戦国ちょっといい話35
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0001人間七七四年
2012/10/18(木) 19:08:22.07ID:/qlGMV2o戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0099人間七七四年
2012/10/27(土) 18:20:05.34ID:OtUKmgDC0100人間七七四年
2012/10/27(土) 18:28:49.00ID:1lZxZ5cJ「私は今日にも死ぬであろう。私の死後、天下はどうなると心得ているか?」
秀忠はこう答えた
「…父上の死後、天下は乱れると思います。」
その言葉を聞くと家康
「そういう心持ちで居るのなら、もう大丈夫だ(夫れなれば、ざつと済みたり)」
そう、心良さげにうち笑われ
「安心した」
と仰った。
そして次に竹千代君(徳川家光)を御側に召され
「其方は天下の主となる人だ。よく心得られよ、天下は慈悲が第一であるぞ!」
そう仰り、それから間もなくしてご他界されたという。
(武野燭談)
家康の遺言、というお話。
0101人間七七四年
2012/10/27(土) 18:42:06.40ID:pB/LZll6今見たけど古語辞典にも母袋では載ってなかったよ。
意味は母衣つけた武者で合ってると思う
>>100
未来は明るいと考える奴と一寸先は闇と考える奴なら、
落ちぶれるのは前者に多いからな
さすが権現さまと2代目
0102人間七七四年
2012/10/27(土) 18:47:26.53ID:6D8Sx0Er0103人間七七四年
2012/10/28(日) 00:31:27.45ID:o3jiBe39稲富喜太夫(祐直)という者があった。
忠興の内室(ガラシャ)が大阪で自害した時、留守居であった小笠原少斎以下の士が尽く討ち死にした中、
稲富はその場を落ち延び命生き延びたのを、忠興は殊の外立腹し、捜し出して必ず罪に問うと言っていた。
この事を徳川忠吉が聞き、忠興に直接に会ってこのように言った
「侍の死ぬべき場所を逃げ出したというのは、情けない侍というものであり。あなたの憤りは
尤もだと思います。ですが、稲富を助け置いてほしい。
彼は天下一の鉄砲の名人です。武勇を習うのではなく、鉄砲を習う者のために、命を助けてほしい。
臆病は、稽古によって身につくものではないでしょう?
鉄砲一流の断絶というのは、如何にも残念だと思うのです。」
この言葉に忠興は、「稲富にとってありがたい仰せです」と、彼を赦した。
これによって稲富は武士をやめ一夢と名を改め、稲富流を指南した。
そして彼の発展させた稲富流砲術により、大阪の陣の折、幕府軍の大筒は
大阪城天守の二層目に撃ち入れる事に成功したのだ、との事である。
(武野燭談)
0104人間七七四年
2012/10/28(日) 00:47:49.19ID:6Fr+uPii0105人間七七四年
2012/10/28(日) 01:24:07.44ID:RaGpenIm火薬で飛ばすやつの放物線を測る技術なら延長線上じゃないの
0106人間七七四年
2012/10/28(日) 01:48:36.72ID:TRnvXtCjそこだけ見ればカッコ悪い話
0107人間七七四年
2012/10/28(日) 01:49:40.19ID:Z8d0eTj6窮地でも必要な人材には助け船出す人がいる
0108人間七七四年
2012/10/28(日) 04:20:56.30ID:1TRjSzFU0109人間七七四年
2012/10/28(日) 12:47:45.50ID:/qWygdPl平岩親吉の弟は名を平右衛門といった。ある時、彼は榊原康政と
口論になり、少し傷を負ったところを駆け付けた傍の者に喧嘩を止められた。
この時の親吉は宿老で、康政は若く小身であった。喧嘩の一件を聞いた
親吉は「康政は今は小身だが、才智勇敢にして上の御用に立つであろう
人傑だ。我が弟は人に斬られる程度の者ゆえ、主君の御用には立たずに
禄を費やす者である」と言って、
