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戦国ちょっといい話35

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年2012/10/18(木) 19:08:22.07ID:/qlGMV2o
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0759人間七七四年2012/12/12(水) 18:38:37.12ID:Iwm4yr/n
家康が裸で鷹の羽だけ付けてたのかと一瞬思っちゃったよ
0760人間七七四年2012/12/12(水) 18:49:30.55ID:CFkShBtG
>>756
このスリルが病みつきになると
銃弾が降り注ぐ中で弁当まで食べる戦中毒になるのかw
ダメ。ゼッタイ。
0761人間七七四年2012/12/12(水) 19:29:52.90ID:5C2y/gx8
この時代の素肌は裸のことじゃなくて鎧をつけていないことって
前この板で教えてもらったよ
0762人間七七四年2012/12/12(水) 20:04:56.01ID:R9HsZojG
素肌攻めじゃな
0763人間七七四年2012/12/12(水) 20:18:57.87ID:v4yYEJ1c
>>760
毛利秀元「戦闘の最中に弁当とかバッカじゃないの?」
0764人間七七四年2012/12/12(水) 20:57:11.38ID:y5DqHaZ7
>>758
しかもそっちのほうは古代・中世歴史資料の宝庫だったろうしね
0765人間七七四年2012/12/12(水) 21:59:58.43ID:y3Mapzw0
園城寺「余計なことするからだよ」
金剛峯寺「もう少しで危なかったぜ」
0766人間七七四年2012/12/12(水) 23:40:35.55ID:v4yYEJ1c
>>754
国宝といえば、あの金閣が、無事終戦を迎えたと思ったのに放火犯のせいで
灰になっちまったよな。

上杉と武田が好きな身としては、光秀の行動は敵討ち&天佑神助に他ならぬ。
0767人間七七四年2012/12/13(木) 11:19:07.67ID:ybktTOB5
>>765
園城寺の焼き討ち避難スキルは異常
なんであんなに繰り返し丁寧に焼かれたのに文物が残ってるんだよw
0768人間七七四年2012/12/13(木) 13:01:19.67ID:Nve3RQsU
近所に焼き討ちの後法灯をここから持っていったんだよって伝承のある家があるんだよな
もちろん嘘の伝承なんだけど
0769人間七七四年2012/12/13(木) 18:22:11.73ID:yjCfw0+O
>>764
よく考えたら東大寺文書クラスの巨大資料があっておかしくないはずなんだよね
東大寺も南都焼討とか焼けてるのに残ってるが

日向で寺社を焼きつくした大友宗麟もそうとう日本史上の損失を出してると思うが
0770人間七七四年2012/12/13(木) 18:29:18.58ID:M2ffKdI/
そのあたり言い出したら家康だって三河で寺を元通りにしているし
0771人間七七四年2012/12/13(木) 18:40:25.64ID:/KE61Dyr
>>770
まぁあれは新興宗教なので・・・
戦国時代初期の三川に関する資料は失われたかもしれんが
0772人間七七四年2012/12/13(木) 18:46:12.24ID:CYXWa7OJ
まぁ宗教同士で焼き合う時代だし
0773人間七七四年2012/12/13(木) 18:51:03.85ID:39jGsrDY
>>771
俺らはどうしても宗教施設ではなく資料の保管庫としてみてしまうからなw
0774人間七七四年2012/12/13(木) 22:33:29.50ID:D5rAFJin
な〜に応仁の乱に比べればどうってことない
07751/22012/12/14(金) 06:02:36.12ID:djwypYrW
『…(江戸に)到着二日後、皇太子(徳川秀忠)が海の長官(向井正綱)に、私を2度訪ねさせた。
秘書であるコンセクドノ(上野介殿:本多正純)から私に、皇太子の手に接吻しに行く事ができると
知らせてきた。それで午後4時に赴いた。

あの日、私が見た城下住まいの武士や兵、並びに王城や建物などに関する偉大さを上手く言い表すのは
無理である。
最初の門から皇太子の部屋に至るまで、絶対に二万人以上はいた。それも外から来たのではなく、
俸給を貰って城中の様々な役についている家来である。

