秀吉は三成や小西や大谷に大版図やるべきだった
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0001人間七七四年
2013/12/09(月) 23:31:02.19ID:Ts49pmxk家康の示威行動に対してビビリまくり攻められてもいないのにヘタレ降伏する前田や浅野
総大将として積極的に決起を行いながら、中核となる軍隊をどうでもいい方向に分散させまくり
奉行衆らの美濃方面への防衛要請も無視して、結果徳川にグイグイ押し込まれ木っ端微塵にされた馬鹿毛利輝元
こんな馬鹿に大版図やるくらいなら、三成や小西や大谷ら、本当の豊臣家に忠義を尽くした連中に大版図やればよかっただけじゃん。
0002人間七七四年
2013/12/09(月) 23:43:21.75ID:psy6nio30003人間七七四年
2013/12/09(月) 23:44:02.58ID:psy6nio30004人間七七四年
2013/12/10(火) 05:36:49.63ID:ks9GsXMJ0005人間七七四年
2013/12/10(火) 06:54:35.48ID:07CgtR8+三成なんかに領土やったらそれこそ内紛になるわ
バカ輝元なんて書いてる時点で菅沼遼太だろうがw
0006人間七七四年
2013/12/10(火) 10:32:32.71ID:Y/rJ2MNy三河、遠江、駿河、信濃、甲斐への転封に従ってれば、のちの金山管理者大久保みたいな莫大な金山財力もあり、
最強大名になって豊臣家は家康如きに滅ぼされることは無かった。
今信玄と化した信雄は淀の叔父として事実上の天下人になってたはず。
家康が謀反したら攻め込まれる前に関東平野に押し出せばいい。
関東平野に攻め込んだ側は歴史的に負けた事がない程にチート。
0007人間七七四年
2013/12/10(火) 12:18:30.72ID:pvS2ESRZ5大老っていうのがもうね
0008人間七七四年
2013/12/10(火) 23:30:38.76ID:gzOJuB8D豊臣家を滅ぼした家康と相対したので、忠義扱いされてるだけ。
結果論から導かれる評価でしかない。
本当に忠義の人なら、関ヶ原は絶対に起こさない。
自身の政権復帰にために、豊臣家を巻き込んだ不忠の人。
0009人間七七四年
2013/12/11(水) 09:58:19.30ID:N3jIvwI/三成の豊臣家に対する忠義の話→豊臣家を滅ぼした家康と相対した
お前はバカかw
0010人間七七四年
2013/12/11(水) 10:40:02.06ID:nKkvpowc後世、豊臣家が家康に滅ぼされる事を知っている人間が、後付けで与えた評価。
関ヶ原当時、三成の挙兵は謀反扱いで、豊臣家の支持も得られていない。
実際、豊臣家に対する赤心丸出しの忠義話は逸話レベルでも存在しない。
加藤、福島等とは対照的。
0011人間七七四年
2013/12/11(水) 12:12:04.97ID:HM0ETJTM東軍の恩顧大名は「秀頼様は三成に騙されておるんじゃ」とか言って絶対に従わんよw
0012人間七七四年
2013/12/11(水) 12:38:14.99ID:LZ0w4ukD大坂城での会議や取り決めにも一切参加してない
大坂強兵後の緊急時即戦力としての
ただの現地採用の最前線現場一指揮官風情だし。
0013人間七七四年
2013/12/11(水) 14:34:21.40ID:7ST3EvfI>関ヶ原当時、三成の挙兵は謀反扱いで、豊臣家の支持も得られていない。
豊家から七手組の援助があったんじゃね?
0015人間七七四年
2013/12/11(水) 18:23:02.04ID:LZ0w4ukDだからそれは、伏見城陥落し、佐和山城まで西軍が侵攻できるようになってしまった
7月晦付けの真田宛の三成書状で
西軍に帰順現地採用された三成が初めて、俺は西軍参加したって表明して以後の話だろ・・・
それでやっと大坂へやってきた。
つまり三成は対家康へ向けた西軍挙兵に関わる会議や取り決めにはまったく関わってない。
0016人間七七四年
2013/12/11(水) 20:18:03.41ID:zcXIPJsS0017人間七七四年
2013/12/11(水) 23:51:34.19ID:Z6J+mVhx0018人間七七四年
2013/12/11(水) 23:55:16.20ID:kAfuj30M0019人間七七四年
2013/12/12(木) 00:30:45.53ID:xsDiTGf97月13日付 益田元祥・熊谷元直・宍戸元次連署状 (榊原康政・本多正信・永井直勝宛)
7月14日付 榊原康政宛 吉川広家書状
いずれも、三成・吉継・恵瓊の謀議に触れている。
0020人間七七四年
2013/12/12(木) 01:59:22.73ID:5OYI1bif0021人間七七四年
2013/12/12(木) 02:23:27.41ID:r1cOAEn70022人間七七四年
2013/12/12(木) 07:15:02.22ID:ssIlunUX家康の権力は強大なままだが、大坂の陣みたいな最悪の事態は回避できた
0023人間七七四年
2013/12/12(木) 08:57:02.22ID:eew7HvfI自分らがその地位についたら政権運営なんてできないし、
三成をかばう家康に討伐されるだけだろ。
0024人間七七四年
2013/12/12(木) 11:34:51.82ID:7H75NFai三成排除はそれ自体が目的。
0025人間七七四年
2013/12/12(木) 14:59:03.15ID:xsDiTGf9家康中心となる体制を構築したのは秀吉であり、武断派は秀吉の敷いたレールに乗っただけ。
家康に篭絡されたとか勘違いも甚だしい。
結局土下座するなら、最初から土下座して領土維持する方が100倍マシ。
関ヶ原における毛利の主目的は、支配領域の拡大と瀬戸内海益の確保。
自国の権益を重視するのは当然で、豊臣家の守護者であるはずもない。
ましてや三成が毛利を制御出来るわけがない。
0027人間七七四年
2013/12/12(木) 17:28:32.83ID:99Do+yhh豊臣家を蔑ろにしたり、豊臣の天下を崩壊させてよいなどとは一言も秀吉は言ってないわけで。
三成は豊臣家の天下を守り、外様の暴走を防ぐのに必死だったが
武功派は自分の石高や欲しか考えないような馬鹿だったから家康にマンマと篭絡されて、主家を崩壊させただけ。
三成が五大老筆頭、200万石レベルの石高、豊臣家の外戚の地位についていたら間違いなく
すんなりと秀頼への後継はうまくいっていた。
0028人間七七四年
2013/12/12(木) 19:29:21.71ID:FCQldDWA0029人間七七四年
2013/12/12(木) 19:57:26.33ID:WuqL3yVR0030人間七七四年
2013/12/12(木) 20:30:05.33ID:eJG0MeYT0032人間七七四年
2013/12/12(木) 21:30:58.09ID:FCQldDWA0033人間七七四年
2013/12/13(金) 00:32:57.00ID:8Uo+GETl奉行そのものが不要だろ
だいたい家康の専横とか言われているが文治派が権力を奪われて不満を言っているだけで
統治そのものは奉行などいなくてもなんらの影響もないことがはっきりしたわけで
むしろ奉行など現場とトラブルを起こし豊臣の政務を妨げる存在でしかなかった
0034人間七七四年
2013/12/13(金) 07:36:02.87ID:HwCvcgwQ0035人間七七四年
2013/12/13(金) 08:16:50.29ID:4zWOuiHL他の大老も奉行も秀頼も必要ないっし、
いなくても困らないって言う話かw
逆にいえば遺令に背く家康だけがいなくても困らないよなw
そもそも大坂城で秀頼を後見するのを頼まれた前田と違い、
家康は伏見にいて大坂に来てはならないのに、
北政所を追い出して秀頼を人質に擁して専横するなんて董卓みたいな逆臣だよな。
0036人間七七四年
2013/12/13(金) 17:43:47.23ID:mzdW9wHmどんだけケチやねん
0037人間七七四年
2013/12/13(金) 23:10:48.37ID:gurKozqa秀吉の筑前筑後の加増話を三成は断って、
豊臣家の蔵入地にするようにした。
あまり領地拡大に興味なかったが、
家臣には加増出来なくなった事を謝罪してる。
0038人間七七四年
2013/12/13(金) 23:24:25.22ID:fEw+4ycf真面目な話、天下国家で考えれば、家康がいないと困るよ。
秀頼の親政は現実的に不可能であり、安定した政権を志向しようと場合、
複数の有力大名が並立するより家康一強の方が安定する。
そういう意味で、秀吉が敷いた家康主導の安定路線に従えなかったのが、毛利・上杉・石田等。
前田征伐で屈服した前田家は、領国を削られるでもなく経済的な実害はゼロ。
本質は徳川主導の豊臣安定政権への踏み絵だよね。
0039人間七七四年
2013/12/13(金) 23:45:20.98ID:iIIrbJFt豊臣家を蔑ろにしたり、豊臣の天下を崩壊させてよいなどとは一言も秀吉は言ってないわけで。
三成は豊臣家の天下を守り、外様の暴走を防ぐのに必死だったが
武功派は自分の石高や欲しか考えないような馬鹿だったから家康にマンマと篭絡されて、主家を崩壊させただけ。
三成が五大老筆頭、200万石レベルの石高、豊臣家の外戚の地位についていたら間違いなく
すんなりと秀頼への後継はうまくいっていた。
0040人間七七四年
2013/12/14(土) 01:24:10.80ID:bEqQsy/eその三成が200万石レベルの石高になったら、自分の石高や欲しか考えないようになるよ。
0042人間七七四年
2013/12/14(土) 09:24:43.97ID:k+27TPTlふうん
常識的に考えれば
筑前筑後の田舎と北近江なら北近江がましだなw
(今で言う西東京と福岡くらいの違いはある)
まして蔵入地の直接の管理って自分も含めた奉行衆だろ?
三成だけは清廉だって腐女子脳になってないか?
0043人間七七四年
2013/12/14(土) 09:30:37.48ID:QwzqEJZ/一般に秀吉は自分の死後、秀頼成人までの政務代行者を家康に委ねた、との見方がされることが多い。
これは浅野家文書の「豊臣秀吉遺言覚書」等の記述が典拠になっているが、
原文を素直に読むと、あくまで家康は政務執行者の一人として位置づけられている。
秀吉の死後、三成はくどいほど、
十人衆(いわゆる五大老・五奉行)での合議を強調し、
秀吉薨去後の誓詞にも盛り込んでいる
0044人間七七四年
2013/12/14(土) 10:11:42.76ID:Wnh6w42Nこれだけの実力・肩書きを持つ家康が、他の9人と同列でありそれに甘んじるべきだという
考えは、全く非現実的。
0045人間七七四年
2013/12/14(土) 10:36:22.34ID:4xthLgrF0047人間七七四年
2013/12/14(土) 12:02:51.13ID:3OVtpIJv家康って潜在的脅威が死ぬまでは起きない気もするけど
0048人間七七四年
2013/12/14(土) 12:28:54.06ID:5bZC70lbそれは歴史上、幼君を傀儡として専横する奸臣が現れることを危惧したから。
秀吉は利家らには実力、人望で全く勝てない家康は卑屈に振舞っていたが、
彼らが死ぬや豹変増長し、 威嚇脅迫を以って望み幼君の諸権力を盗み奪い、ついには殺し
女子供を含む大坂20万人を虐殺し、大坂を更地にするほど徹底的に痕跡を消し、屈辱を思い出せないように破壊に偏執した。
醜く汚ない老人家康は屈辱が忘れられず秀吉の墓を暴き神号を奪うなど暴虐無道な行いをし、
朝廷すら脅迫し好き勝手したキチガイ奸臣。
一.自然於喧嘩口論者致堪忍可属理運事
一.無実儀申上輩在之者双方召寄堅可被遂御糺明事
一.何たる儀も内府大納言殿へ得御意其次第相究候へと被成御意候事
一.諸事御仕置等之儀其軽重を決し十人之衆中之多分に付而可相究事
家康の耳に入れ、10人衆の裁判を催し相談を究めて鼎の軽重を決し御仕置きをすること。
つまり家康には独裁権など付与されてない。
ライバルと覇権を争って実力で天下を取るならまだいい。
しかし秀吉や利家らが死ぬのを待って、
平時に乱を起こして幼君から天下を盗んだ醜く老人が家康。
自分より強いやつには諂い忠臣を装い、
自分より弱いやつには脅迫するキチガイなのが家康。
0049人間七七四年
2013/12/14(土) 12:38:00.60ID:ctSD9UJxでも、秀吉の専制君主体制みたいなものだから、死後政治機構は混乱するので不安はある。
0050人間七七四年
2013/12/14(土) 12:40:59.57ID:ctSD9UJx自業自得だな。
0052人間七七四年
2013/12/14(土) 13:18:58.23ID:MtGnW/PO信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
0053人間七七四年
2013/12/14(土) 13:19:50.07ID:k+GU6+Aj敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
0054人間七七四年
2013/12/14(土) 13:21:09.12ID:IFfjZoX8あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
秀吉自体が土下座と棚ボタと謀略で成り上がってきただけの人だから純粋な戦がゴミみたいに弱いのは仕方がない。
雑魚の毛利に連戦連敗するアホなんてそうそういないよ。
毛利なんて5万石程度の南条にすら攻略失敗したり20万石そこそこの宇喜多にも野戦でガチ大敗するくらい弱い軍隊なのに
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
0055人間七七四年
2013/12/14(土) 13:23:06.43ID:IFfjZoX8>>女子供を含む大坂20万人を虐殺し、大坂を更地にするほど徹底的に痕跡を消し、屈辱を思い出せないように破壊に偏執した。
秀吉には到底負けるよ。
フロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
0056人間七七四年
2013/12/14(土) 13:27:12.27ID:Wnh6w42N自らが助長した圧倒的な実力差、この状況で合議が機能すると秀吉が本気で考えていたと思うか?
余程の政治音痴でない限り、あり得ない話だ。
0058人間七七四年
2013/12/14(土) 13:36:18.63ID:PrHdyBe1そうだとすれば秀吉は相当痴呆症が進んでいたとしかいいようがない。
結局の所、合議制により秀頼成人までの豊臣家運営がすんなりいく事を期待していたが
武功派の三成への恨みや、目先の利に走る性格、前田やや浅野の毛利のふがいなさなどを
全く想定していなかったか、甘く見ていて、秀吉の予測を大きく外れる末路となっただけの事だろう。
0059人間七七四年
2013/12/14(土) 13:41:22.43ID:j1F7qcv7目先の欲に目がくらんで主家を見捨てる武功派連中や、政権簒奪の奸臣家康の示威行動にビビリまくって
即効で土下座する前田や浅野などと違って、豊臣政権に忠義を尽くした無欲な三成や小西らに大封与えてればよかっただけ。
三成は島津家の蔵入り地問題や、家康の私婚問題に対する弾劾状や、朝鮮出兵の際の恩賞問題の処理などを見る限り
極力豊臣蔵入り地の確保と、諸大名の力を削ぐ事を中心に考えて一貫して行動している。
結局武功派が馬鹿だったから、個人的恨みでもって三成らに立てついて主家への恩義を忘れて家康に篭絡されて、主家を滅ぼしただけ。
0060人間七七四年
2013/12/14(土) 13:49:14.73ID:Wnh6w42N全権委ねたは言い過ぎ。誰もそんな発言はしていない。
秀吉自らに比肩する程の実力者を政権中枢に置きながら、合議が機能すると思っていたなら、
秀吉は相当痴呆症が進んでいたとしかいいようがない。
三成への恨みとか、性格とか、不甲斐なさとかは、講談的なのでやめとけば?
0061人間七七四年
2013/12/14(土) 13:50:32.32ID:hirGqFNg0062人間七七四年
2013/12/14(土) 13:59:22.17ID:Wnh6w42Nもうそういうのバレバレなのやめれば?
ツッコミどころ満載な対論側のレスを自演して、自らソースを要求する手法。
0063人間七七四年
2013/12/14(土) 14:06:21.70ID:hirGqFNg0064人間七七四年
2013/12/14(土) 14:13:18.95ID:/FFf432Oだってそれ以外に理由がないじゃん。
当時家康は私婚の連発や、前田や浅野家へのいちゃもんと、示威行動や、自身への奉行衆からの弾劾状を
軍事力で無理矢理排除するなど無茶苦茶好き勝手やってたわけで、それにもかかわらず恩を受けた主家を見捨てて
家康についたのは、三成への個人的恨みや好悪感情としか考えられないだろ。
奸臣を排除するという西軍と違って、東軍には何せ一切大義名分がないからな。
0065人間七七四年
2013/12/14(土) 14:27:49.81ID:Wnh6w42N家康は、依然豊臣政権大老。考えるまでもない。
主家を見捨てて家康につくって、豊臣家と家康の対立軸ではないんだけど。
大義名分は、謀反軍の鎮圧。
0066人間七七四年
2013/12/14(土) 14:32:05.70ID:zmKsSEMr家康や豊臣武功派の留守を狙って挙兵し、関係のない勢力まで味方にすべく行動し
従わなかった奴はガンガン攻める。明智光秀のそれと同じ
0067人間七七四年
2013/12/14(土) 16:21:52.75ID:zUxtEZDp俺もそう思う
0068人間七七四年
2013/12/14(土) 21:48:34.48ID:IFfjZoX8家康と伊達・蜂須賀・福島ら3大名家との間に交わされていた婚姻の密約は
同盟の締結を意味し、秀吉の取り交わした誓詞においてこの種の私婚は堅く禁じられていたとしている
1/21大阪の大老・奉行たちは3中老(中村・生駒・堀尾)を使者として家康の元に遣わし家康のかどを詰問
弁明のかなわぬ時は大老の列から取り除くと申し入れる
家康は大阪よりの糾問使に対し家康は伏見屋敷を増強し変にそなえる
豊臣系武将や榊原・本多らもこの事態をきいてかけつけ伏見の徳川屋敷には大軍勢が集結しこのため大阪の5奉行は逆にきわめて厳しい立場となり
家康を糾問するどころか5奉行側が家康にわびをいれるというめちゃくちゃな形での解決となる
この後前田利家など大老、奉行衆と家康との確執はぬきがたくなり細川忠興はそれを仲介する
家康の暗殺計画が奉行衆らによって企てられ家康は向島に城を移す
利家が死亡し、今度は武功派7将によって三成襲撃計画が起こり、家康は公儀にのっとり武力行使をやめさせる
石田三成襲撃事件本質が蔚山篭城戦をめぐるものであるとわかる(3/19 5大老連署状)
この問題の解決により家康は「天下殿」という世評を受ける(多聞院日記)
そのような中9月に大阪へ家康が赴いた際、暗殺計画があることを増田より告げられる。前田・浅野・大野らが首謀
この一件より家康は伏見より大阪西の丸へ移り天守閣を築造して、自らが秀頼と並び立つ立場であると天下に誇示する
家康は先の暗殺計画の謀議者の摘発に乗り出し土方・大野を配流処分とし
浅野は奉行職を解任し国許へ蟄居とする
また加賀前田家や細川忠興にも追求の手を伸ばし利長の挙兵反乱の疑いを詰問し
10/3西の丸に諸将を収集し北陸討伐令を出す。細川は家康へ恭順の意を示し家康に誓詞を出しさらにその三男忠利を江戸に送り人質とする
前田は弁明するが母芳春院を江戸に送る事を求められる
このように家康は自分のやる事は詰問されても自力で排除し奉行衆を屈服させようとし
他者の行いは徹底的に詰問して敵対勢力を一つ一つ潰すやり方で無理矢理豊臣家を崩壊させた張本人
0069人間七七四年
2013/12/14(土) 21:58:45.09ID:MtGnW/PO島津家の場合慶長3年11月に義久が伏見家康邸を訪れる、後日その返礼として家康が義久を訪れる(大村市兵衛重頼古戦術書附)
これを知った三成は義弘・忠恒は朝鮮帰国後博多において三成より譴責を受け、そのため義久が義弘・忠恒に対し
「内府様へ参候事、又私宅へ入御之事、曾別心有之儀不申入、又不承候」と起請文を出すまでの騒ぎとなる
家康と島津家の間に梵舜や近衛前久・信伊が介在し両者の間を取り持つ
三成からの譴責に対する起請文は単なる見せ掛けである事が家康が義弘・忠恒の私宅をわずか4日後に訪問している所からわかる
また慶長4年1/9家康の差配によって島津家へ五万石の加増が「朝鮮し川表」における「御忠孝無比類、依之為褒美」与えられる
これも三成は反対するが家康によって強行される
対する三成と島津の関係は、島津は豊臣政権への服属以来、三成に細心の注意を払い接してきた人物であった。
島津領太閤検地の総責任者であり島津領豊臣倉入地の代官を務める三成は島津家への影響力が非常に大きく
三成の意向はすなわち豊臣政権の意向であった。
だが島津と家康が接近する中、三成とは距離が置き始めていた。それは慶長4年3/9忠恒が、三成が最も信頼し、
島津家内部で三成に最も協力的であった島津家老伊集院幸琉を誅殺した事に現れている
これは先学の指摘するとおり、島津家の豊臣政権からの離脱の第一歩といえよう。そしてこれは秀吉死去後の豊臣政権内部での三成の地位の弱体化なくしては
起こり得ない事であった
0070人間七七四年
2013/12/14(土) 22:00:56.36ID:MtGnW/PO「又八郎(忠恒)短慮之仕立、言語同断不及是非候」、「曲事深重二候」と三成の腹立ちに同調し、それを懸命に鎮めようとしている
さらに後日銀子十枚を贈答する。しかしこの前後の忠恒宛の書状で義久が忠恒をこの件で叱責した形跡は見られず、成敗そのものには異存はなかったと思われる
この事件以来三成から島津家への書状はなくなり疎遠になってきているのがわかる
さらにその後「庄内の乱(幸琉の子忠真の反乱)」において家康は終始島津家の立場に立ち、乱の収拾に尽力する
関が原の合戦直前まで島津家は家康の指示を尊重する形で乱の処理を行い家康の対応は島津家にとって大方において満足すべきものだった
家康もまたこの乱の処理を契機に諸大名への軍事動員権を行使するなど「公儀」としての立場を獲得していく
結局三成が馬鹿だったというより豊臣政権の国力から考えたら
ハナクソみたいな国力しかなかった徳川を焼け太りさせたのが豊臣政権崩壊の原因としかいいようがない
いちゃもんつけて信濃や甲斐を蔵入り地にするなり木下とか秀勝とか極力秀吉に近い者封じるべきだったとしかいいようがない
あと秀次も殺したのは大きな痛手。秀頼成人まで秀次に後見させるなりすればこんな事態はさけられたはず
関が原をおこしてしまった時点で西軍の負けは確定しているように語り結果三成は無能とののしるやからがいるが
それはあくまで結果論としかいいようがない
関が原会戦時の三成人数書立や慶長見聞集、真田文書を見ると西軍は畿内だけで18万も集まり
小早川や朽木らの離反を差しいても単純に東軍の兵力を圧倒している
これでは兵力的に考えても陣地でも東軍を粉砕する兵力として十分すぎる
負けたのは総大将であり戦局を決定できる大軍を有しながら大坂に居座り何もせず改易された輝元や
軍勢派遣を止めたとされる吉川や秀元ら毛利一族のせいとしかいいようがない
東軍には三成憎しの武功派と家康が外交や婚姻で懐柔した伊達・蜂須賀などが付いたのに対して
西軍には上杉・毛利・宇喜多や5奉行のほかの連中・さらに畿内・西国の諸将が多く付いている
三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いたという事は諸侯は内心では家康のやり方は無茶苦茶で豊臣政権をあからさまに犯すやり方をしてると考えた証拠だろう
ただ総大将としての三成の地位は家康に対抗できるものでなく、毛利輝元も総大将引き受けながら何もせず大厳封食らうヘタレぶりで
西軍は木っ端微塵になった。
0071人間七七四年
2013/12/14(土) 22:01:53.78ID:MtGnW/PO前田や浅野やらみたいに次々降伏するだけの話だし
秀頼成人までまだ時間があるし既に天下人という世評を受け武功派連中により三成失脚、
家康は諸将の意向無視で勝手に婚姻同盟派閥形成するし島津への倉いり地問題やらで散々恩売ったりしてるし
関が原の戦いも美濃口の防衛要請無視しまくって四国やら伊勢湾やらどうでもいいところに軍送った輝元のアホさ加減で負けただけだし
美濃口に大軍で援軍きてたら東軍は木曽川の防壁と美濃の秀信や木造などに阻まれて進む事など到底適わないだろうし
畿内方面に展開してる部隊だけなら西軍のがずっと多いはずだから西軍に戦力の集中を考案できる優秀の戦略眼もった武将がトップなら
東軍など一網打尽にできたはず。 総大将輝元がアホみたいなところに軍進めたり
肝心の決戦で軍動かさなかったり馬鹿みたいな行動したおかげで三成は寡兵で戦わなくてはならなくなり西軍は大敗した
正則の弟の福島高晴が長島へ籠城してる中で西軍の毛利軍は鍋島隊を長島への備えに配置して攻めずに関が原へ急行してる。
関が原を無視して、長島城を落として尾張国に雪崩れ込み背後を襲う戦略をつかわなかったのは
それだけ長島城が堅固だったと言うことだろうけどそもそもなら、なんで伊勢攻略軍なんて編成したんだよって話だよな。
素直に、岐阜城を策源地に尾張に攻め込んでれば良かったじゃんwってもんで。
やっぱり毛利ってのは戦略眼がまるで無い。
笠谷氏は「関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制」で 「豊臣政権とその崩壊」の最後の一文
>こうして家康に敵対する勢力はことごとく退けられ、あるいは圧迫され政権はいまや家康の独裁の様相を呈してきた。
言葉は違うが、彼は第一章を丸々使って 「主君の嫡男を差し置いて、それ以上に徳川家康が権力を笠に豊臣家を無視して独断で政治をできるほど強かった」
という意味のことを書いてますよ まさか読んでないとか有り得ないとは思うけど、
関ヶ原前後の状況についてよくまとまった良い本だから一読をお勧めする
東軍には三成憎しの武功派と家康が外交や婚姻で懐柔した伊達・蜂須賀などが付いたのに対して
西軍には上杉・毛利・宇喜多や5奉行のほかの連中・さらに畿内・西国の諸将が多く付いている
三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いたという事は諸侯は内心では家康のやり方は無茶苦茶で豊臣政権をあからさまに犯すやり方をしてると考えた証拠だろう
実際三成は蔚山城攻防での論考交渉の際や島津家倉入り地加増問題など
一貫して豊臣の倉入り地の維持・諸大名の倉入り地や石高増加反対や家康と諸大名との会合を糾問したりと
豊臣家のために動いているのに対し家康は五大老の許可なく私婚で諸大名取り込んだり島津の倉いり地問題や庄内の乱の協力などで積極的に
諸大名を取り込み豊臣家のためなどではなく自勢力拡大・専横を行っているのは明らかで
その証拠に三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いている
むしろ東軍についた諸大名の方が三成憎しの個人的感情やらで凝り固まっているにすぎずまとまっていたとする根拠がない
西軍の敗因はあくまで毛利家の美濃口への援軍要請無視・優先順位低く要害の構えられた伊勢方面軍編成による戦力分散
・毛利一族が総大将にかかわらず不戦・毛利輝元出陣なし・小早川の離反と
毛利のあまりのヘタレぶりで負けただけにすぎない
0072人間七七四年
2013/12/14(土) 22:03:34.51ID:MtGnW/PO大義名分なんて家康側にははなからなさすぎる
禁止された私婚をどうどうと執り行うどころかそれに対する大老連署での詰問に対し軍事力行使で奉行衆を逆に謝らせ
この後前田利家など大老、奉行衆と家康との確執はぬきがたくなり細川忠興はそれを仲介する
家康の暗殺計画が奉行衆らによって企てられ家康は向島に城を移す
利家が死亡し、今度は武功派7将によって三成襲撃計画が起こり、家康は公儀にのっとり武力行使をやめさせる
石田三成襲撃事件本質が蔚山篭城戦をめぐるものであるとわかる(3/19 5大老連署状)
この問題の解決により家康は「天下殿」という世評を受ける(多聞院日記)
そのような中9月に大阪へ家康が赴いた際、暗殺計画があることを増田より告げられる。前田・浅野・大野らが首謀
この一件より家康は伏見より大阪西の丸へ移り天守閣を築造して、自らが秀頼と並び立つ立場であると天下に誇示する
家康は先の暗殺計画の謀議者の摘発に乗り出し土方・大野を配流処分とし
浅野は奉行職を解任し国許へ蟄居とする
また加賀前田家や細川忠興にも追求の手を伸ばし利長の挙兵反乱の疑いを詰問し
10/3西の丸に諸将を収集し北陸討伐令を出す。細川は家康へ恭順の意を示し家康に誓詞を出しさらにその三男忠利を江戸に送り人質とする
前田は弁明するが母芳春院を江戸に送る事を求められる
このように家康は自分のやる事は詰問されても自力で排除し奉行衆を屈服させようとし
他者の行いは徹底的に詰問して敵対勢力を一つ一つ潰すやり方で無理矢理豊臣家を崩壊させた張本人
豊臣が滅ばないためには家康に大封与えない事が一番
秀吉に恭順した時点でもってた三河遠州駿河信濃佐久諏訪伊那と甲斐の100万石程度にとどめるか
信濃3郡と甲斐を無理矢理没収するのが一番手っ取り早い解決方法
島津など他大名にも接触しまくり恩を売りまくり
はっきりいって徳川方には大儀名分も糞もあったものじゃなく
無理やり無茶苦茶なやり方で豊臣家を崩壊させたにすぎん
あのタイミングで三成が挙兵しなきゃ家康の無茶苦茶なやり方で次々いちゃもんつけられて
前田や浅野やらみたいに次々降伏するだけの話だし
秀頼成人までまだ時間があるし既に天下人という世評を受け武功派連中により三成失脚、
家康は諸将の意向無視で勝手に婚姻同盟派閥形成するし島津への倉いり地問題やらで散々恩売ったりしてるし
関が原の戦いも美濃口の防衛要請無視しまくって四国やら伊勢湾やらどうでもいいところに軍送った輝元のアホさ加減で負けただけだし
美濃口に大軍で援軍きてたら東軍は木曽川の防壁と美濃の秀信や木造などに阻まれて進む事など到底適わないだろうし
畿内方面に展開してる部隊だけなら西軍のがずっと多いはずだから西軍に戦力の集中を考案できる優秀の戦略眼もった武将がトップなら
東軍など一網打尽にできたはず。
総大将輝元がアホみたいなところに軍進めたり
肝心の決戦で軍動かさなかったり馬鹿みたいな行動したおかげで三成は寡兵で戦わなくてはならなくなり西軍は大敗した
正則の弟の福島高晴が長島へ籠城してる中で西軍の毛利軍は鍋島隊を長島への備えに配置して攻めずに関が原へ急行してる。
関が原を無視して、長島城を落として尾張国に雪崩れ込み背後を襲う戦略をつかわなかったのは
それだけ長島城が堅固だったと言うことだろうけどそもそもなら、なんで伊勢攻略軍なんて編成したんだよって話だよな。
素直に、岐阜城を策源地に尾張に攻め込んでれば良かったじゃんwってもんで。
やっぱり毛利ってのは戦略眼がまるで無い。
0073人間七七四年
2013/12/14(土) 23:04:47.86ID:woYcZ08Mあのタイミングで三成が挙兵したせいで家康はいちゃもんつける必要もなく日本の半分を大改造する力を手にしたんだろ
そもそも当時の家康にとっての最大の弱点は年齢による時間であり
75歳まで生きれることなんて当の家康本人にも確信できることではなかった
その最大の弱点が三成の無謀な蜂起によって解決されて半日の戦で天下権力を手に入れることができたのだから
三成こそ豊臣の天下を崩壊させた最大の戦犯であることに疑いはない
0074人間七七四年
2013/12/14(土) 23:16:31.83ID:4xthLgrF家康がネチネチ五大老潰しにかかったとして
征夷大将軍にはなれないよね?
結局家康の死ぬ1617年位まで粘れば豊臣の勝利か?
ただその頃には加藤も死んでるし頼りになる恩顧大名も軒並み代替わりで忠誠心なさそうだな
0075人間七七四年
2013/12/14(土) 23:37:42.24ID:EpVcVJ50石田三成が1599〜1600に亡くなるということは、史実で西軍側だった人間が
そのまま延命することになるし、上杉討伐はなされるだろうが、上杉単独の反乱では
上杉が敗死しても大した戦功にはならんし、万が一長期化すればそれこそ家康の政治生命にかかわる
順調にいけば秀頼は1610年くらいには元服できるから、家康は最低でもここまでに全ての五大老を潰さないと無理
服従させるだけでは秀頼が大号令した時に秀頼に味方する奴も出てくる。ましてや家康が強行に五大老などを潰しにかかっていたとなれば心象最悪だし・
結局どちらが勝つかは別にしても、豊臣秀頼VS徳川家康の構築は可能だし、年齢的に死亡が近いのは家康だから長期化すると秀頼が有利
史実のような他藩が全て豊臣を見捨てたのは家康が絶対権力を固め切っていたからで、そのアシストをしたのは三成(と輝元)だわな
0076人間七七四年
2013/12/15(日) 00:02:33.30ID:+L4c/D7s西軍には上杉・毛利・宇喜多や5奉行のほかの連中・さらに畿内・西国の諸将が多く付いている
三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いたという事は諸侯は内心では家康のやり方は無茶苦茶で豊臣政権をあからさまに犯すやり方をしてると考えた証拠だろう
実際三成は蔚山城攻防での論考交渉の際や島津家倉入り地加増問題など
一貫して豊臣の倉入り地の維持・諸大名の倉入り地や石高増加反対や家康と諸大名との会合を糾問したりと
豊臣家のために動いているのに対し家康は五大老の許可なく私婚で諸大名取り込んだり島津の倉いり地問題や庄内の乱の協力などで積極的に
諸大名を取り込み豊臣家のためなどではなく自勢力拡大・専横を行っているのは明らかで
その証拠に三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いている
むしろ東軍についた諸大名の方が三成憎しの個人的感情やらで凝り固まっているにすぎずまとまっていたとする根拠がない
西軍の敗因はあくまで毛利家の美濃口への援軍要請無視・優先順位低く要害の構えられた伊勢方面軍編成による戦力分散
・毛利一族が総大将にかかわらず不戦・毛利輝元出陣なし・小早川の離反と
毛利のあまりのヘタレぶりで負けただけにすぎない
0077人間七七四年
2013/12/15(日) 00:07:12.36ID:oP7tu7p6三成が挙兵しなきゃ
既に石田三成襲撃事件やその家康による解決、
豊臣政権下で禁止された家康の私婚の連発を抑止できず
家康は島津家など外様に恩を売る事に成功し天下殿の世評を得て
奉行衆を失脚させ前田や浅野などに喧嘩吹っかけて土下座させた家康の暴走を誰も抑止できず
家康の専横により、徳川幕府がすんなり開かれるだけの事だろ。
馬鹿かお前
0078人間七七四年
2013/12/15(日) 00:10:28.92ID:yj9dOlYoこの後前田利家など大老、奉行衆と家康との確執はぬきがたくなり細川忠興はそれを仲介する
家康の暗殺計画が奉行衆らによって企てられ家康は向島に城を移す
利家が死亡し、今度は武功派7将によって三成襲撃計画が起こり、家康は公儀にのっとり武力行使をやめさせる
石田三成襲撃事件本質が蔚山篭城戦をめぐるものであるとわかる(3/19 5大老連署状)
この問題の解決により家康は「天下殿」という世評を受ける(多聞院日記)
そのような中9月に大阪へ家康が赴いた際、暗殺計画があることを増田より告げられる。前田・浅野・大野らが首謀
この一件より家康は伏見より大阪西の丸へ移り天守閣を築造して、自らが秀頼と並び立つ立場であると天下に誇示する
家康は先の暗殺計画の謀議者の摘発に乗り出し土方・大野を配流処分とし
浅野は奉行職を解任し国許へ蟄居とする
また加賀前田家や細川忠興にも追求の手を伸ばし利長の挙兵反乱の疑いを詰問し
10/3西の丸に諸将を収集し北陸討伐令を出す。細川は家康へ恭順の意を示し家康に誓詞を出しさらにその三男忠利を江戸に送り人質とする
前田は弁明するが母芳春院を江戸に送る事を求められる
0079人間七七四年
2013/12/15(日) 00:16:33.84ID:YERUGWhN西軍の大半は三成の味方ではなくも毛利の味方だよ
だから家康と戦わないという毛利の決定に大半の西軍大名が同調したが
逆に強行的に家康と戦おうとした三成には小西・大谷・宇喜多しか協力しなかった
西軍の大名のほとんどが三成の味方ではなかったということ
つまり三成こそ西軍の方針に反旗を翻した裏切り者なんだよ
0080人間七七四年
2013/12/15(日) 01:32:37.05ID:wNE+SvoO0082人間七七四年
2013/12/15(日) 07:46:10.43ID:+L4c/D7s>>だから家康と戦わないという毛利の決定に大半の西軍大名が同調
三成の味方ではなく、毛利の味方なのは分家の吉川小早川と秀元だけだろ。
関ヶ原合戦では輝元が大阪に引きこもってたから三成が事実上総大将になってるじゃん。
0083人間七七四年
2013/12/15(日) 07:51:01.69ID:yj9dOlYo相変わらず妄想ばかり垂れ流してるなアホ毛利厨
0084人間七七四年
2013/12/15(日) 08:04:37.25ID:LjLG1duj首謀者かどうかは、全く別の話だな。
0085人間七七四年
2013/12/15(日) 08:53:08.29ID:9KqSZ4Xn0086人間七七四年
2013/12/15(日) 09:12:43.53ID:LjLG1duj0087人間七七四年
2013/12/15(日) 09:20:40.70ID:YERUGWhNどのみち徳川政権になるのだから徳川幕府がすんなり開かれる方がいいだろ
三成は無謀な暴走で日本中に迷惑をかけただけで何の意味もない行動だった
0088人間七七四年
2013/12/15(日) 11:48:59.94ID:9KqSZ4Xn小牧・長久手で息の根を止められずゲームオーバーってとこかな?
0089人間七七四年
2013/12/15(日) 12:06:59.69ID:CnRrhWjDまぁ秀吉があの時期に北条ぶっ潰したのは小牧長久手で
家康が北条と同盟してて後ろの心配せずに動員できたことへの私怨かなと思う
0090人間七七四年
2013/12/15(日) 12:21:39.55ID:yj9dOlYo上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
0091人間七七四年
2013/12/15(日) 12:22:19.24ID:oP7tu7p6上杉の信濃侵攻の留守を任されてたから北条との同盟自体ほとんど関係ない
そもそもほとんどが信雄軍と秀吉軍の交戦で家康は8000そこそこを連れて来ただけ(当代記・御当家記念録・御年譜徴考・家忠日記など)
大久保兄弟、鳥居、岡部、石川家成、平岩、保科その他多くの徳川家臣の活躍は徳川史料には一切見られない
江戸期の講談とか軍記などでは別だがな
0092人間七七四年
2013/12/15(日) 12:23:27.55ID:bApnivTXのように領国中の兵力総動員して短期決戦に臨んだが、秀吉の指揮采配能力があまりにもクズすぎたせいで
わずか16000の雑魚信雄・徳川勢に10000人殺された上に、その後の攻防でも下記のように膠着状態に陥ってる。
長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候 羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる 秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど完全に持久戦の態勢に入っている4/12松井→紹安 一戦に池田親子・
森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候 4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候 4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人
が出た 4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた。播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた5/2信雄→不破広綱
今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが美濃
に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り
討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣した
ので近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
0093人間七七四年
2013/12/15(日) 12:24:29.12ID:yj9dOlYoお前は本当に無知だな。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。
84年一杯を対信雄&家康に使って伊勢口や美濃の押さえ合わせて計135000ほどの圧倒的大軍引き連れて
砦間の戦闘や城の取り合いや信濃の木曽、上杉ら周辺大名への働きかけもガチガチにあったのに
滅ぼす気がないとか言われてもな
「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
0094人間七七四年
2013/12/15(日) 12:25:26.92ID:yj9dOlYo3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
0095人間七七四年
2013/12/15(日) 12:25:52.43ID:Se0onPnF敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
0096人間七七四年
2013/12/15(日) 12:26:25.15ID:yj9dOlYo松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。堀と長谷川は中入り組。(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。丹羽長重も派遣されてる。信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる。北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、
八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄もそれに合わせ多く兵残してる。
秀吉方は秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、
稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島。長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、
生駒吉一、矢部、山内。彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる。上記のように一次資料類から秀吉側は領国中主力武将ほとんどかき集めている。当代記や三河物語などでも楽田周辺の秀吉軍だけで
10万かそれ以上としている。また秀吉に同行していた渡辺清忠や桂横重が小牧山に陣替したときの人数を10万といっており当代記、三河物語もこれと同じ数字。その他に伊勢方面を攻めている諸勢2万4000と
美濃に残されている秀勝勢数千が存在するため総勢で13万を超えると思われる。また尊禄以来年代記では秀吉は3月に大阪をたった時125000、八月には16万で尾張へ出兵した。また長久手合戦参加者の家記や家譜、
合戦記などでも同じ数字が用いられている
0097人間七七四年
2013/12/15(日) 12:27:48.52ID:bApnivTX三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。
0098人間七七四年
2013/12/15(日) 12:29:01.42ID:bApnivTX敗戦前日の丹羽宛書状等複数の書状では『家康さへ討果候へは』とあるし龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、
生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦も
その一貫であり自分の意思で池田等の兵力を三河に向け発向させる予定である旨を報じてる。
北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀かねに同道してた
渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる。その後も秀吉の決戦構想はは秋頃まで一貫してて11月の信雄との和睦時ですら
「家康には恨みが深いので年内であっても攻め滅ぼしてくれん」とか言ってる。伊勢にいた軍勢北尾張に呼び寄せてるし留守居に最低限の兵
残して北尾張に秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄、細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、
赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、 小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、
蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、長久手方面進軍者を除きこれだけ
主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内 彼らが柏井の屋敷に在番してる。
上記の最低限の留守居除く全て総力でかき集めたといっていい
21日に美濃池尻に来た時は125000(細川軍記)100000(当代記や野坂文書)これだけ大軍を連れてきたとある。伊勢の兵も四月にはだいぶ尾張に進めてるし。
それから詳細な地図ないから説明しずらいが犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでてそこにも兵をある程度配置してると思われるし、さらに楽田〜龍泉寺までの大草、柏井、篠木にも屋敷が普請さ れている
0099人間七七四年
2013/12/15(日) 12:37:29.33ID:bApnivTXそれどころか家康は北条の敵対者の佐野とか佐竹(東)とか皆川とかと頻繁に書状のやり取りしてたし
北条は北条で一切家康に援軍送らないどころか、駿河に乱入する風聞まで垂れ流されてた事や、上杉景勝の川中島侵攻で
家康は領国に遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
北条徳川同盟が本格的に機能して北条軍徳川軍総力で対秀吉に臨めてたら確実に秀吉は戦死してただろうな。
135000の兵力があっても合計わずか16000程度の雑魚信雄に決戦で1万人ぶち殺される強さしか発揮できないレベルの指揮能力の秀吉なら
あと徳川北条の計40000が加われば確実に秀吉なんて討ち取れる。
開戦前から重臣がこぞって秀吉に人質を奪われていたために、あの会戦早々から領国が離反連鎖で崩壊状態の信雄ですら
松ノ木城・戸木城・浜田城・蟹江・前田・下市場・長久保・東駒野・二重掘・浜田城など秀吉に勝ちまくってたからね。
尾張でも石田毛利氏や毛利秀頼、松ノ木城近辺の諸将など会戦当初からあっさり信雄を見捨てててるのに
自力じゃ全くと言っていいほど秀吉は切り取れてないしな
確かに兵力の2乗=戦力だからね。
兵力が3倍程度に増えるなら、当然豊臣方の損害は史実の9倍の9万程度に増えるからな。
それこそ秀吉が討ち取られてていいレベルだろ。
0100人間七七四年
2013/12/15(日) 12:40:01.19ID:m2Y8Xqtbその後の攻防も蟹江・浜田・前田・下市場・長久保は奪回され
戸木城・松ノ木城・東駒野城・河波城・二重掘合戦攻防でも破れて結局会戦当初から
伊勢でも尾張でも美濃でも寝返り続出で崩壊状態だった信雄領国を自力では尾張半国すら切り取れなかったからな。
滅ぼせるわけがない
0101人間七七四年
2013/12/15(日) 12:40:50.31ID:9KqSZ4Xnだけど秀吉が家康みたいな待遇(人質おくったり)をしなかった
北条は家康より↑を自認していたので、誇りのために家康に近い待遇を求めていたんだけど結局猪俣が暴走して週末を迎えた。
0102人間七七四年
2013/12/15(日) 12:48:10.45ID:Oaw871kQ関ヶ原に関しては前田と浅野がヘタレすぎて豊臣武功派がアホすぎ
毛利が馬鹿すぎとしかいいようがない。
豊臣武功派がアホで主家への恩義を忘れて目先の利得に走ったせいで豊臣政権が家康に簒奪されたんだろ。
示威行動にビビリまくってヘタレ土下座した前田や浅野、糞戦略で大敗した毛利も同罪だが。
0103人間七七四年
2013/12/15(日) 12:51:32.34ID:dZqbxrw/豊臣政権への反逆罪を名分に掲げて
畿内方面だけで18万もかき集めて100%勝てる状況を作ったが
その中で最も中核となる軍隊を有する毛利一族が馬鹿すぎたせいで
西軍は戦力が分散しまくり軍として機能せず、大敗した。
0104人間七七四年
2013/12/15(日) 12:57:14.39ID:LjLG1duj0105人間七七四年
2013/12/15(日) 12:59:34.07ID:LjLG1duj0106人間七七四年
2013/12/15(日) 13:10:28.03ID:+L4c/D7s0108人間七七四年
2013/12/15(日) 13:26:28.86ID:LjLG1duj毛利の参戦目的は、自領拡大と瀬戸内海益の確保が主目的。
自国の利益が最優先であり、豊臣家のために家康と戦う事など二の次。
毛利は豊臣家に服従した外様であり、豊臣家の守護者になる義理はない。
まして秀吉死後においては尚更。これは上杉も同様。
三成は、毛利という毒を制御出来ず、徳川という毒で豊臣家の寿命を縮めたわけね。
0109人間七七四年
2013/12/15(日) 14:07:38.69ID:+L4c/D7s兵数だけど?
0111人間七七四年
2013/12/15(日) 14:16:50.30ID:refmEEni三成はオマケ
三成は美濃近江ラインの重要性を認識
毛利家は家臣がそれぞれ派閥化して方針が定まらなかったため
アホ輝元は戦略的視点に欠けていた(小早川吉川ら兄弟時代からの派閥確執が余計ひどくなっていた)
そこに家康や長政が和睦詐欺や毛利を敵だと思ってないよ嘘アピの謀略をかけてきて
輝元はとうぶん家康の西上はないわwと多方面へ兵力を分散し
肝心の美濃近江戦線を放置するアホぶり。
家康も福島らが三成包囲したわ詐欺にひっかかり
急いで西上してしまったことで
輝元は腰がひけて、家康は和睦してくれる&毛利を敵だと思ってない発言を盲信して騙される。
そもそも毛利が下手を打ったために大津城が東軍に落ちたのが致命的
毛利の無能さは神
輝元が首謀者だったが、大坂城を明け渡すために
大坂城内を説得した功で極刑を免れる。
そのため武断派が嫌っていた三成・小西らがスケープゴートにされる。
これで豊臣家臣同士の諍いにまで矮小化することで戦後の
ソフトランディング謀り、家康の謀反を問う義戦の性格が消滅した。
勝者の論理が適用されたのだ。
第二次大戦での日本の東亜開放の人種戦争の大義が消されたように。
光成氏も輝元の迅速な大坂城入りは
事前に準備をし終えて出撃する準備が完了してないと
不可能な速さだと指摘してる。
明らかに毛利が首謀者でなければあんな一大挙兵はできない。
0112人間七七四年
2013/12/15(日) 14:17:41.34ID:3tzXr0Go加藤清正は関が原の戦い直後9/24に「天下之様子」は「関が原表之合戦」では「輝元方敗軍」と報じているので
毛利輝元が大阪城にいて関が原の戦場に出向いていないにもかかわらず「輝元方敗軍」としているのは毛利輝元が西軍のトップであり
首謀者であったとみなされていた事を示している
毛利家内への介入と分断を図る家康が目指す覇権へ抵抗するために
会津征伐をチャンスに毛利は反家康行動に踏み切った。
家康は上杉が気になり当分上洛ができないと判断し、
その隙に自力でも家康に対抗できるよう自己のために領土拡大を謀った。
光成氏は毛利の領土拡大と西軍の反家康行動は両立しないなどとは、まったく書いておらず完全に歪曲。
〜光成氏の主張〜
家康と組んだ秀元の別家創設で輝元から毛利領の1/4獲得を狙っていた(出雲や石見なので吉川は長門へ飛ばされる)
その後の交渉で出雲から長門や周防や父の遺領に変更になりながら、やむなく妥結した。
輝元は遺領問題で天下の人々はどうおもうだろうか?と毛利の外聞を非常に気にしてる。
家康や秀元によって恥をかかされたと認識してるから輝元も上杉征伐を最後のチャンスと思ったんだろうね。
さて輝元が在国してて、家康が会津へ出発すると大坂は大老不在になってしまうことから
秀家は会津へ行かずに在京。秀家の代わりに会津へ行ったのは詮家。
ちなみに毛利は吉川と安国寺が会津へ従軍予定。
7/5の豊国神社参拝での武運長久を秀家が行ったことに関しても
肝心の詮家が出発した後にそれをやるのはおかしいとされ、
しかも家康が介入した宇喜多騒動の主役の1人の詮家を会津へ派兵したのは
西軍挙兵において家中で邪魔になるであろう詮家の弊害を恐れ
事実上、秀家による家康の下への放逐行為であると考えられる。
そして秀家は大谷と親しいので、大谷の決起も秀家の士気の高さに引っ張られたとされてる。
6/16の家康出立直前の6/8〜10頃に輝元は領国へ向け出立
6/17日夜に広島に着いているわけだが、7/2に家康が江戸城着を経て
7/12付け三奉行の輝元への上坂要請文が7/15に輝元の元に到着した可能性が高く、
待ち構えていたように即日のうちに輝元は家中を率いて広島から船を出したと考えられ
7/17夜には秀元が大坂西の丸を占拠してしまうなど迅速に家康のいた場所が制圧されてる。
明らかに出兵の準備のために帰国してたとしか思われないわけで
輝元は6月の時点で家康を油断させるために領国へ帰ってるとされる。
そして七将襲撃の時に輝元ー三成ラインが敗北した原因である
家康側による大坂占領と伏見城の治部少丸包囲と真逆の行動を開始するなど戦訓を生かしている。
ちなみに7/19秀忠が江戸より会津へ出陣。7/21家康が江戸から会津へ出陣。
よって光成氏は下記のように書いているわけだ。
「この決起に輝元が直接関与していた可能性は高い」
「藩祖輝元の反幕府的活動をあからさまに証明する史料が隠滅された蓋然性は高かろう」
しかも慶長5年6月・7月の挙兵への道程における三成の関与について光成氏はまったく書いていない。
これでも光成氏が輝元首謀を主張してないと歪曲して強弁するならお前は完全に文盲かキチガイw
0113人間七七四年
2013/12/15(日) 14:26:44.61ID:LjLG1duj0114人間七七四年
2013/12/15(日) 14:37:18.77ID:bApnivTX0115人間七七四年
2013/12/15(日) 14:40:30.05ID:LjLG1dujおいおい(笑
キミが光成の著書を引用しちゃダメだろ〜。
>いまさら光成氏の2009年の古い話なんて問題にならない。
とか発言してたくせに、恥知らずもいいとこだぞ(笑
0116人間七七四年
2013/12/15(日) 14:41:39.35ID:WlGhKTf2三成が西軍参加したのは7月晦日からだから。
0117人間七七四年
2013/12/15(日) 14:43:03.25ID:LjLG1duj光成も白峰も、三成を首謀者だと言っているのに?
0118人間七七四年
2013/12/15(日) 14:47:05.00ID:LjLG1duj7月13日付 益田元祥・熊谷元直・宍戸元次連署状 (榊原康政・本多正信・永井直勝宛)
7月14日付 榊原康政宛 吉川広家書状
いずれも、三成・吉継・恵瓊の謀議に触れているけど?
