戦国ちょっといい話35
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0001人間七七四年
2012/10/18(木) 19:08:22.07ID:/qlGMV2o戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0865人間七七四年
2012/12/23(日) 23:25:17.56ID:n4aPgzw30866人間七七四年
2012/12/23(日) 23:57:08.25ID:x9+yeZTt今は馬一頭だけが残っていた。
時に馬の売買・仲介を業とする人が来て「馬を売り払い給へ」と言う。
それを聞いて宣充は「只今まで用に立ってくれた馬だ。この上、売り払う
なんて可哀想だ」と、馬を阿部野へ解き放った。
――『名将言行録』
0868人間七七四年
2012/12/25(火) 20:35:26.78ID:LgLro0gF吉田郡山城の北にあるなんば谷に、年をとったキツネが棲んでいた。
銀色の、それはそれは美しい毛並みのキツネであった。
猟師がそれを獲ろうとしても獲ることが出来ず、やがてその美しさは毛利元就の耳に入った。
殿様は非常に情け深いお方であったので、
「その様に美しい狐なら、なおさら殺してはならない」
と命ぜられ、その旨を記した高札を出した。
キツネはこれを見て感激し、やがて尼子が郡山城を囲んだ時、家来を連れて毛利に加勢した。
彼らは、馬糞でごちそうを作って敵方に送りつけたり、提灯で敵が襲撃してきたように見せるなど、
尼子への妨害作戦を行い、これに疲れた尼子はとうとう去っていった。
元就はキツネの働きに感謝し、郡山の森山を彼らへの褒美として与えた。
それからキツネは、侍に化けて山の見張りを続けたそうである。
(広島の昔話)
0869人間七七四年
2012/12/25(火) 20:36:39.84ID:KwEtYujG0870人間七七四年
2012/12/25(火) 23:23:36.39ID:VYE2lnak0871人間七七四年
2012/12/25(火) 23:42:37.55ID:Rmw3k7oJその子三右衛門吉晴は妻子を引き連れて一番に江戸へ馳せ参った。
この事を土井利勝より知らされた家康は、吉晴が住みなれた土地を離れて
速やかに馳せ参ったことを賞して上機嫌になり「旅装のままでいいから
出て来い」と命じたので、吉晴は革の立付を身に着け髪も乱れたまま参上した。
家康は前もって吉晴が酒好きと聞いていたので数杯を下した。酔いが進んで
心地好くなっている吉晴を見た家康は伊奈忠政を呼んで「三右衛門は
酒好きだから、良い場所を選んで酒を飲める領地をつかわせ」と命じた。
やがて吉晴は相州高座郡菖蒲澤村百石の地を賜り、今その辺りではこの領邑の
ことを酒手知行というのだとか。
――『徳川実紀(家譜)』
忠政は忠次の間違いかな。
0872人間七七四年
2012/12/26(水) 00:01:57.53ID:XRQZ7LvB0873人間七七四年
2012/12/26(水) 00:30:33.54ID:P1EoTL2m河内の光善寺に向かう途中、その佛照寺の近くを通るとそこの住職の教光の評判を耳にした。
佛照寺は蓮如の派閥とは異なる佛光寺派の大きな寺として当時有名であったが、佛照寺の
教光住職は和歌に好むあまり、肝心の念仏がおろそかになっていた。
ある日、蓮如は目垣の近くまでやってきて自作の三首の和歌を書いた紙をわざと落とした。
その紙を拾ったのは佛照寺の教光住職である。紙には以下の和歌が書かれていた。
ひとたびも 佛をたのむ心こそ まことの法(のり)に かなう道なれ
罪深く 如来をたのむ身になれば法(のり)の力に 西へこそ行く
法(のり)を聞く 道に心の定まれば 南無阿弥陀仏と唱えこそすれ
和歌に詳しいはずの教光住職であったが、この三首の和歌の意味が全然理解できなかった。
そこで教光住職は落とし主の本願寺蓮如に歌の意味を聞きに行った。蓮如はわざわざ聞きに
来てくれたことを喜び、丁寧に歌の意味を説明し、ついでに親鸞聖人の教えも説いた。
これがきっかけとなり、教光住職は本願寺蓮如の弟子となった。そして、佛照寺はこれ以後、
佛光寺派を離れて本願寺派へ鞍替えしてたのであった。
0876人間七七四年
