過大評価の信長と過小評価の秀吉
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0001人間七七四年
2013/11/10(日) 22:20:23.59ID:Wv0SdrFH0002人間七七四年
2013/11/10(日) 22:59:30.53ID:mO7kMnm4謙信死後… 御館の乱やその後の内戦・新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに
越中中部で天正8年から天正10年半ばまで2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の松倉の枝城にすぎない魚津城攻防で上杉が信濃に
派兵した隙をついて 居留守泥棒的に行ったにもかかわらず大苦戦。松倉の須田に手も足も出ずに苦戦し撃退
新発田は完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞
連発した内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・上野(20000)
から総兵力8万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北越中中部で苦戦した織田軍
上杉37万石程度(御館の乱や新発田の乱で極端に瓦解)に 伊達・芦名・新発田と共同戦線で9倍の兵力差でもって
2年も越中中部〜魚津・松倉のわずかな区間で進めず立ち往生
金森ら飛騨口部隊も松倉に手も足も出ず 森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北 新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞
上杉5000〜8000に対して総勢8万そこそこで廻りから総勢で攻め込みまくって勝てなかったのが織田家トップの柴田
武田対織田…
上村合戦…武田の圧勝。東美濃攻防戦…武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方ヶ原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間・平手・滝川・水野・前田兄の大軍2万が敗走、平手・前田兄戦死
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
長篠の戦い…「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
○武田と徳川…三方が原の戦いで織田の大軍2万&徳川8000を見事正面衝突で敗走させられる
勝頼時代も大いに苦戦し田中城に手も足も出ず高天神城に大苦戦
○織田と徳川…織田は大軍で寡兵の浅井に苦戦し当時の織田四天王の息子の坂井久蔵戦死。
徳川は寡兵で大軍の朝倉に勝利し、瓦解した織田軍を救って引き分けもで持っていく
秀吉…小牧長久手で家康より遥かに戦下手で織田家で最も無能で伊賀攻めに失敗し信長の勘気蒙り縁を切られそうになるアホ信雄に135000の大軍で挑んで
1万人殺される大敗。その後の攻防も二重堀・蟹江・前田・下市場・松ノ木・浜田・長久保・東駒野・河波・神戸攻防で敗北
二重堀合戦では防衛戦にもかかわらず1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられる
蟹江・前田・浜田・下市場・長久保・神戸は秀吉方本陣から程近い距離にあるにもかかわらず見事に寡兵の信雄に奪回される
以上をまとめると上杉>>武田>>>>>>>>徳川>>>>>>織田>>>>>>>>>>豊臣
0003人間七七四年
2013/11/10(日) 23:00:07.07ID:KQo/RYgu武田家…織田・徳川軍に勝ちまくり両家ともに滅亡寸前にまで追い込む
上杉…武田に大勝する。織田を半分以下の兵力で瞬殺し1800人討ち取る
秀吉…織田で最も雑魚な信雄やアホ輝元に10000人&3000人殺される。滝川に伊勢で蹴散らされまくる 本多500に20000の大軍で敗北する
北条…滝川18000を瞬殺し6000人ぶち殺す
史実の戦績で本多500>>>>>秀吉軍20000(小牧長久手時の後詰妨害の攻防)
織田徳川16000〜17000>>>>>>秀吉軍135000(決戦しかけたら1万人戦死の大敗)
滝川6000〜8000>>>>>>>秀吉軍60000(天正11年の伊勢の攻防、ゲリラ戦で苦しめられまくり7月まで篭城
(3/4柴田→填島書状、滝川事書本多氏論文)柴田・信孝の降伏で勝ち目なく降っただけ)
だから滝川破った氏直は秀吉の20倍くらいの戦闘力はある
信長や秀吉は畿内・美濃に大苦戦。 家康は瞬殺した。その家康は諏訪高島で北条相手に敗走。
秀吉は信雄相手に7.5倍以上の圧倒的兵力で1万人以上ぶち殺された。
氏直は信雄より遥かに勝る家康相手に諏訪高島・乙骨で勝利し、全体でも引き分けした。
秀吉は6万の大軍を伊勢で滝川に蹴散らされまくり大苦戦。北条は三万で滝川18000を瞬殺し6000人討ち取った。
豊臣家は家康に滅ぼされて滅亡
北条家は江戸期も存続。旧臣らは家康配下で重宝され、統治システムも豊臣ではなく北条家の物が受け継がれた
小田原合戦時の陣立書で全国から215000&佐竹結城里見宇都宮ら2万で235000。
北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。秀吉書状で2、3万。兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前
そんな戦闘で重臣一柳や堀尾の子、前田重臣、平岩弟が戦死し、氏家行継負傷。韮山500に大苦戦し小田原1000程度や忍1000に手も足も出ない。
勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが北条方の兵力が集中した上野・武蔵・下総の諸城落としたおかげ(ちなみに勝ってない。講和開城しただけ)
北条側は主戦派抗戦派割れるなど戦意0で松田大道寺皆川北条氏勝など寝返り・抗戦意思なしで降伏する者ばかりの戦意0の状況
享禄以来年代記によれば豊臣軍は29万。また榊原書状や那須記など50万の大軍。にもかかわらず忍小田原韮山など1000〜500そこそこの拠点も落とせず
兵站維持できるギリギリのところまで追い込まれる
北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無 今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
以上をまとめると武田>>>徳川・北条>>>>>>織田>>>>>>>>豊臣
0004人間七七四年
2013/11/10(日) 23:00:46.77ID:mZn500x3一柳・堀尾嫡男・前田重臣が戦死するなど苦戦しまくり忍城1000や小田原1000に手も足もでなかったし
秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
氏直が2倍程度の兵力で瞬殺した滝川(6000そこそこ)に5〜6万で挑んでゲリラ戦で苦しめられ蹴散らされてたし
神流川の戦いはガチンコ決戦だね。
合戦の最中寝返りが出たとか講談にしかないデタラメだし
上野国衆勢はむしろ緒戦で敢闘して氏邦勢を撃退してる
本戦で氏直の偽退却戦術にかかって滝川軍18000のうち6000も戦死し重臣もことごとく死ぬなど
決定的に戦術で負けただけ。ようは実力で勝負がついただけの戦。
あと信長が死んでボロボロになったのではなく
元々弱くてボロボロになっただけ。
森なんか本能寺前ですら四面楚歌状態の上杉に長沼攻防で敗北してるし
信玄横死後、斉藤道三・義龍横死後でも
美濃信濃甲斐遠州は草刈場にならなかったのに
信長横死したら甲斐信濃上野は大混乱で徳川上杉北条の独壇場。
いかに織田が雑魚だったかわかる事例
北条>>>>>織田
秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
氏直が2倍程度の兵力で瞬殺した滝川(6000そこそこ)に5〜6万で挑んでゲリラ戦で苦しめられ蹴散らされてたし
0005人間七七四年
2013/11/10(日) 23:01:19.14ID:h7Ykh8HW岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長 姉川
謙信>>>>柴田 手取川
謙信>>信玄 川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉 尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川 神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族 中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津 九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦 鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直 天正壬午
仁科>>>信忠 高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀 二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部 戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利
0006人間七七四年
2013/11/10(日) 23:03:09.21ID:h7Ykh8HW天下人の家臣団
政治 統率 知略
家康 110 114 108
本多 77 105 80
酒井 87 95 93
井伊 85 94 93
榊原 50 94 70
大久保 47 83 76
氏康 120 105 108
氏政 96 83 84
政宗 107 97 96
盛氏 86 99 95
元就 96 107 120
小笠原 73 78 60
依田 47 82 86
大須賀 58 82 64
天下人を苦しめた武田家臣団
信玄 97 110 96
馬場 80 93 79
山県 70 99 74
香坂 78 96 85
内藤 79 88 85
秋山 58 85 83
仁科 60 88 69
そのライバル上杉
謙信 87 120 76
景勝 83 100 86
本庄 70 99 59
斉藤 82 93 85
柿崎 30 97 12
須田 78 82 85
山浦 50 86 70
天下人の踏み台にされた雑魚共
政治 統率 知略
信長(笑) 90 71 86
秀吉(大 爆 笑)89 13 89
光秀 85 79 80
滝川 70 77 83
柴田 60 83 52
贔屓目にみてもこんなもん
他の連中はこれ以下のカス
織田厨の大好きな
信忠(笑) 50 28 30
蒲生(笑) 60 55 68
丹羽(笑) 70 15 67
カス武将の集まり織田軍
0007人間七七四年
2013/11/10(日) 23:03:45.20ID:YCrXV9Bk・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる
0008人間七七四年
2013/11/10(日) 23:04:12.41ID:mZn500x3別に有利な状況も秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ。
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ
実際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
0009人間七七四年
2013/11/10(日) 23:04:36.74ID:h7Ykh8HW4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
0010人間七七四年
2013/11/10(日) 23:05:49.93ID:KQo/RYgu細川家記
3月27日秀吉一に25日、秀吉公犬山に入り、楽田・羽黒辺まて諸大将衆はかり召し連れられ、
仕寄の下知など仰せ付けられ先つ小牧山に対し向城を高く構え、堀を二重に深くほり、柵を堅く結び
井楼を上させられる、是を二重掘の要害といい、この外岩崎山・小松寺山・青塚内窪山等の付城勢を
分ヶ守らせらる…(省略)
秀吉公二重掘に附城三ヶ所仰せ付けられ、忠興君を初大将数多くして守らせられ、
小松山寺を本陣とし、用心厳しくして合戦を持て数日対陣有り、二重掘には細川与一朗・蒲生忠三朗
堀久太郎…(省略)
五月遡日、信雄小牧山より見て一あてせんと有しを、家康公御無用とおおせられ、ぜひにと有りて御立候間、
家康公御家人を召され、尾張勢定立らるへし、もり返す用心せよと仰せられ候、信雄の勢は木村・長谷川等の手に食い付き、
芝手の中まてかけこみ、両手の軍士散々に敗走いたし候、忠興君御手廻討に走出られ、芝手の上に御揚り御下知、…(略)
長久手にて3大将討ち死に、秀次利を失われ、二重掘にても既に味方追崩され、秀吉公御気色悪かりしに、忠興君御手にて敵を
追い返し、勢ひつくのみならず、…
徳川家の軍勢小牧山より打ち出て二重掘の前に一戦せんと備ふ、秀吉公下知には敵馬を入れ来らは成へき程折敷て防くこと、…
二重掘の神子田半左え門一戦にも及ばず敗走す、寄手是を追討…神子田、太閤の御勘気を蒙ると云々…
二重掘の軍勢周章して伍を乱す、信雄兵其の気に乗じて攻撃多く首級を得たり、
秀吉の三大デタラメ
○秀吉は城攻めがうまい→デタラメ。松ノ木・三木・戸木・長久保・韮山・鳥取など大苦戦
圧倒的資金力と人心掌握と大規模軍隊が必要な水攻めや兵糧攻めや降伏勧告で楽に勝ってるだけ
○秀吉の一夜城→一次資料にない太閤記のデタラメ
○秀吉の中国大返し→事前に兵糧・街道確保など準備してたからできただけ
上方の圧倒的国力・先進的装備&135000もの圧倒的大軍の豊臣軍が
わずか22000程度で寝返り続出中で木造の傀儡状態で基盤ガタガタの信雄相手に大敗!!! 敗戦!!!!
ってまるで漫画だな。
アホすぎる
さすが戦国最強豊臣軍
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
0011人間七七四年
2013/11/10(日) 23:06:17.14ID:h7Ykh8HW織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入で
ぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多く
あつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
0012人間七七四年
2013/11/10(日) 23:06:42.84ID:YCrXV9Bk柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権だったおかげ。
所詮自力で取った天下じゃないのであっさり徳川に敗戦し潰されたのが史実
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
7倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗だろ
わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒して
責任を池田森らに押し付けるとか基地外だな
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるしさすがに別働隊だから秀吉の責任じゃないとか全くそれは言い訳にならん
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな
0013人間七七四年
2013/11/10(日) 23:07:09.10ID:mZn500x3わずか22000程度で寝返り続出中で木造の傀儡状態で基盤ガタガタの信雄相手に大敗!!! 敗戦!!!!
ってまるで漫画だな。
アホすぎる さすが戦国最強豊臣軍
秀吉が過大評価されるのは徳川時代の講談とプロバガンダの影響だろ。 一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。
実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない
秀吉は対柴田戦時自領600万石に加え宇喜多、毛利、上杉、信雄も味方で稲葉、勝豊、前田も味方につけられた。
この状況で前田が兵を引くまで均衡を崩せず、しかも撤退中の佐久間盛政や柴田勝政を背後から大軍で襲撃して逆に撃退されるってどんだけ戦下手なんだよと。
秀吉はヘタレ毛利が上月を攻め落とし織田軍を蹴散らしたのに 安芸からの兵站の長さを理由に退却する雑魚っぷりを披露し毛利つかえねぇwwwwとみた南条・宇喜多が離反し
毛利は数倍の国力がありながらこいつらに大苦戦。その隙に織田方は兵糧切れの三木・同じく織田方に裏切ろうとした山名が米を売るなど物資貧困状態の鳥取などを火事場泥棒
この頃毛利は宇喜多に数倍の国力差がありながら加茂崩れ・辛川合戦で大敗するなど苦戦しまくり翻弄されまくり備前はおろか備中・美作でも劣勢だった
この窮地を救ったのが鳥取を火事場泥棒した秀吉が宇喜多方に歩調を合わせ参戦してきた事で
宇喜多は戦闘ゴミレベルの秀吉のせいで忍山・祝山攻防などで大敗し窮地に陥る
備中高松の時も、秀吉は宇喜多単体に翻弄されまくっていた毛利に対し「うわwwwこえぇwwww」と
膨大な金銭や人員や時間を犠牲にし雨が降らなければ失敗していたであろう水攻めという博打に打って出るが
気概0のヘタレ毛利にはこの策が功を挺し廻りが離反だらけで劣勢な中、単独で宇喜多・羽柴を撃退するなど功を上げていた清水宗治を見事に見捨て、高松は落城。 運がよかったな
信長の力を見抜き土下座外交を必死でした北条氏政が秀吉に従わなかったのは
秀吉の力のなさを見抜いてたからだろうな
運悪く周辺諸大名があっさり秀吉になびいてしまったが秀吉の天下がなあなあで形だけのものだった事は
秀吉が死んだだけで脆く崩れ去った事で裏打ちされてる
氏政は十分先見性のある武将だろう
秀吉の力を見誤ったんじゃなくて家康と伊達などの動向を見誤っただけ。
ぶっちゃけ秀吉の天下は圧倒的国力差と敵対勢力が別に抱えてた多くの敵を利用して
運だけで取ったようなもん。
実力でいえば相当無能な部類だと思う。関東でいえば小山、小田あたりにも負けそう
秀吉は元々あった対立関係利用して漁夫の利得ただけ。 中身のないゴミ政権だからすぐにボロが露呈した。
信長に従い土下座外交してた氏政が秀吉に従わなかったのも秀吉の実力のなさを見抜いてたからだろうな
本能寺時点でも光秀が運良く信長を打ち逆賊の汚名被り毛利も運良く追撃せず
柴田戦でも運良く勝家が雪で動けないのを利用し勝家と勝豊の運よく不仲なのを利用し寝返らせ
運良く権力基盤が弱い信孝を攻め運良く稲葉を寝返らせてへタレ前田が運よく軍を引きやっと勝てただけ
0014人間七七四年
2013/11/10(日) 23:07:38.94ID:KQo/RYgu萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記
[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記
[参考]柏崎物語
【管理番号】020100216456
【編/冊/頁】10編911冊179頁
【綱文和暦】天正6年6月21日(15780060210) 3条
【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書
天正6年8/21
今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、
成田五郎左衛門尉秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八
敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門
桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候
天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿
輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少
如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉
去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉
去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉
去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状
一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉
態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元
去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
0015人間七七四年
2013/11/10(日) 23:08:14.07ID:jWbiG5bM所詮徳川に木っ端微塵にされて滅亡した雑魚でしかない。
小牧長久手は3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした 『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる 六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。
8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
0016人間七七四年
2013/11/10(日) 23:08:42.73ID:YCrXV9Bk野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならないのは自明の論理で、
あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら
戦場の変更とか転進とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。
中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし
支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないまま
だらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる
あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、
南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると
夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより
秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
それを秀吉のアホ作戦で台無しにして奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
織田家で最も無能な上に重臣の謀反&粛清等があり、権力基盤弱い織田信雄の領土相手にこの醜態ってw
0017人間七七四年
2013/11/10(日) 23:10:26.26ID:soX6ZN74経済基盤でいえばかなりのものだし装備も当然充実させられるのに
こんなに雑魚なのは本人の指揮能力がクソレベルなんだろうな
秀吉が全軍で小牧山を攻めていたら織田信雄に大敗していたのは間違いない。
何せ信雄家臣の木造や吉村などにぼこぼこにやられた史実があるんだしな
しまいには小田原、韮山、山中、忍、松ノ木、太田など大敗や大損害を重ね、天下失った凡将w
犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には
芝のついた土手を築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺
にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。
家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。
中入り作戦なんてしなくても北と東から力づくで押し込める
あと秀吉は中入り軍を追撃していく軍の動きを把握していた事は明らかだが
ここですぐに軍を動かさずもたもたしてたから負けただけ。これは柏井にいる一柳直末にあてた書状から明らか。
単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う
野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならないのは自明の論理で、
あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら
戦場の変更とか転進とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。
中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし
支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないまま
だらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる
あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、
南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると
夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより
秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
7倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
それを秀吉のアホ作戦で台無しにして奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
織田家で最も無能な上に重臣の謀反&粛清等があり、権力基盤弱い織田信雄の領土相手にこの醜態ってw
0018人間七七四年
2013/11/11(月) 07:35:40.88ID:lKaaPKVEアンチ秀吉大量コピペ厨基地外、日本史板で論破され逃亡
・日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。
あまりの無知さを日本史板住民に飽きれられ、スレから落ちろと言われると、捏造コピペ大量貼り付けして逃亡。
・秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきたという捏造コピペをあちこちに貼り付け。
朝日姫が家康の人質だったという一次史料を出せと言われると、全部無視して逃亡。
・「家忠日記」で、家忠本人の行動には主語がついていないことを知らず、家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所を提示しろと言われると、何も言わずに逃亡。
・大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っているが、「大政所御帰候」がどうしても訳せず、
すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り、大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろ、と捏造。
大政所に家康は同行していないし、自由に京や大阪に住める人質がいるの、と問われると無視して逃亡。
天正14年11月12日以降も大政所が三河にいたという一次史料を上げろと言われると、それも一切無視して逃亡。
アンチ秀吉大量コピペ厨の特徴
基本的に自分の間違いは訂正しない。
常に上から目線で、相手をバカ、ハゲ、タコ、と罵倒しながら、自分の捏造コピペを大量に貼りつければ
相手が戦意喪失して自分の曲解が通ると信じている馬鹿。
史料読解は一切できず、どれだけ史料を提示されようが、自分の我流曲解以外は信じない重度の基地外。
秀吉や三成の悪口中傷して回るアンチ豊臣政権のきちがい在日チョンが
武田厨を装ってコピペ爆撃する自作自演にお気をつけください。
他人の過去レスを盗用し勝手にコピペ爆撃している中に
こっそり自分の作ったアンチ豊臣のレスを巧妙に混ぜているきちがいです。
武田関連の昔の他人のレスを大量にコピペして武田厨を陥れる工作をしつつ
自分が書いた輝元や家康を擁護レスで混ぜて秀吉を巧妙に貶めているコピペ厨。
日本史板・三戦板・歴史難民板・大河ドラマ板・歴史ゲーム板などで爆撃。
0019人間七七四年
2013/11/11(月) 07:39:37.01ID:vfBKnB7s4/20 秀吉→上部 秀吉が在陣する尾張方面では、普請など堅固に申し付けている旨を報ずる
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