0119人間七七四年
2013/12/15(日) 14:55:56.53ID:WlGhKTf2吉川らがいい訳する為に作ったウソ書状じゃんwww
吉川の尽力で毛利が救われたとするウソストーリーを展開するバカ吉川
0120人間七七四年
2013/12/15(日) 14:57:29.03ID:LjLG1duj0121人間七七四年
2013/12/15(日) 15:05:44.20ID:WlGhKTf2その後に書かれた関が原本において、
光成氏に対して批判の言及がある箇所もいくつかあるが、
その部分への批判はいまだ無いんだけどwww
0122人間七七四年
2013/12/15(日) 15:21:12.74ID:LjLG1dujよく読んでみなよ。偽書状だと断定なんかしていないよ。
『関ヶ原戦後に広家等が自己の立場を有利にするため偽造したか、作成されたが、
その直後に恵瓊から輝元も了解している証拠を提示されたため発送されなかった、
という二つの可能性が考えられる。』
可能性を示唆しただけ。作成されていた場合の可能性にも同じ事項で触れているけど(笑
というか、繰り返すけど、キミが光成の主張を論拠に持ってくるのは恥知らずだぞ。
0123人間七七四年
2013/12/15(日) 19:33:24.02ID:CG/E5goSその輝元を首謀者に据えたのが他ならぬ三成達だってことを承知して発言しているんだよな?w
神輿に担いだ人間が無能で組織が破たんした例なんて歴史上枚挙にいとまがないし
少なくとも三成が関ヶ原を起こさずにくたばっていれば、秀頼が元服する1610年以降は総大将は問答無用で秀頼が就任できる。
それだけでも恩恵が大きいよな。
0124人間七七四年
2013/12/15(日) 20:49:27.97ID:lxx5PtYv実際問題
それでは石田三成の存在感が無くなる
だから何としても関ヶ原の戦いをあの時に起こしたかったと考えるのが当たり前なんだろうな
0125人間七七四年
2013/12/15(日) 21:33:37.76ID:+L4c/D7s・輝元が家康と戦う気がないならはじめから西軍総大将になんてなるわけないし
伊勢湾、伊勢方面に兵送ったり関が原に秀元広家の大軍送り込むわけもない
・自領域拡大が目的なら関が原本戦に勝利すれば西軍総大将として最も領域も権限も増すし逆に総大将なのに負ければ最も不利な立場になるなんて幼稚園児でもわかる事
・石田三成などの奉行衆と連携して積極的に反徳川闘争の決起を行った
○毛利輝元は馬鹿なのは以下の通り史実での実績がちゃんとある
・対織田戦で熊見川で大勝しながら兵站の長さを理由に本国へヘタレ退却する
・天正4年〜7年時点でも織田方が他の方面での戦闘で忙しい時でも中国口を中途半端に火事場泥棒しただけで勝頼やらとの約定反故にして織田を討つ決定的チャンスを逃す
・本能寺の時も秀吉の口からでまかせ口述詐欺(数カ国織田から毛利へ割譲する)にひっかかって騙される
・関が原の後もやはり家康に騙されて大阪城明け渡した
・関が原の合戦に至るまでの間、総大将という最も権限軍隊ある立場にありながら関係ない伊勢湾四国伊勢などに軍分散させ見事大敗する
・総大将なのに西軍諸将からの援軍要請無視しまくり美濃口を突破され、その後も大阪に引きこもり秀元軍も使い物にならず見事大敗する
以上のように毛利輝元が消極的というより単に馬鹿だったからこそ戦力分散させまくり西軍を崩壊に導いたと解釈すれば矛盾なく関が原の毛利の行動も理解できる
0126人間七七四年
2013/12/15(日) 21:34:56.01ID:3tzXr0Goあと関が原直後には毛利の厳封が決まってるのに厳封確定になった時点で厳封する事が決まった領域を一時的に持ってた事をもって「領土は最大」などとはいわん
あと8/10石田←佐竹書状で「輝元は家康が到着したら三万を召し連れて出陣する」と書いており西軍方は家康との本決戦にあたって総大将であり最も巨大な軍団を持ってた輝元を
主力として東軍を迎撃しようと考えていたが当の輝元が再三に渡る石田ら西軍の援軍要請を無視しまくって本決戦で敗れる理由となったわけ。
尾張口に大軍で美濃方面を攻めに来てるのにそれ無視して援軍要請も無視して
伊勢湾とか四国とかどうでもいいところ攻めてるのにその作戦が真っ当とかないわ
戦力下手に分散してその一部隊が敗れたら戦局が大きく傾くなんて普通の脳味噌の人間ならわかることだし事実そうなったし
家康との直接対決で西軍方の一部隊が敗れたらもう手遅れで降伏するしかなくなるのが毛利
事実そうなったし自国の領土拡大どうこういうなら総大将としての地位を最大限生かして東軍との主力決戦で勝利し
大将としての権力を確立していけばいいだけ。
長期化するシナリオでも最低限福島やら池田やら東軍方諸侯は確実に美濃口で立ち往生させないとどんどん味方が減るだけだし
さっさと石田ら西軍諸侯の要請通り美濃に大軍送ってりゃよかっただけ
西軍総大将で最も規格外の大軍持ってるにもかかわらず目的が火事場泥棒で
軍分散させまくったあげく東軍の尾張口の進軍にも対応せず石田らからの要請無視して
大敗し大厳封くらうんだから相当馬鹿だな
伊達最上堀らに囲まれてた上杉と違って毛利は兵力的にも状況的にも十分すぎるほど東軍ぶち破るチャンスがあったのに
むざむざ無駄にして何もしないまま大厳封
西軍総大将として存在しながら本決戦に負けたら勢力拡大も火事場泥棒も糞もないのにクズすぎる
0127人間七七四年
2013/12/15(日) 21:35:44.02ID:3tzXr0Go事実そうなったし自国の領土拡大どうこういうなら総大将としての地位を最大限生かして東軍との主力決戦で勝利し
大将としての権力を確立していけばいいだけ。
長期化するシナリオでも最低限福島やら池田やら東軍方諸侯は確実に美濃口で立ち往生させないとどんどん味方が減るだけだし
さっさと石田ら西軍諸侯の要請通り美濃に大軍送ってりゃよかっただけ
西軍総大将で最も規格外の大軍持ってるにもかかわらず目的が火事場泥棒で
軍分散させまくったあげく東軍の尾張口の進軍にも対応せず石田らからの要請無視して
大敗し大厳封くらうんだから相当馬鹿だな
伊達最上堀らに囲まれてた上杉と違って毛利は兵力的にも状況的にも十分すぎるほど東軍ぶち破るチャンスがあったのに
むざむざ無駄にして何もしないまま大厳封
西軍総大将として存在しながら本決戦に負けたら勢力拡大も火事場泥棒も糞もないのにクズすぎる
一日で敗れるような会戦状況作ったのは他でもない輝元。
尾張口に大軍で美濃方面を攻めに来てるのにそれ無視して援軍要請も無視して
伊勢湾とか四国とかどうでもいいところ攻めてるのにその作戦が真っ当とかないわ
戦力下手に分散してその一部隊が敗れたら戦局が大きく傾くなんて普通の脳味噌の人間ならわかることだし事実そうなったし 。
家康との直接対決で西軍方の一部隊が敗れたらもう手遅れで降伏するしかなくなるのが毛利
事実そうなったし自国の領土拡大どうこういうなら総大将としての地位を最大限生かして東軍との主力決戦で勝利し
大将としての権力を確立していけばいいだけ。
長期化するシナリオでも最低限福島やら池田やら東軍方諸侯は確実に美濃口で立ち往生させないとどんどん味方が減るだけだし
さっさと石田ら西軍諸侯の要請通り美濃に大軍送ってりゃよかっただけ
0128人間七七四年
2013/12/15(日) 21:36:26.33ID:NdZz3oVy伊勢湾だの四国だの的外れな方向ばかりに戦力分散させまくってたら美濃でおきまくった離反の連鎖や味方の降伏にみられるように
次々に味方が減り、とりかえしのつかない所まで追い込まれて史実より酷い敗戦になるだけだろ
西軍の中核をなす最も巨大な軍隊かかえる毛利勢がちゃんと戦わないと、しょぼい軍勢しかない奉行らだけで勝てるわけないんだし
実際美濃の防衛も単独で行って失敗してる。
毛利輝元がちゃんと動いて戦場に赴き総大将として行動したなら、西軍の諸勢が毛利輝元の元で動かないといけないというのならわかるが肝心の輝元が大阪に引きこもり
馬鹿な方向にばかり兵を分散させる行動取ってるんだから後は奉行らでなんとかするしかない。
それでなんとかしようとしたのだが、いかんせん兵力に恵まれない奉行らは負けを余技なくされただけ。
0129人間七七四年
2013/12/15(日) 21:41:35.14ID:EiBFSG06それなら何で前田家は屈服してんだよ。
既得権益を守ろうとしていたが、
家康に脅迫されて屈服してるだろ。
権益拡大を狙って対立を辞さない大老たちというには大きな矛盾だよな。
権益拡大を狙って対立を辞さず一方的に戦をふっかけていたのは家康だけだろ。
上杉にしたって威圧には屈しない。攻めてくるなら受けて立つと言っているだけで、
上杉が権益拡大の為に積極的に開戦しかけようとしていない。
乱や戦を起す気持ちが見えるのは家康だけ。
上杉が対立を辞さず権益拡大を狙っているなら、
弁明を家康にする必要すらなく、良い機会だとしていきなり上杉が西上して攻勢に出るはずだ。
家康だけが事を起こそうとしているだけで、
他の大老は受け身になって豊臣政権の枠組みという秩序維持を図ろうとしている姿しか見えない。
0130人間七七四年
2013/12/15(日) 22:19:11.38ID:CG/E5goSその通りなんだよな
三成にしろ輝元にしろ「俺が俺が」と言い始めたから逆に家康に付け込まれた
家康にわざわざ「三成や輝元が秀頼様を傀儡にして意のままにしている」というお題目を与えてしまった
こうなればもともと求心力のあった家康が有利になるに決まっている
その家康を抑えられる可能性があったのは他ならぬ豊臣秀頼だけ。
その豊臣秀頼が成人して出てくる前に圧倒的戦力差をつけさせる原因になった三成や輝元が豊臣崩壊の原因
0131人間七七四年
2013/12/15(日) 22:34:38.38ID:3tzXr0Goあのせいで、家康は三成を救って解決する事で、「天下殿」という世評を得るまでになったし
あの前後でも前田や浅野に難癖つけて圧迫して降伏させたり細川を失脚させたり
やりたい放題やってたが、決定打となるのが三成襲撃事件だった。
しかしその後ですら西軍には家康の無茶苦茶な簒奪行為と豊臣政権への反逆行為に対して
異を唱えて決起した連中が18万も集まったのだから、毛利さえ馬鹿じゃなきゃ勝ち目は十分あったと思われる
0132人間七七四年
2013/12/15(日) 22:49:29.82ID:CG/E5goSそう、だからあそこで三成は殺害されるべきだった
三成が助かることで家康の名声が上がり、三成が蜂起して敗れることでまた家康の名声が上がった
三成は家康の掌の上で自分が助かる方法を模索して足掻いていただけ
忠義心なんて全くない
0133人間七七四年
2013/12/15(日) 22:53:28.68ID:CG/E5goS大坂の陣の時ですら消極的な行動をとり続けた加藤や福島などは秀頼に味方する可能性が非常に高いし
関ヶ原が発生していないのなら家康の確固たる権力は存在しないのだから家康に味方する奴などたかが知れてる。
確実に勝てる戦でもないのに自分の命のために足掻いて大勢の奴を巻き込んで自爆した三成は輝元と並ぶ、あるいはそれ以上の不忠奸臣。
0134人間七七四年
2013/12/16(月) 09:05:11.50ID:Rz2AdJqr家康派の大谷が輝元らに三成の味方すんなよって言って、
三成らを家康の保護下において調停してんじゃん。
大谷はこの調停を通じて、
家康が大坂と伏見を手に入れるように動いた。
三成は家康に息子を派遣して挨拶させて、
大谷のおかげで家康派に仲間入り。
家康の威光で前田派+武断派の力を削ぐためにね。
だから三成と大谷は家康派であり、
西軍挙兵の首謀者は輝元以外に考えられないし、
光成氏もありえない早さで広島から大坂に入った輝元は、
事前に大坂へ行く船団と兵を用意して奉行らの書状が届くのを待っていた計画性を挙げている。
光成氏の本は、以後の関が原本で批判されているが、
(特に前田派と奉行派の抗争や三成が家康派であった点などに言及してないので単純過ぎる)
この首謀者輝元の事前準備と大坂入城の一連の首謀者性の証明には、
誰も言及批判していない為、学術的には受け入れられたと言えるだろう。
0135人間七七四年
2013/12/16(月) 11:42:52.92ID:dMheUYcg武功派は親切にも三成に対して無能だから奉行を辞めなさいと教えてあげただけだろ
ところが三成は自分は有能なのに武功派の嫉妬で妨害されているという被害妄想を繰り広げ
自分の無能さを自覚することが出来なかった
案の定関ヶ原ではまったく西軍をまとめきれず大部分が不戦に走って半日で壊滅という恥さらしを見せつけた
武功派も三成の無能さを心配して職を解いてあげたのにその親切を踏みにじって自爆テロを敢行する三成は豊臣の癌だろ
0136人間七七四年
2013/12/16(月) 22:05:42.26ID:bRJw2mFU関ヶ原前に前田は徳川に恭順の意を示しているよね。関ヶ原合戦がなければそのまま上杉打倒して、講和という形で
傘下に収められそうだね。次の標的は、毛利か宇喜多だろうね。どちらも西軍に与しているのは偶然ではなさそうだね。
0137人間七七四年
2013/12/16(月) 22:07:36.48ID:TeqXE8SS0138人間七七四年
2013/12/16(月) 22:52:57.90ID:qoca5Rvoキミもいい加減しつこいねぇ(笑
三成が家康派とか、輝元が首謀者なんて言ってるの、キミだけだぞ。
光成は、輝元が首謀者なんて、全く言ってないだろ。嘘つき(笑
以下、光成のお言葉。『徳川派の打倒』『豊臣奉行衆と同盟』に注目(笑
「七将の襲撃を逃れた三成は、伏見城を拠点に徳川派の打倒に向けてさまざまな
権謀術数をめぐらしており、大規模な軍事衝突が起こる可能性もあったことが
明らかになった。また、この闘争計画の中心的役割を果たしたのが、一年後に
関ヶ原合戦を主導する石田三成、大谷吉継、安国寺恵瓊の三名であった点も注目
される。」
「輝元は豊臣奉行衆と同盟して表面的には豊臣政権を支える姿勢を見せながら、
その真意は独立的な領国を形成することにあり、実際には豊臣政権の根幹的な
政策である惣無事令や海賊停止令をも否定しようとしていたのである。」
0139人間七七四年
2013/12/16(月) 23:20:23.01ID:I+jklrG7前田は確かに形上、人質を出して家康に臣従の体をなしているが
所詮これは家康の力関係を鑑みて融和を図った結果で心から家康に屈服しているとは言い難い。
家康が舵取りを誤って窮地に陥れば、前田が味方する理由も当然なくなる。
上杉打倒は時間的にそこまでかからんだろうが、西軍諸侯が沈黙を守ったり、あるいは逆に上杉征伐への
援軍として参陣したら、家康の権力はそこまで大きくなれないだろう
家康の次の手は十中八九毛利だろうな。秀吉に育てられた秀家を攻めるのは難しい。無理に攻める理由もない。
0140人間七七四年
2013/12/17(火) 00:09:58.07ID:NAdxdYuUキミもいい加減しつこいねぇ(笑
三成が家康派とか、輝元が首謀者なんて言ってるの、キミだけだぞ。
光成は、輝元が首謀者なんて、全く言ってないだろ。嘘つき(笑
以下、光成のお言葉。『徳川派の打倒』『豊臣奉行衆と同盟』に注目(笑
「七将の襲撃を逃れた三成は、伏見城を拠点に徳川派の打倒に向けてさまざまな
権謀術数をめぐらしており、大規模な軍事衝突が起こる可能性もあったことが
明らかになった。また、この闘争計画の中心的役割を果たしたのが、一年後に
関ヶ原合戦を主導する石田三成、大谷吉継、安国寺恵瓊の三名であった点も注目
される。」
「輝元は豊臣奉行衆と同盟して表面的には豊臣政権を支える姿勢を見せながら、
その真意は独立的な領国を形成することにあり、実際には豊臣政権の根幹的な
政策である惣無事令や海賊停止令をも否定しようとしていたのである。」
0141人間七七四年
2013/12/17(火) 12:13:01.35ID:f3sSj548三成が自爆テロをしなければ関ヶ原クラスの日本大改造を行うことは出来ない
やろうと思えば各地の大大名とガチの殲滅戦闘を行わなければならず家康とて莫大な手間とリスクがかかる
関ヶ原のように一日の戦いで数人の大名(しかも宇喜多以外は小規模な文治系大名)を倒すだけで
日本の半分を自由に出来るのは三成の暴走があればこそ成し得たこと
だからこそ三成の罪は深刻なんだよ
0142人間七七四年
2013/12/18(水) 00:58:47.85ID:mWTdUeOZ秀吉の遺命で、約定違反するやつがいたら、腰刀一つで糾弾しに行けって言われていたから、
利家は家康を訪問して、しらばっくれる家康に約定破りの罪を糾弾。
家康は利家にビビって約定破りを認めるハメに追い込まれ、
伏見城政庁から出て向島で謹慎。
利家の圧勝で終わってるんだけど。
利家が死んで武断派が大坂でクーデターを起こしたことに付け入り、
家康は伏見城政庁にやっと復権。
前田による家康暗殺事件を利用して大坂城から北政所を追い出して西の丸占拠。
結局、家康は利家が生きているうちは利家を恐れていたんだよ。
利家が死んだら早速に前田家へ報復しまくった。
利家は死ぬ時に金も武器もあるから、
3年間は領国に帰るなって言い残し、
家康への牽制を命じて対決姿勢を示して死んだからな。
利長のヘタレぶりにはガッカリ。
秀頼様後見役である前田軍を率いて越前で三成を討って近江に乱入し伏見城を目指し、
これに呼応した清正や秀家が淡路島で大谷を討って大坂城を目指せば家康なんて撃破出来たわ。
0143人間七七四年
2013/12/18(水) 18:20:14.72ID:NkapXHIXここまで酷いと、逆に読み手側は信用しない。
その前に長文過ぎて読まないかw
0144人間七七四年
2013/12/19(木) 11:56:28.84ID:wfherA6N家康はもちろん利長も気付いていたから
利長が三成の天下取りを阻むために家康と協力関係になることを選択したのは当然だった
だからこそ家康は前田を所領安堵したのに対して
三成と協力し天下を簒奪しようとした毛利・上杉・宇喜多に対しては罰を与えたわけ
0145人間七七四年
2013/12/19(木) 12:29:58.36ID:mirlY9Btこの後、『一次史料出せ』って自分で突っ込むんでしょ?w
0146人間七七四年
2013/12/19(木) 13:47:31.03ID:S3L2DYkj一人の味方もいない上、
政治上失脚した三成が、
消極的な輝元•秀家を反家康闘争へ引きずり込んだとする構図は不自然であり、
むしろ、輝元•秀家の側に積極性があったと考えた方が自然である。
0147人間七七四年
2013/12/19(木) 15:15:49.24ID:VHlsyp1c0148人間七七四年
2013/12/20(金) 00:12:08.20ID:K8yqT2iL政治上失脚したからこそ三成はなりふり構わなかったんだろ
安国寺を使って毛利をそそのかして自分が権力を握るために利用しようとした
輝元の側に積極性があったとするなら何故に吉川をはじめとした毛利家臣団が消極的だったのか
0149人間七七四年
2013/12/20(金) 09:37:48.24ID:XFpSe6/0その点で毛利家は依然として国人一揆だったのだろう
0150人間七七四年
2013/12/20(金) 10:23:15.47ID:28XxpxCs広家の書状の安国寺の行動はすべて、
輝元は騙されただけと言い逃れする目的で作られたウソ書状だって光成氏が言ってるじゃん。
三成は家康の前田排除と大坂占拠の協力をした挙句、
対前田防衛の為に北陸道の要路を守備した家康の駒だ。
0151人間七七四年
2013/12/20(金) 10:54:30.35ID:b/MPzFsI本当にしつこいね〜(笑
反論出来ないのに、よく繰り返せるものだとある意味感心。
光成は、偽書状だと断定なんかしていない。 可能性を示唆しただけ。
『関ヶ原戦後に広家等が自己の立場を有利にするため偽造したか、作成されたが、
その直後に恵瓊から輝元も了解している証拠を提示されたため発送されなかった、
という二つの可能性が考えられる。』
作成されていた場合においても、毛利が積極的であったと、同じ項で触れている。
ただし、毛利が当初から関与していた一次史料が存在しないことをハッキリ認めている。
というかキミ、光成の著書は2009年のもので、古いだ、時間が止まってるだ、
散々こき下ろしてなかったっけ?
結局引用するんだねぇ(大笑
0152人間七七四年
2013/12/20(金) 11:51:59.10ID:TFRSzsyx光成氏が前田派と徳川派(三成や大谷)の闘争について全く言及していない無知さを批判されており、
光成氏の本は古臭い。
しかし光成氏が指摘した吉川らの偽書状の件に関して批判している書状はなく、
光成氏の功績になっている。
また家康と三成の連携から、
一転して反家康の首謀者に三成が立場を変える不自然さは、
三成が首謀者ではなく、
輝元が首謀者である証明でもある。
西軍が徳川が守る伏見城を落とし瀬田の大橋を確保し、
美濃国大名たちから人質を取りまくった時点で、
家康派の三成は西軍勢力圏内の陸の孤島となり、
参加せざるを得ない状況に追い詰められ、
ついに7月末に、たびたび真田から雑説は事実か?と確認の書状が来ていたことに対する返書をしたため、
西軍参加を表明することとなった。
それと同時に三成は個人的親しさから、
織田、真田、上杉、佐竹との連携戦略を作り上げたが、
無能毛利が美濃へ援軍を送らず、
だらだらと伊勢で停滞しまくって足を引っ張りまくって、
(どうせ伊勢長島攻略で行き詰まるだけ)
尾張や信濃攻略すら出来ず、
攻勢側ではなく、守勢の不利に主客転倒してしまった。
0153人間七七四年
2013/12/20(金) 11:56:01.17ID:TFRSzsyx×偽書状の件に関して批判している書状
○偽書状の件に関して批判している書籍
0154人間七七四年
2013/12/20(金) 12:25:57.80ID:b/MPzFsI三成を家康派と断じている識者は誰ですか?
キミが識者の主張の断片を拾い上げて妄想を構築してるだけでしょ?
光成は偽書状だと断言してないって言ってるのに(笑
(>>151)
0155人間七七四年
2013/12/20(金) 13:05:25.63ID:XFpSe6/0ああいう書状を書いてもおかしくはない
0156人間七七四年
2013/12/20(金) 21:33:24.13ID:IxSCRmqq実際にはこれらの書状は当時作成されておらず、
関ヶ原合戦後に広家らが
自己の立場を有利にするため偽造したか、
作成されたが、その直後に恵瓊から
輝元も了解している証拠を提示されたため発送されなかった、
という二つの可能性が考えられる。
省略
仮に、広家書状などが実際に作成されたとすると、
大坂留守居のうち、
徳川氏への通報に加わったのは益田•熊谷•宍戸といった国人に出自を持つ者のみであり、
当時の毛利氏行政機構において中心的な役割を担っていた福原広俊や堅田元慶が加わっていないことが注目される。
つまり、福原や堅田は輝元から決起計画について事前に知らされており、
恵瓊の行動も織り込み済みだったのではないだろうか。
省略
確かに輝元が謀議当初からこの決起に直接関与したことを立証する資料は見当たらない。
しかし、江戸期に行われた編纂事業において採用された文書は、
「はじめに」で述べたように、
あくまでも幕藩体制下における藩主の支配の正統化を妨げないという条件に合致したものである。
藩祖輝元の反幕府的行動をあからさまに証明する史料が隠滅された蓋然性は高かろう。
0157人間七七四年
2013/12/20(金) 21:49:01.40ID:IxSCRmqqもしくは、ほんとに作ったが福原や堅田も了解しており輝元首謀者なのがガチだったのを知らされ送れなくなった。
どちらに転んでも輝元首謀者である事実は変わらない。
そこで「はじめに」を読むと広家の岩国吉川家による歴史捏造改竄の話が書かれている。
山本洋氏によると、萩藩の支藩である岩国藩士香川正矩の著した「陰徳記」をもとに「陰徳太平記」を完成させた正矩の子景継は、
吉川家の意向を受け、「関ヶ原軍記大成」など他の軍記類に、
吉川家の主張を盛り込む活動を隠密裏に行っていたとされる。
0158人間七七四年
2013/12/20(金) 22:19:46.67ID:IxSCRmqq光成氏は、この書状案は結局出された形跡がないため、
実際に関ヶ原合戦直後に記されたものか疑問が残るなどと、
広家書状への疑問的姿勢がたびたび見られる。
そして最終的に次の言葉であからさまに広家書状群への不信感を隠さなくなる。
岩国藩が編纂した「吉川家譜」や「吉川家什書」に三通の文書(10/2広家宛長政書状.10/3広家宛長政書状.10/3正則•長政宛広家起請文)が所収されている。
省略
しかしながらこれら三通の文書は「大日本古文書」に収録されていない。
つまり、原本が吉川家に伝来していないのである。
10/3の広家起請文は正則•長政宛であるが、
受領したはずの黒田家にも伝来していない。
また毛利宗家が編纂した「毛利三代実録考証」にもこれらの文書は収録されていない。
このような史料の残存状況は、
問題となる三通の文書が偽文書である可能性を示している。
吉川家にとって、自らが大名となることを拒絶してまで毛利宗家の危機を救ったとする内容を偽作する動機は十分にある。
つまり吉川家は輝元首謀者である事実を隠蔽するのに失敗してしまい、
大坂城を譲り受けた家康は輝元改易を言い渡す。
家康に内通して南宮山で軍を動かさないようにしていた広家は、
輝元に毛利家の安堵は取れていると安心させていたが、
毛利家の領地が安堵に必死になった。
その過程においてまた偽書状を作り、
吉川家が安堵を受けたが、
吉川は領地がいらないので、
毛利家へ領地を譲りたいとする大ウソをでっち上げた。
つまり光成氏は広家の書状はウソにウソを重ねたものだと主張している。
0159人間七七四年
2013/12/20(金) 22:28:10.74ID:IxSCRmqq光成氏が何段にも疑わしいとする根拠を挙げて続け、
論述を重ね展開し、
広家書状が偽書状であると主張しているのである。
偽書状だとは言ってないと主張するのは文盲か、日本人的思考が欠如している人種だろう。
0160人間七七四年
2013/12/21(土) 00:04:45.02ID:wHmiAoT9キミは、文盲か日本人的思考が欠如しているんだね。可哀想に。。。
これだけ読解力がない事を曝け出して、恥ずかしくないのかなぁ?(笑
光成の広家書状に対する見解は以下。
@偽書状の可能性がある。
A作成されたが、輝元が計画を了解している事を知り発送しなかった。
いずれの場合も、輝元の直接関与の可能性導き出している。
では、輝元の直接関与って何だろうねぇ?
答えは、>>156の文章が記載されている項に全て凝縮されている。
つまり該当する項の、標題・問題提起・結論にね。
標題 『安国寺恵瓊の策謀だったのか』
問題提起 『この決定(反徳川闘争の決起)は輝元の承認を得ないで恵瓊が独断で行ったとするのが
従来の理解であるが、真実だろうか。』
結論 『輝元の三成との交渉窓口恵瓊であった事を考えれば、この決起に輝元が直接関与していた
可能性は高いのではなかろうか。』
光成が、広家書状を使用し主張したかった事は、『西軍参戦は恵瓊独断によるものではなく、
輝元も直接関与していた可能性が高い』という事であり、『輝元が西軍首謀者』という事ではない。
0161人間七七四年
2013/12/21(土) 00:08:29.71ID:wHmiAoT9輝元が首謀者などとは一言も言っていない。
「七将の襲撃を逃れた三成は、伏見城を拠点に徳川派の打倒に向けてさまざまな
権謀術数をめぐらしており、大規模な軍事衝突が起こる可能性もあったことが
明らかになった。また、この闘争計画の中心的役割を果たしたのが、一年後に
関ヶ原合戦を主導する石田三成、大谷吉継、安国寺恵瓊の三名であった点も注目
される。」
「輝元は豊臣奉行衆と同盟して表面的には豊臣政権を支える姿勢を見せながら、
その真意は独立的な領国を形成することにあり、実際には豊臣政権の根幹的な
政策である惣無事令や海賊停止令をも否定しようとしていたのである。」
0162人間七七四年
2013/12/21(土) 10:57:33.19ID:KeMpGOIE全く別の話である三成首謀者論に話をそらすなよワロタw
だからさ、光成氏は三成が首謀者であるとする証明からは一切逃げているじゃん。
そして三成が家康派だったってのは水野や中井らが指摘している。
光成氏が古いと言われるのは前田派と奉行派の対立に言及しないどころか、
輝元が領国形成をするために惣無事令や海賊停止令をも否定しようとしたなどと野心家であることを強調したくて意味不明な解釈を書いたところだ。
たとえば中井氏は三成らは家康に従う姿勢を見せていたのである。
と書いていて、
さらに三成が家康に従う姿勢を見せていたのが、
そもそも擬態であり、三成は虎視眈々と家康打倒の機会を狙っていたのだ、
という人もいるかもしれない。
しかし、それは歴史の結果を知っている者のうがちすぎた見方のように思える。
などと指摘しており、光成氏の解釈では真の三成の矜恃が理解し得ない。
また光成氏は7/15付けで輝元が決起した際に、清正へ秀頼様への忠節の為に清正の上洛を促しているが、
なんで武断派だった清正に唐突に輝元は書状をだしてんだ?と疑問に思うが説明がない。
しかし水野氏は家康派の三成や大谷が清正や前田利長の上洛を阻止するために淡路島に兵を配置しており、
明らかに清正が反家康であったことを挙げて、
輝元は清正が味方になると考えていたことが挙げられている。
また輝元は秀頼様を奉ずる西軍首脳として、西軍に反する謀反人を討ち従わせているだけで、
勝手に占領した地域で直接毛利との主従関係や安堵をやっていたわけでなく、
大友家の豊後派遣でも秀頼様の命として派遣している。
また清正は反家康であるので、
輝元は毛利吉成を8/18には熊本に説得に下している。
7月中の清正は輝元に応じて西軍になる可能性があったが、
7月末の三成西軍参加を知り、
積極的な参加を思いとどまるようになったと考えるべき。
これは三成が福島の調略をやって失敗したのと同根であり、
三成の参加が武断派を東軍にしてしまった。
家康が江戸で疑心暗鬼になっていたのは、
輝元と武断派の反家康連合を恐れたからで、
武断派が家康の上杉征伐を無視して、
家康を放置して西上していることからも、
家康が武断派を恐れていたのがわかる。
0163人間七七四年
2013/12/21(土) 11:16:13.82ID:C3OPJUDL0164人間七七四年
2013/12/21(土) 11:19:03.15ID:wHmiAoT9はい?(笑
光成は、偽書状だと断言してないってば。
光成の広家書状に対する見解は以下。 (>>160)
@偽書状の可能性がある。
A作成されたが、輝元が計画を了解している事を知り発送しなかった。
いずれの場合も、可能性も示唆してるのみだよ。
で、キミは光成を威を借りたいの、否定したいの、どっちなの?(笑
0165人間七七四年
2013/12/21(土) 12:14:03.10ID:Ui1wm2tt0166人間七七四年
2013/12/21(土) 12:14:29.80ID:KeMpGOIE光成氏は広家書状を偽書状とは言ってないと強弁をたれていただけだろ。
史料提供して下さった史料所蔵所属先に遠慮と敬意を示して、
普通ははっきり偽書状とは言わない。
偽物である可能性を証拠を挙げて論を展開していき、
察するように話を導いて行く。
つまり君は導いて行く論証をわざと隠蔽する作為をして曲解してきただけだ。
0167164
2013/12/21(土) 12:33:28.38ID:zWLqkmmY著書に書かれてる事に忠実なだけですけど。
>>156でキミ自信も書いてるじゃないか(笑
>実際にはこれらの書状は当時作成されておらず、
>関ヶ原合戦後に広家らが 自己の立場を有利にするため偽造したか、
>作成されたが、その直後に恵瓊から輝元も了解している証拠を
>提示されたため発送されなかった、という二つの可能性が考えられる。
光成は広家書状が偽物とは言ってないだろ(大笑
タイムリー作成されていない、もしくは発送されていなかった可能性を
示唆しているだけで、広家の書状として偽物とは全く言っていないよ。
0168人間七七四年
2013/12/21(土) 12:47:38.62ID:KeMpGOIE何も知らない輝元は悪人三成の被害者で、
三成は勝手に決戦して負けた愚か者で、
超弱全敗秀吉死後も変わらぬ忠誠をした立派な家康を三成は排除しようとした
っていう妄想ストーリーに沿った話以外は意地でも認めたくないだけだろw
0169人間七七四年
2013/12/21(土) 15:05:25.66ID:ITKkbQ0/1000年恨みの悪口中傷するニダ!
そして単発ID自演で信長と輝元と家康を徹底擁護ニダ!
0170人間七七四年
2013/12/21(土) 15:56:02.68ID:ETCD3Tt6菅沼の主張 → 秀吉や三成ら豊臣政権は絶対に許さないニダ!!! 1000年恨みの悪口中傷するニダ! そして単発ID自演で信長と輝元と家康を徹底擁護ニダ!
現実 → 常識人「あれ?秀吉が山崎で光秀を討たなきゃ織田家は総崩れだったぞ?豊臣政権でも徳川政権でも織田は大名で存続したのにおかしいな」
2013年8月2日の「菅沼遼太」。なぜか秀吉叩きが「桶狭間は偶然」と信長叩きにジョブチェンジ
「秀吉嫌いの信長厨」を演出していたことを忘れ、うっかり秀吉叩き=信長叩きであることをバラしてしまう
hissi.org/read.php/sengoku/20130802/Q2srTnhFazU.html
hissi.org/read.php/sengoku/20130802/QUJaL1BZNFg.html
0171人間七七四年
2013/12/21(土) 17:12:14.92ID:SrugOlh2日本人を大量虐殺していない代わりに朝鮮人の鼻を削がせた秀吉は極悪人呼ばわりし、
看羊録で毛利は朝鮮人と考え方が似ているとか、
輝元のブレーンである恵瓊の周りは朝鮮人だらけと書かれた毛利も全力擁護して、
善政をしていた三成を権力を独占しようとして家康を排除した悪党呼ばわり。
これが在日チョン思考による行動原理だわな。
0172人間七七四年
2013/12/21(土) 17:17:41.96ID:HSwpolhNフロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
0173人間七七四年
2013/12/21(土) 17:19:47.65ID:CYq2wwxI外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。
こんな体制じゃあっさり崩壊して当然
0174人間七七四年
2013/12/21(土) 17:20:46.19ID:bJ1KzIIy家康を討つことには大義名分が少なく、家康が会津討伐に向かうため畿内を離れたというチャンスに機械的に
反応してしまい、自陣営の体制を構築する前に挙兵してしまったこと。
実態としては、明智光秀の本能寺の挙兵に近いものがあった。
会津征伐に飛びつかず、もっとじっくりと待つ必要があったと思うよ。勿論その場合は家康も着々と体制がためをしてくるが、
そこは政治力の勝負だ。 むしろ政治力の勝負を諦めたために関ヶ原がおこったとも言える。
そもそも合議の結果何かを決定するのは家康の役割だし、前田は豊臣家にすら無断帰国したのだから謀反を疑われて当然だし
上杉も穏便に処理しようとした家康の提案を蹴って、武装して割拠状態になったのでこれも謀反とされて当然
島津や毛利や宇喜多の家中の争いを喜んだ?そんな証拠は一切ない。というか介入すら最低限だ。
北政所にいたっては自分から西の丸を家康に譲ってるし大名への加増は三成ら奉行衆もそれこそ「合意」してる
ついさっきまで秀吉という専制独裁者が君臨していた政権において合議を破った専制独裁者という非難そのものが馴染まないんだよ
秀吉自身は一度も合議による政権運営なんてしたことがないから
普通の大名からすれば誰も見たことがない体験したことがないものを破ったと言われてもピンとこない
それに三成の家康批判は一歩間違えれば秀吉批判にも取られかねない危険な主張だ
三成が家康に名前を変えて秀吉の専制独裁を批判していると受け取れば豊臣のため三成を討伐することに何も問題はない
そもそも徳川が体制ぶち壊したとかいうけどぶち壊されるような体制とか諸将の配置にしなきゃよかっただけじゃん
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり自分から家康が天下取りやすい状態作っといて
ぶち壊したも糞もねーじゃん
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻を進めている。自分の死後を見据え、最有力大名徳川家との融合を企図したものだ。
秀頼・千姫の間に出来た世継ぎが、徳川家の傀儡になる事は、秀吉が認識していて当然。
実は反徳川的な行動を起こし、豊臣家を滅亡に導いた輩こそ、秀吉の意思に背いた不忠といえる。秀頼・千姫の間の子は世継ぎになるわけで。
徳川の血が、豊臣宗家に組み込まれるわけだけど。実際融合されなかったのは、邪魔をした者がいたから。そしてそのせいで、豊臣滅亡。不忠でしょ。
千姫は正室なので、当然千姫との間の子が世継ぎでしょ。そうなれば、政権における徳川家の影響力が増す
0175人間七七四年
2013/12/21(土) 17:37:43.24ID:q2BjTeM7また脳内妄想朝鮮人を作り上げたのか菅沼はw「日本人を多く殺した日本人」が朝鮮人に持ち上げられたことなんて一度もねーよw
大体秀吉だって柴田明智北条を滅ぼす時に日本人を殺しているんだよwおまえの理屈が正しければ「朝鮮人は秀吉が大好き」になるんだよw
朝鮮人が本当に好きっていう日本人は、こういう人だ
天皇家の先祖は朝鮮百済人だ、などと言う、侮辱とも取れるデタラメを韓国人や日本にいる左翼活動家がほざいていますが、全くの嘘です。しかも在日朝鮮人の辛淑玉(シン・スゴ)という馬鹿が以下の様な大問題発言を行っています。
「正論」2003年1月号。81ページ。辛淑玉の「憲法集会」における発言。「最近、あちこちで(日本人に)文句を言うと、『出てけ』とか『帰れ』と言われる。
そうすると、『ハイわかりました。朝鮮人はみんな帰ります。天皇つれて帰ります』と言ってやる。(笑い)。だけど、アイツ働かないからな(笑い)」
参照→www.tamanegiya.com/sinnsugo.html
0176人間七七四年
2013/12/21(土) 17:38:58.79ID:q2BjTeM7以下に韓国マスコミの嘘デタラメを暴露し、天皇家の祖先が朝鮮系という主張に真っ向から反論します。
天皇陛下のお言葉(2002WCを控えて平成13年12月)
「私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。」宮内庁HPから抜粋
www.kunaicho.go.jp/kisyakaiken/kisyakaiken-h13.html
このご発言が韓国メディアの手にかかれば・・・韓国メディアの捏造記事
「明仁(明仁) 日本 天皇の 堂叔である 浅香乃美なの(朝香宮)街 忠南 公州市に ある 武寧王陵を 参拜した 事実が 遅く 明かされた.
仕事 公州市に よれば アサカノ−ミヤは 3仕事 随行員と 親戚 2名菓 一緒に 武寧王陵を 捜して お酒と お菓子, 香(沈香木)を おいて 寺を たいてい 後 御陵を 見回した. 彼は 持って 来た 香炉と
香を 公州市に 寄贈した 後 ユン・ハック者 女史が 立てた 保育施設である 共生院を 探し のために 全南 木浦で 向かった.
彼の武寧王陵参拜は明仁天皇が 2001年 言葉 “武寧王”の“孫娘 デ−カノ−ニヒがサ?”が 日本 招待 王人 神武(神武) 天皇を 生んだ。 だから私は百済の血を 受けた”と 言及した。少なくあって意味ありげに受け入れられてある.」
桓武天皇―(子孫)−清和天皇―(子孫)−武田信玄 ←高貴かつ、在日が「朝鮮人だ」と唱える天皇の子孫。
そういえばこの板にも武田信玄大好きの菅沼遼太なんて奴がいたっけw
0177人間七七四年
2013/12/21(土) 18:29:09.58ID:tb+il0quっていう、仁政名君なイメージも強いからなぁ・・・
織田信長みたいな天下布武だの将軍追放だの、野心家独裁色の強いイメージを持った武将は、
元祖日帝みたいに見えてくるから発狂しそう。最近でも日帝持ち上げた韓国人が同じ韓国人に殺されたっていうし
なんたってあの秀吉の上司で、しかも日本人から人気があるのはなぁ・・・ってスレチか
0178人間七七四年
2013/12/21(土) 18:57:25.43ID:HSwpolhN家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。
看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別
主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...
関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
0179人間七七四年
2013/12/21(土) 20:30:13.15ID:bLPxJhIT0180人間七七四年
2013/12/21(土) 20:48:24.75ID:IeewGBka>他の五大老
そうなんだよ
秀吉はそれを期待してたんじゃね
大老同士が足を引っ張り合うのを
だから、野心家そうな子飼いは都から離すか、都で小禄に封じたんだw
まさかの三成参戦じゃ太閤ももっと三成の所領を削ってれば良かったと思ったんじゃね
0181人間七七四年
2013/12/22(日) 03:13:40.88ID:KwMkmZ1B内府ちかひの条々なんて後世では宣戦布告文書と思われがちだが
署名した大老・奉行さえ宇喜多以外は別に家康と自ら戦おうと思って署名したわけではない
あくまでも問題提起をしましたという段階の話でしかないわけ
ところが三成はそこを根本的に勘違いしていた
家康を非難した大老・奉行が全員家康と戦うものだと思い込んで関ヶ原で自爆する羽目になった
0182人間七七四年
2013/12/22(日) 06:04:06.28ID:jOC0PxU9必死に暴れまくっててワロタw
0183人間七七四年
2013/12/22(日) 16:03:16.41ID:tv35uNkE豊臣の為ということで決起したんだよな。別に戦わなくても家康の力を弱めることができただろうに。
三成が立ち上がったのは、三成自身が政治の中心に戻りたかったからだよ。豊臣のためを思ってというのはまったくなお粗末
なもので、それを見抜いていたのは福島正則、家康、小早川秀秋、宇喜多秀家、毛利輝元など全員だよ。
だから西軍は本気で闘わなかったんだよ。
0184人間七七四年
2013/12/22(日) 19:59:29.99ID:1RFhliqs痛々しいな
常識的に考えて、毛利輝元や宇喜多秀家が本気にならなかった筈は無いだろw
いじけなくても、毛利家のバカと宇喜多家の世間知らずは乗せられたし、秀秋も様子を見るところまでは引き込めた。
三成の行動はそれほど浅はかじゃない
0185人間七七四年
2013/12/22(日) 21:33:44.57ID:pv9M5jOx0186人間七七四年
2013/12/23(月) 10:55:19.49ID:nil7TAS90187人間七七四年
2013/12/24(火) 06:33:51.87ID:eIfVF3CK家康の勢力を削ぐことができなかったから戦になったんではないかいな?
インネン付けられた諸将が片っ端から土下座する中で、他にどうやって家康を抑え込めるんだ?
結果は最悪だったけどな。
0188人間七七四年
2013/12/24(火) 11:11:19.62ID:cwYx28E4豊臣も土下座して家名だけでも存続するように努力すればいいだけ
滅亡に繋がりかねない大戦を強行しなければいけない理由はない
仮にそんな大戦を強行するにしてもそれは成人した秀頼本人の明確な意思に基づかなければならず
豊臣一族でもない三成が勝手に決めるなどあってはならないこと
0189人間七七四年
2013/12/24(火) 19:58:26.52ID:q5swGg9p0190人間七七四年
2013/12/25(水) 06:51:31.46ID:30f646xE日本って母系社会だから、母方の縁者が出張るのが当たり前じゃね?
武家は特に
まあ、秀吉の縁者が正妻の実家と養子先の親戚しかいないってのもあるかもだけど
0191人間七七四年
2013/12/25(水) 09:59:33.13ID:rsfdII22北政所の一族と織田一族ばっかりで、
秀吉の一族なんていなかったからな。
秀吉最大の弱点が一族がまるでいなかったことなんだよな。
まぁ一族はいたのかも知れないが武家になれそうなやつがいなかったんだろうな。
江戸時代みたいに士分になりたがった農民が偽刀をさしてバレたり、
八王子みたいに半農半士の資格を買おうとする農民みたいな、
差別階級からくる士分への憧れなんて、
戦国時代には全くなかったんだろうし。
0192人間七七四年
2013/12/25(水) 14:25:39.92ID:tmTuCBqk大坂城西の丸を占拠し
天守を築き、
天下殿と呼ばれた家康。
そして脅迫恫喝をする専横独裁家康により、
政治参加から排除された前田や上杉ら他の大老が失望し、
居ても仕方が無い大坂城から退去。
0193192
2013/12/25(水) 14:32:41.42ID:tmTuCBqk前田らが去ったあとに家康が北政所から西の丸を奪ったんだった。
上杉が土下座してたら、
毛利と宇喜多は家康の命に逆らえず、
朝鮮に派遣されて弱体化させられてたな。
0194人間七七四年
2013/12/25(水) 16:25:38.71ID:5HXNAUT7具体的に頼む。
0195人間七七四年
2013/12/25(水) 18:23:02.90ID:d5SJbmjh0196人間七七四年
2013/12/25(水) 21:01:56.44ID:iDVB7o9M内府たがい条で非難されてるだろ。
0197人間七七四年
2013/12/25(水) 21:42:36.26ID:9MbWXraU0198人間七七四年
2013/12/25(水) 21:48:58.58ID:d5SJbmjh0200人間七七四年
2013/12/25(水) 23:41:20.09ID:5HXNAUT7何、土下座して失ったものってそれだけ??
挙兵した上杉ってアホだな。
0201人間七七四年
2013/12/26(木) 00:17:44.87ID:hujq8wXl前田のおかげで加賀者は馬鹿者と
後々まで馬鹿にされることになるんだから
0202人間七七四年
2013/12/26(木) 00:30:55.90ID:qSthHJwZ恩を受けた豊臣家を見捨てて、家康の暴走を一層助長する事にもなったし。
0203人間七七四年
2013/12/26(木) 01:27:00.03ID:6y01G8Tw上杉の土下座の方が情けないと思うけどね。
結局徳川と戦わんのだったら、最初から土下座した方がマシ。
前田は豊臣に人質出してなかったっけ?
0205人間七七四年
2013/12/26(木) 08:44:35.86ID:Xs3KZ7HS前田からしたら親父が死んだ途端手のひらを返しやがって、そんな連中の為に身代賭ける義理は無いって感じだろうよ
0206人間七七四年
2013/12/26(木) 09:49:20.16ID:R5qxUMwM都合が悪い事実は根拠なくウソ呼ばわりかw
>>200
家康の息子に金沢城と2郡献上し、
実母と重臣の家族を江戸に人質に出して臣従すると家康に申し入れて赦免を願い出て、
実質的に豪姫つながりの宇喜多家を見捨てることで、
前田の威は地に堕ちた。
家康は息子の金沢入りは下手すると人質扱いになるので断ってる。
>>203
上杉は土下座してないが。
むしろ上杉征伐は豊臣政権や武断派の協力もなく、有耶無耶のうちに沙汰止みで、家康は断念。
強制出家して隠居にされた輝元と違い、
景勝は豊臣家のためにやったと主張を曲げずなんら罪に問われず秀頼に挨拶してる。
>>205
手のひらを返したのは利長の方だろ。
おかげで宇喜多は孤立した挙句に宇喜多騒動を起こされ家康の介入を招いたし、
利家派の細川らも節を曲げて家康に接近せざるを得なくなった。
家康の黒田との婚姻を代表に大名取り込み政策が加速したのは前田土下座後だ。
0207人間七七四年
2013/12/26(木) 10:09:07.34ID:KX5TlW8O0208人間七七四年
2013/12/26(木) 10:38:34.75ID:R5qxUMwM家康が讒言者を取り調べないまま因縁つけて戦を売ってくるなら、
その戦を買って抵抗するってだけだから、
関ヶ原の戦いとか上杉は関係ないから
罪状が全くないしな。
そりゃ上杉家中では、誰も責任取らされたりしないわな。
ただ単に家康暗殺を狙った前田と上杉が連携してるから領国から戻らないって噂にビビった越後の堀や関東の家康のヘタレ疑心暗鬼に過ぎないんだから。
ガチ小心家康。
0209人間七七四年
2013/12/26(木) 10:39:52.01ID:ySGrZDxC東軍方の伊達や最上と交戦してるんだから。
0210人間七七四年
2013/12/26(木) 10:55:01.40ID:FKIfemas上杉が情けないとか相当馬鹿だな
上杉が西軍決起しなかったら前田や浅野みたいに無理矢理いちゃもんつけられて潰される家が増えていくだけ
石田三成襲撃事件や家康の私婚問題に対する西軍方諸侯の家康の軍事力での排除と家康は好き勝手やりまくってた所に
上杉が決起した上に三成がタイミングよく決起したために西軍は畿内方面だけで18万も集まっただけ。
上杉の背後には伊達最上堀がしっかりひかえている
上杉が南下したら最上伊達堀らが会津領になだれ込んでくるだけだろ
三成はこの点も考慮にいれて三河方面へ毛利軍含めた大軍で侵攻する計画を8月上旬時点で真田や佐竹にあてて書いてる。
南下するなら当然下野で秀康ら2万と衝突するわけだから領国の総軍挙げないと無理
領国からっぽになった状態で伊達最上堀の本国襲撃受けたらひとたまりもねーだろw
とりあえず毛利輝元レベルの馬鹿なお前は戦略の基本くらい学んで出直して来い
0211人間七七四年
2013/12/26(木) 10:55:59.27ID:p0ZmpeaU役に立ってないのは毛利だろ。あんだけ大規模な軍勢がありながら空白地帯に近い四国の火事場ドロすら失敗して
伊勢侵攻軍なんて編成したにもかかわらず長島に抑え置いただけでろくに攻められず兵力無駄にしただけ。
散々兵力分散させまくり三成ら奉行衆らの援軍要請も無視しまくって結局西軍は大敗するんだし
0212人間七七四年
2013/12/26(木) 10:59:07.10ID:qSthHJwZ西軍が優勢になればますます西軍方に寝返りだす部将も増えてくるだろうし
他の戦線地域に影響与えるだろうし
家康が本軍率いて駆けつけてくるまでにはまだ少し時間があるから畿内方面の18万のうちさける部隊を可能な限り結集して石田ら奉行衆の戦略どおり戦ってれば
よかっただけ。伊勢湾だの四国だの伊勢侵攻軍だの無意味な戦力分散をさせ、三河遠江侵攻どころか、美濃口が東軍に攻め込まれても
防衛要請無視してどうでもいい方面に戦力分散させまくるアホが総大将だったせいで負けただけなのが西軍
0213人間七七四年
2013/12/26(木) 11:02:09.79ID:7uaksrzq破竹の勢いで最上領侵攻して風前の灯まで追い込み、伊達も寡兵で瞬殺したのに対して
毛利は規格外の大軍&家康が東に移動して畿内&西国は味方だらけで敵領国は空っぽ状態なのに
伊予攻防でも大損害出して敗戦するなどいい所なしだもんなぁ
0214人間七七四年
2013/12/26(木) 11:14:09.08ID:qSthHJwZ最上の降伏待ちしてただけだし、庄内軍もがっつり南下してて最上降伏前夜だしな。
背後を固めてから江戸へ向けて南下する軍略がおかしいとは思わないし、
わざわざ南下して、背後を襲われすぐまた北上するところを
徳川に噛み付かれたなんてブザマな行軍は避けるべきだしな。
誰もがあんな簡単にたかが一日で関が原決着がつくなんて思わなかった。
しかも大坂城まで簡単に明け渡すし、三成や輝元の失策だよな。
だいたい慶長4年に家康の方から和議の申し出があったって言うし
慶長5年に家康が景勝や直江を見て、その武功を褒め称えて歓迎したよな。
島津の記録にも上杉主従は少しも悪びれた様子も無く堂々としていたって書かれてるし。
それに講和交渉相手は家康の信頼を得ている要路の重鎮たる本多正信と直接やっていて
宰相殿の空弁当吉川広家みたいに
黒田長政・福島正則・榊原康政・本多忠勝なんてアテにならない人間と交渉してない。
親しくなってきたので慶長7年もしくは8年頃から本多正信の息子を養子にもらう申し出をしていて
慶長9年には兼続は農政に力を入れて郡中百姓相定覚を定めたり
近江国住友村や堺から呼んだ技術者を使って鉄砲密造したり、鉄や薬の研究したりしてる。
慶長9年に養子政重が直江に養子入りしてる。
本多正信により10万石の軍役免除をはじめ、いろいろと便宜を図ってもらってる。
その際たるものは慶長15年の景勝の江戸桜田邸への将軍秀忠の来駕だろう。
ここで景勝の子の玉丸を秀忠が千徳と改名させて上杉後継の安堵がもらえた。
この大仕事を終えた養子政重は翌16年春に、父の岩槻領に帰り17年に前田家へ行き
3万石家老になって政重家臣団形成のため上杉家の人員整理を兼ねて引き取ってくれた。
0215人間七七四年
2013/12/26(木) 11:17:06.14ID:6y01G8Tw最初から土下座の前田は所領維持し、経済損失一切なし。
組織トップの判断として、どちらが正しいかは明白だな。
0216人間七七四年
2013/12/26(木) 11:18:51.86ID:qSthHJwZ上杉はまともにやり返してきたんだろ。
あのタイミングで三成が挙兵しなきゃ家康の無茶苦茶なやり方で次々いちゃもんつけられて
前田や浅野やらみたいに次々降伏するだけの話だし
秀頼成人までまだ時間があるし既に天下人という世評を受け武功派連中により三成失脚、
家康は諸将の意向無視で勝手に婚姻同盟派閥形成するし島津への倉いり地問題やらで散々恩売ったりしてるし
0217人間七七四年
2013/12/26(木) 11:23:30.62ID:LxQqx1BR家康の暴走は加速。
上杉の挙兵は家康の暴走に待ったをかける物で、その後決起した三成らの軍勢は畿内だけでも18万もいる
大行列っぷり。
家康の専横に対して、三成が失脚し、家康が天下殿という世評を得た後ですらこんな大行列ができてる。
総大将の毛利がアホでなきゃ100%勝てた戦いなんだし、上杉の行動は特にあの時点でおかしいとか、馬鹿だとかない。
むしろ最初から負けるとは到底決まっていない状況でヘタレ土下座する前田の行動は武士としてはあまりにも情けない土下座。
気骨のない、戦意0の武将なんて家のためには全く不要だからな。
0218人間七七四年
2013/12/26(木) 11:25:59.24ID:p0ZmpeaU初めから家康に土下座してた前田や浅野の判断が正しくて
家康に歯向かった上杉が馬鹿だとか相当アホだな。
預言者じゃあるまいし当時の状況でどっちが勝つかなんて見えるわけねーだろ。
むしろ単純な兵力でいえば西軍が圧倒してるわ。その中で中核をなす毛利一族がここまで役立たずだとは
誰も予想だにしなかっただろうがな。
0219人間七七四年
2013/12/26(木) 11:26:13.00ID:pK1jM5Vr豊臣家の存亡よりも、秀吉の政治体制の護持を優先する為に三成は決起したとw
国体の護持の為に開戦して元首の命と財産を飛ばしかけ、多くの国民の命と財産を飛ばした連中と同じ発想だなw
0220人間七七四年
2013/12/26(木) 11:28:39.15ID:6y01G8Twもしくは、家康がどんな私腹を肥やしたんだよ?
そもそも大老奉行だって公平な手続きで選出されたわけじゃない。
秀吉という先制者による勝手選出だろ。
全国の大名にしてみれば、家康の独占も、10人の寡占も大差ない話だ。
0221人間七七四年
2013/12/26(木) 11:33:34.27ID:T/nCasBT島津家の領土問題に介入して、豊臣政権の倉いり地を削ってまで、島津の領土勝手に増やして恩を売ったり
それらに対する弾劾を武力で排除したり
前田や浅野にいちゃもんつけて攻め込むそぶりみせて降伏させたり
勝手やりまくってるじゃん
0222人間七七四年
2013/12/26(木) 11:35:32.45ID:6y01G8Tw0223人間七七四年
2013/12/26(木) 11:35:45.91ID:znIzHmx/西軍には上杉・毛利・宇喜多や5奉行のほかの連中・さらに畿内・西国の諸将が多く付いている
三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いたという事は諸侯は内心では家康のやり方は無茶苦茶で豊臣政権をあからさまに犯すやり方をしてると考えた証拠だろう
実際三成は蔚山城攻防での論考交渉の際や島津家倉入り地加増問題など
一貫して豊臣の倉入り地の維持・諸大名の倉入り地や石高増加反対や家康と諸大名との会合を糾問したりと
豊臣家のために動いているのに対し家康は五大老の許可なく私婚で諸大名取り込んだり島津の倉いり地問題や庄内の乱の協力などで積極的に
諸大名を取り込み豊臣家のためなどではなく自勢力拡大・専横を行っているのは明らかで
その証拠に三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いている
むしろ東軍についた諸大名の方が三成憎しの個人的感情やらで凝り固まっているにすぎずまとまっていたとする根拠がない
西軍の敗因はあくまで毛利家の美濃口への援軍要請無視・優先順位低く要害の構えられた伊勢方面軍編成による戦力分散
・毛利一族が総大将にかかわらず不戦・毛利輝元出陣なし・小早川の離反と
毛利のあまりのヘタレぶりで負けただけにすぎない
0224人間七七四年
2013/12/26(木) 12:16:33.08ID:T/nCasBT豊臣家を崩壊させる行為なのに誰も損がないとかないわ。
豊臣家が諸大名にとって要らないから損がないとか考えてるの?
0225人間七七四年
2013/12/26(木) 12:17:10.01ID:FKIfemas0226人間七七四年
2013/12/26(木) 12:49:50.08ID:KX5TlW8O0227人間七七四年
2013/12/26(木) 12:51:09.07ID:S+Y5HXjo二番手の毛利が三成に口説かれてその気になったけど
西軍があまりに弱いんでやる気なくしただけの戦なんだがな。
家康の本隊が来る前に福島達にああも美濃でコテンパンにやられてちゃ
0228人間七七四年
2013/12/26(木) 12:53:12.20ID:LxQqx1BR総大将なのに大坂に居座り続ける馬鹿な大名や
前田や浅野みたいな家康の示威行動にビビッて即効土下座したりするヘタレ大名や
福島加藤みたいな三成にくしで凝り固まってる馬鹿な連中ばかりで豊臣政権が構成されてたからだろ。
大体、そうであったとしても、家康が簒奪行為を行っていい理由にはならないし
0229人間七七四年
2013/12/26(木) 12:55:31.84ID:p0ZmpeaU西軍の中で最も巨大な版図と兵力を有する総大将が馬鹿では
それ以外の連中がどんな頑張ろうとも到底勝つの無理だわ。
0231人間七七四年
2013/12/26(木) 14:03:13.27ID:UgXRM41w無理やり輝元と家康擁護の在日織田厨が湧いたか。
0232人間七七四年
2013/12/26(木) 14:17:10.59ID:+ORjLhuJ被支配層にとっては、豊臣だろうと徳川だろうと関係ない。
土下座で利権を失していない前田が実証してる。
秀吉死後に利権拡大を狙っていた大名にとっては、豊臣に代わって徳川が主導する体制はうまくない。
つまり、毛利や上杉、その他諸々。
豊臣のためとか、売られたケンカに受けて立ったなどは、いかにも講談的で話にならない。
自国権益の伸長が目的だからこそ、豊臣家と心中なんかしない。
大坂城は直ぐに明け渡すし、開戦前の勢いはどこへやらスッパリ抵抗やめて土下座するわけ。
0233人間七七四年
2013/12/26(木) 14:25:05.51ID:qSthHJwZ即効で徳川を倒してから、その後に泥沼の長期戦になったほうが遥かにメリット大きいじゃん。
即効土下座した前田や浅野が領土失わなかったのはほんのたまたまだし、普通なら家康の示威行動にびびって頭を下げた時点で、
戦後に版図減らされたり改易されてても文句はいえないよ。徳川の天下になった後では、徳川に逆らう手段なんて到底あるわけないし
それが嫌ならとりあえずは徳川を倒す事は絶対条件なわけ。
0234人間七七四年
2013/12/26(木) 14:42:45.40ID:p0ZmpeaU負けた方についた者や、勝者に土下座した者は、領土減らされたり殺されたり改易されても抗う術はないのが戦国の世。
それならば最初から戦いを放棄して土下座するのは、最初から敗北しましたと認めてるのと同じ事。
まして関ヶ原みたいな五分五分か下手すりゃ西軍の方が数だけなら優勢な状況なら
自分の奮戦によって、自軍を勝利に導こうとするのが普通の武士。
最初からヘタレ土下座して戦いを放棄して負けを認めるのは、武士としては優劣以前の失格へタレ無能なんだよ。
前田や浅野らが悉くヘタレ無能だったから家康の専横に一層拍車がかかる事になった。
0235人間七七四年
2013/12/26(木) 15:09:34.05ID:+ORjLhuJ要するに、キミは天下国家とか社会安定とかはどうでも良くて、戦国絵巻の英雄譚がお望みなんだね。
元も子もないのは、徳川に成り変われる実力を持ってる大名(毛利・上杉)と、成り変われると勘違いしてる大名(石田)でしょ。
全国ほとんどの被支配層の大名は、秀吉だろうと家康だろうと、5大老の寡占だろうと関係ないんだって。
豊臣家ですら、実質的な支配力は失っていて、誰が政治主導しても殆ど関係ない。
家康に土下座して、減封されたり、改易された実例はない。
逆の事例が存在している以上、キミの妄想としか言えない。
実例がゼロとイチでは、説得力の差は天地の開きがある。
0236人間七七四年
2013/12/26(木) 15:12:00.79ID:+ORjLhuJキミはあれかな?
