【だが】歴史改変事件を考察するスレ【Sub】
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0001人間七七四年
2013/06/10(月) 14:54:10.74ID:HNz9VbK4http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1360505139/119
なぜだがは教科書を改変してまで自説を書き込んだのか?
だがが追い詰められた屈指の事件を下に、歴史の改変の是非を考察しましょう!
0076人間七七四年
2013/06/13(木) 13:51:05.38ID:Kw8OixJaそんな状況で全く攻められず攻めたら大敗したのが秀吉
>>顕如上人貝塚御座所日記でも敗軍したが、「秀吉の覚悟が堅固なのでやがてもちかためられ」
>>などと書いていて秀吉がまったく動揺せずに将帥としての威厳で纏めてしまったために
覚悟が堅固とか言ってる割に急いで楽田修築やら砦普請で防衛ガチガチに固めて
思いっきり持久戦体制に入ってる。圧倒的兵力差がありながら。それほど負けが痛かった証拠
顕如がいたのは思いっきり秀吉領国だから秀吉に都合いい捏造のフィルターで歪曲された情報が入っただけだろ
>>家康は勝利の戦果の拡大に失敗してる(勝利に酔い上洛の言葉まで家康は出して策もなく無為に過ごす・・・)
そんなもん我彼の圧倒的戦力差ってだけだろなんせ兵力比7倍くらいだからな
>>しかも顕如は1万余り討死の報は間違いで、のちに3000討死とわかったと訂正を入れてる。
>>(兼見卿日記4/13に尾州表から注進があり9日に秀吉敗戦したとのこと。
>>しかし追って注進があり秀吉在所も問題ないとのことで京都での騒動も終わったと書いてある)
なぜ最初の注進が間違いで後の沙汰(噂(堀氏訳は噂であって注進ではない))が本当なのか不明
しかもこれ以外の史料はこぞって戦死者1万人多くて2万としてるし
秀吉側に都合いい情報ばかり捏造して書かれるイエズス会年報や日本史などでも1万
また秀吉同盟者の小早川書状でも1万。そもそも家康は身内にあてた手紙でも1万といってるわけで
3000等と歪曲して書かれてるのは顕如日記のみ
>>4/13付けでも細川配下の松井も池田らの戦死ごときでは「此表御よわみにもならない」と書いてるし、
そんなもん弱気な言葉書く馬鹿がいるかアホw士気にかかわるだろうが
>>稲葉も「討たれたものの、はたもとのささわりには少しもならない」と楽観してる。
そら13万もいればそのうち1万死んでもまだ圧倒的優勢な兵力に変わりないってだけだろ
秀吉は9/23羽柴秀吉訓戒書で木下兄弟戦死残りの連中の討ち死にが大変迷惑だと書いている
外聞迷惑、於秀吉非可失面目儀候間、手討に可致候と秀次に怒りをぶつけており
自分の失態を秀次になすりつけているが(滝川の蟹江合戦も同じ)それだけ敗戦の精神的実質的損害は大きかったという事
>>それどころか同時期には秀長や筒井勢によって伊勢の松か島城が降伏して伊勢でさらに劣勢になってるのが家康と信雄。
松ヶ島は三月に崩壊した伊勢戦線の続きで長久手合戦と直接の関係も糞もないのに何が「それどころか」だ
神戸田丸信包関など地元諸将の帰参と家康の尾張転進で楽に蹂躙できただけの続きの戦だろうがw
>>秀次敗戦でもまったく秀吉陣営の圧倒的優勢ぶりに変化はない。
兵力比の差ってだけだろ
>>秀次を秀吉は若輩者と呼んでるし、秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
>>無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
>>(4/11付で岩崎城攻め大勝利のところ、即、岡崎面へ深々に相動いたので勝利を失ったと敗戦理由を書いてる)
深々は別に非難のニュアンスはない。家康も長州我部あてに深々と働く事肝要とか言ってる
あと深々と働いた「ので」敗戦したとは書いていない。深々と働き敗戦したとは書いてる。因果関係を直接文中に見出す接続詞はない
4/8秀吉→丹羽長秀 池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる
0077人間七七四年
2013/06/13(木) 13:51:26.08ID:Kw8OixJaかなり縦長の陣容だったがこの時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。柏井にいる一柳宛書状に
『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる。しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる。敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としか
いいようがない。池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
あらしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
>>5/2に秀吉は犬山を加藤光泰、羽黒を山内一豊、楽田から春日井郡の戦線を掘秀政に、尾口西南を稲葉に委任して
>>2万を置いて納馬し帰っていったのに、それでも手が出せないほど劣勢なのが家康・信雄。
は?楽田から敗走して加賀野井・竹鼻攻撃に移ってるのに何が納馬なんだ?馬鹿か?
>>秀吉が帰る理由も5/2の隆景書状には小牧山要害に家康らが籠もって出てこないから無為に過ごすのも無駄なので
>>2万置いて帰り、秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。
例のごとく信雄に大敗した話はひた隠しで都合いい情報しか書かれてないのが秀吉書状
正確には家康を攻めたら1万も損害だして圧倒的大軍があるけど自分じゃ戦闘がゴミカスレベルに弱すぎて攻められませんってのが正解。
家康は城から出てこないどころか蟹江合戦でも長久手合戦でもちゃんと動いている
>>しかも信雄・家康軍は香曽我部に15000討ち取ったと捏造戦果を書いて長宗我部の畿内出陣を願ってるほど追い詰められてる。
捏造戦果を書くことが追い込まれてる証拠なら秀吉は家康の百倍追い込まれてる証拠なのが佐竹その他宛書状でわかる
>>5/5には加賀野井城が攻められ、松ノ木城では外構えを放棄して本城籠城するように命じるなど
>>信雄・家康勢は圧されっぱなしで、5/6に加賀野井城を落とされ(池田の弔い合戦と秀吉は言ってる)
間宮らの反撃や蟹江の敗戦など含めると一進一退だろ。松ノ木や戸木も結局落ちなかったし
木曽川以西の家康が寡兵で後詰行動起こすには危険な地域を圧倒的大軍を使ってこれ見よがしに攻めてただけなのが秀吉
続いて竹鼻城が包囲されてるが信雄・家康は援軍の口だけ約束でヘタレぶりを晒してるだけ。
>>秀吉ははやく加賀野井城に後詰めに来ないかな〜叩き潰してやるのにwと余裕ぶり。
なぜ後詰誘引に失敗し二重堀でも大敗した秀吉が余裕なのか意味不明
>>5/7になっても香曽我部に池田らを討ち取り1万討ち取ったから(前回は15000と書いてたのにw)
>>はやく摂津・播磨へ討ち出るように言っていて、かなり家康・信雄勢が追い詰められて
戦闘では寡兵なら援軍なしに抗戦無理だろ。
0078人間七七四年
2013/06/13(木) 13:51:45.62ID:Kw8OixJaそりゃ圧倒的兵力が劣るから単独で後詰なんて無理だろ。楽田で留守居兵も残されてるんだし
>>6/2には竹鼻城の注進は虚偽に違いない(水攻めのこと?)、松ノ木城は本城が小さいから援軍出さないなどと豹変するし。
単に信雄の情報収集能力が劣っていたか兵力が集まらなかっただけだろ
>>この戦況により信雄の本拠地長島城攻略が視野に入ることになる。
長島なんて伊勢方面から攻め立てればいいだけだからはじめから視野に入ってるだろ
>>この圧勝ぶりから秀吉は6/4に佐竹に書状を書いてる。
圧勝ってただ家康がでてこれない木曽川流域わずか3城をこれみよがしに圧倒的大軍で攻めただけじゃん
蟹江敗戦・二重堀敗戦・松ノ木敗戦・戸木敗戦で完全に尾張方面の拡張は滞っているのに。
>>そして秀吉は住吉屋宗ニや山上宗ニや津田宗及を招き美濃墨俣で茶会を開いて豪遊。
小田原合戦の時と同じでただのパフォーマンスだろ
>>そして秀吉は滝川が勝手に行動してるのを無視して帰って行った。
滝川は秀吉の意思だろ。そもそも家臣なんだから勝手に行動するわけないし単独行動なら九鬼がついてくるわけないし
蟹江から秀吉陣の大垣なんて寸での距離だし谷口氏や愛知県史資料編も秀吉の敵地分断作戦
や尾張方面の攻撃の前哨戦と位置づけているし秀吉は三河方面攻撃計画を諸大名あてにつづってるし
長島も東西から攻撃可能になるし滝川退城で秀吉は三河方面攻撃を断念して延期してるし
>>お前の書いてることは家康擁護にはまったくなってないぞwいかに秀吉が戦略レベルで家康の動きを完全に封じてしまってるかを
>>よく知らしめることしか書いてないw 家康は長宗我部が秀吉の背後を襲ってくれない限り、戦局の打開への道がまったく見えてない。
戦略も糞もない。当初から7倍もの圧倒的兵力差&信雄領国寝返りの続出&家康徳政で困窮状態で戦ってたんだから
そんな半月で瞬殺できそうな状況で1年費やして自力では尾張半分すら切り取れず信雄のヘタレ具合に助けられただけなのが秀吉
>>しまいには北条の援軍がもうすぐ来るからなどと妄言で、味方を繋ぎ止めてる始末。
そら長宗我部が敵になったら大変だからそのくらいするわ
>>上杉相手にも苦戦して信濃諸将の離反を食い止めるのに必死の家康が
>>秀吉とまともに戦うなんてことは不可能で楽田に秀吉がいる時は小牧山で籠城。
秀吉のまともに戦えないような圧倒的兵力差で秀吉に1万もの圧倒的損害を与え1年一杯粘ったのが家康と信雄
>>伊勢に秀吉がやってきたら、清洲で引きこもるだけじゃん。
ゲームじゃあるまいし7倍ほどの圧倒的兵力差で戦えるわけないだろアホ
>>秀吉は秀長とニ軍で有機的結合した軍事作戦が展開できるが、信雄と家康は合同して一軍を形成して引きこもりしてるだけ。
んでそれが何がすごいの?兵力に圧倒的に恵まれながら苦戦しまくりって最高に雑魚だろ
>>一方の秀吉は開戦と同時に、今戦役の集結を見通している。
実際にその8か月後に終結した戦闘でいかに秀吉の見通しが楽観的なのかがわかる事だ
>>戦いは開始した時点である程度の終戦構想が見えてないと泥縄的になってしまう。
終戦構想を妄想していたがそれが現に妄想と化し信雄のヘタレという幸運に助けられただけなのが秀吉
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康が怖くて出てこれなかっただけ。大体20町ほどの至近距離で7倍もの圧倒的兵力差でまともに攻められない秀吉が
蟹江後詰なんかできるわけがない
>>これも一次史料にまったくない細川家の自称捏造。
家忠日記にあるし神子田がこの後名前がなくなるから史実
>>「其外軍兵一万余討死則敗軍、然共筑州覚悟堅固之故」の真横に「已後ノ沙汰ハ三千討死ト云々」って
長久手町史資料編には書いていない。しかも真横に書いてる時点で書き足しがミエミエ
>>噂レベルの話の場合は顕如日記には雑説と書くが、この文にはそんなことは書いてない。
沙汰を噂とアンチ家康の堀氏ですら訳している。注進などと妄想するのはお前だけ。
注進という時は注進と書かれているのが普通。家康書状信雄書状秀吉書状でもそう
>>違う場所へ転戦しただけだろw
どこに転進したのは史料をもって詳しく
0079人間七七四年
2013/06/13(木) 13:52:03.40ID:Kw8OixJa二重堀と書いてなくても敗北の体にて撤退といってるから二重堀の敗戦が史実だと容易に想像がつく
>>それで秀吉側を見れば5/9の書状によれば秀吉は小牧の家康がぜんぜん出てこないから
小牧山から出て池田勢を思いっきり撃破しただろうが。小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境 。それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したから
攻められなくなったのに家康が取り合わないって馬鹿妄想もいいところだな
>>付け城を三箇所申し付けた
あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
>>加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
>>秀吉の攻勢を家康らは引きこもって無策なまま、
間宮らが南伊勢で反撃しまた蟹江でも二重堀でも大勝。松ノ木・戸木も秀吉軍撃退
>>ひたすら長宗我部の援軍に秀吉背後を襲って貰いたくて必死に自軍有利の捏造を書いてるだけで
自軍有利な情報書いてるだけなの秀吉書状だろ
>>信張の言ってることがまるでデタラメなのがわかる。
普通に家康討伐しにきて1万人も戦死者出す大敗して退却なんだから全然デタラメじゃないだろ
>>むしろ家康が消極的でビビっている反面、信雄の方が秀吉にビビってない。
そして信雄以上に信雄に対してびびってるのが秀吉
>>だいたい秀吉は体調が悪く大坂へ帰ったのも虫気の治療のためで(腹痛の一種)
そんな史料ありません。見舞いの事なら陣中見舞いってだけだろ
大体大阪に帰る理由に滝川退城を秀吉書状であげてるじゃねぇかw蟹江で敗戦して諦めて帰っただけだわ
>>8/2には摂津有馬で一週間ほど湯治してるのが顕如日記でわかるのに
湯治なんて病気の時以外でも健康維持のために行うだろ。家康でも。
>>「秀吉が負けた」からと池沼のように曲解の連続連呼。
実際に蟹江で負けて諦めて退却してる
>>家康は追い詰められ完全に絶望的だったのが現実。
そんな絶望的な状況で自力では尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
>>秀吉にガンガン侵食されていくばかりで
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>ちなみに8月には筒井勢が駒野を攻撃していたようだが、11/5には高木貞利の居城だった東駒野城も陥落してる。
取り詰めに攻め落としたなんて意味はない。乗っ取り、落居などという時が攻め落とした時の言葉。
ちなみにこの書状を東駒野「城」が落ちたなんて妄想解釈してる馬鹿はお前だけで
東大史料編纂所HPや史料編纂やら愛知県史資料編網文やら小牧長久手の戦いの構造時系列データベースでも城が落ちたなんて解釈していない
11/10にはちゃんと吉村が長久保を落として忠義を示してるのに。
>>しかし高木貞利の敗北と福田の降伏という流れは
高木は敗北なんてしてないし福田は降伏ではなく寝返り
0080人間七七四年
2013/06/13(木) 13:54:43.78ID:rHkTlPby織田政権は上洛した翌年に撰銭令(永禄12年)を広範囲に出して
多くの悪銭を畿内で流通させインフレ経済崩壊を招いた愚か者。
悪貨が良貨を駆逐するの例えどおりに重度に悪銭が畿内に集中し、
他地域では良銭が流通したため畿内→外地域での決済において拒否が続出。
そのため元亀2年辺りに至ると物々交換と言う古代時代に戻ってしまったw
元亀2年から天正8年の時期は信長の命令は無視され決済拒否される悪銭は使用さなくなり
そして天正8年に至ると石見銀の流通が活発化した。
豊臣政権は撰銭令を撤廃し米主体の石高制を採用し河川流通を整備するや
景気低迷を脱して桃山文化の香る時代が招来している。
金本位体制ともいうべき信玄や秀吉の政策と違い
信長は生野銀山を手に入れていながら活用できず経済に暗かった。
血球億、生野銀山を活用したのは秀吉であった。
一方の信長は永禄11年12月の誠仁親王の元服という晴れの舞台において
無礼にも流通拒否される悪銭ばかりを献上して朝廷の公家達を激怒させている。
このように信玄の上洛とは畿内経済の破綻による生活苦による一揆の隆盛。
東国経済の飛躍的向上に裏付けられた時代の流れなのである。
秀吉は兵站補給概念を持っていて奉行衆による計画的な物資管理や
大軍進駐に伴う排便処理による衛生管理を編み出すことで
信長には不可能だった「位攻め」戦略を多用し瞬く間に天下を統一してしまった。
位攻めとは、圧倒的大軍を用いて相手の軍の士気を崩壊させ服属を強要する戦略。
信長の現地調達方式では大軍の集中は不可能であり、
戦力崩壊を起こす攻勢限界点が存在する。
すでに美濃の隣国信濃への出陣である武田攻めにおいて、
遠陣だから率いる人数を抑えることで兵糧が続くように。
しかし戦力ダウンにならないように剛力の者を選んで引き連れよと人数調整をしていた時点でお察し。
信濃より遥かに遠い備中えの遠陣である毛利攻めで旧来の遅れた兵制の信長は討死していただろう。
0081人間七七四年
2013/06/13(木) 13:56:02.58ID:rHkTlPby激怒した秀吉が博多でポルトガル人の奴隷売買を糾弾したり、
牛馬は人間に仕え有益な動物なのになぜ食べるのか?と言ってたが、
(秀吉の基本思考・・・ポルトガル船でも純粋な交易のためなら寄港するのも問題なし、
秀吉から2000貫以上を給付される者がキリスト門徒になる場合は自分の許可を得よ。
それ以下の者の場合、日本の宗派は八宗あるが、キリスト教が加わり九宗になっても大して変わらんから
信教の自由は保障し何を信じようが構わない。但し、秀吉から給地を与えられた者が、権力を以って
庶民にキリスト教信者になることを強制したら罰する。)
