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戦国ちょっといい話35

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0001人間七七四年2012/10/18(木) 19:08:22.07ID:/qlGMV2o
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0865人間七七四年2012/12/23(日) 23:25:17.56ID:n4aPgzw3
「頭髪にお悩みの方、毛利に味方すれば発毛促進剤をプレゼントしますよ!」
0866人間七七四年2012/12/23(日) 23:57:08.25ID:x9+yeZTt
吉村宣充は落魄中、追々家士従僕にも暇を取らせ、子供を一族に託し、
今は馬一頭だけが残っていた。

時に馬の売買・仲介を業とする人が来て「馬を売り払い給へ」と言う。
それを聞いて宣充は「只今まで用に立ってくれた馬だ。この上、売り払う
なんて可哀想だ」と、馬を阿部野へ解き放った。

――『名将言行録』
0867人間七七四年2012/12/24(月) 20:30:13.25ID:WxB3CFQr
>>864
秋山先生・・・///
0868人間七七四年2012/12/25(火) 20:35:26.78ID:LgLro0gF
こおり山のキツネ

吉田郡山城の北にあるなんば谷に、年をとったキツネが棲んでいた。
銀色の、それはそれは美しい毛並みのキツネであった。
猟師がそれを獲ろうとしても獲ることが出来ず、やがてその美しさは毛利元就の耳に入った。
殿様は非常に情け深いお方であったので、

「その様に美しい狐なら、なおさら殺してはならない」

と命ぜられ、その旨を記した高札を出した。

キツネはこれを見て感激し、やがて尼子が郡山城を囲んだ時、家来を連れて毛利に加勢した。

彼らは、馬糞でごちそうを作って敵方に送りつけたり、提灯で敵が襲撃してきたように見せるなど、
尼子への妨害作戦を行い、これに疲れた尼子はとうとう去っていった。

元就はキツネの働きに感謝し、郡山の森山を彼らへの褒美として与えた。
それからキツネは、侍に化けて山の見張りを続けたそうである。

(広島の昔話)
0869人間七七四年2012/12/25(火) 20:36:39.84ID:KwEtYujG
徳島のたぬきは日露戦争に従軍し、ロシア兵を撹乱したという話があったり
0870人間七七四年2012/12/25(火) 23:23:36.39ID:VYE2lnak
キツネもタヌキも凄いな。
0871人間七七四年2012/12/25(火) 23:42:37.55ID:Rmw3k7oJ
三河大沼に住む処士木村九郎左衛門定元は徳川家康の関東入部に御供し、
その子三右衛門吉晴は妻子を引き連れて一番に江戸へ馳せ参った。

この事を土井利勝より知らされた家康は、吉晴が住みなれた土地を離れて
速やかに馳せ参ったことを賞して上機嫌になり「旅装のままでいいから
出て来い」と命じたので、吉晴は革の立付を身に着け髪も乱れたまま参上した。

家康は前もって吉晴が酒好きと聞いていたので数杯を下した。酔いが進んで
心地好くなっている吉晴を見た家康は伊奈忠政を呼んで「三右衛門は
酒好きだから、良い場所を選んで酒を飲める領地をつかわせ」と命じた。

やがて吉晴は相州高座郡菖蒲澤村百石の地を賜り、今その辺りではこの領邑の
ことを酒手知行というのだとか。

――『徳川実紀(家譜)』

忠政は忠次の間違いかな。
0872人間七七四年2012/12/26(水) 00:01:57.53ID:XRQZ7LvB
高橋紹運の末裔(麻生太郎)、財務大臣に就任
0873人間七七四年2012/12/26(水) 00:30:33.54ID:P1EoTL2m
 淀川沿いの溝杭の目垣という地に佛照寺という立派な寺があった。本願寺蓮如が淀川を渡って
河内の光善寺に向かう途中、その佛照寺の近くを通るとそこの住職の教光の評判を耳にした。
佛照寺は蓮如の派閥とは異なる佛光寺派の大きな寺として当時有名であったが、佛照寺の
教光住職は和歌に好むあまり、肝心の念仏がおろそかになっていた。
 ある日、蓮如は目垣の近くまでやってきて自作の三首の和歌を書いた紙をわざと落とした。
 その紙を拾ったのは佛照寺の教光住職である。紙には以下の和歌が書かれていた。

ひとたびも 佛をたのむ心こそ まことの法(のり)に かなう道なれ
罪深く 如来をたのむ身になれば法(のり)の力に 西へこそ行く
法(のり)を聞く 道に心の定まれば 南無阿弥陀仏と唱えこそすれ