戦国無双とかそういう話?
0237人間七七四年
2013/12/26(木) 15:58:04.54ID:7uaksrzq福島や加藤ら家康に協力した連中ですら、後年だが改易しまくってる。
0238人間七七四年
2013/12/26(木) 16:01:25.22ID:p0ZmpeaU戦国において、勝者が敗者を殺したり、減封したり、改易するのは至極普通の事。
当たり前の事を理解できていないお前に当たり前の事を教えているだけだよ。
0239人間七七四年
2013/12/26(木) 16:25:40.17ID:pK1jM5Vr武士が、いつの間にか現代における社畜になったでおじゃるw
0241人間七七四年
2013/12/26(木) 18:22:29.98ID:+ORjLhuJ後年改易では前提が変わるでしょ。
関ヶ原前でないと。いくら何でもそれくらいわかるでしょ。
でも、家康は加藤・福島の改易はしていないし、改易理由もこの議論とは無関係だね。
0242人間七七四年
2013/12/26(木) 18:24:52.94ID:+ORjLhuJ前田も浅野も改易されてないけど。
あれ、当たり前??
0243人間七七四年
2013/12/27(金) 09:07:53.92ID:f+9wisLQむりやり家康や輝元を擁護して、
馬鹿な屁理屈を垂れ流すだけの腐れスレ
0244人間七七四年
2013/12/27(金) 09:43:13.17ID:0A6on5H70245人間七七四年
2013/12/27(金) NY:AN:NY.ANID:+wRqCXil【朝鮮】アンチ秀吉コピペ爆撃報告スレ【旭日】
67 :人間七七四年[sage]:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN ID:Ck+NxEk5
秀吉は元々あった対立関係利用して漁夫の利得ただけ。
中身のないゴミ政権だからすぐにボロが露呈した。
信長に従い土下座外交してた氏政が秀吉に従わなかったのも秀吉の実力のなさを見抜いてたからだろうな
本能寺時点でも光秀が運良く信長を打ち逆賊の汚名被り毛利も運良く追撃せず
柴田戦でも運良く勝家が雪で動けないのを利用し勝家と勝豊の運よく不仲なのを利用し寝返らせ
運良く権力基盤が弱い信孝を攻め運良く稲葉を寝返らせてへタレ前田が運よく軍を引きやっと勝てただけ
自称「アンチ秀吉三成のキチガイ織田チョン」の書き込みが・・・・
【太閤への道】明るい豊臣秀吉【近世の開幕者】
139 :人間七七四年[sage]:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN ID:Ck+NxEk5
今川は突発事故で死んだみたいだが、信長が殺したなんてどんな一次資料にも書いてないし
信長公記の記述だと1552年に桶狭間があった事になってるし明らかに矛盾
今川も偶然死後松平が勝手に独立して東の心配なし
西方面からは大河に挟まれた地形から全く侵攻の脅威がなく、北畠も木造やら長野やらの内訌で勝手に崩壊
斉藤は幼君で勝手にクーデター騒ぎで自落崩壊
六角は対浅井の敗戦や観音寺騒動で極度に弱体化
浅井朝倉は当時の織田からしたらハナクソみたいな国力(浅井は途中まで味方)
(中略)
大して信玄は周辺が基地外のような天嶮に囲まれ、しかも国力的にも同格以上の勢力や連合ばかり
両上杉を倒し、拡張真っ只中の北条
内乱を自力でまとめ上げ、毎年のように関東に遠征できるような兵站力持つ上杉
しかもこれらは単体ではなく、連合で対武田に向かってきたため、当時の武田からしてみりゃかなり脅威だろ
織田・徳川、今川・北条、信濃連合・長尾ともに武田より国力は上だが武田は侵攻側で侵攻しまくっている
あれ?織田も嫌いなの?wwww
0246人間七七四年
2013/12/27(金) 15:17:12.73ID:mlS82HvG【太閤への道】明るい豊臣秀吉【近世の開幕者】 のレスの内容は、昔のsubのレスと内容がそっくり。
このコピペは明らかに偽装レスじゃんw
毎回毎回、誰も気付かないから、
わざわざここに報告乙w
0247人間七七四年
2013/12/27(金) NY:AN:NY.ANID:+wRqCXil「アンチ秀吉の織田厨とアンチ信長の秀吉厨が対立している」という
菅沼遼太理論とは裏腹に、 アンチ秀吉厨の織田厨であるID:Ck+NxEk5が
なぜかアンチ信長厨のID:ABZ/PY4Xの「信長叩き」に同調している有様w
http://hissi.org/read.php/sengoku/20130802/QUJaL1BZNFg.html
【太閤への道】明るい豊臣秀吉【近世の開幕者】
134 :人間七七四年[sage]:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN ID:ABZ/PY4X
能力0の棚ボタ天下トリオが信長秀吉家康の三馬鹿アホ
【太閤への道】明るい豊臣秀吉【近世の開幕者】
136 :人間七七四年[sage]:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN ID:ABZ/PY4X
生まれたときからボタ餅が手に入ってたも同然の信長などと違って信玄はボタ餅の入った棚自体が
なかったといっていいからなぁ
畿内での有力者が動乱の影響などで次々消えうせ、足利義昭訪問やら和田や甲賀衆や浅井らや六角義秀らの
大協力の元、信長が何もしなくてもボタ餅が食べられるような状態が生まれたときから存在してたのに対して
信玄の場合超天嶮・難治の自国の2倍もある信濃やら自国よりも国力高い今川・北条連合やら
上杉・長尾・北信濃連合やら織田・徳川連合やらに阻まれてて食べられるはずのボタ餅が谷底に投げ捨てられたような状態といっていいし
【太閤への道】明るい豊臣秀吉【近世の開幕者】
140 :人間七七四年[sage]:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN ID:ABZ/PY4X
>>信長ですら尾張の小身からスタートして
はいはいすでにここからしてデタラメ捏造。
それに大仏を燃やした三好らに危機感を持ったため
畿内では義昭将軍擁立にむけてお膳立てしてもらったのが信長じゃん。
義昭を蔑ろにした途端、信玄に追い詰められてたった兵1万しか動員できないまで無力化され
0248人間七七四年
2013/12/27(金) 21:50:11.35ID:m8PPiUGV他が納得しねえよ
0249人間七七四年
2013/12/27(金) 23:31:11.08ID:9ikwl+J7大領土やっても全く問題ないわな
三成や小西らは四国・九州征伐〜小田原合戦〜朝鮮出兵までの戦争において
最も重要である、後方での兵站網確保などを担っていたんだし
0250人間七七四年
2013/12/28(土) 01:43:56.26ID:/ztwur4l当時の人間がどう思うかだ。
生死をかけた立場の方が上という社会ならそれまでの話。
0251人間七七四年
2013/12/28(土) 09:34:41.97ID:nZArZ+O7太閤が認めたらOKくらいには、認められてそうだが。
ひとえに太閤の読み違いだろ
織田信長を殺したのも、その後政権を簒奪したのも信長の臣下だった。
だから、自分は臣下に大きな力を与えなかった。
それだけじゃね
大体、疲弊しきってた筈の関東に押し込んだ家康が自前であれだけの大軍(関ヶ原遅参組4万だっけか?)を用意出来るなんて想像もしなかっただろうよ
0252人間七七四年
2013/12/28(土) 10:06:21.98ID:N3/S4+mB秀吉死後に史実の前田や上杉みたいに難癖つけられてフルボッコにされる可能性のが高いだろうしな
0253人間七七四年
2013/12/28(土) 10:37:42.98ID:mRs8pq2S経済力が鼻くそレベルだったからな。
やはり明征伐用に温存していた徳川と前田の財政がそれ程悪化しなかったこともあるんだろうな。
0254人間七七四年
2013/12/28(土) 12:41:27.44ID:Kiwo6+qY上町台地(大阪市)
神武天皇(初代天皇)の生国魂神社(大阪市)紀元前700年 (日本列島の神そのものを祀る神社)
神功皇后の住吉大社(大阪市)
日本仏教初の官寺は聖徳太子(日本仏教の祖)の四天王寺(大阪市)後に奈良の法隆寺
難波高津宮 難波京(大阪市)(仁徳天皇などの皇居)(日本初の首都)大化の改新(天皇制の始まり)はここで行われそれは大化元年〜平成25年の今も続いている
0255人間七七四年
2013/12/28(土) 12:43:54.66ID:Kiwo6+qY奈良
京都
江戸
江戸城を築いたのは大阪の摂津源氏
徳川征夷大将軍も源氏 征夷大将軍は源氏にしかなれない
0256人間七七四年
2013/12/28(土) 12:56:11.40ID:nZArZ+O7ゆとり教育の弊害かw
0257人間七七四年
2013/12/28(土) 15:52:24.42ID:NuclkiOQ両家ともフルボッコになる前に土下座したけどね。
0258人間七七四年
2013/12/28(土) 16:46:13.18ID:9NF1dq2C0260人間七七四年
2013/12/28(土) 18:11:58.09ID:orNbacRM0261人間七七四年
2013/12/28(土) 21:05:54.15ID:YiczH1q3秀吉は朝鮮出兵の成功を以って文治派に大領を与えようとしたんだよ
だから小西に外交権を石田に軍監としての監督権を全面的に与えたりした
彼らの要望があればたとえ加藤などであっても躊躇なく処罰を下して
文治派が大功を立て易い環境に腐心していたわけ
秀吉にとっての誤算は朝鮮出兵の失敗により文治派に大領を与えられなかったばかりか
下手に強権を与えたせいで怨み・不満が文治派に集中してしまったことだろう
要するに秀吉はスレタイ通りのことをやろうとして大失敗していたわけで
その行き着く先が関ヶ原だっただけの話だよ
0262人間七七四年
2013/12/28(土) 22:19:25.25ID:McOE9EzB0263人間七七四年
2013/12/28(土) 22:30:40.48ID:jdnx2UsQその書状に三成と吉継の名前は出てくるけど
具体的に何をやっていたかは書いていないし
あくまで「雑説」つまり噂話レベルの情報しか
書いていないね。事実関ヶ原戦後の調査で
この書状の内容が殆ど誤りだったことが
東軍側武将の手によって明らかにされてる。
0264人間七七四年
2013/12/28(土) 22:34:14.44ID:McOE9EzB安国寺に全ての罪を着せる為に作られた書状だろ。
0265人間七七四年
2013/12/28(土) 22:56:45.66ID:jdnx2UsQ違うでしょ。
7月末ぐらいまでの東軍側の西軍側情報は
これら書状の内容とほぼ一致してて
三成吉継に関する「雑説」は書いてあるけど
肝心の三奉行やちかひの条々に関する記述無い。
0266人間七七四年
2013/12/28(土) 23:00:16.17ID:jdnx2UsQ自作自演してるスレバトルが殆どなんで適当に埋めて
落としてしまったほうがいいな。
0267人間七七四年
2013/12/28(土) 23:02:50.75ID:jdnx2UsQだめかな
0268人間七七四年
2013/12/28(土) 23:05:24.19ID:jdnx2UsQなんて
0272人間七七四年
2013/12/28(土) 23:20:18.00ID:NuclkiOQ>事実関ヶ原戦後の調査でこの書状の内容が
>殆ど誤りだったことが東軍側武将の手によって明らかにされてる。
詳しく教えてくれるかな?
0273人間七七四年
2013/12/29(日) 00:06:11.91ID:Kjzgx22R連続投稿て出来ないんだ
初めて知った
俺みたいなアホ対策なんかもしらんけど
このうえ規制もあるんじゃそりゃ過疎るわ
では以下好きなうまい棒の味について語ってください
俺は寝るけど
0274272
2013/12/29(日) 00:09:38.88ID:to4OPj02了解した。
0276人間七七四年
2013/12/29(日) 06:51:39.03ID:Kjzgx22R板に沿った埋め方すっかね
0277人間七七四年
2013/12/29(日) 07:11:31.90ID:Kjzgx22R0278人間七七四年
2013/12/29(日) 07:32:49.09ID:Kjzgx22R0279人間七七四年
2013/12/29(日) 07:52:26.94ID:Kjzgx22R0280人間七七四年
2013/12/29(日) 08:17:28.43ID:Kjzgx22R0281人間七七四年
2013/12/29(日) 09:54:36.78ID:cGGhmuyv0282人間七七四年
2013/12/29(日) 11:39:50.53ID:Kjzgx22R0283人間七七四年
2013/12/29(日) 12:20:40.15ID:Kjzgx22R0284人間七七四年
2013/12/29(日) 12:41:24.60ID:Kjzgx22R0285人間七七四年
2013/12/29(日) 12:53:07.57ID:Kjzgx22R0286628
2013/12/29(日) 12:55:56.51ID:y+8oivfOもう痛々しいからいいよ(笑
0287人間七七四年
2013/12/29(日) 13:33:01.18ID:Kjzgx22R0288人間七七四年
2013/12/29(日) 13:58:42.03ID:Kjzgx22R0289人間七七四年
2013/12/29(日) 15:17:19.18ID:Kjzgx22R0290人間七七四年
2013/12/29(日) 16:02:46.85ID:Kjzgx22R0291人間七七四年
2013/12/29(日) 16:35:00.07ID:Kjzgx22R0292人間七七四年
2013/12/29(日) 17:04:25.67ID:Kjzgx22R0293人間七七四年
2013/12/29(日) 17:36:29.57ID:Kjzgx22R0294人間七七四年
2013/12/29(日) 18:15:53.05ID:Kjzgx22Rやりとりの邪魔はしないよ
0295人間七七四年
2013/12/29(日) 19:17:14.27ID:Kjzgx22R0296人間七七四年
2013/12/29(日) 19:42:21.53ID:Kjzgx22R0297人間七七四年
2013/12/29(日) 19:52:47.03ID:Kjzgx22R0298人間七七四年
2013/12/29(日) 20:08:06.07ID:Kjzgx22R0299人間七七四年
2013/12/29(日) 20:29:34.50ID:Kjzgx22R0300人間七七四年
2013/12/29(日) 20:34:33.62ID:to4OPj020301人間七七四年
2013/12/29(日) 20:48:13.39ID:Kjzgx22R0302人間七七四年
2013/12/29(日) 21:17:44.16ID:Kjzgx22R0303人間七七四年
2013/12/29(日) 21:19:34.13ID:DorlezGaそんな反日野郎が第二次世界大戦時の日本に仲間意識持って利用する論理破綻行為に及ぶのだから口汚く罵られて当然
0304人間七七四年
2013/12/29(日) 21:20:35.15ID:B9dct1U7>>272の回答待ってるんだから、邪魔しないでくれる?
0305人間七七四年
2013/12/29(日) 21:21:06.55ID:B9dct1U7>>272の回答待ってるんだから、邪魔しないでくれる?
0306人間七七四年
2013/12/29(日) 21:45:31.23ID:Kjzgx22R0307人間七七四年
2013/12/29(日) 22:15:49.03ID:Kjzgx22R0308人間七七四年
2013/12/30(月) 11:10:20.01ID:LhIzMiXQ0309人間七七四年
2013/12/30(月) 20:32:14.98ID:kTYc/9Ww0310人間七七四年
2013/12/30(月) 21:36:41.18ID:kTYc/9Ww0311人間七七四年
2013/12/30(月) 22:06:46.36ID:kTYc/9Ww0312人間七七四年
2013/12/30(月) 22:31:16.58ID:kTYc/9Ww0313人間七七四年
2013/12/30(月) 23:01:09.38ID:kTYc/9Ww0314人間七七四年
2013/12/30(月) 23:22:31.86ID:kTYc/9Ww一、可レ勝合戦可レ取城攻等の時吉日を選び方角を考へて時日を移す事甚口惜候如何に能日なるとて大風に舟を出し大勢に独向はゝ不レ可レ有其甲斐候仮令難所悪日たり共虚実を密々に奇正を整へ臨機応変して謀を本とせば必可レ被レ得勝利之事
0315人間七七四年
2013/12/30(月) 23:42:22.39ID:kTYc/9Ww0316人間七七四年
2013/12/31(火) 10:47:06.73ID:1ZdfbP+Aその分の領地を如水や武断派に惜しみなく与えて
宇喜多の代わりに如水を大老に取り立てて武断派を如水に従わせる体制を作るべきだった
それを無能な宇喜多や文治派に振り分けたため関ヶ原に惨敗してしまい
せっかく約束された250年の天下を徳川に渡す羽目になった
0317人間七七四年
2013/12/31(火) 14:32:12.76ID:zEO9x4Yg石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
0318人間七七四年
2013/12/31(火) 20:29:55.17ID:jllENMz/宇喜多は一門衆最大の実力者
宇喜多の代わりに黒田ってあほなの?
黒田親子は豊臣家に対して宇喜多の1/10の忠誠心もないだろ
関ヶ原の見ても黒田よりも宇喜多がずっと強い
0319人間七七四年
2013/12/31(火) 21:30:31.00ID:DZ3qJh2n秀次を殺しちゃった事だけが問題で。
秀吉の心配通りに秀次は秀頼を殺害しただろうけど
豊臣家が滅ぶことはなかった。
どういう形(天下を失っても)であろうと豊臣家は存続したと思う。
0320人間七七四年
2013/12/31(火) 22:28:33.26ID:PCWD06r+外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。
こんな体制じゃあっさり崩壊して当然
0321人間七七四年
2013/12/31(火) 23:58:08.36ID:DZ3qJh2n上杉と薩摩は確実に独立割拠するし他の大名もおおかたそうなるわ。
0322人間七七四年
2014/01/01(水) 00:18:11.10ID:9zTxpxM+権威者が死ねばどうやっても戦国時代に逆戻りしかないわな。
パワーを持った後継者に権威付けした上で優秀な閣僚できっちり固めてれば政権続いたかも。
関白処刑は無いわw
関白秀次を五大老と五奉行で補佐させる制度なら群雄割拠できる余地がほとんど無い。
0323人間七七四年
2014/01/01(水) 10:48:49.03ID:6su986nW秀家は無能すぎて話にならないだろ
直家なら有能だろうが忠誠心はないからな
宇喜多ごときを一門衆最大の実力者にしようと考えてしまう秀吉は
痴呆症の進行がよほど深刻だったのだろう
0324人間七七四年
2014/01/01(水) 11:43:01.84ID:gxkxI3MD敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
0325人間七七四年
2014/01/01(水) 11:45:20.85ID:9ZJMkYEW本人の死後あっさり崩壊したんだろうね
0326人間七七四年
2014/01/02(木) 00:35:59.18ID:47a/l2eL0327人間七七四年
2014/01/02(木) 02:14:15.27ID:TBh/4L9x石田小西大谷らは豊臣政権存続に全力で貢献し、家康の暴走に待ったをかけ、ほぼ確実に勝てる状況を作って家康を追い詰めた。
どうせなら彼らに100万石クラスの大版図やれば、豊臣政権は確実に安泰だった。
0328人間七七四年
2014/01/02(木) 09:47:00.04ID:WOB/W9trクリスマスに続いて、大晦日〜元旦の期間も1人哀しく24時間自宅警備単発ID自演やってやがんのワロタwww
0329人間七七四年
2014/01/02(木) 10:21:27.49ID:sbp5+FPw石田の不運は毛利があまりにもアホ過ぎたから
豊臣家の滅亡は大坂城の連中がバカだったからだろ
0330人間七七四年
2014/01/02(木) 10:31:47.84ID:WOB/W9tr憎き親の仇豊臣政権を貶す仕事すると給料出るの?
0331人間七七四年
2014/01/02(木) 10:52:35.77ID:Dx8dmmDy関白を糾弾して妻子ごと命を奪うなど常軌を逸した暴走を繰り返していた
福島加藤ら武断派は豊臣政権存続に全力で貢献し文治派の暴走に待ったをかけ
確実に勝てる状況を作って文治派を追い詰めて見事に天誅を下した
福島加藤らに100万石クラスの大版図やれば豊臣政権は確実に安泰だった
0332人間七七四年
2014/01/02(木) 11:40:50.65ID:K6UN9TNF咸鏡道で快進撃を続けていた清正は、
小西の平安道が静謐にならないことを非難し、
商人小西のヘタレじゃなくて、俺に平安道の担当を変えれば明に進撃し、
秀吉をこちらに動座できると大言壮語した挙句に
その年の後半には咸鏡道で清正は敗北してしまったので隠蔽を図った。
それを知り朝鮮奉行たちは危険な咸鏡道から鍋島の撤退を勧告してんだよ。
だけど清正はそれを隠していた。
明軍は咸鏡道の方も気にかかっていたが、
清正の敗北を知り、一気に平安道に戦力集中して平壌を落した。
それで大谷や増田ら朝鮮奉行が清正の背信行為を非難し、鍋島に清正に協力するなと釘を刺してる。
文治派が悪いのではなく、清正らが明らかに悪いんだよ。
朝鮮から完全撤退の時も和睦を結んで撤退しようとする小西らの邪魔をするために勝手に日本へ帰り、
和睦をぶち壊して、小西や島津を危機的状況に陥れたのも清正。
0333人間七七四年
2014/01/02(木) 11:49:51.26ID:Dx8dmmDy0334人間七七四年
2014/01/02(木) 12:01:41.41ID:K6UN9TNF田尻鑑種の高麗日記
鍋島直茂譜考補所収文書
尊経閣文庫所蔵文書
浅野家文書
などにちゃんと書いてある内容しか書いてないからwww
文句言う前に図書館にでも行ってちゃんと調べろやチョンwww
0335人間七七四年
2014/01/02(木) 12:27:05.88ID:P1URffWU自演がわかりやすいってば。>>331は突っ込み所満載過ぎて(笑
余程のアホでもない限り、武断派贔屓でもそんな主張は普通しないから。
『豊臣家の不運は、石田が挙兵した事』が正しい。
0336人間七七四年
2014/01/02(木) 15:04:44.02ID:fTMR6t7S「三成は天下をとらせてくれた大恩人」って本多正信が言った逸話があるけど、ホントにそうだと思うよ
0337人間七七四年
2014/01/02(木) 15:21:34.65ID:xzyPFvit本当に書いているのか信じられない。
0338人間七七四年
2014/01/02(木) 18:57:22.31ID:Vy7Dw6e7また論破されてID変更して自演だろとレスして誤魔化したわけだねw
相変わらずあさはかだねぇ。
0339人間七七四年
2014/01/02(木) NY:AN:NY.ANID:OC3omOZEhissi.org/read.php/sengoku/20130802/Q2srTnhFazU.html
【朝鮮】アンチ秀吉コピペ爆撃報告スレ【旭日】
67 :人間七七四年[sage]:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN ID:Ck+NxEk5
秀吉は元々あった対立関係利用して漁夫の利得ただけ。
中身のないゴミ政権だからすぐにボロが露呈した。
【太閤への道】明るい豊臣秀吉【近世の開幕者】
139 :人間七七四年[sage]:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN ID:Ck+NxEk5
今川は突発事故で死んだみたいだが、信長が殺したなんてどんな一次資料にも書いてないし
信長公記の記述だと1552年に桶狭間があった事になってるし明らかに矛盾
今川も偶然死後松平が勝手に独立して東の心配なし
西方面からは大河に挟まれた地形から全く侵攻の脅威がなく、北畠も木造やら長野やらの内訌で勝手に崩壊
hissi.org/read.php/sengoku/20130802/QUJaL1BZNFg.html
【太閤への道】明るい豊臣秀吉【近世の開幕者】
134 :人間七七四年[sage]:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN ID:ABZ/PY4X
能力0の棚ボタ天下トリオが信長秀吉家康の三馬鹿アホ
【太閤への道】明るい豊臣秀吉【近世の開幕者】
136 :人間七七四年[sage]:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN ID:ABZ/PY4X
生まれたときからボタ餅が手に入ってたも同然の信長などと違って信玄はボタ餅の入った棚自体が
なかったといっていいからなぁ
0340人間七七四年
2014/01/02(木) 19:33:50.73ID:K6UN9TNF0341人間七七四年
2014/01/02(木) 20:32:43.01ID:R8eh7VvK0342人間七七四年
2014/01/03(金) 00:03:04.73ID:WH/iy+Ci0343人間七七四年
2014/01/03(金) 00:24:34.42ID:m7fdA+H1権力願望の赴くまま関白や筆頭大老の命を平気で狙うから豊臣は大混乱に陥った
石田・小西に対しては大版図どころかそもそも取り立てるべきではなった
そうすれば豊臣には300年の天下が約束されたも同然だったのに
0344人間七七四年
2014/01/03(金) 00:48:26.87ID:GaPyKQex相変わらず朝鮮人は、秀吉や三成ら豊臣政権憎しの感情を剥き出して、
全くソースのないデタラメを喚いて悪口中傷するしか能がないんだねw
人格がものすごく醜いね。
0345人間七七四年
2014/01/03(金) 01:27:57.92ID:1++GAB64突っ込み所満載の>>343に、『朝鮮人』がキーワードの自演がレスと。
0346人間七七四年
2014/01/03(金) 01:44:48.92ID:GaPyKQexまた自演だろって逃げるのかよ。
さすがに碌でもないな。
開いた口がふさがらんわ…
0347人間七七四年
2014/01/03(金) 02:21:56.01ID:1++GAB64はいはい。キミのいつもの手口だよね。
>>331-334と、>>343-344の構成が全く同じだわな。
お疲れ様。
0348人間七七四年
2014/01/03(金) 03:28:20.56ID:i5LPmDkn0349人間七七四年
2014/01/03(金) 06:05:20.32ID:aSCyZEbK絶対に負けを認めない
自称戦勝国なだけはあるw
0350人間七七四年
2014/01/03(金) 07:41:06.52ID:QXYzGwKV相手を自演だ!自演だ!などと、
泣きながら喚いていたら、
そりゃ敗北宣言と一緒だろね。
0351人間七七四年
2014/01/03(金) 11:01:47.34ID:N330FlxR論破って、史料出せって言っただけじゃん(笑
そういうの論破っていうの??
しかも小学生ふぁ主張したかのようなレスに(笑
0353人間七七四年
2014/01/03(金) 17:21:34.54ID:yoT/Hckr0354人間七七四年
2014/01/03(金) 17:34:00.94ID:N330FlxR小学生並って、
毛利が西軍首謀者とか、三成が家康派とか、景勝が義で挙兵したとか、
南宮山で凍死者が出たとか主張して、看羊録を論拠にしてる人の事??(笑
0357人間七七四年
2014/01/03(金) 23:28:31.02ID:1++GAB64出ていません。
0358人間七七四年
2014/01/03(金) 23:34:31.54ID:sqSMi3H60359人間七七四年
2014/01/03(金) 23:46:08.59ID:HEPOKC65『石田三成が居城の佐和山に引き篭っていて、家康とは一切手切れの状態であったこともわかる。』
『上杉討伐は公戦であるため、公儀から兵粮が給付されたのである。(6/25付三奉行連署)』
『この吉川広家が報じた内容は(7/14付書状)、上述の益田元祥・熊谷元直・宍戸元次連署状の内容と同様であり、石田三成と大谷吉継による企てを聞いて大変驚いた、としていることから、石田三成と大谷吉継が主導的役割を果たしたことがわかる。』
『この蜂須賀家政書状(7/16付)の内容をまとめると、この度の石田三成・大谷吉継の逆意は「天下之乱」をひきおこすことにつながる動きであるが、毛利輝元はこの石田三成・大谷吉継の動きに同調した、ということがわかる。』
0360人間七七四年
2014/01/04(土) 08:19:38.32ID:D7pjMA1U輝元がやる気満々である事実がわかり、
三成の首謀者性はどんどん後退し、
輝元首謀者性がどんどん強調されてきてる。
三成首謀者から
三成輝元首謀者を経て
輝元三成首謀者に変化してる。
三成は完全にオマケにやみなく付属させてる状態。
そりゃそうだ、
三成書状を全く破棄していない真田の博物館にある一次史料には、
7月末まで三成が西軍参加を表明する書状しかないんだから。
それは伏見城落城と勢多の大橋を西軍が手に入れ、
美濃の諸将から人質を取り始め、
佐和山が西軍に包囲されたタイミングなんだから、
三成も西軍参加するしか手段が無い。
そもそも三成は家康の大坂城占拠を支援する為に三成邸を提供し、
家康の指示により前田の上洛阻止の為に北陸路を守っている。
三成は武断派の襲撃では、
秀康の護衛してもらい無事に佐和山に戻れるように家康にかばってもらい、
武断派が三成の死を要求していたのに家康は拒絶した。
そこで三成は息子に家康に対して挨拶させて、秀頼仕えにしてもらい完全に三成は家康支持派に転向している。
どこにも家康を裏切る理由が存在しない。
むしろ、家康が三成をかばった為に、
武断派が所属する前田派が家康と対立する理由を作り、
前田による家康暗殺の噂、
家康の大坂占拠、
前田と上杉の秘密同盟の噂、
前田征伐と上杉征伐と言う流れが発生し、
前田の土下座と会津征伐が導かれた。
0361人間七七四年
2014/01/04(土) 10:33:13.13ID:5yK8EO4L首謀者としてノリノリだったくせに西国の領地拡張ばかりに夢中で東側は興味なし
首謀者としてノリノリだったくせに三成がやられただけで戦意喪失して大坂を逃亡
輝元のやる気は明白だよねw
0362人間七七四年
2014/01/04(土) 11:00:03.10ID:cQubZWdv結局、別スレでも輝元首謀者を主張している識者を一人も挙げられなかったじゃないか。
いや、挙げたんだけど嘘でしたって話か(笑
そのトレンドはキミの中だけの妄想。
輝元三成首謀者とか併記し始めたところは、敗北宣言と受け止めていいのか?(笑
0363人間七七四年
2014/01/04(土) 11:15:08.41ID:F1/6T5ZJ輝元は勝手に安堵状を出して、
毛利領に組み込んだりしてないし、
だからこそ蜂須賀も阿波進駐を断り切れず了解した。
大友に兵と金を渡して豊後進行させた時も秀頼様の命だった。
西国の毛利領拡大が目的ではないのは明らか。
そもそも家康は武断派と協力体制の前田征伐において、
秀頼後見役の前田に対して豊臣の命が出してもらえず、武力征伐を諦めた。
だから大坂二の丸で独裁しつつ恫喝と懐柔を推進し、
上杉征伐では秀頼の身が不安ゆえ淀らが豊臣の命としてやっと出させた。
とにかく家康を大坂から出させて安心したかった。
豊臣の命を根拠に奉行たちの反対を押し切り会津征伐を強行した。
奉行衆は家康の態度についに本心を見て見限り、
輝元、大坂内向き衆、三奉行、秀家は挙兵計画実行決定。
豊臣の命を盾に強行し天下は独裁者家康の意のままなのを示した。
家康としてはそうしないと武断派を指揮下におけないからだ。
そのころワザとらしく領国に帰る輝元。
豊臣の命にしかたなく家康に従った武断派は、
細川らを中心に家康へ三成の讒言をして、
何とか家康に三成を殺させようと謀っていた。
ここで思わぬ餌が投げ入れられた。
三成謀反の噂を聞くや、
三成なんて大したことねーから上杉征伐しようとする家康を見捨てて武断派は西上。
淀や前田らは三成謀反の風聞を飛ばし、
家康と武断派を切り離す策に成功。
そして淀ら大坂内向き衆は使者を派遣して豊国神社で家康打倒のお参りに使者を派遣し秀家らと戦勝祈願し、
三成らの謀反を退治するためと言う口実で首謀者輝元の大坂合流を導いた。
輝元は反家康の清正に西軍参加を打診。
福島らの調略が開始された。
しかし伏見城陥落後に三成が西軍参加を表明するや、
7月中は曖昧な態度だった如水や清正や正則らは家康側に付く誤算が生まれた。
それ程まで三成は恨まれていた。
三成の西軍参加を許さなければ、
武断派は内部分裂していた。
首謀者輝元の失敗は三成参加を容認したから。
0365人間七七四年
2014/01/04(土) 11:47:39.23ID:/ZBQbIXPしかも輝元三成によって作られたこの政権を証明するのに
8/25付けで三成が輝元・秀家・増田・長束・前田らとやっと名を連ねている宛名で景勝が出していることで証明する始末。
だから白峰旬の意見を採用するなら8/25まで三成が輝元西軍政権に正式に参加していることを証明できないわけだ。
三成が首謀者であることを誰一人証明しておらず、
曖昧なまま誤魔化している苦しさが史学界の現状。
2012年発表の中井俊一郎の意見をみれば三成の西軍参加についての認識がわかるだろう。
むしろ暴走する前田派の方が、秩序の破壊者として排除すべき対象に見えたことだろう。
しかし家康自身が豊臣政権が作った秩序の破壊者として動きはじめたとき、
三成がそこに従う理由は失われた。
などと三成の心境を妄想してまでして、やっと三成の首謀性の根拠にしているくらい苦しい。
0366人間七七四年
2014/01/04(土) 11:51:13.72ID:uH0ZV4JTはいはい(笑
キミの言うようなトレンドは存在しませんから。
光成準治(2009年)
『七将の襲撃を逃れた三成は、伏見城を拠点に徳川派の打倒に向けてさまざまな権謀術数をめぐらしており、
大規模な軍事衝突が起こる可能性もあったことが明らかになった。また、この闘争計画の中心的役割を果たしたのが、
一年後に関ヶ原合戦を主導する石田三成、大谷吉継、安国寺恵瓊の三名であった点も注目される。』
『輝元は豊臣奉行衆と同盟して表面的には豊臣政権を支える姿勢を見せながら、その真意は独立的な領国を形成することにあり、
実際には豊臣政権の根幹的な政策である惣無事令や海賊停止令をも否定しようとしていたのである。』
0367人間七七四年
2014/01/04(土) 11:52:32.97ID:uH0ZV4JT『「看羊録」の記録は誤りが多いが、それは事実を正確に把握するには難しい環境にあったが故といえよう。
(中略)歴史的事実としてはどうであれ、当時の人々の認識や風聞という面では正しく記されていると筆者は判断する。』
『風聞を知る上での史料として「看羊録」は活用が可能であると筆者は考える。』
『家康は三成を失脚へ追いやった張本人であるが、石田家の存続を保証したのも家康だったのである。( 中略)家康に対する協力的な姿勢は、
石田家の存続を保つために必要なものだったのである。』
0368人間七七四年
2014/01/04(土) 11:54:15.47ID:uH0ZV4JT『家康に次ぐ大大名である輝元の存在とその動向が三成を再び反家康闘争へと進ませ、両者が軸となって西軍が組織されたことは想像に難くないだろう。』
『三奉行(増田・長束・前田)は計画の首謀者的な立場ではなく、西軍に懐柔された存在とみたほうがいいだろう。』
『三成が真っ先に政治的・戦略的な行動を開始したことに加え、失脚しているが故に行動すること自体が怪しまれやすかったのであろう。』
『(三成に)単身決起など毛頭なく、あくまで輝元・秀家といった大老衆の動向を踏まえての計画始動であったとみるべきである。』
0369人間七七四年
2014/01/04(土) 11:55:03.50ID:uH0ZV4JT『この戦いは、豊臣奉行衆(石田三成・前田玄以・増田長盛・長束正家)が、毛利輝元ら西国大名に大坂・伏見城への出軍を要請したことで勃発したものであるが、(後略)』
『慶長5年の戦争は、家康や三成の政治的欲求だけで成り立っていたわけではない。そこには、それぞれに自己の権益を維持・拡大しようとする諸階層の意思が介在していたのであり、(後略)』
0370人間七七四年
2014/01/04(土) 11:56:10.63ID:uH0ZV4JT『石田三成が居城の佐和山に引き篭っていて、家康とは一切手切れの状態であったこともわかる。』
『上杉討伐は公戦であるため、公儀から兵粮が給付されたのである。(6/25付三奉行連署)』
『この吉川広家が報じた内容は(7/14付書状)、上述の益田元祥・熊谷元直・宍戸元次連署状の内容と同様であり、石田三成と大谷吉継による企てを聞いて大変驚いた、としていることから、石田三成と大谷吉継が主導的役割を果たしたことがわかる。』
『この蜂須賀家政書状(7/16付)の内容をまとめると、この度の石田三成・大谷吉継の逆意は「天下之乱」をひきおこすことにつながる動きであるが、毛利輝元はこの石田三成・大谷吉継の動きに同調した、ということがわかる。』
0371人間七七四年
2014/01/04(土) 11:56:57.36ID:uH0ZV4JT『最近の研究では秀吉死後の政局に関して、三成と家康の対立という二極化した見方ではなく、
徳川派・前田派・毛利および三成ら奉行派と三極でみるべきという見解が水野伍貴氏らによって提唱されている。
(中略)この見方は当時の情勢を理解する上で非常に重要と思われる。』
『三成らが決起したことは、日本中に新たな混乱と混沌を生み始める。豊臣公儀という鎖から解き離れた諸侯は、
みな勝手な行動をとり始めることになる。』
0372人間七七四年
2014/01/04(土) 11:58:29.79ID:uH0ZV4JT『情報不足の奥羽で孤独な戦いを続ける景勝にとっては、上方の情勢より、まず自己の基盤拡大が何よりも重要であった、ということになる。』
『一門を伊勢・美濃に派遣する一方で、国人を中心に四国・九州攻めを行っていた輝元の意図は、景勝と同じであったろう。
即ち、この騒乱に乗じて自己の所領拡大を図り、割拠の体制をとることである。』
0373人間七七四年
2014/01/04(土) 11:58:52.07ID:/ZBQbIXP曖昧なまま誤魔化している苦しさが史学界の現状。
0374人間七七四年
2014/01/04(土) 11:59:39.40ID:uH0ZV4JT『佐和山城に逼塞していた石田三成が、家康が上方を離れたのを好機として、家康打倒のための画策を始めたのである。』
『当初は三成・吉継両名の挙兵にとどまっていたのであるが、彼らは安国寺恵瓊とも協議し、三奉行を説得するとともに、毛利輝元のかつぎ出しを謀った。』
0375人間七七四年
2014/01/04(土) 12:02:23.52ID:/ZBQbIXP0376人間七七四年
2014/01/04(土) 12:08:49.06ID:uH0ZV4JTはい?
引用元からは、一文字たりとも改竄していませんが。キミと違って(笑
0377人間七七四年
2014/01/04(土) 12:21:18.91ID:/ZBQbIXP>>985
subの論は大げさだが、そんなどうでもいい部分を否定してもどうにもならんよ。
>>987
subも参考にしている光成氏も、益田らが通報に関わった可能性は指摘しているな。
いずれにしても家康は毛利らの加担に関するうわさは聞いていても、父兄の契りを交わしていたし、
淀や奉行衆の通報に毛利は入っていなかった、益田らの通報があった、などどこかに否定材料がある
ため確信が持てなかったと考えるべきだろう。
毛利は帰国していたわけだし。
この2011年7付き時点ではキチガイ在日は、光成氏の本を手に入れておらず
SABが語る光成氏の意見に対して噛むつき、ひたすらSABの意見を否定し続けていた。
しかし、光成氏の本を手に入れるや曲解して、
自分の意見のニュアンスを微妙に変化させ正当化する開き直りを開始。
また看羊録の否定を開始し、嘘だ、三成らが前田の上洛阻止のために家康に協力なんてしてない。
前田派と三成派の対立なんてないと否定するも、
水野や中井らが本当に看羊録を使ってそれらを証明しているのを知ると
木を見て森を見ずの限定的な短い文章だけを抽出して我田引水を開始すると同時に
またニュアンスを微妙に変えて、噂としてなら看羊録を俺は支持していたなどと誤魔化して開き直るキチガイだから
いくら相手をしても無駄なんだよな。
0378人間七七四年
2014/01/04(土) 12:29:09.80ID:uH0ZV4JTはいはい(笑
看羊録は、風聞の史料にしか過ぎないと最初から言ってるけど?
他の一次史料を以って史実認定可能とも最初から言っている。
私の発言も改竄するのか、ビックリだな(笑
該当スレとレス番教えてもらえる?
水野本人がこう言ってる訳だけど(>>367)
『「看羊録」の記録は誤りが多いが、それは事実を正確に把握するには難しい環境にあったが故といえよう。
(中略)歴史的事実としてはどうであれ、当時の人々の認識や風聞という面では正しく記されていると筆者は判断する。』
『風聞を知る上での史料として「看羊録」は活用が可能であると筆者は考える。』
0380人間七七四年
2014/01/04(土) 13:05:03.88ID:txe8wK74その意見の人をsubだと認識していた
これしか判断出来んのに、
こうやって曲解してくるのが基地外チョンの習性。
0381人間七七四年
2014/01/04(土) 13:26:51.92ID:uH0ZV4JT結局、そんなトレンドはないという事で。
キミの主張を補完する識者がいないんじゃ、そんなものは存在しないって事だ。
0382人間七七四年
2014/01/04(土) 13:51:05.60ID:HmrZE4ZY譜代衆がいない上に一門もほとんどいない
秀吉が死んだ時点で豊臣家に残ったのは幼児が一人だけ
滅ぶべきして滅んだわけだ
0383人間七七四年
2014/01/04(土) 14:00:09.91ID:txe8wK74西軍参加を隠している必要性があったの?
真田や佐竹が風聞の真偽について事実かどうか確認の書状まで出してるほどにも関わらずだ。
内府たがい条が出された時点で、隠す必要性がなくなったはずなのに隠し続けるとかおかしいわな。
そもそも7月末まで西軍に参加してないんだわ。
苦戦し伏見城がなかなか落ちる見込みがないので、
落城するか、しないかで、どちらが優勢かを測っていただけ。
0384人間七七四年
2014/01/04(土) 14:08:44.80ID:HpzTP63Kなるほど、8/25の書状まで三成は、
西軍首脳陣としての地位を得て、
政権参加してないわけか。
それまでは単なる最前線武将の地位で書状を出してるということか。
かなり遅くなってから三成は政権に参加を認められてんだな。
0385人間七七四年
2014/01/04(土) 14:08:57.08ID:uH0ZV4JTID変えて話を逸らしにかかったぞ(笑
まずは、キミの言うトレンド(>>360)はないという事でいいのね?
>三成の首謀者性はどんどん後退し、輝元首謀者性がどんどん強調されてきてる。
>三成首謀者から三成輝元首謀者を経て輝元三成首謀者に変化してる。
回答がない場合は、認めたとみなしますけど?(笑
0386人間七七四年
2014/01/04(土) 14:27:25.78ID:HpzTP63K飯を食いおわってから、ここ見ただけなんだが、
つかなんで下記を削除してコピペして文意を曲解すんの?
三成は完全にオマケにやみなく付属させてる状態。
そりゃそうだ、
三成書状を全く破棄していない真田の博物館にある一次史料には、
7月末まで三成が西軍参加を表明する書状しかないんだから。
0387人間七七四年
2014/01/04(土) 14:54:32.11ID:6UGXGF5eそれはこの在日が24時間自宅警備単発ID自演で秀吉や三成を貶しているからです。
自分が自演しているから、他人も自演していると思い込む典型的な事例です。
そもそもこの織田チョンは、事実か事実でないかは、まったく重視していない。
戦国板でSABっぽい人間を特定しては、その反対意見のレスをつけて噛み付いてくる狂人だから。
10年以上、SABに粘着して、この行為を執拗に続けている。
SAB、SOHO、だが、菅沼と名付けて意味不明な鑑定基準で、工作スレを立ててるキチガイ。
日本史板や大河板や三戦板や歴史難民板や歴史ゲーム板でもだがスレを立てて荒らしたり、
過去のSABレスを盗用コピペして、だがのフリをしていたりと情報操作ばかりやっています。
他にも、したらばやだがwikiを作り、自分の意見だけを吹聴する宣伝媒体に利用したり、
誰もが黙殺して、気づかないと自分で、戦国板などに報告する低脳です。
また群馬県が嫌いで、旅行板【パクリ】群馬の観光総合【二番煎じ】 でも10年間、
ひたすら群馬県への恨みを吐いています。
過去にはVSスレを立てて福島県民や茨城県民や埼玉県民のフリを装ったり、
対決スレは禁止って言ってるだろ!などと2ちゃん管理人に激怒され、
群馬VSシリーズの5つのVSスレ同時消去されている
2ちゃん最凶のクズです。
0388人間七七四年
2014/01/04(土) 14:59:52.15ID:uH0ZV4JTはいはい(笑
で、キミの言うトレンド(>>360)はないという事でいいのね?
>三成の首謀者性はどんどん後退し、輝元首謀者性がどんどん強調されてきてる。
>三成首謀者から三成輝元首謀者を経て輝元三成首謀者に変化してる。
回答がない場合は、認めたとみなしますけど?(笑
0389人間七七四年
2014/01/04(土) 15:06:42.64ID:uH0ZV4JT>三成は完全にオマケにやみなく付属させてる状態。
>そりゃそうだ、
>三成書状を全く破棄していない真田の博物館にある一次史料には、
>7月末まで三成が西軍参加を表明する書状しかないんだから。
この文章は、キミが言うところの史学界の潮流とは関係ない話だからさ。
これは、キミの主張・論拠だ。史学界で定着している話ではない。
0390人間七七四年
2014/01/04(土) 15:35:32.72ID:6UGXGF5eそれはどうだろうねぇ。
9/12付の三成→増田において、
三成は増田の取次ぎで輝元との連絡が可能になる状況なのがわかる。
増田と違って、三成は直接輝元に意見交換が出来ない立場しか与えられていない。
奉行復帰が認められたに過ぎず、
実際はなにも参加出来ずに、
援軍無き最前線武将の閑職に終始していた。
家康が来たから大坂から援軍もらえない三成らは総軍の毛利軍がいるところに逃げた。
ただそれだけの動きしか出来なかった。
0391人間七七四年
2014/01/04(土) 15:47:41.98ID:uH0ZV4JT0392人間七七四年
2014/01/04(土) 19:02:53.33ID:9xAuwgwT史料よりも、ファンタジーで楽しもうよ。史料つける奴は、史料をつけて本でも出せばいい。
0394人間七七四年
2014/01/05(日) 11:34:31.55ID:A5j/oPo7石高なんて与えるだけ無駄だろ
秀吉は三成や小西や大谷のような無能連中には一切の領地を与えず
無謀な暴走ができないように抑えつけておくべきだった
そうすれば関ヶ原で醜態を晒して一気に家康に天下を取られることはなかったのに
0396人間七七四年
2014/01/06(月) 07:12:37.71ID:h6ze+IRc曹操も丞相になっただけで帝にはなってない。
しょせんifでしかないが、関ヶ原をやらかしてなければ、徳川もあそこまで走らなかったろう。
0397人間七七四年
2014/01/06(月) 10:02:23.65ID:7ue0SGFpその弟の秀頼を殺す悪逆無道の家康。
0398人間七七四年
2014/01/06(月) 11:46:49.43ID:2LEMoHFx家康→婚姻外交で大半の大名を親族化→前田家に戦争を仕掛け人質ゲット
→上杉家を倒し取り潰しにより他の大名へ逆らった際の見せしめ
→宇喜多家、毛利家の所領を削り隷属化→朝廷を手なずけ→征夷大将軍就任
→秀忠に将軍職を譲る→秀頼の殺生右大臣の噂が流れる→狂乱した秀頼を成敗
あまり史実と変わらないストーリーとなる
0400人間七七四年
2014/01/07(火) 00:27:46.68ID:GSHTBfcQ確実に徳川に勝ってたよ
0401人間七七四年
2014/01/07(火) 00:29:41.33ID:Ioc/ZJDI0402人間七七四年
2014/01/07(火) 00:45:55.73ID:SNCh4of9上杉は取り潰しになるかもしれないけど、毛利・宇喜多の所領がなぜ削られる?
前田みたいに詫びを入れれば、所領は維持出来る。前田に経済的な損失は全くない。
こういう事例があるのに、事例のないIFを持ち出しても説得力はゼロだよ。
前田の事例からわかる事はこういう事だよ。
現状の既得権益で満足してる大名は、専制者が豊臣だろうと徳川だろうと関係ない。
現状よりも権益を拡大したい大名は、徳川の一人勝ちじゃ困るわけよ。
所領を広げたい毛利・上杉や、国政に復帰したい三成ね。
0403人間七七四年
2014/01/07(火) 08:25:25.37ID:QID75+ih武門としてのメンツが地に落ち、
前田に従っていた諸将に見限られ、
政治的影響力を完全失墜し、
しかも母を江戸で人質に取られ家康の組下に従属する配下同然になった。
幸い、家康の息子を養子に金沢城と2郡を譲る話は、
家康がそこまでしなくても、忠誠心は理解できたと言ってくれたものの、
これにより娘婿の宇喜多らの階段の橋を取り去る形になるほどひどい見放し方になる無責任さ。
0404人間七七四年
2014/01/07(火) 13:47:15.37ID:P9Mlqy2T家康の代ではなかったかもしれないな
だが三代目、四代目でわからないね
あれだけ領地があっておとなしくしてろと言う方が無理、家臣がそそのかすし
やっぱり豊臣はオワコンだったのよ
0405人間七七四年
2014/01/07(火) 14:48:19.51ID:ImDquR8L一方、徳川家臣はロクに武功がないから小身ばっかりで、
内部抗争になりにくかった。
大領ある功臣の扱いが一番厄介だから、
中国王朝なら粛清するんだが、
本朝では頼朝や尊氏が弟殺ししたくらいで、
功臣大虐殺は馴染まないからね。
0406人間七七四年
2014/01/07(火) 15:36:24.52ID:PKo3d+NR朝鮮出兵や秀次事件といった様々な機会を利用して秀吉に讒訴を吹き込み
功臣を次々と失脚させて権力を奪おうとしたのが豊臣崩壊の原因だし
遂には権力ほしさに関ヶ原までやらかして豊臣にトドメを刺した
秀吉は三成や小西や大谷に大版図ではなく斬首刑を与えるべきだった
0408人間七七四年
2014/01/07(火) 23:43:22.48ID:c0GlZxx9そうかぁ?
家康は豊臣滅ぼす気まんまんだったろうが
0410人間七七四年
2014/01/08(水) 08:44:00.12ID:ZNhRxvDU第二ラウンドでは家康側近の本多正純と秀忠側近の土井利勝の対立が起こってるし。
でも武功がまるで無い徳川家臣団には、
武力抗争するだけの裏付けとなる石高が無いから表面化しないんだよな。
三成は筑前筑後加増を辞退して豊臣蔵入地にしようとしたが、
家康側近の本多正純は、
家康死後の福島正則改易の時に5万石から15万石の加増を受けて、
ロクな武功も無いくせにって嫉妬されて失脚だからな。
神君家康から愛された正純を秋田へ流罪にする不忠をしてる。
もうこの辺りの時代になると各大名も世代交代が進み、戦経験がまるでない若い主従ばかりになる程、
時が移り変わっており、戦を望み領土拡大を狙う野心満々の世代も老い過ぎて、
世の中は次第に落ち着き守勢の時代になっていた。
もはや乱を望む者とてなく、
福島正則の改易に始まり、
紀州から旧福島領への移封を呑まざるを得なくなった浅野長晟といった、
二条城での家康と秀頼の会見を演出した豊臣恩顧大名家への処置も、
恐れていた混乱と抵抗もなく完了した。
時が移り変わって安定を求める時勢になった。
秀吉が朝鮮に派遣して国外で疲弊させて、
謀を好み乱を望み、領土拡大を欲する武将らの対策をして世代交代と時勢の変化を狙ったが、
秀吉は早く死に過ぎた。
彼らは秀吉が死に、日本に帰るや、謀を以って乱を起こし、
秀吉の危惧は当たってしまった。
0411人間七七四年
2014/01/08(水) 14:53:54.27ID:hZYV1pmc文武の対立はあくまで三河系の内部での話に過ぎない
正信や正純が出世しようが失脚しようが三河系全体の権力はプラスマイナスゼロであり
また家康も遺言で政権のメンバーを指定したわけではないから
家康の時代には出世できなかった三河系も秀忠や家光の時代には出世できるかもしれない希望があるし
家康時代に取り立てられた連中もいつまでも居座りが許されたわけではなった
逆に豊臣の場合は最古参の尾張系を近江系が乗っ取るという形になったうえに
秀吉が遺言で近江系を指定したため尾張系の出生の余地が将来的にもほぼゼロになってしまったのが痛い
どうせ未来永劫出世できないなら関ヶ原で近江系を殲滅して恩賞だけでも倍増した方がいいのは
常識で考えれば誰でも分かる当然の選択だろう
0412人間七七四年
2014/01/08(水) 21:26:39.05ID:FFBfKdgaいまだに淀の近江系と北政所の尾張系が対立していた説を持ち出すとか、
お前は昭和脳かよwww
うっひひひwwwプププwww
淀と北政所は協調していたのも知らん無知っぷりワロスwww
0413人間七七四年
2014/01/08(水) 22:15:24.54ID:IEtZIDCU0414人間七七四年
2014/01/09(木) 00:23:22.30ID:gT/LVTj3秀頼が独自で手紙を出すわけもなく完全に淀の命令で出してたわけだけど
0415人間七七四年
2014/01/09(木) 11:47:58.79ID:gvUsO7cuそもそも藤堂高虎は近江出身だしwww
0416人間七七四年
2014/01/09(木) 17:50:36.21ID:V22ZJ+wP>>411の文章には淀も北政所も出てきていないぞw
三成マンセーのために幻覚まで見えてきたのか?
ついでに藤堂高虎は武功派じゃないぞw
まさか東軍として活動したらみんな武功派と考えているのか?
0417人間七七四年
2014/01/09(木) 18:30:49.67ID:KObJsKuk0418人間七七四年
2014/01/09(木) 19:37:56.44ID:QdRG67pWえっ?じゃあその淀と北政所らが関わらない前提の近江派と尾張派の対立ってどの研究者の意見なの?
前田玄以は美濃出身だし、
増田と浅野は尾張出身だし、
長束の出身は不明だし、
確実に近江出身なのは三成だけだよねぇ?
藤堂は武断派だろ、つかそもそも加藤嘉明や細川や黒田からして尾張出身じゃねーしwww
0419人間七七四年
2014/01/09(木) 19:54:09.58ID:gT/LVTj3福島正則って吏僚派だと思ってた。
ああ七本槍とかで決めちゃったわけ?
0421人間七七四年
2014/01/09(木) 22:31:41.91ID:Lm+9fNmo一般的に
近江出身の淀
尾張出身の北政所
この両者の対立を指して、
昔は尾張派と近江派とわけていたのも知らん無知だから、
追い詰められんだよアホwww
でさ、福島正則を吏僚派だとする理由を書いてごらん。
0422人間七七四年
2014/01/09(木) 23:31:18.05ID:gT/LVTj3初めて武将になったのが今回の関ヶ原であるように見えるが
0423人間七七四年
2014/01/10(金) 19:00:32.65ID:DQFBtJa+0424人間七七四年
2014/01/10(金) 19:58:33.47ID:5ZCTJcS2秀吉に指名された筆頭大老が秀頼の許可を貰って始めた会津征伐の途中で
クビになった元官僚が武装蜂起したから鎮圧に向かっただけ
裏切りとか言う奴は石田の意思と豊臣の意思を混同しているんだよ
0425人間七七四年
2014/01/10(金) 21:21:47.38ID:xm04ZqYi我が子かわいさのあまりプランBにはしった秀吉が悪いのでは
0427人間七七四年
2014/01/10(金) 22:37:33.02ID:5XADz76q豊臣の意志って何だ?
