戦国ちょっと悪い話35
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0001人間七七四年
2013/01/01(火) 00:37:04.22ID:eGqTxKD/戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
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戦国ちょっと悪い話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350987604/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話35
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【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0002人間七七四年
2013/01/01(火) 21:21:58.49ID:N569VcYa:::::::::::.: .:. . ∧_∧ . . . .: ::::::::
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0003人間七七四年
2013/01/02(水) 21:40:55.61ID:eJG5YrwL/.:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;::.\ ^^
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0004人間七七四年
2013/01/03(木) 13:49:56.89ID:wIuyxsJR頼んだ海上武経と行方幸菊丸の討死によって城中の空気は失望一色となった。
そこに佐竹軍が鉄砲を激しく撃ち掛けてきた。
その頃、常陸両国にはいまだ鉄砲がなかったのだが、佐竹はこれを求めて
絶え間なく撃ち掛けてきたので城中の者たちは肝を潰し「これは一体
どうしたことだ。人間の行為とは思えない」と恐れをなした。
既に大手の軍は破れたと知った小田氏治は守治、菅谷、由良、丘見らに
向かって「氏治の運命ここまでなり。自害する。防矢を射させよ」と命じた。
諸臣は「心得候」と涙ながらに敵陣へと馳せ向かっていった。
氏治は広縁に曲録を置かせてその上に座り、法華経六巻、寿量品を心静かに
唱えた。そして結跏趺坐し、近習の櫻井豊之助に目配せすると櫻井は後ろに
廻り、太刀影光れば氏治の首は前に落ちた。豊之助もまた刀を取り直し腹を
一文字に掻き切った。
野中瀬入道鈍斎は氏治自害と聞いて攻め口より来たり、その有様を見て
「それがしは君と同年にして幼少竹馬の昔より付き添い奉った。死ぬ時は共に
と申し上げましたのに先立ちなさるとは、恨みに思いますぞ」と泣きながら
法華経をしばらく唱えて、自身も腹を切って殉死した。
誠に日本は義国なりと白居易が誉めたのもその通りだと思い当たるばかりである。
――『小田天庵記』
小田天庵記では自害したことになっている氏治公であった。
一応「越前で死んだって説もあるよ」と紹介されてはいる。
0005人間七七四年
2013/01/03(木) 13:52:43.03ID:LBHjonDx不死鳥だから、死んでも灰から蘇ることくらいあるよね
0006人間七七四年
2013/01/03(木) 13:55:28.46ID:XLLsn5J40007人間七七四年
2013/01/03(木) 14:15:51.82ID:/5wrQpZm0008人間七七四年
2013/01/03(木) 14:20:23.68ID:HQEuFh0X帰って来たんだよ!
0009人間七七四年
2013/01/03(木) 16:32:28.49ID:T3iNMd/x0010人間七七四年
2013/01/03(木) 18:47:16.28ID:yPRMNO+J0011人間七七四年
2013/01/03(木) 19:12:05.85ID:nynan+pS0012人間七七四年
2013/01/03(木) 19:18:35.89ID:rZWVXNrF天庵2「わしが死んでも代わりはいるもの」
天庵3「多分、わしは3人目だと思うから」
0013人間七七四年
2013/01/03(木) 19:37:42.51ID:HQEuFh0X0014人間七七四年
2013/01/03(木) 20:04:32.89ID:XLLsn5J4菅谷「思い返せば何故ここまで生き延びれたのか不思議だったが・・・」
野中「死んでしまわれるなんて信じられませぬ・・・」
櫻井「小田城を取り返すぞという殿の声がまだ聞こえて来そうで・・・」
天庵「そうだよ小田城まだ取り返してないじゃん!ごめん今の自害なし!」
一同「ギャー!」
0015人間七七四年
2013/01/03(木) 20:06:57.91ID:wIZdr5L40016人間七七四年
2013/01/03(木) 21:30:22.66ID:zP9mTyd70017人間七七四年
2013/01/03(木) 22:51:33.33ID:pGc6Ni5S0018人間七七四年
2013/01/03(木) 22:53:58.41ID:Cz5MolTa0019人間七七四年
2013/01/03(木) 23:20:24.54ID:ByLAKb5F0020人間七七四年
2013/01/04(金) 00:20:59.61ID:gFpaJxLb0021人間七七四年
2013/01/04(金) 00:25:32.18ID:NG/d2FRT0022人間七七四年
2013/01/04(金) 04:31:56.86ID:iI2/cSXeこれが正月と天庵様の力なのか・・・!
0023人間七七四年
2013/01/04(金) 08:09:27.36ID:ez98fwjA0024人間七七四年
2013/01/04(金) 11:55:56.88ID:RmWu27QF0025人間七七四年
2013/01/04(金) 13:20:03.67ID:0MhBORgu0026人間七七四年
2013/01/04(金) 18:25:46.25ID:UOm9OmPL背景に御所の跡を残らず押領した。その時、茶々丸の侍・戸山が早雲の
野宿する御堂へ忍び入って火を放ち夜討ちを仕掛けた。
この時、運も尽きたということだろうか、早雲はぐっすりと寝入っていたので
枕の上に火が及んでも気付かなかった。しかし間一髪のところで笠原が
走って来て、手で火を払い早雲を救い出した。
だが、笠原の左手は焼けてしまい、指も皆焼け落ちて生姜のようになって
しまったのだとか。夜討ちを仕掛けた敵は皆逃げ落ち、あるいは討ち取られた。
元々生姜は『はじかみ』と呼ばれた。しかしこの一件より伊豆国では早雲を
恐れて『しょうが』とばかり言うようになった。その頃、何者かが早雲の門に
落書を立てた。
「草の名も所によりて替りけり伊豆の生薑は伊勢のはじかみ」
本名が伊勢氏だったのでこのように言ったのである。
――『異本小田原記』
0027人間七七四年
2013/01/04(金) 20:21:43.58ID:E79KxmtN0028人間七七四年
2013/01/04(金) 20:35:13.78ID:lan9uoEA0029人間七七四年
2013/01/04(金) 21:15:27.58ID:86vESgDD寝耳に水でも起きないタイプかよ
0031人間七七四年
2013/01/05(土) 03:41:15.87ID:csZ8M9er0032人間七七四年
2013/01/05(土) 04:32:57.03ID:dMECkd1l明治天皇に参内したとき、明治天皇のタバコを盗んだ。
それに気づいた明治天皇が「先祖は争えないね」と失笑。
それに激怒した蜂須賀侯爵は、自分は泥棒だけど先祖は盗賊で
ないことを明治天皇に主張した。
0034人間七七四年
2013/01/05(土) 07:32:15.74ID:ni4j45E+0035人間七七四年
2013/01/05(土) 08:44:22.67ID:P9kmL0hUhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-786.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3466.htmlに関するレス
0036人間七七四年
2013/01/05(土) 12:04:28.29ID:UXG39IIHhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7167.html
この本城常光の誅殺は毛利方についた石見の国人を大きく動揺させ、再び離脱するものが相次いだ。
これに慌てた毛利元就公は、この事態は本城常光の怨念によるものだと考え、陣所からほど近い
鰐淵寺に参詣し、和多坊栄芸に対面して
「本城の怨念を沈め、また尼子晴久の一命を奪うよう、無二の祈祷をして頂きたい。」
と、依頼し、栄芸もこれを辞することが出来ず、よって鰐淵の滝壺に壇を構え、
初三日三夜は五大尊の法、中三日三夜は六観音の法、終わり三日三夜は七仏楽師の法を修した。
炉壇の煙は満山に霞み、振鈴の音は万峰に響き、大法秘密九日九夜修行あって、元就公は陣所に帰られた。
間もなくその験が顕れるのかと人々は、暗に恐ろしく思った。
そもそも、天子将軍が天下の軍乱を鎮め、万民が安全に生活できるようにするために、怨敵退治・調伏の
秘法を修せられる旧例は確かに多い。しかしこれらは民の利益のための、大仁大度によるものである。
ところが毛利・尼子の争いは、民を治めるための仁戦ではない。私利を目的とした軍事行動によって、
他の国を切り取って自分の物にしようとする欲心のため、累年に渡り中国を騒動させ、万民を苦しめる
戦である。
それがせめて、剣戟刀槍によって敵を滅ぼし、その国を得るのであれば武門の業とも言えるのだろうが、
智謀計略によっても敵を滅ぼすことが出来ずに、仏神に祈り呪詛して敵を落命させるなど、
元就公や吉川元春には、こういった不仁不義の例が少なくないのだ。
また六観音の法を修めれば、呪詛や諸毒薬はたちまちその本人に還るという要文があり、
これによって毛利家にも今後不思議の憂いが生じるだろうと、人々は眉を寄せて愁嘆していた。
尼子晴久公は、永禄五年十二月二十四日の晩、48歳にて手水のために縁先に出た所頓死された。
大変いたわしい事であったが、これは毛利が、厳島や鰐淵山で修めた祈祷の験であった。
そして翌年、和智誠春の毒薬によって、毛利大膳大夫隆元は、享年41歳にて頓死された。
これは只事ではない。毛利家の柱石に対しそれまでの利益の報いが還り、砕けたのだ。
父元就に先立たれ、わずか11歳の幸若丸殿を捨て置かれて、隆元公は逝った。
隆元公の、無念の御心の内が推し量られ、大変いたわしいと、人々は因果の道理を感じたのである。
(雲陽軍実記)
尼子家の家臣であった河本大八隆政が1580年頃に著したとされる雲陽軍実記より、
尼子側から見た元就の戦いや、隆元の死についての所感である。
0037人間七七四年
2013/01/05(土) 12:37:38.69ID:ik93pClb0038人間七七四年
2013/01/05(土) 16:55:29.86ID:lL2z65fE0039人間七七四年
2013/01/05(土) 17:51:19.54ID:LwzvXhLMことだろう。かといって武家在家の人などでは安らかに伽することはできまい。
そこで我が領国の禅宗役に三人当たり一年代わりで伽を申し付ける。
この公方は詩連句を詠み秀才であると聞くから、相応の相手でなくてはならぬ」
と、命じた。老臣は承って寺領千から三千石などを寄付して、秀才の僧侶たちに
義昭を慰撫させた。義昭は大層喜び、彼等に慰めさせて一日を過ごすようになった。
それから歳月を経たある年に、鑑首座という禅律僧がいた。彼は天龍寺妙智院で
修行した悟道発明の僧であったので、義昭は仏法を皆首座に聴聞し、少しも側を
離さなかった。春秋に至っては山野の樹木、紅錦の林を飾る風情を観覧する時でも
この首座と同道して一日を過ごしていた。
さて、義昭には持病があった。この持病が殊の外悪くなり尋常ではない苦しみよう
だったので、人々は何かと義昭を労わった。御伽の僧たちが芸州へしかじかと
報せるとただちに名医が遣されて来た。医術を尽くして治療が施されたが、日々
容態は悪くなっていったので、人々は「どうなってしまうのだろう」と今になって
驚いた。そんな時に義昭は首座を枕元近くへ呼びよせた。
「我は武将の家門に生を受けながら戒力は薄く、その徳は備わらなかった。
だから織田信長に一度は救われ厚恩は感謝しきれないほどであったが、己身有世の
為にたちまちに我を排除した。そこを秀吉が情をもっていたわり、輝元が大分の扶持を
参らせ、そのうえに諸々の懇志があったことは後世までも忘れ難い。この旨を心得てくれ」
首座は涙に咽び、少し間を置いて上意を承った。そして「そのように心細く
思われますな。御顔の色はいつも通りですから程なく御快気することでしょう。
きっと御持病の程度がひどいので弱ってしまわれたのですよ」と義昭を慰めた。
その後、義昭は采女を召して「御料紙箱に色紙が二枚あるはずだ。持って参れ」と
命じた。首座は以前に色紙を望んだが今日まで打ち過ぎていた。義昭は「この世を
去ることになるから、これを取って筐に見てくれ」と言った。首座が頂戴して涙ながら
に見ると、そこには古歌があった。
「いづくにも心とまらば住かへよながらへばまたもとの故郷」
「朝露は消え残りてもありぬべし誰かこの世に残りはつべき」
二、三日経って義昭はますます弱っていた。暁方に監物入道と采女を召して
密かに話すことがしばらくあって、その後は仏号を静かに唱えていたが、明方に
眠るようにこの世を去った。遺言通り火葬にされ、遺骨は高野山に納められた。
また、かつて豊臣秀吉が田舎暮らしは退屈だろうと参らせた秘蔵の御局は中陰後に
京へ参らせた。万事遺言の通りに処理されたのであった。
――『室町殿物語』
0041人間七七四年
2013/01/06(日) 11:02:16.22ID:gKzfWS5Z翌日、城内にあった嫡子・幸鶴丸(輝元)公と正室福原殿を城下の宿舎に呼び寄せ、三献のあとお供の衆も
召し出し、近年の戦局の次第、今回の大友との和睦のこと、公方方からの上意のこと、そして何より、
父・元就公が数年にわたり油断なくお心遣いされており、ご苦労されているのだということを、心静かに
仰せられた。
そうして幸鶴丸公母子を御城に帰されたが、久しぶりの妻子との再会だというのに、あまりうちとけない物であった。
腰を落ち着かせる間もなく、翌12日には尼子攻めの出雲戦線に合流すべく吉田を立ち、佐部という場所で
軍勢の集結を待ち、8月5日には出雲に向けて出立するということになった。
その直前の3日夜、和智誠春に招待されそこで夕食を取り、本陣に帰られた。
翌4日夜、にわかに体調が崩れ、そのまま隆元公は急死した。
これに下々に至るまで嘆き悲しむこと、言語を絶する程であった。
御遺体は吉田大通院に納められ、葬礼相調えられた。御法名は花渓常栄大居士とされた。
隆元公はその御一生の間、行跡能く御孝行を第一に考えられていたので、『平重盛以来の御名将である』と、
他国の人々も揃って唱えていた。
隆元公が最期に吉田に帰られた時も、2日ほど滞在されたのに、遂に御城には入られなかった。
どうしてかと尋ねられると、隆元公は
「今、父上は雲州において、昼夜ご苦労されているのだ。そんな所に、例え一夜であっても自宅に立ち寄るというのは、
あまりに気ままのように思う。
まあ、父上に対する敬意だよ。」
そう仰ったのだという。
御孝行の事など書き付けるのは、畏れ多いことだとも思うが、旧記によればこの様であったとの事である。
(吉田物語)
吉田物語より、毛利隆元急死に関する記事である。
0042人間七七四年
2013/01/06(日) 15:19:37.82ID:6Fgka5PV子供がいたら三好義興も揶揄されていたんだろうか
0043人間七七四年
2013/01/06(日) 17:45:37.34ID:JQ7zQg3R見て心を動かすこともあったのである。かつて一休が駿河に行脚した時、
府中に小玉弁之助という田舎には似つかわしくない実に艶やかな美少年
がおった。
一休は彼を一目見て大変堪え難く思い、しきりに弁之助を口説くも
拒否されるばかりであった。そこに一休が一首の狂歌を送った。
「花は根に鳥は古巣にかへれども人は若さにかへることなし」
弁之助はこの狂歌に心動かされて返事を送り、その夜に一休を訪ねてきた。
「あなたの御望みに従います」
「これはよく来たな。しかし今朝までは左様に思っておったが、
今はもうその念も去って用なきことだ。早く帰りなさい」
一休はそう言って弁之助を帰したそうだ。
いつもながらその心の動く時にこれを動かし、動かない時には堅くこれを
動かさないことは、実に行く水の如く、誠に敬服のことである。
――『一休禅師 頓智奇談』
0044人間七七四年
2013/01/06(日) 19:40:18.94ID:sFzTHeAL0045人間七七四年
2013/01/06(日) 19:57:03.18ID:jHAy2Bxvまあ坊さんなら美少年好きは当たり前と甲斐の虎が
0046人間七七四年
2013/01/06(日) 20:51:55.10ID:wRA34UrV0047人間七七四年
2013/01/06(日) 20:54:52.04ID:z4RRmrRx0049人間七七四年
2013/01/06(日) 21:20:04.74ID:Pf6zJm120051人間七七四年
2013/01/06(日) 21:45:16.81ID:4JTzrEST還俗して天皇になった可能性あり?
0052人間七七四年
2013/01/06(日) 21:56:40.29ID:qR6AvXc+一休さん以外にも皇子もいた気もするし・・・
0053人間七七四年
2013/01/06(日) 22:00:38.33ID:4JTzrEST0054人間七七四年
2013/01/06(日) 22:02:03.76ID:UeIs6lrl0055人間七七四年
2013/01/06(日) 22:03:04.32ID:qi0zRP+G一休禅師「賢者モード?」
こっちは相手は女だが似たような話
0057人間七七四年
2013/01/07(月) 17:37:32.51ID:3GxYd8/y都での生活もままならないということで稙通はあるいは和泉堺、あるいは
九州に徘徊した。また、武勇も心掛けていた。
稙通は機嫌の良い時には色々と昔語りをしたものだった。
ある時、稙通は「何事も思い立ったならば中途半端にせず極みに至ることを
肝要とするが、私が飯縄の法で成就したと思われるのは、どこで寝る時でも
家屋の上に、夜半時分に鳶が来て鳴くのだ」と言った。また、歩く先には
辻風が巻き起こったのだとも。
――『日本史伝文選(戴恩記)』
なにそれこわい。
0058人間七七四年
2013/01/07(月) 18:11:26.96ID:3GxYd8/yすいません、ちょっと訂正します。
×私が飯縄の法で成就したと思われるのは、
○私が飯縄の法を成就したと思われるのは、
0059人間七七四年
2013/01/07(月) 18:29:19.42ID:Q9pptOGo鳶職「へぇ、この屋根の立て付けがね あっしも半端な仕事じゃ家に帰ぇらない性分でして、夜分すいやせん」
0061人間七七四年
2013/01/07(月) 18:50:27.51ID:eUhicQen月迫(12月末)であり、合戦の前でもあったが、十二月中旬に一座は登城し、ご対面の上、御囃子申し付けられ、
同月23日には、郡山の麓、興禅寺に舞台の設置を仰せ付けられ、能興行を行うこととなった。
しかし前日より大雪で、その日の能は延期であろうと、大夫衆も考えていた所、なんと毛利元就が、
未明のうちに既に能舞台の桟敷へお下りになったとの報告があった。
元就、この日をものすごく楽しみにしていた模様である。
そこで観世太夫たちは取り敢えず楽屋に入り準備し、日の出とともに能は始まり、晩に終わった。
元就はご機嫌よく城に帰っていかれた。
この時、国衆から家来まで見物するよう仰せ付けられていたため、彼らは雪の上に敷き皮を敷き、その上に
座っていたのだが、その日は昼ごろから天気が良くなり、雪が溶け大木の上から落ちるなどし、
彼らは水の上に居るような状況で、終日座っていたそうである。
そんな中元就はお酒などを召し上がることもなく、膝を直すようなこともせず熱心に能に見入っていたので、
宗節も大変忝く思い、後で御礼申し上げたそうである。
(吉田物語)
毛利元就、能見物を大いに楽しむというお話w
0062人間七七四年
2013/01/07(月) 19:00:17.30ID:L0ct/Gz8まず油揚げを準備します。
毎夜、飯縄権現へのお供えします。
寝ます。
鳶「ピーヒョロロロロ(油揚げウメェー)」
九条稙通「飯縄の法極めたどー!!」
事例2
まず油揚げを準備します。
出かけるときは手に持って行きます。
絶対に手放してはいけません、周囲を警戒しながら歩きましょう。
ビュッ
九条稙通「飯縄の法極めたどー!!」
鳶「(チッ、失敗か・・・)」
0063人間七七四年
2013/01/07(月) 20:52:46.49ID:OgEUKHyR0065人間七七四年
2013/01/08(火) 07:46:33.70ID:4FONf9sTカッコいいじゃないか
それで十分だよw
0066人間七七四年
2013/01/08(火) 09:40:44.36ID:ayThlQHv0067人間七七四年
2013/01/08(火) 11:08:13.56ID:vaXDizch明応2年「頭は馬、尾は蛇、蹄は牛のような化鳥」「炎をまとった鳶付きの辻風」
半将軍様、次はいったい何を!?
0068人間七七四年
2013/01/08(火) 11:34:56.52ID:uSvpzqj7これはつまり…
0069人間七七四年
2013/01/08(火) 12:06:59.19ID:F95Y3Phd国衆、家来一同「寒い…冷たい…。」
0072人間七七四年
2013/01/08(火) 16:19:27.50ID:Pgi4d1yL妾への遺産贈与もな>養女
>>70
養子4人とるってどういう現象なんだ 上条も山浦もそんな大した容貌だったのかよ
0073人間七七四年
2013/01/08(火) 18:10:26.54ID:0hE/5ubr義元の舅・武田信虎は謀叛を起こして駿河を取ろうと目論むも、
望み薄であった。
そこで今川の一門衆、国人をそそのかし、子息信玄へ引き付けて
信玄に駿河を取らせようと謀った。
ところが、この事がたちまちに露見して信虎は駿河より追放となり、
上方へ牢人することになった。
――『今川家譜』
0077人間七七四年
2013/01/09(水) 12:39:43.58ID:tR7TIoDh謀反の旗頭を膝元に置くわけにはいかねえ
老人とはいえ黒官みてえに油断ならぬ武人
0079人間七七四年
2013/01/09(水) 17:48:49.36ID:y6KLxx1F「堀越六郎は今川家の一門であり了俊の家筋なのだから、早く謀叛を起こして
駿河を攻め取りなさい。こちらも手を合わせて人数を出し両方より攻め寄せよう。
御舘を其の方に遣わし、今川の家督も継がせようぞ」と偽りを言って扇動した。
これを受けた堀越は思慮のない人であったので引間の飯尾豊前守を
味方に付けて永禄六年に逆心を起こし、近辺の地侍をも勧誘した。
今川氏真はこれを知るとすぐさま出陣し、飯尾方には新野左馬介と
朝比奈備中守を、堀越方には匂坂六右衛門や三浦左衛門尉らを差し向けた。
堀越も飯尾も防戦叶わず自害して果て、残党は尽く討ち取られて城は
火をかけられ焼失した。しかしその一方で、今川方も新野左馬介が討死した。
――『今川家譜、今川記』
0080人間七七四年
2013/01/09(水) 20:03:11.86ID:VHv98zS/0081人間七七四年
2013/01/09(水) 20:18:36.30ID:9+Ft+XXIやっぱり義元(と太原雪斎)は優秀だったんだろうね
0082人間七七四年
2013/01/09(水) 21:31:30.27ID:gwrWpT+j世の中って常にそういうものなのよね
0083人間七七四年
2013/01/09(水) 21:50:55.34ID:8vj25gK70084人間七七四年
2013/01/09(水) 22:28:24.07ID:GH3fM1xL桶狭間直後の対応との差がどうにも解せないんだよなぁ。
それだけ義元に頼ってたってことなのか?
0085人間七七四年
2013/01/09(水) 22:36:44.49ID:swr7NiEg史実の義元のように西に向かうしかないだろうな
0086人間七七四年
2013/01/09(水) 23:00:16.74ID:VfpkpcN/桶狭間で重臣もまとめて死んでるからね。
家内の秩序をまず建てなおさないと復讐戦どころじゃなかったのは当たり前。
ところが、一族を嫁にもらってる松平がいきなり寝返るし。
今川にとっての松平って、武田にとっての木曽だよね。
0087人間七七四年
2013/01/09(水) 23:04:15.60ID:8vj25gK7つーか松平は対織田の最前線なんだから、義元の敵討ちまで行かなくても、最低でも援軍出してもらわないと
自分たちが持たないんだけど。実際に家康と織田との戦いは継続されている。
だから家康は何度も何度も氏実に軍の派遣を要請してるのに、なしのつぶてじゃ、そりゃ見限るしか無いわな。
氏実はこれにかぎらず、自分の都合でしか周りをみなさすぎる。
0088人間七七四年
2013/01/10(木) 01:01:05.50ID:JG6tkxw5周辺にヒャッハーカモだーと思われたんだろうな
0089人間七七四年
2013/01/10(木) 06:05:07.33ID:XacCXBzr0090人間七七四年
2013/01/10(木) 06:49:37.90ID:lUVkXVMV0091人間七七四年
2013/01/10(木) 07:15:38.96ID:R2+Mr6TH謙信が大挙して関東を襲ったので、北条に援軍を出してて
身動きが取れない状況。
翌年には小田原も囲まれるような状況で、尾張へ侵攻する
ような余裕が無かった。
0092人間七七四年
2013/01/10(木) 13:37:44.75ID:Wpyf2j0J0093人間七七四年
2013/01/10(木) 14:44:58.72ID:lUVkXVMV0094人間七七四年
2013/01/10(木) 22:08:22.75ID:JG6tkxw50095人間七七四年
2013/01/10(木) 23:29:07.61ID:wGXF/xUU0096人間七七四年
2013/01/11(金) 01:11:17.27ID:DpVNpQT6家中一同期待の嫡子を狩られた長宗我部さんの事も思い出してあげてくださいね
0097人間七七四年
2013/01/11(金) 14:02:40.05ID:e+KGQapZ0098人間七七四年
2013/01/11(金) 15:56:40.98ID:Oyh2u4Kz0099人間七七四年
2013/01/11(金) 17:15:45.67ID:2l6JDzWf当主が遠征中に討死って今川、松平、三村、龍造寺
ほかにいたっけ?
0100人間七七四年
2013/01/11(金) 17:17:33.89ID:GIfpOHDi0102人間七七四年
2013/01/11(金) 17:35:59.93ID:XhniWsAaそんな利常公は当時の知識人である儒者に対して、この様に言っている
『別に儒者が政治をしないと、どうしても国を治められないなんて事はないよね。』
(終に儒者が国の仕置をせねば、国不治というためしもなし)
『学問も、そりゃあ少しはしたほうがいいけどさ、だけどやり方によってはその人にとって邪魔になることも有るわけで。』
(学問も少は仕たるが好し、去共仕様に依て結局邪魔に成事も有)
『学問を間違って心得ると、学問を鼻にかけて人を見下すとか、悪い影響もあるよね。』
(悪敷学問を心得れば、人を見下し凶き事あり)
『まあ、経験上、たいていは人柄が悪くなるよね。』
(大形は人柄悪成かと覚ゆる)
(拾算名言記)
どうも、儒者に対してろくな印象が無かったらしい、微妙公の発言である。
儒教の日本への定着は、まだまだ遠い道のりであった。
0103人間七七四年
2013/01/11(金) 17:37:17.74ID:CNXpJ5z10104人間七七四年
2013/01/11(金) 18:14:40.85ID:2l6JDzWf的外れなレスはいらないから
両上杉は没落した感がある
相良は失念してたけどあれは死ぬ気だったのかな
0105人間七七四年
2013/01/11(金) 18:19:59.05ID:GIfpOHDi輝かしい少弐氏の呪い
2代目・少弐資能 元寇・弘安の役で深手を負いそれが元で死去(事実上の戦死)
少弐景資(3代目経資の弟) 兄貴に霜月騒動で殺される。
5代目・少弐貞経 南北朝で足利に味方したが南朝に攻められ自刃。
8代目・少弐冬資 今川了俊に根拠のない疑いをかけられ暗殺される。
11代目・少弐満貞 大内家との戦いで戦死
12代目・少弐資嗣 大内家との戦いでry
14代目・少弐教頼 大内家ry
15代目・少弐政資 大内ry なお息子の高経も運命を共にした。
16代目・少弐資元 一旦大内と和睦するも欺かれて自害に追い込まれる。
17代目・少弐冬尚 龍造寺隆信と争い、永禄2年(1559年)に勢福寺城で自害、少弐氏滅亡
0106人間七七四年
2013/01/11(金) 18:30:40.48ID:TnB43XQJ0108人間七七四年
2013/01/11(金) 18:57:05.04ID:FD+Ug/Sh0110人間七七四年
2013/01/11(金) 19:06:10.00ID:TnB43XQJ0111人間七七四年
2013/01/11(金) 19:10:58.94ID:GIfpOHDi今川だと今川義忠が遠江遠征中に討ち死にして、太田道灌も介入しての、
嫡子龍王丸(今川氏親)と、従兄弟の小鹿範満の内乱が起こってる。
これが伊勢盛時(北条早雲)の歴史的デビューにもなってるな。
0112人間七七四年
2013/01/11(金) 19:21:16.20ID:Oyh2u4Kz0113人間七七四年
2013/01/11(金) 19:24:02.30ID:CNXpJ5z1毛利さんも元就以前はそうなんだっけ?
0116人間七七四年
2013/01/11(金) 20:36:09.75ID:OjGi8bi4よくあそこまで家を存続できたもんだと思うわ。
>>109
花ぞ散る 思へば風の 科ならず
時至りぬる 春の夕暮れ
達観と野心と無念さと・・・
読み返せば読み返すほどに涙が・・・
>>112
天庵様には色々教わることが多いよなw
0121人間七七四年
2013/01/11(金) 22:11:46.98ID:FiqVeOMj0124人間七七四年
2013/01/11(金) 22:38:41.80ID:gHh195630127人間七七四年
2013/01/11(金) 23:10:57.85ID:FiqVeOMjその辺は龍造寺も少弐に粛清されてるから因果が廻ったのかもしれぬ
鍋島は別に龍造寺に粛清されてないしなあ
0128人間七七四年
2013/01/11(金) 23:43:30.75ID:KjivEowv江戸城を手中に収めた。敗れた朝興は河越城に立て籠もった。
そこで、山内上杉憲房は鉢形城へ入って人数を遣わし、
河越衆と力を合わせて江戸城に夜討ちをかけ、氏綱より奪還せんとしたのだが、
運が尽きてしまったのだろう、高上庄平居の陣で重病に侵された。
色々な養生が尽くされ、宮々社々に限りなく願が立てられたのではあるが、
定められた業報が来たのであろう、平癒することなく大永五年四月十六日、
五十九歳で亡くなった。
誠にこの人は関東長者であり、諸軍もよく親しみ、政道に私は無かった。
憲房の死を敵に知られれば押し寄せられてかなわないとして、葬儀は密かに
執り行われ、人々は悲しみを隠して声を呑んだ。
その後、京都より御意を受け、古河公方高基に憲房の実子憲政はいまだ
幼年なので家督は務まらないからと頼み、養子をもらって憲広(憲寛)とし、
管領と定めて長尾・大石・小幡らの長者たちが名代として関東の成敗を司った。
これによって諸家の支配はもとのように、領国もまた平穏無事に治まった。
――『異本小田原記』
0130人間七七四年
2013/01/12(土) 20:43:43.44ID:KOOn3C1+0131人間七七四年
2013/01/12(土) 21:48:59.55ID:ZwFwfcCg0132人間七七四年
2013/01/12(土) 22:14:23.98ID:QJOkA49u同門、門下などとともに有馬温泉に出かけた。
閏2月2日になって彼らのもとに客として現れたのが、京都所司代の多賀豊後守、安富勘解由左衛門尉、日野殿内修理太夫、
日野墓崎若狭守、東坊、巣河又次郎、慶阿弥、今春與四郎、二条町千千代といった人々であり、皆当時の文化人であった。
が、ここに一人問題人物があった。墓崎若狭守である。
彼は人の口を吸うのが好きで、老少美醜を問わず、人の口を吸う癖があった。つまり、キス魔だったのである。
閏2月5日、日野殿内修理太夫の宿所に人々が集まっていた所、安富勘解由左衛門尉も強面の顔をして現れた。
この安富さん、苗字から言って細川京兆家家臣の安富氏の一族であろう。すなわち、有力な武将の一人だったはずである。
その安富に、墓崎は狙いをつけた!彼は突然、安富の口を吸おうと突進してきたのだ!
安富、当然ながら逃げ出す!しかし追いつかれ、
『ムチュ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜』
とうとう唇を奪われた。
後で安富は「足が悪いので逃げきれなかった。老いてこの様な災に遭うなんて…」と悲嘆したそうである。
また石頭という者も墓崎に口を吸われそうになり、驚いて逃げ去ったそうだ。
季瓊真蘂はこれを『蔭涼軒日録』の中に苦々しげに、『稀有な戯言よ』と記録している。
(蔭涼軒日録)
戦国初期にもキス魔は居たのだ(ただし男)、というお話である。
0133人間七七四年
2013/01/12(土) 22:30:13.81ID:nCjse1e90134人間七七四年
2013/01/12(土) 22:50:27.44ID:G6E3CgIT人間そのものは大して進歩してないってことだなw
0136人間七七四年
2013/01/12(土) 23:05:16.59ID:Q3Oz3vZv0139人間七七四年
2013/01/13(日) 01:29:43.91ID:B1SZJONLなんでここまで鍋島が嫌いなんだろうか
0140人間七七四年
2013/01/13(日) 01:36:19.32ID:2NxFShLh0144人間七七四年
2013/01/13(日) 09:25:08.57ID:FD/qhtUh0147人間七七四年
2013/01/13(日) 12:48:55.46ID:fTZVYRM/0149人間七七四年
2013/01/13(日) 13:56:03.53ID:wE1BiC9L0153人間七七四年
2013/01/13(日) 20:26:05.68ID:gJUxCNgbびっくりした
シラフでこれがまかり通ってたらどんだけ戦国の世はフリーダムだったんだと思ってしまう
0154人間七七四年
2013/01/13(日) 21:27:09.82ID:wE1BiC9L0155人間七七四年
2013/01/14(月) 14:06:58.72ID:yQtNbD4W有名過ぎる話はわりと出ていないんだね
誰か片倉代々記か老翁聞書を訳してくれないかな〜
俺ができればいいんだけど、俺はTOEICは100点だけど古文は30点だからな〜チラッ
だれかやってくれる人いないかな〜チラチラッ
0156人間七七四年
2013/01/14(月) 14:16:01.46ID:gWH7bDnp0157人間七七四年
2013/01/14(月) 14:20:39.48ID:gWH7bDnp片倉ジュニアへのほっぺにチュウ事件・いい話?