和歌に詳しいはずの教光住職であったが、この三首の和歌の意味が全然理解できなかった。
そこで教光住職は落とし主の本願寺蓮如に歌の意味を聞きに行った。蓮如はわざわざ聞きに
来てくれたことを喜び、丁寧に歌の意味を説明し、ついでに親鸞聖人の教えも説いた。
 これがきっかけとなり、教光住職は本願寺蓮如の弟子となった。そして、佛照寺はこれ以後、
佛光寺派を離れて本願寺派へ鞍替えしてたのであった。
 
0874人間七七四年2012/12/26(水) 01:26:31.34ID:yxufI55c
>>868
馬糞は美味しいみたいよ
この前、犬が喜んで食べてた
0875人間七七四年2012/12/26(水) 12:41:27.37ID:g4CWDpUT
>>874
何を食べさせられているかによるんじゃないかね
それによって臭いもけっこう変わる
0876人間七七四年2012/12/26(水) 16:15:59.27ID:m2IdOMct
>>874
馬とかは草を全てを消化できるわけじゃなくてある程度消化された状況で排出しちゃう
つまり糞は通常の草よりも消化しやすい
植物を消化できない赤ん坊が離乳食として親の糞を食べる動物が居るくらいだからね
同様に植物を消化できない肉食動物にも食物繊維を取りやすい代物なのかもしれんな
0877人間七七四年2012/12/26(水) 16:21:53.68ID:bQPO+qfH
犬は自分の糞も食うから。
しつけされてないだけ。食糞でググれ。
0878人間七七四年2012/12/26(水) 23:08:25.12ID:dldnZeIU
高井助次郎実重は今川家の旧臣で、その父蔵人実広は義元に従って
桶狭間の戦いに討死し、実重もまた氏真に仕えて終始忠節を尽くした。

小牧長久手の戦いで諸人がいずれも高名をあげる中、助次郎一人は
何の高名もあげられなかったので、あまりの面目なさに涙を流していた。

しかし、そんな助次郎に徳川家康が「お前は古主氏真の行方を見届けた
信義厚き者だから、今日の戦で敵の首を取るよりも遥かに勝っているぞ。
嘆くことはない」と言葉をかけたので助次郎は思いもよらず誉れを得た。

――『徳川実紀(感状記)』
0879人間七七四年2012/12/26(水) 23:51:16.38ID:21coINsu
>>878
家康は結構今川リスペクト強いよね
泉岳寺まで作ったりと
0880人間七七四年2012/12/27(木) 00:11:46.24ID:UmIFNy52
泉岳寺の名の由来って、今川義元の出家名の栴岳承芳から?
0881人間七七四年2012/12/29(土) 11:36:29.08ID:8e3YYawD
弘前市の石川地区には、かつて石川城があり津軽の中でも南部寄りの地区という話があったが、
石川地区の乳井という大字はまた違った歴史がある。
現在、乳井には乳井神社という神社があり、かつては乳井福王寺毘沙門堂という修験寺であった。
大鰐から平川右岸の山岳地帯に勢力を持ち「津軽の法師三大名」ともいわれたという。

別当は福王寺氏といい、戦国時代には堂衆を率いて勢力を拡大し、
福王寺玄蕃の代には猿賀神社の別当も兼ねる勢力にまで発展、
南部氏にも従わないことから玄蕃は「沙門大名」とも言われた。
もちろん、南部氏は邪魔な福王寺を放っておくはずもなく、
1565年、玄蕃は大光寺城代滝本重行の刺客により路上で暗殺されてしまう。
玄蕃の息子は乳井建清といい、父が暗殺された当時はまだ若年で、仇討ちすることも出来ず、
逆に滝本重行に福王寺に対する抑えの高畑城を築かれるなど、寺領を圧迫され、侵略を受けることとなる。

その後間もなく南部家中は南部晴政の後継問題で統制が効かなくなり、
それに乗じて大浦為信が1571年に謀反、石川城と和徳城を一日で落とすが、
建清の居館と石川城は目と鼻の先であり、騒ぎを聞いた建清はこれに乗じて高畑城を急襲、奪取することに成功する。
建清は高畑城主となり、すぐさま為信に臣従した。
1574年8月と1575年1月に先陣として大光寺城を攻め、1575年に滝本重行を津軽から追い出すことに成功する。

1578年、大浦氏が浪岡北畠氏を滅亡させた結果、大浦為信と安東氏の仲は悪くなり、
1579年には安東愛季が比山六郎・七郎を総大将に津軽へ軍を出した。
この軍に滝本重行と北畠顕則が合流し、建清の元居館である乳井茶臼館や乳井城が落とされた。
この時に建清は大浦城におり、比山軍が乳井茶臼館に立てこもると大浦為信自身が軍を率いて出陣、建清はそれに従軍した。
両軍は六羽川付近で合戦し、大浦軍は次第に追い込まれ、田中太郎五郎が大浦為信の身代わりとなるなどの損害を出すが、
大浦為信を討ち取ったと勘違いした比山軍が油断した隙に比山六郎が討死した。
比山軍は大将を失い総崩れ、滝本重行も敗走する結果となった。