小田原城を降伏に追い込み奥州仕置きをしようとする秀吉は
天正18年8/10に関東にも刀狩り令をだし、その中において
人を売買することを禁止し、天正16年以来で人を売買した者は
すべて返却するように命じ、売る者も買う者も処罰すると宣言している。
このことから高利貸しが政権運営する北条が滅亡するまで頻繁に奴隷売買をしていたことがわかる。
信長のような蒙昧暗愚の暴君と秀吉の差は天地の開きがある。
重商主義的・帝国主義的な植民地化がすでにフィリピンにまで押し寄せている中で
秀吉のみがキリシタンの野望を喝破し、逆に朝鮮への遠征を行うことで
日本の武威を知らしめ、陶工などを連れ帰り現在に至る名産品を生む。
信長が高く評価したと軍記が伝えるが実はアホ池沼だった我妄氏郷
高山右近が明石の寺社を破壊しまくっている中で
伊勢を秀吉から与えられた氏郷の動向に恐怖した伊勢神宮が
大政所や北政所の帰依を受けている慶光院周養を運動して
秀吉から伴天連追放令の禁制を貰う。
これにより池沼氏郷が伊勢神宮を破壊する行動が不可能になった。
こんなアホだから伊勢は任せられないと感じた秀吉に
会津へ飛ばされたんだろうな・・・
0082人間七七四年
2013/06/13(木) 13:58:42.24ID:rHkTlPby武田家などは集権化が比較的進んでいたことが判明しているんだよね
織田一族の領域では在地構造がそのまま温存されたり
私的な関係や便宜的な寄子寄親関係で適当に済ませてるケースが非常に多いが
武田家の領国では代官支配や主城主を中心とした再編成が多く見られる
ざる統治だったので、ちょっと体制を整備しようと
取り敢えず重臣2人のクビ斬ってみたら、反動で連続謀反が起き死亡ってとこじゃね
織田に離反が多いのも私的な主従関係を築いて一蓮托生な国人が多いから。
信長は織田家による領地支配を全く考えていなかった。
完全に内政丸投げ。
織田軍統一の規則自体がまるで無く
しかも一職支配権を与えて丸投げするから、
勝手に在地国人たちと主従を結んでいるにすぎ無い。
そのために大規模謀反が多発。
結果、信長死んだら織田の命を無視する一職支配権者が自立乱立したために
秀信を擁して専横されて
家臣と主従関係が逆転し下克上されて織田は引きずり落とされた。
一職支配権とは簡単な話、
室町幕府における守護設置みたいなもん。
信長の好い加減な統治により、
家臣らが軍閥化していた。
信長の死によって簡単に、
大身家臣が安易に自立できるだけの在地と一職支配家臣の主従関係が成立していた。
信長と在地国人には統治の仕組みは存在せず、
織田政権が脆く崩壊する構造だった。
織田テキトー政権は、そもそも足利幕府に寄生してただけ。
いずれ大身家臣が信長を下克上するのは当然の結果。
なぜなら家臣と在地が主従であり、
在地と織田に内政政策による介在がなく、従って主従関係が無い。
光秀の命令を聞いて信長を殺す軍隊であり
軍隊は信長を主人だと思ってない。
家臣の力量、懐柔、苦楽を共にする戦友家中が戦闘集団である。
0083人間七七四年
2013/06/13(木) 13:59:20.84ID:rHkTlPby>
> 「(佐久間盛信への)折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、
> 家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは
> 各自に任されていた。
> これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して
> 軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。
> 従って武篇道と戦果が問題となる。
>
> (中略)
>
> 信長は信盛親子に続いて、家老の林通勝(秀貞)、安藤守就親子、丹羽右近も追放した。
> それは信長の権力強化の表れのようにも見える。これをもって中世の武家権力と違って、
> 信長が家臣の所領に対し干渉しているとか、領域統治能力を問うているとかと評価して、
> 信長の権力は新しいとみる見方もあるがいかがであろうか。
>
> 信長は家臣を大名に任じて分国を統治させ、各方面ごとの総大将を任命して統一戦争を
> 戦っていかなければならない。
> 拡大する家臣団と支配領域に対応した家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成が
> なされていないからこそ生じた問題であろう。
> それを武篇道の督励で対応しようとしたのが追放策であろう。
> それは、信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに
> 原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。
>
> この問題の解決は秀吉の課題となる。
0084人間七七四年
2013/06/13(木) 13:59:49.84ID:rHkTlPby軍事関係者の間では高く評価されているが
中央で言えば、小牧長久手での秀吉が一番最初。
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
いい加減丸投げ統治の信長には最後まで考えつくことはできなかった。
功績泥棒信長信者によって秀吉は信長の脳内の構想をパクッただけだと捏造されている現状。
武器を狩り仏像を立てて内乱をなくそうとした秀吉。
アメリカじゃ、いまだに銃器の害に悩んでいる。家康の幕府に至っては全国支配を諦めた地方分権統治に後退。
兵農分離の先駆けは天正13年卯月22日付けの秀吉朱印状が嚆矢。
紀州の雑賀・根来を討ったときに刀狩りを命じていて
その際に頭領の者を選んで皆殺し、平百姓は許すと書いていて
明確に兵と農を区別して国人指導層を殺し、武器を没収して完全な農民にしている。
信長にはそういう思考はなく皆殺しの撫で切りや根切りや磔など残虐な極刑による地域消滅政策。
秀吉は農村の生産力確保維持政策が基本にある
(生産力・経済の概念は遠征補給兵站思想と、重商主義的な朝鮮出兵ビジョンが視野にあるから)
そのため島津に対して豊後の民を返還しろと命じたり、
宣教師に奴隷売買すんなや!と激怒し、宣教師が苦し紛れに
日本人が売るからポルトガル人が買うだけで私たちは苦しく思ってたと釈明していたり
キリシタン禁止理由として「本願寺一向宗のように国を奪い戦を起こすようにする企みがあり
しかも本願寺は百姓を惑わしたが、キリシタンはさらに悪質で領主層を惑わす。
秀吉が給付した領地の主人は変更することはあるが、其の地の農民の移動はない。
それなのにキリシタン大名が秀吉の許可も得ずに領地の寺社を勝手に燃やしたり略奪するのは許されない。
宣教師の企みを喝破できたのは日本の中でいまはまだ私だけだ」と言っている。
信長のようにただ単に興味本位で珍しい新しい物好きで宣教師を厚遇してるバカとは違う。
秀吉の諸政策は、織田狂信者のエセ作家によればすべて信長の脳内にすでにあったと捏造してるのが笑えるw
0085人間七七四年
2013/06/13(木) 14:00:27.27ID:rHkTlPby織田の先祖という説もある忌部氏が神官を勤める
越前劔神社に対して「刀さらへ」をしないと書いてあるってやつだろw
「刀さらへ」なる謎の言葉を
刀狩のことに違いない!と妄想解釈して
さらにこれは越前全域で柴田勝家が一向宗殲滅した時に
武器没収したもんだよ絶対!
そうだそれに違いない!と
二重妄想をしただけだろw
でさ、いつどこで、どんな刀狩政策を信長や柴田はやったのか
具体的に教えてくれよ。
大和一国支配者の興福寺
1580年の織田による差出検地
興福寺大乗院跡750石
興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地
興福寺春日社は2万1000石とされた。
信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。
つかできない。
0086人間七七四年
2013/06/13(木) 14:00:56.94ID:rHkTlPbyだいたい本能寺前夜の秀吉は
宇喜多の属国化や播磨や但馬や因幡や淡路など
自勢力で100万石越えの実力者。
信長も秀吉を警戒して安土に召還したり
宇喜多を独断で許してるのを激怒したりと猜疑で見ていた。
しかも耶蘇会の1584年の年報にも
はっきりと「一般人民の声によれば、秀吉は何事においても
彼の前任者信長より遥かに優れている」と当時の日本での世評において激賞されていたことを記している。
信長には分国法すら無く、
単に室町幕府に寄生してたら下克上された
歴史的意義の無い
実質10年弱で淘汰された畿内政権だからね。
三好や細川高国政権の方が長命だし、
なにより天正元年の発足と同時に、
安国寺から高転びすると簡単に予測できたほどずさん蒙昧政権。
信長は義昭の息子を擁立して
毛利とかにこれからは義尋に挨拶にくるようにとか命じたりしてんじゃんw
しかも義昭にも帰ってきてと哀願して拒否られただけじゃんw
それでも幕府の政治体制になんら手を加えた形跡もなく
そのまま幕府組織も継続してるし。
0087人間七七四年
2013/06/13(木) 14:10:27.70ID:rHkTlPby(秀吉は信雄に年賀の礼に来るように命令し信雄が拒否し秀吉と険悪な状況になっていた)
安国寺はさかんに秀吉と毛利の領地の堺について大きく譲歩してでもはやく和睦締結するように主張してる。
近年において信長がいた時も羽柴羽柴と騒がれ戦をすれば羽柴、城を攻めるも秀吉と盛んに評判になっていたが
いまでは日本を手の内にしており名人であり明日の不慮も考えられないと書いている。
これにより毛利と秀吉の正式な和睦が成立し、3月に入り秀吉は安心して家康信雄と激突する選択ができた。
新領国の早い安定化を達成できた撫民政策や民政力ある大名に信長は該当しません。
むしろ一揆や謀反や反乱平定に追われる暴君や失政、無策な大名です。
信長殺して
宿老4人の合議で当主傀儡とか
あきらかに時代が30年は遅れてることをやる織田・・・
幼君を傀儡として擁立して
実力ある者が専横しようとするのは
古来からよくある事例。
織田は1500年代前半に相次いだ下克上ブームも
とっくに終わったはずなのに
まぬけにも光秀・秀吉とダブルで起こされた稀有な事例
暴君足利義教が油断しまくって
配下の赤松に暗殺された時に
自業自得とか犬死と書かれたが、
信長がまさに瓜二つの生き方だからなあ
豚死にした自業自得な信長
こういう結末になるのは公家や京都五山の僧から情報収集してた
安国寺にすでに予見されていた
当然の末路だった。
足利義教が家臣に暗殺された時に
看聞日記は諸大名同心か・自業自得と書いている。
さらに建内記には義教が殺され、人々恩赦の時分と書かれ
義教暗殺が幕府の大名達にむしろ歓迎されており
義教の恐怖政治と理不尽な処分を受けた者達が恩赦される方向に変更された。
そして義勝9歳を傀儡擁立し専横を開始した。
信長もまた自業自得で家臣団から暗殺を歓迎され
幼君を擁立し家臣団が好きなように振る舞い織田主家は下克上された。
0088人間七七四年
2013/06/13(木) 14:10:29.30ID:Kw8OixJa尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で 終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>策の無い清洲で震えていた家康は彼らを支えることに失敗し、
震えていたなんて史料は存在しない
>>士気が崩壊した信雄軍
元々寝返りばかりで領国なんて困窮状態だがそんな信雄も自力では攻略できず
ヘタレ信雄の降伏に助けられただけなのが秀吉
0089人間七七四年
2013/06/13(木) 14:15:15.70ID:Kw8OixJa秀吉の戦略は一貫して三河方面の攻撃と家康討伐なので戦略でいえば大敗といえる
>>この戦いに秀吉はなんら関わってない滝川が独断で失敗してる
愛知県史資料編表題部や長久手町史通史編の谷口氏が領国分断作戦の一貫と書いてるし
秀吉がいたと思われる大垣と蟹江なんてすぐだし秀吉は滝川退城により三河侵攻を中断・延期してるから
三河方面への足がかりと容易に想像がつくしそもそも滝川は秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要
直接のソースはなくても上記のように秀吉の作戦なのは自明
>>(多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない)
その滝川の調略が本人の意思なのか秀吉の戦略なのかは別問題
>>当然のように危険極まりない行為をした
秀吉陣がいる尾張や美濃から蟹江なんて程近くなのに危険どころか大チャンスとしか言いようがない
>>16日夜に入城したものの18日には家康に即襲撃
その間に秀吉が後詰せずまた楽田方面からも軍勢出さなかったから負けただけ
そもそも滝川と九鬼って同盟者でも臣従関係でもないのに秀吉の意思がなかったら
九鬼が兵出すわけないだろ。伊勢の楠本に26日大阪に28日で其の前ずっと佐和山に
いたんだから位置的に余裕で後詰できたのにな 家康が怖くなって逃げ出しただけだろ
>>二重堀合戦はいつ?細川家記が5月朔日
細川家記の日付が間違ってるだけだろ。家忠日記に楽田筋へ働きどうこうって4/26にある
>>信雄が攻め寄せ木村や長谷川らと混戦になり神子田が戦わずして敗走したことが原因で羽柴方が追い崩され秀吉の不興に思い細川が奮闘して信雄勢を追い返したと細川家マンセー話を捏造し
神子田がいなくなったんだから史実だろ。三鬼氏もそう書いてるし
0090人間七七四年
2013/06/13(木) 14:17:30.69ID:Kw8OixJa滝川家臣でもない九鬼が行動している事・秀吉が三河方面への侵攻計画を一貫して表明してる事
秀吉が滝川退城によって三河方面攻撃を延期し信雄攻撃に切り替えた事・滝川は協力関係でも何でもなく秀吉の家臣である事
から秀吉の作戦だと容易に想像がつくし愛知県史資料編も谷口氏もそう結論づけている
>>滝川が自分の意思で調儀しただけで、
>>(6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで秀吉は何も知らないし何の準備もしてないし
その調略が秀吉の意思か滝川の意思かどうかとはまた別問題。現場に秀吉がいなくても秀吉の指示で行動なんて
全く矛盾もしないしそもそも総大将が調儀で敵陣中に城乗っ取りなんかできないから滝川が得意の調略で大チャンスつくっただけだろ
>>信雄と家康の軍に挟撃されている場所へ入城すると言う当然のように危険極まりない行為をしたために
危険極まりないどころか秀吉方拠点から程近くなんだから大チャンスだろ
蟹江から大垣なんてすぐだし尾張の秀吉方拠点からも近いだろうし
>>滝川は16日夜に入城したものの18日には清洲からわずか三里のため家康に即襲撃されて
秀吉が後詰しなかったからだろ
>>19日の家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて
>>滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw
秀吉は其の間なにやってたのって話だわな
佐和山に22日→伊勢楠本26日→大阪28日で逃げるように退却していったのが秀吉
0091人間七七四年
2013/06/13(木) 14:18:56.71ID:Kw8OixJaようは家康が怖かっただけ。7倍も兵力ありながら1万も殺されたんから当然だが
>>長島への中割戦略の成功たる竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だしよ。
長島への中割という割りに結局秋に信雄がビビッてヘタレ降伏するまで5か月もようしているのは
蟹江の敗戦が原因。これにより三河方面への攻撃は頓挫し延期 どうみても秀吉の失態です。
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康相手に大敗して1万人も大損害だしたから怖くて近づけなかっただけ 大垣から蟹江なんてすぐだからな。いこうと思えばいつでもいけた
二重堀合戦が史実な証拠として神子田が改易され、信雄から感状もでてる
愛知県史資料編867〜869で滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事を伝えてるんだろうが
蟹江が何も意味ないなら出陣日改める必要なし 蟹江を落とせれば清洲と長島の分断&北だけでなく西からも長島を包囲可能
蟹江は秀吉がいた大垣から眼前の距離 谷口氏の論文や愛知県史資料編が位置づけているとおり蟹江合戦が秀吉の三河侵攻計画や
領国分断作戦の一貫の証明だろうが 大体滝川はただ協力してるだけじゃねえだろうが
前年に秀吉に降ってれっきとした家臣だろうが 独断で行動してたとするならそれこそ証明が必要
0092人間七七四年
2013/06/13(木) 14:32:22.26ID:rHkTlPby池上裕子
武田家の軍役衆は武田家直轄でそれを家臣に預けるだけ。
よって槍3人・弓3人などの賦課で軍役に応じて集結した彼らを解体し
兵種ごとに再編成することが可能。
これは武田が寄親寄子制からいち早く脱却したことを表している。
黒田基樹
信玄の永禄10?12年年のものと思われる陣立書によって兵科別の編成が証明できる。
秀吉は帝国主義・重商主義の世界史的な流れを理解し