2012/12/26(水) 16:15:59.27ID:m2IdOMct馬とかは草を全てを消化できるわけじゃなくてある程度消化された状況で排出しちゃう
つまり糞は通常の草よりも消化しやすい
植物を消化できない赤ん坊が離乳食として親の糞を食べる動物が居るくらいだからね
同様に植物を消化できない肉食動物にも食物繊維を取りやすい代物なのかもしれんな
0877人間七七四年
2012/12/26(水) 16:21:53.68ID:bQPO+qfHしつけされてないだけ。食糞でググれ。
0878人間七七四年
2012/12/26(水) 23:08:25.12ID:dldnZeIU桶狭間の戦いに討死し、実重もまた氏真に仕えて終始忠節を尽くした。
小牧長久手の戦いで諸人がいずれも高名をあげる中、助次郎一人は
何の高名もあげられなかったので、あまりの面目なさに涙を流していた。
しかし、そんな助次郎に徳川家康が「お前は古主氏真の行方を見届けた
信義厚き者だから、今日の戦で敵の首を取るよりも遥かに勝っているぞ。
嘆くことはない」と言葉をかけたので助次郎は思いもよらず誉れを得た。
――『徳川実紀(感状記)』
0880人間七七四年
2012/12/27(木) 00:11:46.24ID:UmIFNy520881人間七七四年
2012/12/29(土) 11:36:29.08ID:8e3YYawD石川地区の乳井という大字はまた違った歴史がある。
現在、乳井には乳井神社という神社があり、かつては乳井福王寺毘沙門堂という修験寺であった。
大鰐から平川右岸の山岳地帯に勢力を持ち「津軽の法師三大名」ともいわれたという。
別当は福王寺氏といい、戦国時代には堂衆を率いて勢力を拡大し、
福王寺玄蕃の代には猿賀神社の別当も兼ねる勢力にまで発展、
南部氏にも従わないことから玄蕃は「沙門大名」とも言われた。
もちろん、南部氏は邪魔な福王寺を放っておくはずもなく、
1565年、玄蕃は大光寺城代滝本重行の刺客により路上で暗殺されてしまう。
玄蕃の息子は乳井建清といい、父が暗殺された当時はまだ若年で、仇討ちすることも出来ず、
逆に滝本重行に福王寺に対する抑えの高畑城を築かれるなど、寺領を圧迫され、侵略を受けることとなる。
その後間もなく南部家中は南部晴政の後継問題で統制が効かなくなり、
それに乗じて大浦為信が1571年に謀反、石川城と和徳城を一日で落とすが、
建清の居館と石川城は目と鼻の先であり、騒ぎを聞いた建清はこれに乗じて高畑城を急襲、奪取することに成功する。
建清は高畑城主となり、すぐさま為信に臣従した。
1574年8月と1575年1月に先陣として大光寺城を攻め、1575年に滝本重行を津軽から追い出すことに成功する。
1578年、大浦氏が浪岡北畠氏を滅亡させた結果、大浦為信と安東氏の仲は悪くなり、
1579年には安東愛季が比山六郎・七郎を総大将に津軽へ軍を出した。
この軍に滝本重行と北畠顕則が合流し、建清の元居館である乳井茶臼館や乳井城が落とされた。
この時に建清は大浦城におり、比山軍が乳井茶臼館に立てこもると大浦為信自身が軍を率いて出陣、建清はそれに従軍した。
両軍は六羽川付近で合戦し、大浦軍は次第に追い込まれ、田中太郎五郎が大浦為信の身代わりとなるなどの損害を出すが、
大浦為信を討ち取ったと勘違いした比山軍が油断した隙に比山六郎が討死した。
比山軍は大将を失い総崩れ、滝本重行も敗走する結果となった。
父を暗殺した仇敵を戦で二度破った乳井建清は、その仇敵の居城であった大光寺城主となり、
福王寺玄蕃暗殺以来の滝本氏との因縁に白黒つけたのであった。
>>358あたりで出てきた乳井氏の戦国時代でした。
0882人間七七四年
2012/12/29(土) 17:41:14.94ID:2edVXPOQ籠る堀川の城を攻めた。先陣は松平信一、榊原康政が務める。
康政は配下に向かい「私は若年でありながらこのような寵任を蒙り一隊の
主将となった。その上、御諱の字さえ賜り御恩の深高なること山海にも
比し難い。明日の戦はかならず一番乗りを遂げて盛意に報いるぞ!」
と宣言した。
その日、康政は早朝より紺地に無の字の指物をさし、笹切という鎌槍を
掲げて一番に城へ攻め入り、散々戦って二ヶ所の深手を負った。
そこで家人らが康政を肩に負ってなおも進み、遂に城を乗っ取った。