父を暗殺した仇敵を戦で二度破った乳井建清は、その仇敵の居城であった大光寺城主となり、
福王寺玄蕃暗殺以来の滝本氏との因縁に白黒つけたのであった。

>>358あたりで出てきた乳井氏の戦国時代でした。
0882人間七七四年2012/12/29(土) 17:41:14.94ID:2edVXPOQ
永禄十一年三月、徳川家は遠州の城々を攻め取らんと尾藤彦四郎らが
籠る堀川の城を攻めた。先陣は松平信一、榊原康政が務める。

康政は配下に向かい「私は若年でありながらこのような寵任を蒙り一隊の
主将となった。その上、御諱の字さえ賜り御恩の深高なること山海にも
比し難い。明日の戦はかならず一番乗りを遂げて盛意に報いるぞ!」
と宣言した。

その日、康政は早朝より紺地に無の字の指物をさし、笹切という鎌槍を
掲げて一番に城へ攻め入り、散々戦って二ヶ所の深手を負った。
そこで家人らが康政を肩に負ってなおも進み、遂に城を乗っ取った。

その後、康政の傷を見た徳川家康は「この深手ではもう助からない」と思い、
康政に「後事に思うことあらば、つつまず申せ」と言った。康政は畏まって
「この度、配下の伊奈、中島の両人の忠戦は衆人よりも勝れておりました。
ですから両人に御恩賞をお与えください。この外に思い残すことはありません」
と申した。家康はすぐに二人を召し出して感状を授けた。

ところが後に康政は思いもよらず回復を遂げたので、家康は大層喜んで
様々な慰労の言葉をかけたのだという。

――『徳川実紀(武徳編年集成、家譜)』
0883人間七七四年2012/12/29(土) 18:39:37.75ID:vbEgc1jm
遺言のつもりで何か言い残した後に回復するって…あー照れくさいわぁw
0884人間七七四年2012/12/29(土) 18:59:11.40ID:nGqfpWiH
日根野さんは、切腹した後に身辺整理だからその点きちんとしてるな
0885人間七七四年2012/12/29(土) 22:42:14.80ID:zgeUB0kr
ある時、堀田正盛が甥である喜多見久太夫を伴って殿中を進んでいた。

(…何やら臭うな)
御茶部屋の辺りに来たところで、久太夫は妙な匂いに気付いた。
(そうだ、これはまさしく煙草の匂い。法度を犯して煙草を吸っておる不届き者め、何奴か)
殿中においては火気の扱いについて細心の注意を払うことが大原則。煙草一つ吸うにしても所定の場においてのみと定められていた。
立ち止まって御茶部屋の様子を窺う。見ると少しばかり開いていた障子がすっと閉まった。どうやら吸っていた茶坊主がこちらを察したらしい。
しかし、少し気付くのが遅かった。仄かな紫煙が久太夫の鼻先をくすぐっていく。
「これは煙草ですな」
久太夫、先を進んでいる正盛に聞こえるように呟いた。正盛の歩みが止まる。
「煙草がいかが致したか」
「かような場所にて煙草の匂いがするとは解せぬことでありましょう」
正盛は少し鼻を動かしたようであったが、振り向きもせずにまた歩み出した。久太夫はそれに不満を持ち、追いつきながら語調を強めた。
「ご法度の煙草を何者か隠れて吸っておりますぞ」
「喜多見殿」
正盛が立ち止まり、久太夫に横顔を見せた。
「貴殿は目付役」
「…? いかにも左様にございますが」
「いつから鼻目付を仰せつかったかな」
それだけ言うと正盛、そのまま立ち去っていった。
0886人間七七四年2012/12/29(土) 23:03:00.33ID:9Lcwdn0n
堀川城って撫で斬りにされた城だよな
0887人間七七四年2012/12/29(土) 23:05:16.74ID:6yE1bUAG
なんかよくわからん…
喫煙は喫煙で見つける担当者が決まってるのか?
0888人間七七四年2012/12/29(土) 23:12:48.51ID:me4PcMjE
目で見て取り締まる→目付
それ以外の五感→○目付
っていう洒落かな
違ったらごめん
0889人間七七四年2012/12/30(日) 00:46:30.17ID:urpmWWbs
いい話なのか?
0890人間七七四年2012/12/30(日) 01:16:46.62ID:sUh2TgPE
大名があまり些末なことに目くじら立てるなというお教えじゃないか。
0891人間七七四年2012/12/30(日) 07:39:08.74ID:jGus6LDt
目付はおまえなんだから俺に頼らずお前がしかるべく処分しろよということじゃないかな
0892人間七七四年2012/12/30(日) 08:23:36.81ID:Q0BFbw83
>>843
亀だけど、初期の殿いつネタ(謙信玄)を思い出したわw
0893人間七七四年2012/12/30(日) 10:34:55.13ID:gA08ZAGa
ただ臭い嗅ぐだけじゃなくて自分で注意しに行けよって意味じゃない?

