秀吉は三成や小西や大谷に大版図やるべきだった
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0001人間七七四年
2013/12/09(月) 23:31:02.19ID:Ts49pmxk家康の示威行動に対してビビリまくり攻められてもいないのにヘタレ降伏する前田や浅野
総大将として積極的に決起を行いながら、中核となる軍隊をどうでもいい方向に分散させまくり
奉行衆らの美濃方面への防衛要請も無視して、結果徳川にグイグイ押し込まれ木っ端微塵にされた馬鹿毛利輝元
こんな馬鹿に大版図やるくらいなら、三成や小西や大谷ら、本当の豊臣家に忠義を尽くした連中に大版図やればよかっただけじゃん。
0712人間七七四年
2014/05/13(火) 22:33:28.31ID:drpNvjOc挙兵の名分と戦利品処分を混同しているようではな。
天下志向と地方勢力としての版図拡大をも混同しているダメ押しの墓穴。
0714人間七七四年
2014/05/13(火) 22:49:30.57ID:drpNvjOc困った時に歴史歪曲する詐話師の詐欺論法。
0715人間七七四年
2014/05/13(火) 23:00:13.10ID:EoxQlrHQ関東管領家の上杉とか何十年前の話してるんだよアホ。
上杉なんて本能寺の変以降豊臣政権に協力しまくりで、しずヶ岳合戦小牧長久手合戦
佐々討伐小田原合戦と一貫して豊臣の要請に従って信濃だの越中だの関東だの遠征してるほど
親豊臣中の親豊臣だし、秀吉に言われて新発田攻めを延期してまで、信濃遠征をやったりしてただろうがアホ。
寝言も大概にしとけ馬鹿が。
0716人間七七四年
2014/05/13(火) 23:04:30.84ID:DsZSdtYQ単に勝ち馬に乗っただけ。
本能寺前は武田のごとく滅亡寸前でひーひー言ってたところを
勝ち組の秀吉から甘い声かけられたらそりゃ速攻でなびく
0717人間七七四年
2014/05/13(火) 23:05:42.53ID:EoxQlrHQそもそも秀吉の天下平定自体上杉と毛利や宇喜多などの外様衆の活躍に依存しまくりの他力本願政権だし
毛利も上杉もこれにしっかり応えてきたから大版図貰ってただけ。
毛利なんて小牧長久手合戦では秀包の援軍+四国への派兵
四国征伐・九州征伐では、準主力として平定戦に協力、朝鮮出兵でも大軍を派兵
上杉も本能寺の変以降しずヶ岳合戦小牧長久手合戦上田合戦(豊臣徳川の代理戦争)佐々討伐小田原合戦
と協力しまくってるもんなぁ。
上杉と毛利はハナから相当な従順な親豊臣といっていい。
特に上杉なんて景勝の周辺には伊達最上堀南部結城秀康など合計自国の3倍以上の勢力に囲まれてて
敵地孤立状態だし
挙兵すればこれに家康の討伐軍まで加わる事になるので、領土拡張どころか瞬殺される状態でしかない。
そんな状況で領地拡張を目的に挙兵とかありえないし、自殺するようなもの。
にもかかわらず挙兵したのは、西軍の連署した家康への弾劾状に基づいて
豊臣軍の一翼として挙兵しただけ。
0718人間七七四年
2014/05/13(火) 23:10:43.00ID:DsZSdtYQ上杉も毛利もひーひーの状態で勝ち組の大正義秀吉にすり寄らなきゃどうにもならん状態だったからだよ。
秀吉が死んだらそりゃ好き勝手やるわ。さしあたって自分より上の徳川引きずりおろすのに。
0719人間七七四年
2014/05/13(火) 23:11:55.47ID:EoxQlrHQいや、逆。上杉は下記のように基地外のような大軍に攻められても森や滝川を撃退し、
それで、秀吉が上杉の圧倒的戦闘力を見て、これを利用するしかないと判断して、
対佐々対策や、徳川対策で、上杉を政略で取り込み、上杉は元々佐々と徳川と対立路線だったから、
敵の敵というわけで秀吉を味方として認めてやっただけ。
しずヶ岳合戦でも佐々の従軍がなくなり秀吉は超絶棚ボタ幸運がいつもの如く訪れたし、
対家康の時も、家康が上杉対策で領内にほとんどの兵を残し、8000しか長久手につれてこなかったので、
秀吉はマンマと漁夫の利を得る事ができただけ。
小田原合戦でも最も活躍してたのは上杉依田真田ら北国勢と徳川勢など完全に秀吉は他力本願状態だったし
豊臣軍はわずか500や1000しかいない小田原城や韮山城忍城で苦戦しまくり、重臣含めて大量の戦死者を出すなど例の如く醜態さらしまくってた。
柴田45000も越中中部〜魚津・松倉間で2年も食い止めるなど、滅亡とは程遠い状況だった。
景勝は柴田45000森6000新発田+伊達・葦名(20000?)+滝川18000と
合計90000近い大軍に攻め寄せられても、わずか8000そこそこで森・滝川は撃退
柴田45000は越中で立ち往生、ろくな備えもなしの雑魚魚津城に苦戦するなど敢闘しまくってた。
どうみても謙信>>>景勝>>>>>>>>>>>>>>>>>>>柴田(織田家トップクラス)
0720人間七七四年
2014/05/13(火) 23:17:31.63ID:EoxQlrHQ全く逆で、織田軍80000をわずか8000で撃退したり食い止めた上杉や
秀吉軍を蹴散らしまくってたほど秀吉より圧倒的な戦闘能力を持つ毛利の両勢力を、
秀吉が例の土下座の連続で従えただけ。秀吉が山崎合戦に迎えたのも、ほとんど毛利が和睦に応じてくれたからだし。7
それで、上杉の場合は、柴田や徳川と元々対立路線だったので、外から入ってきた秀吉は、敵の敵であり味方として
一応認めてやっただけ。
秀吉の場合国内の平定戦のほとんどを上杉と毛利の力に依存しまくってて、上杉と毛利もそれにしっかりと応えているほど、確固とした
豊臣シンパの大名だった。
上杉も毛利も全く好き勝手やってないし上杉は
伊達最上堀南部結城秀康など合計自国の3倍以上の勢力に囲まれてて
敵地孤立状態に加え家康の討伐軍まで加わる事が予想される状態ですら、豊臣への義理立てと忠誠から挙兵している
0721人間七七四年
2014/05/13(火) 23:24:01.35ID:kUA7GVjC秀吉は全く強くないどころか、直接対決でたかが防衛戦の熊見川合戦で3000人討ち取られるほどの雑魚っぷりを晒していたが
上杉佐竹毛利長宗我部木曽小笠原真田石川水野十河河野大友龍造寺前田
柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって漁夫の利で力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権を作りあげることには成功した。
だが所詮土下座と漁夫の利を得ただけの中身のない傀儡政権なので秀吉がいなくなればさっさと崩壊するのは当たり前の事。対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
0722人間七七四年
2014/05/13(火) 23:26:44.63ID:kUA7GVjCその後も最強武田軍団相手に敢闘し、信長を滅亡寸前に追い込んだ大敵朝倉を大破した上に、戦上手の武田勝頼を多いに疲弊させ、
信長死後は甲斐信濃を巡り北条氏直の大軍相手に勝利。その後豊臣軍135000に対し織田信雄含めても16000そこそこの寡兵で豊臣軍を一万人戦死させる大勝利をあげた上に
秀吉はビビリまくって信雄相手に顕如送って必至に取り成しを懇願し、さらに自国の15分の1の国力しかなく、木曽小笠原石川水野真田の離反とそれによる軍事機密露見と
天正大地震と天正11年からの徳政令連発で領国が崩壊した家康にも母と妹を差し出すヘタレっぷり。
さらに関が原では畿内だけで18万もいる豊臣の大軍を大破する大勝利w
大阪の陣でもあれだけ規格外の堅固で大規模な城郭&城攻めとしては少ない2倍いくかいかないかくらいの兵力で短期間で大勝
信長の戦歴…チート尾張斯波家継ぎながら幼君でガタガタの斉藤領火事場泥棒しようとしたらまけまくり