弟は武道を止めさせて押し込め、康政はしきりに執り成して昇進させた。
果たして康政は天下の英傑と称美され、人は皆親吉の私心のなさに感服した。
――『名将言行録』
0110人間七七四年
2012/10/28(日) 15:14:44.99ID:xPxBhuCu8月26日、光泰はこの酒宴に出向いていった。
「殿!行ってはなりません!毒を盛られますぞ!」と必死で制止する謀臣を、
「わしも、そのような謀があろうことは察しておる。だが、行かぬとなれば武門の瑕瑾となるであろう。毒死は覚悟の上である。」と、振り切って。
果たして、宴席で供された鮒の吸い物に鴆毒が加えられていた。
光泰はその日から苦しみ始め、翌27日、28日には既に危急の状態であった。
しかし、彼は苦しみながらも、一人の男を待ち続けていたのである。
その男・加藤清正は、27日晩、釜山に戻るや否や、即座に駆けつけてくれた。
光泰は彼の来訪を大いに歓び、
「わしは姦人のために、思いもよらず毒殺という目に遭ってしまった。
このことに我が士卒は憤怒し、これから石田の陣所に討ち入ろうとしている。
だが、三成を討ち取ったところで、わしの命が助かるというものではない。
それに、ここは敵地であるし、同士討ちにもなってしまう。決してそんなことをさせてはならぬ。足下は我が士卒を堅くとどめてほしい。
そして、わしが死んだら、わしの諸勢を率いて帰国し、息子・作十郎(貞泰)に引き渡してくれぬか。」
と、懇ろに、最も信頼する盟友に後事を託したのである。
光泰は29日、この世を去る。
その後清正は、遺言どおり光泰の軍勢を率いて帰国し、貞泰に引き渡したという。
(曹渓院行状記)
0111人間七七四年
2012/10/28(日) 17:48:59.60ID:GY+zhnlv0112人間七七四年
2012/10/28(日) 17:55:30.10ID:RKz866HZ0114人間七七四年
2012/10/28(日) 18:35:56.07ID:QocNS2Vf0116人間七七四年
2012/10/28(日) 19:46:44.46ID:QocNS2Vf0117人間七七四年
2012/10/28(日) 21:22:53.80ID:hbstFqpKこのとき、庄内に協力者が出たため最上義光は石高のより高い者よりも秀綱を選び、
1500人ほどをつけ庄内に先陣とし派遣した。迎え撃つには本庄繁長勢3000。
打出川を挟み対峙する両軍。渡河地点と中州をめぐり両者ひかず、射撃戦だけで
一日が終わることもあるなど、降着した戦況となった。
数では劣る最上勢は善戦し、自軍は損害がないが敵をひとり出すときもあるなど、
よく持ちこたえていた。
いよいよ繁長が川を渡るかと見え、秀綱は警戒し背後から回りこんで討とうと策を練ったが、
繁長はなぜかそのとき引き返し退陣。ようやく戦も終わるかと思われた。
数が劣るもよく戦った、勝ち戦として報告して最上に報告してもよいかなと秀綱が思っていると、
飛脚が最上から届いた。その内容は、
「山形が大火事で本丸だけ残して、二の町、三の町、侍町、通町、みな焼けてしまった。
もう庄内攻めはできないので、和睦したら急いで引き返してこい」
意外な幕切れである。義光は国元への手紙で火の用心をさとしていたり、
山形の植木市も火事がきっかけとされているが、これで大火事が裏付けられたというわけだ。
のちに、
繁長「そういえば昔、庄内の北目で川を渡り敵を倒そうとしたのに、敵がつけてまわり、
こちらの背後をついてきそうなので結局川を渡れないことがあった。
あのときの最上方は誰だったのだろう?」
某「あれは鮭延秀綱です」
繁長「おお、なるほど! かねてより聞いていたあの名高い武将鮭延か…」
という会話があったとか。さすが繁長、敵を褒めるのを忘れない。
そしてさりげなく自慢を忘れない鮭延であった。
(『鮭延越前守聞書』)
0118人間七七四年
2012/10/29(月) 07:12:35.02ID:FBgcykdN津軽為信は焦っていた
「いち早く秀吉公の前に参礼し、御朱印を申し請け津軽三郡の支配を確立せねばならない!