って普通に載ってた
訳はないけど
0159人間七七四年
2013/01/14(月) 14:56:43.39ID:DCe73MJY(1611年11月23日、セバスチャン・ビスカイノ一行は仙台伊達政宗領・牡鹿湾の測量を行っていた)
この時、そこから2レグアほどの所で王(伊達政宗)が猪や鹿の猟をして廻っている様子について
便りを受け取ったので、飛脚を出して、この港(牡鹿)やこの時までに発見した他のことについて
報告した。地図は全て色付きで描き、作図した。
すると、当方の報告に礼を述べ、領内に良港が見つかり大変嬉しく思っていると返答があり、
鹿や山の狩りの獲物を贈って来た。そして
『今もし山野に出ているのでなければ、大いに引見したいものだが、その楽しみは
城に戻るまで置いておく。陽の光も寒さも、彼を損ねることが無いよう、司令官を
輿か籠に乗せて連れてきたら嬉しいだろう。
私の領地で村落発見御ための行った苦労を大変高く評価している。それらの製図の方法を
見てみたいものだ。』
このように言ってきた。
そこで、司令官はそれを通訳と奉行に託して送った。
これに王は大層喜び、残っていた他のことにも許可を与えてくれた。
私たちはその領国のいずこでも歓待を受け、常に歓迎の強い意志が有ることが解った。
木曜日(24日)我々はこの港にとどまり、南中高度の測定をし、旅を続行するための用意を、
翌日入手するためこの港に留まった。というのは、(伊達家の)家中ことごとく、王の狩りに
忙殺されていたからだ。
この事のために家臣と、掻き集められた周辺の農民をあわせて、百万ほども居たに違いないが、
その巧みさと獲物を追い立てるために山を取り囲んだ人間の多さは見事であった。
獲物は羊の群れほども多く、素手や鉄砲で捕まえていた。
この王(政宗)の勢力は収入、家臣共に強大で、3万の騎兵と20万の歩兵を6日で何度でも
召集でき、領内に80の出城を持っているほどだ。
(これらの軍勢)すべてを賄い、満足させている。
統治においては正しく、怠惰なものと悪しき生活をするものを敵とする。そして既述のように
我々のキリスト教に感心を寄せ、話によれば、千万以上の年収が有るという。
(セバスチャン・ビスカイノ旅行航海報告書)
以上、スペイン人による政宗の記録であるが、スペイン側がそうしたのか政宗が吹いたのか、
軍勢を盛るだけ盛ったことがよく解る内容であるw
0160人間七七四年
2013/01/14(月) 16:22:19.61ID:sfg8/o+o政宗が盛った数字をビスカイノがさらに盛ったんだろうか
0161人間七七四年
2013/01/14(月) 18:08:30.98ID:hcrvlj6N0162人間七七四年
2013/01/14(月) 19:41:45.38ID:WZLGLef00163人間七七四年
2013/01/14(月) 19:57:58.92ID:uEQXOC360164人間七七四年
2013/01/15(火) 11:30:45.18ID:zXyjhLRkとはいえ龍造寺一族は鍋島家の宿老だぞ
多久、須古、後藤、諫早あたり
姻戚になったり養子押し付けられて乗っ取られてるけどな
0165人間七七四年
2013/01/15(火) 18:24:11.03ID:E1QPnyG9↑このお話で、儒者や学問に対して否定的な見解を述べた前田利常。これに対し家臣の岡田将監がこう尋ねた
「殿の仰ることは御尤もだと思います。ですが御前は、太平記・東鑑などをいつもご覧なされ、
その他日本の古筆や珍しいものを集め、ご覧になっています。これはどうしてでしょうか?」
(御尤に奉存候。去ながら御前には太平記、東鑑など毎度御覧なされ、其他日本の古筆珍敷物を被召上て
御覧被成候。如何之御事に候)
これに利常
「それはな、日本に生まれたものは、日本の古今の風俗を知るべきだと思って見ているのだ。」
(夫は日本に生る者は、日本古今の風俗を知たるが好と思ふに依て見たる物也)
すると将監が申し上げるには
「それは学問ではありませんか?」
(夫は学問にて無御座か)
「えっ?」
利常は少し言葉に詰まり、
「いやいや、世間でいう学問というものは、そういうものだとは考えていなかった。」と、少しして仰った。
(いやいや、世間の学問は左様の事とは不思と、良有て御意被成)
(拾算名言記)
前田利常の学問についてに認識みたいなことが、少し見えてくるお話である。
0166人間七七四年
2013/01/15(火) 19:43:35.63ID:U6QVPNwk0167人間七七四年
2013/01/15(火) 21:05:01.96ID:cPvN4JSj――巧者の大将と申は一度大事の負(おくれ)に合たるを可申哉
吾々は一世の間勝合戦計にて終に負に不合候間年寄候へ共
巧者にては有間敷事――
(現代語訳:名将というのは一度でかい敗戦に遭って、それを乗り越えた奴を指して言うべきだ。
そこ行くと、私はこれまでの生涯勝ち戦ばかりで、ついぞ大負けすることなく
この年になってしまったから、とても名将なんて言えないな)
『大負けした事がないから名将じゃねえ』というのは自慢なのか謙遜なのか。
意外に口の悪い金吾宗滴殿であったw
0168人間七七四年
2013/01/15(火) 21:34:10.56ID:3dp2Hi6v0169人間七七四年
2013/01/15(火) 22:02:47.72ID:DRNd85Fx仙石秀久「まったくそのとおり。」
0170人間七七四年
2013/01/15(火) 22:05:36.85ID:cPvN4JSj勝率が低すぎるのもいかがなものかと思います
上記の「金吾利口書」の名将論の少し後、具体的な人物例
――当代日本に国持の無器用人使下手の手本と可申仁は土岐殿、大内殿、細川晴元三人
又、日本に国持人使の上手よき手本と可申仁は今川殿、甲斐武田殿、三好修理太夫殿、
長尾殿、安芸毛利、織田上総介方、関東正木大膳亮方、此等の事――
(現代語訳:今日び日本でダメな大名の例に挙げるなら、土岐頼芸殿、大内義隆殿、細川晴元の3人。
逆に、いい大名の例としては今川義元殿、甲斐の武田晴信殿、三好修理太夫長慶殿、
長尾景虎殿、安芸の毛利元就、織田上総介信長、関東の正木大膳亮時茂たちだ)
ちなみに、宗滴が直接関わっているのは土岐頼芸・細川晴元・三好長慶。
大永7(1527)年に足利義晴・細川高国を支援して細川晴元・三好長慶とやり合っているし、
土岐家は朝倉本家と縁戚ということもあって何度か内乱に介入している。
ダメ大名3人のうち細川晴元だけ呼び捨てしているのは含むところがあったのか。
信長に目をつけていたのは、親父の信秀と組んで斎藤道三と合戦した縁からかも。
0171人間七七四年
2013/01/15(火) 22:33:23.42ID:cPvN4JSj――義景様御器用は英林様已來有間敷候、其故は我等八十歳に及候を加州武者奉行に被遣候事
大丈夫成御心中難計候、但自今以後御器用に候間如何可有旨常々被仰候事――
(現代語訳:義景様の手腕だが、親父(朝倉英林孝景)に比べたらまだまだダメだ。
だいたい俺は八十も近いのに加賀方面の総大将に任命するなんて、何考えてんだか。
まあ、『これから先上手にやって行くにはどうしたらいいか』ってよく聞いてくるから見込み無しではないな)
兄の曾孫とはいえ主君に堂々とダメ出しをする金吾入道殿、やはり口が悪い。
ちなみに朝倉家は、現代でいう背広組と制服組のトップを並立させている少し変わった体制を取っていた時期が長いです。
背広組としての当主が朝倉本家で、制服組の総大将は宗滴なんですが、
宗滴死後、この総司令官ポストが実質空席。
朝倉氏の一門衆って安居家(英林の次弟・経景流)・大野郡司家(義景の叔父・景高流)・
敦賀郡司家(宗滴の養子・景紀流)の3家が重臣格なんですが、この3家は仲が良くない。
序列争いが激しいので、出兵時の総大将なんかは3家の持ち回りになってる様子があります。
かの元亀元年の合戦の際は、最初の防衛指揮は敦賀郡司の朝倉景恒、
信長撤退後の追撃は大野郡司の朝倉景鏡、次の浅井救援(姉川の合戦)は安居家の朝倉景健という回し方。
……そりゃ、自分の当番は無難に済ませようとして中途半端な結果になりがちだよね。
そもそも、宗滴が自分のポストを若い世代に移譲していれば、80間際で総大将になる事も無かったわけで。
金吾宗滴殿は後継者人事の問題を考えていなかったらしいという、タチの悪い話でした。
0172人間七七四年
2013/01/15(火) 23:58:57.27ID:0huMzW0b小弓勢先陣は物見の兵を本陣に参らせて、
「敵が河を越え始めました。その勢は雲霞の如く二、三万騎はいると思われます。
小勢で大勢を討つことは難しいでしょう。急ぎ本陣を動かして河中で勝負を決するか、
味方を引かせて敵の先陣が半ばを越える時に急いで河へ押し込めば必ず御味方の
勝利となるでしょう」と具申した。
この策に諸軍はそれがよいと賛成したのだが、足利義明は大笑いして一蹴した。
「一足でも引けば虎も鼠になり一足でも進めば鼠も虎になる、と合戦の例にある。
引くような真似をすれば、それは敵に利を与える端緒となる。
また、勝ち負けは数が多いか少ないかではない、兵の剛勇と臆病によるのだ。
氏綱の武勇など我が片手にも及びもしないものを、何程のことがあろうか!
河を渡らせて敵を近くまで引き寄せ、我が手にかけて氏綱を討ち取った上で
東国を安々と治めてくれよう。年月の本望ここにあり! 氏綱を逃がしはせぬ!」
そのように言って義明は扇を打ち振った。
(諸軍の?)運も尽きて驚きあきれることは、たとえようもなかった。
――『異本小田原記』
0173172
2013/01/16(水) 00:31:35.24ID:7Sib5sObすいません、ちょっと訂正します。
×鼠も虎になる、と合戦の例にある。
○鼠も虎になるのが合戦の例である。
0174人間七七四年
2013/01/16(水) 01:31:45.21ID:8Cq6zkPGで、北条に殺されると
0175人間七七四年
2013/01/16(水) 01:54:46.62ID:mUK2EPMbしか相手して来なかったんだろうなあ・・・
身の程知らずにも通りすがりのケンシロウに挑むモヒカンを連想した
0176人間七七四年
2013/01/16(水) 02:04:04.46ID:mUK2EPMbどうやって50年以上後の小田原征伐まで存続したんだろ?
秀吉が古河公方家に姫様との結婚を強要する程度の存在感をちゃっかり残した上でさ
堀越公方なんて跡形も無く消えちゃったじゃん?
0177人間七七四年
2013/01/16(水) 02:24:55.58ID:YKcYCbdl0178人間七七四年
2013/01/16(水) 08:28:53.75ID:qZF6u4Ag宗滴は朝倉家中や敦賀郡司家の事をかなり計画的に考えてるタイプだよ
宗滴自身が26歳で郡司職を引き継いでるので同様に養子の景紀が26歳、宗滴が54歳の時に郡司職を譲っている
その宗滴の教えに従って景紀も又54歳で郡司職を嫡男へと譲っている
自身が担った軍奉行の役職も晩年は譜代家臣の山崎吉家に任せる事もあった
光玖ー宗滴と続いた一族の重鎮ポジションに就くには景紀や景隆では経歴的にやや役不足な感もあったので宗滴頼みになるのもいたしかたない部分もある
0180人間七七四年
2013/01/16(水) 10:00:00.31ID:8325FJE1前秦の苻堅そのままw
0182人間七七四年
2013/01/16(水) 13:58:20.77ID:ZU0VQrErちょうど逆では
0185人間七七四年
2013/01/17(木) 01:57:41.77ID:Qg3I4pHf天文二十年八月二十八日、陶隆房は遂に謀反の軍を挙げ、それぞれ山口の西と南西より兵を進発させた。
山口の大内氏館に集った義隆方の緒将はここで一戦し館を枕に自刃することを主張たが、館は防ぐに向いていないため法泉寺に拠を移すことを薦める者も居た。
また寵臣ら(纏めにあるアイツとか)がそれを推したため、義隆は館を捨て、大内氏館の北、山間の法泉寺に入ることを決した。
それに従った兵三千余。本営を法泉寺に定め、迎撃のため冷泉隆豊らの緒将を近隣に配した。
ところがその夜、大内氏館退去を聞いた内藤興盛は叛旗を翻して陶方に参陣し、また法泉寺にあった義隆方の兵はその多くが逃散してしまった。
明けて二十九日、本営の守りを補強するため隆豊ら緒将を本営に呼び戻すことになったのだが、その使者に立ったのが阿川隆康。
義隆の侍大将・先手衆であり、平素より自ら十人力を誇っていた人物である。
皆その最期の戦闘はどれほどのものになるかと期待していたのだが、彼は本営召還の命を隆豊らに伝えた後、鎧兜を脱ぎ捨てて逃亡してしまった。
衆これを見て更に意気消沈したという。
昼頃になり、山口へ陶方の兵が押し出してきた。その数五千余。
それを迎えた隆豊らの緒将がいざ最期の戦と出戦しようとしたその時、ついと一人の兵士が進み出で、陶方の不忠を罵り責めた。
陶方の兵はこれに恥じ入って進まず、また義隆方も敢えて出戦せず、矢戦のみ行ったあと互いに退いたという。
その日、義隆は捲土重来を期して長門に逃れることとなる。
法泉寺に残った陶隆康(隆房の伯従父)は義隆の名を騙って陶方を引き付け、その嫡子隆弘や貫隆仲と共に戦死した。
名があろうとあるまいと、その人の生き様は土壇場に現れるのだなぁと思った次第。
0187人間七七四年
2013/01/17(木) 09:32:29.23ID:c9uPLLm2お合は山内一豊に仕える美濃侍 野中権之進良平と結婚して息子の良明を産んだ。
一豊は一人娘のよね姫と甥の良明を婚約させ、ゆくゆくは養子にして後を継がせることにしたが、
よね姫は天正13年に幼くして亡くなってしまったため、婿養子の話は白紙に戻ってしまった。
それでも、一豊は良明への愛情を失わず、土佐の大名になった時には良明に2万9千石を与えて
厚遇した。
一豊の死後、家督を継いだのは弟の康豊の息子にあたる14歳の忠義である。忠義の実父である
康豊が後見人として山内家を治めることになった。康豊は一時でも後継者候補だった野中良明を
うとましく思っていたのか、山内一豊の四十九日法要が済んだ後で良明を呼び出し、2万9千石の
知行のうち1万8千石を返還するように要求した。
この理不尽な要求に立腹した野中良明は怒りのあまり、わずかな家来を連れて土佐から出奔した。
そして、数年の流浪の果てに京都で亡くなった。
もし婚約者のよね姫が長生きしていれば婿養子として山内家を継ぎ、存分に手腕を発揮することが
出来ただろうに惜しい話である。
ちなみに良明の一人息子は後になって山内家の家臣となり、藩政改革で大いに活躍した。この
一人息子こそ土佐藩を建て直した名家老の野中兼山である。
0188人間七七四年
2013/01/17(木) 10:13:56.96ID:mQsqxy5j0189人間七七四年
2013/01/17(木) 12:19:41.85ID:mzEsTvx/0190人間七七四年
2013/01/17(木) 12:27:42.08ID:xGWKjNeo0191人間七七四年
2013/01/17(木) 17:17:05.13ID:kNCidfLH0192人間七七四年
2013/01/17(木) 18:19:31.83ID:Mp3UtaJ+そこに新しく松を植えたところ程なくして松茸が生えたとして、
松茸が献上されてきた。
秀吉は笑って「我が威光ならば、そういうこともあるだろう」と言った。
それから数度松茸が献上されてきたが、実は他所から取り寄せたものだった。
秀吉は左右の側近に向かい「もう松茸を献上するのはやめさせよ。
生えすぎじゃ」と言ったという。
――『老人雑話』
0193人間七七四年
2013/01/17(木) 19:26:18.57ID:baYWWs4p0194人間七七四年
2013/01/17(木) 19:38:22.67ID:TShLZXluhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-47.html
0195人間七七四年
2013/01/17(木) 19:52:25.14ID:9ci98yPY一豊も掛川時代に蔵入地の支配のことで秀吉に大目玉食らっていたり
するし、さして有能な人でもないわりに、妙に腹黒いイメージがあるな
0196人間七七四年
2013/01/17(木) 20:05:46.33ID:Ljq41Z5p決断し、久武肥後・福留隼人を大将として総勢800騎、本拠である岡豊を出立しようとする所に、
尼僧が一人、福留隼人の元を訪れ、畏まってこう、申し上げた
「私は、下田の百姓の妻でありました。
夫は死にましたが、常陸という一子があり、これを杖とも柱とも思い頼って生きていたのですが、
去年の秋、年貢の納入が遅滞した咎で、常陸は是非もなく殺されてしまったのです。
それから、このような、明日をも知れぬ老いの身の、頼る所もないままに、所縁の者になんとか
扶けられ、今日まで存命して参りました。
こちらではこの度、下田に御旗を向けられるということです。ならば!私が城中に手引きし、
お手を砕かれるまでもなく、城を焼き崩し、下田殿に思い知らせ、それを我が子への供養とし、
この老尼の、恨みを晴らしたいのです!」
そう言って、声を上げて泣いた。
福留隼人もこれを聞くと涙を流し、直ぐに国親に報告した。国親はこれを大いに喜び、
屈強な若侍3人を老尼につけて遣わした。
その上で、城中に火の手が上がれば攻め入るようにと、軍兵250騎を、福留隼人を大将に、
片山・衣笠の山陰に、10人、20人、5人7人と分散して忍ばせ、合図の煙を待った。
さて、老尼は3人の男を下人に仕立てて、一人には袋に衣装を入れて持たせ、残りの2人には
雑掌と思えるものを担がせた。これには火打石・火付け竹・その他兵具が入れてあった。
そして下女一人を召しつれ、下田の城のある蛸の森へと参った。
老尼は番の者に近づくと、「衣笠の何某の母ですが、御台所様へお目見えのため参りました。」
と言うと、番人は問題ないといって、懇ろにして彼女を通した。
元より内部の事は知っており、直ぐに木陰に隠れて支度をし、そのまま火をかけた。
その時丁度西風激しく、堀門矢倉に延焼し、黒煙が天を焼くように上がった。
城中はこれを敵の仕業とは思わず、何かの過失と考え、「火を防げ!財宝を避難させろ!」と
上へ下への大騒ぎとなっていた。
ここで国親が付けた3人の男たちが、そこかしこに走り鬨の声を上げると、隠れ伏せていた
長宗我部の軍勢は火の手を見て、貝を吹き太鼓を打ち、鬨を作って押し寄せた。
下田の城兵たちは大いに驚き、敵を防ごうとしたものの、城の猛火が襲い来て、
為す術もなく我先にと落ちていった。
これにより勇猛の名高き下田駿河守も、遂に討ち死にし、下田城は落城した。
この頃、誰が詠んだのか
『いでもせで 焼崩したる蛸魚の森 いかなべの料理なるらん』
という歌が人口に膾炙したそうである。
(土佐物語)
長宗我部国親の、下田城攻めに関する逸話である。
0200人間七七四年
2013/01/18(金) 11:22:49.61ID:EugR66oG「たけのこの里にございます」
「すぎのこ村にg…
0201人間七七四年
2013/01/18(金) 12:53:25.71ID:CQbuSB+b長宗我部国親にとっては城攻め成功、尼僧にとっては仇討成功で
普通に良い話に思えてしまった。
強いて言えば情け無用の徴税で恨みを買い破滅した下田駿河守の悪い話か?
(しかしこの尼僧、かつては「百姓の妻」だったという割に
巧妙果敢に城に放火するわ、若侍ら長宗我部陣営と見事に連携取ってるわと
本当は過去に忍者やってた前歴あるんじゃね?という位に工作レベル高いな)
0202人間七七四年
2013/01/18(金) 18:09:52.04ID:yadoiax/おもしろくなかったが力は及ばず、何とかして北条氏綱を亡ぼしたいものだと、
骨髄に徹して思い暮らしていた。
しかし、重病に侵された朝興は瀕死の状態になってしまう。
朝興は子息朝定、三田・萩谷以下の老臣を呼び出して遺言を残した。
「わしの命は尽きようとしている。汝等はしかと遺言を聞いて背いてはならない。
わしは氏綱と合戦すること十四度に及ぶが、一度も勝つことはできなかった。
この事が未来永劫の恥辱に思うのだ。この恥辱は妄執ともなるであろう。
よいか、わしが死んだら仏事作善よりもまずは氏綱を退治して国家を平定せよ!」
天文六年四月下旬、朝興は朝の露と消えた。上杉朝定は十三歳で家督を継ぎ、
父の遺言に従って仏事作善をかえりみずに、まず武州深大寺の古要害を取り立てて
城とし、氏綱を退治せんと支度を始めた。
しかし、この動きを知った氏綱が出兵したために河越城の戦いが勃発し、
朝定は敗北して松山城へ走った。
――『異本小田原記』
02031/2
2013/01/18(金) 22:06:04.11ID:9r6Gn5yu「其器傑出して、偏に興立の志ありければ、近辺の金銀衣食を与へて是を懐け、諸士に賄を厚くして
親みをなし、遂に人数を催して、土佐・吾川両郡に発向して、随はざるをば攻亡し、降を乞ふをば、
免して幕下になし、両郡く打摩け、猛威を振ふ事甚し」
と言われた傑物であり、長宗我部国親の成長を押さえつけた最大の障害でもあった。
永禄元年(原文ママ)六月十一日の早朝のこと、本山梅慶入道が庭の木々の梢を見ると、そこに
年の頃17・8程の美しい少女が、鮮やかな衣装を着て、松の梢に立ち、梅慶を見て
ニッコリと笑った。
梅慶はこれを見るや「誰か有る!弓を持って来い!」と声を上げ、若侍が何事かと急いで弓矢を揃えて
渡すと、梅慶弓を構えてその少女を狙う。が、少女の姿はかき消すように消え、虚空にただ笑う声が響き、
それは城に程近い、朝倉の宮の方へと消えていって。
4.5日ばかり後、城の大手に植えてあった杉の大木の根から火が燃え出た。
見る内に数百本に燃え付いて、黒煙が天を覆った。
人々は驚き、「水だ!熊手だ!」と騒いで近づいてみると、それは火ではなかった。なんと、
杉の枝々から、血が流れ出ていたのだ。
集まった人々は皆、真っ赤に染まって帰っていった。
このような不思議なこともあるのかと、上下の者共、囁いていた所、ある夜女の声で、
数百人ほども踊る音がした。
『これを聞けば、本山はまた本山になる』
と歌っていた。その夜は月明かりがあったのに、踊っている者達の姿は全く見えなかった。
その次の夜、2・3千人の声にて鬨の声が上がり、大石大木を崩す音がした。すわ!敵が寄せてきたか!
城内の上下の者たち、大いに騒いで城の外に出てみてみたが、人影すらなかった。
途方に暮れた本山の人々は、これはきっと天狗の仕業である、遠行寺において大般若経を真読あるべし、
ということになった。
やがて準備が整い、住持が真読を行うため、仏前に向かって勤行していると、どこからともなく、
大きな鼠が一匹、燈明の油注ぎの中に飛び込み油に浸り、そうして本堂の棟木に駆け上がり、身体を
擦りつけてまた走り下りて油に浸かり、再び棟木に擦りつけた。このような行為を行うこと、
百度あまりに及んだ。
02042/2
2013/01/18(金) 22:06:40.53ID:9r6Gn5yuたちまち火が付き猛火となった。
同宿の下部らは驚き騒いだが、住持は「これは、自滅の時が到来したのだ!経台を始め、寺の物一つも
持ちだしてはならない!このまま焼き捨てよ!」と言い、本尊の薬師如来だけは同宿に背負わせ、
寺の方を振り返ることもなく朝倉まで走った。
歴史と格式ある遠行寺はこれにて焼きつくされ、灰燼となった。
朝倉の宮の神主は、逃げてきた遠行寺の住持よりこれを聞いて驚き、
「これは只事ではない、当社の祟りなのだ!
それは何故かといえば、かつて、何のためだったかも解らないが、梅慶の下知によって、
この宮林の木を伐らせたことが会ったのだ。
この時私が出て、『神木を伐られるとは、一体どういうことでしょうか!?』と申し上げると、
梅慶殿は『これほど茂った林から、僅かばかりの木を伐ったからといって、どれ程の事があるものか。
それも神が惜しんでいるのではない、神人たちが私の心で惜しんでいるにすぎないのだ。
しかし、もし神が本当に惜しく思われたとしても、この梅慶はここの領主である、少しは
許してもらえるだろうよ。』と、大笑いされた。
なんと恐ろしいことであろうか。この宮林は大昔、斉明天皇の時代、当時の皇太子であった天智天皇、
そしてその弟君の清見原王子(後の天武天皇)が天皇の命により伐採したため、祟を受け、斉明帝は
間もなく崩御されたのである。
天子ですら宮林を伐採したために祟があったというのに、いわんや凡下の身である梅慶が、
奢侈のあまりに神木を伐るなど、どうして神意に背かないで済むだろうか。
なんと恐ろしいことだろう。」
と、語ったそうであるが、はたしてそれから間もなく、本山梅慶も死去したのだという。
(土佐物語)
本山城の奇異、という逸話である。
0206人間七七四年
2013/01/18(金) 23:19:40.48ID:EugR66oG0207人間七七四年
2013/01/19(土) 02:21:42.76ID:xrxrjIIm0208人間七七四年
2013/01/19(土) 09:51:10.91ID:o45zFqcb0209人間七七四年
2013/01/19(土) 10:25:23.61ID:dPgtRPnc0210人間七七四年
2013/01/19(土) 10:47:46.18ID:kWAbT5Np0211人間七七四年
2013/01/19(土) 14:38:14.20ID:8RQmEhTO0212人間七七四年
2013/01/19(土) 17:34:03.12ID:Ql6k2Qxxその辺気にしてか、長命な一族から
嫁もらってるな、福原、吉川、熊谷、高橋も久光は長生きだったし、乃美の大方も長生きだった。
地道な当主改良だったが残念ながら、
早死にした者は結構多い。
0213人間七七四年
2013/01/19(土) 17:55:54.31ID:kWAbT5Np吉川元春も鮭がなければ嫁のお陰で長命だっただろうに
0215人間七七四年
2013/01/19(土) 18:10:26.98ID:h3JffrHL0216人間七七四年
2013/01/19(土) 18:12:07.95ID:k/Asygyv中国でも周瑜は奥さんがきれいだから早死にして、孔明は奥さんが不細工だから周瑜よりは長生きした、
て評があった気がするが
0217人間七七四年
2013/01/19(土) 21:08:55.20ID:cnHI7wVaいつか書こう書こうと思っていた話をば
出典は北条五代記
かつて武州江戸城には上杉朝興が居を構えていたが、北条氏綱に城を奪われ河越城に逃げ込んだ
そこに追い込まれて十余年、病気を患い若くしてこの世を去り、その跡は嫡男朝定が継いだ
その朝定、服忌七十七ヶ日も経たないうちに深大寺城を再興し、反撃の準備にかかった
「親父の喪くらいちゃんと服せよJK。軍神も不孝者なんかに加護なんぞを与えないだろうになあ…」と民衆に噂される始末
さて朝定の動向を察知した氏綱は朝定勢が万全の備えで待ち構えている深大寺城を華麗にスルー、
一挙に上杉本拠の河越城の間近である武州は入間郡の三木まで軍を進めた
これに対して朝定も兵を繰り出し、ついに合戦が…始まらない
両軍の軍師「ちょっとまって、まだ吉兆が出てないから!あと五分、あと五分だけまって!」 呑気なものである
そうこうしているうちに日もどっぷりくれ丑三つ時、
空は晴れやかで満月の光が露草を美しく照らしだし、旗がたなびく田畑の中、虫達が鳴き声を競い合い、
もののふ達もそのあまりに詩情的な光景に勇者の道も忘れただただ感じ入るしか無かった…
軍師「GO/NOGO判断はGO!MINAGOROSHIにしろー」 空気読めよ、お前
打ち鳴らされる軍太鼓、響き渡る鯨波の声は高き天の雲にまで反響し、地獄の底にまで響き渡るかのようであった
互いに進みぶつかり合い、互いに矢を射かけ、その様はさながら神仏の争いの如き凄まじさ、
その一進一退の攻防にこれはちょっとやそっとのことでは勝負もつくまいと思われかけたその時、
上杉朝定方の一隊が崩れ、あとはもう将棋倒しのように一挙に瓦解し、日が明ける頃には河越城も北条方の手に落ちた
朝定は難波田弾正の松山城に難を逃れ、上杉家残党もそこに集結した
氏綱はそれを聞くと追撃を決意、勢いに乗って松山城に押し寄せる
難波田弾正は残党を率いて防戦するも、士気の差、数の差はいかんともしがたく敗走した
その時に例の詩合戦(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3372.html)の話になるのであった
夜襲じゃない方の河越夜戦の話
0218人間七七四年
2013/01/19(土) 23:46:24.98ID:ZXtKoq7+信之にいちゃんが短命だったのはK○MATSUが美人じゃなかったからではなく
ブ・・・わあ蜻蛉切でなにを
0220人間七七四年
2013/01/20(日) 07:03:45.50ID:tIWBcdkc人生50年位の時代だから元春はまあまあなんでは?
残念なのは息子の方、
隆元が元春位生きれたらね。
0221人間七七四年
2013/01/20(日) 07:08:19.73ID:tIWBcdkc訂正
>残念なのは息子の方、
残念なのは息子の元長の方、
>隆元が元春位生きれたらね。
後、隆元が元春位生きれたらね。
テルも少しはマシになったかもな。
0222人間七七四年
2013/01/20(日) 11:01:48.31ID:GJYFeAjgただ隆元が死んだことによって
それまでなめた態度の弟たちが猛反省、
スーパー両川になった節があるからなあ。
0223人間七七四年
2013/01/20(日) 12:18:30.11ID:1ig2Tq6e戦国時代の長宗我部家には芦田主馬太夫という陰陽師がいて、
現在もその流派が「いざなぎ流」と呼ばれてる。
0224人間七七四年
2013/01/20(日) 13:57:12.00ID:VMIu7Y9Oさて、この遣欧使節団がヨーロッパでどのように受け入れられたか、スペインの
記録を見てみよう
『マドリードの同村のフランシスコ会修道院とその院長は申し立てます。
日本使節が当宮廷に来た際、彼らのマドリード到着のわずか数日前に、インディアス枢機会議議長が
院長を呼びに人をよこしました。この日本使節を修道院に宿泊させるべし、とは陛下(フェリペ3世)の
賢明なる命令であると、議長は言われました。
その頃、宿坊と僧坊は大変窮屈な状態では有りましたが、陛下の御ためになることであるので、
使節と彼に従う30人の日本人を受け入れ、使節に心から、喜んで仕えました。
修道院は8ヶ月以上に渡り、階下と病室と、そして他の僧坊を彼らの宿泊に使用させました。
それらの部屋はすべて、本来、老齢で病の修道士をいたわり、養生させる所でした。
この間、多くの者がこの修道院を去りましたが、そのかなりを死亡者が占めます。
居室が不足していたため、老病の者たちを養生させるのに極めて不便だったためです。
この修道院のいたるところにあの蛮人(日本人)が居るので、我が国の者達が絶えず見物に来て、
その数は無数であり、彼らによって破損された箇所の修理もできない有様で、たいへん大きな混乱と
無秩序の原因となり、この修道院ではそれが常態にすらなりました。
ですが陛下の御ためになることであるので、彼らが宮廷を退くまで我々は、忍耐して全てを
耐え忍んできました。しかし彼らは、宿泊していたこれらの僧坊を荒らし、破損したままに
して行きました。それゆえ、それらを修理し、以前のように戻すためには、修道院の管理者は
非常に多くの金子を費やさねばならない程などです。』
(ヴィーリャ・イ・コルテ修道院による覚書)
さて、ここにある「宿泊していたこれらの僧坊を荒らし、破損したままにして行きました」とは
どういう事か?これも記録が残っている
『日本人が使節を奉ずるために宮廷に上がった日のことを証言する。
彼ら(日本人)は、宿泊所に当てられたフランシスコ会同修道院の僧坊に鍵を残していった。
そのため、留守中に一室が開けられ、刀や他のものが盗まれた。
盗まれたものの中には、寝台に敷いていた麻の敷き布三枚があった。
それは陛下が下賜されたものであったが、敷き布の持ち主に、代金が払われていなかったからである。
以上は真実であるので、私はここに、本日1615年4月、署名する。』
(フライ・イグナシオ・デ・ヘスースによる証言)
と、使節団が宮廷に上がっている間に略奪を受けた模様なのであるw
これによって修道院は大いに荒らされたのだ。
以上、支倉使節団を受け入れたスペインはマドリードのの宿泊先での記録である。
0226人間七七四年
2013/01/20(日) 14:41:29.15ID:wDv7vfvP0228人間七七四年
2013/01/20(日) 14:47:17.64ID:+C6uw1+y0229人間七七四年
2013/01/20(日) 14:50:25.64ID:bX1IcSA70231人間七七四年
2013/01/20(日) 15:21:44.40ID:3vk41j6c0232人間七七四年
2013/01/20(日) 15:24:17.81ID:rZERt5Az加賀藩から徳川秀忠への献上品を
小松姫が強奪しているから、
むしろ徳川秀忠のほうが真田に虐められていたと
判断するべきでは
0234人間七七四年
2013/01/20(日) 15:53:55.86ID:qC4l2zOUこれ使節団のせいじゃないよね
指定した宿泊先に泥棒が入るってフェリペ3世の威光が行き届いてないんじゃ
0236人間七七四年
2013/01/20(日) 17:52:33.11ID:bH2vIChk後にクリスチャンに改宗したらやっと受け入れてもらえたり
0237人間七七四年
2013/01/20(日) 19:54:49.40ID:Up3jsjfM0238人間七七四年
2013/01/20(日) 22:40:50.22ID:qC4l2zOU可哀想なくらいツイてない
0239人間七七四年
2013/01/21(月) 18:32:01.97ID:w82+h7jv「今日は『火』と申してはならない。何であろうと火と申した者は
必ず銭を出してもらうからな」と言った。
そのようなところに、御咄衆の前波半入が秀吉に申し上げた。
「実は私事で珍しい茶の湯に遭遇しました。木の釜を使っていたのです」
「なんと! その釜は火に焼けないものなのか?」
「では、銭を御出しください」
――『良将言行録』
0240人間七七四年
2013/01/21(月) 18:50:14.09ID:yDJApdJq0241人間七七四年
2013/01/21(月) 19:21:00.09ID:f2OaEZnK0242人間七七四年
2013/01/21(月) 19:38:05.70ID:l85OPTLIまあこっちの方が上品だけども
0243人間七七四年
2013/01/21(月) 20:08:06.66ID:M1qczVWh0244人間七七四年
2013/01/21(月) 23:05:43.99ID:cGGNbMLQ0246人間七七四年
2013/01/21(月) 23:39:44.51ID:zXsU+5fv0247人間七七四年
2013/01/21(月) 23:40:49.37ID:TzX/bKSZもしかしたら曽呂利噺に取り入れられているかもしれない
0248人間七七四年
2013/01/22(火) 00:29:14.37ID:R7CVAhBThttp://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1358777043/
鬼武蔵に比べたらかなり良心的なイスラムテロリスト...
