長篠・設楽原合戦の真実 part4
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0001人間七七四年
2013/09/25(水) 20:07:47.53ID:qFUBVBrT前スレ
長篠・設楽原合戦の真実 part3
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1311641686/
http://www.logsoku.com/r/sengoku/1311641686/
過去スレ
長篠・設楽原合戦の真実
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1153127427/
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長篠・設楽原合戦の真実 2
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1225641222/
http://www.logsoku.com/r/sengoku/1225641222/
0002人間七七四年
2013/09/25(水) 20:26:06.10ID:Q+Eb4P9W0003人間七七四年
2013/09/25(水) 21:59:13.40ID:4UeMWFcu0004人間七七四年
2013/09/26(木) 00:27:07.94ID:w09+xmZk勝頼は死中に活を見いだすためにあえて背水の陣を布いたのだよ
まあ結果は信長の方が一枚上手で大失敗だったが
0005人間七七四年
2013/09/26(木) 08:26:07.91ID:/V2OCv1h実際に三段にしていたかは疑問だけど、鉄砲隊は斜面上にいてもおかしくない
地形だよね。
>>4
何と言うか、あんな地形で兵力的に不利な方が突っ込んでいった様には思えない
んだよなぁ。
しかも構築されてしまっている陣地に自分から出向くって、どう軍議で決まった
のか気になるね。
主戦は家康側だったんだろうけど、それにしてもなぁ。
0006人間七七四年
2013/09/26(木) 19:53:58.71ID:wW/EMK/S0007人間七七四年
2013/09/27(金) 00:19:20.57ID:7xUKbv5+たぶん柵の周辺には鉄砲隊を中心とした少数の兵力しか配置していなかったと思われ
武田軍がのこのこ出て行ったのも敵の援軍は意外と少ないと認識したからではないかと
勝頼の作戦は背後から襲われないよう長篠城周辺に見張り部隊を残しその間に敵援軍を粉砕しようというもの
一方信長の作戦は柵と鉄砲隊で敵主力を引きつけている間に酒井別働隊によって長篠城を救援
その後前後から挟み撃ちにしようというもの
万が一柵を突破されたとしても伏兵によって包囲殲滅する二段構え
んでまとめると武田軍は信長にまんまと誘い出され罠にはまってしまったということ
敵援軍は少数だと誤認し酒井別働隊の存在に全く気づかず出て行った時点で詰んでいたと言える
0008人間七七四年
2013/09/27(金) 21:20:29.39ID:6MXhid9j鳶ヶ巣山砦の構造が寡兵で戦える構造でないのに、少数の兵を更に分散配置したこと
敵の総兵力を見誤ったこと
長篠城を過小評価したこと
致命的なミスが多すぎてどうしようもない。
0009人間七七四年
2013/09/28(土) 01:52:44.09ID:ibV8N/nz突っ込んでいったのは、武田側(というか勝頼か)の主観として負けると思っていなかったからでしょ
織田軍の実数を精確に把握できない以上、実際に当たってみなければ勝ち負けがどちらに転ぶかはわからない
武田としては敵の手に渡った重要拠点を奪取するのが出兵の最大の目的なわけで、それをさせまいと出撃してきた
織田の本隊を阻止しなければならない。そうなると川を挟んで対陣せざるをえない
一度対陣してしまうと、双方の合意でも成立しないかぎり先に退く動きを見せたほうが
損害を被る可能性が高くなる(退き陣の危険性)
武田の一番の敗因は長篠城を早期に陥とせなかったことかね。逆に言えば籠城兵が頑張った
0010人間七七四年
2013/09/28(土) 08:45:33.73ID:7twPhTUx一次史料完全無視の織田半島人の妄想しか書いてないw
0011人間七七四年
2013/09/28(土) 15:40:24.26ID:+UzqDzXN0012人間七七四年
2013/09/30(月) 12:29:23.22ID:oYhC/3WWそこでポイントになるが、陣地構築まで何もしなかったのか、偵察がぼんくら
だったのか、ってところ。
武田にしては後手後手過ぎる。
>>8
だいぶ前にこのスレで出た意見だけど、鳶ヶ巣山砦は合戦前に落ちていなかった
かも。
定説の奇襲コースだと、奇襲にしては山が深くて、何千もの兵が見つからないって
のはおかしい。
ここも見張りがぼんくらだったのか。
包囲するにあたり、城下を見渡せる砦は必要だし、合戦時には極少数の兵しかい
なかった可能性もある。
>>9
確かに陥せなかったのは誤算だろうけど、合戦せずに引くと言う手もあったと
思うのだけどなぁ。
0013人間七七四年
2013/09/30(月) 12:31:33.51ID:dhbOQBEY一次史料完全無視の織田半島人の妄想しか書いてないw
0014人間七七四年
2013/10/01(火) 22:30:36.89ID:2cAsg6OO信長の方は柵なんかがあり、追撃には不向きな陣形だったから、
勝頼が撤退しようと思えば可能で、
信長は決戦にかなり消極的だったというのが前スレの結論だったような。
0016人間七七四年
2013/10/01(火) 23:09:37.20ID:2cAsg6OOそれ読んでみたいな。誰宛?どの文書?図書館で読める?