長島侵攻では3回も敗北し餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ち&数万の大軍で一門10人以上殺されるなど負けまくり
本願寺攻めでも大苦戦し武田にも上村合戦や東美濃攻防で敗北し信玄在世中は追い込まれる一方で滅亡確定、
最後は光秀に殺されて死亡
秀吉…小牧長久手で家康より遥かに戦下手で織田家で最も無能で伊賀攻めに失敗し信長の勘気蒙り縁を切られそうになるアホ信雄に135000の大軍で挑んで
1万人殺される大敗。その後の攻防も二重堀・蟹江・前田・下市場・松ノ木・浜田・長久保・東駒野・河波・神戸攻防で敗北
二重堀合戦では防衛戦にもかかわらず1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられる
蟹江・前田・浜田・下市場・長久保・神戸は秀吉方本陣から程近い距離にあるにもかかわらず見事に寡兵の信雄に奪回される
結局実力では全く歯がたたず信雄・家康に顕如使って土下座してなんとか和議までこぎつける
北条氏直…神流川で織田家トップクラスの滝川の18000を24000そこそこで10倍の被害差で大破
朝倉義景…信長を滅亡寸前に追い込む。姉川の合戦では浅井軍は織田を押しまくり当時の織田四天王の一人の坂井の息子を討ち取る
勝頼…「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死と織田徳川を寡兵で圧倒しまくる
一揆勢…信長の数万の大軍を餓死寸前のところで騙まし討ちかけられた状態でわずか数百の寡兵で織田一門10人以上討ち取る
以上をまとめると勝頼>>>>家康>>>氏直>>>>>滝川>>>>>一揆勢・朝倉>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
0723人間七七四年
2014/05/13(火) 23:29:18.31ID:D+RbFIoy対信雄の防衛戦で行われた二重掘合戦あたりが
秀吉の戦闘センスのなさや指揮采配能力の欠如を端的に物語ってる。
どちらも信雄や輝元など、糞みたいな凡将相手に防衛戦にもかかわらず3000人殺されたり
寡兵で襲撃されて楽田からたたき出されてヘタレ敗走してるし
0724人間七七四年
2014/05/13(火) 23:30:03.44ID:H0Aq60z9二重堀合戦では1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられてるし
熊見川の戦いは上月城の防衛を目的に行われた防御戦だったが見事に失敗して3000人も殺されてるし上月城・神吉城も奪回されて尼子勢をはじめ大量に戦死者出してる
つか山崎合戦とかも光秀方から仕掛けた戦だし陣地も光秀は朝廷を守るため天王山の陣取りを捨てて不利な形で布陣したわけだし防衛戦じゃない。
しずヶ岳だって勝家が攻撃してた中川の拠点守るため出兵しただけだし普通に防御戦だろ。勝家の方から攻めかかってきただけだし秀吉は撤退途中の勝政・盛政を背後から圧倒的大軍で強襲したら
逆襲くらって不破・前田・金森らが兵をひくまで結局均衡くずせない始末だし
0725人間七七四年
2014/05/13(火) 23:35:25.14ID:kUA7GVjC毛利は秀吉との和議に速攻で応じてくれた。
しずヶ岳の合戦では、毛利は相変わらず確定的ではないが親秀吉的だったし、上杉は佐々を釘付けにして柴田軍のしずヶ岳での動員戦力を削いだ。
小牧長久手合戦〜天正14年の家康恭順までの間は
豊臣と上杉は実際に示し合わせてて景勝は下越や越中戦線を後回しにしてでも
川中島侵攻を優先したから、徳川方は大量の兵を領国に残したし
上田合戦でも上杉は援軍を送ったり、信濃に何回も派兵して、家康方の平岩大久保鳥居依田など大部分の戦力を徳川領内に置き去りにさせる事に成功した。
毛利も秀包を秀吉に援軍として送り、秀吉の要請に従って四国に出兵して、反秀吉方と交戦した。
その後四国征伐九州征伐小田原征伐朝鮮出兵と上杉毛利とも豊臣の平定戦に参加どころか、主力となって、功を立てるほど、豊臣政権にしっかり貢献するほど親豊臣だった。
0726人間七七四年
2014/05/13(火) 23:35:54.59ID:kUA7GVjC上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しており翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
0727人間七七四年
2014/05/13(火) 23:37:12.58ID:0xdXoZKj>>上杉は織田軍の強さ身にしみてるからさっさと豊臣に臣従した
>>織田家臣にやられた上杉
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396697657/21
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396697657/24-25
0728人間七七四年
2014/05/13(火) 23:38:42.44ID:0xdXoZKjはっきりいって備中まで進軍できたのはほとんど大国毛利を単独で撃退してた南条や宇喜多のおかげだし。
宇喜多なんて遭遇戦で毛利軍を大破してるし。
0729人間七七四年
2014/05/13(火) 23:39:43.65ID:8x3BLZGz但馬は山名が元々織田方に謁見を願って出てくるほどで織田方だったし、但馬平定は超絶ヌルゲーだった。
しかも天正8年には再度但馬侵攻してみると竹野衆らに撃退されたりしてる。
実際には但馬平定は天正8年になって光秀の援護を受けながらようやく終わっただけだし
毛利から寝返った宇喜多・南条に毛利が苦戦したせいで、但馬・播磨戦線まで出てこれなくなっただけで秀吉は特に何もやってない。
天正8年の山名氏政→古志書状(古志文書)4/13には織田勢が今度但馬に乱入してきて種種入魂之被申分、尤祝着候とか書いてるし
5/19には去4月18日但馬水生表の合戦で織田勢と竹野衆が合戦し竹野衆が勝利したと報じている
6/13垣谷豊続→岡遠江守感状で宵田表相動候処、則織田勢罷出候之間誠砕手数剋相戦切崩、得勝利などと勝利を書き綴っている
播磨戦線でも毛利に3000殺されるガチンコ負けして西播磨一帯を占領され尼子衆ぶち殺されてるし
0730人間七七四年
2014/05/13(火) 23:40:22.34ID:BNL+VIR/その証拠として播磨に天正5年に派遣されて信忠や明智や滝川らの援軍・尼子残党・宇喜多・南条の離反とお膳立てされまくった上に毛利方がろくに播磨口に出てこない
超絶ヌルゲーの環境ですら播磨と但馬の攻略に3年も費やした雑魚秀吉でも指揮官として採用されてるし
丹波攻めに2回も失敗して赤井の死後にようやく攻略成功した明智や上杉に蹴散らされたり、御館の乱やそれに続く内戦と、新発田の乱で極度に弱体化した中、織田からは
佐々長縄・神保長住・長連龍や斉藤の援軍らが派遣されて、上杉の内戦の最中に、能登や越中をコソ泥できたのにその後自力ではろくに進軍できていない柴田でも指揮官として登用されてる
0731人間七七四年
2014/05/13(火) 23:42:28.48ID:iDB2ERrx毎回圧倒的大軍で敵の反抗を諦めさせてるだけ。位攻めというのは敵の反抗を諦めさせる規格外の大軍と、
敵の諸城の周辺に完全な攻囲のための砦や根城などを築く技術と、長期戦に耐えうる物資さえあれば誰でも可能で
最も指揮能力や采配能力が問われない楽な戦いだからね。でもそんな超絶ヌルゲーですら秀吉は失敗して家臣を多く殺されたりしてる。
例えば小田原合戦の時も享禄以来年代記によれば29万、那須記や榊原書状によれば50万といわれる圧倒的な大軍だった。
しかしわずか34500しかいない北条とまともに戦いだすと半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