6/2信雄→吉村 松ノ木への玉薬を送付
6/7秀吉→前田 尾張河波を敵城を全て攻略する意思である旨を報じる
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する
6/28家忠日記 楽田へ小牧衆(小牧城に在陣している家康方兵力)が物見に出かけ秀吉方と交戦した
7/7秀吉→小野木・大塩・津田・富田 神戸城の守備について滝川益重を派遣する事を報ずる
7/7秀吉→一柳 蟹江落城により、蟹江に対する秀吉方拠点として神戸城に秀吉から軍勢を派遣することを報ずる
7/7蜂須賀→南条元続 秀吉方諸将は尾濃境目の城に在陣している。数日中に秀吉が伊勢へ出兵する旨を伝える
7/9秀吉→分部 神戸方面へ敵(信雄方兵力)が出兵してきた旨を了承
安濃津・上野城に敵が出兵してきたら秀吉が出兵して討ち果たす事を伝える
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
んで結局1年一杯使っても上記の城は攻略ならず。寝返りだらけでガタガタだった信雄領国を
8倍もの圧倒的大軍で攻め込んで結局尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
0020人間七七四年
2013/11/11(月) 07:41:16.66ID:vfBKnB7s敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
豊臣家が滅亡したのは、秀吉が広大な版図持ちながら自力ではどこにも勝てず上杉佐竹毛利長宗我部木曽小笠原真田石川水野十河河野大友龍造寺前田
柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権だったおかげ。
所詮自力で取った天下じゃないのであっさり徳川に敗戦し潰されたのが史実
秀吉が広範な版図支配下においたといっても所詮一時期だけだしなぁ
所詮徳川に木っ端微塵にされて滅亡した雑魚でしかない。
秀吉が統率87なら他の有力大名なんか200か300くらいないとおかしい
何せ雑魚に蹴散らされる事で有名な信雄・氏政・輝元の日本三大凡将に大敗したレベルだし
秀吉が城攻めうまいってどこから出た話なんだろうな
大嘘もいいとこなんだが。
松ノ木・戸木・三木とかめちゃめちゃ苦戦してるし
小田原1200程度に手も足も出なかったレベルなのに
結果でいえば豊臣家は滅ぼされたから秀吉は能力0だろ(死んだ後とかどうとか関係ない。結果は結果)
光秀に殺されて死んだ信長はいうまでもなく能力0だがな
0021人間七七四年
2013/11/11(月) 07:42:03.71ID:taCY+X1X秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。
秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし
家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか
それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい
結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな
木曽川筋のわずかな城を落としただけで
南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして
権力基盤が弱い信雄領国を荒らしまわってたら信雄がびびって降伏しただけだし
黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。秀吉方は
秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、
長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる
0022人間七七四年
2013/11/11(月) 07:42:33.80ID:avIhYndp小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
0023人間七七四年
2013/11/11(月) 07:43:04.02ID:0FMis/gQ4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候 羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる 秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど完全に持久戦の態勢に入っている4/12松井→紹安 一戦に池田親子・
森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候 4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候 4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人
が出た 4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた。播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた5/2信雄→不破広綱
今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが美濃
に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り
討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣した
ので近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
0024人間七七四年
2013/11/11(月) 07:43:29.01ID:vfBKnB7s4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
0025人間七七四年
2013/11/11(月) 07:44:49.84ID:lXk7yCl67/10信雄→吉村 尾張から伊勢まで南下して放火した
7/12家康→木造 戸木城への兵糧搬入が困難である。戸木城を堅固に守るよう指示
7/14秀吉→津田 浜田之古城を信雄方が攻略した旨を了承。信雄方にとって菅生砦へのつなぎの城になるだろう
との考えを示す。明日美濃へ行くので神戸城で大方申し付けたならば、神戸城の一柳・小野木は美濃の秀吉陣所
へ来るよう指示
7/15家忠日記 秀吉方兵力が物見に出てきて家康方と交戦した
7/17伊勢から帰った家康が在陣する清洲へ出仕。軍勢半分を返す
7/18信雄→吉村 秀吉が曽根に到着し松ノ木の吉村に調略を仕掛けてきた知らせを聞いた
7/28秀吉→小島・蒲生 戸木城からの講和に関して指示する
8/12秀吉→長浜町人中 鍬などを取り寄せ犬山に届けるよう指示
8/14信雄→吉村 近いうちに秀吉が出陣してくるようなので諸事油断せず松ノ木の普請と昼夜の番等を堅固に申し付けるべき事を指示
8/18秀吉→上杉・須田 明日19日に秀吉が木曽川を超え小牧まで出兵し付け城を申しつけ家康が逃れられないようにする、三河へ出兵すると報じる
8/19信雄→高木 駒野城への加勢について空明と太田の両名に申し付けたのでよく相談して落ち度がないように
8/25秀吉→長浜町人鍛治中 鍬をつくり完成させ、普請に利用する
8/26加藤→長浜鍛治中 鍬について10駄分命じられたので朱印状を持参した旨を伝える
9/1家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/5家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/7家忠日記 秀吉との講和交渉決裂のため重吉へ惣人数を移す
9/9秀吉→あて先不明 尾張で秀吉方が放火し要害を数箇所申し付けた
9/16秀吉→前田 尾張国内で下奈良・宮後・河田へ砦3箇所堅固に申しつけ
過半が完成したので2.3日中に兵糧玉薬及び4千〜5千くらいの人数を入れる
9/19家康→滝川 戸木城が苦戦していると家康へ注進があり、いまだ本城を堅固に守備しているならば
家康が急ぎ出陣する予定なので戸木城の様子をよく聞き届け再度滝川雄利からたまわりたい旨を伝える
9/23信雄→保田 秀吉より講和に関して懇望があったが拒絶した旨を報じる
10/27秀吉→上部 虎落に用いる竹を調達する
11/10 信雄・家康→吉村 長久保攻略を賞する
0026人間七七四年
2013/11/11(月) 08:27:31.68ID:Lxsb4g400027人間七七四年
2013/11/11(月) 09:35:19.45ID:hRNU/KSj家康信雄連合は、結局のところ秀吉から雀の涙の如き一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的だった。
やっぱり家康を天正12年にフルボッコした秀吉が死んだ後の豊臣家には指導者皆無で求心力がなかったから、皆が自分勝手やり出し見限られるのは止むを得なかったけど、 
別に家康が凄かったわけでも無い。 
利家如きにビビってたくらいだしな。 
つか家康が恐れた人物なんて逸話を拾うと30人はいるよなw
家康は武断派に騙されて、 
急いで西上してきただけで 
それ以前はビビって江戸から動かなかったじゃん。 
関ヶ原だって井伊とかもいたが、 
ほとんど豊臣恩顧が戦ってただけじゃん。 
家康は棚ぼたなだけだし
0028人間七七四年
2013/11/11(月) 10:19:37.36ID:/1X1HoE0いま日本史板見てきた。
家康が最も恐れた男は誰なのか?スレが舞台だったみたいだが、
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/533-633
不等号大好き在日アンチ秀吉くんが屈辱的に馬鹿にされてんなw
>>(天下ハ朝倉(義景)殿持給え。我ハ二度望ミ無」ト起請ヲ書給ひて、無事ヲツクリて岐阜ヱ引給ふなどとデタラメをデッチ上げている
武田厨を装い、キチガイ爆撃コピペをして荒らしまわっていたが、ついに織田厨チョンの顔を現したかwww
勝手に俺の武田レスをコピペしまくってあちこちには貼っては、追い討ち自演で荒らし認定してまわんじゃねぇよカス織田在日チョン。
俺は不等号なんてガキくさいもん使って序列なんてつけないわ。つか俺のコピペから織田厨として一番不都合な部分は編集削除してんのなw
パクるなら下記みたいにキッチリ全文コピペしろや! つか絶対にコピペしない文章とかあるのは何でwww
どこに家康の勝利なんて書いてる馬鹿がいるんだよwww
家康と信長が大好きでわざわざ引っ越してまで三河安城市に住んでるならもう少し調べてから書けよwww
おっとw信長にへスレ住人の怒りが向かないように自分は武田と徳川が好きなフリをしてる在日君だったよな〜。
あくまで武田寄りの大昔のレスをコレクトして、大量投下し武田厨を荒らし認定しつつ、
在日チョンとしては決して譲れない秀吉・三成擁護レスにはムキになってスレごと埋め立てする勢いで超大規模投下レスをしてるんだもんな。
つか教科書まで捏造して自演したりとお前面白いなwww
秀吉が嫌いな為に家康擁護・信長大好き・武田厨は荒らしの罪を擦り付ける愛知県民らしい行動だなwww
そいつは武田厨を装い、武田厨のとっくの昔の過去レスを編集して大量爆撃コピペした後に
必ず武田厨をキチガイ荒らし認定追討ちレスを付ける自演キチガイ在日織田厨。
特徴は誰でも彼でも自分の意に沿わないレスは全部、だがの書き込みとして排除しまくり、
WIKIや外部に議論サイトを作り、そこに誘導してリモートホスト(IP)盗みや危険サイトへのリンク貼る犯罪予備軍。
さらにわざわざ工作スレをあちこちの板に作ってまわる粘着ストーカー。織田厨だと思われないように工作しているが、
信長より秀吉の方が優秀とするレスには真っ赤になって発狂し常軌を逸っしたレス埋め行為の火病を発症する。
また豊臣政権や光秀や三成の擁護にも火病を発症させ、ムキになって家康・輝元・信雄擁護で口から泡を吐く。
日本史板・ゲーム歴史板・三戦板・歴史難民板のすべての秀吉・三成・関が原・朝鮮出兵スレをコピペ爆撃で崩壊させた真性反日織田チョン。
昔から自分の意に添う正義の意見以外には悪のレッテルを貼り人格攻撃し排除する基地のため怖くてレスできないと文句を言われるや
自演呼ばわりして単発IDの異常な連投で正当化。そもそもSABからして2人以上存在していて、会津の石高で争いあった人たちを
みんな纏めてSAB呼ばわりし、札幌や横浜在住と言ってた人々をみんなSABと決めつけるアホ
愛知の安城が住所と言うのも安城のデパートの話やら豊橋貶しをしてる別人をSAB扱いしただけのことで
そもそもSABってのもWIKIで信玄や謙信のホモネタで荒らし編集してる人(こいつも信長ホモネタは絶対に書かなかった)
を指してSABとレッテル貼っただけのことで、それと戦国板に登場するSABとの関連性はまったくないのに同一視。
さらにSABは信玄や謙信の悪口は絶対に書かなかったなどと、ホモネタ荒らし行為を隠蔽し、むりくりSAB=だがとレッテル二重貼りまでやる始末。
だいたいだがからして二人以上いたのは明白で、それをだがの自演だと論理飛躍しないとつじつまがあわず、そこにSAB同一までくっつけて狂いすぎ
見分け方は不等号が大好きでよくそれを使って序列をつけたがるアホ&曲解してるので説明を一切つけない抜粋史料の日付け順羅列。
0029人間七七四年
2013/11/11(月) 10:22:05.13ID:/1X1HoE0小田原惣構え内の男子ですらもっといるだろw(池亨氏曰く、兵士2〜3万、普請に従事する百姓町人も入れて6万が小田原城に篭城していた)
(黒田基樹氏曰く、北条の正規兵5万2000人+用兵の雇用や百姓軍役徴発がさらに追加で加わったであろう)
城詰め兵力をゼロにして最前線防御線に全員配置の単純計算で、9mあたり1人で防御担当をしてた薄氷防衛ラインが9キロもあった計算になるだろアホw
早川口から海岸部の司令官だった氏照配下として早川口の前線守備担当の皆川広照が
4/9に家臣100人連れて投降しただけで全兵力の1割が大減少かよwww
下総千葉氏家臣で上総大台城主の井田因幡守に小田原へ200。小田原へ秀吉が来たらさらに130をつれてこい。
ついでに千葉氏本城から佐倉衆も連れてくるように命令してるのもあるしw1000とか計算があわねぇよアホ。
しかも北条に対して秀吉軍が兵糧不足で敗北寸前だったとかお前は書いてるが、
山中城守備の松田康長の3/21付け書状の「敵陣中は兵糧不足で山芋を掘って食べており、米一升が鐚銭100文もしてるが、
それも底を尽き雑炊一椀が10文になっていおり長陣は無理」の書状については、
そんなん北条研究してる学者ですら北条の現状認識力や情報収集能力の貧困さや願望希望的観測宣伝だと一笑にふしている話だ。
(池亨氏曰く、それは錯誤だ。豊臣の兵站能力が理解できてないとすれば北条氏の戦略的判断の致命的誤りであり、あるいは気休めで書かれたかもしれない)
つかそもそも秀吉は小田原城を干してから会津へ向かう宣言してるのに兵糧不足なわけがなかろうwww辻褄があわねぇwww
前年10月に長束へ蔵入米20万石を清水へ廻送するように命じ、さらに金一万枚で伊勢・尾張・三河・駿河で商品米を買い上げを命じ
2月末に加藤・九鬼・脇坂の水軍が山中城のある伊豆の目と鼻の先の清水湊に実際に着岸し陸揚げ開始してるのに3/21にすでに食い物なく山芋掘って食いつなぐほど飢えてるわけねーよカスw
3/29にはたった2時間でその山中城が落城して(一柳直末が銃撃に当り死んだから秀吉無能とか言い出すキチガイのお前には笑ったわw)
松田康長は討ち死にしてるしお前の支持する松田の妄想計画どおりにはまったくなってないわなw
4/13の秀吉→おねの侍女である五さ宛て書状(形式的なもので実際はおね宛)でも
「各々へ申し触れて大名どもに女房を呼び寄せ小田原へ来るように申し触れた。
このように長陣を申し付けたそれゆえ淀殿を呼ぶのでお前の方からもしっかり申し付けてくれ」
「小田原城に坂東八国の者どもが籠ってますが、干殺して奥州まで〜行く末までも、天下の御ために
良いようにするつもりですから、今回は手柄を奮い長陣をして、兵糧や金銀も出してのちに名前が残るようにする」
このように小田原城には八カ国の兵が集まって篭城してるし、
秀吉は大名の妻まで呼び寄せて長陣するほど戦況も余裕だったし兵糧もふんだんにあった。
などと最初から長陣の計画を秀吉は表明してるのに、まだ捏造するか?
>>豊臣方は6月時点で兵糧不足
そんなわけなかろう。6月には北条降伏を待たずに早くも翌月の奥羽征討別働軍を派兵する計画を発表してるのにw
6/14には奥羽征伐のための偵察先遣部隊の蒲生氏郷が早くも陸奥国二本松に到着の書状(政宗はいまだ長井郡〜大崎葛西あたりにいた)
これを受けて6/15には浅野長政が八戸らへ家康・秀次の先陣による7月上旬の奥羽平定出馬宣言。
6/20には部隊編成計画を秀吉が発表(奥州奧郡為仕置被指遣御人衆道行次第)
7/4あっけなく小田原降伏。
7/7奥州出羽仕置の方針について政宗の意見を参考にしたいと秀吉から御内意があったと
旧葛西家臣富沢直綱に正宗がウソを吐く(自筆書状なので用心のためすぐに火の中へ入れて燃やせと書く)
77/11氏政・氏照らが切腹。7/13秀吉が小田原城検分と家康の関東転封命令。
7/17秀吉も小田原を発し奥州に向かう。7/26秀吉が宇都宮に到着。
>>豊臣方は単純計算で兵力60万だな。那須記にも豊臣方は兵力50万とあるし榊原書状にもあるし。
そもそも当時の城外駐屯技術面・病気などの衛生対策・排便処理能力ではそんな馬鹿な大兵力は非現実的であり、ただの妄想だwwww
0030人間七七四年
2013/11/11(月) 10:22:55.92ID:/1X1HoE0>>小田原城に篭城してる北条兵力がたった1000
あぁ!?ここでは29万と下方修正して主張しとんのかこの在日アホ織田チョンw根拠がないから都合で兵力をかえてるだけだなw
そもそも当時の城外駐屯技術面・病気などの衛生対策・排便処理能力ではそんな馬鹿な大兵力は非現実的であり、ただの妄想だwwww
どんな本を見てもせいぜい20万前後だ(前田・上杉の北陸軍も含めて)
北条兵力もいつのまにか34500に変更しとんのかwww
はいはい秀吉が派遣した兵が篭城してる城を攻めてすぐ落とせず、周囲に砦を築いて兵糧攻め→秀吉の大敗になる気持ち悪い脳w
さらに攻城戦で討ち死にが出ると秀吉の無能の証拠に変換されるアホ脳。さすがキチガイですねwww
4月から4万人を動員して三ヶ月かけて石垣山城を築き始めてる時点で、
秀吉が兵糧に困ってないから、長期滞在する予定でいた意思が見てとれる。
関が原の戦いでの家康の動員力から考えて
北条がたったそれだけしか兵力が動員できなかったとするのは ありえない。
東海道の家康、中仙道の秀忠、会津街道や白河戦線の秀康
常陸の佐竹への備えの江戸駐屯軍という大兵を率いていた。
黒田基樹
毛利家文書の北条家人数覚書には
氏直馬廻七百騎という具合に書かれており
総合すると34250騎となる。
そこで上総井田氏の例をあげて騎馬数ではなく動員数を説明すると
井田氏は225人の動員を命じられており、
北条家人数覚書を見ると百五十騎と書いてある。
この数字で換算し直すと、5万2000人の兵力がいたことになる。
ただ実際の軍勢は他にも傭兵や百姓徴発もあったので、
この数字より多かったと考えられる。
つかお前下記でいろいろと逃亡してるのをみんなに指摘されてるぞwはよ答えてあげろよwいつまで待たせるんだw
8 :人間七七四年:2013/02/18(月) 03:54:17.37 ID:hEnpT6NC
>>6
あれ年代で分類されてるってことぐらい知ってていってるよね?
知った上で、無関係な北条編とか加えて三十巻とか言ってるわけ?
何が目的なの?
10 :人間七七四年:2013/02/20(水) 06:58:49.07 ID:ZVTlg31h
>>8-9
好き勝手言うな
書状をこちらで読めない状態ではコメントできん
週末のいくつかを費やして探し出すからしばらく待ってろ
0031人間七七四年
2013/11/11(月) 10:27:56.33ID:/1X1HoE0171 人間七七四年 2013/06/14(金) 11:09:15.40 ID:dh7sOCUD
いいから早く佐竹側史料とやらの日付や誰が誰に出したか、内容の転記しろよ。
172 人間七七四年 sage 2013/06/14(金) 11:13:27.32 ID:xj6Tnt3N
手元にコピーがないんで何日か待ってろ
859:人間七七四年 07/22(月) 08:33 HlF9Iybk [sage]
天正4年に宇喜多直家が攻略した際の書状
天正6年の5月に秀吉が上月城攻囲の毛利方と対峙(阿波国古文書)
上記の書状の日付、誰から誰に宛てられたものか、
書状内容の転記と共に書いてください。
尾張県史でも偽書状って指摘されてるのを、なんの言及もせずにさらにとソースに出したり
写しの書状を写しじゃないと言い張ったり、そもそも架空でっち上げデタラメ書状ばっか出して捏造しまくってないではやく返答しろやカス!
>>秀吉の金崎の退口なんて捏造だし
えっ捏造だとする根拠は?wこれだって信長公記だけに書いてあるわけじゃねーぞ。
そもそも金崎の退口という言葉自体が三河物語の記述からだし。そこでも秀吉が重要な撤退指揮したと書いてる。
しかも波多野秀信宛に書かれた義昭奉行衆の一色藤長の5/4付け書状の内容でも(信長は4/30帰京)
金崎城に秀吉・光秀・池田勝正が残されたと書いてあり秀吉はきっちり残留組だ。
そればかりでなく、上洛成功し信長が美濃へ帰国する際10/26の5000を指揮して京防衛守備武将として残された中にも秀吉はいる。
他は文官ではなく武将で言えば佐久間と丹羽だな。でもその中でさらに文官としての仕事も兼任してるのは
秀吉だけ(12/16付の松永宛で今井宗久と武野の訴訟など)そして正月の三好らによる本國寺の義昭襲撃を排除してる。
それを受けて信長も上洛してきて4/21にまた美濃へ帰国する際、また武将を残して京防衛を任せるが、
閏5/25付けの東寺の寺領安堵や10/9阿弥陀寺への兵士寄宿免除などから武将としては秀吉だけを残しているのが判明してる。
秀吉はもっとも困難な軍事的困難なことを常に任されてきてんだよアホ
つか秀吉が京に滞在していた時は幕府と織田の間は非常にうまく言ってる。
しかし秀吉が浅井戦線最前線に転出し敵中孤立して張り付くとさっそく幕府との関係を瓦解し始める。
お前は秀吉を叩くためには根拠なく否定連呼だな。さすが在日織田チョンwww
0032人間七七四年
2013/11/11(月) 10:31:49.61ID:/1X1HoE0あっ?そもそも日記形式じゃねぇんだから大久保の記憶違いだろ。庚午の年の出来事って記憶してるだけでもすげぇだろ。
つかそもそも東海方面は三嶋暦を使ってるんだからズレるのはおかしくないだろ。
それに越前出兵への依頼を家康に申し出たのが2月とも解釈できるしな。
それにの一色藤長の5/4付け書状の内容には金崎城に秀吉・光秀・池田勝正らが残されたのは
北郡の儀 相下され 重ねて越国乱入有るべき候などと再度の越前侵攻のためとの言い訳を丹羽から聞かされているのがわかる。
三河物語にも信長が撤退したときに家康へは何も連絡なく捨ておかれたが秀吉の案内で家康は撤退できたと書いた後に
然ば、信長、北之郡え御ハタラキ被レ成候ハント思召処に、越前衆ハ出と書いていて
あくまで信長は越前への再度の侵攻を考えていたが、越前衆が機先を制して3万で出陣してきたと書いていて
共通した内容が書かれている。月のズレなんてよくあることだし、むしろ丹羽から聞いた内容と同じ内容を大久保も書いてる正確さの方がすげえわ。
>>(天下ハ朝倉(義景)殿持給え。我ハ二度望ミ無」ト起請ヲ書給ひて、無事ヲツクリて岐阜ヱ引給ふなどとデタラメをデッチ上げている
武田厨を装い、キチガイ爆撃コピペをして荒らしまわっていたが、ついに織田厨チョンの顔を現したかwww
つか他人のレスを俺のレスの同一視すんなやwww俺は別に金ヶ崎はなかったなどとと主張したことねぇよカス織田チョンよ。
俺は浅井がこの時期、京へ向けて進撃していたから朝倉との挟撃は無かったと主張していただけだ。
しかし浅井が朝倉側となって京が落ちたら、信長は琵琶湖東岸ルートだけでなく、西岸ルートも封鎖されるから
朝倉軍がくる前に速攻で敵前逃亡したわけだ、それで家康が置き去りにされてたところで、秀吉の活躍で命拾いしたわけだ。
しかし秀吉は常にひどい目にあってるよな。信忠の具足初めの儀で信長が出陣した時には
あいかわらず軍事的才覚ゼロの信長の思いつきで山本山城攻めを孤軍でやらされる無茶振りとかな。
>> 三鬼の妄想なんぞ知らん。
ププププwwwwww
秀吉文書研究でこの人ほどの人物はいねぇぞwwwwwwww豊臣秀吉文書目録を出してるんだからなwwww
お前は完全に素人だなwwwww偽書状とか頻繁に持ち出してキチガイ発言してるからどうもおかしいと思ったわwwww
天正元年12/12の安国寺書状には別所と浦上の領地争いを信長が仲裁した話が書かれているが
その内容には浦上宗景が三カ国の朱印えお信長からもらったと書いてある(別所が浦上配下になるということ)
そのお礼として浦上が朱印の礼、夕庵より過分に申し懸け候、おかしく候と書いている。
朱印の礼ってのは朱印銭と言って、要するにワイロでありむちゃくちゃ多く請求されたということで
安国寺はそれに対して財力ある者が領地を金で買い不正が横行する信長のやり方を「おかしいだろワロスw」と嘲笑してる。
それゆえに信長がたかころびに転落するだろうと断言し、しかし秀吉は覇の者だから重視するように報告してる。
当時の人々には信長の悪政をカバーするため奔走する秀吉というのを認識していたのだろうね。
或る人の曰く、秀吉に十徳あり〜将軍家家長(信長)繁栄の基なり、祝々珍重(天正8年正月晦日付け)
0033人間七七四年
2013/11/11(月) 10:35:37.13ID:/1X1HoE0安国寺は天正12年1/11にも秀吉の評判を書き残していて
大なる事は、近年信長の下にても、羽柴羽柴と申候て、世上操りをも、又弓矢をも手に取り候て、鑓をもつき、
城をも責候て存んぜられ候、又、小事の儀は小者一ケにても、又、乞食をも仕り候て存んぜられ候仁か、
申し成しなとにては成る間敷候、日本を手の内にまわし候、今日まては名人にて候、明日の不慮は、存ぜず候
などとどんなことでもなんでも抜群にこなせるオールラウンドプレイヤーで頭角を現し、信長の名も霞むほどだと書いてる。
ここで面白いのは秀吉は乞食まで経験してるので、世間の人情の機微も心得ていて名人なので
信長のような犬死のような突然の死に方もしないと書いてるところ。
乞食の経験?というとフロイスの記述にも秀吉が若いころ、一度、信長の元を出奔してることを書いているから
出奔後に乞食になってたのだろう。フロイスは秀吉の才覚について面白い話を残していて
尾張時代の信長がいろんな家臣に買い物へ行かせるが、商人との交渉がうまくいかず
値段が高すぎたりすると買わずに帰ってくることもあった。
しかし秀吉だけはどんな買い物でもきっちり買ってきたので信長が大喜びしていたが、
実は秀吉は自分の手持ちの金も追加して買い物してきていたって話がある。
他にも秀吉が卑しい出自みたいなことも書いているね。
また天正11年4/12付秀吉→輝元宛では
前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに信長に仕えていたことがわかる。秀吉の才覚じゃ自他共に認める隔絶した将器だったのが判明しよう。
他にも上井覚兼日記や島津側書状で、 天下静謐のために秀吉が島津に停戦受け入れるよう命じた時に、
島津が秀吉のことを、なんでお前みたいな馬の骨に名門島津が従う必要あんだよ?みたいな侮り記述がある
フロイスの日本史にも身分も低く血統も賤しいと秀吉の人となりを書いているので、島津の批判は間違っていないだろう。
天正10年10/18の秀吉書状には、自分のことを「小者一僕の者に過ぎなかったのに信長が召し上げてくださり」
などと書いていて「下僕」の身分に過ぎなかったのに、信長が身分を引き上げてくれたことを感謝してる。
また、天正17年11/24の秀吉書状では、
「秀吉若輩の時、弧と成りて信長公幕下に属し」などと書いていて
「孤児」に成り下がり、頼るべき親類もいないほど貧しくなって信長公に仕えたと書いている。
あぁ孤児って訳は染谷氏の解釈であって俺が勝手に訳したわけじゃないからな。
0034人間七七四年
2013/11/11(月) 10:37:41.61ID:/1X1HoE0近江で信長が支配していたのは主なところで
佐和山・横山・観音寺(一時奪回されたりしてるが)・大津・坂本など
琵琶湖南岸に沿った街道沿いだけであり、その南は六角支配下である。
また天野川以北は湖北十ヶ寺一揆支配圏を構成しており
姉川南部ですら、いまだに安定統治が為されていないのが織田。
大津を維持していた山岡景隆の弟の山岡景友が義昭から山城半国守護になり
近江で有力な山岡家まで分裂してる始末。
秀吉が旧浅井領の一職支配を任されたわけだが
実際は浅井が支配していた全域を任されたわけじゃなくて
浅井が滅亡した時点で浅井が実効支配していた地のみの支配だった。
そのため先の天正元年8月に降伏した山本山城の阿閉氏
(伊香郡の一部・浅井郡菅浦&大浦下庄)
については秀吉には与えられず、阿閉氏は信長直参扱いになっている。
よって秀吉が与えられたのは坂田郡(天野川以北)から
浅井郡を挟んで伊香郡(木之本町)以南の地域でのみ秀吉発給文書がある。
この部分はそのまま湖北十ヶ寺一揆支配圏内であり、
要するに秀吉がいた横山城や虎御前城は敵中に孤立した
大海に囲まれた小島のようなものでしかなかった。
「織田軍が攻略済みの佐和山や横山も街道沿いなように」と書いてるわけだが読めないのか?