とにかく南部に先を越されては大変である!」
そう言って準備を急いでいた所、為信の老母が、為信が津軽を離れることへの不安を言ってきた
「お前がここを留守にして小田原に行けば、そのあとにどんな異変が起こるか計り知れない。」
この時期の津軽為信の支配は、それだけ不安定だったのである。
「そこで、お前は国に残って仕置をしなさい。私は女の身ではありますが、小田原へ馳せ参り、所領安堵の
御朱印を申し請けるのに問題はないはずです!」
そう、驚く為信を構わず早々に津軽を出立し、相模に赴き秀吉と対面。当主為信に変わり母である自分が
参上したことなど言上すると、秀吉も女性の身で遠くここまで旅してきたことに強く感銘を受け、難なく御朱印を下した。
老母はこれを大いに喜び、急いで本国へと戻り御朱印を為信に渡した。
(天正南部軍記)
津軽為信のお母さん頑張る、というお話。
0119人間七七四年
2012/10/29(月) 10:47:12.17ID:zgHQK22q0120人間七七四年
2012/10/29(月) 10:53:37.83ID:MfZcRhng0121人間七七四年
2012/10/29(月) 10:57:13.47ID:J+fb6Xd7津軽の人間は本当に酷いな
0123人間七七四年
2012/10/29(月) 11:15:39.35ID:mCiLTF6I0124人間七七四年
2012/10/29(月) 11:35:02.90ID:YWgZj1p70125人間七七四年
2012/10/29(月) 11:41:44.16ID:l56Iow4O信直さん乙
為信が40歳くらいだから60歳とかそんくらいかな?
今ならともかく、当時の津軽から、しかも女性だからなーそりゃーラスボスも感嘆するわ。
0126人間七七四年
2012/10/29(月) 12:35:04.59ID:urNB5sC+恋慕した女の旦那は殺すし、拒否した女も殺す悪党だからな
そういや、石川を殺るときも城下の屋敷に押し入って南部方の女性を○姦させたりしてたっけな
0127人間七七四年
2012/10/29(月) 13:19:44.63ID:tsfL8j/uそこに偶然通りかかった武田信繁は、
「敵方に屈辱を与えることは、敵を奮起させることと同じである」
と深くこれを戒めた。
またあるとき戦場で武田兵が苦戦を強いられ劣勢となることがあった。
武田陣には、今回は勝てないだろうといち早く撤退することしか頭にない者、
あるいは、ここを死に場所と決め、捨て身の突撃を直訴する者と、
ふた通りの考えが溢れ、いずれの策も状況に対しての良策とはいえず、
武田の陣には暗い空気のみが漂っていた。
そこで武田信繁は、
「負け戦になりそうな時こそ慌てうろたえてはならぬ。
劣勢のときこそ、敵に対して侮蔑の思いを抱くべきであろう。
『穀梁伝』にある、
善陣はむやみに戦わず、善戦はやたらに死なず
という言葉をよくよく考えてみるべきである」
と諭したという
0128人間七七四年
2012/10/29(月) 13:51:08.25ID:2PVkJ/7y0129人間七七四年
2012/10/29(月) 14:12:07.78ID:38HGUZFm0130人間七七四年
2012/10/29(月) 14:40:44.53ID:MfZcRhng政宗とか、最上義光とか、大友宗麟とか、毛利元就とか、織田信長とか
0131人間七七四年
2012/10/29(月) 14:43:01.13ID:mxWEqU8G弟が優秀で仲が悪いと…
0132人間七七四年
2012/10/29(月) 14:55:00.79ID:V2+EHM7S0134人間七七四年
2012/10/29(月) 15:53:35.99ID:ts+9MPcb0135人間七七四年
2012/10/29(月) 15:57:46.86ID:mCiLTF6I0136人間七七四年
2012/10/29(月) 17:19:53.02ID:wxR127tI明智光秀の家臣・野々口丹波は山中幸盛の旅館に来て「陪臣の身で
申すのは恐れ入りますが、貴方が私のあばら屋に御来訪して下されば、