大阪城に毛利は入城したけど、あれは毛利に豊家が降伏したからとでもいうのか?
豊臣の意志ってものが他人に分かるほどマトモなものなら、
秀頼も天寿を全うできたろ
0428人間七七四年
2014/01/11(土) 09:45:18.34ID:j1O9coOV秀頼に謁見できたのが家康だけで、
幼君秀頼から専横していた家康に、
会津征伐許可を出したことをガチに証明する一次史料もないしなあ。
家康は謀反に成功した秦の趙高みたいなもんだからなあ。
0429人間七七四年
2014/01/11(土) 11:50:10.38ID:UuyncZDN彼らが豊臣宗家のために最悪でも中立を保っていれば
家康が前田や上杉に対して強気の行動に出れたかどうか。
0430人間七七四年
2014/01/11(土) 11:52:39.27ID:iTlZwBOQ0431人間七七四年
2014/01/11(土) 12:35:54.32ID:peGruXhS「秀頼に謁見できたのが家康だけ」という一次資料を出して
0432人間七七四年
2014/01/11(土) 12:56:19.59ID:lmS1sWi8秀頼後見役の前田利長、
大坂城詰番衆という秀頼護衛親衛隊長の前田利政
大坂うち向きの権力の中では、
秀頼の馬廻衆の大野治長が取次してたし、
この人々しか秀頼に会う権利を持ってたやつはいないだろ。
だから淀と密通したって噂が流れた時も、
彼らしか名前が上がらなかったし。
他に秀頼に会う権利を持ってたやつを聞いたことが無いな。
0433人間七七四年
2014/01/11(土) 17:18:35.73ID:VG1eQzfH農民生まれの政権が何百年もつづくとかあれだしな
歴史上に一時花咲くくらいで丁度よかった
0435人間七七四年
2014/01/11(土) 21:41:22.49ID:k7+OTMhQ中立って何に対する中立だよ?
そもそも武断派は豊臣からも徳川からも何らの政治的地位も権力も認められていない存在なのだから
豊臣にも徳川にも中立なら単なる土地の不法占有者でしかなくなる
0436人間七七四年
2014/01/11(土) 22:33:44.43ID:NYVI9zGH高等教育を受けていなかったが首相となり、
その後も目白の闇将軍と呼ばれた今太閤田中角栄。
0437人間七七四年
2014/01/12(日) 09:07:59.83ID:hrTxrxlt利家にビビり、土下座して伏見城政庁から排除され向島に蟄居していた恨みを晴らさんとばかりに、
武断派クーデターに連携して、
家康は大坂城を守る小出と片桐を内応させて奉行派を大坂に戻れなくする策謀をして伏見城政庁に復帰。
これで両都を制した家康を牽制出来る者はいなくなり、
前田兄弟を圧迫し、
さらに前田家による家康暗殺の噂を利用して、
家康が前田兄弟や大野らを大坂から排除して幼君を傀儡に独裁権力者になったからな。
まだ秀頼は自分で書状すら書いてないので、
家康の意向で動いてるとしか思えない。
0438人間七七四年
2014/01/12(日) 10:05:53.15ID:ZctTFwAv0439人間七七四年
2014/01/12(日) 10:19:49.99ID:hrTxrxlt当たり前じゃん。
家康は伏見城下の屋敷から政庁へ出仕してたんだから。
政庁で許認可権を行使していただけで、
実務は奉行がやってたが、
それについて、なにか屁理屈を言うつもりなの?
それに向島は城じゃないぞ。
0441人間七七四年
2014/01/12(日) 12:35:03.12ID:+1Ojae+S利家が馬鹿なんだよな
対立したまま自分が死んだら家康から報復があるのは子供でも分かる当たり前のこと
自分の存命中に戦うか臣従するか決めるべきなのに中途半端なまま放置
むしろ利長は親父の負の遺産を抱えながら家の存続に尽くした方だと褒めていいだろう
0442人間七七四年
2014/01/12(日) 13:17:11.22ID:HJLIfR6H利家は自分が死んだ後も、
金銀の蓄財がたんまりあり、堀や細川や伊達ら8大名に金を貸して世話していたから、
戦になったら借金帳消しにして味方につけるようにアドバイスしてたり、
宇喜多秀家は家康と戦うなら先陣をやりたいと申し出ていたし、
旧織田家臣系大名から大武辺者として、絶大な支持を得ていたし、
特に清正が利家の超ファンで武断派も利家の言うことには従っていた。
なにより自分が信頼している歴戦の信用できる家臣団を残しているから、
戦になっても家康に負ける気持ちが一切なかったようだからね。
その代わり利家は利長に対して、
最低でも3年間は秀頼を補佐して大坂城から絶対に出るなって言明していた。
だから利長が家康の圧迫に耐えかねて、
政務に参加せずに鷹狩りに出かけてばっかりになり、
ついには家康の勧めで8/末に逃げるように領国に帰ることになった時に、
村井ら利家股肱の家老たちは、大坂を捨てることに対して、
御運も末か…と嘆息したと言われている。
利家が考えていたほど、利長には胆力と勇気が無かったのが敗因。
0443人間七七四年
2014/01/12(日) 14:05:33.22ID:+1Ojae+S友人がいようと息子がいようと信じられるのはどこまでいっても自分自身しかいないんだよ
負ける気持ちが一切ないのなら自分の代で決着を付けなければいけないし
それが出来なければ結局は負けでしかない
秀吉と違って息子が成人していたとはいえやはり利家は能天気だったと言わざるをえない
もうすぐ寿命が尽きると感じたら迷わず大坂を灰にしに行った家康の方が
上に立つ為政者としては間違いなく優秀といえるだろうね
0444人間七七四年
2014/01/12(日) 14:44:24.63ID:ABFy1d2W豊臣を裏切ってませんなんてことは無いよね。
結局のところ時流や力関係を読んで行動したわけで
家康に体よく利用されただけとか正則や清正をバカにしすぎ。
0446人間七七四年
2014/01/12(日) 19:06:06.52ID:+1Ojae+S三成に対しては謀反を企てる奸臣に対処しただけだから法破りにはならない
0447人間七七四年
2014/01/13(月) 00:44:04.74ID:+Rx9fz/c秀吉も彼らを重用しようとは思わないだろう。
自分も信長家臣時代にやらかしてるから
子飼いといえども制御が難しいのはわかってる事。
慌てて奉行衆を強化しようとおもったけど
時すでに遅しだったわけだ。
0448人間七七四年
2014/01/13(月) 09:04:34.98ID:G+jJkqq7おかげで豊臣政権として子飼い吏僚を制御できずに関ヶ原へと暴走してしまった
0449人間七七四年
2014/01/13(月) 10:31:16.85ID:coVnNXhG水野氏が出仕していたと書いてる。
>>444
強欲過ぎて秩序無視しまくる武断派を抑えられたのは利家だけ。
武断派は悪辣な策謀を繰り返し、
前田が家康に下ってしまう誤算のあと、
家康を利用して三成を討ち取り、
好き勝手に親である豊臣の手足を共食いするように、
自分らの大加増にかえた。
自分らが天下を差配できると思っていたバカ。
しかし政治参加させてもらえず、
親の発言力も次第に落ち込み、
それに比例して自分らが政治の舞台から没落した。
>>448
三成と小西は非難されたどころか高く評価されて、
家康も彼らを自勢力に加えたがっていたわけだが。
秀吉も彼らの兄弟を商人らが集まる堺の統治を任せるなど、
豊臣政権の経済政策は彼らに兄弟に負うところが大きい。
彼らのような人材はなかなかいない。
0451人間七七四年
2014/01/13(月) 11:52:01.03ID:G+jJkqq7別に家康は自勢力に加えたがってなどいないよ
精々が臣従したいなら臣従してもいいよというレベルでしかない
それよりも彼らを咬ませ犬として利用した方が遥かにメリットが大きいと判断したから
石田・小西を咬ませ犬に仕立て上げただけ
そのそも徳川政権ができても石田・小西に政治ポストなど与えられるわけないんだから
石高よりも政治・経済利権を重視する文治派は味方にするには面倒くさいんだよ
家康が外様に求めるのは政治発言権を欲せず石高の保証のみで満足する大名だからね
0452人間七七四年
2014/01/13(月) 12:00:02.47ID:coVnNXhG家康の連署書状がない。
また諸氏の論文でも、
武断派クーデターを利用し家康は伏見城政庁に復権したと書くのはもはや常識。
>>451
お前の願望妄想はチラシ裏に書けよカス
0453人間七七四年
2014/01/13(月) 12:36:59.17ID:VncIvCoX向島に移った慶長4年3月26日以降なら
閏3月3日に船越景直等への宛行状に五大老の一人として署名しているけど
三成襲撃事件はこの翌日の出来事
0454人間七七四年
2014/01/13(月) 13:15:56.21ID:coVnNXhGその閏3/3の早朝6時に利家が逝去したので、
家康が死んだ利家の代わりに処理してる。
だから家康は武断派クーデターと三成らの争いに即応介入できた。
そしてクーデターを利用して伏見城政庁を占拠した。
0456人間七七四年
2014/01/13(月) 13:35:07.13ID:coVnNXhGだから新入りの利長の署名が一番最初。
秀吉に特に頼まれたのが利家と家康。
その家康の署名が一番最後になってるだろ。
利家が死んだ緊急時には、
家康しかピンチヒッターはいはい。
いや実際にはそれを口実に政治を家康が壟断しただけかも知れないが。
この後、家康は長政との婚姻をしたりと、
独裁を強めたので、前田に続き上杉も8月には帰国して、
連署するのは家康と親子の誓いをさせられた輝元と、
秀家だけになったからな。
そして家康は秀家を圧迫するようになる。
0457人間七七四年
2014/01/13(月) 15:08:07.09ID:VncIvCoXそれでとしか言い様がない
そもそも、向島に移ってから三成襲撃事件が起こるまでに
家康を排除したことを示す書状とか存在するの?
0458人間七七四年
2014/01/13(月) 19:18:55.25ID:G+jJkqq7>武断派クーデターを利用し家康は伏見城政庁に復権したと書くのはもはや常識。
お前の妄想願望を常識にしたいならここに書いても意味ないぞw
君の脳内以外に常識と扱ってくれる場所なんてないから
0459人間七七四年
2014/01/14(火) 11:20:12.29ID:qBrSEuxm多聞院日記慶長4年閏3/14条に、
「13日午刻、家康伏見之本丸へ被入由候。天下殿二被成候。目出候」
と表現した文言をみれば、
それ以前の家康は伏見城を居城としていなかったといえよう。
同様に第十一条も、利家は在城ではなく大坂の前田屋敷に在住していたと解釈される。
豊臣氏の財産ともいうべき城は、
直臣である奉行衆に管理を委ねられていた。
一方、主に外様系で構成された大老衆は、
政治方針の決定において重きを置かれたが、
在城は許されなかったのである。
このことは、特に家康の政治的立場を論じる上で重要となり、
秀吉の構想した政治構造における家康の位置は、
「政庁である伏見城の主」いわゆる「統治権の代行者」ではなく、
政庁へ登城して政務を執る大老であった。
つまり、家康が統治権の代行者となったのは、
秀吉の意図するものではなく、
利家の死、三成襲撃事件という政治的混乱に乗じて政庁の占拠(伏見城入城)を果たして成り得た、
権力闘争の産物である。
伏見城内には三成らが守る曲輪、
大老が居住する伏見城下の上屋敷がある。
武断派クーデターの際に、
家康に敗北した輝元は居住していた上屋敷から、
普請を急がせ完成させた下屋敷に後退することになり、
並々ならね決意を示して威嚇した家康も、
輝元の上屋敷退去の申し出に対しては、
それはよいことだと返答し、
政庁へ登城する上屋敷からの後退が事実上の敗北宣言となり、
家康による三成だけの責任とする独裁裁定が降され、
さらに輝元は家康と親子の誓いをさせられ従属することになり、
輝元は悔しくて涙が出たと嘆息する。
家康も利家が率いる4大老5奉行に婚姻の儀を糾弾された際に、
糾弾を受け入れ9人に誓書を差し出して屈伏し、
伏見城政庁へ登城する上屋敷から向島へ退去をすることで、
利家に恭順の意を示した。
利家が死んだ今、向島に蟄居していた家康は早速に、
4大老5奉行へ報復し主客転倒させたのである。
0460人間七七四年
2014/01/14(火) 11:55:49.03ID:MHi2IQ1p三成が打倒家康のため西軍総大将を打診→輝元さん喜び勇んで大坂に直行
三成から出陣要請を受ける→輝元さん不安のあまり拒否して三成に指揮してもらう
三成が関ヶ原で倒される→輝元さん恐怖に震えて大坂から撤退
輝元さんは何もかも三成におんぶに抱っこ状態ですね
きっと三成がいないと何も出来ない子供なんでしょうね
0461人間七七四年
2014/01/14(火) 12:16:29.73ID:qBrSEuxm下記の一次史料を出してください。
1.三成が打倒家康のため西軍総大将を打診
2.三成から出陣要請を受ける
3.輝元さんは何もかも三成におんぶに抱っこ状態
0462人間七七四年
2014/01/14(火) 12:48:00.61ID:sCc+hr4L向島城の存在を頑として認めないか
http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000075891
0463人間七七四年
2014/01/14(火) 13:29:52.32ID:QxEic5Vz板坂卜斎覚書によると、
この時、向島古城とされているので、
家康が上屋敷から伏見城城下町の対岸の向島へ島送りにされ、
向島に退去した後に家康が万が一にも利家に攻められても籠城可能になるように、
城趾だった向島を普請して向島城にしたんだろ。
家康は利家を恐れて、利家や利長に何度も挨拶のご機嫌伺いしてるし。
0464人間七七四年
2014/01/14(火) 14:43:24.14ID:sCc+hr4L板坂卜斎覚書によるならば、普請中は向島と屋敷を密か行き来して
完成後に正式に移ったとにあるのだが
0465人間七七四年
2014/01/14(火) 16:22:46.09ID:fB6zwii+向島城とは書いてないな。
そもそもこの時期の記述で、
向島城と書いてる学者はいるのか?
0466人間七七四年
2014/01/14(火) 16:58:21.49ID:sCc+hr4L0467人間七七四年
2014/01/14(火) 18:17:07.01ID:HHjBsE9D類例のない特殊例だから同列視出来ないな。
そもそも伏見城の外郭のさらに外縁部端にある
河川からの伏見城への渡河攻撃を防止するために、
河の中洲にあり大事が起きた時に末端家臣が守りに付く出島が向島だろ。
伏見城の金魚の糞オマケじゃん。
0468人間七七四年
2014/01/14(火) 18:35:58.54ID:cywPXC0v伏見城の徳川屋敷に乗り込んだ利家が、
お前さ、勧告を受け入れたなら向島へ行けよって、
行動で実を示すよう言われてから、
向島に移転するまで約一ヶ月弱を要してるから、
何もない向島に徳川屋敷の移築をしていたんじゃないか。
何せ伏見城は大地震で倒壊した後に、
地盤が液状化しているような河から離れている
地盤が堅い木幡山へ移転再建をしたので、
木幡山から離れた緩い地盤の地域は、
資材回収した後に放置した区域があったからね。
0469人間七七四年
2014/01/14(火) 18:41:17.85ID:sCc+hr4L0470人間七七四年
2014/01/14(火) 23:17:22.07ID:lrU1e+uT加藤は嘉明が巨済島海戦の時に法度違反してるね。
ただしこの時は目付けや奉行が気を効かせて
秀吉への報告をせず嘉明を庇っているけど。
秀吉が生きてる時点でこれなんだから死後になって
子飼い武将が暴走するのも当然という話だね。
0471人間七七四年
2014/01/15(水) 12:03:26.74ID:rlImmjYFそれを三成たちは不要に鎖で縛ろうとするから勝てる戦も勝てなくなる
戦というのはいつ何が起こるか分からず法度を機械的に振りかざせばいいというものではない
臨機応変な対応を求められる戦場は頭の硬い三成には向いていない
三成がおとなしく引っ込んでいれば豊臣は磐石だった
0472人間七七四年
2014/01/15(水) 14:05:53.07ID:UrTqQONtお前がいたから負けたんじゃんって思った
0473人間七七四年
2014/01/15(水) 18:33:49.77ID:TPombuGQ軍令を平等に厳守させることが、
軍を自分の手足の如く指揮できることになる。
気を効かせるとか、そういう秩序崩壊は本来、おかしい。
そして秀吉の国内戦争はそれをやって成功してきた。
結局、秀吉が死んだことで、武断派がわがままを言い出したに過ぎない。
>>471
いやいや勝てないね。あいつら基本アホだから。
主戦論を主張していた清正からして、蔚山城の放棄に同意するくらい
いざとなるとヘタレてるからね。
同時に放棄を主張されていた順天城だったが、強気の交渉をするために
小西を死守していたのに、清正はさっさと逃亡したから、
朝鮮の王子を人質に取る寸前で破談しちまった。
そもそもここまで事態が悪化してしまったのは、
蔚山城へ日本軍が救援にきた時に、明軍が大きく崩れて大敗走になったので、
慶州攻略の大チャンス到来だった。
だけど半日ちょこっと追撃して帰ったために、秀吉から臆病と激怒されてるわけだし。
この失策のせいで、小西の順天城まで不利な戦況になった。
>>465
慶長見聞書には三成を追撃してきた武断派の動きを
「(伏見)城へ入べき様なければ向島に控へ、此由を家康公へ申入れらるる」
矢部健太郎氏
「戦いの城ではなく、伏見城は権威の城」
「伏見城外、宇治川対岸の向島に居を構えた」
東大史料編纂所も向島
やはり向島城なんて表記は見つからない。
0474人間七七四年
2014/01/15(水) 18:58:33.85ID:TPombuGQ0475人間七七四年
2014/01/15(水) 20:16:23.95ID:FAH8tNovそれは違うな
イギリスが二次大戦後に
日本軍は下に行くほど優秀だが上に行くほど無能であると言ったのはまさにこれ
現状を1番解っているのは現場であり会議室じゃない
拠点を維持出来ないのに維持しろって言ってきたのが日本の悪しき風習
職場でもやたら怒って教育してきたけど
それを見直そうという動きがあるじゃない
今の若い奴は鉄拳では動かないしね
0476人間七七四年
2014/01/15(水) 21:02:59.00ID:TPombuGQそれは陸軍大学校の成績エリート主義や、
功績によらない年功序列人事や派閥人事など、
硬直した人事の批判であって、
400年前の戦国時代における武功を評価して加増する実績人事とは全く違う。
しかも日本軍指揮官は貧しい国情が原因での貧弱な兵站ゆえ、
要求した補給が満足に受けられずに、
全体戦略に沿って無理やり行動させられるなど、同情すべき点も多い。
0477人間七七四年
2014/01/15(水) 22:01:22.19ID:t+Ty6hdL全体を見て指示を出し現場に暴走させない会議室は必要だ
0478人間七七四年
2014/01/16(木) 10:13:45.31ID:ot7UNKv6それ後世の作家が作ったネタだろ。
誰が誰にそう言ったかを書いてるソース付きの本を見た事が無い。
0479人間七七四年
2014/01/16(木) 12:11:47.02ID:7AU9+jHDいつ小西が強気の交渉をしたんだよ?
こいつは敵側に何の条件も飲ませず敵側の条件を飲むばかり
それを加藤のせいだとか豊臣のためを思ってだとかその場しのぎの言い訳で誤魔化しているだけだ
0480人間七七四年
2014/01/16(木) 13:39:30.66ID:h8gHDsGB概ねその通りだと思うんだけど
三成は全体も見えない戦の素人だから
口出ししなければもっとマシな結果だった
素人が何かしてはいけないわけじゃないけど
プロを雇ったならその通りにすればいいのに
夜襲はだめとか言っちゃうから
0481人間七七四年
2014/01/16(木) 20:32:54.32ID:cUzSeYevまだ戦国時代に片足突っ込んでるぐらいの時代だから君臣の絆といってもそんなものかと見るか、それとも政権の構造的な問題と見るべきか。
いずれにしても彼らの行動を見れば豊家に対しての忠義なんてのは大して無かったんだろうな。
0482人間七七四年
2014/01/16(木) 20:50:43.86ID:wble5v8p夜襲に関してだけは三成が正しいよ
夜襲をするなら松明で道を照らせず完全な闇に紛れて移動しなければならないが
真っ暗な山道は進むだけでも危険だし敵味方の区別ができず同士討ちの危険性もある
夜襲というのは土地勘がある場所で統率の取れた少数精鋭でやるのが理想だが
いずれの条件も満たさない西軍では東軍にたどり着く前に大混乱に陥るのは目に見えている
0483人間七七四年
2014/01/16(木) 21:19:54.30ID:a7tX/CfA0484人間七七四年
2014/01/16(木) 23:17:04.40ID:fM0Jhw4lそんなのは承知の上で言ってると思うんだけど
危険「性」があるから失敗確定なのか?
0485人間七七四年
2014/01/16(木) 23:30:57.43ID:rOA1QSwt途中で作戦が変わり撤退してるけど
家康は夜襲を極端に恐れたおかげで関ヶ原の布陣は西軍が一方先にたどり着き
包囲網が完成してたけど
0486人間七七四年
2014/01/17(金) 00:03:40.27ID:qkLVcyYLむしろ昼間に正々堂々と開戦する方が稀なんじゃないの?
一々作戦会議などせずに当たり前のようにしてても不思議じゃないと思うんだけど
0487人間七七四年
2014/01/17(金) 11:09:56.60ID:aIUxrf9g無理に軍事的冒険主義で奇襲する必要性が皆無。
むしろやるなら西軍を要地へ行かせないように、
東軍が奇襲で邪魔すべきだろう。
結局、東軍は予定戦場におびき出されただけになったからな。
>>481
豊家に忠義はあったが、
武断派の言う忠義は、
自分のワガママ=豊家への忠義に、
我田引水した自己正当化になってるのが極めつけのアホ。
だから豊家のために二条城の会見や千姫と秀頼の婚姻を推進したところで、
その歪みからスタートした関ヶ原後体制は、
武断派の指導下で動かして行けず、
将軍になった家康がなかなか死ななくて破綻した。
0488人間七七四年
2014/01/17(金) 12:39:10.39ID:89FYlcIv昔は電気も何もないから夜の移動は逆に大変なんだよ
まして夜襲なら大勢で提灯つけながら進軍したらバレバレで夜襲にもならん
月明かりがあって攻撃側も視界を確保できるなど条件が整わなければ簡単に出来る策じゃない
まして作戦会議もせずに誰かが勝手に夜襲とかいくら西軍が烏合の衆だろうとないよ
勝手に夜襲して失敗したら救援も何もないから死亡確定になってしまう
0489人間七七四年
2014/01/17(金) 15:21:56.50ID:CwBqc2J2じゃあ夜襲なんかありえないことになるじゃん
だが実際には沢山やられてる
失敗の可能性があるから失敗するとは限らないんだよ
0490人間七七四年
2014/01/17(金) 16:31:09.56ID:xPj0pWgoやるのは朝駆けがほとんど。
しかしこれは警戒されてると失敗する。
しかも現地の地理に詳しく山を縫って味方にたどり着ける指揮官がいないと、
あちこちに敵陣があって危険なのでやれない。
0491人間七七四年
2014/01/17(金) 17:53:32.65ID:xPj0pWgoそもそも小西の謀略で元均が討死したと朝鮮側が記述してるように、
日本軍の補給兵站の安定に結びつけたり戦略的視点で動いているのが小西。
日本軍最大の拠点城の蔚山城が清正、順天城が小西が防衛することになったが、
武断派は蔚山城の包囲を解いて逃げ出した明軍にビビって、追撃を半日で切り上げてさっさと戻ったから
鬼追撃で慶州奪還をしなかったことに怒った秀吉から激怒を買ったのであり、これを奉行へ向けて逆恨みした小人達。
しかもすっかり清正はビビって蔚山城と順天城からの撤退に同意するなど、もう蔚山城から逃げ腰。
小西は河向こうで、海岸は干潟になっていて順天城は援軍を派遣するに向いてないと指摘されても、
その撤退に反対し、一歩も引かず強気で明と和睦交渉を続けていた。秀吉も援軍出すから蔚山城撤退は認められないと命令。
秀吉が死んだら友軍のことを一切無視して蔚山城から我先にと釜山へ逃亡したのも清正ら武断派。
小西隊はなおも踏み止まり全軍撤退を指揮し、最終的に10/30に立花・島津隊と共に巨済島への撤退戦略を決める会談をひらき
殿を勤めて11/18に李瞬臣を討ち取り追撃を断ち切り、11/25にやっと釜山を離れて12/11に博多に到着した。
0492人間七七四年
2014/01/17(金) 17:54:40.17ID:xPj0pWgo咸鏡道で快進撃を続けていた清正は、 小西の平安道が静謐にならないことを非難し、
商人小西のヘタレじゃなくて、俺に平安道の担当を変えれば明に進撃し、
秀吉をこちらに動座できると大言壮語した挙句に
その年の後半には咸鏡道で清正は敗北してしまったので隠蔽を図った。
それを知り朝鮮奉行たちは危険な咸鏡道から鍋島の撤退を勧告してんだよ。
だけど清正はそれを隠していた。 明軍は咸鏡道の方も気にかかっていたが、
清正の敗北を知り、一気に平安道に戦力集中して平壌を落した。
それで大谷や増田ら朝鮮奉行が清正の背信行為を非難し、鍋島に清正に協力するなと釘を刺してる。
文治派が悪いのではなく、清正らが明らかに悪いんだよ。
朝鮮から完全撤退の時も和睦を結んで撤退しようとする小西らの邪魔をするために勝手に日本へ帰り、
和睦をぶち壊して、小西や島津を危機的状況に陥れたのも清正。
キチガイチョンは相変わらず無知だな。清正の勝手な行動のせいで、
危機に瀕した小西と島津を助ける為に、三成が筑前に下向し、
藤堂高虎が軍舟を出してるくらい大変なことになったのも知らんとかw
小西に野望なんてねーよ。関が原の時に大垣にある、8/27はやし村や9/5赤坂西圓寺に出した禁制ですら、
署名順は、三成、小西、義弘、秀家で、島津より下の地位なんだぞ。
なにも出来ねーよアホ。 まぁ三成より地位が上な程度だ。
島津亮二氏も秀吉がメンツを守った形での明との講和条約にあげていた、
朝鮮の王子の人質の入朝という条件を、秀吉が死んだ際に全面撤退方針が朝鮮在陣諸将に伝わった後も、
小西は義弘と寺沢らは死んだ秀吉の意志を尊重し、龍涯を通じて明との講和交渉をしており、
島津亮二氏も日本の対面が保てる条件による講和締結を土壇場まで模索し続けたのであり、
その努力が実って明側から二人の人質を得ることに成功したと書いており、
看羊録の記事にある 清正は朝鮮の王子を待たずに、陣営を焼き払ってあわてて退却し、
和議そのものを、ほとんど成功させる寸前にぶちこわした。
私と島津とは唐の質官を連れ、落ち着いて殿をつとめながら、後からもどったのだ。私が怯懦か、清正が怯懦かと宣言した。
毛利輝元らは和議不成立の咎を清正のせいにしたと書いている事実に触れている。
結局、清正が和睦をぶち壊した為に、最前線で殿をしていた小西の順天が包囲を受けるなど日本軍は撤退に苦戦。
小西は秀吉の面目を立てる形で、朝鮮から王子を人質に帰国する忠義を示していた。
これは生前の秀吉が朝鮮の王子に南朝鮮の支配を任せようとした戦略を奉じていたからである。
はいはい絵本太閤記の記述まんまの内容しか書いてないアホ乙w
そもそも秀吉は最初から最後まで小西を信用して外交を一任しているし、
小西が二心を抱いていたなんて誰も批判していない。
君は誰が小西が二心を抱いていたと批判したと言ってるんだ?一次史料を出してねw
清正は朝鮮出陣諸将が集まっての会議すら出席しない身勝手さなのに、
そんな清正に外交を任せられるわけねーだろ。
0493人間七七四年
2014/01/17(金) 17:55:38.38ID:xPj0pWgo最初から秀吉の指図で戦争の落としどころを探してたよ。
表向きは天竺まで征服!と景気の良い事を言わなきゃならないが
最初から朝鮮半分程度で手を打つ気だったよ。
ただし半島の半分すら得られず無条件降伏に近い形で小西らが交渉まとめちゃったので
激怒(面子を保つためにも激怒しなくてはならない)しただけ。
本当に怒ってたら三成・小西・宗は100%磔されてたよ。
秀吉も外交を知り尽くしているからね。
秀吉自らがハッタリを効かせたり、饗応して見せたりと剛柔織り交ぜた駆け引き謁見してる。
そもそも日本国内にいたら、武功や領地を欲し、謀を始める当時の荒くれ者たちの、
日本からの厄介払いで、うまくいけば国内の領地を蔵入地にして、
朝鮮へ移封し明まで追い払ってしまおうと考えてやり始めたことだからね。
猛々しい功臣らの処理に困っていたんだわ。
大勢の大名が、外交を担う小西に、 ひっきりなしに、俺らいつ日本に帰れるの?
などと聞いていたからね。 みんな日本に帰たがっていた。
清正だけが空気が読めてなかったので孤立してた。
そもそも清正は実現性皆無な話を主張し無謀すぎた。 明入りは出来ると主張して、
秀吉の誤判断を誘い、現地で実情を把握した朝鮮奉行らは、
秀吉の命令に反抗して、 朝鮮国境を越えると、物資も人もいない不毛地帯になるから兵糧も尽きるので、
今年の明入りは断念し、 朝鮮統治に力を入れるように命令しましたと、 現地で命令変更してるし、
秀吉はそれに怒ってもいないし。 虚勢をはる清正の話を秀吉も信じなくなってる。
だからね、秀吉も了解してるから、小西も罰せられてないわけ。
島津亮二氏も小西の外交を秀吉は了解していたと指摘してる。
朝鮮王子の返却も、小西の独断でやれる話じゃないわけ。
フロイスの日本年報でも、秀吉は三人の朝鮮の王子を釈放してやったのに、
国王自らが謝意に表れないことに憤っていたと書いてある。
現場で帳尻あわせをして、なあなあで取り決めたことには秀吉は容認姿勢だった。
公に表面化してメンツに関わる状況にならない限り、秀吉は文句を言ってない。
だから秀吉が日本国王に明が任命した時も秀吉は文句ひとつ言ってないわけだ。
明の冊封に秀吉が激怒したのは後世の創作話だと山室恭子氏も指摘してる。
しかし謁見後に上機嫌な秀吉が豹変したのは、
小西との間で調停してあった朝鮮での一部、陣営の破却で有耶無耶にしていた話を
秀吉が上機嫌で、謁見後に何でも要望していいぞって高僧を派遣してきた時に、
明使が、秀吉の上機嫌さから読み誤まって、
朝鮮の全陣営を破棄し、全軍撤退して欲しいと要望する大馬鹿をやっちまったから和睦破棄に至っただけだ。
秀吉は朝鮮から全面撤退する意思なんてないんだからな。
小西はその秀吉の意向に沿って交渉してんだよ。清正はそれがわからないほどにアホ。
清正に限らず、誰が対象であっても援軍にかけつけないと秀吉から罰せられるだろうが。
それに和睦に失敗してるのは、清正の勝手な行動が不信感を与えてるからだろ。
小西らが殿をやってるんだから援軍が来るわけねーだろ。
全て無効の処分になったのは武断派クーデターで三成が佐和山城に行った直後だろうが。
武断派の要求を拒否し秀康を護衛に三成を保護し、増田への糾弾に耳をかさなかったため、
蜂起し納得しない武断派を宥める為にやったに過ぎず、ロクに調べてすらいないわ。
(しかも家康は婚姻や邸訪問や誓詞交換で武断派を手懐けようと努力していた)
このクーデター事件をチャンスに伏見城政庁に復権を果たした家康に輝元は親子の誓いをさせられており、
奉行派に恩を売った家康は、独裁を強めていった為に、五大老五奉行合議制に、もはや見切りをつけ前田と上杉は帰国するわけだ。
つかチョンくんさ〜お前は下記の一次史料を書いてください。
1.清正を救援しに行った連中は援軍にかけつけたことを理由に
2.文治派の讒言を受けた秀吉から処罰されているんだよ
0494人間七七四年
2014/01/17(金) 22:59:25.66ID:BMe4xyCW0495人間七七四年
2014/01/17(金) 23:14:03.04ID:EpeP8hju伏見城の本丸→西の丸→石田曲輪→下野様宅&池田三左衛門宅→徳川様御上屋敷
本丸から西に向かって、この順番で建ち並んでいたから、
位置的に伏見城に出仕するのが楽勝だったから、
宇治川の向うの向島の小島への事実上の追放は苦しいものだったろう。
ゆえに家康は武断派の決起による復権を策謀したのだろう。
0496人間七七四年
2014/01/18(土) 08:52:25.13ID:nEA1oOzk軍記小説熟読の生兵法とはまさにこのことw
軍師気取りで夜襲作戦たてて同士討ちで自滅しろwww
0497人間七七四年
2014/01/18(土) 11:17:09.19ID:hWXG766Jとりあえず意味の通じる文章に直してから書き込めよ
もっとも母国語が朝鮮語だから日本語の文章なんて無理かw
0498人間七七四年
2014/01/18(土) 13:47:01.21ID:nEA1oOzkアンチ豊臣政権工作が論破された戦犯として、
織田チョン君のお前は祖国から折檻されるなw
0499人間七七四年
2014/01/18(土) 15:55:18.01ID:+d5QFYo+0500人間七七四年
2014/01/18(土) 19:28:25.64ID:1FtWcna+0501人間七七四年
2014/01/18(土) 19:34:13.23ID:h70yOIHk0502人間七七四年
2014/01/18(土) 20:03:51.97ID:hWXG766J在日チョンのお前がいくら「小西は忠臣ニダ秀吉は朝鮮の臣下を受け入れたニダ」と繰り返しても
誰にも相手にされないから
早く在日チョンは半島に帰れよ
0503人間七七四年
2014/01/18(土) 20:15:49.47ID:h70yOIHk0504人間七七四年
2014/01/19(日) 10:40:29.93ID:d+dPnSa9博多 ←※重要
ガーリックトースト
ロサンジェルス
0505人間七七四年
2014/01/19(日) 11:48:24.12ID:+0AP9NDh前半生がまったく不明である
病気のせいであまり戦に出れていない
最大の見所である関ヶ原で自害している
どうやっても大河ドラマにしようがないな
0506人間七七四年
2014/01/19(日) 12:06:16.15ID:wzlr6RO9前半生は創作し放題
関ヶ原以降も創作し放題
不治の病と闘う薄幸の青年w
腐向け大河にピッタリの逸材じゃね
0507人間七七四年
2014/01/19(日) 18:49:05.76ID:1vr2eL9J0511人間七七四年
2014/01/19(日) 19:02:04.71ID:9ytn8rMR0512人間七七四年
2014/01/19(日) 20:12:57.78ID:Dyr8mhOS書き込めるまで書き込んだ結果がこれだよ
0513人間七七四年
2014/01/19(日) 21:09:37.31ID:VtYQ3fra義弘ではなくて豊久が夜襲を献策したパターンの逸話は知ってるけど
夜襲を「した」という話は寡聞にして知らない。
夜襲の逸話自体は常山紀談や天元記といった二次史料にしか
出て来ないので創作とみてほぼ間違い無いでしょう。
0514人間七七四年
2014/01/20(月) 10:14:59.14ID:QWLKWu5u室町幕府を最盛期にした足利義満が、
日本王として明の柵封を受けているから、
前例が無いわけじゃないし。
そもそも秀吉は明に朝貢すらして無いから主従実績すらない。
それがお前の主張する秀吉が朝鮮王の臣下になったことを意味しない。
恨を思考の中心に据える朝鮮人のお前の思考は常に意味不明だな。
0516人間七七四年
2014/01/20(月) 11:30:14.62ID:P7RM9ql90517人間七七四年
2014/01/20(月) 21:31:34.93ID:wBMiC6Tv官兵衛が秀頼の名代として軍配を振れば、豊臣家の天下は守られていた
0518人間七七四年
2014/01/20(月) 22:25:17.72ID:jbLWh67n0519人間七七四年
2014/01/20(月) 23:51:30.29ID:i1x2cFo60520人間七七四年
2014/01/21(火) 06:09:05.38ID:Ob1nYVmI0521人間七七四年
2014/01/21(火) 07:53:27.72ID:22CY+OOf美濃から福島正則領尾張に入ったが速攻で東軍に捕まり、
翌日に織田秀信が大敗する結果を生んだ超アホ。
織田家滅亡は信雄のアホさが招いた。
0522人間七七四年
2014/01/21(火) 08:02:03.17ID:vLAwpNY10523人間七七四年
2014/01/21(火) 10:47:55.38ID:CoFeIDMm経験を積むというのはお金で買えない貴重なことだからな
秀次を粛清して幼児が一人ぼっちの状況だからこそ逆に
秀吉はなりふり構わず政権をベテランだけで固めるべきだった
文治派や秀家なんて必要ないし使うとしても秀頼が成人した後でいい
奴らに代わって如水を重用したりいっそのこと真田昌幸や島津義弘を入れても構わない
ところが秀吉は三成や秀家なんて連中を重用してしまうから
西軍は内通にも気付かず関ヶ原にノコノコと出掛けるという間抜け振りを見せてしまった
ベテラン主導の体制ならばこのような醜態を晒すことはなかったことは確実だった
0524人間七七四年
2014/01/21(火) 11:45:25.20ID:09yxCjHyついに織田チョンくんが、根拠ゼロの妄想オナニーを開始したのかw
さすが朝鮮国技www
内府たがい条を暗唱出来るようになるまでチョンは書き込み禁止!
0525人間七七四年
2014/01/21(火) 12:05:04.28ID:8EOH+sJ90526人間七七四年
2014/01/21(火) 12:17:28.06ID:iIEhLHegバイアスかかった小説の読書感想文を書くのはチラシの裏だ。
ここに書き込むなよ。
吏僚としての実務経験がある奉行派がいなければ政権運営出来ないから、
三成や浅野長政が家康に追放された後に奉行足らずに実務に支障がきたして、
大谷の奉行仕事手伝いに続いて、
さらに島津の庄内の乱処理に関わり、
小西や寺澤らが代理で追加され奔走したんだろうが。
0527人間七七四年
2014/01/21(火) 14:16:21.28ID:fU+kmtP70528人間七七四年
2014/01/21(火) 14:24:23.57ID:mF0GM0OT勇敢で才覚ある小西にも家康に忠誠を誓ってもらいたくて、
懐柔しようとしてるくらいだからな。
小西に秀頼には忠誠誓うと言われてからは、
小西の九州取次ぎの役目を、
家康の懐柔に屈した寺澤に与える動きを開始してはいたな。
0529人間七七四年
2014/01/21(火) 17:27:13.14ID:vU/wkKDqここの板の住人によると西軍は石田三成の働きによって18万人の大軍だったそうだ
一万5000の小勢の裏切りなど物ともしないだろw
輝元が普通に戦ってれば圧勝だったそうだw
0530人間七七四年
2014/01/21(火) 18:41:36.24ID:OcT1NjJBそもそも信用ならねえ人間(家康)にあとを任せちまったのが大間違い!ってことだろ、結局。
どういうわけか知らねーが、どう考えたってそうだろう。
というわけで>>1に同意。
あえて付け加えるなら、三成などの文治派だけでなく、武断派も中核に据えておくべきだったろうな。
まぁ必然的に対立はするだろうが、全く信用できない奴を筆頭に据えるよりマシ。
つか家康(だけじゃないけど)なんて、現代で言えば同業他社だぞ?
「臣従」なんてカタチだけじゃねーか。
そんな奴に「自社の跡取り面倒みてね」とか、どうかしてるぜ。
0531人間七七四年
2014/01/21(火) 22:40:45.20ID:rvjC8tDyたぶん
0532人間七七四年
2014/01/22(水) 08:17:44.52ID:glvWqjzI0533人間七七四年
2014/01/22(水) 08:36:32.86ID:f2Lhyo0Uなんか最近のラノベのタイトルだな
0534人間七七四年
2014/01/22(水) 09:56:21.86ID:iyR2wcgK小西が忠誠を誓う相手は明だから家康に忠誠を誓うわけがない
日本国王を再び拝領するには幼い秀頼を傀儡にするしかないからな
家康が天下を取ってくれたおかげで日本の独立は守られたと言っていい
0536人間七七四年
2014/01/22(水) 13:56:18.36ID:iyR2wcgK小西からすれば秀吉さえ死ねばもう一度明に忠誠を誓えるという一縷の望みに賭けていたのだろう
0537人間七七四年
2014/01/22(水) 15:03:35.75ID:xLiOeWghなんでお前はそういう明と小西の思惑が、
手に取るようにわかるわけ?
お前ってやっぱり頭がおかしい電波くんなの?
0538人間七七四年
2014/01/22(水) 15:55:35.09ID:iyR2wcgK小西が売国奴であることは徳富蘇峰の時代から定説なのに今さら否定しようとしても無駄だろ
自分の気に入らない事実は見たくない電波くんはお前だから
0539人間七七四年
2014/01/22(水) 17:23:01.28ID:Jpqwe3cE>>491>>492>>493
徳富蘇峰なんて、宣教師の奴隷売買の酷い現状をでっち上げて
鬼畜米英を煽って、日本を無謀な戦争に駆り立てたキチガイじゃん。
しかも戦後は天皇を批判するなど変節する始末。
現在でもトンデモ本の天皇のロザリオって本で、堂々とそのデッチ上げのトンデモを信じちゃう馬鹿が出てるしな。
0540人間七七四年
2014/01/22(水) 17:36:17.80ID:gUhW8Of60541人間七七四年
2014/01/22(水) 17:49:26.73ID:Jpqwe3cE国民も言論界の大御所がこんなウソを書くとは思わんのだから、読んで国民が鬼畜米英を叫んで憤慨したのも無理はないなw
徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。
『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、
獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。
ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、
ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、
交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。
かの少年使節団の書いた(50万人の悲劇)を、火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇を
どうして語り継ごうとしないのか。キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。
0542人間七七四年
2014/01/22(水) 18:30:48.30ID:gUhW8Of6お前はそいつより信憑性ないからなに行っても無駄だがなー
0543人間七七四年
2014/01/22(水) 22:32:39.41ID:ATlUPJ/M一次史料の根拠が一切ないのに、
大友が奴隷貿易していたと誤解されてきた件
0544人間七七四年
2014/01/22(水) 22:37:23.81ID:gUhW8Of60545人間七七四年
2014/01/23(木) 09:06:14.21ID:6b1QFxzk宣教師を保護し布教を許した信長も、
宣教師優待した真の目的が火薬欲しさからで、
信長は機内で奴隷狩り戦争をしていたことになるからなw
徳富蘇峰なんて敗戦後に左翼になり天皇批判したクズ。
マスゴミを体現したようなゴミ人間
0546人間七七四年
2014/01/23(木) 10:47:38.63ID:UrKuKaEu別に小早川は裏切ってなどいないだろ
西軍総大将たる毛利軍が東軍と交渉し関ヶ原で戦わないことを決定したのだから
小早川が同じ様に交渉しても誰に対する裏切りにもならない
むしろ小早川は西軍本流の方針に対して忠実だったといえる
三成を始めとしたごく少数の西軍内の異端勢力が勝手に息巻いて戦っていただけで
別に小早川は三成の友人でも家臣でもなくそれどころか官位・家格・石高など全ての面で格上の存在だから
毛利や小早川が東軍と戦わないと分かった時点で格下の三成たちの方が彼らの方針を受け入れ
戦いをやめて関ヶ原から撤退するべきだろうに
0547人間七七四年
2014/01/23(木) 11:08:31.73ID:sWIlPGn1結構面白いことになったかも
0548人間七七四年
2014/01/24(金) 11:49:23.04ID:Ri4YNPw+チャイニーズ中華学校料理 沖縄海そば
チャイニーズ中華学校料理 沖縄海そば
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0549人間七七四年
2014/01/24(金) 12:39:03.40ID:/OaCvOgX西軍総大将たる毛利軍が東軍と交渉し関ヶ原で戦わないことを決定したなんて一次史料は無い。
もし戦わないと決めてたのなら、
関ヶ原に至る前に大坂城から輝元が出て家康に恭順を誓ってれば良かった話だろw
それなら毛利領がたった二ヶ国に大減封されずに済んだじゃんよw
西軍の伏見城攻めに参加した小早川秀秋が、
関ヶ原で裏切ったから宇喜多秀家や島津義弘らは敗北を喫したんだろうが。
0550人間七七四年
2014/01/24(金) 14:18:51.68ID:k0StZAeb筑前筑後の旗頭だった秀秋に従って上洛してきた
小早川秀包や立花宗茂や筑紫らの筑後国与力諸将が最後まで西軍として行動していた点を見ても明らか。
戦後、秀秋に怒り小早川の家名を捨てて毛利に戻った秀包の行動を見ても、
毛利家が小早川家の裏切りに怒りを示していたのがわかる。
そして吉川広家は毛利家に言いわけの書状を書いてる情けなさwww
0551人間七七四年
2014/01/24(金) 15:01:19.97ID:eQZ0dR6x0552人間七七四年
2014/01/24(金) 19:59:15.28ID:cKyewz5g0553人間七七四年
2014/01/25(土) 18:54:45.25ID:uxrbUKqE輝元は三成たちに騙されて大坂に誘い出されて引くに引けなくなっていたから
関ヶ原で不戦を誓って三成たちを始末した後にようやく大坂から出られるようになった
東軍が大坂に到着してから一切の時間をかけずにさっさと退却したことが何よりの証拠だろう
本来なら毛利など改易に値する罪なのだが関ヶ原で不戦を誓ったから二ヶ国に減封で済まされたわけ
0554人間七七四年
2014/01/27(月) 20:16:54.64ID:daIZMsW70555人間七七四年
2014/01/28(火) 14:57:08.25ID:C0g/Ov7Xチャイニーズ空気プレン 沖縄そば 日テレマー君
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0557人間七七四年
2014/01/30(木) 14:34:54.00ID:dG80H/zl中華タウン
潜伏先中華バー
浮気in中華タウン
グラサン光金シリア
0558人間七七四年
2014/01/30(木) 18:34:14.65ID:eGTB6BFl以下の話のソースを出してください。
輝元は三成たちに騙されて大坂に誘い出されて引くに引けなくなっていた
なぜ西軍主力で最も軍勢を多く投入している輝元が、
たかだか佐和山城の三成の兵力を恐れて、
大坂から脱出出来ないんですか?
しかも三成は直接に輝元へ書状も出せない立場で、
増田を取次にしてる程に距離がありまくりだし、
輝元は西の丸に入城して秀頼という玉を擁して、当時の日本で最も有利な立場にいたわけで、
この秀頼カードを有効に使える力量さえあれば、
戦わずして家康を降伏に追い込むこともできた。
0559人間七七四年
2014/01/31(金) 11:10:47.38ID:sr+iS4E00560人間七七四年
2014/01/31(金) 13:30:52.18ID:waRF6EE60561人間七七四年
2014/01/31(金) 17:08:15.38ID:Tq9O1B8B武断派の去就に重大な支障が出る。
0562人間七七四年
2014/01/31(金) 17:33:05.73ID:4M7k0D/fしかも段取りも仕事も速かったよ。
輝元は突然やる気を無くして仕事を放棄し三成のいう事を一切聞かなくなり
吉川広家を通して東軍に内通し始めたのは「岐阜城陥落」と完全に同じタイミング
あれを見て輝元は「西軍はもう絶対に駄目だ」と確信したんだと思うよ
0563人間七七四年
2014/02/01(土) 02:13:55.51ID:dm0FqfwVあと関が原直後には毛利の厳封が決まってるのに厳封確定になった時点で厳封する事が決まった領域を一時的に持ってた事をもって「領土は最大」などとはいわん
あと8/10石田←佐竹書状で「輝元は家康が到着したら三万を召し連れて出陣する」と書いており西軍方は家康との本決戦にあたって総大将であり最も巨大な軍団を持ってた輝元を
主力として東軍を迎撃しようと考えていたが当の輝元が再三に渡る石田ら西軍の援軍要請を無視しまくって本決戦で敗れる理由となったわけ。
尾張口に大軍で美濃方面を攻めに来てるのにそれ無視して援軍要請も無視して
伊勢湾とか四国とかどうでもいいところ攻めてるのにその作戦が真っ当とかないわ
戦力下手に分散してその一部隊が敗れたら戦局が大きく傾くなんて普通の脳味噌の人間ならわかることだし事実そうなったし
家康との直接対決で西軍方の一部隊が敗れたらもう手遅れで降伏するしかなくなるのが毛利
事実そうなったし自国の領土拡大どうこういうなら総大将としての地位を最大限生かして東軍との主力決戦で勝利し
大将としての権力を確立していけばいいだけ。
長期化するシナリオでも最低限福島やら池田やら東軍方諸侯は確実に美濃口で立ち往生させないとどんどん味方が減るだけだし
さっさと石田ら西軍諸侯の要請通り美濃に大軍送ってりゃよかっただけ
西軍総大将で最も規格外の大軍持ってるにもかかわらず目的が火事場泥棒で
軍分散させまくったあげく東軍の尾張口の進軍にも対応せず石田らからの要請無視して
大敗し大厳封くらうんだから相当馬鹿だな
伊達最上堀らに囲まれてた上杉と違って毛利は兵力的にも状況的にも十分すぎるほど東軍ぶち破るチャンスがあったのに
むざむざ無駄にして何もしないまま大厳封
西軍総大将として存在しながら本決戦に負けたら勢力拡大も火事場泥棒も糞もないのにクズすぎる
0564人間七七四年
2014/02/01(土) 02:15:17.04ID:dm0FqfwV・輝元が家康と戦う気がないならはじめから西軍総大将になんてなるわけないし
伊勢湾、伊勢方面に兵送ったり関が原に秀元広家の大軍送り込むわけもない
・自領域拡大が目的なら関が原本戦に勝利すれば西軍総大将として最も領域も権限も増すし逆に総大将なのに負ければ最も不利な立場になるなんて幼稚園児でもわかる事
・石田三成などの奉行衆と連携して積極的に反徳川闘争の決起を行った
○毛利輝元は馬鹿なのは以下の通り史実での実績がちゃんとある
・対織田戦で熊見川で大勝しながら兵站の長さを理由に本国へヘタレ退却する
・天正4年〜7年時点でも織田方が他の方面での戦闘で忙しい時でも中国口を中途半端に火事場泥棒しただけで勝頼やらとの約定反故にして織田を討つ決定的チャンスを逃す
・本能寺の時も秀吉の口からでまかせ口述詐欺(数カ国織田から毛利へ割譲する)にひっかかって騙される
・関が原の後もやはり家康に騙されて大阪城明け渡した
・関が原の合戦に至るまでの間、総大将という最も権限軍隊ある立場にありながら関係ない伊勢湾四国伊勢などに軍分散させ見事大敗する
・総大将なのに西軍諸将からの援軍要請無視しまくり美濃口を突破され、その後も大阪に引きこもり秀元軍も使い物にならず見事大敗する
以上のように毛利輝元が消極的というより単に馬鹿だったからこそ戦力分散させまくり西軍を崩壊に導いたと解釈すれば矛盾なく関が原の毛利の行動も理解できる
0565人間七七四年
2014/02/01(土) 02:17:08.71ID:/hTRyECv関が原を無視して、長島城を落として尾張国に雪崩れ込み背後を襲う戦略をつかわなかったのは
それだけ長島城が堅固だったと言うことだろうけどそもそもなら、なんで伊勢攻略軍なんて編成したんだよって話だよな。
素直に、岐阜城を策源地に尾張に攻め込んでれば良かったじゃんwってもんで。
やっぱり毛利ってのは戦略眼がまるで無い。
0566人間七七四年
2014/02/01(土) 06:17:32.67ID:giYnGwLd伊勢路を封鎖して大垣あたりで睨めっこ。
徳川に、東軍の兵站の面倒を見れる実力があるとも思えないし
やってるうちには常陸と奥羽の源氏が何か仕出かすだろうし。
三成の功名心の暴走による失敗だろ
せめて片桐克元くらいの小身にしとけば豊臣は生き残れてたんじゃねw
0567人間七七四年
2014/02/01(土) 08:13:03.47ID:ODCXzF3U今、研究している分野だけど、少なくとも人材という点では問題ない
物資の面でも会津征伐の準備で江戸に集積されている
0568人間七七四年
2014/02/01(土) 09:13:03.53ID:HdgwbUZZ宇喜多秀家や島津義弘や小西や秋月や相良や高橋らも一緒にいて、
清華成の秀家が一番発言力を持っていたんだから、
奉行失脚してた三成なんてほとんど発言力無いわ。
0569人間七七四年
2014/02/01(土) 10:56:46.75ID:cF/XuuR6嫁がキリシタンだから家臣も無理矢理キリシタンに改宗させようとして離反されるくらい馬鹿だし
こんな奴に大版図を与えて大老にしたことは秀吉の致命的なミスだった
0570人間七七四年
2014/02/01(土) 13:59:06.10ID:CiBuGTqA0572人間七七四年
2014/02/01(土) 19:19:46.27ID:giYnGwLd>江戸に集積されてる
三成は雑魚で秀家のパシリだそうだから秀家の暴走でも良いんだが
あの辺の暴走が無ければ大垣あたりでの攻城戦(流石に大津までは下げないだろうから)になるが、
各軍に対してどう補給するのかの経験が何故徳川にあると思った?
唯一、似たような状況とすれば小田原攻めだが、
北条は小田原城に殆どを集結させちまったから、参考にならんだろ
0573人間七七四年
2014/02/01(土) 19:55:54.63ID:ODCXzF3U長期間の対峙なら高天神城の包囲戦や天正壬午の乱、小牧・長久手の戦い
また小田原の陣での徳川領国の輸送は徳川が行っている
0574人間七七四年
2014/02/01(土) 20:31:36.24ID:giYnGwLd小牧長久手は自分の部下と信長のバカ息子だろ
小田原は徳川の名義で各武将の手元まで渡したのか?
各武将の手元まで渡る=各武将の兵站管理者を把握しないといけない
各武将がうちの兵站管理はこいつです
よろ〜なんてやるか?
買収、暗殺の対象者なんだが?
徳川に東軍諸将はそこまで全てを投げ出せるのか?
