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秀吉は三成や小西や大谷に大版図やるべきだった

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0001人間七七四年2013/12/09(月) 23:31:02.19ID:Ts49pmxk
個人的感情で凝り固まり、家康にマンマと篭絡されて恩を受けた豊臣家を崩壊させた馬鹿な武功派や
家康の示威行動に対してビビリまくり攻められてもいないのにヘタレ降伏する前田や浅野
総大将として積極的に決起を行いながら、中核となる軍隊をどうでもいい方向に分散させまくり
奉行衆らの美濃方面への防衛要請も無視して、結果徳川にグイグイ押し込まれ木っ端微塵にされた馬鹿毛利輝元

こんな馬鹿に大版図やるくらいなら、三成や小西や大谷ら、本当の豊臣家に忠義を尽くした連中に大版図やればよかっただけじゃん。
0002人間七七四年2013/12/09(月) 23:43:21.75ID:psy6nio3
元々大大名だった連中の領地をそんなに簡単に割れると思うの?
0003人間七七四年2013/12/09(月) 23:44:02.58ID:psy6nio3
前半読んでなかった
0004人間七七四年2013/12/10(火) 05:36:49.63ID:ks9GsXMJ
結果論やな
0005人間七七四年2013/12/10(火) 06:54:35.48ID:07CgtR8+
蜂須賀加藤福島という錚々たる人間に堂々と暗殺されかける時点で
三成なんかに領土やったらそれこそ内紛になるわ


バカ輝元なんて書いてる時点で菅沼遼太だろうがw
0006人間七七四年2013/12/10(火) 10:32:32.71ID:Y/rJ2MNy
そもそも官位官職も家康より高かった信雄が、
三河、遠江、駿河、信濃、甲斐への転封に従ってれば、のちの金山管理者大久保みたいな莫大な金山財力もあり、
最強大名になって豊臣家は家康如きに滅ぼされることは無かった。
今信玄と化した信雄は淀の叔父として事実上の天下人になってたはず。
家康が謀反したら攻め込まれる前に関東平野に押し出せばいい。
関東平野に攻め込んだ側は歴史的に負けた事がない程にチート。
0007人間七七四年2013/12/10(火) 12:18:30.72ID:pvS2ESRZ
遠江・三河に配した子飼いの武将も微妙だったし
5大老っていうのがもうね
0008人間七七四年2013/12/10(火) 23:30:38.76ID:gzOJuB8D
三成の豊臣家に対する忠義の話は、逸話レベルでも存在しない。

豊臣家を滅ぼした家康と相対したので、忠義扱いされてるだけ。
結果論から導かれる評価でしかない。

本当に忠義の人なら、関ヶ原は絶対に起こさない。
自身の政権復帰にために、豊臣家を巻き込んだ不忠の人。
0009人間七七四年2013/12/11(水) 09:58:19.30ID:N3jIvwI/
答え出てるじゃんw

三成の豊臣家に対する忠義の話→豊臣家を滅ぼした家康と相対した

お前はバカかw
0010人間七七四年2013/12/11(水) 10:40:02.06ID:nKkvpowc
結果論から導き出した評価だって言ってるのに(笑

後世、豊臣家が家康に滅ぼされる事を知っている人間が、後付けで与えた評価。
関ヶ原当時、三成の挙兵は謀反扱いで、豊臣家の支持も得られていない。
実際、豊臣家に対する赤心丸出しの忠義話は逸話レベルでも存在しない。
加藤、福島等とは対照的。
0011人間七七四年2013/12/11(水) 12:12:04.97ID:HM0ETJTM
関ヶ原で淀が秀頼の名で三成を支持したとしても
東軍の恩顧大名は「秀頼様は三成に騙されておるんじゃ」とか言って絶対に従わんよw
0012人間七七四年2013/12/11(水) 12:38:14.99ID:LZ0w4ukD
そもそも三成は佐和山や大垣にいて、
大坂城での会議や取り決めにも一切参加してない
大坂強兵後の緊急時即戦力としての
ただの現地採用の最前線現場一指揮官風情だし。
0013人間七七四年2013/12/11(水) 14:34:21.40ID:7ST3EvfI
>>10
>関ヶ原当時、三成の挙兵は謀反扱いで、豊臣家の支持も得られていない。

豊家から七手組の援助があったんじゃね?
0014人間七七四年2013/12/11(水) 16:19:06.28ID:zcXIPJsS
>>12
8月2日付真田昌幸宛書状に三奉行・ニ大老と共に三成も署名しています
0015人間七七四年2013/12/11(水) 18:23:02.04ID:LZ0w4ukD
>>14
だからそれは、伏見城陥落し、佐和山城まで西軍が侵攻できるようになってしまった
7月晦付けの真田宛の三成書状で
西軍に帰順現地採用された三成が初めて、俺は西軍参加したって表明して以後の話だろ・・・
それでやっと大坂へやってきた。
つまり三成は対家康へ向けた西軍挙兵に関わる会議や取り決めにはまったく関わってない。
0016人間七七四年2013/12/11(水) 20:18:03.41ID:zcXIPJsS
戸田左門覚書には6月28日に大坂へ到着したとあるな
0017人間七七四年2013/12/11(水) 23:51:34.19ID:Z6J+mVhx
覚書なんて一次史料じゃないやん。
0018人間七七四年2013/12/11(水) 23:55:16.20ID:kAfuj30M
>>1のようにしたら反乱だらけになるな
0019人間七七四年2013/12/12(木) 00:30:45.53ID:xsDiTGf9
>>15
7月13日付 益田元祥・熊谷元直・宍戸元次連署状 (榊原康政・本多正信・永井直勝宛)
7月14日付 榊原康政宛 吉川広家書状

いずれも、三成・吉継・恵瓊の謀議に触れている。
0020人間七七四年2013/12/12(木) 01:59:22.73ID:5OYI1bif
そうだな、俺が秀吉なら、三成に近江若狭、大谷に越前、小西に紀伊、清正に肥後ってとこかな。
0021人間七七四年2013/12/12(木) 02:23:27.41ID:r1cOAEn7
三成厨の理想は豊臣の存続ではなく三成政権だから三成が大人しく殺されてればというのは考えない
0022人間七七四年2013/12/12(木) 07:15:02.22ID:ssIlunUX
実際に三成が七将襲撃事件でぶっ殺されていたら豊臣は瓦解しなかっただろうしな
家康の権力は強大なままだが、大坂の陣みたいな最悪の事態は回避できた
0023人間七七四年2013/12/12(木) 08:57:02.22ID:eew7HvfI
七将が奉行派を排除して、
自分らがその地位についたら政権運営なんてできないし、
三成をかばう家康に討伐されるだけだろ。
0024人間七七四年2013/12/12(木) 11:34:51.82ID:7H75NFai
七将が奉行を排除して、その地位を奪うシナリオはあり得ない。
三成排除はそれ自体が目的。
0025人間七七四年2013/12/12(木) 14:59:03.15ID:xsDiTGf9
家康に、(他大名比)最大の版図、最高の官位を与え、豊臣宗家外戚の地位を約したのは他でもない秀吉。
家康中心となる体制を構築したのは秀吉であり、武断派は秀吉の敷いたレールに乗っただけ。
家康に篭絡されたとか勘違いも甚だしい。