主として最初の石垣は極めて大きい石塊に加工を施した石で出来ていた。城壁に組み合わせて
積み上げられているだけで、石灰も他の漆喰も何も使われていない。
城壁は大変幅広く、大砲を撃てるように狭間がついている。僅かだが、狭間のいくつかには
砲を据えていた。この城壁の下には濠があり、川に洗われている。跳ね橋が付いていて、これは
かつて見たことがないほど巧みな技術でできた橋だった。
門扉は頑丈で、私を通す時に開かれたが、火縄銃隊とモスケット銃隊が二列で現れた。もし誤魔化されて
いなければ千人以上居たのではないかと思う。この隊長がそのように言ったのだ。

隊長は第二の門まで付き添ったが、そこでまた別種の堤のような作りの城壁を見た。最初の城壁から
次まで300歩の距離があった。こちらは長槍と短槍兵400人が居た。

第三の門へと導かれたが、それは小石でできた高さ4バーバラの城壁が付いていた。ここには火縄銃・
モスケット銃、のための半月堡、またマングイナタス(薙刀)隊用のそれのようなものが間隔を置いて並んでいた。
薙刀とは矛槍のようなもので、それを携えた、数にして300人の兵士が居た。
この人々は三つの門扉の間に居住し、家には非常に美しい庭と市中を見渡せる窓が付いていた。

第三の門扉を通り抜けると間もなく居城に入り、その側に200頭以上の馬を擁した厩がある。
よく世話が行き届き肥えているので、まるでイスパニアと同様に調教師が居るかのようである。
馬は非常に満足できる状況で一頭ずつ二本の鎖の端綱で繋がれ、足蹴りを人に食らわせないように
臀部を壁に、顔は馬小屋に入る方に向いている。

厩に相対して皇太子の武器庫がある。彼が使う胸当てで、金色仕上げのものや長槍、槍、火縄銃、刀など
豊富に納められ、10万の人間を武装させるのに充分な武器を備えている。

その前方には城の最初の広間が続く。そこには床も天井も見えない。何故なら床には薄敷きのような
ものである「タタミ」と呼ぶものを敷いている。もっとも薄敷きよりもっと美しく、金色の布、凝った繻子、
金の花模様のビロードの縁で飾られている。形態は方形で、組み合わせてもきちんと収まり、とても精巧である。

壁は木と板で仕上げられていて、狩猟に関することが金や銀、その他の色彩で色調を見事に整える。
天井も同様で、生地がわからないようにしてある。

我々外国人の目にはこの最初に広間以上のものは望めないと思ったのだが、次のものはもっと素晴らしかった。
第三の広間にいたっては他に抜きん出ており、先に進めば進むほど一層豪華で珍重になっていった。
これらの広間はいずれの間でも武士と貴族らが私を出迎えてくれた。自分の持ち場を超えないように
それぞれ制限付きの権限を各人が得ているのではないかと私は思った。誰かが私から離れると、
別の者が迎えたからだ。
07762/22012/12/14(金) 06:03:22.59ID:djwypYrW
皇太子(秀忠)は私を大広間で待っていた。その中央に段が3つあり、7歩ないしは8歩ばかり前方に、
床の上に先に述べた敷物を敷いて座っていた。金の縁取りのある深紅のビロードの絨毯のような
四角の布とともに、キモノと呼ばれる二着の衣服で、緑と黄色に装っていた。
そしてカタナという剣と短剣をその上にくくりつけていた。
頭は頭髪を色帯でまとめて乗せているだけだった。
35歳の、浅黒いが立派な顔立ちと体格の男性である。

私に付き従ってきたものには(前の広間に)居残るように秘書官が命じたので、私が席につくまで
入れたのは秘書官のみだった。座るのは皇太子のそれと同様床の上ではあったが、彼から
四歩くらいの近距離で、左側だった。すぐに帽子を被るようにと私に命じた。