0017人間七七四年
2013/10/01(火) 23:18:15.66ID:g5OuR5g90019人間七七四年
2013/10/02(水) 08:25:29.11ID:ox19hHxf確かに武田が突入でいないほどの柵を作っていたなら、追撃はできても戦果
としては期待できないかも。
実際はどうだったのだろう。
この辺を考察するのが楽しいところだよね。
>>15
まあ、一種の鼓舞みたいなものだからどこまで本当かわからないけどね。
でも、結果からすればわりと思い通りにいったみたいで、にんまりだったの
ではないだろうか。
0020人間七七四年
2013/10/02(水) 08:32:56.36ID:nl2AGLHf何もしなかった以前に敵援軍が来ていることに全く気づかなかったと思われ
鳥居が捕まって初めて知ったような感じだし
つーか長篠以前にも敵援軍に全く気づかず背後を襲われ大惨敗した砥石崩れがあった
武田の偵察力は昔からこの程度だと思うぞ?
0021人間七七四年
2013/10/02(水) 08:37:39.82ID:BDYhBL2O0022人間七七四年
2013/10/02(水) 09:54:18.55ID:5ZfU1WBA0023人間七七四年
2013/10/02(水) 12:12:53.75ID:K+y2GQUw会話や相槌の自作自演が極限のアホさを醸し出しているw
0024人間七七四年
2013/10/02(水) 12:29:28.29ID:ox19hHxfないんだよね。
そもそも、決死の覚悟で敵陣を抜けた豪の者が、捕まったからって援軍が来る
と言う極秘事項を直ぐに話すものなのだろうか。
ただ、子孫が逆さ貼り付けの絵を旗印にしてたと聞くし、伝令をしたのは事実
なのかもしれない。
0025人間七七四年
2013/10/02(水) 22:57:52.87ID:cfaD59+/伏兵に決まってるじゃん
どおして丸見えの鉄砲隊大群に、武田がわざわざ向かっていく?
まさか信玄を追いかけて自殺したいだなんて言い出すんじゃあるまい?
3段打ちは藤本さんが完全論破したから下火だけど、どうして一斉射撃を信奉する信者が減らんのか、少し考えてみた。
黒沢の「影武者」が悪んじゃないか?正しく歴史認識を捻じ曲げた映画だよ。
0026人間七七四年
2013/10/02(水) 23:16:54.07ID:5ZfU1WBA0027人間七七四年
2013/10/03(木) 08:29:31.08ID:1+QJOrlz江戸時代の軍記物が広まったせいじゃないだろうか。
影武者以前に地盤が出来ていたのではないかと。
第4次川中島の合戦も、物語としか思えない。
0028人間七七四年
2013/10/03(木) 10:58:25.59ID:p4Oa78z/0029人間七七四年
2013/10/03(木) 11:57:40.61ID:KLuPfmK60030人間七七四年
2013/10/03(木) 12:28:35.31ID:n7fOunv60031人間七七四年
2013/10/03(木) 12:33:16.56ID:1+QJOrlzそう言えば、機関銃みたないに連射や多発出来るものを開発する発想は日本に
はなかったのだろうか。
これはスレ違いかな。
0032人間七七四年
2013/10/03(木) 17:19:06.48ID:HKK/dIaK例のキツツキ戦法ね。
妻女山の一人ずつしか通れない狭ーい道を、1万の武田軍が通るのに何時間かかるんだろうね。
子供の頃親に連れられて、代々木公園の反消費税集会に参加したとき、10万人(主催者発表)の人間が四方向に分かれてデモ行進を開始。
10万人を4等分したと仮定して、2万5千のデモ隊が2列で行進開始。
これは武田軍が1列で妻女山を歩くのとほぼ同数。
オイラが歩き始めたのは、デモ先頭出発から3時間後だった。それでも最後尾じゃないよ。
あの経験でも1万の大軍が狭路を通るのが如何に時間がかかるのか、わかるよ。
キツツキ部隊の最後尾は、八幡原に日没前に到着できないんじゃない?
スレチすまん。
0033人間七七四年
2013/10/03(木) 18:09:07.21ID:bprImv5a解釈が違うんだな〜
頂上に陣取ってたのは謙信の本陣だけ
下の画像もいきなり本陣を攻めようとしてるけど謙信勢は妻女山の峰々に分かれて陣取ってたんよ
http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/43/0b/kagetora_nagao2007/folder/987457/img_987457_21908717_0
信玄の別働隊は峰を1つ攻め取るだけでいいんだわ
それで謙信が逃げ出せば八幡原に陣取る信玄本隊が食い止め、別働隊は謙信の後ろを攻撃する
謙信が別働隊に攻撃を仕掛ければ信玄本隊は後詰となる
0034人間七七四年
2013/10/03(木) 18:13:18.40ID:bprImv5aちょっと訂正
別働隊は峰の一部に喰らいつけばいい
0035人間七七四年
2013/10/03(木) 22:44:11.67ID:FJ8v9ksrきて、1日、2日と少しずつ織田軍が集まってきた。ある程度多くなった
時点で、勝頼は織田軍を追い払おうとしなければいけない。武田軍が長篠
から設楽原に向かうにも時間がかかる。その間にも織田軍は増員される。
武田と織田が設楽原で陣を向かい合わせた時点で、勝頼は撤退できない。陣を崩して
撤退すれば、織田軍につけ入れられる。勝頼にはおめおめ撤退するという
選択肢はない。とはいえ、踏みとどまるわけにはいかない。日を稼げば稼ぐ
ほど織田側が増員されて、武田不利となるからだ。武田は織田軍に向かって
猛攻を試みるが、攻め手より、守り手のほうが有利。織田は武田の猛攻をし
のぎ続け、守りに徹する。勝頼は織田が陣地から出る気がないとわかり、このままでは勝負が
つかないとと悟るとどうするか。軍を返して、撤退した。速やかに軍を返す
ために、事前に後詰を撤退させていた。小山田、穴山隊が先に撤退したのは
敵前逃亡ではなく、勝頼の指揮に従っただけのことである。勝頼は織田軍に
攻めるぞと見せかけて、織田が陣地にこもっている間に、無事に武田軍を撤退させ