結局土下座するなら、最初から土下座して領土維持する方が100倍マシ。

関ヶ原における毛利の主目的は、支配領域の拡大と瀬戸内海益の確保。
自国の権益を重視するのは当然で、豊臣家の守護者であるはずもない。
ましてや三成が毛利を制御出来るわけがない。
0026人間七七四年2013/12/12(木) 16:57:51.11ID:NFNUICvw
>>24
奉行の代わりは誰がやることになんるんだ?
0027人間七七四年2013/12/12(木) 17:28:32.83ID:99Do+yhh
家康に地位と石高を与えたのは確かだが豊臣家が家康中心になるような体制までは秀吉は構築してないし
豊臣家を蔑ろにしたり、豊臣の天下を崩壊させてよいなどとは一言も秀吉は言ってないわけで。
三成は豊臣家の天下を守り、外様の暴走を防ぐのに必死だったが
武功派は自分の石高や欲しか考えないような馬鹿だったから家康にマンマと篭絡されて、主家を崩壊させただけ。
三成が五大老筆頭、200万石レベルの石高、豊臣家の外戚の地位についていたら間違いなく
すんなりと秀頼への後継はうまくいっていた。
0028人間七七四年2013/12/12(木) 19:29:21.71ID:FCQldDWA
三成にそんな能力はない
0029人間七七四年2013/12/12(木) 19:57:26.33ID:WuqL3yVR
秀頼の後見頼んじゃってるからなぁ
0030人間七七四年2013/12/12(木) 20:30:05.33ID:eJG0MeYT
秀吉が全部悪い
0031人間七七四年2013/12/12(木) 21:24:19.10ID:3YHOe9t6
>>29
秀頼の後見は前田家に任している。
0032人間七七四年2013/12/12(木) 21:30:58.09ID:FCQldDWA
前田は傅役、後見は家康にも託している
0033人間七七四年2013/12/13(金) 00:32:57.00ID:8Uo+GETl
>>26
奉行そのものが不要だろ
だいたい家康の専横とか言われているが文治派が権力を奪われて不満を言っているだけで
統治そのものは奉行などいなくてもなんらの影響もないことがはっきりしたわけで
むしろ奉行など現場とトラブルを起こし豊臣の政務を妨げる存在でしかなかった
0034人間七七四年2013/12/13(金) 07:36:02.87ID:HwCvcgwQ
まぁ早い話、現実に浅野と石田の失脚で補充は不要だったし。
0035人間七七四年2013/12/13(金) 08:16:50.29ID:4zWOuiHL
つまり家康だけいれば、
他の大老も奉行も秀頼も必要ないっし、
いなくても困らないって言う話かw
逆にいえば遺令に背く家康だけがいなくても困らないよなw
そもそも大坂城で秀頼を後見するのを頼まれた前田と違い、
家康は伏見にいて大坂に来てはならないのに、
北政所を追い出して秀頼を人質に擁して専横するなんて董卓みたいな逆臣だよな。
0036人間七七四年2013/12/13(金) 17:43:47.23ID:mzdW9wHm
北近江で10万石くらいだろ?三成って
どんだけケチやねん
0037人間七七四年2013/12/13(金) 23:10:48.37ID:gurKozqa
>>36
秀吉の筑前筑後の加増話を三成は断って、
豊臣家の蔵入地にするようにした。
あまり領地拡大に興味なかったが、
家臣には加増出来なくなった事を謝罪してる。
0038人間七七四年2013/12/13(金) 23:24:25.22ID:fEw+4ycf
>>35
真面目な話、天下国家で考えれば、家康がいないと困るよ。
秀頼の親政は現実的に不可能であり、安定した政権を志向しようと場合、
複数の有力大名が並立するより家康一強の方が安定する。
そういう意味で、秀吉が敷いた家康主導の安定路線に従えなかったのが、毛利・上杉・石田等。