大陸進出により、日本が強国で植民地化が不可能だと悟らせた。
看羊録には、秀吉の朝鮮出兵は諸大名の力を削いで
戦乱や領地を望む心を奪うためと書いている。
戦国の機運を終わらせるためには強権発動も必要なのだろう。
秀吉のように実力で押さえつけた全国統一と各地に蔵入り地設置をしなかった家康。
家康は諸大名の支持を取り付ける手法だったので
地方分権による幕藩体制に妥協していたので
秀吉が世界に見せた武威がなければ、植民地化の流れの前に
秀吉と違い、家康では政宗がスペインに内通とかで撃退できなかったかもしれない。
それに朝鮮出兵で陶器技術の向上が無ければ、しょぼい陶器を江戸時代も使っていただろう。
陶磁器技術は日本幕末でも主力輸出製品だったし、
買取価格大下落していた中で貴重な特産品として現金収入源になっていた。
北条なども検地を通して軍役を賦課してるし
ほぼ武田と同様になってるよね。
すると軍事・統治で言えば、畿内は関東よりもはるかに遅れてるね。
畿内でも浅井や六角などは主君が重臣に議題を諮って合議により決断し
連名書状を出すし、
その大名や重臣権力を支えた惣村や堺などの自治も発達。
尾張の田舎者の信長が旧体制に畿内を力ずくで逆戻りさせたって感じだよな。
関東は進化し、畿内は時計の針を逆戻ししただけ。
信長なんて天正元年からたった10年満たずして
崩壊した政権だぞ。
細川高国や三好などの政権の方が長く続いてるわ。
信長は義昭の息子を擁立して
毛利とかにこれからは義尋に挨拶にくるようにとか命じたりしてんじゃんw
しかも義昭にも帰ってきてと哀願して拒否られただけじゃんw
それでも幕府の政治体制になんら手を加えた形跡もなく
そのまま幕府組織も継続してるし。
0093人間七七四年
2013/06/13(木) 14:33:26.01ID:rHkTlPby北九州の戦国研究で有名な吉永正春氏も
毛利や大友などを調査しても
一戦場に3万が限界だと言ってる。
一次史料を見ると信長も1万?3万くらいだよな。
秀吉はそういったシステムを作る天才だから
速攻で全国制覇したし、海外遠征まで実現できた。
いまだに織田は兵農分離とか言ってるバカいるしな。
さらにアホなのは兵農分離と徴兵制を混同してるやつも多い。
安堵を乱発し国人や地侍の解体さえ為されてなかったのに。
身分が固定されたのは強力な権威を背景に全国で不完全ながら
刀狩りと検地を組織的に施行した豊臣政権から始まって身分固定がなされた江戸時代なのに。
論拠にしても織田以外は農繁期は出兵しなかったとか主張するが、
そもそも一番人手が必要な時期に刈田もせずに出兵していくなんて普通にやってたし、
次いで農閑期に出兵するからと主張するが冬季に入るや撤兵して帰国したなんてのも普通にある。
そういう都合の悪いことは黙殺するんだよな。
そもそも農繁期と言っても戦国期の農民は米ばかり作っていたわけではなく、基本
米を刈り取ったらすぐに麦を植え春先にはその麦を刈り取りまた米を植え、という形だったので、
少なくとも春先と秋の2回農繁期があった。(米の二期作も併用している地域は夏も)
ここからも「織田以外は農繁期は出兵しなかった」という変な考えは完全に成り立たないことがわかる。
信玄とか謙信は普通に刈田もやらずに出兵してるよな。
そもそも稲を植える時期、3月とか普通に信濃出兵してること多いし。
織田厨って稲を植える時期を何月で、
刈田をする時期を何月だと思ってるのか本当に謎w
織田だけ兵農分離してると主張する際に客観的なデータやソースを絶対に出さないし。
デタラメばっかり吐く自演基地害の織田厨の言ってることは
もともと完全なウソなんだからデータなんて絶対に出せないでしょ。
0094人間七七四年
2013/06/13(木) 14:34:44.01ID:rHkTlPby謙信は勝頼を経略名之下ニ候と酷評してるから
勝頼なんてただのバカでしょ。
そんな勝頼さんは2/6に丹波の赤鬼さんに、
雪解けしたら早速、信長を攻めるよ!と書状を出してる。
ちなみに本隊は雪解け待ちのようだが、
先鋒はすでに出陣しててちょうどこの時期には
明智城を陥落させている。さらに櫛原城や神篦城を攻略している。
尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。
それもそのはず高天神城が6月に落城するのに
わざと遅く援軍へ向かうヘタレぶりを晒す信長。
信長は謙信からも責められていたようで、6/29には信濃出陣の約束を破った言い分けの弁解までしてる。
その際に信玄の掟を守って謀略があるので勝頼は油断できないと泣き言まで言う始末w
11/4の佐野氏宛て書状では武田軍は家康がいる浜松城下までやってきて放火し、掛川や久野に付け城を構築完成などやりたい放題。
積雪で信濃国境は封鎖された閏11/9になって、
のこのこと三河で鷹狩しに行くよなどと家康監視目的で
来援する信長を歓待すると申し出る家康の心中は複雑だよな。
少ない兵を引き連れた勝頼が完全に織田をナメくさって長篠の戦いで無謀な突撃をかましたのがよくわかる。
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は六万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
史料から、信玄軍の強盛振りと徳川の累卵が如き危うさを伺えるね
信玄すげぇな。6万も動員できるほどの改革と組織化を達成してたのか。
信長がただの暴虐なアホでなんらプランもないバカだったのもわかったが、
天才秀吉のおかげで過大評価されてたのが信長なんだって
改めて分かったわ。
やはり数万単位の動員の場合の排便処理問題って大きいよね。
幕末の会津藩も籠城してたけど、わずか一ヶ月で
ウンコ充満になって開城したしな。
0095人間七七四年
2013/06/13(木) 14:36:12.82ID:rHkTlPby信長がろくにやってなかった畿内の利権や流通の整備や再編成を始め、
それこそ関東から東北、九州、さらには外国にまで10数万の兵力を送り込めるほどの
流通システム再編を行っている
統治システムも体制も信長のものより遥かに進んでいる
島津が「こんな遠くに秀吉はこないだろう」と思っていたのは本当
それは別にお前さんが言ってるような政治的理由なんか関係ない
博多があろうとなかろうと、島津は秀吉はこれないと思っていた
それはなぜか?距離の問題だ
適当体制の信長が武田攻め程度の距離で、兵糧におっかなびっくりになってた事実を
考えてみろ
旧来の放任主義な適当体制じゃ、九州まで10数万もの兵を送り込んで維持する事はできない、
送れる兵力なんてたかが知れてる、それなら島津が遅れをとる事はない、
これが島津の目算だったし、それは実際にある程度ただしかった
信長政権のままだったら九州に大軍で侵攻する事は難しかったろうな
しかし、当時には東国で既に今川・武田・北条・上杉をはじめとして領内に細かく指示を出して、領国を整備・掌握し、
それによって軍役や軍事力の構成、さらには兵站を円滑化させようとする試みが進められ、成功していた
秀吉はそれと同じような要領で、信長がそれまで手をつけなかった畿内の流通や利権の掌握・整備を進めていき、
10数万もの大軍を九州まで送り込み、維持する事が出来る体制を作る事に成功したわけだ
西国の領国統治体制は東国の先進的な有力大名達ほどには進んでいなかったので、島津は自分達を前提にして
畿内政権の兵站を測ったし、それは信長政権に関する限り正しかった
豊臣政権にしても、ここまでしても九州平定までの間、兵糧が持つかは常に危機感としてあったから
島津は決して根拠ない目測をしていたわけじゃなかったわけだ
実際に信長生きてる当時と豊臣政権の安定度はまるで違う
信長は兵站に苦労しながら小規模に兵力あちこちに送り込むか
反乱鎮圧に躍起になって生涯終えた気がする
武田軍は輪番制や村請、印判衆がいるので軍役衆は帰る必要が無い
知識が40年以上前から進展せず、知恵が小学校低学年のまま進歩しないのが信長厨
0096人間七七四年
2013/06/13(木) 14:37:58.49ID:rHkTlPby北条・上杉・武田は部隊別の兵種の占める割合がわかるんだよね。
だけど織田はそんなことやってないからまったく不明
織田はただのチンピラ集団だから組織と言うより
単なる烏合の衆の集団。
天下布武は別に天下統一を目指していたと言う解釈にはならんし
単に地勢的な理由から将軍が頼ってきただけ。
天下布武が天下統一と解釈するのも無理矢理。
しかも上洛してわずか14年で信長死亡。
細川高国政権19年や細川晴元政権18年や三好政権19年
と続いたことからわかることからわかるように
京を掌握した勢力のチートぶりは凄まじく低難易度である。
そしてだいたい20年近くは持つのが当たり前。
しかしなぜか信長政権は非常に短命でぐちゃぐちゃにかき乱して殺戮しただけだった。
毛利は国人合議の一揆連合から脱皮出来なかったから、
織田旧体制のままの柴田に圧勝した秀吉に対して、
天正11年12/15に安国寺が、
毛利の一方的譲歩で和睦決断するように、
輝元、元春、隆景に問題を先送りして正月に休んだりしようとしてる場合じゃないと、
強く決断を促す時に、
秀吉軍は10日か15日で罷り出れるが、
輝元、元春、隆景らは中途までうち出すのすらも50日や30日はかかると書いて動員の遅さを挙げてる。
ドン臭い動員ではもはや秀吉には勝てないし、
これでは秀吉に一方的に押し込まれるはずだと安国寺は喝破していた。
秀吉軍はその経済政策により、信長のように現地調達・恐喝・虐殺略奪による
一国亡国と言われる略奪型軍隊で常に金がない状態ではないので
秀吉の九州征伐ではその財力を生かした畿内軍の軍備に対して、
あまりにも九州の武士たちの装備が貧弱すぎて
笑いものにされていた。そのため畿内の者たちにバカにされて萎縮してしまっていて
士気に影響していると聞いた秀吉が九州人の武装嘲笑禁止令を出している。
それくらい遅れているのが九州。案の定、さしたる抵抗もなく楽勝で島津を鎧袖一触した。
これら中国や九州のマヌケな状態は徳川・上杉・武田・北条では見られない。
秀吉も関東甲信越の先進システムを模倣したゆえに
小牧長久手の戦いで徳川と互角に戦えたと言える。
0097人間七七四年
2013/06/13(木) 14:40:23.28ID:rHkTlPby遠隔地も監視できる体制を造り
取次と指南によって大名家の内政にまで介入しているなど
まさに中央集権による絶対君主制を目指していた。
しかし体制維持の事なかれ主義に後退した家康は内政不干渉&地方分権で妥協してしまった。
本能寺の変勃発で千載一遇の大チャンス到来。
しかし機を見るに敏な天才秀吉の口からのデマカセ詐術に
見事にひっかかる古今東西最強のバカ兄弟隆景&元春
織田厨は相変わらず無知だな。
不利どころか毛利にとってむちゃくちゃおいしい条件だった。
なんせ備後、備中、出雲、伯耆、美作の五カ国が毛利へ割譲されると言う
話で決着が図られていたと言うスーパーいい加減なデタラメ口約束だったんだから。
だから本能寺の変直後の秀吉と毛利側の和睦起請文にはこの条件はまったく明記されてない。
これがのちのち大問題に発展する。
つうか小早川と吉川が毎回バカな方針対立するから毛利の騙しやすさは異常w
当然この時の約束なんて交渉の切欠でも何でもない。早く退却したい秀吉の口からでたデマカセ。
当初の秀吉側へ因幡・美作・伯耆半国・備中半国割譲で手打ちなんてのは途中で話が摺り変えられていたわけだ。
しかも起請文には明記していないと言う詐欺的手法で秀吉の手玉に乗せられ見事に毛利は騙された。
光秀を討ち落ち着いたときに秀吉側が美作などの早期譲渡を要求するが驚いた毛利は話が違うと拒絶。
このため境目の領主は宇喜多と毛利に半分づつ年貢を納める半収で対応するしかなかった。
美作の草苅や中村、備前の伊賀などが毛利方の先兵として宇喜多に攻撃をかける始末。
柴田への対応に手一杯の秀吉は秀家に「西国の表裏」への対応を指示してる。
(毛利は隆景が秀吉、元春が柴田とつながりを持ち、双方への戦勝祝いの書状まで事前に用意していた)
柴田を片付けると宇喜多の重臣の岡家利をバックアップする形で蜂須賀と黒田が毛利へ圧力を加え
美作・備前は宇喜多で毛利は備後・出雲・伯耆三郡と領域が妥協するも備中では平行線。
最終譲歩ラインである備中の西半分と備前児島だけは何とか確保したい毛利側と交渉が続いた。
家康と信雄との対決が迫る中で、和睦が正式決定して
宇喜多側が児島を含む備前・美作・備中東部を領地として最終決着。
その後の秀吉は宇喜多勢を小牧長久手・紀州征伐や四国遠征などに投入できるようになった。
(ちなみに小牧長久手では小早川秀包も秀吉への援軍で従軍していた)
0098人間七七四年
2013/06/13(木) 14:40:45.20ID:Kw8OixJa3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした 『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。
0099人間七七四年
2013/06/13(木) 14:41:53.58ID:Kw8OixJa時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる 六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。
8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
0100人間七七四年
2013/06/13(木) 14:48:00.59ID:CwnqqBcyひょっとして…
0101人間七七四年
2013/06/13(木) 14:49:45.66ID:rHkTlPby軍役に関して記された改定着到之事を施行して
指物や槍の寸法や装備や馬上具足に至るまで、
それまでの基準を改定し、軍役を課す基本台帳たる
着到帳も氏政から正式に渡されてる。
また翌月には段銭増分を設定し村郷の代官に納入を命じてる。
織田にはこんな内治政策などまったくない。
信長が国内を統治していた証拠など無いに等しい。
織田諸将が直接、在地と主従関係を結んで地域割拠していたので
地域一円謀反が多発し信長が死んだら、即、織田が瓦解したのであろう。
勧修寺晴豊の書いた晴豊公記には、
嵯峨野に逃げた近衛前久と勧修寺尹豊を非據の罪状で信孝が討ち取りに来たがうまく逃げることができたと書いてある。
非據とはやってはならないあり得ないことという意味。
しかしのち近衛の非據は隠蔽され逃げ隠れたのは信長を弔う為の行為に捏造された。
天皇は天正九年九月六日に信玄が甲斐に招聘していた快川紹喜に
国師号下賜を決定した。
「朕は遥かに和尚の道風を聞き及んで感動したので特別に大通智勝国師の号を与える」
信長が翌年に和尚を火あぶりの刑で処刑。
二ヶ月後に本能寺の変で信長は天誅されたのであった
快川紹喜と同族の土岐氏である光秀が吉田神社の支持を得て謀反した。
壬生家四巻之日記
改元の時に譲位要求。
天正元年12/3譲位要求
馬揃で威圧したことに焦った朝廷が
翌日3/7左大臣推認を申し出たら「天皇が譲位したら受ける」と拒否。
天正十年夏記によると
勧修寺晴豊が武田滅ぼした信長に、
「関東討ち果たしたからには将軍に」と申し出たのちに、
信長から天皇と誠仁親王に返書があり、
晴豊も村井貞勝邸宅に伺い返書を貰っているが返書内容は記録から削除。
本能寺前日6/1に宣命暦が日食を当てられず
信長が三島暦の話を蒸し返す。
0102人間七七四年
2013/06/13(木) 14:52:14.76ID:rHkTlPby(しかし約束は果たされず元亀元年10/26正親町天皇が信長に荘園を延暦寺に返せと命じてるがやはり無視)
比叡山座主覚恕法親王は正親町天皇の弟で延暦寺炎上後は洛中曼殊院や禁中に滞在して
比叡山再興を掲げる信玄の権僧正任官の斡旋活動をして信玄も僧正号宣下のお礼状を元亀3年10/3に出している。
信長追討綸旨発給の衝撃・・・・本人が関わる綸旨・宣旨を纏めていた勧修寺晴豊の旧蔵記録には
蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→四辻大納言李遠宛て元亀3年9/20付書状
今度叡山炎上のこと、非常に嘆かわしく思っていたところ、法性院僧正が再び叡山を隆盛させるべく
入洛を計画しているとのことを聞き及びました。
叡山復興によって朝家の盛興するべく忠勤を励むとのこと。使者として直接談じ合ってくるように。
蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→恵林寺(武田氏菩提寺)・長禅寺(信玄生母墓所)宛て元亀3年9/20付書状
あなたたちの寺を天皇の勅願所に決めましたので、宜しく国家安全と長久を祈り奉ってください。
これにより天皇は信長に与えた決勝綸旨を破棄し、将軍義昭に呼応する信玄の官軍認定をしたのである。
このことで物資と人の両面で困窮し追い詰められた朝敵信長の自暴自棄の報復が
御所まで類炎するのも辞さない上京焼き討ちによる公家・寺社への乱暴狼藉である。
謙信→長景連宛て元亀4年3/19付け書状を読むと
謙信も信長へ叡山再興をするように約束すれば信玄の大義名分が立たなくなると諭し
朝敵信長がそれを承諾しているのがわかるように、朝敵信長は比叡山の報復圧力に土下座しているのがわかる。
このように官軍武田軍が威風堂々と徳川・織田連合軍を瞬殺して上洛を目指していたのがわかる。
0103人間七七四年
2013/06/13(木) 14:53:09.29ID:rHkTlPby朝敵信長追討を受けた信玄は