ようとした。武田軍撤退の際に、信長はきっと迷う。勝頼は織田軍をおびき出そうと
しているだけではないかと。勝頼は信長の迷いのうちに軍を速やかに退くこと
を狙ったのだ。しかし信長は強気だった。武田軍の返り打ちにあったとしても、
設楽原にまだ到着していない後詰を合わせれば負けることはないからだ。
かくして武田撤退と同時に織田軍が一転堰を切ったように、なだれを打って
きた。勝頼は惨敗した。
0036人間七七四年
2013/10/04(金) 00:33:52.35ID:CP0rnbrL0037人間七七四年
2013/10/04(金) 07:00:17.94ID:zzMNv6eP>速やかに軍を返すために、事前に後詰を撤退させていた。
>小山田、穴山隊が先に撤退したのは 敵前逃亡ではなく、勝頼の指揮に従っただけのことである。
なるほど。興味深い説だね。裏崩れに見えるからハイリスクだけど。
0038人間七七四年
2013/10/04(金) 10:13:18.24ID:iSLWDuD60039人間七七四年
2013/10/05(土) 11:08:46.39ID:B1BEBckT0040人間七七四年
2013/10/05(土) 15:58:22.06ID:O/BrvUJc393 名前:名無し曰く、 [sage] :2013/01/25(金) 18:38:47.21 ID:FajTfCBr
勝頼は長篠の戦いにおいて
信長を討死、もしくは半殺しの半身不随にしていると言う可能性が高い。
なぜなら織田軍は武田軍を追撃せずにさっさと帰っている。
長篠の戦いからしばらく経つと信長は花押をほぼ書かなくなり(書けない?)
朱印や黒印の印判ばっかり使うため、信長以外の人物がハンコを押して書いている。
天正9年に3/25に家康に宛てた書状の1通しか花押の書状はないわけだが
それすらも過去の信長の花押と違うという点と、
あて先が三河守殿と書いていると言う理由から偽造の可能性が高いといわれている。
信長の替え玉として兄弟が立てられたのだろう。
謀反人の弟の子である津田信澄が天正3年から急速に地位を高めていく謎も
信長が戦傷が元で死んだためと考えると理解できる。
花押が書けないと言うの最末期状態だから相当終わってたんだな信長。
氏親の印判つきの今川のかな目録の分国法も
最近では氏親は脳溢血で花押が書けないと考えられ、
実際に分国法を作ったのはかな混じりの文章を書いていた寿桂尼だとされてる。
歴史検討において花押を書ける書けないは
健康状態や生死判断に利用されてるもんな。
0041人間七七四年
2013/10/05(土) 21:17:15.09ID:y/KUA43Lお前ら関係ない小説の話とかいろいろぶっこむなよ
合戦の話しろ
0042人間七七四年
2013/10/06(日) 19:46:02.84ID:6nNJXrAv手取川合戦・三方原合戦の真実
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1341761079/l50
0043人間七七四年
2013/10/07(月) 12:20:45.08ID:+wrEV0Caそう。
妻女山には陣地としての形跡はないそうだ。
例え本陣だけにしろ、奇襲で山から追い落とすのはかなり難しい。
しかも、追い出せるかどうか解らないのに、軍を2つに分けるなど、あの信玄
がするだろうか。
そして、日本で名の知れた越後軍がそれに気づかないほどの愚行が重ならない
と無理。
その合戦を書いたのは江戸時代の人で、行った事もないそうだ。
物語要素が多すぎるんだよね。
まあ、スレチか。
>>35
これは興味深い説だね。
確かに闇雲に突っ込むというのはおかしいし、裏で色々とやっていた可能性は
高い。
が、裏目に出たと。
0044人間七七四年
2013/10/07(月) 16:11:46.19ID:/QcPYVrS0045人間七七四年
2013/10/07(月) 16:32:15.64ID:I/044bCd0046人間七七四年
2013/10/07(月) 19:25:23.61ID:KSQpb4Tm0047人間七七四年
2013/10/07(月) 19:37:37.75ID:Xq50b3Mw0049人間七七四年
2013/10/10(木) 21:01:06.68ID:pyIl7NWO0050人間七七四年
2013/10/10(木) 21:08:04.90ID:zUNS5P/eどこぞの営業マンでもくるのかと
0051人間七七四年
2013/10/10(木) 21:24:12.41ID:9b5O4H3fmorimiya.net/online/ukiyoe-big-files/M058.html
定期的に巡回してる浮世絵商のウェブサイトに掲載されてた。
浮世絵の武者絵(合戦絵)の中でも長篠合戦のものは珍しいと思う。
ただし、作品自体は戊辰戦争あたりの風刺画であって、
無論の事ながら史実に基づいた描写ではないのでネタとしてどうぞ。
0052人間七七四年
2013/10/11(金) 08:26:36.39ID:6WSalAZAていたのだろうか。
0053人間七七四年
2013/10/13(日) 17:36:10.85ID:GOMX63sQ信長本陣前の仙石隊を見殺しにしても可として敢えて山県隊に突破させ、
四方からの包囲射撃で殲滅した−−という解釈だった。馬防柵の後ろから
一方的に射撃していたにしては織田・徳川軍の損害が多いことや現地での
地形調査から推理した新説というふれこみ。
0054人間七七四年
2013/10/15(火) 08:25:40.00ID:mrB9hg/Q陣形無視で、そこまで前線を横切ったと言う解釈だろうか。
個人的には、徳川主体の連合軍が攻めで、武田は防戦体制ではなかったのでは
ないかと思う。
それなら連合軍の方が損害が多くてもおかしくはないかと。
0055人間七七四年
2013/10/16(水) 07:03:00.40ID:EBg+id0r実際は公記にあるように一方的に武田がフルボッコにされた
大損害だったというのは武田を持ち上げる(もしくは織田を貶める)ための嘘
0056人間七七四年
2013/10/16(水) 08:29:25.56ID:y99rsQOk武田側で確実に戦死したのは土屋、真田兄弟、あとは山縣あたりかな?
