武田と戦わずに帰って来たんだよ情けない!しかも撤退を進言した忠勝が『我が家の良将』だと!?
ははーん、きっと殿は武田が怖くて仕方ないから戦わずに逃げ帰って来たんだな!?このうんこたれ!」
家康「忠佐はああ言っていたが、そもそも引き際を心得るのが大将というものでな(省略」
忠佐「ごめんなさい殿……儂が間違っていました」
0741人間七七四年
2014/04/10(木) 21:41:48.34ID:1uYCKLZW忠勝が佐藤忠信の兜を秀吉からもらった時に
「義経の家来の兜などいらん」と言ったのはこの家康の言葉を尊重したためだったり
0742人間七七四年
2014/04/10(木) 21:49:12.64ID:hW/qo2HEいや、多分それは違う
原文ではこの話の直前が有名な忠勝の一言坂殿軍の話だから、
むしろ家康を逃がそうとする忠勝を佐々木兄弟や忠信と重ね合わせて論じているんだと思う
0743人間七七四年
2014/04/10(木) 23:17:44.24ID:REjmcdSE大原雪斎から古今の兵法、学問を教わった権現さまと、三河の田舎武士たちの気質がうまく融合してる
0745739
2014/04/11(金) 15:36:18.34ID:Gnyuzyvu原文では「本多忠勝は戦ふに利あるまじき地形を察して」となっているところを
分かりやすくなるだろうと思って「一言坂が」と付け加えましたが、三河後風土記をちゃんと読んでみると
文中でいう「利あるまじき地形」は一言坂の事ではなくその前に家康が布陣した三加野という場所の事でした。
申し訳ありません。
三加野から浜松に引き上げる途中にあったのが一言坂で、ここが徳川軍に有利な地形であったため、
大久保、内藤、本多隊は奮戦し敵をよく防いだ、というのが三河後風土記における一言坂の戦いの様です。
0746人間七七四年
2014/04/12(土) 00:00:18.39ID:z+vqym4m小杉左近に死兵に手出し無用とスルーされた戦いの場所だな
0747人間七七四年
2014/04/12(土) 01:07:16.24ID:yawQd5P5辛く当たり、それに耐え切れずに信長に仕え、終には丹波一国(およそ50万石)と近江にて10万石を所領するまでになった。
明智光秀は常にこう言った、「私が今に至ったのは、全く米田のお陰だ。」
これ故に、光秀は幽斎の息子である忠興を婿としたのである。
(老人雑話)
0748人間七七四年
2014/04/12(土) 01:08:48.06ID:3JXAJmVk0749人間七七四年
2014/04/12(土) 02:35:51.67ID:cbW4eT2l盛り過ぎwwwwwwwwww
0750人間七七四年
2014/04/12(土) 07:11:11.29ID:grim2RRR0751人間七七四年
2014/04/12(土) 07:32:15.74ID:nxOJYaOk0752人間七七四年
2014/04/12(土) 09:34:05.30ID:+r3aujj20753人間七七四年
2014/04/12(土) 10:42:55.07ID:WgiqqBYR義光は寒河江を攻略すると、領内の地下人を召し出してこう述べた。
「近年の戦いで疲弊していることだろう。これからは民百姓、
安堵して妻子を養うがよい」
義光は民に扶持米を配り、所持仕置きをしてから谷地に入った。
さらに義光は領内を視察し、老人や歩くことができない者にも「非人米」
と称する配給を行ったので、まことにありがたいことであった。
義光公は誠に民の父母、手足を泰山の安きに置くようだと、
(=これからは生活が安定する)
喜ばない領民はいなかった、という。
0754人間七七四年
2014/04/12(土) 22:28:24.35ID:yawQd5P5先に進出した。この間、諸軍は都にあってそこを守っていたが、兵糧が尽き、諸軍はこれに
耐えきれなくなった。
そこで諸将は皆このように言った。「この都を放棄し後方に下がって兵糧を得よう。」
ここで、独り加藤遠江守(光泰)だけが異を唱えた
「清正は既に30里も先に進んでいる!であるのに、彼を見捨てて都を守らずに去るような者は
男ではない!」
しかし皆は言った
「食がないのだ!仕方ないではないか!」
加藤光泰は答えた
「砂を食え!」
「砂なんか食えるか!!」
これには皆も総ツッコミである。しかし光泰は平然と
「砂には食い方というものがあるのだ。若い奴らはそれを知らんのだ!」
また福島正則に向かって
「おい市松、いつの間にそんなに大きくなったのだ?」と言い、
また備前中納言(宇喜多秀家)に対しては
「今まではお前のことを中納言様と呼んでいた。だが今後は、この中納言めと呼んでやる!」
と言った。
そしてその日の晩、加藤清正は帰ってきた。都から3里ばかりの場所に陣を張り、使いを光泰に立てて
このように伝えた
『私が今からここを守り、敵を寄せ付けないようにします。ですので安心して兵糧を取り寄せて下さい。』
これこそ誠に天命というものであろう。
(老人雑話)
0755人間七七四年
2014/04/12(土) 22:36:15.75ID:u7/VKJ76既出、かと思ったら出典が違った砂加藤
0756人間七七四年
2014/04/13(日) 07:15:04.29ID:8555LqJW「義守よ。立派な跡継ぎが欲しいと願っているようだな。おまえの願いをかなえてやろう。
これからも祖先や神仏を敬い、正しい行いをするように」
武将は最上一族の祖である斯波兼頼であった。
やがて義守も正室が懐妊し、天文十五年(1546)正月元日に、待望の男児が生まれた。
すると山形城門にまつられていた山王権現(現日枝神社)上空に白い旗に見える雲がたなびき、
男児の誕生を祝うようであったという。
男児は「白寿丸」と名付けられ、また源五郎とも称された。のちの義光である。
0757人間七七四年
2014/04/13(日) 08:17:58.71ID:M0dTiUe00758人間七七四年
2014/04/13(日) 08:53:08.41ID:Jd7voNHh豊臣氏が滅亡した後、徳川政権による支配体制が確立され、諸大名に対する幕府の監視の目が強まって改易も多々行われる中、TERUは悩んでいた。
(●▲●)こんな時代だからこそ一門の結束を強め、派手なことはせずに家の存続を考えねばならないのにうちの秀就と来たら・・・
(*^◯^*)駿府で大御所様の見舞いが終わったら猿楽見るんだ!江戸に帰ったら踊るんだ!酒飲むんだ!政治なんて知らないんだ!
(●▲●)・・・・・だめだこの馬鹿息子
そして、1621年に輝元は秀就に21か条の訓戒を送るのであった。
(●▲●)<老臣や奉行の意見を聞け、側近は才能を見て選びなさい、直ぐにはぶてる(拗ねる)な、遊びは控えろ、後他の大名との付き合い方は(以下略)
(●▲●)<家康の見舞いの後に猿楽など見とるから形見分けもらってねーのお前だけじゃろが、秀忠にワシに養生せよと言われた?お前の行状が改まるのが一番の養生にして親孝行じゃ、この馬鹿たれが。
と言った感じでTERUは細々と21か条の訓戒を秀就に送っている。
そして、秀就もそれについて一つ一つ了承した旨の書状を父に返している。
家の存続に心を砕き、家族に宛て長い訓戒を送るその様子は祖父元就の晩年を見ているようでもある。
この様子をかつての後見人である小早川隆景が見たら、彼は一体何を思ったであろうか?
0759人間七七四年
2014/04/13(日) 08:53:46.38ID:62jbK+RU地味加藤、砂加藤、飛び加藤、清正加藤
0760人間七七四年
2014/04/13(日) 09:04:43.33ID:9ph50VZh0761人間七七四年
2014/04/13(日) 09:24:43.12ID:ZF6hgZ9O隆景さんでさえ、若いころの逸話見るとただのワガママ小僧だったりするし。
0763人間七七四年
2014/04/13(日) 11:33:14.45ID:8555LqJW最上駿河守とは義光の子・家親をさすが、「六十余霜」とあることから、
義光の辞世である可能性が指摘されている。
一生居敬全
今日命帰天
六十余霜事
対花拍手眠
一生居するに 敬を全うし
今日 命天に帰す
六十余霜の事
花に対ひ手を拍ちて眠らん
私は一生敬を全うしてきた
わが命今日、天に帰る。
六十年あまりの年月はただ茫々。
咲く花に手を打ち、眠るとしよう。
有といひ 無しと教へて
久堅の 月白妙の
雪清きかな
有るといい無しとも言う、有無は心がけ次第だ。
空に高く月は白く、真白い雪は清らかだ。
和歌は義光の幼名(白寿)、諱(光=明るい、白い)、戒名(光禅寺殿玉山道白大居士)、
そしてこれが辞世だとすればここにも「白」が入っているのはなかなか興味深いと思う。
0764人間七七四年
2014/04/13(日) 13:04:06.63ID:i9s/0g9sブログでやったほうがいい内容だな
0765人間七七四年
2014/04/13(日) 13:15:37.31ID:5PtRY13x0766人間七七四年
2014/04/13(日) 13:28:27.06ID:0LlpbSRu0767人間七七四年
2014/04/13(日) 15:16:03.50ID:8555LqJW辞世の句は扱っていけないというルールがあったなら失礼しました。
そうでないなら他の武将の詩歌などを扱った時もあなたはそういうことを言ってたんですか?
0768人間七七四年
2014/04/13(日) 15:18:47.85ID:vTng5FF60769人間七七四年
2014/04/13(日) 15:24:19.17ID:bPX53VYD0770人間七七四年
2014/04/13(日) 15:37:15.45ID:0LlpbSRu0771人間七七四年
2014/04/13(日) 15:38:14.47ID:fJQvg67N義光以外がメインの逸話まで見過ごしてしまいそうだ
0772人間七七四年
2014/04/13(日) 15:38:54.40ID:i9s/0g9s四六時中張り付いてるわけじゃないから他の例なんていちいち覚えてないが
過去に詩歌ネタがあったとしても、そういうこと気にならないような書き方してたかもな
0775人間七七四年
2014/04/13(日) 17:44:10.24ID:ZF21Gc/4いらぬ気遣いなんだけど、人が集まるとそういう事もある
0776人間七七四年
2014/04/13(日) 18:00:03.17ID:R/VeEKGy本質を理解する能力とまとめる能力がないバカが会話調で話を進めるって内の指導教官が怒ってたな〜
0777人間七七四年
2014/04/13(日) 21:23:50.69ID:f4KrSdC90778人間七七四年
2014/04/13(日) 21:27:13.20ID:qtBEvqwL行間や忍法帖で長い文章が利用できないので(つづく)とか使ってますが
同一人物視された方がかわいそうに
0779人間七七四年
2014/04/13(日) 21:32:38.56ID:qtBEvqwL最上駿河は家親以外に最上義智も使用
ただ、豊臣政権下の義光の伏見屋敷が地図等に「最上駿河」と表記される事もあるので、原典の由来がわからないと義光ではなく義智の可能性も出て来るとか?
(義智も享年は60過ぎ)
0780人間七七四年
2014/04/13(日) 21:37:07.93ID:R/VeEKGy0781人間七七四年
2014/04/13(日) 22:00:22.30ID:TZKu9ZS2原典を素直に現代語訳するだけが一番無難かな。
妙な台詞を入れると創作小説になるし
自分の意見を押し出すと考察コラムになる。
「逸話」から離れないようにするのが肝要。
0782人間七七四年
2014/04/13(日) 22:07:03.46ID:qtBEvqwL文句書く前に手本ともなる逸話のサンプルでも投下なされては?
