ソーリンは実は天正元年に義統に家督を譲っていて、
だけれどもソーリンも書状を発給していたから、
義統の見習い期間であったとして両判時代を天正5年までやっていたと福川一徳氏が書いている。
耳川の戦いの時のソーリンは隠居領の経営をする為に日向に向かっただけの話で、
耳川の戦いを主導したのは義統だと木村忠夫氏が書いている。
ソーリンは島津と毛利の捏造史観を盲信した糞コーエーの宣伝によって不当に貶められている。