さて朝倉は西近江幕府奉公衆高島七頭と抵抗し背後の敦賀へ織田軍が進撃できないようにしてる。
浅井は湖北十ヶ寺一揆から軍事&兵糧支援をしてもらい篭城。
六角は三雲氏など南近江国人達(蒲生を除く)や一揆衆に支えられ、
天正元年4/11鯰江城の六角と挙兵した百済寺を攻撃のため義昭と和睦するや即進撃。
9月鯰江城が落城するも石部城へ後退。
天正2年4/13六角義賢が石部城で抵抗後に三雲氏の本拠地の信楽に向けて退城し、
この時に敵を追い払った山中山城に感状を12/24に出してる。
(この間に勝頼が美濃明智城と遠江高天神城を攻略し、信長は越前での一揆を危惧)
信長が近江で維持してるのは面では無く点でしかない。
多胡宗右衛門ら高島七頭らに邪魔されて
琵琶西岸を北上して朝倉の退路を断つ動きすら
一切取れなかった。
だからちょっと信長が京に入ったり岐阜へ帰るとすぐ
彼らや六角や一向宗がゲリラ化して
京への通路に砦を築いて背後を脅かす。
0035人間七七四年
2013/11/11(月) 10:39:02.35ID:/1X1HoE0朝来郡と養父郡を占拠し生野銀山を手に入れ
出石・城崎・美含・二方の4郡を山名親子に安堵
天正6年春には武田城の秀長の元へ山名氏政が挨拶にきてるほど安定していた。
しかし天正7年に垣屋豊続が元春を訪れ但馬侵攻を哀願したので、
元春は今度の但馬侵攻の目標を八木・竹田両城を手に入れないと但州の儀は正儀あるべからず
と書いていて但馬支配の要が両城であるとしている。まぁ実質、生野銀山を奪い取ることが目標だわな。
そして元春は8月くらいに但馬へ侵攻したと考えられている。
しかし秀吉の調略に応じた宇喜多や南条が離反した為に9月には元春が但馬から逃亡し、
一ヶ月に満たない但馬訪問に終わる。
天正8年に入り織田軍が謀反者追討で但馬へ入ると、
垣屋氏が但馬山名氏の居城だった有子山城に逃げ込んだが5/16に開城。
山名祐豊は5/21病没し、氏政は因幡へ逃亡し但馬を織田領に組み込み完了。
垣屋豊続は水生山城→余部城→田井城と逃亡を続けたが宮部善祥坊に降伏斡旋され帰順。
垣谷豊続が織田軍に勝ったなどと主張してて笑えたわ。さすがキチガイアンチ秀吉の織田朝鮮人だわ。
光秀の援護とか意味不明なもんを付け足したりとアホ杉。
さらに言えば天正10年5/4小早川→冷民少の書状でもって
秀吉が鴨城(加茂城)で敗戦と主張しているが、
5/6には秀吉が亀井茲矩に宛てて備中国の巣蜘塚城・河屋城・加茂城・亀石城を落城させたので
備中国の平定の目処が付いてきたことを書き送ってるし、
勢いがますますついて5/7には備中国高松城を包囲して水攻めを開始してる。
ちなみに5/19に秀吉は柴田勝家の与力の溝江大炊允に戦況がうまく言ってると報告してる。
はっきり言って毛利方の糞書状なんてまったく信用できないもんなんだよカス。
加茂城→鴨城と表記を見事に間違える冷泉民部少輔の子孫による後世作成偽書状wwwさすが先祖の武功を捏造する毛利家臣団www
冷泉元満は水軍の将なのになぜか備中高松城の近くでめちゃくちゃ内陸地の加茂城www
0036人間七七四年
2013/11/11(月) 10:52:25.09ID:lXk7yCl6関東八州諸城人数覚書・北条家人数覚書その他もう一点の資料にある
>小田原惣構え内の男子ですらもっといるだろw(池亨氏曰く、兵士2〜3万、普請に従事する百姓町人も入れて6万が小田原城に篭城していた)
根拠なし。太閤記の糞講談妄信の馬鹿学者乙
>>(黒田基樹氏曰く、北条の正規兵5万2000人+用兵の雇用や百姓軍役徴発がさらに追加で加わったであろう)
北条200万石程度でそんなありえない巨大兵力だせるわけねーだろクズ
天正壬午の時ですら昔は4万とか5万とか軍記ソースのデタラメ数字が並べられてたが最近の研究で2万(家康書状)とされてるし沼尻の戦いの時も同じような数字だし
>城詰め兵力をゼロにして最前線防御線に全員配置の単純計算で、9mあたり1人で防御担当をしてた薄氷防衛ラインが9キロもあった計算になる
そんな所も瞬殺できないからこそ秀吉は雑魚といってるわけで。
>早川口から海岸部の司令官だった氏照配下として早川口の前線守備担当の皆川広照が4/9に家臣100人連れて投降しただけで全兵力の1割が大減少かよwww
何が問題なんだ?
>下総千葉氏家臣で上総大台城主の井田因幡守に小田原へ200。小田原へ秀吉が来たらさらに130をつれてこい。
>ついでに千葉氏本城から佐倉衆も連れてくるように命令してるのもあるしw1000とか計算があわねぇよアホ。
それら含めて1000で問題ないだろ。何が問題なんだ? 北条方は国力しょぼくその割りに防衛ラインは上野武蔵相模伊豆下総上総下野と広範に及ぶのだから
一点に集められる兵力は減るのは当たり前
>>そんなん北条研究してる学者ですら北条の現状認識力や情報収集能力の貧困さや願望希望的観測宣伝だと一笑にふしている話だ。
根拠なし。北条方の書状だけ捏造扱いするアホ学者の妄言なんぞソースなしの糞軍記と同類
>(池亨氏曰く、それは錯誤だ。豊臣の兵站能力が理解できてないとすれば北条氏の戦略的判断の致命的誤りであり、あるいは気休めで書かれたかもしれない
根拠なし。そもそも佐竹の史料(田中文書)で豊臣方は6月時点で兵糧不足になっているのがわかる。
20万石も米用意しながら3カ月程度で不足に陥った豊臣方は単純計算で兵力60万だな。那須記にも豊臣方は兵力50万とあるし榊原書状にもあるし。
>つかそもそも秀吉は小田原城を干してから会津へ向かう宣言してるのに兵糧不足なわけがなかろうwww
後から届けさせたか現地調達するつもりだったんじゃね
>前年10月に長束へ蔵入米20万石を清水へ廻送するように命じ、さらに金一万枚で伊勢・尾張・三河・駿河で商品米を買い上げを命じ
それだけ用意させながら兵糧不足に陥るのだからよほど規格外の大軍だったとわかる
。 >2月末に加藤・九鬼・脇坂の水軍が山中城のある伊豆の目と鼻の先の清水湊に実際に着岸し陸揚げ開始してるのに3/21にすでに食い物なく山芋掘って食いつなぐほど飢えてるわけねーよカスw
根拠なし
>3/29にはたった2時間でその山中城が落城して(一柳直末が銃撃に当り死んだから秀吉無能とか言い出すキチガイのお前には笑ったわw)
300程度の山中城(秀吉は3000とかおおぼら吹いてるが)に5万騎で攻めて氏勝やら城主も抗戦意欲なしで逃げ出した戦闘で重臣一柳戦死するとか
相当の雑魚戦下手なのが秀吉(銃弾当たったから秀吉の責任じゃないとかないわ。敵方の迎撃をうまくかいくぐって最小の被害で即効瞬殺するのがうまい城攻め)
>松田康長は討ち死にしてるしお前の支持する松田の妄想計画どおりにはまったくなってないわなw
北条氏勝以下数百程度の山中篭城組に5万で挑みかかった糞戦闘をそんな自慢気に語られれても
山中城守備の松田康長の3/21付け書状の「敵陣中は兵糧不足で山芋を掘って食べており、米一升が鐚銭100文もしてるが、
それも底を尽き雑炊一椀が10文になっていおり長陣は無理」の書状があるな
>6月には北条降伏を待たずに早くも翌月の奥羽征討別働軍を派兵する計画を発表してるのにw
後から届けさせるか現地調達のつもりだったんじゃね
0037人間七七四年
2013/11/11(月) 10:53:01.61ID:taCY+X1X根拠なし。朝鮮というはるか彼方にすら30万以上の兵力をかなりの長期に渡って派兵し続けたし関が原の戦いでは畿内方面だけで西軍は18万もいたんだし(三成人数書立・慶長見聞集)
北条領国200万石に対し豊臣方は日本全土味方なんだしそれくらい余裕で可能
>>どんな本を見てもせいぜい20万前後だ(前田・上杉の北陸軍も含めて)
お前は馬鹿だな。豊臣方作成の陣立書で215000を動員してるのが確認できるしこれに佐竹結城宇都宮那須里見など関東の反北条勢2万+奥州の諸侯で最低でも25万は超える
享禄以来年代記によると29万動員してるとあるし那須記や榊原康政書状だと50万騎。しかも兵糧を20万石以上用意しながらわずか3ヶ月程度でなくなりかけてたんなら普通に単純計算で12ヶ月÷3=4
四×20万で80万くらいいた事になるなw
>>北条兵力もいつのまにか34500に変更しとんのかwww
はぁ?いつの間にかも糞も最初からそう言ってるだろ。天正壬午の時の若御子の対陣の兵力が2万だった事や(家康書状)北条は村落の欠落が目立ってた事。関東は実は貧困だった事や
北条家人数覚書・関東八州諸城人数覚書からその数字が妥当
>農民町人も関係なく15歳から70歳男子を対象に郷へ動員かけてるのに
農民町人なんていても作業普請くらいしか戦力にならないししかも北条領国では防衛体制構築のため天正14年か15年頃からその動員がなされており
この頃になるとかなり領国が疲弊して村落の欠落が目立って来ている
>>そんなん北条研究してる学者ですら北条の現状認識力や情報収集能力の貧困さや願望希望的観測宣伝だと一笑にふしている話だ。
根拠なし。北条方の書状だけ捏造扱いするアホ学者の妄言なんぞソースなしの糞軍記と同類
>(池亨氏曰く、それは錯誤だ。豊臣の兵站能力が理解できてないとすれば北条氏の戦略的判断の致命的誤りであり、あるいは気休めで書かれたかもしれない
根拠なし。そもそも佐竹の史料(田中文書)で豊臣方は6月時点で兵糧不足になっているのがわかる。
20万石も米用意しながら3カ月程度で不足に陥った豊臣方は単純計算で兵力60万だな。那須記にも豊臣方は兵力50万とあるし榊原書状にもあるし。
>>はいはい秀吉が派遣した兵が篭城してる城を攻めてすぐ落とせず、周囲に砦を築いて兵糧攻め→秀吉の大敗になる気持ち悪い脳w
秀吉本隊も駿河伊豆国境地帯の戦闘である程度打撃を受けたみたいで北条方から何枚も感状が出てる
しかも山中城忍城韮山城小田原城など豊臣方兵力と比べたらハナクソみたいな兵力しか篭もってないのに
そんな所を瞬殺できないどころか城攻めで重臣を戦死させたり大量の時間と費用費やす水攻め兵糧攻めなどに頼りまくりなんだから
いかに秀吉の指揮采配能力が糞かわかるな
>>さらに攻城戦で討ち死にが出ると秀吉の無能の証拠に変換
当たり前だろアホw30万も兵力いてわずか1000だの500だのの雑魚城で討死とか情けないにも程がある
その証拠に小田原本城1000にも手も足も出てないしな
>>つかそもそも秀吉は小田原城を干してから会津へ向かう宣言してるのに兵糧不足なわけがなかろうwww辻褄があわねぇ
小田原で現地調達するつもりか、後からさらに届けさせようとしたんじゃね
>>前年10月に長束へ蔵入米20万石を清水へ廻送するように命じ、さらに金一万枚で伊勢・尾張・三河・駿河で商品米を買い上げを命じ
>>2月末に加藤・九鬼・脇坂の水軍が山中城のある伊豆の目と鼻の先の清水湊
山中城守備の松田康長の3/21付け書状の「敵陣中は兵糧不足で山芋を掘って食べており、米一升が鐚銭100文もしてるが、
それも底を尽き雑炊一椀が10文になっていおり長陣は無理」の書状があるな
0038人間七七四年
2013/11/11(月) 10:53:31.22ID:lXk7yCl6>このように長陣を申し付けたそれゆえ淀殿を呼ぶのでお前の方からもしっかり申し付けてくれ」
むしろ長陣覚悟で、長期戦を想定してたんだからいかに小田原征伐が苦戦だったかがわかるだろ。実際忍城1000小田原1000
韮山500などに手も足も出てないし一柳・前田重臣・堀尾嫡男・平岩弟・依田が戦死し氏家も負傷。
小牧長久手の時の茶会とかと同じで秀吉は苦戦しまくってもパフォーマンスで一夜城作ったり茶会やったりして中身のないパフォーマンスやったり
苦戦しまくってても隠蔽して楽勝みたいに捏造しまくるのはいつもの事だからな
6月の時と同じでガチンコで東駒野・戸木・松の木・二重堀・河波など砦みたいな小城郡を全く落とせず
苦戦しまくっていた雑魚秀吉お得意の中身のないパフォーマンスだろ。11月の時だって全く勝利の糸口がつかめず
諦めて大阪に納馬しようとしてたら信雄のヘタレ降伏に助けられただけだし
本願寺顕如に和睦斡旋してもらってやっと和睦にこぎつけただけだしそれなのに秀吉は9月に信雄が種種懇望してきたが断ってやったとか大嘘吐きまくってるし
小牧長久手時も秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による
秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)まで2か月も経ってるな。
大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため
苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
>>「小田原城に坂東八国の者どもが籠ってますが、干殺して奥州まで〜行く末までも、天下の御ために
>>良いようにするつもりですから、今回は手柄を奮い長陣をして、兵糧や金銀も出してのちに名前が残るようにする」
むしろ米20万石&金1万両を容易しながら、わざわざその後に兵糧や金をふんだんに出してなどと書いてるんだから、
金や兵糧を出さないといけないような状態だったって事だろ。豊臣方は那須記や榊原書状によれば50万もいたようだし
20万石も容易させながら3か月程度でなくなりかけてたんだから。
>>このように小田原城には八カ国の兵が集まって篭城してるし、
集まってねーよアホ。豊臣作成の北条家人数覚書や関東八州諸城人数覚書から小田原には1000しかいなかったとわかるし
兵力を集中してた下総や北武蔵・上野の拠点を家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが落としてくれたおかげで
秀吉ははっきりいって何もやってない。
そんな雑魚諸城攻防で20〜80倍もの兵力で攻め込んで落とせず大苦戦し一柳・堀尾嫡男・前田重臣など多数戦死し
4か月だってもガチンコで落とせず徳川や伊達に見捨てられてただでさえ抗戦・和議で割れていて乏しかった
戦意が0になったおかげで助かっただけなのが秀吉
豊臣軍は北条以外全て味方で、しかも北条からは会戦開始早々皆川ら下野勢が寝返ったりしてるし
豊臣にぜめられた山中城や本拠小田原も内通者がいた上に氏勝は逃亡。
松田・笠原など重臣まで篭絡されてる有様だったし別に実力で負けたわけじゃない。
あと小田原城は落ちていない。ただ自軍の味方がいない状況で抗戦しても無駄だと判断して開城しただけで、
兵糧物資がなくなってるわけでも豊臣方に内部まで侵攻されたわけでもないしただ圧倒的大軍に攻囲されて反抗を諦めただけ
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
>>秀吉は大名の妻まで呼び寄せて長陣するほど戦況も余裕だったし兵糧もふんだんにあった。
秀吉が苦戦しまくっててもハッタリパフォーマンスするのは小牧長久手の茶会とか見りゃ一目瞭然だし確か高松城攻囲のときとかもやってるはず。
逆に妻まで呼び寄せて戦意高揚させないと危うい戦況だったとも解釈できるな。兵糧どうこうは上記の理由で不足が確認されるし
小田原市史の久保田氏もちゃんと書いてる。
0039人間七七四年
2013/11/11(月) 10:53:58.77ID:taCY+X1X>小田原へ来るように申し触れた。このように長陣を申し付けたそれゆえ淀殿を呼ぶのでお前の方からもしっかり申し付けてくれ」
>「小田原城に坂東八国の者どもが籠ってますが、干殺して奥州まで〜行く末までも、天下の御ために
>良いようにするつもりですから、今回は手柄を奮い長陣をして、兵糧や金銀も出してのちに名前が残るようにする」
>このように小田原城には八カ国の兵が集まって篭城してるし、
>秀吉は大名の妻まで呼び寄せて長陣するほど戦況も余裕だったし兵糧もふんだんにあった。
秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
むしろ長陣覚悟で、長期戦を想定してたんだからいかに小田原征伐が苦戦だったかがわかるだろ。実際忍城1000小田原1000
韮山500などに手も足も出てないし一柳・前田重臣・堀尾嫡男・平岩弟・依田が戦死し氏家も負傷。
小牧長久手の時の茶会とかと同じで秀吉は苦戦しまくってもパフォーマンスで一夜城作ったり茶会やったりして中身のないパフォーマンスやったり
苦戦しまくってても隠蔽して楽勝みたいに捏造しまくるのはいつもの事だからな
6月の時と同じでガチンコで東駒野・戸木・松の木・二重堀・河波など砦みたいな小城郡を全く落とせず
苦戦しまくっていた雑魚秀吉お得意の中身のないパフォーマンスだろ。11月の時だって全く勝利の糸口がつかめず
諦めて大阪に納馬しようとしてたら信雄のヘタレ降伏に助けられただけだし
本願寺顕如に和睦斡旋してもらってやっと和睦にこぎつけただけだしそれなのに秀吉は9月に信雄が種種懇望してきたが断ってやったとか大嘘吐きまくってるし
小牧長久手時も秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による
秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)まで2か月も経ってるな。
大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため
苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
0040人間七七四年
2013/11/11(月) 10:54:33.66ID:avIhYndp>>良いようにするつもりですから、今回は手柄を奮い長陣をして、兵糧や金銀も出してのちに名前が残るようにする」
むしろ米20万石&金1万両を容易しながら、わざわざその後に兵糧や金をふんだんに出してなどと書いてるんだから、
金や兵糧を出さないといけないような状態だったって事だろ。豊臣方は那須記や榊原書状によれば50万もいたようだし
20万石も容易させながら3か月程度でなくなりかけてたんだから。
>>このように小田原城には八カ国の兵が集まって篭城してるし、
集まってねーよアホ。豊臣作成の北条家人数覚書や関東八州諸城人数覚書から小田原には1000しかいなかったとわかるし
兵力を集中してた下総や北武蔵・上野の拠点を家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが落としてくれたおかげで
秀吉ははっきりいって何もやってない。
そんな雑魚諸城攻防で20〜80倍もの兵力で攻め込んで落とせず大苦戦し一柳・堀尾嫡男・前田重臣など多数戦死し
4か月だってもガチンコで落とせず徳川や伊達に見捨てられてただでさえ抗戦・和議で割れていて乏しかった
戦意が0になったおかげで助かっただけなのが秀吉
豊臣軍は北条以外全て味方で、しかも北条からは会戦開始早々皆川ら下野勢が寝返ったりしてるし
豊臣にぜめられた山中城や本拠小田原も内通者がいた上に氏勝は逃亡。
松田・笠原など重臣まで篭絡されてる有様だったし別に実力で負けたわけじゃない。
あと小田原城は落ちていない。ただ自軍の味方がいない状況で抗戦しても無駄だと判断して開城しただけで、
兵糧物資がなくなってるわけでも豊臣方に内部まで侵攻されたわけでもないしただ圧倒的大軍に攻囲されて反抗を諦めただけ
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
>>秀吉は大名の妻まで呼び寄せて長陣するほど戦況も余裕だったし兵糧もふんだんにあった。
秀吉が苦戦しまくっててもハッタリパフォーマンスするのは小牧長久手の茶会とか見りゃ一目瞭然だし確か高松城攻囲のときとかもやってるはず。
逆に妻まで呼び寄せて戦意高揚させないと危うい戦況だったとも解釈できるな。兵糧どうこうは上記の理由で不足が確認されるし
小田原市史の久保田氏もちゃんと書いてる。
0041人間七七四年
2013/11/11(月) 10:55:07.12ID:0FMis/gQ関東八州諸城人数覚書・北条家人数覚書その他もう一点の資料にある
>小田原惣構え内の男子ですらもっといるだろw(池亨氏曰く、兵士2〜3万、普請に従事する百姓町人も入れて6万が小田原城に篭城していた)
根拠なし。太閤記の糞講談妄信の馬鹿学者乙
>>(黒田基樹氏曰く、北条の正規兵5万2000人+用兵の雇用や百姓軍役徴発がさらに追加で加わったであろう)
北条200万石程度でそんなありえない巨大兵力だせるわけねーだろクズ
天正壬午の時ですら昔は4万とか5万とか軍記ソースのデタラメ数字が並べられてたが最近の研究で2万(家康書状)とされてるし沼尻の戦いの時も同じような数字だし
>城詰め兵力をゼロにして最前線防御線に全員配置の単純計算で、9mあたり1人で防御担当をしてた薄氷防衛ラインが9キロもあった計算になる
そんな所も瞬殺できないからこそ秀吉は雑魚といってるわけで。
>早川口から海岸部の司令官だった氏照配下として早川口の前線守備担当の皆川広照が4/9に家臣100人連れて投降しただけで全兵力の1割が大減少かよwww
何が問題なんだ?