0576人間七七四年
2014/02/01(土) 21:52:18.85ID:4ZiJ2j/G当の石田や大谷、長束、小西らで、朝鮮出兵の時など、敵領土深く侵攻した際の、補給路の確保の重要性などを
「先々は兵糧もなくその上寒空に向かっており途中の道筋も無人になり返すことすらできなくなる」
と明侵攻において途中での補給が難しいことを説明し、
まずは国郡で政務を行うように命じ、秀吉の意向に対して、反対して方針変更してしまうほどの男
忍城攻めでも秀吉の指示による水攻めに反対し、強襲を意見するほど。
豊臣恩顧大名の書状を見ても、秀吉の絶対命令に対して、現場責任者としてちゃんと理を説いて反対意見を具申しているのは三成くらい。
そんな兵站管理に長けた名将が西軍にいるんだから、長期戦になって物量作戦となれば
兵站に長けた西軍が有利でしょ。
徳川奉行系の平岩・大久保・本多などは、三成ほどの経験や実績には到底及ばないし。
0577人間七七四年
2014/02/01(土) 22:16:38.24ID:ODCXzF3Uあと、徳川の小荷駄奉行は大久保長安・彦坂元正・伊奈忠次といった
徳川家のガチの奉行衆、
検地や兵站で比較すれば、大した能力差は無いというより徳川の奉行
の方が上
0578人間七七四年
2014/02/01(土) 22:48:39.90ID:cF/XuuR6電撃的な侵攻で短期に朝鮮を制圧しその武威をもって明と早期に講和を成立する戦略だったのに
三成が補給路の確保を理由に侵攻速度を落とした長期戦を主張したため日本側の必勝の戦略が崩壊した
どんなに補給路の確保を重要視したところで長期の睨み合いになれば海を渡ってきた日本側が不利なのは明白
ところが三成は戦に対して無知であるためそれが理解できず現場を混乱させた
素人の浅知恵で戦を引っ掻き回し日本の勝利戦略を崩壊させた三成が現場の大名から嫌われたのは当然だった
0579人間七七四年
2014/02/01(土) 23:25:12.91ID:rECx6KGd蔵に食料がたんまりあり、兵糧にこれほど困らない戦いはいままで無かったなどと言われるほど。
だけれどそれは現地の蔵にあるものを没収していたからで、
三成は日本との兵站線から先々は補給が厳しくなることを見通して朝鮮統治に力を割くようにしようとしていた。
そこに明軍が襲来である。
小早川隆景の馬鹿は後退により秀吉からの叱責を恐れて臨津江という大河を背に自分の守る開城で篭城することを主張し、
三成は背後の大河を使っての補給遮断の危険性を強調し、隆景が臆病者めと応じて大口論。
大谷と前野が仲介して、漢城へ後退し迎え撃つことに。結局、立花宗茂が活躍し明を撃退。
秀吉が後退をとがめるために浅野が使者としてやってくると、
隆景が奉行が臆病で仕方が無かったと連呼し、明軍撃退を自分ひとりの功績だと主張して得意がっていた。
三成は後退の叱責を一人でかぶり、開城撤退理由を話した。
0580人間七七四年
2014/02/02(日) 00:59:16.75ID:jcm8kIKg宇喜多騒動の原因に宗教争いは、
いまじゃとっくに否定されてるのも知らんのかw
そんな単純に分けられるものじゃないし、
前田から人質を取った家康が、
前田と徒党を組んでいた宇喜多を弱体化させる為に仕組んだことだ。
だから謀反した奴らは家康領に預かりになって保護されたり、
関ヶ原で東軍として参加してる。
看羊録にも謀反した宇喜多家臣を家康が処罰しなかったことを世間では、
家康は小人だと非難していたと書いている。
これは武断派がクーデターした際に、
豊臣政権の私戦禁止に該当しながら、
平気で三成を討つべく挙兵できた背後に、
利家の糾弾により伏見城政庁出仕出来ず失脚していた家康が、
伏見城復権を企み、
武断派に対しクーデターによる私戦を起こしても罪に問わない保証を家康がしていたと考えられるのと同質のもので、
内府たがい条に書かれる家康が徒党を煽り唆したと非難されている内容と一致するし、
クーデターを利用して家康が伏見城を占拠したことも、
内府たがい条は言及していて、
伏見城の豊臣方を追い出して家康が私有したことが非難されている。
完全に一致するは謀反人そのものの姿を現している。
強欲武断派はガチで頭が悪い。
>>577
徳川の奉行の方が上とする根拠はなんだ???
つか豊臣政権が尾張に物質集積所していたから、
武断派は尾張の福島領に集結して家康待ちしてたんだろ。
0581人間七七四年
2014/02/02(日) 01:17:53.13ID:POt5jJvh0583人間七七四年
2014/02/02(日) 08:07:35.21ID:oTXkGotNその東軍先鋒が東海道移動したから周辺の兵粮はスッカラカン
よって家康が移動するためには集積する必要がある
0584人間七七四年
2014/02/02(日) 08:43:32.94ID:ejWOBTze補給なんて余裕だろ。
そもそも秀吉が流通を整備したので、
金で兵糧なんて大量調達できる時代になってるからな。
0585人間七七四年
2014/02/02(日) 09:03:11.66ID:oTXkGotN0586人間七七四年
2014/02/02(日) 09:24:41.40ID:ejWOBTze商人は古米を溜め込んでいて、
相場が高くなってから吐き出すから、
金を持ってれば買える。
しかも古米は水を吸収するとやたら膨らむので、
満腹感があった為に、古米の方が喜ばれた。
基本的に民衆が餓死するほどの飢饉の原因は商人が流通を支配して相場をはねあげてるからだから。
長い江戸時代など平和な時代と違って当時は、
そんな非道をやり過ぎたら、戦慣れした農兵による自力救済の実力行使がすぐ起きる。
0587人間七七四年
2014/02/02(日) 09:57:31.23ID:oTXkGotN0590人間七七四年
2014/02/02(日) 17:49:10.38ID:m6Ag2Cbi0591人間七七四年
2014/02/02(日) 21:24:45.82ID:FK1Q67Ez0592人間七七四年
2014/02/03(月) 16:57:29.05ID:iuh7s1xLチャイニーズポタージュ
チャイニーズポタージュ
チャイニーズポタージュ
0593人間七七四年
2014/02/05(水) 22:00:54.90ID:kjqArRW+>むしろ小早川は西軍本流の方針に対して忠実だったといえる
なんか、言われてみたらそんな気がしてきた。
0594人間七七四年
2014/02/06(木) 11:31:42.70ID:P1ItJZgiチャイニーズ空気昼帯びプレン 沖縄海数の子焼きそば レディオスペシャル
チャイニーズ空気昼帯びプレン 沖縄海数の子焼きそば
チャイニーズ空気昼帯びプレン 沖縄海数の子焼きそば
0595人間七七四年
2014/02/08(土) 00:01:23.67ID:Sw/FmPqQ0596人間七七四年
2014/02/08(土) 21:18:58.34ID:Sw/FmPqQ徳川は会津から北に200万石やる
そんなに与えるのが間違いなんだが
200万石やらないと同意しないだろうし
東北ならおいそれと近畿で戦はできない・・・かな?
0597人間七七四年
2014/02/09(日) 09:56:29.90ID:TcgOjhvJ早起き寝坊チャイニーズ慰杏フジ和食総会3Dカード教師 沖縄海長缶づめそば
早起き寝坊チャイニーズフジ和食総会3Dカード教師 沖縄海長缶づめそば
早起き寝坊チャイニーズフジ和食総会3Dカード教師 沖縄海長缶づめ
0598人間七七四年
2014/02/12(水) 22:31:04.98ID:LaKNyHN0むしろ家臣に無謀な負担をかけて行軍した清正の配下から最も降倭が出て、
例えば沙也可が鉄砲戦術などを朝鮮人に教えたり、
清正を蔚山城で包囲した際に、
明軍の和睦の使者としてきた清正の配下だった降倭が、
清正の熊本城にいる自分の人質の安全を要求したりと、
完全に清正のバカが家臣の裏切りを生み出し、
日本軍の戦術や内情が筒抜けになって足を引っ張りまくった。
0599人間七七四年
2014/02/12(水) 22:37:24.02ID:G3UxmIKB大きな政治なんざあできんぜよ。清正、正則らに政治をさせれば、力の政治つまり武断政治を行い、家康なんざあ、
ひとひねりやった。
0600人間七七四年
2014/02/13(木) 08:42:35.33ID:uMt1LNfG和睦条件として朝鮮王子の日本訪問。
それが無理なら朝鮮の日本への朝貢。
日本のメンツを立てる為だから朝貢量は少なくてもよい。
清正が和睦交渉をやるように、無理なら誰でもよいから和睦交渉やれ。
などと言う命令だったが、
清正はもう日本に逃げ帰ることに必死で全く講話交渉すらせずに蔚山から逃亡開始。
やむなく秀吉のため日本のメンツを立てるべく和睦交渉をしたのが順天から撤退せずに踏ん張っていた小西。
清正や正則みたいな無責任なアホなんて最前線で武辺係やらせるしか利用価値ねーよ。
0601人間七七四年
2014/02/13(木) 11:30:08.26ID:FjPZ3yguいくら隠そうとしても秀吉が死んでいることに敵が気付くのも防ぎようがないわけだし
もはや交渉も何もなく撤退あるのみなのは戦に通じた人間なら常識だろう
それを未だに交渉をやろうとしている小西がアホなだけ
こういう戦を理解していない連中が引っ掻き回すようになってから豊臣はダメになった
0602人間七七四年
2014/02/13(木) 12:40:17.35ID:tbZDX6rP実際、小西はうまくいきそうになっていたのに、
清正が我先に日本へ逃亡したから悟られて和睦失敗したんじゃねーかよ。
0603人間七七四年
2014/02/13(木) 16:36:11.18ID:dOQyda8K日本の面目を守らなかったから、
現在に至るまでチョンどもが勝ったなどと歪曲歴史を主張する禍根ネタを残した。
0604人間七七四年
2014/02/13(木) 16:37:22.75ID:FjPZ3ygu実際は小西は何の成果も挙げていない
それを清正のせいだとか言い訳を繰り返し誤魔化しているに過ぎない
0605人間七七四年
2014/02/13(木) 17:01:08.88ID:dOQyda8K在日織田チョンはほんと執拗に粘着するキチガイだな。
>>491>>492>>493
上記を熟読しろやカス
0606人間七七四年
2014/02/14(金) 09:16:09.08ID:e9Lq7ecSチャイニーズ昼帯び日本語学校オレオレ空気オリンピックプレン 沖縄海密航マー君焼きそば
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0607人間七七四年
2014/02/14(金) 12:15:18.57ID:n+Tp4w3h石田や小西はあくまで秀吉のお使い役でしかないし
秀吉が死ねばこいつらは不要な存在だしね
石田や小西のような小物を秀吉死後も使おうとしたのは豊臣が犯した最大の過ちだろう
0608人間七七四年
2014/02/14(金) 19:38:58.24ID:3ZJxgQDZ0609人間七七四年
2014/02/15(土) 14:47:29.21ID:n1ZkTvXnチャイニーズ強制送還権オレオレ空気プレン 沖縄海マー君博多焼きそば
チャイニーズ光金強制送還権オレオレ空気プレン 沖縄海マー君博多焼きそば
チャイニーズ光金気オレオレプレン 沖縄海マー君焼きそば
0610人間七七四年
2014/02/25(火) 18:32:06.28ID:WFoNk5MXむしろ三成の方が武闘派。
0611人間七七四年
2014/03/01(土) 12:24:08.64ID:fo9NGuQp三成ほどの武闘派は確かにいないだろうね
むしろ加藤や福島はこういった大それた行為は嫌がるタイプだからな
三成のイケイケ突撃についていけなくてに反発するのは仕方がない
0612人間七七四年
2014/03/21(金) 12:53:05.47ID:29yux2dD東軍の福島池田黒田らがアホみたいに攻めかかってきたから適当に応戦しただけ。
0613人間七七四年
2014/04/13(日) 23:41:37.46ID:8o6afvkW言われてみれば大局ではどうみても劣勢なのに石田宇喜多小西あたりが突っ張りすぎただけな気もしてくるな。
あそこで退いて和睦って流れだったら三者全員残り一生冷や飯食らいになるの確定だし
それには耐えられなかったんだろうが、その意地に豊臣本家まで巻き込むことなかったのに
0614人間七七四年
2014/04/16(水) 20:27:53.78ID:XGWcIaVE北陸道から前田の軍勢がやってきて毛利の本国はクロカンに空き巣される危険性とくれば
もうあの時点でだいぶ詰んでたよね。
0615人間七七四年
2014/04/17(木) 18:06:20.27ID:il+s3mYm輝元が家康と戦う気がないならはじめから西軍総大将になんてなるわけないし
伊勢湾、伊勢方面に兵送ったり関が原に秀元広家の大軍送り込むわけもない
つうか仮にお前のいうように自領域拡大が目的なら
関が原本戦に勝利すれば西軍総大将として最も領域も権限も増すし逆に総大将なのに負ければ最も不利な立場になるなんて幼稚園児でもわかる事
○毛利輝元は馬鹿なのは以下の通り史実での実績がちゃんとある
・対織田戦で熊見川で大勝しながら兵站の長さを理由に本国へヘタレ退却する
・天正4年〜7年時点でも織田方が他の方面での戦闘で忙しい時でも中国口を中途半端に火事場泥棒しただけで勝頼やらとの約定反故にして織田を討つ決定的チャンスを逃す
・本能寺の時も秀吉の口からでまかせ口述詐欺(数カ国織田から毛利へ割譲する)にひっかかって騙される
・関が原の後もやはり家康に騙されて大阪城明け渡した
・関が原の合戦に至るまでの間、総大将という最も権限軍隊ある立場にありながら関係ない伊勢湾四国伊勢などに軍分散させ見事大敗する
・総大将なのに西軍諸将からの援軍要請無視しまくり美濃口を突破され、その後も大阪に引きこもり秀元軍も使い物にならず見事大敗する
こんな馬鹿が西軍総大将なのが三成の運のつき
関が原の輝元の目標が自領域拡大であった場合→西軍総大将で本戦に負ければ自領域拡大も糞もなく逆に本戦に勝てば最大限に自領域は拡大
するのにそんな事もわからず援軍要請無視、大阪篭城、伊勢湾やら四国やらに兵分散させまくり18万もいる西軍を見事崩壊させた馬鹿
輝元の目標が西軍の大勝・家康妥当であった場合(関が原に大軍送ったり自分も総大将になった事からこちらの可能性のが高い)
→伊勢湾や四国に兵分散させまくり伊勢方面軍を編成しながら実際には伊勢には中途半端な兵を残したのみで攻められないなど無意味な戦略行動をし
美濃口が攻められた時も三成らからの援軍要請を無視しまくって美濃を突破され
関が原本戦だというのに総大将の自分はなぜか大阪に居座り秀元らに命令出せず見事毛利軍は役に立たず大敗
どちらにしても毛利がクズなのは間違いないな
0616人間七七四年
2014/04/17(木) 19:39:11.74ID:a3OfVF+6おまえって誰にレスしてんだよwwwww
0617人間七七四年
2014/04/18(金) 09:38:59.94ID:I7HaBVnVところが権力欲に支配された文治派が自分達に西軍の指揮権があると妄信し
講和を進める毛利を無視して勝手に関ヶ原での決戦を主張し始めた
もちろん大将でもない奴らの言葉など大半の西軍大名は聞く耳を持たず無視したのだが
それでも文治派の暴走は止まらず東軍に地すべり的な勝利をもたらし講和の可能性を消滅させてしまった
こんな馬鹿どもが西軍にいたが毛利の運のつきだろう
三成たちがいなければ西軍の大敗はありえなかった
0618人間七七四年
2014/04/18(金) 16:38:48.84ID:pUN5ClM8そんなことやってる気配はまったくないし毛利は首謀者として挙兵後
伊勢湾だの伊勢だの四国だの的外れな方向に兵すすめまくって大敗しただけじゃん。
0619人間七七四年
2014/04/19(土) 08:40:47.59ID:NCvXgjAC即効で土下座する前田や浅野などと違って、豊臣政権に忠義を尽くした無欲な三成や小西らに大封与えてればよかっただけ。
三成は島津家の蔵入り地問題や、家康の私婚問題に対する弾劾状や、朝鮮出兵の際の恩賞問題の処理などを見る限り
極力豊臣蔵入り地の確保と、諸大名の力を削ぐ事を中心に考えて一貫して行動している。
結局武功派が馬鹿だったから、個人的恨みでもって三成らに立てついて主家への恩義を忘れて家康に篭絡されて、主家を滅ぼしただけ。
0620人間七七四年
2014/04/19(土) 09:34:09.41ID:xWOCm2np0621人間七七四年
2014/04/19(土) 09:43:33.97ID:8MyGkL5r0622人間七七四年
2014/04/19(土) 10:57:52.81ID:uaUFOe6A目先の欲に目がくらんで関白を殺して秀頼を傀儡にしようとした奉行連中や
明軍にビビリまくって即効で土下座する小西を取り立てたのが豊臣が犯した最大のミスだろ
むしろ武功派こそが奸臣の暴走から豊臣を守り存続させようと奮闘していた
結局文治派が馬鹿だったから、権力を簒奪しようと家康に立てついて主家への恩義を忘れて謀反を起こし、主家を滅ぼしただけ
0623人間七七四年
2014/04/19(土) 12:44:39.81ID:xWOCm2np彼ら以上の大身は元々秀吉と同格以上だった外様連中。
0624人間七七四年
2014/04/19(土) 15:26:58.12ID:C/70gLV/毛利みたいな雑魚に大封与えるくらいなら、石田らに120万石だの与えてたら間違いなく豊臣政権は安泰だった。
三成は豊臣蔵入り地を少しでも確保しようと島津の領土問題に立ち入ったり
家康の専横に異を唱えたりと東奔西走した。
不運は、武功派連中がアホすぎて豊臣への恩を忘れて家康にマンマと篭絡される形になったこと。
東軍なんて徳川勢以外は、三成にくしで凝り固まってたアホ武功派くらいしかいないからな。
0625人間七七四年
2014/04/19(土) 17:14:46.55ID:xWOCm2np秀吉子飼いにやれる石高なんて多くてもせいぜい20万石ぐらいが限度。
江戸幕府だって譜代にそんな大身はほとんどいない。
0626人間七七四年
2014/04/20(日) 12:12:14.82ID:4TkySNYxやはり石田や小西を分不相応な大身にしてしまったのが豊臣の犯した最大の過ちだよな
これで自分達が豊臣を支配できるという無謀な野心を抱き
讒言を駆使して秀次の命を奪ったり朝鮮で偽講和を企むなど豊臣を混乱させ続けて
遂には筆頭大老を殺害して豊臣を乗っ取ろうと謀反まで起こした
忠義に厚い武功派が決死の戦いで謀反を鎮圧したが石田や小西さえいなければ豊臣は長期安定政権を築けたのは間違いない
0627人間七七四年
2014/04/21(月) 20:46:42.60ID:0RExNsmy>秀吉は三成や小西や大谷に大版図やるべきだった
まさにその通りのことをしたからこそ、豊臣は短命政権になった
あ、史実追認スレか
一瞬、疑似仮想スレかと思った
0628人間七七四年
2014/04/21(月) 21:10:39.96ID:mtgEHLU/秀次のときにあらかた身内の対抗馬を潰したから
徳川や前田を大老にしなきゃ立ち行かなくなった
大和大納言家をなんらかの形で残せていればなあ。
0629人間七七四年
2014/04/22(火) 11:08:41.99ID:TbbL19wL連中は朝鮮出兵や秀次事件で豊臣をないがしろにする行動を繰り返し
そのうえ反省することもなく謀反を起こして豊臣を滅ぼすような悪質な奸臣だ
三成たちがいなければ豊臣は一体となり磐石な政権を構築することができた
0630人間七七四年
2014/04/22(火) 19:00:02.07ID:8Hf7Sxug近江閥もそれほど力を持たなかったんじゃないかな
0631人間七七四年
2014/04/23(水) 06:22:55.31ID:rYduAWmA関ヶ原の時点じゃ淀はむしろ三成を信用しておらず
北政所の方が三成に近かった(三成の娘を自分の養女にしてる)
0632人間七七四年
2014/04/23(水) 16:58:18.45ID:rYduAWmA近江閥というくくりは無意味。淀の乳兄弟の大野治長も関ヶ原のときは東軍。
0633人間七七四年
2014/04/26(土) 09:42:30.08ID:H/WGWcO3秀次の遺領の清州を貰ったの奴だし。
0634人間七七四年
2014/04/26(土) 19:44:04.27ID:WKot3/55秀次の遺臣の武官連中をごっそり引き抜いて自分のものにしたのも奴だし
0635人間七七四年
2014/04/26(土) 23:03:27.49ID:tB0d8Zq60636人間七七四年
2014/04/26(土) 23:06:46.85ID:H/WGWcO3三成はむしろ憎まれ役押し付けられていい迷惑。
0637人間七七四年
2014/04/27(日) 08:21:08.77ID:bncsu6ql伊達や南部や最上とつるんで奥羽で紛争を起こしたから秀次が蟄居になっただけ。
しかも秀吉も三成も蟄居にしただけで殺してない。
秀次が勝手に自刃しただけだし、
秀吉や三成の意向を無視したバカ正則が自刃を止めなかったのが元凶。
0638人間七七四年
2014/04/27(日) 09:27:30.77ID:fkL0jhS10639人間七七四年
2014/04/27(日) 11:39:46.98ID:2zh9jIa2たぶんそいつ次は「妻子や秀次家臣を殺したのは秀次が大政所の菩提寺を自刃で汚したから」とかいうぞ
0640人間七七四年
2014/04/27(日) 12:28:53.75ID:pF1XNZDS秀次はもちろんその妻子が生きていられたら三成には困るわけ
だから妻子を殺しまくるのは三成としては譲れない謀略だった
0641人間七七四年
2014/05/06(火) 21:53:47.61ID:ysNfaaaC石田小西は戦場での実績はたいしてないし
富田や長束くらいの石高にしとけばよかったんだよ
増田も貰いすぎだな
0642人間七七四年
2014/05/06(火) 22:21:55.18ID:JzATaO8Uあいつらガチで武功ねーし。
0643人間七七四年
2014/05/07(水) 11:13:27.17ID:wbnCipxv武功派は悉く何もやってないし武功と呼べる武功なんてないし。
0644人間七七四年
2014/05/07(水) 11:19:28.40ID:CAQZBiqO石田小西大谷らは豊臣政権存続に全力で貢献し、家康の暴走に待ったをかけ、ほぼ確実に勝てる状況を作って家康を追い詰めた。
どうせなら彼らに100万石クラスの大版図やれば、豊臣政権は確実に安泰だった。
0645人間七七四年
2014/05/07(水) 11:20:38.09ID:wbnCipxv小西の平安道が静謐にならないことを非難し、
商人小西のヘタレじゃなくて、俺に平安道の担当を変えれば明に進撃し、
秀吉をこちらに動座できると大言壮語した挙句に
その年の後半には咸鏡道で清正は敗北してしまったので隠蔽を図った。
それを知り朝鮮奉行たちは危険な咸鏡道から鍋島の撤退を勧告してんだよ。
だけど清正はそれを隠していた。
明軍は咸鏡道の方も気にかかっていたが、
清正の敗北を知り、一気に平安道に戦力集中して平壌を落した。
それで大谷や増田ら朝鮮奉行が清正の背信行為を非難し、鍋島に清正に協力するなと釘を刺してる。
文治派が悪いのではなく、清正らが明らかに悪いんだよ。
朝鮮から完全撤退の時も和睦を結んで撤退しようとする小西らの邪魔をするために勝手に日本へ帰り、
和睦をぶち壊して、小西や島津を危機的状況に陥れたのも清正。
0646人間七七四年
2014/05/07(水) 11:21:34.08ID:wbnCipxv日本軍の補給兵站の安定に結びつけたり戦略的視点で動いているのが小西。
日本軍最大の拠点城の蔚山城が清正、順天城が小西が防衛することになったが、
武断派は蔚山城の包囲を解いて逃げ出した明軍にビビって、追撃を半日で切り上げてさっさと戻ったから
鬼追撃で慶州奪還をしなかったことに怒った秀吉から激怒を買ったのであり、これを奉行へ向けて逆恨みした小人達。
しかもすっかり清正はビビって蔚山城と順天城からの撤退に同意するなど、もう蔚山城から逃げ腰。
小西は河向こうで、海岸は干潟になっていて順天城は援軍を派遣するに向いてないと指摘されても、
その撤退に反対し、一歩も引かず強気で明と和睦交渉を続けていた。秀吉も援軍出すから蔚山城撤退は認められないと命令。
秀吉が死んだら友軍のことを一切無視して蔚山城から我先にと釜山へ逃亡したのも清正ら武断派。
小西隊はなおも踏み止まり全軍撤退を指揮し、最終的に10/30に立花・島津隊と共に巨済島への撤退戦略を決める会談をひらき
殿を勤めて11/18に李瞬臣を討ち取り追撃を断ち切り、11/25にやっと釜山を離れて12/11に博多に到着した。
0647人間七七四年
2014/05/07(水) 11:22:37.17ID:wbnCipxv危機に瀕した小西と島津を助ける為に、三成が筑前に下向し、
藤堂高虎が軍舟を出してるくらい大変なことになったのも知らんとかw
小西に野望なんてねーよ。関が原の時に大垣にある、8/27はやし村や9/5赤坂西圓寺に出した禁制ですら、
署名順は、三成、小西、義弘、秀家で、島津より下の地位なんだぞ。
なにも出来ねーよアホ。 まぁ三成より地位が上な程度だ。
島津亮二氏も秀吉がメンツを守った形での明との講和条約にあげていた、
朝鮮の王子の人質の入朝という条件を、秀吉が死んだ際に全面撤退方針が朝鮮在陣諸将に伝わった後も、
小西は義弘と寺沢らは死んだ秀吉の意志を尊重し、龍涯を通じて明との講和交渉をしており、
島津亮二氏も日本の対面が保てる条件による講和締結を土壇場まで模索し続けたのであり、
その努力が実って明側から二人の人質を得ることに成功したと書いており、
看羊録の記事にある 清正は朝鮮の王子を待たずに、陣営を焼き払ってあわてて退却し、
和議そのものを、ほとんど成功させる寸前にぶちこわした。
私と島津とは唐の質官を連れ、落ち着いて殿をつとめながら、後からもどったのだ。私が怯懦か、清正が怯懦かと宣言した。
毛利輝元らは和議不成立の咎を清正のせいにしたと書いている事実に触れている。
結局、清正が和睦をぶち壊した為に、最前線で殿をしていた小西の順天が包囲を受けるなど日本軍は撤退に苦戦。
小西は秀吉の面目を立てる形で、朝鮮から王子を人質に帰国する忠義を示していた。
これは生前の秀吉が朝鮮の王子に南朝鮮の支配を任せようとした戦略を奉じていたからである。
秀吉は最初から最後まで小西を信用して外交を一任しているし、
小西が二心を抱いていたなんて誰も批判していない。
君は誰が小西が二心を抱いていたと批判したと言ってるんだ?一次史料を出してねw
清正は朝鮮出陣諸将が集まっての会議すら出席しない身勝手さなのに、
そんな清正に外交を任せられるわけねーだろ。
0648人間七七四年
2014/05/07(水) 11:25:03.31ID:qp23aqA70649人間七七四年
2014/05/08(木) 10:27:23.07ID:02AxjxsL誤記があるようだから訂正する
石田小西大谷ら文治派は悉く奸臣で、豊臣政権存続に全くといっていいほど貢献しなかったばかりか
利休や秀次を謀殺するなど豊臣政権崩壊を積極的に推し進めた。
福島加藤らは豊臣政権存続に全力で貢献し、文治派の暴走に待ったをかけ、確実に勝てる状況を作って文治派を追い詰めた。
どうせなら彼らに100万石クラスの大版図やれば、豊臣政権は確実に安泰だった。
0650人間七七四年
2014/05/08(木) 11:38:26.31ID:02AxjxsL禁制とはその地での狼藉を許さないために軍の実力者が署名するもの
官位も家格も石高も兵力もたいしたことがない石田や小西が署名するのは本来ならおかしい
特に石田は奉行を解任されたままでまだ復帰もしていないのに署名して早くも重要人物気取りだ
これらの禁制は石田や小西が権力を奪おうと謀反を起こしたという東軍の主張を裏付ける史料といえる
だからこそ西軍大名の大半は東軍の主張の正しさを認めて関ヶ原で戦うことを敢然と拒否した
石田と小西の謀反を許さないというのは東西に関係なく諸大名の共通した決意だった
だからこそ石田と小西を処刑したことは東軍のみならず豊臣全体の勝利と呼べるだろう
0651人間七七四年
2014/05/08(木) 12:15:46.09ID:4GMIHz1q家康に対抗しうる大物がみんな先に病死したり秀吉に粛清されたりで
生き残ったのは小粒の小僧どもばかり。
0652人間七七四年
2014/05/08(木) 12:36:57.13ID:wOL4v/su毛利が西軍総大将であり、最も巨大な軍団抱える毛利が雑魚だから西軍は負けただけ。
石田や大谷なんか寡兵で、2倍かそれ以上の黒田隊や細川隊・や京極や藤堂など
武功派諸侯を翻弄しまくってたし
戦闘専門外の三成でも、戦闘専門の武功派よりはるかに采配センスがある。
0653人間七七四年
2014/05/08(木) 12:37:55.79ID:5JPLA374彼らが毛利ほどの大軍抱えてたら
当初の三成の戦略どおり、真っ先に三河や遠州に先手を討って侵攻して
速攻で東海道口制覇して、家康を窮地に陥らせてる。
馬鹿な輝元が総大将だったから、伊勢湾や伊勢や四国やらあさっての方向に兵進めたり
大坂に居座ったまま、延々と政務を怠けたりして、一気に敗北した。
0654人間七七四年
2014/05/08(木) 12:51:41.42ID:4GMIHz1q豊臣政権で大身なのは元々国持ち大名だった奴らだtって。
0655人間七七四年
2014/05/09(金) 01:52:54.24ID:Yfc61fXL西から島津、毛利、徳川、佐竹、上杉、伊達
贔屓目にみて豊臣譜代で数万動員出来そうなのが宇喜多、小早川、前田か。
0656人間七七四年
2014/05/09(金) 19:07:19.01ID:VUfs25Q4石田や大谷の武器は無知の強みだからな
こいつらは本物の戦の駆け引きなど何も知らない素人だから
歴戦の武将なら罠や調略を警戒して立ち止まらざるを得ないような場面でも
そんなこと夢にも思わずに猪突猛進してしまう
そういう無知の強みは一時的な優勢を幻として見せることがあるが
結局は罠も知らない素人が勝てるわけもなく最後は惨敗してしまう
秀吉は石田や大谷なんて取り立てるべきではなかった
0657人間七七四年
2014/05/09(金) 19:33:20.66ID:9TmPzdm4秀吉は子飼いの大名連中に大版図をやる筈だった。
大陸中国でな。
0658人間七七四年
2014/05/09(金) 19:52:11.76ID:9TmPzdm4秀吉は己の所領よりも石高の大きい所領を家康に与えてねーぞ。
お粗末な勘違い。
0659人間七七四年
2014/05/09(金) 21:50:37.15ID:fCXDL81J宇喜多も小早川も前田も元々、秀吉と同格以上の連中だったし。
関ヶ原の時は代替わりしてみんな息子・養子世代だったけど。
0660人間七七四年
2014/05/09(金) 21:53:31.85ID:fCXDL81Jそもそも蔵入地だけの豊臣の石高と
家臣・与力の知行含めた徳川の石高比べること自体ナンセンスだしな
直轄地だけだったら徳川も半分ぐらいだし
0661人間七七四年
2014/05/09(金) 22:35:14.62ID:9TmPzdm4三成の打倒家康挙兵が謀反扱いなら、東軍を上回る軍勢を動員できんよ。
毛利も加勢なんかしない。
戦国大名は利に敏い連中ばっかなんで、負ける側に味方しない。
当時の常識は、明らかに三成が正義で、家康は悪。
要は、豊臣政権の獅子身中の虫・家康が、
上杉征伐軍という豊臣政府軍を、徳川の私軍に変換した小山会議での謀略が巧みだっただけ。
0662人間七七四年
2014/05/09(金) 22:39:46.48ID:fCXDL81J形成悪くなったんで三成をトカゲのしっぽにして逃げただけ
0663人間七七四年
2014/05/09(金) 23:04:35.93ID:9TmPzdm4政権の安定化には、勢力均衡か一強多弱しか無い。
豊臣傘下の大名の中で、徳川だけが図抜けて巨大なのは、政権の不安定要因。
家康一強の方が安定するとは、すなわち家康に拠る政権の簒奪を意味し、豊臣政権の存続とは相容れない。
豊臣政権の法規を平気で踏みにじる家康が豊臣政権の不安定要因なのだから、三成は挙兵したのであり、
拠って家康なんか居なくても、豊臣政権は痛くも痒くもない。
一頭抜きん出た家康が消えれば、勢力均衡となり、政権は安定するのだからな。
0664人間七七四年
2014/05/09(金) 23:30:10.03ID:9TmPzdm4豊臣恩顧の大名連中は、何年もの間、異国で不毛な戦に明け暮れた揚句、
ただ多額の戦費と労力を消耗しただけで何の見返りも得られなかったのだから、
帰国後、目先の欲に目がくらんで主家を見捨てるのも道理だ。
外征で失った己の富を、国内で乱を起こして他者から収奪して回復したいと思う武断派は責められない。
国内に居て戦費も労力も損耗していない三成と、異国で徒労した喪失感と失望感とを抱えて帰国した武断派とは、考えが根本的に違うのは当たり前。
両者の亀裂に付け込んだのが奸臣・家康。
しかも政権の後継者は幼児なので、外地で徒労させられて怒りに燃える武断派の押さえにはならない。
単に豊臣傘下の最大大名という立場だけでは、政権を掻き回し、乱を起こせない。
0665人間七七四年
2014/05/10(土) 07:19:22.98ID:Fml/Mf48上杉も鎌倉公方のごとく独立勢力化するし。
0666人間七七四年
2014/05/10(土) 15:19:20.85ID:83WyD/aj更に五大老のなかでは(家康を除けば)一番秀吉に近い秀家はてめーんとこの家臣統率すらままならない体たらくだったじゃん。
こんな器量の浅い俗物だらけでは均衡による安定など無理だ、まず権力を一つに集めるしかない!と家康が考えても無理はなかろう。
だってそんな俗物達も秀吉という権力者の前では土下座してひれ伏してたんだもの。
0667人間七七四年
2014/05/10(土) 16:18:26.94ID:Fml/Mf48どいつもこいつも自分のとこの利権しか考えない状況だから
一番力持ってる奴が大鉈振わんことにはどうしようもない状況や
0668人間七七四年
2014/05/10(土) 19:07:56.03ID:OEShR7LG0669人間七七四年
2014/05/10(土) 21:12:52.79ID:/HAb/BX/上杉・毛利・宇喜多あたりは秀吉の統一戦争に早くから貢献しまくってるし
大老や奉行を連署しての弾劾状をたたきつけて、家康の糾弾を行ってる。
0670人間七七四年
2014/05/10(土) 21:16:29.65ID:bm9frRRk上杉は伊達最上堀結城南部など、周囲を敵に囲まれた状況で挙兵してるほど
豊臣政権存続で皆動いていた。
だが、肝心の総大将毛利がとった戦略がおざなり過ぎて、結局西軍は大敗しただけ。
石田や大谷などそこそこの指揮官が総大将として指揮を執る立場にあったら、西軍は100パーセント勝ってた。
西軍なんて畿内だけでも18万もいたくらいだしね。
0671人間七七四年
2014/05/10(土) 21:20:38.48ID:Ii+GcRt1柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって漁夫の利で力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権だったから
秀吉がいなくなればさっさと崩壊するのは当たり前の事。対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
0672人間七七四年
2014/05/10(土) 21:29:39.23ID:/nHNoC+b戦国大名は利に敏い連中ばっかだから負けそうだとみなされた三成は関ヶ原で見捨てられたんだろ
だいたい西軍大名の大半は会津に向かう途中で無理矢理に組み込まれただけで
自由意志で西軍に入った大名なんてほんの一握りに過ぎない
無理矢理入れられたうえに三成が威張ってうるさいし負けそうだと思えば
ほとんどの西軍大名が関ヶ原で戦わないのも当然だろう
0673人間七七四年
2014/05/10(土) 21:52:23.83ID:vvXRu4LU毛利一族が馬鹿だから、小早川・秀元・吉川などと寝返りが続いて負けただけ。
何せ、総大将で挙兵したのに当の輝元が大阪に居座ったまま、伊勢湾や四国や伊勢など
馬鹿な方面に軍進めてただけだからな。
負けそうだったというのはあたってるが、その理由は総大将があまりにもアホだったから
みんなが見捨てたというのが正しい。
0674人間七七四年
2014/05/10(土) 21:55:40.69ID:hmfuoJZp村井良介氏によれば、戦国期は江戸期のような封建的な主従関係があったとされてて
無用な裏切りとか背反行為は嫌われるとされてる。
信長なんて馬鹿みたいに寝返りばかりだし、皆が利に聡かったら、
信長はいつも負けそうな状況にあったって事になるわな。
光秀や荒木や松永や別所や寺崎や石黒や波多野などが裏切ったのも
信長が負けそうだったからでFAってことか。
0675人間七七四年
2014/05/10(土) 22:00:40.21ID:hmfuoJZp彼らが裏切ったからこそ、信長は劣勢になったわけで
信長が劣勢だったから、彼らが裏切ったわけではない。
勢力的・国力的優勢な方にみんなつくなら、鼻から戦争なんて早々起こらないし
調略なんて必要なし。
0676人間七七四年
2014/05/10(土) 22:20:03.34ID:/nHNoC+b足利義昭は名目的な地位は信長より上だから大義名分上は裏切りにはならない
むしろ名目的には義昭の幕府再興の夢を信長が裏切ったことになる
同様に毛利や小早川は石田や大谷より官位も家格も石高も何もかもが上だから
関ヶ原で裏切ったなどというのは石田や大谷の思い上がりでしかない
本来なら石田や大谷の方が下なんだから毛利や小早川に従わなければいけない
0677人間七七四年
2014/05/10(土) 22:24:34.66ID:opr/9sY6毛利は裏切ってはいないが、小早川や吉川が裏切ったのは毛利が馬鹿だからだし
毛利秀元は、総大将ではなく、輝元が総大将。
ちなみに石田からみて裏切りとはいえなくても、西軍から見れば立派な裏切りに変わりはない。
トップの毛利がくずすぎて使い物にならなかったせいで負けただけなのが関ヶ原。
0678人間七七四年
2014/05/10(土) 22:26:15.88ID:/HAb/BX/お前の論法は寝返りや造反などが合戦の優劣の結果」
→織田の分国は、どこの国も寝返りだらけなので、戦いに負けまくってた事になる。
戦いの前後で周辺小大名の帰趨によって、戦いの勝敗の是非がわかるというなら
織田の分国は常に離反だらけなので、いつも戦に負けていた事になる。
尾張→水野氏虐殺
美濃→国人蜂起(遠藤氏等)
山城→幕府衆決起
北伊勢→一向宗虐殺
南伊勢→北畠氏虐殺 (騙し討ち)
北近江→国人蜂起(浅井氏)
南近江→延暦寺焼討
越前→一向宗虐殺
摂津→国人蜂起 (荒木氏等)
河内→本願寺蜂起
和泉・紀伊→雑賀衆蜂起
大和→国人蜂起 (松永氏等)
伊賀→伊賀衆蜂起
甲賀→甲賀衆蜂起(六角氏支援)
丹波→国人蜂起 (波多野氏等)
播磨→国人蜂起 (別所氏等)
加賀→一向宗虐殺
越中→国人蜂起・一向宗虐殺
能登→国人蜂起
信長ほど領主や家臣に裏切られまくった大名は中々いないからね
織田から寝返りばっか出てたことは確かなんだから
造反どうこうで戦いの勝敗を推測する論法なら織田は常に周辺勢力との戦いに負けまくってたことになるだろ
結局それが元で光秀に裏切られて殺されただけ。 信長が桶狭間合戦に勝ったとされる後
全くといっていいほど今川方から寝返りがなかった(家康が独立して信長と同盟するのは桶狭間より大分後)し
長篠に勝ったとされて後全くといっていいほど武田から寝返りがなかったのも
両合戦での織田大勝が嘘な証拠って事か。
離反も造反も本質的には何も変わらん。 仕えている主君を裏切る行為
朝倉の一門離反や武田の縁戚離反などは いずれも長篠合戦や滋賀の陣や姉川からずっとしてからだから その両合戦での勝敗や優劣などの根拠には全くならない。
そんな合戦の遥か後の造反とか離反が合戦の優劣に繋がるなら 本能寺で最終的に信長が光秀に裏切られて殺されたのは、
武田攻めで大敗したからだとか、毛利攻めで大敗したからだとか、長篠合戦で大敗したからだとか
こじ付けも可能になる
桶狭間合戦前後で誰も寝返ってない=桶狭間合戦での織田圧勝が単なる虚報って事だろ。
お前の理屈だと。
元々信長の上洛時って畿内の諸侯は一部を除いてほとんど上洛の名分を持った信長に従ってたのに
それからして浅井やら本願寺やら松永やら丹波やら足利やら次々に挙兵したり離反したりしたのは、信長が合戦で負けまくってた証拠って事でしょ。
0679人間七七四年
2014/05/10(土) 22:26:59.53ID:/HAb/BX/信長が光秀に裏切られたのは武田攻めで織田が武田に大敗したからなどという逆算も可能であるかのような
織田厨の珍説論法だなw
むしろお前のいう有象無象の連中の方が、大勢力同士の接触地点になる場合が多く
交戦中の両大名の優劣に敏感だから、よほど両勢力間の戦いの優劣の根拠になるでしょ。
離反や造反の原因なんて戦いの優劣以外にもいくらでも考えられるのに
戦局の情勢結果と無理やり結びつけるお前の論法が馬鹿なだけだよ。
信長なんて毎回毎回離反ばっかされてるから、毎回劣勢で負けまくってたことになるだろアホがw
武田が長篠合戦で壊滅的な損害を受けたにもかかわらず 武田からはそれから6年半の間誰も裏切らなかった不思議w
家臣が裏切るとかどうとか統治機構とか大名への個人的感情や朝廷の権力や大義名分やその他種種の条件が加わって起こるものなのに
戦闘結果でそうなったとか無理やり結びつけて相当馬鹿だな。
古代ローマ内に攻め入って主力決戦で勝ちまくってたハンニバルが
古代ローマ内で離反がほとんど起こらなくて、結局戦果の拡大に失敗して敗北したポエニ戦争でも勉強しろや
信長は肉親や柴田など譜代にも反抗されている。 尾張や美濃などで、斉藤や今川に負けていた証拠。
結局家臣の離反が元で殺された信長を盲信する織田厨が
家臣の離反造反を、戦いの勝敗や、両勢力間での優劣を推し量る材料としてもってくるとか哀れこの上ないな
武田は織田と主力決戦後は誰も寝返らなかったが 北条や徳川との抗争後、穴山や木曽などが寝返って武田崩壊となった。
つまり北条や徳川は武田相手に優勢だったが 織田は武田相手に劣勢だったって事だろ。
北条なんて2年連続で甲斐に侵攻してるくらいだし
北条・徳川>>>>武田>>>>>>織田
普通、国力的に大勢力と小勢力が衝突すると、 小勢力側から大勢力に寝返りが出るケースが多いのだが
織田の場合は敵対大名の10倍〜30倍くらい国力がある状態ですらボロボロ寝返りが出たりしてる。
よほど戦に負けていたか、信長の性格に問題があったとしかいいようがない
>>有象無象の離反を全てカウント
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396697657/438の織田から離反した武将って最低でも何郡かに影響力をもつか
支配下の城を持つ城主クラスだから有象無象とは到底いえないわな。
>>どの合戦も脱走兵とかいるから全部の合戦引き分け
お前の理論に従うと、な。
お前の理論に反論してるのが俺なわけで、まあお前理論で全部引き分けになろうが別に構わんが
0680人間七七四年
2014/05/10(土) 22:40:06.67ID:OI9xcP03自分の目先の利益だけ考えて主従をころころかえるのは一部の奸臣のやる事で、基本的にそんな行為は好まれない。山中幸盛とかいい例だし、吉川広家も毛利宗家のために自分を犠牲にした。福島加藤とか一部の馬鹿な武断派はそれを忘れてただけ。
上杉・毛利・秀信ら外様ですら、豊臣への忠義から西軍だったし
東軍は家康が婚姻で懐柔した勢力と、三成にくしで凝り固まってた馬鹿な武功派くらいしかいない。
結局武功派がアホすぎたのと、家康に喧嘩吹っかけられて速攻土下座した浅野や前田がへたれすぎたのと
総大将の毛利が馬鹿すぎたせいで、大敗しただけなのが関が原の西軍。
0681人間七七四年
2014/05/10(土) 22:43:44.82ID:ghXpKB4l秀吉個人は優秀だったと思うけど、過程がどうあれ秀次事件で国内を掻き乱した上に幼君だけ残して死んだんじゃ政権が続くわけないと思うんだが
現在で例えるなら昔は優秀だったけど今は失態を重ねてる上に無能が党首に居座ってるような政党を支持するようなもんじゃない?