その後、康政の傷を見た徳川家康は「この深手ではもう助からない」と思い、
康政に「後事に思うことあらば、つつまず申せ」と言った。康政は畏まって
「この度、配下の伊奈、中島の両人の忠戦は衆人よりも勝れておりました。
ですから両人に御恩賞をお与えください。この外に思い残すことはありません」
と申した。家康はすぐに二人を召し出して感状を授けた。
ところが後に康政は思いもよらず回復を遂げたので、家康は大層喜んで
様々な慰労の言葉をかけたのだという。
――『徳川実紀(武徳編年集成、家譜)』
0883人間七七四年
2012/12/29(土) 18:39:37.75ID:vbEgc1jm0884人間七七四年
2012/12/29(土) 18:59:11.40ID:nGqfpWiH0885人間七七四年
2012/12/29(土) 22:42:14.80ID:zgeUB0kr(…何やら臭うな)
御茶部屋の辺りに来たところで、久太夫は妙な匂いに気付いた。
(そうだ、これはまさしく煙草の匂い。法度を犯して煙草を吸っておる不届き者め、何奴か)
殿中においては火気の扱いについて細心の注意を払うことが大原則。煙草一つ吸うにしても所定の場においてのみと定められていた。
立ち止まって御茶部屋の様子を窺う。見ると少しばかり開いていた障子がすっと閉まった。どうやら吸っていた茶坊主がこちらを察したらしい。
しかし、少し気付くのが遅かった。仄かな紫煙が久太夫の鼻先をくすぐっていく。
「これは煙草ですな」
久太夫、先を進んでいる正盛に聞こえるように呟いた。正盛の歩みが止まる。
「煙草がいかが致したか」
「かような場所にて煙草の匂いがするとは解せぬことでありましょう」
正盛は少し鼻を動かしたようであったが、振り向きもせずにまた歩み出した。久太夫はそれに不満を持ち、追いつきながら語調を強めた。
「ご法度の煙草を何者か隠れて吸っておりますぞ」
「喜多見殿」
正盛が立ち止まり、久太夫に横顔を見せた。
「貴殿は目付役」
「…? いかにも左様にございますが」
「いつから鼻目付を仰せつかったかな」
それだけ言うと正盛、そのまま立ち去っていった。
0886人間七七四年
2012/12/29(土) 23:03:00.33ID:9Lcwdn0n0887人間七七四年
2012/12/29(土) 23:05:16.74ID:6yE1bUAG喫煙は喫煙で見つける担当者が決まってるのか?
0888人間七七四年
2012/12/29(土) 23:12:48.51ID:me4PcMjEそれ以外の五感→○目付
っていう洒落かな
違ったらごめん
0889人間七七四年
2012/12/30(日) 00:46:30.17ID:urpmWWbs0890人間七七四年
2012/12/30(日) 01:16:46.62ID:sUh2TgPE0891人間七七四年
2012/12/30(日) 07:39:08.74ID:jGus6LDt0893人間七七四年
2012/12/30(日) 10:34:55.13ID:gA08ZAGa久太夫が煙草に気付いた時に素直に注意しに行かずに
聞こえよがしに煙草の話を振ったから正盛をイラッとさせたんじゃないかと思う
0895人間七七四年
2012/12/30(日) 14:15:46.17ID:Uv6WdMfAこの場合は大事な江戸城の防火に関する重要な規則だから見逃しちゃ拙いわな
0896人間七七四年
2012/12/30(日) 15:12:31.24ID:1kddN+XFhttp://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1356796039/l50
昨日の事だが、こういうのを見ると悪い話だろうな。
0897人間七七四年
2012/12/31(月) 09:03:47.36ID:GY2eF6zUすなわち目付の失態になるだろ。
0898人間七七四年
2012/12/31(月) 10:16:45.58ID:E8W+Ja5q0899人間七七四年
2012/12/31(月) 10:39:00.57ID:hcZfLqjy0900人間七七四年
2012/12/31(月) 12:16:48.33ID:AJe1AVyKそれとも、将軍の寵臣として出世した故の引け目もあったのか?