秀吉軍は兵站ギリギリのところまで追い込まれてたのは事実
これはフロイスの日本史に書いてある。
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
0732人間七七四年
2014/05/13(火) 23:43:16.37ID:0xdXoZKjアホみたいに規格外な国力と大軍がありながら、軍事的には全く手出しができなくなって、母や妹、250万石の大領土や
チート官位や秀吉縁戚の地位まで土下座献上する羽目になって、家康は豊臣家を楽に滅ぼすことができたんだろ。
結局秀吉は戦に負けて家を滅ぼされたというだけで、順当な結果になっただけ。
0733人間七七四年
2014/05/13(火) 23:43:47.21ID:8x3BLZGz信雄と信孝がいがみあっていたり基地外のようなヌルゲーしか残ってなかったからな
本能寺の変で信長が光秀に殺されて光秀が逆賊の汚名負ってくれたおかげで、主殺しを討つ大義名分を棚ボタ的にいただいたあげく
摂津の諸侯や丹羽や信孝などをはじめ馬鹿みたいに味方が集まってくれたし清洲会議でも大きく優位になって領土を獲得してる。
あげく信雄と信孝も勝手にやりあってくれてたし、勝豊も美濃衆も会戦前くらいであっさり寝返ってたくらい、柴田側は統制が崩壊してたし、
会戦になると前田や不和や金森まで勝手に退却してくれるし、周辺諸大名も毛利上杉木曽小笠原宇喜多大友佐竹結城宇都宮那須皆川佐野真田芦名二階堂
白川結城石川岩城相馬河野十河など悉く秀吉に味方してくれたおかげで、秀吉は他力本願でヌルゲーの誰でも勝てる戦いができただけ。
しかもそんな今川氏真が指揮をとっても楽勝で勝てそうなヌルゲーの戦いですら小牧長久手合戦や熊見川合戦や小田原合戦など家臣をぶち殺されまくったり
300しかいない馬鹿な雑魚城攻めでろくに落せなかったりしてる。
0734人間七七四年
2014/05/13(火) 23:44:16.65ID:KAyLwzUP三か国毛利が割譲した上での和議が成立し、宇喜多とも本能寺前から一体化が進められ、もはや親藩的存在だったし
その差でしょ。そもそも単純に国力で見ても、かなりの開きがあるし。
柴田・信孝側からは美濃衆や勝豊などがボロボロ寝返ってるが
秀吉からは寝返りが皆無だし信雄領からも寝返りがなかったことから見ても
信雄よりも信孝領は遥かに不安定な状態だっただろうし。
そう考えると秀吉は圧倒的に運がよく、明智は不運だっただけ。何せ摂津の諸侯とか兄弟の契りしてる中川とか
信孝とか丹羽まで秀吉方に参戦して大軍に膨れ上がったのに対して明智は与力格がことごとく不参加、日和見だしな
山崎合戦なんて最初から勝ったようなもんでしょ。池田・高山・中川ら摂津の諸将は
本能寺前時点で秀吉が光秀との政争勝利の結果から秀吉派軍閥だし中川なんて天正8年時点で兄弟の契り結んでるほどで
光秀側は主殺しの汚名背負ったせいで細川・筒井ら与力連中に背かれ信雄・信孝・丹羽ら周辺諸将も基本みんな敵。
ありえないタイミングで信長が光秀に殺されたおかげで棚ボタ的に主殺しの敵打ちの大儀名分手に入れて
それを利用して次々に勝手に味方が増えたし、信長が殺されてから、わずか1日半でその報を知る棚ボタっぷり。
しかも毛利も都合いいタイミングで即座に難航することなく和議に応じてくれたし
0735人間七七四年
2014/05/13(火) 23:45:13.71ID:0xdXoZKj(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる
0736人間七七四年
2014/05/13(火) 23:45:48.52ID:hHiNpLRG秀吉の場合は数でごり押ししても雑魚の信雄や輝元に全く勝てなかったり
防衛戦ですら家臣を殺されまくるほどの雑魚だったが
土下座能力はチートだったので信雄や顕如や家康や朝廷に土下座しまくって和議までこぎつけただけ。
顕如に11月に土下座したり家康の下に信雄送ったり朝廷に献品しまくったり土下座攻勢をかけまくってる。
結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。
秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や家康には到底敵わないため
信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。
秀吉は必死に家康に土下座して、母や妹を差し出したり関八州260万石やったり高い官位と秀吉縁戚の地位やったりして
気を使いまくってたから、慈悲深く、温情あふれる家康は、秀吉生前中は、お情けで秀吉を生かしてやっただけ
0737人間七七四年
2014/05/13(火) 23:46:37.56ID:D+RbFIoy柴田も信雄も信孝も丹羽も池田も中川も細川筒井滝川など、明智軍12000程度以外全て敵。
最初から明智単体での謀反なら成功するはずのない愚かな芸当としかいいようがないわけ。
秀吉はその当時で長浜播磨但馬因幡備前美作備中淡路とすでに200万石級の大大名(宇喜多は直家死後幼君になって
秀家を擁する秀吉との一体化が一層進められていた)
さらに摂津の諸将も秀吉が光秀との織田家中での政争勝利から秀吉方軍閥で、中川なんか天正8年時点で兄弟の契り結んでる
大返しなんていわれるほどの大袈裟な芸当やってないし、軌跡の3年なんて事も全くやってない。ただ織田家が、光秀に当主と嫡男を殺されたせいで無主状態になった所を
主君を殺した敵打ちの大義名分と三法師の後見役という立場を利用して織田旧臣たちを味方につけるなど火事場ドロしただけ。
0738人間七七四年
2014/05/13(火) 23:47:12.19ID:DPMeBn1F本能寺前時点で秀吉が光秀との政争勝利の結果から秀吉派軍閥だし中川なんて天正8年時点で兄弟の契り結んでるほどで
光秀側は主殺しの汚名背負ったせいで細川・筒井ら与力連中に背かれ信雄・信孝・丹羽ら周辺諸将も基本みんな敵。
ありえないタイミングで信長が光秀に殺されたおかげで棚ボタ的に主殺しの敵打ちの大儀名分手に入れて
それを利用して次々に勝手に味方が増えたし、信長が殺されてから、わずか1日半でその報を知る棚ボタっぷり。
しかも毛利も都合いいタイミングで即座に難航することなく和議に応じてくれたし
つーか本能寺の変は明らかに秀吉が仕組んでやった事だから最初から勝てて当たり前でしょ。
備中〜京都までの距離で信長が殺されて一日半程度で
情報が正確に伝達し、真偽も確かめず備中陣を引き払ってるなんてありえないし
秀吉が最初から画策して首謀者として信長を殺しただけ。
0739人間七七四年
2014/05/13(火) 23:49:52.37ID:8x3BLZGz特に上杉は伊達最上堀南部結城秀康など合計自国の3倍以上の勢力に囲まれてて
敵地孤立状態に加え家康の討伐軍まで加わる事が予想される状態ですら、挙兵して家康の専横にまったかけてる。
こんな挙兵したら敵の大軍が一挙に領国になだれ込んでくるような状況で
利益やドサクサまぎれの火事場泥棒が目的とかありえないからな。
火事場泥棒どころか、自殺するような絶望的な状況。なのにもかかわらず挙兵したのは、豊臣の忠臣として、家康の専横に待ったをかけただけ。
0740人間七七四年
2014/05/13(火) 23:52:34.28ID:hHiNpLRG皆信長や秀吉みたいな他家の内紛などにつけこんで火事場泥棒やコソ泥する大名ばかりだと思い込んでる。
実際には挙兵したら確実に死亡が予想されるような状況でも挙兵したり、
仕えた家に忠義をつくす部将は普通にいたどころか、そういった連中が世の中の大半で、家への忠義を忘れる奸臣は、本能寺の光秀みたいに、味方が集まらず自壊するだけ。
0741人間七七四年