>下総千葉氏家臣で上総大台城主の井田因幡守に小田原へ200。小田原へ秀吉が来たらさらに130をつれてこい。
>ついでに千葉氏本城から佐倉衆も連れてくるように命令してるのもあるしw1000とか計算があわねぇよアホ。
それら含めて1000で問題ないだろ。何が問題なんだ? 北条方は国力しょぼくその割りに防衛ラインは上野武蔵相模伊豆下総上総下野と広範に及ぶのだから
一点に集められる兵力は減るのは当たり前
>>そんなん北条研究してる学者ですら北条の現状認識力や情報収集能力の貧困さや願望希望的観測宣伝だと一笑にふしている話だ。
根拠なし。北条方の書状だけ捏造扱いするアホ学者の妄言なんぞソースなしの糞軍記と同類
>(池亨氏曰く、それは錯誤だ。豊臣の兵站能力が理解できてないとすれば北条氏の戦略的判断の致命的誤りであり、あるいは気休めで書かれたかもしれない
根拠なし。そもそも佐竹の史料(田中文書)で豊臣方は6月時点で兵糧不足になっているのがわかる。
20万石も米用意しながら3カ月程度で不足に陥った豊臣方は単純計算で兵力60万だな。那須記にも豊臣方は兵力50万とあるし榊原書状にもあるし。
>つかそもそも秀吉は小田原城を干してから会津へ向かう宣言してるのに兵糧不足なわけがなかろうwww
後から届けさせたか現地調達するつもりだったんじゃね
>前年10月に長束へ蔵入米20万石を清水へ廻送するように命じ、さらに金一万枚で伊勢・尾張・三河・駿河で商品米を買い上げを命じ
それだけ用意させながら兵糧不足に陥るのだからよほど規格外の大軍だったとわかる
。 >2月末に加藤・九鬼・脇坂の水軍が山中城のある伊豆の目と鼻の先の清水湊に実際に着岸し陸揚げ開始してるのに3/21にすでに食い物なく山芋掘って食いつなぐほど飢えてるわけねーよカスw
根拠なし
>3/29にはたった2時間でその山中城が落城して(一柳直末が銃撃に当り死んだから秀吉無能とか言い出すキチガイのお前には笑ったわw)
300程度の山中城(秀吉は3000とかおおぼら吹いてるが)に5万騎で攻めて氏勝やら城主も抗戦意欲なしで逃げ出した戦闘で重臣一柳戦死するとか
相当の雑魚戦下手なのが秀吉(銃弾当たったから秀吉の責任じゃないとかないわ。敵方の迎撃をうまくかいくぐって最小の被害で即効瞬殺するのがうまい城攻め)
>松田康長は討ち死にしてるしお前の支持する松田の妄想計画どおりにはまったくなってないわなw
北条氏勝以下数百程度の山中篭城組に5万で挑みかかった糞戦闘をそんな自慢気に語られれても
山中城守備の松田康長の3/21付け書状の「敵陣中は兵糧不足で山芋を掘って食べており、米一升が鐚銭100文もしてるが、
それも底を尽き雑炊一椀が10文になっていおり長陣は無理」の書状があるな
>6月には北条降伏を待たずに早くも翌月の奥羽征討別働軍を派兵する計画を発表してるのにw
後から届けさせるか現地調達のつもりだったんじゃね
0042人間七七四年
2013/11/11(月) 10:56:15.41ID:taCY+X1X根拠なし。朝鮮というはるか彼方にすら30万以上の兵力をかなりの長期に渡って派兵し続けたし関が原の戦いでは畿内方面だけで西軍は18万もいたんだし(三成人数書立・慶長見聞集)
北条領国200万石に対し豊臣方は日本全土味方なんだしそれくらい余裕で可能
>>どんな本を見てもせいぜい20万前後だ(前田・上杉の北陸軍も含めて)
お前は馬鹿だな。豊臣方作成の陣立書で215000を動員してるのが確認できるしこれに佐竹結城宇都宮那須里見など関東の反北条勢2万+奥州の諸侯で最低でも25万は超える
享禄以来年代記によると29万動員してるとあるし那須記や榊原康政書状だと50万騎。しかも兵糧を20万石以上用意しながらわずか3ヶ月程度でなくなりかけてたんなら普通に単純計算で12ヶ月÷3=4
四×20万で80万くらいいた事になるなw
>>北条兵力もいつのまにか34500に変更しとんのかwww
はぁ?いつの間にかも糞も最初からそう言ってるだろ。天正壬午の時の若御子の対陣の兵力が2万だった事や(家康書状)北条は村落の欠落が目立ってた事。関東は実は貧困だった事や
北条家人数覚書・関東八州諸城人数覚書からその数字が妥当
>農民町人も関係なく15歳から70歳男子を対象に郷へ動員かけてるのに
農民町人なんていても作業普請くらいしか戦力にならないししかも北条領国では防衛体制構築のため天正14年か15年頃からその動員がなされており
この頃になるとかなり領国が疲弊して村落の欠落が目立って来ている
>>そんなん北条研究してる学者ですら北条の現状認識力や情報収集能力の貧困さや願望希望的観測宣伝だと一笑にふしている話だ。
根拠なし。北条方の書状だけ捏造扱いするアホ学者の妄言なんぞソースなしの糞軍記と同類
>(池亨氏曰く、それは錯誤だ。豊臣の兵站能力が理解できてないとすれば北条氏の戦略的判断の致命的誤りであり、あるいは気休めで書かれたかもしれない
根拠なし。そもそも佐竹の史料(田中文書)で豊臣方は6月時点で兵糧不足になっているのがわかる。
20万石も米用意しながら3カ月程度で不足に陥った豊臣方は単純計算で兵力60万だな。那須記にも豊臣方は兵力50万とあるし榊原書状にもあるし。
>>はいはい秀吉が派遣した兵が篭城してる城を攻めてすぐ落とせず、周囲に砦を築いて兵糧攻め→秀吉の大敗になる気持ち悪い脳w
秀吉本隊も駿河伊豆国境地帯の戦闘である程度打撃を受けたみたいで北条方から何枚も感状が出てる
しかも山中城忍城韮山城小田原城など豊臣方兵力と比べたらハナクソみたいな兵力しか篭もってないのに
そんな所を瞬殺できないどころか城攻めで重臣を戦死させたり大量の時間と費用費やす水攻め兵糧攻めなどに頼りまくりなんだから
いかに秀吉の指揮采配能力が糞かわかるな
>>さらに攻城戦で討ち死にが出ると秀吉の無能の証拠に変換
当たり前だろアホw30万も兵力いてわずか1000だの500だのの雑魚城で討死とか情けないにも程がある
その証拠に小田原本城1000にも手も足も出てないしな
>>つかそもそも秀吉は小田原城を干してから会津へ向かう宣言してるのに兵糧不足なわけがなかろうwww辻褄があわねぇ
小田原で現地調達するつもりか、後からさらに届けさせようとしたんじゃね
>>前年10月に長束へ蔵入米20万石を清水へ廻送するように命じ、さらに金一万枚で伊勢・尾張・三河・駿河で商品米を買い上げを命じ
>>2月末に加藤・九鬼・脇坂の水軍が山中城のある伊豆の目と鼻の先の清水湊
山中城守備の松田康長の3/21付け書状の「敵陣中は兵糧不足で山芋を掘って食べており、米一升が鐚銭100文もしてるが、
それも底を尽き雑炊一椀が10文になっていおり長陣は無理」の書状があるな
0043人間七七四年
2013/11/11(月) 10:57:07.99ID:0FMis/gQ>>小田原に1000しか動員できないとかアホみたいな捏造は信じられない。
なんでそんな全く関係ない合戦が出て来るんだよアホw関東八州諸城人数覚書や北条家人数覚書
その他もう一点の資料にちゃんと書いてる。
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
関八州って北条が支配してたのは相模伊豆武蔵と下総上野のほぼ全域、下野上総それぞれ半国
常陸の一部だけだしせいぜい206万石くらいだろ
豊臣軍は北条以外全て味方で、しかも北条からは会戦開始早々皆川ら下野勢が寝返ったりしてるし
豊臣にぜめられた山中城や本拠小田原も内通者がいた上に氏勝は逃亡。
松田・笠原など重臣まで篭絡されてる有様だったし。
小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万 が加わるから235000。
それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。 秀吉書状で2、3万。
秀吉が困った状況を隠すためにハッタリパフォーマンスするのはいつもの事。
例えば小牧長久手合戦で1万人殺され諸城の攻防でも長久保・浜田・戸木・松ノ木・二重掘・蟹江・前田・下市場・東駒野など
負けまくり奪回されまくってたが、下記のようにハッタリと捏造でもみ消してる。
パフォーマンスで一夜城作ったり茶会やったりして中身のないパフォーマンスやったり
苦戦しまくってても隠蔽して楽勝みたいに捏造しまくるのはいつもの事だからな
6月の時と同じでガチンコで東駒野・戸木・松の木・二重堀・河波など砦みたいな小城郡を全く落とせず
苦戦しまくっていた雑魚秀吉お得意の中身のないパフォーマンスだろ。11月の時だって全く勝利の糸口がつかめず
諦めて大阪に納馬しようとしてたら信雄のヘタレ降伏に助けられただけだし
本願寺顕如に和睦斡旋してもらってやっと和睦にこぎつけただけだしそれなのに秀吉は9月に信雄が種種懇望してきたが断ってやったとか大嘘吐きまくってるし
小牧長久手時も秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による
秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)まで2か月も経ってるな。
大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため
苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
0044人間七七四年
2013/11/11(月) 10:57:54.11ID:avIhYndp相手の戦意喪失を狙ったものとみるべき。
むしろ米20万石&金1万両を容易しながら、わざわざその後に兵糧や金をふんだんに出してなどと書いてるんだから、
金や兵糧を出さないといけないような状態だったって事だろ。豊臣方は那須記や榊原書状によれば50万もいたようだし
20万石も容易させながら3か月程度でなくなりかけてたんだから。
豊臣作成の北条家人数覚書や関東八州諸城人数覚書から小田原には1000しかいなかったとわかるし
兵力を集中してた下総や北武蔵・上野の拠点を家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが落としてくれたおかげで
秀吉ははっきりいって何もやってない。
そんな雑魚諸城攻防で20〜80倍もの兵力で攻め込んで落とせず大苦戦し一柳・堀尾嫡男・前田重臣など多数戦死し
4か月だってもガチンコで落とせず徳川や伊達に見捨てられてただでさえ抗戦・和議で割れていて乏しかった
戦意が0になったおかげで助かっただけなのが秀吉
豊臣軍は北条以外全て味方で、しかも北条からは会戦開始早々皆川ら下野勢が寝返ったりしてるし
豊臣にぜめられた山中城や本拠小田原も内通者がいた上に氏勝は逃亡。
松田・笠原など重臣まで篭絡されてる有様だったし別に実力で負けたわけじゃない。
あと小田原城は落ちていない。ただ自軍の味方がいない状況で抗戦しても無駄だと判断して開城しただけで、
兵糧物資がなくなってるわけでも豊臣方に内部まで侵攻されたわけでもないしただ圧倒的大軍に攻囲されて反抗を諦めただけ
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
秀吉が苦戦しまくっててもハッタリパフォーマンスするのは小牧長久手の茶会とか見りゃ一目瞭然だし確か高松城攻囲のときとかもやってるはず。
逆に妻まで呼び寄せて戦意高揚させないと危うい戦況だったとも解釈できるな。兵糧どうこうは上記の理由で不足が確認されるし
小田原市史の久保田氏もちゃんと書いてる。
>>日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。
はいはい根拠なし。日記は書いた記録の日付と時間を表すだけであって、時間ではなく日付を干支で現したとか曲解乙
>>秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきた
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
0045人間七七四年
2013/11/11(月) 10:58:26.06ID:0FMis/gQ雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
0046人間七七四年
2013/11/11(月) 10:59:26.13ID:lXk7yCl6「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
>>家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
そもそも短い短文の一区切りの文章の中で文章の主語がころころ入れ替わる文なんてねーよ
たとえていうなら、あの人は深溝にいき、(私は)←省略 家に帰った。
こんな事書いても主語があの人としか解釈できねーだろうがアホ
つか、そのあとに井伊直正が大政所を送ったというくだりがでてきて、文の中心の話題が大政所なのに
急にころころ主語がいれかわるわけねーだろw
11/12のふかうすに帰ったのと家忠と決め付けるとか相当馬鹿だな。
仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
>>家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ
>>家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所
なんでそんな議論と関係ない事を証明しなきゃならんのだよタコw
>>大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っている
デタラメ乙。天正14年11/12条家忠日記には大政所が帰った。深溝に帰ったと書いてあるだけだわアホ
主語の転換がされてないからどうみても大政所が深溝に帰っただけだろ。仮に大政所が帰ったのが深溝じゃなかったとしても
大政所=家康の人質(上記史料)なんだから人質の帰る場所=岡崎か浜松だろ。
>>すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り
当たり前だろ。大政所の主語が出てきてるのに。主語の転記がされてないからな。
大政所が帰った。深溝に帰った。それだけ。
0047人間七七四年
2013/11/11(月) 11:00:08.82ID:avIhYndpそれ以降も糞も最初から人質なんであって一時的・限定的条件での人質なんて書いてねーよクズw
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
そんな主張してねーよ。家康の居城かどうか知らんが深溝に11/12に帰ったって事だろ。それから先は京に行ったりもしてるようだな。
>>家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
そもそも短い短文の一区切りの文章の中で文章の主語がころころ入れ替わる文なんてねーよ
たとえていうなら、あの人は深溝にいき、(私は)←省略 家に帰った。
こんな事書いても主語があの人としか解釈できねーだろうがアホ
つか、そのあとに井伊直正が大政所を送ったというくだりがでてきて、文の中心の話題が大政所なのに
急にころころ主語がいれかわるわけねーだろw
11/12のふかうすに帰ったのと家忠と決め付けるとか相当馬鹿だな。
仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ
>>家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ
>>家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所
なんでそんな議論と関係ない事を証明しなきゃならんのだよタコw
0048人間七七四年
2013/11/11(月) 11:01:07.94ID:0FMis/gQ仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ
>>家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ
>>家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所
なんでそんな議論と関係ない事を証明しなきゃならんのだよタコw
>>大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っている
デタラメ乙。天正14年11/12条家忠日記には大政所が帰った。深溝に帰ったと書いてあるだけだわアホ
主語の転換がされてないからどうみても大政所が深溝に帰っただけだろ。仮に大政所が帰ったのが深溝じゃなかったとしても
大政所=家康の人質(上記史料)なんだから人質の帰る場所=岡崎か浜松だろ。
>>すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り
当たり前だろ。大政所の主語が出てきてるのに。主語の転記がされてないからな。
大政所が帰った。深溝に帰った。それだけ。
>>大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
それ以降も糞も最初から人質なんであって一時的・限定的条件での人質なんて書いてねーよクズw
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
そんな主張してねーよ。家康の居城かどうか知らんが深溝に11/12に帰ったって事だろ。それから先は京に行ったりもしてるようだな。
>>天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
>>一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろと捏造。
そりゃ家康の人質じゃなくなったとか一言も書いてねーからな。だから人質の本来帰る場所=岡崎か浜松
にもかかわらず京や大阪にいるのは秀吉が騙しうち的に奪い取ったか家康の慈悲と好意で京や大阪に一時的に住まわせてやっただけだろ。
0049人間七七四年
2013/11/11(月) 11:01:55.05ID:vfBKnB7sデタラメ乙。天正14年11/12条家忠日記には大政所が帰った。深溝に帰ったと書いてあるだけだわアホ
主語の転換がされてないからどうみても大政所が深溝に帰っただけだろ。仮に大政所が帰ったのが深溝じゃなかったとしても
大政所=家康の人質(上記史料)なんだから人質の帰る場所=岡崎か浜松だろ。
>>すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り
当たり前だろ。大政所の主語が出てきてるのに。主語の転記がされてないからな。
大政所が帰った。深溝に帰った。それだけ。
>>大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
それ以降も糞も最初から人質なんであって一時的・限定的条件での人質なんて書いてねーよクズw
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
そんな主張してねーよ。家康の居城かどうか知らんが深溝に11/12に帰ったって事だろ。それから先は京に行ったりもしてるようだな。
完全論破されてるのお前だろ。
どの道大政所が最初から家康上洛時に限定的に出された人質なんてどこにも書いてねーよバーカ
原文の秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二では、全く一時の物とか限定的な物とは触れられてない)
この記述じゃ大政所の人質と家康の上洛が交換条件という可能性はあっても
大政所の人質が一時的条件なんて事は一言も読み取れねーよ。つか上洛する人質なんだったら大政所が人質になる事が、家康上洛の条件という事になるだけだから
そのまま大政所がずっと家康の人質になってたとしか読み取れないだろ。
つか 他の史料でも多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>10/10や10/13、10/17、11/1の記事はただ単に大政所の居場所を記しただけの記述。
根拠不明。大政所が人質になったという事はかかれてても一時の単発的、限定的条件下での物なんて一言も触れられてないし
そもそもそんなものは人質とは言わない(上洛候人質なんだから、人質を出す代わりに家康が上洛するというように交換条件と考えられ、
大政所の人質預かりが一時の物では到底交換とはいえない。上洛候人質なんだから、家康の上洛するに際し、それを求めるため大政所の人質という条件がなされたとみるべき。)
0050人間七七四年
2013/11/11(月) 11:02:39.09ID:/1X1HoE0秀吉が出した書状で本物認定されてるのは下記の書状だけだタコ(三鬼清一郎氏の認定)
秀吉→山名宛書状
条々
一此方別而御入魂之上者御身 上之儀於我等聊不可存疎意候事
一御居城不可有別儀之事
一出石郡之儀進之置候条無異儀可被仰付事
右旨八幡大菩薩愛宕山相違有 間敷侯依而如件
天正六 羽柴筑前守
五月十六日 秀吉
山名殿
余人々御中
上記のように年号まで入ってるのは非常に珍しく、おまけに神仏にまで誓っているのは
この書状が約束を違えない重要な書状であることを示していて、
先にレスした12/10の秀吉→黒田・別所重宗宛書状(黒田家文書)でも両家の婚姻についてなので
同様に年号と神仏への誓いが記している非常にレアな秀吉書状として有名。
ちなみにお前が偽書状だと連呼してる12/5付秀吉→下村玄蕃助宛書状(下村文書・三鬼清一郎氏の認定)も
上記文書とリンクしていて、この書状の冒頭は
一但州悉以如存分隙明候条 去廿七日至作州境目〜と書いていて
秀吉による但馬の攻略が完了したことも報じていて、その後、美作へ進出している。
そして戦後統治政策の一環として山名へ上記安堵状が発給されてる。
この書状はおもしろく秀吉は信長を無視して安堵状が発給できる実力者になっていることの現われで
この調子で調子に乗って宇喜多も安堵したところ、秀吉が連戦連勝して圧倒していたこともあり、
信長は宇喜多みたいなザコは滅ぼすつもりだった為、勝手に許したと激怒することになる。
しかしのちに本願寺顕如が美濃の坊主や門徒衆へ宛てた書状で、
宇喜多の寝返りで毛利が岩屋・兵庫・尼崎から引退し帰国したことを挙げていて
秀吉の宇喜多調略が決定的な戦略的効果を与えていたのがわかる。
0051人間七七四年
2013/11/11(月) 11:07:30.26ID:/1X1HoE0などと信長は宇喜多軍が八幡山まで進軍してきたが大したことはできんだろうと言っていて毛利軍自体が実は来てないし
6/25付け信長→家康宛書状では就播州面之儀〜去廿一日敵罷出候を追散、首十四討捕候、可然者共候由候、是式不物数人共申候
などと6/21に攻めてきた宇喜多軍なんて、これしきのの兵はモノの数ではないと楽観してるし←日付で言えば熊見川があったようだなw
9/6付け信長→黒田宛でははやくも至備前面可進発候、就其差越羽柴筑前守候〜
などと秀吉を派遣するから宇喜多を追って備前へ攻め込めと命じてる。実はそもそも黒田がいただけで秀吉自体もいなかったのがバレバレ。
早くも備前へ侵攻命令wとても播磨西部で毛利に負けてるようなでっち上げ話は信用できんわな。
結局さ、義昭を奉じた毛利軍の配下になった宇喜多軍が攻めてきたので、秀吉が戦って勝利したって言う歴史的事実を
毛利の捏造でっあげ書状で宇喜多軍=毛利軍と脳内変換してるだけなんだわ。
なんせ、この時期の毛利軍は備前からの陸路ではなく村上水軍を利用して海路を利用して
別所支援の行動に専心して播磨西部にいないのが明らかなんだから。
たとえば天正6年4/2の秀吉→黒田で
雑賀衆と芸州衆が船手にて別府表に上陸したが数多討ち取りを信長公に報告する
4/4のの信長→秀吉において
昨日注進が届いた別府孫右衛門(織田方の別府重宗)の阿閉要害に雑賀衆と芸州衆が相働くが官兵衛を派遣
>>上月城
上月城・上月城とうるさく連呼してるようだから言っておくが
そもそも当時は上月城なんて呼称で呼ばれていない。完全に江戸期になって毛利側が作った造語。
じゃあなんて呼ばれていたかといえば、七条城って呼んでた。だから当時の書状で上月城と書いてるのは偽書状。
12/5付秀吉→下村玄蕃助宛書状で(下村文書)
七条と申す城候、翌日、廿八日、押し寄せ取り巻き、水の手取り候処、後巻として此の方陣取る山の上へ、
宇喜多罷り出で候条、城には手当て置き、切懸け合戦に及び、散々切り崩し、備前境迄三里計の間、追い討ち
首級六百十九、其の外雑兵切捨て候〜などと書きこの時の大勝利で明石三郎左衛門・・真名子喜左衛門・宗野の原の三人が
西国にての才覚、先懸け、第一の者を討ち取った大勝利を報じてる。
ちなみにこの時期の秀吉書状は他に12/10の秀吉→黒田・別所重宗宛書状で
二人の子達の縁談を纏めた話を書いてる書状が残ってる(黒田家文書)
0052人間七七四年
2013/11/11(月) 11:12:05.64ID:/1X1HoE0富山県史や福井県史の編纂に関わった金龍静氏の総チェック史料参照したところ
東大史料編纂編纂所架蔵影写本・写真帳
龍谷大学大宮図書館・本願寺史料研究所架蔵写真帳
国立公文書館内閣文庫の顕如書状や光佐書状や教如書状や
何人もいる下間書状や平井重敦書状や小笠原種盛書状や中島弘藤・若林宗成書状や
法敬坊玄、常楽寺証賢、益田照従、教行寺証智、横田芳堅・重恒、勧修寺晴豊
等々の書状を総攬しても「上月」なんて言葉は残念ながらまったく登場せず。
それどころか調べてたら
天正6年正月15日付け宇喜多直家→下刑法参 人々御中御報の内容では
芸州へ重ねて仰せ談ずるとのことは最も肝要ななことです。
近日ことごとく出張を催す件ですが、緩んでしまうのはあるまじきことです。
播磨表での働き不可存由断候などと直家は毛利が播磨への出撃を緩めてしまうことに怒り
重ねて本願寺に説得するように述べてる。
毛利は播磨表に出てくる気がなかったのがここで判明する。結果、下記のようになるわけだ。
6/18付け信長→荒木宛書状では宇喜多、八幡山罷越候由、無論不可有差事候
などと信長は宇喜多軍が八幡山まで進軍してきたが大したことはできんだろうと言っていて毛利軍自体が実は来てないし
6/25付け信長→家康宛書状では就播州面之儀〜去廿一日敵罷出候を追散、首十四討捕候、可然者共候由候、是式不物数人共申候
などと6/21に攻めてきた宇喜多軍なんて、これしきのの兵はモノの数ではないと楽観してるし←日付で言えば熊見川があったようだなw
9/6付け信長→黒田宛でははやくも至備前面可進発候、就其差越羽柴筑前守候〜
などと秀吉を派遣するから宇喜多を追って備前へ攻め込めと命じてる。実はそもそも黒田がいただけで秀吉自体もいなかったのがバレバレ。
早くも備前へ侵攻命令wとても播磨西部で毛利に負けてるようなでっち上げ話は信用できんわな。
結局さ、義昭を奉じた毛利軍の配下になった宇喜多軍が攻めてきたので、秀吉が戦って勝利したって言う歴史的事実を
毛利の捏造でっちあげ書状で宇喜多軍=毛利軍と脳内変換してるだけなんだわ。
百歩譲って毛利方の呼称としての上月城ってのがあったとしても、そこで織田と毛利が戦った記録は皆無。
秀吉が織田信忠と合流して三木城攻めに向かうために後退した跡に、毛利がやってきて
熊見川の戦いがあったあった詐欺をしているだけで、しかもお前は七条城もしくは上月城での争奪の話と熊見川の戦いを
意図的にごちゃまぜに混同させているじゃねーかwww
0053人間七七四年
2013/11/11(月) 11:19:41.80ID:ue/hom/10054人間七七四年
2013/11/11(月) 11:20:08.08ID:/1X1HoE0こんなおかしなことがあるわけねーだろwww
しかも宇喜多は当時は敵方史料ではなく、毛利方なんだぞ?