0901人間七七四年
2012/12/31(月) 17:46:22.93ID:AaHORiM6敵を突き落とした。吉政はこれを見て「采女は今日の一番首だ。
首を取るのだ」と言葉をかけた。
その次に川淵九郎左衛門が高名をあげた。吉政はこれを見て
「鼻をかくのだ」と言った。戦後、二人の間で一番首をめぐって
争いが起きた。
吉政がこれを聞いて「そういうこともあるだろうと思って、
わしは采女が敵を馬より突き落とした時に今日の一番首なり首を
取れと言ったのだ。その後に九郎左衛門が高名したゆえ、
鼻をかけと申し付けた」と言うと、争いはすぐに収まった。
――『名将言行録』
0902人間七七四年
2012/12/31(月) 21:43:55.17ID:UQv3vjfL既に死去したとの噂もあり、長年晴久に苦しめられた毛利家中では、この事を元就に話せばさぞ上機嫌になるだろうと
考え、ある時元就のもとに皆が参集した時、その話を申し上げた所、案に相違し、元就は突然気色を変え
怒鳴った
「晴久が既に死んだというのなら、もう是非に及ばぬことであるが、晴久も自信が存命のうちに、
我々と一戦を遂げ勝負を決しようと考えていたことだろう。
私も天文九年以来、晴久と数度の戦いをしたと雖も、遂に旗本での決戦とまでは行かなかった。
私はこれを、出雲へ討ち入った時に果たすべき念願としていたのに、残念の至である。
総じて敵方の弱みを喜ぶのは、弱将とその下の部将たちの風俗である。
おのおのは晴久の重病を、我々の吉事のように申される。
これは誠に、是非無き心である!」
この言葉に皆は戸惑い、その場は静まり返ったという。(一円物音も之なき事)
(吉田物語)
尼子晴久重病の報に対しての、毛利元就の反応である。
0903人間七七四年
2012/12/31(月) 22:40:02.87ID:aJFP4uiP0904人間七七四年
2012/12/31(月) 23:29:58.05ID:PVhpX9Zh0905人間七七四年
2013/01/01(火) 02:35:19.98ID:AIBIZRh9隆景「殿、ちょっと奥の間へ。」
0906人間七七四年
2013/01/01(火) 04:23:16.10ID:bS9hlezr0907人間七七四年
2013/01/01(火) 10:41:08.64ID:3XKaFfA7器量を試されたんだろう
0908人間七七四年
2013/01/01(火) 12:06:48.30ID:OG8PltuQ0910人間七七四年
2013/01/01(火) 15:32:55.75ID:nX67G6Q1南北に別れて争うこと半時ばかりと耳にした徳川家康は
「蛙軍は珍しいことではないが、蛙は寒空には土中で蟄居している
ものなのに身体を動かして戦っているとは奇異なことだ」と言った。
また、新家村に生えている芦は片葉と聞いた家康が芦を刈り寄せて
見てみると確かに片葉であった。
松平忠継が「この辺りの芦は芦ではなく荻ですな」と言うと、家康は
「お前は『難波の芦は伊勢の浜荻』というのを知らないのか」と言った。
――『徳川実紀(東武雑録、明良洪範)』
0912人間七七四年
2013/01/01(火) 17:08:21.36ID:DqrYUcof0913人間七七四年
2013/01/01(火) 18:16:00.18ID:Cf0xhCw1戰キチの考えることだから
0914人間七七四年
2013/01/01(火) 20:04:39.27ID:z66QIb7/各種逸話の性格の謙信だったら信玄とか100%相容れないだろう
0915人間七七四年
2013/01/01(火) 20:06:50.20ID:2ghQ9Fb40916人間七七四年
2013/01/01(火) 20:50:48.66ID:PgtJ+iX/家康ってこういう教養も今川家の英才教育を受けて一流の域なのよね
でも詠む歌は技巧を凝らしたりしない
0917人間七七四年
2013/01/01(火) 20:53:10.38ID:QGLSoIJs俺もSENGOKUの謙信と信玄が強烈過ぎていまだにあのイメージを引きずってるわw
あと豹変した秀吉の怖さはガチ
0918人間七七四年
2013/01/01(火) 20:54:49.58ID:+qm2OKdl「ものの名も、ところによりて変わるなり難波の葦が伊勢の浜荻」
は当たり前のように出てくるが、当時は教養の範疇だったのか
0919人間七七四年
2013/01/01(火) 20:56:45.24ID:N569VcYa実際の記録はよく知らんが、大河ドラマとかではよく言ってる気がする
「知らぬ顔の半兵衛がよいぞ」とか
0921人間七七四年
2013/01/01(火) 22:01:43.15ID:OG8PltuQ幽斎様なんかこの手の逸話が腐るほどあるな
0922人間七七四年
2013/01/01(火) 22:22:20.75ID:PgtJ+iX/0923人間七七四年
2013/01/01(火) 22:25:06.60ID:PgtJ+iX/0924人間七七四年
2013/01/01(火) 23:15:32.77ID:SqH0ZaYe逸話としては大抵ネタバレまであるから駄洒落要素が強く印象に残ってちょっとげんなりしてしまうがw
0926人間七七四年
2013/01/02(水) 00:59:28.91ID:i2bXD6+O戦になれば数多の命が散るというのに強敵が死んでも喜ばないってのは堅物っていうか自己陶酔じゃね?
