甲相同盟によって上杉の脅威から守ってもらった北条
甲尾同盟によって美濃統一の支援をしてもらった織田

永禄7年6/17信玄→金山城主長井道利宛書状
井口(斎藤)より攻撃とのことで、信州衆を派遣しようと支度したが退散とのこと。今後も加勢や城米が必要なら言って下さい。
永禄8年11月苗木遠山氏の娘を信長養女として武田と織田の同盟。
永禄9年6/13信玄→岩村遠山左衛門&苗木遠山直廉宛書状
信長や森とも入魂になってきたようで安堵しています。
私は越後を攻めますので約束通り鉄砲衆50人を急いで加勢をお願いします。
ただ苗木殿も出陣準備してるとのことで、 その志しが私に対して浅くは思いませんが、
斎藤勢が森へ攻撃すると聞き及んでいますので、 苗木殿は私への出陣を延期するのが尤もだと思います。

信玄が東美濃の金山城主長井へ兵糧や兵力支援をしていたが、
武田織田同盟により支援を切った為に、 貧困状態になった金山城は織田軍の森の手に落ちる。
永禄5年2/27快川→禅昌寺宛で、信長が西美濃で斎藤に敗れ墨俣城で人質を出して斎藤と和議をして帰ったことが書かれているので、
信長は頑強な西美濃攻略を諦め、 武田に養女を差し出すことで同盟を結び、
信玄の力に依存しての東美濃攻略に切り換えていたのがわかる。

幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてきた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は内通で加治田城・黒田城 織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。

国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、この間に信長は小牧山に拠点を移しているが
斉藤はそれを邪魔することができず
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、
斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。