0057人間七七四年
2013/10/16(水) 12:02:00.66ID:1/rTJNQt0058人間七七四年
2013/10/16(水) 20:42:33.75ID:+aGLvnEj0059人間七七四年
2013/10/17(木) 07:00:02.32ID:0BX5mzvp国力的にいえば武田VS織田徳川なら普通にやりあってもぐいぐい攻め込めなきゃおかしいんだし
実際には武田が対北条徳川戦で疲弊しきった所を狙って同盟詐欺まで使って騙まし討ちでかつのがやっと。
なにせ援軍0の岩村1城落とすのすら半年以上かけても達成できず騙まし討ちに頼る有様だしな
0060人間七七四年
2013/10/17(木) 07:03:22.82ID:6CK9zrzq0061人間七七四年
2013/10/17(木) 07:46:12.45ID:wJ+QNe5y0063人間七七四年
2013/10/17(木) 18:19:46.00ID:0BX5mzvpどこも積極的に攻勢に出てくる勢力なんてないからな。だからこそ織田は兵力を集中して長篠に打って出てきた訳だし、
しかも領国の残存兵を残すと武田の方が遥かに余力があるとみていい
高柳氏によると長篠での武田の動員兵力はわずか6000と武田からみて織田戦線は完全に局地戦として軽視されてた事がわかるしな
だからこそ岩村城に後詰を出さなかったんだろうし
0064人間七七四年
2013/10/17(木) 18:29:32.47ID:0BX5mzvp二俣城取り戻すのがやっととか普通に考えてありえないからな。武田と織田+徳川なら
国力的にいえばダメージなしの状態でやりあっても織田徳川の攻勢一辺倒でなきゃおかしいくらいだし
長篠が織田の圧勝なら天正3年中に武田は一気に徳川と織田に攻め込まれて崩壊してる。
現実には信長は謙信にも信濃攻めを要請するなど完全に他力本願状態だったし普通に自力じゃどうやっても勝てないから
対北条戦や徳川戦で疲弊した所を甲江同盟詐欺で騙まし討ちかけたらなんとか勝てただけ。
0065人間七七四年
2013/10/17(木) 19:09:00.44ID:5y2oH8mg秋山を見捨てた言い訳にはならんよ?菅沼君
格下の徳川なんて片手間に十分でしょ六万も兵力あるんだから
あと信長にとって最大の敵は本願寺
だからこそあとは家康と信忠に任せて自身は越前攻略に向かった
信玄と違って信長は積極的なんだよ
あと岩村攻めは兵糧攻めを信忠が選んだから半年かかったのも当然
堅城である岩村城を力攻めして損害出したくなかったんだろうな
また長篠で武田をフルボッコにしたから援軍が来る心配がないと踏んだからこそ選んだとも言える
あああと早く浅間山大噴火の科学的根拠を出してくれよな
逃げ回ってないでさ
0066人間七七四年
2013/10/17(木) 20:01:33.62ID:6CK9zrzq0067人間七七四年
2013/10/17(木) 20:09:39.68ID:0BX5mzvp後詰なしの秋山=5000程度だから織田の国力じゃ瞬殺するのに十分すぎる兵力。
それを半年以上かけても自力では全く落とせず最後は騙まし討ちに頼って殺すのが精一杯なのが雑魚信忠
>>格下の徳川なんて片手間に十分でしょ六万も兵力あるんだから
60000もいるわけねーだろクズw
>>あと信長にとって最大の敵は本願寺
根拠なし。だったら最初からさっさと本願寺を全力で攻めてる。わざわざ自ら兵を率いて武田殲滅に乗り出す必要なんてない。
武田を最大の敵と見てたからこそ信長自ら兵を率い佐久間柴田前田明智滝川といった主力を連れて殲滅にやってきただけ。
長篠後も謙信に向けて信濃に攻め入る事を要請するなど滅ぼす気満々だったが岩村一城に手間取って全く歯が立たなかったのが現実。
>>だからこそあとは家康と信忠に任せて自身は越前攻略に向かった
織田徳川の兵力でいえば武田を瞬殺するのには十分すぎるからな。長篠で大した被害を追わなかったからこそ、長篠後の勢力図にはほとんど変化がなく
岩村や二俣城など数城取り戻すだけで終わったというだけ。
>>信玄と違って信長は積極的なんだよ
信長は武田攻めに関してはめちゃくちゃ慎重でしょ。甲江同盟詐欺の騙まし討ちや対北条徳川の疲弊につけこんで火事場ドロしたのにもかかわらず、あせって進みすぎるなとか