これ以上引きずる様ならあなたは単なる荒らしだわ
0783人間七七四年
2014/04/13(日) 22:24:18.49ID:R/VeEKGy0784人間七七四年
2014/04/13(日) 22:27:31.37ID:R/VeEKGyとちあえずイチャモンは付けられなかった
0785人間七七四年
2014/04/13(日) 22:33:30.23ID:R/VeEKGyまぁ、オレが荒らしたといのは認めるが
0786人間七七四年
2014/04/13(日) 22:35:57.64ID:Vu89JmMm0787人間七七四年
2014/04/14(月) 00:12:50.36ID:G0qkMeLP0788人間七七四年
2014/04/14(月) 03:09:14.30ID:DwRkVVM7文句言うやつは荒らしのスタンスだから、何言っても絶対に改めようとしない。
荒れるだけ無駄。かまう奴も荒らし
NG入れとけ
0789人間七七四年
2014/04/14(月) 06:39:11.29ID:g2KWYUFx0790人間七七四年
2014/04/14(月) 12:26:46.07ID:AUVkqdDj0791人間七七四年
2014/04/14(月) 12:41:13.78ID:AUVkqdDj宣教師の見た日本
「人々はいずれも色白く、極めて礼儀正しい。一般庶民や労働者でも社会では驚嘆すべき礼節をもって上品に育てられ、あたかも宮廷の使用人のように見受けられる。
東洋の他の諸民族のみならず、われらヨーロッパ人よりも優れている。国民は有能で、秀でた理解力を有し、子供達は我等の学問や規律をよく学び取り、ヨーロッパの子供より容易にかつ短期間に我等の言葉の読み書きを覚える。
また下層の人々の間にも我等ヨーロッパ人の間に見受けられる粗暴や無能力ということがなく、一般にみな優れた理解力を有し、上品で、仕事に熟練している。
彼らは感情の慎みが深く、胸中に抱く感情を外に出したりはしない。」
ヴァリニャーノ『日本諸事要録』
美しかった昔の日本人の記録。
0792人間七七四年
2014/04/14(月) 14:29:40.19ID:0M2f/20D日本人もヴァリニャーノさんにかなり好意的だったのは
ヴァリニャーノさんの柔軟性と現地適応能力に拠るところも
大きいな
0794人間七七四年
2014/04/14(月) 16:02:04.35ID:AUVkqdDj日本では大地震の後に残ったコンビニに整然と並ぶ、長蛇の人の列が出来た。
世界から後者のニュースは「実に日本人らしい。」と驚嘆されたと言う。ヴァリさんが見てた昔の風景と被ると思う。逸話じゃなくコラムだろとか突っ込むのは無しでお願い。
0795人間七七四年
2014/04/14(月) 16:10:43.21ID:DwRkVVM7フロイスとかの「日本人ひたすら野蛮」
宣教師の評価も両極端だわな。まぁどっちもある意味正解なんですけど
0796人間七七四年
2014/04/14(月) 16:22:49.42ID:s7lc4QLEどの宣教師の記述も正しいんだろうと思うわ〜
0797人間七七四年
2014/04/14(月) 16:35:50.80ID:AUVkqdDj「公方(足利義輝)様の御殿は深い堀に囲まれ、幅の広く造りのよい木橋が架かっていた。入口には伺候するために各地から集まって来た三四百人の貴人がいる様であった。
また御殿の外の広場には多数の馬や輿が停まっていた。」
「極めて清潔で親しみを覚え、快適であった。
窓の外には杉、松、小さなオレンジ(蜜柑)や我等の国では名も知らぬ種類のみずみずしく青々とした珍しい木々が植えられた庭があり、実に巧妙に培い、手入れされていて、あるものはベル(鐘)の形、またあるものは塔の形及び様々な形をしている」
ルイス・フロイス『日本史』
織田信長によって造り変えられ、二条城になる前の室町御所の風景。
諸大名の居城だけでなく、将軍様の所にも宣教師が上がり込んでいた記録。
0798人間七七四年
2014/04/14(月) 16:48:18.52ID:AUVkqdDj後世に日本を訪れたイザベラバードの『日本紀行』と『朝鮮紀行』の対比も面白い。(amazonレビューで比較も簡単)
明治時代の外国人の技師や外交官らも概ね「OrientalJapan」と日本には好意的。
0800人間七七四年
2014/04/14(月) 22:01:44.46ID:QMKSShtoとても喜び、饗応した後に長子を呼んで石谷に面会させた。
石谷は「御子息は何歳になられたのですか?」と尋ねた。太田は「十四歳です」と答えた。
これを聞いて石谷は「甲冑は用意させなさったのですか?」と言った。太田は答えて、
「まだ申し付けていません」と言った。
すると石谷は、「愚老がむかし島原一乱に出陣した時、ある陪臣が十三、四歳の倅を連れて
戦場を往来したのを見たことがあります。その様子は父子ともにひと器量ある者と見受けました。
武士たる者は子供だからといって、いつまでも家にばかり置いては大事の時の用に立ちません。
御子息にも早く甲冑をお与えなさい」と言った。
――『明良洪範』
0801人間七七四年
2014/04/15(火) 01:26:17.71ID:T7Ga6LeL0803人間七七四年
2014/04/15(火) 04:22:30.62ID:j8mHKhqv0805人間七七四年
2014/04/15(火) 10:26:33.73ID:DvbKzqHI0806人間七七四年
2014/04/15(火) 11:26:48.19ID:YDFul9VB0807人間七七四年
2014/04/15(火) 15:09:35.16ID:DZwI8D850808人間七七四年
2014/04/15(火) 18:32:02.26ID:Cp/2duMU0809人間七七四年
2014/04/16(水) 03:24:08.29ID:SduEKGxrhttp://i.imgur.com/6Eq0TNs.jpg
0811人間七七四年
2014/04/16(水) 11:54:33.57ID:SduEKGxrラスボスが頼朝って言ってるから頼朝でいいんだよ...
http://www.emuseum.jp/detail/100430/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=3&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=9&num=2
0812人間七七四年
2014/04/16(水) 21:19:15.46ID:k6etqqGP台徳院殿(徳川秀忠)の時代、作馬不閑が所持していた雲山という茶入れを、金森殿が
黄金百錠にて求めたことがあった。
台徳院殿はこれをお聞きになって、その資金を金森殿に与えると言われた。しかしその時には
手元に黄金は三十錠しかなく、七十錠が不足していたという。今の世とは甚だしく相違していたのである。
昔、南都東大寺の奉加に、源頼朝が五十両を寄進すると言われたが、その年に旱魃があって整えることが
出来なかった、という話が吾妻鑑に見える。
(老人雑話)
秀忠の時代くらいまで高額通過の流通は少なかったらしい。というお話。
0813人間七七四年
2014/04/16(水) 23:33:09.62ID:M9yvMrSr0814人間七七四年
2014/04/17(木) 23:32:35.18ID:+axgPh5A初めの頃は誰もが慎むけれども、長くなれば自然と互いにわがままになるので
終いには不和になるものだ。また、自分が嫌いなことは人も嫌いであると思うことだ。
また、人の過失はよく分かるものだが、自分の過失はさっぱり分からないものである。
また、諌める者は気に入らず、へつらう者は気に入るものである。
家人を使う時に、このところを心得て使わなければ、家人は難儀に及ぶことがある。
たびたび難儀する時は、終いには背くものである」と言ったということだ。
――『明良洪範』
0815人間七七四年
2014/04/17(木) 23:41:36.29ID:vdxSbYo10817人間七七四年
2014/04/18(金) 01:37:01.58ID:sc68QPd1ラスボスって敵にこそ恨まれても政治的な事情を抜きにすると結構慕われてる気がする
流石人垂らし
815
長久手でのことをお忘れか!?って家康が絡んでくる話だっけか
0818人間七七四年
2014/04/18(金) 01:45:28.82ID:Hh03wPku0821人間七七四年
2014/04/18(金) 11:26:56.30ID:W/4P81WZ九州の大名たちの奥方をお集めになりお遊びなされたことがある。
陽泰院さま(直茂公室)にも、是非お出でなされますように、とお招きがあった。
陽泰院さまは、太閤さまの侍女、幸蔵主を通してお断りになられ、
そのときは、幸蔵主の取りはからいでお出かけにならずにすんだのである。
しかし、
「鍋島家のみが勝手な振る舞いをしてよいという前例を作っては後々よくないでしょう。
一度はお目見えになられたほうがよろしいかと思います」
と言ってきたので、陽泰院さまは、前髪を角が立つように剃り落とし、
顔に醜く化粧をして、太閤さまにお目にかかられた。
それから後はお出かけにならなかったということだ 【葉隠】
0822人間七七四年
2014/04/18(金) 23:58:01.49ID:uArMOhiu毛利元就がまだ毛利本家を継ぐ以前、毛利幸松丸の後見人の一人として、未だ多治比殿と呼ばれて居た時のこと。
当時毛利幸松丸のもう一人の後見人として元就以上の影響力を毛利家中に誇ったのが石見の豪族にして、幸松丸の外祖父である
高橋久光であった。先年、嫡子元光を戦で失い齢60を迎えたとはいえ、大内・尼子の狭間で生き抜いてきた男の力は伊達ではない。
先の有田合戦で力を示したとはいえ、20代前半の元就の発言力は久光には到底及ばぬものであったそうだ。
だが、高橋久光は大永元年(1521年)備後の豪族三吉氏を撃つべく、兵を出したものの三吉傘下の加井妻城(青屋城)で青屋友梅に討たれ戦死してしまう。
(一説によれば久光の息子元光も先年、この加井妻城攻めで死んだと言う。)
(続く)
0823人間七七四年
2014/04/19(土) 00:11:37.44ID:GxnFKYrg攻めるに難しと見た元就は加井妻城を3500の兵で包囲、兵糧攻めを開始する。
しかし城主青屋友梅も去るもので、水・食料が尽きるのを待つ元就方に対し、
見えるところで米を馬にかけ、遠目には水で馬の体を洗ったように見せかけ
寄せ手の戦意を下げようとした。それを見た元就方では撤退や作戦の変更を申し出る者も
多数いたが元就はそのまま兵糧攻めを継続する。
そして数日後、元就は配下の井上光親を軍使として城内に送るのであった。
0824人間七七四年
2014/04/19(土) 00:32:50.00ID:GxnFKYrg馬であるから長戦の慰めに見せてさしあげようと、光親の前に数頭の馬を引き出し、盥に
なみなみと満たした本物の水で馬の体を洗い、更には雑兵が無数の米俵を運ぶ様子を見せ、
光親は自陣に戻るとその有りのままを元就に報告した。
光親から城内の様子を聞いた多くの将兵は、
「こりゃいけんわい、敵方には水も飯もまだようけ有るで・・・」
「城がこがなじゃったら勝たれんのじゃないか?」
と落胆したものの、元就だけは一人
「城内の水は尽きた、敵はまもなく降伏するゆえ今しばらく堪えてより一層包囲を固めよ。」
と、指示を出した。果たして一月もせぬ間に青屋友梅は降伏。元就の言うとおり城内の水と食料は
絶えていたと言う。これにより元就はより一層の名声を高め、目の上のたんこぶで有った、高橋一族の
毛利家への影響力とその勢力自体を削ぐ事に成功する。敵の窮状を見抜いた若き日の謀神の姿である。
0825人間七七四年
2014/04/19(土) 02:08:14.62ID:0R6USUEj現代の学者で実際に検討した人はいるのだろうか
0826人間七七四年
2014/04/19(土) 02:26:10.43ID:MNIlPhKx山を分け入って木々の合間の遠くの方に湖が見えたと思った
…近付いたら山中に似合わず白い砂利がただただ敷き詰められた広大な駐車場だった事がある。
視力は当時2.0だったけど、先入観や常識に囚われると
意外な物に嚇かされる事はたまにあるよ。
0827人間七七四年
2014/04/19(土) 17:53:22.77ID:4D7S36vy古田「(*゚Д゚*)キミ、越前の真柄を討ち取ったんだって?その時の話を聞かせてくれよ。どうやったんだい?」
青木「いや、真柄って人は凄く強い人でさ、本当なら僕が討ち取れるような相手じゃないんだけど・・・巡り合わせがよくてね。
真柄がケガして疲れ果ててるところに出くわしてさ、たまたま僕が行きがかり上討ち取ったってだけなんだよ。
だから話すことなんて無いんだよね。(´-ω-`;)ゞ」
飾らない青木の態度に、古田や聞いていた者は皆感じ入ったという。
0828人間七七四年
2014/04/19(土) 17:57:39.03ID:pS4iibVJ0829人間七七四年
2014/04/19(土) 23:58:21.13ID:GxnFKYrg陰徳太平記からなので、史実かどうかはおいて毛利元就とその間諜として用いられた者達について