他家史料で一切、裏が取れない大戦とかwww
そもそも上記の家の史料には毛利軍が上月城に来たことすら証明出来ないのにwww
児玉家文書とか家伝のはみんな萩藩閥閲録収録じゃねーかw
山口県史の地域別家伝文書にも熊見川の戦いの偽書状は完全排除されてんじゃんwwww
それに上月城で尼子を討った書状と熊見川の戦いの書状を故意に混ぜて有耶無耶にしてる誤魔化してるだけだろ。
そもそも現場には宇喜多軍がやってきていて、その配下に吉川元長がチョロって参加してたくらいだろwww
何十年後といえば、幕府が歴史編纂し各家の系図なども作るために、
各藩に史料提出を求めたのよ。
それで藩史を作る事業にともない、
各家にある書状の提出を求める大編纂事業ブームがあったんよ。
これで嫡流筋まで変わっちゃうから各家は対立し、
この期に落ちぶれた家は下克上狙いで偽文書を作ったりした。
例えば佐竹氏では「伝聞伝承でもウソ、事実問わないから全部の史料を出して!
間違っていても罪に問わないから!」ってことで各家が提出したんだけど、
例えば岩屋氏なんかも書状などを出した。
でもいろいろと事情があって、本来、嫡流筋にあるべき書状まで、養子や預かっていた寺社などに
ばらばらに伝わっていて、自分こそが嫡流筋を主張し、なぜ書状がうちに伝聞したかの申し開きでも
誰が本当のことを言ってるのか吟味が難航した。
牢人の岩屋団斎も祖母の覚書とともに大量の書状を提出した。
佐竹の裁定では、14通は本物とされたが、不正の書き物3巻6冊・不正書状20通
写し11通1包とされた。
そして本物は嫡流家へ強制返却。不正の書き物は近年の作で信用しがたいとされ、
不正書状は作為が見られる。写し11通1包は岩屋家に関係ないのにんぜ持ってる?
という結果になった。これになお不服を言った場合、
提出時にはウソでも罪に問わないといっていたが、今度はちゃんと証拠がない場合は罪に問うとはねつけられた。
こういうことが全国レベルで沸きまくった。
この編纂時の真偽の裁定をやっていた佐竹などの文書群は非常に高い信頼性が担保されることになった。
逆にこういうのをやっていないのが毛利家。これは陰徳太平記などの毛利家の歴史と先祖の武功を
批判検証してはならない聖域化していたのと、藩が大縮小したために下々の藩士に強く出られない権力不足により、
まtが大友・大内・宇喜多・尼子・赤松・山名が滅亡していたことにより、
矛盾する史観であるかどうかを判別する藩史が存在しないために恣意的歴史が作れる土壌があり、
旧毛利領だった地域ですらも偽書状が作られた。
幸い、徳川や佐竹や武田や北条の書状が山ほど残っていたから照らし合わせが可能だったし、
そもそも幕臣に旧武田家臣が多く、
徳川宗家は武田、御三家は上杉の兵法を採用し、研究していたので武田や上杉や北条や佐竹らの史料照らし合わせ編年史が完成し、
江戸を中心に東国大名は怪しげな書状はほとんどありませんが。
0055人間七七四年
2013/11/11(月) 11:21:24.71ID:/1X1HoE0ちゃんと相手してくれるんじゃないかな?
根拠を書かずに>>937みたいなことを書いたらただの反大友の厨房キチガイでしょ。
ちなみに毛利厨が誤まった歪曲捏造知識を手に入れてるだろうことは想像がつく。
江戸時代に毛利は捏造歪曲毛利マンセー史を編纂してる。
大友や大内や尼子や宇喜多や竜造寺や浦上や赤松が滅亡してるから
他家史料との比較もできず、やりたい放題捏造できたから。
そしてその捏造軍記を手本に偽感状が生産され先祖の名誉ある武功が事実のように語られた。
それでまぁ、宗麟のこともデタラメを書いて、毛利の自己正当化が図られてる。
たとえば陰徳太平記での宗麟像は、
歳若い美女を領国中から求め、酒池肉林に溺れた生活をしていて
それを憂えた道雪が居所を集めて宗麟の気を引いてから諫言したが、すぐ元の堕落した生活に戻ったとか
家臣の妻が九州一に美女だと聞いて、その家臣を殺して妻を略奪したとか
まったく一次史料にない話をデッチ挙げている。
そのエピソードを盗用して高橋記では一万田の妻を奪った遺恨が実はあったなどと捏造し自己正当化してる。
宗麟がダメ人間とするエピはすべて大友滅亡後の江戸時代に作られた軍記ネタ
そもそも宣教師は宗麟は体質は元来、虚弱だが優秀な人物と評価しているし、
妻がそもそもヤバイ奈多夫人なので、略奪妻とかありえない。
豪姫の姉って誰のこと?
宇喜多直家の妻を妾にしたと言う記述は毛利の捏造史料にしか出てこないデタラメ。
毛利は宗麟を女好きと捏造記述したりと毛利の敵だった側をむちゃくちゃ悪く書きまくってる。
しかし実際に幼女をレイプ目で見ていた輝元を危険視して匿った挙げ句に婚姻させたが
それでも諦めずに輝元が隙をみて略奪して子を生ませ
その夫を隆景が暗殺してるのはリアル史実w
残念だが光成氏も寵愛を受けた記述があるのは毛利の捏造軍記である陰徳記のみで
一次史料には無いと否定してるわけだがw
相変わらず在日毛利厨って無知だな。
0056人間七七四年
2013/11/11(月) 11:22:28.31ID:/1X1HoE0摩阿姫は非嫡出子の可能性が高く普通は利家夫婦の子とカウントしない。
そのため12歳の時に柴田への人質に出され北ノ庄城へ送られ
佐久間十蔵と婚約済みである以上はすでに非処女だし。
その摩阿姫が人質として京へ送られたのは1586年であり14歳の時。
しかも秀吉の側室として関係を持つ可能性があるのは
1587年9月に聚楽第が完成して、そこで摩阿姫が起居してからだから15歳。
しかし摩阿姫は病身であり子供が秀吉との間に出来てないが、
のちに万里小路充房との間に利忠を生んでる。
元々、人質の立場であって秀吉の好みからではないから
秀吉が手をつけたかどうかすら怪しい。
>>妾にした時その娘は数え歳でまだ十二歳
>>現代の年齢の数え方だと11歳
これwikiの1585年に秀吉の側室になったデタラメ記述から盗用した挙句に
秀吉を貶すために悪意ある文章を書いただけだろw
こんなの前田家の保身のための人質なんだから
糾弾すべきは秀吉じゃなくて前田夫妻の方だろ。
在日は無知なだけでなく捏造歪曲までやるから気持ち悪いわ。
26:人間七七四年 08/15(月) 09:22 p9qSTrsV
そもそも秀吉が好色だったのかどうかすらも怪しい。
衆道をやってないなら好色だったんだろ!的な江戸庶民の妄想の産物だろ。
好色を証明するソースは無い。 唯一あげるとすれば信長がねねに出した書状くらいだが
それだけでは好色と大げさに言われるほどの内容じゃない。
そもそも子姓をはべらし衆道など性に奔放熱心だった信長や家康の方がはるかに側室も圧倒的に多いし子供も大量にいる。
むしろ子姓も侍らすことをせず能をやったり、オッサン達と軍記話をして楽しむことが多かった多趣味な秀吉は性欲があまり無かったから子作りに熱心じゃ無かったんじゃないかな。
女好き最強は中華の後宮並みと言われた信長だな。
秀吉は信長や家康と違い ガキあんまりいないから 女好きって軍記講談話に惑わされてるだけで、
実際にはエロより800人いたと言う御伽衆との会話ばっかり楽しんでいたと考えられる。
中国みたいな後宮つくってたのは明智軍記で1000人の女性を囲ってたとされる信長だけ
だから信忠をはじめ母が誰だかわからん子ばっか。基本的に戦国時代は一夫多妻制じゃないからね。
秀吉が側室をたくさん持ってたと誤解してるやつもいるけど あれは人質として差し出させて厚遇してる姿をアピールしてただけ。
秀吉が手をつけてないのは子供ができなかったことでもわかる。 それを秀吉の種なし&秀頼の父は別人説をデッチ上げてるのは在日。
そもそも秀吉が女好きの変態みたいに書いてんのは陰徳記って言うもんを編集した毛利の捏造だから。
宇喜多秀家が厚遇されてんのは、秀家の母が秀吉に寵愛されてるからとか、 嫉妬して秀家を貶している醜い毛利
0057人間七七四年
2013/11/11(月) 11:23:16.96ID:/1X1HoE0天野の武勇を聞いて宗茂が召し抱えた後に、正則が天野を召し抱えようとして
宗茂に先約ありと聞いて遺恨に持ち、朝鮮陣で何かと正反対の意見を吐き険悪だから
広家と長政が酒席に読呼んで和解を斡旋したが、武勇の家臣ときた宗茂と1人で来た正則。
酒の肴に宗茂が踊りながら正則の前に来たので,鴻門の会のようになり
険悪になったが広家と長政がうまく収めたとか、
秀吉死後に三成や増田が増長し始皇帝死後の趙高のようだと書いたり真偽不詳の嘘話多過ぎ。
しかも肝心な関ヶ原は書いてないからそんな悪評の三成と輝元が組んだり、
自称名将の広家が関ヶ原で下手うって、長政偽書状まで偽造して
広家のおかげで毛利が存続できたストーリーを作ったのかわからん。
そのくせ、やたら長政と親しいアピールがウザい。
江戸で動けなかった家康…黒田親子の家康へ協力しろ書状を再三にわたり無視してただろ伊勢にいた広家…
正則の悪評の元ネタの大半が陰徳太平記だからな…
よほど安芸の主人になった福島を毛利は逆恨みしてたんだろうなあ。
正則がアホ馬鹿だとイメージされてきた代表的エピソードの数々の出典って毛利捏造軍記だったとは…
正則の印象を変えなきゃならんね
陰徳太平記を書いた岩国藩の香川景継が吉川家の意向を受けて、
関ケ原軍記大成などの軍記類に偽書状を元ネタに
吉川の主張を隠密裏に盛り込む活動をして
毛利は被害者ぶった史観を作りあげただけ。
このことを山本洋氏が解説し、
これを土台にして光成氏が書状研究した結果だね。
若狭小浜藩の大老酒井忠勝は直江と三成を首謀者にする
会津陣物語を作り上げ東国太平記でさらに昇華させ
6/20三成→兼続書状・7/14三成→兼続偽書状を製造し
これはのちに続武者物語にも転載され一般化され根付かせるのに成功。
これで徳川史観として三成と直江がすべて悪いと汚名を着せた。
0058人間七七四年
2013/11/11(月) 11:24:14.95ID:/1X1HoE0関が原前日の内通を約束する秀秋家臣稲葉(春日局のダンナ)宛て9/14付け井伊&本多ガセ書状を
捏造したりと怪しげなネタ満載の「関ケ原軍記大成」(著者は若狭小浜藩出身の宮川忍斎1655?1716没)
若狭小浜藩の歴史捏造事業(実態は低俗な軍記)は神レベルだと言えよう。
さらに毛利側も陰徳太平記を書いた岩国藩の香川景継が、
吉川家の意向を受けて、関ケ原軍記大成などの軍記類に偽書状を元ネタに
吉川の主張を隠密裏に盛り込む活動をして三成と安国寺に騙されただけと
毛利も被害者ぶった史観を作りあげた。
光成氏「この決起に輝元が直接関与していた可能性は高い」
「藩祖輝元の反幕府的活動をあからさまに証明する史料が隠滅された蓋然性は高かろう」
毛利は首謀者として改易させられ輝元の罪も問われる予定だったが、島津征伐が議題に上がったので
輝元は先鋒にすることになり減封になったのであり、偽書状のように広家のおかげで輝元が助命されたわけじゃない。
サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった
1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、
この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
毛利は偽書状祭りと言われてます反論お願いします。
特に下記では捏造武将隆景&元春と馬鹿にされてます。
小早川隆景 VS 直江兼続 2chスレ
反論レスはもれなく採用して毛利押しします。
贈位が行われた明治・大正にかけては長州閥の政治権力が強大であった為、
一部で不公平も見られる。例えば長州藩の祖である毛利元就に正一位、三兄弟に正三位が授与された。
これは正親町天皇即位式の功が理由とされる。
一方でその元主君大内義隆は後奈良天皇の即位式だけでなく日常的に朝廷や公卿への貢献が抜きん出ていたが
明治政府からの贈位を見送られた。この差は「毛利元就の献金は勤王だが、大内義隆の献金は
猟官運動目的であり勤王によるものではない」という見方による。
長州閥が毛利元就の下剋上を正当化する為には大内義隆の評判が悪いほうが都合が良い事情もある
山室氏も鴨川氏も元就が一次史料レベルで歴史の捏造してるのを指摘してるしな。
自分の過去の所業を改竄するとか歴史の冒涜までして正当化。 まじキモ大名毛利。
0059人間七七四年
2013/11/11(月) 11:29:42.10ID:vfBKnB7s4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
0060人間七七四年
2013/11/11(月) 11:32:21.43ID:vfBKnB7sそんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定w
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは2人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるしそれ以外のやつもほとんど織田信雄分限帳で生きてるのがわかるのにwww
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね。なぜ今更付け城の話を????
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記・織田信雄分限帳など)
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)w→いやはやこれは笑うしかないw3月上旬に留守居兵ろくにいなく、陥落した犬山を4月ってw
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→2人を除いて生き残ってる
0061人間七七四年
2013/11/11(月) 11:32:56.31ID:taCY+X1Xで尾張の大部分w これが本当なら防衛どころじゃないw
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンwギャグがすぎるだろwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るw
9/8秀吉→丹羽、前田 9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しい?