川尻に散々注意してるし。
0068人間七七四年
2013/10/17(木) 20:12:13.76ID:0BX5mzvpそんな事どこにも書いてないし岩村城なんて武田織田の草刈場になって上村合戦や東美濃攻防戦で何回も奪回されたりしてる雑魚城でしかない
(日本一高いところにある山城なんて馬鹿な妄言書いてる書籍も資料もないし、木曽谷を上った先にある信濃の諸城の方が何倍も高いところにある天嶮山城)
まともに攻めりゃ瞬殺できておかしくない兵力比と後詰なしの絶望的な状況で半年かかっても自力じゃ落とせなかったのは、単に信忠の指揮采配能力が決定的に雑魚だっただけ。
>>また長篠で武田をフルボッコにしたから援軍が来る心配がないと踏んだからこそ選んだとも言える
長篠で武田が大打撃を受け援軍出せないほどダメージを受けてるならさっさと滅ぼした方が得策
雑魚信忠が岩村一城にもたついたからそれができなくなっただけ。信長は謙信に信濃出兵を要請して武田相手に攻めたがっていたほどだし
武田が大ダメージ受けてるなら単体で侵略して攻略可能。時間をやって回復されるよりさっさと滅ぼした方が何倍もメリットあるからな。
謙信書状にみられるようにそれを信長が望んでいたが、結局雑魚信忠が岩村一城にもたついてそれもかなわなくなっただけ
0069人間七七四年
2013/10/17(木) 20:13:16.50ID:nOx7h9IS0070人間七七四年
2013/10/17(木) 20:15:40.51ID:YTEztz/8だが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし
城攻めで不利な状況で自分からぬかるんだ地面の中鉄砲隊の中に突っ込んでも織田徳川を圧倒しまくってるからな
よほど勝頼が名将だったんだろうな
どうみても純粋な戦のうまさなら信玄>>>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>家康・北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長
0071人間七七四年
2013/10/18(金) 12:20:05.72ID:E3nwV62Z単純な戦で、上手いのに負けたのか?
いや、勝頼は好きだけど、理屈に合わない。
0072人間七七四年
2013/10/18(金) 12:27:20.50ID:6cbgcnWCただ勝頼を支える馬場と山県が戦争上手かった
特に山県は信玄時代も戦争で活躍しまくってる
東美濃で信長が最終的に撤退したのも山県の行動で戦えば不利になると判断したから
劉禅と諸葛孔明みたいなもんで、勝頼は戦争上手くない
事実、馬場山県秋山がいなくなった天正3年を越えるとまともな勝ち戦が激減する
0073人間七七四年
2013/10/18(金) 13:02:07.00ID:I6ClEmfR瞬殺出来るという信忠の兵力はどのくらいだったのかね?菅沼君
あと武田軍六万を言っていたのは君だよ?
それと本願寺と戦う前にウザい武田を叩くのは当然の戦略だ
越前攻めの最中に嫌がらせされたらたまらんからな
それから織田は乞食兵一万しかいないと君は言っていたよな?
話の辻褄が合わないじゃないか
あと浅間山大噴火の科学的根拠はどうなった?
逃げ回ってないでちゃんと答えなさい
0074人間七七四年
2013/10/18(金) 13:09:56.56ID:I6ClEmfR岩村城が楽勝で落とせる城だったなら武田軍はもちろん力攻めで簡単に落としたんだよな?
あとそんな楽勝で落とせる城なら織田が上杉毛利本願寺らと戦っていた間に落とせば良かったじゃないか
なんでしなかったの?
それから織田の敵は武田だけではないし何より畿内の平定が最優先
また翌年には上杉と毛利が反織田として参戦してきたのでこちらに兵力を回さなければ畿内が脅かされる
対武田を任されていた信忠軍団もあっちこっちに走り回っていたしね
0075人間七七四年
2013/10/18(金) 13:41:20.97ID:I6ClEmfR信長の方がさらに上を行っていたので仕方ない
それに滅多に人を褒めることのない信長が勝頼を評価していることからも戦は上手かったと思うよ?