0249人間七七四年
2013/01/22(火) 01:21:59.96ID:PNOCPoXy0250人間七七四年
2013/01/22(火) 04:04:12.64ID:1BmS8sxEttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-515.html
0251人間七七四年
2013/01/22(火) 11:45:18.36ID:C+X8rxWM0252人間七七四年
2013/01/22(火) 17:24:56.32ID:Z9CrnUO90253人間七七四年
2013/01/22(火) 22:50:39.20ID:JKUd/vIY0254人間七七四年
2013/01/22(火) 22:53:16.57ID:KjfK8raV0256人間七七四年
2013/01/22(火) 23:02:29.03ID:e1TzfBPVそう考えると今川の人質は意外と恵まれているかも。
0258人間七七四年
2013/01/22(火) 23:18:23.46ID:szTyxOIlメンタル的なイヂメはあるかもしれないけどさ
0259人間七七四年
2013/01/22(火) 23:30:44.20ID:HOxdM2s0同盟は手切れになったけど、殺されるところか親族と結婚して一門に
なった。
そして気がついたら跡継ぎ候補になっていた...
やっぱり人は見た目だと思う(´・ω・`)
0260人間七七四年
2013/01/22(火) 23:31:47.91ID:ZEZTVJ8s0261人間七七四年
2013/01/23(水) 07:34:20.54ID:67T9fInI悲劇的な人物は美化される傾向にある
それも後世になって出てきた不確実な情報
出っ歯の醜男説のある義経が浮世絵で美男子になってる現象もある 実物はどっちなのか
0263人間七七四年
2013/01/23(水) 08:29:45.80ID:K4svOgWU義経の時には数百人の妻妾でただ一人静だけが義経を追ったというので・・・
0265人間七七四年
2013/01/23(水) 09:13:45.15ID:Jx9EJUim0266人間七七四年
2013/01/23(水) 12:30:20.74ID:IPgng3p6人質なのに左衛門佐でお兄ちゃんよりちょっと格上な弟。
0268人間七七四年
2013/01/23(水) 13:46:28.38ID:Y0nq9o2V家康「後継者争い対象外の次男がやたら立派になって帰ってくるし、へんなブサイクを押し付けられるはで大変でした」
0269人間七七四年
2013/01/23(水) 14:46:03.42ID:IPgng3p6そですな。同じ位なので弟のほうがちょっと格上ってぐらいで済んでいるけど、
官位相当だと従七位下と従五位上なので、官だけだと圧倒的に弟のほうが格上。
侍従でも官位相当は従五位下だけど、従四位下に叙任されので、ようやく弟より格上になった。
でも、それ以後もずっと豆州とか、さいづとか言われているんだよなぁ…
0270人間七七四年
2013/01/23(水) 18:14:25.56ID:RhkJVVsk0271人間七七四年
2013/01/23(水) 18:14:40.57ID:RhkJVVsk0272人間七七四年
2013/01/23(水) 19:10:39.19ID:nzAR/2VI>侍従でも官位相当は従五位下だけど、従四位下に叙任されので、ようやく弟より格上になった。
ここ違うよ
官位相当はその時々で変動があるし武家官位もまた違う
そして特に豊臣政権時代は従来の形式と異なった形態を取っている
例えば秀吉の聚楽第行幸の際には侍従の大名は従四位下に叙位されていた(聚楽第行幸記)
またその後の従五位下侍従でも「四品の礼」は与えられていたとのこと
精華成=三位相当
公家成=四位相当
諸大夫成=五位相当
そして「左衛門佐は諸大夫成」で「侍従は公家成」に該当する
ちなみに従五位下の武士に与えられた官職は付随的なもの
下村效『豊臣氏官位制度の成立と発展--公家成・諸大夫成・豊臣授姓』
池享『戦国・織豊期の武家と天皇』
0273人間七七四年
2013/01/23(水) 19:30:45.01ID:nzAR/2VI中将、少将、侍従以外の四位は公家成に該当しなかったのではないかな
0274人間七七四年
2013/01/23(水) 20:13:22.28ID:HMDK0N41その中子に、金象嵌で刻まれた文字には
『永禄三年五月十九日義元討捕、則彼所持刀、織田尾張守信長』
(永禄3年5月19日に今川義元を討取り、その折に彼が所持していた刀である。織田尾張守信長)
と、書かれている。義元が最後まで持っていた太刀なのだという。
ところが、この太刀は義元が持っていた時点では別の名で呼ばれていた。
それは『三好左文字』という。
この『三好』とは、管領細川晴元の側近であり、三好長慶と激しく争った彼の叔父、三好政長の事である。
この三好政長が江口の戦いで長慶に敗れて討ち死にした時、持っていたのがこの『三好左文字』であるというのだ。
その太刀を、武田信玄に追放された武田信虎が。畿内を周遊していた時に手に入れ、これを義元に贈ったものだという。
三好政長、今川義元と、その所有する者を2代にわたり討ち死にさせた(信長まで入れれば3代である)、
数奇な太刀についての話である。
0275人間七七四年
2013/01/23(水) 22:08:44.34ID:Xtm37D+Sぶっちゃけ武将で数寄者と言えばこの人が元祖だよな
息子も数寄者でしかも手癖悪いし素晴らしい上に刀目利きでは幽斎の師
数寄者としての三好氏もかなりの可能性を秘めた存在
0276人間七七四年
2013/01/23(水) 22:32:26.22ID:o7s9aYFW大きな鳥居
http://uproda11.2ch-library.com/376996hvN/11376996.jpg
見取り図
http://uproda11.2ch-library.com/376997a8F/11376997.jpg
本殿
http://uproda11.2ch-library.com/376998ZH4/11376998.jpg
大文字山が正面に見えた
http://uproda11.2ch-library.com/376999Wh1/11376999.jpg
船岡山は京の真北
http://uproda11.2ch-library.com/377000XmB/11377000.jpg
0277人間七七四年
2013/01/23(水) 23:29:11.62ID:jpTOhSIvその頃、御旗本の若輩たちの間で丹前風という名の、髪の結い方から
刀脇差・服装に至るまでも異様な風俗が流行していた。
景憲の養子も若者だったので、彼もまた丹前風を学び、二面の鏡を用いて
髪を結っていたのだが、そこを養父・景憲に見られてしまった。
「若輩だからといって、武家に生まれた者が二面の鏡を用いて形を作るとは、
遊女男娼のふるまいだ!」と、景憲は腹を立てて咎め、養子を義絶してしまった。
その後、景憲は横田次郎兵衛の子を養子にした。これが今の又兵衛である。
――『良将言行録』
0278人間七七四年
2013/01/24(木) 00:02:44.85ID:ABbkugDD0279人間七七四年
2013/01/24(木) 10:53:48.62ID:KzxdUlrJ>でも、それ以後もずっと豆州とか、さいづとか言われているんだよなぁ…
いつ任官されたのかも定かではないし、侍従は何人かいるし
昔から使い慣れた兼官などで呼ばれるのはよくあるんでない?
0280人間七七四年
2013/01/24(木) 10:58:12.44ID:xoQfaxwK0281人間七七四年
2013/01/24(木) 13:00:19.28ID:KzxdUlrJ豊臣官位制度の中では、左衛門佐も伊豆守も従五位下で特に上下の区別がなく
空いている官に適当に押し込めただけなんだろうな。
江戸時代になると、「四品以上に昇進する大名家一覧」でWikipediaするとわかるけど
家ごとで完全に統制されるようになるね。
0282人間七七四年
2013/01/24(木) 21:15:45.13ID:/cMzjHMl九戸政実らが投降したことで諸将は各陣所に引き上げていったが、一方で南部信直は浅野長政の陣所を尋ねた。
「津軽為信は実父高信の仇である。幸いにも為信がこの地に在陣している。まさに天与の機会である。
この際、為信を攻めて父の仇を討ちたい。是非、貴将の許しをいただきたい。」
と申し入れをした。
これに対し、長政は
「この度の出陣は貴殿に対して謀反を起こした政実を討伐するためであり、
この機会に津軽為信に対し私怨を晴らさんとすることは認められない」
と拒否した。
この時信直は言葉もなく下がったが、次いで蒲生氏郷の陣所を訪れて同様の願いを述べた。
これに氏郷も同調、ともに長政の陣所を訪れ重ねて願いを繰り返した。
これに対して長政は
「為信は殿下に属し、それに拠って朱印を賜りたる者であり、此度も当地で十分武功を顕し、天下へ忠勤を示している。
そのような時に貴殿が私怨を晴らそうとする行為は容認できない。」
と拒否し、津軽為信には不測の事態を避けるために即刻の帰国を勧告し、為信は従って帰国した。
なお、後に名護屋で津軽が馬鹿にされたことで津軽家と浅野家は絶縁しているので本当にあったやり取りなのかは疑問が残る。
0283人間七七四年
2013/01/24(木) 21:56:55.38ID:sfOCPR+u0284人間七七四年
2013/01/24(木) 21:59:56.63ID:voF6uaqJ時流の読みとしたたかさの違い
0286人間七七四年
2013/01/25(金) 11:47:46.61ID:uij6e+ed0288人間七七四年
2013/01/25(金) 19:25:27.80ID:1XAQkbOF入れた。
この時、国虎の家臣であった畑山内蔵丞・右京の兄弟は、国虎の嫡男である千寿丸を阿波の矢野備後の元に
落ち延びさせ、その後故郷の旗山に帰ったが、安芸一族は皆滅び、その幕下はみな元親に降参していたため
自分たちの身を置く場所もなかった。
そこで、この畑山兄弟は元親家臣の野中三郎左衛門と所縁があったため、これを頼り、元親に降ることを乞い、
そうしてようやく畑山に居住した。
ところが、元親からの内命によって、香宗我部親泰はこの旗山兄弟を謀って安芸城に呼び寄せ。
そこで彼らに詰め腹を切らせて、殺害したのだ。
畑山の家臣たち36人はこの報を聞くと直ぐに集まり、涙を流して評議した
「さても!かのご兄弟をたばかり殺されるとは、無念というにも余りあることだ!
もし我々が従っていれば、あのように暗々と討たせることはなかったのに!
この上は安芸の城に押し入って香宗我部親泰を討取り、この鬱憤を散じよう!」
そうしてこの36人は皆で神水を飲み、出るを最期と思い定め安芸城に向かった。
これを知った香宗我部親泰は
「死夫の向かう所、砕き難き習いであれば、小勢といっても侮ってはならない!」と、屈強の兵200人余りを出して
これを防がせた。
36人の者たちは、元より覚悟のことであれば、切られようとも突かれようとも物ともせず、一歩も引かず、
一人残らず一箇所にて討ち死にした。
城兵も、数多討たれたのだという。
この事が岡豊に知らせられると、元親は
「哀れ、なんという剛の者たちだろう。一騎当千とは彼らを指すべき言葉だ。最も勇も有り義もあり、感嘆するに余りある。
その霊魂を弔わないでおくということがあるだろうか!そしてこれは、緒士に手本として見せるためでもある!」
そう言って、彼らが討ち死にした場所に、36本の卒塔婆を立て、数多の僧を請じて弔った。
それからはその場所のことを、『卒塔婆ヶ本と』呼ぶようになったそうである。
(土佐物語)
0289人間七七四年
2013/01/25(金) 19:56:34.90ID:pktUq91Wそれをネタに当主が人心掌握か…さすがに元親も戦国武将だな
0290人間七七四年
2013/01/25(金) 21:16:49.17ID:kbbZaQx10291人間七七四年
2013/01/25(金) 21:23:50.67ID:k43E7Hju0292人間七七四年
2013/01/25(金) 21:58:26.49ID:XkN8xL7S0293人間七七四年
2013/01/25(金) 22:03:49.98ID:kbbZaQx1しかし、どうやって兄弟を誘い出したんだろ?
やっぱり相撲見物か...
0294人間七七四年
2013/01/25(金) 23:57:48.96ID:Y9nw/FoC借りたいと伝えた。だが、道春は「手に入らなかったので」と、
最後まで貸さなかった。そのため、惺窩は、
「道春は非道の者だ。
図書編を手に入れたことは明白なのに、偽って無いと言うのは非道だ。
あるけども貸さないと言うむごさよりも、遥かに劣っている」
と、人に語ったのだとか。
――『老人雑話』
0295人間七七四年
2013/01/26(土) 09:04:42.24ID:wEgG3y830296人間七七四年
2013/01/26(土) 09:15:00.67ID:QDP4NrwQ藤原惺窩ってどうも好きになれないなぁ
0298人間七七四年
2013/01/26(土) 11:15:51.03ID:XHq7c7EC0299人間七七四年
2013/01/26(土) 12:45:31.60ID:jmXpP8jVhttp://www.youtube.com/watch?v=Wnn0gKoc8jI
0300人間七七四年
2013/01/26(土) 17:27:09.75ID:JQFp8nqq高尚な思想やら学んでるんだろうけど自分の行動は子供と変わらないんだよね・・・
0302人間七七四年
2013/01/26(土) 19:11:29.47ID:H3lkLhi5このスレ向きの人物じゃないけど、松平不昧も若い貧乏藩主の頃は「今の茶の湯は古道具商か」って批難してたけど、
藩の財政立て直しに成功してからは「名物は財産価値あるから」って結局高価な名品を集めだしたっていう
0303人間七七四年
2013/01/26(土) 20:14:46.08ID:nBFo//FR「明・朝鮮連合軍で日本占領しちゃって下さいよ」とか言っちゃうとか、
学はあるけどどこか足りてない人なんだと思う
0304人間七七四年
2013/01/26(土) 20:34:27.39ID:J0oJwCr2その一人で、支倉とともにフェリペ3世の宮廷で受洗した武士、ドン・トーマス・フェリーペについて、1622年の記録が、
スペインに残っている
『私、ドン・トーマス・フェリーペは、日本の(支倉)使節と共にこの宮廷に来た日本の武士であり、キリスト教徒に成りました。
陛下(フェリペ4世)の、今は上の御元におられる御父陛下(フェリペ3世)は、その姉妹、極めてキリスト教的フランス王妃
と共に我が洗礼の代父母になって下されました。
サフラ在住のディエゴ・ハラミーリョは、私トーマスが彼に仕えていた時、私が奴隷身分でないにもかかわらず。
(奴隷の印である)焼印を私に押しました。これは、私トーマスが給与の支払を求めたためなのです。
この侮辱に大して正義が行われるよう、陛下に嘆願申し上げます。
また、日本への帰国の自由と許可をくださるよう、陛下にお願い申し上げます。
何故ならば神の恵みによって、私は自由人にしてキリスト教徒だからなのです。
以上の請願をお聞き届けいただけるのなら、喜びと感謝に絶えません』
(1622年 ドン・トーマス・フェリーペよりの請願書 A.I.G.,Indif.1452.))
これに、スペイン宮廷のインディアス枢機会議は、1622年9月26日の会議において、彼に帰国許可を与え、
翌1623年6月7日、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)艦隊によって、「ドン・トーマス・フェリーペ、日本人」を、
彼が来た地に向けて送り返した、と記録されている。
(A.I.G.,Contrat.5539,vol.U,f.368r.)
スペインに残った武士についての、その後の記録である。
0306人間七七四年
2013/01/26(土) 23:59:19.02ID:X1wNx43t壺一つにつき二人の番をつけて守らせ、三井左衛門佐(吉正)を責任者とした。
家康は「窮屈にならず、大事に番をせよ」と、料理を下し、碁・将棋・双六の盤までも
遣したので、終日心安く番の仕事が行われた。その三日目に使いが来て、御用とのことで
二つの壺が引き渡された。
その後、家康が天守にやってきた。初めは「御番大儀。そのまま(碁や双六を)うっておれ」
などと言っていたのだが、壺を見ると三井に向かい「先日、十一の壺を預けたはずだが、
何故九つしかないのか」と尋ねたので、三井は「御用とのことでしたので御使に
二つの壺を渡しました」と答えた。
「それはわしの命がわかっていないのだ。お前は念を入れるだろうと思って命じたのに
配慮が足りないぞ。始めから大事にと命じたのだから、取りに来たなら他の者に跡を任せて、
お前もその使いに付き添うべきだろう」と、家康は三井を叱った。
これは家康が三井の心を試すために使いを取りに遣したのである。
このような次第だったので、家康の取り立てた衆はいずれも皆念入りの人であった。
――『紀伊国物語、徳川実紀』
0307人間七七四年
2013/01/27(日) 00:25:34.24ID:fsrXLPkh0308人間七七四年
2013/01/27(日) 01:40:11.90ID:a7EzabTl田崎外記がとてもきらびやかで派手な具足をつけ参陣した。
勝茂さまはその姿がお気にいらなかったようで、
それ以降、きらびやかで目立った物を御覧になると、
「まるで外記の具足のようだ」
と仰った、ということだ【葉隠】
0309308
2013/01/27(日) 01:48:54.11ID:a7EzabTl『この話から、武具というものは、
きらびやかで目立ちすぎるものは、
逆に凄みを失い弱々しく見えて、
相手にその心の内を見透かされ、侮られてしまうことがわかる』
0310人間七七四年
2013/01/27(日) 02:05:54.01ID:f6GCJYYj0311人間七七四年
2013/01/27(日) 02:38:29.52ID:pAZksPQb0312人間七七四年
2013/01/27(日) 03:12:29.38ID:eXEXYI+w0313人間七七四年
2013/01/27(日) 09:25:40.10ID:U+JEcG040314人間七七四年
2013/01/27(日) 13:19:34.04ID:IIJcNzxh0315人間七七四年
2013/01/27(日) 19:16:54.45ID:+zEci214信龍's 「「「そうだそうだ」」」
0316人間七七四年
2013/01/27(日) 19:43:28.56ID:YiBaonjf0317人間七七四年
2013/01/27(日) 20:14:38.40ID:awzvNXJe当主の座から追った甥・秀紀を毒殺した(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1276.html)。
蒲生氏は京の将軍家とも関係の深い家だったため、秀紀毒殺について将軍家から六角氏に追及があり、
六角義賢(※)は毒殺犯の僧・善知客を捕え、五十五度もの拷問にかけ真相を白状させようとした。
しかし僧は拷問に耐え抜き、自白しないので処刑するわけにもいかず、
とりあえず獄舎につないでおいた。
しばらく後、義賢は銀杏の紋の入った鞍を他国へ遣わそうとしていた。
しかし担当の者は無学だったので、漢字でイチョウをどう書くのか知らず(送る物の品目を書く必要があったのだろう)
更に周りの者共にも聞いてみたが、誰一人その漢字を知る者はいなかったのである。
「ま、まさか仮名書きで書いて送るわけにもいかないだろ…どうすりゃいいんだ…?」
どうすべきか話し合っていると、獄中の僧がこれを聞きつけ、
「イチョウの漢字を御存じないのか? 銀杏と書き、鴨脚という異名もある。」
と教えたので、義賢は「良いことを申したものだ。これで今回は恥をかかずに済んだ…」
と深く感じ入り、僧を助命したのであった。
(蒲生軍記)
(※)原文では義賢だが、義賢は1521年生まれなので父の定頼の間違いのはず
0318人間七七四年
2013/01/27(日) 21:08:09.76ID:GK/Zq8Q+それにしても55回の拷問に耐えるってのも凄いな
0319人間七七四年
2013/01/27(日) 21:39:54.17ID:nTGBlkvA良く生き延びたよな
それとも僧侶相手だから直接痛めつけない拷問だったんだろうか
寝かさないとか
0320人間七七四年
2013/01/27(日) 22:11:07.94ID:fsrXLPkh0321人間七七四年
2013/01/27(日) 23:47:22.68ID:HRn8JFsi丹羽家の大きな領地が、子の長重の代には豊臣秀吉に取り上げられて四万五千石に
なってしまった時、成田は広間で「誰か我に一味する者はいないか」と言ったのだが、
座の者は誰一人として答えなかった。
「お前たちは人間じゃない」と、成田は言った。
後にこれが秀吉に知られ、成田は(出奔して隠れていた)伊勢で誅された。
――『老人雑話』
0322人間七七四年
2013/01/27(日) 23:52:34.90ID:ZU0288WA他人の目に触れるとまずいので家に連れ帰る事にする。
嫌がる僧を風呂場に連れ込みお湯攻め。
充分お湯をかけた後は薬品を体中に塗りたくりゴシゴシする。
薬品で体中が汚染された事を確認し、再びお湯攻め。
お湯攻めの後は布でゴシゴシと体をこする。
風呂場での攻めの後は、全身にくまなく熱風をかける。
その後に、乾燥した不味そうな塊を食わせる事にする。
そして俺はとてもじゃないが飲めない白い飲み物を買ってきて飲ませる。
もちろん、温めた後にわざと冷やしてぬるくなったものをだ。
その後は棒の先端に無数の針状の突起が付いた物体を左右に振り回して僧の闘争本能を著しく刺激させ、体力を消耗させる。
ぐったりとした僧をダンボールの中にタオルをしいただけの質素な入れ物に放り込み寝るまで監視した後に就寝。
0324人間七七四年
2013/01/28(月) 01:02:22.84ID:c1txSWuXお湯攻めの後は熱風ではなく冷風がお勧めだそうじゃぞ。
でも冷風だと捗らないんですけど。
0327人間七七四年
2013/01/28(月) 23:46:18.10ID:aBPZahBa池田勝入は信長の乳母の子で、城介殿や常真と同じ乳房に育った人だ。
常真に向けて弓をひく理はないのに、小牧の陣で太閤の黄金五十枚にあざむかれて
常真の敵となった重悪の人である。
しかし、その子は備前、備中、播磨に手を伸ばし、因幡、伯耆に手を伸ばす子孫もいる。
一方で加藤肥牧(清正)などは律儀な人だが、子孫は既に絶えてしまった。
――『老人雑話』
0329人間七七四年
2013/01/29(火) 00:03:32.99ID:piD4P2sK勝入入道と同じ乳房で育ったのは、城介殿や常真さんのパパの信長さんだと思うの・・・
0330人間七七四年
2013/01/29(火) 12:14:37.59ID:hpGkLg9I俺は50手前だがまだまだ元気で白いミルクがいっぱい出るぞ
0331人間七七四年
2013/01/29(火) 12:17:13.67ID:d1qysb2o0332人間七七四年
2013/01/29(火) 12:51:37.96ID:e+3He9uu03331/2
2013/01/29(火) 18:39:16.52ID:QkWcQkiV長宗我部元親が仁井田を巡見し、堂原に至った所に、槿花の宮という祠が有った。
元親は、これは聞いたこともない祠だと思い、現地の老人を召し寄せその縁起を尋ねた。
老人が畏まって申し上げるには
「この宮については、不思議な物語があります。
志和の城主和泉守の息女は、容色無双の美人でありました。これを西原藤兵衛重介が娶り、
比翼の語らい(いつも寄り添って語り合っていること)の夫婦仲であったのだが、
ある時この妻女が藤兵衛に涙とともに語った
「私には悩ましいことがあります。どうか暇を与えてください!」
藤兵衛は驚き
「これは心得ぬことを。私はお前と、二世までとも思っているのに。さては他の誰かに想いを寄せているのか!?」
これに妻女、涙をこぼし
「申すも恥ずかしいことですが、申さねばお疑いなさるでしょう。
実は、夜な夜な私の寝室に通って来る者があります。どこから来たとも知れず、又如何なる者とも知れず、
夢ともなく現ともなく忍び入ってくるのです。
初めの頃は私もこれを拒みました。しかしついにこれに従い、終夜語らい、この者が帰ったと解ると、
夢が覚めたようになるのです。
始めは、これは夢だと思いました。しかし彼は一夜も欠けることなく現れ、生臭い移り香も感じました。
一体どんな化生の仕業でしょう?わたしは、心ならぬ事とは言いながら、あなたと二世を約束したのに、
このような浅ましいことになってしまいました。
どうかお暇を下さり、私は急いで里に帰ります。とにかくもそうしないと…」
そう、声を上げて泣いた。
しかし藤兵衛はこれを聞いて呆れながら
「一体何を言っているのだ?お前は私と枕を並べて寝ているではないか。それなのに
私が知らないのだから、それは夢に違いない。
そんな夢で、私がどうしてお前を厭う事があるだろうか?そのような事を気にしないように。」
と、苦笑しつつ言った。
だが一方で『もしかして、浮気をしていて私を欺いているのだろうか?いや、不思議のこともあるものだ』
と思い、様々な祈祷をし、憑物落としなどもしたが、妻女はただ、物思いに沈む体であった。
大永七年(1527)三月二十二日、未の刻(午後2時頃)の事である。
妻女は藤兵衛に向かい、世の中の儚い事などを語っていたが、何気なく、ふと立ち上がり、縁の方に
行くかと思えば、庭の梢の上を、まるで平地を行くように歩いて、塀の上にたった。
藤兵衛は突然のことに驚き駆け寄って、彼女を引き止めようとしたが、妻女は
「藤兵衛殿、さらば!」
と言って塀から飛び降りると、はたひろ(約4メートル)ばかりの大蛇となって、淵の中に入っていった。
不思議というのも愚かなことである。下女や端女達は大いに恐れて逃げまわり、藤兵衛は、
妻女がこのような事になったのを見ても、どうしても彼女を名残惜しく思い、途方に暮れて嘆いていた。
そうして、しばらく経った頃の事
あの妻女の父である和泉守が常に召し使っていた次郎介という下部(卑役の雑人)が草刈りに出て、
その川上で鎌を落とした。あたりを見ても見つからず、草を分けて探していると、気がつけば
広々とした野に出た。四方を見渡してみても、全く見慣れぬ場所で、帰る道も解らず、仕方なく
足に任せて歩いていると、そこに大きな築地塀があった。
そして大きな門を始め、中の家も結構と言うばかりの立派な作りである。
門の中を覗いてみると、人一人もおらず、思わず奥に入ってみると、そこに一人の女性が機を織っていた。
03342/2
2013/01/29(火) 18:39:54.32ID:QkWcQkiV次郎介は驚いた。それはあの、藤兵衛の妻女だったのである。
「ど、どうしてこんな所にいらっしゃるのですか!?姫君が行方不明になって以来、ご両親様のお嘆きは
言葉で表すことも出来ないほどでした!そして御母上君は終に嘆きのあまりお亡くなりになり、
御父上君も嘆きに身体を崩され、今はお命も危ういように見えます。
姫君様!さあそこから出てください!私がお供いたして、帰りましょう!」
妻女はこれを聞くと涙を流しながら
「私がこのようになって後は、我が二親のお嘆きを思って朝暮に悲しく、我ながら浅ましく思っています。
であるが、これは前世からの縮合であるため、仕方のない事なのです。
せめて父君に、このような有様ではあるが、子も多く産んだと言うことも伝えなさい。
少しはお嘆きを安める事も出来るでしょう。
私が再び、人界と交流する事は出来ません。これだけは悲しく思っている。
今日はここの殿も、あびやうし殿といって、ここから二十町ばかり北にあびやうしが淵の主があり、
それへの慰めのため、眷属共をみな引き連れて参られた。よい隙なので、お前にここを見せ、また
今の状況を父君に伝えたいと思い、お前の鎌を取ってここに隠したのです。
お前の鎌はこの機に懸けてあります。これを取って帰り、この有様を詳しく父君に申し上げてください。
絶対に他人には語ってはいけませんよ。」
そう申し渡され、次郎介は
「で、では、お子様達はどこにいらっしゃるのでしょうか?」
と尋ねると、「あそこで昼寝をしています」という。そこでそちらに行って見てみると、
数知れぬほどの小蛇が、うずくまり重なり伏せていた。
次郎介は身の毛がよだったが、何でもないようなふりをして「ど、どうか殿の留守の隙に、
故郷にお帰りください!御供仕ります!」と重ねて申し上げたものの、妻女は涙にむせび
「私もそうしたいが、再び人界に戻ることはならぬのだ。お前は殿の戻らぬ内に、急ぎ帰りなさい!」
と言われ、もはや致し方なく、「又こちらに参ります」と出立すると、妻女は名残惜しげに
見送った。
次郎介が四、五町ばかり歩くと、元の川端に出た。後ろを振り返って見ると、今来た道はどこに行ったのか、
川が流れ草が生い茂り、その跡形も見えなかった。
次郎介はあまりに不思議な事だと思い、友人達に「このような事が有った」と語ったが、
恐ろしさに舌を震わす者も有ったが、「そんな馬鹿なことがあるか」と否定する者も多かった。
と、そんな所に次郎介は、にわかに物怪のように踊り狂い
『人に語るなと言いしものを、悪い奴かな!我が棲家へ連れて行くなり!』
と大声で叫び、その夜行方知れずとなった。
西原藤兵衛はこの話を聞いて
「わが妻女が蛇道へ落ちたとは、なんと嘆かわしいことだろう。一体どういう業因なのだろうか。
せめてその苦しみを助けてやりたい。」
そう思われ、この祠を建てられ、槿花の宮と名付けられました。なんといじらしい心でしょうか。
西原藤兵衛は深く嘆きましたが、間もなく空しくなり、子も無かったためその跡も絶え、城には住人も
おりません。妻女の父和泉守は、悲しみに耐えず、志和の里に天神の宮があったため、一社に祀りこめて、
北野の天神、今天神など、一社の中に社壇を並べられましたが、後に、妻女が蛇道をを免れた事が
新たに御託宣あり、諸人これを承り、有難きことと肝に銘じたのであります。」
長宗我部元親はこれを聞くと「そうであるなら西原の城を見よう」と立ち入り一見した。
この城は山の尾先、屏風のような切崖の上に塀をかけており、下は鵜の巣の淵といって、
深いこと限りなく、その藍の水の色からは、大蛇が住んでいるというのも偽りではないと感じさせた。
こうして元親は高岡郡の城々への仕置の下知を完了し、岡豊へと帰られた。
(土佐物語)
0335人間七七四年
2013/01/29(火) 22:31:42.54ID:HfG/u7B+0336人間七七四年
2013/01/29(火) 23:35:31.62ID:gJtbY3kA蛇×美女とかいくらなんでもマニアックすぎでしょう
0337人間七七四年
2013/01/29(火) 23:37:09.82ID:2atgh01A0338人間七七四年
2013/01/29(火) 23:41:52.43ID:emQAy27q計ったが、二男の松田左馬助は同心しなかった。
後に太閤は左馬助を誅殺しようとして「松田を誅せよ」と、黒田如水に命じた。
ところが如水は聞き誤った様子で、尾張と新六郎を殺してしまった。
太閤は如水を責めたが、聞き誤ったということで、さしつかえなかった。
これは如水一生の大事件だった。
左馬助は後に加賀大納言に仕えて五千石を領したが、近頃死んだとか。
――『老人雑話』
実際は笠原については左馬助の注進があった時点で殺されている。
0339人間七七四年
2013/01/29(火) 23:48:44.00ID:2atgh01A坂口安吾「二流の人」にも出ているな
0341人間七七四年
2013/01/30(水) 00:58:35.08ID:1VXwlu3Z蛇女は陰の気が強いから男は死ぬか瀕死化になるけど
狐なら、孫だとされている栗林義長がおるね
0342人間七七四年
2013/01/30(水) 01:06:40.00ID:dNqXk2JW安倍晴明も妖狐・葛の葉が母親という説もあるね
0343人間七七四年
2013/01/30(水) 12:40:34.97ID:6xFcnk2s0344人間七七四年
2013/01/30(水) 12:58:38.18ID:CUb0+MDX如水さんだから許されてるけど二流どころの武将だったら怒りを買って切腹だろう
0346人間七七四年
2013/01/30(水) 13:14:08.27ID:pSHQSXmM0347人間七七四年
2013/01/30(水) 14:42:07.21ID:K8W3+3LZ0349人間七七四年
2013/01/30(水) 15:54:15.32ID:6xFcnk2s天下統一イベントでな
不忠者はいらないでしょ
0350人間七七四年
2013/01/30(水) 17:03:47.30ID:rmMALY3x0352人間七七四年
2013/01/30(水) 17:17:15.58ID:ypS6ksqG0356人間七七四年
2013/01/30(水) 23:58:22.92ID:xoPSghuK始めは微々たるものだったが、筑前一国を与えられたので筑前中納言殿という。
治部の乱までは二心もなく、伏見城を攻落した。伏見城は鳥居彦右衛門が守っていたのを
金吾殿が攻落した。その時、金吾殿は抜群の賞禄があるだろうと思っていたが、
治部にそのつもりがないと見て心替わりし、関ヶ原で東照宮に属して治部を攻め滅ぼし、
その忠によって備前美作を宇喜多殿のごとく遣わされた。
――『老人雑話』
0358人間七七四年
2013/01/31(木) 11:24:51.31ID:kMMhBF0x張良を見習っただけ
0359人間七七四年
2013/01/31(木) 11:47:30.71ID:pCXFRDOj0360人間七七四年
2013/01/31(木) 21:47:12.57ID:nEkc9jOhそういえば、秀吉って劉邦ほどには功臣殺してないなぁ。
身内は秀次を筆頭にかなり不幸な目にあわせたけど。
0361人間七七四年
2013/01/31(木) 21:49:48.06ID:VfpptJNS0362人間七七四年
2013/01/31(木) 21:54:49.63ID:rnWsM+Ymなんで殺されたのかサッパリわからん人がゴロゴロいるw;
0363人間七七四年
2013/01/31(木) 22:24:03.88ID:NqBMAViV茶坊主とか門番とかはまぁ別として…
0364人間七七四年
2013/01/31(木) 23:01:04.74ID:ftL6n08a0367人間七七四年
2013/01/31(木) 23:34:28.58ID:VfpptJNS三十六人手打ちにしたあの方とか、触るモノみなぶっ殺すあの鬼とか、
ロクでもねえな…
0369人間七七四年
2013/02/01(金) 00:10:30.36ID:ojd14J+c0370人間七七四年
2013/02/01(金) 00:32:44.64ID:sA9e94wCわけはないか
0371人間七七四年
2013/02/01(金) 00:34:21.73ID:nBaR6HsR備前のあのお方じゃあるまいし
0372人間七七四年
2013/02/01(金) 01:38:55.25ID:y2S2LRuz勝ち組と負け組が明確になって、
体制派と反体制派にわかれやすいってのはあるかも
0373人間七七四年
2013/02/01(金) 02:29:31.03ID:YO9iI/fOいつやるか油断出来んてのなら奥羽辺りにいたかもしれんけども。
0374人間七七四年
2013/02/01(金) 09:29:19.65ID:7ZtKo2qt徳川政権は豊臣政権が全国統一の基盤を固めたからこそ多少の混乱があってもうまくいった。
シナの秦と漢の関係と似ている。
0376人間七七四年
2013/02/01(金) 10:26:23.78ID:XfCy3cnR0377人間七七四年
2013/02/01(金) 10:52:10.69ID:Ll0MaEDq僻地に追いやった→うじさと
0378人間七七四年
2013/02/01(金) 11:08:16.00ID:YO9iI/fO0379人間七七四年
2013/02/01(金) 14:54:04.30ID:lgQ/A4q5この卿は元来から性格が軽薄であり、常に放蕩を好まれ、人の嘲りも顧みず、日夜酒宴・雄興に耽り、
男色女色しへつらいを受け、又は山河に漁猟を事とし、軽業、相撲、異相の者に熱中し、
近習の輩とは主従の隔てがなく、まるで親友同士のように肩を押し膝を組む有様であった。
ある時は男女を集めて踊りを踊らせ、その中に立ち交ざり、祭礼の場や説法の道場にも、
深編笠をかぶり頬かむりをして人々に交ざり、男に触り女にもたれかかり、様々な戯れをされていたが、
人々がそのことを知らないとでも思われていたのだろうか、外様の人々に向かっては、立ち振舞・行儀重々しく、
目を見返すことすらセず、軽々しく言葉もかけなかった。
鷹狩、巻狩などの折に、往来の旅人がそのことを知らず、傘をかぶったまま、あるいは馬に乗ったままで通りすぎようとする
者があれば、奇怪であると鉄砲を撃ちかけ弓を射かけ、又は人を駆けさせその者を打擲させた。
無礼不義を許さぬと、僅かな罪であっても許すことがなく、大小上下、心を安んずる時がなかった。
老臣である、土居、安並、羽生、為松といった人々は、主君に不義があるのを見て諫言をしたものの、
これを受け入れることもなく、慢心のままに振舞われていた。
(土佐物語)
長宗我部の立場からの記事であるが、一条兼定の放蕩についての記録である。
0380人間七七四年
2013/02/01(金) 15:17:23.05ID:MNSsPeLy0383人間七七四年
2013/02/01(金) 23:04:49.07ID:U9Ql8MBfむしろこの2人は徹底的に下手をうちすぎた感がある。
神子田は妙な意固地を立ててラスボスを完璧に怒らせちまったし
尾藤は小田原戦終了後に帰参の求めなんかするから、「やる気あるのか?」と
ラスボスの不興を買ったし(同じ古参の臣である一柳が討死しているから特に)
>>368
古参の生き残りの宮部とか傍においているし、別に功臣を疎んじてはいないが。
と・・・いうか、この手の功臣冷遇で名前が挙げられているクロカンなんて、
譜代の中では領地面で滅茶苦茶厚遇されているぞ。
表高でこそ福島や加藤なんかに負けているけど、自己申告の検地だから、けっこう
裏石高があったっぽいし、ラスボスもそれを黙認している。
0384人間七七四年
2013/02/02(土) 10:58:13.36ID:FdNgoi5U0385人間七七四年
2013/02/02(土) 18:36:09.17ID:5X37aWTDその他に保科正之、石川忠綱、松平親英らとも面会した。
ある時、保科邸にいた際に儒士の某が「儒家は雷を陰陽によるものと見る。
仏家はどのように見るのか」と質問した。
愚堂は背後の歩障を叩いて「轟!轟!轟!」と声を出し「斯くのごときものじゃ」
と、答えた。某は口をつぐんで退いた。
――『近古禅林叢談』
0386人間七七四年
2013/02/02(土) 18:53:06.12ID:yc3dpVV8大御所「それは恐ろしい」
0387人間七七四年
2013/02/02(土) 20:04:25.15ID:Yp8Hd7hg「とにかく大阪に上がると決めた上は、片時も急がなくてはならない。
供の人数が多いのは良くない。士が80人ほど、雑兵180人ほど、日限は10月1日である」
と決定し、皆その準備のため退出しようとしていた所、久武内蔵助(親直)が進み出て申し上げた
「今度大阪に御上りされるのなら、その前に津野殿(津野孫次郎親忠)を殺されるべきです!