敵の知恵者を排除するのに謀事をかけた奴なんか幾らでもいる
喜ぶのが普通の反応だと俺は思うな
鞆にいたよちあきみたいに
0927人間七七四年
2013/01/02(水) 01:17:43.27ID:hfGIEadA普通じゃない反応だからこそさすが我等がおやかた様、ってなるわけだし
常に超人的な自分を演出してないといけなかったのかも
0928人間七七四年
2013/01/02(水) 01:22:12.56ID:FXzR3J1h0929人間七七四年
2013/01/02(水) 02:21:40.27ID:iFixbaTi例えばそう、鬼武蔵が討ち死にした時の様に
0930人間七七四年
2013/01/02(水) 03:10:28.85ID:kJb46Zzw0931人間七七四年
2013/01/02(水) 06:57:36.40ID:tqdkvImn0932人間七七四年
2013/01/02(水) 07:19:07.28ID:Pn65Fyih・「敵ながら惜しい男を亡くしたものだ」(アイツ死にやがったwww俺ついてるwww)
どっちが自分の名声高めるかなんて考えるまでもないだろ
その勢力を服属させた後のことまで考えれば尚更
0933人間七七四年
2013/01/02(水) 09:18:10.63ID:wC05eX8B0934人間七七四年
2013/01/02(水) 10:38:31.52ID:ZBfcvKKuハプスブルク帝国皇帝フランツ・ヨーゼフにこのような所見を残している
「オーストラリアの若き君主から私は大変好ましい印象を受けました
二十歳の炎が壮年の威厳、果断と結びついているのです。
いきいきしてくると目が美しく輝き特に微笑したりすると
いかにも感じが良い率直さが現れます。
もし皇帝でなければ歳の割にひたむきすぎると思われかねないでしょう。」
とビスマルクはヨーゼフを高く評価している
それから16年後、ビスマルク率いるプロイセンはヨーゼフ率いる
ハプスブルク帝国を普墺戦争で打ち破ったのであった。
0935人間七七四年
2013/01/02(水) 11:39:23.60ID:FXzR3J1h0936人間七七四年
2013/01/02(水) 11:46:39.33ID:JWHL9KRK江戸時代の浮世絵なんて内輪受けする小ネタ満載だけど、現代から見たら何が面白いのかさっぱりだし。
0937人間七七四年
2013/01/02(水) 11:52:06.44ID:a8fV3HYA0938人間七七四年
2013/01/02(水) 13:00:03.55ID:Pn65Fyih0939人間七七四年
2013/01/02(水) 14:09:42.98ID:hfGIEadAさすが鉄血宰相や、想像の斜め上をいく
0940人間七七四年
2013/01/02(水) 15:00:28.30ID:wC05eX8Bな、なんだってー
0943人間七七四年
2013/01/02(水) 17:58:47.11ID:+IA7Ri5i家康は「定昌は若年の身で、数日の間小勢をもって大敵を引き受け、
城を保ったこと、誠に例なき働きというべし」と、大いに感心した。
またその七人の家長等を召し出して今回の忠節を賞し「お前たちの
子孫は後代に至るまで見参を許す」と仰せ付けた。今、奥平の家人が
毎春謁見を給わるのはこの例に由来するという。
定昌には知行が下されたほかに、姉川の戦いで家康が織田信長より
授けられた大般若長光の御刀が下された。また信長の意見により
家康の長女・亀姫が定昌に降嫁された。
その後、定昌は岐阜へ参り信長に謁見した。信長もいたく定昌の功を
賞して「定昌の勲功は武士の模範である。よってこれからは武者之助と
改名せよ」と言い、自らの一字を授けて奥平信昌と名乗らせた。
その上、様々な引出物が与えられた。
――『徳川実紀(貞享書上)』
0944人間七七四年
2013/01/02(水) 18:33:43.02ID:FXzR3J1h信昌なんかかなり活躍してるはずなのに
0945人間七七四年