前田征伐で屈服した前田家は、領国を削られるでもなく経済的な実害はゼロ。
本質は徳川主導の豊臣安定政権への踏み絵だよね。
0039人間七七四年2013/12/13(金) 23:45:20.98ID:iIIrbJFt
家康に地位と石高を与えたのは確かだが豊臣家が家康中心になるような体制までは秀吉は構築してないし
豊臣家を蔑ろにしたり、豊臣の天下を崩壊させてよいなどとは一言も秀吉は言ってないわけで。
三成は豊臣家の天下を守り、外様の暴走を防ぐのに必死だったが
武功派は自分の石高や欲しか考えないような馬鹿だったから家康にマンマと篭絡されて、主家を崩壊させただけ。
三成が五大老筆頭、200万石レベルの石高、豊臣家の外戚の地位についていたら間違いなく
すんなりと秀頼への後継はうまくいっていた。
0040人間七七四年2013/12/14(土) 01:24:10.80ID:bEqQsy/e
三成は石高が少ないから、豊臣家の天下を守り外様の暴走を防ぎ、自分の権力をふるえるように必死だったんだよ。
その三成が200万石レベルの石高になったら、自分の石高や欲しか考えないようになるよ。
0041人間七七四年2013/12/14(土) 04:42:01.79ID:/xxsw1jH
>>22
武力衝突がないだけで、家康が将軍になり、芽を摘むために豊臣は滅ぼされただろうな。
0042人間七七四年2013/12/14(土) 09:24:43.97ID:k+27TPTl
>>37
ふうん
常識的に考えれば
筑前筑後の田舎と北近江なら北近江がましだなw
(今で言う西東京と福岡くらいの違いはある)
まして蔵入地の直接の管理って自分も含めた奉行衆だろ?
三成だけは清廉だって腐女子脳になってないか?
0043人間七七四年2013/12/14(土) 09:30:37.48ID:QwzqEJZ/
中井氏
一般に秀吉は自分の死後、秀頼成人までの政務代行者を家康に委ねた、との見方がされることが多い。
これは浅野家文書の「豊臣秀吉遺言覚書」等の記述が典拠になっているが、
原文を素直に読むと、あくまで家康は政務執行者の一人として位置づけられている。
秀吉の死後、三成はくどいほど、
十人衆(いわゆる五大老・五奉行)での合議を強調し、
秀吉薨去後の誓詞にも盛り込んでいる
0044人間七七四年2013/12/14(土) 10:11:42.76ID:Wnh6w42N
最大の版図、最高の官位、最強の軍事力に加えて豊臣家の外戚である政務執行者ね。
これだけの実力・肩書きを持つ家康が、他の9人と同列でありそれに甘んじるべきだという
考えは、全く非現実的。
0045人間七七四年2013/12/14(土) 10:36:22.34ID:4xthLgrF
秀長が長生きしてりゃなんの問題もなかったのにな
0046人間七七四年2013/12/14(土) 10:45:01.93ID:k+27TPTl
>>45
ここは日本だが?
叔父対甥の大戦争を学校で習わなかったか?
0047人間七七四年2013/12/14(土) 12:02:51.13ID:3OVtpIJv
秀頼と秀長の対立が始まるとしたら秀頼成人後だろうな
家康って潜在的脅威が死ぬまでは起きない気もするけど
0048人間七七四年2013/12/14(土) 12:28:54.06ID:5bZC70lb
秀吉は死後の体制を合議制にして、特定大名の暴走を牽制できるようにしてるし、
それは歴史上、幼君を傀儡として専横する奸臣が現れることを危惧したから。
秀吉は利家らには実力、人望で全く勝てない家康は卑屈に振舞っていたが、
彼らが死ぬや豹変増長し、 威嚇脅迫を以って望み幼君の諸権力を盗み奪い、ついには殺し
女子供を含む大坂20万人を虐殺し、大坂を更地にするほど徹底的に痕跡を消し、屈辱を思い出せないように破壊に偏執した。
醜く汚ない老人家康は屈辱が忘れられず秀吉の墓を暴き神号を奪うなど暴虐無道な行いをし、
朝廷すら脅迫し好き勝手したキチガイ奸臣。
一.自然於喧嘩口論者致堪忍可属理運事
一.無実儀申上輩在之者双方召寄堅可被遂御糺明事
一.何たる儀も内府大納言殿へ得御意其次第相究候へと被成御意候事
一.諸事御仕置等之儀其軽重を決し十人之衆中之多分に付而可相究事
家康の耳に入れ、10人衆の裁判を催し相談を究めて鼎の軽重を決し御仕置きをすること。
つまり家康には独裁権など付与されてない。
ライバルと覇権を争って実力で天下を取るならまだいい。
しかし秀吉や利家らが死ぬのを待って、
平時に乱を起こして幼君から天下を盗んだ醜く老人が家康。
自分より強いやつには諂い忠臣を装い、
自分より弱いやつには脅迫するキチガイなのが家康。
0049人間七七四年2013/12/14(土) 12:38:00.60ID:ctSD9UJx
秀頼が生まれず秀次が継いでいたら普通に豊臣政権は続いたろうな。
でも、秀吉の専制君主体制みたいなものだから、死後政治機構は混乱するので不安はある。
0050人間七七四年2013/12/14(土) 12:40:59.57ID:ctSD9UJx
秀吉の所領よりも石高の高い関東を家康に与えたのは秀吉自身。
自業自得だな。
0051人間七七四年2013/12/14(土) 13:03:12.04ID:5bZC70lb
>>50
それの根拠は?
0052人間七七四年2013/12/14(土) 13:18:58.23ID:MtGnW/PO
>>秀吉は利家らには実力、人望で全く勝てない家康は卑屈に振舞って

信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
0053人間七七四年2013/12/14(土) 13:19:50.07ID:k+GU6+Aj
そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
0054人間七七四年2013/12/14(土) 13:21:09.12ID:IFfjZoX8
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。

小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
秀吉自体が土下座と棚ボタと謀略で成り上がってきただけの人だから純粋な戦がゴミみたいに弱いのは仕方がない。
雑魚の毛利に連戦連敗するアホなんてそうそういないよ。
毛利なんて5万石程度の南条にすら攻略失敗したり20万石そこそこの宇喜多にも野戦でガチ大敗するくらい弱い軍隊なのに
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
0055人間七七四年2013/12/14(土) 13:23:06.43ID:IFfjZoX8
>>彼らが死ぬや豹変増長し、 威嚇脅迫を以って望み幼君の諸権力を盗み奪い、ついには殺し
>>女子供を含む大坂20万人を虐殺し、大坂を更地にするほど徹底的に痕跡を消し、屈辱を思い出せないように破壊に偏執した。

秀吉には到底負けるよ。
フロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。

その後妹も同じように殺されてる。

秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
0056人間七七四年2013/12/14(土) 13:27:12.27ID:Wnh6w42N
家康は、実力・肩書・名声、いずれも大老奉行10人で突出しており、道筋をつけたのは秀吉自信。
自らが助長した圧倒的な実力差、この状況で合議が機能すると秀吉が本気で考えていたと思うか?
余程の政治音痴でない限り、あり得ない話だ。
0057人間七七四年2013/12/14(土) 13:31:24.87ID:hirGqFNg
>>50
はいはいデタラメ乙w
荒らしで誤魔化すなよwww
0058人間七七四年2013/12/14(土) 13:36:18.63ID:PrHdyBe1
まさか自分の家まで滅ぼすような奸臣に、全権委ねたなどという事はないだろう。
そうだとすれば秀吉は相当痴呆症が進んでいたとしかいいようがない。
結局の所、合議制により秀頼成人までの豊臣家運営がすんなりいく事を期待していたが
武功派の三成への恨みや、目先の利に走る性格、前田やや浅野の毛利のふがいなさなどを
全く想定していなかったか、甘く見ていて、秀吉の予測を大きく外れる末路となっただけの事だろう。
0059人間七七四年2013/12/14(土) 13:41:22.43ID:j1F7qcv7
結局>>1が正解だよな。
目先の欲に目がくらんで主家を見捨てる武功派連中や、政権簒奪の奸臣家康の示威行動にビビリまくって
即効で土下座する前田や浅野などと違って、豊臣政権に忠義を尽くした無欲な三成や小西らに大封与えてればよかっただけ。
三成は島津家の蔵入り地問題や、家康の私婚問題に対する弾劾状や、朝鮮出兵の際の恩賞問題の処理などを見る限り
極力豊臣蔵入り地の確保と、諸大名の力を削ぐ事を中心に考えて一貫して行動している。
結局武功派が馬鹿だったから、個人的恨みでもって三成らに立てついて主家への恩義を忘れて家康に篭絡されて、主家を滅ぼしただけ。
0060人間七七四年2013/12/14(土) 13:49:14.73ID:Wnh6w42N
>>58
全権委ねたは言い過ぎ。誰もそんな発言はしていない。
秀吉自らに比肩する程の実力者を政権中枢に置きながら、合議が機能すると思っていたなら、
秀吉は相当痴呆症が進んでいたとしかいいようがない。
三成への恨みとか、性格とか、不甲斐なさとかは、講談的なのでやめとけば?
0061人間七七四年2013/12/14(土) 13:50:32.32ID:hirGqFNg
コピペ爆撃はいらないから早く>>50の発言のソースを出してみろよ
0062人間七七四年2013/12/14(土) 13:59:22.17ID:Wnh6w42N
>>61
もうそういうのバレバレなのやめれば?
ツッコミどころ満載な対論側のレスを自演して、自らソースを要求する手法。
0063人間七七四年2013/12/14(土) 14:06:21.70ID:hirGqFNg
意味不明。つか答えられないから爆撃荒らしして逃げようとしてるんだろw
0064人間七七四年2013/12/14(土) 14:13:18.95ID:/FFf432O
>>三成への恨みとか、性格とか、不甲斐なさとかは、講談的なのでやめとけば