何故かといえば、津野殿は藤堂和泉守(高虎)殿と御入魂であり、今度我々が反逆に与したのを幸いに、
土佐のうち半国は津野殿に宛てがわれるように、取持ちをすること疑いありません!
その時になって後悔しても後の祭りです。急いで孫次郎殿を謀り呼び寄せ、詰め腹を切らせるべきです!」
これを聞くと盛親は顔色が変わり
「これは内蔵助の言葉とも思えない!この盛親は庶子ではあったが、長男の弥三郎殿(信親)は討ち死にされ、
五郎次郎殿(香川親和)は不幸にして早死され、孫次郎殿は他家を継がれていたために、私が家嫡となったのだ。
これは、実際には亡き父上の、私に対して慈愛が深かったためである。
それに、今回謀反に与した上は、公儀よりの御赦免はただでさえ計り難いものである。
その上に津野殿に腹を切らせては、重罪を逃れることは出来ない!
この事が、例え露見しなかったとしても、兄を殺して自分の身を立てるなど、出来るものか!」
そう苦々しく言い捨て、これには久武も、返す言葉も無く退出した。
ところが久武内蔵助は自宅に帰って思案し
「今回の私の進言が津野殿に聞こえれば、きっと深く恨まれるだろう。そうなっては、どんな事をされるか
解ったものではない。よし、たばかって討ち取るのだ!
盛親公とて今はあのように言っているが、いざ所領を分割されれば必ず後悔するだろう。
しかし、私一人でこの事は出来ない。」
と、かねてから親しくしていた津野藤蔵を急ぎ呼び寄せ、暗に自分の計画を伝えると藤蔵も同意し、
この事は時間をかけてはならぬと、その場から津野親忠の元に、盛親からと称して直に使いを立てた。
使いは「今回の(関ヶ原での敗戦の)件に関して、ご相談したいことがあります。
赤岡にてお待ちしておりますので、どうか急ぎお越しください。」と伝えた。
これを聞いた津野親忠は、「家の安否はこの時である」と、取るものもとりあえず手勢少々を引き連れ
赤岡に向かって急ぐとこにに、久武内蔵助は人を遣わして、先ず岩村の吉祥寺に入るよう伝えた。
一行がここでしばらく休憩していると、久武と津野藤蔵が数百騎を引き連れ押し寄せた。
「土佐守殿(盛親)の仰せである!孫次郎殿、急ぎ御腹召されるべし!我ら二人、御介錯のため罷り越しました!」
この突然の自体にも。津野親忠は少しも騒がず
「一体何の罪によって、この親忠を謀り寄せて、討ち手を差し向けたのか!?
血の繋がった兄を殺して、自分が安泰になどなれるものか!天罰たちまちに来て、すぐに思い知るであろうよ!」
そう吐き捨てて直ぐに切腹しようとするのを郎党たちが押しとどめ
「これはなんと口惜しいお振る舞いでしょうか!?何の罪で、おめおめと御腹を召されるとのでしょう!?
ここは寄せ手の奴原を追い散らしてやるべきです!」そう、打って出ようとした所、津野親忠は
「お前たちの志は誠に神妙である。だが、もはやとても逃れられぬ状況だ。
この親忠は自害する。だがお前たちは、何方へも立ち退き、妻子を養ってやれ。」
そう言うやいなや腹を十文字に掻き切った。
これを郎党の久松源蔵が介錯し、その太刀を持ち直し、自分の喉笛に突き立て、主君の死骸にうち重なって死んだ。
津野親忠、享年29歳。戒名は教山寺雪庭宗筝と号した。これにて、土佐津野氏の正統は18代にて断絶したのである。
この久武内蔵助親信の父・肥後守則義、兄・内蔵助親直は、性格柔和にして、信頼厚く
忠義を専らにし、主君の不義を諌め佞奸を退けたため、人々は皆彼らを敬ったというのに、
今の内蔵助親信は、親にも似ず兄とも違い、奸佞にして邪智深く、人を滅ぼし身を立てようとする人物であった。
このような悪人が威を振るえば、どんな事が起こるのかと、心ある人々は嘆いていたが、
彼は蓮池、此江山を始め武功の者たちを讒言し、今またこのような悪事を行って、
結局は長宗我部家を滅ぼしたのである。
(土佐物語)
0388人間七七四年
2013/02/02(土) 20:11:10.62ID:NAZeXtiQ0389人間七七四年
2013/02/02(土) 21:18:44.06ID:7eErHXlAこの逸話?
長曾我部宮内少輔と書かれているが
0390人間七七四年
2013/02/03(日) 01:19:56.57ID:lidqeqCk0391人間七七四年
2013/02/03(日) 08:01:01.44ID:wW0No1gv0392人間七七四年
2013/02/03(日) 09:37:06.73ID:EVY1IRcA0393人間七七四年
2013/02/03(日) 09:44:22.58ID:Rvo8ZQwG確か秀吉が元親の後継者として指名したのは他の人物だったとか
0394人間七七四年
2013/02/03(日) 10:58:27.33ID:lidqeqCk元親の死去が秀吉死後だから、ゴタゴタしてたんだろうなぁ
領知宛行状も出てない筈だし
0395人間七七四年
2013/02/03(日) 11:01:07.97ID:sbncRgEz前ちょっと出てた公家成、諸大夫成とかいうのだよな
国持大名でありながら諸大夫成でもなかったのか
0396人間七七四年
2013/02/03(日) 11:30:16.01ID:lidqeqCk0397人間七七四年
2013/02/03(日) 11:36:10.14ID:lidqeqCk0399人間七七四年
2013/02/03(日) 12:22:24.68ID:lidqeqCk徳川秀忠、宇喜多秀高
微妙な例としては、毛利秀元が秀吉に輝元の後継と認められた時点で侍従になってるのと
前田利長が前田家が清華になる前に侍従になってる。
0400人間七七四年
2013/02/03(日) 17:47:26.27ID:f95ciS3rこれに平八郎が「御引き上げなさるべきです」と申し上げると、家康は「腰抜け!」
と、叱った。平八郎は「腰抜けの覚えはございません」と言った。
また、家康は酒井忠次を呼んで「平八郎は引き上げろと言うが、お前はどう思う」
と、尋ねた。忠次は「若い平八郎の意見ではありますが、私も同じ意見です。
もっともだと思います」と、申し上げたので、家康は引き上げたのだが、
その様子は少々みっともないものだった。
そのため平八郎は「私は最後まで敵に押付(鎧の背の上部)を見せませんでしたよ」
と、家康を風刺した。この時、忠勝は十八歳だった。
――『良将言行録』
0402人間七七四年
2013/02/03(日) 18:34:15.44ID:N57BYism0403人間七七四年
2013/02/03(日) 19:01:03.81ID:wXP5DRQl0404人間七七四年
2013/02/03(日) 19:33:27.59ID:ztwanxXe高天神とか、姉川とか
まあ、長久手のときも無茶だったかもしれないけど、それは計算ずくに違いない
0405人間七七四年
2013/02/05(火) 14:05:37.66ID:3vM630+7禁止とはなったものの信仰をというのは人間の内面の問題なので検めるのは難しい。
幕府側は苦慮した末キリシタンが崇める教主を象った浮き彫りを作り
それを踏ませる事で非キリシタンである事の証明とすることにした。
踏み絵である。
早速奉行は鍛冶屋に踏み絵となるものを注文した。
しかし注文を受けたこの鍛冶屋はキリスト教について全く知らなかった為
奉行側から肖像を詳しく聞き出して製作することとなった。
奉行からの注文と言う事で未知の製作物ながら意匠を凝らして踏み絵を完成させたが
何の目的で使うものなのか鍛冶屋は知らなかった。
完成した踏み絵を持って鍛冶屋が奉行の下へ赴くと
奉行は踏み絵の出来に満足し、鍛冶屋を誉めた。
鍛冶屋も奉行直々にお誉めの言葉を賜った事に平伏したが、
注文した奉行と対面しているのは良き折であると思ったのか
これは何に使うものなのかと奉行に尋ねてみた。
奉行は鍛冶屋の問いにこう答えた。
奉行
「これはキリシタンを見つけ出すために使うものである。
キリシタンの教主を象ったこの浮き彫りを踏めなければ
キリシタンであるとして厳罰に処すのだ。
事の初めにまずお前から踏んでみよ。」
鍛冶屋はこの答えに驚き踏む事は出来ないと拒絶した。
奉行
「なぜか。お前はキリシタンなのか。」
鍛冶屋
「いいえ、私は神仏に誓ってキリシタンではありません。」
奉行
「では何故踏まないのか。」
鍛冶屋
「これは私がお奉行様の為に丹精込めて作り上げた作品です。
私の作品を足蹴にするなど出来ません。」
奉行
「しかし踏めずば罰するというのが決まりである。
踏めなければお前をキリシタンとして罰さねばならないのだぞ?」
鍛冶屋
「それでも構いません。」
こうして踏み絵を作った鍛冶屋は処刑された。
踏み絵によって最初に死んだのは、踏み絵を作った非キリシタンの鍛冶屋だった。
0406405
2013/02/05(火) 14:06:36.21ID:3vM630+70407人間七七四年
2013/02/05(火) 14:35:05.71ID:y3AZVCV5悲しい話だな
0408人間七七四年
2013/02/05(火) 14:59:11.92ID:ytqKMuJn0409人間七七四年
2013/02/05(火) 15:20:11.08ID:Addo4ChY授業中の"面白い話"を今思い返してみると、トンデモだったり、イデオロギー込みだったりが多かったな
0411人間七七四年
2013/02/05(火) 16:00:25.45ID:niwVIRcYそして天正11年(1583)
小牧長久手の前哨戦として、羽柴秀吉が滝川一益の居城・伊勢亀山城を攻撃した時、
この軍に従った一豊とともに真っ先に進み、大いに武功を表し、そして壮烈な討死をした。
時に32歳であった。
五藤吉兵衛には祖父江新右衛門といって、これも同じ一豊の家臣であり、年来の親友が有った。
吉兵衛が死んで、祖父江はこんな事を、人に語った
「私と吉兵衛の仲の良さというのは、親族以上のものだった。
あいつとはいつも、怒ることもなく、隠すこともなく、戦場に挑んでも共に励んだものだが、
私はいつも、吉兵衛に劣っていたよ。
今度の亀山城攻めの前の夜、私の陣に吉兵衛がやってきて、夜半過ぎまで軍物語をしていてな、
そこで、お互いの今までの手柄を数えてみたんだ。
自身で敵の首を獲ったこと、吉兵衛は26回。私は24回。
生け捕りをしたのは、吉兵衛が15人、私が11人。
敵の城に乗り込んだのは互いに6回。
敵と組み打ちをしたのは、吉兵衛が7回、私が9回であった。
吉兵衛はその時こう言った
『組み打ちはお主に負けたなあ。』
私は言ってやったんだ
『いいや、もう一つ勝っているものがあるぞ』
『それは何だ?』
『私のほうが5つ、歳が勝っている。』
お互いに大笑いしたものさ。
その夜は互いに酒を飲み、物語して別れたが、これを暇乞いにして、翌日、吉兵衛は討ち死にした。
私は、比翼の友(二羽の鳥が一体になって飛ぶように仲睦まじいこと)を失ってしまった!
もはや戦場に挑んでも勇む気持ちになれず、酒宴の席で楽しむ気持ちにもなれないのだ。」
そう、涙を流して語ったのだという
(土佐物語)
0412人間七七四年
2013/02/05(火) 17:33:28.20ID:SnRRoljf一眼一翼の“雌雄のつがい”が一体となって飛ぶという想像上の鳥。
「天にあっては比翼の鳥となり、地にあっては連理の枝とならん」
と詠われているように男女の仲睦まじい様を表す。
アッーーー
0415人間七七四年
2013/02/05(火) 21:18:20.16ID:Kb9Dzb1f青銅の基督の主人公はそもそも踏絵の制作を依頼されているからちょっと違うような
ただし付記にこう記してあった
>> 附記
>>寛文の頃長崎古川町に萩原といふ南蛮鋳物師がゐた事、そしてその踏絵の神々しく出来すぎた為め信者と誤られて殺された事は事実である。
なにか共通の元ネタがあるのかもね
詳しくは下記参照のこと
ttp://www.aozora.gr.jp/cards/001521/files/52216_46233.html
0416人間七七四年
2013/02/05(火) 21:28:09.82ID:s9De63whクリストファン・フェレイラ(沢野忠庵)も面白い人物だけど
時代が離れるか
0417人間七七四年
2013/02/05(火) 21:35:36.22ID:3vM630+7まったくの嘘っぱちとも言えないのか
どの道寛文では戦国時代とはもはや言えないからスレチだね
いや、ありがとう
ちょっとそれ読んでみるよ
0418人間七七四年
2013/02/06(水) 15:33:58.83ID:GpFgiqzI山内刑部一照には本山を与えられ、かれは古城を改修しここに入城した。
さて、この地には高石左馬助・吉之助という兄弟が有った。
彼らは長宗我部氏に属した武士であり、この地の領主であったが、長宗我部盛親の没落後は、旧領の傍・下野に
忍び暮らしていた。
慶長8年(1,603)11月、この年は旱魃が続き、田野に青臭もない状況となり、高石兄弟も年貢を収納することが出来なかった。
山内刑部の役人たちは高石左馬助に使いを出して、年貢を納入するよう求める。
左馬助は様々に詫びたが、使いは「殿がこちらに入部された最初の納入である!今後のためにも、疎かにしてはならない!」
と言って、しきりに左馬助を責めた。左馬助は致し方なく使いに向かって
「今年が凶作であることは、世の中皆知っていることである!私には納入するものが無いのだ!
万物が実らないのは天の業であり、我が力の及ぶ所ではない!」
そう返事をした。
使いは帰ってこの旨を伝えると、役人たちは腹を立て、「そのような奴らの言うことを、そのままに聞いてしまえば、今後
狼藉が絶えないだろう。その者を召し捕り牢獄に入れ、諸人への見せしめとするのだ!」と評議して、再び使いを出し
『誠に納入しないのか、その方に直に仔細を聞きたい。すみやかにこちらに来るように。』
と伝えた。これを聞いて左馬助「心得たり」と出立した。この時、弟の吉之助は「俺も一緒に行こう」と言い出したが、
左馬助
「いやいや、お前は無用だ。どうせ、私を擒にするための企みであろう。
なあに、どれほどの事があろうか。お前は旧交の者たちを集め、瀧山に立てこもる用意をせよ。
私は城下に行き、思うままに言い散らし、近づく奴原があれば、50人でも70人でも踏み倒して、さっさと帰ってくるさ。」
そう事も無げに言って城下へと向かった。
到着し、役人たちの集まっている場所へ少しも臆することなくつつと入り、役人の頭人に膝下近くに畏まり、申し上げた
「それがしを召されたのは何事でしょうか?」
頭人「年貢の収納を、どうするつもりなのか?」
左馬助カラカラと笑い出し
「さてさて道理を弁えぬ人々かな。治めるべき年貢など無いと、何度も言ったというのに、さては使いが申さなかったのか?」
これを「天晴悪き言い分である!」と両方より左馬助を捕えようと近づいてくるのを「心得たり!」と左右に突き飛ばした!
「やあ、ここに留めようと思っているのなら留めてみよ!」
と刀の柄に手をかけあたりを睨みつける。その場の者達、ひしめきながらもあえて彼に手を出そうとはしない。
そこで左馬助は
「なにか私に言うことはありますか?…無いのなら、暇を申し上げる。」
そう言い捨て悠々と立ち去った。
さて、彼の帰りを待っていた吉之助、左馬助の姿を見ると「どうだった!?」と聞いてきた。左馬助
「なあに、大したこともない。だが油断してはならん。」と、同心の者達300人ほどを集め、近郷の家々を略奪し、
そうして瀧山に立て籠った。
これが長宗我部旧臣による最後の武力抵抗となる、本山一揆(瀧山一揆)のはじまりであった。
本山一揆勃発に至る過程である
(土佐物語)
0419人間七七四年
2013/02/06(水) 17:44:46.05ID:lxU2Eyzq0420人間七七四年
2013/02/06(水) 17:55:44.35ID:ghSHSGRK0421人間七七四年
2013/02/06(水) 18:12:31.45ID:qA9n4nAv0422人間七七四年
2013/02/06(水) 19:43:02.96ID:5fqtHZgc0423人間七七四年
2013/02/07(木) 08:30:00.44ID:MvBKONK+よく分割しなかったもんだ
0425人間七七四年
2013/02/07(木) 11:40:42.70ID:ThisqVey0426人間七七四年
2013/02/07(木) 11:53:09.38ID:gJ85x8750429人間七七四年
2013/02/07(木) 11:59:48.18ID:kVsdyv360431人間七七四年
2013/02/07(木) 12:23:21.75ID:wleVTKD00433人間七七四年
2013/02/07(木) 15:06:34.49ID:x61VS0Dg0434人間七七四年
2013/02/07(木) 15:20:56.20ID:n5wWtfTD0435人間七七四年
2013/02/07(木) 19:03:33.36ID:+qU8SqyK0436人間七七四年
2013/02/07(木) 19:13:46.90ID:4TDVtYRNその勇に誇り、またその悪行も心のままに行うようになった。
ある時信虎が言うには
「私は累代の甲州の太守として威を遠境に震い、何事も心に任せずということはない。しかしながら、
懐妊した女の腹の中を見たいと思っているのに、未だに心に任せぬぞ。」
と、それより孕んだ女を探しださせ、当月妊娠した女から、2ヶ月目、3ヶ月目と続き、10月目にまでの女の腹を切り裂いて、
男子・女子の境を見分け、又は10ヶ月間の月々の胎児の形を見定めるために、ここまで13人の腹を切り裂き、殺されたのは
目も当てられぬ有様であり、人々は皆大いに恐れた。
武田家の重臣である馬場伊豆守虎貞・山縣河内守虎清は、このような信虎の悪逆を見るに忍びず、大いに嘆き悲しみ、
両人心を合わせ、57ヶ条の書付を以って信虎を諌めたが、少しもその諫言を用いず、挙句には引き籠って、
馬場・山縣に対面しようとしなかった。
これに両人とも如何とも出来す、しかし、密かに話し合った。
ある日の早朝、二人は信虎に急報した
「一揆の奴原が起こり、当国山梨まで乱入し、領民は略奪を受けています!」
これに驚いた信虎は、急ぎ両人を寝所に呼んでその次第を聞いた。
馬場・山縣はお側近くに寄り、畏まって
「一揆の起こったというのは、嘘です。我々両人は臣たる者の道を守り、先日書状を以って諫め申し上げましたが、
一言たりとて御許容無く、それどころかその後お目見えも許されなく成りました。
そうして申し上げるべき手段がなくなり、だからといって打ち捨てておいては、恐れながら当家の滅亡、近くにあるでしょう。
悪名を、長く末代に残すこととなります。心あるものはどうしてこれを嘆かないでいられるでしょうか?
しかしながら今や、君のお怒りを受けることを恐れ、己が身を顧みて、一言の諫言を申し上げるものもいなく成りました。
今は戦国の最中です。村上・平賀・小笠原といった大敵が信州には充満し、味方の虚を伺っている次節です。
我々の諫言を御許容しないのなら、必定、御家を滅ぼさんこと、目の当たりにあります!」
そう、憚ること無く申し上げると、信虎は二人を睨みつけ
「私がお前たちに諌められて国を治めるというのか!?その上、私を侮って嘘によって予を謀ること、許されぬ!」
そう言うや、武田家重代の左文字の刀を抜き放ち、直ちに山縣を一刀に切り捨てた。
しかし残った馬場虎貞は少しも動じる様子もなく、そのまま畏まっていた。
信虎は「馬場!これを見たか!?」と怒鳴ると、虎貞
「諌め争って死を賜うのは、臣たる者の道であり、また、君たるものの道では有りませぬ!
古今、このような例は多くあります。我が身を守るような心底で、どうして諫言を申しましょうか!
この私にも同じ刑を給わって、快く相果てましょう!」
そう言い終わるのも待たず、肩先からずんどと切り離した。
このことを人々、恐れ慄き、諫言を申すものも絶えて無くなったため、信虎はいよいよ悪行を行ったとのことである。
(武田三代軍記)
0438人間七七四年
2013/02/07(木) 20:55:03.12ID:ELsyPILc0439人間七七四年
2013/02/07(木) 21:01:11.79ID:rYJ+8NgI0440人間七七四年
2013/02/07(木) 21:03:39.45ID:+3/czfIX0441人間七七四年
2013/02/07(木) 21:06:31.36ID:DfJfvLEP武烈天皇とか松平忠直とか
0442人間七七四年
2013/02/07(木) 21:25:53.04ID:unNWgkwq0444人間七七四年
2013/02/07(木) 23:50:00.67ID:g1MLdBO3ただここに出てくる山県虎清も馬場虎貞も一次史料上一切出てこないし、
それどころか甲陽軍鑑にさえも出てこない、1715年ころ成立とされるこの武田三代軍記が初出の人たちだからなぁ
これに関しては現状江戸期の創作とみなされてもしょうがないのではなかろうか
0446人間七七四年
2013/02/08(金) 00:29:23.24ID:FEnlrAHz0447人間七七四年
2013/02/08(金) 01:25:04.65ID:07343PjP0448人間七七四年
2013/02/08(金) 01:57:19.47ID:3uwNSDA2上にも書いたけど、この逸話に出てくる主要人物はおそらく創作だし、
妊婦の腹を切り裂いた話も、同時代史料はおろか甲陽軍鑑にも出てこない
170年くらい後の時代に書かれた武田三代軍記が初出だから、その可能性はちょっとないんじゃないかな
0449人間七七四年
2013/02/08(金) 02:01:35.65ID:FEnlrAHzマジレスしてもらって何だけど、自分は全く信じてないw
0450人間七七四年
2013/02/08(金) 02:21:57.55ID:3uwNSDA2親子の忠孝が非常に重んじられた江戸期の倫理観からすると、
父親がこれくらい悪逆非道でないと、実父を追放するという信玄の行いを肯定できないってことの裏返しなんだろうね
0451人間七七四年
2013/02/08(金) 09:49:01.60ID:9eHBeX7i0453人間七七四年
2013/02/08(金) 12:56:18.69ID:GhqO2gNS0454人間七七四年
2013/02/08(金) 16:49:45.21ID:VA8g7zlb0455人間七七四年
2013/02/08(金) 18:07:15.13ID:OdiVkhQ9という情報が多く入ってきた。
参考
本山一揆勃発顛末
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7270.html
そこで一豊は謀をなし、国中に触れをだした
『浦戸において、相撲を取らせ一見すべし!上下によらず、望み次第にまかり出よ!』
これに、男伊達するほどの者は、我も我もと馳集まった。
見物の貴賎も群集しこれを見る。
相撲始まり、上下目を澄まして楽しんでいた
と、ここに、かねてから目付けを付けて監視してあった者達で、この場に来ていた者たちへ
捕手を向け、一揆の残党七〇余人を搦め捕り、種崎の浜にて磔とした。
この時、岡豊の城下、八幡村の名主は、これも一揆に組した者であったが、相撲の場に出向かず
用心の体で自宅に取り籠っていたが、ここにも若侍を差し向け生け捕りにして、同罪とされた。
これにより悪党どもも懲り、土佐は在所在所の山の奥まで、豊かに治まったのである。
(土佐物語)
例の浦戸相撲事件ですが、土佐物語では無差別に鉄砲を撃ちかけたわけではなく、
捕物で捕らえたという、印象で言えば、鉄砲に比べれば穏健なものになっています。
0456人間七七四年
2013/02/08(金) 18:40:49.49ID:NTGNfMNb司馬史観の影響ってこわいなw
0458人間七七四年
2013/02/08(金) 18:50:40.94ID:iYNC0wg30459人間七七四年
2013/02/08(金) 18:56:50.38ID:gGGYkKFs突っ込み忘れてたので、もう一点だけ。
時系列と顛末がメチャクチャになってる。
本山一揆は慶長8年で、今回のエピソードは慶長6年3月。
この残党は浦戸一揆のものだろう。
0461人間七七四年
2013/02/08(金) 20:23:28.68ID:QSJ/rZu2「柳川3年、肥後3月、肥前・筑前朝茶の子」
大友支配下の蒲池氏の居城柳川城の堅牢ぶりを唄った戯歌である。
しかし、その後の大友は朝茶の子呼ばわりした「肥前」の竜造寺に今山合戦で敗れ、肥後筑前の半分を失い、柳川城も竜造寺に奪われ、
名将立花道雪が最晩年命を削って戦った柳川城攻略船の敗退をを見るに栄枯盛衰を感じさせる戯歌である。
0462人間七七四年
2013/02/08(金) 21:42:44.33ID:rPt1Y9ft0463人間七七四年
2013/02/08(金) 23:00:54.09ID:9eHBeX7i0464人間七七四年
2013/02/09(土) 00:18:31.27ID:ni7Pero9長宗我部を弾圧したのが間違いだよ。
0465人間七七四年
2013/02/09(土) 00:36:36.33ID:+ZZuHC3h0466人間七七四年
2013/02/09(土) 00:40:27.27ID:vjQuvMep何時代か解らんが伊予、松山の道後の奥道後、ここで大昔に雄雌の大蛇が住みついており近隣の住民に迷惑を災いをもたらしていた
そしてその大蛇に見かねた石手寺(四国88箇所51番)の僧が石剣で♂の大蛇の首を切り落とし退治したと言う
その石剣と大蛇の頭は宝物館で見る事が出来るらしく大きさは成猫位の大きさらしい。
しかしその後の元和年間(1615−1623)にて♀の大蛇が再び害をなすものとして登場する
この♀大蛇は夜な夜な美女に化け、通行する者を誑かして淵に引きづり込んだらしい(アァー!)
そこで湯山菊ヶ森城主・三好長門守秀善の長男で
鉄砲の名手である三好蔵人秀勝が一夜密かに待ち構えていて水面から顔を出した♀大蛇を鉄砲で撃ち殺した
♀大蛇はのたうち回り翌朝に死亡、流血は3日続いた。
別説によると、雌の大蛇は、人間の姿で三好家の下女となっていたが
夜な夜な湧ヶ淵へ忍んで行ったところを怪しまれて殺されたとも言われる。
こちらの雌蛇の頭骨は三好家に代々伝えられてきたが
現在では同じホテルの敷地内にある竜姫宮に祀られているとのこと。
大蛇伝説としても夫婦の蛇が害をなす点が非常に珍しく
また実際に頭骨が残されるなど物証もある点も希少であると言えるだろう。 らしい
転載です
ttp://b-spot.seesaa.net/article/133292659.html
ttp://makild.exblog.jp/18930709/
ttp://miyoshisan.jimdo.com/ ←子孫方のおまけページ
ttp://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/miyosi/miyosi2.htm
http://www.city.matsuyama.ehime.jp/kanko/kankoguide/rekishibunka/bunkazai/shi/isiteji_sekken.html
菊ヶ森三好氏の存在は知っていましたが、まさか続いておられるとはビックリ
おまけに載ってる松山藩の記述だと三好長慶の孫ってなってるけど後付けくせえww
元々河野の家臣として菊ヶ森三好氏は活躍してるみたいだから箔付けの為に長慶と繋げたのかね?
♂大蛇の逸話から何故にこんな期間が開いたんだろうか
別の人のブログ見ると古代の話とリンクしてるような感じもあるし面白い
阿波三好氏は元々この松山の三好氏が出の可能性が高いし
同じく三好実休の叔父だった久米義広の久米氏も松山の久米遺跡と繋がりがある一族
久米と三好は同族だった可能性もある事を考えるとこの両氏が古代とリンクするのが面白い
三好実休と久米氏が繋がるのも何かしら意味があった事なのかも・・・
0467人間七七四年
2013/02/09(土) 00:54:49.54ID:ni7Pero9一豊含めての山内は身分差別を明らかにして、
地の者(長宗我部)とよそ者とを厳然と分けていたが。
平成の今の時代になっても高知で一豊が嫌われていることは事実。
それが発端になって龍馬たちの脱藩から明治維新が起こる、とか言わんでくれよ。
0468人間七七四年
2013/02/09(土) 01:54:48.17ID:UuXjbRZoその武田家が滅亡すると、信玄に討たれた知久頼元の子・頼氏は20数年ぶりに
本領を回復し、神之峰城主となっていた。
本能寺の変後は徳川家康に従い、家康の命に従って軍事行動を起こしながら、
回復した所領の仕置に取り掛かるなど頼氏は活発な活動を展開する。
その甲斐あってか、天正11年6月には、かつて武田信玄に焼き討ちされていた
文永寺を再建した功績により、従五位下に叙されるなど、領内は不安定ながらも
知久氏は再興に向けて、少しずつ歩みを進めていた・・・かに思われた。
が、翌天正12年の11月、突然頼氏は徳川家康のいる浜松へ呼び出され、自害を
命じられた。詳細な資料は残っていないものの、一説には、木曾義昌に同調して
羽柴秀吉に通じたという嫌疑をかけられたからだとも言われている。
頼氏の没落と前後して、伊那郡には奥三河の菅沼小大膳定利が入部し、知久氏の
家臣団および頼氏の遺児・万亀は定利の支配下に組み込まれ、知久氏は自立した
国衆としての地位を失うこととなった。
ところが定利は知久衆や万亀に対し尊大に接し、傍若無人な振る舞いをしたと伝えられ、
それに憤り「この恨みいつか晴らしてくれん」とつぶやいた知久氏の家老・知久右馬介は、
後日茶会に招かれた際に謀殺されてしまった。
この事態に身の危険を感じた頼氏の妻は万亀とともに遠州へ逃れ、大久保忠世を頼って
菅沼定利の非道ぶりを家康に訴えたが、結局定利の行動は不問に付され、彼はその後
飯田城、関東転封後は上州吉井2万石の大名に取り立てられてた。
本能寺の変後、甲信へ勢力を広げる中で、しばしば家康の三河衆と現地の豪族との間で
軋轢が生じていたようで、この菅沼定利以外にも、家康から二年という期限つきながら
信濃の統括を任された酒井忠次は「家康公は信濃を私に下されたのだ」と公言してはばからず、
家康からの委任を受けたことを背景に、諏訪頼忠に対し高圧的な態度をとり、結果として
頼忠の離反を招いている。
ちなみに、知久氏のその後に触れておくと、万亀は大久保忠世の庇護の下にあったが、
後に忠世のとりなしで家康の小姓に取り立てられた。万亀は後に知久則直と名乗り、
関ヶ原の合戦後に信州伊那郡の旧領阿島に3千石を与えられ、旗本として復活を遂げた。
定利に謀殺された右馬介の遺児もまた、則直に仕えたと伝えられている。
0469人間七七四年
2013/02/09(土) 01:58:57.53ID:+ZZuHC3h逆だ、逆
嫌われるような事をしたのは山内一豊の"当時"としては正しかったと思ってるよ
0470人間七七四年
2013/02/09(土) 01:59:55.60ID:+ZZuHC3h0471人間七七四年
2013/02/09(土) 02:12:09.28ID:ni7Pero9いや、正しくないし。当時とか関係ない。
あえて言う、よそ者理論を駆使した一豊は決して正しくない。
地の人間を殺した歴史は覆らない。
山内では山内容堂だけが認められているくらい、山内は嫌われている。
気質も違う。
高知では山内は「…」というところだ。
0472人間七七四年
2013/02/09(土) 08:20:48.32ID:TQMlNAe3申し訳ないが、山内体制下の土佐で長宗我部侍が”差別されていた”ってのも伝説にすぎん。
主な長宗我部の家臣は”上士”として山内家に取り込まれている。
例えば、幕末の土佐藩で独裁権力を握って土佐勤王党に暗殺された、あの吉田東洋も
長宗我部系の家系だ。
差別された層が独裁権力握るとか、そんなことがあると思うか?