北条早雲が座頭などの盲目の者達を自領から追放すると言う例を出し、退去する盲目の者達に自らの間諜を
紛れ込ませて各地へと散らしたのは戦国スレでも既出であるが毛利元就にも同様の話が有り、
元就は4人の琵琶法師を座頭衆という間諜として代わり代わり周辺に派遣し、各地の領主の人物やその地の
情報を得たり、時には偽情報を流させるなど(尼子国久の新宮党粛清にも一枚噛んだとも)したと言う。
その座頭衆の一人に勝一と言う名の琵琶法師が居た。勝一は琵琶の弾き語りや弁舌に優れるだけでなく、病で盲目になる前は
勉学に励んでおり博識でもあった。
ある日、元就は先祖伝来の刀が3つに割れると言う夢を見、それを不吉に思い勝一に相談した。
夢の内容を聞き、勝一はそれについてこう答えたと言う。
「殿が見た夢は吉兆にござります。何故なら3つの刀はпA変じて州、すなわちクニとなりまする。
故にこれは殿が将来一つの国の主となられることを意味しておるのです。」
それを聞き、元就は安堵するとともに大いに喜んだと言う。
0830人間七七四年
2014/04/20(日) 10:09:16.55ID:VScin6KQ元就の異母弟、相合四郎元綱。元就と共に有田中井手合戦で初陣し、元就に劣らぬ武勇を示し
「今義経」とも称えられた毛利一門の若き担い手である。母は違えど兄元就との仲も良く、頼もしい弟であった。
毛利幸松丸が早世し、元就が家臣団の後押しで毛利家の家督を継ぐまでは・・・。
元就の毛利相続に不満を募らせた元綱は数名の有力な家臣と結託し、尼子や石見の高橋家と結んで元就に対する謀反を企図しはじめる。
それを察した元就は琵琶法師・勝一を元綱の元に「話し相手」として送り出す。
話し上手・琵琶上手の勝一は盲目の為警戒されずに元綱の居館・船山城に出入りし、元綱の謀反の計画を探り元就に伝える
間諜としての役を果たすのであった。
元綱一派の決起が近づく中、元綱は決起前の夜宴で平家物語の弾き語りをするよう勝一に依頼する。
もちろん元綱は勝一に謀反も決起も明かしては居ないが、元綱一派の決起が近いのを察した勝一は
元就に通報。事ここに至っては弟を討つも止むなしと決意した元就は夜宴の最中の襲撃を企て、合図などを決め
勝一を再度船山城へ送り出す。
夜宴当日、元綱の居館船山城を志道広良率いる300の兵が急襲、勝一の弾き語りが佳境となった時を見計らい
兵が突入し、元綱はじめ30人ほどがその場で討ち取られ、勝一から元綱の同調人として名の挙がっていた
坂広秀や渡辺通らも討たれたと言う。
0831人間七七四年
2014/04/20(日) 11:01:35.31ID:VScin6KQ勝一から元綱の同調人として名の挙がっていた坂広秀や渡辺通らも後日討たれた。
元就は弟の死を悼むとともに、事件の背後に尼子経久の策謀が有った事を知り、尼子と決別することを決意。
以後、大内側に付くこととなるのであった。
毛利元就と琵琶法師3
元就が座頭衆と言う琵琶法師の間諜集団を組織していたのは先に上げたとおりだが、後年
陶晴賢が主君・大内義隆に謀反、殺害した後に毛利家と争うようになった頃、陶晴賢も一人の
琵琶法師を間諜として元就の元に送り込む。この琵琶法師は元就に気に入られ、様々な情報を
陶側に流したため、元就側の情報は陶に筒抜けとなってしまった。
しかし、周辺に間諜が入り込んだことに気づいた元就は先ごろ迎えたその琵琶法師が怪しいと気づき、
逆にその法師を利用して偽の情報を敵側に流すことにした。
先ず陶配下で堅城、岩国城城主の永来丹後守がこちらに内通した。
と、偽の情報をかの法師から陶晴賢に流したうえ、更に岩国へその物証となる偽の書状を送り、
それをあえて陶側に奪われるよう手配した。自らの間諜からの情報と元就の偽手紙に引っかかった
陶晴賢は激怒して名将としても知られる永来丹後守を殺害してしまった。
計画が成功した元就は更にその法師を自分の側近として、厳島合戦直前の軍議にも参加させた。
そこで元就は
(●▲●)「陶軍に厳島に渡られると困るわー、厳島に作った城はがいにこまい(大変小さい)し、制海権取られて海から攻撃されるし困るわー(チラッチラッ)」
(*^◯^*)(ほうほう、これは良い情報なんだ!)
(●▲●)「陸路で草津・廿日市に攻めてくるなら岩国の弘中隆包がうちに寝返るけん、助かるんじゃがのー(チラッチラッ)」
(*^◯^*)(!これは一大事なんだ、殿にお知らせせねば!)
全部嘘である。
(つづく)
0832人間七七四年
2014/04/20(日) 11:29:22.72ID:VScin6KQ数に劣る元就は、険しい山で形成された厳島に陶軍を誘い込み、数の優劣を無くした上で
敵の船を焼き、退路を断って決戦することを狙ったのであった。
法師(*^◯^*)からの情報を受け取った陶晴賢は直前にも、毛利家老・桂元澄から内応の手紙(これも嘘)を受け取っており、
厳島に渡ることを決め、弘治元年(1555年)10月2-3万の大軍で厳島へ渡海。なお、この時弘中隆包が厳島への渡海を反対したが、
法師(*^◯^*)からの偽情報の為、却下されたと言う。
戦の経緯は省くが結果はご存知のとおり陶軍総大将・陶晴賢討ち死に、弘中隆包親子も討ち死に、陶軍は約5000人の使者を出し、
毛利側大勝利に終わった。
さて、例の法師(*^◯^*)の顛末であるが・・・
(○▽○)「おどれのおかげでわしゃあ、長年の思いを遂げることが出来たわい。褒美に塩(死を)くれちゃるわ、ありがたく飲めや」
(*^◯^*)「えっ?ぇっ?」(ざばーん)
(*^◯^*)「くぁwせdrftgyべいすたんlp;」
開戦直前に元就に海に沈められたそうである。めでたしめでたし。
あれ、良い話・・・・?
0833人間七七四年
2014/04/20(日) 22:22:10.28ID:Isu6luxeといったところだろうか…( ;∀;)イイハナシダナー
0834人間七七四年
2014/04/20(日) 22:49:58.73ID:VScin6KQ0835人間七七四年
2014/04/21(月) 00:01:21.95ID:urSpSXSo0836人間七七四年
2014/04/21(月) 01:08:33.59ID:Gj8yUMWz>3つの刀はg、変じて州
ここがイマイチしっくり来ないけど当時の初代だと似たような字になったのかな
0837人間七七四年
2014/04/21(月) 13:00:08.75ID:UxXlvqCGgと州でググったらいろいろ出てくる
0838人間七七四年
2014/04/22(火) 01:14:47.62ID:IZdYzDZT共に敵を斬って首を得た。
豊臣秀頼の右筆である白井甚右衛門はその日、首帖(首帳)の役だった。
松浦は早く首を持って来て白井に一番と書かせた。ところが、白井は
「首一つ松浦弥右衛門」と書いて一番とは書かなかった。
松浦は怒ったが白井は聞き入れない。そこに今度は浅部が首を持って来た。
白井がこれを正したところ、浅部は松浦よりも先に首を取ったけれど、
その場所が遠かったので遅参したということがわかった。
その証拠は明らかだったので白井は浅部を一番と書いて松浦を二番と書き、
松浦に向かって「ニの首を待って一の首を記すことは首帖の故実です」と言った。
――『武将感状記』
0839人間七七四年
2014/04/24(木) 19:06:42.28ID:4Mkt4lor御先に上洛したいという旨を申し上げ、土井利勝を上使として、御暇を賜った。
黒田親子はすぐに御礼として江戸城に登城すると、親子ともども、御太刀を下された。
この時、木曽路を通って上洛したいということを、土井利勝を通じて言上したところ、
『心のままにせよ』と赦されたため、親子共に、東山道を上ることとなった。
またこの時、松浦肥前守久信もこれに同道した。
長政は、美濃国合渡川の傍で忠之、松浦久信を待ち受け、ここに暫く留まり、二人に、
先年の岐阜城攻めの折、大垣の城の敵方が後攻めをしようとして大勢が川向うに備えていたのを、
長政がここを渡り、合戦して追い崩し、勝利を得たこと。田中、藤堂など諸将が渡川した場所、
戦いの形勢など、たった今、目の当たりに見るように詳しく語った。
これには付き従った者達まで、志あるものは耳を傾けて聞いたそうである。
このあたりの領主であった竹中丹後守重門は、その子である権之佐を迎えとして合渡川まで参らせた。
その夜は竹中氏の居館のある岩出という場所に宿泊した。
ここでは竹中重門自身が接待をした。
翌日、岩手を出て関ヶ原に至った。ここでは、また先年、家康公の先手として陣し、西軍の大敵と
大いに戦い、天下泰平の礎を作り上げた場所であったので、「若年の人に教学の為に」と、
忠之にその時の戦の有り様、地形、方角を、指さしながら詳細に語り聞かせた。
これに、付き従う士卒たちも、ただただ心耳を澄ますばかりであった。
長政はここで時刻を過ごし、いにしえの戦場に感じ入り、昔を恋しく思って落涙された。
心ある人中には、これを見て共に涙を落とす者もあった。
後で思い返してみれば、この時黒田長政は既に年老いて、しかも病を患っていたので、
もう一度ここを通りたいと思い、今回は忠之を伴って、こうしてここを見せ、語り置かれたのであろう。
(黒田家譜)
黒田長政、息子に関ヶ原の古戦場にて自分の戦いを語り聞かせる、という逸話である。
0840人間七七四年
2014/04/24(木) 20:34:53.12ID:ZKXY3hr00841人間七七四年
2014/04/24(木) 23:31:27.99ID:zogf4qTmこの話か
0842人間七七四年
2014/04/25(金) 08:52:47.72ID:PicnZp9z0843人間七七四年
2014/04/25(金) 15:36:10.10ID:xNX1/ysK慶長6(1601)年、最上義光が酒田攻めで庄内を上杉軍から奪還すると、北館利長には田河狩川城と3000石が与えられた。
しかし利長が新領に赴くと、目の前には痩せた土地と広大な葦の生い茂る原野しかなかった。
利長は土地の者に尋ねた。「近くに川もあれば人も居るのに、この荒れ様にはなにか理由があるのか?」
農民「水が足り無いのでござえます」
利長「川ならあちらに流れているではないか?」
農民「お侍さまちょっとええだか?一緒に川まで来てくんろ」
利長は農民らと川へと向かった
農民「見てわかんべ」
利長「…川が田畑より一・二間(数メートル)も低い処を流れているのか…」
農民「そんだけじゃなく、ここいらは台地(河岸段丘の上)だし、土もすぐに水を吸うてしまって水が全然足りんのでごぜえます」
利長は水をどうにか出来ないものかと
毎日毎日領地のあちこちを朝から晩まで歩き回った
道で見掛けた農民に「水は無いか?なにか良い知恵は無いか?」と聞き込む事から
領民らは「おい、また水馬鹿の殿さまが来たぞ」と陰口を叩いた
0844人間七七四年
2014/04/25(金) 15:55:08.83ID:xNX1/ysK利長「お山(月山)なら雪溶け水や川はあるが、十里(数十キロメートル)以上離れておる…」
利長「途中には沢や丘陵もある…どうしたらいいんじゃ…」
利長は櫃に絵図を描いては閉まい、閉まいは出しては描き直し検討を繰り返した
同時期に山形から庄内までを手中に収めた義光は最上川の水運の向上を図るために川底の掘削や難所の整備を進めていた
利長「最上川治水工事の一環として、大殿(最上義光)のお力を借りられれば…」
慶長16(1611)年、北館利長は櫃に狩川の絵図と工事の見積書を詰め、義光に月山山麓から数十キロに渡る農業用水の潅漑工事計画を願い出た
最上義光「これだけの細かな資料を集め、さぞ大変であったろう」
利長「水さえあれば庄内は更に豊かになります。何卒工事の許可を頂けませんでしょうか?」
義光「みな(万石取りの最上重臣)を集めて議題とする。そち(利長)も席には参加せよ」
0845人間七七四年
2014/04/25(金) 16:23:33.55ID:xNX1/ysK志村光安「仮にやるとしても莫大な予算が必要となりますが、それに見合うだけの結果は出せるのでしょうか?」
下吉忠「最上川の整備ですら数年に渡る工事を継続中です。戦災で荒れた寺社の復興も残っておりますし、今やる必要があるのでしょうか?」
楯岡満茂「人手の確保も簡単ではありますまい」
難工事が予想されたため反対意見も多かったが、義光の側近の新関久正が利長の労苦を汲み反対派を説得し、翌慶長17(1612)年3月、月山立谷川治水工事の命令が発動。
工事監督に北館利長、相談役と奉行に志村光安と新関久正が付けられた。
沢には水路の部分だけ盛り土をした土橋が引かれ、丘陵は掘削されたりトンネルが設けられた
同年7月、4ヶ月の期間と10000人以上の人足を注ぎ込み、40キロにも渡る潅漑用水工事が完成。
「現場の河風は身に凍みるだろう」と義光から贈られた黄色い綿帽子をかぶり、杖をついて工事を指揮した北館利長の念願が叶い、狩川3000石は十年ほどで石高が30000石にも飛躍した
今でも綿帽子をかぶった北館の像が大堰と米処庄内を見守っている
※北「楯」の名字は酒井氏が庄内に移封してから後のもの
本来は北「館」が正しい
0846人間七七四年
2014/04/25(金) 16:46:40.12ID:xNX1/ysK工事の規模や詳細がほとんど知られていないのと、当初は最上家中では工事消極・反対派が多かったといった点では悪い話?