義兵を起こし大軍が靡かせ発向し家康の大半の要害を破却したと宣言し、
信長・家康ら逆党を誅伐し天下を静謐にすると言上してる。
そして叡山での乱逆や、他者を軽んじ公家や寺社の人々を侮り、放言の数々
洛中洛外を徘徊しみだりに徳分の課役をして砂金財宝を横領しまくり、
朝倉と信長を和睦させたかたじけない天皇の勅命とそれに類する複数の起請文を捧げたのを
破って延暦寺を壊滅させるなど悪逆無道を為すなど5か条に渡って
信長の大罪を弾劾し讒巨乱国を救うと誓っている。
その檄文を将軍から入手した天皇は日本を救う救世主に感動して、
信玄の大義名分を筆写し醍醐寺理性院に納めて祈願したほど。
いかに信長が悪逆無道だったかがわかる。
醍醐寺理性院に残る天皇の写の日付は1/11だが、甲陽軍鑑では1/7とされている。
実際に書かれたのは1/7で出されたのが1/11なのかも知れない。
その後、信長は比叡山座主を厚遇し、まったく人気がなく洛中で孤立した信長は公家に領地やるから直接俺に仕えるよう命じ、
孤立させた天皇には譲位を求めるようになる。
勧修寺と近衛と吉田神社は信玄の遺志を継いだのだろう。
信玄が掲げた正義の戦いの威力と影響力を恐れた信長は、
信玄死後に比叡山復興と公家などの荘園返却などを強制させ、
信玄はその最後の戦いでの目的を達成している。
言わば死んだ信玄が生きる信長を走らせたのだ。
天皇家を守護した源氏武田が天皇を守護してきたのを勧修寺らは知っていた。
そして武田滅亡は信長討滅のスイッチとなり、信忠もなぜか予定を変更して京に来ると言う謀略に引っかかったのだ
0104人間七七四年
2013/06/13(木) 15:28:41.45ID:Kw8OixJa長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る 6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発 6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた 6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った 三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々 これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる必死な政略的宣伝工作かがわかる。
なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから異常に少なく見積もられてるだけだろ
実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな 長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
0105人間七七四年
2013/06/13(木) 15:29:18.97ID:Kw8OixJa顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
>>実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホ
>>必死な政略的宣伝工作かがわかる。しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して、
>>同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ、秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
0106人間七七四年
2013/06/13(木) 15:29:54.18ID:Kw8OixJa領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
0107人間七七四年
2013/06/13(木) 15:31:00.37ID:Kw8OixJa3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
>>徳川・織田連合軍は秀吉によってどんどん領地を奪われていき空手形の発行をする始末だからねぇ。
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>三河の竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃し疲弊したと記しており
会戦当初から徳政連発と貧国のために窮困状態
小牧長久手の戦いの時はむしろ大方の兵力は北条の変心と上杉の信濃出兵のため残されており
さらに夏には少ない兵力の半分を返している(家忠日記当代記
>>八方塞りで敗北必死だったから誇張宣伝を繰り返して長宗我部に決起を
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
0108人間七七四年
2013/06/13(木) 15:31:51.96ID:Kw8OixJa秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」
>>20万人が戦った関が原の戦いですら旧日本軍参謀本部が日本戦史・関原役において討死数を8000人としているわけだし。
全く違う戦いあげて根拠にするとか意味不明 ただ逃散兵が多かっただけだろ
むしろ20万がガチンコで戦った関が原ですら8000しか死ななかったとすると小牧長久手の秀吉大敗がいかに
次元を超えたレベルの大敗かがわかる
>>一次史料である9月20日付の近衛前久書状では4,000〜5,000人としている。
>>顕如日記の3000討死ってのが現実的だろうね。
顕如日記は秀吉の過小歪曲フィルターがかかった捏造情報があとからもとらされただけ
>>家康の策源地である三河からして完全に崩壊してるのが現実だし。
>>三河渥美郡にある常光寺の日記
>>4/17には本拠地三河の渥美まで秀吉が派遣した100隻の軍船で襲撃されてるなど
織田徳川羽柴の書状にも見られないような局地戦と家康も無視している状況あげられて三河
が崩壊とか馬鹿ですか?むしろこの戦いでも攻略失敗なんだから秀吉の負け
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
0109人間七七四年
2013/06/13(木) 15:32:55.61ID:Kw8OixJaなら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから
異常に少なく見積もられてるだけだろ
実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから 家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと 顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
>>実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字いかに家康らが不利な状況だったかがわかる必死な政略的宣伝工作かがわかる。
>>同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
0110人間七七四年
2013/06/13(木) 15:33:42.70ID:Kw8OixJa何せこの後は7倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
0111人間七七四年
2013/06/13(木) 18:35:52.64ID:smN/Rpfz0112人間七七四年
2013/06/13(木) 19:05:55.28ID:0H2lAzBm0113人間七七四年
2013/06/13(木) 19:43:45.38ID:k9NCFg07多分こういうやり方しかコミュニケーションの仕方を知らないんだろうな
0114人間七七四年
2013/06/13(木) 20:28:13.01ID:Kw8OixJa5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
0115人間七七四年
2013/06/13(木) 20:36:54.55ID:Kw8OixJa経済基盤でいえばかなりのものだし装備も当然充実させられるのに
こんなに雑魚なのは本人の指揮能力がクソレベルなんだろうな
秀吉が全軍で小牧山を攻めていたら織田信雄に大敗していたのは間違いない。
何せ信雄家臣の木造や吉村などにぼこぼこにやられた史実があるんだしな
しまいには小田原、韮山、山中、忍、松ノ木、太田など大敗や大損害を重ね、天下失った凡将w
犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には
芝のついた土手を築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺
にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。
家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。
中入り作戦なんてしなくても北と東から力づくで押し込める
あと秀吉は中入り軍を追撃していく軍の動きを把握していた事は明らかだが
ここですぐに軍を動かさずもたもたしてたから負けただけ。これは柏井にいる一柳直末にあてた書状から明らか。
単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う
野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならないのは自明の論理で、
あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら
戦場の変更とか転進とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。
中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし
支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないまま
だらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる
あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、
南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると
夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより
秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
7倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
それを秀吉のアホ作戦で台無しにして奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
織田家で最も無能な上に重臣の謀反&粛清等があり、権力基盤弱い織田信雄の領土相手にこの醜態ってw
0116人間七七四年
2013/06/13(木) 20:45:47.54ID:Kw8OixJa白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
あんだけ兵力差ありながら晩秋まで一進一退続いてるからな
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
つうか尾張口突破がそんな困難なら権力基盤弱い伊勢攻めるか
間接的統治を行うだけで支配力が弱く、木曽が寝返り、翌年に真田、小笠原が寝返るなど
不安定な支配の信濃を上杉とともに攻めりゃいいだけだろ
だらだら尾張口や木曽川筋で対陣続けて晩秋になるまで突破口見出せん秀吉は馬鹿すぎる
中入り勢は突出などしとらん
秀吉の命令通り動いただけ
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるし
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
0117人間七七四年
2013/06/13(木) 20:52:22.21ID:Kw8OixJa中身のないゴミ政権だからすぐにボロが露呈した。
信長に従い土下座外交してた氏政が秀吉に従わなかったのも秀吉の実力のなさを見抜いてたからだろうな
本能寺時点でも光秀が運良く信長を打ち逆賊の汚名被り毛利も運良く追撃せず
柴田戦でも運良く勝家が雪で動けないのを利用し勝家と勝豊の運よく不仲なのを利用し寝返らせ
運良く権力基盤が弱い信孝を攻め運良く稲葉を寝返らせてへタレ前田が運よく軍を引きやっと勝てただけ
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
そういう優位な状況は秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、真田
石川の場合は秀吉の威信が強大になっていたのが大きく小笠原は石川が小笠原の人質もって逃げたから寝返った。
水野は元々外様だし石川と同じく秀吉の威信が高まりすぎたのが原因だろうな。
どれも秀吉が自力で作ったというより運よく強大な勢力を持てたのと元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ
よく秀吉は城攻めの達人とか人たらしの名人とか言われるがこれも間違い。
どこの大名でも漁夫の利を狙うような芸当はやってるし
城攻めに関しても鮮やかと言われるのは対中国戦くらいだろう。しかも水攻めといい兵糧攻めといい
時間や金ばかり無駄に浪費した下策でこんなもんは織田家が経済的に圧倒的なものをもってるから
なせる芸当。少数しか兵のいない忍城や竹ヶ鼻城、紀州の城を正攻法で瞬殺できないのは終わってる
0118人間七七四年
2013/06/13(木) 21:01:39.39ID:Kw8OixJa羽黒で大敗、小牧長久手で1万人戦死の大敗、戸木・松ノ木・河波・神戸・二重堀・蟹江・浜田で敗北
ちなみに兵力差は7倍ほどもあり信雄方は合戦当初から尾張でも美濃でも伊勢でも寝返りでまくりの圧倒的秀吉有利な状況
>>家康は八方塞がりで秀吉の攻勢に常に籠城してただけで、其の間に味方がどんどん切り崩されていっただけじゃんw
秀吉が切り崩したの木曽川筋の家康が出てこれないわずかな城だけだろ
他東駒野・河波・松ノ木・戸木・蟹江・二重堀・神戸・浜田など各城郭で敗北
結局秋になって秀吉が諦めて納馬しようとしてたところに信雄がヘタレ和睦してきて助かっただけ
>>秀吉がいなくなると、ちょっかいを出すが秀吉が来ると逃亡
むしろ至近距離で滝川が蟹江・前田・小口など奪って家康と決戦する大チャンスなのに
信雄と家康にビビッて逃げてったの秀吉だろ。滝川が蟹江合戦起こした当初最低でも至近距離の大垣にいたのに
いつでも後詰できるのにしなかったのは秀吉が小牧長久手で1万人も戦死する大損害だしたからヘタレビビリまくって逃げてただけ
>>根本的な解決策はなく、時間稼ぎ籠城してるだけ
家康単体では8000そこそこしか軍出せないのに根本的な解決できるわけねーだろアホ
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。
秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし
家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか
それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい
結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな
木曽川筋のわずかな城を落としただけで
南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして
権力基盤が弱い信雄領国を荒らしまわってたら信雄がびびって降伏しただけだし
0119人間七七四年
2013/06/13(木) 21:07:24.06ID:Kw8OixJa三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。秀吉方は
秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、
長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる
0120人間七七四年
2013/06/13(木) 21:55:23.75ID:Kw8OixJaこの戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
と書いていて秀吉の家康への敵意と討伐意思と行動がよみとれる
0121人間七七四年
2013/06/13(木) 23:19:49.77ID:G5RTOZaA「だがwiki」と「だがサイト」じゃ労力がぜんぜん違うんじゃないか?