そもそも、差別されていた側の勢力とされる土佐勤王党は、長宗我部侍ですら無く、商業などで財力を得た
新興ブルジョア層が新たに郷士株を買って武士になったものが殆ど。
坂本龍馬なんて典型だな。
彼らが上士と対立するのは、新たに財力を持った自分たちの層が政治に影響力を与えられない不満からで、
彼らが勃興した幕末期のごく新しい問題。それを山内系と長宗我部系の対立としたのは、一時苦境に陥った
新興ブルジョア派が支持勢力を拡大するための政治上のプロパガンダにすぎん。長州や薩摩が幕末になって
幕府と対立してから突然関ヶ原の怨念とか言い出したのと全く一緒。
明治維新前後の「維新史観」は、明治以降教育で広まったためかなり強力な影響力を未だに残しているけど、
そろそろそういう意識から離れて正面から歴史を見てもいいと思う。
0473人間七七四年
2013/02/09(土) 08:49:24.10ID:goxuAUugこのように長宗我部遺臣といえども一枚岩ではないし、世の中しょせん力のあるものだけが美味しい目にあえるという教訓
0474人間七七四年
2013/02/09(土) 08:55:40.32ID:TQMlNAe3土佐が特にそれが酷かったという証拠も史料もない。
郷士は郷士で権益が有り、上士はそれを犯す真似をしていない。その相互性が身分制でもある。
現代的価値観で歴史を見ないほうがいい。
0475人間七七四年
2013/02/09(土) 09:33:49.76ID:qCs64YMW0476人間七七四年
2013/02/09(土) 09:44:41.75ID:goxuAUugこの話題はこれまでにしよう
0478人間七七四年
2013/02/09(土) 10:36:42.13ID:1gTh+Rkp6日に江戸に到着された家康公は、その日は大変ご機嫌が良く、料理の間に、鶴を持ってこれを料理するようにと言い、
鍋に火をかけさせこれを調理している所に、本多中務(忠勝)、私(卜斎)、全阿弥の3人が御前に出た。
家康公は私達にも料理を馳走しようと、鍋をかけている囲炉裏の近くに行かれた所に、どこから来たのであろうか、
いかにも細かな文字で書かれた書状が到着し、家康公はそれをご覧になられた。そして
家康公は、誰に言うとも無く、こうつぶやかれた
「去る1日、伏見城は落城した。」
そして西の方をご覧に成り、はらはらと涙を流された。
本多中務はこれを見て、急いで次の間に下がり、私と全阿弥もこれに続いて御前を下がった。
(慶長年中卜斎記)
板坂卜斎の記録した、伏見城落城を知った時の家康の様子である。
0479人間七七四年
2013/02/09(土) 14:04:36.34ID:pf9AQe/Q0480人間七七四年
2013/02/09(土) 15:45:22.54ID:0WT0ef000481人間七七四年
2013/02/09(土) 19:25:58.44ID:GuhCliiw直前までの様子も空元気のように思えて…
…ん?もしかしてこれは鶴を食いそこねた間の悪い話ということなのか?
0482人間七七四年
2013/02/09(土) 21:44:32.53ID:Vw+3bc1M落城してからこれ見よがしに涙流すとかわざとらしすぎだろう。
0483人間七七四年
2013/02/09(土) 21:52:13.69ID:TQMlNAe3のんきもなにもなにが出来たと…
江戸と伏見がどれだけ離れてるか解ってる?
典型的な批判のための批判だなあ
0484人間七七四年
2013/02/09(土) 21:53:36.67ID:+LwKwR4F0486人間七七四年
2013/02/10(日) 11:39:07.22ID:eLvd41FMだからといって四六時中オロオロしてたら目の前の仕事が片付かないじゃない
頭の切り替えも必要でしょ
0487人間七七四年
2013/02/10(日) 12:22:37.68ID:RDl7EASXまあテンパると刀振り回して錯乱状態になっちゃうみたいだからなあ
伏見城のことはそんなに大したことないみたいな報告にしてたのかもね
0488人間七七四年
2013/02/10(日) 12:49:02.68ID:VGo0xDkR0489人間七七四年
2013/02/10(日) 13:34:53.28ID:vHa/QTIK0490人間七七四年
2013/02/10(日) 15:49:15.85ID:7762iH9T9月14日に降伏開城した大津城を視察した。
大津城は南面に50間(約90メートル)に及ぶ多聞作りの防御施設が有り、その下が水濠、
石垣を見ると、鉄砲の弾を受けた跡が一つあった。
家康はこれを見て、独り言のように
「この多聞作りだけでも、5日や7日は敵を防ぐことが出来る。
古の名城などというものはいずれも、今の城と比べればいかにも貧相であり、石垣などもなかった。
しかし城主が良ければ、そのような貧相な城でも名城になるものだ。
逆にどれだけ要害化した城でも、城主がしっかりとしていなければ…」
(此多聞作計にても五七日も城を可持事なり。古の名城をハ何れも当時に合せてハ如何にも貧相なり
石垣杯もなし。城主よけれハ能もなき城も名城に成、如何に要害能ても主しかとなけれハ)
と、つぶやいたそうである。
この時、傍には小姓衆5,6人が居ただけであったそうだ。
(慶長年中卜斎記)
ちなみに大津城は、開戦から7日で開城している。
家康の、京極高次の能力への評価が垣間見られる記録である。
0491人間七七四年
2013/02/10(日) 16:33:41.26ID:iHQ/8OB+0492人間七七四年
2013/02/10(日) 16:45:26.21ID:eLvd41FM冷静に考えれば力攻めで落とせる城じゃないのに
0493人間七七四年
2013/02/10(日) 17:26:09.63ID:bviiB16B名将ではないかもしれんが尻蛍さんはがんばったと思うぞ
0494人間七七四年
2013/02/10(日) 17:26:54.76ID:YuFT599p家康の大津城訪問といえばこんなのも
0495人間七七四年
2013/02/10(日) 17:33:02.47ID:Q5PSFVr+東軍は本戦で勝ったし城も落とせず参加も出来ずって人の影に全部隠れてるんだろうか
0496人間七七四年
2013/02/10(日) 20:36:40.80ID:ljFf4mIf奴って誰?
あと大津城って西軍連中が結局力攻めで降伏させてるよね。
まさか京極側が勝ったと思ってる?
0498人間七七四年
2013/02/11(月) 00:02:25.65ID:z+ioS8Nxと、田辺城で幽斎様が申しておられます
0500人間七七四年
2013/02/11(月) 08:40:03.42ID:oG3b9jCM水堀に囲まれた要害だったっていう説があるんだよな
復元図なんかを見ると結構攻めにくそうな城に見えるけど、
13日の攻撃で三の丸と二の丸を一気に占拠されて14日に降伏してるから
最初の堀をどう越えるかの勝負だったのかな
0501人間七七四年
2013/02/11(月) 09:00:12.94ID:9xtgfeVCなにより淀君の妹がいるから最初は脅しだけで降伏させるつもりだったんだと思う。
京都の民衆が昼飯持って見物しにくるくらいだし。
0502人間七七四年
2013/02/11(月) 09:50:43.22ID:oG3b9jCM資料によって使者がちょっと変わってくるらしくって
孝亮宿禰記だと、眞常(織田常眞信雄?)と新庄東玉
筑紫古文書だと、孝蔵主、饗庭局、木食応其
時慶記だと、孝蔵主と木食応其
寛政重修諸家譜だと、孝蔵主、木食応其、海津尼(浅井鶴千代)
って感じなんだけど、豊臣家からこれだけ送られてきたら西軍としても
攻撃がやりづらかっただろうね
0505人間七七四年
2013/02/11(月) 11:19:28.96ID:IsFMzBs/家康「あさってまでに美濃に来い!」
秀忠「んな無茶な!」
となってしまったこと
0506人間七七四年
2013/02/11(月) 12:17:50.99ID:djfJ/Tn7西軍による大津城攻めが行われると、火矢の用心のため屋根を尽くまくったが、鉄砲の音にその女房衆が驚き
泣き悲しむこと甚だしく、これが殊の外、城の弱りとなったため、戦闘中に松の丸殿を京に移す事になったという。
この大津城攻めでは、京の町人たちが城攻めを見るため重箱、水筒を持って三井寺観音堂において、恐ろしげもなく
日夜見物をしていたそうだ。
大津城は14日に西軍に開城し、京極宰相殿(高次)は16日に高野山に上ったのだが、寅〜辰の刻(午前3〜9時)にかけて
関ヶ原で撃ち負けた西軍の雑兵達が際限もなく大津の方に逃げ込んで来た。
人々、せめて今日まで持ちこたえていれば運も開けたのに、残念なこと多い京極宰相の戦ぶりであったと申しあったという。
実は京極殿は城にて切腹すると決心し、これを明け渡すなどありえないと言われていたのだが、家老の伊予守というものが
腰抜けであったので、あのような事になったと取り沙汰されている。
(慶長年中卜斎記)
以上、慶長年中卜斎記より、大津城に関するお話
0507人間七七四年
2013/02/11(月) 14:00:04.33ID:a1f/eeAp防衛機構以前に見物客が城内の様子を具に観察できるくらい周囲を高地に囲まれた構造の時点で
どう足掻いたって篭城戦闘を一週間とか無理だろ、と。
>>490が下手に褒めると論功が高くついてまずいから
取りあえず難癖つけて下げて上げる下準備をしてるようにしか思えんw
0509人間七七四年
2013/02/11(月) 16:04:47.20ID:oG3b9jCM周囲に高地っていうか、西側に長等山があるくらいかな
そこの三井寺観音堂に見物人が来てて、大筒もその辺りに
配置して撃ってたらしいね。
水城を直接攻めるには準備がいるし、高次が9月に突然裏切って城に
籠ったことや、自ら城下を焼き払って遮蔽物を無くして堀に近づく敵を
攻撃しやすくしてたこと、竜子や初を極力助けなければならなかった
こととかを鑑みると、攻略に時間がかかる要素も結構多いと思う
0510人間七七四年
2013/02/11(月) 16:16:52.96ID:iJlbPKmi0511人間七七四年
2013/02/11(月) 16:24:16.33ID:8j7AoL9/0513人間七七四年
2013/02/11(月) 20:45:58.63ID:MXaPvd23中立の寺や神社に篭っていれば大抵は大丈夫
まさに駆け込み寺
0515人間七七四年
2013/02/12(火) 03:14:34.10ID:SLzEI9g/0516人間七七四年
2013/02/12(火) 04:53:16.45ID:ENohQV+Y飛騨行った時も結構信玄にやられたって話が残ってたなぁ
今東博でやってる円空仏展でも信玄配下に焼き討ちされたって解説があった
0517人間七七四年
2013/02/12(火) 09:20:42.09ID:c+CUr8AV当時の(主に京都の)人間にとって大きかったんじゃないかなあ。
これが「信長が園城寺を焼いた」だったら多分誰も反応してない。
0518人間七七四年
2013/02/12(火) 09:51:05.10ID:7rGOf7Yjちなみに延暦寺を焼き討ちした義教、政元、信長は、全員家臣に殺されている。
0519人間七七四年
2013/02/12(火) 10:03:40.47ID:iF86PqRn0521人間七七四年
2013/02/12(火) 12:27:01.13ID:jPxOiobzその声の高さを記録にとどめています。
一方快活な人柄で語られる信長ですが、実際は家臣の失敗を責め、逆らう者を皆殺しにする冷酷な人物でもありました。
秀吉は関白・太閤として君臨しましたが、正室北政所(きたのまんどころ)と
は仲が良く、人前でも夫婦で良くしゃべると、貴族の一人は驚いています。
家康は実直で忍耐強いと思われていますが、非常に短気で怒ると興奮が収
まらない性格でありました。
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1595
明日から
0522人間七七四年
2013/02/12(火) 13:12:20.54ID:kJ+jif11家康だけソース省略なんだな。
てか、中身そのままならURLとタイトル紹介だけで良かったんじゃ?
0523人間七七四年
2013/02/12(火) 13:57:38.34ID:D93TIXfuこのころはだいぶゆるくなったのかな。
あっラスボスは見せびらかすのが好きだから奨励したのかも?
0524人間七七四年
2013/02/12(火) 14:47:32.07ID:no7R50Lb0525人間七七四年
2013/02/12(火) 16:34:48.41ID:j1raPjNi【山形】最上義光の知名度・イメージ向上狙う
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1360650593/
0526人間七七四年
2013/02/12(火) 16:43:05.15ID:no7R50Lb0527人間七七四年
2013/02/12(火) 17:39:16.03ID:7//QQLH90528人間七七四年
2013/02/12(火) 18:00:17.27ID:hfabC8RU「ほら、山形のもがみ…よしみつ、だっけ?」
て
0529人間七七四年
2013/02/12(火) 18:13:39.80ID:A3A8cp0u0530人間七七四年
2013/02/12(火) 18:26:39.22ID:4RkKBkn40531人間七七四年
2013/02/12(火) 21:41:35.22ID:u5XOBaMx…聞かなきゃ良かった。
0532人間七七四年
2013/02/12(火) 21:45:32.59ID:NHwpnPwp0533人間七七四年
2013/02/12(火) 23:26:26.66ID:hfabC8RU0535人間七七四年
2013/02/13(水) 00:39:17.60ID:39o8gHcp0536人間七七四年
2013/02/13(水) 01:48:07.03ID:RAmXAnLO0537人間七七四年
2013/02/13(水) 06:30:40.31ID:bcpf+jII0539人間七七四年
2013/02/13(水) 22:47:13.38ID:zC16DRc20540人間七七四年
2013/02/13(水) 23:02:14.71ID:XeSaLn5a0541人間七七四年
2013/02/13(水) 23:09:09.91ID:wTZd4NxJ0542人間七七四年
2013/02/14(木) 02:03:39.89ID:Q9pyW6AA没落してはいるが残っていた気がするが
武田信長が実在し、波乱な人生を歩んだのを知らんのかな
まあ、たいていの人は"本当に居たんだ"とびっくりするだろうが
>>541
武田信玄と書いて"たけだのぶとら"と読ませる犯罪者が平成の世にいたな
0543人間七七四年
2013/02/14(木) 03:25:21.67ID:fD3C6ewQ0545人間七七四年
2013/02/14(木) 11:10:25.61ID:Ipts4lFH家康公が江戸から伏見に到着になり、北国五畿内の諸大名はこれを出迎えるため伏見の入り口で
群集してお待ちしていた。
そのうちに雨など降ってきて、松の木に雨宿りするものなども有り、皆思い思いに立ち休んでいた所
槍2本、長刀一つ、挟箱2つに徒歩の者達が20人ばかり、乗り物も雨の用心にしっかり包んであり、
騎馬の士は十余騎、家中の道具もない、誠に簡素で小規模な一団が通り過ぎた。
諸大名は「今のは本多上野介(正純)あたりかな?」と思い、下々に、今通ったのが何者かを
一応調べさせた所、帰ってきた答えは「大御所様です」
諸大名は驚愕し、大慌てで走り先程の一団を追いかけた!伏見に下る町でやっと追いつく。
家康はこの事を聞くと、乗り物を止めさせ、上の雨具を取り乗り物の戸を開け、諸大名に
「ここまで遠々迎えに出てきてくれたこと、礼を申す」
と仰って、そのまま伏見へと向かわれた。
それにしても何と軽い事かと、諸大名は大いに驚いたそうである。
この時供の衆なども、伏見近くになると、下々の者たちを先に通しておいたそうだ。
(慶長年中卜斎記)
どうも家康的には、雨で道の悪い中の混雑を避けてこうしたようなのですが、それが
リアルに「バッカモーン!今のが大御所様だ!」常態となってしまったというお話w
0546人間七七四年
2013/02/14(木) 13:29:36.43ID:SB5HxREc0547人間七七四年
2013/02/14(木) 13:42:28.94ID:/C7r2hgf0548人間七七四年
2013/02/14(木) 16:52:23.50ID:a2wFIuKaこの県職員の人、以前は米沢市にある支所にいて「天地人」での観光誘致の仕事してたんだよな。
活動としては色々と努力してて、信長の野望シリーズとタイアップして山形の武将を数人採用させてたり。
あのころは直江兼続命!!とか言ってくれてたんだけどw
それで、最上の悪人イメージが先に立って何とかしたいのはわかるんだけど、ageようとする人たちは他をすんごくdisるんだよね。
こういうのとか
@endnob
まとめ管理人@1059kanri
何故か義の家ということになっている上杉家ですが、少なくとも上杉景勝の時代は、景勝の個性なのか直江兼続の
個性なのかわかりませんが、あんな油断できない覇権主義意識満々で陰謀だらけの大名は他にないくらい。政宗より
たちが悪いと思いますw
0549人間七七四年
2013/02/14(木) 17:03:33.58ID:9orClnD1そりゃまあ、各大名それぞれ問題を抱えてるけど
ぶっちゃけ景勝、兼続の頃の上杉はかなりブラックだろ
0551人間七七四年
2013/02/14(木) 17:13:39.86ID:XPXGIr6d>>545この話と同じでは
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5191.html
0552人間七七四年
2013/02/14(木) 17:36:10.01ID:jyPgi/fS0554人間七七四年
2013/02/14(木) 21:41:16.46ID:s1726Kufkwsk
直江の口が悪いんだか性格が悪いんだかな逸話ばかりが印象に残ってるw
0555人間七七四年
2013/02/14(木) 21:56:12.68ID:kBGqZNKh宇喜多もそうだが徳川が抜きん出て力を持つ世では何も出来んし
0556人間七七四年
2013/02/14(木) 22:24:06.87ID:QbJZP/Ojする事
徳川はそれを阻止する為、有力大名にいちゃもんで各個撃破作戦。
前田は母ちゃん人質で服従。上杉は直江状で宣戦布告。
テルは...
0557人間七七四年
2013/02/14(木) 22:43:59.48ID:hHRj5XhB名目上総大将のくせして兵力温存、引きこもり
負けが濃厚となれば両川にあとは任せて暗黒JKに罪を全部きせて
二国だけはなんとか保つ
0558人間七七四年
2013/02/14(木) 22:52:41.63ID:kBGqZNKh0559人間七七四年
2013/02/15(金) 00:15:18.13ID:pO46lMSwまぁ、凄く大雑把な言い方だけど、政治家と官僚の違いってのかな・・・
大名となってるけど、禄が万石以上になってるだけで自分で切り取ったわけじゃない家が大半だろからね
上杉家が会津に帰らなかったらまた色々と違ったんだろうな〜
0560人間七七四年
2013/02/15(金) 00:22:10.20ID:TDbkGuGc>自分の頭使って判断して切り盛りして家を大きくしたのは家康さんくらいしか残ってなかったしね
DQNを忘れるな
0561人間七七四年
2013/02/15(金) 01:12:25.61ID:G2U8lkJq豊臣としては、徳川を関東に追いやったのは失敗だったか
まさか、260万石を数年で実高320万石にしちゃうとは思わないよなあ
0562人間七七四年
2013/02/15(金) 02:13:28.57ID:EEheH4tHすべて計画通りの古狸に
0563人間七七四年
2013/02/15(金) 08:22:21.16ID:Vf0fK9Ye全て計画通り扱いだもんなぁ
0564人間七七四年
2013/02/15(金) 08:27:49.75ID:DuVj0Kgg0565人間七七四年
2013/02/15(金) 08:30:35.98ID:zvtNX2Rp言われているしなあ。
0566人間七七四年
2013/02/15(金) 08:50:53.15ID:fxxBmvAo0567人間七七四年
2013/02/15(金) 10:06:16.79ID:TIKvAwby織田政権のときと同じパターンだし。
結果から過程や原因を歪めすぎてる感じだな。
0568人間七七四年
2013/02/15(金) 10:20:35.51ID:Ek6mn/0f家康が他のすべてを排除して政権奪取できたのは家康の力だろ
0569人間七七四年
2013/02/15(金) 10:27:29.99ID:sT1vL1b20570人間七七四年
2013/02/15(金) 10:34:53.06ID:eKvOIuweそもそも天地人に最上義光って出たのか
とおもってググったら、イメージか余計に悪くなるから山形が出させなかったのか
0571人間七七四年
2013/02/15(金) 11:03:17.46ID:zvtNX2Rp家康は最初から政権奪取を意図していたのか、って部分だね、問題は。
例えば前田や上杉を屈服させようとする圧力は、あくまで豊臣政権「内部」の主導権争いであって、
その過程で家康の意図しない関ヶ原という大戦が起きて、それに勝った結果、家康の意図とは無関係に
独自政権を作るだけの巨大な権威を得てしまった、という解釈が最近は主流だと思う。
0572人間七七四年
2013/02/15(金) 14:42:14.34ID:9+zZP8U/正確に言うと、山形市民が悪人にするなするなとうるさいから、後で何か描写に問題があるとか
クレーム入ると嫌なので制作陣と脚本家が出さなかった。
そして前田慶次が出なかったのは、只でさえ視聴率厳しいのに慶次なんて出したら主人公の
人気がくわれてしまう、と制作陣と脚本家が思ったから出さなかった。
こういうようなことを講演会やイベントなんかでそれぞれ本人たちが言ってます。
0573人間七七四年
2013/02/15(金) 14:48:36.69ID:TIKvAwby関ヶ原の結果、天下を掌握したのはそうなんだろうが
そもそも豊臣政権内の主導争いと政権簒奪の違いを、
そこまでハッキリと意識してるかどうかが疑問
0574人間七七四年
2013/02/15(金) 14:48:57.59ID:u5vvY0yg0575人間七七四年
2013/02/15(金) 15:04:48.23ID:HLCuktbM話題性やメッセージ性もバッチリだな!!
0576人間七七四年
2013/02/15(金) 15:11:33.66ID:0tNrSl2D0578人間七七四年
2013/02/15(金) 16:58:50.06ID:pO46lMSw理由がまったくわからんけどwwww
0579人間七七四年
2013/02/15(金) 17:51:04.13ID:zvtNX2Rp大小と無くこれを知っていた。
そして片桐且元が鐘銘事件の弁明を行い駿府を出発した頃には、本多正信の計らいによって、卯殿半助、田中一蔵という、
甲賀衆のうち間者の手腕に名を得た者両名を大阪に登らせ、諸事万端を聞き合わせてこれを
板倉勝重の元に報告していた。
この卯殿・田中の両人は冬の陣・夏の陣共に大阪城内に有り、
そのため、大阪城の中にいるものすら知らないことでも、勝重はよく知っており、これは全て
関東に報告されていた。
(慶元記)
大阪の陣前後における、板倉勝重による大阪城への諜報についての逸話である。
0581人間七七四年
2013/02/16(土) 07:14:56.81ID:xxfBOTXE0582人間七七四年
2013/02/16(土) 08:27:41.85ID:/YV5FSHGその理論だと天庵様の大河は2ヶ月で終わる。
0583人間七七四年
2013/02/16(土) 10:49:03.17ID:p0S3xEwM0584人間七七四年
2013/02/16(土) 11:39:39.38ID:/O+SNlF+「家康が最も恐れた男 小田氏治」
0585人間七七四年
2013/02/16(土) 14:10:29.97ID:obKfq3In0586人間七七四年
2013/02/16(土) 14:20:36.26ID:xxfBOTXE0587人間七七四年
2013/02/16(土) 14:21:19.66ID:eRPrsEYq「家康が最も(警戒した豊臣秀吉と戦った北条氏政と敵対していた佐竹義宣が少し)恐れた男 小田氏治」
こうか!
0588人間七七四年
2013/02/16(土) 14:52:32.12ID:Ziy3iXx30589人間七七四年
2013/02/16(土) 15:00:29.95ID:Hoeyod+uでも家康との直接的なつながりってないような気がする
0590人間七七四年
2013/02/16(土) 15:18:06.55ID:XezMpZLU0591人間七七四年
2013/02/16(土) 15:52:46.21ID:xxfBOTXE0592人間七七四年
2013/02/16(土) 17:22:58.71ID:sqKWkQoJそこで、所司代の板倉重宗にこれを修繕させることにした。
ある日、重宗は烏丸光広の邸宅に来て事情を説明し「しばし他に移ってください」
と、頼んだ。しかし、光広は「東廂に雨が漏れたなら西室に避け、そこも傷んだなら
すぐに北舎に移る。我はそれを少しも厭わない。このまま放っておいてくれ」と断った。
重宗はすぐにこれを法皇に奏上した。法皇は「主人が気に掛けるようなことをするな」
と、言った。そこで重宗はこの旨を伝えて、有無を言わさず邸宅を修繕した。
――『近古禅林叢談』
0593人間七七四年
2013/02/16(土) 17:33:38.92ID:TdPGBP3V0594人間七七四年
2013/02/16(土) 17:54:51.08ID:XezMpZLU重宗「把握した。家主追い払って全部修復するわ」
光広「いや大丈夫だから。構わんといて」
重宗「は?」
法皇「家主が迷惑がってるならやめた方がいいよ」
重宗「把握した。家主追い払って全部修復するわ」
・・・こういう事?
0595人間七七四年
2013/02/16(土) 17:57:08.52ID:RrkEA/2p勝手にやっちゃった方がいいよってことなんじゃない?
0596人間七七四年
2013/02/16(土) 18:08:26.52ID:XezMpZLU0598人間七七四年
2013/02/16(土) 19:00:19.10ID:sqKWkQoJすいません誤訳です。本当に申し訳ありません…。
○「主人に管することなかれ(主人を気に掛けるな)」
道元の言葉にかけてるんですかね…。
0600人間七七四年
2013/02/16(土) 19:20:26.47ID:iL3HnnwB0601人間七七四年
2013/02/16(土) 20:04:24.94ID:oe4uA0wP確かに壊れようが気にしなさそうだ
0604人間七七四年
2013/02/16(土) 23:42:41.90ID:obKfq3In0605人間七七四年
2013/02/17(日) 00:55:55.29ID:DKhibnuo7日で攻め落としたのは凄いし、落とされたのは恥ずかしい。
岐阜城の織田さんとこは防戦に必要な兵隊が足りなかったケースだから別。
0606人間七七四年
2013/02/17(日) 03:33:39.05ID:tB85yrKT実質的な城への攻撃は13日だけだったんじゃないかな、
14日もだいたい開城交渉で攻撃止めてたようだし
0607人間七七四年
2013/02/17(日) 03:49:15.02ID:CtyWhCwq0608人間七七四年
2013/02/17(日) 07:42:42.65ID:m172MTMb大津は大軍を展開するスペースも十二分にあって堀を埋めたり
しやすかったから、恥でも何でもないな。
むしろ必要な兵力を野戦で損じた岐阜の方が恥ずかしいだろう。
0609人間七七四年
2013/02/17(日) 07:48:55.40ID:Rx+wZgDD0610人間七七四年
2013/02/17(日) 08:00:24.00ID:DzeHdgY5いや、堀を埋める時点で普通は「城攻め」にカウントするだろ。
埋めに来るのを何もせずに待ってるわけがないんだから、埋めに来る←妨害攻撃←さらにその妨害と戦闘は起こる。
0611人間七七四年
2013/02/17(日) 08:47:37.33ID:lzy7EarS重要人物がいるから手加減してたのが見え見え
0612人間七七四年
2013/02/17(日) 09:52:59.91ID:m172MTMb0613人間七七四年
2013/02/17(日) 11:36:57.35ID:1JiT4w5T水戸(江戸)と山川は高家として扱われてるのに。
0614人間七七四年
2013/02/17(日) 11:56:43.38ID:m172MTMb断絶したとかでなければ、越前松平家が分裂してるから
福井藩じゃなくて、別の藩なんじゃないかな。
結城の紋を継いだ、前橋松平家あたりはありそうだけど。
0615人間七七四年
2013/02/17(日) 11:58:08.46ID:ED2zy0Da0616人間七七四年
2013/02/17(日) 12:00:20.43ID:m172MTMb0617人間七七四年
2013/02/17(日) 12:10:37.90ID:1JiT4w5Tしかし水戸の米百俵とか山川の二十人扶持とかどんだけ落ちぶれてるんだか。
0618人間七七四年
2013/02/17(日) 12:40:37.19ID:M11bCOqh茂助「 この城は出来損ないだ。籠城出来ないよ。明日松江に来てください、本物の堅城をお見せしますよ 」
0619人間七七四年
2013/02/17(日) 15:33:31.77ID:ED2zy0Daその身柄は二条城へと運ばれた。
盛親はここで板倉伊賀守(勝重)の尋問を受ける。
そこで勝重は、このようなことを聞いてきた
「あなたはこの度の合戦において戦われた東国勢の中で、何れが最も軍功優れていたとお考えですか?
また、大阪方の敗北の責任は、誰にあったとお考えでしょうか?」
これに盛親
「東国勢では井伊掃部頭(直孝)の軍功を第一とすべきでしょう。
そして大阪の落城は、この盛親が原因です」
「あなたが?」
「はい。その理由ですが、あの八尾での合戦において、関東方の先手は藤堂和泉守(高虎)と井伊掃部頭、
そして大阪方は木村長門守(重成)と、この盛親でした。
長門守は掃部頭に当たり、私は和泉守と対戦しました。
私は見事高虎を討取り、秀頼公への忠勤に備えようと思っていた所に、長門守が不意に討死をしたためその部隊が崩壊し、
井伊勢が我々の横合いから攻めかかってきました。
このため、我が方はついに敗北したのです。
一陣が敗れた上、残党を無事に回収できなかったのですから、大阪方が敗北したのは、第一にこの盛親が
原因だったというべきでしょう。」
これを聞いた勝重は、大いに感じ入ったとのことである。
(土佐物語)
0620人間七七四年
2013/02/17(日) 18:43:03.58ID:eP7uYQxR0621人間七七四年
2013/02/17(日) 19:55:01.38ID:RP78d43e盛親を座敷に上げて大名料理で饗応して感動の涙を流したという話があったな
0622人間七七四年
2013/02/17(日) 20:20:03.88ID:i6W42d/Sて言って呼んだんですね
0624人間七七四年
2013/02/17(日) 21:48:30.80ID:gc7ACnQo0626人間七七四年
2013/02/18(月) 05:57:56.43ID:InM3MCTW0628人間七七四年
2013/02/18(月) 10:06:03.51ID:WU04mRwf0630人間七七四年
2013/02/18(月) 10:37:34.80ID:iYPsK9sN0631人間七七四年
2013/02/18(月) 10:54:42.08ID:ZGsDVx4x0633人間七七四年
2013/02/18(月) 15:03:30.47ID:g1g84q1K0634人間七七四年
2013/02/18(月) 15:11:30.09ID:QEVRWymS0635人間七七四年
2013/02/18(月) 16:51:21.17ID:MXQVCfmU0636人間七七四年
2013/02/18(月) 17:04:58.92ID:vv8UpmZA0637人間七七四年
2013/02/18(月) 17:11:15.42ID:aNMAjEpH城井鎮房をしろいちんぼうと読んでしまったあの恥ずかしさは一生忘れない
0638人間七七四年
2013/02/18(月) 17:14:06.47ID:bpPmMlrL0639人間七七四年
2013/02/18(月) 17:30:12.08ID:MMm8AWLu0640人間七七四年
2013/02/18(月) 17:34:08.15ID:mYVQcWot浅井長政
浅野長政
山田長政
黒田長政
さぁどれだろう…
0642人間七七四年
2013/02/18(月) 19:33:06.63ID:bSxWEju3親友であった縁によって肥後にあったが、盛親の罪に連座し、召し捕らえられ京へと上ることとなった。
この右近、肥後では譜代の郎党・小宮崎久兵衛と言う者がただ一人仕えていたのだが、これも共をして
上京をした。
伏見に到着すると、藤堂和泉守高虎を検使として、右近に切腹仰せ付けられた。
これを聞いて郎党の久兵衛は、「私も一緒に切腹させて頂きますよう!」と望んだが、
高虎は「いやいや、お主のことはお上より何の仰せもない。そのようなことは許可できない。」と諭した。
が、久兵衛畏まって
「ここにある右近は未だ、人が腹を切る所を見られたことがありません。ですので、切腹のやりようをご存知ありません。
その手本を、見せ候べし!」
言い終わらぬうちに諸肌脱ぎになり腹を十文字に?っ切り、右近に向かって
「かく切らせ給え!」
と申し上げると、右近はうち笑いながら「心得たり」と、潔く腹を切られたという。
(土佐物語)
盛親の弟、長宗我部右近大の切腹の模様である。
0643人間七七四年
2013/02/18(月) 19:38:41.71ID:yKP7YXYQ香川親和の弟で、
津野親忠の弟で、
細川真之の弟で、
三好長治の弟で、
十河存保の弟、
って説明したら兄弟でなんでそんなに苗字違うんだよ!
と言われそうだ
0644人間七七四年
2013/02/18(月) 20:35:40.87ID:pZAn2DQM0645人間七七四年
2013/02/18(月) 21:19:50.95ID:E/YX39Pe0646人間七七四年
2013/02/18(月) 21:50:31.84ID:9lk/mFCZ0647人間七七四年
2013/02/18(月) 21:55:31.71ID:rrHjUb/f0648人間七七四年
2013/02/18(月) 22:54:37.70ID:uuefnXgR【地域】明智光秀謀反の理由で激論 岐阜でフォーラム…「本能寺の変無かったら大阪が首都になっていただろう」の意見も
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1361187988/
0649人間七七四年
2013/02/18(月) 23:15:48.73ID:aP8N5R5Xこの「小少将」って十河存保の母親とは別人。
十河存保の母親については、天正5年に亡くなったことが
『己行記』という史料に登場する。
いつも思うんだが、長宗我部右近大夫の母親と
十河存保の母親が同じ人物じゃ年齢的におかしいじゃないか・・・
0650人間七七四年
2013/02/18(月) 23:31:46.04ID:MdmCsSJ827歳で三好長治
28歳で十河存保
57歳で右近太夫
ぎりぎり自然妊娠可能?