2014/05/13(火) 23:54:56.23ID:H0Aq60z9鎌倉・室町〜江戸期にかけて、主君のために家臣が尽くす封建制が、武士の基本。
いざという時に、すぐ敵に寝返ったり、日和見するようなやからは、家臣として使い物にならないので、武士とは呼べない。
0742人間七七四年
2014/05/13(火) 23:56:11.48ID:cxAq6LvY0743人間七七四年
2014/05/13(火) 23:58:42.74ID:PAn1qem0お前の論法は寝返りや造反などが合戦の優劣の結果」
「戦国時代の武士は忠義ではなく、目先の利益などで動いたり去就を変える」
→織田の分国は、どこの国も寝返りだらけなので、戦いに負けまくってた事になる。
戦いの前後で周辺小大名の帰趨によって、戦いの勝敗の是非がわかるというなら
織田の分国は常に離反だらけなので、いつも戦に負けていた事になる。
尾張→水野氏虐殺
美濃→国人蜂起(遠藤氏等)
山城→幕府衆決起
北伊勢→一向宗虐殺
南伊勢→北畠氏虐殺 (騙し討ち)
北近江→国人蜂起(浅井氏)
南近江→延暦寺焼討
越前→一向宗虐殺
摂津→国人蜂起 (荒木氏等)
河内→本願寺蜂起
和泉・紀伊→雑賀衆蜂起
大和→国人蜂起 (松永氏等)
伊賀→伊賀衆蜂起
甲賀→甲賀衆蜂起(六角氏支援)
丹波→国人蜂起 (波多野氏等)
播磨→国人蜂起 (別所氏等)
加賀→一向宗虐殺
越中→国人蜂起・一向宗虐殺
能登→国人蜂起
信長ほど領主や家臣に裏切られまくった大名は中々いないからね
織田から寝返りばっか出てたことは確かなんだから
造反どうこうで戦いの勝敗を推測する論法なら織田は常に周辺勢力との戦いに負けまくってたことになるだろ
結局それが元で光秀に裏切られて殺されただけ。 信長が桶狭間合戦に勝ったとされる後
全くといっていいほど今川方から寝返りがなかった(家康が独立して信長と同盟するのは桶狭間より大分後)し
長篠に勝ったとされて後全くといっていいほど武田から寝返りがなかったのも
両合戦での織田大勝が嘘な証拠って事か。
離反も造反も本質的には何も変わらん。 仕えている主君を裏切る行為
朝倉の一門離反や武田の縁戚離反などは いずれも長篠合戦や滋賀の陣や姉川からずっとしてからだから その両合戦での勝敗や優劣などの根拠には全くならない。
そんな合戦の遥か後の造反とか離反が合戦の優劣に繋がるなら 本能寺で最終的に信長が光秀に裏切られて殺されたのは、
武田攻めで大敗したからだとか、毛利攻めで大敗したからだとか、長篠合戦で大敗したからだとか
こじ付けも可能になる
桶狭間合戦前後で誰も寝返ってない=桶狭間合戦での織田圧勝が単なる虚報って事だろ。
お前の理屈だと。
元々信長の上洛時って畿内の諸侯は一部を除いてほとんど上洛の名分を持った信長に従ってたのに
それからして浅井やら本願寺やら松永やら丹波やら足利やら次々に挙兵したり離反したりしたのは、信長が合戦で負けまくってた証拠って事でしょ。
0744人間七七四年
2014/05/14(水) 00:03:03.54ID:Qmo1qxXK例えば西に100万石、東に300万石ある大名に囲まれた地域の小大名なら、東につく可能性の方が高い。
だが、勿論例外はある。織田は圧倒的な国力を持っていたが、ボロボロ寝返りを出してたし
最後はそれが原因で殺された。
関が原合戦の時は、両勢力が均衡してたので、帰趨が微妙な連中が多かったが、
それでも東軍は家康が政略で取り込んだ連中+徳川家臣+三成にくしの武功派くらいしかついていない。
基本的には西軍につく連中の方が、圧倒的に多かった。
0745人間七七四年
2014/05/14(水) 00:04:36.67ID:7/cpUdad小大名の方から寝返りが出るケースの方がほとんどなのに
織田からは馬鹿みたいに寝返りが出まくってる。
よほど信長に人望がなかったか、信長が雑魚だったか、どちらかだな。
0746人間七七四年
2014/05/14(水) 00:28:31.53ID:jA0cOgWgどこが捏造なのかくらい指摘してくれない何とも言えんわ
まああなたが史実だと信じてた小説かゲームの世界観を壊してしまったならそれは申し訳ない事をした、すまん
>>741
半分当たってるけど半分外れてるよ
封建制の基本は御恩と奉公、つまり武士が主君に尽くすのは自分の領土を主君が安堵してくれるから
そしてそれは裏を返せば自分の領土を守ってくれない主君に尽くす義理はないということでもある
室町幕府が機能停止して武士の領地を安堵できない→武士は自衛を迫られる→戦国時代突入ってのは少し勉強すれば分かると思う
もちろん主君殺しが忌まれていたのは事実だろうけど、主君も主君としての責務を全うして初めて主君たり得たって事
0747人間七七四年
2014/05/14(水) 06:11:33.28ID:3gcVvYy0家の危機を守るのに、家臣が手を貸せば、主君はそれに対して領土も安堵するし、
領土を増やしたりもする。
それが封建制。
ちょろっと劣勢になったり、少し不利になっただけでコロコロ寝返ってたら、そもそも合戦なんて起きないし、
例えば300万石大名と100万石大名が対決した場合、100万石大名に付く家臣は速攻で勝つ可能性の高い300万石にこぞって寝返り
100万石大名を守って戦おうとする連中はいなくなり、戦うまでもなく瓦解する。
実際には織田みたいに馬鹿みたいに広範な版図を持とうが、
寝返りや謀反や離反を繰り返されてた大名もいたし、
家のために、危機的状況でも忠義を尽くす連中もいた。
わずか37万石程度で、柴田45000森6000滝川18000新発田+伊達葦名(20000?)に囲まれた上杉を
誰も最後まで見捨てなかったし
大坂の陣で、絶望的な状況になった大坂夏の陣後期になっても、誰も大坂方を見捨てなかった。
逆に織田の場合は、500万石〜800万石で敵対者は雑魚国力しかないヌルゲーであろうが、光秀荒木松永別所小寺寺崎石黒波多野近江国人を
初めとして馬鹿みたいに裏切り物を出した。
基本的には国力が大きい方につくのが周辺諸大名だが、国力が馬鹿みたいにでかくても寝返りばかりの場合もあれば
国力はハナクソしかなくても、寝返りの出ない場合もあるのが戦国の世。
個人的感情や、主君の人望や、様々なものが影響するんだよ
0748人間七七四年
2014/05/14(水) 06:20:03.36ID:3gcVvYy0国力が劣る側が国力に勝る側に主力決戦で勝っても、大して勢力図には影響が出ない場合が多い。
カルタゴからローマに攻め込んで、主力決戦に連戦連勝したカルタゴだが、ローマからはほとんど寝返りは出ておらず
戦局を決定するまでは至らなかった。
大勢力は決戦で負けても、国力のゴリ押しによる戦力の補充が可能だが
小勢力側は、一度決戦に負けると、大勢力側に対抗できるような戦力の構築はまず不可能だし
だが、離反が起こらない場合もなくはない。長篠合戦なんかがその例で
織田500万石徳川40万石に対し武田100万石程度で武田の大敗だったが、その後誰も寝返ってない。
0749人間七七四年
2014/05/14(水) 06:22:02.19ID:DrWtsBDb普通なら平常状態でも徳川織田上杉で武田を圧倒できる国力差があるが
長篠合戦で一方的に虐殺が行われたのに、勢力図にもほとんど影響がないとかありえないしね。
ただ武田軍を虐殺しまくったというドラマの見解がおかしいだけ。
0750人間七七四年
2014/05/14(水) 07:23:35.63ID:2+ZO40PW0751人間七七四年
2014/05/14(水) 07:43:22.26ID:HqPdJIsi秋山が援軍の使者を送っていないことからも、岩村が落城のきざしもなかっただけだろう。
結局騙まし討ちで落しただけだし。
0752人間七七四年
2014/05/14(水) 08:03:41.36ID:2+ZO40PW0753人間七七四年
2014/05/14(水) 08:25:34.30ID:XmjJ9vWy0754人間七七四年
