長篠の籠城後、奥平九八郎定昌が徳川家康に召し出された。
家康は「定昌は若年の身で、数日の間小勢をもって大敵を引き受け、
城を保ったこと、誠に例なき働きというべし」と、大いに感心した。

またその七人の家長等を召し出して今回の忠節を賞し「お前たちの
子孫は後代に至るまで見参を許す」と仰せ付けた。今、奥平の家人が
毎春謁見を給わるのはこの例に由来するという。

定昌には知行が下されたほかに、姉川の戦いで家康が織田信長より
授けられた大般若長光の御刀が下された。また信長の意見により
家康の長女・亀姫が定昌に降嫁された。

その後、定昌は岐阜へ参り信長に謁見した。信長もいたく定昌の功を
賞して「定昌の勲功は武士の模範である。よってこれからは武者之助と
改名せよ」と言い、自らの一字を授けて奥平信昌と名乗らせた。
その上、様々な引出物が与えられた。

――『徳川実紀(貞享書上)』