関が原の合戦、西軍100パーセント必勝法2
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0535人間七七四年
2013/09/11(水) 14:22:33.30ID:HDPt9YGBその裏で大老と奉行間でしか誓紙してはならないのに
諸将と家康は誓紙・起請文を取り交わし続け徳川派徒党を築き始める。
しかも自分が信頼するに足ると確信した諸将の家族を勝手に国許への帰国を許す
知行取次をしないと誓いながら家康は勝手に恣意的な論功褒章を開始。
本来、五大老連署でなければならないのに家康は一人で署名して発給開始。
伏見城に秀吉が配置した兵をすべて追い出して徳川家が占拠してしまうわ、
利家が死ぬや五奉行の三成を排除し、前田家による家康暗殺計画という噂を元に
五奉行の一人浅野長政を排除し、秀頼公家臣の土方雄久&大野治長も排除。
前田討伐という家康の報復心からの私戦を開始して、
奉行に諮らず勝手にまつを大坂ではなく、江戸へ人質として取る始末。
さらに伏見在城義務を無視した家康は北政所を排除して
西の丸に兵力を入れ、さらに本丸同様の規模の大天守を築き秀頼と並び立つ存在を誇示。
しかも前田討伐において家康個人の依頼でも諸将を
引きつれていけることができる程の威信にまで専横が進んだことが分かった家康は、
前田と企んだと細川を糾弾し土下座させるや、増長して次に他の奉行大老の反対意見を無視して
上杉討伐を開始。しかも前田討伐よりさらに専横を極め
今度は家康の私戦を大坂城からの軍資金下賜による公儀を騙っての私戦の開始により
家康への信用が完全に崩壊。五大老五奉行制を家康は破壊形骸化しており誰も家康の暴挙は止められず
完全に家康が独裁できるようにしてしまった。
そこで残された大老奉行は違背を責めて内府たがい条で弾劾。
しかし家康はそれに対して、己の大義名分が成立しないことを知っているので、反論すらできなかった。
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