だがwikiの方はだがの記録というソース付の真実の積み重ね
だがのレスを探しそれをわかりやすくまとめる労力がハンパ無いと思う
だがサイトの方はだがの思いつきで書けばいいだけだから嘘や偽り何でもOK
何の説得力も無い妄想を口から吐き出すのと同じだから楽勝と思う
ニートだがでもサイト作成知識があれば簡単にできるよ
まあだがに知識が無いから100%無理だけどな
0122人間七七四年
2013/06/13(木) 23:26:16.99ID:Kw8OixJa信濃では小笠原、木曽、真田が秀吉に帰属し家康の支配はわずか3郡 石川数正、水野忠重も秀吉に内応。譜代の離反&軍事機密が露見した状況で
母と妹人質に出さなきゃならん秀吉は終わってる
圧倒的兵力差があった上に秀吉の敵対勢力の敵を利用してん寝返らせたから屈服できただけ。
上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争いその後も川中島〜安曇・筑摩・小県方面に積極的に出陣し
徳川方勢力と交戦。85年の上田城攻めにも援軍を派遣した。毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。
宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう 裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河、三好や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った
木曽、小笠原、真田等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用したから勝てただけ。
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は
余力ありまくりの状態での降伏だった。 逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
>指揮系統の話なら箕浦合戦で秀吉の与力として奮戦したことが
>『信長公記』に記録されてる樋口直房は旧浅井家臣で堀秀村の直臣当時の秀村は十二万石の大名だったのに対し秀吉は僅か五万石に過ぎず
>秀吉より遥かに格上で従わせるのが難しい存在だったわけで
箕浦合戦で堀軍が主力で撃退したのならなおさら秀吉は評価外
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃ
ならないほどヘタレぶりだったし。まあ毎度の事だけど 秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して 大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
0123人間七七四年
2013/06/13(木) 23:31:45.51ID:aBg2pSJr0124人間七七四年
2013/06/13(木) 23:34:25.29ID:Kw8OixJa4/9織田信雄書状 一万人 4/10家康書状一万人 4/11家康書状一万人 4/13北条氏政・氏直書状1万人 5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人 5/7織田信純書状一万人 家忠日記1万五千余り 顕如日記1万人余り イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人 当代記2万人 池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる 3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね
近世成立記の大規模戦争86ページ
信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
83ページ
公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
0125人間七七四年
2013/06/13(木) 23:51:47.67ID:Kw8OixJa尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>三河の竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃し疲弊したと記しており
会戦当初から徳政連発と貧国のために窮困状態 小牧長久手の戦いの時はむしろ大方の兵力は北条の変心と上杉の
信濃出兵のため残されており さらに夏には少ない兵力の半分を返している(家忠日記当代記
>>当時の家康は長宗我部が秀吉の背後を突いてくれないと八方塞りで敗北必死だったから誇張宣伝を繰り返し
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
>そうなると家康は北条が援軍に来るなんて非現実的なことを言って友軍の離反を繋ぎ止めてるが、
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」
>>20万人が戦った関が原の戦いですら旧日本軍参謀本部が日本戦史・関原役において討死数を8000人としているわけだし。
全く違う戦いあげて根拠にするとか意味不明 ただ逃散兵が多かっただけだろ
むしろ20万がガチンコで戦った関が原ですら8000しか死ななかったとすると小牧長久手の秀吉大敗がいかに
次元を超えたレベルの大敗かがわかる
>>一次史料である9月20日付の近衛前久書状では4,000〜5,000人としている。顕如日記の3000討死ってのが現実的だろ
顕如日記は秀吉の過小歪曲フィルターがかかった捏造情報があとからもとらされただけ
>>家康の策源地である三河から完全に崩壊してる 三河渥美郡にある常光寺の日記
>>4/17には本拠地三河の渥美まで秀吉が派遣した100隻の軍船で襲撃されてるなど
織田徳川羽柴の書状にも見られないような局地戦と家康も無視している状況あげられて三河
が崩壊とか馬鹿ですか?むしろこの戦いでも攻略失敗なんだから秀吉の負け
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
>>家康らが不利な状況だったか必死な政略的宣伝工作か
なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから 異常に少なく見積もられてるだけだろ 実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ 織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから 家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと 顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他
大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだからいかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
0126人間七七四年
2013/06/13(木) 23:58:57.04ID:Kw8OixJa策もなくも糞もこの時の秀吉の狙いは書状に書いてるように後詰決戦行う事だから
家康にしてみれば少ない兵力で木曽川越えの木曽川地域に移動する方が馬鹿
>>加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
竹が鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと 竹鼻を救援するなんて無理
>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい 秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
この2城が落ちてから長島が攻撃にさらされるまで半年もかかりその間神戸や長久保、蟹江などで敗戦する醜態ぶり
>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
秀吉はすぐ後に軍事行動おこしてるくらいだから滝川が城奪ってすぐに後詰すればよかっただけ
>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
>南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
>他にも小島民部や榊原や朝成藤方や長野左京や水谷や河北佐助や恒川次助らに伊勢壱志郡を与えている。
当たり前。南伊勢半分は津15万石の信包・田丸・関などが秀吉につき、池田と森が予想に反して家康に付いたから家康らが尾張に転進せざるをえなくなったから楽に蹂躙できただけ
>秀吉の和睦条件は信雄と家康や石川から人質を取ることでありそれを最終的に家康らが拒否しただけの話。秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリ
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
>でも結局、この条件で半年経たずに土下座することになるのが、信雄と家康。
信雄がへタレて勝手に和睦したから助かっただけ
>羽柴秀長の大軍南下の中で吉村又吉郎の独力でそれが可能なようには見えないけどな。
それはあんたの主観です
>まぁ11/10の信雄→吉村でいきなり長久保落居を聞いたと書いてるだけで
アホですか????長久保の城が落居じゃなきゃ長久保の何が落ちたというんだ?
>そんなの去勢張ってるだけ
真田との攻防や北条との同盟関係強化に努め秀吉との対決に備えている
>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
限界動因どころか兵の半分を返している(当代記・家忠日記)
>秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
小牧山周辺の砦には2万もの留守居兵が残されてる上に6月15日にはさらに楽田への加勢集として
1万1200が追加されてるから家康がただでさえ少ない兵力で秀吉の侵攻地域と関係ない東美濃に向かったら
そのまま美濃の後詰部隊と小牧山周辺の留守居兵に追撃されてアボーンまたは小牧山占領されて
一気に三河方面に侵攻されてアボーン
>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
蟹江合戦で危機的状況に素早く対応している。また8倍ほどの圧倒的兵力差で均衡を保っている
>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
加賀の井に行くには敵城の網の中の網を掻い潜りしかも川を渡らなければならない。10分の1の兵力でそんな芸当無理
また5月5日秀長宛書状で伝えるように家康が後詰として働いてきてもその対応は十分できているため
家康からすれば死地にいくようなもの
>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
戸木城の位置は伊勢の相当南方で敵地のど真ん中。海上ルート使わないといけないから 強風吹いたら無理にきまってるだろ
>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。もう絵に描いた餅状態じゃん。
小牧山周辺には秀吉の留守居部隊2万が残されてるから当たり前
秀吉も6月4日佐竹義重宛に加賀井・奥両城は家康からみて「敵城中」に入っている(家康信雄からみて敵方である
秀吉方の城々に取り囲まれた位置にある)ので両城への後詰として家康が後詰した所を攻撃する計画だったといっている
家康からすれば木曽川諸城への後詰など自ら死地に赴くようなものだっただろう
0128人間七七四年
2013/06/14(金) 00:30:20.13ID:xj6Tnt3N羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
体調が悪いからとかんなもんただの言い訳だろ
最初から会戦しないか部下にまかせりゃよかっただけ
徳川方は春から特政・信雄領国は伊勢のみならず尾張でも会戦当初から寝返り続出と不利な条件だったんだから
夏の対陣のときでも徳川方は兵の半分を返していて(家忠日記)
総勢一万足らずだったとあるしな(当代記)
体調が悪かったなんて事書かれた史料あったっけ?
「見舞い」の事だったら戦場見舞いの事じゃないの?
大阪の二度目の対陣は蟹江合戦の敗戦により三河侵攻計画の前哨戦が頓挫したからだと
愛知県史資料編が位置づけている
あと二重堀合戦は家忠日記にある
0129人間七七四年
2013/06/14(金) 00:50:06.87ID:xj6Tnt3N4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
0130人間七七四年
2013/06/14(金) 00:59:20.17ID:xj6Tnt3N4/20 秀吉→上部 秀吉が在陣する尾張方面では、普請など堅固に申し付けている旨を報ずる
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
6/2信雄→吉村 松ノ木への玉薬を送付
6/7秀吉→前田 尾張河波を敵城を全て攻略する意思である旨を報じる
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する
6/28家忠日記 楽田へ小牧衆(小牧城に在陣している家康方兵力)が物見に出かけ秀吉方と交戦した
7/7秀吉→小野木・大塩・津田・富田 神戸城の守備について滝川益重を派遣する事を報ずる
7/7秀吉→一柳 蟹江落城により、蟹江に対する秀吉方拠点として神戸城に秀吉から軍勢を派遣することを報ずる
7/7蜂須賀→南条元続 秀吉方諸将は尾濃境目の城に在陣している。数日中に秀吉が伊勢へ出兵する旨を伝える
7/9秀吉→分部 神戸方面へ敵(信雄方兵力)が出兵してきた旨を了承
安濃津・上野城に敵が出兵してきたら秀吉が出兵して討ち果たす事を伝える
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
んで結局1年一杯使っても上記の城は攻略ならず。寝返りだらけでガタガタだった信雄領国を
8倍もの圧倒的大軍で攻め込んで結局尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
0131人間七七四年
2013/06/14(金) 01:08:13.56ID:xj6Tnt3N7/10信雄→吉村 尾張から伊勢まで南下して放火した
7/12家康→木造 戸木城への兵糧搬入が困難である。戸木城を堅固に守るよう指示
7/14秀吉→津田 浜田之古城を信雄方が攻略した旨を了承。信雄方にとって菅生砦へのつなぎの城になるだろう
との考えを示す。明日美濃へ行くので神戸城で大方申し付けたならば、神戸城の一柳・小野木は美濃の秀吉陣所
へ来るよう指示
7/15家忠日記 秀吉方兵力が物見に出てきて家康方と交戦した
7/17伊勢から帰った家康が在陣する清洲へ出仕。軍勢半分を返す
7/18信雄→吉村 秀吉が曽根に到着し松ノ木の吉村に調略を仕掛けてきた知らせを聞いた
7/28秀吉→小島・蒲生 戸木城からの講和に関して指示する
8/12秀吉→長浜町人中 鍬などを取り寄せ犬山に届けるよう指示
8/14信雄→吉村 近いうちに秀吉が出陣してくるようなので諸事油断せず松ノ木の普請と昼夜の番等を堅固に申し付けるべき事を指示
8/18秀吉→上杉・須田 明日19日に秀吉が木曽川を超え小牧まで出兵し付け城を申しつけ家康が逃れられないようにする、三河へ出兵すると報じる
8/19信雄→高木 駒野城への加勢について空明と太田の両名に申し付けたのでよく相談して落ち度がないように
8/25秀吉→長浜町人鍛治中 鍬をつくり完成させ、普請に利用する
8/26加藤→長浜鍛治中 鍬について10駄分命じられたので朱印状を持参した旨を伝える
9/1家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/5家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/7家忠日記 秀吉との講和交渉決裂のため重吉へ惣人数を移す
9/9秀吉→あて先不明 尾張で秀吉方が放火し要害を数箇所申し付けた
9/16秀吉→前田 尾張国内で下奈良・宮後・河田へ砦3箇所堅固に申しつけ
過半が完成したので2.3日中に兵糧玉薬及び4千〜5千くらいの人数を入れる
9/19家康→滝川 戸木城が苦戦していると家康へ注進があり、いまだ本城を堅固に守備しているならば
家康が急ぎ出陣する予定なので戸木城の様子をよく聞き届け再度滝川雄利からたまわりたい旨を伝える
9/23信雄→保田 秀吉より講和に関して懇望があったが拒絶した旨を報じる
10/27秀吉→上部 虎落に用いる竹を調達する
11/10 信雄・家康→吉村 長久保攻略を賞する
0132人間七七四年
2013/06/14(金) 01:28:25.22ID:xj6Tnt3N小牧山周辺の砦には2万もの留守居兵が残されてる上に6月15日にはさらに楽田への加勢集として
1万1200が追加されてるから家康がただでさえ少ない兵力で秀吉の侵攻地域と関係ない東美濃に向かったら
そのまま美濃の後詰部隊と小牧山周辺の留守居兵に追撃されてアボーンまたは小牧山占領されて
一気に三河方面に侵攻されてアボーン
>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
蟹江合戦で危機的状況に素早く対応している。また8倍ほどの圧倒的兵力差で均衡を保っている
>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
加賀の井に行くには敵城の
また5月5日秀長宛書状で伝えるように家康が後詰として働いてきてもその対応は十分できているため
家康からすれば死地にいくようなもの
>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
お前戸木城の位置わかってる?伊勢でもかなり南方で敵地のど真ん中。海上ルート使わないといけないから
強風吹いたら無理にきまってるだろ
>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。もう絵に描いた餅状態じゃん。
小牧山周辺には秀吉の留守居部隊2万が残されてるから当たり前
秀吉も6月4日佐竹義重宛に加賀井・奥両城は家康からみて「敵城中」に入っている(家康信雄からみて敵方である
秀吉方の城々に取り囲まれた位置にある)ので両城への後詰として家康が後詰した所を攻撃する計画だったといっている
家康からすれば木曽川諸城への後詰など自ら死地に赴くようなものだっただろう
>>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
上記のように秀吉は蟹江合戦当初滝川が軍事行動起こした蟹江から近い大垣近辺にいたため秀吉の軍事行動と容易に想像がつく
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
そもそも両者には会戦当初から秀吉に同行していた渡辺清忠や桂横重が小牧山に陣替したときの人数を10万といっており当代記、三河物語もこれと同じ数字
その他に伊勢方面を攻めている諸勢2万4000と美濃に残されている秀勝勢数千が存在するため総勢で13万を超えると思われる
また尊禄以来年代記では秀吉は3月に大阪をたった時125000、八月には16万で尾張へ出兵した
また長久手合戦参加者の家記や家譜、合戦記などでも同じ数字が用いられている
そして陣立書や書状から秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦に及んでいる事がわかる
こんな圧倒的兵力差で負けまくって一年一杯使って信雄ごときの尾張半国すら自力では倒せなかったのが秀吉
0133人間七七四年
2013/06/14(金) 01:47:22.61ID:xj6Tnt3N3月27日秀吉一に25日、秀吉公犬山に入り、楽田・羽黒辺まて諸大将衆はかり召し連れられ、
仕寄の下知など仰せ付けられ先つ小牧山に対し向城を高く構え、堀を二重に深くほり、柵を堅く結び
井楼を上させられる、是を二重掘の要害といい、この外岩崎山・小松寺山・青塚内窪山等の付城勢を
分ヶ守らせらる…(省略)
秀吉公二重掘に附城三ヶ所仰せ付けられ、忠興君を初大将数多くして守らせられ、
小松山寺を本陣とし、用心厳しくして合戦を持て数日対陣有り、二重掘には細川与一朗・蒲生忠三朗
堀久太郎…(省略)
五月遡日、信雄小牧山より見て一あてせんと有しを、家康公御無用とおおせられ、ぜひにと有りて御立候間、
家康公御家人を召され、尾張勢定立らるへし、もり返す用心せよと仰せられ候、信雄の勢は木村・長谷川等の手に食い付き、
芝手の中まてかけこみ、両手の軍士散々に敗走いたし候、忠興君御手廻討に走出られ、芝手の上に御揚り御下知、…(略)
長久手にて3大将討ち死に、秀次利を失われ、二重掘にても既に味方追崩され、秀吉公御気色悪かりしに、忠興君御手にて敵を
追い返し、勢ひつくのみならず、…
徳川家の軍勢小牧山より打ち出て二重掘の前に一戦せんと備ふ、秀吉公下知には敵馬を入れ来らは成へき程折敷て防くこと、…
二重掘の神子田半左え門一戦にも及ばず敗走す、寄手是を追討…神子田、太閤の御勘気を蒙ると云々…
二重掘の軍勢周章して伍を乱す、信雄兵其の気に乗じて攻撃多く首級を得たり、
0134人間七七四年
2013/06/14(金) 02:08:29.87ID:xj6Tnt3N家康相手に大敗して1万人も大損害だしたから怖くて近づけなかっただけ 大垣から蟹江なんてすぐだからな。いこうと思えばいつでもいけた
二重堀合戦が史実な証拠として神子田が改易され、信雄から感状もでてる
愛知県史資料編867〜869で滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事を伝えてるんだろうが
蟹江が何も意味ないなら出陣日改める必要なし。蟹江を落とせれば清洲と長島の分断&北だけでなく西からも長島を包囲可能
蟹江は秀吉がいた大垣から眼前の距離 谷口氏の論文や愛知県史資料編が位置づけているとおり蟹江合戦が秀吉の三河侵攻計画や
領国分断作戦の一貫の証明。大体滝川はただ協力してるだけじゃねえだろうが
前年に秀吉に降ってれっきとした家臣だろうが 独断で行動してたとするならそれこそ証明が必要
>>6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら 討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる なんかとんでもない戦略音痴がいてワロタ
秀吉の戦略が長島への中割だったら、蟹江城はなおさら重要地点だろ
体調が悪いからとかんなもんただの言い訳だろ.最初から会戦しないか部下にまかせりゃよかっただけ
徳川方は春から特政・信雄領国は伊勢のみならず尾張でも会戦当初から寝返り続出と不利な条件だったんだから
夏の対陣のときでも徳川方は兵の半分を返していて(家忠日記)
総勢一万足らずだったとあるしな(当代記) 体調が悪かったなんて事書かれた史料あったっけ?
「見舞い」の事だったら戦場見舞いの事じゃないの?