どれほど幸せなことでしょう」と言った。
幸盛は「私には分に過ぎたことです。きっと参りましょう」と約束した。
このようなところに光秀が「今日は風呂を用意しているから来られよ」と
言ってきたので、
幸盛は「後家来の野々口と先約いたしまして」と打ち笑った。
光秀も共に笑って「これで山中をもてなせ」と野々口に雁一羽と鮭一尾を
与えた。
――『名将言行録』
0138人間七七四年
2012/10/29(月) 19:30:08.41ID:XcVku1Kq彼にとって初めての殿中であったし、また若輩であったものだから、城内で大いに迷ってしまったのだ。
貞泰はなぜこんな事態に陥ったのか?それは、彼を御前へ誘引してくれる者が誰もいなかったからである。
大事なことなので何度となく繰り返すが、彼の父・加藤光泰と石田三成は不和であり、旗本の諸臣は皆、三成にへつらっていたのだ。
しかしその時、山本嘉兵衛尚則という人物が貞泰を見つけ、自ら供を申し出てくれたうえ、お目見えの式を整えてくれた。
貞泰はこの時の恩をずっと忘れず、後年、大坂落城で山本尚則が没落した時には、手を差し伸べ、家中に招いたのである。
尚則は「老齢であるから」と辞退したのだが、貞泰は彼に隠居料を与えるとともに、その子・三郎兵衛則兼を臣下にしたという。
(加藤光泰貞泰軍功記)
0140人間七七四年
2012/10/29(月) 19:47:54.90ID:sJa/mzJc0141人間七七四年
2012/10/29(月) 20:33:22.90ID:UOfu71bB0142人間七七四年
2012/10/29(月) 20:41:11.19ID:lrjK18kf0143人間七七四年
2012/10/29(月) 21:44:45.14ID:B4hZUQSBおいやめろ
0144人間七七四年
2012/10/29(月) 22:27:38.00ID:+skKrbQG0145人間七七四年
2012/10/30(火) 01:08:55.25ID:UbAfimao踏み台にしてる系のいい話ってなんか感じ悪くて嫌いだわー。
書いた奴の魂胆が見え隠れするっていうか
0146人間七七四年
2012/10/30(火) 04:37:37.04ID:5yKyYGl+by織田信成
0147人間七七四年
2012/10/30(火) 06:58:50.77ID:5zL6fSPa「おじさんが白鳥(十郎永久)と氏家(詳細不明)を倒した時、内心大丈夫かなって心配してたんです。
鉄砲を応援に送ろうかと思ったけど、無事解決したとのことでほっとしてます。
小斎に出陣したとき何度か応援してもらってうれしかったことが、ぼくは忘れられません。
おじさんが天童と争っているときは、援軍出したかったけどぼくはまだ家督ついでいないので、
どうしようかと思っているうちにのびのびになってしまいました。
お互い親戚同士だから、これからもなかよくして遠慮とかしないようにしましょうね」
と、まだ仲がよかったころの心温まる交流を感じさせるが、
もうひとつひっかかる点がある。
文面から察するに義光が白鳥長久を軍記にあるようにあっさりと倒せたわけではなく、
氏家某をまきこんでなかなか大変なものだったらしい。
また少なくともこの計画は伊達家も知っていたようである。
(「山形殿宛政宗書状」、兵庫県立博物館所蔵)
0148人間七七四年
2012/10/30(火) 07:48:58.79ID:xM9bR/1I0149人間七七四年
2012/10/30(火) 08:01:14.08ID:8UAPlg+10150人間七七四年
2012/10/30(火) 08:20:48.26ID:MmsQmBNf0152人間七七四年
2012/10/30(火) 16:54:35.09ID:PBrR4TrQ信玄名代として実際の軍事指揮権は信繁にあったなんて説もあるし
ただの善人文弱武将ではない
0153人間七七四年
2012/10/30(火) 17:46:10.00ID:Rgn5Goix浜松町は港区…浜松町は港区…浜松町は港区…浜松町は港区…Lady go!!をお聴きくださった方々ありがとうごさいました!