0651人間七七四年
2013/02/18(月) 23:40:11.18ID:MdmCsSJ8過去に議論あったんだ
しかし、「戦国三好一族」でも小少将が同一人物とされていた気が
疑問に思わないんだろうか
0653人間七七四年
2013/02/18(月) 23:46:55.51ID:RLYVO50o0654人間七七四年
2013/02/19(火) 00:16:45.57ID:r91GqvMQ元親が四国をほぼ制圧した頃ならまだしも、前年に三好長治が滅亡して
ようやく・・・という時期の天正5年に没しているわけで、元親のところに流れる
理由も状況も全く考えられないし、同一人物という線はないだろw
0655人間七七四年
2013/02/19(火) 00:17:49.36ID:j1OudHiP「私は関ヶ原の時、引いて退く馬武者を見て『かえせ!』と言ったのだが、
その武者はすぐに立ち帰って来て、私は組みしかれた。
あわや首を取られるという時に、郎等の一人が来て武者を引きはがし私に首を取らせた。
危ない目にあった。足を乱さずに引く武者には、かえせと言ってはいけないのだ」
――『老人雑話』
0656人間七七四年
2013/02/19(火) 00:21:36.29ID:j2wQy1hN0657人間七七四年
2013/02/19(火) 00:33:46.89ID:Y9dVhO/Q0658人間七七四年
2013/02/19(火) 00:45:02.40ID:e6ubEhM20659人間七七四年
2013/02/19(火) 13:20:31.65ID:0g8ybFHf0660人間七七四年
2013/02/19(火) 16:01:12.22ID:vgNhBVPG宗麟「撤退する島津を」
センゴク「深追いしてはいけない 」
四天王、信親、存保「…(-_-;)」
0661人間七七四年
2013/02/19(火) 16:04:17.26ID:5SQiINAA0663人間七七四年
2013/02/19(火) 19:34:38.35ID:Nr6+gYY6一日の命を捨てかね(大阪の)死地を逃れ、その結果賤しき者たちの手に渡り、縄目の恥に及びました。
しかしこの人の常の行跡や、八尾合戦での活躍を聞けば、それほどの不覚人には見えません。
一体どんな因果によってこのような事になったのだろうかと考えてみますと、久武内蔵助という大悪人が、
盛親を立てて己が威を欲しいままにしようとしたため、蓮池左京進、比江山掃部助、以下を讒言し、
津野孫次郎に詰め腹を切らました。
これらは、盛親自身の考えではありません。ですが、皆盛親を立てるために行われたことでした。
ですので、それら積悪の餘禍が見に積もり、その罪が盛親一人に帰して、
武運薄く、生きながらに捕らえられ、白昼に誅せられたのでしょう。
本当に痛わしい事です」
(土佐物語)
土佐物語より、長宗我部盛親の生涯についての、著者の所感である
0666人間七七四年
2013/02/20(水) 11:39:42.16ID:7hBVIyPC天正11年の輝元宛家康書状を紹介
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公方様の帰洛について書状を受け取りました。
信雄、羽柴、その他家老の衆の請書も添えられており、即座に読みました。
拙者としては各々次第ですのでいささかも問題ありません。
他に東国に御用の際は仰せください、恐々謹言
二月十四日 三河守家康(花押)
謹上毛利右馬頭殿
----
足利義昭は本能寺の変の後、都へ帰洛しようと各所へ工作を行っていたが
この書状にも見えるとおり天正11年の初頭には、織田政権の合意を取り付け
帰洛は目前とも言える状況だった。
書状の主である家康は「みんなにお任せ」って感じでスルーっぽい対応。
このまま帰洛が実現すれば良かったんだけど、織田政権内部の抗争が
激化して「賤ヶ岳の戦い」や「小牧・長久手の戦い」が続発した事により、
義昭の帰洛は九州征伐後まで延びてしまったので、ちょっと悪い話だろうか。
0667人間七七四年
2013/02/20(水) 13:02:30.11ID:niM9yblT0668人間七七四年
2013/02/20(水) 17:34:40.97ID:9cvhG7sP0670人間七七四年
2013/02/20(水) 18:44:46.70ID:cSRvLzSS20年近く前に出版されて、一部ではものすごく有名な『中国人と名古屋人』て本がある。
これは明治時代に内村鑑三が、中国人と名古屋人は最低で酷い奴らだってこき下ろしている文章を読んで、
内村ほどの人格者でさえも帝国主義的に支那人を見ていたのかと、義憤にかられた著者が書いた迷著。
でも、内村の原文読むとわかるんだけど、中国人とは中国地方の長州閥のことなんだよねw
確かに明治の政治情勢を反映してるわけだけど。
名古屋人についてはまあ置いときましょう。
0671人間七七四年
2013/02/20(水) 19:02:40.40ID:Ao0PogLbのような、批判に見せた名古屋愛
ではないよなw
0674人間七七四年
2013/02/20(水) 22:52:39.14ID:4ogifjk4【芸能/事件】少女わいせつ容疑 俳優でベーシストの河野智宏容疑者(38)逮捕 大河ドラマにも出演
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1361334374/
0678人間七七四年
2013/02/21(木) 11:04:55.91ID:IQ6ZY2mu0679人間七七四年
2013/02/21(木) 11:05:27.36ID:q8j4I5Rx0681人間七七四年
2013/02/21(木) 11:35:33.65ID:+0LF3YVNそしてじっと考えてそもそもまとめて呼んでなかった事を思い出した…
0683人間七七四年
2013/02/21(木) 16:21:11.07ID:D2iT0Itc0684人間七七四年
2013/02/21(木) 16:25:00.56ID:HJs81U3t0685人間七七四年
2013/02/21(木) 18:23:06.60ID:qJ149ImL0686人間七七四年
2013/02/21(木) 20:23:27.37ID:rDSnYhpH忠節を尽くしても追放されたり、出奔に追い込まれたりするし。
0687人間七七四年
2013/02/21(木) 20:25:44.67ID:M3FtAB460690人間七七四年
2013/02/22(金) 01:08:15.37ID:cfRrwnCF阿賀北衆なんて「御当代(景勝)からは厚意を受けていないし、謙信様
にも格別の恩義はないよ」などと公言してはばからない連中だし(これを
書いた竹俣や新発田は晩年の謙信政権の奉行人に取り立てられている)
こいつらを押さえていかなきゃならないわけで。
どこぞの作家さんじゃないけど、とかく景勝期の上杉氏について
「上田衆以外にとっては暗黒時代」みたいにいいたがる人が多いけど、
このへんの事情も考慮する必要があると思うなあ。
0692人間七七四年
2013/02/22(金) 07:22:27.20ID:PYli8qM8法礼がありこれを口実に、所縁によって豊後大友方に送られた。その仔細はこのようなことである。
当時、土佐七郡のうち6郡は長宗我部元親が切り取り、一条氏は本拠の幡多郡をどうにか確保していた有様で、
一条家中には様々な雑説が流れ、諸氏の心はバラバラであった。
ではあったが一条家家老に土居宗珊(宗算)という、武勇智謀に優れた人が有り、この人が生きているうちは
元親も幡多郡に手出しすることは出来ないと、人々も思っていた。
そこで元親も宗珊を殺すための謀略を廻らされ、先ず宗珊方に数通の文を遣わし音物を送り、
親しい友人同士であるかのように、人が思うように仕向けた。
そうしてある時、元親と宗珊が意見を合わせ謀反を企てる準備を行なっているかのような文を落とした。
一条殿はこれをご覧になり、きっと御運の末であったのだろう、真実だとお考えになり、宗珊を召し出して、
その場で手討にしてしまった。
このため一条の家中は勿論、一条家に従っていた国人や城持ちも一条兼定を疑い、仮病を使って出仕を
止めるものが多く、家中は大きな騒動となった。
元親はこれを聞いて、
「手を汚さず幡多郡を取りたり!」
と喜び、一条殿の家老、並びに国人36人の城持ちに申し渡されたことには
『一条殿は我らの先祖をお取り立ていただいた筋であるので、主君だと考えていたのに、私が安芸と合戦の時、
安芸に対して軍勢を御加勢され、私は大変な迷惑に及びました。
その後、津野との合戦の時も、また津野方に加勢なされましたが、この両度とも私は天運にかなって勝利を得たのです。
このように、一条殿は私を御悪みになっておられますが、この度一条の御家から、突然のことで私には
全く思いもよらない事だったのですが、家中の家老国人衆の判断により、私に対して若君の御後見をするように、
と申し遣わされたのです。』
として、元親は一条兼定を隠居させ豊後へ送り、若君である一条内政を元親の後見によって取り立てた。
こうして幡多郡は初めて、元親の支配下となったのである。
一年過ぎた頃一条家の家老や国人達が蜂起し元親と合戦に及んだ。
この時元親は幡多郡の武士たちに、「その郡が乱れている所に、若君を置いておく訳にはいかない。
大津の城に移してこの元近の婿とする」と言い渡し、若君を長岡郡大津城に入れ、元親の息女を輿入れさせた。
一条殿の居城には、普通の者では恐れがあると、吉良左京(親貞:元親弟)を入れたということである。
(土佐物語)
以上、長宗我部元親による一条兼定追放、土佐統一についての逸話である。
0693人間七七四年
2013/02/22(金) 08:08:20.39ID:lQ6SLSDO0694人間七七四年
2013/02/22(金) 11:13:05.68ID:u1ioEcDP0695人間七七四年
2013/02/22(金) 13:57:35.36ID:BZ6YdGLW0697人間七七四年
2013/02/22(金) 21:59:07.43ID:pHhKhLQg0698人間七七四年
2013/02/22(金) 22:33:19.95ID:i24N83en三斎様「忠利くんへ…」
0699人間七七四年
2013/02/22(金) 23:43:38.41ID:HaIsVkcW0700人間七七四年
2013/02/22(金) 23:51:03.10ID:3T3cUQBH大阪城中では関東勢(幕府軍)が軍勢を発進させた、との報を受け、諸方の砦。そのほか外構え等の
軍事施設の普請を急いでいた。
この時に豊臣秀頼は譜代新参の諸将を集めて評定を行ったが、そこで秀頼は
『先に達って申し付けた各々の持ち口(担当場所)であるが、その配置に善悪が有り不満が出ている。
よって改めて、籤によって持ち口を決め直す。』
と仰せになった。これを聞いた各持ち口の頭分の者たちは
「最前、既に仰せ出された持ち口であるのだから、それに善悪があるといっても今になって又
変えるべきではない。それに武士が籤を用いる時は、その故実に従うべきものであるので、
ともかくもそのままに差し置かれるべきだ。」
と思い、敢えてその沙汰に同調する雰囲気は無かった。
この時、大野治長と渡辺糺は籤奉行であり、両人は座の中央に居たのだが、治長が進み出て
申し上げることには
「黒門口は平野口に近く、これも又大手の要害ですので、かの口の30間は、私治長が
これを固めます!」
渡辺糺はこれを聞くやいなや怒鳴った
「治長のやり方は全く理解できない!今、持ち口の善悪があるからと籤を用いようとしているのだ!
そんな所に黒門口は治長自らがこれを固めると言い出す。
然らばこの籤は無いのと同じではないか!
そもそも修理亮はいつもそうだ!何でも己のほしいままに行い、諸将を軽んずる。
甚だ奇怪なことである!今後そのような態度は謹むべきだ!」
治長もこれに怒鳴り返した
「黒門口は内側が広く、そのため小勢ではここを守るのは難しい。それ故配下の多いこの私が、
籤を引く前にここを固めると申したので、これは全く我意を挟んだものではない!
だいたいそのように言う貴殿こそ、秀頼公の思し召しが良いのをいいことに、諸士に対して
無礼に振るまい、人々もこれを憎んでおるぞ!
この治長の事を言う前に、先ず自分の身を謹まれよ!」
糺はこれに激怒し
「日々の事はともかく、黒門口の担当も籤で決めるべきで、特別に治長に任せるような事は
出来ない!それでも強いて要求するのなら、余人には渡さぬ、この糺が自らここを請け負う事とする!
未だ言いたい事があるなら、申されよ!」
渡辺糺は目を怒らし居丈高となり肘を張って言葉を投げつけた。
これに治長も膝を立て、今にも斬りかかろうとしたのを、座中の人々が慌てて両人の中にはいり
「御両人はこの大阪城をまとめる老臣ではありませんか!それがこのような論争をするのは
ただでさえ似合わぬことであり、しかも今のような大事を控えた状況で、朋輩同士の
口論などしている場合ですか!
第一これは、君のためになりません!」
そう言って二人を制した。ここでようやく渡辺糺が鎮まり、治長も「ついカッとして言い過ぎた」
と謝罪し、各々その座に戻った。
しかしこの騒ぎのために、籤の件は沙汰止みとなったそうである。
(慶元記)
0701人間七七四年
2013/02/23(土) 03:24:38.25ID:bgqSXdkM東常縁と歌のやりとりで城を返したあのひとだ。
応仁の乱をきっかけに美濃の荘園を横領して所領にし、飛騨・近江を暴れまわって、
守護代家の舎弟でありながら守護も守護代もしのぐ勢力を持った。
その報を聞いて公家の大宮長興はこう書いている。
「応仁の乱のさなか、数々の行いを強行し、(そのせいで)いまだに東の騒乱が収まらない。
今出川大納言どのを擁立していまだに自国においている。(このころ、足利義視・義材親子は入京できず美濃にいた)
この間死んだということで、世の中も平和になるだろう」
(「此者一乱中種々張行、于今東近国煩不休、今出川大納言殿奉扶持、于今御在国、
如此之間、於死去者、世間静謐之由有其沙汰者也」)
もちろん戦乱が終るどころか、全国的には荘園制の崩壊で戦国時代へと本格移行し
美濃国内では守護代家と妙椿の持是院家の争いが泥沼化してせっかく妙椿が建てた威勢も衰えてしまうんだけどね。
0703人間七七四年
2013/02/23(土) 09:02:31.22ID:R+0y1Ibw先に籤は間違いであることが述べられて、最後に結果として
籤は取りやめとなかったとあると解釈に悩んじゃうなw
0704人間七七四年
2013/02/23(土) 16:50:36.38ID:tILfhH+y因果応報だな
0705人間七七四年
2013/02/23(土) 20:02:38.17ID:bgqSXdkM「きっと恨まれてるよ復讐されるよ誰も助けてくれないよ
家族だけが頼りだからなわかってるなおまいらガクブル((;゚Д゚)」
に比べると長宗我部は隙が大きいかな
0706人間七七四年
2013/02/23(土) 22:24:15.23ID:dhQT+eJC0707人間七七四年
2013/02/23(土) 22:33:59.44ID:j4GGDB0W0708人間七七四年
2013/02/23(土) 22:47:23.70ID:lMZuhj910709人間七七四年
2013/02/23(土) 22:50:38.87ID:+pVDKjPo0710人間七七四年
2013/02/24(日) 16:25:04.34ID:KfCYJF5tある日、江戸の将軍秀忠は福島正則を御前に召してこの様に言った
「関ヶ原の時も、あなたが第一の勤功を示してくれ、ついに凶徒を退治することが出来た。
今度私は大阪に発行するのだが、万一上方での合戦が手間取った場合、この幕府に反逆を起こすと
考えられるのは、加藤嘉明と黒田長政の両将である。
私はあなたを頼みに思っている。もし彼らに反逆の様子が見えるようなら、これを殿中に招いて
あなたの手で誅殺して頂きたい。
そしてこの事は、どうか心中に秘して、ゆめゆめ面に出さないようにして頂きたい。」
このように慇懃に頼まれたため。福島正則は
「何と有難き仰せでしょうか!」
と、直ぐにこれを了承した。
さて、秀忠はその後、密かに黒田長政を召し出した。そして
「福島正則と加藤嘉明の両名は、故秀吉の厚恩のある人たちであるので、上方の合戦の状況によっては
謀反を起こすことも考えられる。万一そのような徴候があれば、あなたが速やかに計って
彼らを殺して欲しいのだ。あなたのことを、偏に頼みに思っている。」
この秀忠からの要請があまりに懇切であったため、長政は感動し落涙してこれをお請けした。
この時の長政の態度が、殊の外幕府への貞節が顕れていたため、秀忠もまた感じ入り、
彼の嫡男である右衛門介に、松平の姓と諱を与え、忠之と名乗らせたとのことである。
最後に秀忠は加藤嘉明を召し出し、言った。
「あなたは格別の人であり、この時代の英雄の一人である。故に、あなたに我が嫡子・竹千代(家光)の
鎧の肩入れ(鎧親)を頼みたいのだ。
そして、あなたが大御所(家康)からも疎意なく思われているのであえて頼むのだが、
今度上方の闘乱を鎮めるために近々出馬をすることとなった。よって、関東のことはあなたに
任せたいと思っている。
この事は、深く心中に秘して油断の無いようにして頂きたい。
特に、福島正則、黒田長政の両者が、まさかの事を起こすようであれば、あなたが宜しくこれを
取り計らって頂きたい。
これは絶対に口外しないように。」
このような事から、大阪の陣の間この福島、黒田、加藤の三家は互いににらみ合い、
何か怪しいことはないかと監視しあっていた。
そのため江戸は、常にまして日々静寂であったそうである。
(慶元記)
大阪の陣における、徳川秀忠の深謀遠慮についての逸話である。
0711人間七七四年
2013/02/24(日) 18:37:24.39ID:xrqqCrCd0712人間七七四年
2013/02/24(日) 19:31:20.06ID:UUVitJgg0713人間七七四年
2013/02/24(日) 20:06:10.55ID:1mhG3QfG0714人間七七四年
2013/02/24(日) 20:10:44.99ID:mWC+upp3345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/24(金) 21:48:29.28 ID:lzBTSYpa
三斎は高虎と仲良いんだよな
んで長政は高虎と犬猿の仲の加藤嘉明と仲良し
領土接してるからいざこざ耐えんのだろうけど
北九州 忠興 vs 長政
| |
伊 予 高虎 vs 嘉明
ちょうどこんなイメージ
0715人間七七四年
2013/02/24(日) 20:12:17.87ID:0xl0QDbE0717人間七七四年
2013/02/24(日) 21:07:17.14ID:PGwd0Ig10718人間七七四年
2013/02/25(月) 02:56:51.02ID:sRthtU6N福島正則→いとこ。超優遇で大名にしてもらう。
地味加藤→長浜時代からの譜代。
どの面下げて地獄で太閤に弁明するんだよ
0719人間七七四年
2013/02/25(月) 07:15:25.58ID:EWuoLoQg正則「大坂城が落ちるとは思わなくて。」
地味「どうせ目立たないと思ったんで」
0720人間七七四年
2013/02/25(月) 07:45:00.74ID:VUGiWm8e0723人間七七四年
2013/02/25(月) 11:58:15.03ID:ugtIOuAI山内一豊「譜代同様で裏切るとは…、ひどい連中よ」
浅野幸長「親戚でありながらそのようなことに加担するとは、まったく…」
0724人間七七四年
2013/02/25(月) 14:43:41.26ID:TsXrrAwhhttp://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1361759516/
知らないほうが良い真実もある(´・ω・`)
0725人間七七四年
2013/02/25(月) 14:53:49.58ID:/97hQ0OF西尾と家康の逸話とほとんど変わらないのでは
0726人間七七四年
2013/02/25(月) 15:00:28.46ID:uAs2KXnDhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3009.html
真田地蔵・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-682.html
ってことで、西尾仁左衛門の主張したとされることすら諸説ある。
越前松平家の古文書には徳川実記にあった西尾の主張が記録されていると
考えれば、>>725の言うように、逸話とほとんど変わらないことになる。
0727人間七七四年
2013/02/25(月) 19:15:48.13ID:bUH1jP/W【芸能】“武田信玄の末裔”、モデルの武田アンリ(23)「親や親族が結婚相手の血筋を気にするので、それが大変」
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1361785970/
0729人間七七四年
2013/02/25(月) 20:20:25.48ID:MnkWAjcK明智家の末裔といい、自称末裔は何がしたいのやら
0730人間七七四年
2013/02/25(月) 20:36:57.46ID:9MRmQ/w70731人間七七四年
2013/02/25(月) 20:58:10.40ID:pVmaNCqTよそから養子が入ってたような
0732人間七七四年
2013/02/25(月) 21:10:47.35ID:uiUWiy5Q本当の末裔から聞いたことないと言われている織田信成みたいなもんじゃね?
大名の末裔って結構頭良さそうな人が多いんだけどね
0733人間七七四年
2013/02/25(月) 21:38:43.21ID:BB3igLOO織田信成は受け継いだ技能(能・フィギュア)的には順当な気がする。
(自称している織田信高系統は途中で三介殿の子孫が養子に入っている)
0734人間七七四年
2013/02/25(月) 21:55:07.64ID:Iau01Nr50735人間七七四年
2013/02/25(月) 22:13:05.23ID:lfvRiyzz・祖父の名前は「重治」で通字の「信」が入っていない
・だいたい70年の間に4代も抜けているとかおかしい
とか言われてた
中には祖父の織田重治が、古田武彦(邪馬台国論争で有名だが東日流外三郡誌を擁護し信用を喪失してしまった)
のつくった「市民の古代」という会の会員だったことから経歴(京大出)を詐称しているのではないかとさえ勘ぐる人もいた
(京大の前進である旧制第三高等学校の出身であることは京大卒業名簿に名前があることから確かだろうと思われる)
http://a2.upup.be/cG5FOpPjHJ
0736人間七七四年
2013/02/26(火) 00:40:36.57ID:tSnTn1Te0738人間七七四年
2013/02/26(火) 06:49:21.46ID:Aq/RUiIt0739人間七七四年
2013/02/26(火) 07:15:41.16ID:WU67qpNi0740人間七七四年
2013/02/26(火) 07:33:15.42ID:8YGriW150741人間七七四年
2013/02/26(火) 07:47:58.69ID:b/rrCrrN0742人間七七四年
2013/02/26(火) 08:39:42.80ID:7WbnB9DX0745人間七七四年
2013/02/26(火) 12:47:46.52ID:k4fnI85x明智日向守(光秀)家来、斎藤内蔵助(利三)は元親の小舅であった。ここから元親は明智の取り成しを以って、
元親の嫡子。弥三郎の実名の契約を信長公といたし、その偏諱を頂いて、信親と名乗った。
このような友好関係から、四国のことは元親手柄切り取り次第との御朱印を、信長公より下されたのである。
ところがその後ある人が、元親のことを信長公にこう申し入れた
「元親という人物は、四国に並びなき弓取りです。今のように切り取り次第を許していては、後々天下の災いにも
なるでしょう。阿波・讃岐まで手に入れその上淡路にまで手を出すことは、あってはならないと考えます。」
信長もこれを尤もだと考え、その後、先の朱印の内容を一方的に変更し、『切り取っていいのは伊予・讃岐まで。
それに阿波南郡半国を付けて与える』と仕えてきた。
元親はこれに大いに怒り
「四国のことは、私が自分の実力で切り取ったもので、これは信長卿のご恩義ではない!
この要請は私が思いもしなかったことで、驚き入っている。」
と、これを完全に拒絶した。
その後、織田方より重ねて、斎藤内蔵助の兄・石谷兵部少輔(頼辰)が使者に使わされたが、元親はこれにも
拒絶することを言い切った。
これによって織田と長宗我部は断交し、信長は息子である三七殿(信孝)を四国征伐の大将として
泉州岸和田まで出陣させた。
この時、斎藤内蔵助は四国のことを強く気遣かい、明智に謀反を急がせた。よって6月2日、
信長卿は御切腹された。
このため四国は無事にすんだのである。
(土佐物語)
土佐物語より、本能寺の原因についての言及である。
0746人間七七四年
2013/02/26(火) 17:03:22.16ID:Zr0bAbLG0747人間七七四年
2013/02/26(火) 17:28:36.19ID:piLWksczhttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1361863497/
0748人間七七四年
2013/02/26(火) 20:26:57.06ID:2g+V1I9S明治まで大名家として続いた家系はウソつきにくいけど、武田とか織田とか本流が
戦国時代に滅びた家系は言ったもん勝ちだな
まさにその通り
売名行為だったのか先祖が云った嘘がそのままつたわっちゃったのか知らんが
売名行為だったら成功か
0749人間七七四年
2013/02/26(火) 21:06:51.34ID:Bq7pCKRk0750人間七七四年
2013/02/26(火) 21:16:22.83ID:7Oggaqv6http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1361878187/
伸びるね
0751人間七七四年
2013/02/26(火) 21:16:47.95ID:r5P643P50752人間七七四年
2013/02/26(火) 21:41:56.03ID:tKdtSfyh0754人間七七四年
2013/02/26(火) 22:08:59.67ID:c5vsZAoX長宗我部に限った話じゃないけど、そうやって家を大きくしても
結局たったの十数年後に滅びましたというオチが付いちゃうと悲しいねい。
0755人間七七四年
2013/02/26(火) 22:28:46.68ID:Ad6RZUrn0756人間七七四年
2013/02/26(火) 22:38:53.97ID:2US/it7g0757人間七七四年
2013/02/26(火) 23:03:24.50ID:k4fnI85xしかしこの単位は、西国においてはもはやはっきりと知る人はいない。
武家系図の、相模入道高時(北条高時)の項に領地28万7千貫とある地が、現在知行143万5千石であり、これから
おおよそ田5段を1貫としている計算となる。
またある人が、奥州の人に聞いたことだとして語ったことには、昔は永楽銭10文で、米4合8勺が販売されていたという。
故に100文は4升8合、1貫は4斗8升、100貫は48石に当たる。
ということは、知行100貫というものは、今の知行100石とほぼ同じになる。(おそらくは5公5民計算)
後世、家によっては知行を蔵米にして渡すが、4つ8分の免ならしとして、米48石と名付けて遣わすのは、この古法によるのだという。
しかし今考えてみると、この土佐はそのようではない。
私の友人が、古い證文などによってこれを研究したのだが、彼が言うには、土佐国幡多郡は、中村郷不破村の八幡宮の宝蔵に、
かつてこの地域を治めた一条家の古文書があって、それによると
『
於本郷中村
八幡江新御寄進田之事
有間之内
中ノ前田 光任小作
一所壹貫 彌五郎
ハシラ松 目黒之内
一所壹貫分 泉(欠損)
大ホトケ
一所七百五十分 蔵橋分
ミソノ下
一所貳百五十分 立石分
合参貫分宛
永禄二年巳未3月吉日
康政(印) 』
この文書から、現在の八幡の地領の土地を比較して考察してみると、田1歩を1文として、100歩を100文、1000歩を1貫と
していることが解った。これは銭1000文を1貫とするのと同じである。とすれば、1貫は3段3畝10歩である。
100貫は10万歩、現在の計算では33町3段3畝10歩、知行333石3斗3升3合、とするべきであろう。(但し1反=1石とする)
おそらくは関東でも計算式もこのようなものであったのだろう。
かつて一条殿を、幡多郡1万6千貫の主と呼んでいたと伝わる。
これに、先の計算式を当てはめると、5万3千3百石あまり、となる。
現在の幡多郡の石高は、元親以後の(検地の)改出と、開発された新田等を加えて、7万石あまりである。
ということは、かつて幡多郡が1万6千貫であったというのは、この法則からいってほぼ相違無いと考えられる。
(土佐物語)
以上、土佐物語より、貫高と石高についての考察である。土佐物語が成立した頃は既に、貫高の事は全く解らなくなっていたのですね。
0758人間七七四年
2013/02/26(火) 23:14:30.67ID:x1emc8lH0760人間七七四年
2013/02/27(水) 05:03:00.63ID:zOS/PnjH0761人間七七四年
2013/02/27(水) 05:52:59.08ID:1zHo4Y8F今の勤務地の近くにここ2年で4回テナント変わった建物があって内3回はラーメン屋だった
駅前で周りの店は昔からあるのにその建物だけ次々に変わる
スレチすまん
0762人間七七四年
2013/02/27(水) 09:48:40.03ID:vwFC7TfYその頃には「石高」も意味不明になってるけどね。
生産高なのか物成なのかさえ分からなくなってて
現代も議論が分かれてるし。
0763人間七七四年
2013/02/27(水) 21:30:16.16ID:CCA7Q7+k閉鎖早っ
0764人間七七四年
2013/02/27(水) 22:06:18.25ID:B1hB7/09戦国を生き残った有名名門大名家ばかりな件
0765人間七七四年
2013/02/27(水) 23:44:44.29ID:7zJTOQv70766人間七七四年
2013/02/27(水) 23:45:54.45ID:zOS/PnjH0768人間七七四年
2013/02/28(木) 01:18:20.00ID:Cy3RPm5Pという形容は聞いたことある
0769人間七七四年
2013/02/28(木) 05:40:11.75ID:9qkidDlc0770人間七七四年
2013/02/28(木) 05:43:41.97ID:MbUG01Jrホラを吹くこと風のごとく、通名すること林のごとし
炎上すること火のごとく、沈黙すること山のごとし
0773人間七七四年
2013/02/28(木) 10:45:55.94ID:EngjyjMshttp://www10.plala.or.jp/koin/onnaimagawa2.gif
答え
ひとつ、だいじをもわきまへなく うちとけ、ひとにかたること
ひとつ、ひとのひをあげ、われに ちありとおもふこと
ひとつ、げにんのぜんあくをわき まへず、めしつかひやうただし からざること
ひとつ、みちをまもるひとをきらひ、 われにへつらふともをあいす ること
「女今川操鑑」
0774人間七七四年
2013/02/28(木) 11:04:49.67ID:GUH1MaMB0775人間七七四年
2013/02/28(木) 14:37:39.43ID:2VrNl8Bp0776人間七七四年
2013/02/28(木) 19:32:31.80ID:lO79rbaVうへー、ドイツの参謀メッケルが、関ヶ原の布陣図を見て「西軍の勝ち」といった話って、
ほぼ司馬遼太郎の創作と判断していいのか!恐ろしいな司馬さんは(;´Д`)
えーっ!?
0777人間七七四年
2013/02/28(木) 19:34:49.55ID:C4m2i9m1司馬は昭和の害悪だな
0779人間七七四年
2013/02/28(木) 19:43:05.60ID:TAS4E0Cu0780人間七七四年
2013/02/28(木) 19:53:26.45ID:89Prow9T存在してたのかと言うのが一番のネックかな。
有名な「日本戦史 関原役」は明治26年刊行。
川上操六が日本戦史の編纂を始めたと言われるのは明治22年。
そしてメッケルは明治21年に帰国してるからなぁ。
0781人間七七四年
2013/02/28(木) 21:15:29.68ID:dh2WKYlt似ても似つかないものである。
右大将(源)頼朝公の時代は大袖の鎧である。
しかしそれ以降時代が下って、甲冑もそれに付属するものも、全て変わってしまった。
天正の頃から現在までは、甲冑の作りなどは変化していない。尤も天正の当時は、
甲冑を着る時は袖を付けず、飾るときには袖を付けたと言う。
実際の戦闘の時に袖を付けないというのは、武田家の侍大将、馬場信房の工夫であると伝わる。
おおよそ、甲冑の製造、またその他の武具の造り方は、武士が学ぶべき第一のことである。
それが今のように平和な世の中に安んじて、鎧の毛の引き方、弓矢の拵え、鑓刀の利害も知らないような
者がいる!こう言った者たちを武士と呼ぶべきだろうか!?
