>>史料を読む限り秀吉が余裕かましていて、
佐竹や毛利や上杉相手にデタラメ戦果書きまくって必死に家康の味方にならないよう気遣っているのに
どこが余裕なんだよアホ
>>家康が長曾我部や北条の援軍が来ないと何も出来ないヒッキーに過ぎないのが判明してるんだけどな。
わずか8000程度の兵力で10万〜135000の秀吉にまともに対抗できるわけねーだろアホ
>>完全に追い詰められた家康ってのが事実。
むしろこんな圧倒的有利な兵力差&状況&信雄領国からも寝返りばかりで
今川氏真が指揮取っても勝てそうな状況で長久手で大敗、その後の攻防も終始苦戦して1年かかって
基盤ガタガタな尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
>>秀吉は丹羽を北陸に派遣する兵力的余裕すらあり、
兵力差がめちゃめちゃ違う上に外交でも優位に立ったんだから当たり前だろアホ
>>また秀吉は人質を取っての戦勝和睦が成立したと思ってたら、家康が騙していただけだったりと
9月時点で信雄・家康の人質出しての懇望を聞かずになぜ11月になって 秀吉が素直に言う事聞くのか不明
もし秀吉の言うとおりならよほど織田徳川に苦戦しまくってた証拠
>>切羽詰まっていた家康が誤魔化しまくっていたのが現実。
史料を出して詳しく解説してくれ
>>ロクに援軍出さないため次々と家康は味方の離反を受け、
楽田に留守居部隊2万も置かれてるのに簡単に動けるわけねーだろアホ
>>ついに信雄まで家康の援軍が期待出来ずに屈服。
信雄は浜田も松ノ木も戸木も長島も落ちてないというか砦築かれただけで攻められてもない状況で
苦戦しまくってた秀吉が諦めて納馬しようとしてたところにヘタレ降伏してきただけで家康の動きとは関係ねーわアホ
>>屈服後は家康の味方の紀州や越中まで信雄が家康から離反させるなど信雄からも追い詰められる始末。
家康の和議を屈服などと歪曲支店じゃねーよアホ
なぜ和議結んだのに単体で8000そこそこしか出せない状況で13万の秀吉に歯向かわなきゃ無能になるんだアホ
>>信雄が入っていて(秀吉の雑賀攻めに信雄も参加)秀吉方の人質要求を家康に出すように伝えたりと
>>完全に信雄を折衝道具としての条件闘争をしているだけ。外交技術として強気の姿勢を示してるだけ。
いやいや何の史料だったか忘れたが実際に迎撃計画はあったな
>>実際は、佐々や長宗我部や紀州勢を家康は見捨ててる。
そりゃ和議を勝手に反故にして単体で秀吉に歯向かう程馬鹿じゃないだろ
>>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してる
これは単なる小荷駄隊要因。家康の軍勢は夏に半分を返していて夏の対陣のときわずか1万たらずだったのが
当代記や家忠日記でわかる