2014/05/14(水) 08:50:04.03ID:Jx9OaLKiそりゃ譜代なら立場とか利権も色々あるだろう、調略も無しに寝返ったら減封されても文句言えないし
寝返り多いとよく言われる織田でも尾張統一以前の家臣や家康は離反相次ぐ包囲網下で信長を支え続けてる
けど外様は大抵は転がっていくのが現実、武田の甲州崩れが良い例
譜代どころか一門でも調略できちんと相手の領地を安堵・加増の約束を交わせば穴山みたいに寝返っている
一方で木曽・穴山・真田が許されて小山田が許されなかったあたり、何も考えず保身で裏切ればそれは信用されないというのも一理あるが
本題に戻るけど豊臣家はそもそも譜代がいないし、恩顧武将でも平気で改易・放逐(仙石・神子田・尾藤等)
一門の秀次や秀秋すら処刑したり減封していて外様とほとんど同じ扱いだった
主君からの便宜や外様への優越性を持つ戦国の譜第に比べ「豊臣恩顧」にそうした旨味が無い以上、忠義を尽くせと言うのも酷な話じゃないだろうか
0755人間七七四年
2014/05/14(水) 09:02:35.90ID:+cxKUsAI秋山に人質を出さんとならんからな。
秋山も交渉に出て約束を違えないことを示すしかないからな。
0756人間七七四年
2014/05/14(水) 09:57:27.64ID:ueyj7kwz>大坂の陣で、絶望的な状況になった大坂夏の陣後期になっても、誰も大坂方を見捨てなかった。
織田信雄や有楽斎が逃げたことを無視するなw
そもそも冬の陣から諸大名には見捨てられていて大坂には行く当てもない浪人が集まっただけだろ
それは単に徳川の国力とかそういう単純なものではなく主君の人望なども原因にある
主君が二十歳を過ぎてもママにおんぶに抱っこのマザコンでは諸大名も協力できなかったのは仕方がない
0757人間七七四年
2014/05/14(水) 12:00:37.09ID:iW0lcwIpそもそも家臣の離反や寝返りなどが、勢力間での優劣や合戦の勝敗の表れなどという馬鹿な妄想に対して反論している事を忘れないように。
信長の分国なんて下記のように離反が馬鹿みたいに起こってたんだから、
どんだけ信長は戦に負けてたんだよって話なわけ。
尾張→水野氏虐殺
美濃→国人蜂起(遠藤氏等)
山城→幕府衆決起
北伊勢→一向宗虐殺
南伊勢→北畠氏虐殺 (騙し討ち)
北近江→国人蜂起(浅井氏)
南近江→延暦寺焼討
越前→一向宗虐殺
摂津→国人蜂起 (荒木氏等)
河内→本願寺蜂起
和泉・紀伊→雑賀衆蜂起
大和→国人蜂起 (松永氏等)
伊賀→伊賀衆蜂起
甲賀→甲賀衆蜂起(六角氏支援)
丹波→国人蜂起 (波多野氏等)
播磨→国人蜂起 (別所氏等)
加賀→一向宗虐殺
越中→国人蜂起・一向宗虐殺
能登→国人蜂起
信長ほど領主や家臣に裏切られまくった大名は中々いないからね
織田から寝返りばっか出てたことは確かなんだから
造反どうこうで戦いの勝敗を推測する論法なら織田は常に周辺勢力との戦いに負けまくってたことになるだろ
結局それが元で光秀に裏切られて殺されただけ。 信長が桶狭間合戦に勝ったとされる後
全くといっていいほど今川方から寝返りがなかった(家康が独立して信長と同盟するのは桶狭間より大分後)し
長篠に勝ったとされて後全くといっていいほど武田から寝返りがなかったのも
両合戦での織田大勝が嘘な証拠って事か。
0758人間七七四年
2014/05/14(水) 12:05:17.05ID:iW0lcwIpさらに、甲州崩れの時期は、武田が長篠での疲弊・対北条徳川戦の疲弊・新府築城などの出費・無理な中央集権化などの
種種の崩壊要因があったので、離反だらけになるのはあたり前。
逆に言えば、そんな状況で、自国の6倍〜8倍くらいある織田+徳川と敵対してたにしては、
天正10年まではほとんど寝返りも出ていなかったし
長篠合戦の後なども勢力図は全くといっていいほど変わっていない。
織田厨の主張が史実なら、長篠合戦直後で、速攻で武田は国人から見放されて離反崩壊しないとおかしいからな。
ただでさえ武田VS織田・徳川・上杉なら7倍程度国力差あるので、
国境の国人は、戦いに負けてなくても次々に離反しててもおかしくないが、
実際には長篠で大損害蒙ったにもかかわらず全く寝返っても連中なんていないし。
0759人間七七四年
2014/05/14(水) 12:12:46.70ID:iW0lcwIp秀吉は下記のようにいう事の聞かない先代からの譜代など全くおらず、秀吉自ら育てた「生え抜きの譜代」ばかりいて
先代からの専横ばかりしてた邪魔な譜代に比べて、皆秀吉との結びつきが非常に強く、豊臣の恩を受けまくってる連中ばかりいた。
熊見川合戦時点での秀吉家臣団は一門衆が秀長・秀勝・三好義房・浅野長政・杉原家定・家次、木下家定
尾張衆は加藤清正・福島・山内・蜂須賀(河波衆リーダー)青木・平野・加藤嘉昭・堀尾・宮田光次
美濃衆が竹中・坪内利定・稲葉貞祐・加藤光康・小野木生駒石川光政日根野弘就谷衛好仙石秀久
一柳直末・伊藤秀盛・尾藤知宣。
近江衆の木村隼人正・片桐且元・寺沢広政・石田三成・中村一氏・増田長盛・宮部継潤・速水守久・脇坂安治・
長浜衆(伊藤牛助・谷兵介・石川小四郎・藤縣三蔵・田中小十郎など)
他国衆の中川清秀(摂津茨城城主、舎弟)小西行長(堺衆)・黒田孝高(播磨姫路城主)
これとは別に播磨衆と但馬衆に亀井・垣谷などが加わるし相当の規模の軍団だっただろ。これに加えて尼子残党の
上月城でしぶとく敢闘してる尼子義久や山中幸盛らや、同陣している荒木村重らがいるんだから普通に18000程度は余裕でいく。
下手すりゃ22000くらいはいてもおかしくない。蜂須賀前野とか河波衆のリーダー格だからそんなに極端に少ない兵力って事はないだろうし
一方の毛利軍は超遠距離で兵站の問題もあるし、背後の大友はいるし、反旗を翻した鈴木孫右衛門等に備えて清水らを備中に帰国させてるし。
ほぼ互角といった所じゃね。中川や荒木あたりは普通に大身だしな。蜂須賀も尾張時代ですでに2000程度持ってたとされるし
それから主君の秀吉が出世したんだから家臣の蜂須賀も出世してるだろうし。
谷とかも、竹中と同程度の地位だったし。
0760人間七七四年
2014/05/14(水) 12:25:54.52ID:KqWcd1zC>>織田信雄や有楽斎が逃げたことを無視
逃走しただけで、裏切ったわけではないでしょ。劣勢な豊臣のために必死に忠義を尽くしたじゃん。
それに、他の連中は皆悉く秀頼に従い、超絶望的な状況と国力差でも、最後まで戦って死んでるよ。
こういうのが本来の武士のあるべき姿であり、大体の武将がそう。実際に大坂の陣ではそうだった。
>>冬の陣から諸大名には見捨てられていて大坂には行く当てもない浪人が集まっただけ
それでも、死ぬとわかってるような馬鹿みたいな国力差でも、きっちり徳川に歯向かったよな。
死ぬ可能性が高いなら、損得勘定でいえば、死に直結するような、危険で無謀な戦闘でも、命をかけて戦うような事はしていない。
主君に忠誠を尽くし、主家が滅亡に晒されてる時こそ、命がけで守り戦うのが武士のあるべき姿。
>>徳川の国力とかそういう単純なものではなく主君の人望なども原因にある
基本的には国力の大きい方につく事の方が圧倒的に多いのが諸大名や国人。
だが実際には、調略・好悪・人望・地理など様々な条件が加わって決するのが国人の帰趨。
「戦に勝ったから味方になった」「強いからついた」などという決め付けは馬鹿な妄想でしかないんだよ。
実際に長篠合戦とか勝ってもろくに寝返りが出てないし、
逆に信長の分国なんて、毎回馬鹿みたいに寝返りが出まくってる。
ローマ軍にローマ国内の戦闘で連戦連勝したカルタゴもローマからの切り崩しには見事に失敗してて
ローマ側からはほとんど寝返りもでていない。
>>主君が二十歳を過ぎてもママにおんぶに抱っこのマザコン
ソース頼む。
ドラマくらいでしか聞いた事がないんだが、本当にそんな人物だったのか?