久太夫が煙草に気付いた時に素直に注意しに行かずに
聞こえよがしに煙草の話を振ったから正盛をイラッとさせたんじゃないかと思う
0894人間七七四年2012/12/30(日) 10:37:03.92ID:klPh3kjU
>>889
ここはちょっといい話スレだから。
いい話か悪い話かで言えばいい話じゃないか
2ミリくらい
0895人間七七四年2012/12/30(日) 14:15:46.17ID:Uv6WdMfA
人の上に立つ者はその程度で目くじら立てて犯罪者を量産するな、って事だと解釈したんだが、
この場合は大事な江戸城の防火に関する重要な規則だから見逃しちゃ拙いわな
0896人間七七四年2012/12/30(日) 15:12:31.24ID:1kddN+XF
【東京】地上のタバコポイ捨て、地下鉄三田線止める=ホームに煙、90人避難
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1356796039/l50

昨日の事だが、こういうのを見ると悪い話だろうな。
0897人間七七四年2012/12/31(月) 09:03:47.36ID:GY2eF6zU
法度に関わらず軽輩が柳営で平然と喫煙出来るような雰囲気が有る事自体が、風紀、規律の乱れ。
すなわち目付の失態になるだろ。
0898人間七七四年2012/12/31(月) 10:16:45.58ID:E8W+Ja5q
キリシタンが出ると出したほうの責任になるので見なかった事にしよう、みたいなものか
0899人間七七四年2012/12/31(月) 10:39:00.57ID:hcZfLqjy
あってはならないこと→あってはならないのだからそもそもある訳ないという風潮
0900人間七七四年2012/12/31(月) 12:16:48.33ID:AJe1AVyK
堀田正盛も事なかれ主義の官僚に成り下がっていたのだろうか?
それとも、将軍の寵臣として出世した故の引け目もあったのか?
0901人間七七四年2012/12/31(月) 17:46:22.93ID:AaHORiM6
岐阜城の戦いの折、田中吉政の家臣・田中采女は村の入口で
敵を突き落とした。吉政はこれを見て「采女は今日の一番首だ。
首を取るのだ」と言葉をかけた。

その次に川淵九郎左衛門が高名をあげた。吉政はこれを見て
「鼻をかくのだ」と言った。戦後、二人の間で一番首をめぐって
争いが起きた。

吉政がこれを聞いて「そういうこともあるだろうと思って、
わしは采女が敵を馬より突き落とした時に今日の一番首なり首を
取れと言ったのだ。その後に九郎左衛門が高名したゆえ、
鼻をかけと申し付けた」と言うと、争いはすぐに収まった。

――『名将言行録』
0902人間七七四年2012/12/31(月) 21:43:55.17ID:UQv3vjfL
永禄三年(1560)十二月、毛利家に、尼子晴久が重病であり、もはや十死一生の様態であるとの情報が入った。
既に死去したとの噂もあり、長年晴久に苦しめられた毛利家中では、この事を元就に話せばさぞ上機嫌になるだろうと
考え、ある時元就のもとに皆が参集した時、その話を申し上げた所、案に相違し、元就は突然気色を変え
怒鳴った

「晴久が既に死んだというのなら、もう是非に及ばぬことであるが、晴久も自信が存命のうちに、
我々と一戦を遂げ勝負を決しようと考えていたことだろう。

私も天文九年以来、晴久と数度の戦いをしたと雖も、遂に旗本での決戦とまでは行かなかった。
私はこれを、出雲へ討ち入った時に果たすべき念願としていたのに、残念の至である。

総じて敵方の弱みを喜ぶのは、弱将とその下の部将たちの風俗である。
おのおのは晴久の重病を、我々の吉事のように申される。
これは誠に、是非無き心である!」

この言葉に皆は戸惑い、その場は静まり返ったという。(一円物音も之なき事)
(吉田物語)

尼子晴久重病の報に対しての、毛利元就の反応である。
0903人間七七四年2012/12/31(月) 22:40:02.87ID:aJFP4uiP
本音と建て前
0904人間七七四年2012/12/31(月) 23:29:58.05ID:PVhpX9Zh
敵を騙すにはまず味方からってことだねw
0905人間七七四年2013/01/01(火) 02:35:19.98ID:AIBIZRh9
TERU「いやー残念だなあ。信長と決戦してボコボコにする計画が流れちゃったよ。」
隆景「殿、ちょっと奥の間へ。」
0906人間七七四年2013/01/01(火) 04:23:16.10ID:bS9hlezr
自身、敵、味方を騙す毛利の三本のホラか!
0907人間七七四年2013/01/01(火) 10:41:08.64ID:3XKaFfA7
こうでも言わないと人はついてこない
器量を試されたんだろう
0908人間七七四年2013/01/01(火) 12:06:48.30ID:OG8PltuQ
べ、別に喜んでなんかないんだからねっ!
0909人間七七四年2013/01/01(火) 15:28:51.70ID:was0FRPj
>>907
信長が信玄の死を知ったときはめちゃくちゃ喜んだという話があった気が
0910人間七七四年2013/01/01(火) 15:32:55.75ID:nX67G6Q1
大坂冬の陣頃の十一月五日、甲山の辺りで数万の蛙が集まり
南北に別れて争うこと半時ばかりと耳にした徳川家康は