皇太子は笑いながら通訳に向かって、私に会えてどれだけ嬉しいか、私を知ることは彼の心痛となる。
何故なら私が自分の難破で悲しんでいるに違いないと思うからだ。私のような高位の人間は、
自分の咎が原因ではない不幸な出来事で悲しむべきではない、と言って、私を励まし、この国で
私に為されることはことごとく恩恵である、とも言った。

私は謝意を表しそして出来る限りを尽くして答えた。航海やナオ(スペインの外洋船)に関する質問をして
半時ばかり私を引き止めた。最後に私は彼の父である皇帝(徳川家康)の所へいつか伺候する許可を求めた。
翌日は無理だったが、4日後に出発する許可を与えた。というのも、まず父親に知らせ、道中、宿泊と、
私という人間にふさわしい歓待を命じておきたかったからだといった。

以上を持って私は暇乞し、宿舎へと帰ったが、もう遅い時間であった。』
(1609年 ドン・ロドリゴ・デ・ビエロ旅行報告書)

1609年の江戸城と徳川秀忠に関する記録である。
0777人間七七四年2012/12/14(金) 08:08:43.87ID:wDwyjJQi
>>775
>そこには床も天井も見えない。何故なら床には薄敷きのようなものである「タタミ」と呼ぶものを敷いている。
>もっとも薄敷きよりもっと美しく、金色の布、凝った繻子、 金の花模様のビロードの縁で飾られている。
>形態は方形で、組み合わせてもきちんと収まり、とても精巧である。

畳の説明が新鮮だw
0778人間七七四年2012/12/14(金) 08:29:58.95ID:CkYXP0aP
>>771
新興宗教って・・・、浄土真宗は鎌倉仏教ですがな。
三河一向一揆の寺の開基も鎌倉時代だし。
0779人間七七四年2012/12/14(金) 14:55:53.82ID:4jQEhxxK
うん、新興宗教だな
0780人間七七四年2012/12/14(金) 17:04:12.73ID:qw3BQS3p
>>776
こういう外国人の目線からの説明って独特で面白い
あとマスケット銃と火縄銃って違うものなんだな  同じだと思ってた
0781人間七七四年2012/12/14(金) 17:25:54.69ID:2nZvKz8E
二十六日、徳川家康が徳川秀忠を茶室に迎えて茶をすすめる。
日野亜相、京極忠高がこれに相伴した。

やがて本城に移り秀忠が本日の謝詞を述べる。この時家康は秘蔵の楢柴、
投頭巾扇付という名器を取り出し「好きな物を取られよ」と言い、秀忠は
投頭巾を請いうけて西城へ帰った。

その後、近臣らが「今日、御所は殊に御悦びでした」と家康に申し上げると、
家康は「汝等も将軍投頭巾の茶宴に巡り会うだろう」と、顔じゅうに笑みを
浮かべたという。父子の睦まじいことは、見聞きする群臣を感嘆させた。