だってそれ以外に理由がないじゃん。
当時家康は私婚の連発や、前田や浅野家へのいちゃもんと、示威行動や、自身への奉行衆からの弾劾状を
軍事力で無理矢理排除するなど無茶苦茶好き勝手やってたわけで、それにもかかわらず恩を受けた主家を見捨てて
家康についたのは、三成への個人的恨みや好悪感情としか考えられないだろ。
奸臣を排除するという西軍と違って、東軍には何せ一切大義名分がないからな。
0065人間七七四年2013/12/14(土) 14:27:49.81ID:Wnh6w42N
豊臣政権に謀反を起こした三成に与する理由が全くないんだが。
家康は、依然豊臣政権大老。考えるまでもない。
主家を見捨てて家康につくって、豊臣家と家康の対立軸ではないんだけど。
大義名分は、謀反軍の鎮圧。
0066人間七七四年2013/12/14(土) 14:32:05.70ID:zmKsSEMr
三成が真に忠義に溢れていたなら関ヶ原の行動はありえないしな
家康や豊臣武功派の留守を狙って挙兵し、関係のない勢力まで味方にすべく行動し
従わなかった奴はガンガン攻める。明智光秀のそれと同じ
0067人間七七四年2013/12/14(土) 16:21:52.75ID:zUxtEZDp
>>45
俺もそう思う
0068人間七七四年2013/12/14(土) 21:48:34.48ID:IFfjZoX8
三成がいなかったらもっと家康の暴走が酷くなるだけなんだが。
家康と伊達・蜂須賀・福島ら3大名家との間に交わされていた婚姻の密約は
同盟の締結を意味し、秀吉の取り交わした誓詞においてこの種の私婚は堅く禁じられていたとしている
1/21大阪の大老・奉行たちは3中老(中村・生駒・堀尾)を使者として家康の元に遣わし家康のかどを詰問
弁明のかなわぬ時は大老の列から取り除くと申し入れる
家康は大阪よりの糾問使に対し家康は伏見屋敷を増強し変にそなえる
豊臣系武将や榊原・本多らもこの事態をきいてかけつけ伏見の徳川屋敷には大軍勢が集結しこのため大阪の5奉行は逆にきわめて厳しい立場となり
家康を糾問するどころか5奉行側が家康にわびをいれるというめちゃくちゃな形での解決となる
この後前田利家など大老、奉行衆と家康との確執はぬきがたくなり細川忠興はそれを仲介する
家康の暗殺計画が奉行衆らによって企てられ家康は向島に城を移す
利家が死亡し、今度は武功派7将によって三成襲撃計画が起こり、家康は公儀にのっとり武力行使をやめさせる
石田三成襲撃事件本質が蔚山篭城戦をめぐるものであるとわかる(3/19 5大老連署状)
この問題の解決により家康は「天下殿」という世評を受ける(多聞院日記)
そのような中9月に大阪へ家康が赴いた際、暗殺計画があることを増田より告げられる。前田・浅野・大野らが首謀
この一件より家康は伏見より大阪西の丸へ移り天守閣を築造して、自らが秀頼と並び立つ立場であると天下に誇示する
家康は先の暗殺計画の謀議者の摘発に乗り出し土方・大野を配流処分とし
浅野は奉行職を解任し国許へ蟄居とする
また加賀前田家や細川忠興にも追求の手を伸ばし利長の挙兵反乱の疑いを詰問し
10/3西の丸に諸将を収集し北陸討伐令を出す。細川は家康へ恭順の意を示し家康に誓詞を出しさらにその三男忠利を江戸に送り人質とする
前田は弁明するが母芳春院を江戸に送る事を求められる
このように家康は自分のやる事は詰問されても自力で排除し奉行衆を屈服させようとし
他者の行いは徹底的に詰問して敵対勢力を一つ一つ潰すやり方で無理矢理豊臣家を崩壊させた張本人
0069人間七七四年2013/12/14(土) 21:58:45.09ID:MtGnW/PO
また直接婚姻を結んでいない大名家も徳川家と親交があったようだ
島津家の場合慶長3年11月に義久が伏見家康邸を訪れる、後日その返礼として家康が義久を訪れる(大村市兵衛重頼古戦術書附)
これを知った三成は義弘・忠恒は朝鮮帰国後博多において三成より譴責を受け、そのため義久が義弘・忠恒に対し
「内府様へ参候事、又私宅へ入御之事、曾別心有之儀不申入、又不承候」と起請文を出すまでの騒ぎとなる
家康と島津家の間に梵舜や近衛前久・信伊が介在し両者の間を取り持つ
三成からの譴責に対する起請文は単なる見せ掛けである事が家康が義弘・忠恒の私宅をわずか4日後に訪問している所からわかる
また慶長4年1/9家康の差配によって島津家へ五万石の加増が「朝鮮し川表」における「御忠孝無比類、依之為褒美」与えられる
これも三成は反対するが家康によって強行される
対する三成と島津の関係は、島津は豊臣政権への服属以来、三成に細心の注意を払い接してきた人物であった。
島津領太閤検地の総責任者であり島津領豊臣倉入地の代官を務める三成は島津家への影響力が非常に大きく
三成の意向はすなわち豊臣政権の意向であった。
だが島津と家康が接近する中、三成とは距離が置き始めていた。それは慶長4年3/9忠恒が、三成が最も信頼し、
島津家内部で三成に最も協力的であった島津家老伊集院幸琉を誅殺した事に現れている
これは先学の指摘するとおり、島津家の豊臣政権からの離脱の第一歩といえよう。そしてこれは秀吉死去後の豊臣政権内部での三成の地位の弱体化なくしては
起こり得ない事であった
0070人間七七四年2013/12/14(土) 22:00:56.36ID:MtGnW/PO
忠恒の幸柳誅殺行動に対し三成は「御立腹」で、義久は三成に「幸柳生害之儀、今度得御意急二仕出し候之処と存候」と言い訳にもならない弁明をしながら
「又八郎(忠恒)短慮之仕立、言語同断不及是非候」、「曲事深重二候」と三成の腹立ちに同調し、それを懸命に鎮めようとしている
さらに後日銀子十枚を贈答する。しかしこの前後の忠恒宛の書状で義久が忠恒をこの件で叱責した形跡は見られず、成敗そのものには異存はなかったと思われる
この事件以来三成から島津家への書状はなくなり疎遠になってきているのがわかる
さらにその後「庄内の乱(幸琉の子忠真の反乱)」において家康は終始島津家の立場に立ち、乱の収拾に尽力する
関が原の合戦直前まで島津家は家康の指示を尊重する形で乱の処理を行い家康の対応は島津家にとって大方において満足すべきものだった
家康もまたこの乱の処理を契機に諸大名への軍事動員権を行使するなど「公儀」としての立場を獲得していく
結局三成が馬鹿だったというより豊臣政権の国力から考えたら
ハナクソみたいな国力しかなかった徳川を焼け太りさせたのが豊臣政権崩壊の原因としかいいようがない
いちゃもんつけて信濃や甲斐を蔵入り地にするなり木下とか秀勝とか極力秀吉に近い者封じるべきだったとしかいいようがない
あと秀次も殺したのは大きな痛手。秀頼成人まで秀次に後見させるなりすればこんな事態はさけられたはず
関が原をおこしてしまった時点で西軍の負けは確定しているように語り結果三成は無能とののしるやからがいるが
それはあくまで結果論としかいいようがない
関が原会戦時の三成人数書立や慶長見聞集、真田文書を見ると西軍は畿内だけで18万も集まり
小早川や朽木らの離反を差しいても単純に東軍の兵力を圧倒している
これでは兵力的に考えても陣地でも東軍を粉砕する兵力として十分すぎる
負けたのは総大将であり戦局を決定できる大軍を有しながら大坂に居座り何もせず改易された輝元や
軍勢派遣を止めたとされる吉川や秀元ら毛利一族のせいとしかいいようがない
東軍には三成憎しの武功派と家康が外交や婚姻で懐柔した伊達・蜂須賀などが付いたのに対して
西軍には上杉・毛利・宇喜多や5奉行のほかの連中・さらに畿内・西国の諸将が多く付いている
三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いたという事は諸侯は内心では家康のやり方は無茶苦茶で豊臣政権をあからさまに犯すやり方をしてると考えた証拠だろう
ただ総大将としての三成の地位は家康に対抗できるものでなく、毛利輝元も総大将引き受けながら何もせず大厳封食らうヘタレぶりで
西軍は木っ端微塵になった。
0071人間七七四年2013/12/14(土) 22:01:53.78ID:MtGnW/PO
あのタイミングで三成が挙兵しなきゃ家康の無茶苦茶なやり方で次々いちゃもんつけられて
前田や浅野やらみたいに次々降伏するだけの話だし
秀頼成人までまだ時間があるし既に天下人という世評を受け武功派連中により三成失脚、
家康は諸将の意向無視で勝手に婚姻同盟派閥形成するし島津への倉いり地問題やらで散々恩売ったりしてるし
関が原の戦いも美濃口の防衛要請無視しまくって四国やら伊勢湾やらどうでもいいところに軍送った輝元のアホさ加減で負けただけだし
美濃口に大軍で援軍きてたら東軍は木曽川の防壁と美濃の秀信や木造などに阻まれて進む事など到底適わないだろうし
畿内方面に展開してる部隊だけなら西軍のがずっと多いはずだから西軍に戦力の集中を考案できる優秀の戦略眼もった武将がトップなら
東軍など一網打尽にできたはず。 総大将輝元がアホみたいなところに軍進めたり
肝心の決戦で軍動かさなかったり馬鹿みたいな行動したおかげで三成は寡兵で戦わなくてはならなくなり西軍は大敗した
正則の弟の福島高晴が長島へ籠城してる中で西軍の毛利軍は鍋島隊を長島への備えに配置して攻めずに関が原へ急行してる。
関が原を無視して、長島城を落として尾張国に雪崩れ込み背後を襲う戦略をつかわなかったのは
それだけ長島城が堅固だったと言うことだろうけどそもそもなら、なんで伊勢攻略軍なんて編成したんだよって話だよな。
素直に、岐阜城を策源地に尾張に攻め込んでれば良かったじゃんwってもんで。
やっぱり毛利ってのは戦略眼がまるで無い。
笠谷氏は「関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制」で 「豊臣政権とその崩壊」の最後の一文
>こうして家康に敵対する勢力はことごとく退けられ、あるいは圧迫され政権はいまや家康の独裁の様相を呈してきた。
言葉は違うが、彼は第一章を丸々使って 「主君の嫡男を差し置いて、それ以上に徳川家康が権力を笠に豊臣家を無視して独断で政治をできるほど強かった」
という意味のことを書いてますよ まさか読んでないとか有り得ないとは思うけど、
関ヶ原前後の状況についてよくまとまった良い本だから一読をお勧めする