0847人間七七四年
2014/04/25(金) 16:54:44.28ID:xNX1/ysK最上義光、北楯大学と埋蔵金・いい話
義光67歳の手紙
と大分かぶってますた…少し潜ります…
0848人間七七四年
2014/04/25(金) 20:26:11.04ID:KnPSQksWもう当時を知らない若者ばかりになってたんだろうと思うと何とも寂しい話だ
0849人間七七四年
2014/04/26(土) 00:29:15.06ID:sp3m1MgN「男の生命は刀脇差なんだから、鞘は良い物にして束ねをつけて、刃が抜けないように
鞘止も良い物にすべきである。それでこそ主君の役にも立ち、自分の為にもなるのだ。
油断というのは勿体無い。緊急に手討などがあった時も、常に良い状態にして有れば、何の問題も無い
だろう?
しかしな、常に念を入れて良い状態にしておいたとしても、その時になるとここかしこに問題が
出てきてしまうものなんだ。勿論常々からそのようなたしなみが無い者は、いざという時
役に立てるわけがない。
それからな、これは若い者たちに心得ていて欲しいのだが、何時であっても、人を討つ時
一刀で納めようなんて思ってはならない。一刀討ちつけ斬れなかったら、叩き殺すのだ!
という覚悟を持たなければならないぞ。」
(政宗公御名語集)
伊達政宗の、刀についての心得である。
0850人間七七四年
2014/04/26(土) 01:18:56.75ID:/NUGOV8U0851人間七七四年
2014/04/26(土) 10:00:27.35ID:AFZuOKes0852人間七七四年
2014/04/26(土) 14:38:03.58ID:+oJf3obP0853人間七七四年
2014/04/26(土) 15:09:48.42ID:Ybu1meKV0854人間七七四年
2014/04/26(土) 16:30:44.68ID:gPH5kHCp0855人間七七四年
2014/04/26(土) 18:22:01.99ID:iOXbuZnl0856人間七七四年
2014/04/26(土) 18:25:04.80ID:iOXbuZnl0857人間七七四年
2014/04/27(日) 16:59:36.60ID:2gYRKtfFその夜の夢で『是』という字を見た家康は、
この時、足利学校の三要閑室(第9世庠主)を御供に連れて
いたので、ただちに彼を呼び夢のことを尋ねた。これに三要は、
「『是』の字は『日の下の人』と書く字です。
つまり天下に一人ということであり、誠に目出度い御夢です」
と申し上げた。この三要は学才のみならず頓智の上手な人である。
三要は洛東一乗寺村の円覚寺(円光寺)の開基で、
寺領二百石を与えられた。
――『明良洪範』
0858人間七七四年
2014/04/27(日) 18:25:18.57ID:2zh9jIa20859人間七七四年
2014/04/27(日) 19:02:04.77ID:n+Ki6Z000861人間七七四年
2014/04/29(火) 00:31:03.69ID:fxvJ3oLR0862人間七七四年
2014/04/29(火) 18:42:15.80ID:zDAu+sY+この宇野は芸州(毛利)の旗下だったので、秀吉公はこの城を攻めることをお決めになり、別所を攻め落とした翌年、広瀬の郷に馬をお寄せになった。
この時、近習の一人(里村紹巴とも)が「かがり火にうの首見ゆる広瀬かな」と門出の発句を奉った。
たいそう感心した秀吉公が一気に城をお攻めになると、宇野政頼とその子祐清はついに打ち負け、
近い親類である美作小原城主・新免伊賀守宗貫を頼ろうと、同じ宍粟郡の千草へと落ちていったのである。
だが、宇野父子の運命はすでに尽きていた。
折からの五月雨に増水した千種川を越えかねている間に、秀吉の勇士蜂須賀小六、荒木平太夫、神子田半左衛門に追い付かれてしまったのだ。
政頼は河畔で戦って討死、祐清も荒木平太夫と槍を合わせ、打ち取られてしまった。
最後まで秀吉公に降らず、討死して勇士の本懐を遂げた宇野に、当時の人々は大いに感じいったそうだ。
「長水の名は流さしや五月雨」
(播磨鑑)
なお、宍粟市では「笛石悲話」という話が語り継がれている。
新免宗貫の援軍は千種川の西岸まで駆けつけていたが、こちらも増水に阻まれて先に進めなかった。
窮した新免たちは山に登り、宇野勢のいる対岸に向かって笛を吹いた。援軍の存在を示すことで彼らを勇気付けようとしたのだ。
しかしこれが裏目に出た。
笛の音を聞いた宇野父子は「ああ、敵はすでに対岸に達したのか・・・」と絶望し、主従揃って自害してしまった。
新免たちが笛を吹いた山はそれ以来「笛石山」と呼ばれるようになり、戦国の悲哀を今に伝えている。
0863人間七七四年
2014/04/30(水) 08:15:17.39ID:cpxAnI4S武蔵の父親の新免無二と関わりあるのかないのか
0864人間七七四年
2014/04/30(水) 18:48:35.65ID:E8TSbXg+「この日の丸についてはこんな物語がある。昔、ある所で合戦をした折、敵は西の方に夥しい軍勢で
陣所を固めていた。その大将の小旗も日の丸であった。
我々は、突然の合戦であったので、その当時方々に人数を出しており、僅かな旗本だけで出陣し、
東のほうの平原になっている場所で馬を休めていた所、家老どもが私の馬を取り巻くようにしてこう言ってきた
『今、敵の人数と御味方の人数をざっと見比べてみましたが、我らは敵10人に1人と言っても、未だ足りない
有り様です。敵はここから松原の方に見えるだけでも夥しいのに、ましてやあの山の後の森の中には、
一体どれほどの軍勢が控えているのか、測りがたいことです。ですので、今日はこの近くのしかるべき場所に
馬を一旦入れましょう。準備が整い次第、御見方も駆けつけるでしょうから、ここは人数を待つ事こそ
然るべきと考えます。』
このように口を揃えて言うことに、私はこのように返答した
『それは尤もの事だ。さりながら私は若年より今日まで、合戦において、敵を少人数だと侮ったことはないし、
逆に大人数だからといって怖気づいたこともない。突然のことであるから旗本ばかりで出たとしても、
敵の多数を見てここを退くべきではない。とにかくここは、私は馬を乗り回して敵の様子を斥候してくる。
その間、皆々は鷹狩の時のように味方の人数を隠せ、敵に見えないようにせよ!』
そう言って馬を乗り出し敵陣近くに寄せて、詳細に観察し元の場所へと帰り、家老どもを呼び集め
『鷹狩のように見方を隠したか?』と聞くと
『ずいぶん隠しました。只今でも鷹を放ちましたら、敵の小頭くらいは外すことはありません!』
と、どっと笑った。
そこで私はこのように言った
『皆々聞け!一段と良い吉左右がある!敵の大将も日の丸の小旗であるが、あれは西の方の山に立てているので、
もはや入り日である。一方我が方の日の丸は東のほうに懸かっている。これは出ずる日ではないか!