2013/01/02(水) 18:40:09.26ID:/+rp+lf6「あ、そうだもう一人大河ドラマでやりたい役があるんですわ」
「ほー、で誰や?」
「奥平信昌、初代京都所司代」
「だから誰やねん!」
「「どーもありがとうございましたー」」
それなりに有名のはずなのに
0947人間七七四年
2013/01/02(水) 20:30:16.85ID:mctkPQt/容貌はさながら婦女子のようで言語もとても柔和であった。
そのためか人々からは武人としての資質も無いと侮られてた。
当の金次郎はその事をまったく意に介さず、時に微笑むのみだった。
小牧・長久手の戦いの際に金次郎は朱柄の長槍を持って従軍した。
それを見た人々は互いに顔を見合わせて笑った。
朱柄は、数度の激戦に臨んで
敵の鮮血で槍の柄が赤く染まる程の武功を挙げた勇士にのみ許される。
しかし金次郎にはそんな武功などない。
衆は嘲って言った。
「やれ女武士が妄りに朱柄の長槍を提ぐなど笑止笑止www」
しかし金次郎はまったく聞こえぬ顔して徐に先陣に出た。
両軍が戦い交えると、金次郎は単騎で敵陣に躍り入り
縦横奮撃に敵将を斬り、敵兵を数知れず倒した。
敵軍は金次郎の戦い振りを見るにつけ圧倒されその後挑む者も無かった。
金次郎は馬首を返してゆっくりと自陣に戻った。
その夜、金次郎は同僚に言った。
「武士たる者の真の勇とは、戦場においてのみ用いるものでしょう。
酒席や日常の席でささいな武勇を誇ったり、奮然とした相貌を装ってみせたりするのは
付け焼き刃たる勇に過ぎませんよ。
人には各々得意、不得意があります。
座上で勇を誇り席上で威を張るような事は、私には不得意なのです」
金次郎の言葉に一同は粛然とした。
(『武人百話』)
0948人間七七四年
2013/01/02(水) 21:36:49.60ID:iFixbaTi0949人間七七四年
2013/01/02(水) 21:52:56.63ID:FXzR3J1h0950人間七七四年
2013/01/02(水) 23:03:28.15ID:oblQ8CwN人は見かけで判断してはいけないな…
0951人間七七四年
2013/01/02(水) 23:28:01.04ID:GzmTvva5\●/
● X ● ドドドドドド・・・・・
/●\
\. .●. ./
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● X ● ┣¨┣¨┣¨┣¨・・・
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/. .●. .\
0952人間七七四年
2013/01/03(木) 05:41:03.30ID:pGc6Ni5S義隆「厚遇するぞ」
0953人間七七四年
2013/01/03(木) 07:28:32.36ID:5sy3ZBGG0955人間七七四年
2013/01/03(木) 11:25:40.80ID:0vjAze3/0956人間七七四年
2013/01/03(木) 13:05:57.01ID:5jJ7nO0iものすごく収穫のある戦いだったんだな
井伊、成瀬といった次の世代を担う若者が軒並み活躍している
これでスムーズに世代交代ができるようになったのかな
0957人間七七四年
2013/01/03(木) 13:11:04.77ID:fu8J2+ng0958人間七七四年
2013/01/03(木) 13:25:08.01ID:XLLsn5J40959人間七七四年
2013/01/03(木) 13:50:59.88ID:YKkDA4Deまとめには伊達家の嫌がらせと小田部統房の話があるが、また一つ違う逸話を。
筑前立花家の家臣・小田部土佐は、娘を輿入れした忠宗の慰みの為、奥州への出向を乞われた。
道中つつがなく仙台へ到着し、いざ謁見とうことになったが、その衣服は粗末で(童子格子の木綿織は綿の厚い夜着のようで、太くてもっさりした丸ぐけの帯に三尺あまりの大刀を帯びていた)まるで夜盗が迷って出たような無作法さであった。