「蛙軍は珍しいことではないが、蛙は寒空には土中で蟄居している
ものなのに身体を動かして戦っているとは奇異なことだ」と言った。

また、新家村に生えている芦は片葉と聞いた家康が芦を刈り寄せて
見てみると確かに片葉であった。

松平忠継が「この辺りの芦は芦ではなく荻ですな」と言うと、家康は
「お前は『難波の芦は伊勢の浜荻』というのを知らないのか」と言った。

――『徳川実紀(東武雑録、明良洪範)』
0911人間七七四年2013/01/01(火) 17:03:19.26ID:3XKaFfA7
>>909
あれはさすがに許してやれよw
0912人間七七四年2013/01/01(火) 17:08:21.36ID:DqrYUcof
謙信もやっぱり本当は喜んだんだろうか?
0913人間七七四年2013/01/01(火) 18:16:00.18ID:Cf0xhCw1
謙信は我が好敵手がいなくなったと嘆いたと伝わってるが、何ともなぁ
戰キチの考えることだから
0914人間七七四年2013/01/01(火) 20:04:39.27ID:z66QIb7/
謙信って信玄の事嫌ってたって話もあるよな

各種逸話の性格の謙信だったら信玄とか100%相容れないだろう
0915人間七七四年2013/01/01(火) 20:06:50.20ID:2ghQ9Fb4
謙信さんは、山科けいすけの「SENGOKU」でのイメージで再生されてるわwwww
0916人間七七四年2013/01/01(火) 20:50:48.66ID:PgtJ+iX/
>>910
家康ってこういう教養も今川家の英才教育を受けて一流の域なのよね
でも詠む歌は技巧を凝らしたりしない
0917人間七七四年2013/01/01(火) 20:53:10.38ID:QGLSoIJs
>>915
俺もSENGOKUの謙信と信玄が強烈過ぎていまだにあのイメージを引きずってるわw
あと豹変した秀吉の怖さはガチ
0918人間七七四年2013/01/01(火) 20:54:49.58ID:+qm2OKdl
落語では
「ものの名も、ところによりて変わるなり難波の葦が伊勢の浜荻」
は当たり前のように出てくるが、当時は教養の範疇だったのか
0919人間七七四年2013/01/01(火) 20:56:45.24ID:N569VcYa
家康って、こういうことわざみたいなもの好きなのかな?
実際の記録はよく知らんが、大河ドラマとかではよく言ってる気がする
「知らぬ顔の半兵衛がよいぞ」とか
0920人間七七四年2013/01/01(火) 21:55:06.21ID:MfQ0Cr8w
>>914
そういや信玄をこき下ろした神文が残ってたっけか
0921人間七七四年2013/01/01(火) 22:01:43.15ID:OG8PltuQ
大体漢詩や和歌に由来するから教養の内か
幽斎様なんかこの手の逸話が腐るほどあるな
0922人間七七四年2013/01/01(火) 22:22:20.75ID:PgtJ+iX/
ぐぐったら難波の葦は伊勢の浜荻は?玖波集が出典のようだ
0923人間七七四年2013/01/01(火) 22:25:06.60ID:PgtJ+iX/
ぐは、菟玖波集の菟の字が化けた
0924人間七七四年2013/01/01(火) 23:15:32.77ID:SqH0ZaYe
言ってることは駄洒落や親父ギャグの類なんだけど親父ギャグだとわかるかどうかが重要なんだろうな
逸話としては大抵ネタバレまであるから駄洒落要素が強く印象に残ってちょっとげんなりしてしまうがw
0925人間七七四年2013/01/02(水) 00:48:00.34ID:wjzqYFJx
>>916
それは二流、三流の域という証
京都の貴族たちを唸らせるレベルでないと一流とは言えない
0926人間七七四年2013/01/02(水) 00:59:28.91ID:i2bXD6+O
>>907
戦になれば数多の命が散るというのに強敵が死んでも喜ばないってのは堅物っていうか自己陶酔じゃね?
敵の知恵者を排除するのに謀事をかけた奴なんか幾らでもいる
喜ぶのが普通の反応だと俺は思うな
鞆にいたよちあきみたいに
0927人間七七四年2013/01/02(水) 01:17:43.27ID:hfGIEadA
普通の反応だと見くびられちゃうからじゃね
普通じゃない反応だからこそさすが我等がおやかた様、ってなるわけだし
常に超人的な自分を演出してないといけなかったのかも
0928人間七七四年2013/01/02(水) 01:22:12.56ID:FXzR3J1h
「悲しいときに笑え」ってのもそういう事なんだろうな
0929人間七七四年2013/01/02(水) 02:21:40.27ID:iFixbaTi
ラスボスだって敵の死を喜ぶような事はしてはおるまい
例えばそう、鬼武蔵が討ち死にした時の様に
0930人間七七四年2013/01/02(水) 03:10:28.85ID:kJb46Zzw
敵が弱体化して喜ぶような部下は、強い敵相手に使い物にならないだろw
0931人間七七四年2013/01/02(水) 06:57:36.40ID:tqdkvImn
単にホクホク顔の味方を引き締める為に言っただけだったりして
0932人間七七四年2013/01/02(水) 07:19:07.28ID:Pn65Fyih
・「アイツ死にやがったwww俺ついてるwww」