浜松町は港区…浜松町は港区…浜松町は港区…浜松町は港区…浜松町は港区…ネスサン…ネスサンネスサン
ネスサン…浜松町は港区…浜松町は港区…
https://twitter.com/Uesakasumire/status/262861022715576320
0154人間七七四年
2012/10/30(火) 17:46:42.73ID:Rgn5Goix0156人間七七四年
2012/10/30(火) 19:01:32.16ID:427EBqPV気遣いというよりはもっとドライな、異人の人情ってどんなもんなんだろ、ぐらいの客観的な興味で
聞いただけじゃないのかな、信長ってそんな人っぽい
0157人間七七四年
2012/10/30(火) 19:47:16.72ID:PBrR4TrQ信長は布教のために身ひとつで極東までくる精神性を気にいったんだと思う
信長は基本、秩序制御タイプだけど、
森武蔵みたいな徹底した人間(なんらかの有能さ必須)を好む面もあるから
0158人間七七四年
2012/10/30(火) 20:24:38.88ID:kZZO2kLz目に狂気が宿ってるくらいの人間が好みだったんだろうな
0159人間七七四年
2012/10/31(水) 00:05:35.52ID:9VCDBAR3ひとつ疑問なんだが、普通に父親の代からの家臣に案内させる事は出来なかったんかな?
家老クラスなら一人くらい伏見城内に入れる奴がいてもおかしくないと思うんだが。
0160人間七七四年
2012/10/31(水) 05:57:07.31ID:Gt6CSFORキリスト教と仏教の優劣でなくて、
人間的魅力や深さで勝てなかったろうな戦国時代の叡山坊主
平安末期〜鎌倉時代の南都北嶺のエリートたちより、
そこから追放された法然、親鸞、道元のほうが結果支持されたのも同じ理由と思う
0161人間七七四年
2012/10/31(水) 11:34:07.98ID:r8LWN2dk近所の農家から税と称して略奪
娘さんをさらう
まあ好かれる要素がないな
0162人間七七四年
2012/10/31(水) 13:53:40.46ID:P7qFpMJ/0163人間七七四年
2012/10/31(水) 14:25:15.01ID:r8LWN2dk教えるのに金をとった。
免許としょうして単位認定するごとに金をとった。
かねかねかね、の比叡さん
0164人間七七四年
2012/10/31(水) 14:37:53.73ID:P7qFpMJ/0166人間七七四年
2012/10/31(水) 17:50:17.56ID:yGJ+uyilわがカトリックとは大違いだ」
0167人間七七四年
2012/10/31(水) 18:05:43.77ID:UP59fumM0168人間七七四年
2012/10/31(水) 18:43:38.35ID:Gt6CSFOR三浦按針「オマエらだって教皇がバックの戦闘集団じゃねーか」
古今東西、立身を争う口喧嘩はこのパターンになるな
0170人間七七四年
2012/10/31(水) 20:12:03.40ID:Hy/vmaIWそこへある日、見知らぬ客人が尋ねてきた。
「越前どの、私は内豆民部の子です」
「さてどなたでしょう?」
「私は父があなたさまに割られた兜を保管しておりますよ」
「おお、それではあのときの…」
内豆民部とは、慶長六年の庄内攻めのときに秀綱が戦い、確かに兜を割った相手
であった。
民部はほどなく病死したが、そのときの話を息子に語り継いでいたのであろう。
これは庄内酒井家中では、わりと有名な話ではないだろうか。
以前江戸で、酒井家の高力但馬守が知っていると語っていたのを私は聞いたぞ、
と秀綱は付け加えた。
ちなみにこうした逸話が記録された『鮭延越前守聞書』は、秀綱本人の希望によって
娘婿の家臣・岡野九郎左衛門がかきとめ秀綱の十三回忌にまとめたものであり、
鮭延寺から古河早川家に伝わったものである。
なおこの記録は秀綱三十九歳までしか残されておらず、改易については一切記載