――『徳川実紀(駿府政事録、創業記)』
0782人間七七四年2012/12/14(金) 18:02:21.54ID:2nZvKz8E
>>781
すいません、ちょっと訂正します。
×父子の睦まじいことは、見聞きする群臣を感嘆させた。
○父子の睦まじい姿に見聞きする群臣は涙を流して感激した。
0783人間七七四年2012/12/14(金) 19:11:16.06ID:YmFPR2w8
>>775
当時は薙刀なんて実戦用の武器としては廃れていたと思ってたんだけど、
まだまだ使われていたのかな?
0784人間七七四年2012/12/14(金) 20:23:20.10ID:CZ8OZ3WJ
本当の意味で廃れてたら現代まで伝わってないよね
0785人間七七四年2012/12/14(金) 20:44:32.36ID:lfOcY0i3
大東亜戦争のときは大真面目で婦女子が、自動小銃もった完全装備の鬼畜米兵と戦うつもりだったんだぞ、薙刀で。
0786人間七七四年2012/12/14(金) 20:46:02.01ID:TRymkyTw
>>785
そういえば二次大戦ではイギリスも、ドイツ軍の上陸に備えて竹槍訓練していたそうな
0787人間七七四年2012/12/14(金) 20:49:28.59ID:E80ktpGd
本土上空の空中戦で墜落してパラシュート降下したパイロット対策じゃなかったけ
0788人間七七四年2012/12/14(金) 22:39:49.93ID:rhWyyrFa
>>780
マスケットって小銃の総称だから、本来の意味では火縄銃をマッチロック式マスケットと呼ぶべき。
だから、ここで分けてる意味が全くわからん。
スペイン人の認識として、マッチロックとマスケットを分ける何かの境目があったんだろうか。
0789人間七七四年2012/12/15(土) 01:39:20.07ID:5v0Wtm+x
単純に原文はアルケブスとマスケットで、訳す時にアルケブスに火縄銃を当てただけだろ
0790人間七七四年2012/12/15(土) 03:09:59.86ID:mRNRElBD
ホームガードパイクか…
鉄パイプの先に銃剣付けただけでショボい薙刀みたいな代物だな
0791人間七七四年2012/12/15(土) 06:49:14.14ID:JdZhUVQv
>>789
サイズがちがってたのかもしれんね
0792人間七七四年2012/12/15(土) 11:20:30.87ID:5v0Wtm+x
それも単純に考えるなら
鉄砲足軽の持つ2匁半筒=アルケブス(小型火縄銃)
徒歩や侍の持つ6匁目から10匁目の侍筒=マスケット
こんな感じだろう
0793人間七七四年2012/12/15(土) 14:06:26.57ID:vPqhXWbg
当時の(今も)日本人からすれば火縄を使うマッチロック式銃は全部火縄銃なのだろうけど
向こうの人からすれば同じ機構でも用途やサイズが違えば違う種類の銃って事なのかな
0794人間七七四年2012/12/15(土) 14:11:37.97ID:6jUoysWB
>>793
日本でもサイズや用途によって呼び方がいろいろある訳だが
0795人間七七四年2012/12/15(土) 16:06:56.21ID:6Fjeq5I5
>>794
でも、日本式の類別だと、火縄銃が全体を表す言葉で、そこから細分化して鳥銃だの大鉄砲だのになるわけだろ?
訳文が悪いだけ、って気もするけどなー
0796人間七七四年2012/12/15(土) 16:45:57.09ID:v3v4gbAu
だね。
日本で量産できるようになった時点で
日本の気候や戦略にあったものに変化するわけだけど、
その一つ一つをちゃんと理解した南蛮人もそうは多くなかろう。
その一方で、銃の歴史そのものは南蛮人の方が長いので
彼らは彼らで多数の語を銃のタイプに当てはめていたわけで
まあ、ちかい語をあてる方が楽ちんw
それに本国の報告書に長々とした説明はできん、
というわけで多少誤解はあるかもしれないけど
もうこれでいいや、となったのではないだろうか?
0797人間七七四年2012/12/15(土) 16:57:37.97ID:pi7O1z6D
投頭巾扇付
画像がひとっつも出てこない。どんなんだろか。
0798人間七七四年2012/12/15(土) 18:44:56.64ID:XHek4QUf
徳川家康曰く「酒は元気を引き立てるものだが、ぶらぶらと出歩いている
折などに飲みすぎると、必ず喧嘩を始めるものだから慎まなくてはならない。

軍陣や鷹野の時には下戸も一盃飲めば勇気が出てきてひとしお精の入る
ものだ。しかし、小盃で長々と飲むのは何か祝言の席のようで弱弱しい。
上戸が茶碗などで、すぱすぱと一息に飲む姿こそ見ていて心地がよい」