0682人間七七四年
2014/05/10(土) 22:51:50.08ID:UvzjVSEy盛親・立花・秀包・筑紫茂成・龍造寺高房・堀内・脇坂・滝川雄利・山崎定勝・蒔田・中江・
長長束・秀信・稲葉貞通・稲葉典通・通重島津・小西・大谷・木下・丹波七頭衆・但馬仁頭・木下頼継・播磨姫路衆・越前東郷衆・戸田勝成・
福原・溝口・上田・寺西・奥山・小川・生駒・青木・青山・太田一吉・垣谷・熊谷・秋月・相良・高橋・伊東・竹中・中川・木村と
多くの豊臣恩顧系・ほとんどの五大老と五奉行と九州大名・畿内大名が西軍だもんな。
東軍なんて何の大義名分もないただのクーデター軍じゃん。
0683人間七七四年
2014/05/10(土) 22:55:48.34ID:k+W/VgSJ自分を取り立ててくれた織田家を様々な策謀で乗っ取り
漁夫の利を得るために外様の力に頼りまくった結果外様の版図が焼け太りになり
朝鮮出兵や秀次事件などで人望を失いまくり、最も恩を与えた
福島・加藤ら武断派から、自家を見捨てられる有様。
0684人間七七四年
2014/05/10(土) 22:58:53.84ID:/nHNoC+b豊臣に忠義があろうがなかろうが別に三成の指揮に服する義務はないわけ
君が毛利を馬鹿だと思うのは構わないがそれで三成が西軍を指揮できる理由にはならない
馬鹿だろうが何だろうが毛利の決めたことに力も地位も低い三成が従うのが軍としての秩序であり
三成がそれを守らないなら西軍が崩壊するのは当たり前
だいたい豊臣家臣なんて目先の利益だけ考えて織田から主従を変えた連中が大半なんだから
忠義を尽くすのが家臣のあるべき姿だなんて書いたところで白々しいだけ
君の言うとおりならそもそも豊臣政権なんて誕生していないんだよ
0685人間七七四年
2014/05/10(土) 23:01:09.61ID:/HAb/BX/織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入で
ぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多く
あつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
0686人間七七四年
2014/05/10(土) 23:05:32.19ID:bC5TdGrpろくな指示なんて与えてないからな。
毛利の言うとおりにしてたら、どんどん東軍に押し込まれて、史実よりも酷い状況で会戦することになっちまうよ。
ただでさえ、美濃口が攻められても毛利は大坂に居座ったまま伊勢湾だの四国だのアホな場所で戦ってただけで
出陣する気配すらなかったしこんなアホが総大将では誰が西軍にいようが負けるわな
0687人間七七四年
2014/05/10(土) 23:06:56.60ID:piPq3Crmというか毛利側からしてみれば
「なんで俺ら陣営内の足並みすら合わせずに全力突っ込んだ一発勝負勝手に仕掛けてくれてんの?しかも大敗?バッカじゃねーの?」
と三成に文句のひとつも言いたいんじゃなかろうか
0688人間七七四年
2014/05/10(土) 23:10:56.98ID:xxGT6yed東軍総大将の家康とまともに戦う意気地も気概も全くなく
戦略的思考もなさ過ぎたので、家康が西上後だろうが
伊勢湾や四国などあさっての方向での戦いをやめなかったし
大坂からうって出ようともしなかった。
基本的に、帰趨が揺らいだ地域での戦闘だと、先手を討って相手側の領地に積極的に侵攻した方が
帰趨を迷ってる勢力が次々味方になるので
石田らの想定したように早い段階で三河や遠州に総攻撃かければ東軍は東上もかなわなくなり
瞬殺されてた。
0689人間七七四年
2014/05/11(日) 09:19:46.64ID:p4CDvM/N利にさといというより自分の地盤を支える地元の利権が一番大事ってとこだろ
地元の利権潰されたら本も子もなくなるから既得権益を侵害する奴にはそれこそ死ぬ気で抵抗するの
0690人間七七四年
2014/05/11(日) 09:21:16.62ID:p4CDvM/N単に西国大名は上杉征伐の招集遅れたからなりゆきで取り込まれただけやん
西国のドンの毛利が半ば主動してたんやから反抗できるやつおらんわ
0691人間七七四年
2014/05/11(日) 09:30:12.76ID:yJw5/3WYお前のいつもの妄想ですね。
西軍は家康の豊臣家への反逆行為によって集結したもの。
これは西軍メンバーがほとんどの畿内諸侯・奉行・大老を集結させてる事実からわかる。
家康は豊臣政権下の禁止事項を破りまくってたが
三成ら西軍諸侯はそれに対して弾劾上を突きつけて、家康の専横を弾劾しているし
秀頼も西軍が擁している。よって豊臣正規軍は西軍で、東軍は単なる反逆軍。
0692人間七七四年
2014/05/11(日) 09:32:07.16ID:Gw+Xt6Lw信長が既得権益をおかそうとしたとか単なる妄想でしょ。
信長はむしろ既得権益を認めた委任統治しかやってないね。
既得権益をおかした例って何?ほとんど国人の自立統治を後押ししてただけ。
0693人間七七四年
2014/05/11(日) 17:26:57.84ID:5cUo6HHE豊臣正規軍というプライドが高い西軍だからこそ三成にはより慎重な振る舞いが求められた
豊臣への忠義が強い西軍大名は三成の権力欲のための道具として利用されることを何より嫌う
史実にあるように三成の私戦であるとわずかでも疑えば瞬く間に離反するほどに西軍は潔癖な集団なんだよ
なのに三成は一刻も早く政権に返り咲きたいと東進をせかし西軍の戦略に口だしをして関ヶ原まで出しゃばった
豊臣の真の忠臣たちは三成の仕組んだ私戦であると疑わざるを得なかったわけ
彼らにとっては三成の私兵として扱われるくらいなら潔く敗北を選ぶ方がマシ
誇り高い西軍だからこそ下すことができた決断だろう
0694人間七七四年
2014/05/12(月) 05:26:01.32ID:wIbaFAXu家康が考える権力の集中=家康に拠る政権簒奪。
つまり、史実の如き、豊臣政権の瓦解工作。
豊臣政権の強靭化や長期化とは逆行。
宇喜多の内紛は、諸大名の勢力均衡と無関係。
で、一宇喜多家の内紛という一部分の問題を『器量の浅い俗物だらけ』という蜃気楼の全体にすり替える、器量の浅い俗物に拠る詭弁。
仮に『器量の浅い俗物だらけ』なら、それだけで勢力均衡が成立するのは、小一でも分かる。
0695人間七七四年
2014/05/12(月) 05:36:47.91ID:wIbaFAXu豊臣政権の瓦解を目論む悪党・家康を放置して、豊臣政権にメリット皆無。
豊臣政権内の害虫でしかない家康が消えれば、豊臣政権は万々歳なのは、小一でも分かる理屈。
>>672
自由意志で東軍に入った大名も、ほんの一握りに過ぎないのだが。
東軍も西軍も、どっちもどっち。
0696人間七七四年
2014/05/12(月) 08:19:48.04ID:1dcx+ZDs豊臣家が政権を主導出来ない以上尚更
西軍にしろ東軍にしろ豊臣政権と秀頼を大義名分に自家の権利拡大を狙う連中がほとんどで忠臣等と言うのは幻想
0697人間七七四年
2014/05/12(月) 09:09:04.62ID:BvabncC8更なる嫉妬を買うのだが
0698人間七七四年
2014/05/12(月) 09:15:43.59ID:eNOeKDfH0699人間七七四年
2014/05/12(月) 10:12:12.90ID:oyWKIF6D三成の方が先に利休や秀次の命を奪って豊臣政権の瓦解を目論んだのだから
先に排除すべきは三成であることは明白だろ
最初に豊臣政権内の害虫となった三成を消すことには成功しているのだから問題ない
関ヶ原の結果は豊臣政権としては万々歳といえる
0700人間七七四年
2014/05/12(月) 12:13:15.36ID:wIbaFAXu外地から帰還した豊臣恩顧大名は勿論、家康以外の五大老の中で、
誰一人豊臣政権と秀頼を大義名分に自家の権利拡大を狙った輩はいない。
その人物の固有名詞を出せないのなら、単なる幻想。
>>699
政敵排除を目論む政権内権力闘争≠政権瓦解。
もしイコールなら、八代将軍の座を巡る紀州と尾張の両徳川家の敵対・暗闘で、徳川幕府は瓦解している。
豊臣政権の瓦解≠利休・秀次失脚・粛清。
三成の権勢は背後に豊臣政権有りき故に、三成≠豊臣政権内の害虫。
家康の権勢=豊臣政権の権力の否定。
拠って、家康のみが政権内害虫。
0702人間七七四年
2014/05/12(月) 21:05:09.17ID:JV/EazPV単純に豊臣家のために挙兵しただけだな。
景勝の周辺には伊達最上堀南部結城秀康など合計自国の3倍以上の勢力に囲まれてて
敵地孤立状態だし
挙兵すればこれに家康の討伐軍まで加わる事になるので、領土拡張どころか瞬殺される状態でしかない。
そんな状況で領地拡張を目的に挙兵とかありえないし、自殺するようなもの。
にもかかわらず挙兵したのは、西軍の連署した家康への弾劾状に基づいて
豊臣軍の一翼として挙兵しただけ。
毛利はどうか知らん
0703人間七七四年
2014/05/12(月) 22:55:33.02ID:oyWKIF6D三成は関白を政敵として殺したので間違いなく政権の瓦解を狙った害虫
さらに秀吉を明の家臣に貶めるなど豊臣政権の権力の否定に走っていた
むしろ家康はそんな三成の暴走に対処しようとしただけで問題ない
0704人間七七四年
2014/05/13(火) 09:30:59.84ID:eNRvZ/sM実権が豊臣一門ではなくすでに五大老に移行していた時点でもう豊臣政権なんて砂上の楼閣に過ぎないんだよ
関ケ原なんて応仁の乱と同じで実権の無い神輿(足利・豊臣)をかかげて互いの利権を争ってただけだ
西軍が仮に勝ってても遠からず毛利か上杉に乗っ取られるか最悪戦国時代に戻るだけ
0705人間七七四年
2014/05/13(火) 10:09:06.03ID:Rah1Wivg西軍の連署した家康への弾劾状が三成の権力簒奪のためのでっち上げだと途中で分かってしまったからな
毛利・上杉・小早川を含め多くの西軍大名が三成の私戦に協力し続けるべきか悩んでいた
石田軍として戦うことより豊臣軍であり続けることを貫いて私戦を拒否し負けを受け入れる
多くの西軍大名がこの誇り高い決断を下したため三成は関ヶ原で見捨てられたが
むしろ関ヶ原で三成を見捨てたことにより西軍の気高い精神は逆に勝利したと言える
この後も一切の悪あがきをせずに潔く大坂を明け渡したことからもそれは明らかだ
文治派以外の西軍は間違いなく豊臣軍の一翼として挙兵し最後まで豊臣軍として立ち去っていった
0706人間七七四年
2014/05/13(火) 20:46:23.94ID:drpNvjOc太閤秀吉没時=足利幕府の二代将軍義詮が没時。
共に、政権後継者は、まだ幼い子供。
つまり、豊臣家としては、家康さえ亡き者にすれば、残りは豊臣家に従順な大名ばっかなんで、
足利幕府レベルの不安定さは残しながらも、政権の延命が出来た訳だ。
そもそも応仁の乱と関ヶ原の開戦の背景は全く違うので、両大戦は同一視できず。
0707人間七七四年
2014/05/13(火) 20:49:52.24ID:DsZSdtYQ管領家の名籍継いだ上杉に織田の一家臣にすぎなかった豊臣に尽くす義理なんてねーだろ。
上方の政治状況がゴタついているうちに火事場泥棒的に旧領の越後と最上領の庄内かすめとろうとしただけや。
見切り発車のタイムアタック。
0708人間七七四年
2014/05/13(火) 20:52:10.81ID:DsZSdtYQ秀吉が石高的に格下の利家に秀頼の後見任せたのは
あいつらのことこれっぽっちも信用してなかったからだよ。
0709人間七七四年
2014/05/13(火) 21:02:23.55ID:drpNvjOc毛利は家風は保守故に、主体的に反豊臣の乱は起こさない。
景勝は先君・謙信の言動の模倣で家臣の上に君臨できてるパクリ野郎なので、
義に反する反豊臣の乱を起こせない。
0710人間七七四年
2014/05/13(火) 22:19:37.83ID:DsZSdtYQ謙信の時代から略奪・人身売買で生計立ててた集団やし。
毛利の家風が保守というのも誤り。むしろ積極的にあちこち色気だして
くたびれ損のパターンばっかやん。
0711人間七七四年
2014/05/13(火) 22:30:49.17ID:cSnOVLgZ義満には細川斯波をはじめ一門が多くいた
しかも南朝という明確な敵対勢力もいる以上彼ら一門が義満を排するのは南朝に利するだけだからあり得ないしね
一方で上杉毛利にとって豊臣は元々侵略者だし、毛利は関ヶ原でも伊予を制圧してかつての版図復活を企んだとされてる
上杉なんか秀吉の惣無事令ガン無視で最上領に攻め込んで庄内を奪いとって秀吉に事後承諾させてる
諸大名が秀吉の惣無事令に従う事が秀吉が天下人という証明なのにそれを否定するに等しい行為だ(おまけに最上を東軍に付かせた遠因でもある)
彼らは豊臣に従順どころか山名細川のように豊臣を利用して領土拡大してるのが現実なんだよ
0712人間七七四年
2014/05/13(火) 22:33:28.31ID:drpNvjOc挙兵の名分と戦利品処分を混同しているようではな。
天下志向と地方勢力としての版図拡大をも混同しているダメ押しの墓穴。
0714人間七七四年
2014/05/13(火) 22:49:30.57ID:drpNvjOc困った時に歴史歪曲する詐話師の詐欺論法。
0715人間七七四年
2014/05/13(火) 23:00:13.10ID:EoxQlrHQ関東管領家の上杉とか何十年前の話してるんだよアホ。
上杉なんて本能寺の変以降豊臣政権に協力しまくりで、しずヶ岳合戦小牧長久手合戦
佐々討伐小田原合戦と一貫して豊臣の要請に従って信濃だの越中だの関東だの遠征してるほど
親豊臣中の親豊臣だし、秀吉に言われて新発田攻めを延期してまで、信濃遠征をやったりしてただろうがアホ。
寝言も大概にしとけ馬鹿が。
0716人間七七四年
2014/05/13(火) 23:04:30.84ID:DsZSdtYQ単に勝ち馬に乗っただけ。
本能寺前は武田のごとく滅亡寸前でひーひー言ってたところを
勝ち組の秀吉から甘い声かけられたらそりゃ速攻でなびく
0717人間七七四年
2014/05/13(火) 23:05:42.53ID:EoxQlrHQそもそも秀吉の天下平定自体上杉と毛利や宇喜多などの外様衆の活躍に依存しまくりの他力本願政権だし
毛利も上杉もこれにしっかり応えてきたから大版図貰ってただけ。
毛利なんて小牧長久手合戦では秀包の援軍+四国への派兵
四国征伐・九州征伐では、準主力として平定戦に協力、朝鮮出兵でも大軍を派兵
上杉も本能寺の変以降しずヶ岳合戦小牧長久手合戦上田合戦(豊臣徳川の代理戦争)佐々討伐小田原合戦
と協力しまくってるもんなぁ。
上杉と毛利はハナから相当な従順な親豊臣といっていい。
特に上杉なんて景勝の周辺には伊達最上堀南部結城秀康など合計自国の3倍以上の勢力に囲まれてて
敵地孤立状態だし
挙兵すればこれに家康の討伐軍まで加わる事になるので、領土拡張どころか瞬殺される状態でしかない。
そんな状況で領地拡張を目的に挙兵とかありえないし、自殺するようなもの。
にもかかわらず挙兵したのは、西軍の連署した家康への弾劾状に基づいて
豊臣軍の一翼として挙兵しただけ。
0718人間七七四年
2014/05/13(火) 23:10:43.00ID:DsZSdtYQ上杉も毛利もひーひーの状態で勝ち組の大正義秀吉にすり寄らなきゃどうにもならん状態だったからだよ。
秀吉が死んだらそりゃ好き勝手やるわ。さしあたって自分より上の徳川引きずりおろすのに。
0719人間七七四年
2014/05/13(火) 23:11:55.47ID:EoxQlrHQいや、逆。上杉は下記のように基地外のような大軍に攻められても森や滝川を撃退し、
それで、秀吉が上杉の圧倒的戦闘力を見て、これを利用するしかないと判断して、
対佐々対策や、徳川対策で、上杉を政略で取り込み、上杉は元々佐々と徳川と対立路線だったから、
敵の敵というわけで秀吉を味方として認めてやっただけ。
しずヶ岳合戦でも佐々の従軍がなくなり秀吉は超絶棚ボタ幸運がいつもの如く訪れたし、
対家康の時も、家康が上杉対策で領内にほとんどの兵を残し、8000しか長久手につれてこなかったので、
秀吉はマンマと漁夫の利を得る事ができただけ。
小田原合戦でも最も活躍してたのは上杉依田真田ら北国勢と徳川勢など完全に秀吉は他力本願状態だったし
豊臣軍はわずか500や1000しかいない小田原城や韮山城忍城で苦戦しまくり、重臣含めて大量の戦死者を出すなど例の如く醜態さらしまくってた。
柴田45000も越中中部〜魚津・松倉間で2年も食い止めるなど、滅亡とは程遠い状況だった。
景勝は柴田45000森6000新発田+伊達・葦名(20000?)+滝川18000と
合計90000近い大軍に攻め寄せられても、わずか8000そこそこで森・滝川は撃退
柴田45000は越中で立ち往生、ろくな備えもなしの雑魚魚津城に苦戦するなど敢闘しまくってた。
どうみても謙信>>>景勝>>>>>>>>>>>>>>>>>>>柴田(織田家トップクラス)
0720人間七七四年
2014/05/13(火) 23:17:31.63ID:EoxQlrHQ全く逆で、織田軍80000をわずか8000で撃退したり食い止めた上杉や
秀吉軍を蹴散らしまくってたほど秀吉より圧倒的な戦闘能力を持つ毛利の両勢力を、
秀吉が例の土下座の連続で従えただけ。秀吉が山崎合戦に迎えたのも、ほとんど毛利が和睦に応じてくれたからだし。7
それで、上杉の場合は、柴田や徳川と元々対立路線だったので、外から入ってきた秀吉は、敵の敵であり味方として
一応認めてやっただけ。
秀吉の場合国内の平定戦のほとんどを上杉と毛利の力に依存しまくってて、上杉と毛利もそれにしっかりと応えているほど、確固とした
豊臣シンパの大名だった。
上杉も毛利も全く好き勝手やってないし上杉は
伊達最上堀南部結城秀康など合計自国の3倍以上の勢力に囲まれてて
敵地孤立状態に加え家康の討伐軍まで加わる事が予想される状態ですら、豊臣への義理立てと忠誠から挙兵している
0721人間七七四年
2014/05/13(火) 23:24:01.35ID:kUA7GVjC秀吉は全く強くないどころか、直接対決でたかが防衛戦の熊見川合戦で3000人討ち取られるほどの雑魚っぷりを晒していたが
上杉佐竹毛利長宗我部木曽小笠原真田石川水野十河河野大友龍造寺前田
柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって漁夫の利で力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権を作りあげることには成功した。
だが所詮土下座と漁夫の利を得ただけの中身のない傀儡政権なので秀吉がいなくなればさっさと崩壊するのは当たり前の事。対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
0722人間七七四年
2014/05/13(火) 23:26:44.63ID:kUA7GVjCその後も最強武田軍団相手に敢闘し、信長を滅亡寸前に追い込んだ大敵朝倉を大破した上に、戦上手の武田勝頼を多いに疲弊させ、
信長死後は甲斐信濃を巡り北条氏直の大軍相手に勝利。その後豊臣軍135000に対し織田信雄含めても16000そこそこの寡兵で豊臣軍を一万人戦死させる大勝利をあげた上に
秀吉はビビリまくって信雄相手に顕如送って必至に取り成しを懇願し、さらに自国の15分の1の国力しかなく、木曽小笠原石川水野真田の離反とそれによる軍事機密露見と
天正大地震と天正11年からの徳政令連発で領国が崩壊した家康にも母と妹を差し出すヘタレっぷり。
さらに関が原では畿内だけで18万もいる豊臣の大軍を大破する大勝利w
大阪の陣でもあれだけ規格外の堅固で大規模な城郭&城攻めとしては少ない2倍いくかいかないかくらいの兵力で短期間で大勝
信長の戦歴…チート尾張斯波家継ぎながら幼君でガタガタの斉藤領火事場泥棒しようとしたらまけまくり
長島侵攻では3回も敗北し餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ち&数万の大軍で一門10人以上殺されるなど負けまくり
本願寺攻めでも大苦戦し武田にも上村合戦や東美濃攻防で敗北し信玄在世中は追い込まれる一方で滅亡確定、
最後は光秀に殺されて死亡
秀吉…小牧長久手で家康より遥かに戦下手で織田家で最も無能で伊賀攻めに失敗し信長の勘気蒙り縁を切られそうになるアホ信雄に135000の大軍で挑んで
1万人殺される大敗。その後の攻防も二重堀・蟹江・前田・下市場・松ノ木・浜田・長久保・東駒野・河波・神戸攻防で敗北
二重堀合戦では防衛戦にもかかわらず1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられる
蟹江・前田・浜田・下市場・長久保・神戸は秀吉方本陣から程近い距離にあるにもかかわらず見事に寡兵の信雄に奪回される
結局実力では全く歯がたたず信雄・家康に顕如使って土下座してなんとか和議までこぎつける
北条氏直…神流川で織田家トップクラスの滝川の18000を24000そこそこで10倍の被害差で大破
朝倉義景…信長を滅亡寸前に追い込む。姉川の合戦では浅井軍は織田を押しまくり当時の織田四天王の一人の坂井の息子を討ち取る
勝頼…「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死と織田徳川を寡兵で圧倒しまくる
一揆勢…信長の数万の大軍を餓死寸前のところで騙まし討ちかけられた状態でわずか数百の寡兵で織田一門10人以上討ち取る
以上をまとめると勝頼>>>>家康>>>氏直>>>>>滝川>>>>>一揆勢・朝倉>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
0723人間七七四年
2014/05/13(火) 23:29:18.31ID:D+RbFIoy対信雄の防衛戦で行われた二重掘合戦あたりが
秀吉の戦闘センスのなさや指揮采配能力の欠如を端的に物語ってる。
どちらも信雄や輝元など、糞みたいな凡将相手に防衛戦にもかかわらず3000人殺されたり
寡兵で襲撃されて楽田からたたき出されてヘタレ敗走してるし
0724人間七七四年
2014/05/13(火) 23:30:03.44ID:H0Aq60z9二重堀合戦では1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられてるし
熊見川の戦いは上月城の防衛を目的に行われた防御戦だったが見事に失敗して3000人も殺されてるし上月城・神吉城も奪回されて尼子勢をはじめ大量に戦死者出してる
つか山崎合戦とかも光秀方から仕掛けた戦だし陣地も光秀は朝廷を守るため天王山の陣取りを捨てて不利な形で布陣したわけだし防衛戦じゃない。
しずヶ岳だって勝家が攻撃してた中川の拠点守るため出兵しただけだし普通に防御戦だろ。勝家の方から攻めかかってきただけだし秀吉は撤退途中の勝政・盛政を背後から圧倒的大軍で強襲したら
逆襲くらって不破・前田・金森らが兵をひくまで結局均衡くずせない始末だし
0725人間七七四年
2014/05/13(火) 23:35:25.14ID:kUA7GVjC毛利は秀吉との和議に速攻で応じてくれた。
しずヶ岳の合戦では、毛利は相変わらず確定的ではないが親秀吉的だったし、上杉は佐々を釘付けにして柴田軍のしずヶ岳での動員戦力を削いだ。
小牧長久手合戦〜天正14年の家康恭順までの間は
豊臣と上杉は実際に示し合わせてて景勝は下越や越中戦線を後回しにしてでも
川中島侵攻を優先したから、徳川方は大量の兵を領国に残したし
上田合戦でも上杉は援軍を送ったり、信濃に何回も派兵して、家康方の平岩大久保鳥居依田など大部分の戦力を徳川領内に置き去りにさせる事に成功した。
毛利も秀包を秀吉に援軍として送り、秀吉の要請に従って四国に出兵して、反秀吉方と交戦した。
その後四国征伐九州征伐小田原征伐朝鮮出兵と上杉毛利とも豊臣の平定戦に参加どころか、主力となって、功を立てるほど、豊臣政権にしっかり貢献するほど親豊臣だった。
0726人間七七四年
2014/05/13(火) 23:35:54.59ID:kUA7GVjC上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しており翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
0727人間七七四年
2014/05/13(火) 23:37:12.58ID:0xdXoZKj>>上杉は織田軍の強さ身にしみてるからさっさと豊臣に臣従した
>>織田家臣にやられた上杉
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396697657/21
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396697657/24-25
0728人間七七四年
2014/05/13(火) 23:38:42.44ID:0xdXoZKjはっきりいって備中まで進軍できたのはほとんど大国毛利を単独で撃退してた南条や宇喜多のおかげだし。
宇喜多なんて遭遇戦で毛利軍を大破してるし。
0729人間七七四年
2014/05/13(火) 23:39:43.65ID:8x3BLZGz但馬は山名が元々織田方に謁見を願って出てくるほどで織田方だったし、但馬平定は超絶ヌルゲーだった。
しかも天正8年には再度但馬侵攻してみると竹野衆らに撃退されたりしてる。
実際には但馬平定は天正8年になって光秀の援護を受けながらようやく終わっただけだし
毛利から寝返った宇喜多・南条に毛利が苦戦したせいで、但馬・播磨戦線まで出てこれなくなっただけで秀吉は特に何もやってない。
天正8年の山名氏政→古志書状(古志文書)4/13には織田勢が今度但馬に乱入してきて種種入魂之被申分、尤祝着候とか書いてるし
5/19には去4月18日但馬水生表の合戦で織田勢と竹野衆が合戦し竹野衆が勝利したと報じている
6/13垣谷豊続→岡遠江守感状で宵田表相動候処、則織田勢罷出候之間誠砕手数剋相戦切崩、得勝利などと勝利を書き綴っている
播磨戦線でも毛利に3000殺されるガチンコ負けして西播磨一帯を占領され尼子衆ぶち殺されてるし
0730人間七七四年
2014/05/13(火) 23:40:22.34ID:BNL+VIR/その証拠として播磨に天正5年に派遣されて信忠や明智や滝川らの援軍・尼子残党・宇喜多・南条の離反とお膳立てされまくった上に毛利方がろくに播磨口に出てこない
超絶ヌルゲーの環境ですら播磨と但馬の攻略に3年も費やした雑魚秀吉でも指揮官として採用されてるし
丹波攻めに2回も失敗して赤井の死後にようやく攻略成功した明智や上杉に蹴散らされたり、御館の乱やそれに続く内戦と、新発田の乱で極度に弱体化した中、織田からは
佐々長縄・神保長住・長連龍や斉藤の援軍らが派遣されて、上杉の内戦の最中に、能登や越中をコソ泥できたのにその後自力ではろくに進軍できていない柴田でも指揮官として登用されてる
0731人間七七四年
2014/05/13(火) 23:42:28.48ID:iDB2ERrx毎回圧倒的大軍で敵の反抗を諦めさせてるだけ。位攻めというのは敵の反抗を諦めさせる規格外の大軍と、
敵の諸城の周辺に完全な攻囲のための砦や根城などを築く技術と、長期戦に耐えうる物資さえあれば誰でも可能で
最も指揮能力や采配能力が問われない楽な戦いだからね。でもそんな超絶ヌルゲーですら秀吉は失敗して家臣を多く殺されたりしてる。
例えば小田原合戦の時も享禄以来年代記によれば29万、那須記や榊原書状によれば50万といわれる圧倒的な大軍だった。
しかしわずか34500しかいない北条とまともに戦いだすと半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
秀吉軍は兵站ギリギリのところまで追い込まれてたのは事実
これはフロイスの日本史に書いてある。
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
0732人間七七四年
2014/05/13(火) 23:43:16.37ID:0xdXoZKjアホみたいに規格外な国力と大軍がありながら、軍事的には全く手出しができなくなって、母や妹、250万石の大領土や
チート官位や秀吉縁戚の地位まで土下座献上する羽目になって、家康は豊臣家を楽に滅ぼすことができたんだろ。
結局秀吉は戦に負けて家を滅ぼされたというだけで、順当な結果になっただけ。
0733人間七七四年
2014/05/13(火) 23:43:47.21ID:8x3BLZGz信雄と信孝がいがみあっていたり基地外のようなヌルゲーしか残ってなかったからな
本能寺の変で信長が光秀に殺されて光秀が逆賊の汚名負ってくれたおかげで、主殺しを討つ大義名分を棚ボタ的にいただいたあげく
摂津の諸侯や丹羽や信孝などをはじめ馬鹿みたいに味方が集まってくれたし清洲会議でも大きく優位になって領土を獲得してる。
あげく信雄と信孝も勝手にやりあってくれてたし、勝豊も美濃衆も会戦前くらいであっさり寝返ってたくらい、柴田側は統制が崩壊してたし、
会戦になると前田や不和や金森まで勝手に退却してくれるし、周辺諸大名も毛利上杉木曽小笠原宇喜多大友佐竹結城宇都宮那須皆川佐野真田芦名二階堂
白川結城石川岩城相馬河野十河など悉く秀吉に味方してくれたおかげで、秀吉は他力本願でヌルゲーの誰でも勝てる戦いができただけ。
しかもそんな今川氏真が指揮をとっても楽勝で勝てそうなヌルゲーの戦いですら小牧長久手合戦や熊見川合戦や小田原合戦など家臣をぶち殺されまくったり
300しかいない馬鹿な雑魚城攻めでろくに落せなかったりしてる。
0734人間七七四年
2014/05/13(火) 23:44:16.65ID:KAyLwzUP三か国毛利が割譲した上での和議が成立し、宇喜多とも本能寺前から一体化が進められ、もはや親藩的存在だったし
その差でしょ。そもそも単純に国力で見ても、かなりの開きがあるし。
柴田・信孝側からは美濃衆や勝豊などがボロボロ寝返ってるが
秀吉からは寝返りが皆無だし信雄領からも寝返りがなかったことから見ても
信雄よりも信孝領は遥かに不安定な状態だっただろうし。
そう考えると秀吉は圧倒的に運がよく、明智は不運だっただけ。何せ摂津の諸侯とか兄弟の契りしてる中川とか
信孝とか丹羽まで秀吉方に参戦して大軍に膨れ上がったのに対して明智は与力格がことごとく不参加、日和見だしな
山崎合戦なんて最初から勝ったようなもんでしょ。池田・高山・中川ら摂津の諸将は
本能寺前時点で秀吉が光秀との政争勝利の結果から秀吉派軍閥だし中川なんて天正8年時点で兄弟の契り結んでるほどで
光秀側は主殺しの汚名背負ったせいで細川・筒井ら与力連中に背かれ信雄・信孝・丹羽ら周辺諸将も基本みんな敵。
ありえないタイミングで信長が光秀に殺されたおかげで棚ボタ的に主殺しの敵打ちの大儀名分手に入れて
それを利用して次々に勝手に味方が増えたし、信長が殺されてから、わずか1日半でその報を知る棚ボタっぷり。
しかも毛利も都合いいタイミングで即座に難航することなく和議に応じてくれたし
0735人間七七四年
2014/05/13(火) 23:45:13.71ID:0xdXoZKj(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる
0736人間七七四年
2014/05/13(火) 23:45:48.52ID:hHiNpLRG秀吉の場合は数でごり押ししても雑魚の信雄や輝元に全く勝てなかったり
防衛戦ですら家臣を殺されまくるほどの雑魚だったが
土下座能力はチートだったので信雄や顕如や家康や朝廷に土下座しまくって和議までこぎつけただけ。
顕如に11月に土下座したり家康の下に信雄送ったり朝廷に献品しまくったり土下座攻勢をかけまくってる。
結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。
秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や家康には到底敵わないため
信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。
秀吉は必死に家康に土下座して、母や妹を差し出したり関八州260万石やったり高い官位と秀吉縁戚の地位やったりして
気を使いまくってたから、慈悲深く、温情あふれる家康は、秀吉生前中は、お情けで秀吉を生かしてやっただけ
0737人間七七四年
2014/05/13(火) 23:46:37.56ID:D+RbFIoy柴田も信雄も信孝も丹羽も池田も中川も細川筒井滝川など、明智軍12000程度以外全て敵。
最初から明智単体での謀反なら成功するはずのない愚かな芸当としかいいようがないわけ。
秀吉はその当時で長浜播磨但馬因幡備前美作備中淡路とすでに200万石級の大大名(宇喜多は直家死後幼君になって
秀家を擁する秀吉との一体化が一層進められていた)
さらに摂津の諸将も秀吉が光秀との織田家中での政争勝利から秀吉方軍閥で、中川なんか天正8年時点で兄弟の契り結んでる
大返しなんていわれるほどの大袈裟な芸当やってないし、軌跡の3年なんて事も全くやってない。ただ織田家が、光秀に当主と嫡男を殺されたせいで無主状態になった所を
主君を殺した敵打ちの大義名分と三法師の後見役という立場を利用して織田旧臣たちを味方につけるなど火事場ドロしただけ。
0738人間七七四年
2014/05/13(火) 23:47:12.19ID:DPMeBn1F本能寺前時点で秀吉が光秀との政争勝利の結果から秀吉派軍閥だし中川なんて天正8年時点で兄弟の契り結んでるほどで
光秀側は主殺しの汚名背負ったせいで細川・筒井ら与力連中に背かれ信雄・信孝・丹羽ら周辺諸将も基本みんな敵。
ありえないタイミングで信長が光秀に殺されたおかげで棚ボタ的に主殺しの敵打ちの大儀名分手に入れて
それを利用して次々に勝手に味方が増えたし、信長が殺されてから、わずか1日半でその報を知る棚ボタっぷり。
しかも毛利も都合いいタイミングで即座に難航することなく和議に応じてくれたし
つーか本能寺の変は明らかに秀吉が仕組んでやった事だから最初から勝てて当たり前でしょ。
備中〜京都までの距離で信長が殺されて一日半程度で
情報が正確に伝達し、真偽も確かめず備中陣を引き払ってるなんてありえないし
秀吉が最初から画策して首謀者として信長を殺しただけ。
0739人間七七四年
2014/05/13(火) 23:49:52.37ID:8x3BLZGz特に上杉は伊達最上堀南部結城秀康など合計自国の3倍以上の勢力に囲まれてて
敵地孤立状態に加え家康の討伐軍まで加わる事が予想される状態ですら、挙兵して家康の専横にまったかけてる。
こんな挙兵したら敵の大軍が一挙に領国になだれ込んでくるような状況で
利益やドサクサまぎれの火事場泥棒が目的とかありえないからな。
火事場泥棒どころか、自殺するような絶望的な状況。なのにもかかわらず挙兵したのは、豊臣の忠臣として、家康の専横に待ったをかけただけ。
0740人間七七四年
2014/05/13(火) 23:52:34.28ID:hHiNpLRG皆信長や秀吉みたいな他家の内紛などにつけこんで火事場泥棒やコソ泥する大名ばかりだと思い込んでる。
実際には挙兵したら確実に死亡が予想されるような状況でも挙兵したり、
仕えた家に忠義をつくす部将は普通にいたどころか、そういった連中が世の中の大半で、家への忠義を忘れる奸臣は、本能寺の光秀みたいに、味方が集まらず自壊するだけ。
0741人間七七四年
2014/05/13(火) 23:54:56.23ID:H0Aq60z9鎌倉・室町〜江戸期にかけて、主君のために家臣が尽くす封建制が、武士の基本。
いざという時に、すぐ敵に寝返ったり、日和見するようなやからは、家臣として使い物にならないので、武士とは呼べない。
0742人間七七四年
2014/05/13(火) 23:56:11.48ID:cxAq6LvY0743人間七七四年
2014/05/13(火) 23:58:42.74ID:PAn1qem0お前の論法は寝返りや造反などが合戦の優劣の結果」
「戦国時代の武士は忠義ではなく、目先の利益などで動いたり去就を変える」
→織田の分国は、どこの国も寝返りだらけなので、戦いに負けまくってた事になる。
戦いの前後で周辺小大名の帰趨によって、戦いの勝敗の是非がわかるというなら
織田の分国は常に離反だらけなので、いつも戦に負けていた事になる。
尾張→水野氏虐殺
美濃→国人蜂起(遠藤氏等)
山城→幕府衆決起
北伊勢→一向宗虐殺
南伊勢→北畠氏虐殺 (騙し討ち)
北近江→国人蜂起(浅井氏)
南近江→延暦寺焼討
越前→一向宗虐殺
摂津→国人蜂起 (荒木氏等)
河内→本願寺蜂起
和泉・紀伊→雑賀衆蜂起
大和→国人蜂起 (松永氏等)
伊賀→伊賀衆蜂起
甲賀→甲賀衆蜂起(六角氏支援)
丹波→国人蜂起 (波多野氏等)
播磨→国人蜂起 (別所氏等)
加賀→一向宗虐殺
越中→国人蜂起・一向宗虐殺
能登→国人蜂起
信長ほど領主や家臣に裏切られまくった大名は中々いないからね
織田から寝返りばっか出てたことは確かなんだから
造反どうこうで戦いの勝敗を推測する論法なら織田は常に周辺勢力との戦いに負けまくってたことになるだろ
結局それが元で光秀に裏切られて殺されただけ。 信長が桶狭間合戦に勝ったとされる後
全くといっていいほど今川方から寝返りがなかった(家康が独立して信長と同盟するのは桶狭間より大分後)し
長篠に勝ったとされて後全くといっていいほど武田から寝返りがなかったのも
両合戦での織田大勝が嘘な証拠って事か。
離反も造反も本質的には何も変わらん。 仕えている主君を裏切る行為
朝倉の一門離反や武田の縁戚離反などは いずれも長篠合戦や滋賀の陣や姉川からずっとしてからだから その両合戦での勝敗や優劣などの根拠には全くならない。
そんな合戦の遥か後の造反とか離反が合戦の優劣に繋がるなら 本能寺で最終的に信長が光秀に裏切られて殺されたのは、
武田攻めで大敗したからだとか、毛利攻めで大敗したからだとか、長篠合戦で大敗したからだとか
こじ付けも可能になる
桶狭間合戦前後で誰も寝返ってない=桶狭間合戦での織田圧勝が単なる虚報って事だろ。
お前の理屈だと。
元々信長の上洛時って畿内の諸侯は一部を除いてほとんど上洛の名分を持った信長に従ってたのに
それからして浅井やら本願寺やら松永やら丹波やら足利やら次々に挙兵したり離反したりしたのは、信長が合戦で負けまくってた証拠って事でしょ。
0744人間七七四年
2014/05/14(水) 00:03:03.54ID:Qmo1qxXK例えば西に100万石、東に300万石ある大名に囲まれた地域の小大名なら、東につく可能性の方が高い。
だが、勿論例外はある。織田は圧倒的な国力を持っていたが、ボロボロ寝返りを出してたし
最後はそれが原因で殺された。
関が原合戦の時は、両勢力が均衡してたので、帰趨が微妙な連中が多かったが、
それでも東軍は家康が政略で取り込んだ連中+徳川家臣+三成にくしの武功派くらいしかついていない。
基本的には西軍につく連中の方が、圧倒的に多かった。
0745人間七七四年
2014/05/14(水) 00:04:36.67ID:7/cpUdad小大名の方から寝返りが出るケースの方がほとんどなのに
織田からは馬鹿みたいに寝返りが出まくってる。
よほど信長に人望がなかったか、信長が雑魚だったか、どちらかだな。
0746人間七七四年
2014/05/14(水) 00:28:31.53ID:jA0cOgWgどこが捏造なのかくらい指摘してくれない何とも言えんわ
まああなたが史実だと信じてた小説かゲームの世界観を壊してしまったならそれは申し訳ない事をした、すまん
>>741
半分当たってるけど半分外れてるよ
封建制の基本は御恩と奉公、つまり武士が主君に尽くすのは自分の領土を主君が安堵してくれるから
そしてそれは裏を返せば自分の領土を守ってくれない主君に尽くす義理はないということでもある
室町幕府が機能停止して武士の領地を安堵できない→武士は自衛を迫られる→戦国時代突入ってのは少し勉強すれば分かると思う
もちろん主君殺しが忌まれていたのは事実だろうけど、主君も主君としての責務を全うして初めて主君たり得たって事
0747人間七七四年
2014/05/14(水) 06:11:33.28ID:3gcVvYy0家の危機を守るのに、家臣が手を貸せば、主君はそれに対して領土も安堵するし、
領土を増やしたりもする。
それが封建制。
ちょろっと劣勢になったり、少し不利になっただけでコロコロ寝返ってたら、そもそも合戦なんて起きないし、
例えば300万石大名と100万石大名が対決した場合、100万石大名に付く家臣は速攻で勝つ可能性の高い300万石にこぞって寝返り
100万石大名を守って戦おうとする連中はいなくなり、戦うまでもなく瓦解する。
実際には織田みたいに馬鹿みたいに広範な版図を持とうが、
寝返りや謀反や離反を繰り返されてた大名もいたし、
家のために、危機的状況でも忠義を尽くす連中もいた。
わずか37万石程度で、柴田45000森6000滝川18000新発田+伊達葦名(20000?)に囲まれた上杉を
誰も最後まで見捨てなかったし
大坂の陣で、絶望的な状況になった大坂夏の陣後期になっても、誰も大坂方を見捨てなかった。
逆に織田の場合は、500万石〜800万石で敵対者は雑魚国力しかないヌルゲーであろうが、光秀荒木松永別所小寺寺崎石黒波多野近江国人を
初めとして馬鹿みたいに裏切り物を出した。
基本的には国力が大きい方につくのが周辺諸大名だが、国力が馬鹿みたいにでかくても寝返りばかりの場合もあれば
国力はハナクソしかなくても、寝返りの出ない場合もあるのが戦国の世。
個人的感情や、主君の人望や、様々なものが影響するんだよ
0748人間七七四年
2014/05/14(水) 06:20:03.36ID:3gcVvYy0国力が劣る側が国力に勝る側に主力決戦で勝っても、大して勢力図には影響が出ない場合が多い。
カルタゴからローマに攻め込んで、主力決戦に連戦連勝したカルタゴだが、ローマからはほとんど寝返りは出ておらず
戦局を決定するまでは至らなかった。
大勢力は決戦で負けても、国力のゴリ押しによる戦力の補充が可能だが
小勢力側は、一度決戦に負けると、大勢力側に対抗できるような戦力の構築はまず不可能だし
だが、離反が起こらない場合もなくはない。長篠合戦なんかがその例で
織田500万石徳川40万石に対し武田100万石程度で武田の大敗だったが、その後誰も寝返ってない。
0749人間七七四年
2014/05/14(水) 06:22:02.19ID:DrWtsBDb普通なら平常状態でも徳川織田上杉で武田を圧倒できる国力差があるが
長篠合戦で一方的に虐殺が行われたのに、勢力図にもほとんど影響がないとかありえないしね。
ただ武田軍を虐殺しまくったというドラマの見解がおかしいだけ。
0750人間七七四年
2014/05/14(水) 07:23:35.63ID:2+ZO40PW0751人間七七四年
2014/05/14(水) 07:43:22.26ID:HqPdJIsi秋山が援軍の使者を送っていないことからも、岩村が落城のきざしもなかっただけだろう。
結局騙まし討ちで落しただけだし。
0752人間七七四年
2014/05/14(水) 08:03:41.36ID:2+ZO40PW0753人間七七四年
2014/05/14(水) 08:25:34.30ID:XmjJ9vWy0754人間七七四年
2014/05/14(水) 08:50:04.03ID:Jx9OaLKiそりゃ譜代なら立場とか利権も色々あるだろう、調略も無しに寝返ったら減封されても文句言えないし
寝返り多いとよく言われる織田でも尾張統一以前の家臣や家康は離反相次ぐ包囲網下で信長を支え続けてる
けど外様は大抵は転がっていくのが現実、武田の甲州崩れが良い例
譜代どころか一門でも調略できちんと相手の領地を安堵・加増の約束を交わせば穴山みたいに寝返っている
一方で木曽・穴山・真田が許されて小山田が許されなかったあたり、何も考えず保身で裏切ればそれは信用されないというのも一理あるが
本題に戻るけど豊臣家はそもそも譜代がいないし、恩顧武将でも平気で改易・放逐(仙石・神子田・尾藤等)
一門の秀次や秀秋すら処刑したり減封していて外様とほとんど同じ扱いだった
主君からの便宜や外様への優越性を持つ戦国の譜第に比べ「豊臣恩顧」にそうした旨味が無い以上、忠義を尽くせと言うのも酷な話じゃないだろうか
0755人間七七四年
2014/05/14(水) 09:02:35.90ID:+cxKUsAI秋山に人質を出さんとならんからな。
秋山も交渉に出て約束を違えないことを示すしかないからな。
0756人間七七四年
2014/05/14(水) 09:57:27.64ID:ueyj7kwz>大坂の陣で、絶望的な状況になった大坂夏の陣後期になっても、誰も大坂方を見捨てなかった。
織田信雄や有楽斎が逃げたことを無視するなw
そもそも冬の陣から諸大名には見捨てられていて大坂には行く当てもない浪人が集まっただけだろ
それは単に徳川の国力とかそういう単純なものではなく主君の人望なども原因にある
主君が二十歳を過ぎてもママにおんぶに抱っこのマザコンでは諸大名も協力できなかったのは仕方がない
0757人間七七四年
2014/05/14(水) 12:00:37.09ID:iW0lcwIpそもそも家臣の離反や寝返りなどが、勢力間での優劣や合戦の勝敗の表れなどという馬鹿な妄想に対して反論している事を忘れないように。
信長の分国なんて下記のように離反が馬鹿みたいに起こってたんだから、
どんだけ信長は戦に負けてたんだよって話なわけ。
尾張→水野氏虐殺
美濃→国人蜂起(遠藤氏等)
山城→幕府衆決起
北伊勢→一向宗虐殺
南伊勢→北畠氏虐殺 (騙し討ち)
北近江→国人蜂起(浅井氏)
南近江→延暦寺焼討
越前→一向宗虐殺
摂津→国人蜂起 (荒木氏等)
河内→本願寺蜂起
和泉・紀伊→雑賀衆蜂起
大和→国人蜂起 (松永氏等)
伊賀→伊賀衆蜂起
甲賀→甲賀衆蜂起(六角氏支援)
丹波→国人蜂起 (波多野氏等)
播磨→国人蜂起 (別所氏等)
加賀→一向宗虐殺
越中→国人蜂起・一向宗虐殺
能登→国人蜂起
信長ほど領主や家臣に裏切られまくった大名は中々いないからね
織田から寝返りばっか出てたことは確かなんだから
造反どうこうで戦いの勝敗を推測する論法なら織田は常に周辺勢力との戦いに負けまくってたことになるだろ
結局それが元で光秀に裏切られて殺されただけ。 信長が桶狭間合戦に勝ったとされる後
全くといっていいほど今川方から寝返りがなかった(家康が独立して信長と同盟するのは桶狭間より大分後)し
長篠に勝ったとされて後全くといっていいほど武田から寝返りがなかったのも
両合戦での織田大勝が嘘な証拠って事か。
0758人間七七四年
2014/05/14(水) 12:05:17.05ID:iW0lcwIpさらに、甲州崩れの時期は、武田が長篠での疲弊・対北条徳川戦の疲弊・新府築城などの出費・無理な中央集権化などの
種種の崩壊要因があったので、離反だらけになるのはあたり前。
逆に言えば、そんな状況で、自国の6倍〜8倍くらいある織田+徳川と敵対してたにしては、
天正10年まではほとんど寝返りも出ていなかったし
長篠合戦の後なども勢力図は全くといっていいほど変わっていない。
織田厨の主張が史実なら、長篠合戦直後で、速攻で武田は国人から見放されて離反崩壊しないとおかしいからな。
ただでさえ武田VS織田・徳川・上杉なら7倍程度国力差あるので、
国境の国人は、戦いに負けてなくても次々に離反しててもおかしくないが、
実際には長篠で大損害蒙ったにもかかわらず全く寝返っても連中なんていないし。
0759人間七七四年
2014/05/14(水) 12:12:46.70ID:iW0lcwIp秀吉は下記のようにいう事の聞かない先代からの譜代など全くおらず、秀吉自ら育てた「生え抜きの譜代」ばかりいて
先代からの専横ばかりしてた邪魔な譜代に比べて、皆秀吉との結びつきが非常に強く、豊臣の恩を受けまくってる連中ばかりいた。
熊見川合戦時点での秀吉家臣団は一門衆が秀長・秀勝・三好義房・浅野長政・杉原家定・家次、木下家定
尾張衆は加藤清正・福島・山内・蜂須賀(河波衆リーダー)青木・平野・加藤嘉昭・堀尾・宮田光次
美濃衆が竹中・坪内利定・稲葉貞祐・加藤光康・小野木生駒石川光政日根野弘就谷衛好仙石秀久
一柳直末・伊藤秀盛・尾藤知宣。
近江衆の木村隼人正・片桐且元・寺沢広政・石田三成・中村一氏・増田長盛・宮部継潤・速水守久・脇坂安治・
長浜衆(伊藤牛助・谷兵介・石川小四郎・藤縣三蔵・田中小十郎など)
他国衆の中川清秀(摂津茨城城主、舎弟)小西行長(堺衆)・黒田孝高(播磨姫路城主)
これとは別に播磨衆と但馬衆に亀井・垣谷などが加わるし相当の規模の軍団だっただろ。これに加えて尼子残党の
上月城でしぶとく敢闘してる尼子義久や山中幸盛らや、同陣している荒木村重らがいるんだから普通に18000程度は余裕でいく。
下手すりゃ22000くらいはいてもおかしくない。蜂須賀前野とか河波衆のリーダー格だからそんなに極端に少ない兵力って事はないだろうし
一方の毛利軍は超遠距離で兵站の問題もあるし、背後の大友はいるし、反旗を翻した鈴木孫右衛門等に備えて清水らを備中に帰国させてるし。
ほぼ互角といった所じゃね。中川や荒木あたりは普通に大身だしな。蜂須賀も尾張時代ですでに2000程度持ってたとされるし
それから主君の秀吉が出世したんだから家臣の蜂須賀も出世してるだろうし。
谷とかも、竹中と同程度の地位だったし。
0760人間七七四年
2014/05/14(水) 12:25:54.52ID:KqWcd1zC>>織田信雄や有楽斎が逃げたことを無視
逃走しただけで、裏切ったわけではないでしょ。劣勢な豊臣のために必死に忠義を尽くしたじゃん。
それに、他の連中は皆悉く秀頼に従い、超絶望的な状況と国力差でも、最後まで戦って死んでるよ。
こういうのが本来の武士のあるべき姿であり、大体の武将がそう。実際に大坂の陣ではそうだった。
>>冬の陣から諸大名には見捨てられていて大坂には行く当てもない浪人が集まっただけ
それでも、死ぬとわかってるような馬鹿みたいな国力差でも、きっちり徳川に歯向かったよな。
死ぬ可能性が高いなら、損得勘定でいえば、死に直結するような、危険で無謀な戦闘でも、命をかけて戦うような事はしていない。
主君に忠誠を尽くし、主家が滅亡に晒されてる時こそ、命がけで守り戦うのが武士のあるべき姿。
>>徳川の国力とかそういう単純なものではなく主君の人望なども原因にある
基本的には国力の大きい方につく事の方が圧倒的に多いのが諸大名や国人。
だが実際には、調略・好悪・人望・地理など様々な条件が加わって決するのが国人の帰趨。
「戦に勝ったから味方になった」「強いからついた」などという決め付けは馬鹿な妄想でしかないんだよ。
実際に長篠合戦とか勝ってもろくに寝返りが出てないし、
逆に信長の分国なんて、毎回馬鹿みたいに寝返りが出まくってる。
ローマ軍にローマ国内の戦闘で連戦連勝したカルタゴもローマからの切り崩しには見事に失敗してて
ローマ側からはほとんど寝返りもでていない。
>>主君が二十歳を過ぎてもママにおんぶに抱っこのマザコン
ソース頼む。
ドラマくらいでしか聞いた事がないんだが、本当にそんな人物だったのか?
>>諸大名も協力できなかったのは仕方がない
そんなおんぶにだっこでも、皆自分と結びつきの弱かった、浪人連中でも、命がけで秀頼を守ってるし
大野ら譜代も、最後まで戦って果ててる。
0761人間七七四年
2014/05/14(水) 12:29:46.27ID:+OlA2qIz誰も最後まで見捨てなかった
秀頼家臣(豊臣と結びつきの弱い単なる浪人衆)…大坂の陣で、絶望的な状況になった大坂夏の陣後期になっても、誰も大坂方を見捨てなかった。
織田家臣…500万石〜800万石で敵対者は雑魚国力しかないヌルゲーであろうが、光秀荒木松永別所小寺寺崎石黒波多野近江国人を
初めとして馬鹿みたいに裏切り物を出した。
武田家臣…長篠で大敗したにもかかわらず、誰も武田を見捨てていない。
7年後に、他の種種の崩壊要因があって、ようやく裏切る。
0762人間七七四年
2014/05/14(水) 12:48:06.11ID:TD374MIX豊臣家からうけた恩を忘れて豊臣を見捨てて、家康にそれを利用される馬鹿だっただけ。
奉行衆や大老衆は豊臣への忠義を忘れず、家康への弾劾状を突きつけて、
決起して家康討伐軍を編成。だが総大将の毛利が馬鹿だったので、兵力をどうでもいい方向に分散させたり
大坂にずっと居座ったりしてて、全く使い物にならなかったので、西軍が大敗した。
0763人間七七四年
2014/05/14(水) 13:14:10.70ID:zy0zQoLM総大将に奉り上げられながら何もできず戦力を分散しまくり大敗した馬鹿輝元と
家康の示威行動にビビッて即効土下座したヘタレ浅野・前田だよな。
0764人間七七四年
2014/05/14(水) 13:16:20.98ID:rHtS5aqLまだ家康に攻められてもいないし、攻められるべき理由もないのに
家康が攻めるそぶりかけて威圧したら速攻土下座。
関ヶ原合戦前で、家康に歯向かう連中なんてまだゴロゴロいるのに、
戦う望みすら捨てて、家康に降伏し人質を差し出すアホっぷり。
0765人間七七四年
2014/05/14(水) 19:57:46.56ID:ueyj7kwz三成が秀次を殺したり秀吉を明の家臣に貶めたりすれば
忠義の厚い豊臣恩顧系譜代武将が三成に天誅を下そうとするのは当然だろ
西軍の大半も同様の忠義を持っており途中から東軍の方が正しいと理解して
関ヶ原では東軍とは戦わずに三成討伐に協力したわけだし
三成みたいな奸臣を政権に入れてしまった秀吉のミスが全ての原因だろう
三成が豊臣を破壊しなければ300年の栄華が約束されたも同然だったのに
0766人間七七四年
2014/05/14(水) 22:12:32.32ID:KqWcd1zC・講和締結は三成単独の画策というわけではない。
・五大老・五奉行・畿内の豊臣系諸侯のほとんどは西軍
・東軍は三成にくしで凝り固まってた馬鹿な武功派と家康直属家臣と家康が豊臣政権下の決まりを無視して
私婚の連発で取り込んだ連中のみ。
・西軍は皆東軍との接触を避けてたどころか、東軍の領土に侵攻したりしている。
0767人間七七四年
2014/05/14(水) 22:29:40.28ID:adbkxSEe肥後統治に関しては加藤と比べると小西は無能と言ってもいい
0768人間七七四年
2014/05/15(木) 06:52:56.00ID:f53aQScw正しくは地方分権派と中央集権派
0769人間七七四年
2014/05/15(木) 12:05:45.15ID:RKgNyV3f0770人間七七四年
2014/05/15(木) 12:48:03.81ID:x/GHlFIt0771人間七七四年
2014/05/15(木) 12:53:34.55ID:f53aQScw秀次殺した時点でとっくの昔に終わってた
後は一番の実力者の徳川にゆっくり禅譲するか
他の五大老ひっくるめて戦国バトルロワイアルやらかすかの二択
家康についた連中は穏健派。三成たちはむしろ武闘派。
0772人間七七四年
2014/05/15(木) 16:18:14.47ID:Bo0ChWzp家康なんか秀次の後釜に座ったに過ぎない
実際秀次事件で嫌疑をかけられた秀次派の大名(小早川・最上・細川・中村・山内等)はこぞって家康についてる
まあ朝鮮出兵で二元統治が必要になった時点で対立が起こるのはしょうがないけどね
0773人間七七四年
2014/05/15(木) 16:37:56.49ID:x/GHlFItと三成嫌悪で凝り固まってた馬鹿な武功派くらいじゃん。
他の連中は悉く西軍。特に畿内のほとんどの諸侯に、五大老・五奉行のほとんどが西軍であり
家康に豊臣政権下での約定破りの弾劾状を突きつけてしっかり大義名分もある。
大坂城や、秀頼も西軍が擁している。
0774人間七七四年
2014/05/15(木) 16:44:43.80ID:ShO1TLyl秀頼を擁してる。
大坂城と近畿の大部分を掌握してる。
五大老五奉行の大部分が参加している。
形とはいえ秀頼直属軍が参加している。
公儀と称して改易、加増、転封の強権を発動している。
だから二大老四奉行連合政権は公儀として成立していた。
秀吉親藩の宇喜多は勿論だが
盛親・立花・秀包・筑紫茂成・龍造寺高房・堀内・脇坂・滝川雄利・山崎定勝・蒔田・中江・
長長束・秀信・稲葉貞通・稲葉典通・通重島津・小西・大谷・木下・丹波七頭衆・但馬仁頭・木下頼継・播磨姫路衆・越前東郷衆・戸田勝成・
福原・溝口・上田・寺西・奥山・小川・生駒・青木・青山・太田一吉・垣谷・熊谷・秋月・相良・高橋・伊東・竹中・中川・木村と
多くの豊臣恩顧系・ほとんどの五大老と五奉行と九州大名・畿内大名が西軍だもんな。
東軍なんて何の大義名分もないただのクーデター軍じゃん。
東軍
・大義名分なし
・家康が禁止された私婚で取り込んだだけの連中
・さしたる理由もなく前田や浅野に喧嘩ふかっけて、威圧をかけて降伏させてる。
・自分に対する島津領問題や私婚問題などの糾弾に対し武力で無理矢理排除している。
0775人間七七四年
2014/05/15(木) 17:38:51.70ID:4JJqLkFEおいおい、秀次が何のために関白になったと思ってるんだよ…
秀頼が生まれるまで秀次が次期後継者として諸大名と関わってたの知らんのかよ
てか、大義名分にしても家康のいない隙に大阪城制圧して秀頼に事後で命令出させてる西軍の方がよっぽどクーデターみたいなんだが
しかも秀頼に三成からの出陣要請拒否られたり、妻子を人質に取ろうしたのも大義があるなら必要ないし
純粋な豊臣家中の権力闘争と見るのが自然だと思うよ
0776人間七七四年
2014/05/15(木) 19:57:42.45ID:RKgNyV3f東軍の大義名分は奸臣三成を討伐し豊臣を守ることでしょ
二大老四奉行連合政権ということは逆に言えば三成がどさくさ紛れに復帰を画策したということ
しかも自分の返り咲きを早く確定させたいからと他の考えを無視して自分の東進案をゴリ押しで叫び続ける
これで西軍は三成の権力欲による大義名分もないただのクーデター軍へと堕落した
関ヶ原で西軍の大半が戦わなかったのは裏切りでも寝返りでもなく
豊臣への忠義を三成の私欲に利用されたことへの怒りと拒絶反応だった
0777人間七七四年
2014/05/15(木) 21:27:17.82ID:CmLNwiDN妻子を人質にするのは、賤ヶ岳で秀吉でもやってる、当時の常識。
旧主筋信孝の母と子供を処刑している冷血漢の鬼畜。
大義有る無しの問題では無い。
>>776
豊臣正規軍である西軍を打ち負かせば、それは即ち豊臣政権の終焉。
何故なら、西軍とは暴走する奸物家康を妥当する為に編成された軍だからだ。
関ヶ原で西軍の一部が戦わなかったのは、開戦前の家康の謀略の成果。
三成が絡んだ傍観は、作戦を巡る遺恨が原因の島津のみ。
0778人間七七四年
2014/05/15(木) 21:41:58.19ID:x/GHlFIt家康の私婚や島津領土問題への介入による豊臣政権の弱体化への弾劾。
0779人間七七四年
2014/05/15(木) 21:44:07.42ID:bnl1SW+Wよほど三成の統治は喜ばれていたからこそ大事に保管されてるんだろうな。
千石に1人の賦役とちゃんと決まってたし、それ以上が必要になった場合は飯米を給金して補償だし、
土地の耕作権は未来永劫、検地帳に書いた氏の者であり、奪われることがない保証もあるし、
百姓が迷惑することがあれば、取次は一切なく三成へ直接、訴訟できる目安による救済制度もある。
これほどよい領主はいないだろうね。
0780人間七七四年
2014/05/15(木) 21:47:23.81ID:7V7eZi1u宇喜多家内紛の処理
毛利家分封問題
小西の九州取次の取り上げ
豊臣政権下禁止された私婚の連発
自分への奉行衆からの糾弾に対し、話し合いではなく武力で排除する。
これが輝元、秀家、義弘、小西らが家康にキレて挙兵した動機だよなあ。
家康は自分以外の大名の弱体化と自派の拡大を謀っていた。
0781人間七七四年
2014/05/15(木) 22:28:56.85ID:f53aQScw完全に島津の内部問題です 家康関係なし
>宇喜多家内紛の処理
こちらも以下同文 家中まとめられない宇喜多が悪い
>毛利家分封問題
輝元に実子生まれたから秀元の扱いに困っただけ 毛利の責任
>小西の九州取次の取り上げ
宗と組んで詐欺行為働いて戦線を泥沼化させて戦犯 処刑されても文句言えない
>豊臣政権下禁止された私婚の連発
むしろ公職のトップにいる家康の裁量ですら婚姻認可できなかったら
適齢期の娘かかえる大名にとっちゃ死活問題
0782人間七七四年
2014/05/16(金) 14:28:44.78ID:I8iOMD82ま、鎌倉北条然り、徳川幕府然り、古今東西国内外問わず体制側ってのは嫌われるもんだし
0783人間七七四年
2014/05/16(金) 16:29:20.72ID:Xh5/5NOt武功派は三成にくしで凝り固まって、豊臣家からの恩を忘れてただけだし。
0784人間七七四年
2014/05/16(金) 17:18:45.92ID:xn85h2Ez0785人間七七四年
2014/05/16(金) 18:51:31.50ID:UKp1slrG家康は筆頭大老なんだから政務として諸大名の内紛に介入するのは当然の権利だろ
君の挙げているものを全て無視して介入しなかったら豊臣政権は有名無実となり無法な戦国乱世に戻ってしまう
家康はむしろ無能な奸臣によって乱れた豊臣の秩序を立て直すための改革をしていたと言える
結局のところ西軍は豊臣を守りたいんじゃなくて自分達が好き勝手できる昔の乱世に戻したいだけの謀反軍なんだよ
好き勝手したいだけの連中だから西軍には規律も一体感もなく史実の通りにバラバラなわけ
0786人間七七四年
2014/05/16(金) 20:15:53.50ID:WLa82yVr結局は誰かが独裁するしかない
0787人間七七四年
2014/05/16(金) 21:40:28.04ID:YBUTR55i大老や奉行の務め。
家康がそれを放棄して、その地位を横取りしにかかったのだから、
大老衆や奉行衆は秀吉の遺命通り、それを阻止しにかかっただけ。
0788人間七七四年
2014/05/16(金) 22:31:52.24ID:WLa82yVr0789人間七七四年
2014/05/16(金) 22:37:36.47ID:H/mn3Klg同じことを家康にやられても文句いえないしあの当時の大名なら誰も文句言わない
文句言うのは自分も一番に成り上がりたいと野心抱いてる奴ら
0790人間七七四年
2014/05/16(金) 23:08:41.75ID:xn85h2Ez0791人間七七四年
2014/05/16(金) 23:15:49.72ID:I8iOMD82同意
結局のところ豊臣政権は豊臣秀吉個人の才覚と実績によって成り立っていたに過ぎないと思う
明確な法を定めた江戸幕府と違って裁決のほぼ全てを秀吉の一存で決めていた訳だし
0792人間七七四年
2014/05/16(金) 23:18:31.57ID:H/mn3Klg長い戦国の世を潜り抜けた当時の人間にとっての共通認識
家康が一番強いから家康についた方が丸く治まると思った奴らが東軍
家康さえ束になってブッチめれば後はオレが最強!なノリの奴らが西軍。
西軍勝ってたら今度は西軍同士で王者決定戦始めてただろうな。
0793人間七七四年
2014/05/17(土) 00:41:20.40ID:kfT4XYyw少なくとも福島は徳川が豊臣にとって替わることは認めてない
家康もその力が無いことを分かってるから
部下が増長したことを福島に謝罪している
0794人間七七四年
2014/05/17(土) 07:56:22.23ID:8X4pGTht秀吉に個人としての才覚なんて皆無だろ。
秀吉は直接対決でたかが防衛戦の熊見川合戦で3000人討ち取られるほどの雑魚っぷりを晒していたが
上杉佐竹毛利長宗我部木曽小笠原真田石川水野十河河野大友龍造寺前田
柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって漁夫の利で力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権を作りあげることには成功した。
だが所詮土下座と漁夫の利を得ただけの中身のない傀儡政権なので秀吉がいなくなればさっさと崩壊するのは当たり前の事。対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
0795人間七七四年
2014/05/17(土) 07:58:03.65ID:kYsU/uGy織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入で
ぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多く
あつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
0796人間七七四年
2014/05/17(土) 07:59:10.60ID:N6oEiodv信雄と信孝がいがみあっていたり基地外のようなヌルゲーしか残ってなかったからな
本能寺の変で信長が光秀に殺されて光秀が逆賊の汚名負ってくれたおかげで、主殺しを討つ大義名分を棚ボタ的にいただいたあげく
摂津の諸侯や丹羽や信孝などをはじめ馬鹿みたいに味方が集まってくれたし清洲会議でも大きく優位になって領土を獲得してる。
あげく信雄と信孝も勝手にやりあってくれてたし、勝豊も美濃衆も会戦前くらいであっさり寝返ってたくらい、柴田側は統制が崩壊してたし、
会戦になると前田や不和や金森まで勝手に退却してくれるし、周辺諸大名も毛利上杉木曽小笠原宇喜多大友佐竹結城宇都宮那須皆川佐野真田芦名二階堂
白川結城石川岩城相馬河野十河など悉く秀吉に味方してくれたおかげで、秀吉は他力本願でヌルゲーの誰でも勝てる戦いができただけ。
しかもそんな今川氏真が指揮をとっても楽勝で勝てそうなヌルゲーの戦いですら小牧長久手合戦や熊見川合戦や小田原合戦など家臣をぶち殺されまくったり
300しかいない馬鹿な雑魚城攻めでろくに落せなかったりしてる。
柴田は上杉と交戦が続いてたのに対し秀吉は一応国境画定作業が残ってるとはいえ、
三か国毛利が割譲した上での和議が成立し、宇喜多とも本能寺前から一体化が進められ、もはや親藩的存在だったし
その差でしょ。そもそも単純に国力で見ても、かなりの開きがあるし。
柴田・信孝側からは美濃衆や勝豊などがボロボロ寝返ってるが
秀吉からは寝返りが皆無だし信雄領からも寝返りがなかったことから見ても
信雄よりも信孝領は遥かに不安定な状態だっただろうし。
そう考えると秀吉は圧倒的に運がよく、明智は不運だっただけ。何せ摂津の諸侯とか兄弟の契りしてる中川とか
信孝とか丹羽まで秀吉方に参戦して大軍に膨れ上がったのに対して明智は与力格がことごとく不参加、日和見だしな
山崎合戦なんて最初から勝ったようなもんでしょ。池田・高山・中川ら摂津の諸将は
本能寺前時点で秀吉が光秀との政争勝利の結果から秀吉派軍閥だし中川なんて天正8年時点で兄弟の契り結んでるほどで
光秀側は主殺しの汚名背負ったせいで細川・筒井ら与力連中に背かれ信雄・信孝・丹羽ら周辺諸将も基本みんな敵。
ありえないタイミングで信長が光秀に殺されたおかげで棚ボタ的に主殺しの敵打ちの大儀名分手に入れて
それを利用して次々に勝手に味方が増えたし、信長が殺されてから、わずか1日半でその報を知る棚ボタっぷり。
しかも毛利も都合いいタイミングで即座に難航することなく和議に応じてくれたし
0797人間七七四年
2014/05/17(土) 08:01:09.70ID:ELLCGhNm柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって漁夫の利で力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権だったから
秀吉がいなくなればさっさと崩壊するのは当たり前の事。対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
0798人間七七四年
2014/05/17(土) 08:06:28.16ID:8X4pGTht上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
0799人間七七四年
2014/05/17(土) 08:10:41.73ID:x9EFTUIU確かにそれはいえてるね。
実力でもぎ取った地位では全くないし普通に戦うと
今川氏真でも勝てそうな戦闘条件ですら信雄や輝元にすら大敗するような実力しか秀吉にはなかったから、
そういう、本人の実力からいえば全く不相応の地位にたまたま棚ボタ的に付いただけだし
中身のない傀儡的な政権だからこそ本人の死後あっさり崩壊したんだろうね
結局順当に滅びるべくして滅ぼされただけでしょ。
0800人間七七四年
2014/05/17(土) 08:13:47.29ID:FNXKJDyO秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。
そもそも徳川が体制ぶち壊したとかいうけどぶち壊されるような体制とか諸将の配置にしなきゃよかっただけじゃん
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、秀頼と家康直孫との婚姻 結んで豊臣継承の名分与えたり自分から家康が天下取りやすい状態作っといて
ぶち壊したも糞もねーじゃん
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻を進めている。自分の死後を見据え、最有力大名徳川家との融合を企図したものだ。
秀頼・千姫の間に出来た世継ぎが、徳川家の傀儡になる事は、秀吉が認識していて当然。
実は反徳川的な行動を起こし、豊臣家を滅亡に導いた輩こそ、秀吉の意思に背いた不忠といえる。秀頼・千姫の間の子は世継ぎになるわけで。
徳川の血が、豊臣宗家に組み込まれるわけだけど。実際融合されなかったのは、邪魔をした者がいたから。そしてそのせいで、豊臣滅亡。不忠でしょ。
千姫は正室なので、当然千姫との間の子が世継ぎでしょ。そうなれば、政権における徳川家の影響力が増す
0801人間七七四年
2014/05/17(土) 08:14:45.69ID:KEtDkjSHまた秀吉子飼いで最も恩を受けてると思われる武功派が三成憎しに凝り固まって家康に利用されたのが運のつき。
0802人間七七四年
2014/05/17(土) 08:16:17.95ID:KEtDkjSH安東氏なども家康に許可されていた蔵入地からの流用を止めて領国に引きこもり