>>諸大名も協力できなかったのは仕方がない
そんなおんぶにだっこでも、皆自分と結びつきの弱かった、浪人連中でも、命がけで秀頼を守ってるし
大野ら譜代も、最後まで戦って果ててる。
0761人間七七四年
2014/05/14(水) 12:29:46.27ID:+OlA2qIz誰も最後まで見捨てなかった
秀頼家臣(豊臣と結びつきの弱い単なる浪人衆)…大坂の陣で、絶望的な状況になった大坂夏の陣後期になっても、誰も大坂方を見捨てなかった。
織田家臣…500万石〜800万石で敵対者は雑魚国力しかないヌルゲーであろうが、光秀荒木松永別所小寺寺崎石黒波多野近江国人を
初めとして馬鹿みたいに裏切り物を出した。
武田家臣…長篠で大敗したにもかかわらず、誰も武田を見捨てていない。
7年後に、他の種種の崩壊要因があって、ようやく裏切る。
0762人間七七四年
2014/05/14(水) 12:48:06.11ID:TD374MIX豊臣家からうけた恩を忘れて豊臣を見捨てて、家康にそれを利用される馬鹿だっただけ。
奉行衆や大老衆は豊臣への忠義を忘れず、家康への弾劾状を突きつけて、
決起して家康討伐軍を編成。だが総大将の毛利が馬鹿だったので、兵力をどうでもいい方向に分散させたり
大坂にずっと居座ったりしてて、全く使い物にならなかったので、西軍が大敗した。
0763人間七七四年
2014/05/14(水) 13:14:10.70ID:zy0zQoLM総大将に奉り上げられながら何もできず戦力を分散しまくり大敗した馬鹿輝元と
家康の示威行動にビビッて即効土下座したヘタレ浅野・前田だよな。
0764人間七七四年
2014/05/14(水) 13:16:20.98ID:rHtS5aqLまだ家康に攻められてもいないし、攻められるべき理由もないのに
家康が攻めるそぶりかけて威圧したら速攻土下座。
関ヶ原合戦前で、家康に歯向かう連中なんてまだゴロゴロいるのに、
戦う望みすら捨てて、家康に降伏し人質を差し出すアホっぷり。
0765人間七七四年
2014/05/14(水) 19:57:46.56ID:ueyj7kwz三成が秀次を殺したり秀吉を明の家臣に貶めたりすれば
忠義の厚い豊臣恩顧系譜代武将が三成に天誅を下そうとするのは当然だろ
西軍の大半も同様の忠義を持っており途中から東軍の方が正しいと理解して
関ヶ原では東軍とは戦わずに三成討伐に協力したわけだし
三成みたいな奸臣を政権に入れてしまった秀吉のミスが全ての原因だろう
三成が豊臣を破壊しなければ300年の栄華が約束されたも同然だったのに
0766人間七七四年
2014/05/14(水) 22:12:32.32ID:KqWcd1zC・講和締結は三成単独の画策というわけではない。
・五大老・五奉行・畿内の豊臣系諸侯のほとんどは西軍
・東軍は三成にくしで凝り固まってた馬鹿な武功派と家康直属家臣と家康が豊臣政権下の決まりを無視して
私婚の連発で取り込んだ連中のみ。
・西軍は皆東軍との接触を避けてたどころか、東軍の領土に侵攻したりしている。
0767人間七七四年
2014/05/14(水) 22:29:40.28ID:adbkxSEe肥後統治に関しては加藤と比べると小西は無能と言ってもいい
0768人間七七四年
2014/05/15(木) 06:52:56.00ID:f53aQScw正しくは地方分権派と中央集権派
0769人間七七四年
2014/05/15(木) 12:05:45.15ID:RKgNyV3f0770人間七七四年
2014/05/15(木) 12:48:03.81ID:x/GHlFIt0771人間七七四年
2014/05/15(木) 12:53:34.55ID:f53aQScw秀次殺した時点でとっくの昔に終わってた
後は一番の実力者の徳川にゆっくり禅譲するか
他の五大老ひっくるめて戦国バトルロワイアルやらかすかの二択
家康についた連中は穏健派。三成たちはむしろ武闘派。
0772人間七七四年
2014/05/15(木) 16:18:14.47ID:Bo0ChWzp家康なんか秀次の後釜に座ったに過ぎない
実際秀次事件で嫌疑をかけられた秀次派の大名(小早川・最上・細川・中村・山内等)はこぞって家康についてる
まあ朝鮮出兵で二元統治が必要になった時点で対立が起こるのはしょうがないけどね
0773人間七七四年
2014/05/15(木) 16:37:56.49ID:x/GHlFItと三成嫌悪で凝り固まってた馬鹿な武功派くらいじゃん。
他の連中は悉く西軍。特に畿内のほとんどの諸侯に、五大老・五奉行のほとんどが西軍であり
家康に豊臣政権下での約定破りの弾劾状を突きつけてしっかり大義名分もある。
大坂城や、秀頼も西軍が擁している。
0774人間七七四年
2014/05/15(木) 16:44:43.80ID:ShO1TLyl秀頼を擁してる。
大坂城と近畿の大部分を掌握してる。
五大老五奉行の大部分が参加している。
形とはいえ秀頼直属軍が参加している。
公儀と称して改易、加増、転封の強権を発動している。
だから二大老四奉行連合政権は公儀として成立していた。
秀吉親藩の宇喜多は勿論だが
盛親・立花・秀包・筑紫茂成・龍造寺高房・堀内・脇坂・滝川雄利・山崎定勝・蒔田・中江・
長長束・秀信・稲葉貞通・稲葉典通・通重島津・小西・大谷・木下・丹波七頭衆・但馬仁頭・木下頼継・播磨姫路衆・越前東郷衆・戸田勝成・
福原・溝口・上田・寺西・奥山・小川・生駒・青木・青山・太田一吉・垣谷・熊谷・秋月・相良・高橋・伊東・竹中・中川・木村と
多くの豊臣恩顧系・ほとんどの五大老と五奉行と九州大名・畿内大名が西軍だもんな。
東軍なんて何の大義名分もないただのクーデター軍じゃん。
東軍
・大義名分なし
・家康が禁止された私婚で取り込んだだけの連中
・さしたる理由もなく前田や浅野に喧嘩ふかっけて、威圧をかけて降伏させてる。
・自分に対する島津領問題や私婚問題などの糾弾に対し武力で無理矢理排除している。
0775人間七七四年
2014/05/15(木) 17:38:51.70ID:4JJqLkFEおいおい、秀次が何のために関白になったと思ってるんだよ…
秀頼が生まれるまで秀次が次期後継者として諸大名と関わってたの知らんのかよ
てか、大義名分にしても家康のいない隙に大阪城制圧して秀頼に事後で命令出させてる西軍の方がよっぽどクーデターみたいなんだが
しかも秀頼に三成からの出陣要請拒否られたり、妻子を人質に取ろうしたのも大義があるなら必要ないし
純粋な豊臣家中の権力闘争と見るのが自然だと思うよ
0776人間七七四年
2014/05/15(木) 19:57:42.45ID:RKgNyV3f東軍の大義名分は奸臣三成を討伐し豊臣を守ることでしょ
二大老四奉行連合政権ということは逆に言えば三成がどさくさ紛れに復帰を画策したということ
しかも自分の返り咲きを早く確定させたいからと他の考えを無視して自分の東進案をゴリ押しで叫び続ける
これで西軍は三成の権力欲による大義名分もないただのクーデター軍へと堕落した
関ヶ原で西軍の大半が戦わなかったのは裏切りでも寝返りでもなく
豊臣への忠義を三成の私欲に利用されたことへの怒りと拒絶反応だった
0777人間七七四年
2014/05/15(木) 21:27:17.82ID:CmLNwiDN妻子を人質にするのは、賤ヶ岳で秀吉でもやってる、当時の常識。
旧主筋信孝の母と子供を処刑している冷血漢の鬼畜。
大義有る無しの問題では無い。
>>776
豊臣正規軍である西軍を打ち負かせば、それは即ち豊臣政権の終焉。
何故なら、西軍とは暴走する奸物家康を妥当する為に編成された軍だからだ。
関ヶ原で西軍の一部が戦わなかったのは、開戦前の家康の謀略の成果。
三成が絡んだ傍観は、作戦を巡る遺恨が原因の島津のみ。
0778人間七七四年
2014/05/15(木) 21:41:58.19ID:x/GHlFIt家康の私婚や島津領土問題への介入による豊臣政権の弱体化への弾劾。
0779人間七七四年
2014/05/15(木) 21:44:07.42ID:bnl1SW+Wよほど三成の統治は喜ばれていたからこそ大事に保管されてるんだろうな。
千石に1人の賦役とちゃんと決まってたし、それ以上が必要になった場合は飯米を給金して補償だし、
土地の耕作権は未来永劫、検地帳に書いた氏の者であり、奪われることがない保証もあるし、
百姓が迷惑することがあれば、取次は一切なく三成へ直接、訴訟できる目安による救済制度もある。
これほどよい領主はいないだろうね。
0780人間七七四年
2014/05/15(木) 21:47:23.81ID:7V7eZi1u宇喜多家内紛の処理
毛利家分封問題
小西の九州取次の取り上げ
豊臣政権下禁止された私婚の連発
自分への奉行衆からの糾弾に対し、話し合いではなく武力で排除する。
これが輝元、秀家、義弘、小西らが家康にキレて挙兵した動機だよなあ。
家康は自分以外の大名の弱体化と自派の拡大を謀っていた。
0781人間七七四年
2014/05/15(木) 22:28:56.85ID:f53aQScw完全に島津の内部問題です 家康関係なし