――『徳川実紀』
0799人間七七四年2012/12/15(土) 18:50:59.22ID:MLXmjZsX
今川屋敷での立ち小便、孕石との確執などなど、
ギザギザハートの暴れん坊だった権現様だけに説得力がある
0800人間七七四年2012/12/15(土) 18:52:23.44ID:O0pXVcS+
福島正則「酒に飲まれて人に迷惑かけるバカは本当に死ねばいいのに」
0801人間七七四年2012/12/15(土) 19:11:11.21ID:mRNRElBD
母里友信「いえいえ迷惑だなんてとんでもない」
0802人間七七四年2012/12/15(土) 19:17:15.72ID:6eAZaUB+
諏訪部定勝「敵に攻撃されてる時に二日酔いで寝てるとか、そういう失態をしなければ問題なかろう」
0803人間七七四年2012/12/15(土) 23:09:34.07ID:9Yazz07t
>>800
塙直之「ですよねー」
0804人間七七四年2012/12/16(日) 00:17:25.44ID:7GLXPvya
>>798
どことなく随筆っぽい
0805人間七七四年2012/12/16(日) 11:52:44.29ID:WnokO+Fz
??「注意しなきゃいけないのは酒だね。僕の墓に墓参りする奴は酒嫌いになるなからよろしく」
0806人間七七四年2012/12/16(日) 17:33:52.74ID:Ayo6ozKd
結城氏法度に「酒飲みすぎて垣根に吐くな」って記述があるけど当時はどのぐらい飲んだのかな
0807人間七七四年2012/12/17(月) 11:06:54.34ID:bP7jvpZP
徳川家康がある時、農工商について、この様に言った

『百姓の苦しみは、一粒百行といい、その前年の秋より、種を取り、様々な準備をし、春にいたって
その種をおろし、夏に至ってこれを植え付け、耕耘の功果てて後、秋に至ってこれを刈り、扱き、搗いて、
ようやく米となるのである。
その米によって我々上に立つものは養われている。百姓の千労万苦、血の涙を流すほどのものである。

聖徳太子のお言葉に、この様なものがあるそうだ。
民の苦しみ流す汗は、みな血の涙である、と。
これ故に君子は、一飯を食する間にも、民百姓の艱苦を思うのだという。
だからこそ、地頭・代官たる者が、民を虐げ富を貪るというのは、天の憎しみ深い物なのだ。

次に職人は、諸々の大工・小工、家を造り人をして、雨露、霜雪を凌がせ、
船を造り橋をかけ、海川を渡して人の助けをなす。
武器に至っては、職人によって作られる物品は非常に多い。
これらは皆、工人の業功であり、それによって我々が得られる利益は莫大である。

また商人の功とは、ここに何か物品がない時、別の場所より買い取り、
別の場所に無い物品はこの方で買って、金銀・銅鉄・瓦石・諸物・衣服・飲食等、すべてのものが揃わないということが
無いようにし、我々に居ながらにしてそれらの物品を購入し使用する自由を与えてくれる。
これこそ商人の力である。

故に、我々武士は、農・工・商の3つのものを、最も慈しむべきなのである。』
(武野燭談)
0808人間七七四年2012/12/17(月) 14:34:17.73ID:X8BtFzeD
生かさず殺さず懇ろに慈しむべし
0809人間七七四年2012/12/17(月) 14:50:41.40ID:mTxjSZHZ
ぷ、ぷりいず きるみい そふとりい
0810人間七七四年2012/12/17(月) 16:56:08.18ID:+P7aYMBB
だって戦国時代の百姓って怖いからあんまり力をつけさせてもアレだし…
0811人間七七四年2012/12/17(月) 17:51:05.41ID:GLdB4Yh1
僧ですよねぇ…
0812人間七七四年2012/12/18(火) 21:31:28.72ID:JaAwW5wF
山本常朝さん、自分語りするの巻