今日の勝利疑いなし!』
これに皆々も『尤もだ!』と言い、馬を敵に向けて
『出ずる日に付け!』
と言って乗り出すと、諸人一度に勇み掛かり、これにて思いの外にも敵を追い散らし、多くの人数を
討ち取ったのだ。
(政宗公御名語集)
伊達政宗の、日の丸の小旗の思い出、である。
0865人間七七四年
2014/04/30(水) 23:03:12.72ID:M+goDXef「わたしが死んだ後の処置をどうするか書きだしてみよ」
と仰せになられたので、秀忠公はすべてお書き出しになり、それをお見せになった。
そして第一条を、
「諸大名たちは長々と江戸に滞在し、御病中詰めきり大儀であった。
さっそく暇を出し、皆のものには休息を申しつける」
と読み上げると、
「天下は泰平、めでたきことなり。あとは聞くに及ばない」
と仰せになられたとのことた 【葉隠】
0866人間七七四年
2014/04/30(水) 23:27:02.45ID:KRoA5+w90867人間七七四年
2014/04/30(水) 23:34:16.26ID:Lke9R01t0868人間七七四年
2014/05/01(木) 01:24:20.61ID:g7HUxJat皆が、ん?と思うところではあるなw
0869人間七七四年
2014/05/01(木) 01:39:10.33ID:XqTpLk25諸大名は江戸に屋敷があるんだから長く滞在する拠点という意味に読めばなにもおかしくない
0870人間七七四年
2014/05/01(木) 07:06:24.01ID:IHxYTrMq0872人間七七四年
2014/05/02(金) 17:58:21.49ID:XyY6Ocfd大坂夏の陣の時、前田勢も出陣して城門近くに攻め寄せたところ、城方からも
打って出てきた。城門の前で合戦となり、城方は強く、前田勢は三度追い立てられた。
その度ごとに隠岐一人は一歩も引かずに苦戦した。そのため味方はまた取って返して戦い、
最後にはこの攻口を前田勢は打ち破った。加賀守(前田利常のことか)は、
「この攻口を取り得たのは、本当に隠岐の武功によるものだ」と大いに褒め称えた。
この合戦の時、隠岐は敵兵と組み合って組み敷かれた。危うく見えたところに伴某が駆けて来て
「隠岐! 手助けしてやろうか!」と声をかけた。隠岐は組み敷かれてなお取り合いながら答えて、
「討つとも討たれようとも、これは私の勝負だ! 御身は御身の勝負をなされよ!」と言った。
そのため伴某はそのまま他へ駆けて行ったのだが、「隠岐は下に敷かれているから
働きは自由にならず、最後には討たれるだろう。彼が討たれてしまったならば私はその敵を
討ち取って隠岐の仇を報じよう」と思い、急いで隠岐のもとへ駆けて来たところ、
隠岐は敵の首を取って立ち上がるところだったので、大いに驚き感心したということである。
後年、太平の時代のこと。隠岐は夜分に道路に立って帯刀している者さえ見かければ辻斬りを行い、
白昼にも帯刀の者さえ見かければ喧嘩口論を仕掛け、あるいは傷を負わせ、あるいは斬り殺すなど
荒々しい所行ばかりしたとのことを家老衆が聞き、評議を行うとの内容を隠岐は伝え聞いた。
その日からニ、三日が過ぎて「御用があるので罷り出よ」との使いが来たので、隠岐は、
「さては切腹を仰せ付けられるのであろう。申し渡しは大方、家老衆であろうな。
切腹は主命であるから速やかに行うが、しかしただ一人で死ぬのも面白くない。
家老衆であろうとも、申し渡しなさる人を一人伴いにしよう」と覚悟して殿中へ出た。
刀ははるかに間を隔てて置いたが、指副(指添え。脇指)は腰から放さずに控えていた。
やがて横山山城守が立ち出て書付を取り出し読み上げた。「其の方は先年の大坂陣の折に
抜群な働き…」と読む半ばまでを聞くと、隠岐は腰の指副を取り、後ろの間へ遠く投げて
謹んで仰せ付けを承り、逆らわずに能登国へ流されたということである。
――『明良洪範』
0873人間七七四年
2014/05/02(金) 20:11:54.28ID:fvb0URI3いのちも知らぬ臣の道かな
0874人間七七四年
2014/05/02(金) 23:24:39.29ID:jU/LHzoBランボーを思い出したw
0875人間七七四年
2014/05/03(土) 13:18:08.75ID:eneZePcc過去の武辺は夢にスタローン
0876人間七七四年
2014/05/03(土) 20:26:42.82ID:e7QsL0hSおどけた茶会を出していた。彼は、初め号を如夢観と言っていたが、後に改めて丿貫とした。
一説に拠れば曲直瀬道三の姪婿であるという。
丿の字は、「人」と言う文字の片方だけであるので、『人に及ばぬ』という意味を表している
そうである。
(老人雜話)
丿貫さんいついてのお話
0877人間七七四年
2014/05/04(日) 07:58:42.14ID:lnSzv3gR玉置氏は太平記に登場する玉置荘司の子孫と言われており、居城・手取城の周りの領地は
3千5百石ほどの石高とされていた。(※徳川時代の検地では1万6千石ほどであった)
羽柴秀吉の紀州征伐が始まると、直和は秀吉への帰順を決意し、
徹底抗戦を叫ぶ舅の湯川直春や相婿の山本主膳と袂を分かった。
その結果直和は湯川氏に攻撃されたが、その後湯川氏も征伐軍に降ったので、
直和の地位も安泰かと思われた。
そして直和は新たに紀伊の領主となった羽柴秀長に挨拶するため、大和郡山城に赴いた。
秀長との対面では所領の石高を尋ねられたので、直和は3千5百石という
自分が知っている石高を返答したのだが・・・
その後、秀長が玉置氏の領地に対して検地を行ったところ、実際の石高は本人の申告よりもかなり多い事が判明、
これを知った秀長は玉置氏の領地を没収し、その上で直和には新たに申告通りの3千5百石を与えることにした。
直和はこの仕打ちに情けなさがこみ上げ、城を家臣の三十木右馬之丞に預けると、
高野山に上って剃髪してしまった。
ところが、ここで直和の境遇をを憐れんでくれた人物がいた。
秀長の兄・羽柴秀吉である。
秀吉は秀長に命じて、出家して千光院と名乗っていた直和を慰撫させ、
直和の方も、一時の感情で城を飛び出してしまったのを少し後悔していたので
高野山を降りて新封を受けることになったのであった。
その後直和は慶長4年に亡くなり、息子の小平太は関ヶ原・大坂と西軍についてしまったが
後に尾張藩に仕えることができたという。
「紀伊続風土記」より
太閤検地がらみで地方の領主が酷い目に遭うお話
秀吉自らフォロー入れて丸く収まってるので、一応いい話ってことで…
0878人間七七四年
2014/05/04(日) 10:16:56.22ID:gYXHuHPK0879人間七七四年
2014/05/04(日) 10:53:20.87ID:fX2fjI+L太閤様もこの頃の寛大さを最後まで保っていられたらよかったのに
0880人間七七四年
2014/05/04(日) 11:44:28.61ID:rTyi5c7F0881人間七七四年
2014/05/04(日) 12:13:56.96ID:bBTVdTLY0883人間七七四年
2014/05/04(日) 14:24:37.06ID:LcVWaVfl在地領主から所領を巻き上げるための検地じゃなかろーか
0884人間七七四年
2014/05/04(日) 14:59:35.46ID:eHCx+N3j地理的にしょうがないとはいえ、やっぱり酷い話では。
0885人間七七四年
2014/05/05(月) 18:00:53.12ID:wcJH7pzk天霧城は頑強に抵抗したが、多勢に無勢。いよいよ最期の時がやってきた。
之景は近習の森久右衛門を呼び出し、一人娘の姫を守って城を落ちのびてくれと頼んだ後に討死した。
主命を受けた久右衛門は、燃え落ちる城から姫と共に落ち延び、大見の宮脇で姫を守りながら隠れ住んだという。
つづく
0886人間七七四年
2014/05/05(月) 18:08:19.18ID:wcJH7pzk時は流れ、世の中もすっかり平和になったころ。
帰農した久右衛門は、行くあてのない姫を妻として娶り、農業を営む傍ら村の若者らに弓を教えて暮らしていた。
ある年の春、藩主の生駒高俊が大見へ鷹狩りに来た時、どうしたわけか鷹の足につけた紐が大木の枝にからまり身動きができなくなってしまった。
あまりに高い枝のため、弓で鷹の紐を切ろうという話になったが、殿さまの鷹に傷をつけては・・・と誰も名乗り出るものがいない。
御付の者が地元に弓の達者はおらぬかと庄屋に尋ねると、庄屋は森久右衛門のことを言上し、直ちに久右衛門が召し出された。
期待にたがわず、久右衛門は雁俣の矢でもって見事に紐を射切った。
高俊は鷹が戻ったことを大いに喜び、その後は上機嫌で観音寺へ狩りに出かけたという。
その年も押し迫った頃、庄屋を通じて久右衛門に高俊から褒美をとらすので希望があらば申し出るようにと沙汰があった。
久右衛門は未開の地を開拓したい旨を言上し、荘内の伊砂子庄を賜ったそうな。
0887人間七七四年
2014/05/05(月) 18:14:21.71ID:wcJH7pzk0888人間七七四年
2014/05/05(月) 19:53:18.99ID:OZ2pLUDk0889人間七七四年
2014/05/06(火) 08:54:51.71ID:y3SA7FAqまぁ、香川之景の娘は親和に嫁いでるし、
之景は秀吉の四国攻めの後は長曽我部にくっついて土佐に行ってるとか
この話、突っ込みどころが満載ですよね。
個人的には永禄のころに三好に天霧城を攻められて、
香川氏が讃岐から追い出された話とごっちゃになってるのかなと思います。
0890人間七七四年
2014/05/06(火) 12:56:48.23ID:Qfg5SQO+その後天正18年、蒲生氏郷の入部により再び改築が計画されることになった。
氏郷は最初、安芸の広島城を模して城を築こうとしていたが、
徳川家康と会うことがあった時にこの話に及んだ。
家康は築城に関して、
「おおよそ居城の大小については、城主の分限に関わることなので、予め論じがたいのだが、
大抵本丸を初め二の郭・三の郭は、塀・櫓ともに如何にも堅密にしておき、
また外郭においても、一の門・二の門と(それらにより形成される)升形は、
いざという時にすぐ作れるものではないから、予め設置して不測の事態に備えておくべきだ。
長塀の古くなった物は、いざと言うとき役に立たないから、外郭は土居・石垣のみにしておくのも悪くない。
必ずしも広島城のように外郭まで塀をめぐらしておくには及ばない。
それと、松永久秀が工夫して大和信貴山城に設けた多門櫓は、二の郭・三の郭に造っておくと一際便利なものだぞ。」
などと細かく氏郷に教えた。氏郷はそれを踏まえ、
文禄元年の夏より、大いに役夫を動員し築城を始め、家臣の曾根内匠らに命じ、
甲州流の縄張りを用いて内外の郭を築いたのである。
(新編会津風土記)
家康、氏郷に築城の心得を教えてあげる、というお話。
ちなみに孫の家光が完成させた江戸城の外郭には、八代将軍吉宗が撤去するまで長大な塀があったそうです・・・
0891人間七七四年
2014/05/06(火) 15:24:27.21ID:P5XHWXJH0892人間七七四年
2014/05/06(火) 19:40:14.89ID:EPE4j2wn小田原征伐の折、豊臣秀吉に内応し、豊臣の軍勢を小田原城内に引き入れる謀をした。
しかし、次男の松田左馬助(直秀)はこの計画を聞かされたものの、同心せず去ろうとしたので、
彼は座敷牢に監禁された。ところが左馬助は家臣の者と言い合わせ、具足箱の中に入って
脱出し、北条氏にこの事を伝えた。北条氏は左馬助に褒美として、即座に知行を与えた。
松田尾張守は大身であり、籠城の持ち口(担当箇所)は非常に広かったが、この事件により
混乱し、そこを豊臣軍は攻め立てたそうである。
北条氏の降伏後、豊臣秀吉は黒田如水に命じて、松田左馬助を誅殺するように命じた。
ところが如水は「松田を殺すのですね」と、秀吉に内応した松田尾張守と笠原新六郎を