東軍には三成憎しの武功派と家康が外交や婚姻で懐柔した伊達・蜂須賀などが付いたのに対して
西軍には上杉・毛利・宇喜多や5奉行のほかの連中・さらに畿内・西国の諸将が多く付いている
三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いたという事は諸侯は内心では家康のやり方は無茶苦茶で豊臣政権をあからさまに犯すやり方をしてると考えた証拠だろう
実際三成は蔚山城攻防での論考交渉の際や島津家倉入り地加増問題など
一貫して豊臣の倉入り地の維持・諸大名の倉入り地や石高増加反対や家康と諸大名との会合を糾問したりと
豊臣家のために動いているのに対し家康は五大老の許可なく私婚で諸大名取り込んだり島津の倉いり地問題や庄内の乱の協力などで積極的に
諸大名を取り込み豊臣家のためなどではなく自勢力拡大・専横を行っているのは明らかで
その証拠に三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いている
むしろ東軍についた諸大名の方が三成憎しの個人的感情やらで凝り固まっているにすぎずまとまっていたとする根拠がない
西軍の敗因はあくまで毛利家の美濃口への援軍要請無視・優先順位低く要害の構えられた伊勢方面軍編成による戦力分散
・毛利一族が総大将にかかわらず不戦・毛利輝元出陣なし・小早川の離反と
毛利のあまりのヘタレぶりで負けただけにすぎない
0072人間七七四年2013/12/14(土) 22:03:34.51ID:MtGnW/PO
>>西軍の大義名分が失われたとするのは何の関係もない毛利輝元を担いだからだろうが
大義名分なんて家康側にははなからなさすぎる
禁止された私婚をどうどうと執り行うどころかそれに対する大老連署での詰問に対し軍事力行使で奉行衆を逆に謝らせ
この後前田利家など大老、奉行衆と家康との確執はぬきがたくなり細川忠興はそれを仲介する
家康の暗殺計画が奉行衆らによって企てられ家康は向島に城を移す
利家が死亡し、今度は武功派7将によって三成襲撃計画が起こり、家康は公儀にのっとり武力行使をやめさせる
石田三成襲撃事件本質が蔚山篭城戦をめぐるものであるとわかる(3/19 5大老連署状)
この問題の解決により家康は「天下殿」という世評を受ける(多聞院日記)
そのような中9月に大阪へ家康が赴いた際、暗殺計画があることを増田より告げられる。前田・浅野・大野らが首謀
この一件より家康は伏見より大阪西の丸へ移り天守閣を築造して、自らが秀頼と並び立つ立場であると天下に誇示する
家康は先の暗殺計画の謀議者の摘発に乗り出し土方・大野を配流処分とし
浅野は奉行職を解任し国許へ蟄居とする
また加賀前田家や細川忠興にも追求の手を伸ばし利長の挙兵反乱の疑いを詰問し
10/3西の丸に諸将を収集し北陸討伐令を出す。細川は家康へ恭順の意を示し家康に誓詞を出しさらにその三男忠利を江戸に送り人質とする
前田は弁明するが母芳春院を江戸に送る事を求められる
このように家康は自分のやる事は詰問されても自力で排除し奉行衆を屈服させようとし
他者の行いは徹底的に詰問して敵対勢力を一つ一つ潰すやり方で無理矢理豊臣家を崩壊させた張本人
豊臣が滅ばないためには家康に大封与えない事が一番
秀吉に恭順した時点でもってた三河遠州駿河信濃佐久諏訪伊那と甲斐の100万石程度にとどめるか
信濃3郡と甲斐を無理矢理没収するのが一番手っ取り早い解決方法
島津など他大名にも接触しまくり恩を売りまくり
はっきりいって徳川方には大儀名分も糞もあったものじゃなく
無理やり無茶苦茶なやり方で豊臣家を崩壊させたにすぎん
あのタイミングで三成が挙兵しなきゃ家康の無茶苦茶なやり方で次々いちゃもんつけられて
前田や浅野やらみたいに次々降伏するだけの話だし
秀頼成人までまだ時間があるし既に天下人という世評を受け武功派連中により三成失脚、
家康は諸将の意向無視で勝手に婚姻同盟派閥形成するし島津への倉いり地問題やらで散々恩売ったりしてるし
関が原の戦いも美濃口の防衛要請無視しまくって四国やら伊勢湾やらどうでもいいところに軍送った輝元のアホさ加減で負けただけだし
美濃口に大軍で援軍きてたら東軍は木曽川の防壁と美濃の秀信や木造などに阻まれて進む事など到底適わないだろうし
畿内方面に展開してる部隊だけなら西軍のがずっと多いはずだから西軍に戦力の集中を考案できる優秀の戦略眼もった武将がトップなら
東軍など一網打尽にできたはず。
総大将輝元がアホみたいなところに軍進めたり
肝心の決戦で軍動かさなかったり馬鹿みたいな行動したおかげで三成は寡兵で戦わなくてはならなくなり西軍は大敗した
正則の弟の福島高晴が長島へ籠城してる中で西軍の毛利軍は鍋島隊を長島への備えに配置して攻めずに関が原へ急行してる。
関が原を無視して、長島城を落として尾張国に雪崩れ込み背後を襲う戦略をつかわなかったのは
それだけ長島城が堅固だったと言うことだろうけどそもそもなら、なんで伊勢攻略軍なんて編成したんだよって話だよな。
素直に、岐阜城を策源地に尾張に攻め込んでれば良かったじゃんwってもんで。
やっぱり毛利ってのは戦略眼がまるで無い。
0073人間七七四年2013/12/14(土) 23:04:47.86ID:woYcZ08M
>あのタイミングで三成が挙兵しなきゃ家康の無茶苦茶なやり方で次々いちゃもんつけられて