・「敵ながら惜しい男を亡くしたものだ」(アイツ死にやがったwww俺ついてるwww)

どっちが自分の名声高めるかなんて考えるまでもないだろ
その勢力を服属させた後のことまで考えれば尚更
0933人間七七四年2013/01/02(水) 09:18:10.63ID:wC05eX8B
つまり、信長さんはその頃から既に武田を許す気は更々無かったと
0934人間七七四年2013/01/02(水) 10:38:31.52ID:ZBfcvKKu
1850年、ドイツ連邦のプロイセン講師のビスマルクが、
ハプスブルク帝国皇帝フランツ・ヨーゼフにこのような所見を残している

「オーストラリアの若き君主から私は大変好ましい印象を受けました
二十歳の炎が壮年の威厳、果断と結びついているのです。
いきいきしてくると目が美しく輝き特に微笑したりすると
いかにも感じが良い率直さが現れます。
もし皇帝でなければ歳の割にひたむきすぎると思われかねないでしょう。」

とビスマルクはヨーゼフを高く評価している
それから16年後、ビスマルク率いるプロイセンはヨーゼフ率いる
ハプスブルク帝国を普墺戦争で打ち破ったのであった。
0935人間七七四年2013/01/02(水) 11:39:23.60ID:FXzR3J1h
誤爆?
0936人間七七四年2013/01/02(水) 11:46:39.33ID:JWHL9KRK
>>924
江戸時代の浮世絵なんて内輪受けする小ネタ満載だけど、現代から見たら何が面白いのかさっぱりだし。
0937人間七七四年2013/01/02(水) 11:52:06.44ID:a8fV3HYA
気になって探してみたら世界史にもいい話スレあったんだな
0938人間七七四年2013/01/02(水) 13:00:03.55ID:Pn65Fyih
オーストラリア?
0939人間七七四年2013/01/02(水) 14:09:42.98ID:hfGIEadA
なんという大遠征
さすが鉄血宰相や、想像の斜め上をいく
0940人間七七四年2013/01/02(水) 15:00:28.30ID:wC05eX8B
実は女王ビクトリアへの賛辞なんだよ!
な、なんだってー
0941人間七七四年2013/01/02(水) 16:34:04.56ID:tg9JKZcc
>>938
クソワロタwwww
0942人間七七四年2013/01/02(水) 16:53:48.88ID:FXzR3J1h
>>938
本当だ、よく見たらオースト「ラ」リアwww
0943人間七七四年2013/01/02(水) 17:58:47.11ID:+IA7Ri5i
長篠の籠城後、奥平九八郎定昌が徳川家康に召し出された。
家康は「定昌は若年の身で、数日の間小勢をもって大敵を引き受け、
城を保ったこと、誠に例なき働きというべし」と、大いに感心した。

またその七人の家長等を召し出して今回の忠節を賞し「お前たちの
子孫は後代に至るまで見参を許す」と仰せ付けた。今、奥平の家人が
毎春謁見を給わるのはこの例に由来するという。

定昌には知行が下されたほかに、姉川の戦いで家康が織田信長より
授けられた大般若長光の御刀が下された。また信長の意見により
家康の長女・亀姫が定昌に降嫁された。

その後、定昌は岐阜へ参り信長に謁見した。信長もいたく定昌の功を
賞して「定昌の勲功は武士の模範である。よってこれからは武者之助と
改名せよ」と言い、自らの一字を授けて奥平信昌と名乗らせた。
その上、様々な引出物が与えられた。