>宇喜多家内紛の処理
こちらも以下同文 家中まとめられない宇喜多が悪い
>毛利家分封問題
輝元に実子生まれたから秀元の扱いに困っただけ 毛利の責任
>小西の九州取次の取り上げ
宗と組んで詐欺行為働いて戦線を泥沼化させて戦犯 処刑されても文句言えない
>豊臣政権下禁止された私婚の連発
むしろ公職のトップにいる家康の裁量ですら婚姻認可できなかったら
適齢期の娘かかえる大名にとっちゃ死活問題
0782人間七七四年
2014/05/16(金) 14:28:44.78ID:I8iOMD82ま、鎌倉北条然り、徳川幕府然り、古今東西国内外問わず体制側ってのは嫌われるもんだし
0783人間七七四年
2014/05/16(金) 16:29:20.72ID:Xh5/5NOt武功派は三成にくしで凝り固まって、豊臣家からの恩を忘れてただけだし。
0784人間七七四年
2014/05/16(金) 17:18:45.92ID:xn85h2Ez0785人間七七四年
2014/05/16(金) 18:51:31.50ID:UKp1slrG家康は筆頭大老なんだから政務として諸大名の内紛に介入するのは当然の権利だろ
君の挙げているものを全て無視して介入しなかったら豊臣政権は有名無実となり無法な戦国乱世に戻ってしまう
家康はむしろ無能な奸臣によって乱れた豊臣の秩序を立て直すための改革をしていたと言える
結局のところ西軍は豊臣を守りたいんじゃなくて自分達が好き勝手できる昔の乱世に戻したいだけの謀反軍なんだよ
好き勝手したいだけの連中だから西軍には規律も一体感もなく史実の通りにバラバラなわけ
0786人間七七四年
2014/05/16(金) 20:15:53.50ID:WLa82yVr結局は誰かが独裁するしかない
0787人間七七四年
2014/05/16(金) 21:40:28.04ID:YBUTR55i大老や奉行の務め。
家康がそれを放棄して、その地位を横取りしにかかったのだから、
大老衆や奉行衆は秀吉の遺命通り、それを阻止しにかかっただけ。
0788人間七七四年
2014/05/16(金) 22:31:52.24ID:WLa82yVr0789人間七七四年
2014/05/16(金) 22:37:36.47ID:H/mn3Klg同じことを家康にやられても文句いえないしあの当時の大名なら誰も文句言わない
文句言うのは自分も一番に成り上がりたいと野心抱いてる奴ら
0790人間七七四年
2014/05/16(金) 23:08:41.75ID:xn85h2Ez0791人間七七四年
2014/05/16(金) 23:15:49.72ID:I8iOMD82同意
結局のところ豊臣政権は豊臣秀吉個人の才覚と実績によって成り立っていたに過ぎないと思う
明確な法を定めた江戸幕府と違って裁決のほぼ全てを秀吉の一存で決めていた訳だし
0792人間七七四年
2014/05/16(金) 23:18:31.57ID:H/mn3Klg長い戦国の世を潜り抜けた当時の人間にとっての共通認識
家康が一番強いから家康についた方が丸く治まると思った奴らが東軍
家康さえ束になってブッチめれば後はオレが最強!なノリの奴らが西軍。
西軍勝ってたら今度は西軍同士で王者決定戦始めてただろうな。
0793人間七七四年
2014/05/17(土) 00:41:20.40ID:kfT4XYyw少なくとも福島は徳川が豊臣にとって替わることは認めてない
家康もその力が無いことを分かってるから
部下が増長したことを福島に謝罪している
0794人間七七四年
2014/05/17(土) 07:56:22.23ID:8X4pGTht秀吉に個人としての才覚なんて皆無だろ。
秀吉は直接対決でたかが防衛戦の熊見川合戦で3000人討ち取られるほどの雑魚っぷりを晒していたが
上杉佐竹毛利長宗我部木曽小笠原真田石川水野十河河野大友龍造寺前田
柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって漁夫の利で力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権を作りあげることには成功した。
だが所詮土下座と漁夫の利を得ただけの中身のない傀儡政権なので秀吉がいなくなればさっさと崩壊するのは当たり前の事。対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
0795人間七七四年
2014/05/17(土) 07:58:03.65ID:kYsU/uGy織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入で
ぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多く
あつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
0796人間七七四年
2014/05/17(土) 07:59:10.60ID:N6oEiodv信雄と信孝がいがみあっていたり基地外のようなヌルゲーしか残ってなかったからな
本能寺の変で信長が光秀に殺されて光秀が逆賊の汚名負ってくれたおかげで、主殺しを討つ大義名分を棚ボタ的にいただいたあげく
摂津の諸侯や丹羽や信孝などをはじめ馬鹿みたいに味方が集まってくれたし清洲会議でも大きく優位になって領土を獲得してる。
あげく信雄と信孝も勝手にやりあってくれてたし、勝豊も美濃衆も会戦前くらいであっさり寝返ってたくらい、柴田側は統制が崩壊してたし、
会戦になると前田や不和や金森まで勝手に退却してくれるし、周辺諸大名も毛利上杉木曽小笠原宇喜多大友佐竹結城宇都宮那須皆川佐野真田芦名二階堂
白川結城石川岩城相馬河野十河など悉く秀吉に味方してくれたおかげで、秀吉は他力本願でヌルゲーの誰でも勝てる戦いができただけ。
しかもそんな今川氏真が指揮をとっても楽勝で勝てそうなヌルゲーの戦いですら小牧長久手合戦や熊見川合戦や小田原合戦など家臣をぶち殺されまくったり
300しかいない馬鹿な雑魚城攻めでろくに落せなかったりしてる。
柴田は上杉と交戦が続いてたのに対し秀吉は一応国境画定作業が残ってるとはいえ、
三か国毛利が割譲した上での和議が成立し、宇喜多とも本能寺前から一体化が進められ、もはや親藩的存在だったし
その差でしょ。そもそも単純に国力で見ても、かなりの開きがあるし。
柴田・信孝側からは美濃衆や勝豊などがボロボロ寝返ってるが
秀吉からは寝返りが皆無だし信雄領からも寝返りがなかったことから見ても
信雄よりも信孝領は遥かに不安定な状態だっただろうし。
そう考えると秀吉は圧倒的に運がよく、明智は不運だっただけ。何せ摂津の諸侯とか兄弟の契りしてる中川とか
信孝とか丹羽まで秀吉方に参戦して大軍に膨れ上がったのに対して明智は与力格がことごとく不参加、日和見だしな
山崎合戦なんて最初から勝ったようなもんでしょ。池田・高山・中川ら摂津の諸将は
本能寺前時点で秀吉が光秀との政争勝利の結果から秀吉派軍閥だし中川なんて天正8年時点で兄弟の契り結んでるほどで
光秀側は主殺しの汚名背負ったせいで細川・筒井ら与力連中に背かれ信雄・信孝・丹羽ら周辺諸将も基本みんな敵。
ありえないタイミングで信長が光秀に殺されたおかげで棚ボタ的に主殺しの敵打ちの大儀名分手に入れて
それを利用して次々に勝手に味方が増えたし、信長が殺されてから、わずか1日半でその報を知る棚ボタっぷり。
しかも毛利も都合いいタイミングで即座に難航することなく和議に応じてくれたし
0797人間七七四年
2014/05/17(土) 08:01:09.70ID:ELLCGhNm柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって漁夫の利で力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権だったから
秀吉がいなくなればさっさと崩壊するのは当たり前の事。対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
0798人間七七四年
2014/05/17(土) 08:06:28.16ID:8X4pGTht上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
0799人間七七四年
2014/05/17(土) 08:10:41.73ID:x9EFTUIU確かにそれはいえてるね。
実力でもぎ取った地位では全くないし普通に戦うと
今川氏真でも勝てそうな戦闘条件ですら信雄や輝元にすら大敗するような実力しか秀吉にはなかったから、
そういう、本人の実力からいえば全く不相応の地位にたまたま棚ボタ的に付いただけだし
中身のない傀儡的な政権だからこそ本人の死後あっさり崩壊したんだろうね
結局順当に滅びるべくして滅ぼされただけでしょ。
0800人間七七四年