誅殺した。
秀吉はこれを知ると激しく如水を叱責したが、如水は「聞き間違えてしまいました。」とのみ
答えた。その後、如水に特別の処罰もなかった。
この事は黒田如水、一生の勝事であるとされている。
生き残った松田左馬助は後に加賀大納言(前田利家)に仕え、五千石を所領した。
そして最近亡くなったそうである。
(老人雜話)
黒田如水、聞き間違えて殺す、というお話。
(老人雜話)
0893人間七七四年
2014/05/06(火) 20:03:11.85ID:/FPUqS+Cそんな如水さんのいい話?を聞いて後藤又兵衛が「君主はかくあるべき」とか言ってました
息子は川に落ちてた
0894人間七七四年
2014/05/06(火) 22:08:09.65ID:ZwFfFYie0895人間七七四年
2014/05/06(火) 23:37:31.30ID:ewXniT8Z北条氏直へ訴えたので、叛逆が露見して父子ともに閉じ込められた。
その後、和談によって開城の時、豊臣秀吉は黒田如水に、「松田の次男左馬介は、
父を訴えた者であるから誅し申すべし」と命令した。すると如水は間違えた振りをして
惣領の新六郎を殺し、左馬介を助けた。
これを聞いた秀吉は「どうして新六郎を殺したのだ。左馬介は我に忠のある尾張父子を
氏直へ訴えた憎き奴だから殺せと申し付けたのに」と言った。
これに如水は「それがしが承り違えたのは不調法でした。しかしながら、新六郎は譜代の
主人に背いた者なので武道に欠け、先祖の面まで穢したのですから、忠孝ともに無き
無道者です。左馬介は父には背きましたが、主人には忠のある者です。ですから左馬介と
取り違えて新六郎を殺してしまったからといって損とは申されますまい」と申し上げた。
秀吉はこれを聞いて「またちんばめが空とぼけをした」と言い、左馬介はそのままにした。
この如水の取り計らいを皆が褒め称えたということである。
――『明良洪範続編』
0896人間七七四年
2014/05/07(水) 00:01:51.97ID:3uBS/IGEいまからおよそ400年前安芸国城主・福島正則の家来に可児才蔵という槍の名人がいました。
ある夏洪水で堤が切れ、川水が城の濠に溢れ、城の石垣をだいぶ壊しました。ほってはおけないので正則は、
すぐさま石垣の修理にかかりました。
ところが幕府の許しを得ていなかったので正則は幕府に咎められ、安芸国から追われることになりました。
しかし、幕府の処置を恨みに思った可児才蔵ほか六十人の侍は、矢賀の小さな城に立て篭もったまま動こうとはしませんでした。
それを知った新しい城主・浅野長晟は家来に命じ矢賀の城を攻めさせました。
その兵が城の石垣を登りはじめると才蔵たちは石垣の上からグラグラと煮えたぎったみそ汁をぶっかけました。
そのため兵たちをヤケドさせられました。
そこで、浅野の殿様は今度は兵糧攻めにしようと、幾日も城をとりまきました。段々と貯えを失ってきた時、
才蔵はひとつの思案を立てました。
それは、城山のお地蔵さまに笹の葉を供えそれに味噌と米をのせておけば、どんな願い事も叶えられるという噂を
近郷近在に流すことだったのです。
城の者はかわるがわる忍び出て、その噂をふりまいて歩きました。その噂は噂をよび、城山のお地蔵さまには次々と
味噌や米が供えられました。●ヽ(゚∀゚)ノ● ウヒョー ! ミソイタダキマース
こうして、才蔵たちは長い間、城を支えることができ、篭城の侍たちは、何処へともなく落ちのびることができました。
地元の人たちは、やがて可児才蔵を真言寺に祀りそのお寺を才蔵寺と名付け、お地蔵さまはそのお寺の境内に移し「みそ地蔵」、
可児才蔵を「笹才蔵」と呼ぶようになったそうです。
このみそ地蔵には、いまは多くの受験生がお参りし、みそ玉をお地蔵さまの肩に供えています。「ミソをつける」肩代わりをしてもらったり、
お地蔵さまの脳みそを借りたりするためなのだそうです。
福島正則改易は一応可児才蔵死後の話ではございますが・・・彼も修羅道に堕ちた武田光和同様、主君の災難に迷って出たのでしょうか?w
0897人間七七四年
2014/05/07(水) 01:54:43.27ID:6sn+TDjP立花山麓にある曹洞宗の古刹梅岳寺
立花道雪の墓所である
中央に母養孝院の墓所、右に道雪、そして何故か左に一回り小さな異名の墓石
主君から恩賞として死後も使えることを許され同じ墓所に葬られた
名を菰野増時という
0898人間七七四年
2014/05/07(水) 02:12:41.79ID:6sn+TDjP福岡県の現在地名だと新宮あたり
柳川立花藩改易後黒田に使えた理由の一つだとも
地味だけど忠誠が高い九州武将の典型だと思う
0900人間七七四年
2014/05/07(水) 10:58:13.63ID:OSlMwJ060901人間七七四年
2014/05/07(水) 11:39:18.33ID:ACb3rfpI0902人間七七四年
2014/05/07(水) 15:11:16.23ID:Emd4X/5xなので歌関連の逸話をリクエストします
0904人間七七四年
2014/05/07(水) 23:37:07.24ID:3uBS/IGE1524年、甥幸松丸の急死により毛利元就は毛利家の家督を継いだものの、それを危惧する尼子経久と亀井秀綱の策に乗って
元就に叛意を抱いた異腹弟の元綱を殺害。
以後も尼子に従いその要請で大内家に攻められた尼子方の仇敵・安芸武田氏を支援する物のその心の内は反尼子に大きく揺らいでいた。
1525年、毛利元就は先年武田氏の銀山城にて自らの夜襲策で撃破、撤兵させた大内家の家老、陶興房の説得に応じ尼子方より大内方に鞍替えする。
これにより、安芸の国の形勢は大内側に大きく傾くこととなる。
1529年、毛利元就は亡き甥で先代の毛利家当主、幸松丸の母方の実家である石見高橋家を攻略。
また、これ以降尼子方の安芸武田氏傘下であった熊谷氏や、先々代興元以来の長年の敵であった宍戸氏や天野氏などと縁組・調略し、
隣国備後の多賀谷氏を降伏させるなど徐々に安芸を束ねる国人衆の筆頭格としてその勢いを高めていく。
1540年、尼子家の家督を継いだ尼子晴久はこれ以上の毛利の台頭許すまじと、3万の兵を持って毛利家の居城、吉田郡山城攻略の兵を出さんとす。
これはその数年前のある日のこと・・・。一人の男が吉田郡山城の門を叩いた。男の名は内別作(うちわさ)助四郎。
尼子晴久の側近く使えた者だが、勘気を蒙り尼子家を出奔してきたと言う。
(つづく)
0905人間七七四年
2014/05/07(水) 23:41:21.60ID:3uBS/IGE元就は内別作を家臣として雇い、自らの近臣として用いることにした。
だが、実の所内別作はかつて尼子経久が三沢氏に送り込んだ山中勝重同様、偽りの出奔であり
その役目は毛利の様子を探る間諜であった。そんな内別作を側近く用い続ける元就。
そんな中、いよいよ尼子晴久が吉田郡山を攻めると言う不穏な噂が流れる、元就は家臣らを集め軍議を開く。
その席上、元就はこう言った。
「晴久が甲山(かぶとやま)に陣をしいてくれればええんじゃが…もし三猪口(みえくち)に布陣されでもしたら、防州への通路を断たれてしまい、
わしらはどがぁもできんようなってしまう…ほしたら、一日どころか半時と持たん。ここを捨て、大内を頼り山口にでも逃げにゃならんのぅ・・・」
その翌日、内別作は吉田郡山から姿を消した。さては尼子の間者であったかと家臣は大騒ぎとなった。
しかし、当の元就は一人「さてこそ軍は既に勝ちたり(これで勝ったも同然)」と、大喜びであったと言う。
と言うのも もし甲山から城を見下ろされるような形になればどうにもならないが、三猪口は平地であるから、敵が大軍であっても容易に戦えると。
(先の軍議の時、内別作以外の旧来の家臣は甲山に陣敷かれたら上から丸見えだし、逆じゃね?と、思っていたが殿には何か考えがあるのだろうとその言葉に従ったとも言う。)
そして1540年(天文9年)8月、先のとおり尼子晴久は3万の兵を率いて吉田郡山城へ出兵。元就が軍議で危惧したとおり、尼子勢は三猪口に布陣したところ
元就と駆けつけた陶隆房(後の晴賢)、杉隆相、内藤興盛ら大内からの援軍に散々に打ち破られ退散したと言う。
0907人間七七四年
2014/05/08(木) 06:30:40.14ID:VK3LLf/Mとって大事な戦でしたからね…しかも何の因果か出兵前には将来自分の死地となる厳島で
戦勝祈願もしてると言う…
0908人間七七四年
2014/05/08(木) 07:23:52.27ID:bLpvlG+u0909人間七七四年
2014/05/08(木) 18:35:41.05ID:O8SFodjS後年、前述の甲斐守(本多政朝)が死去した時、前述の男子(本多政勝)は当時は
内記といったが、甲斐守の家督を相続した。だから系図では出雲守忠朝の孫に当たるが、
実は忠朝の嫡子であるから、父の家督を継いだのである。
しかし、忠朝以来五万石のところをこの度四万石にされ、残り一万石は一家の
能登守忠義へ加増されたので、忠義は五万石になり、政勝は四万石であった。
その頃の御定めでは五万石以上は乗輿、それ以下は馬上である。それが理由なのか、
政勝は四万石を受けなかった。一家の衆中は、
「たとえ一万石減るとしても、父の跡を継ぐのですから四万石をお受けするべきです」
と言ったが、政勝は承知しない。そこで細川越中守忠興を頼り、忠興が意見に及んだ時、
政勝は「父の出雲守忠朝は五万石の軍役を勤めたのに、私は五万石の軍役を
勤められないことの残念さにより受けないのである」と言った。これに忠興が、
「もっともな所存ではあるが、お受けしない時には本家に迷惑の事が起こるであろう。
分家の身で本家へ迷惑をかけては孝悌の道ではない」と言ったところ、政勝は、
「孝悌の道と仰せられるのならば、さっそく四万石のお受けをいたそう。しかしながら、
今も申した通り、父出雲守忠朝の通りに五万石の軍役を勤められないことが残念だ」
と言い、歯噛みをして落涙した。
すると忠興は政勝を褒めて「あっぱれ出雲守殿の子息かな。いつでも御身が出陣の折には
私めより弓、槍、鉄砲の人数どもを一万石だけ加勢するので、五万石の軍役を勤められよ」
と言ったので、政勝は大いに喜び、
「貴殿の御一言で私めの胸中は開けた。本当にかたじけない。一万石の軍勢のことを
なにとぞ頼み奉る」と言い、それから四万石をお受けして、公辺滞りなく家督のことは
済んだということである。
――『明良洪範続編』
0910人間七七四年
2014/05/08(木) 22:32:11.40ID:VK3LLf/Mまぁ忠勝以来、譜代きっての侍大将って誇りから来てるんだろうけれど。
0911人間七七四年
2014/05/09(金) 08:33:46.13ID:TQg1iug6武の家ではなおさらそんな風には思わんか
0912人間七七四年
2014/05/09(金) 10:03:43.96ID:tFfucZBG二備を編成できる司令官格の5万石じゃ大違いだから父ちゃんと一緒がいい!ってことなんかね
0913人間七七四年
2014/05/09(金) 21:27:01.72ID:2LcYOYIAそのため忠興は一万石を投げ与えた
0914人間七七四年
2014/05/09(金) 21:29:01.90ID:lnEBJtU6「私が今、死に臨んで残念なことが3つある。
一つは我が母に先立って死することだ。これは不孝である。
二つには、嫡子忠之が現在弱冠であり、歳が長じて国を治めることを見ること無く死することである。
三には、私は幼年の頃から戦をし、関が原に至るまでその功は多かった。
しかしその間小身であり、大軍の将にはなれなかった。その上若年でもあり、合戦についての
知識や経験も未だ熟していなかった。
それ以来、兵に将たる工夫も熟し、特に、その後大国を賜ったため、現在は2万の士卒の将となった。
これを普段からよく調練し、また戦に臨むため節制も厳粛にしており、軍の進退左右は、必ず心のまま
自由に出来るようになった。
私はこの士卒を使って、合戦を試みたかった。