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
9月時点での懇望を断ったのに11月では容認 明らかにデタラメ
小牧長久手が秀吉圧勝とか馬鹿堀に毒されたアホがまた暴れてるな
135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
0062人間七七四年
2013/11/11(月) 11:33:27.92ID:0FMis/gQ何せこの後は8倍もの圧倒的兵力差がありながら秀吉はわずか16000程度の雑魚信雄に負けまくるからね
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
0063人間七七四年
2013/11/11(月) 11:33:54.38ID:vfBKnB7s羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
0064人間七七四年
2013/11/11(月) 11:34:28.71ID:avIhYndp7/10信雄→吉村 尾張から伊勢まで南下して放火した
7/12家康→木造 戸木城への兵糧搬入が困難である。戸木城を堅固に守るよう指示
7/14秀吉→津田 浜田之古城を信雄方が攻略した旨を了承。信雄方にとって菅生砦へのつなぎの城になるだろう
との考えを示す。明日美濃へ行くので神戸城で大方申し付けたならば、神戸城の一柳・小野木は美濃の秀吉陣所
へ来るよう指示
7/15家忠日記 秀吉方兵力が物見に出てきて家康方と交戦した
7/17伊勢から帰った家康が在陣する清洲へ出仕。軍勢半分を返す
7/18信雄→吉村 秀吉が曽根に到着し松ノ木の吉村に調略を仕掛けてきた知らせを聞いた
7/28秀吉→小島・蒲生 戸木城からの講和に関して指示する
8/12秀吉→長浜町人中 鍬などを取り寄せ犬山に届けるよう指示
8/14信雄→吉村 近いうちに秀吉が出陣してくるようなので諸事油断せず松ノ木の普請と昼夜の番等を堅固に申し付けるべき事を指示
8/18秀吉→上杉・須田 明日19日に秀吉が木曽川を超え小牧まで出兵し付け城を申しつけ家康が逃れられないようにする、三河へ出兵すると報じる
8/19信雄→高木 駒野城への加勢について空明と太田の両名に申し付けたのでよく相談して落ち度がないように
8/25秀吉→長浜町人鍛治中 鍬をつくり完成させ、普請に利用する
8/26加藤→長浜鍛治中 鍬について10駄分命じられたので朱印状を持参した旨を伝える
9/1家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/5家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/7家忠日記 秀吉との講和交渉決裂のため重吉へ惣人数を移す
9/9秀吉→あて先不明 尾張で秀吉方が放火し要害を数箇所申し付けた
9/16秀吉→前田 尾張国内で下奈良・宮後・河田へ砦3箇所堅固に申しつけ
過半が完成したので2.3日中に兵糧玉薬及び4千〜5千くらいの人数を入れる
9/19家康→滝川 戸木城が苦戦していると家康へ注進があり、いまだ本城を堅固に守備しているならば
家康が急ぎ出陣する予定なので戸木城の様子をよく聞き届け再度滝川雄利からたまわりたい旨を伝える
9/23信雄→保田 秀吉より講和に関して懇望があったが拒絶した旨を報じる
10/27秀吉→上部 虎落に用いる竹を調達する
11/10 信雄・家康→吉村 長久保攻略を賞する
0065人間七七四年
2013/11/11(月) 11:35:43.46ID:avIhYndp4/20 秀吉→上部 秀吉が在陣する尾張方面では、普請など堅固に申し付けている旨を報ずる
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
6/2信雄→吉村 松ノ木への玉薬を送付
6/7秀吉→前田 尾張河波を敵城を全て攻略する意思である旨を報じる
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する
6/28家忠日記 楽田へ小牧衆(小牧城に在陣している家康方兵力)が物見に出かけ秀吉方と交戦した
7/7秀吉→小野木・大塩・津田・富田 神戸城の守備について滝川益重を派遣する事を報ずる
7/7秀吉→一柳 蟹江落城により、蟹江に対する秀吉方拠点として神戸城に秀吉から軍勢を派遣することを報ずる
7/7蜂須賀→南条元続 秀吉方諸将は尾濃境目の城に在陣している。数日中に秀吉が伊勢へ出兵する旨を伝える
7/9秀吉→分部 神戸方面へ敵(信雄方兵力)が出兵してきた旨を了承
安濃津・上野城に敵が出兵してきたら秀吉が出兵して討ち果たす事を伝える
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
んで結局1年一杯使っても上記の城は攻略ならず。寝返りだらけでガタガタだった信雄領国を
8倍もの圧倒的大軍で攻め込んで結局尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
0066人間七七四年
2013/11/11(月) 11:41:38.87ID:0FMis/gQVS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
0067人間七七四年
2013/11/11(月) 11:42:06.84ID:avIhYndp圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人 4/10家康書状一万人 4/11家康書状一万人 4/13北条氏政・氏直書状1万人 5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人 5/7織田信純書状一万人 家忠日記1万五千余り 顕如日記1万人余り イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人 当代記2万人 池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる 3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
0068人間七七四年
2013/11/11(月) 11:42:37.34ID:0FMis/gQ圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる
>>必死な政略的宣伝工作かがわかる。
なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから
異常に少なく見積もられてるだけだろ
実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
>>実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字だよな。いかに家康らが不利な状況だったかがわかる 必死な政略的宣伝工作かがわかる。
>>しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
>>当時の家康は長宗我部が秀吉の背後を突いてくれないと八方塞りで敗北必死だったから誇張宣伝を繰り返して長宗我部に決起を促していた。
>>しかし長宗我部は逆に秀吉の要請で毛利の侵攻が開始される始末。
>>そうなると家康は北条が援軍に来るなんて非現実的なことを言って
>>友軍の離反を繋ぎ止めてるが、もちろん秀吉は佐竹を使って北条を牽制してるし
>>新発田との争いを止めさせた上杉も参戦してきたから家康は完全に追い詰められてた。
圧倒的大軍がありながらわずか8分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」
0069人間七七四年
2013/11/11(月) 11:43:04.94ID:avIhYndp史実で上月防衛戦の熊見川で3000人戦死の大敗・徳川どころか織田家で最も無能な信雄相手に敵の8倍の135000の大軍で挑みかかって
1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北し
結局寝返りだらけで崩壊状態の信雄領国を尾張半国すら自力で切り取れなかったのに潰すことができたとか寝ぼけてんじゃねぇよボォケwwww
>>家康が北条のように上洛して臣従することを拒んでいたら間違いなく滅ぼされていただろう
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
>>家康を倒すことが主目標ではない
お前は>>481-487のまともによめねー馬鹿だな
>> 家康は局地戦ではいくつか戦術的勝利をしたが、
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
>>その後秀吉軍に尾張の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を落とされても後詰めすら出来ない
なんで自軍の8倍もある135000の豊臣軍が、家康の地理不案内な、しかも木曽川挟んだ川に挟まれたデルタ地帯に不用意に飛び込んで
秀吉が佐竹や木曽などにあてて『必家康後巻可仕儀にて候間』 (毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛
と秀吉の思惑通り無謀に寡兵で飛び込まないと腰抜けになるんだタコw
秀吉の方が本陣の目前で蟹江前田下市場長久保などが攻められてるにもかかわらず雑魚信雄にビビリまくって味方を見捨ててよっぽど腰抜けだろうがクズw
>>その後、伊賀、伊勢は連戦連敗でほとんど占領されてしまい
お前は時系列を何もわかってねぇな。伊賀は2月〜3月初旬段階でさっさと抗戦することなく秀吉に降っているし
伊勢は三月の攻防のみ。 神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
>>結局、信雄は伊賀と伊勢の半国を割譲して秀吉の主人という立場から臣下になり
割譲なんてしてねぇよクズw秀吉が端から棚ボタ的に留守居泥棒した所がそのまま秀吉方占領地として残っただけだろうがタコ
>>その後の家康の臣従は、信長ばりに妹を家康にくれてやったのになかなか上洛して臣従しようとしないので
>>家康を滅ぼすため、上杉や前田等の諸大名に出陣の準備を命じたら
時系列の誤り乙。家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる)
0070人間七七四年
2013/11/11(月) 11:43:30.87ID:taCY+X1X砦間の戦闘や城の取り合いや信濃の木曽、上杉ら周辺大名への働きかけもガチガチにあったのに
滅ぼす気がないとかアホ。3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明
陣立書や書状から上記のように秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦やってる
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。堀と長谷川は中入り組。(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。丹羽長重も派遣されてる。信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる。北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、
八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄もそれに合わせ多く兵残してる。
秀吉方は秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、
稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島。長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、
生駒吉一、矢部、山内。彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる。上記のように一次資料類から秀吉側は領国中主力武将ほとんどかき集めている。当代記や三河物語などでも楽田周辺の秀吉軍だけで
10万かそれ以上としている。
0071人間七七四年
2013/11/11(月) 11:43:54.37ID:avIhYndp近世成立記の大規模戦争86ページ 信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
83ページ 公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれており
その他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦の痛手はひどかったんだろうね
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだからな
>>秀吉にガンガン侵食されていくばかりで
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>ちなみに8月には筒井勢が駒野を攻撃していたようだが、11/5には高木貞利の居城だった東駒野城も陥落してる。
取り詰めに攻め落としたなんて意味はない。乗っ取り、落居などという時が攻め落とした時の言葉。ちなみにこの書状を東駒野「城」が落ちたなんて妄想解釈してる馬鹿はお前だけで
東大史料編纂所HPや史料編纂やら愛知県史資料編網文やら小牧長久手の戦いの構造時系列データベースでも城が落ちたなんて解釈していない。11/10にはちゃんと吉村が長久保を落として忠義を示してるのに。
>>しかし高木貞利の敗北と福田の降伏という流れは
高木は敗北なんてしてないし福田は降伏ではなく寝返り
>>この地域での秀吉の優勢をはっきり示すもので、
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない。3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの
報に接し兵糧等の支給を約束3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛。美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった
犬山城に襲撃を食らう。伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
0072人間七七四年
2013/11/11(月) 11:44:05.08ID:/1X1HoE0毛利家日記みたいな家臣団が家に伝わってきいたと称し提出した偽書状の宝庫の捏造文書写を出して論ぜず、
東京大学が出版してる毛利や吉川や小早川家に伝わる正統な書状をまとめた家わけ文書の毛利家から
熊見川の戦いがあったソースをひとつでも出してみろと再三要求してるのになぜ逃げまくるんだよwww
一番笑えるのは荻藩閥閲禄において大四次川中島の戦い二日前の書状の写しがあって
そこには馬場を配下にしてる武田軍の参謀『山本勘助』が登場してて、2万のうち一万を山縣に預けるとか書いてる。
つかまだ飯富であって山縣を名乗ってませんがwww
これ毛利家臣の山縣平八が萩藩に提出した先祖の凄さと自家の格式向上のための捏造で、
明らかに甲陽軍鑑を熟読して、それに沿った内容を書いて提出してるwww
こんなもんに書いてある内容なんて、まったく史料として扱われてないわ。
まぁ毛利の場合、毛利家文書・吉川文書などに収録されてるのが
一次史料であってそれ以外は誰も引用しない偽文書だらけだからな。
でもその一次史料ですら、これらの文書の原本は吉川家だけにしかなくて黒田家には伝来せず、
毛利宗家が編纂した『毛利三代実録考証』や『大日本古文書』にも収録されていない。
そのため、これらの手紙は吉川家が偽造した偽文書・・・こんな酷い状況だからな。
そんな毛利家臣団の先祖マンセーで偽造大会やって提出した
原本無しの写しを、マトモに信じてたら淡河合戦とかも史実になっちまうしwww
しかも毛利側の淡河氏が羽柴秀長に勝っちゃうのになぜか淡河の地を手放して撤退する謎行動www
さらに鳥取城が落ちた後にかけつけた元春が背水の陣で秀吉を威圧してビビらせたから秀吉は逃げたとか
尼子残党の山中鹿介の上月城を救援に来た羽柴秀吉を追撃して勝った話だけでは
飽き足らず、毛利軍は全勝不敗の神の軍になっちまうわけだがwww毛利の史料は捏造だらけ。
せいぜいマトモなソースを出して語りたいなら最低でも
家わけ文書の毛利家文書・吉川家文書・小早川家文書に載ってるもんで熊見川の戦いの証拠を出せよアホ。
アホみたいに豊富に作られた毛利家臣たちの偽文書を盲信した結果が
元春・隆景の全勝無敗の完全無欠天才マンセーだからなw
そんならなんで秀吉1人にどんどん追い詰められていくのよとw
全勝無敗の圧倒的な知略と武力を持ちながら本願寺も荒木も別所も波多野も赤井もみんな滅亡。
大友にすらボロ負けしてるのが現実なのに完全隠蔽してるしw
宇喜多や南条や三村や村上水軍に離反されるとか説明不能すぎるだろwww
しまいには関が原の戦いの責任を三成に押し付けてる始末www
ついでに吉川広家が一次史料で偽文書を作成して自己擁護www
0073人間七七四年
2013/11/11(月) 11:44:17.58ID:taCY+X1X震えていたなんて史料は存在しない
>>士気が崩壊した信雄軍という状況は
元々寝返りばかりで領国なんて困窮状態だがそんな信雄も自力では攻略できずヘタレ信雄の降伏に助けられただけなのが秀吉
>>秀吉の戦略通りに事態は遂行されていった結果だといえる。
秀吉の戦略は一貫して三河方面の攻撃と家康討伐なので戦略でいえば大敗といえる
批判も糞もない。徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
>>策の無い清洲で震えていた家康は彼らを支えることに失敗し、
震えていたなんて史料は存在しない
>>士気が崩壊した信雄軍という状況は
元々寝返りばかりで領国なんて困窮状態だがそんな信雄も自力では攻略できずヘタレ信雄の降伏に助けられただけなのが秀吉
>>秀吉の戦略通りに事態は遂行されていった結果だといえる。
秀吉の戦略は一貫して三河方面の攻撃と家康討伐なので戦略でいえば大敗といえる
批判も糞もない。徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
0074人間七七四年
2013/11/11(月) 11:45:25.42ID:/1X1HoE0所蔵者ごとに編纂した家わけ文書の第8巻毛利家文書・第9巻吉川家文書・第11巻小早川家文書の
中からはやく毛利が秀吉に勝った書状を出せよ。
寵命録(児玉家文書)
著作者
幕末〜明治の児玉益右衛門定正(1820-1863)と児玉元之助定勝(1851-1936)
の長州藩すら知らなかった・・・つか誰も知らない幕末初登場の謎の捏造文書集。
偽文書率No.1の毛利の腐るほど存在する捏造資料ではなく
論文でもきっちり援用される東大が編纂した家わけ文書の
毛利家文書・吉川家文書・小早川家文書・熊谷家文書・三浦家文書・平賀家文書・益田家文書だけが一次史料。
こっから出せと言ってるだろカスチョン
歴代古案はちゃんと論文で引用されてきているものであり
長州藩士の先祖の偽文書製作ブームで功績を捏造して
それに藩も水をさし疑問を差し挟むことを許さないまま編集されたもんと違うわwww
ロクな数ない???えっ?いくらなんでも余りに無知すぎるぞ。
各家わけ文書の中でダントツにもっともボリュームがあるのが
吉川家文書・小早川家文書・熊谷家文書・三浦家文書・平賀家文書・益田家文書等が
大量に編纂収録されている毛利なんだが(次点が伊達家)
しかも書状案という後で藩や支藩が公式に捏造した文書まで
収録してあると言う捏造の温床ぶりだけど。
他の大名家は毛利よりはるかに少ない一次史料で戦国板で論争してるわけだがwww
キチガイ織田チョンがやたら毛利家日記を日記だから一次史料とか無知を晒して連呼しててワロタw
それ長州藩が藩史を編纂する時に藩士に提出させた原本存在しない写しを日記形式でまとめただけなのにw
軍記を手本に先祖の功績をデッチあげた捏造文書を わざわざ東大が家わけ文書に関係文書として
未来永劫、編入するわけないだろ面白すぎwwwwwwwwリアルタイムに日記を当時を生きた人間が書いていたと
大きな誤解をしてる時点で 毛利家日記を読んだことないのバレバレw
0075人間七七四年
2013/11/11(月) 11:46:32.17ID:/1X1HoE0つかお前の言う山口県史資料編自体が考古編と民俗編しか存在してない以上は架空本をデッチあげてるだけじゃんw
史料編中世1〜4で該当巻のページ数を質問しても逃亡を繰り返して話題を逸らそうと必死すぎてキモイわー。
おい、デタラメ書いて逃走かwこっちは返答をずぅっと待ってるんだがwww
お前の主張する山口県史資料編にまったく書いてないしwww
そもそも山口県史は大別すると通史編・史料編・資料編があり
資料編は考古と民俗しか出てないから戦国〜江戸初期を担当する巻なんて資料編にはない。
さらにその時代区分でお前が嘘を書いてるのを無視して史料編で探すと該当するのは
史料編中世1〜もしくは近世1〜でありなぜ時代区分も明示せず曖昧にしてレスしてんだお前。
ひたすら曖昧に書いてこんな重要な情報は一切書かずに山口県史30巻を全部読めとか言うのかw
それとな、お前がここに転載してる書状が山口県史のどこにあるのかも書かないと意味ないだろが。
ことごとく誤魔化しまくりだなおい。
先日、時間が少しだけ余ったから前回のように多くの巻を見る時間は無かったが
山口県史・史料編・中世1巻の凡例だけ覗いて帰ったが、
改めて見てみても2ページ以降にそんなもん一切書いてないわ。
えっ?ここにお前が挙げた書状が山口県史に載ってるのを証明できないのに
山口県史に書いてあると自称する>>351の内容を適用させる気なの?
アホ過ぎワロタwこれではまったく話にならない。
とにかく>>281>>299>>302>>303>>308は下記の巻の何ページに載ってるんだ?
史料編 中世1
日記・記録・紀行・伝記・家譜・実録・雑史・軍記物語・説話・往来物・対外関係・国外史料
史料編 中世2
大島地区・玖珂地区・熊毛地区・都濃地区・佐波地区・吉敷地区
史料編 中世3
山口県文書館・厚狭地区・美祢地区・大津地区・阿武地区
史料編 中世4
豊浦地区・県外所在・賛・五山文学・和歌・連歌
0076人間七七四年
2013/11/11(月) 11:47:19.11ID:/1X1HoE0その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書かれてる始末www
また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、
武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。
晋曾寺文書だって原本書状がない信用性ゼロの後世作成文書だろううが。
萩藩は資料収集の際に偽書状であろうが、真偽の認定を避けて、つか藩士の先祖を疑えない空気で口出しできなかったから
アホみたいにたくさんの軍記を元ネタにしたような軍功感状が湧き出てきて収録されてる。肝心の毛利本家に書状案などの形として
領地宛がいの根拠となる記録の書留めの記録すらない完全に根拠ゼロのな。
どこの大名家でも家臣が所持していた感状なんて稀で貴重なものなのに、萩藩はとにかくアホみたいにある。
上杉氏の文書写ですら藩士の所持していた感状なんてほとんどない。
どの大名家でもせいぜい口述筆記による記録や覚書や家系譜などに記されているレベルで信憑性に疑問がつくのがほとんど。
これは武田の武名から江戸期に武田家からの感状がアホみたいに偽造されて、
現代では武田氏研究会や山梨県史編纂の過程でほとんど偽書状認定されて取捨選択されたのと萩は対照的だ。
特に北条や上杉の書状と照らし合わされて研究される武田書状と違い、毛利は敵対勢力の生存がほぼなく(大友・大内・尼子・宇喜多など)
他大名との接点から遠かったため他有力藩からクレームもなく捏造しまくりの先祖武功大会状態。
>>戦国板 山口県史資料編3目次解説凡例
>>山口県史資料編凡例2ページ目
はぁ?お前の書いてる書状って萩藩閥閲録からの転記だろが。なんで山口県史史料編の注釈を持ち出して
萩藩閥閲録収録の輝元御印と書いてるだけの写しを偽書状写しじゃないと証明しようとしてるわけ?まったく関係ないだろwwwwwwww
だいたい萩藩閥閲録からの転記の
>>天正6年8/10毛利輝元→児玉
>>去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
敵数多討捕なんて書いてないからw書いてあるのは及鑓合被疵左足併郎従1人令討死だし
>>天正6年6/26輝元→児玉
>>態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
小次郎事と無比類の間には、被疵之由候、無心元候と書いてあるのに、なんで削除してんだよw
なんでお前は必死になってそこまで捏造歪曲しまくってんだよwww
つかさ、萩藩閥閲録収録の巻115の湯原文左衛門186通の中からお前は抜粋してるようだが、
山口県史料で本物認定して収録してある児玉文書はたった6通だけだぞwwww
しかも湯原分で調べると児玉文書第3(天正8年12/28)・4号文書(天正9年1/21)だけじゃんwww
こんなもん信用できるわきゃねーだろwww
0077人間七七四年
2013/11/11(月) 11:48:58.03ID:/1X1HoE0もう滅茶苦茶だなお前wそれ信長の命令で秀吉が撤退したのちも、ずっと篭城を続けた
山中ら尼子復興軍の全滅の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw
先祖代々の恨みのあまり秀吉・石田憎しで捏造歪曲ばっか吐いてんじゃねーよ在日織田厨くんよぉwww
史実の虎倉合戦
宇喜多の攻勢により備中・美作で敗勢著しい毛利軍が巻き返しを図るために
輝元・隆景・元春まで出張ってきての虎倉城攻略作戦で(虎倉合戦)
10万石前後の小勢であった伊賀久隆にまんまと毛利軍が大敗し
粟屋元信など大物が討ち取られる。
伊賀家久の帰属に関わる萩藩士の先祖の由来があるため無かったことにできない戦ですら
捏造王の萩藩閥閲録・毛利家日記は負け戦を負けと認めず捏造歪曲する糞資料。
あれは合戦では無かったので毛利の敗北とするのは間違えなので
デッチアゲ虎倉合戦では無く正式名称は加茂崩れと呼称する始末。
毛利軍は有漢から福山への陣替のために
近習が夜に先発し移動開始したけど
現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。
そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず
高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて
鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。
その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、
これによって伊賀家久が我が長州藩の家臣となった。
要約するとこんな感じに話が捻じ曲げられ捏造してんのが毛利側の常套手段。
学者が論文で一切、シカトしてる原本不明の藩士の自己申告写し書状なんて持ち出してバカなの?