あのタイミングで三成が挙兵したせいで家康はいちゃもんつける必要もなく日本の半分を大改造する力を手にしたんだろ
そもそも当時の家康にとっての最大の弱点は年齢による時間であり
75歳まで生きれることなんて当の家康本人にも確信できることではなかった
その最大の弱点が三成の無謀な蜂起によって解決されて半日の戦で天下権力を手に入れることができたのだから
三成こそ豊臣の天下を崩壊させた最大の戦犯であることに疑いはない
0074人間七七四年2013/12/14(土) 23:16:31.83ID:4xthLgrF
関が原が起きず
家康がネチネチ五大老潰しにかかったとして
征夷大将軍にはなれないよね?
結局家康の死ぬ1617年位まで粘れば豊臣の勝利か?
ただその頃には加藤も死んでるし頼りになる恩顧大名も軒並み代替わりで忠誠心なさそうだな
0075人間七七四年2013/12/14(土) 23:37:42.24ID:EpVcVJ50
五大老潰せるかどうかも怪しいな
石田三成が1599〜1600に亡くなるということは、史実で西軍側だった人間が
そのまま延命することになるし、上杉討伐はなされるだろうが、上杉単独の反乱では
上杉が敗死しても大した戦功にはならんし、万が一長期化すればそれこそ家康の政治生命にかかわる
順調にいけば秀頼は1610年くらいには元服できるから、家康は最低でもここまでに全ての五大老を潰さないと無理
服従させるだけでは秀頼が大号令した時に秀頼に味方する奴も出てくる。ましてや家康が強行に五大老などを潰しにかかっていたとなれば心象最悪だし・