がない。
0171人間七七四年
2012/10/31(水) 21:09:59.95ID:9VCDBAR30172人間七七四年
2012/10/31(水) 22:11:22.22ID:K68WsBuF元亀3年(1572年)、薩摩の島津と日向の伊東が戦った『木崎原(きさきばる)の戦い』でのこと。
この合戦の前、島津勢の指揮官、島津義弘はある夢を見た。自分の乗っていた馬が
足を折ってしまうという夢だった。
夢の内容を菊一という盲目の僧に占わせると、それは次の合戦に島津が勝つという
お告げであるという。
馬が足を折ったなら当然馬から降りなければならない。
↓
馬を降りるということは歩くことになる。
↓
歩くこと、すなわち「徒歩(かち)」なので「勝ち」
なのだと。
(続く)
0173人間七七四年
2012/10/31(水) 22:11:55.45ID:K68WsBuF義弘が戦場を馬で回っていると、敗走する伊東勢の中で殿軍をつとめる騎馬武者が
目にとまった。
「我は島津兵庫頭なり! いざ勝負せよ!」
と大音声で呼ばわれば騎馬武者も名乗り返し、
「総大将御自らとは光栄! 柚木崎丹後守、参る!」
馬を駆って向かってきた。柚木崎(ゆきさき)丹後守正家は日向柚木崎城の城主で、
伊東勢の大将のひとりである。
義弘と丹後守は二度三度と槍を合わせるも、丹後守が馬から落ちて地面に転がる。
こうした場合、本人が馬から下りて討つか、徒歩で付き従う家臣郎党が討つのだが、
このとき主人の意を真っ先に察したのは義弘の乗馬だった。
この馬が前足の膝を折り曲げて地面につけたのである。義弘は槍を下に向けて突き、
みごと丹後守を討ち取った。
義弘は夢のお告げを正夢にしたこの馬を「膝衝栗毛(ひざつきくりげ)」と命名し、
非常に大切にした。
『名将言行録』によれば、義弘は生涯52回の戦いのうち20回余りをこの膝衝栗毛に跨って
臨んだという。
膝衝栗毛は馬としては非常に長命の86歳まで生き、鹿児島県姶良市の亀泉院跡に墓が残されている。
加藤清正の帝釈栗毛、鬼武蔵の百段にも劣らぬ、島津義弘の愛馬のお話。
0174人間七七四年
2012/10/31(水) 23:02:51.53ID:j2nN844m「今日の合戦は多分私は功名を立てられないでしょう」
清秀はそんな直政を慰めた。
「いやそのような事はない。やがて手にあいなさる」
開戦前には家康が直政の陣へ行き直政の手を取り別れを告げた。
「これにてさらばだ」
「そのようになりましょう」と直政が応えた。
これを聞いた直政の家来で老功の者が直政を諌めた。
「あのように弱き御挨拶をお返しなさるとはどういうおつもりか」
直政は応えた。
「左様にても殿があのように仰せられたのだ」
(『武功雑記』巻十三、巻四)
そして開戦後の直政
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-571.html
戦後、上方の武将たちから「井伊の赤鬼」と呼ばれるようになる。
0176人間七七四年
2012/11/01(木) 00:04:53.06ID:g5WrITFm0178人間七七四年
2012/11/01(木) 01:00:19.97ID:+VLFSbrtかの三冠馬シンザンが日本の軽種馬の最高齢記録を保持していたけど、
それでも満35歳。40歳なんてまずありえんと言い切っていいレベル。
ましてや80歳以上だなんて…
0179人間七七四年
2012/11/01(木) 01:39:47.49ID:504Z1GA8事情を知らない一般人が二代目や三代目の死亡年から逆算した勘違いでは。
そんなに縁起のいい馬なら、繁殖させたりもするだろうし、
二代目三代目が居ても不思議じゃない気がするけどね。
0180人間七七四年
2012/11/01(木) 02:02:03.47ID:c293RWN026歳なら普通すぎるかw
0181人間七七四年
2012/11/01(木) 02:42:28.49ID:YrMp6V1+0183人間七七四年