奥羽の豊臣公儀となった上杉を家康のために攻めなくなり
最上も伊達も上杉との和睦交渉へシフトしている。
家康に従ってるのは森忠政や忠興のように家康から新知拝領してるような者か遺令に背いての婚姻関係。
そして一番の目的は朝鮮以来の三成憎しなのは明白で
内府たがいの条以来、家康が江戸で味方まで裏切るのではないかと疑心暗鬼になってる中で
西軍の主力が北伊勢に迫る中で三成憎しで、理解不能にも伊勢救援への援軍すら出さずに
三成のいる美濃大垣を目指して北上する福島ら武断派の行動を見ればわかる。
家康が江戸から動かないと断定した広家は楽観論の元に黒田の書状をシカトしまくり
ついには家康は駿河まで来てると大ウソまで付いてるが広家はそれも無視して返事も書かない。
家康の書状には自分への忠誠を喜び私的な徒党作り書状ばかりであり、武断派の思惑とかけ離れているのがわかる。
8/24の福島→秀忠と中山道を進む浅野長政宛でも福島は美濃攻略の報告で秀頼様に良きようにと言ってるし
正則は関が原前には織田秀信の助命を、後には家康に伊奈昭綱の切腹を要求するなど必ずしも家康に従ってないし
10/2の清正→浅野幸長書状でも関が原で悪逆人を討ったのはお手柄と言ってるなどすべて三成が悪いで決着しようとしている。
0803人間七七四年
2014/05/17(土) 08:49:51.02ID:67RtnJN1でも正則と清正は秀吉に禁じられてた徳川家との婚姻を真っ先に結んでる
家康の言いなりに収まるつもりはなくても豊臣家や秀吉への忠誠はほぼ無かったのではないだろうか
0804人間七七四年
2014/05/17(土) 08:50:21.61ID:Zb/QIWu5家康を討つことには大義名分が少なく、家康が会津討伐に向かうため畿内を離れたというチャンスに機械的に
反応してしまい、自陣営の体制を構築する前に挙兵してしまったこと。
実態としては、明智光秀の本能寺の挙兵に近いものがあった。
会津征伐に飛びつかず、もっとじっくりと待つ必要があったと思うよ。勿論その場合は家康も着々と体制がためをしてくるが、
そこは政治力の勝負だ。 むしろ政治力の勝負を諦めたために関ヶ原がおこったとも言える。
そもそも合議の結果何かを決定するのは家康の役割だし、前田は豊臣家にすら無断帰国したのだから謀反を疑われて当然だし
上杉も穏便に処理しようとした家康の提案を蹴って、武装して割拠状態になったのでこれも謀反とされて当然
島津や毛利や宇喜多の家中の争いを喜んだ?そんな証拠は一切ない。というか介入すら最低限だ。
北政所にいたっては自分から西の丸を家康に譲ってるし大名への加増は三成ら奉行衆もそれこそ「合意」してる
ついさっきまで秀吉という専制独裁者が君臨していた政権において合議を破った専制独裁者という非難そのものが馴染まないんだよ
秀吉自身は一度も合議による政権運営なんてしたことがないから
普通の大名からすれば誰も見たことがない体験したことがないものを破ったと言われてもピンとこない
それに三成の家康批判は一歩間違えれば秀吉批判にも取られかねない危険な主張だ
三成が家康に名前を変えて秀吉の専制独裁を批判していると受け取れば豊臣のため三成を討伐することに何も問題はない
そもそも徳川が体制ぶち壊したとかいうけどぶち壊されるような体制とか諸将の配置にしなきゃよかっただけじゃん
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり自分から家康が天下取りやすい状態作っといて
ぶち壊したも糞もねーじゃん
0805人間七七四年
2014/05/17(土) 09:11:21.62ID:3a98mJi+秀吉が豊臣姓を大盤振る舞いしたせいで。
0806人間七七四年
2014/05/17(土) 10:10:45.83ID:/6ze8UHT政権発足から十年そこらで幼君だけ残して死んだらそりゃ潰れるよ
0807人間七七四年
2014/05/17(土) 10:36:16.87ID:8X4pGTht秀吉は直接対決でたかが防衛戦の熊見川合戦で3000人討ち取られるほどの雑魚っぷりを晒していたが
上杉佐竹毛利長宗我部木曽小笠原真田石川水野十河河野大友龍造寺前田
柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって漁夫の利で力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権を作りあげることには成功した。
だが所詮土下座と漁夫の利を得ただけの中身のない傀儡政権なので秀吉がいなくなればさっさと崩壊するのは当たり前の事。対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
0808人間七七四年
2014/05/17(土) 10:36:54.81ID:LmJueQ/5織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入で
ぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多く
あつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
0809人間七七四年
2014/05/17(土) 10:37:49.42ID:oTEZVCoO豊臣姓はあげまくってたのは家康をいやいや征夷大将軍に任じた時期の朝廷が
家康牽制のためにつぎつぎあげ始めたんだよ。
たた豊臣宗家は摂関家だけど、清正らにあげた豊臣姓には家格向上の意味は付与されてない違いがある。
とうぜん家康にも摂関家の家格を朝廷は意地でも贈らなかった。
0810人間七七四年
2014/05/17(土) 10:43:58.82ID:Zb/QIWu5雑魚の信雄に135000の大軍で挑みかかって信雄領国は会戦早々尾張・美濃・伊勢・伊賀ともに寝返りの連鎖で崩壊状態だったほど
雑魚統制しかなかったのに秀吉方はいざ戦うと雑魚の信雄に1万人殺されたり
戸木浜田二重堀松ノ木東駒野河波蟹江長久保神戸など各城の攻防で奪回されたり蹴散らされたりするアホっぷりだったじゃん。
結局全く雑魚の信雄に歯が立たずあれだけ規格外の兵力差と、徳川の領国の崩壊状態(寝返りの連鎖や軍事機密露見や、
天正11年からの飢饉への対策として出した徳政連発)にも関わらず秀吉は家康や信雄に「ワシに従ってくれ〜」と必死に土下座して
母や妹を献上したり、関八州240万石の大領を与えなくてはいけないほど、家康に土下座状態だったから
豊臣家はあっさりと滅ぼされたんだろ。
結局事の始まりは秀吉が家康どころか雑魚の信雄に蹴散らされまくったせいで豊臣家を滅ぼされたんだから
秀吉が雑魚の信雄に大敗して、家を滅ぼされたって事だろ。
0811人間七七四年
2014/05/17(土) 10:52:27.37ID:x9EFTUIU本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や家康には到底敵わないため
信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。
0812人間七七四年
2014/05/17(土) 11:01:13.30ID:OEv7p5k3>そして一番の目的は朝鮮以来の三成憎しなのは明白で
それなら西軍は三成を追放して2大老3奉行による連合統治を全面的に打ち出せばよかっただけ
官位も石高も兵力も戦経験もたいしたことがない三成など結成後の西軍にはまったく不要な存在だった
ところが西軍はあろうことか三成を前面に押し出し現役の大老・奉行の多くが後ろに隠れるという暴挙を犯した
これでは西軍は三成の私的な復讐と返り咲きのためにあると認めたも同じであり
東軍大名を刺激して結束させたばかりか西軍大名の多くを疑心暗鬼にさせて士気を崩壊させた
さらに三成が関ヶ原にでしゃばって戦を仕切ろうとしたために三成の謀反を糾弾する東軍の主張の正当性が確定し
三成の舎弟たる文治派を除いたほとんどの西軍大名は戦闘不能に追い込まれた
西軍が敗北した原因は何もかもが三成の存在にあることは疑いようがなく
豊臣政権が崩壊した責任は全て三成が負うべきであることは火を見るより明らかだった
秀吉は死ぬ前に三成を妻子もろとも処刑しておくべきだった
0813人間七七四年
2014/05/17(土) 11:06:32.30ID:nDO0TCYO織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入で
ぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多く
あつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
0814人間七七四年
2014/05/17(土) 11:06:56.92ID:nDO0TCYO敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
0815人間七七四年
2014/05/17(土) 11:07:29.40ID:XGBZVAU3柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権だったおかげ。
所詮自力で取った天下じゃないのであっさり徳川に敗戦し潰されたのが史実
秀吉が広範な版図支配下においたといっても所詮一時期だけだしなぁ
所詮徳川に木っ端微塵にされて滅亡した雑魚でしかない。
秀吉が統率87なら他の有力大名なんか200か300くらいないとおかしい
何せ雑魚に蹴散らされる事で有名な信雄・氏政・輝元の日本三大凡将に大敗したレベルだし
秀吉が城攻めうまいってどこから出た話なんだろうな
大嘘もいいとこなんだが。
松ノ木・戸木・三木とかめちゃめちゃ苦戦してるし
小田原1200程度に手も足も出なかったレベルなのに
結果でいえば豊臣家は滅ぼされたから秀吉は能力0だろ(死んだ後とかどうとか関係ない。結果は結果)
光秀に殺されて死んだ信長はいうまでもなく能力0だがな
基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね
近世成立記の大規模戦争86ページ 信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
83ページ 公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
0816人間七七四年
2014/05/17(土) 11:09:58.69ID:XGBZVAU3というか、秀吉の毛利宛書状とか見ると、子供の頃からかなり重要な立場として織田家に仕えていたようだし
一次資料初見も重臣しか名をつらねない領土安堵状に名前添えてるのが見える。
秀吉の譜代に尾張やその近辺の美濃などの出身者が多いのも、秀吉が尾張一国時代からかなりの基盤持ってた証拠で、太閤記の出世話がデタラメばかりなのがわかる
室町期からの旧守護勢力なんて衰退してて次々新興勢力によって倒されてる時代に
昔からいるからどうとか短期間で成ったからどうとか語るとかアホですか。
家が成ってからの年月と、一人ひとりの仕えている武将の忠誠心とどう関係あるかちゃんと論じてくれよ
昔から、自分の親の親の代から何代も仕えてようが、自分の代になってやっと子飼いとして仕えようが、忠誠心も
何も変わらん
つうか昔から仕えてる家臣の方が変に自立心強くて言う事聞かなかったり謀反起こしたりしてるだろ
松平の譜代なんて三河一向一揆で家中半分に寝返ったり武田の譜代系も言う事聞かなかったりしてるだろうが
自分の代になって士官した子飼いなんて家臣として一番扱いやすい部類だわw
0817人間七七四年
2014/05/17(土) 11:15:17.93ID:13avVUqs歴史が深いとか名家とか何のアドバンテージにもならんだろ
甲斐は鎌倉公方や古河公方などの関東勢と将軍との権力争いの修羅場だったからな。
双方ともどもの後ろ盾を得て代理戦争してたから守護代や国人どもが暴れまわり混乱に拍車がかかった。
この管轄外へも影響力を及ぼそうとするやり方には関東管領とそれに協力する将軍側の駿河今川氏も困惑していた。
>>308
信重の跡を継いだ武田信守は5年で死亡し、(上杉禅秀の乱での武田の失敗を機会に立場を逆転した跡部氏)
実権を持つ守護代跡部駿河守明海・上野介景家親子に暗殺されたと言われている。
さらに飢饉や疫病の蔓延、一揆の発生が多くなる時代へ突入した武田信昌が継ぐと穴山氏、大井氏、今井氏、小山田氏ら
国人層もどんどん力をつけてきて完全な甲斐戦国時代へ突入。
家督を信縄に譲った後に信昌は次男の油川信恵への家督相続を考え始めて、それぞれの国人が彼らを擁立し内乱発生し
混乱に乗じて北条早雲んぽ甲斐進攻まで招く。
東郡の栗原氏、西郡の大井氏はもはや武田氏の統制から離脱し穴山氏と離合集散を繰り返し
おまけに明応の大地震まで勃発し一揆は頻発し甲斐乱国とまで王代記に書かれる。
こんなむちゃくちゃな甲斐国を継いだのが信虎。もう国内政治内政を無視したとんでもない人だったから
甲斐国史上最大の暴君とされ、武田氏は怨嗟の泥まみれだった。だから甲斐国主の座を追放されてしまった。
0818人間七七四年
2014/05/17(土) 11:16:15.06ID:5hXtWUQQ母の大政所の父は、朝廷で帝の側近として重用された荻中納言だということは判明してる
天皇の信頼あつく、朝廷の任を終えたあと、尾張中村の荘園を領土として拝領した
そしてそこで土着して名門豪族として栄えた
0819人間七七四年
2014/05/17(土) 11:19:00.36ID:5hXtWUQQ新興勢力は逆に子飼いの家臣や自分が好きで登用できるような連中一杯持てた時点で有利さが全然違う。
両上杉と北条、大内尼子と毛利なんかがいい例
厳密に言うと在京守護である武田信虎とかは
家臣の掌握なんてまったくできてなかったからね。
しかも在京生活費を甲斐から搾取してるだけだから恨みすら買ってた。
同じ在京守護でも越後守護上杉房定などは在京を止めて越後へ帰国し
守護代長尾邦景・実景父子を攻め、邦景は自害させ守護権力を回復させ、
息子の上杉顕定を関東管領にし事実上の関東王状態になってるからね。
守護でも現地に滞在してるタイプはまだマシ。
ではなぜ、守護が在京を止めたのかと言うと、これは室町幕府が全国支配を放棄したから。
幕府は公田段銭賦課方式を止めて、一国ごとに百貫を賦課する一国百貫賦課方式へ変更。
これは百貫さえ幕府に納めれば、あとはいらないから好きにしろというもので、
守護による一国支配の可能性を開いたものだった。そこで守護は在京を止めて
権益確保のために任国へ下向する者が現れていった。
そして実質的な支配をして税をネコババしていた
守護代と国人の癒着の関係から現地対立が生まれていく。
上杉房定は速攻で守護代を排除して守護による支配を確立。
在京守護やってたら尼子や武田がやりたい放題荒らし回って、在京打ち切りするハメになった大内義興。
三管領の一人として在京やってた斯波氏も畿内と任国との距離が遠かったので速攻で崩壊。
と言うか斯波氏は行政府自体を任国に作ってすらいなかった。
尾張は織田、越前は朝倉、遠江は今川にやりたい放題され、
最後は今川氏親に斯波義達が捕虜にされ、事実上崩壊。
斯波には公銭方や段銭方と言った任国の守護行政府が存在しなかった為、
簡単に下克上が出来て国が盗めた。
国人たちが重視する家格の差もあって守護代が守護権力を凌ぐことが出来ず、
守護代などが下克上に失敗敗北する長尾為景や斎藤道三や近江国人連合や長尾景春といった東国でよくあった、
いくら家格を上げようと必死になっても結局、権威で守護行政府を上回れず、下克上に失敗することによる困難に直面することが織田や朝倉には無かった。
言わば管領家の守護代が、家格をあげる努力をせずに割と簡単に主を傀儡に出来ることは特質だろう。
畿内近くに任国があるものでさえ、細川には三好、畠山には遊佐などいずれも家格上げ努力などしておらず明らかである。
0820人間七七四年
2014/05/17(土) 11:28:27.03ID:8X4pGThtあと関が原直後には毛利の厳封が決まってるのに厳封確定になった時点で厳封する事が決まった領域を一時的に持ってた事をもって「領土は最大」などとはいわん
あと8/10石田←佐竹書状で「輝元は家康が到着したら三万を召し連れて出陣する」と書いており西軍方は家康との本決戦にあたって総大将であり最も巨大な軍団を持ってた輝元を
主力として東軍を迎撃しようと考えていたが当の輝元が再三に渡る石田ら西軍の援軍要請を無視しまくって本決戦で敗れる理由となったわけ。
尾張口に大軍で美濃方面を攻めに来てるのにそれ無視して援軍要請も無視して
伊勢湾とか四国とかどうでもいいところ攻めてるのにその作戦が真っ当とかないわ
戦力下手に分散してその一部隊が敗れたら戦局が大きく傾くなんて普通の脳味噌の人間ならわかることだし事実そうなったし
家康との直接対決で西軍方の一部隊が敗れたらもう手遅れで降伏するしかなくなるのが毛利
事実そうなったし自国の領土拡大どうこういうなら総大将としての地位を最大限生かして東軍との主力決戦で勝利し
大将としての権力を確立していけばいいだけ。
長期化するシナリオでも最低限福島やら池田やら東軍方諸侯は確実に美濃口で立ち往生させないとどんどん味方が減るだけだし
さっさと石田ら西軍諸侯の要請通り美濃に大軍送ってりゃよかっただけ
西軍総大将で最も規格外の大軍持ってるにもかかわらず目的が火事場泥棒で
軍分散させまくったあげく東軍の尾張口の進軍にも対応せず石田らからの要請無視して
大敗し大厳封くらうんだから相当馬鹿だな
伊達最上堀らに囲まれてた上杉と違って毛利は兵力的にも状況的にも十分すぎるほど東軍ぶち破るチャンスがあったのに
むざむざ無駄にして何もしないまま大厳封
西軍総大将として存在しながら本決戦に負けたら勢力拡大も火事場泥棒も糞もないのにクズすぎる
0821人間七七四年
2014/05/17(土) 11:29:11.83ID:FMji+nwn外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。
こんな体制じゃあっさり崩壊して当然
0822人間七七四年
2014/05/17(土) 11:34:46.72ID:TB/lq9SI当時、朝鮮からの撤兵指揮の為に九州にいた三成は含まれないどころか三成が帰ってくるや、
違背した婚姻である忠輝と政宗の娘の 五郎八姫を容認するかのように政宗を茶会に呼んで歓待してる。
というのも忠輝の母の於茶阿は家康の寵愛を受け、徳川家の奥向けの一切を支配しており、
強い政治力を持っていたがその兄の山田上野介は三成の重臣であり
兄の子の山田隼人正は三成長女と婚姻していて、家康と三成は於茶阿方を通じて姻戚関係であり、
浅野家譜と慶長見聞録にも利長らの家康暗殺を 増田らが通報したのは三成の差し金だと記され、
三成の邸にいた家康がより安全な三成の兄の邸を提供され退避してる。
その後に、北政所を西の丸から追い出して、そこに天守を築いて家康は移り住んだ。
佐和山隠居の三成が武断派から襲われないように
護衛に結城秀康を付けたりしており(三成は帯刀していた正宗を護衛感謝の証に秀康に贈ってる)
白川亨氏も家康暗殺に加わったとされた 浅野長政が所領の甲斐蟄居ではなく、
武蔵府中に蟄居にさせられた事と対比して、浅野より姻戚関係にある三成の方を家康は信用していたと指摘してる。
関が原後に親戚の孝蔵主が甥を茶阿に送り届け 息子忠輝の家老にして甥を取り立ててる。
三成が家康との姻戚関係を重視して協調していたのがよくわかる。
輝元に唆された大谷に風聞を流されて、何時の間にか三成は西軍に巻き込まれていた。
ただ三成→直江書状が偽書状でなければ、
三成と直江が挟撃策を狙っていたと認めざるを得ない。
0823人間七七四年
2014/05/17(土) 11:43:10.53ID:OEv7p5k3家康から「養子にした秀元にそろそろ所領をやったらどうか」と言われただけで激怒した毛利が
家康以上に口出し介入が大好きな文治派と一緒に戦うなどそもそも不可能だった
まして文治派は家康とは比べ物にならないくらい地位も力も低い格下の存在に過ぎない
そんな連中から「毛利の戦略は間違っている、自分の言うことを聞いて東進しろ」と言われれば
家康に対するよりも遥かに巨大な怒りが爆発することは明白だった
毛利の逆鱗に触れた文治派が関ヶ原で破滅に追いやられたのは必然の結果といえる
そもそも毛利が西軍総大将になった動機が家康への怒りであることを考えれば
文治派への怒りを表すために本決戦に負けることは首尾一貫した思想といえるので問題ない
むしろ悪いのは格下の存在であるながら毛利への敬意が足りなかった文治派の方だろう
0824人間七七四年
2014/05/17(土) 11:58:45.73ID:3a98mJi+羽柴は姓じゃなくて苗字だよ。
豊臣本家も苗字は羽柴のまま。
羽柴もらった奴は自動的に元が源氏だろうが藤原だろうが
公式には豊臣朝臣扱い。
0825人間七七四年
2014/05/17(土) 12:20:04.83ID:oTEZVCoO擬制家父長制度としてね。
0826人間七七四年
2014/05/17(土) 12:26:57.84ID:4tbCOTaO0827人間七七四年
2014/05/17(土) 12:56:14.58ID:/6ze8UHTつまり秀吉は戦が苦手というハンデを持ちながらも積極的な外交政策と幸運をモノにする機知で天下を掌握したということか
戦争は得意でも肝心なところで負けて滅亡する家よりよっぽど有能だな、うん
0828人間七七四年
2014/05/17(土) 13:20:26.78ID:6q7LlDM6秀吉の場合は数でごり押ししても雑魚の信雄や輝元に全く勝てなかったり
防衛戦ですら家臣を殺されまくるほどの雑魚だったが
土下座能力はチートだったので信雄や顕如や家康や朝廷に土下座しまくって和議までこぎつけただけ。
顕如に11月に土下座したり家康の下に信雄送ったり朝廷に献品しまくったり土下座攻勢をかけまくってる。
結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。
秀吉は必死に家康に土下座して、母や妹を差し出したり関八州260万石やったり高い官位と秀吉縁戚の地位やったりして
気を使いまくってたから、慈悲深く、温情あふれる家康は、秀吉生前中は、お情けで秀吉を生かしてやっただけ
秀吉は完全に土下座状態だったからね
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
しかも関東八州250万石まで家康にプレゼントするヘタレっぷり。
0829人間七七四年
2014/05/17(土) 13:22:23.00ID:6q7LlDM6>>当時の秀吉は勢いに乗って背伸び状態の不安定な勢力
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/201
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/203-210
>>家康と戦った1983年あたりの秀吉は、全方位敵
>>強力な勢力を同時に敵に回す状況
当時の秀吉の状況…自領は北は北陸・東は尾張口数郡や美濃ほぼ全域伊勢の大部分伊賀全域・西は備中・伯耆まで900万石程度の広範な版図を抱え
上杉・毛利・宇喜多・木曽・佐竹・結城・宇都宮・十河・河野らを従える。この中で宇喜多は秀吉の親藩で、本能寺前ですら秀吉領との一体化が進められてた程
直轄領に近い関係。十河や河野も本能寺前から対長宗我部の関係で相当密接な主従関係にあった。
上杉も毛利もとっくに秀吉に臣従してる。これは秀吉の要請に従って上杉が新発田攻めを後回しにしてでも秀吉からの要請優先で信濃攻めを行ったり
毛利が秀吉の要請に従って四国に派兵してる事からわかる。
上杉・毛利・宇喜多・木曽・佐竹・結城・宇都宮・十河・河野らは、秀吉の要請によって敵方の徳川・長宗我部・北条などと交戦したり長久手に援軍送ったりまでしてる。
北条は関東に釘付けで、出てくる気配なしどころか家康の背後を襲う風聞すらあり、信濃川中島にも挙兵してきたため、
家康は軍のほとんどを領内に残して8000程度しかつれてきてない(当代記など)
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/91-92のように、
秀吉は家康や信雄を潰す気満々で主力135000を率いて楽田までやってきてるし
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/93-95のように
協力な敵を同時に敵に回してたのは家康であって秀吉はその頃900万石近い自領に加えて
上杉・毛利・宇喜多・木曽・佐竹・結城・宇都宮・十河・河野と同盟者だらけで超絶ヌルゲーだった。
実際紀州一揆対策には中村6000しか残してなくても、撃退できてるから、その後岸和田には誰も派遣してないし「
それ以外の方面の敵(長州我部など)は他の同盟者が抑えているどころか、秀吉なしでも優勢に戦ってるほどだったから、
秀吉は対信雄と家康に全力で挑めたし、実際に主力135000でやってきて攻めまくってる。
>>徳川家との殺し合い長期化で、(戦略的不利な状況で)同時多方面作戦を強いられていたら
(戦略的不利な状況で)同時多方面作戦とか相当妄想だな。秀吉は諸城にほとんど抑えをおかなくていいくらい
同盟者が多く、岸和田ではわずか6000の中村が一揆勢を撃退とかやってるし
長宗我部なんてまだ秀吉方の十河や河野や四国に派兵してきた毛利に苦戦して、70万石程度の四国制覇すらできてないじゃんよ。
逆に家康の方が上杉対策や、関東に乱入する風聞の北条対策で大量の兵力を領内に残してたから、よほど長期戦不利だわ。
結局秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や家康には到底敵わないため
土下座能力はチートだったので 信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。
0830人間七七四年
2014/05/17(土) 13:23:32.16ID:3a98mJi+戦果を政治的に活用できない奴はどこまでいっても三流。
0831人間七七四年
2014/05/17(土) 13:25:32.75ID:SFWVsR30まあ秀吉は完全に棚ボタだっただけ
毛利軍が秀吉の口から出任せ口述詐欺に見事ひっかかってあれだけの大チャンスに追撃もせず高松を明け渡して退却
普通に考えりゃ熊見川や美作攻防の2の舞で毛利に瞬殺されててもおかしくない状況だったし、秀吉に騙された毛利のアホさ加減と明智軍の兵力分散と
山崎での隘路での迎撃を捨てた恩恵にすぎない
そう考えると秀吉は圧倒的に運がよく、明智は不運だっただけ。何せ摂津の諸侯とか兄弟の契りしてる中川とか
信孝とか丹羽まで秀吉方に参戦して大軍に膨れ上がったのに対して明智は与力格がことごとく不参加、日和見だしな
山崎合戦なんて最初から勝ったようなもんでしょ。池田・高山・中川ら摂津の諸将は
本能寺前時点で秀吉が光秀との政争勝利の結果から秀吉派軍閥だし中川なんて天正8年時点で兄弟の契り結んでるほどで
光秀側は主殺しの汚名背負ったせいで細川・筒井ら与力連中に背かれ信雄・信孝・丹羽ら周辺諸将も基本みんな敵。
ありえないタイミングで信長が光秀に殺されたおかげで棚ボタ的に主殺しの敵打ちの大儀名分手に入れて
それを利用して次々に勝手に味方が増えたし、信長が殺されてから、わずか1日半でその報を知る棚ボタっぷり。
しかも毛利も都合いいタイミングで即座に難航することなく和議に応じてくれたし
0832人間七七四年
2014/05/17(土) 13:26:07.26ID:u/qB/Uux備中〜京都までの距離で信長が殺されて一日半程度で
情報が正確に伝達し、真偽も確かめず備中陣を引き払ってるなんてありえないし
秀吉が最初から画策して首謀者として信長を殺しただけ。
毛利との和睦は既に本能寺の変の時に成ってて
後は備中での宇喜多領と毛利との国境線画定作業が残ってただけだし
攻め取った丹波には秀勝?だったかを置いて、直轄領化があっさり実行できたのに対し
勝家の方は織田家時代の軍閥化がされてない、織田家旧来の寄騎関係にすぎない
後進軍隊だったからその弱点がモロに出ただけでしょ。
明智や羽柴は軍閥化が終了してたし、早くから陣立書や、直轄支配化、直接命令型の統治形態や軍隊が持てたけど
勝家は家康の信濃支配みたいな、弱い頼子寄親に頼った軍隊だっただけ。
前田や金森は信長直臣で家老柴田を監視する役目で付けられてるのであり もともと柴田の配下ではない。柴田に付与された与力は同僚じゃない。
信長直参の母衣衆出身者は超エリートで信長の指揮命令系統で動くのであり家老の柴田の命令なんて受け付けない。信長が柴田と相談するように命じてるから
柴田との会議で越前経営に同席するのであって柴田が彼らを家臣扱いすることは信長を軽視してることになる。
柴田・佐々・前田らはそれぞれに軍閥化したとするべきで賤ヶ岳の戦いではその弱点が見事に顕れた。
一方の光秀や秀吉は軍閥化に成功しており信長の仇討ちをスローガンに
摂津にいた池田恒興・高山・中川ら都市国家(都市軍閥)を同陣に誘い光秀軍閥を打ち破り指導力を確立した。
(賤ヶ岳の戦いで戦死した中川清秀について中川氏年譜は秀吉と中川が天正8年6/5に兄弟の契りをしてる書状がある)
0833人間七七四年
2014/05/17(土) 13:26:39.74ID:ZheCX2PZ兼見卿記12/21条で江州長浜柴田伊州(勝豊)、羽柴与一味、然間羽筑同可濃州へ下向
濃州稲葉良道、氏家直道、羽筑ニ一味云々と書いてて
勝豊は簡単に秀吉に篭絡されてるのがわかるから実際勝家からすれば全くといっていいほど
清洲会議での長浜領獲得が役に立たなかったのは間違いない。
清洲会議の結果については多聞院日記7/7条でも大旨ハ羽柴かままの様也と書いてるし
柴田は上杉と交戦が続いてたのに対し秀吉は一応国境画定作業が残ってるとはいえ、
三か国毛利が割譲した上での和議が成立し、宇喜多とも本能寺前から一体化が進められ、もはや親藩的存在だったし
その差でしょ。そもそも単純に国力で見ても、かなりの開きがあるし。
柴田・信孝側からは美濃衆や勝豊などがボロボロ寝返ってるが
秀吉からは寝返りが皆無だし信雄領からも寝返りがなかったことから見ても
信雄よりも信孝領は遥かに不安定な状態だっただろうし。
秀吉は対柴田戦時自領600万石に加え宇喜多、毛利、上杉、信雄も味方で稲葉、勝豊、前田も味方につけられた。
この状況で秀吉と兄弟の契りを結んでた中川が殺され前田が兵を引くまで均衡を崩せず、しかも撤退中の佐久間盛政や柴田勝政を背後から大軍で襲撃して逆に撃退されるってどんだけ戦下手なんだよと
x勝豊や稲葉や信雄が早々秀吉に篭絡され、佐々が対上杉で越中から動けなかったにもかかわらず
秀吉と兄弟の契りを結んでたほど関係が濃密な中川が防衛戦で殺されてるし
柴田勝政や佐久間盛政が寡兵で撤退中を背後から秀吉が大軍で強襲したら逆に反撃され、撃退されるほど。
結局あれだけの規格外の兵力比がありながら前田や不破や金森らが兵を引くまで一進一退だったし
そもそも勝家の軍は軍閥化がされてない、織田家旧来の寄騎関係にすぎない
後進軍隊だったからその弱点がモロに出ただけ。
明智や羽柴は軍閥化が終了してたし、早くから陣立書や、直轄支配化、直接命令型の統治形態や軍隊が持てたけど
勝家は家康の信濃支配みたいな、弱い頼子寄親に頼った軍隊だっただけ。
勝家は、賤ヶ岳合戦で寡兵にもかかわらず秀吉方が構築した超絶堅固な塹壕陣地に向けて
猪突猛進で突撃して、しかも寡兵で相手を押しまくってたんだよな。
もうちょい、冷静に策を練れる武将が柴田方にいたら圧勝してたかもしれん。
0834人間七七四年
2014/05/17(土) 13:27:26.70ID:I9zBbBIV毛利と秀吉の和平交渉が運よく成ったから備中を引き払っただけだし
情報の真偽を確かめる事なく即座に行動を起こしたのは秀吉があらかじめ計画した証拠だろ。
ただでさえ備中京都間をわずか1日半で情報が駆け抜けるというありえない事態が起きてしかもその情報を秀吉は鵜呑みにしてるわけで。 。
秀吉の通った高松〜播磨間は味方や秀吉策源地播磨の領国内のまっただ中なのに
事前の準備がないも糞もない。秀吉が変に備えて事前に準備を行っていたと書いてる学者だっていくらでもいるわけで。
秀吉は10日かけて200キロを走破しただけで「大返し」なんて大袈裟な誇張のつく芸当なんてやってないし
柴田も信雄も信孝も丹羽も池田も中川も細川筒井滝川など、明智軍12000程度以外全て敵。
最初から明智単体での謀反なら成功するはずのない愚かな芸当としかいいようがないわけ。
秀吉はその当時で長浜播磨但馬因幡備前美作備中淡路とすでに200万石級の大大名(宇喜多は直家死後幼君になって
秀家を擁する秀吉との一体化が一層進められていた)
さらに摂津の諸将も秀吉が光秀との織田家中での政争勝利から秀吉方軍閥で、中川なんか天正8年時点で兄弟の契り結んでる
大返しなんていわれるほどの大袈裟な芸当やってないし、軌跡の3年なんて事も全くやってない。ただ織田家が、光秀に当主と嫡男を殺されたせいで無主状態になった所を
主君を殺した敵打ちの大義名分と三法師の後見役という立場を利用して織田旧臣たちを味方につけるなど火事場ドロしただけ。
0835人間七七四年
2014/05/17(土) 13:28:32.43ID:SiJ1Vzsk単体で謀反起こしても主殺しの汚名を負って自爆するだけな状況で単体で実行とかありえんだろ。
秀吉への情報伝達スピードと、それに対する秀吉の行動(情報の真偽を確かめずすぐ行動)から考えて、
単純に光秀と秀吉が共謀で信長を殺したが、秀吉が光秀を裏切って光秀を主殺しの悪人に仕立てあげただけでしょ。
ようは信長が無防備な状況の時が分かればいいんだから、秀吉が信長の「御動座」を要請してた
中国攻めの援軍の時期に狙い撃ちすればいいのだから、その時期は秀吉次第で操作可能だろ。
細川や筒井は当初は、協力する予定だったかもしれんし言ったかもしれんが信じなかったってだけじゃないの。
信孝や細川から見ても所詮光秀は主君を殺したことには変わりないし
直接的に手を下した事で100%犯人である事が確定的な光秀の言う事を信じるか
関わっている可能性があるだけで、全く証拠も0で、何より味方がうじゃうじゃ多くてさらに増えている
主殺しを討つ大義名分掲げて京にやってきた秀吉の言う事どっち信じるかって話になるだけだし
0836人間七七四年
2014/05/17(土) 13:29:04.74ID:HbbWB+uN空き家に財宝があるのをコソドロするくらい
空きやから良い距離にあって、把握していれば誰でも簡単にできる。
だが空き屋からはるか遠い場所にあったり
自分の家で揉め事が起きたり、他の家の人間と喧嘩になったり命狙われてる場合はそれができない。
織田や豊臣の場合は空き屋から程よい位置にあって、自分の家が相当裕福だったから
楽勝でコソドロできただけ。
信長や秀吉は地の利や自国の国力に馬鹿みたいに恵まれてたからね
道三・義龍・龍興と三代続けての内紛とクーデター騒ぎで弱体化しきった斉藤
木造・長野・神戸・関・北畠など完全に内紛で弱りきった伊勢。
遠州騒乱と松平独立で弱体化しきった今川
観音寺騒動と対浅井の敗戦で極度に弱体化しきった六角
三好や松永らの反逆で権威が落ちきり信長に助けを求めてきた足利将軍家
守護の赤松・小寺・別所など衰退した弱小勢力しかいない播磨但馬丹波。
石高がわずか12万石しかない摂津
0837人間七七四年
2014/05/17(土) 13:29:58.64ID:SiJ1Vzsk斉藤…道三・義龍・龍興と三代続けての内紛と幼君で混乱しクーデター騒ぎで弱体化しきったまともに抗戦するものもなく勝手に自落
伊勢… 木造・長野・神戸・関・北畠など完全に内紛で分裂、自壊
今川…たまたまおきた遠州騒乱と松平独立で極度に弱体化
六角… 観音寺騒動と対浅井の敗戦で極度に弱体化、信長の斉藤攻めや上洛戦では信長に大いに協力
足利将軍家… 三好や松永らの反逆で権威が落ちきり形骸と化し信長に助けを求める
播磨但馬丹波…守護の赤松・小寺・別所など衰退した弱小勢力しかいない
摂津… 石高がわずか12万石しかない
浅井…もともとは織田方で上洛戦や斉藤攻略などで信長を大いに助ける。石高はわずか10万石程度
波多野…石高は10万石以下。
上杉…謙信死後の御館の乱や新発田の乱で自爆崩壊、葦名・伊達も協力して新発田支援
武田…勝頼の失政自爆と外交失敗で自爆、甲江和与反故の騙まし討ちにかかり、防衛体制解除
0838人間七七四年
2014/05/17(土) 13:30:22.95ID:SiJ1Vzsk尾張チート57万石+全国ダントツトップの朝廷への献金額+大垣城+刈谷の水野分まであるので
計75万石程度はある。
そもそも信長が大名への返礼で虎や豹の皮や絹織物と言った唐国からの輸入物ばっかり贈ってる時点で経済的屈強さを物語ってる。
今川戦にしたって天文23年には信長は斎藤軍の援軍をもらい、知多半島の尾三国境にある村木城を奪い、
お隣の刈谷城の水野の安全保障を示すことで知多半島戦線を優位に進めてる。
つか発生年代からして超デタラメな桶狭間の戦いって捏造軍記だろ。
後世に作りだされた写し以外の原本確認できる一次史料からわかるのは義元が不慮になったと書いてあって、
思いがけない突然死があったと書いてるだけで、ムリくり桶狭間の戦いと結びつけているだけだし。
そもそも米による収入以外に商業による上りと税関収入がある。
信長の祖父の信貞が勢力を拡大させたのは木曽川と伊勢の通商路の津島社とその門前町と港を支配できたから。
そして信秀も熱田社とその門前町と港を支配し伊勢と知多半島に渡る商業圏を手に入れたから。
祖父や父によって二大商業圏を手に入れていたことで織田は抜きん出た国力を持つ強国を成立させていた。
それは朝廷への圧倒的献金額でもはっきりしている。
博多を押さえさらに中国との貿易をしていた大内ですらカスレベル。
斉藤が三代続けての内紛や幼君での混乱・クーデター騒ぎで弱体化しきっててまともに抗戦するものが皆無で自落していったし
義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけ。
その上さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてただけ。さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になる。
信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年に 十河一存 斉藤義龍
1562年 三好義賢
1563年 細川晴元 細川氏綱 三好義興
1564年 安宅冬康 三好長慶
と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる
0839人間七七四年
2014/05/17(土) 13:31:56.08ID:ELLCGhNmその証拠として播磨に天正5年に派遣されて信忠や明智や滝川らの援軍・尼子残党・宇喜多・南条の離反とお膳立てされまくった上に毛利方がろくに播磨口に出てこない
超絶ヌルゲーの環境ですら播磨と但馬の攻略に3年も費やした雑魚秀吉でも指揮官として採用されてるし
丹波攻めに2回も失敗して赤井の死後にようやく攻略成功した明智や上杉に蹴散らされたり、御館の乱やそれに続く内戦と、新発田の乱で極度に弱体化した中、織田からは
佐々長縄・神保長住・長連龍や斉藤の援軍らが派遣されて、上杉の内戦の最中に、能登や越中をコソ泥できたのにその後自力ではろくに進軍できていない柴田でも指揮官として登用されてる
0840人間七七四年
2014/05/17(土) 13:32:29.72ID:SiJ1Vzsk織田は超絶ヌルゲーの戦がほとんどだからな
滋賀の陣はマジで織田軍が武田に大破され、浅井朝倉に圧倒されまくって滅亡寸前のところだったけど
他は雑魚部将でも楽勝で勝てるような戦しかしてない。
0841人間七七四年
2014/05/17(土) 13:32:57.05ID:ELLCGhNm織田ほどヌルゲーの戦ができた大名はいない。
国力に応じて動因されるのが兵力であり織田が家臣への内政丸投げだの織田と家臣が関係なく主従関係結んでいただの
限界を超えた動員をかけていただの、攻略目標のいち早い攻略を求められてただの、池上くらいしか唱えていないただの妄想。
その証拠に播磨に天正5年に派遣されて信忠や明智や滝川らの援軍・尼子残党・宇喜多・南条の離反とお膳立てされまくった上に毛利方がろくに播磨口に出てこない
超絶ヌルゲーの環境ですら播磨と但馬の攻略に5年も費やした雑魚秀吉ですら改易されてないし
明智も赤井に負けたり、柴田が上杉に蹴散らされたり、御館の乱やそれに続く内戦と、新発田の乱で極度に弱体化した中、織田からは
佐々長縄・神保長住・長連龍や斉藤の援軍らが派遣されて、上杉の内戦の最中に、能登や越中をコソ泥できたのにその後自力ではろくに進軍できていない有様でも
誰も改易されてない。信忠に至っては、岩村攻囲戦で援軍なしで孤立状態の秋山数千に半年以上かかっても自力で落せない雑魚っぷりを発揮してたが
信長は予定していた武田侵攻を諦めて、予定変更するほどの不始末だったが、不問どころか、その後の戦でも優遇されまくってるほど、織田家は身内や家臣に超絶甘いヌルゲーの環境
0842人間七七四年
2014/05/17(土) 13:33:26.68ID:3a98mJi+坂本竜馬暗殺は薩摩の陰謀とか未だに信じてそうな化石級の脳みそですな。
0843人間七七四年
2014/05/17(土) 13:33:27.15ID:ELLCGhNm1561年に 十河一存 斉藤義龍
1562年 三好義賢
1563年 細川晴元 細川氏綱 三好義興
1564年 安宅冬康 三好長慶
と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。
しかし北条は謙信や信玄らがなかなか死ななかった。これでは関東制覇も難しいだろう。
そういう意味では大内義隆や尼子晴久が死んだ元就もおいしい。
永禄3年に六角軍は北郡征伐に失敗し浅井長政に敗北。これをもって長政は家督を継ぎ六角からの再自立を達成(肥田・野良田の戦い)
六角は斉藤氏と共同しての浅井攻め戦略に移行。
翌年2月には逆に長政が美濃へ進攻する攻勢を示したが
3月に入るや背後から六角軍が進攻し佐和山城を落とされた(斉藤家の竹中重高への六角氏の感状あり)
しかし長政は反転し六角の退路を封鎖する動きを示すことで退却を誘い佐和山城の奪回に成功する。
またこの長期に渡る六角と斉藤との攻防の中で義龍が病死し美濃からの脅威は減少したこともあり、
畠山高政と六角義賢による三好長慶との京を巡る戦いが始まるや、長政は太尾城(米原市)を攻めるなど六角の背後を混乱させた。
このように浅井による北郡造反は畠山への援軍派兵の遅れを誘発し六角弱体化をさらに助長した。
0844人間七七四年
2014/05/17(土) 13:34:23.12ID:/lnN5kEb中国攻めの援軍の時期に狙い撃ちすればいいのだから、その時期は秀吉次第で操作可能だろ。
細川や筒井は当初は、協力する予定だったかもしれんし言ったかもしれんが信じなかったってだけじゃないの。
信孝や細川から見ても所詮光秀は主君を殺したことには変わりないし
直接的に手を下した事で100%犯人である事が確定的な光秀の言う事を信じるか
関わっている可能性があるだけで、全く証拠も0で、何より味方がうじゃうじゃ多くてさらに増えている
主殺しを討つ大義名分掲げて京にやってきた秀吉の言う事どっち信じるかって話になるだけだし
0845人間七七四年
2014/05/17(土) 13:34:50.86ID:/lnN5kEb秀吉方陣営に飛び込み、しかもその真偽を検証する事なく鵜呑みにするという棚ボタ奇跡が起きたのが本能寺の変
明らかに秀吉は京の変事をあらかじめ知って予想し事前に準備しまくってただけ。
本能寺の変後一気に奸臣と化し謀略で織田家を乗っ取るクズっぷりからすれば
秀吉首謀説はかなり秀吉の性格に即している
切れ者のはずの光秀が、あんな勝算のない状態で単独で主殺しを行い
四面楚歌を招くとか普通にありえないわな。織田家中での光秀単体での軍事力なんて知れたもんだし
秀吉と光秀が協力した画策(信長殺し)を協力するはずの秀吉が破って光秀が逆に汚名を一心に背負わされて結果殺されたと考える
方がしっくりくる。
背後は南条宇喜多が守ってて端から心配する必要がない
毛利軍は雑魚だからそうがかりで攻め込んでも宇喜多に大敗したり
南条4万石程度も攻略失敗したりしてる
光秀が単体での謀反ならアホとしかいいようがないだろ。織田家主殺しの汚名負ったせいで
光秀直属系12000以外織田家臣全て敵に回す事になったんじゃねーか。秀吉が来なくてもどの道ころされるしかねーわアホ
大返しなんて大袈裟な誇張のつく事秀吉は何もやってないし
秀吉方策源地のど真中を行軍してるのに水や食料なんてないわけない。
軍隊が何日も生きるために食料も水も不可欠でもしそれがないのに秀吉が行軍させて成功させたとしたら
兵士の生命力が凄いのであって秀吉は本物の馬鹿としかいいようがないわけで。
事前に準備もしないのに備中京都間をわずか1日半で情報が駆け抜けるのはありえないわけ。
光秀が単体で謀反起こしたというなら秀吉は敵になり、毛利に向けた使者が秀吉の陣営に都合よく飛び込むというのもありえないわけ。
さらに秀吉がその情報の真偽を確かめる事もなく、ただちに陣を引き払ってるのもありえない。もし仮にそうだったら秀吉は誠に馬鹿としかいいようがない
(たまたま光秀が信長を殺した報が正確だったから結果オーライだったが、偽情報なら秀吉は毛利に後ろ見せるだけの馬鹿になる)
そもそも大返しが凄いなんて一部の秀吉マンセーの馬鹿しか言ってないし10日で200キロだから
速いどころか遅いとしかいいようがない。
0846人間七七四年
2014/05/17(土) 13:41:59.09ID:3a98mJi+0847人間七七四年
2014/05/17(土) 14:00:35.91ID:d5/9Rm5q0848人間七七四年
2014/05/17(土) 14:14:10.13ID:/6ze8UHT別に下手に出て献品するのは外交戦略の一つでしょ
戦で勝てない相手に勝つため、無様でもなんでも手練手管を尽くしただけ
戦で勝てずとも外交で勝つ、まさに源頼朝公の再来と呼ぶに相応しい
秀吉亡き後の豊臣は結局体面に拘ったり戦に楽観的だったから滅びたわけだし
そもそもかの名将武田信玄公すら勝てて当然の城攻めで大敗し重臣を失ったし、戦争自体が下策なのは昔から言われてる常識だろ…
0849人間七七四年
2014/05/17(土) 14:17:19.36ID:3a98mJi+三方が原はボロ勝ちしたのに後につながるような戦果はろくに無し。
信玄さんは下策に下策を重ねるのがお上手。
0850人間七七四年
2014/05/17(土) 14:34:04.16ID:RRrqdl0A・秀吉は無能で糞
・だが明智と同じく軍閥化を完了
・おまけに明智に本能寺を起こさせた
・秀吉が起こさせたけどあくまで棚ボタ
・家康はいつでも秀吉を殺せたけどすっごい優しいから殺さなかった(笑)
・毛利と和議を結べたのは運がよかったから
0851人間七七四年
2014/05/17(土) 15:14:46.02ID:YI61HQHC秀吉厨の大好きな、秀吉マンセー妄想逸話なんてほとんど司馬小説とか現代ドラマがソースじゃん。
・柴田と秀吉の喧嘩話で秀吉が撤退主張し柴田は突進を主張し大敗した
→史料には全くない後世の小説家の盛り込んだ嘘逸話
・秀吉が信長の窮地を度々救った
→秀吉の前半生の活躍なんて江戸期のウンコ創作軍記にくらいしかかかれてないハッタリ逸話
・秀吉は農民から出世した
→秀吉の史料初見では1565年時点で佐々丹羽など重臣連中と名を連ねて
領土安堵状出してるくらいで相当の地位にあったと思われる。
信長公記の初登場でも既に一軍の司令官。木下と織田は元々親戚筋。
・秀吉の墨俣一夜城→まともな史料にない捏造
・秀吉の金ヶ崎の退却戦→そもそも朝倉は湖東方面に出兵してて金ヶ崎なんて全く攻めてない。金ヶ崎で戦いがあったらしい
形跡すらない。
・秀吉の中国大返し→備中高松出発が6/4でそこから山崎に6/13に到着。
一日20キロペースだから全く早くないどころか、むしろ遅いくらい。
0852人間七七四年
2014/05/17(土) 15:17:01.05ID:j/mWK031ただ信長や秀吉の分国の尾張美濃近江河内山城などの機内や西日本は経済力が圧倒的だったしそこが動乱の影響で分裂・弱体化・内訌の隙をついて
棚ボタ火事場ドロするのをちゃんと描くべきだね。
分国の経済力という概念がドラマにはないから、もともとチートな国力持ってた信長尾張の小国から実力で大版図築いたとか捏造したり
機内で600万石程度ある状態で波多野18万石と本願寺12万石と上杉120万石を敵に回しただけなのを
あたかもピンチみたいに描くのははっきりいってふざけてる。
あと東国勢は国力が軒並み過大だし武器性能も圧倒的に劣るだろうからそこは大きく補正しないといけないね
0853人間七七四年
2014/05/17(土) 15:18:08.20ID:j/mWK031織田徳川の大軍に対して行われた三河遠州侵攻作戦とか三方が原、長篠の戦いなんて武田が少ない兵力で侵攻しまくってるし対北条今川戦でも武田が侵攻側で
大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってるからな
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし圧倒的に戦上手な部隊としかいいようがない
どうみても武田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>織田
0854人間七七四年
2014/05/17(土) 15:18:46.76ID:YI61HQHC二重堀合戦では1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられてるし
熊見川の戦いは上月城の防衛を目的に行われた防御戦だったが見事に失敗して3000人も殺されてるし上月城・神吉城も奪回されて尼子勢をはじめ大量に戦死者出してる
つか山崎合戦とかも光秀方から仕掛けた戦だし陣地も光秀は朝廷を守るため天王山の陣取りを捨てて不利な形で布陣したわけだし防衛戦じゃない。
しずヶ岳だって勝家が攻撃してた中川の拠点守るため出兵しただけだし普通に防御戦だろ。勝家の方から攻めかかってきただけだし秀吉は撤退途中の勝政・盛政を背後から圧倒的大軍で強襲したら
逆襲くらって不破・前田・金森らが兵をひくまで結局均衡くずせない始末だし
0855人間七七四年
2014/05/17(土) 15:19:44.55ID:FIN4W3MNその後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
0856人間七七四年
2014/05/17(土) 15:20:45.73ID:YI61HQHCこれをくつがえすのはよほどの幸運・偶発的条件やうまい戦術、両将の指揮能力の差がないと無理(もちろん城攻めは別だが)
普通に平地でガチで遣り合えば100%兵力が二乗の戦力となり、装備差によって戦闘が決着する
ゲームでは統率や経略の少しの差で簡単に覆ってしまうが実際はなかなかそうはいかない
武器性能比×兵力の2乗が実践での戦力比(敵軍に与えるダメージ比)だからね
地形補正を考慮するにしても常に規格外の大軍&畿内の高性能装備で寡兵の雑魚国力の敵に負けまくり
殺されまくった信長や秀吉は相当指揮采配能力統率能力が欠如してるとしかいいようがないわな
0857人間七七四年
2014/05/17(土) 15:22:50.95ID:l1SURSWvそれ以外の武将は中世の雑魚城郭なんてあっさり瞬殺してるのがほとんどだよ。
信玄謙信は上野や信濃や奥三河や奥遠江など日本で一番堅固なガチの山城が立ち並ぶ地域を自力で攻め込みまくって
苦戦しててもすぐに落してるし、また上杉北条間や武田上杉間で何回も取ったり取られたりしてて、早い時には一日で16も城が落ちる事もあった。
それに対して織田系統の部将は城攻めの度に馬鹿みたいに多大な時間や戦死者を出してる。
これは岐阜城や大河内城攻め、本願寺攻めや赤井、別所征伐などでわかる。
信玄なんて最も時間がかかった三河野田城でも1ヶ月程度だし。戦下手とか捏造されてる氏康ですら上野の山城何回も落してるし。
0858人間七七四年
2014/05/17(土) 15:24:16.14ID:YI61HQHCなぜか城が堅かったとか馬鹿な捏造されてるんだよな
単に寄せての大将が雑魚だっただけでしょ
秀吉が苦戦した鳥取城なんかも、秀吉以前に吉川元春が2回も瞬殺したし、尼子残党衆らですらあっさり陥落させたりしてる。
0859人間七七四年
2014/05/17(土) 15:24:38.52ID:3a98mJi+三方が原で散々ボロッカスに叩いた家康の浜松城にビビッてスルーしたけどな
0860人間七七四年
2014/05/17(土) 15:25:44.04ID:l1SURSWv天正8年の山名氏政→古志書状(古志文書)4/13には織田勢が今度但馬に乱入してきて種種入魂之被申分、尤祝着候とか書いてるし
5/19には去4月18日但馬水生表の合戦で織田勢と竹野衆が合戦し竹野衆が勝利したと報じている
6/13垣谷豊続→岡遠江守感状で宵田表相動候処、則織田勢罷出候之間誠砕手数剋相戦切崩、得勝利などと勝利を書き綴っている
播磨戦線でも毛利に3000殺されるガチンコ負けして西播磨一帯を占領され尼子衆ぶち殺されてるし
天正10年の高松攻防前の鴨城攻防戦でも
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事
と秀吉方が敗戦してるのがわかる。
また秀吉が備中・美作・備前戦線に加わりだす天正9年頃から、それまで単独で大国毛利相手に辛川合戦・戸倉合戦・祝山城などで大勝するなど優勢だった宇喜多が
備前児島・忍山城・篠茸・宮山城が奪回されだし宇喜多家も窮状に追い込まれてる。
あと、秀吉が毛利を単体で攻めきれず信長に援軍を請うたというのは陰徳太平記のデタラメくさいと思ってたが、山本浩樹氏によれば一次資料による裏付けがとれる
ようで、「信長の御動座」を待ち一気に決着をつけるつもりだったらしい。
自力では4万石程度の南条に苦戦したり宇喜多にもガチンコ敗戦晒す雑魚毛利も地力じゃ攻めきれず信長の援軍を仰ぐ始末だし
吉川元春6000にビビッて馬の山の対陣で逃げ出したのも、講談臭いと思ってたが、山本浩樹氏の論文にちゃんと書かれてるからね。
0861人間七七四年
2014/05/17(土) 15:27:10.31ID:3a98mJi+川中島なんてケチな土地、上杉にくれてやってそのかわりに美濃攻めりゃ楽勝だったじゃん
どんだけマゾプレイ好きなんだよ
0862人間七七四年
2014/05/17(土) 15:29:17.03ID:YI61HQHC上杉放置したら関東遠征で勢いに乗りまくり肥大化した謙信が武田を背後から襲撃して
武田アボーンだし。
0863人間七七四年
2014/05/17(土) 15:31:16.37ID:3a98mJi+上杉の関東侵攻なんてただの略奪出稼ぎだし。
0864人間七七四年
2014/05/17(土) 15:35:25.29ID:LeJisJiv第一次越山で謙信が退却したのも、信玄が北信濃の城を落として越後を脅かしたからだし。
0865人間七七四年
2014/05/17(土) 15:36:50.81ID:3a98mJi+略奪・人さらいのお墨付きもらうために関東管領になったようなもんだし。
0866人間七七四年
2014/05/17(土) 15:39:46.98ID:Mrh7X+pZ清洲三奉行・織田弾正忠家が高収入源の商業都市津島や熱田を支配しまさに隆盛拡大発展期に入り、
織田弾正忠家の力のみで周辺諸国の国持ち大名とガチで戦闘が行えるまでに成長する。
さらに円滑に家督を継いでいた信長は実に運がいい男と言える。
しかも信長が1556年の斉藤道三の死から1567年に美濃掌握し11年で
尾張57万石+美濃54万石=111万石になり上がり、
この濃尾平野に覇権を確立した時点で周囲を圧倒した勢力になっていた。
また三好長慶が死去し分裂紛争中の三好三人衆や松永久秀らの暴虐ですでに三好政権は瓦解中。
三好配下内で闘争していた池田勝正などもあっけなく信長に降伏し労せずして摂津支配も確定させ
将軍権威を背景に若狭武田なども帰属させ大商業都市の堺・大津・草津をも支配下に組み込む。
一方、北条氏康・上杉謙信ら隆盛期を迎えた各家に囲まれた信玄は家督継承し1542年に信濃侵攻を開始し
1553年に村上義清が謙信の元へ敗走し信濃を11年で掌握し(しかも村上家も領土が膨張しており勃興期を迎えていた)
天候不順と河川氾濫ばかりの甲斐22万石+信濃40万石=62万石と信玄は自分の領地の2倍の石高の地を併呑する奇跡を成し遂げている。
キツイ城ランキングを見ると信濃の山城ばかり目立つ。武田軍の精強さと攻城の苦労がわかる。
ttp://utsu02.fc2web.com/tozanranking1.html
0867人間七七四年
2014/05/17(土) 15:40:51.12ID:Mrh7X+pZ信玄なども1555年正月に焔硝について触れている書状がある。
1549年太原雪斎が信秀の安祥城を攻略した決め手も奇襲した際の鉄砲だと言われてる。
良質のインド産の焔硝をポルトガル商人から輸入できるようになってから大量運用が可能になる。
ちなみに1567年信長が岐阜城を落したのと同時期に
宗麟が司教宛てに毛利への硝石の輸出禁止と
毎年良質な硝石200斤の大友への輸出を航海指揮官ピタン・モールに頼んで欲しいと依頼しているほどの戦略的な軍事物資。
信秀が死ぬ2年前の1549年に信長が近江の国友村に高級品の火縄銃500丁を注文しており、
道三との正徳寺会見でその鉄砲を大量所持していて道三が驚いたとの記述があるが、
希少価値が高い硝石の在庫がそんなにあったのだろうか・・・
もしあったのなら尾張国に集まる経済力と富は突出していて東アジア最高の土地になってしまいとてつもないものだったろう。
0868人間七七四年
2014/05/17(土) 15:43:39.79ID:imJfg1SJ北条は既得権排除で、国人の自立統治認めない直轄型大名だったから
旧勢力とかそれに連なる連中に嫌われまくってて
滝川が関東から消えた後でも、上野や下野で延々と北条相手に抵抗を続ける連中だらけだったし。
謙信が関東で劣勢になったのって、信玄が信濃戦線や上野戦線の上杉方諸城を攻撃して
その分対北条戦が手薄になったからだし。
0869人間七七四年
2014/05/17(土) 15:54:38.76ID:T2Y5Kvhi長島侵攻では3回も敗北し餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ち&数万の大軍で一門10人以上殺されるなど負けまくり
本願寺攻めでも大苦戦し武田にも三方が原や上村合戦や東美濃攻防で敗北し信玄在世中は追い込まれる一方で滅亡確定、
上杉謙信にもガチンコ一級メンバーでボロ負けし丹波一国人の赤井直正にも大敗し雑魚の毛利輝元にも敗れ
最後は光秀に殺されて織田家を滅亡させた信長
最貧国甲斐から二倍も国力ある信濃を山之内上杉や長尾が介入してくる中切り取り
信濃山間や上野山間などキツイ城トップクラスの所をガチンコで落としまくり
最強家康に死の恐怖与え織田家トップ格の佐久間水野平手滝川を蹴散らしまくり
駿河も自国より国力上の北条+今川から切り取り150万石まで領土広げた信玄
どうみても信玄>>>>>>信長だなw
0870人間七七四年
2014/05/17(土) 16:00:57.80ID:T2Y5Kvhi長島侵攻では3回も敗北し餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ち&数万の大軍で一門10人以上殺されるなど負けまくり
本願寺攻めでも大苦戦し武田にも上村合戦や東美濃攻防で敗北し信玄在世中は追い込まれる一方で滅亡確定、
最後は光秀に殺されて死んだのが信長
最貧国甲斐から二倍も国力ある信濃を山之内上杉や長尾が介入してくる中切り取り
信濃山間や上野山間などキツイ城トップクラスの所をガチンコで落としまくり
最強家康に死の恐怖与え織田家トップ格の佐久間水野平手滝川を蹴散らしまくり
駿河も自国より国力上の北条+今川から切り取り北条の大軍大破して150万石まで領土広げた信玄
どうみても信玄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長でしょ。
信長が甲斐に生まれてたらきつい城ランキングトップクラスが立ち並ぶ天嶮の信濃の城をほとんどおとせず終わっただろうし
山之内上杉か諏訪あたりに蹴散らされて終りでしょ。史実で弱体化したクーデター騒ぎの幼君斉藤に負けまくり
長島侵攻戦でも何回も大敗し、餓死寸前の一揆勢数百を数万で騙まし討ちにしたら一門10人以上殺される雑魚だし
信濃の拠点落とせるわけがない。
0871人間七七四年
2014/05/17(土) 16:03:22.39ID:T2Y5Kvhi桶狭間も一次資料にないデタラメだしその軍記内ですらたまたま先陣と思っていった先が本陣で
たまたま偶発的に都合いいタイミングで雨や風が吹いて勝てただけだし
甲斐は18万石&例年のように飢饉
信濃は40万石近い上にキツイ城ランキングトップクラスが立ち並ぶ天嶮
おまけに山之内上杉は上野49万石長尾も越後37万石
あと山之内上杉が本格的に弱体化するのは天文17年以降でそれまでは上野にしっかり地盤を残し氏康にも抗戦している
あと斉藤が60万石とかデタラメもいい所
斉藤は幼君で分裂状態・稲葉山乗っ取り事件に代表されるようめちゃめちゃに弱りきってた上
信長が攻めていくと抗戦もせず降伏するものばかりだったし実高でいえば10数万石くらいだろ
おまけに浅井やら甲賀衆やらが援軍で送られてくるし
信長や秀吉が広範な版図支配下においたといっても所詮一時期だけだしなぁ
所詮徳川に木っ端微塵にされて滅亡した雑魚でしかない。
こうしてみると信玄はやっぱりすごいよなあ
自国の2倍もある、日本で最も険しい山が立ち並ぶ山間の攻略の難しい信濃を
山之内上杉の大軍を大破しながら、また長尾の介入がある中切り取り
同じく山間部の大国上野を上杉相手に切り取り
駿河も大国北条と交戦&今川・北条・上杉・徳川・織田の包囲網張られた中で逆転劇で切り取り
自国の1.8倍くらいはあるであろう北条領を、少ない兵力で蹂躙しまくり、撤退戦で北条の大軍を撃破
織田・徳川相手に東美濃・三河・遠州切り取り最強家康&織田トップ格の佐久間・滝川・平手・前田(兄)ら精鋭を撃破
上村合戦や東美濃攻防では信長の大軍は馬場700程度に散々翻弄されまくる始末
信長が甲斐にいたら諏訪や山之内上杉に到底勝てず、甲斐に引きこもって北条今川に攻め込まれて滅亡だろうな
0872人間七七四年
2014/05/17(土) 16:37:57.01ID:8X4pGTht加藤清正は関が原の戦い直後9/24に「天下之様子」は「関が原表之合戦」では「輝元方敗軍」と報じているので
毛利輝元が大阪城にいて関が原の戦場に出向いていないにもかかわらず「輝元方敗軍」としているのは毛利輝元が西軍のトップであり
首謀者であったとみなされていた事を示している
毛利家内への介入と分断を図る家康が目指す覇権へ抵抗するために
会津征伐をチャンスに毛利は反家康行動に踏み切った。
家康は上杉が気になり当分上洛ができないと判断し、
その隙に自力でも家康に対抗できるよう自己のために領土拡大を謀った。
光成氏は毛利の領土拡大と西軍の反家康行動は両立しないなどとは、まったく書いておらず完全に歪曲。
〜光成氏の主張〜
家康と組んだ秀元の別家創設で輝元から毛利領の1/4獲得を狙っていた(出雲や石見なので吉川は長門へ飛ばされる)
その後の交渉で出雲から長門や周防や父の遺領に変更になりながら、やむなく妥結した。
輝元は遺領問題で天下の人々はどうおもうだろうか?と毛利の外聞を非常に気にしてる。
家康や秀元によって恥をかかされたと認識してるから輝元も上杉征伐を最後のチャンスと思ったんだろうね。
さて輝元が在国してて、家康が会津へ出発すると大坂は大老不在になってしまうことから
秀家は会津へ行かずに在京。秀家の代わりに会津へ行ったのは詮家。
ちなみに毛利は吉川と安国寺が会津へ従軍予定。
7/5の豊国神社参拝での武運長久を秀家が行ったことに関しても
肝心の詮家が出発した後にそれをやるのはおかしいとされ、
しかも家康が介入した宇喜多騒動の主役の1人の詮家を会津へ派兵したのは
西軍挙兵において家中で邪魔になるであろう詮家の弊害を恐れ
事実上、秀家による家康の下への放逐行為であると考えられる。
そして秀家は大谷と親しいので、大谷の決起も秀家の士気の高さに引っ張られたとされてる。
0873人間七七四年
2014/05/17(土) 17:22:33.52ID:L6GVy7AIスレチだし菅沼が暴れるだけだから
0874人間七七四年
2014/05/17(土) 18:09:11.61ID:3a98mJi+0875人間七七四年
2014/05/17(土) 18:24:13.22ID:8TYQrLMgまっとうな意見を詳しく細かく書いてるだけじゃん。
0876人間七七四年
2014/05/17(土) 18:31:51.58ID:4tbCOTaO0877人間七七四年
2014/05/17(土) 21:30:10.95ID:RRrqdl0A菅沼は信玄を信奉してる癖に孫子のその字も知らんとは恥ずかしい、反省しなさい
結局のところ秀吉は外交力で一代にして天下を収めたって事でこの話はおしまい。話を関ヶ原に戻そう
史実では秀頼にハリボテの王座を託すしか出来なかったが、これを変えるターニングポイントはいったいどこだったのか
0878人間七七四年
2014/05/17(土) 21:42:45.80ID:3a98mJi+いっそのこと茶々を流産させるしかない。
0879人間七七四年
2014/05/17(土) 22:01:24.41ID:3a98mJi+秀長や秀次が100万石以上もってて更にその下に子飼い大名がずらりで
家康もどう刃向かえるってんだよな状況だったのに
近親者が相次いで若死に+秀次事件で藩屏のきなみ潰れたから
そりゃ家康の独壇場にもなるわな。
0880人間七七四年
2014/05/17(土) 22:04:24.04ID:qurPAngG近代戦や現代戦でそんなアホな妄想書いてる学者はいないし
ナポレオンもヒトラーもスターリンも毛沢東もチャーチルもそんな事やってないし
言ってもいない。
0881人間七七四年
2014/05/17(土) 22:07:00.62ID:3a98mJi+0882人間七七四年
2014/05/17(土) 22:10:20.45ID:P5zsC1Zs実践では全く役にたたんだろ。
時代的には近代戦に近いんだからランチェスター法則とかの方が遥かに実践的だし
ナポレオンとかヒトラーとかもこれに基づいて戦ってる。
0883人間七七四年
2014/05/17(土) 22:12:36.53ID:7k1aXZR6大体どこの大名でもまずは最初に戦ってみてる。それで全く自力じゃ敵わない場合にだけ
政略とか調略や同盟軍依存でなんとか切り崩してる。
0884人間七七四年
2014/05/17(土) 22:13:15.56ID:3a98mJi+あとヒトラーは軍事的には無能。伍長上がりの癖に介入したがるんで
ドイツの参謀本部はフォローに必死だった
0885人間七七四年
2014/05/17(土) 22:14:38.41ID:PdpV44qu戦って負けた上で、諸大名(上杉・毛利・宇喜多・佐竹・結城・宇都宮・木曽・十河・河野・大友・竜造寺・真田・小笠原・水野・石川ら)が
必死にカバーして、他力本願と土下座で味方をなんとか増やすといったほうがふさわしいからな
秀吉は直接対決でたかが防衛戦の熊見川合戦で3000人討ち取られるほどの雑魚っぷりを晒していたが
上杉佐竹毛利長宗我部木曽小笠原真田石川水野十河河野大友龍造寺前田
柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって漁夫の利で力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権を作りあげることには成功した
0886人間七七四年
2014/05/17(土) 22:15:14.69ID:8Rsnas6r雑魚の信雄に135000の大軍で挑みかかって信雄領国は会戦早々尾張・美濃・伊勢・伊賀ともに寝返りの連鎖で崩壊状態だったほど
雑魚統制しかなかったのに秀吉方はいざ戦うと雑魚の信雄に1万人殺されたり
戸木浜田二重堀松ノ木東駒野河波蟹江長久保神戸など各城の攻防で奪回されたり蹴散らされたりするアホっぷりだったじゃん。
結局全く雑魚の信雄に歯が立たずあれだけ規格外の兵力差と、徳川の領国の崩壊状態(寝返りの連鎖や軍事機密露見や、
天正11年からの飢饉への対策として出した徳政連発)にも関わらず秀吉は家康や信雄に「ワシに従ってくれ〜」と必死に土下座して
母や妹を献上したり、関八州240万石の大領を与えなくてはいけないほど、家康に土下座状態だったから
豊臣家はあっさりと滅ぼされたんだろ。
結局事の始まりは秀吉が家康どころか雑魚の信雄に蹴散らされまくったせいで豊臣家を滅ぼされたんだから
秀吉が雑魚の信雄に大敗して、家を滅ぼされたって事だろ。
0887人間七七四年
2014/05/17(土) 22:17:23.80ID:P5zsC1Zsトルーマンもルーズベルトもポルポトも毛沢東もヒトラーもレーニンもスターリンもチャーチルもムッソリーにもやってない。
0888人間七七四年
2014/05/17(土) 22:19:46.12ID:cxvKRa1Z結局時代遅れの兵法だからね。
そんな馬鹿な兵法じゃ戦国はおろか、ローマ帝国の時代でも生き残れないよ。
カエサルなんかがこれにやや近い兵法だったけど、結局敵を残すことになって暗殺されたからね。
0889人間七七四年
2014/05/17(土) 22:20:29.25ID:3a98mJi+せいぜい六州
0890人間七七四年
2014/05/17(土) 22:23:09.24ID:YX29cT1Wなら八州といっていいでしょ。
北条の支配拠点が相模伊豆武蔵全域と上野と下総の大部分に下野上総半国に常陸の一部で
208万石程度。これに里見領が加わるから、関八州240万石といって差し支えないでしょ。
0892人間七七四年
2014/05/17(土) 22:25:20.09ID:Q4nqGFijお前はアメリカ以外は皆アホという認識なの?