事実信玄が大苦戦した北条を勝頼は終始圧倒し領土もかなり奪った
>>72
というわけだ菅沼君
0076人間七七四年
2013/10/18(金) 14:15:27.56ID:S7OV0F3K諏訪原城問題
ttp://blogs.yahoo.co.jp/joukakukenkyuu/29015563.html
願望妄想乙w そもそもその書状は天正2年だからすでに間違えてる。
信玄が死んだ年の末に浜松城再度襲撃なんて、そんな大規模軍事行動はしてないだろ…
んで、書状内容は 家康が篭る浜松を焼き払い、刈田しまくった。
いま久野(袋井市)と掛川を追い詰め佐夜郡に押さえの築城した。
他には佐竹と北条の和睦の提案と、小田原の軍勢が関宿攻めしてる話に言及してる書状。
さて袋井市と掛川市を制する地の利の場所に築城してるのに、
なんでそれが諏訪原なんだよwwwお前さ、地図くらい見てから書けよwww
机上の空論ならぬ、 妄想願望の暴論だぞw 織田チョンはどうしようも無いアホだわ
あーあ。悪質な歪曲してるな。 諏訪原城がある位置は榛原郡だから。
佐夜郡ではなく、小夜の中山と言う山にある急坂の場所が
宿場町の日坂(掛川)→宿場町の金谷(菊川)
の間にある道中の山の急坂を指しているって話なだけ。地理まで曲解すんなよ・・・
なんでそれが佐夜郡の支配領域とイコールになるんだよ。
単に中山にある坂が佐夜郡への道だから名前が転化しただけだろ。
そこは榛原郡であって、佐夜郡はもっと西だから。
延喜期式には遠江国佐野郡に己等乃麻知神社が書かれているので
そもそも文学的表現からではなく元々は佐野郡が佐夜郡に転化したもの。
のちの周智郡なども含まれた広大な領域だったとも言われ
また、中山という呼称は郡と郡の郡堺の山や峠を意味する言葉で
中山から西が佐夜郡であり、東が榛原郡だということがわかります。
小夜の中山を境に、 東側が榛原郡であり諏訪原城がある地域で、
明らかに対高天神城攻略のために徳川が作った牧野城のこと。
中山の西側が佐夜郡であり浜松襲撃した帰り掛けに袋井市や掛川市を追い詰める意図で
武田が数ヶ月突貫で砦を作った場所だろ。
天正元年に諏訪原ができたってのは牧野城がすでにあったことを知っている
江戸時代の作られた甲陽軍鑑のネタに引っ張られた間違った解釈だし
そもそも久野城や掛川城を制する位置に築城されたのは天方城のことだとされている。
諏訪原城がその両城を押さえる形にならないどころか
武田軍が大井川の南下して高天神城へ行く道を塞ぐように築城されてるのが牧野城。
見張り台目的で古い砦のような簡素なものが諏訪原にあっただろうが、
本格的な築城は徳川によってなされたと考えるべきだろう。
(特に家忠日記などでは天正6年以降やたら普請を繰り返している)
そして周の文王が牧野で武王を破った故事から築城するにあたり牧野城としたのであろう。
(犬居城説などもあり判然としないが、ちなみに天方城説にも諸説あってよくわからないのだが、
徳川と武田の争奪が激しく新城があったのではと言われている)
当時、天野氏も2派に分かれて派閥抗争をしており ここを巡って奪回戦が繰り返されたといわれている。
0077人間七七四年
2013/10/18(金) 18:27:21.18ID:YGDFH+KE甲陽軍鑑ですら「家康が味方なら九州まで攻め込めた」と
暗に武田信玄が無能だったと言わんばかりだしな
勝頼は家臣を顧みなかった暴君のごとき言われようだし
武田家の当主はロクなのがいないと甲陽軍鑑に名指しで言われる悲しさ
武田家臣も踏み台にするしかなかったんだろうな・・・家康配下につくと
嬉々として出世していくし、武田の当主が健在なのに誰も引き取らず伊豆大島に連れて行かれるし
0078人間七七四年
2013/10/18(金) 20:01:12.67ID:qX2FJupt家康を追い払いつつの攻略戦だからな。
その前に今川氏真は遠江の掛川城に逃亡している。
駿河は半分北条が取って半分家康が取ったがすぐに武田に追い払われ
駿河の深沢城は北条綱成が、蒲原城には北条幻庵が入って
守ってたが信玄が攻略した。このあたりの合戦は
総勢北条4万に対して信玄は1万8千だからな。背後に家康も邪魔してたし。
0079人間七七四年
2013/10/18(金) 20:02:55.87ID:2mybrlrX勝頼が圧倒的に信長より戦上手だったからこそ「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、
結束力0の烏合の衆で挑んだ ガチンコ城攻めにおいて天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし
城攻めで不利な状況で自分からぬかるんだ地面の中鉄砲隊の中に突っ込んでも織田徳川を圧倒しまくってるからな
どうみても戦のうまさなら勝頼>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長
0080人間七七四年
2013/10/18(金) 20:03:40.54ID:qX2FJupt天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた
根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)
根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍
信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
0081人間七七四年
2013/10/18(金) 20:11:40.87ID:qX2FJupt長篠では城の中にこもった3.7倍の織田軍(高性能鉄砲・雨でぬかるんだ地面)に対して自分が突撃して
突っ込んでも天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り 山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
と圧倒的戦闘能力を発揮している
秋山と勝頼で美濃取るとか馬場や山県で遠州三河取るとか内藤真田で関東制覇とか一隊あたりの兵力が3000くらいしか出せないからどうみても無理
長篠では総軍で6000しか連れてこなかったと高柳が書いてるしな
0082人間七七四年
2013/10/18(金) 20:17:15.04ID:Asi4TIcm徳川はかなり苦労してるね。
つか一次史料を読むと
天正7年の中ごろあたりから佐竹のよる甲江同盟(武田・織田)が
成立しつつあるような感じなんだよね。
勝頼も佐竹の仲介が成功しそうで、確約が早く来ないかと悶えるとか書いてるし、
天正8年に入ると織田信房(御坊丸)を武田が織田へ返還したこともあり