2014/05/17(土) 08:13:47.29ID:FNXKJDyO秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。
そもそも徳川が体制ぶち壊したとかいうけどぶち壊されるような体制とか諸将の配置にしなきゃよかっただけじゃん
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、秀頼と家康直孫との婚姻 結んで豊臣継承の名分与えたり自分から家康が天下取りやすい状態作っといて
ぶち壊したも糞もねーじゃん
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻を進めている。自分の死後を見据え、最有力大名徳川家との融合を企図したものだ。
秀頼・千姫の間に出来た世継ぎが、徳川家の傀儡になる事は、秀吉が認識していて当然。
実は反徳川的な行動を起こし、豊臣家を滅亡に導いた輩こそ、秀吉の意思に背いた不忠といえる。秀頼・千姫の間の子は世継ぎになるわけで。
徳川の血が、豊臣宗家に組み込まれるわけだけど。実際融合されなかったのは、邪魔をした者がいたから。そしてそのせいで、豊臣滅亡。不忠でしょ。
千姫は正室なので、当然千姫との間の子が世継ぎでしょ。そうなれば、政権における徳川家の影響力が増す
0801人間七七四年
2014/05/17(土) 08:14:45.69ID:KEtDkjSHまた秀吉子飼いで最も恩を受けてると思われる武功派が三成憎しに凝り固まって家康に利用されたのが運のつき。
0802人間七七四年
2014/05/17(土) 08:16:17.95ID:KEtDkjSH安東氏なども家康に許可されていた蔵入地からの流用を止めて領国に引きこもり
奥羽の豊臣公儀となった上杉を家康のために攻めなくなり
最上も伊達も上杉との和睦交渉へシフトしている。
家康に従ってるのは森忠政や忠興のように家康から新知拝領してるような者か遺令に背いての婚姻関係。
そして一番の目的は朝鮮以来の三成憎しなのは明白で
内府たがいの条以来、家康が江戸で味方まで裏切るのではないかと疑心暗鬼になってる中で
西軍の主力が北伊勢に迫る中で三成憎しで、理解不能にも伊勢救援への援軍すら出さずに
三成のいる美濃大垣を目指して北上する福島ら武断派の行動を見ればわかる。
家康が江戸から動かないと断定した広家は楽観論の元に黒田の書状をシカトしまくり
ついには家康は駿河まで来てると大ウソまで付いてるが広家はそれも無視して返事も書かない。
家康の書状には自分への忠誠を喜び私的な徒党作り書状ばかりであり、武断派の思惑とかけ離れているのがわかる。
8/24の福島→秀忠と中山道を進む浅野長政宛でも福島は美濃攻略の報告で秀頼様に良きようにと言ってるし
正則は関が原前には織田秀信の助命を、後には家康に伊奈昭綱の切腹を要求するなど必ずしも家康に従ってないし
10/2の清正→浅野幸長書状でも関が原で悪逆人を討ったのはお手柄と言ってるなどすべて三成が悪いで決着しようとしている。
0803人間七七四年
2014/05/17(土) 08:49:51.02ID:67RtnJN1でも正則と清正は秀吉に禁じられてた徳川家との婚姻を真っ先に結んでる
家康の言いなりに収まるつもりはなくても豊臣家や秀吉への忠誠はほぼ無かったのではないだろうか
0804人間七七四年
2014/05/17(土) 08:50:21.61ID:Zb/QIWu5家康を討つことには大義名分が少なく、家康が会津討伐に向かうため畿内を離れたというチャンスに機械的に
反応してしまい、自陣営の体制を構築する前に挙兵してしまったこと。
実態としては、明智光秀の本能寺の挙兵に近いものがあった。
会津征伐に飛びつかず、もっとじっくりと待つ必要があったと思うよ。勿論その場合は家康も着々と体制がためをしてくるが、
そこは政治力の勝負だ。 むしろ政治力の勝負を諦めたために関ヶ原がおこったとも言える。
そもそも合議の結果何かを決定するのは家康の役割だし、前田は豊臣家にすら無断帰国したのだから謀反を疑われて当然だし
上杉も穏便に処理しようとした家康の提案を蹴って、武装して割拠状態になったのでこれも謀反とされて当然
島津や毛利や宇喜多の家中の争いを喜んだ?そんな証拠は一切ない。というか介入すら最低限だ。
北政所にいたっては自分から西の丸を家康に譲ってるし大名への加増は三成ら奉行衆もそれこそ「合意」してる
ついさっきまで秀吉という専制独裁者が君臨していた政権において合議を破った専制独裁者という非難そのものが馴染まないんだよ
秀吉自身は一度も合議による政権運営なんてしたことがないから
普通の大名からすれば誰も見たことがない体験したことがないものを破ったと言われてもピンとこない
それに三成の家康批判は一歩間違えれば秀吉批判にも取られかねない危険な主張だ
三成が家康に名前を変えて秀吉の専制独裁を批判していると受け取れば豊臣のため三成を討伐することに何も問題はない
そもそも徳川が体制ぶち壊したとかいうけどぶち壊されるような体制とか諸将の配置にしなきゃよかっただけじゃん
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり自分から家康が天下取りやすい状態作っといて
ぶち壊したも糞もねーじゃん
0805人間七七四年
2014/05/17(土) 09:11:21.62ID:3a98mJi+秀吉が豊臣姓を大盤振る舞いしたせいで。
0806人間七七四年
2014/05/17(土) 10:10:45.83ID:/6ze8UHT政権発足から十年そこらで幼君だけ残して死んだらそりゃ潰れるよ
0807人間七七四年
2014/05/17(土) 10:36:16.87ID:8X4pGTht秀吉は直接対決でたかが防衛戦の熊見川合戦で3000人討ち取られるほどの雑魚っぷりを晒していたが
上杉佐竹毛利長宗我部木曽小笠原真田石川水野十河河野大友龍造寺前田
柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって漁夫の利で力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権を作りあげることには成功した。
だが所詮土下座と漁夫の利を得ただけの中身のない傀儡政権なので秀吉がいなくなればさっさと崩壊するのは当たり前の事。対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
0808人間七七四年
2014/05/17(土) 10:36:54.81ID:LmJueQ/5織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入で
ぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多く
あつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
0809人間七七四年
2014/05/17(土) 10:37:49.42ID:oTEZVCoO豊臣姓はあげまくってたのは家康をいやいや征夷大将軍に任じた時期の朝廷が
家康牽制のためにつぎつぎあげ始めたんだよ。
たた豊臣宗家は摂関家だけど、清正らにあげた豊臣姓には家格向上の意味は付与されてない違いがある。
とうぜん家康にも摂関家の家格を朝廷は意地でも贈らなかった。
0810人間七七四年
2014/05/17(土) 10:43:58.82ID:Zb/QIWu5雑魚の信雄に135000の大軍で挑みかかって信雄領国は会戦早々尾張・美濃・伊勢・伊賀ともに寝返りの連鎖で崩壊状態だったほど
雑魚統制しかなかったのに秀吉方はいざ戦うと雑魚の信雄に1万人殺されたり
戸木浜田二重堀松ノ木東駒野河波蟹江長久保神戸など各城の攻防で奪回されたり蹴散らされたりするアホっぷりだったじゃん。
結局全く雑魚の信雄に歯が立たずあれだけ規格外の兵力差と、徳川の領国の崩壊状態(寝返りの連鎖や軍事機密露見や、
天正11年からの飢饉への対策として出した徳政連発)にも関わらず秀吉は家康や信雄に「ワシに従ってくれ〜」と必死に土下座して
母や妹を献上したり、関八州240万石の大領を与えなくてはいけないほど、家康に土下座状態だったから
豊臣家はあっさりと滅ぼされたんだろ。
結局事の始まりは秀吉が家康どころか雑魚の信雄に蹴散らされまくったせいで豊臣家を滅ぼされたんだから
秀吉が雑魚の信雄に大敗して、家を滅ぼされたって事だろ。
0811人間七七四年
2014/05/17(土) 10:52:27.37ID:x9EFTUIU本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や家康には到底敵わないため
信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。
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