イギリスもソ連も一応戦勝国なんだけど。
結果がよければいい理論かな?
そしたら、信長なんかはまさに孫子とは程遠い兵法使って自滅したアホって事か?w
0893人間七七四年
2014/05/17(土) 22:27:32.93ID:P5zsC1Zsお前の考える名将の定義を知りたいんだが
アレクサンダー大王・ハンニバル・スキピオ・スッラ・カエサル・ナポレオン・毛沢東・ニミッツ
こいつらは最後が変な死に方したら、それで無能になるって事か?
そしたら、信長はまさに無能中の無能なんだがw
0894人間七七四年
2014/05/17(土) 22:29:16.22ID:8Rsnas6rそこに出てきてる連中で孫子っぽい兵法(戦わずして勝つ)つかってる連中なんて皆無だよなぁ…
暗殺されたカエサルが比較的まだこれに近いくらいか…
0895人間七七四年
2014/05/17(土) 22:32:24.11ID:XVEJdVT7軍艦に書いてあるのか?
0896人間七七四年
2014/05/17(土) 23:07:47.46ID:wmqC9RQF何回負けようが、執拗に攻め込んで、その度に撃退され
味方に裏切られ、朝廷に土下座し、たまたま起きた有力大名の病死によって危機を免れるという、かなり運頼みの戦法じゃん。
味方を増やすどころか、信用を失い、裏切り者を増やすような虐殺や騙し討ちを繰り返すのも、
孫子とは逆をいってないか。
0897人間七七四年
2014/05/18(日) 05:47:15.30ID:F1o0P9FT0898人間七七四年
2014/05/18(日) 10:05:52.38ID:WjWjB8ZVこいつらの暴走が豊臣の崩壊をもたらしたことを考えれば
秀吉としては悔やんでも悔やみきれなかっただろうな
0899人間七七四年
2014/05/18(日) 10:25:16.84ID:QZKyAqPx三成小西大谷らは、必死にストップをかけたが
動員兵力が少なすぎて、ストップさせるには至らなかった。
0900人間七七四年
2014/05/18(日) 10:31:12.48ID:1hDGeSlq秀次事件とかアレ三成にとっちゃいい迷惑でっせ。
盤石のはずの大店で番頭として辣腕ふるうつもりが
ガタガタの屋台骨で大手関連企業からの吸収合併に対抗せにゃあかんくなったんやから
0901人間七七四年
2014/05/18(日) 10:51:52.88ID:TGTXPVXu利家らが画策したとか
色々書いてる人がいるけど、論拠となる史料はなんだろう?
0902人間七七四年
2014/05/18(日) 12:07:58.02ID:y/p8FIu4在日の常識で語ってる。
すでに矢部健太郎氏も、
秀次を秀吉と三成は殺すつもりがなかったのに、
福島正則が秀次が自刃するのを止めなかったとして、
福島正則が元凶としてるなど三成悪謀説は、
全て江戸時代の軍記にしか根拠が無いと断じてるし。
だからこそ、秀次の遺臣だった若江八人衆に同情し、
三成は彼らを家臣に加えて、
関ヶ原の戦いでは、彼らが三成の元で、
福島正則らに対して激しい敵愾心で互角以上の戦いを演じていた。
秀吉と三成は軍記のでっち上げ冤罪のせいで損してるよな。
0903人間七七四年
2014/05/18(日) 12:08:25.16ID:y/p8FIu4例えば秀次の不行跡は記録が『多聞院日記』や『兼見卿記』にあるあると
2ちゃんで書かれてても実際に調べると
秀次の罪状に関する公家や朝廷の公式な記録は何一つない。
『大かうさまぐんきのうち』の比叡山狩猟の件も信用できない。
文禄2年(1593)の6月8日に女人禁制の比叡山に女人を引き連れ、殺生禁断の地で狩を行い、
止めようとした僧たちの塩酢の器の中に獲った鹿肉を入れたとあるが、
山科言経の日記『言経卿記』では、
秀次はその日に山科らと聚楽第の山里で琵琶法師の平家物語を聞いてる。
(山里町という山里茶亭を由来とする町名があることからおそらく聚楽第の茶亭)
つか、仮に山里が聚楽第でなかったとしてもそういう事実があれば
山科言経が日記に残してない方がおかしい。
秀次の母親の日秀が秀次供養するために建てた瑞龍寺に
村雲の寺地と「瑞龍寺」の寺号、寺領1000石を与えたのは他でもない後陽成天皇だぜ。
そんな不道徳なことを本当にやってたら天皇がわざわざそんなことをするはずがない。
秀次が「殺生関白」と呼ばれてるのは、『大かうさまくんきのうち』が、
正親町天皇の諒闇中なのに狩りをした秀次を批判する京童の落首を引用しているが初出だよ。
庶民を虐殺したから「殺生関白」と呼ばれてるわけではありません。
しかしこの落書も同時期の記録にその落首が残ってないから信憑性を疑われてる。
信長公記の著者である太田牛一(秀頼に仕えていた)がデッチあげてデタラメを並べて秀次を悪く書いてるだけ。
三河物語で大久保から信長記はデタラメと叩かれた著者の太田は金をもらって捏造する売文家です。
しかし織田チョンは、あれは太田牛一が書いた信長記だけは除いて批判したものに違いないと
なんら根拠なく妄言を吐く朝鮮脳で白昼夢を主張するキチガイ
逆に川角太閤記では秀次に落ち度はなく、秀吉が老いて耄碌して三成の讒言を真に受けて
秀次を殺したと正反対の内容を書いているなど、所属する立場や思想信条から相手を悪く書く対立が見え
とても史実とは思えないデタラメが横行してます。
(実際には秀吉が耄碌していたとは思えませんし、讒言をしたとする三成の介入も一次史料から証明できません)
ちなみに謀反人の場合は斬首であり、自刃のような自害による名誉を守る行為は許されません。
つまり秀次は名誉の死であり、秀吉や秀次の政治に関しては、相手を中傷するために落書など平気でデッチあげてます。
0904人間七七四年
2014/05/18(日) 12:10:43.13ID:y/p8FIu4南部根元記には秀次が奥州の仕置きを終えたので平泉を見た
そして最上へ向かい義光がもてなし奉り息女いこまの方を秀次公に参らせる
と書いていてその記述には平泉に寄っているなど書かれており
後世の研究調査から平泉中尊寺には秀次軍令書などの文書が納められていることが発見され
秀次の平泉訪問も事実と確定され南部根元記の記述が極めて事実に基づかれているとされた。
そのため義光の方から進んで駒姫を秀次に差し出したのも極めて事実に近いとされる(伊達成実記とも合致する)
南部は秀吉からの武装解除の一環としての一国一城の破却令により天正20年6月に
領内48城中→破却36城の上で存置12城が許されたとされる。
戸沢は角館の1城のみを残して33城を城破りをしているため南部は破格の待遇である。
前田や蒲生と入魂していたからであろうか。利家は氏郷亡きのちの蒲生家存続にも尽力して
秀次・利家・蒲生・南部・浅野らが日本海から奥羽に影響力を行使しているのがわかる。
そして利家や氏郷らは南部と組んで津軽や安東を田舎者と名護屋陣でいじめていた。
のちに困り果てた津軽の働きかけで親しくなるように浅野が仲介してきたが拒否し
前田などが津軽を辱めたので浅野なども津軽に関して何も言わなくなったと記している。
前田家文書には秀吉→関白宛の文録元年5/18に
来年正月の2月頃に3万を率いて兵庫より乗船し秀次が朝鮮へ渡海する命令がある。
南部信直→織笠但馬守に年不詳9/20で秀次公来年高麗国へ出陣。暦明け候はば上洛と記され
南部も前田騎下として秀次とともに朝鮮へ行く予定だった。
どうやら何らかのこともあって秀次&前田&南部の朝鮮渡海は中止となったようだ。
秀次と親しくなることで朝鮮渡海しないで済むような状況があったのだろうか。
ちなみに黒田如水が朝鮮出兵を自ら申し出るように秀次に忠告したと言う。
文禄4年7月秀次自害と同じ頃、津軽が浅利を支援し戦闘開始されており
安東は進退に窮していると知らせがあり、また最上の小野寺侵略の岩崎合戦が開始される。
伊達と最上が秀次と共謀の罪があるとされたので、世上暗澹なこともあり信直は娘が
安東実季の弟に嫁ぐ予定だったが(利家斡旋らしい)安東から連絡もないし延期した方がいいとしている
このことから当時の奥羽がかなりの混乱下にあり秀次との謀反連動の疑いが強い。
(秀次は伊達や毛利に大金を貸していた。また利家も伊達に金を貸している)
奥南旧指録附載には南部利直は前田&浅野と先代以来親しかったので東軍の立場を鮮明し
最上に加勢したが領内和賀一揆のために最上出羽守に相断り帰陣し一揆を討ったと記されている。
利家は柴田を見捨てただけでなく、親しかった秀次をまったく弁護せず死刑を放置
(その時期の利家は京にいて早世した娘の与免と婚約者だった浅野幸長ばかり擁護、家康は江戸にいた)
利長は姉妹の豪のダンナである秀家を見捨てるなど
有軍を裏切って肥え太る術だけで加賀百万石を築いた天下一の泥棒大名。
ちなみに利家夫妻はお拾いと秀次娘の婚姻仲人に決められていたし
秀次が死んだ後、利家は秀次と親しかったこともあり秀次の伏見の邸宅を貰い、秀次の家臣の一部も併合してる。
利家は秀次の死によって秀頼後見役にのし上って、秀吉亡きのちは事実上の天下人になっていた。
0905人間七七四年
2014/05/18(日) 12:55:47.37ID:1hDGeSlq三成に関しちゃ濡れ衣だろうけど。
0906人間七七四年
2014/05/18(日) 13:07:13.54ID:w28Jb58D戦後は10万石の役儀まで免除してもらい幕府から厚遇されてたのに
輝元は首謀者だったから冷遇されっぱなしだったよなぁ。
>>905
蟄居中の食事の世話まで秀吉が頼んでいた矢先に
秀次が勝手気ままに自刃するから激怒したんだろが。
しかも母を供養するために作った場所で不浄なる血で汚したから。
0907人間七七四年
2014/05/18(日) 13:15:15.74ID:WjWjB8ZV秀吉が死ぬ前まではそんな責任逃れも上手くいっていたが
家康が筆頭大老に就任した後は言い訳ばかりの石田・小西は豊臣にとって不要な存在になった
彼らが仕事を取り上げられるのは当然のことだろう
当然の報いを不満に思って謀反を起こすなど石田・小西の所業は到底許されるものではない
0908人間七七四年
2014/05/18(日) 13:36:17.65ID:cTsQjFl8北政所側の木下氏にはろくなのいないし
0909人間七七四年
2014/05/18(日) 13:56:43.87ID:1hDGeSlq0910人間七七四年
2014/05/18(日) 14:29:06.12ID:71WztrVe秀次を殺した上に秀次の側室関係などを悉く秀吉が殺したから
豊臣は一挙に人望を失った。相当ボケがきてたんだろうな。
0911人間七七四年
2014/05/18(日) 15:43:48.06ID:lsLrFpmW忠臣中の忠臣じゃね?
奸臣は家康とか家康に政略で取り込まれた連中とかでしょ。
武功派も結果としては奸臣だったが。
0912人間七七四年
2014/05/18(日) 15:54:08.04ID:kXcpvgjr0914人間七七四年
2014/05/18(日) 16:28:14.10ID:1hDGeSlq家康も三成も自分の政治権力のために戦った。
いうなればみんながみんな奸臣だが
そうなる原因をつくったのはボケ老人の秀吉
0915人間七七四年
2014/05/18(日) 18:07:57.17ID:cTsQjFl8さすがに秀長の家系は潰したりしないだろう
大和と美濃に豊臣の巨大勢力が健在だったら
関ヶ原も全く違ったものになってただろうな
0916人間七七四年
2014/05/18(日) 18:37:04.64ID:y/p8FIu4そもそも内府たがい条でも北政所を追い出して住んだと家康は糾弾されてるわけで西の丸掌握にはクリアしないとならん問題。
豊臣譜代と淀は秀頼を推参する立場において利害一致してるから隠然たる力はあるだろ。
積極的ではなくあくまで隠然。
秀頼の命として淀が言った形式もまだ落ち着かない政治体制下での政治問題化は大坂城で掌握指導にむけて厄介事でしかない。
表向きは浅野、内むきは孝蔵主と言われていたくらい大坂城の中枢は分権されていたほど。
女だから軽視するのはアホな考え。
もともと戦禍が起きても御所内なら兵火が及ばないだろうってことで
秀頼のために秀吉が聚楽第に代わり造営したのが京都新城で、七将クーデターの時に大坂城を不法占拠した家康の圧力で
北政所が新城へ出た後に家康が北政所がいた場所に住んだ。北政所は自分がもっとも影響を及ぼせる京に移ったわけだ。
その後の慶長5年6/18には早くも北政所が豊国社に増田と玄以も社参してるのが反家康の端緒と言われてる。
西軍は義演准后日記などで秀頼様衆と書かれているので世間的にも公認されてる。
岐阜城が落ちて美濃まで武断派が占拠したのを知った北政所は8/29より
禁裏に戦禍が及ぶのを案じて城の兵備を破壊し始めてるだけ。
大津城攻めが開始されると義演准后日記に9/9秀頼様祈祷代として金二十両・銀三枚が来ると書かれており
西軍戦勝の祈祷に大坂城の金が使われてるのがたびたび見受けられる。
大津城を開城させるため京の北政所は孝蔵主、大坂の淀殿は饗庭局、高野山は木食上人を投入し一致協力し
和睦後は大坂への人質として京極忠高を受け取る。
西軍敗北と聞くと9/17北政所は裸足で御苑内の勧修寺晴子の屋敷に逃げる。
9/22に京都新城へ北政所は戻る。言経卿記・孝亮宿禰記などで9/26に家康が大坂城へ入り秀頼と和睦をなすとしている。
10/14北政所側近の孝蔵主が罪に問われないように祈祷していたが、この日ついに不問になり西洞院時慶ら公家衆も安堵する。
10/15大坂と江戸の問題が処理され淀の供応で家康と和解し論功交渉スタート
19日秀忠・忠吉が前田玄以とともに豊国社へ参拝。
家康も北政所や淀の罪が問えないどころか饗庭局も不問。
さらに難航していた孝蔵主の処分まで不問にしないと秀頼の名で論功行賞すら行えなかったのが現実。
0917人間七七四年
2014/05/18(日) 18:38:32.06ID:y/p8FIu4北政所への接し方や秀頼(及び母)を敬う態度についても糾弾されてるわけで
西軍には彼女らの存在により
より強い正当性が追加されてると言うことであって
遺令による衆議を否定してない。
いや基本的には彼女らより衆議の方が優先される。
なぜなら彼女らは大坂城における内むきを取り仕切るもう1つの権威たる存在であり
(大坂に集めた人質の管理も北政所の職責のひとつ)
表向きの権力である衆議とはその性格を異にしてる。
家康が大坂城を掌握するには力だけでは無理で内むきの権威を懐柔しなくては謀反人解除が達成されないと言うこと。
そこに豊臣譜代たる秀吉や北政所の子飼い武断派の重要性が出てくるわけ。
しかもその連署には家康の専横による前田や上杉への態度まで糾弾されていて
彼ら2大老の謀反人解除と言ってもよい内容。
これが発せられるや会津征伐軍は解体され
堀や最上と共同で上杉を攻める予定だった前田家も家康の指示を待たずに帰国してしまったために
上杉の脅威の前に堀まで西軍に内通を開始。
母を江戸に人質に取られていた前田利長はやや家康寄りの態度を示すが
前田兄弟は東西分離策をもって秀頼親衛隊たる立場だった利政は西軍側で挙兵。
景勝は家督譲渡や島津攻めの先鋒と言った条件が一切無かった講話だったことから見ても
輝元が首謀者だったのは間違いない(それどころか上杉は10万石の役儀の免除までもらって裕福な藩運営ができた)
また伏見城落城翌日に西軍首脳の北政所と輝元が豊国社で戦勝祈願 をしているがやはり三成は豊国社で祈願すら一切やってない。
北政所と親しい醍醐寺の座主義演が吉川ら毛利の東軍への降参を卑怯卑怯と罵っているなど首謀者毛利のあり得ない行動に、
毛利に賛同していた者たちは憤激していたし、
首謀者毛利の裏切りを受けて北政所が関が原後に京での東軍の乱暴を避けて後陽成天皇生母の屋敷に逃げ込んだ
これらの北政所人脈と三成も全く無関係。
0918人間七七四年
2014/05/19(月) 09:37:17.29ID:3JMb4fFj子供がその器じゃないと判定されたら容赦なく領地削られたよな
秀吉が家康より長生きしてたら同じ感じで徳川の土地を削り取るつもりだったんだろう。
0919人間七七四年
2014/05/19(月) 09:43:18.46ID:pruWOncT秀頼も秀吉が建立した方広寺を呪詛を込めた鐘で汚した罪で命を奪われているしね
秀吉の寺社を汚すことは秀吉の親族であっても罪を免れることは出来ない
むしろ秀吉の親族だからこそ厳罰を与えなければいけないといえる
秀次から秀頼までぶれることなく一貫した処罰が与えられたのは良いことだった
0921人間七七四年
2014/05/19(月) 16:53:23.85ID:IQ9iC2h3史料には全く出てこない矢部健太郎の推論でしかない
それを確定したことかのように語る菅沼は馬鹿だとしか言いようがないな
0924人間七七四年
2014/05/20(火) 08:51:19.04ID:bwwczrZh学者は誰も否定してないけどなwww
0925人間七七四年
2014/05/20(火) 10:42:37.83ID:Ys21MXhi家康は三成の謀反を鎮圧したり秀頼が方広寺を汚したことにも断固とした対処をしているし
豊臣への功績が大きいことを考えればたいした問題ではないだろう
0927人間七七四年
2014/05/20(火) 12:37:11.46ID:X7S8F1hU0928人間七七四年
2014/05/20(火) 17:18:46.45ID:svEiltXEなんとも言えんとコメントしてたな
0929人間七七四年
2014/05/20(火) 17:38:53.30ID:yHwUvyqPつまりはまだその程度の段階だと言うことだ >秀次自刃の新説
0930人間七七四年
2014/05/20(火) 17:52:47.74ID:svEiltXEマトモな学者からすればなんでその程度のことで鬼の首をとったように…って感じだろうし。
0931人間七七四年
2014/05/20(火) 19:35:30.77ID:ZY+IjkEl地方の鉱山が飛び地になるのは仕方ないとしても近畿一帯に300万石級の直轄地を置いて
それを基盤に七手組よりしっかりした豊臣直属軍を整備する方が朝鮮攻めするよりよほど現実的で大事なことだったと思うんだけど
それでも家康に解体されたかもしれないけど、無数の旗本を細かい領地に縛り付けとけばそんな脆くはなかったはず
秀吉死後の豊臣家って金はあるけど兵がいないという印象があるくらい弱々しいよね
0932人間七七四年
2014/05/20(火) 19:44:48.46ID:svEiltXE豊臣の直轄地とだけ比較するのはどうかと思う。
家康がもっと早くに死んでたら逆に徳川の方が解体されてたかもね。
秀忠にこんだけ。秀康にこんだけ。ってな感じに。
本田とか榊原や井伊も独立大名にされただろうな。
0933人間七七四年
2014/05/20(火) 20:07:00.44ID:ZY+IjkElでも徳川譜代って秀吉子飼いとは比較にならないくらい結束してるでしょ
さんざん調略や軍団運営してきた秀吉なら豊臣の自宅警備員がずさんな事くらいすぐ分かりそうなもんだけど
やっぱ第一子死んだ頃から惚けてたのかな?
0934人間七七四年
2014/05/20(火) 20:16:50.91ID:svEiltXE大久保長安事件のゴタゴタのあたり家康も自分が生きてる内に最低限
豊臣の息の根を止めとかないとヤバイと焦ってただろうね。
史実じゃ家康は長生きしたから徳川安泰に見えるけど
当時の平均寿命考えたらかなりのタイムアタックを家康は強いられてた
0935人間七七四年
2014/05/20(火) 20:46:59.34ID:ZY+IjkEl組頭が全員戦死したからかなり戦ったはずなのに存在すら一般的には知名度がないって手抜きすぎじゃね?
0936人間七七四年
2014/05/20(火) 21:03:58.55ID:Pkj6qkO6秀吉は下記のようにいう事の聞かない先代からの譜代など全くおらず、秀吉自ら育てた「生え抜きの譜代」ばかりいて
先代からの専横ばかりしてた邪魔な譜代に比べて、皆秀吉との結びつきが非常に強く、豊臣の恩を受けまくってる連中ばかりいた。
熊見川合戦時点での秀吉家臣団は一門衆が秀長・秀勝・三好義房・浅野長政・杉原家定・家次、木下家定
尾張衆は加藤清正・福島・山内・蜂須賀(河波衆リーダー)青木・平野・加藤嘉昭・堀尾・宮田光次
美濃衆が竹中・坪内利定・稲葉貞祐・加藤光康・小野木生駒石川光政日根野弘就谷衛好仙石秀久
一柳直末・伊藤秀盛・尾藤知宣。
近江衆の木村隼人正・片桐且元・寺沢広政・石田三成・中村一氏・増田長盛・宮部継潤・速水守久・脇坂安治・
長浜衆(伊藤牛助・谷兵介・石川小四郎・藤縣三蔵・田中小十郎など)
他国衆の中川清秀(摂津茨城城主、舎弟)小西行長(堺衆)・黒田孝高(播磨姫路城主)
これとは別に播磨衆と但馬衆に亀井・垣谷などが加わるし相当の規模の軍団だっただろ。これに加えて尼子残党の
上月城でしぶとく敢闘してる尼子義久や山中幸盛らや、同陣している荒木村重らがいるんだから普通に18000程度は余裕でいく。
下手すりゃ22000くらいはいてもおかしくない。蜂須賀前野とか河波衆のリーダー格だからそんなに極端に少ない兵力って事はないだろうし
一方の毛利軍は超遠距離で兵站の問題もあるし、背後の大友はいるし、反旗を翻した鈴木孫右衛門等に備えて清水らを備中に帰国させてるし。
ほぼ互角といった所じゃね。中川や荒木あたりは普通に大身だしな。蜂須賀も尾張時代ですでに2000程度持ってたとされるし
それから主君の秀吉が出世したんだから家臣の蜂須賀も出世してるだろうし。
谷とかも、竹中と同程度の地位だったし。
0937人間七七四年
2014/05/20(火) 21:09:13.02ID:uuOvSjB4元を辿ればほとんど旧今川系旧武田系旧北条系とか奥三河奥遠の国人系とかばっかりだし
三河一向一揆でも徳川譜代系は真っ二つに割れるほどだったし
小牧長久手の頃でも寝返りがボロボロ出てたし、石川までも篭絡されかかってたし。
井伊とか本多とか子飼いでいうなら、豊臣武功派よりも、持ってる動因兵力なんて微々たるものでしょ。
鵜殿とか岡部とか諏訪とか保科とかどのくらい譜代扱いできるかわからんし
逆に旧今川系旧武田系旧北条系とか山奥の国人系を譜代扱いするなら
豊臣だってほとんど譜代扱いできるじゃんってなもんで。
0938人間七七四年
2014/05/20(火) 21:13:30.00ID:ZY+IjkElオマエw
以前日本史板から追い出されて大河板に居着いたけどそこでも同じような人名羅列のコピペ連投で追い出されたやつじゃねーか
宇喜多直家を秀家と間違えてコピペくらいしっかりやれと突っ込まれたりしてたw
いつまで放浪してるんだよ
0939人間七七四年
2014/05/20(火) 21:14:50.48ID:7MtTWURB0940人間七七四年
2014/05/20(火) 21:18:23.00ID:fuYvcav1寝返りもボロボロ出たりしてるしいう程結束してない。
旧武田系の諏訪・木曽・小笠原とか旧北条系とか全く未知数だし。
0941人間七七四年
2014/05/20(火) 21:19:05.74ID:ZY+IjkElそうじゃないんだ
宇喜多が毛利側にいるときの秀吉との兵力差を論じている時に
わざと間違えて宇喜多は秀家だから15000の兵力は秀吉側になる
というふざけたことばっかやってたから大河板から追い出されたの
0942人間七七四年
2014/05/20(火) 21:20:13.95ID:ZY+IjkElそうだな
徳川譜代が結束してたというのは俺の間違いだな
0943人間七七四年
2014/05/20(火) 21:43:48.15ID:svEiltXE家康は親父も祖父も家臣の裏切りで死んでるし疑心暗鬼になってもおかしくない境遇。
0944人間七七四年
2014/05/20(火) 21:57:42.02ID:CYeNqbDk山奥の国人系(山家三方衆とか松尾とか知久)とかで成り立ってるだけでしょ。
譜代とか子飼いなんてごく一部だし
その一部でも結束してるかなんてよくわからん。
0945人間七七四年
2014/05/20(火) 21:59:15.44ID:AGBSsfN0まあ徳川に限った話ではないけど。
0946人間七七四年
2014/05/20(火) 22:05:04.11ID:yHwUvyqP0947人間七七四年
2014/05/21(水) 04:49:28.62ID:+LqPJ9GT多くても10万石程度にとどめておいて余りは蔵入地にしとけばよかった。
0948人間七七四年
2014/05/21(水) 10:21:46.05ID:c39E1yn2しかも朝鮮出兵前は12万石だったのにそこから前線で命がけの戦いをしている大名をさしおいて
三成を優先的に加増したために現場の不満が爆発した
命がけの戦いをしても官僚側に恩賞が吸い取られるなら戦いたくなくなるのも当然だ
西軍大名の大半が関ヶ原で戦闘をしなかったのも必然の結果といえる
0949人間七七四年
2014/05/21(水) 11:10:17.79ID:LUDe5XZZ毛利みたいな雑魚に大封与えるくらいなら、石田らに120万石だの与えてたら間違いなく豊臣政権は安泰だった。
三成は豊臣蔵入り地を少しでも確保しようと島津の領土問題に立ち入ったり
家康の専横に異を唱えたりと東奔西走した。
不運は、武功派連中がアホすぎて豊臣への恩を忘れて家康にマンマと篭絡される形になったこと。
東軍なんて徳川勢以外は、三成にくしで凝り固まってたアホ武功派くらいしかいないからな。
0950人間七七四年
2014/05/21(水) 11:16:41.32ID:LUDe5XZZ豊臣軍が戦争できたのは奉行衆らの兵站管理能力のおかげ。
それを考えると100万石やっても十分すぎる。
ほとんど功積のない福島加藤黒田とか雑魚武将にやるくらいなら
三成に数百万石やったほうが遥かにマシ
0951人間七七四年
2014/05/21(水) 11:17:58.15ID:hZzyKra7三成ら奉行衆らの早期での三河・遠州方面への侵攻作戦をアホ輝元が無視し続けて
東軍が三河を越えて尾張までやってきても、輝元は奉行衆らからの防衛要請を無視し続け
結局大破されただけ。総大将がここまでアホでは黒田だろうが石田だろうが、現場指揮官が誰でも勝てるわけがない。
むしろ石田は畿内だけで18万もかき集めて家康に決戦しかけるなどかなりよく頑張ったしな
0952人間七七四年
2014/05/21(水) 14:47:00.40ID:iaFlY5C4逆に考えると小山から関ヶ原への家康が命じた軍の移動って彼にしては下手すぎない?
東海道先鋒と中山道と本隊に三分割して
先鋒だけ突出する形になってたから西軍がまともに動いてたら各個撃破されてたかもしれないのに
美濃・尾張押さえられたら烏合の衆の三河〜駿河の小大名なんて西軍の先鋒になっちまうぜ
ただでさえ家康本隊が一番弱いのに
0954人間七七四年
2014/05/21(水) 15:31:38.99ID:iaFlY5C40955人間七七四年
2014/05/21(水) 15:57:17.76ID:kpAF02QU三成謀反の話を聞いた武断派がいう事を聴かずに西上してしまったため
家康は武断派と西軍が通じているかも疑心暗鬼になって
ふさぎこんでいた。
0957人間七七四年
2014/05/22(木) 07:55:47.97ID:1rijKBkD五奉行はみんな首脳部の政治家でしかないんだから、そういう奴らの土地ってのは私的な財産と変わらん
0958人間七七四年
2014/05/22(木) 08:07:05.41ID:PC20T7sk畿内の蔵入地から自腹切って裂くかのどっちしかない
で、どっちも豊臣政権にとっちゃ致命的 要するに無理
0959人間七七四年
2014/05/22(木) 08:15:09.46ID:RhhXqwAs中国地方120万石+九州50万石を三成小西あたりに分け与えてたら
関ヶ原は西軍完勝で終結。
0960人間七七四年
2014/05/22(木) 08:19:04.58ID:PC20T7sk地方の大領なんて貰っても中央の政局から遠ざけられるだけで得しない。
大領の統治を代わりに任せられるほどの人材は奉行集の配下にはいないからな。
0961人間七七四年
2014/05/22(木) 08:20:07.76ID:1rijKBkDまぁ、降伏を認めず武力で完全屈服させれば旧領解体も可能だが
0963人間七七四年
2014/05/22(木) 08:25:12.82ID:PC20T7sk豊臣の権力が強かったら誰も苦労はしない
0964人間七七四年
2014/05/22(木) 11:20:42.63ID:+WaIm/mh豊臣軍が兵站を維持しながら戦争できたのは秀吉が豊富な資金を用意したからであって
石田や小西は秀吉から貰った金で米を買っただけで子供できるお使いをしただけに過ぎない
その証拠にそういった売買が通用しない朝鮮出兵や資金を提供してもらえなかった関ヶ原では
石田や小西など兵站において何の役にも立たないお荷物だった
むしろ朝鮮出兵のような苦しい戦いを続けることが出来たのは武断派が異国の地でも必死に兵の士気を繋ぎとめてくれたおかげ
だから彼らと手を切った西軍は士気を維持できず抜け殻のように戦意を喪失していった
石田や小西は戦のことなど何も知らない素人だから武断派の手腕の重要性にまるで気付かず
子供のお使い程度のことをしてきただけの自分たちを過信し自滅していった
0965人間七七四年
2014/05/22(木) 13:16:29.15ID:PC20T7sk三成の手柄は主に検地の実行役。
それゆえに諸大名から恨みを買った。
0966人間七七四年
2014/05/22(木) 15:16:34.44ID:+En0VOfGその分をいちゃもんつけて削って、三成や小西や大谷あたりにやってたら万事解決してたな。
最低でも小早川に毛利と別枠で50万石やるくらいなら、石田や小西や大谷あたりにやってた方が良い。
それから徳川に大版図やったのも誤り。
毛利から削るのが難しいなら、関八州を奉行系や畿内の諸侯にやってれば良かった。
0967人間七七四年
2014/05/22(木) 17:21:17.80ID:PC20T7skそんでなんか失点あれば突く気満々だったわけ
唐入りでてんやわんやになってそれどころじゃなかったけど
徳川・毛利に関しちゃ豊臣政権ないでは完全別枠の聖域扱い
あんだけたくさんの大名が連座いちゃもんつけられまくった秀次事件でも
この二家はノータッチ
細川は秀次から借りた金返すのに家康から借金したのに
毛利は借りた金返さずにそのままガメてもなんのお咎めなし
0968人間七七四年
2014/05/22(木) 18:21:36.77ID:vTZK1/II別に東海5ヶ国だけでも奥州の処理なんてやらせられるでしょ。
それに早い段階から豊臣に貢献してきた毛利と違って
徳川に対して2倍もの加増をしてやる理由なんてないし
おかげで徳川は軍事力倍増・中央集権化成功と大きく躍進する事になった。
毛利から削るのが難しいのはまあわかるが、徳川に大盤振る舞いしなきゃいけない理由なんてないわな。
普通に小西大谷石田にやるか、畿内の諸侯にでもやるかすればよかっただけ。
徳川なんて豊臣に従ってきた期間でも他の連中より短いし、その分、豊臣への貢献度も大きく落ちるし。
0969人間七七四年
2014/05/22(木) 18:32:38.37ID:PC20T7skあれは秀吉の指示が悪かったんだけど
0971人間七七四年
2014/05/22(木) 22:04:26.68ID:Ky1w+Kuu佐々みたいに殺すつもりだったかもね
0972人間七七四年
2014/05/22(木) 22:28:53.33ID:mrg2vlhJ0973人間七七四年
2014/05/23(金) 22:01:15.96ID:VSr4BXSr三成は失敗するたびにあれが悪いこれが悪いと言い訳のオンパレードだからな
難しい状況で仕事をしているのはどの大名も同じ
言い訳を繰り広げるしか能がない三成を現場で厳しい戦いをしている武断派が嫌うのは当然だろう
0974人間七七四年
2014/05/25(日) 09:53:43.30ID:aKDtXbha0975人間七七四年
2014/05/25(日) 17:50:56.99ID:KPL5wWBv「先々は兵糧もなくその上寒空に向かっており途中の道筋も無人になり返すことすらできなくなる」
と明侵攻において途中での補給が難しいことを説明し、
まずは国郡で政務を行うように命じ、秀吉の意向に対して、反対して方針変更してしまうほどの男
忍城攻めでも秀吉の指示による水攻めに反対し、強襲を意見するほど。
豊臣恩顧大名の書状を見ても、秀吉の絶対命令に対して、現場責任者としてちゃんと理を説いて反対意見を具申しているのは三成くらい。
これが秀吉の信用を得ていった理由だろう。
また筑前筑後の小早川領をやると言われた時には三成は反対し、
それらの領地を豊臣政権の財政基盤のため蔵入地にしてしまうなど、
当時の豊臣恩顧大名の領土欲とは正反対の志向を持っていた。
秀吉にも怒りを買うのを恐れず意見し、領土欲もない。
これが秀吉には唯々諾々と従い、強欲に領地を欲した武断派と相容れないところだったんだろう。
0976人間七七四年
2014/05/25(日) 17:51:44.46ID:KPL5wWBv蔵に食料がたんまりあり、兵糧にこれほど困らない戦いはいままで無かったなどと言われるほど。
だけれどそれは現地の蔵にあるものを没収していたからで、
三成は日本との兵站線から先々は補給が厳しくなることを見通して朝鮮統治に力を割くようにしようとしていた。
そこに明軍が襲来である。
小早川隆景の馬鹿は後退により秀吉からの叱責を恐れて臨津江という大河を背に自分の守る開城で篭城することを主張し、
三成は背後の大河を使っての補給遮断の危険性を強調し、隆景が臆病者めと応じて大口論。
大谷と前野が仲介して、漢城へ後退し迎え撃つことに。結局、立花宗茂が活躍し明を撃退。
秀吉が後退をとがめるために浅野が使者としてやってくると、
隆景が奉行が臆病で仕方が無かったと連呼し、明軍撃退を自分ひとりの功績だと主張して得意がっていた。
三成は後退の叱責を一人でかぶり、開城撤退理由を話した。
0977人間七七四年
2014/05/25(日) 19:05:43.63ID:1tmMy1L9どんな理由があろうとも補給を万全にして豊臣軍が問題なく明に進軍できるようにするのが三成の仕事なのに
それができないばかりか自分の無能さを棚に上げて豊臣の進軍予定を勝手に止めようとする
三成のあまりの身勝手さに豊臣恩顧大名の多くが怒り三成を嫌うようになったのも当然だろう
忍城攻めでも秀吉の指示による水攻めに口先だけ反対しながらそのまま水攻めを現場に押し付けるという最悪の行動を取り
不満の溜まった現場では堤防への手抜き工事が横行しあえなく決壊してしまった
関ヶ原でも毛利の決定を無視した三成の身勝手な行動に西軍大名の大半は耐えられず
本戦ではほとんどの大名が戦闘を拒否するほどの嫌われようだった
確実なのは三成が戦に関わると現場は大混乱に陥り勝利どころか戦の遂行さえ困難になるということ
三成のせいで豊臣が崩壊に追い込まれたことは間違いない
0978人間七七四年
2014/05/25(日) 23:11:16.62ID:v5Ohkok/日本とは比較にならない国土面積の敵地への深い侵攻と、寒冷な気候で馬鹿みたいに
それまでのショボイ国土と朝鮮に比べれば温和な気候の中での戦しかなれてない日本軍じゃどうしようもない。
0979人間七七四年
2014/05/25(日) 23:59:31.59ID:p7N6o9REそのわりには石田ばっかりガンガン景気良く加増されてるのよね。
秀吉の死ぬ直前には50万石クラスまで伸びる話があったと言うし。
在番組のトップやってましたとかならともかく、ただの報告役が大加増で前線にでてる諸侯は何もなし
それどころか小早川みたいに仲間を助けたら領地が半減とかちょっと理不尽に過ぎる。
0980人間七七四年
2014/05/26(月) 05:59:13.01ID:w7i/trkL自分の親類で元養子で官位も高いし、繋ぎの関白の話がきてもおかしくない人物だったしな
そんなのが半島で英雄になられちゃたまったもんじゃないと
0981人間七七四年
2014/05/26(月) 07:27:55.59ID:xZSpwb/Pむしろ足ひっぱってただけだし。
0982人間七七四年
2014/05/26(月) 20:55:34.27ID:8j9ELN3r小早川からすれば文治派に足を引っ張られたうえに領地まで盗まれそうになったわけだしね
0983人間七七四年
2014/05/26(月) 22:40:13.69ID:HukGJPVYその方面で何かやらかした、諸侯の足を引っ張ったという記録はあったっけ。
俺が知らないだけ?
0984人間七七四年
2014/05/27(火) 06:53:04.64ID:9KDmfJCt結局は家康の計らいで小早川が旧領に戻れることになって武断派も
矛を収めざるを得ない結果になったけど。
0985人間七七四年
2014/05/27(火) 11:44:44.85ID:DUZdANBs三成は背後の大河を使っての補給遮断の危険性を強調し、隆景が臆病者めと応じて大口論。
大谷と前野が仲介して、漢城へ後退し迎え撃つことに。結局、立花宗茂が活躍し明を撃退。
秀吉が後退をとがめるために浅野が使者としてやってくると、
隆景が奉行が臆病で仕方が無かったと連呼し、明軍撃退を自分ひとりの功績だと主張して得意がっていた。
三成は後退の叱責を一人でかぶり、開城撤退理由を話した。
0986人間七七四年
2014/05/27(火) 13:58:11.79ID:SoTMD18F秀吉は甘やかさずに三成を切腹させるべきだった
三成のような奸臣が死ねば豊臣には300年の天下が約束されたも同然だったのに
ここで奸臣を放置したために豊臣は崩壊に追いやられたのだから
豊臣にとっては悔やんでも悔やみきれないミスだろうね
0988人間七七四年
2014/05/28(水) 00:15:53.72ID:O9inuQgO石田による補給確保の失敗と小西による講和交渉の失敗がある
武力では日本の方が勝っていたが文治派の能力があまりにも低すぎた
散々に足を引っ張られた豊臣恩顧が文治派に怒るのも仕方がない
0989人間七七四年
2014/05/28(水) 12:58:04.15ID:3nyhJMOX蔵に食料がたんまりあり、兵糧にこれほど困らない戦いはいままで無かったなどと言われるほど。
だけれどそれは現地の蔵にあるものを没収していたからで、
三成は日本との兵站線から先々は補給が厳しくなることを見通して朝鮮統治に力を割くようにしようとしていた。
そこに明軍が襲来である。
小早川隆景の馬鹿は後退により秀吉からの叱責を恐れて臨津江という大河を背に自分の守る開城で篭城することを主張し、
三成は背後の大河を使っての補給遮断の危険性を強調し、隆景が臆病者めと応じて大口論。
大谷と前野が仲介して、漢城へ後退し迎え撃つことに。結局、立花宗茂が活躍し明を撃退。
秀吉が後退をとがめるために浅野が使者としてやってくると、
隆景が奉行が臆病で仕方が無かったと連呼し、明軍撃退を自分ひとりの功績だと主張して得意がっていた。
三成は後退の叱責を一人でかぶり、開城撤退理由を話した。
0990人間七七四年
2014/05/28(水) 23:28:38.36ID:O9inuQgO明の援軍が来る前に朝鮮全土を占領することも簡単なはずだった
そうすれば日本の武威の前に明もなす術がなく戦は短期的に終わる予定だった
ところが石田が補給の確保に失敗し進軍の停止を要求したために日本側の先制の利が失われ
さらに小西が交渉に失敗し日本側の要求を何一つ飲ませることが出来ず日本国王だけ貰って家臣になる始末
成功間違いなしだった朝鮮出兵は石田と小西の無能によってまさかの失敗に終わった
戦場で圧倒的な武威を見せながらも文治派に足を引っ張られ撤退を余儀なくされた豊臣恩顧が
無能な官僚達に激怒し解任を要求するのも当然の対応だろう
家康は文治派の責任を認め石田を解任し小西の職権も停止するなど豊臣を立て直す改革に取り組んだ
奸臣の謀反によって頓挫したものの家康の奸臣排除改革を必要とするほど豊臣にとって朝鮮出兵の失敗は深刻だった
0991人間七七四年
2014/05/29(木) 10:13:20.51ID:Z00Ve5wi朝鮮側が防御の準備をする前に速攻で朝鮮を落とすことが日本の戦略だった
途中までは順調に進み明の援軍が来る前に全てを片付けて戦を終わらせることが出来たはずだったのに
三成が兵站に失敗するという致命的なミスを犯したために日本の進軍は遅れてしまい
日本側の必勝の戦略は三成の無能によってあっけなく崩れ去った
朝鮮出兵の失敗の責任はすべて三成に帰するのは火を見るより明らかであり
戦後に現場の武将から無能な三成の解任を要求されたのは必然の結果であった
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。