景勝が甲江同盟を結んだのを、なぜ事前に報せてくれなかった!と抗議を受けてるし
そのため武田の軍事行動の中心は対北条戦で、
織田と武田は和睦交渉中で事実上の戦闘停止状態。
そのため勝頼の書状も対北条での景気のよい話の書状ばっかり。
逆に高天神城とその周辺に関しては関心がないと言うより
事実上の膠着状態(甲江同盟交渉の影響で緊張状態にないヌルイ感じ)になってたとしか思えない。
なんせ高天神城からは一切、援軍要請すら出てない。
天正9年正月になって久しぶりに高天神城への勝頼書状が登場するが、
使者の往来の忠節ぶりを褒めて加増の話を書いてるだけで、
援軍に出るとか、そんな危機的な内容は一切書いてない。
そして次ぎに登場するのは3年も籠城して討死した岡部の所領の相続を息子に認めてる書状。
明らかに武田側に高天神城が落とされるとは思ってなかったとしか思えない。
織田と武田の同盟が成立すると誤認して
遠江方面での軍事行動を控えていたとしか思えないし
徳川も高天神城に砦を構築して包囲したとは言え
本気で攻め落とすつもりがあるような態度でなかったから
使者の往来が天正9年に入っても可能だった。
つまり織田が同盟成立を匂わせて佐竹や武田を騙していて
御坊丸を返還した武田は同盟なったと誤認して安心してたら
突然、高天神城が落とされてしまったと思われる。
しかもそんな武田に織田はさらに同盟のカマかけて
南化玄興ルートで和睦交渉の美人局をやって
またしても佐竹や里見まで今度こそ同盟成立したと誤認してる(天正9年8月)
織田は奇襲によって完全に武田を騙し討ちしてる。
0083人間七七四年
2013/10/18(金) 20:19:13.84ID:Asi4TIcm実際は岩村城がいつから攻められてるのか不明。
勝頼も支戦を前に美濃での本戦に備えて遠藤らに下見をさせてるくらい。
また謙信は東美濃なんてヘボいところではなく、山崎を使者に信濃攻めを要求してる。
岩村なんてザコ城はすぐ攻略出来ると謙信は認識しとるんだろ。
勝頼は岩村は秋山が籠城してるから当分は大丈夫と判断し、徳川攻撃に出撃中。
つうかそもそもそっち方面は木曾氏担当戦線だし。
結局、秋山を講話話で騙して落としただけ。
さらに約束破りに激怒した謙信は以後、信長無視して書状往来拒絶。
だから信長は村上なんざに旧領を回復するチャンスですよって意味不明の書状を出さざるを負えなかった。
謙信はかなり激怒したらしく天正4年に入るや山崎を加賀一向宗に派遣し本願寺と和睦し織田と絶縁してるわけだから勝頼の岩村遅滞作戦は成功し上杉と織田の中を破綻させ、
逆に信長は謙信を恐れて勝頼に和睦を提案したが勝頼に拒絶され、
何時の間にか足利将軍の大包囲が完成してしまう始末
0084人間七七四年
2013/10/18(金) 20:30:51.23ID:qX2FJupt織田6000討死(長篠日記)により野戦では大勝利したものの徳川・滝川の陣城へうまく逃げ延びた織田兵への陣城攻撃を開始し優勢だったが
さすがに陣城が落ちずに日没を向かえたので鳶ヶ巣山砦も放棄し(一次史料に酒井の鳶ヶ巣山砦攻撃は存在しない)
撤退を開始したら殿が下手を打って軍が崩壊し1000人討ち取られた(多聞院日記)義景もそうだが、敵前撤退の難しさを痛感する。三増峠や三方ヶ原の撤退戦における軍の180度回頭し
尻が頭になる陣形変えの瞬間妙技は信玄にしかできない芸当だな。長篠戦死者に関しても公記で長篠で討ち取ったと書く名簿一覧の甘利藤蔵(晴吉)など、
永禄7年に小田原で戦死している者が登場していたり討ち取り一覧からして捏造臭が激しい。また甘利一族の誰かが死んだのを間違って書いたと考慮した場合、
6月朔日の勝頼→小原・三浦宛書状の中で、甘利諸頭諸卒恙無きと書いていて甘利一族で名の有る者の戦死者はまったくいない。
わざわざ勝頼が甘利の名を書状で言及して出しているのも織田側が討ち取ってもいない者の名前をあげて捏造戦果をデッチあげて勝った勝ったと吹聴して回っていた可能性が高い
一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかりほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?
ちなみに高柳光寿氏は長篠の戦いでの武田軍兵力を6000と推定してるね。(勝頼が謙信を怒らせたので1万を高坂につけて越後の
押さえに残し15000で出陣は甲陽軍鑑のネタ)信長書状には「数万を討取った。勝頼の死体も河に漂ってるだろう」などと書いてるが
武田軍の損害は多聞院日記の千人ぐらい討死が正しい。
そもそも相手より少ない兵力&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面の中城攻めやったんだから
撃退されて当たり前そんな状況で9時間も戦い続け、織田方6000の被害なんだからガチンコで戦術的勝負させたら100%武田の勝ち 織田軍のことを
敵失行之術 一段逼迫之躰候之条 無二彼陣へ乗懸信長・家康両敵共 此度可達本意案之内って書いてるように勝てる判断をしている。
もっとも15000は甲陽軍鑑の話なので実数は高柳光寿氏が指摘するようにこの時の出兵は武田軍6000が実数だろう。
もともと岡崎城での内応をアテにしての出陣から計画変更してるわけだし。長篠日記によれば戦が始まるや武田軍が一方的に野戦で大勝利して
陣城へ追い込んでるわけだし、織田側は6000の戦死を出してると書いてる。6000の軍で野戦で圧勝して6000討死させてるんだから
陣城での織田側の籠城戦での鉄砲での防衛に戦局は変化してる。武田側も鉄砲における戦訓を得ていないとおかしいわけでやはり陣城からの敵前撤退の失敗に敗因があると思われる。
これが朝倉家における刀根坂の撤退戦の失敗と同様のものだったと考えられる。殿部隊が失敗してしまった軍の崩壊は致命的。
0085人間七七四年
2013/10/18(金) 23:28:10.37ID:T/NClYMc仕舞いには組織的な作戦行動ができなくなるほどボロボロにされるわけだけど、突撃を繰り返してる間に
武田方の武将で「これはおかしい、このままではヤバいんじゃないか」って思う人はいなかったのかなあ
っていう
まあこれの敗戦後、そんなに間を置かない時期に多方面で軍事行動起こしてるところ見ると
織田側が宣伝するほどには致命的な損害じゃなかったのか、とも考えられるけど
0086人間七七四年
2013/10/19(土) 01:26:08.52ID:+zXNFHaL勝頼が信長をナメくさって対織田戦線を軽視しまくってる。
0087人間七七四年
2013/10/19(土) 01:55:40.25ID:1AMD9EhD0088人間七七四年
2013/10/19(土) 08:45:27.64ID:TQfJheOVだいたい岩村城攻めが長篠よりもかなり後だったなら武田はもっと惨めなことになるんだが?