忠宗はかの奇人ぶりを知った上で到来を待ちわびていたので、取次役に命じてそのまま居間へ通させた。
小田部は面前にずいとまかり出ると、一言の挨拶もせず立ちはだかり、狂人のように振る舞った。
忠宗はさすがにムッとして何故そのように無礼なるやを詰問する。
曰く、「私は伊達様に臣従するつもりはありません。伊達様はひとたび私を見たいとの仰せであると聞き及んでおりますので、普段の私を見せようと思ったまでのことです」
忠宗は我が意にかないたりと満足し、後日改めての謁見を許した。
その後日、衣服を整え、厳然なる装いにて現れた小田部に対し忠宗はいくつか問答した。
小田部は当世の趣味に走る者は混雑の士です、真の士は柳川藩において自分ともう一人しかいませんなどと、時代錯誤の割に堂々とした答弁を繰り返す。
その様を見て忠宗は時折吹き出しつつも、彼の才を認め、一旦別室に引かせて休息を許した。
そして家臣を呼ぶとひそかに「聞きしにまさる曲者じゃ。これからあやつに取らす膳には大ダコの丸煮を出してやれ。困惑する様を見てやろう。包丁は一切入れるなよ」と命じた。
饗応の準備が整うと小田部を呼んで膳につかせ、でんと茹で上がった大ダコを披露した。
小田部は「やや、これはそれがしの大好物。気を使っていただき恐悦千万、誠に結構、過分過分」などと連呼しながら蛸の頭をむんずと掴むと懐中を探り、小刀で小切れにして平然と食らった。
忠宗他近侍の衆は「苦しめ難き曲者なり」と感心してしまった。
我が儘な大身の暇つぶしに付き合ってあげるいい話。
0960人間七七四年
2013/01/03(木) 15:17:18.79ID:tF0oBGzS直政「敵の鮮血で赤く染まる程の武功って某の朱具足のことだな」
>>952
金次郎「なんか心底、徳川で良かった、私…」
0961人間七七四年
2013/01/03(木) 15:19:59.65ID:fu8J2+ng0962あけおめことよろ
2013/01/03(木) 15:37:53.45ID:VJKmQj+Oある夜、黒髪山神社の神様が権現となり夢枕に立ち顕れ、
「そなたの家は貧しく気の毒である。
よって宝の銭甕を与えよう。
黒髪山に埋めておくから、持ち帰りなさい。」
とお告げになられた。
三日間同じ夢を見たので、これは神のお告げだと確信し、
黒髪山へ登って神前にぬかずきて、
「私の家の貧乏をお憐れみくださり、
お宝をお授けくださるとのこと、
誠にありがたく存じております。
しかしながら私は銭甕を欲しくはございません。
それほど不憫にお思いくださるのなら、
中野一門の武勇と繁昌を御守りください。
銭甕はお返しいたします由、右のことのお叶えを願います。」
と祈ってから帰った。
この願いが聞きとどけられたのか、
中野一門は子供たちみな知行をいただき、
一門の末の者までお取り立てにあずかり繁昌している。
「けれども、銭甕を返上したせいか、
中野一門は、皆貧乏ばかりじゃ(笑)」
と神右衛門は嬉しそうに話していたとのことだ 【葉隠】
0963人間七七四年
2013/01/03(木) 16:17:18.60ID:wgc24vndちょっと黒髪山を掘り漁ってくるわ
0964人間七七四年
2013/01/03(木) 16:30:22.99ID:ugFuBTgY1890年エリザベートは大西洋沿岸と西地中海沿岸を就航している
ドーヴァーから帆走もできる汽船飾カザリー号(
登録名はニコルソン夫人という偽名であった)発ちリスボン、ジブラルタル、タンジール、アルジェ。コルシカ島。
マルセイユ。フィレンチェ、まポリ。ポンペイ、コルシカ島と巡った後コルフ島にたどり着いた。
とにかく、凄まじい距離の船旅をしたものである。
エリザベートはこのようなことを書いていた。
「全世界を巡りたい、私に比べたらアハスヴセールでさえ出不精といえるでしょう。
とにかく船でほうぼうの海を就航したい。女のさまよえるオランダ人みたいなものだから
いつか消えるなり沈むまでこの性癖は収まらないでしょう」
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