一次史料である家わけ文書からソースを出せよキチガイ。なんつーか毛利の場合は捏造文書三昧だからな。
つか荻藩閥閲禄や毛利家日記なんて原本書状のない捏造文書集じゃんよ。
しかも覚書や家譜や由緒書とか藩士が先祖の功績を捏造して提出しまくりで史料価値ゼロ。
0078人間七七四年
2013/11/11(月) 11:49:37.66ID:/1X1HoE0家わけ文書すら理解できてない無知ぶりを晒しまくってワロタwww
そんなクソ内容は家わけ文書には無いわwwwアホ乙www
>>4/29信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
>>5/1信長、親を播磨に出征せんとす、佐久間信盛等、之を諌止す、尋で、又出陣せんとし、大雨に依り、之を停む
>>5/4信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す、
>>5/6信長、信忠、北畠信雄等を播磨に遣す、是日、信忠等、賀古川に陣す、
>>5/16羽柴秀吉、但馬山名豊国の好を通ずるを容れ、其所領等を安堵せしむ、
>>5/21羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、
>>仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、尋で、宗治、同城を復す、
>>5/24羽柴秀吉、竹中重治を遣し、備前八幡山城某の帰属を信長に報ず、
>>6/26羽柴秀吉、陣を播磨高倉山より書写山に移す
>>6/29信長、津田信澄等に命じ、摂津兵庫及び播磨高砂間の道路に、戌兵を置かしむ、
>>7/5播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る
>>7/7本願寺光佐(顕如、)播磨の情勢を紀伊の門徒に報じ、播磨高砂に兵を遣して、之を守らしめ、
>>又神吉城の落城に備へて、海上の通路を確保せしむ、
上記の文はネットで東京大学の大日本史料データベースで年代検索かけて
綱文だけ拾ってきてコピぺ転記羅列してるだけじゃねぇかアホ屑チョン
綱文内容が一次史料を元に書いてるわけねーだろ無知すぎてワロタw
だから下記みたいなカス資料の無意味な羅列しかお前はできないんだw
萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記
[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記
[参考]柏崎物語
つべこべ言わずに研究者も出典として使う
一次史料認定されている
毛利家・吉川家・小早川家・熊谷家文書
三浦家文書・平賀家文書等の家わけ文書から
秀吉に勝った証拠を挙げてみろよw wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
0079人間七七四年
2013/11/11(月) 11:50:25.55ID:/1X1HoE0明智が丹波、柴田が加賀をそれぞれ一カ国平定したことを挙げているが
秀吉の場合は数カ国比類ないと信長が述べていて天才秀吉が別格扱いの実績を叩きだしてる。
その攻略スピードの速さと言い異常すぎる。毛利に苦戦とかギャグかよwww
毛利は国人合議の一揆連合から脱皮出来なかったから石高に応じた軍備と兵役の賦課のできない織田旧体制のままの武辺道重視の柴田に
圧勝した改革派秀吉に対して、天正11年12/15に安国寺が、毛利の一方的譲歩で和睦決断するように、
輝元、元春、隆景に問題を先送りして正月に休んだりしようとしてる場合じゃないと、
強く決断を促す時に、高機動の秀吉軍は10日か15日で罷り出れるが、
輝元、元春、隆景らは中途までうち出すのすらも50日や30日はかかると書いて動員の遅さを挙げてる。
ドン臭い動員ではもはや秀吉には勝てないし、これでは秀吉に一方的に押し込まれるはずだと安国寺は喝破していた。
ところで安国寺はなかなか先が読める人間で1584年正月11日の書状でも秀吉を褒めまくっている。
(秀吉は信雄に年賀の礼に来るように命令し信雄が拒否し秀吉と険悪な状況になっていた)
安国寺はさかんに秀吉と毛利の領地の堺について大きく譲歩してでもはやく和睦締結するように主張してる。
近年において信長がいた時も羽柴羽柴と騒がれ戦をすれば羽柴、城を攻めるも秀吉と盛んに評判になっていたが
いまでは日本を手の内にしており名人であり明日の不慮も考えられないと書いている。
これにより毛利と秀吉の正式な和睦が成立し、3月に入り秀吉は安心して家康信雄と激突する選択ができた。
いくら秀吉を貶そうとも耶蘇会の1584年の年報にも
はっきりと「一般人民の声によれば、秀吉は何事においても
彼の前任者信長より遥かに優れている」と当時の日本での世評において激賞されていたことを記している。
>緒戦寄せ集めでバラバラだから
>一揆勢は防戦だけでプロ武士団がなく指揮系統があいまいだから
いつものことだが全くソースがないね。そもそも指揮系統の話なら箕浦合戦で秀吉の与力として奮戦したことが
『信長公記』に記録されてる樋口直房は旧浅井家臣で堀秀村の直臣、当時の秀村は十二万石の大名だったのに対し
秀吉は僅か五万石に過ぎず秀吉より遥かに格上で従わせるのが難しい存在だったわけで
『当代記』には「(堀・樋口は)木下秀吉同心なりしが、小谷落去以前は、
秀吉は五万石、堀二郎は十万石の領主たるに依りて、 秀吉異見に服さざる条、間柄快からず」という記述がある
>秀吉が雑魚なのは対別所明智柴田滝川徳川信雄北条などで証明済み
>よって一揆勢が雑魚だったでFA
「証明済み」なんて言ってるのはコピペ連投基地外の君だけじゃん
秀吉が苦戦したと言えるのは対徳川戦の緒戦だけで後は普通に勝利してるし、
対斎藤浅井朝倉毛利戦で相手より少ない兵力で活躍してる
それに君の「(一揆衆は)指揮系統があいまいだから弱くて当然」
って理屈なら箕浦合戦の堀・樋口もそうだが、
本能寺の変後織田政権で同格以上だった諸将を率いて
戦ってきた秀吉の統率は当然+αの評価をされなくちゃいけないね
つうか早く箕浦合戦で秀吉が砦に籠ってただけ、ってソース出してよ
お得意の捏造はもう良いから『信長公記』とか『浅井文書』とか
それっぽい名前出せば誤魔化せると思ってるのかね
『信長公記』なんてネットで原文と現代語訳読めちゃうのに恥ずかしいw
0080人間七七四年
2013/11/11(月) 12:36:18.67ID:/1X1HoE0徳山宛の秀吉書状すら知らずにデタラメ書いてる愚か者。
5/6に堀秀村の箕浦城を長政が派遣した5000で攻撃されるのを察知した秀吉が
横山城を出陣して箕浦城に入った後、下長沢→八幡(長浜)で戦いが続き
秀吉軍が浅井井規と湖北十ヶ寺一揆連合軍を打ち破ったのも知らん無知ぶりを晒し
箕浦合戦は捏造とか連呼する救いようの無いバカ池沼。
総見記には元亀3年に浅井井規・赤尾清冬らがまた横山城を攻撃してきたが、横山城から竹中重虎が、
背後から秀吉が攻め懸かり挟撃される恐れから浅井軍が撤退したとも書いてる。
依然として秀吉も苦労していたようで、宮部継潤らを調略して自軍強化してる。
信忠の初陣では、無謀な山本城攻めを秀吉はさせられるなど信長がやってくると散々。
この時期、松永久秀も近江に7/7までに来ないと許さんと
追い詰められている信長に無茶を命じられキレてるほど織田軍内は険悪。
宮部継潤らが味方になったことから信長は横山城との連結が可能となった虎御前山に7/27に築城開始。
8/28暴風雨を利用して朝倉景盛が柴田の城郭を放火したら
どんどん延焼して織田軍は大混乱になるなど苦戦続きの織田(9/5長政書状)
これにこりた信長は宮部城を修復し佐久間隊を入れ、虎御前山と宮部城に土塀と堀で囲った軍道を作ることになる。
9月に入り、ついに信玄西上開始。
家康・石川・酒井まで人質を秀吉に出して土下座したから 秀吉が慈悲で家康を許してあげただけじゃんw
人質出してるだろウソつくなw 朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
朝日姫は天正14年の話で、それ以前に佐々や長宗我部や紀州衆ら家康の同盟者は
秀吉に潰されまくってたのに、秀吉にビビって家康は見捨ててるから
家康の味方だった信濃衆も秀吉側に離反して、家康はもう丸裸じゃん。
アホみたいな妄想たれてんじゃねーよw だいたい人質を出してる家康が秀吉と戦えるわけねーよ。
だからこそ石川も秀吉側へ寝返ったし。 岡崎殿って信長の長女で五徳だよな。信雄は実子の他にも妹も人質に取られてたのかw
つかこの時点でもまだ岡崎殿という呼称で呼ばれていたほどの待遇だったんだな。
信雄にとっては信康の妻という徳川との絆を決定づける人物だから尊重してたんだろうな。
まぁ五徳を秀吉に差し出したから、信雄が改易された時に家康は擁護もせずに見捨てたんだな。
織田有楽斎・中川定成・佐久間正勝・土方雄良・雑賀松庵などことごとく人質出してるし。
家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれているし、宣教師の記録でも人質って表記されてるし
家康側は家臣への言い訳に「ひ、ひとじちじゃねぇよ・・・養子に差し出しただけなんだからね」って言ってたのか情けねぇ。
秀吉は人質を一切、出してないし、一方的大勝利だったわけか。
天正12年といえば、まだ秀忠は5歳 信康死後は秀康が徳川家嫡男。 秀康を秀吉の下へ差し出したのは
徳川の屈服をはっきり示すもの。 また故信康の妻も秀吉の下に送られ 徳川家臣のメンツは完全な敗北感しかないだろう。
だからこそ人質を養子と言い換えているが、 実のところ、徳川が秀吉に反抗したら 名誉の自刃をした信康の未亡人が恥ずかしめられ、
さらに秀康が殺されることにはかわりなく 徳川嫡子の生殺与奪の権を秀吉が握っている事実は隠せない。
0081人間七七四年
2013/11/11(月) 12:37:25.24ID:taCY+X1X不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で
抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく11/13秀吉→伊木、
池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている。そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっているこの時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
家康はおろか織田家で最も無能な信雄相手に135000で挑みかかって1万人ぶち殺され
戸木城・松ノ木城・河波城・東駒野城・二重掘砦では散々敗戦し
浜田城・長久保城・蟹江城・前田城・下市場城は秀吉方陣地のほど近くなのに見事に奪回されるアホっぷり。
雑魚すぎて涙が出てくるわw
結局会戦早々から三重臣、池田・森、尾張毛利氏はじめ離反の嵐だった信雄方に対して1年つかって自力では尾張半国すら切り取れないとかw
0082人間七七四年
2013/11/11(月) 12:38:03.34ID:avIhYndp停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
石川は小牧長久手の頃から秀吉に半分篭絡されつつあったし、小笠原が石川の人質連れて秀吉の元に逃げたから
離反しただけ。翌年も家康は秀吉に従うどころか、諸城普請とか浜松会議とか北条との同盟強化とか対秀吉に備えて動きまくってたし
秀吉も天正13年中頃から天正14年初等まで上杉や真田などに天正14年春の家康討伐計画細かく書いてるが、いざその頃になるとビビリまくって信雄を家康の元に送って仲介させたり、
母と妹人質に出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
>>朝日姫は天正14年の話で、それ以前に佐々や長宗我部や紀州衆ら家康の同盟者は
>>秀吉に潰されまくってたのに、秀吉にビビって家康は見捨ててるから
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>家康の味方だった信濃衆も秀吉側に離反して
木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
ウザイからさっさと出てけよクズ野郎
0083人間七七四年
2013/11/11(月) 12:38:41.06ID:taCY+X1X当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。
看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別
主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...
関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
0084人間七七四年
2013/11/11(月) 12:39:06.07ID:avIhYndp>> 根来衆は秀吉に対して幾つか無礼を働き、ある陰謀をたくらんでいた
明らかに秀吉サイドの目線で、根来衆からいえば明らかに秀吉が自分らを迫害
>>秀吉は伊勢に入ると敵の諸城を包囲し始め、幾ばくかの苦労をしたが、武力をもってそれらを次々と陥落せしめ
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
>>敵方は長島と称する一城を残し国を挙げて彼に引き渡してしまった
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
>>秀吉の軍勢は同所(伊賀)から異常な迅速さをもって尾張に進撃し、犬山城はたちまち降伏
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
0085人間七七四年
2013/11/11(月) 12:39:29.79ID:taCY+X1X犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
>>三河の国主は夜に入ってからその新しい小牧城を出、天明を待って羽柴の甥の陣地を襲撃した。
明け方に行われたのは秀吉方先遣隊と池田勢との間で行われた岩崎城の戦いであって、家康が秀次の陣地を襲撃し合戦になったのはそれより大分後の
巳〜午の刻。
>> 三河の国主はこの勝利を博すると小牧城に戻った。すると羽柴(秀吉)はただちに2万の兵をもって同城を包囲するように命じた
そんな事全くやっておらず、小牧方面から目をそらして、大河に挟まれた進退の自由の利かない木曽川筋のデルタ地帯に家康・信雄を誘いだして
殲滅しようと岐阜城の秀勝につけた田中・伊藤・谷・石川・藤県に対し、岐阜から木曽川筋を長島に向かい12キロほど南下した所にある大浦城
への加勢を命じている(4/11秀吉→伊藤・田中・谷・石川)また、木造攻撃中の小島・榊原・田丸らに加勢する目的で津田・富田・八重羽らを派遣して
(4/12秀吉→津田・富田・八重羽)明らかに小牧方面への進出を諦め、伊勢や尾張北西部に戦局を転換しようとしている
>>こうした戦闘がすでに終わった頃になって、越前加賀能登から三万近い軍勢が羽柴を助けるために到着したが、秀吉はもはやそれだけの
>>大援軍は必要なしと認め、ただちに引き返させた。
>>羽柴がこのたびの戦いのために大阪を出発した後、根来及び雑賀と称する仏僧らは、彼の不在に乗じ、約1万五千名が一団となって出撃し羽柴が大阪に築いた新しい都市を
>>すべて焼き滅ぼしてしまおうと決意した。大阪を占拠した上はかつて信長が五年も六年も攻囲したかの石山本願寺の僧(顕如)を再びそこに
>>おらしめる事にした。敵(僧兵)は徐徐に前進し途中幾つかの場所を破壊したり焼いて行ったので、四日ないし五日かかった。
0086人間七七四年
2013/11/11(月) 12:41:05.72ID:0FMis/gQ実子を人質に取ったというのは秀吉の垂れ流した事実を歪曲した誇大喧伝だな>>125
>>つかこの時点でもまだ岡崎殿という呼称で呼ばれていたほどの待遇だったんだな。
岡崎殿と呼ばれる事がなぜ待遇の良さに繋がるのか不明。元の身分が高い女性なら、親の死後もその威を受けて、
呼称だけそのまま残されただけ。
>>信雄にとっては信康の妻という徳川との絆を決定づける人物だから尊重してたんだろうな。
根拠なし
>>まぁ五徳を秀吉に差し出したから、信雄が改易された時に家康は擁護もせずに見捨てたんだな。
五徳なんて今や徳川にとって何の愛着も恩もない他人みたいなもんだろアホ
>>家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれているし、宣教師の記録でも人質って表記されてるし
宣教師の記録は>>122-123を読めばわかるがほとんど秀吉側が垂れ流した偽情報を元に事実化のように記載されてる、あってる記述の方が少ないほどのデッチ上げ史料にすぎないから
全くソースにならない。秀吉が人質と書いてるのも事実を歪曲した秀吉お得意の誇大喧伝で、その証拠に天正13年6月の信雄書状で「秀吉は於義井を人質として扱ってない」と書いてる
>>家康側は家臣への言い訳に「ひ、ひとじちじゃねぇよ・・・養子に差し出しただけなんだからね」って言ってたのか情けねぇ。
そんな事全く言ってない。秀吉が一時的な停戦の条件に家康の息子を養子にするという条件を、勝手に人質を取って勝利した、などと摩り替えただけ。その証拠に天正13年は両者とも冷戦状態が続き
秀吉側も徳川側も戦争への準備をちゃくちゃくと進めている。結局秀吉が国力差10分の1&離反の連鎖&領国機密露見で崩壊状態の家康に、いざ侵攻となったらビビリまくって
信雄を仲介に出して家康との戦い避けたうえに、母と妹を差し出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから仕方なく応じてやっただけ。
>>秀吉は人質を一切、出してないし、一方的大勝利だったわけか。
秀吉は母と妹を国力差10分の1、木曽小笠原真田水野石川の離反とそれによる軍事機密露見の家康に対してビビリまくって人質として差し出してる
0087人間七七四年
2013/11/11(月) 12:41:55.26ID:avIhYndp3月26日⇒佐竹 尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
4月8日秀吉⇒毛利輝元 伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
日付不明 秀吉⇒大御ちさま 加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・演ニ譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww
5月9日 秀吉→毛利輝元 小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他) 周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
6月4日 秀吉→佐竹義重 伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
9/8秀吉→丹羽、前田 9/9秀吉→あて先不明 信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で、 11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認?????? 明らかにデタラメ
0088人間七七四年
2013/11/11(月) 12:42:25.12ID:taCY+X1X天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
0089人間七七四年
2013/11/11(月) 12:43:10.53ID:avIhYndp秀忠もいるし、子なんて作ろうと思えばいくらでも作れるから家康にとってそんな大きな存在じゃない。
その証明として秀忠が問題なく継いでるし、翌年は、家康は秀吉に屈服どころか>>130のように抵抗して
秀吉も家康討伐を進めていたし、戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
その証拠に家康は翌年も秀吉に抵抗しまくってたが、秀吉は殺害対象とはしていない
岡崎殿と呼ばれる事がなぜ待遇の良さに繋がるのか不明。元の身分が高い女性なら、親の死後もその威を受けて、
呼称だけそのまま残されただけ。
五徳なんて今や徳川にとって何の愛着も恩もない他人みたいなもんだろアホ
なんで信康が死んで、離縁した後の信長の娘持ち出して家康の敗北感に繋がるんだよボケ
宣教師の記録は>>122-123を読めばわかるがほとんど秀吉側が垂れ流した偽情報を元に事実化のように記載されてる、あってる記述の方が少ないほどのデッチ上げ史料にすぎないから
全くソースにならない。秀吉が人質と書いてるのも事実を歪曲した秀吉お得意の誇大喧伝で、その証拠に天正13年6月の信雄書状で「秀吉は於義井を人質として扱ってない」と書いてる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
0090人間七七四年
2013/11/11(月) 12:44:07.97ID:0FMis/gQその後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
>>年老いてすぐ死にそうになっている母親と将来の多い大名当主の長子では同じ交換でも格が違う
子供は女さえいりゃいくらでも作れるし実際家康も作りまくってるし史実で秀康なんかいなくても問題なく秀忠が継いでるし秀康は単なる養子だし
(信雄書状で秀吉は秀康を人質として扱ってないとか書いてる)母はたった一人の自分を育ててくれた人間だし妹も長年の自分の家族だし
母+妹なんだから長子と比べても遜色ないでしょ。しかも当時の秀吉家康は国力差10倍かそれ以上あるし
>>信雄や家康は秀吉から掠め取った領土など寸土もないわけだが
6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるしそこからスタートと考えればかなり善戦した方だろ。
養子は当主が死ねば当然その家の後継者候補になるし
その家を継ぐ大義名分にもなるし家中で大きな権力・威信・名分・軍事力を持つきっかけにもなる
0091人間七七四年
2013/11/11(月) 12:46:00.85ID:avIhYndpなど一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
●二重掘合戦 細川家記
3月27日秀吉一に25日、秀吉公犬山に入り、楽田・羽黒辺まて諸大将衆はかり召し連れられ、
仕寄の下知など仰せ付けられ先つ小牧山に対し向城を高く構え、堀を二重に深くほり、柵を堅く結び
井楼を上させられる、是を二重掘の要害といい、この外岩崎山・小松寺山・青塚内窪山等の付城勢を
分ヶ守らせらる…(省略)
秀吉公二重掘に附城三ヶ所仰せ付けられ、忠興君を初大将数多くして守らせられ、
小松山寺を本陣とし、用心厳しくして合戦を持て数日対陣有り、二重掘には細川与一朗・蒲生忠三朗
堀久太郎…(省略)
五月遡日、信雄小牧山より見て一あてせんと有しを、家康公御無用とおおせられ、ぜひにと有りて御立候間、
家康公御家人を召され、尾張勢定立らるへし、もり返す用心せよと仰せられ候、信雄の勢は木村・長谷川等の手に食い付き、
芝手の中まてかけこみ、両手の軍士散々に敗走いたし候、忠興君御手廻討に走出られ、芝手の上に御揚り御下知、…(略)
長久手にて3大将討ち死に、秀次利を失われ、二重掘にても既に味方追崩され、秀吉公御気色悪かりしに、忠興君御手にて敵を
追い返し、勢ひつくのみならず、…
徳川家の軍勢小牧山より打ち出て二重掘の前に一戦せんと備ふ、秀吉公下知には敵馬を入れ来らは成へき程折敷て防くこと、…
二重掘の神子田半左え門一戦にも及ばず敗走す、寄手是を追討…神子田、太閤の御勘気を蒙ると云々…
二重掘の軍勢周章して伍を乱す、信雄兵其の気に乗じて攻撃多く首級を得たり、
0092人間七七四年
2013/11/11(月) 12:46:28.30ID:/1X1HoE0南蛮寺が出来た時は信雄、信忠、信孝の順番で訪問するほど、
信雄が宣教師を厚遇してたのに
宣教師からは知恵が足らないと酷評され、
伊賀攻めでは信長から親子の縁を切ると言われた程の暗愚だから傀儡にするのは簡単だろうな。
信雄はどんだけ賤しくぶざまでも死にたくないって言う情けなさで戦国時代を生き残った名誉も持たない男だから。
一方、信孝は南蛮寺に行くのが最も遅い男だったが、耶蘇会から思慮あり諸人に対して礼儀礼節あり偉大な勇士だって激賞され、
天正記でも知勇は人を超えていたとまで評価されていたので、
秀吉に操られた信雄は嫉妬しまくり信孝を殺した。
信雄は暗愚だから織田家を滅ぼした後の自分は用済みになるとは夢にも考えて無かったんだろうな。
まさか強制出家させられ小姓1人だけを連れて秋田へ流罪にされるなんて。
織田家を残す必要があるなら、嫡流の秀信を救うか、
北畠氏による簒奪をせずに織田家に復姓していた信孝の死を免じてやればよかっただけ。
伊勢国司北畠信雄は彼らを死ぬように追い詰めただけ。
結果、秀吉によって北畠姓まで剥奪されて秋田へ流刑。
織田を滅ぼした命乞いの土下座王信雄。
出家したので前がつくものの正二位前内大臣信雄として淀の叔父でありながら
(関が原の時も家康が正二位内大臣だったが先任なので信雄の方が上)
大坂陣の時もひそかに逃亡するヘタレ
関が原?戦果挙げてたのは島左近だろ。次点で明石全登じゃない?