大阪の二度目の対陣は蟹江合戦の敗戦により三河侵攻計画の前哨戦が頓挫したからだと
愛知県史資料編が位置づけている あと二重堀合戦は家忠日記にある
>>つか秀吉は滝川を無視して納馬
家康相手に大敗して1万人も大損害だしたから怖くて近づけなかっただけ
大垣から蟹江なんてすぐだからな。いこうと思えばいつでもいけた。二重堀合戦が史実な証拠として神子田が改易され、信雄から感状もでてる
0135 忍法帖【Lv=2,xxxP】(1+0:8)
2013/06/14(金) 02:09:42.34ID:iNdLWKFo0136人間七七四年
2013/06/14(金) 02:54:01.04ID:xj6Tnt3N蟹江が何も意味ないなら出陣日改める必要なし。蟹江を落とせれば清洲と長島の分断&北だけでなく西からも長島を包囲可能
蟹江は秀吉がいた大垣から眼前の距離
谷口氏の論文や愛知県史資料編が位置づけているとおり蟹江合戦が秀吉の三河侵攻計画や
領国分断作戦の一貫の証明だろうが 。大体滝川はただ協力してるだけじゃねえだろうが
前年に秀吉に降ってれっきとした家臣だろうが 。独断で行動してたとするならそれこそ証明が必要
>>秀吉の戦略は下記であり、滝川の行動は秀吉の戦略外だ。
>>6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
0137人間七七四年
2013/06/14(金) 03:17:47.81ID:xj6Tnt3N信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状 これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ 際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で 終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
お前は時系列を全く理解できていない馬鹿だから長久手町史資料編でも読み直して出直してくれ
あと楽田に留守居兵2万もいたのもしらんとか馬鹿すぎる
蟹江合戦が秀吉の敵地分断戦略の一環なのもしらんとか馬鹿すぎ
>>長久保落居
落居って言葉がこの攻防の中何回か使われてるが城が落ちたとき以外使用されていない上に
織田・徳川方が蟹江落としたときも城という言葉省略で落居といってるし秀吉も「城」という言葉省略しまくってる
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
お前は全体的に秀吉側に都合のいい妄想しか言えない馬鹿だから1から勉強し直せ
秀吉マンセー側史料の太閤記なんだから秀吉に不都合な話は信用できるだろw
谷口央氏も長久手町史本文編でこの軍事行動は敵地分断戦略の一環だと書いてるし
位置的にも当時秀吉が駐在していた大垣から程近く
滝川が退去したのは折角危険極まりない行動したのに秀吉が見捨てたから単独で抗戦不可と判断したからだろう
0138人間七七四年
2013/06/14(金) 03:26:22.43ID:xj6Tnt3Nお前がな
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
お前は史料もまともに見取らんチンカスだから一から出直せこのタコ
楽田近辺に2万以上秀吉方留守居兵置かれてた状況無視して暴論だな
信雄がそんな追い詰められてるなら家康が美濃方面に石川派遣して秀吉方を攻撃するわけないし
あと秀吉の納馬の先が大阪ではなく縄生だというソースは?
ただ程近くの場所に一時退却するだけで納馬なんていわないだろ
あと当代記や三河物語でも信雄が勝手に和議を結んだので家康もそれに従うほかなくなったと書いている
講談だろうとなんだろうと成立年代も木造記と同じ
木造側に不利な要素だからといって木造の軍記を引用してた馬鹿に
秀吉側に不利な要素だからといって秀吉軍記引用がどうとか突っ込まれる言われはない
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状の事か。
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけだろうが
実際秀吉の予定とは全く別 何の根拠にもならんよ
楽田留守居部隊放置して東美濃やら多方面にただでさえ少ない兵力さいて
転進したら楽田留守居部隊や美濃方面留守居部隊に追撃されて撃破されるか
小牧山やら清洲陥落させられてゲームオーバ。
美濃なんて高木や遠山・小里など一部除いて秀吉方
で背後の木曽も春に秀吉に寝返ってる状況
木造記って別名木造軍記ともいうものなんだが?ソースは伊勢北畠氏の研究
木造記成立の論考
>>土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
0139人間七七四年
2013/06/14(金) 03:48:29.73ID:xj6Tnt3N史料を読む限り圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝して騙しまくって誤魔化していたか「わかる」
3月26日⇒佐竹
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
4月8日秀吉⇒毛利輝元
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww
5月9日 秀吉→毛利輝元
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
9/8秀吉→丹羽、前田 9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた
11/13
家康が懇望してきたので同意してやった
なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認??????
明らかにデタラメ
0140人間七七四年
2013/06/14(金) 03:50:45.69ID:xj6Tnt3N佐竹や毛利や上杉相手にデタラメ戦果書きまくって必死に家康の味方にならないよう気遣っているのに
どこが余裕なんだよアホ
>>家康が長曾我部や北条の援軍が来ないと何も出来ないヒッキーに過ぎないのが判明してるんだけどな。
わずか8000程度の兵力で10万〜135000の秀吉にまともに対抗できるわけねーだろアホ
>>完全に追い詰められた家康ってのが事実。
むしろこんな圧倒的有利な兵力差&状況&信雄領国からも寝返りばかりで
今川氏真が指揮取っても勝てそうな状況で長久手で大敗、その後の攻防も終始苦戦して1年かかって
基盤ガタガタな尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
>>秀吉は丹羽を北陸に派遣する兵力的余裕すらあり、
兵力差がめちゃめちゃ違う上に外交でも優位に立ったんだから当たり前だろアホ
>>また秀吉は人質を取っての戦勝和睦が成立したと思ってたら、家康が騙していただけだったりと
9月時点で信雄・家康の人質出しての懇望を聞かずになぜ11月になって 秀吉が素直に言う事聞くのか不明
もし秀吉の言うとおりならよほど織田徳川に苦戦しまくってた証拠
>>切羽詰まっていた家康が誤魔化しまくっていたのが現実。
史料を出して詳しく解説してくれ
>>ロクに援軍出さないため次々と家康は味方の離反を受け、
楽田に留守居部隊2万も置かれてるのに簡単に動けるわけねーだろアホ
>>ついに信雄まで家康の援軍が期待出来ずに屈服。
信雄は浜田も松ノ木も戸木も長島も落ちてないというか砦築かれただけで攻められてもない状況で
苦戦しまくってた秀吉が諦めて納馬しようとしてたところにヘタレ降伏してきただけで家康の動きとは関係ねーわアホ
>>屈服後は家康の味方の紀州や越中まで信雄が家康から離反させるなど信雄からも追い詰められる始末。
家康の和議を屈服などと歪曲支店じゃねーよアホ
なぜ和議結んだのに単体で8000そこそこしか出せない状況で13万の秀吉に歯向かわなきゃ無能になるんだアホ
>>信雄が入っていて(秀吉の雑賀攻めに信雄も参加)秀吉方の人質要求を家康に出すように伝えたりと
>>完全に信雄を折衝道具としての条件闘争をしているだけ。外交技術として強気の姿勢を示してるだけ。
いやいや何の史料だったか忘れたが実際に迎撃計画はあったな
>>実際は、佐々や長宗我部や紀州勢を家康は見捨ててる。
そりゃ和議を勝手に反故にして単体で秀吉に歯向かう程馬鹿じゃないだろ
>>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してる
これは単なる小荷駄隊要因。家康の軍勢は夏に半分を返していて夏の対陣のときわずか1万たらずだったのが
当代記や家忠日記でわかる
0141人間七七四年
2013/06/14(金) 04:47:18.75ID:OaMEP+Jp自分の妄想のために教科書まで捏造してたのに
それがあっさりと否定されてしまった事件を忘れ去りたいんじゃね?w
0142人間七七四年
2013/06/14(金) 09:57:33.97ID:xj6Tnt3N>>紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
虚勢じゃないから秀吉が母と妹出すまで上洛拒否を貫き実際に城の普請や修築や軍備整備なども行っている
>>だから家康を見限って木曾小笠原真田水野石川らが出奔した結果となったんであって
木曽は前年小笠原との領土内の問題で離反。真田も北条との上野問題で離反
小笠原は石川が小笠原の人質連れて出奔したから離反。石川は小牧長久手時で
すでに篭絡されつつあったから家康が同盟者を見捨てたこととは直接関係ない
>>家康が優位なんてバカなことはない。しかも酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。
そりゃ信雄が勝手に和議を秀吉と結んだ事に端を発するというだけ
>>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
家康の軍勢の大半は領国に残されており夏の対陣の時はわずか1万足らず(家忠日記・当代記・御当家記念禄・御年賦徴考等)
年奇衆への軍役は単に小荷駄隊の役目と本多氏が書いている
>>秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。
そら圧倒的兵力差なんだから余裕あるに決まってるだろ
>>三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
>>家康もこれ以上の戦争継続は不可能だっただろう。
開戦前から徳政の連発で領国は困窮している。会戦時に家康が大軍を動員したなんて書いてる資料は一つもなく
圧倒的に寡兵であったのが徳川軍。元々貧国しかないしな
>>で、結局、北条の援軍こなかったよねw信玄西上の時は北条も援軍出しているのにw
当たり前。北条はあの時点で仮想敵国みたいなもので同盟関係にもかかわらず書状のやり取りが少ないばかりか
家康は北条の敵対者皆川や佐野などと頻繁に連絡をとっており氏政がたくらみの深い武将で家康の留守居をついて
駿河に乱入するとの風聞も垂れ流されて家康はそれに備えて軍勢を領国に多く残していたほど(御当家記念禄・御年譜徴考・小牧陣始末記など)
0143人間七七四年
2013/06/14(金) 10:21:50.34ID:xj6Tnt3Nそもそもお前は一次資料を全く読んでいないのがミエミエ
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
0144人間七七四年
2013/06/14(金) 10:40:05.92ID:cTRtnyPR164 : 人間七七四年
>>161
その佐竹の史料とやらの日付と誰から誰に宛てられたのか、
またその内容の元文をここに転記してくれ。
2013/06/13(木) 21:20:58.79 ID:f+CfCaBx
165 : 人間七七四年
>>161
>>豊臣方は6月時点で兵糧不足
そんなわけないな。6月には北条降伏を待たずに早くも翌月の奥羽征討別働軍を派兵する計画を発表してるのにw
6/14には奥羽征伐のための偵察先遣部隊の蒲生氏郷が早くも陸奥国二本松に到着の書状(政宗はいまだ長井郡〜大崎葛西あたりにいた)
これを受けて6/15には浅野長政が八戸らへ家康・秀次の先陣による7月上旬の奥羽平定出馬宣言。
6/20には部隊編成計画を秀吉が発表(奥州奧郡為仕置被指遣御人衆道行次第)
7/4あっけなく小田原降伏。
7/7奥州出羽仕置の方針について政宗の意見を参考にしたいと秀吉から御内意があったと
旧葛西家臣富沢直綱に正宗がウソを吐く(自筆書状なので用心のためすぐに火の中へ入れて燃やせと書く)
7/11氏政・氏照らが切腹。7/13秀吉が小田原城検分と家康の関東転封命令。
7/17秀吉も小田原を発し奥州に向かう。7/26秀吉が宇都宮に到着。
>>160
>>豊臣方は単純計算で兵力60万だな。那須記にも豊臣方は兵力50万とあるし榊原書状にもあるし。
>>小田原城に篭城してる北条兵力がたった1000
あぁ!?ここでは29万と下方修正して主張しとんのかこの在日アホ織田チョンw根拠がないから都合で兵力をかえてるだけだなw
そもそも当時の城外駐屯技術面・病気などの衛生対策・排便処理能力ではそんな馬鹿な大兵力は非現実的であり、ただの妄想だwwww
どんな本を見てもせいぜい20万前後だ(前田・上杉の北陸軍も含めて)
北条兵力もいつのまにか34500に変更しとんのかwww
0145人間七七四年
2013/06/14(金) 10:44:30.92ID:xj6Tnt3Nそれも底を尽き雑炊一椀が10文になっていおり長陣は無理」の書状があるな
>6月には北条降伏を待たずに早くも翌月の奥羽征討別働軍を派兵する計画を発表してるのにw
後から届けさせるか現地調達のつもりだったんじゃね
>そもそも当時の城外駐屯技術面・病気などの衛生対策・排便処理能力ではそんな馬鹿な大兵力は非現実的であり、ただの妄想だwwww
根拠なし。朝鮮というはるか彼方にすら30万以上の兵力をかなりの長期に渡って派兵し続けたし関が原の戦いでは畿内方面だけで西軍は18万もいたんだし(三成人数書立・慶長見聞集)
北条領国200万石に対し豊臣方は日本全土味方なんだしそれくらい余裕で可能
>>どんな本を見てもせいぜい20万前後だ(前田・上杉の北陸軍も含めて)
お前は馬鹿だな。豊臣方作成の陣立書で215000を動員してるのが確認できるしこれに佐竹結城宇都宮那須里見など関東の反北条勢2万+奥州の諸侯で最低でも25万は超える
享禄以来年代記によると29万動員してるとあるし那須記や榊原康政書状だと50万騎。しかも兵糧を20万石以上用意しながらわずか3ヶ月程度でなくなりかけてたんなら普通に単純計算で12ヶ月÷3=4
四×20万で80万くらいいた事になるなw
>>北条兵力もいつのまにか34500に変更しとんのかwww
はぁ?いつの間にかも糞も最初からそう言ってるだろ。天正壬午の時の若御子の対陣の兵力が2万だった事や(家康書状)北条は村落の欠落が目立ってた事。関東は実は貧困だった事や
北条家人数覚書・関東八州諸城人数覚書からその数字が妥当
>農民町人も関係なく15歳から70歳男子を対象に郷へ動員かけてるのに
農民町人なんていても作業普請くらいしか戦力にならないししかも北条領国では防衛体制構築のため天正14年か15年頃からその動員がなされており
この頃になるとかなり領国が疲弊して村落の欠落が目立って来ている
>秀吉軍相手の小田原城に篭城してる北条兵力がたった1000とかそんな少ないわけねー
関東八州諸城人数覚書・北条家人数覚書その他もう一点の資料にある
>小田原惣構え内の男子ですらもっといるだろw(池亨氏曰く、兵士2〜3万、普請に従事する百姓町人も入れて6万が小田原城に篭城していた)
根拠なし。太閤記の糞講談妄信の馬鹿学者乙
>>(黒田基樹氏曰く、北条の正規兵5万2000人+用兵の雇用や百姓軍役徴発がさらに追加で加わったであろう)
北条200万石程度でそんなありえない巨大兵力だせるわけねーだろクズ
天正壬午の時ですら昔は4万とか5万とか軍記ソースのデタラメ数字が並べられてたが最近の研究で2万(家康書状)とされてるし沼尻の戦いの時も同じような数字だし
そんなに出せたら豊臣方は200万騎くらいだせるわw
>城詰め兵力をゼロにして最前線防御線に全員配置の単純計算で、9mあたり1人で防御担当をしてた薄氷防衛ラインが9キロもあった計算になる
そんな所も瞬殺できないからこそ秀吉は雑魚といってるわけで。
0146人間七七四年
2013/06/14(金) 11:34:26.93ID:cK/63bn/0147人間七七四年
2013/06/14(金) 11:38:47.68ID:xj6Tnt3N顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
0148人間七七四年
2013/06/14(金) 12:51:02.84ID:xj6Tnt3N信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
秀吉が苦戦しまくったのは長島じゃなく
松ノ木・戸木・東駒野・河波・二重堀・浜田など小城軍だろ
おまけに長久保・蟹江などは秀吉本陣のすぐそばにもかかわらず奪回されている
ガチンコで秀吉がこれらの城を攻めまくってるのは>>129-131などでわかるし
これらの城軍を抜く事ができなかったからこそ寝返りばかりでガタガタな尾張半分すら切り取れなかったというだけ。
こんな小城郭で手間取ってるようじゃ長島攻めるどころじゃない
0149人間七七四年
2013/06/14(金) 12:55:03.08ID:xj6Tnt3N愛知県史資料編表題部や長久手町史通史編の谷口氏が領国分断作戦の一貫と書いてるし
秀吉がいたと思われる大垣と蟹江なんてすぐだし秀吉は滝川退城により三河侵攻を中断・延期してるから
三河方面への足がかりと容易に想像がつくしそもそも滝川は秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要
直接のソースはなくても上記のように秀吉の作戦なのは自明
>>(多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない)
その滝川の調略が本人の意思なのか秀吉の戦略なのかは別問題
>>当然のように危険極まりない行為をしたために
秀吉陣がいる尾張や美濃から蟹江なんて程近くなのに危険どころか大チャンスとしか言いようがない
>>16日夜に入城したものの18日には家康に即襲撃されて
その間に秀吉が後詰せずまた楽田方面からも軍勢出さなかったから負けただけ
そもそも滝川と九鬼って同盟者でも臣従関係でもないのに秀吉の意思がなかったら
九鬼が兵出すわけないだろ
伊勢の楠本に26日大阪に28日で其の前ずっと佐和山にいたんだから位置的に余裕で後詰できたのにな
家康が怖くなって逃げ出しただけだろ
>>お前さ、二重堀合戦の日付はいつだと主張してんの?