それに加えて、甲冑を着るにも習いというものがあり、普段から着慣れておかないと、甲冑を着たまま
遠くに行けば股を擦り行動が困難になる。
しかしこういう時は、草履の付け方を工夫することによってそういったことが起こらなくなる。
こういうことがあるから、故実というものは良く学んでおかないといけないのだ。
(慶元記)
甲冑の変化の説明から最近の若い者への不満の吐露に繋がってしまった、慶元記の既述であるw
0782人間七七四年
2013/02/28(木) 21:20:45.35ID:2nmQo1Uo石田三成では
関が原戦は負けるべくして負けた戦争だ。明治年代にドイツの有名な戦術家が
日本に来て、関が原に遊び、案内の日本陸軍の参謀から、両軍各隊の配置・兵数を聞いて、
「これでどうして西軍が敗けたのだろう。負けるはずはないのだが」
と不審がったところ、参謀が戦い半ばに小早川秀秋が裏切りしたことを告げると、
手を打って、「そうだろう、そうだろう」と言ったという話がある。
との記述がある。「武将列伝 江戸篇」のあとがきは
昭和41年8月4日は書かれているから、昭和43年に連載開始の「坂の上の雲」より前の文章
司馬遼太郎の「関ヶ原」は昭和39年から41年に連載されていたようだが
メッケルの記述があったかは覚えていない
もし海音寺潮五郎の話が最初なら布陣図は関係なくなる
(メッケルとは断定してないし)
あと、角川文庫「日本史探訪」12巻によれば司馬遼太郎はたしか明治18年だったと思いますが、
と言っているからそのころのメッケルの動静を見ればいいと思う
0783人間七七四年
2013/03/01(金) 00:02:30.46ID:5c9UZQ3gその兄である伊豆守信之に、駿府での留守居を命じた。
この事を信之は大変不本意に思い、家康に対し様々なお断りを申し上げた。
この頃信之は書によって再三、幸村へ異見をなしていた。
『父祖のため家のため、である。
去る庚子の乱(関ヶ原)の時には、私の身の上に変えて其の方の命を助けたのだ。
今もしお前がその時の恩義を思うのなら、速やかに切腹をすべし。
お前の息子の大介のことは、私が責任をもって引き受ける。』
しかし、幸村からの返事はなかった。
その後に、幸村は信之の家臣である木村縫殿を密かに呼び、大阪城内の
一室において密会し、このように語った
「私がこの大阪城にあるのは、父上の遺言を守ったというだけではない。兄上への恩義も考えた
上なのである。
今回の合戦で、秀頼公がもし御運が開かれることになれば、私には一国を給うという御証文を
頂いている。私が仮に功を立てて一国を拝領したとしても、それを我が嫡子大介に与えようなどと
考えてはいない。兄上の子である河内(信吉)と内記(信政)の両人の内一人を我が養子とし、これに
一国を与えて先年、我が一命を助けていただいた厚恩を謝せんと思っているのだ。
であるからして、私がこの城に入った事は自分の栄達を思ってのことではない。
また家康公の方でも、私が敵対したからといって兄上の領地を削るということもないであろう。
こういうつもりで私は籠城に及んだのだ。お前は帰って、この旨を兄上に伝えてほしい。
しかし、重ねてここに来ることはならぬぞ!」
そう言って木村を返したそうである。
(慶元記)
真田信之・幸村兄弟の、噛み合わぬ意識をよく表わした逸話である。
0785人間七七四年
2013/03/01(金) 01:01:10.33ID:awcaMlqhはるばる遠征するに井伊さん...(´;ω;`)
0788人間七七四年
2013/03/01(金) 09:22:57.77ID:nQUW0JjW0790人間七七四年
2013/03/01(金) 10:33:35.10ID:SKX271fp東のお兄ちゃんの胃がキリキリと。w
0791人間七七四年
2013/03/01(金) 11:39:38.18ID:YUFHjDzn0793人間七七四年
2013/03/01(金) 20:07:35.21ID:A+eQvhek作戦研究「関ケ原合戦」
メッケル判定の誤謬−関ヶ原布陣図の盲点−
という一節が設けられていて、
実のところ、この総和は事実として確認されていない(瀬戸利春「クレメンス・メッケル」本誌78号)。
いわば軍事史上の都市伝説である。
と書かれているのは事実だが、
「関ヶ原一帯の地形には布陣図からは読み取れない情報がいくつもあり、
仮に裏切りがなくとも西軍が修理することはまずなかったと考えられるからである。」
とその「メッケル判定」を否定した上で、
「参謀旅行による地形判断を日本に導入した張本人であるメッケルが、近世の戦いであることを踏まえず、
地形を無視して包囲成立を判定することはありえない。
そうした論理的思考とは異質の『メッケル判定』は、徳川家康とメッケルの双方を同時に
矮小化するために、何者かがメッケルに仮託した創作、と考えるしかないのである。」
と、海音寺、司馬どちらも名前は出していないし、両者の作品における
「メッケルが実際に関ヶ原に来て」という記述を踏まえずに、単に布陣図を見て、としている。
これらを考慮すると、歴史群像は別に司馬遼太郎がこの説を唱えた、としたわけではなさそうだが
管理人さんのツイートはなにによるものなんだろう
0794人間七七四年
2013/03/01(金) 20:08:23.91ID:A+eQvhek?西軍が修理
○西軍が勝利
0795人間七七四年
2013/03/01(金) 20:22:24.65ID:VDtVKRIK0796人間七七四年
2013/03/01(金) 20:24:02.98ID:mYOKNMpJって書いているんだが
0797人間七七四年
2013/03/01(金) 20:26:00.85ID:5c9UZQ3g【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
0799人間七七四年
2013/03/03(日) 16:30:09.41ID:fRz+AZVjこれは、赤松則房が、「日頃聞き及んでいる俚諺や、土俗の話を思い出し、土地の話・都の話・田舎の話・戦の話などを色々と取り交えて、
雨の暇にまかせて書き連ねた」ものを、家臣・堀五郎左衛門に清書させたものである。
その内容は、則房の言葉通り多岐にわたり、
「志水氏、将軍家、渇水(の)時、水を奉し功とて、清水を改(め)下さる」
「赤松は伊豆にはりまをとられじと あしき新二郎嘉吉年中」(一般的に流布しているのは、公方の首を嘉吉元年)
「多淫の女は三十歳余。藤井の小松 高尾身なし つねや(恒屋)家執 松原(の)女「その女」」
「高尾の野沢ハほうしころし(法師殺し)」
「三宅の小藤は見越女(大女?)と云。」など、赤松家の身内ネタから、
「風呂へ入は、左の足より入る也。」
「輿へめ(召)す女臈ハ、右の足より入る。」
「主人にハ、笠をさすは右の方。」
「馬上へかさをさすハ、左の方より。」
「手をつくハ、入と形せよ。」
「渡り橋(箸)、塩の十でん、つまみくらひ、端にぎり、かきこミ箸ゆるすまじ。」
「酒をしいるに、中扱(なかくみ)に三盃のますもの。」
「かまいなきハ何の助。充、大夫、介、進、私ならず。はゞかるべし。」
といった、作法や有職故実に関するもの、
0800人間七七四年
2013/03/03(日) 16:31:18.41ID:fRz+AZVj「百千鳥ハ百官百敷の座。」などの和歌・文学に関するもの、
「大明神 おゝあきつかミとよむ。」
「腰おりかゞむ、おがむとか。」
「今の鳥居といふハ天の字を形る。」
「和銅銭は日本製。」
「ひより(日和)をば天気晴れたると云。もとハ、よき、あしきと付ねばならず。」といった、豆知識的なものや、
「爪につめなく、ふり(瓜)につめあり。」
「石山寺ハ景石多し。」
「峯相記(中世播磨の地誌)七巻、見るべし。多具山(沢山)になし。」
「よしあし 二物 一物か。」
といった「つぶやき」までもが、短文の箇条書きで、合計186条も書き連ねられている。
まるで、戦国時代の殿様のツイッターである。
中には、こんな一文も・・・。
「四天王とておこがましき者あり。頼光朝臣の。木曽氏(義仲)の。当家。」
・・・則房さん、自虐的過ぎないかい?
ってことで、こっちに投下。
0801人間七七四年
2013/03/03(日) 16:37:39.20ID:ery+cQl20802人間七七四年
2013/03/03(日) 16:42:17.89ID:MCHlR11e0803人間七七四年
2013/03/03(日) 18:26:15.96ID:8Dup4I0A0804人間七七四年
2013/03/03(日) 20:08:07.61ID:k2ycYb5M0805人間七七四年
2013/03/03(日) 20:42:47.15ID:M6d0l7GH0807人間七七四年
2013/03/03(日) 21:05:29.51ID:SOYj+wSVこの時片桐且元は本多上野介(正純)、成瀬隼人正(正成)、安藤帯刀(直次)、伝長老(金地院崇伝)を
前に、このような提案をした
「今回の鐘銘のことは、秀頼公並びに母公(淀殿)が全く存ぜぬことです。
とにかく、大阪の地が日本第一の名地であり、そこに秀頼公が居住されているため、
世上に様々な風説が起き、それが大御所様(家康)のお耳に入るのでしょう。
であれば、秀頼公が大阪を明け出て、何方へも代わりの領地を遣わされ、その上江戸に屋敷を拝領し、
そこに秀頼公と母公が交代に参勤される。この考えをいかが思われますか?」
これに対して先の面々は相談したが、
「それを我々から促しても、秀頼公がお聞き入れになるのは大変難しいだろう。
秀頼公ご自身がそのように望まれるのであれば、その時は公のお心次第に我々も対応する。」
と返答し、結果的にこの提案での事態の落着には至らなかった。
所でこの、片桐且元が申し出た提案は且元自身が考えたことではない。
実は亡くなった加藤主計頭清正がかねてからこの考えを語っていて、それを聞かされていた且元が
この度申し出たというのである。
(村越道伴物語留書)
鐘銘事件の際の、大阪城明け渡しの提案についての記録である
0810人間七七四年
2013/03/04(月) 02:58:03.97ID:XnXjWdMR0811人間七七四年
2013/03/04(月) 04:55:32.96ID:Iz/osWK2おそらくそのあたりにメインの建物があったんじゃないかと目されてる地域のようで
0812人間七七四年
2013/03/04(月) 16:01:03.91ID:U8qpeY/a0813人間七七四年
2013/03/04(月) 16:03:26.01ID:YqyWQql30814人間七七四年
2013/03/04(月) 16:07:32.71ID:8iXOkB8bまとめ管理人がクズすぎて吹いたわ
0815人間七七四年
2013/03/04(月) 17:41:15.00ID:KWkIqVzjクズ・・・か
http://hissi.org/read.php/sengoku/20130304/OGlYT2tCOGI.html
0816人間七七四年
2013/03/04(月) 20:04:56.17ID:JtyqrRGR在国をし、この他筑後柳川城主。田中筑後守(吉政)、豊前小倉城主・細川三斎、加藤肥後守忠広の
計4人は九州に残り、大阪で戦闘が始まれば、各々が島津を誘い、田中と黒田が先に出発し、
中に島津を行かせ、後ろから長岡内記(細川忠利)、加藤が後払いをして上洛するように、との
命が下った。
ところがその所に、細川越中守三斎から、押して大阪に着陣したいとの要望が提出された。
その内容には
『私は秀頼に対して、3度まで遺恨を持っているのです!
そのため前々から、今のような事態が起これば将軍家のお供をつかまつり
ご奉公申し上げたいと思っていた所、このような好機が訪れました。
ここは押して、罷り上がりたいと思います!
そのため、軍勢は国元に残し、私はただ7騎だけを召し連れます。』
これを見た家康は尤もな事だと思い、「将軍の秀忠はまだ若輩であり、本多佐渡守(正信)の
組に入り、旗本にあって補佐してほしい」と仰せ出なされたとのことである。
(村越道伴物語留書)
これによると三斎様にはよりによって豊臣秀頼に遺恨が、しかも3つもあったとのこと。
一体どんな遺恨なのか、秀頼は何をして三斎様を怒らせたのか、内容が非常に気になる、そんな逸話である。
0817人間七七四年
2013/03/04(月) 20:31:30.33ID:KWkIqVzj0818人間七七四年
2013/03/04(月) 20:38:03.16ID:xal1JMkwA秀頼の父親のラスボスの家来の三成がお玉を自害させた事
B秀頼の父親のラスボスの軍師の息子がムカツク
0819人間七七四年
2013/03/04(月) 20:47:44.42ID:tllSGyrA0820人間七七四年
2013/03/04(月) 22:34:21.55ID:GTMLJwHY0821人間七七四年
2013/03/05(火) 07:29:57.24ID:D5EsEx4u豊臣といい武田といい子供もあほじゃないだけに気の毒
0822人間七七四年
2013/03/05(火) 10:36:18.98ID:4WdYuiZLもっと具体的に挙げてったら某19ヶ条の折檻状みたいになりそうだな。w
0824人間七七四年
2013/03/05(火) 11:08:15.22ID:FlIt+4OE0825人間七七四年
2013/03/05(火) 11:28:00.51ID:o+bA4p+T・ガラシャを自害に追い込んだ
・丹後に兵を差し向けた
・大友吉統に杵築城を渡す朱印状を出した
それ以降は無いよね? 多分。
0827人間七七四年
2013/03/05(火) 13:12:15.12ID:o+bA4p+Tその後は接点がほとんど無いからなぁ。
0828人間七七四年
2013/03/05(火) 13:15:02.56ID:tssyF7h7単にヒャッハーしたかっただけじゃね?
この人武闘派だし
0829人間七七四年
2013/03/05(火) 13:20:34.70ID:DxhmMoME0830人間七七四年
2013/03/05(火) 15:47:02.76ID:g8S3FBo3気になる
0832人間七七四年
2013/03/05(火) 18:02:31.85ID:rYcjJfQJいわゆるパノラマ島
0833人間七七四年
2013/03/05(火) 19:22:35.98ID:mLcDgo1B井伊直政の仲介により役目失敗の罪を問われることなく細川家へ帰参がかなうことになった
とあるから祐直に万が一のことがあったら直政が黙ってないんじゃないか
それこそこの逸話もあるしな・・・
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3993.html
0835人間七七四年
2013/03/05(火) 22:11:46.83ID:Y1RKo5Mw0836人間七七四年
2013/03/05(火) 23:02:59.95ID:lp6Siulz浪岡城が落城した際は油川城におり、落城の報を聞き涙を流して悔しがったという。
その後、土民に変装して行方不明の妻子を探して見つけ出し、顕忠は顕村の一人娘と自分の子顕佐を老臣沼山勘解由に預けた。
成長した時には二人を結婚させ、北畠氏唯一の正統な血統とし、先祖を祀らせることを頼み、顕忠は秋田に落ちていった。
やがて沼山勘解由は大浦為信の軍門に降り、大浦城に仕官するようになったので秋田にいる顕忠にも、
降参して一族で同じところに住むことを奨めた。
しかし、顕忠にはどうにもならないことで、その返書に金五十両を添え、重ねて一族の養育を頼んだ。
その返書の内容である。
--------------
去月二十八日の来状、いま拝見候。いよいよ御無異の条、満足致し候。
しかれば、このたびの貴様御官僚(仕官)に有りつきなされ、ごもっともに存じ候。
ついては、拙者も降参いたすまじきやのむね、御親族のよしみと御厚情浅からず、かたじけなく存じ候。
譜代の長者(家臣)、もろもろ歴々の大方、降参のうえは、拙者若輩の身、
さっそく貴様の御深情にしたがい申すべく候えども、亡君の契り、忘れがたく存じ候。
ことに近ごろ、多病に相なり候間、いまさら降参の望み、
これなく、このうえとて四海いまだ定まらず、ただ風波と漂着仕るべき存念に候。
しかれば、御地にて唯御先祖祭りごとも分にいり、御成長の後は、先祖祀らせくだされたく候。
北畠中納言(顕家)の正統末葉とも、ほかにこれなく候間、拙者の心底を御察し、何分頼み入り候。
妹に別紙進ぜず候、よろしく頼み入り候。
一.金五十両、軽少の御座候えども、これを進呈仕り候。
一.おたがい御存じ、もちろんの儀に候えども、御当家の先祖由緒、大方書き記して進じ候。
こども成長ののち、先祖を祀らせ仕り、別家のためにもつかまつり候節、
この遺物相添え、こどもへ御渡しくだされたく、委細の記録は、先だって兵乱の折り、散乱致し候。
この度も急使、ことに粉乱のなか、委細記しかね候。
ただ胸中に覚え候趣きばかり、書き記し候のみ。
八月十六日 北畠左近顕忠
沼山勘解由殿
---------------
名家が滅びゆく様をありありと伝えている書状でした。
0837人間七七四年
2013/03/06(水) 00:41:51.33ID:lUiVf2eH大友家改易のどさくさ紛れじゃ無いみたいだし
細川だけ加増される程の功績あったっけ?
0838人間七七四年
2013/03/06(水) 00:58:17.30ID:Lb+2/C9fwikiには三成襲撃事件のどさくさで家康がねじ込んだように書いてあるが
0840人間七七四年
2013/03/06(水) 01:15:50.89ID:lUiVf2eH0841人間七七四年
2013/03/06(水) 11:01:18.00ID:76K/+dF+三成はこの件で相当アタマに来てたようで、輝元を抱き込んだ直後から
田辺、杵築に改易を申し渡して、城を受け取るように手配してたな。
まあ両城とも開城を断られたうえに、ガッツリ籠城されちゃったけど。
0842人間七七四年
2013/03/06(水) 18:26:53.65ID:OabeYdxl特別感無いから駄目なのか?
0843人間七七四年
2013/03/06(水) 18:28:05.92ID:OabeYdxlリロードしてなかった…
0845人間七七四年
2013/03/06(水) 22:05:15.79ID:cEcaCZCthttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/641
↑の話で、これは自分が直接見ないといかんと思ったか、徳川家康は諸大名の仕寄の
巡見をすることとした。
当日、その道筋には諸将がまかり出てお目見えを望み、家康は乗り物から「何れも骨折りである」
と声をかけた。
そして家康は備前島の、片桐且元の陣屋に入った。
この仕寄場は大阪城に殊の外近く、矢狭間からは城中の男女の衣服まで、鮮やかに見て取ることが
出来た。
家康は乗り物から降りると、杖をついてそのまま竹束の外に出ようとした。
これこそ家康の近習たちが最も恐れたことである。城から近いということは、敵からの銃弾も
ここには降り注いでいるのだ。お供の者達は慌てて「どうか竹束の陰に入ってください!」と
申し上げ、どうにか留めようとした。
そして本多上野介(正純)が御側に行き
「大御所様ご自身で外に出るなど勿体無いことでございます!どうかこちらにお入りください!」
と説得した。と、これに家康、激怒
「黙れ黙れ!」
家康は怒鳴り彼らを下がらせる。それでも正純と永井右近太夫(直勝)の両人が矢面に立ちふさがり家康を
行かせまいとしたが、家康は強引に脇に寄らせ、そのまま外に出て、大阪城からの銃弾が飛んでくる中、
悠々とその城内を視察した。
そして上野介(正純)、使番の小栗又市、初鹿野伝右衛門、横田甚右衛門、真田隠岐守(信尹)、
島弥右衛門、朱倉六郎右衛門を呼び、彼らをその場の矢面に立たせた。
そこで島弥右衛門の草摺に三匁五分ほどの鉄砲の弾が当たった!
が、それは当たると平たくなって落ち、体まで届くようなことはなかった。
家康は距離などを見立て鉄砲があたっても大したことがないことを計算した上で視察し、
近習たちにもそれを体験させたのである。
所で家康が巡見を始めた頃には大阪城の四方から甚だしく鉄砲が撃たれていたのだが、
やがてそれは止まった。それは後藤又兵衛基次が射撃を静止させたためである。
後藤は竹束の外に出てきたのが家康と気づき、嬉しげに
「皆銃弾を恐ろしがって中々出てこない所に、このように出てこられるとは、さすが家康公である!」
と、大いに褒め、足軽たちに
「あそこに出てこられたのは家康公である!大将などは弓鉄砲で討つものではないぞ!」と、
命令の変更を下知したのだ。
だが、これにより大阪城内では『後藤は家康と一味している』との風聞が流れ、また家康がかねてから
「後藤又兵衛や御宿越前(政友)などはわしに対して遺恨はないはずなのに、どうして籠城したのか?」
と言っていることが城中に知られ、更に妬みを買い、城内で孤立していくことになったという。
(村越道伴物語留書)
0846人間七七四年
2013/03/07(木) 02:09:21.52ID:+ZxFXNdZ0847人間七七四年
2013/03/07(木) 10:02:47.94ID:ZAxsvGvM0848人間七七四年
2013/03/07(木) 16:20:19.51ID:d/MQd/n/N.G.M.S!
0849人間七七四年
2013/03/07(木) 19:43:49.11ID:8BqcARGe>近習たちにもそれを体験させたのである。
標準的な6匁玉の射程なら分かるかもしれんが
オーダーメイドの火縄銃の射程なんて分かるわけないだろ
確実に作り話
0850人間七七四年
2013/03/07(木) 23:41:19.46ID:eaUdJoLU0851人間七七四年
2013/03/08(金) 00:59:49.12ID:uUdFZGBb27日、伏見城の将軍・徳川秀忠は二条城に有った家康と会談し、大阪攻めのため秀忠は
翌4月28日に出陣、家康は5月1日に出陣することと決め、秀忠はその準備のため伏見へと帰った。
が、その夜、秀忠は翌日の出陣のため早くに寝所に入っていたが、亥の刻(午後11時頃)家康より
秋元但馬守が使者として訪れ、
『明朝の出陣は中止するように』
との命を伝えた。
秀忠はこれに大いに驚いた
「大御所様は一体どういうおつもりなのか!?既に出陣が決定しているのに、俄に繰延するとは
その御心計りがたい!
既に先手として、井伊掃部頭、藤堂和泉守、榊原遠江守、本多美濃守、松平下総守が、
平潟橋本まで進出しているのだ!まったく心得難い!」
そうりた本多佐渡守(正信)を呼び出して相談したが、正信からは「ともかく家康公にお任せになるべきです」
と言われ、そのため家康の命を了承した旨を伝え、秋元を返した。
しかしそれでも秀忠は、この命令変更の理由を知りたいと思い、安藤対馬守を二条城に派遣した。
このようであったが、出陣の延期は変わること無く、秀忠は5月1日出陣、家康は同3日に出陣と決まる。
が、これもまた延期され、最終的に秀忠は5月3日に、家康は同5日に出陣となった。
この時家康は大阪路を取って大阪城へ向かう事とし、諸軍勢に対し3日分の腰兵糧を持っていくよう
触れをだした。荷駄馬を使うのも無益とし、家康自身、糧米5升、味噌2升、塩3升、塩鯛2枚、
鰹節10、というごく軽い支度であり
「今度の合戦、勝ったとしても負けたとしても、3日目には京に帰る」
と言っていたという。
ところで家康が出陣を延期したのは、このような理由があった。
古田織部少の家来に木村宗喜という茶坊主が有ったが、これが大阪城からの謀略に従い、
家康秀忠が大阪に向かって出陣した後、京伏見を焼き払う計画があったのである。
この計画は、大阪城内のものが幕府方に返り忠をして知らせたため発覚した。
知らせたのが何者なのかははっきりしていないが、人々は大隅与左衛門であると
言っている。
然して5月3日の晩、木村宗喜は捕縛され翌日斬首と成り、また古田織部少も
板倉伊賀守に身柄を拘束された。
こういった事態のため、家康は出陣を引き延ばしていたのである。
(村越道伴物語留書)
0852人間七七四年
2013/03/09(土) 09:26:28.19ID:8+NklLJ6家康の支度が激しく謎だな。
三日分で糧米5升、塩鯛2枚は納得するけど
味噌2升、塩3升、鰹節10は一年分かよって量だ。
0853人間七七四年
2013/03/09(土) 11:07:05.05ID:5GTWu+47味噌と塩は携帯できる調味料の主だろうし
鰹節も持ち運びやすい保存食
0854人間七七四年
2013/03/09(土) 11:23:00.76ID:bLD2QM570857人間七七四年
2013/03/09(土) 11:56:10.65ID:n7oovZqcネタとして観る分には楽しい珍説も多いからアリ
0859人間七七四年
2013/03/09(土) 12:59:04.26ID:clGK8/6t小牧長久手はいわば天下分目の大戦だったんだ
0862人間七七四年
2013/03/09(土) 14:35:15.63ID:slsb1I88かつて熊本の自宅において、一匁筒を磨いていた時、庭の南天の実をヒヨドリが啄みに来た。
亀右衛門は鉄砲に弾薬をつめ、標的を見ずに火箸で火を着火させたが、事もなく撃ちぬいたという。
さて、島原の乱の前のことである。
細川家の家臣に南條大膳という者があったが、恨むことがあって細川家を傾けんと策謀し、
幕府に対し、細川家中に切支丹があると訴えでた。
幕府はこの南條を江戸に召喚することを命ずる。これに細川家は驚きどう対処すればよいか
途方に暮れたが、ここで松野が「私にお任せください」と、これを引き受けた。
さて、南條を江戸に船で護送するのであるが、松野は南條が囚人の扱いであるので、船内に
厚い板で詰め牢を作り、医師一人にだけ密謀を言い含め熊本より出立したが、天気を待つといって
所々で船を止め、日を経るうちに、健康のためと言って人参を入れた薬を南條をに与えた。
さらに朝夕の食事も、人参湯で飲食をさせた。
南條は長期間牢に閉じ込められ気が鬱していた上に、人参数百斤を飲まされたため、終に心狂乱した。
松野は江戸に至ると彼を召しつれ幕府に対し、「南條は数年来狂気の者である」と説明した。
切支丹の訴えの件を問われても、「ただの狂言に過ぎません」と答えた・
何より訴えた本人が狂乱の体であるので幕府も致し方なく、「では熊本に帰せ」と、南條の身柄も
松野に返した。
この謀を知っていたのは、人参を調薬した医師一人のみであったと言う。
(軍人頓智叢談)
0863人間七七四年
2013/03/09(土) 14:46:53.06ID:19OH1Eir0864人間七七四年
2013/03/09(土) 15:13:25.68ID:qwxpDY3F0865人間七七四年
2013/03/09(土) 15:17:16.77ID:67BDpLzD0866人間七七四年
2013/03/09(土) 15:31:23.02ID:KZx70caN医者
0867人間七七四年
2013/03/09(土) 18:18:34.74ID:67BDpLzD0868人間七七四年
2013/03/09(土) 18:56:29.02ID:3e+1wSdj成実といえば毛虫の前立て兜。
決して後退しないことを表したものとして有名だが、毛虫だったり百足といわれていたりする。
実は、成実の名跡を継いだ亘理伊達家の伝承では、毛虫であって百足ではない。
そもそも伊達政宗自体がNHK「独眼竜政宗」で全国的な知名度を得たわけだが・・・
この作品での甲冑のモデルは、宮城県亘理町の甲冑をまとった成実木像。
たしかにあの前立てを見ると百足っぽい。棒状の胴体の左右に細い毛が無数に生えていて、
ぱっと見は百足に見える。
だが、よく見るとわかるのだが、胴体の腹側と背中側にも同じように毛が生えていて、胴体を
真上から見ると十字状に毛が生えていることがわかる。
つまり全身に毛を生やした毛虫なんですね。
現在北海道伊達市にある甲冑も、宮城県の木像も、どちらも毛虫。
一応NHKの名誉のためにいっておくと、作中では毛虫とは言っているが百足とは一言も無い(はず)。
どうもテレビでのイメージが膨らんで後からそういうことになってしまったらしい。
まあ宮城県民でも百足説の方をを信じてる人が多いしw
アニメ化された4コマ漫画とかアニメ化されたラノベとかじゃ百足なんだよなあ
0869人間七七四年
2013/03/09(土) 19:09:06.61ID:SACV+UOR0870人間七七四年
2013/03/09(土) 20:21:47.16ID:OSCC/mep>>625
稲葉山城って初期に織田家が落とせずに苦労しただけで
半兵衛さんが落として以降は一度も守りきったこと無いんじゃないかな
半兵衛さん乗っ取り→信長により落城→本能事後のごたごたで城代独立すぐ織田に出戻り
→信孝、秀吉に降伏→信孝、信雄に降伏→信秀、東軍に降伏→廃城
攻められると毎回落ちる必敗の城という気がしてきた
0871人間七七四年
2013/03/09(土) 20:43:31.03ID:clGK8/6t0873人間七七四年
2013/03/09(土) 23:41:07.93ID:Qe53tkiv合戦とは常に他国に攻め込むものなので本拠は館で十分
0874人間七七四年
2013/03/09(土) 23:45:58.29ID:slsb1I88かといって居住性とか拡張性とかをあまり考えたふうでもないのが信長の不思議なところだけどw
0875人間七七四年
2013/03/09(土) 23:49:08.29ID:hw9Y0aM30876人間七七四年
2013/03/10(日) 00:00:51.73ID:42nW6Tk0光秀の坂本城も
0877人間七七四年
2013/03/10(日) 00:03:19.05ID:Q9ndjW6eそこまで踏み込まれたらアウトって状況が続いてしまったからとは思う
そうは言っても天庵様の小田城だって落ちた経験も豊富な代わりに守りきった経験も豊富だしな、と思うと名誉ある戦歴ではないよなと。
0878人間七七四年
2013/03/10(日) 00:22:39.76ID:zdESkUC40879人間七七四年
2013/03/10(日) 00:48:54.55ID:Bk9V3IU7謙信、これを試みて厚く賞賜す。
其の夜、謙信、鬼小島弥太郎を招きて曰く
「段蔵狐面にして狼眼なり。その術、奇といへども用ふべからず。他国に逸せすめずして
これを斬れ」と。
弥太郎直ちに馳せて段蔵の旅宿に至る。段蔵、謙信の意を察して逃る。
然れども心ひそかに謙信を怨み、密かに入りてこれを刺さんとす。
事ならず、走りて甲斐に至り、仕を信玄に求む。
信玄、乃ち段蔵を召見す。段蔵、自ら其の術の妙を陳ず。
信玄莞爾として、近臣・土屋平八郎を視る。
平八郎、起って段蔵を斬る。
(軍人頓智叢談)
0880人間七七四年
2013/03/10(日) 00:52:30.14ID:aI7FMnLI0881人間七七四年
2013/03/10(日) 00:58:00.03ID:RhZ4Px+50882人間七七四年
2013/03/10(日) 00:58:08.86ID:gnU1VWjb武田ファンに良い話だね
0883人間七七四年
2013/03/10(日) 01:04:08.49ID:gnU1VWjb逃さずその場で確実に抹殺が安全策で後腐れない
0884人間七七四年
2013/03/10(日) 01:07:05.98ID:T/3iRVbA0885人間七七四年
2013/03/10(日) 01:09:06.61ID:Q9ndjW6e弟は片手千人斬りだし凄まじい兄弟だよな
0886人間七七四年
2013/03/10(日) 01:17:25.38ID:gnU1VWjb明日は我が身と思うだろ普通は
0887人間七七四年
2013/03/10(日) 07:27:03.64ID:OQpQMMtl0888人間七七四年
2013/03/10(日) 09:46:21.63ID:1vD1W6ZD天庵様なんて大喜びで雇ってくれると思うぞ。
0889人間七七四年
2013/03/10(日) 09:48:30.90ID:IYAcCoz40890人間七七四年
2013/03/10(日) 10:15:46.52ID:9Go8rDR4何が悪いか知らないけど、狐面と狼眼のせい?
0892人間七七四年
2013/03/10(日) 12:09:54.01ID:42nW6Tk00893人間七七四年
2013/03/10(日) 20:42:59.02ID:sAIZ2IeI0894人間七七四年
2013/03/10(日) 21:25:31.37ID:hxIqCdTh0895人間七七四年
2013/03/10(日) 21:29:22.34ID:vwIfTQfC0896人間七七四年
2013/03/10(日) 22:44:15.46ID:0DhvHLVm口車に乗せられて菅谷さんの反対も聞かず召し抱える
↓
どこからともなく段蔵の悪い噂が流れ出す
↓
信じた天庵さま、やっぱり粛清してしまえ
↓
色々押し付けられる菅谷さん
0898人間七七四年
2013/03/11(月) 08:41:07.97ID:hMVKhpgC一目でイカれたジャンキーだと分かるくらい悪人顔だったんだよ
0899人間七七四年
2013/03/11(月) 09:55:57.50ID:p4g9rU240900人間七七四年
2013/03/11(月) 15:48:55.60ID:/oraico/みんなの名前辞典
試しに真田信之と入力してみた。
なんか笑えた。
流れ全然関係ないね。ごめん。
0901人間七七四年
2013/03/11(月) 18:41:11.55ID:ZjMDm8tBちなみに仙台市の観光客向け「おもてなし武将隊」の伊達武将隊には、伊達成実役が
いるわけだが、その紹介文では百足の兜や香車の陣羽織が堂々と説明されている。
自治体の資金で運営されてるわけだから、つまりは宮城県と仙台市が公認でこの話を
広めてるということなのだったw
0902人間七七四年
2013/03/11(月) 23:07:09.38ID:VtjlTHp70903人間七七四年
2013/03/12(火) 01:51:54.47ID:+UJq/Rtoこれはその先年、高晴の家臣が、主人の行跡よろしからずと訴訟を起こしたためであったが、この時は、彼の兄である
福島左衛門大夫正則の旧勤に免じられ、厳密の御沙汰には及ばなかった。
この時、彼を訴えた家臣は蓄電したのだが、この高晴はその行方を探し出し、終に駿府の町家に潜んでいるのを
突き止め、手のもの5人を差し向け理不尽に搦め捕ったのである。
これに駿府町奉行の彦坂九兵衛は、届出なしにこのような捕物が行われたことを憤り、高晴を譴責した。
そのためこの騒動は大御所・徳川家康の裁定を仰ぐこととなり、詮議の上勘気を被った。
こうして、事件の翌年6月下旬、高晴の咎は重畳であると、小堀新助宗次、中坊左近秀政によって伝えられ、
彼の和泉国宇多郡6万石を没収、改易となった。この時同時に、宇陀城も破却された。
(関難間記)
福島正則の弟、福島高晴改易についての記録である。
0904人間七七四年
2013/03/12(火) 21:49:23.77ID:+UJq/Rto17日、伊達軍を一方的に打ち破り追い詰めた佐竹・会津諸侯連合軍は、日暮れにより追撃を止めたものの、
翌早朝より伊達本営へ押し寄せ、勝負を決するべしと決議し、その作戦も綿密に立てられた。
が、その夜も信じられない事が起きて、合戦を行うこともなく、全軍は未明から撤退を始め、皆本国へと帰還した。
それは、このような理由からであった。
今回の合戦に当たり、佐竹より小野崎義昌(佐竹義重叔父)という者を大将として、大軍を派遣した。
ところでこの小野崎義昌という者は、常日頃より人に超えて馬を労る人物であったのだが、特に明日は
大事の敵に逢う馬であるからと、陣屋の前に下郎を呼んで、自ら立ち会って馬の足など洗わせていたのだが、
この時心に叶わぬことがあり、下郎の一人を、木沓を履いたまま蹴り倒した。
蹴り倒された者も、下郎ながら短気であり、蹴った足を引く前に、刀を抜きざま、義昌の心臓を刺し貫いた。
無残なことに義昌は二の息もなく死んだ。陣中は、これは何事かと大騒ぎになり、やがて事の仔細が
各陣営に伝えられると、会津諸侯の面々も
『これはどうするべきか。明日の合戦で建てとの勝負を決しようと強く決意していたが、それはそもそも、
佐竹勢を頼もしく思っていたためだ。
それなのに大将の義昌殿がこのような事になった以上、佐竹勢の雑兵達はこの夜のうちにも本国に向けて
帰っていくだろう。
そうなっては、残る我等が軍勢だけで雌雄を決する戦いが出来るとは思えない。
そもそもこんな事件が起こり気後れした軍勢で合戦を行なっては、とても我等に利があるとは考えられない。
ここは一先ず黒川に引き返し、体制を立て直すことこそ、後日の軍の利もあるというものだ。』
この様な結論にいたり、これを格陣営に知らせ合い、まだ夜中のうちから本国に向けて退却をしたのである。
一方伊達政宗の軍は、そのような事など夢にも思わず、本宮に置いてあった物見から
『一体どういうわけか、会津勢が合戦を仕掛けてくる様子はなく、それどころか徐々に撤退をしています!』
との急報が入り、一体い何が起こっているのかまるで解らず、追々物見を出して状況を確認すると、
やはり敵勢は、どういうわけか撤退しているというのが明らかとなり、そこで本宮まで移動した。
(会津四家合考)
伊達政宗が絶体絶命となった、人取橋の戦いについての逸話である。
0905人間七七四年
2013/03/12(火) 23:29:20.33ID:/s6mj3XF0906人間七七四年
2013/03/12(火) 23:31:55.80ID:+UJq/Rto0907人間七七四年
2013/03/14(木) 00:02:03.89ID:33Xk3Rsh山本勘助に出会った。
元就は勘助の容貌を奇として、どこから来たのかを尋ね、さらにをの所志を質問し、しばらく考えた後
帰城したが、5,7日ほど後、使者を遣わして棚守にこう伝えた
『先日一見した所の京都牢人(勘助)は、早くこの地から去らせるのだ。そして日本国中を遍歴させるべし。』
棚守はこの意を受けて、勘助に他所の土地へ興味を向けようと考え、関東の諸将の威烈を語った。
山本勘助はこれを聞くやいなや、棚守に暇を告げて立ち出ようとした。
棚守は勘助があまりに早く暇を告げたことを怪しみ、止めてそのわけを聞いた。
勘助曰く
「私はこの国に仕官を求めるために来ました。貴方もまた、私を推挙してくれたではありませんか。
ところが今、関東の諸将の威烈を語られました。これは貴方の御心が、既に変わったことを表しています!」
「な、何故そう思ったのだ!?」
「関東とは”還当”、すなわち”還る当し(かえるべし)”と読めます。これが私が暇を乞うた理由です!」
棚守は勘助のあまりの明敏さに、感嘆したとの事である。
(軍人頓智叢談)
なにか噛み合っていない気がする。気のせいだろうか?w
0908人間七七四年
2013/03/14(木) 00:11:36.94ID:K6cpGKyN0909人間七七四年
2013/03/14(木) 00:12:54.95ID:NOytU+1x0910人間七七四年
2013/03/14(木) 00:20:54.12ID:3A123S6K0911人間七七四年
2013/03/14(木) 00:30:07.69ID:4pi1deYS0912人間七七四年
2013/03/14(木) 15:23:25.12ID:FrjM3yl+0913人間七七四年
2013/03/14(木) 20:14:10.16ID:7q8hpfO6それ以前から伊達政宗の累年の狼藉は豊臣秀吉の耳にも聞こえており、蘆名義広に対して少々の
援助は有ったものの、何と言っても都鄙は遠く離れており、援兵を送ることが出来なかった。
その為この様な事態になったのである。
こういう事であったので秀吉は義広に、会津を奪われた罪を問うこともなく、この年、
小田原征伐のため関東に下向した後に、政宗を所領を取り上げ、先規のごとく義広を旧領に戻すと、
折あるごとに伝えてきた。
これを義広は一途に頼りに思っていた。
さて、3月になって秀吉は、北条退治として相模国に下向し、小田原にしばらく陣を定めた。
この時蘆名義広は石田三成を通して、前から内々に言われていたよう、会津への復帰・安堵の
御沙汰が出ることを願い上げたが、はたして、鳥がいなくなれば良い弓も捨てられ、兎が死ねば
猟犬も煮て食われる、という諺の通りであろう。
秀吉は去年までは、北条を退治することを心にかけ、関東・奥州に一人でも味方をつくろうと
考えている時は、義広にも会津への復帰の御沙汰などあったのだが、この頃小田原北条氏は
秀吉軍の猛攻に言う甲斐もないほど弱り果て、残った燭の火が今まさに消えようとする有様であり、
逆に秀吉の威光の上り立つこと、烈火の焔を巻くにも似ており、この様な状況で義広は、
旧領復帰の沙汰を、言い出すことすら出来なかった。
こう言った状況で、取次の石田三成は蘆名義広に対し、内々にこのように提案した。
「あなたは”義広”と名乗っていますが、蘆名の家督を相続されたのですから、(蘆名の姓である)
平氏累代の一字、例えば”盛の某”などと名乗るべきなのです。
それなのに、いかに源氏の名門である佐竹の御子であるとは申しながら、養子に入っても
そのまま”義広”と名乗られていること。これでは平氏の家督を相続されたとは、言い難いのでは
ないでしょうか?」
これを聞いた義広は、誠にその通りだと思い、すぐに”盛重”と改名した。
その後も折につけ様々に訴えたが、秀吉の方ではこれに全く関心を示さず、会津の旧領を
回復することは終に無かったのである。
(会津四家合考)
0914人間七七四年
2013/03/14(木) 23:36:32.21ID:q2hi2GXb0915人間七七四年
2013/03/15(金) 02:59:22.00ID:Rsw3PLK20916人間七七四年
2013/03/15(金) 06:36:54.47ID:L/B8O0RT0917人間七七四年
2013/03/15(金) 09:55:37.06ID:bmlkKorS0918人間七七四年
2013/03/15(金) 10:43:46.45ID:dvPhRh2j小田原で何か戦功があったわけでもないのに旧領復帰とか虫がよすぎる
0919人間七七四年
2013/03/15(金) 14:50:16.84ID:Oh8VcyrX家柄だけの人間を置くわけにはいかないだろうな
0920人間七七四年
2013/03/15(金) 15:46:14.35ID:81johXuF0922人間七七四年
2013/03/16(土) 00:14:16.48ID:jmwYLjKu細川忠興にも疑いの目が向けられた。
秀次から黄金百枚を借りていたことも問題視され、閉門を命じられたのだが、
竹田永翁(※注1)からは、石田三成らが忠興を切腹させようと企んでいるとの報まで入っていた。
そんな中、またもや三成がしきりに讒言をしていると永翁から松井康之に知らせがあった。
これを聞いた忠興大いに怒り、
「本来なら年来の戦功に対し恩賞があるべきなのに、日頃三成と仲が悪いために
妨げられ僅かな恩賞すらなく、功ある家臣を賞することもできない。
さらにこの上、讒言が信じられ死を賜ったなら、むざむざ腹を切るものか!