2012/11/01(木) 04:29:58.01ID:eL3tFQLr0185人間七七四年
2012/11/01(木) 07:14:48.49ID:yw6I4FDgそれにしても高木のオヤジに取りすがって涙する万千代が愛くるしいw
結果、アレなのが見事なコントラストになってるわ
0186172-173
2012/11/01(木) 08:26:31.27ID:DKgNWerh記録によると膝衝栗毛は牝馬(メス)だったようで。
戦のたびに駆り出されてると、繁殖はできなかったんじゃないかなあ。
義弘お兄ちゃん動物にもモテモテというお話。
0187人間七七四年
2012/11/01(木) 14:31:09.77ID:gJQfI2k2乗ってない時は馬が産休入ってたからかもよw
0188人間七七四年
2012/11/01(木) 15:16:34.08ID:504Z1GA8「出産前後くらいは日頃の感謝をこめて・・・サンキュー」とか言ってたかもな
0190人間七七四年
2012/11/01(木) 18:04:05.68ID:6oT7Wwu3今川氏真は武田信玄に国を奪われ、掛川城に逃げ込んだが、徳川軍の威によって
城を開けて小田原へ退去した。この時、徳川家は松平家忠に海路を護送させたので
今川の士はもちろん北条の者もまた「徳川殿は情ある大将だ」と感銘を受けた。
その後、氏真は小田原を離れて京摂を徘徊し、後に徳川家を頼り寄食する。
この話を聞いた者たちは「氏真は義も恥も知らぬ鉄面皮だ」と爪弾きにして笑ったが、
家康は義元の旧好を思って氏真の不幸を哀れに感じ、始終扶助して後には五百石を
与えて老を養い、その孫・直房、二男・高久を家臣とした。高家に今川、品川というのは
この末裔である。
家康はいつも上洛のために桶狭間を過ぎるたび、義元の墳墓の前では輿を下りた。
御供の輩はいずれもその厚義を感じて落涙した。
また氏真が客寓していた頃、いつも家康の御座近くに参る時にも、
昔を忘れずに氏真を厚く礼遇したことは見る者を感じさせた。
――『徳川実紀(三河記、古老物語、前橋聞書)』
0191人間七七四年
2012/11/01(木) 18:17:51.99ID:c293RWN00192人間七七四年
2012/11/01(木) 18:49:08.24ID:VoYP7FWq氏真は奥さんといい、周りの人に恵まれてる気がする
人を惹きつけるような人柄だったんだろうか
0193人間七七四年
2012/11/01(木) 19:41:41.50ID:jLOHci8aいい思い出があった場所に戻って行きたがるらしい
家康にとってもちろん苦労はあっただろうけど、良い日々だったんだろうな
01941/2
2012/11/01(木) 19:55:23.63ID:wa9MXoK4ある時この神谷が城中で、当時徳川秀忠の老中であった酒井雅楽頭忠世と行きあった。
神谷はすぐに脇によって「キリッ」と礼をしたのだが、その時酒井忠世は考え事をしていたのか、
神谷に全く気が付かず通りすぎてしまった。
スルーされた神谷の心に、暗い焔が灯った
それからというものの、神谷は酒井忠世に出会うたびに無礼慮外を度々繰り返した。小学生かお前は。
ともかくこの神谷の忠世に対する人もなげな振る舞いはよほど話題になったらしく、ついに
家康の耳にまで達した。
「秀忠の重臣に対してなんという振る舞いだ!神谷には暇を出そう!」
そう言ったが、内々に神谷の行状を聞いてみると、彼は人品能く、殊更に奉公を第一に勤めている、
忠世の件がなければ武士の鏡のような男であった。
「ああいった者こそ才能を確かめつつ能く召し使われるべきなのに、ゆえなくお暇を賜るような
事をすれば、御家の諸奉公人たちはどう思うでしょう?我が身を省みて、御家に対し疑いを抱くのでは
ありませんか?
それに雅楽頭(忠世)のせいで神谷があの様なことになった、などと言われては、あの正直至極な
雅楽頭に悪名を付けてしまいます!