>>細川家記が言う5月朔日に家康の反対を押し切り
細川家記の日付が間違ってるだけだろ。家忠日記に楽田筋へ働きどうこうって4/26にある
>>信雄が攻め寄せ木村や長谷川らと混戦になり神子田が戦わずして敗走したことが原因で、
>>羽柴方が追い崩され秀吉の不興に思っていたところ細川が奮闘して信雄勢を追い返したと細川家マンセー話を捏造してるが、
神子田がいなくなったんだから史実だろ。三鬼氏もそう書いてるし
>>この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ。
滝川家臣でもない九鬼が行動している事・秀吉が三河方面への侵攻計画を一貫して表明してる事
秀吉が滝川退城によって三河方面攻撃を延期し信雄攻撃に切り替えた事・滝川は協力関係でも何でもなく秀吉の家臣である事
から秀吉の作戦だと容易に想像がつくし愛知県史資料編も谷口氏もそう結論づけている
>>滝川が自分の意思で調儀しただけで、
>>(6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで秀吉は何も知らないし何の準備もしてないし
その調略が秀吉の意思か滝川の意思かどうかとはまた別問題。現場に秀吉がいなくても秀吉の指示で行動なんて
全く矛盾もしないしそもそも総大将が調儀で敵陣中に城乗っ取りなんかできないから滝川が得意の調略で大チャンスつくっただけだろ
>>信雄と家康の軍に挟撃されている場所へ入城すると言う当然のように危険極まりない行為をしたために
危険極まりないどころか秀吉方拠点から程近くなんだから大チャンスだろ
蟹江から大垣なんてすぐだし尾張の秀吉方拠点からも近いだろうし
>>滝川は16日夜に入城したものの18日には清洲からわずか三里のため家康に即襲撃されて
秀吉が後詰しなかったからだろ
>>19日の家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて
>>滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw
秀吉は其の間なにやってたのって話だわな
佐和山に22日→伊勢楠本26日→大阪28日で逃げるように退却していったのが秀吉
>>当の秀吉は蟹江城なんて援軍すら送らずまったく気にもせずに
ようは家康が怖かっただけ。7倍も兵力ありながら1万も殺されたんから当然だが
>>長島への中割戦略の成功たる竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だしよ。
長島への中割という割りに結局秋に信雄がビビッてヘタレ降伏するまで
5か月もようしているのは蟹江の敗戦が原因。これにより三河方面への攻撃は頓挫し延期
どうみても秀吉の失態です。
0150人間七七四年
2013/06/14(金) 13:47:46.48ID:xj6Tnt3N家康相手に大敗して1万人も大損害だしたから怖くて近づけなかっただけ 大垣から蟹江なんてすぐだからな。いこうと思えばいつでもいけた
二重堀合戦が史実な証拠として神子田が改易され、信雄から感状もでてる
愛知県史資料編867〜869で滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事を伝えてるんだろうが
蟹江が何も意味ないなら出陣日改める必要なし 蟹江を落とせれば清洲と長島の分断&北だけでなく西からも長島を包囲可能
蟹江は秀吉がいた大垣から眼前の距離 谷口氏の論文や愛知県史資料編が位置づけているとおり蟹江合戦が秀吉の三河侵攻計画や
領国分断作戦の一貫の証明だろうが 大体滝川はただ協力してるだけじゃねえだろうが
前年に秀吉に降ってれっきとした家臣だろうが 独断で行動してたとするならそれこそ証明が必要
>>秀吉の戦略は下記であり、滝川の行動は秀吉の戦略外だ。
>>6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした 『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる 六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。
0151人間七七四年
2013/06/14(金) 13:48:49.49ID:xj6Tnt3N上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
0152人間七七四年
2013/06/14(金) 14:03:10.30ID:xj6Tnt3N萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記
[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記
[参考]柏崎物語
【管理番号】020100216456
【編/冊/頁】10編911冊179頁
【綱文和暦】天正6年6月21日(15780060210) 3条
【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書
天正6年8/21
今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、
成田五郎左衛門尉秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八
敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門
桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候
天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿
輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少
如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉
去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉
去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉
去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状
一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉
態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元
去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
0153人間七七四年
2013/06/14(金) 14:04:17.75ID:xj6Tnt3N宮部らに島津が苦戦して退却して勝手に退却しただけ
たかが数度って全体でみても要衝要衝で負けて全然うまくいっていないんだが…
信雄…伊賀攻めで大敗、一般的に暗愚の将の評価
輝元…辛川合戦・加茂崩れを始め宇喜多相手にボコボコ。大友には九州の国人思いっきり寝返らせて攻め込んだのに連戦連敗
氏政…上杉が例年侵攻してきたとはいえ佐竹・里見相手に1565年頃から1588年頃までずっと侵攻に梃子摺る(途中で負けも何回かあり)
輝元の場合国中総動員しての戦いで宇喜多や南条に敗北したり撃退されたりしてるからね
秀吉からすりゃ熊見川で自分を蹴散らした相手がまさか20万石そこそこの宇喜多や5万石程度の南条に苦戦する雑魚だとは思わなかっただろうな
秀吉は宇喜多・南条・大友・尼子・河野などに蹴散らされまくった雑魚毛利にも大敗した雑魚
毛利が宇喜多や南条に足を取られた隙に居留守泥棒的に鳥取・三木を掠め取ったいいが
備前・美作方面に出兵すると大苦戦
元々中国東部は尼子残党山名荒木別所などのゴタゴタで調略が有効に効きやすい
絶好の相性の場所だからなんとかなっただけ
秀吉はヘタレ毛利が上月を攻め落とし織田軍を蹴散らしたのに
安芸からの兵站の長さを理由に退却する雑魚っぷりを披露し
毛利つかえねぇwwwwとみた南条・宇喜多が離反し
毛利は数倍の国力がありながらこいつらに大苦戦。
その隙に織田方は兵糧切れの三木・同じく織田方に裏切ろうとした山名が米を売るなど物資貧困状態の鳥取などを
火事場泥棒
この頃毛利は宇喜多に数倍の国力差がありながら加茂崩れ・辛川合戦で大敗するなど苦戦しまくり翻弄されまくり備前はおろか
備中・美作でも劣勢だったがこの窮地を救ったのが鳥取を火事場泥棒した秀吉が宇喜多方に歩調を合わせ参戦してきた事で
宇喜多は戦闘ゴミレベルの秀吉のせいで忍山・祝山攻防などで大敗し窮地に陥る
備中高松の時も、秀吉は宇喜多単体で翻弄しまくっていた毛利に対し「うわwwwこえぇwwww」と
膨大な金銭や人員や時間を犠牲にし雨が降らなければ失敗していたであろう水攻めという博打に打って出るが
気概0のヘタレ毛利にはこの策が功を挺し廻りが離反だらけで劣勢な中、単独で宇喜多・羽柴を撃退するなど功を上げていた清水宗治を見事に見捨て、高松は落城。
多々良浜では立花城をとられた後はに道雪が小早川隆景隊を破ったり
大友が優勢な戦いが多いからな。それで援軍送ろうとした毛利の隙を突いて大内輝弘送って、
撤退に追い込み、吉弘鎮信隊(弟の紹運も所属)が中心に追撃して3491人を討ったとされてる
そもそも豊前や筑前は大内滅亡まで大内領だったし、立花などの飛び地以外に大友の直轄領なんてほとんどなく、旧大内勢力反大友の敵対国人ばかりの地。
水軍力の低い大友は山がちの豊後の峰や谷を越えて長駆、筑前や豊前北方へ進軍しなきゃならない一方で
毛利は瀬戸内海水軍を勢力下に長門から隣接した豊前北方へ上陸できる。
豊前と長門の間の海峡は非常に狭い運河であり、兵糧補給の面でも地理的にも毛利勢力の方が非常に近く有利に戦える。
さらに君は高等な外交戦略>>超えられない壁>>戦略的失敗の不利を覆す戦術でしかも、戦略的失敗を戦術的勝利の積み重ねで挽回することはまず不可能なのに
戦術で押されて外交戦略で「なんとか毛利を撃退」っておかしな事を主張してるのは失笑。
毛利が大内を滅ぼす際の約定がありながら元就の一方的裏切り奇襲で落とされた門司城を奪回したのは道雪だし、
門司奪回に大軍で来た毛利に対して、道雪の弓隊の破壊力に押されて毛利の進軍がストップし停滞したのが実態。
宇喜多との戦いでもあれだけ国力差ありながら一進一退どころか
総軍で挑みかかって虎倉で大敗したりして備前はおろか備中や美作でも劣勢な時期もあったくらいで
蹴散らされまくってるとしかいいようがない
0154人間七七四年
2013/06/14(金) 14:05:55.70ID:xj6Tnt3N遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。
秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる 秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
兵力差8倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし
家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか
それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい
結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな
木曽川筋のわずかな城を落としただけで
南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして
権力基盤が弱い信雄領国を荒らしまわってたら信雄がびびって降伏しただけだし
織田家中の実力でいえば
柴田・明智・滝川>佐々・佐久間(信盛)>佐久間盛政・蜂谷・森(父)・稲葉・宮部
池田・丹羽>川尻・前田・蒲生・森(子)>日根野・神戸・関>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
秀吉は織田信雄より戦下手。 信雄家臣の木造親子や吉村氏吉に大敗。 二重堀合戦で信雄にも大敗し楽田から敗走した。
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな 織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して 大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反とそれによる領国軍事機密露見と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほど
ヘタレぶりだったし。 まあ毎度の事だけど
○秀吉は城攻めがうまい→デタラメ。松ノ木・三木・戸木・長久保・韮山・鳥取など大苦戦
圧倒的資金力と人心掌握と大規模軍隊が必要な水攻めや兵糧攻めや降伏勧告で楽に勝ってるだけ
○秀吉の一夜城→一次資料にない太閤記のデタラメ
○秀吉の中国大返し→事前に兵糧・街道確保など準備してたからできただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
0155人間七七四年
2013/06/14(金) 14:31:42.63ID:xj6Tnt3Nわずか22000程度で寝返り続出中で基盤ガタガタの信雄相手に大敗!!! 敗戦!!!!
ってまるで漫画だな。
アホすぎる
さすが戦国最強豊臣軍
天正11年の滝川征伐でもボロクズのようにやられてるよ
3/4柴田勝家→填島宛書状・滝川一益事書
大軍率いて滝川軍を攻め崩そうと出てきた秀吉は桑名攻防で一益の鉄砲隊と足軽隊を交差した奇襲戦術にあって大苦戦
結局柴田が倒れて単独で抗戦しきれなくなって降伏しただけだしそれまで兵糧攻めにしようとしても
抗戦が激しく手に負えない状態だった(桑田氏論文)
秀吉は宇喜多・南条・大友・尼子・河野などに蹴散らされまくった雑魚毛利にも大敗した雑魚
毛利が宇喜多や南条に足を取られた隙に居留守泥棒的に鳥取・三木を掠め取ったいいが
備前・美作方面に出兵すると大苦戦
元々中国東部は尼子残党山名荒木別所などのゴタゴタで調略が有効に効きやすい
絶好の相性の場所だからなんとかなっただけ
毛利輝元って大友や尼子残党や宇喜多や河野やらに苦しめられまくった戦国屈指の凡将なんだが
秀吉にだけは勝ててるんだよな。熊見川・祝山・備前児島をはじめ美作攻防。
宇喜多も不運だったわな。単体なら勝てる相手に秀吉が出てきたせいで足引っ張りまくって。
総大将は輝元だし両川は熊見川でも美作攻防でも目だってないどころか
吉川は南条に攻略失敗(毛利方史料では数多討ち取りなどとでっち上げているが撃退されてるのが実情)
小早川は20万石そこそこの宇喜多相手に備後だけではなく毛利領国の軍まとめて攻め込んだのに辛川合戦・加茂崩れで大敗するなど
ボロクズのように雑魚っぷりを披露していたからな
0156人間七七四年
2013/06/14(金) 14:32:57.93ID:xj6Tnt3N終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。秀吉は黒田や丹羽宛書状などで神戸・関・田丸・信包など信雄方諸将に指示を出している
また家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると 圧倒的不利な状況で会戦
>>129-131を見ればわかるように長久手の戦い後あれだけ圧倒的兵力差がありながら膠着状態に陥っている
んで、結局秀吉は松ノ木戸木蟹江東駒野河波二重堀と攻略失敗。おまけに蟹江・長久保は奪回される始末
寝返りばかりで基盤ガタガタな無能信雄の領国を7〜8倍の圧倒的大軍で攻め込んで
尾張半分すら切り取れずヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人 4/10家康書状一万人 4/11家康書状一万人 4/13北条氏政・氏直書状1万人 5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人 5/7織田信純書状一万人 家忠日記1万五千余り 顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人 フロイス日本史一万人 当代記2万人 池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
0157人間七七四年
2013/06/14(金) 15:32:53.28ID:xj6Tnt3N当たり前だろアホ。7〜8倍もの圧倒的兵力差で敵地の信雄・家康を分断できる大チャンスを
滝川・九鬼が作ったのに秀吉は自軍総決戦で望んだ長久手戦で信雄に1万人討ち取られる大失態演じてしまったために
秀吉のいる大垣から程近くの蟹江にいる滝川を見捨て結局7月の三河侵攻計画は頓挫。その後の夏の攻防でも家康方は長陣の疲弊により
兵力の半分を三河に帰し今まで以上の圧倒的兵力差にもかかわらず尾張口を突破できず退却
>>家康が信雄を救いに行かずに降伏に追い込まれたことはあんな危険なとこに行く方がバカとか
小牧山近辺の秀吉方城郭に2万人も留守居兵残されてるのにどうやって信雄助けにいくんだアホ
>>平気で矛盾する発言をしたり、
何が矛盾なんだ馬鹿が。両者の圧倒的兵力比と寝返りだらけでガタガタな状況考慮もできねーカスが
>>〜だったからなど家康に関することはことごとく言い訳を連発して、
>>家康から離反しまくりの状況が、家康が引き込もって助けに行かずに
家康からではなく信雄からだろ。しかも>>184のように木曽も毛利も田丸も神戸も信包も池田も森も3月に寝返ったから
家康の動きと関係ねーわアホ
>>どんどん追い詰められ、
どこが追い詰められてるんだアホ。蟹江も長久保も長久手・羽黒も戸木も松ノ木も東駒野も河波も浜田も
皆秀吉方が攻略失敗して退却していっただけだろうがアホ
>>自軍有利を演出するためにずうっと過剰戦果の一万人討死させたから長曾我部くん早く助けてのループ。
自軍有利どころかむしろ2万人くらい戦死してそうな長久手を1万人戦死でとどめてるんだから過小戦果だろ
秀吉の方がほんのさわりにもならないだの家康が相手にしないだの必死にいいつくろって敗北を隠蔽するのに必死だったじゃねぇかw
佐竹宛書状などでも>>140のようにデタラメはきまくってるからいかに秀吉が必死に諸大名をつなぎとめようとしてたかわかる
>>長曾我部もまともに信じず、
ソースなし
>>最後は北条が援軍出すからと、
北条の援軍なしに単体で8000程度で立ち向かえるわけねーだろアホ
>>ひたすら他力本願を繰り返す家康。
7〜8倍もの圧倒的大軍がありながら佐竹木曽上杉毛利宇喜多河野十河ら諸大名に頼りまくって
必死に誇大喧伝と敗北隠蔽を繰り返して繋ぎとめようとしていたのが秀吉
>>秀吉の挑発からひたすら逃げまくりの家康。
蟹江合戦で眼前にいる家康から敗走。長久手合戦後も結局楽田から敗走
夏の対陣でも眼前にいる家康に何もできず敗走。家康が怖いので
基盤ガタガタで寝返りの応酬だった信雄領国を攻めたら松ノ木戸木蟹江二重堀河波浜田東駒野と
攻略失敗&敗北し続けあれだけの兵力差で1年使って尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>>信雄マンセーとか無理やり過ぎて笑えるw
信雄は伊賀攻め失敗の戦国屈指の凡将だがその雑魚に負けまくったのが秀吉(お前の言うとおり家康は引きこもってただけで特に何もしていない)
>>自軍有利を演出するためにずうっと過剰戦果の一万人討死させたから長曾我部くん早く助けてのループ
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして 圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々 これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる 必死な政略的宣伝工作かがわかる。
なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから 異常に少なく見積もられてるだけだろ
実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな 長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
0158人間七七四年
2013/06/14(金) 17:58:47.89ID:qxQ24IeI0159人間七七四年
2013/06/14(金) 19:09:29.82ID:xj6Tnt3N家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
>>実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字だよな。
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる
>>必死な政略的宣伝工作かがわかる。
>>しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して、
>>同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ、
>>秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
0160人間七七四年
2013/06/14(金) 19:10:00.29ID:xj6Tnt3N何せこの後は7倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
0161人間七七四年
2013/06/14(金) 19:11:13.33ID:xj6Tnt3N羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
0162人間七七四年
2013/06/14(金) 19:41:52.21ID:2zvOSshS0163人間七七四年
2013/06/14(金) 21:20:31.81ID:ViOtPCRkrHkTlPbyはなかなか秀吉の才覚を詳しく知ってるようだな。
秀吉を語れるほど知ってる人少ないし、
在日が暴れて秀吉スレはことごとく崩壊してて困るわ。
秀吉の物流革命と言えば、信長死ぬや早くも
天正10年10月には京の出入口に設けられていた関所を廃止し(禁裏領率分関)、
信長のやり方の否定を開始し、次々と経済振興策を繰り出し始め、
ついには「公家•武家•地下商人に至っては諸役を止め、座を破らる。
これに依りて悦ぶ者多く悲しむ者少なし」
などと秀吉の政策は激賞され、
「日本国の諸役、京のみいり(関銭)、兵庫の関、津々役儀かくのごとく往古より有り来る役さへあがり候処」と宣言し昔からあり続けた税の免除を開始。
「日本国諸役悉く上げ申し候処」
関所や港で商品にかける役銭をはじめとして日本国中のすべての役の賦課権を没収するまでに至り、空前の活況を示した。
信長のもとで関所や座の組合が経済活動を押さえ付けていたが(薄と言う公家が牛にまで税を賦課していたのも秀吉が完全廃止した)
これにより自由往来と自由通商が可能となり瀬戸内海から伏見〜京への河川流通網整備のため大河治水が開始された。
これが桃山文化と呼ばれ日本各地で城下町が整備され、
日本史史上最も派手で豪勢な時代と言われている。
0164人間七七四年
2013/06/14(金) 21:29:29.80ID:CMbKs9dS頭オカシイのをひけらかして馬鹿なの?死ぬの?