結局どちらが勝つかは別にしても、豊臣秀頼VS徳川家康の構築は可能だし、年齢的に死亡が近いのは家康だから長期化すると秀頼が有利
史実のような他藩が全て豊臣を見捨てたのは家康が絶対権力を固め切っていたからで、そのアシストをしたのは三成(と輝元)だわな
0076人間七七四年2013/12/15(日) 00:02:33.30ID:+L4c/D7s
東軍には三成憎しの武功派と家康が外交や婚姻で懐柔した伊達・蜂須賀などが付いたのに対して
西軍には上杉・毛利・宇喜多や5奉行のほかの連中・さらに畿内・西国の諸将が多く付いている
三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いたという事は諸侯は内心では家康のやり方は無茶苦茶で豊臣政権をあからさまに犯すやり方をしてると考えた証拠だろう
実際三成は蔚山城攻防での論考交渉の際や島津家倉入り地加増問題など
一貫して豊臣の倉入り地の維持・諸大名の倉入り地や石高増加反対や家康と諸大名との会合を糾問したりと
豊臣家のために動いているのに対し家康は五大老の許可なく私婚で諸大名取り込んだり島津の倉いり地問題や庄内の乱の協力などで積極的に
諸大名を取り込み豊臣家のためなどではなく自勢力拡大・専横を行っているのは明らかで
その証拠に三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いている
むしろ東軍についた諸大名の方が三成憎しの個人的感情やらで凝り固まっているにすぎずまとまっていたとする根拠がない
西軍の敗因はあくまで毛利家の美濃口への援軍要請無視・優先順位低く要害の構えられた伊勢方面軍編成による戦力分散
・毛利一族が総大将にかかわらず不戦・毛利輝元出陣なし・小早川の離反と
毛利のあまりのヘタレぶりで負けただけにすぎない
0077人間七七四年2013/12/15(日) 00:07:12.36ID:oP7tu7p6
>>73
三成が挙兵しなきゃ
既に石田三成襲撃事件やその家康による解決、
豊臣政権下で禁止された家康の私婚の連発を抑止できず
家康は島津家など外様に恩を売る事に成功し天下殿の世評を得て
奉行衆を失脚させ前田や浅野などに喧嘩吹っかけて土下座させた家康の暴走を誰も抑止できず
家康の専横により、徳川幕府がすんなり開かれるだけの事だろ。

馬鹿かお前
0078人間七七四年2013/12/15(日) 00:10:28.92ID:yj9dOlYo
禁止された私婚をどうどうと執り行うどころかそれに対する大老連署での詰問に対し軍事力行使で奉行衆を逆に謝らせ
この後前田利家など大老、奉行衆と家康との確執はぬきがたくなり細川忠興はそれを仲介する
家康の暗殺計画が奉行衆らによって企てられ家康は向島に城を移す
利家が死亡し、今度は武功派7将によって三成襲撃計画が起こり、家康は公儀にのっとり武力行使をやめさせる
石田三成襲撃事件本質が蔚山篭城戦をめぐるものであるとわかる(3/19 5大老連署状)
この問題の解決により家康は「天下殿」という世評を受ける(多聞院日記)
そのような中9月に大阪へ家康が赴いた際、暗殺計画があることを増田より告げられる。前田・浅野・大野らが首謀
この一件より家康は伏見より大阪西の丸へ移り天守閣を築造して、自らが秀頼と並び立つ立場であると天下に誇示する
家康は先の暗殺計画の謀議者の摘発に乗り出し土方・大野を配流処分とし
浅野は奉行職を解任し国許へ蟄居とする
また加賀前田家や細川忠興にも追求の手を伸ばし利長の挙兵反乱の疑いを詰問し
10/3西の丸に諸将を収集し北陸討伐令を出す。細川は家康へ恭順の意を示し家康に誓詞を出しさらにその三男忠利を江戸に送り人質とする
前田は弁明するが母芳春院を江戸に送る事を求められる
0079人間七七四年2013/12/15(日) 00:16:33.84ID:YERUGWhN
>これだけ多くの味方が三成には付いている

西軍の大半は三成の味方ではなくも毛利の味方だよ
だから家康と戦わないという毛利の決定に大半の西軍大名が同調したが
逆に強行的に家康と戦おうとした三成には小西・大谷・宇喜多しか協力しなかった
西軍の大名のほとんどが三成の味方ではなかったということ
つまり三成こそ西軍の方針に反旗を翻した裏切り者なんだよ
0080人間七七四年2013/12/15(日) 01:32:37.05ID:wNE+SvoO
でも脱糞ニキって地味で人気ないよね
0081人間七七四年2013/12/15(日) 02:37:06.09ID:lxx5PtYv
>>77みたいな人間が、かつて広島長崎にあの惨状をもたらしたんだろうな
0082人間七七四年2013/12/15(日) 07:46:10.43ID:+L4c/D7s
>>西軍の大半は三成の味方ではなくも毛利の味方だよ
>>だから家康と戦わないという毛利の決定に大半の西軍大名が同調

三成の味方ではなく、毛利の味方なのは分家の吉川小早川と秀元だけだろ。
関ヶ原合戦では輝元が大阪に引きこもってたから三成が事実上総大将になってるじゃん。
0083人間七七四年2013/12/15(日) 07:51:01.69ID:yj9dOlYo
輝元が首謀者ではないといいながら西軍は輝元に同調したとか
相変わらず妄想ばかり垂れ流してるなアホ毛利厨
0084人間七七四年2013/12/15(日) 08:04:37.25ID:LjLG1duj
輝元が総大将でなければ、西軍が構成されないのは間違いない。
首謀者かどうかは、全く別の話だな。
0085人間七七四年2013/12/15(日) 08:53:08.29ID:9KqSZ4Xn
三成が秀吉に取り持った大名は全て西軍についているね
0086人間七七四年2013/12/15(日) 09:12:43.53ID:LjLG1duj
毛利がいなきゃつかないでしょ?
0087人間七七四年2013/12/15(日) 09:20:40.70ID:YERUGWhN
>>77
どのみち徳川政権になるのだから徳川幕府がすんなり開かれる方がいいだろ
三成は無謀な暴走で日本中に迷惑をかけただけで何の意味もない行動だった
0088人間七七四年2013/12/15(日) 11:48:59.94ID:9KqSZ4Xn
逆に秀吉が家康を葬れる機会がなかったのが原因だな。
小牧・長久手で息の根を止められずゲームオーバーってとこかな?
0089人間七七四年2013/12/15(日) 12:06:59.69ID:CnRrhWjD
秀吉は統一優先で取り込みに走ったからなぁ
まぁ秀吉があの時期に北条ぶっ潰したのは小牧長久手で
家康が北条と同盟してて後ろの心配せずに動員できたことへの私怨かなと思う
0090人間七七四年2013/12/15(日) 12:21:39.55ID:yj9dOlYo
北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
0091人間七七四年2013/12/15(日) 12:22:19.24ID:oP7tu7p6
小牧長久手の戦いでは徳川方の甲斐・信濃衆は大方領国に残されて北条の変心と
上杉の信濃侵攻の留守を任されてたから北条との同盟自体ほとんど関係ない
そもそもほとんどが信雄軍と秀吉軍の交戦で家康は8000そこそこを連れて来ただけ(当代記・御当家記念録・御年譜徴考・家忠日記など)
大久保兄弟、鳥居、岡部、石川家成、平岩、保科その他多くの徳川家臣の活躍は徳川史料には一切見られない
江戸期の講談とか軍記などでは別だがな
0092人間七七四年2013/12/15(日) 12:23:27.55ID:bApnivTX
秀吉はhttp://www.logsoku.com/r/history/1299835153/440-447
のように領国中の兵力総動員して短期決戦に臨んだが、秀吉の指揮采配能力があまりにもクズすぎたせいで
わずか16000の雑魚信雄・徳川勢に10000人殺された上に、その後の攻防でも下記のように膠着状態に陥ってる。
長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候 羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる 秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど完全に持久戦の態勢に入っている4/12松井→紹安 一戦に池田親子・
森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候 4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候 4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人
が出た 4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた。播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた5/2信雄→不破広綱
今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが美濃
に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り
討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣した
ので近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる

上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
0093人間七七四年2013/12/15(日) 12:24:29.12ID:yj9dOlYo
>>89
お前は本当に無知だな。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。
84年一杯を対信雄&家康に使って伊勢口や美濃の押さえ合わせて計135000ほどの圧倒的大軍引き連れて
砦間の戦闘や城の取り合いや信濃の木曽、上杉ら周辺大名への働きかけもガチガチにあったのに
滅ぼす気がないとか言われてもな
「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
0094人間七七四年2013/12/15(日) 12:25:26.92ID:yj9dOlYo
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが

この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります

7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
0095人間七七四年2013/12/15(日) 12:25:52.43ID:Se0onPnF
そもそも単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
0096人間七七四年2013/12/15(日) 12:26:25.15ID:yj9dOlYo
陣立書や書状から上記のように秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦に及んでいる事がわかる
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。堀と長谷川は中入り組。(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。丹羽長重も派遣されてる。信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる。北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、
八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄もそれに合わせ多く兵残してる。
秀吉方は秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、
稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島。長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、
生駒吉一、矢部、山内。彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる。上記のように一次資料類から秀吉側は領国中主力武将ほとんどかき集めている。当代記や三河物語などでも楽田周辺の秀吉軍だけで
10万かそれ以上としている。また秀吉に同行していた渡辺清忠や桂横重が小牧山に陣替したときの人数を10万といっており当代記、三河物語もこれと同じ数字。その他に伊勢方面を攻めている諸勢2万4000と
美濃に残されている秀勝勢数千が存在するため総勢で13万を超えると思われる。また尊禄以来年代記では秀吉は3月に大阪をたった時125000、八月には16万で尾張へ出兵した。また長久手合戦参加者の家記や家譜、
合戦記などでも同じ数字が用いられている
0097人間七七四年2013/12/15(日) 12:27:48.52ID:bApnivTX
黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)

松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる

伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)

3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。
0098人間七七四年2013/12/15(日) 12:29:01.42ID:bApnivTX
3月13日の丹羽長秀宛書状では『14、5日程で一気に酒の酔いを醒ますごとく決着つけてやる』と言ってるししかも大軍結集してるから実行にも移してる。
敗戦前日の丹羽宛書状等複数の書状では『家康さへ討果候へは』とあるし龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、
生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦も
その一貫であり自分の意思で池田等の兵力を三河に向け発向させる予定である旨を報じてる。
北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀かねに同道してた
渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる。その後も秀吉の決戦構想はは秋頃まで一貫してて11月の信雄との和睦時ですら
「家康には恨みが深いので年内であっても攻め滅ぼしてくれん」とか言ってる。伊勢にいた軍勢北尾張に呼び寄せてるし留守居に最低限の兵
残して北尾張に秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄、細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、
赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、 小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、
蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、長久手方面進軍者を除きこれだけ
主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内 彼らが柏井の屋敷に在番してる。
上記の最低限の留守居除く全て総力でかき集めたといっていい
21日に美濃池尻に来た時は125000(細川軍記)100000(当代記や野坂文書)これだけ大軍を連れてきたとある。伊勢の兵も四月にはだいぶ尾張に進めてるし。
それから詳細な地図ないから説明しずらいが犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでてそこにも兵をある程度配置してると思われるし、さらに楽田〜龍泉寺までの大草、柏井、篠木にも屋敷が普請さ れている
0099人間七七四年2013/12/15(日) 12:37:29.33ID:bApnivTX
婚姻を結んだといっても浜松会談以前の北条徳川間は書状でのやり取りもさほど頻繁でない表面的な関係だったし
それどころか家康は北条の敵対者の佐野とか佐竹(東)とか皆川とかと頻繁に書状のやり取りしてたし
北条は北条で一切家康に援軍送らないどころか、駿河に乱入する風聞まで垂れ流されてた事や、上杉景勝の川中島侵攻で
家康は領国に遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)

北条徳川同盟が本格的に機能して北条軍徳川軍総力で対秀吉に臨めてたら確実に秀吉は戦死してただろうな。
135000の兵力があっても合計わずか16000程度の雑魚信雄に決戦で1万人ぶち殺される強さしか発揮できないレベルの指揮能力の秀吉なら
あと徳川北条の計40000が加われば確実に秀吉なんて討ち取れる。
開戦前から重臣がこぞって秀吉に人質を奪われていたために、あの会戦早々から領国が離反連鎖で崩壊状態の信雄ですら
松ノ木城・戸木城・浜田城・蟹江・前田・下市場・長久保・東駒野・二重掘・浜田城など秀吉に勝ちまくってたからね。
尾張でも石田毛利氏や毛利秀頼、松ノ木城近辺の諸将など会戦当初からあっさり信雄を見捨てててるのに
自力じゃ全くと言っていいほど秀吉は切り取れてないしな
確かに兵力の2乗=戦力だからね。
兵力が3倍程度に増えるなら、当然豊臣方の損害は史実の9倍の9万程度に増えるからな。
それこそ秀吉が討ち取られてていいレベルだろ。
0100人間七七四年2013/12/15(日) 12:40:01.19ID:m2Y8Xqtb
そりゃ直接対決でガチンコで1万人ぶち殺される大敗喫した上に
その後の攻防も蟹江・浜田・前田・下市場・長久保は奪回され
戸木城・松ノ木城・東駒野城・河波城・二重掘合戦攻防でも破れて結局会戦当初から
伊勢でも尾張でも美濃でも寝返り続出で崩壊状態だった信雄領国を自力では尾張半国すら切り取れなかったからな。
滅ぼせるわけがない
0101人間七七四年2013/12/15(日) 12:40:50.31ID:9KqSZ4Xn
北条も膝を屈するつもりでいた。
だけど秀吉が家康みたいな待遇(人質おくったり)をしなかった
北条は家康より↑を自認していたので、誇りのために家康に近い待遇を求めていたんだけど結局猪俣が暴走して週末を迎えた。
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