この他には、浮世に思い残すことはないよ。」
長政の辞世の句は以下のものである
『 此ほどは うき世の旅にまよひきて
いまこそかへれ あんらくの空 』
(黒田家譜)
0915人間七七四年
2014/05/09(金) 21:39:51.27ID:EYi172T80916人間七七四年
2014/05/09(金) 22:03:20.09ID:vmnPPJrr0917人間七七四年
2014/05/09(金) 22:05:03.71ID:J9T9xBoQ0918人間七七四年
2014/05/10(土) 11:50:26.30ID:lPphQj1h部屋を出て行った後で
0919902
2014/05/10(土) 12:36:57.08ID:ht7X0ODI素晴らしい歌です
0920人間七七四年
2014/05/10(土) 23:48:43.24ID:VaD36Z1o1541年1月、尼子晴久率いる3万の軍は毛利元就の居城、吉田郡山城攻略を諦め撤退。
これを受け、同時期に杉隆宣・内藤隆時の大内軍と小早川興景などから攻撃を受けていた尼子傘下の頭崎城(現在の東広島市)の平賀興定は大内氏に降伏。
現在の広島市周辺を支配していた尼子傘下の安芸武田氏居城、佐東銀山城の城主・武田信実と尼子の援軍の将・牛尾幸清は出雲へ逃亡(1年ぶり2度目)。
佐東銀山城には武田一族の武田信重と守備兵僅か300が残るだけとなり、
厳島と対岸の桜尾城(現在の廿日市市)を乗っ取り蜂起した厳島神主家も大内氏の攻撃を受け滅亡。
安芸における尼子の勢力は風前の灯となったのであった。
1541年5月、大内義隆は安芸を完全に掌握する為、毛利元就に佐東銀山城攻略を命じ、大内軍は武田傘下で隣接する安芸府中を支配する
白井氏を攻略すべく兵を出す。
かつて、大内の名将・陶興房と初陣の大内義隆が1万5千の兵で囲みながら落とせなかった堅城・佐東銀山城であるが、その時城を守った猛将・武田光和は
1539年に急死し、武田有力家臣の品川左京亮と香川光景は武田の後継と大内との抗戦か講和かを巡って内輪もめを起こし、品川に居城八木城を攻められた
講和派の香川は「終わりやね、武田も終わりやね」と、大内に鞍替えし、かつての同僚である熊谷氏らに援軍を要請。
これに敗れた品川一族は逃亡。新たな武田当主として城に入った、武田信実も一時逃亡。
この後、吉田郡山攻め前に牛尾率いる兵2000と共に帰って来たものの、先のとおり尼子の吉田郡山攻めが失敗すると再度、出雲へ逃亡。
もはや武田家の崩壊は誰の目にも明らかであった。
0921人間七七四年
2014/05/10(土) 23:49:51.84ID:VaD36Z1o半年に渡る篭城戦を終えたばかりの毛利元就が動員できる兵力も戦に継ぐ戦でそう多くは無い。
主家よりの命令とはいえ徒に兵を損ねる訳にも時間を掛ける訳にもいかぬ。
元就は二つの策を立てた。先ず、城を正面切って大手門の東側から攻めるのではなく搦め手の安(現在の安佐南区上安、銀山城の北西側)より攻めること。
ただ、安の側にある長楽寺は武田家と通じており、ここから兵を進めようとすれば長楽寺が鐘を鳴らして城側に通報し、城兵が駆けつける。
先ずはその調略を行う毛利方であった。
毛利からの説得を受け、事ここに及んではと長楽寺も城側への通報を行わぬことを約束。
そして、念には念を・・・と、元就が講じた二つ目の策。近隣住民に千足の草鞋を作らせ、それを油に浸し、城攻めの前夜、闇の深い日に
火をつけて城の正面を流れる大田川へ流すのであった。
これを見て篭城軍は毛利は正面から攻め寄せてくると、戦力を大手門に集中させたのであったが、これこそ元就の狙いであった。
こうして正面からではなく、搦め手から攻め込んだ毛利軍は佐東銀山城を落とし、最後まで城に残った、武田信重は切腹。
同時期に安芸府中を攻めた大内軍も白井氏を倒し、これにて安芸の反大内勢力はほぼ一掃されたのであった。
なお、この時元就が千足の草鞋を流したことに由来する地名が、大田川対岸の広島市東区戸坂に「戸坂千足」として残り、
大内軍が越えた広島市東区中山から矢賀、山根町などに続く道を「大内越峠」(おおちごだお)として今も残っている。
0922人間七七四年
2014/05/11(日) 14:59:55.51ID:OhM2QlzQ0923人間七七四年
2014/05/11(日) 16:00:37.05ID:U01MixHc0924人間七七四年
2014/05/11(日) 16:05:31.32ID:VzABPf400925人間七七四年
2014/05/13(火) 14:21:20.22ID:QQRWsxBS0926人間七七四年
2014/05/13(火) 19:43:55.67ID:3t5XuoUG黒田如水は中津川から上方へと参勤の途中、丸亀に立ち寄った。
生駒親正は大いに喜び、如水に「高松の山は、築城に適した土地かお見立てしていただきたい。」
と熱心に頼んだため、如水は高松に行き城地を見聞することになった。
高松の地を見た如水は、「非常に良い城山だと思います。」と答えた。
ところがこの高松から半里ばかり西南に、石清尾という山があった。この山は、横幅は十町あまり、
長さは半里ほどもあり、これが高松に近かったため
「あの山は、高松の要害のためには悪しきものではないでしょうか?」
と、生駒親正は尋ねた。しかし如水
「あの石清尾山があるからこそ、高松は良き城になると私は考えます。
石清尾山は、この高松の城のために、味方千騎の強みとなるでしょう。
何故かといえば、この城の一方は海ですから、そちらから敵が寄せ来ることはありません。
そして石清尾山があれば、敵が大軍で押し寄せてきたとしても、道を狭くし不便でありますから、
これは敵の害となります。すなわち、味方の利となるのです。」
おおよそ軍のために地の利のある所を要害というのは、味方のために宜しき要地であり、かつ
敵のために害ある所を言うのだから、それはここに出ている高松のような地なのである。
(黒田家譜)
黒田如水、生駒親正にアドバイスをする、というお話。
0927人間七七四年
2014/05/13(火) 20:02:17.15ID:voaUdy0i0928人間七七四年
2014/05/13(火) 21:00:21.74ID:DfE9uIi20929人間七七四年
2014/05/13(火) 21:20:44.43ID:bUouYEIfそれ程認識されてなかったんじゃないの
0930人間七七四年
2014/05/13(火) 21:48:30.01ID:4hgn4ZEr大砲はいいとして城内が俯瞰出来る山の近くに築城するのは駄目だろ。
http://i.imgur.com/a3kMZXg.jpg
0931人間七七四年
2014/05/13(火) 22:55:55.59ID:A3ljeNf4まあ、>>926の話の後に別の場所に築城するのもなかなか勇気がいるがw
0932人間七七四年
2014/05/13(火) 23:27:16.65ID:cPR4X3bD0933人間七七四年
2014/05/14(水) 01:02:20.95ID:qKg88vb0その夜、高虎は数人の侍臣に酒を振る舞い、賑わしく過ごしていたが、話の半ばに至って
突然黙りこみ、じっと耳を傾けているふうであったが、やがて座を立ちひらりと庭に飛び降りた。
皆は驚いて立ち上がったが、高虎は振り向いて手を振ってこれを制し、そのまま足を進めて
暗い庭を、向こうの堀際まで進んだ、と思う頃、「バサリ」と太刀音が響き渡り、同時に
「燈火を持ってまいれ!」と、高虎の大声が響いた。
侍臣たちは応と答えて手燭を持って駆けつけると、そこには年頃40ばかりの大男が、
袈裟懸けに斬られて倒れていた。
高虎は笑って「酒の肴をしたぞ」と言いながらとどめを刺した。
夜が明けてこの大男の詮議をしたが、結局それがどこの何者なのか解らぬままに終わった。
しかし『曲者が忍び込んだのをただ一人早くも察知し、一刀に斬って捨てられた武運の強さよ』と、
この話を聞く者、高虎の武勇に感じないものはいなかったという。
(西島八郎兵衛留書)
0934人間七七四年
2014/05/14(水) 03:41:10.57ID:NdIVTJAJ0936人間七七四年
2014/05/15(木) 03:29:34.65ID:8HMDW4Yy「森を越えてくるやつなんていないだろ」とたかをくくって他の場所を固めてたら、
森を越えてきたのであっさり突破されたなんてことが20世紀にもあるんだっけ
「海を封鎖できない地形だから山から攻めてきたって大丈夫へーきへーき」とか、
俗に言う「英国面」に近いような実験的城郭だな
0937人間七七四年
2014/05/15(木) 03:44:59.88ID:sxvNzCY90938人間七七四年
2014/05/15(木) 05:42:56.12ID:8QFvCNjS神指に巨大城郭を建設して移転を目指したけど関ヶ原後の転封で頓挫。
鶴ヶ城は弱点を残したまま戊辰戦争に突入して山から撃ち込まれるアームストロング砲の砲弾の餌食に
0939人間七七四年
2014/05/15(木) 10:16:26.41ID:noHdHLZD弱点を残したままっていうけど、200年以上間開いてるからね…
0940人間七七四年
2014/05/15(木) 19:30:47.88ID:d/WLyF/q「一国一郡を守る身は言うに及ばず、人というものは、育ち方次第でよくも悪くも成るものなのだ。
生まれついて善意のあるものは、老功の者に頼って、弓矢のことは勿論、その他一切の良きことを
聞くことにより、次第に行儀よく、万事に巧者となるだろう。
人は大小によらず、7,8歳から12,3歳までの教育が重要である。
大名の子ならば、この間よき大将の行儀作法を語り聞かせ、育てることが良い。
小身なるものは、この間に大剛の者の武勇の働きを、後先詳しく解説し、うつけなる事を
しなくなった事なども語り聞かせるのが良い。
総じて、人の心に12,3歳の時に聞き入れて植え付けられた事は、一生の間忘れないものだ。
そしてそれは、谷水が川の水となり、川の水がやがて海の水と成るように、人の知恵も、
若輩の時聞いたこと、覚えたことが、歳が積もるに従って次第に広大なものとなっていくのだ。
良い事を聞き入れた心が広大になれば、善人となり、
悪事を聞き入れた心が広大となれば、悪人と成る。
善悪共に聞き入れるのが大将である。なので良き家臣を持てば良将となるし、悪しき者を持てば悪将となる。
小名であれば傍輩の善悪によって、よくも悪くも成るものである。
14,5歳より後は、女人への欲への嗜みを持てば人となるものだ。これは我が心にある理屈の例である。
(武道心鑑)
0941人間七七四年
2014/05/15(木) 19:47:52.48ID:vOlTs5C70943人間七七四年
2014/05/15(木) 21:45:40.01ID:0N9ciUbJ0944人間七七四年
2014/05/15(木) 21:50:49.16ID:rzRQx/J1を自藩にも適用して、戦時に備えるように増築しなかったんだよ
0945人間七七四年
2014/05/15(木) 23:28:39.58ID:CNMCzctp>「江戸城天守閣は平時には不要」
むしろ逆だろ、。天守は戦争時にこそ不要。
天守が大砲の的にしかならない事は大坂の陣
で既に証明されていた時代で、もはや
権力の誇示以外に用途が無く
全国を完全掌握している幕府には不要だから
建設中止したんだろ。
0946人間七七四年
2014/05/15(木) 23:36:06.63ID:qcwPZd5N0947人間七七四年
2014/05/16(金) 01:35:21.95ID:+rdtw0gN0948人間七七四年
2014/05/16(金) 07:26:23.92ID:iS81qeh10949人間七七四年
2014/05/16(金) 14:42:54.98ID:LFreK7Fjあと天守とは直接関係ないけど下見板張りとか。
