武州の国司、扇谷家の上杉朝興は度々の合戦には負け、江戸城も落とされて
おもしろくなかったが力は及ばず、何とかして北条氏綱を亡ぼしたいものだと、
骨髄に徹して思い暮らしていた。

しかし、重病に侵された朝興は瀕死の状態になってしまう。
朝興は子息朝定、三田・萩谷以下の老臣を呼び出して遺言を残した。

「わしの命は尽きようとしている。汝等はしかと遺言を聞いて背いてはならない。
わしは氏綱と合戦すること十四度に及ぶが、一度も勝つことはできなかった。

この事が未来永劫の恥辱に思うのだ。この恥辱は妄執ともなるであろう。
よいか、わしが死んだら仏事作善よりもまずは氏綱を退治して国家を平定せよ!」

天文六年四月下旬、朝興は朝の露と消えた。上杉朝定は十三歳で家督を継ぎ、
父の遺言に従って仏事作善をかえりみずに、まず武州深大寺の古要害を取り立てて
城とし、氏綱を退治せんと支度を始めた。

しかし、この動きを知った氏綱が出兵したために河越城の戦いが勃発し、
朝定は敗北して松山城へ走った。

――『異本小田原記』