――『徳川実紀(貞享書上)』
0944人間七七四年2013/01/02(水) 18:33:43.02ID:FXzR3J1h
奥平さんちって家康の若い頃からの家臣なのに微妙に影うすくない・・・?
信昌なんかかなり活躍してるはずなのに
0945人間七七四年2013/01/02(水) 18:40:09.26ID:/+rp+lf6
そういえばお笑いコンビの学天即ってのが前々回のTHE MANZAIでやっていた漫才の落ちが

「あ、そうだもう一人大河ドラマでやりたい役があるんですわ」
「ほー、で誰や?」
「奥平信昌、初代京都所司代」
「だから誰やねん!」
「「どーもありがとうございましたー」」

それなりに有名のはずなのに
0946人間七七四年2013/01/02(水) 20:04:21.52ID:GW7PaUnw
>>943
貞昌なんですけどー
0947人間七七四年2013/01/02(水) 20:30:16.85ID:mctkPQt/
徳川家康の家臣に松本金次郎という者がいた。
容貌はさながら婦女子のようで言語もとても柔和であった。
そのためか人々からは武人としての資質も無いと侮られてた。
当の金次郎はその事をまったく意に介さず、時に微笑むのみだった。

小牧・長久手の戦いの際に金次郎は朱柄の長槍を持って従軍した。
それを見た人々は互いに顔を見合わせて笑った。
朱柄は、数度の激戦に臨んで
敵の鮮血で槍の柄が赤く染まる程の武功を挙げた勇士にのみ許される。
しかし金次郎にはそんな武功などない。
衆は嘲って言った。

「やれ女武士が妄りに朱柄の長槍を提ぐなど笑止笑止www」

しかし金次郎はまったく聞こえぬ顔して徐に先陣に出た。
両軍が戦い交えると、金次郎は単騎で敵陣に躍り入り
縦横奮撃に敵将を斬り、敵兵を数知れず倒した。
敵軍は金次郎の戦い振りを見るにつけ圧倒されその後挑む者も無かった。
金次郎は馬首を返してゆっくりと自陣に戻った。

その夜、金次郎は同僚に言った。

「武士たる者の真の勇とは、戦場においてのみ用いるものでしょう。
酒席や日常の席でささいな武勇を誇ったり、奮然とした相貌を装ってみせたりするのは
付け焼き刃たる勇に過ぎませんよ。
人には各々得意、不得意があります。
座上で勇を誇り席上で威を張るような事は、私には不得意なのです」

金次郎の言葉に一同は粛然とした。

(『武人百話』)
0948人間七七四年2013/01/02(水) 21:36:49.60ID:iFixbaTi
母里友信「槍は酒の席で獲るものぞ」
0949人間七七四年2013/01/02(水) 21:52:56.63ID:FXzR3J1h
少女マンガに出てきそうなイケメンだな
0950人間七七四年2013/01/02(水) 23:03:28.15ID:oblQ8CwN
金次郎さんマジかっけえー
人は見かけで判断してはいけないな…
0951人間七七四年2013/01/02(水) 23:28:01.04ID:GzmTvva5
        ※    ドドド・・・


       \●/
         ● X ●   ドドドドドド・・・・・
       /●\



      \. .●. ./
       \  /
      ●   X   ●   ┣¨┣¨┣¨┣¨・・・
       /  \
      /. .●. .\
0952人間七七四年2013/01/03(木) 05:41:03.30ID:pGc6Ni5S
信玄「どれ我が軍に入ってみないか?」
義隆「厚遇するぞ」
0953人間七七四年2013/01/03(木) 07:28:32.36ID:5sy3ZBGG
むしろ「後遇するぞ」だろう
0954人間七七四年2013/01/03(木) 11:23:07.61ID:r60mrVNy
>>947
・・・惚れた
0955人間七七四年2013/01/03(木) 11:25:40.80ID:0vjAze3/
どっかの姫和子さんの初陣を思い出す
0956人間七七四年2013/01/03(木) 13:05:57.01ID:5jJ7nO0i
こうして見ると、小牧・長久手の戦いって徳川にとって
ものすごく収穫のある戦いだったんだな

井伊、成瀬といった次の世代を担う若者が軒並み活躍している
これでスムーズに世代交代ができるようになったのかな
0957人間七七四年2013/01/03(木) 13:11:04.77ID:fu8J2+ng
小牧長久手みたいな乾坤一擲の戦いでそういった若手を抜擢しているんだから、家康も勇気あるね。
0958人間七七四年2013/01/03(木) 13:25:08.01ID:XLLsn5J4
ベテランから若手までフル活用しなければいけないほどの激戦だったという事かも
0959人間七七四年2013/01/03(木) 13:50:59.88ID:YKkDA4De
伊達と立花の婚姻にまつわる小田部土佐の話・第三段