なんたって上杉毛利が参戦してきて織田はてんてこ舞いになっていたんだから
そうなれば岩村城攻めに動員される兵力も限られてくる
武田は織田のショボい兵力にビビって援軍送れなかったというこになるがそれでいいのか?菅沼君よ
あと東美濃を攻略しないと織田領から信濃には攻め込めません
浅間山のときもそうだが少しは地理の勉強しような?
0089人間七七四年
2013/10/19(土) 09:06:06.58ID:Hd5tK14q急いで和睦を騙って騙し討ちしないと落ちないほど
秋山に敵わなかった織田
そりゃ武田も落ちそうにない城へはギリギリまでわざわざ援軍出さないわな。
0090人間七七四年
2013/10/19(土) 09:29:15.38ID:ddLa6GPuで、なんでだまし討で城取られて重臣を殺されてるのに反撃しないの?
チキンだから? 雑魚だから?
0091人間七七四年
2013/10/19(土) 10:26:31.48ID:TQfJheOV簡単に騙されるほど追いつめられていたとは考えないのかね?菅沼君は
実際秋山は援軍がいつまで経っても来ないからやけくそになって一か八かの夜襲を仕掛けているし
だいたい半年も包囲されて落ちないと思っているのがおかしい
勝頼をはじめとする武田の面々はそんなこともわからないほどバカだったと言いたいのかな?菅沼君は
0092人間七七四年
2013/10/19(土) 11:42:25.09ID:H/4Bm5me一次史料を出して。
0093人間七七四年
2013/10/19(土) 13:00:44.04ID:TQfJheOV逃げるなよ菅沼君
武田の面々は半年包囲されても落ちないと考えるようなアホばかりだったということでいいんだな?
0094人間七七四年
2013/10/19(土) 14:02:34.79ID:QrTKYyiS今川攻めは徳川と武田の共同戦線だろ
遠江の攻略が順調に行き過ぎて焦って信玄がそれを破ったんだろうが
0095人間七七四年
2013/10/19(土) 18:23:46.27ID:SCObCAw3信長息子の織田信忠が率いる岩村城には全く軍を差し向けないという薄情っぷり
しかも勝頼は信豊や穴山に命じて秋山に対し言い訳じみた書状を送り、既に見捨てているのを誤魔化しまくってる有様
結局援軍が一切来ないことを察した秋山は最後の手段として織田に降伏して逃げようとするがそれを見切られて磔にさせられるという最期を迎える
勝頼が本気で秋山を助けていれば少なくとも秋山の命は存命だっただろうなw
0096人間七七四年
2013/10/19(土) 19:27:04.19ID:C0dBHUpS孤立無援の中圧倒的大軍の信忠勢は全く寡兵の秋山勢に歯が立たず半年以上持ちこたえられた上に
落城のきざしがなくなったとみるや信忠は和議を申し入れて開城させた後秋山を騙まし討ちで岐阜まで送りつけて処刑。
最後の武田攻めのときの騙まし討ちもそうだが織田ってまともに戦うと勝てないからって騙まし討ちに頼りまくるつくづく卑怯な集団だよな。
0097人間七七四年
2013/10/19(土) 21:38:09.19ID:1AMD9EhD0098人間七七四年
2013/10/19(土) 21:40:19.05ID:TQfJheOV武田征伐のとき織田軍は逆方向から簡単に侵入してあっという間に高遠城までたどり着いているが?菅沼君
また進軍困難な道なら武田軍が岩村を攻めたときも何ヶ月も行軍して四苦八苦したんだよね?菅沼君
0099人間七七四年
2013/10/19(土) 23:23:59.16ID:C0dBHUpS他の連中も悉く武田→織田に寝返ったってだけの話だろ。
何せまともに抗戦したのは仁科1000以下だけだからな。
甲江同盟詐欺を用いて防戦解除させてた上に北条戦やら新府築城やらで疲弊しきった状態で騙まし討ち奇襲くらったから
ろくに防戦態勢も整わず寝返り崩壊したんだろうし
0100人間七七四年
2013/10/19(土) 23:25:54.15ID:PuC8BlUt0101人間七七四年
2013/10/19(土) 23:35:56.88ID:LfgiKrVZ天正3年には馬場山県秋山と重臣が相次いでなくなったにもかかわらず
翌年の天正4年には武田信玄の葬礼が恵林寺で大々的に行われる有様
菅沼風に言えば「家臣の死なんてどうでもいいから偉大な俺の親父の祀れ」と
暴君全開で親父マンセーだった武田勝頼
そらそんな勝頼を助けたいと思う奴なんて実の弟くらいのもんだ
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