足引っ張ったのは織田信雄、西軍から白金2000枚パクったw
清華家の家格を持つ北畠氏のまま、
家格の低い織田氏に戻らなかった信雄の空気の読め無さが、
強制出家と秋田への流罪を呼んだ。
関ヶ原の戦いの西軍首謀者だった輝元への懲罰でも強制出家が強要されていて、
結局のところ家臣らを通して必死な命乞い嘆願が行なわれて、
責任を取っての名誉を守る自刃を回避する武士の風上にもおけぬヘタレに対する恥辱的な死一等免除の慈悲であり、
武人としての生命を絶たれたと言っても良い死ぬのが怖い愚主を内外に知らしめる処置なのである。
清華家の家格を上回るために秀吉は藤原氏の養子にならないといけなかったくらいだからね。
実際、北畠氏の家格は征夷大将軍と並ぶ鎮守府大将軍として地方政権を樹立できる資格も余裕で持ってるからね。
そりゃあ北畠の名前にすがってれば高貴な殿上人として、
どんな大罪であろうと死一等免除の遠罪レベルにしてもらえるんだから信雄だって織田なんてクソに戻りたくはないだろうよ。
信雄家康が秀吉に負けたから鎮守府大将軍として政権を立てられ無かったが、
秀吉に勝ってたら朝廷から任じられ政権樹立できただろうね。
平清盛や源頼朝も清華家の家格を手に入れてるしな。
清盛の娘の徳子が天皇の妻になれたのもこれが理由だからね。
摂関家に次ぐ家格だから、これを上回る為には摂関家の養子になるしかない。
0093人間七七四年
2013/11/11(月) 12:47:41.99ID:/1X1HoE0まず北畠具教と木造具政(晴具三男・具教の弟)の内訌において
木造が織田の力を借りて内訌を有利に運ぼうとしたことが挙げられる。
北畠に苦戦した織田は義昭の和睦調停において茶筅を人質に出して安全撤退した。
(北畠は人質を出してない)その時に茶筅の安全を守るため織田家から津田一安が付けられ、
木造からは滝川雄利(木造一族)と拓植三郎左衛門(木造重臣)が警護に付けられた。
さて成長し茶筅が「具豊」と名前を改めて文書発給を開始したのは天正元年9/20が初見。
大湊中に宛てたものだ。これは長島一向宗攻撃のために伊勢水軍に桑名派遣を命じてる。
そこには「本所よりも固く御申し付けあるべく」とあり、本所とは具教もしくは具房を指しており
信雄より先に本所からも命令文書が発給されているのがわかる。
そして具教や具房の奉公人である山室氏(9/16・10/13・10/14・10/16・10/29)や
鳥屋尾氏(10/13・10/16・10/19・10/晦)によって大湊への軍事動員書状が発給されてる。
9/20頃に伊豆の敵船が大湊入り津田一安が現地入りして糾明に乗り出し大湊諸衆と交渉してる。
しかし大湊の船主たちが軍事動員に反対して拒絶している姿が山室氏の書状で判明する(太田家古文書)
つまり大湊の船主の総意は織田に従いたくないという大前提が見て取れる。
また天正元年11月15日に山田三方中と北監物に信雄は文書発給しており
大意としては両御所様御同前に北監物(伊勢大神宮御師)の息子の
福島左京亮(皇大神宮御師)の跡職相続を認めたもの。
これも9/16・9/22・10/22に山室氏から奉書が発給済みのもの。
天正元年の信雄の具豊名での発給文書はこの3通のみ。
このように信玄が死去し義昭が追放された後になってやっと信雄の発言力が多少向上してるに過ぎない。
ここに至っても伊勢水軍が織田に服属してないのが理解できる。
0094人間七七四年
2013/11/11(月) 12:48:30.59ID:/1X1HoE0つまり天正2年はまったく書状を発給していない。
よって7月の伊勢長島一揆討伐の軍事動員も具房らが主導していると見てよい。
ではなぜ天正3年から発給が開始されるのか?そして「具」ではなく「信」が使用されるのか。
それは多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。
そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。
津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。
天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内らを信雄が粛清することになるが、
原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、
多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。
大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。
本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは
信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい
織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。
つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、
12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。
信雄は天正2年はまったく書状を発給していないことに着目し
信雄が織田家に突っ返されてしまったとする考え方もある。そして天正3年6月に再度、伊勢入部したとする。
その後、8月の越前一向宗殲滅戦には信雄はなぜか大和衆を率いる塙を部下としているように見え
(塙の大和支配もあくまで信雄の配下としての行動に過ぎないのではないか)
滝川一益や津田一安は信長の命に従っているように見え、信雄とは別系統とも思える。
伊勢衆は信雄の統制下にはまったく置かれてない独自行動してるのがわかる。
北畠は結局、兄弟内訌で滅んだだけだしね。
木造具政は織田を利用して兄の北畠具教を滅ぼして戸木御所を自称してた張本人で
信雄を傀儡擁立にした木造家本家を継いだ首脳人物だからね。外様なわけが無い。
(息子は木造長政・具康・長正・長忠など別名多数)
吉村は単に史料が大量に遺されていただけの話で、
しかもその内容は家康や信雄から「前線の様子の報告ありがとう」な内容の書状ばっかりで
正直、内容も書かれてないので役に立たない書状ばっか。これで首脳とかありえないから。
0095人間七七四年
2013/11/11(月) 12:49:08.00ID:/1X1HoE0小牧長久手ののち、秀吉の戦略は尾張西部へ攻撃対象を変更した。
一柳直末に大浦城(羽島市)の普請を命じ、楽田から岐阜へ移動。
5月、秀吉は尾張富田(一宮市)に進出し加賀野井城(羽島市)包囲を開始。
この城は信雄首脳陣たる林・楠・千草・小坂らが篭もっており、
信雄が救援に木曽流域にきたところを捕捉殲滅しようと策した。
しかし信雄と家康は秀吉との正面衝突を恐れ城から出ず、6日には籠城衆が脱出を図るところを大量に討たれた。
その次に竹鼻城攻めが開始された。この城が水攻されたのである。
一両日で水に沈み抗戦不可と悟り、不破らは信雄の許可を得て長島へ退去し一柳が入城した。
滝川が清洲(徳川軍策源地)と長島(北畠軍根拠地)の連絡を寸断すべく蟹江城を乗っ取った。
一益はロクに兵も物資も持ってないので、これには家康も動き夜通し鉄砲を打ち込み、
すぐにヘタレ一益の蟹江城は矢玉の準備もロクになく戦意喪失し降伏。
9月に和議が持ち上がり、蒲生氏郷に秀吉は南伊勢五郡の知行を与えている。
和議は難航してる間にも信雄最有力家臣の木造長政の戸木城が半年の籠城の末に10月末に開城し
信雄唯一の南伊勢の拠点も消失。
秀吉軍は2手に分かれて北伊勢から信雄のいる長島城を脅迫するべく10/25近江から行動開始。
秀長も木曽川に沿って大垣から長久保(海津市)まで南下。
秀吉の行動に対応して伊勢筋からの信雄の注進により10/23に松平家忠が清洲に入っていたが
(酒井忠次が10/17清洲へ移っていた)家康も桑名表の危機的情勢を聞きやむなく11/8に尾張へ明日出陣を伝え
清洲城へ11/9に入ったが何ら策なく、各戦線への援軍すら出せない諦観状態。
もう1人の最有力家臣の滝川雄利の浜田城も秀吉軍の付け城に包囲されており救援不可能。
秀吉自らは11/10長島目前の桑名町屋川まで押し詰め付け城を構築開始(11/11書状では信雄が種々懇望と書いてある)
これに恐怖した信雄は家康の支援が望めないと悟り降伏。11/12に講和成立。
重臣たちと供に人質を出し、慌てた家康も秀康を人質に差し出して秀吉勝利のうちにこの戦役は終了した。
(家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれている)
三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
家康もこれ以上の戦争継続は不可能だっただろう。
結論
信雄と家康は秀吉の大軍による本格南下に、蛇に睨まれた蛙状態で氷のようにカチカチ。
秀吉軍の前に野戦回避し無策なまま籠城を続けた挙句に王手となり、
家康はまったく歯が立たないで清洲でふるえていた。
無条件降伏を飲む形で集結し、小田原征伐に乗じて家康は国替
信雄は北畠家から強制出家させられ小者1人付きだけの秋田流罪にされる。
0096人間七七四年
2013/11/11(月) 12:49:39.92ID:/1X1HoE0>>木曾川流域まで進出したら兵力で圧倒的に劣る家康は危険すぎただけ
つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ。
家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
>>鼻救援に行くには加賀の井城を攻略しないといけないのだから
秀吉は加賀の井城を攻略後に竹鼻城へ水攻めを開始している。
つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに
竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい
秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
完全に戦略的大敗を決定づけたのが加賀の井城→竹鼻城落城の一連の流れ。
>>滝川がへたれなのではなく清洲と長島を分断する大チャンスで秀吉がなぜか放置するような雑魚だから降っただけ
7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
>>信雄唯一の南伊勢の拠点も消失
すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
他にも小島民部や榊原や朝成藤方や長野左京や水谷や河北佐助や恒川次助らに伊勢壱志郡を与えている。
>>和議は信雄書状や家忠日記に書かれるように秀吉が申し出て信雄が蹴った
秀吉の和睦条件は信雄と家康や石川から人質を取ることであり
それを最終的に家康らが拒否しただけの話。秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
でも結局、この条件で半年経たずに土下座することになるのが、信雄と家康。
>>長久保は徳川方に奪回されてるのが一次資料で確認できる
羽柴秀長の大軍南下の中で吉村又吉郎の独力でそれが可能なようには見えないけどな。
しかも吉村に対して11/7・11/8で相次いで信雄が福田の裏切りへ対処するように行ってる状況下で。
まぁ11/10の信雄→吉村でいきなり長久保落居を聞いたと書いてるだけで
ただ単に裏切ったばかりの福田を討っただけでしょこれ。秀吉の敗北カウントになんねーよカス
どっちにしろ家康には何ら功績などない。 つか秀吉敗北カウントに入れてる城攻めの一次ソースでちゃんと明示しろよw
>>家康は美濃方面に出て遠山と共に羽柴と戦っている
家康が出陣していたとは書いてないだろ捏造すんなw秀吉書状には敵が東美濃へ攻めてきたから
自分も10/20に出陣すると書いているが、10/22には敵が退散したから、出陣部隊は美濃ではなく伊勢へ行くと
方針変更を伝えているだけだし。しかも10/18付けで家康は味方の遠山半左衛門尉討死を伝えているし
9/23には飛騨の金森が美濃郡上へ秀吉のために動くなどと書いているし美濃東部戦線も秀吉有利に進んでるわけだがw
>>家康は85年までずっと戦闘態勢を解いていない
そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
だから家康を見限って木曾小笠原真田水野石川らが出奔した結果となったんであって
家康が優位なんてバカなことはない。しかも結局、酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。
徳川が人質じゃないって言い訳してるが、徳川有利ならそんなに人質送るハメにならんだろw
そもそも信雄が2/22着で大坂城へ土下座しに行ってる時点で家康の大敗は確定的。
そもそも家康には天正12年6/27付け書状からわかるように秀吉へ人質を出していた上杉という敵までいるしw
しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。
0097人間七七四年
2013/11/11(月) 12:50:11.57ID:/1X1HoE0(藤田達生氏の新著の「蒲生氏郷」でもそれを支持している!)
そこには伊勢国奄芸郡(現・三重県津市一身田の浄土真宗高田派本山)
一身田高田山専修寺の御門跡大僧正尭慧上人が戸木城へ来て
木造親子を宥められて扱い入れてくれたことで木造家は無事になった。
(関が原の戦いにおいても安濃津城の戦いで一身田高田山専修寺は開城交渉に乗り出しており
安濃津城主富田信高・伊勢上野城主分部光嘉らは一身田専修寺へ退去しているように伊勢での和議斡旋の中核を担っている勢力)
10月下旬に左衛門佐具康父子が戸木城を退出し信雄の清洲へ退いた。
それにより木造・小倭の領地は上野介信兼(織田信包?)へ付けられた。
(ちなみに木造記にも戸木城攻め総大将を織田信包と書いている)
信雄・信益・中川定成・佐久間正勝・土方雄良・雑賀松庵の政権運営メンツが
人質を出してるのに最有力重臣木造親子が一切、人質を出してないのは不自然。
お前は勢州軍記を木造記の内容パクり先だとやたら主張してるが、お前ほんとは読んでないだろ?
勢州軍記の方は信雄が和睦したので木造家も城を渡したとさらっとしか書いてない
しかし木造軍記は奄芸郡一身田高田山専修寺御門跡大僧正尭慧上人が
無事を扱ってくれたので開城したと具体的に書いてあって内容がぜんぜん違う。
(家康が兵糧輸送を諦めたため7/28の時点で木造の和睦を請う態度に秀吉は本人と家老2人に
人質を出せと命じており尭慧上人の斡旋で和睦条件が緩和したので木造は速攻で秀吉に降伏したんだろう)
10/28秀吉の脇坂(伊賀上野に駐留して11/3に伊賀城割開始))宛書状には
桑名まで押し詰め付け城4、5ヶ所申し付けって書いてるし
同日の丹羽宛秀吉書状には書状が浜田表に届いたが、浜田城は滝川三郎(雄利)の持ち城だが
取り巻いて付け城4、5ヶ所申し付けって書いてあって、もう完全に信雄方は追い詰められていて
清洲までやってきた家康も近づけない有様になってると見ていい。
しかも大和から筒井勢を新たに動員し始めてるし、丹羽は利家への援軍を出してるし
秀吉側はかなり兵力に余裕をもって伊勢でやりたい放題やってる。
信雄がすでに懇望して侘び言を言ってきてるので、戦いはもう終わると書いてるし。
11/6の大垣にいる加藤宛秀吉書状にはあちこち落として、あちこち砦を造り
北五郡之儀無残所任存分候条って言ってる。翌日の土倉宛ての秀吉書状では東駒野取詰 即時乗崩と感状を出して
美濃でも攻勢を開始してるのがわかる。
>>和睦条件がデタラメ
これは本や史料によって解釈がまちまちで正直わからん。
尾濃葉栗見聞集によると、木曽川西北羽栗・中島・海西の三郡割り秀吉方へ
勢州度会郡・篠島(知多郡)・海西の三郡割りを信雄領
天正12年甲申年9月の秀吉朱印状には
壱志郡・飯高郡・飯野郡・多気郡・渡会郡・大和宇多郡の
大半を氏郷とその与力に与えていたりするしこれ取り消したりしないだろうし。
講和条件については 「北伊勢四郡相渡」の文章の解釈が難しい。
しかも細部の内容がまったくわからないし。
実際、虫あき的な状態で秀吉給地となった場所も多かったと思う。
尾張に関しても犬山(丹羽郡)・甲田(葉栗郡)は秀吉人数入れ置きと書いてるが、
別な史料を除くと岩倉も秀吉方だと書いてるものもある。
川中島は一円、長尾方と書いてあるが実行されたんだろうか?
解釈が難しいが検地から逆算すると桑名・員弁・朝明郡の三郡は返却されたかも知れない。
尾張北東部では丹羽郡〜葉栗郡東部・春日井郡北部などが奪われたか。
尾張北西部も西加賀野井などが奪われたか。それとも返却されたのか不明。
どちらにしろ、家康完敗であって、家康の優勢勝ちなんて判断は一切できない。
そして秀吉が信雄に遠慮して、家康を討つと言い換えていたなんて
トンデモ理論を持ち出す織田厨のバカさが突き抜けたキチガイぶりで笑えたw
0098人間七七四年
2013/11/11(月) 12:52:20.98ID:/1X1HoE0源五殿実子(織田有楽斎)を人質に出すことになってる。
滝川雄利も実子または母を出すとなっているが、
北畠時代からの信雄最有力重臣の木造長政の名前がないのは、
この時点ですでに秀吉方に降伏してるからだろ。
家康も秀康を「養子」として出すと吹聴してるが
秀吉方では「人質」としてる。石川数正も人質を出してるが
のちに家康を裏切り出奔するフラグだな。
秀康を人質に送って先に降伏した信雄を間にクッションとして挟むことで
戦にならないようにしつつ、条件闘争してただけ。
信雄は秀吉の先鋒として家康の味方である紀州雑賀攻めの先鋒までやってる。
家康は雑賀衆だけでなく、長宗我部や佐々らまで見捨ててまで
秀吉の怒りを買わないようにしてたのにw
結局、さらに秀忠まで人質に出して北条攻め先鋒をやるだけでなく
家康の城まで秀吉が「借りた」ことで関東への転封を拒否することもできなくなる。
岡崎を吉川広家に占拠されただけでなく、
駿府に入った秀吉を見た家臣の本多重次にまで
家康は「自分の居城を開けて他人に貸す国主とかwww」
「じゃあ、今度はお前の女房衆を借りたいとか言われた貸すのwww」などと
散々にキレられながら言い放たれて勝手に自分の宿に帰っていかれちゃうほど
情けないことになっちゃったんだがw
>>尾張北西部も西加賀野井も奪われたか
奪われてるね。竹鼻城は水攻め落城後に一柳直末が入っていたが
のち天正13年のことだが11/3付けで竹鼻における不破広綱の領地を
池田輝政配下の伊木忠次に与えてる秀吉書状がある。
天正14年の木曽川大氾濫で流路変更がおきて尾張国から美濃国扱いになってしまったが
当時はまだ尾張領。しかもここからすぐ下流の長島城まですぐだから
信雄は完全に頭を抑えられた格好になってる。
まぁ天正13年11月の天正大地震で長島城はぶっ壊れたから
清洲へ移転することが天正14年2月に決まったが
実際は長島の修理をせずに、竹鼻城から遠い清洲へ逃げた格好だろうね。
信雄にしてみれば、おちおち枕を高くして眠れないからね。
なんせ長島城の堅固さは関が原の戦いでも正則の弟の福島高晴が籠城してる中で
西軍の毛利軍は鍋島隊を長島への備えに配置して攻めずに関が原へ急行してるしね。
関が原を無視して、長島城を落として尾張国に雪崩れ込み背後を襲う戦略をつかわなかったのは
それだけ長島城が堅固だったと言うことだろうけど
そもそもなら、なんで伊勢攻略軍なんて編成したんだよって話だよな。
素直に、岐阜城を策源地に尾張に攻め込んでれば良かったじゃんwってもんで。
やっぱり毛利ってのは戦略眼がまるで無い。
0099人間七七四年
2013/11/11(月) 12:56:50.97ID:vfBKnB7s根拠なし。毛利の負け戦もちゃんとのってるし史料の編纂作業なんてどの大名でもやっている。上杉の語年譜とか歴代古案とかと同じ
>東京大学が出版してる毛利や吉川や小早川家に伝わる正統な書状をまとめた家わけ文書の毛利家からソースをひとつでも出してみろと再三要求してるのなぜ逃げまくる
児玉家文書だの晋曾寺文書やらいろいろ出してるが無視しまくって捏造扱いしてるのがお前
>萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ
>その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書
根拠なし。辛川合戦や加茂崩れみたいな醜態もちゃんと書かれているのが荻藩閥越禄
>また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、
>武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。
そんな事かいてる学者の論文やら出してみろよクズw都合悪い文書だけ捏造扱いしてんじゃねぇよチンカス野郎
>もう滅茶苦茶だなお前wそれ信長の命令で秀吉が撤退したのちも、
そもそもそれが軍記の講談ネタで兵庫県史とか洗ってみても信長の命令で秀吉が撤退したなんてどこにもかかれていない。
普通に毛利軍と熊見川の正面対決で大敗して戦線離脱せざるをえなくなっただけ
>>山中ら尼子復興軍の全滅の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案
去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
>>毛利の捏造ぶりの参考例・・・サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった.1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
>>全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
それが熊見川とどう関係あるのか不明 あれが捏造だからこれも捏造とか妄言乙だな
>毛利の主張する捏造熊見川の戦いの日付は6/25
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、 成田五郎左衛門尉秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候
天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、 以上児玉家文書
0100人間七七四年
2013/11/11(月) 12:57:21.74ID:lXk7yCl6それ信長公記や太閤記の講談ネタで兵庫県史資料編とか細かく洗ってみてもそんな書状一切出てこない
>>秀吉撤退の信長の意向を受けて秀吉への撤退支援として丹羽や明智や滝川が秀吉軍の高倉山から書写への退却支援のために三日月山に到着したのは6/29だから
根拠は?
>>退却はそれ以後の話なわけだ
そもそも退却後に彼らが到着という流れでも全く問題なく話しがつながるわけで。
>>6/21に信長の意向を無視して司令官秀吉もいない織田軍が毛利軍と無意味に戦うわけがない
なぜ秀吉がいないことになってるのか不明。普通に上月救援しようと思ってたら毛利軍と遭遇して大破されて逃げ帰ってきたと考えればいいだけ
>>毛利の主張する捏造熊見川の戦いの日付は6/25だから顕如の上月城下での討ち取り書状は日付も合わないから熊見川の戦いのソースにすらならない。
顕如書状でも>>419の文書でも6/21になってる
>>つかこんな中途半端な日付に3000討つとか明らかに毛利側の嘘宣伝でしょ。
なんで顕如の書状が毛利の嘘宣伝になるのか不明。顕如は織田の敵対者だが毛利一族でもなんでもない
>>だいたい熊見川の戦いにしたって敵前渡河した吉川騎下の有地元盛が1番槍で突っ込んで中国探題羽柴秀吉と直に槍を合わせ撃ち勝った挙句に、
>>織田全軍を二番手の杉原盛重と共に標高360メートルの高倉山を駆け上がり叩き出す大勝ぶりでさらに追撃を緩めず曲輪や堀切りを突破し尾根続きの仁位山城
>>をさらに追撃しついには姫路市北西の書写山の円教寺に逃げ込んだ秀吉を追い詰めたなんて作り話でしょう。
根拠不明。信長記の講談引用がソースなら毛利の日記やら萩藩閥越禄やら陰徳太平記の引用も普通にありだろ
>>よって顕如の書く討ち取り数は百歩譲っても尼子残党とのものでしょう。
根拠不明。上月城下なんだから尼子残党ではなく秀吉軍だろ。上月城内ではないし戦死した日時は21日。これで尼子残党の事だと考えるほうが無理がある
>>顕如の書状には7/5に上月城落城とあるが、実際は7/1にすでに降伏開城してるし7/3には尼子一族が責任を取り自刃してる。
んでそれがなぜ6/21に上月城下で戦死したものが尼子勢の事にすりかえられるのか不明
>>本当に熊見川で毛利が織田軍に大勝利して書写山包囲し秀吉捕縛間際だったなら指呼の距離の姫路城へも勢いを駆って進出するはずだし、
>>信忠の大軍だって呑気に支城攻めを続けてから相撲大会見学のために帰国しねぇよ。
毛利が本拠地からの距離と大友参陣と輝元のヘタレっぷりを理由に安芸にヘタレ退却する雑魚だったから信忠らも秀吉支援に乗り出す必要すらなかっただけだろ
>>馬廻や小姓を連れて祇園会の見物をしてたり、信忠が岐阜で飼ってた鷹を鷹師に持ってこさせて一足没収して楽しんでんのは秀吉が大敗なんてしてねーからだろ
全くの妄想願望乙。毛利にビビリまくって現実逃避したか毛利が安芸にヘタレ退却したから後詰する必要なくなっただけ
以下が正しい日付年表ね
4/29信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
5/1信長、親を播磨に出征せんとす、佐久間信盛等、之を諌止す、尋で、又出陣せんとし、大雨に依り、之を停む
5/4信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す、
5/6信長、信忠、北畠信雄等を播磨に遣す、是日、信忠等、賀古川に陣す、
5/16羽柴秀吉、但馬山名豊国の好を通ずるを容れ、其所領等を安堵せしむ、
5/21羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、
仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、尋で、宗治、同城を復す、
5/24羽柴秀吉、竹中重治を遣し、備前八幡山城某の帰属を信長に報ず、
6/26羽柴秀吉、陣を播磨高倉山より書写山に移す
6/29信長、津田信澄等に命じ、摂津兵庫及び播磨高砂間の道路に、戌兵を置かしむ、
7/5播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る
7/7本願寺光佐(顕如、)播磨の情勢を紀伊の門徒に報じ、播磨高砂に兵を遣して、之を守らしめ、
又神吉城の落城に備へて、海上の通路を確保せしむ、
0101人間七七四年
2013/11/11(月) 12:58:11.17ID:lXk7yCl6>>毛利家日記みたいな家臣団が家に伝わってきいたと称し提出した偽書状の宝庫の捏造文書写を出して論ぜず、
根拠なし。毛利の負け戦もちゃんとのってるし史料の編纂作業なんてどの大名でもやっている。上杉の語年譜とか歴代古案とかと同じ
>>東京大学が出版してる毛利や吉川や小早川家に伝わる正統な書状をまとめた家わけ文書の毛利家からソースをひとつでも出してみろと再三要求してるのなぜ逃げまくるんだよwww
児玉家文書だの晋曾寺文書やらいろいろ出してるが無視しまくって捏造扱いしてるのがお前
>>萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ
>>その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書かれてる始末www
根拠なし。辛川合戦や加茂崩れみたいな醜態もちゃんと書かれているのが荻藩閥越禄
>>また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、
>>武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。
そんな事かいてる学者の論文やら出してみろよクズw都合悪い文書だけ捏造扱いしてんじゃねぇよチンカス野郎
>>もう滅茶苦茶だなお前wそれ信長の命令で秀吉が撤退したのちも、
そもそもそれが軍記の講談ネタで兵庫県史とか洗ってみても信長の命令で秀吉が撤退したなんてどこにもかかれていない。
普通に毛利軍と熊見川の正面対決で大敗して戦線離脱せざるをえなくなっただけ。
>>山中ら尼子復興軍の全滅の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案
去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候 天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
>>毛利の捏造ぶりの参考例・・・サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった.1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
>>全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
それが熊見川とどう関係あるのか不明 あれが捏造だからこれも捏造とか妄言乙だな
あと荻藩閥閲禄やらの件でも探しても
>>あれは合戦では無かったので虎倉合戦では無く加茂崩れと呼称。
>>毛利軍は有漢から福山への陣替のために近習が夜に先発し移動開始したけど
>>現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。 そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず
>>高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて
>>鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。
>>その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、 これによって伊賀家久が長州藩の家臣となった。
>>一番笑えるのは荻藩閥閲禄において大四次川中島の戦い二日前の書状の写しがあって
>>そこには馬場を配下にしてる武田軍の参謀『山本勘助』が登場してて、2万のうち一万を山縣に預けるとか書いてる。
>>つかまだ飯富であって山縣を名乗ってませんがwww
こんな記述どこにもねぇわカスw
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