まとめには伊達家の嫌がらせと小田部統房の話があるが、また一つ違う逸話を。

筑前立花家の家臣・小田部土佐は、娘を輿入れした忠宗の慰みの為、奥州への出向を乞われた。

道中つつがなく仙台へ到着し、いざ謁見とうことになったが、その衣服は粗末で(童子格子の木綿織は綿の厚い夜着のようで、太くてもっさりした丸ぐけの帯に三尺あまりの大刀を帯びていた)まるで夜盗が迷って出たような無作法さであった。

忠宗はかの奇人ぶりを知った上で到来を待ちわびていたので、取次役に命じてそのまま居間へ通させた。
小田部は面前にずいとまかり出ると、一言の挨拶もせず立ちはだかり、狂人のように振る舞った。

忠宗はさすがにムッとして何故そのように無礼なるやを詰問する。
曰く、「私は伊達様に臣従するつもりはありません。伊達様はひとたび私を見たいとの仰せであると聞き及んでおりますので、普段の私を見せようと思ったまでのことです」

忠宗は我が意にかないたりと満足し、後日改めての謁見を許した。

その後日、衣服を整え、厳然なる装いにて現れた小田部に対し忠宗はいくつか問答した。
小田部は当世の趣味に走る者は混雑の士です、真の士は柳川藩において自分ともう一人しかいませんなどと、時代錯誤の割に堂々とした答弁を繰り返す。
その様を見て忠宗は時折吹き出しつつも、彼の才を認め、一旦別室に引かせて休息を許した。

そして家臣を呼ぶとひそかに「聞きしにまさる曲者じゃ。これからあやつに取らす膳には大ダコの丸煮を出してやれ。困惑する様を見てやろう。包丁は一切入れるなよ」と命じた。

饗応の準備が整うと小田部を呼んで膳につかせ、でんと茹で上がった大ダコを披露した。
小田部は「やや、これはそれがしの大好物。気を使っていただき恐悦千万、誠に結構、過分過分」などと連呼しながら蛸の頭をむんずと掴むと懐中を探り、小刀で小切れにして平然と食らった。
忠宗他近侍の衆は「苦しめ難き曲者なり」と感心してしまった。

我が儘な大身の暇つぶしに付き合ってあげるいい話。
0960人間七七四年2013/01/03(木) 15:17:18.79ID:tF0oBGzS
>>947
直政「敵の鮮血で赤く染まる程の武功って某の朱具足のことだな」

>>952
金次郎「なんか心底、徳川で良かった、私…」
0961人間七七四年2013/01/03(木) 15:19:59.65ID:fu8J2+ng
徳川家は井伊直政と言い、意外と美形の家臣がいるな。水野勝成もイケメンだったらしいし。
0962あけおめことよろ2013/01/03(木) 15:37:53.45ID:VJKmQj+O
祖父中野神右衛門が桃川村に住んでいたときのこと。
ある夜、黒髪山神社の神様が権現となり夢枕に立ち顕れ、
「そなたの家は貧しく気の毒である。
よって宝の銭甕を与えよう。
黒髪山に埋めておくから、持ち帰りなさい。」
とお告げになられた。
三日間同じ夢を見たので、これは神のお告げだと確信し、
黒髪山へ登って神前にぬかずきて、
「私の家の貧乏をお憐れみくださり、
お宝をお授けくださるとのこと、
誠にありがたく存じております。
しかしながら私は銭甕を欲しくはございません。
それほど不憫にお思いくださるのなら、
中野一門の武勇と繁昌を御守りください。
銭甕はお返しいたします由、右のことのお叶えを願います。」
と祈ってから帰った。
この願いが聞きとどけられたのか、
中野一門は子供たちみな知行をいただき、
一門の末の者までお取り立てにあずかり繁昌している。
「けれども、銭甕を返上したせいか、
中野一門は、皆貧乏ばかりじゃ(笑)」
と神右衛門は嬉しそうに話していたとのことだ 【葉隠】
0963人間七七四年2013/01/03(木) 16:17:18.60ID:wgc24vnd
お、地元の逸話だ
ちょっと黒髪山を掘り漁ってくるわ
0964人間七七四年2013/01/03(木) 16:30:22.99ID:ugFuBTgY
いい話だ

1890年エリザベートは大西洋沿岸と西地中海沿岸を就航している
ドーヴァーから帆走もできる汽船飾カザリー号(
登録名はニコルソン夫人という偽名であった)発ちリスボン、ジブラルタル、タンジール、アルジェ。コルシカ島。
マルセイユ。フィレンチェ、まポリ。ポンペイ、コルシカ島と巡った後コルフ島にたどり着いた。
とにかく、凄まじい距離の船旅をしたものである。

エリザベートはこのようなことを書いていた。
「全世界を巡りたい、私に比べたらアハスヴセールでさえ出不精といえるでしょう。
とにかく船でほうぼうの海を就航したい。女のさまよえるオランダ人みたいなものだから
いつか消えるなり沈むまでこの性癖は収まらないでしょう」
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。