0165人間七七四年
2013/06/14(金) 21:30:17.34ID:7W/bQBf10166人間七七四年
2013/06/14(金) 22:09:54.38ID:xj6Tnt3N4/20 秀吉→上部 秀吉が在陣する尾張方面では、普請など堅固に申し付けている旨を報ずる
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
6/2信雄→吉村 松ノ木への玉薬を送付
6/7秀吉→前田 尾張河波を敵城を全て攻略する意思である旨を報じる
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する
6/28家忠日記 楽田へ小牧衆(小牧城に在陣している家康方兵力)が物見に出かけ秀吉方と交戦した
7/7秀吉→小野木・大塩・津田・富田 神戸城の守備について滝川益重を派遣する事を報ずる
7/7秀吉→一柳 蟹江落城により、蟹江に対する秀吉方拠点として神戸城に秀吉から軍勢を派遣することを報ずる
7/7蜂須賀→南条元続 秀吉方諸将は尾濃境目の城に在陣している。数日中に秀吉が伊勢へ出兵する旨を伝える
7/9秀吉→分部 神戸方面へ敵(信雄方兵力)が出兵してきた旨を了承
安濃津・上野城に敵が出兵してきたら秀吉が出兵して討ち果たす事を伝える
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
んで結局1年一杯使っても上記の城は攻略ならず。寝返りだらけでガタガタだった信雄領国を
8倍もの圧倒的大軍で攻め込んで結局尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
0167人間七七四年
2013/06/14(金) 22:11:03.93ID:xj6Tnt3N7/10信雄→吉村 尾張から伊勢まで南下して放火した
7/12家康→木造 戸木城への兵糧搬入が困難である。戸木城を堅固に守るよう指示
7/14秀吉→津田 浜田之古城を信雄方が攻略した旨を了承。信雄方にとって菅生砦へのつなぎの城になるだろう
との考えを示す。明日美濃へ行くので神戸城で大方申し付けたならば、神戸城の一柳・小野木は美濃の秀吉陣所
へ来るよう指示
7/15家忠日記 秀吉方兵力が物見に出てきて家康方と交戦した
7/17伊勢から帰った家康が在陣する清洲へ出仕。軍勢半分を返す
7/18信雄→吉村 秀吉が曽根に到着し松ノ木の吉村に調略を仕掛けてきた知らせを聞いた
7/28秀吉→小島・蒲生 戸木城からの講和に関して指示する
8/12秀吉→長浜町人中 鍬などを取り寄せ犬山に届けるよう指示
8/14信雄→吉村 近いうちに秀吉が出陣してくるようなので諸事油断せず松ノ木の普請と昼夜の番等を堅固に申し付けるべき事を指示
8/18秀吉→上杉・須田 明日19日に秀吉が木曽川を超え小牧まで出兵し付け城を申しつけ家康が逃れられないようにする、三河へ出兵すると報じる
8/19信雄→高木 駒野城への加勢について空明と太田の両名に申し付けたのでよく相談して落ち度がないように
8/25秀吉→長浜町人鍛治中 鍬をつくり完成させ、普請に利用する
8/26加藤→長浜鍛治中 鍬について10駄分命じられたので朱印状を持参した旨を伝える
9/1家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/5家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/7家忠日記 秀吉との講和交渉決裂のため重吉へ惣人数を移す
9/9秀吉→あて先不明 尾張で秀吉方が放火し要害を数箇所申し付けた
9/16秀吉→前田 尾張国内で下奈良・宮後・河田へ砦3箇所堅固に申しつけ
過半が完成したので2.3日中に兵糧玉薬及び4千〜5千くらいの人数を入れる
9/19家康→滝川 戸木城が苦戦していると家康へ注進があり、いまだ本城を堅固に守備しているならば
家康が急ぎ出陣する予定なので戸木城の様子をよく聞き届け再度滝川雄利からたまわりたい旨を伝える
9/23信雄→保田 秀吉より講和に関して懇望があったが拒絶した旨を報じる
10/27秀吉→上部 虎落に用いる竹を調達する
11/10 信雄・家康→吉村 長久保攻略を賞する
0168人間七七四年
2013/06/14(金) 22:20:58.44ID:CMbKs9dS0169人間七七四年
2013/06/14(金) 22:31:33.64ID:xj6Tnt3Nなんで秀吉側のデタラメハッタリ誇大喧伝は史実で家康側の史料や秀吉側家記や家譜や敵対勢力の毛利の史料に残ってる戦果は誇大戦果になるんだアホ
史料を読む限り圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝して騙しまくって誤魔化していたか「わかる」
3月26日⇒佐竹
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
4月8日秀吉⇒毛利輝元
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww
5月9日 秀吉→毛利輝元
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
9/8秀吉→丹羽、前田 9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた
11/13
家康が懇望してきたので同意してやった
なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認??????
明らかにデタラメ
0170人間七七四年
2013/06/14(金) 22:42:31.40ID:xj6Tnt3N>>秀吉側はかなり兵力に余裕をもって伊勢でやりたい放題やってる。
当たり前だろそもそも秀吉陣営は135000くらいいるんだから
筒井はしかも新たにどころか春から動員され続け丹羽も当初から長重派遣、途中から長秀も尾張に参陣
とめちゃめちゃ圧倒的大軍なんだから
>>信雄がすでに懇望して侘び言を言ってきてるので、戦いはもう終わると書いてるし。
秀吉は9月にも同じ事言ってるのに11月まで終わらなかったし家康も10月にもうすぐ勝つと書状で書いてるし
そもそも秀吉書状なんて都合いい事ばら撒いてるだけだから味方に当てたものでもデタラメばっかり
>>11/6の大垣にいる加藤宛秀吉書状にはあちこち落として、あちこち砦を造り北五郡之儀無残所任存分候条って言ってる。
砦みたいな小さな所分捕っただけだろ。長島も桑名も浜田も囲って苅田してただけで攻撃もろくにかけてないのに勝ったように語るとかアホですか
>>翌日の土倉宛ての秀吉書状では東駒野取詰 即時乗崩と感状を出して 美濃でも攻勢を開始してるのがわかる。
美濃方面は当初からずっと攻めてるだろ。んで結局この頃まで攻め落とせなかったと。
>>尾濃葉栗見聞集によると、木曽川西北羽栗・中島・海西の三郡割り秀吉方へ勢州度会郡・篠島(知多郡)・海西の三郡割りを信雄領
なぜ信憑性が見聞集>>>書状なのか不明
>>天正12年甲申年9月の秀吉朱印状には壱志郡・飯高郡・飯野郡・多気郡・渡会郡・大和宇多郡の
>>大半を氏郷とその与力に与えていたりするしこれ取り消したりしないだろうし。
信雄は家臣達に蹂躙された南伊勢に代わって北伊勢与えてるのに秀吉に渡すわけねえだろうがアホ
>>講和条件については 「北伊勢四郡相渡」の文章の解釈が難しい。しかも細部の内容がまったくわからないし。
そもそも和睦条件についての話なのに細部の内容持ち出すとか意味不明
>>実際、虫あき的な状態で秀吉給地となった場所も多かったと思う。
和睦の条件は信雄の領地で秀吉が攻め落とせなかった所は信雄の物で秀吉が攻め落とした所は秀吉の物だったってだけだろ
>>尾張に関しても犬山(丹羽郡)・甲田(葉栗郡)は秀吉人数入れ置きと書いてるが、別な史料を除くと岩倉も秀吉方だと書いてるものもある。
だからなんで他の史料持ち出す必要あるんだカスが
>>川中島は一円、長尾方と書いてあるが実行されたんだろうか?
関係ねーわアホ
>>解釈が難しいが検地から逆算すると桑名・員弁・朝明郡の三郡は返却されたかも知れない。
返却も糞も占領すらしてねえだろうが馬鹿
>>どちらにしろ、家康完敗であって、家康の優勢勝ちなんて判断は一切できない。
いや戦闘レベルでは秀吉が家康ではなく「信雄に」完敗。家康はちょろっと兵連れてきただけだし
信雄が秀吉が攻めるぞってポーズ見せたらビビッて和議結んだから何とかなっただけ
>>講和になり抵抗していた者たちから人質を秀吉が取る時に源五殿実子(織田有楽斎)を人質に出すことになってる。
>>滝川雄利も実子または母を出すとなっているが、木造長政の名前がないのは、この時点ですでに秀吉方に降伏してるからだと思うがな。
吉村氏吉、澤井雄重、森晴光、平手大炊 小坂孫九郎、天野雄光も人質を要求されていない
むしろ秀吉や家康が木造の事に何も触れていないのが不自然
>>家康も秀康を「養子」として出すと吹聴してるが秀吉方では「人質」としてる。石川数正も人質を出してるがのちに家康を裏切り出奔するフラグだな。
降伏ではなく和議なんだから養子だろ。人質なんて秀吉が都合よく妄想したにすぎん
石川は長久手戦頃から秀吉に篭絡されつつあったのが徳川史料にあるんだから人質どうこうはさして影響ないだろ
>>秀康を人質に送って先に降伏した信雄を間にクッションとして挟むことで戦にならないようにしつつ、条件闘争してただけ。
軍備ちゃんと整えたり真田攻めたり浜松会議で主戦派がメインだったりするのに単なる条件闘争なわけねえだろアホ
>>家康は雑賀衆だけでなく、長宗我部や佐々らまで見捨ててまで秀吉の怒りを買わないようにしてたのにw
そら領国が困窮してたのと和議結んだからわざわざ破る馬鹿はいないだろ
>>結局、さらに秀忠まで人質に出して北条攻め先鋒をやるだけでなく
>>家康の城まで秀吉が「借りた」ことで関東への転封を拒否することもできなくなる。
秀吉にそもそも従ってるのに借りた事が関東への転封につながるとか意味不明
0171人間七七四年
2013/06/14(金) 23:06:36.23ID:xj6Tnt3N苦戦しまくっていた雑魚秀吉お得意の中身のないパフォーマンスだろ。11月の時だって全く勝利の糸口がつかめず
諦めて大阪に納馬しようとしてたら信雄のヘタレ降伏に助けられただけだし
本願寺顕如に和睦斡旋してもらってやっと和睦にこぎつけただけだしそれなのに秀吉は9月に信雄が種種懇望してきたが断ってやったとか大嘘吐きまくってるし
そもそもお前は一次資料を全く読んでいないのがミエミエ
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
0172人間七七四年
2013/06/14(金) 23:10:37.29ID:xj6Tnt3N顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
むしろそんなスカスカな城を245000の圧倒的大軍で攻め込んだのに全く落とせず
小牧長久手の時と同じで苦戦や忍城や韮山城の敗戦や山中城の大苦戦を覆い隠すために茶会などという
何の中身もない金だけ膨大にかかる高松城水攻めとか一夜城とかと同じような無駄なパフォーマンスをするだけだったのが秀吉
韮山なんて500そこそこの城に50倍〜70倍の兵力で攻め込んで3ヶ月半〜4カ月も落とせず
忍城もう同様に大苦戦するなどもう弱いどうこうを超えてゴミクズレベルの指揮能力しか持っていないのが秀吉
0173人間七七四年
2013/06/14(金) 23:51:07.47ID:xj6Tnt3N秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)まで2か月も経ってるな。
大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため
苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
3月26日⇒佐竹 尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
4月8日秀吉⇒毛利輝元 伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
日付不明 秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww
5月9日 秀吉→毛利輝元
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
9/8秀吉→丹羽、前田 9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で、 11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認?????? 明らかにデタラメ
0174人間七七四年
2013/06/14(金) 23:54:53.21ID:CMbKs9dSだがの信条
嘘も言い続ければ本当になる
生息地
HOST:ntaich063200.aich.nt.ngn.ppp.infoweb.ne.jp
愛知県安城市
これによりSubと同一人物であることが判明
レスの特徴
@織田信長や織田家を蔑むレス
A武田信玄や武田家を讃えるレス
B協調性の無い自己顕示の強いレス
Cスレを荒らすための煽り挑発が著しいレス
D「織田厨」という言葉を連呼するレス
E自作自演一人芝居しているレス
F嘘と偽りによる妄想レスでソースは一切無し
レスの戦術
かまってちゃんのため相手をしてくれる人をコピペ爆撃で燻り出し発見次第にスレ荒らしを展開
戦国板三大事件
上洛スレ64の自演自爆事件
64検証スレの歴史改変事件
歴ゲー板の創造・天道の屈辱
信野暮の武将FILEから戦国時代の知識を獲得
だがの主観により事実を捻じ曲げて覚えたため日本の教科書を排撃
平日休日関係なく24時間2chに常駐して見えない敵と永遠に戦い続ける
0175人間七七四年
2013/06/15(土) 00:35:51.38ID:Sb+CK7/Wわかってんのかな
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