>>530
一次侵攻
 永禄十一年12月、駿府方面への侵攻
 薩た峠の戦いが発生した軍事行動(薩た山の戦いと呼ばれることもある)
 結果として氏真らが掛川へ逃亡
二次侵攻
 永禄十二年6月、駿東方面への侵攻
 駿東の今川派残党や北条への牽制行動
 特筆すべき大規模な合戦は無し
三次侵攻
 永禄十二年12月、駿府方面への侵攻
 昨年の駿府掌握は一時的なものに終わり(北条軍の介入もあった)、再制圧に出動
 掛川から帰還していた氏真は駿府での抵抗をあきらめ、駿東に逃れる

鴨川氏とやらは、ここで言う三回の出陣を一纏めにしてしまう大雑把な扱いをしたか、
あるいは対象が駿府方面ではなかった二次侵攻を計上しない粗忽者なのか、
判然とはしないが、
1.三次侵攻をもって武田による駿河支配が確立したという前提は、正しい
  その作戦の総指揮を執ったのは信玄であり、勝頼ではない
2.>>530は言葉尻を捉えて相手を蔑もうと試みているが、
  壮大な自爆しか結果を出せない真の間抜けである

結論が出たな