漆喰塗りは雨で傷むから頻繁に塗り直さないといけないが、代わりに墨塗りの板張っとけば長持ちするし換えもカンタンなので大いに流行った
太平の世は黒いお城を沢山生み出したって事だな
0950人間七七四年
2014/05/16(金) 14:55:45.77ID:tu+KmwW40951人間七七四年
2014/05/16(金) 19:28:55.91ID:jJk/7/vh或夜の話の中で、高虎はこのように言った
「将軍様であっても、計算の心得は必要欠くべからざるものです。何故ならば、日本各国の
知行高、および戦時の出師人員、食糧弾薬の貯蔵高等も、詳細にご承知あらねばなりません。
もしそれを知らず、事実と相違した上意を仰せだされることなどあっては、人々はそれを聞き伝えて、
将軍の無能を謗り笑い、為にご威光を損ずるに至るであろうと存ずるのです。
ですので、将軍がお心得合ってしかるべき諸統計の概要を書き連ねて、差し上げます。」
そうして高虎は家臣の西島八兵衛に制作させた統計を、将軍に進呈したのである。
(木旦子集書)
藤堂高虎、家光に数字の大切さを説く、というお話し。
0952人間七七四年
2014/05/16(金) 19:46:54.45ID:3xZPkeM0とか言う人が出てきそうな話だね。こういう考え方の違いも面白い。
0953人間七七四年
2014/05/16(金) 19:52:11.73ID:LfJwtT990954人間七七四年
2014/05/16(金) 22:01:26.54ID:1pYOc0z4豊臣政権時の城は黒い天守が多く、徳川政権時の城は白い天守が多いのって、
単なる流行りというかブームだと思っていたけど、軍事的な理由もあったんだな。
当たり前と言えば当たり前だがw
>>952
陳平「スレ違いだけど、呼ばれた気がしました」
0956人間七七四年
2014/05/17(土) 04:56:26.40ID:eKCXPg0b一気に広まったらしいね。
0957人間七七四年
2014/05/17(土) 05:09:52.53ID:tKRx9nzQ手間とお金がかかるものだったからだれもやらなかったけど
それを富と権力の象徴として秀吉は白漆喰の聚楽第を作った
と何かの番組でやっていたよ
0958人間七七四年
2014/05/17(土) 05:16:38.53ID:pciLv0NI山形城なんかは維持費出せなくてとんでもないボロ城になってたような
0959人間七七四年
2014/05/17(土) 10:34:45.74ID:XWf9Iihiその気持ちにおいて真心で仕えているのならば、とくに目をかけてやり愛憐の心で扱ってやらねばならぬ。
また勇気に乏しく、か弱い者であっても、威儀を正して仕えようとするならば、
これもまた真心があり、いずれ何かの役に立つ侍であるから、人並みに扱ってやるべきであろう。
ところが、悪い点だけで、どこにも良い点のない者は、
目をかけていたわっても、或いは人並みに平等に扱ってやったとしても、到底、無駄と言うしかない
(朝倉敏景十七箇条)
0960人間七七四年
2014/05/17(土) 10:49:18.39ID:aF8fyasC0962人間七七四年
2014/05/17(土) 18:39:02.56ID:pciLv0NI本丸 櫓四つ・門三つ大破
二の丸 櫓二十・門四つ大破
三の丸 門・石垣・土居塀・堀・惣郭(城全体)大破
(山形城取縮修覆之覚・明和六年八月)
これに加えて、秋元氏が入る前の幕領時代に三の丸の武家屋敷も大規模に破壊されていたらしい
一体何が残ってたんだか
0964人間七七四年
2014/05/18(日) 20:58:30.33ID:Wh8Oshglこの時、森石見が湯灌の任にあたった。後に石見は、この様に証言した
『高虎公の体は、隙間もないほど一面の傷痕で、鉄砲傷も有れば槍傷もあった。
右手の薬指と小指とは尖端が切り取られていて、爪がなかった。
中指は一寸ほど短かった。
右の足の指も、爪の生え際から先がなかった。
右手の指の腹が、節立ったように、豆がいくつとなく出来ていた。このため老後になると、
指の屈伸が頗る不自由になられたということだ。これは戦場で、我知らず鞍壺を叩かれたためであろう。』
(平尾留書)
高虎の死骸を湯灌した家臣による、その証言である。
0965人間七七四年
2014/05/19(月) 13:03:10.26ID:RmZv/bAd0966人間七七四年
2014/05/19(月) 15:47:22.45ID:g9BlCQ8s0967人間七七四年
2014/05/19(月) 15:53:49.78ID:hRKq4ClM0968人間七七四年
2014/05/19(月) 19:29:38.47ID:VEUi/lf+次の日、目付けの役人たちが色々と調べると、どうも藤堂家中の何者かの仕業であるらしい、
ということになった。しかし犯人を突き止める方法がないので、役人たちの評議の末、家中の
者達が所持する投網を残らず差し出させ、そのうち一番最近に、網に防水のための渋を引いた物を
証拠として、犯人を突き止めよう、ということとなった。
ところが、これを聞いた家中の投網を所有する者達は、出漁したか否かにかかわらず、
尽く皆、渋を引いて網を差し出した。このため取り調べはかえって困難となり、役人たちは
大いに困り果てた。
藤堂高虎はこれを聞いて、内心かえって快く感じられたのか、役人を咎めようとせず、
犯人を早く見つけろなどとは尚更言わず、そのままに捨て置いたそうである。
(洞津遺聞)
0969人間七七四年
2014/05/19(月) 19:34:30.54ID:UHRAj7wz0970人間七七四年
2014/05/19(月) 19:34:50.40ID:4N12hM7m0971人間七七四年
2014/05/19(月) 20:07:52.49ID:cMxPPJsr0972人間七七四年
2014/05/19(月) 20:40:18.90ID:+ccnCx4a0973人間七七四年
2014/05/19(月) 22:15:27.79ID:OLEVOr5b元和8年(1622年)4月に起こった、宇都宮城釣天井事件。
宿泊予定の宇都宮城の普請に不備があると聞いた秀忠が、御台が病気なので帰ると理由つけて江戸へ急遽帰還。
あまりにも急な帰りやその後の経過を見て、色々尾ひれがついたこの話。
御台が病気だというのは、不信に思った秀忠がでっちあげ嘘とよく聞くが、
実はこの時お江さん、本当に病気で臥せっていたらしい
この頃は家光の嫁探しや、江戸城本丸の天守閣築造を含む大工事が実施されており、
江戸城内で過ごしている人達も引っ越しなどで慌ただしかった。
病にかかったのはいつ頃かは不明だが、5月頃に少し回復したのでそれを期に秀忠と共に西の丸に移動。
しかしまたも病が再発し、9月に予定していた本丸移徙も延期となる。
10月に朝廷の内侍所において臨時神楽を奏して江の病気平癒を祈らせている秀忠。
それが功を奏したのか11月頃にようやく回復し西の丸から本丸へ移ったそうな。
こう見ると宇都宮から江戸へどこも観光などせずダッシュで帰ったのは、
秀忠がお江さんを本当に心配にして帰ったのではと感じる。
0974人間七七四年
2014/05/19(月) 22:25:43.71ID:Lcck0UmS【テレビ】戦国武将・藤堂高虎、人気じわり・・・大河ドラマ誘致気運高まる NHK「非常に作りがいがある」「企画のリストの中に入っている」
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1400486334/
0975人間七七四年
2014/05/20(火) 00:03:46.95ID:JesdULt1中間六右衛門だった。
大隈城主の後藤又兵衛は中間と懇意で、たびたび訪問する仲であった。
街道筋から城下へ向かう途中の橋は、「後藤一本橋」と呼ばれる。
重臣同士が仲良しで密会しまくりって、大名には怖いわな。
0976人間七七四年
2014/05/20(火) 00:12:50.53ID:W29iPA9Q0978人間七七四年
2014/05/20(火) 00:41:46.39ID:VByEoAZE0979人間七七四年
2014/05/20(火) 00:53:17.41ID:RQzUvNlV0982人間七七四年
2014/05/20(火) 01:13:19.19ID:MRCXSsdW何度も主人を変えた無節操な奴ぐらいの認識だ。
江戸時代の忠義の理念と企業の終身雇用制の元では日の目を
見ないかった高虎だけど、めまぐるしく変化する国際情勢や終身雇用制
の崩壊などを考えると時代のニーズと高虎は合致している気がする。
0983人間七七四年
2014/05/20(火) 01:38:26.92ID:vbFNPYwbそれを不忠と言われてもなぁ
勤めている会社が倒産したから再就職しただけなのに
倒産した会社見捨てて他に行きやがったと言われても
仕えている時はちゃんと仕事しているんだから普通に立派だと思うけど
0984人間七七四年
2014/05/20(火) 01:52:28.14ID:JesdULt1倒産した時だけじゃないじゃん?
主君の死に対して出家したあたりは十分忠臣の行動だから、
やっぱり「無節操」って言葉が間違いで、単に忠誠を尽くす相手を
探してただけなんだね。
>>982が言うように現代に合わせられるのも大きいけど、戦国時代は
渡り奉公が普通に認められてたことを啓蒙するチャンスでもあるね。
0986人間七七四年
2014/05/20(火) 02:05:11.30ID:AMyBCs8s0988人間七七四年
2014/05/20(火) 09:19:06.19ID:mfECj0EZ0989人間七七四年
2014/05/20(火) 09:21:17.38ID:mfECj0EZ戦国ちょっといい話40
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1400545233/
0990人間七七四年
2014/05/20(火) 09:34:23.37ID:4tJn1kcY0991人間七七四年
2014/05/20(火) 21:16:06.85ID:mfECj0EZ侍は、首を取らずとも不手柄とは言わない。事の難にあたって、退かず、主君と枕を並べて討ち死にを遂げ
忠節を守るものをさして、さむらいと申すものなり。
義理、恥を知らぬ輩は、物の吟味をしないゆえに、幾度もの首尾があっても、一つも床しいとは思えない。
禄を持って招く時は、譜代の主君を捨てて二君に使える輩が出てくるものだ。
そもそも、心というものは物に触れて移ろいやすいものなのだから、仮初にも、侍道の外を見ず聞かず、
朝夕身を修練し、武芸を心がけ学問するとも、忠義大功を聞き、兜の緒を締め、槍長刀太刀を提げ、
天下の難儀を救わんと志す。それこそが、侍の役割なのだ。
(本多中書家訓)
本多忠勝の「侍論」である。
0992人間七七四年
2014/05/20(火) 21:18:52.53ID:GXKdwK5m0993人間七七四年
2014/05/21(水) 00:18:44.84ID:uAXR+aFK0994人間七七四年
2014/05/21(水) 02:54:22.17ID:Vvd/2ByB0995人間七七四年
2014/05/21(水) 11:06:05.75ID:apf+YihX0996人間七七四年
2014/05/21(水) 12:27:07.73ID:avQZE43r0997人間七七四年
2014/05/21(水) 20:53:58.77ID:sHA1slqc0998人間七七四年
2014/05/21(水) 20:58:05.20ID:f30MqTxXさあ埋めた埋めた〜
0999人間七七四年
2014/05/21(水) 21:37:53.68ID:CcSkZeC01000人間七七四年
2014/05/21(水) 21:40:24.91ID:bmsgXC7A10011001
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