三成を襲い討ち、この伏見を黒土にした上で、自ら首を掻き落してくれる!」
康之はこれに対し、
「もし幽斎様御夫婦が安穏に許されるなら、ご孝行の為大人しく切腹なさるべきです。
そうなれば御介錯を務め、御供仕りましょう」
忠興は深くこれに感じ、それからは切腹を申しつけられた時の用心に、毎日行水して白い肌着を着ていたという。
また、米田助右衛門を聚楽第の細川屋敷へ遣わし、伏見よりの一報次第で忠興夫人と子息を生害させ、
屋形に火を掛けた上で切腹せよと定め、死期を待ったのである。
(綿考輯録)
※注 永翁は忠興のいとこ違いにあたり、松井康之の甥にもあたる。
目付役を務めていたので、五奉行の相談している席にも出入りできたという。
三斎様、どうせ死ぬなら三成を殺して伏見も焦土にする!とブチ切れるお話。
この後は前田利家や徳川家康に頼んで金を借り、
秀次から借りた黄金百枚をなんとか返すことで許されるのであった。
0923人間七七四年
2013/03/16(土) 11:44:11.06ID:z6oHy/xE0924人間七七四年
2013/03/16(土) 14:09:28.30ID:ErCvbDB9儒者、菅玄同が弟子の安田安昌に斬り殺される事件がおきた。
これを受けた林叔勝(羅山長男)は、
藤原惺窩の弟子で、京都では知られた存在であった玄同擁護に立ち、
弟子が師を殺すなど不義不忠の至りであると、
安昌への徹底的な批判を展開した。
学問派閥の頂点、林家が意見したことでこの事件は瞬く間に全国へ知れわたることとなった。
林家が言うのならばと、安昌への批判はいっそう激しさを増したのだが、
伊予国は大洲藩の下級武士、中江与右衛門がこれに異議の声をあげた。
近江滋賀生まれの与右衛門は京での菅玄同のふるまいを知っていたこともあり、
菅玄同という儒者は、膨大な書物を読み知識歴史には詳しいが、
詳しいがゆえに、あくまでも文字で示した「仁」であり「義」の型に人を押し込め、
「忠」という文字をもって弟子を扱い、
その態度はまるで畜生を扱うようであったことを批判し、
あれでは弟子の人間性も武士の誇りをも傷つけて当然である。
しかし、弟子の安昌も短絡的に過ぎたとし、
師、弟子ともに人面獣心であったと結論した。
そして、その三年後には、
「林氏、髪を剃り位を受くるの弁」
という論文を発表し、林羅山の知識偏重と美麗字句を批判するに至る。
それが与右衛門二十四歳のころ、
後の日本陽明学の祖、中江藤樹である
0925人間七七四年
2013/03/17(日) 20:42:22.92ID:hdRxHcR5自然科学とか完全に専門外なのに、その自信はどこから来たのだろうか
0926人間七七四年
2013/03/17(日) 20:54:00.17ID:mdybG4BY実態どうなのかは知らないけど逸話では頭固くて教条的で糞面倒くさい人達に描かれるよね
0927人間七七四年
2013/03/17(日) 21:09:34.16ID:JR21/ZPh0928人間七七四年
2013/03/17(日) 21:59:16.62ID:aYjT4tuw少し具合を悪くしたがすぐに回復した家康、医師に言うには
「今日は体調が良いぞ。食も進むしな」
それに対して医師が
「それは何よりでございます。『命は食にあり』とも申しますし、めでたいことです」
と喜んだところ、
「・・・なあ、『命は食にあり』ってお前どういう意味だと思ってんの?
例えば赤ん坊に乳飲ませる時のこと考えてみろよ、
飲ませる量に過不足がないように親が絶えず気遣ってやる必要があるだろ?
『命は食にあり』ってのはそういう意味なんだから、
俺の食欲が戻ったからって
今度は却って食べ過ぎるようになるかもしれないんだから、手放しで喜んでちゃダメじゃないのか?」
と、なぜか説教を始めた大御所様。
内心では(食が進むって言い出したのはアンタの方だろ・・・)と思ったかもしれないが、医師は
「私が間違っておりました」
と詫びたのであった。
(『駿河土産』)
0929人間七七四年
2013/03/17(日) 22:09:32.79ID:RqUENzqg既出。出典元もいっしょだ
戦国ちょっといい話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/245
09301/2
2013/03/18(月) 00:07:17.45ID:dElQWAOGここに奥州より伊達政宗がついに参陣し、秀吉に対し臣従の礼をとった。
しかしそのことだけで政宗のこれまでの不穏な動きが見逃されるわけではない。
政宗の身柄はしばらく底蔵という山中の宿舎に置かれ、そのまま沙汰もなく、伊達家中の者達は
何か不測の事態が起こるのではないかと薄氷を踏む思いで居た所、秀吉から
浅野弾正少弼(長政)、宮部善祥坊(継潤)、施薬院(全宗)が派遣され、政宗に対し尋問を行った。
「そもそも会津の地は、先の三浦介(蘆名)盛隆が、亡君信長公に臣従して以来、常に金上遠江を
代官として上洛させ、完全に君臣の礼を取っていたのだ。であるのに汝は雅意に任せてそれを押領し、
誠に傍若無人の振る舞い、言語道断である!
汝が自身の非を明白に弁明できないのなら、速やかに厳罰を申し付ける!」
これに政宗、畏まって
「去年私が(摺上原の戦いにより)会津を押領つかまつった事、偏に私の暴虐なる振る舞いと
お考えになっているのでしょう。しかし、その事の仔細を申し上げます。
過去からの経緯を申し上げます。
私の郎党に大内備前と申すものが居たのですが、私に対して野心を含み、会津の蘆名に属したのです。
これを私は強く無念に思い、即座に誅せんと考えましたが、蘆名義広は思いもよらぬことに
かの大内備前に合力し、あまつさえ佐竹義重、磐城常隆らまで、義広に一味して、事態は私にとって
大変困難なものとなりましたが、幸運にもかの大内備前を退治する事が出来ました。
そして二本松についてですが、かつて、私の父親である輝宗は二本松の畠山義継が不慮の参会で討たれました。
二本松の者共はその父の仇の末であります。ですので打ち続いて二本松を攻めようとしましたが、
ここでも蘆名義広の企てで、佐竹義重、磐城常隆、相馬義胤らまで一同に二本松に集結し、私一人を敵にして、
度々合戦を仕掛けてきたのです!ですが、不思議に一戦の利を得て、結果的に会津を横領する形になって
しまったのです。
そうでありますが奥州では、大崎義隆、磐城、相馬の者共を始めとして、出羽には最上義光、常陸には佐竹義重
等に至るまで、皆私一人を敵にし、隙を伺っていたため、昼夜を問わず彼らへの対応に追われ、京都に対し
臣従することも、今まで引き延ばしになってしまったのです。」
これを、3人の使者はそのまま秀吉に伝えた。すると秀吉から重ねての諮問があった。秀吉の疑問は唯一つ
09312/2
2013/03/18(月) 00:08:43.26ID:dElQWAOG政宗は肉親親戚全てに見捨てられ、隣国に一人も心を合わせたものがいない。
これは甚だしく不審なことである。』
実にご尤もな疑念である。政宗はこれに
「ご疑念、承りました。先ず、最上義光は、勿論これは我が叔父であり、特に所領も隣接しているのですが、
私がその国境に追いた鮎貝藤太郎という者をそそのかし、私に対して野心を持つように仕向け、彼の者はついに
義光の元に亡命しました。私はその頃若年で、しかも父を亡くしたばかりで何の支えもない身であったのに、
よりによって叔父である義光がこのような振る舞いをしたこを、激しく情けなく思い、敵同士になったのです。
次に相馬ですが、父輝宗存命の頃は度々争っていましたが、私の代になって和睦いたしました。ところが
私の舅、田村清顕と申す者が亡くなると、私の郎党・石川弾正という者が相馬義胤にそそのかされ、
私に対して野心を企てたため、軍勢を出してこれを退治せんとした所、義胤は彼の者に合力し、後詰を
してきたため、短期間での討伐が不可能となリました。そのため私が、所領の中にある大森城に暫く
引き退いたところ、義胤はよりにもよって田村清顕の郎党たちと語らい、田村領を奪う企てを起こしました。
しかしそれは、田村清顕に忠節であった者達が私に味方したため、陰謀はならず義胤も相馬に引退きました。
これにより石川弾正も力を失って相馬領に亡命しました。
すなわち、相馬義胤こそがこの政宗に対して敵対したのであって、私が相馬に対して期待したわけでは
ありません!
それから大崎義隆と合戦に及んだのは、累年、国境線についての論争が有り、それが徐々に双方の確執と
なったからなのです。
このような事は皆、政宗の不幸であります!
この面々の悪巧みにより、今のようなご不審の中にある以上、私の真心を伝えるのが大変難しい状況です!
私は何を否定し、何を肯定すれば良いのでしょうか!?」
そして使者に向かい
「仰ぎ願わくば、真実をその言外から受け取り、嫌疑を目前に決せられ、この政宗の悲嘆の眉を
開いていただくのは、偏にあなた方の聡明さに任せるより他ないのです!」
使者たちは再び秀吉にありのままに伝えたが、秀吉はこれを聞いて重ねての諮問は無く、
ただ押領した会津・仙道領は残らず没収され、本領だけは安堵ということになった。
政宗は不思議にも大難を免れたのである。
(会津四家合考)
以上、伊達政宗、弁明についての話である。
0932人間七七四年
2013/03/18(月) 00:11:56.31ID:WrevTh1S∩∩ V∩
(7ヌ) っ (/ /
/ / っ .∧_∧ | |
/ / ∧_∧ .∧_∧ _( ´A` ) ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧ / /
\\( ´Д`;)―--( ´∀` ) ̄ ⌒ヽ( ´∀` )―--( ´∀` ) ( ´∀`)./
`。:、 /⌒ ⌒ ̄ヽ 蘆名 /~⌒ / ⌒丶/ /
|岩城 | ー、 相馬 / ̄| //`i 伊達 /ー、 最上 /ヽ /.\\ /
. .| | . | / (ミ ミ) | l Λ_Λ // / 留守 \\
| | | | / Λ_Λ\ | __ _( ´∀` ) ミ)// l(_)
| | ) / __( ´∀` ) \ | ( .|/, ⌒ヽ\/ /\ \
/ ノ | / ヽ ヽ、_ .⌒ _)/ ニ)ノ /\ ).\ / \ \
' | | | / /| / | 佐竹 | | | ニ) | 田村 ヽ / ,/ / | 二階堂 || |
0933人間七七四年
2013/03/18(月) 00:13:40.22ID:YpyoLUsz言い訳が斜め上過ぎてお茶吹いたw
0934人間七七四年
2013/03/18(月) 00:23:29.19ID:dElQWAOG申し訳ない
0935人間七七四年
2013/03/18(月) 00:25:12.20ID:4ToNuic4不思議に手が前に立っていた女子高生のパンツの中に入ってしまい、
結果的に痴漢した形になってしまったのです。
ほんと不思議に...
0936人間七七四年
2013/03/18(月) 07:57:44.25ID:5AfH8JXeでも苦労して切り取った領地かなり没収されてるから大難だな
0937人間七七四年
2013/03/18(月) 10:00:09.46ID:uAzwk/RO0938人間七七四年
2013/03/18(月) 16:15:55.35ID:9vcXUa+W>926、三河ならなにやってもめんどくさくなるかと
0939人間七七四年
2013/03/18(月) 17:05:51.32ID:OYbNrBs8いや実に不思議なことがあるものですなあニヤニヤ
まで読んだ
0940人間七七四年
2013/03/18(月) 17:20:13.65ID:dmvAtqb1逆心の様に取り沙汰されるが論じるまでもないことだ。上野介殿は誠に忠臣というべき人である。
父佐渡守は智謀の深き人ではあったがいやなる人で、上野介殿はその子ながら父には似なかった。
権現様が最初に結城の秀康公を御立てになるべきか、台徳院様を御立てになるべきかと老中へ
意見を求めた時、佐渡守は「秀康公は一度太閤へ御養子になされ、結城の家を御継ぎに
なったのですから、天下は秀忠公が御継ぎなさるのが当然の理でございましょう」と申され、
老中はいずれもこれに同意した。
しかし、上野介只一人が「佐渡守の申すことではありますが、私は左様には思いません。
どのようであれ、秀康公は御長子でございます。只今までは太閤に御遠慮にてわざと御疎々しく
なされたといっても、御父子の情に替わりはないのですから、長子に御生まれになりながら、
庶子になられては御痛わしきことです。秀康公こそ御順道と思います」と申された。
その時、佐渡守が「悴は何を思って粗忽なことを申すのか!」と叱られると、上野介は座を立たれた。
結局は佐渡守の考えに極まり、秀忠公を御総領に御定め、秀康公は越前へ封ぜられた。
台徳院様はこの事を殊の外御遺恨に思し召された。
――『鳩巣小説』
0941人間七七四年
2013/03/18(月) 19:47:30.21ID:dmvAtqb1すいません、訂正します
×御父子の情に替わりはないのですから
○御父子の情に変わりはないのですから
0942人間七七四年
2013/03/18(月) 21:46:50.73ID:6bSE+HXy0943人間七七四年
2013/03/18(月) 21:52:41.87ID:4X1WrXap0944人間七七四年
2013/03/18(月) 22:24:57.03ID:4/hoyBeF(今は私の家臣に納まってるんですけどね!)
流石は政宗公
0945人間七七四年
2013/03/18(月) 22:32:55.97ID:7aqBVfiX会津と米沢攻めて領土拡大狙っただろうに…
0946人間七七四年
2013/03/18(月) 23:50:32.42ID:XwnGIj9m0947人間七七四年
2013/03/19(火) 00:05:30.78ID:p7+Npn/g気を使って丁寧な言葉を選んでおかしな計画を語る
0948人間七七四年
2013/03/19(火) 00:07:36.91ID:hj2dJNea0950人間七七四年
2013/03/19(火) 04:40:24.34ID:SMoxuC6Rここで一族の中島上野は、すぐに小田原の陣へと参上し、秀吉に直に臣従するようにと進める。
しかし義親は「財力がなく、行程の費用も献上品の費用も覚束ない」とその案に懸念を示す。これに上野重ねて
「今回の小田原参陣の費用は。家中のものに課役して調達すれば大丈夫です。また献上品としては
合戦の最中であるので、白米二百表を持って行くべきでしょう。そのうち百表は私が用意します。
残りの百表は、これもまた家中の者達に課役して整えれば良いでしょう。
白河から小田原までは遠路であり、殿ご自身が行かれるのは様々な苦労が考えられますので、恐れながら
私が代官として罷り行き、良きように取り計りたいと存じます。」
上野は心からの提案であったが、義親が他の家臣達にこのことを相談すると、家中の者達は課役の負担を嫌い、
「我々の愚案を申し上げますと、上野が申すことは一向に心得難いものです。
現在の乱世に、白河の諸民も疲弊している上、白米二百表の運搬の課役が加わっては、民間の負担は
莫大になり過ぎます。これが一つ。
そしてもう一つ。上野は大変頭の切れる人物です。これが代官として秀吉公の前に出た時、その立場を利用して
一体どのようなことを言い出すか、計りかねます。
この2つの問題はどちらも穏やかなものではありません。懸念の少ない方に従われるのが、然るべきだと考えます。
幸いにも伊達政宗が、小田原へと参陣するそうです。であれば政宗を頼り、使者を一人添えて、馬や鷹など
折に宜しきものを持たせこれを献上するのが良いでしょう。」
運の末とはこういうものであろう。義親は彼らの言葉に同調し、政宗に頼んで使者を一人同行させ、
海松黒(みるくろ)という良馬と逸物の鷹を秀吉への献上品とした。
政宗は「仔細は聞いた。献上品は良きように秀吉公に披露し、御前にて申開きができるようにしよう。」
と軽く請け負い、使者を同行させて会津を出発し小田原へと向かった。
ところが政宗は思いもよらず秀吉の不審を被り、底蔵という山中に蟄居させられ、自分の身が危なくなり、
義親のことなど構っている場合ではなく、使者を取り次ぐ事は一切なかった。
あまつさえ義親が献上品として持たせた馬と鷹を、「政宗からの献上品」として秀吉に披露した上、
義親の使者にも、
「お主のことは随分良きように秀吉公の方に申し上げたのだが、陣中の忙しさに紛れ、未だはっきりとした
御沙汰も無い状況である。その上、この政宗の身の上もなにかと不透明だ。であるのでお主は
先に帰国するのだ。小峰義親の事については今後承り、帰国後そちらに報告する。」
そういって白河に帰させた。国元の小峰義親はこれを信じ、所領安堵の事は仔細なく認められると思い
政宗の帰国を心待ちにして日を送っていた。
ところが政宗は近年の横逆な振る舞いを咎められ、横領した会津・仙道を没収され、本領だけを
安堵という命令を受け、会津へと下った。そして義親に使いを立て
『あなたの事は大変力を入れて弁明に務めたのですが、一体どういう理由からか、何の御沙汰も
得られませんでした。そのうえ私の身上もこの様に成ってしまった上は、もはや力ない事であり、こうなった以上
あなたが居城にそのまま居住されるのはどうかと思われます。ひとまず城は開城し、他日秀吉公より
御免を受けた後、晴れて所領安堵という事になるでしょう。』
この思っても見なかった報告に、義親は途方に暮れたが、ともかくも暫くの事と、城の西に当たる
金勝寺という禅寺に移った。
しかし秀吉の東北仕置により、白河は伊勢の住人である関右兵衛尉(一政)に与えられ、
金勝寺の小峰義親は新領主の関一政から、治安への懸念などを理由とし領内からの退去を求められ、終に
白河を出て那須の湯元という土地に移住した。
(会津四家合考)
奥州の名族白河結城氏・小峰義親の没落、についての逸話である。
0951人間七七四年
2013/03/19(火) 10:23:12.10ID:+7S+YBMQやはり恐るべきは政宗の謎のカリスマ
0952人間七七四年
2013/03/19(火) 12:19:07.34ID:rO+ftDAx贈り物なんて他の大大名から山ほど貰ってるんだし
最近出た本に、北条と対立する北関東の豪族に対して取次が「とにかく上洛して挨拶しとけ。所領奪われても奪還してやるから。」みたいな書状出してる例が載ってたな
0954人間七七四年
2013/03/19(火) 13:04:17.91ID:Lpu59eFS一概に信用はできないと思うな
0955人間七七四年
2013/03/19(火) 15:32:32.03ID:1yCE392Aしかも直系子孫なんだよな。
家系的には華族の超ボンボンお坊ちゃんなんだけど、
人間の人生てどうなるかわかんないよな
0956人間七七四年
2013/03/19(火) 18:33:58.04ID:KjaOCjQ8伊達家に仕官するんだよな小峰義親
なお白河結城家は仙台藩では約1000石で一門格とそれなりには
遇されて分家も創出したそう
0958人間七七四年
2013/03/19(火) 19:21:54.03ID:cCNBhWhP0959人間七七四年
2013/03/19(火) 19:26:17.30ID:pzjZLk/S大陸では劉姓名乗って漢帝国でもつくればよかったのに
0960人間七七四年
2013/03/19(火) 21:47:50.86ID:p7+Npn/g北条と対立する佐竹上杉が豊臣とがっちり連携とってたから
北関東の国人領主はその2家からもきっちり根回し行ってたみたいだしね
取り次ぎ含めて複数のルートで豊臣と渡りつけた北関東東関東の領主と比べると
他人任せにしちゃったところは悪目立ちしただろうなあ
0961人間七七四年
2013/03/19(火) 22:36:58.95ID:kIdJ8lYZ0962人間七七四年
2013/03/19(火) 22:40:16.26ID:6a82V/9u0963人間七七四年
2013/03/19(火) 23:00:18.62ID:p7+Npn/g0964人間七七四年
2013/03/19(火) 23:00:52.77ID:8K5nxJgm0965人間七七四年
2013/03/19(火) 23:56:40.88ID:3evJ41Vt佐竹さんとこは、絶対勝てる方に味方するよう代々語り継がれてるよねw
それに比べ、DQN眼竜に義理とか情けなんて皆無なのに子孫は全く受け継いでないな。。
0966人間七七四年
2013/03/20(水) 00:00:39.97ID:tmOY4E6E0967人間七七四年
2013/03/20(水) 00:18:38.79ID:EszNZX5Mそうか?
ゴネる亘理を結局切れなかったり、むしろ情を捨て切れなくて後の世代に禍根残した印象が強いな。
0968人間七七四年
2013/03/20(水) 00:54:27.56ID:zoP8SRMa佐竹さんは源平合戦で失敗したときからあまり変わってない気がする
まぁあの日本史上屈指の万馬券をつかめと言うのは酷な話だけど
0969人間七七四年
2013/03/20(水) 15:09:18.06ID:cr4VQPS8んー? 中途半端に会津に味方して、結局貧乏くじ引くところは押すところと引き所の判断を間違うまー君の家系らしいと思うが。
0970人間七七四年
2013/03/20(水) 18:13:37.03ID:tmOY4E6E0971人間七七四年
2013/03/20(水) 21:10:26.31ID:3449Dmoo何故か毎回勢力強大化を警戒されて貧乏籤を引くのが伝統のような気がしなくも無い
でも冷遇されても文句も言わず反乱もしないからあまり酷い目にはあってなかったりする不思議な人たち
0972人間七七四年
2013/03/20(水) 22:00:08.87ID:R8PTPxwb進めていた。そして顕胤の嫁として、奥州最大の勢力である伊達稙宗の息女を望み、
婚約を交わした。
所で先にも言ったように盛胤は病気がちであり、ある時伊達家より、その見舞いの使者として、
伊達家中でその武勇が近隣にまで聞こえた飯淵尾張という者が派遣された。
しかし盛胤は病重く対面はならなかった。かわりに嫡子である顕胤、この頃10歳ほどであったが、
彼の前に召し出されることとなった。
この時顕胤は丁度味噌を製造する下屋に居り、飯淵への対面もそこで行われた。
この場所を選んだのは、相馬家の家臣たちが考えて行ったことであった。
『隠れない武勇の者である飯淵尾張なら、相馬の大将は未だ幼少であるが、早くも弓矢の心得が有って、
味噌など兵糧のことにも心がけられていると称賛するでしょう!彼は合戦の時の必需品として
味噌が第一と言っている程の者ですから!』
そのように言って顕胤に進めたのである。
さて、帰国した飯淵尾張は、伊達稙宗の前でこのように報告した
「殿はご息女をむざむざと御捨てになりますか!?今回私は婿殿を見て来ましたが、
あの方はご自身で味噌の奉行をするような人物であり、その程度の者が相馬の大将とは、
一体何と申し上げていいのか…」
ほとんど罵倒である。大失敗であった。
報告を聞いて稙宗も不安になり、相馬盛胤が「私が生きているうちに新婦へ対面したい」
と行ってきても、色々と理由を構えて輿入れを引き伸ばした。
このような状況に盛胤および相馬家中は焦り、輿入れがないのなら伊達と合戦を行うという
事にまでなり、この強硬姿勢にようやく稙宗も娘を輿入れさせることに同意した。
時に永正17年(1520)、相馬顕胤13歳、稙宗息女15歳であったという。
そして稙宗息女が相馬の居城・小高城に輿入れしたその日、相馬盛胤は没したという。
(奧相茶話記)
後に奥州に様々な影響をもたらした伊達稙宗の婚姻政策の内、相馬顕胤への輿入れについての
逸話である。
0973人間七七四年
2013/03/20(水) 22:03:31.64ID:nzS+1SPZ0974人間七七四年
2013/03/20(水) 22:54:37.57ID:x0eXJf0A0975人間七七四年
2013/03/20(水) 23:06:14.14ID:17oJ7skP0976人間七七四年
2013/03/20(水) 23:10:53.58ID:3449Dmoo戦国を終わらせ伊達を屈服させたのは味噌作りどころか何でもかんでも自分でやってきたような人物なのに
0977人間七七四年
2013/03/20(水) 23:24:23.51ID:nhRz/fRl0978人間七七四年
2013/03/20(水) 23:45:07.34ID:jxkXI0L00979人間七七四年
2013/03/21(木) 05:48:35.05ID:Nf7/3pFxと思ったら先々代が同じ名前だったんだな
0980人間七七四年
2013/03/21(木) 08:27:05.88ID:mbqVQr6r0981人間七七四年
2013/03/21(木) 09:40:00.86ID:/x+ohJg7安心してポックリ逝っちゃったのかなあ。
ギリギリ会えてなかったりしてたら気の毒。
0982人間七七四年
2013/03/21(木) 10:19:16.25ID:Up30wcjl腐りにくく携帯しやすいのが最大の利点じゃないかな
栄養学的な面は当時は不明だったろうが、貴重なタンパク源でビタミンも豊富
0983人間七七四年
2013/03/21(木) 11:18:57.47ID:9XyJggfE0984人間七七四年
2013/03/21(木) 12:49:53.26ID:TtsoQ8ho顕胤を婿にして正解だろ
反故にされたとはいえ伊達七世弓を相馬に引くべからずは相馬が信義に厚いということのあらわれ
そんな相馬を滅ぼそうとした政宗は流石俺らのクソムシ
0985人間七七四年
2013/03/21(木) 18:26:23.36ID:4kXo+laV0988人間七七四年
2013/03/21(木) 20:39:36.28ID:++prJIAg0989人間七七四年
2013/03/21(木) 20:42:15.08ID:++prJIAg↓スレタイ
戦国ちょっと悪い話36
↓テンプレ
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう
戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話35
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1356968224/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0990人間七七四年
2013/03/21(木) 23:46:16.93ID:CPEiUndL新スレ立てました
0991人間七七四年
2013/03/21(木) 23:49:35.40ID:fcowhW+O0993人間七七四年
2013/03/22(金) 00:44:08.72ID:3Jo90yzA0994人間七七四年
2013/03/22(金) 03:12:45.58ID:ss+x3tS+それを知った通り道となる相馬家では、一族家中の者共集まり、対応を評議しした。相馬家は政宗への恨み深く、
特に当主・相馬義胤の弟隆胤を討たれ、その弔い合戦も出来なかった無念も有り、今こそ好機、相馬領に入ったところで
政宗を討ち果たそう、との論が大勢を閉めた。
が、家老の水谷式部「が進み出て言う
「なるほど、ここで政宗を討ち果たすのは容易なことでしょう。ですが愚意を申し上げますと、政宗が
ここを通るのは、景勝への対応のためであり、きっと家康公の味方としての行動であると考えられます。
これを討ってしまえば、後のためのいかがかと存ずるのです。
それは、治部少(石田三成)は小身であり、その家臣も昨今に成って召抱えた侍であるからです。
例え諸大名が彼に味方したとしても、結局は強に付き弱は捨てられるものです。であれば、末々覚束ないと言うべきでしょう。
一方の家康公は、老巧の大将であり、大身であり、家中にも歴々の武勇巧者が数多くあります。であれば、結局御利運は
家康公のものとなるでしょう。
その上(義胤の嫡男である)利胤公は今も在京されており、その身の上も心配です。
よって兎も角、今政宗を討つというのは如何かと考えるのです。」
相馬義胤はこれに同意し、政宗の領内通過を許可した。
さて、政宗は400騎ほどで相馬の領内に入った。そして宿舎として涼ヶ森の花光院を提供された。
政宗はこの山寺の四方に鉄砲・弓・槍で武装した足軽を三重に配置し、これに物頭を付け厳重に警備させた。
さらに近隣の村にまで人を配置し警戒に当たらせた。
ここで相馬義胤より政宗に、兵糧300俵・大豆100俵が贈られたが、政宗は用意があるとこれを断った。
相馬方では政宗への接待役として、出田与三右衛門が置かれた。
さて、その夜半、寺の中で馬が放れ駈け出したのに四方の警備の者達が驚き騒ぎ、混乱して寺の前の田地に飛び込んだり、
山に逃げたり、折口に落ちたりという有様となった。
この騒ぎの中、出田与三右衛門は小者一人だけを連れて政宗の宿所へ向かうと、庭中に出ている侍は一人もなく、政宗は
側に若侍一人だけで、縁側に薙刀を持って立って不審そうに状況を見ていた。与三右衛門は縁近くまで進むと
「寺の中で馬が放れたために騒いでいるだけです。少しもお気遣いなされるものではありません。」と申し上げた。
政宗はこれを聞いて
「与三右衛門がここに詰めておったか!大義なり!」と声をかけ、騒ぎが静まると盃を与えられた。
この時政宗の宿所には、料理人や役者めいたものなど多く居たのであるが、この騒ぎに「騒ぐな!様子を見ろ!」と言われたのだが、
聞かずに散り散りに逃げ出したのだという。
又、庭の方にも竹もがり(障害物)を結び、これに槍100挺を立てかけていたのだが、その立てかけが悪かったのか、
しばらくすると一斉に倒れ、この音でまた騒ぎが起こった。この時も政宗は縁側まで出て、侍4、5人とともに様子を見守っていたが、
出田与三右衛門がいち早く気が付き、「警護の槍が倒れただけです」と説明すると非常に喜び、再び盃を与えられた。その上で
「お主が今後、もし相馬家を離れることがあったら、いつでも伊達に参れ。」
と言って、自筆でこの旨を書きその紙を与えた。しかし出田与三右衛門はこれを隠し、後々まで人に見せることもなかった。
また、後日与三右衛門がこの時のことを思い出して
「混乱した中でも政宗様のご様子は、流石大将のご気性が備わっておられた。」
と、回想したそうである。
(奧相茶話記)
相馬家の記録による、”敵地”に恐怖し、混乱していた伊達家の様子である。
0995人間七七四年
2013/03/22(金) 10:18:30.33ID:tcBY2WN40996人間七七四年
2013/03/22(金) 10:34:20.08ID:8e22FhqEいやいや、醤油はうまみ調味料じゃないでしょ。
無理やり主張するとしても「出汁」くらいしか該当しないんじゃないか?
0997人間七七四年
2013/03/22(金) 10:39:31.63ID:Tnd+sRIr0998人間七七四年
2013/03/22(金) 11:11:16.61ID:v8s3J/G90999人間七七四年
2013/03/22(金) 11:39:06.65ID:EefbRU2C天庵様ももう少し落ち着いておられれば、という悪い話
1000人間七七四年
2013/03/22(金) 11:46:41.95ID:v8s3J/G910011001
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