しかし、だからといってこのまま放置しおいては御家老の威厳が薄くなり、御家風も軽くなってしまいます。
さて、どうしましょう?」
近臣の者達、結局家康に丸投げする。『相変わらずウチの家中はめんどくさいなあ』と家康は思ったかどうか。
しかしこういう面倒くさい人間を扱わせることに関しては家康はベテランである。
ナイスアイデアを思いついた
「そうだ!今度神谷に知行の折紙(認定証)を与える時、かねてからの約束よりも少し少なめにして
渡そう。神谷はこれまでの情報を総合すると堪え性のない人間だ。ならばその様な目に合えば
きっと自分から暇を願い出るだろう。その場合他の奉公人へも影響を与えなくてすむ。
それにこれで雅楽頭が不評を被る事も無いだろう。よし、これだ!」
そういって家康は、かねての約束が千石の所を、八百石の折紙を用意し一両日中に
神谷に渡す準備を整えた。
と、これを聞きつけやってきたのが酒井忠世である。彼は家康の御前に出ると
「神谷に知行の折紙を下されるという話を聞きました。あの者は殊の外良き奉公人です。
一廉御用にも立つ者でありますから、たしかあの者への知行のお約束は千石でしたが、それよりも
多く与える事こそ然るべきと考えます!」
『またややこしい事に…』家康はきっとそう思っただろう
01952/2
2012/11/01(木) 19:56:18.18ID:wa9MXoK4忠世、これを聞いて怒った
「それは以ての外のお考えです!!
あの者にそんな事をしたら、今後良き奉公人が、どうして御家に仕えることを望むでしょうか!?
ああ言う者をいかにも厚遇してこそ、勇士・能者も集まるというものです。
大御所様!ああもう、散々のご思案ですぞ!!」
家康公ボロクソである。しかし家康
「お前が言うことを一々判断する必要はない。何故かといえば、我が家において、重臣である
お主に慮外するような者はあってはならぬのだ。であるのにあの者は度々に渡りお主に慮外をいたしたと
聞き及んでおる。だからこそ、約束よりも少ない知行の折紙を与えたならばきっと暇を乞うてくるだろう、
その時暇を出してやろうと考えたのだ。そうであるので、知行増など思いもよらぬ!」
家康は個人のことを言っているのではなく、組織の統帥を考えて言っているのである。
これに忠世
「…私は御存知の通り、御家の御厚恩を以って代々召し使われている者ですが、そんな譜代の私に
新参の者が豪胆にも無礼をしてくることに、却ってその器量の深さを感じ、彼を、一廉御用の役に立つ者だと
見立てました。そして内々に調べてみても、人柄・心持ちの揃った人物でありました。
であるからこそ、この様に申し上げているのです!」
家康ももうグッタリしつつ
「…ではお前は、神谷に知行をどれほど与えようというのか?」
「二千石遣わされて然るべき!!」
「!!!???」
倍である。ついでに言えば実際に与えるのは家康である
「た、忠世くん?それなら最初の約束通り千石渡せばいいんじゃ…ないかな〜?」
「二千石然るべき!!」
「えーっと、いきなり倍は与え過ぎのような…」
「二千石!」
「…」
家康がどんど追い込まれていくのを他の老中たちがいたたまれなくなったのか、話に割って入り
「じゃ、じゃあ真ん中取って1500石でいかがでしょうか!?そうしましょう!」
と、一同申し上げたことにより、家康も遂に観念し1500石の折紙をつくり、神谷を呼び出し
これを与えた。この時、家康という人の面白いところは、酒井忠世との論争を、残らずありのまま
神谷に伝えた所である。
神谷は感涙を流してこの折紙を頂戴し、城より退出するとその足で酒井忠世の邸宅を訪ね対面し、
「それがし愚かにして人を知らず、憤りを顕したこと、誠に面目のないことでした。」
そう忠世に謝罪したという。
その後神谷与七郎は働きも能く、人品も忠世が見立てた通り、実直に勤め、その後足軽を付けられる程に
出世したそうである。
(武野燭談)
0196人間七七四年
2012/11/01(木) 19:57:38.89ID:aYuzkYLw0198人間七七四年
2012/11/01(木) 20:39:37.71ID:jLOHci8aでもそこがいい
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