「私は親父が七十歳のときに生まれた赤ん坊だった。
体も弱く病気がちだったから塩を扱う商人に養子として送られるところを、
多久図書殿が色々と口を利かせてくれて、
九歳のとき、光茂公の走り使いの役に使ってもらえるようになった。
光茂公は私に、不携という名前を付けてくださった。
されど、私は城では光茂公や綱茂公の個室にある、
コタツの上でハシャギ、悪戯遊びをするのがなにより楽しかったから、
その時期は光茂公、綱茂公は私をどうしようもない悪戯者だと思っていたとのことだ。
その後、十三歳のとき、元服するよう光茂公から仰せがあったので、
それから一年間自宅に引きこもって準備と覚悟をして、
翌年の五月に城へと出仕して御小姓役を勤めた。
そして時の進むうち、倉永利兵衛になにかと目を掛けてもらうようになり、
利兵衛から上役のほうに、
「あの者は和歌もたしなむので、
光茂様からも直々にお召しがあるほどです。」
と申し上げてくれたのだが、
かえってそれが上役の不評を買い、私は干されることとなった。
利兵衛が私を推薦するつもりであったことは勿論わかっている。
この件以降、江戸へのお供もしないで、
何もすることなく、ぶらぶら遊んでいたのだが、
いろいろと不安な気持ちも出てきたので、
父と親しくしていた、湛念和尚のところへ行きよく話すようになった。
そんななか、いっそのこと若いながら僧侶になろうかとも思っていた。
そんな私の様子を見ていた親戚の山本五郎左衛門が、
父が加増された知行地を私に分けてなんとか武士の道に戻らせようと、
中野一門皆で秘かに相談していたと聞いた。
それを知った私は、それは神仏に誓っても受け取らないと覚悟していたところ、
請役所へ呼び出されて鍋島本家から直々に扶持米を頂くこととなった。
本家から扶持を認められた以上は、
他人から見下されるような武士では無念である。
どうすれば武士としての気持ちよい奉公が出来るだろうかと、
日夜考えていたのがこの時期である。
そんなときに、ある歴戦の老武者から、
「名誉と利益を追うような者はサムライではない。
しかし、名誉と利益を追わない者もサムライではないのだ。
この道理を真剣に考えて行動しろ」
と教えられ、それを考え抜いて納得することが出来た【続く】
0813人間七七四年2012/12/18(火) 21:54:52.45ID:JaAwW5wF
すなわち、奉公の場での最高の忠義は、
主君にすらも諫言して自分の国になんらかの貢献をすることである。
下の方でグズグズしているだけでは役に立たない。
奉公すると決めたなら、ともかく主君に諫言を受け入れてもらえるように、
己をそのような位置にまで持ってゆくべきである。
まあ、それでもあまり早い出世は昔から波風立って好ましくないから、
五十歳から出世するよう、そのための工夫、修行に全力を注いだ。
血の涙とは言わないが、目から小便が出るくらいの苦労は我ながらしたつもりだ。
この時期の工夫が、私がよく話す、角蔵流の泥臭い努力だったと思う。
そんな時期に、殿が亡くなり、
以前からいた上役たちは臆病風を吹かしてしまい、
世間の評判を落とされたので、
そういう成り行きのなか、私も隠棲者となってしまった。
形の上では本意を遂げることは出来なかったが、
武士の心意気は最後まで失わなかったと自分では思っている。
人間が本気で決心すれば、望みは形は変われど叶うということだろう。
逆に奉公する者が罰を受けるのは、
自慢と奢りからくる天罰だと思えばよかろう。
こんな身の上話をする私を、誠に高慢者のように思うだろうが、
つかみきれないこの世の中で、
不思議な因縁にひかれ、私の山家を若武者たちが訪ねてきてくれるので、
なんの遠慮もなく、あるがままを話したのである【葉隠】
0814人間七七四年2012/12/19(水) 01:36:30.28ID:8ELvZjMC
目から小便・・・
0815人間七七四年2012/12/19(水) 04:37:26.00ID:F6PdzPoT
形を変えれば望みが叶うというより叶う形に望みを変えるんだろうな
それが本気の決心なんだろう
0816人間七七四年2012/12/19(水) 05:41:15.93ID:lmqUdhCU
『…江戸の町には(1611年)12月30日に到着した。
全員無事で、神と陛下によく奉仕でき、かの(北関東から東北の)海岸線に至る全ての領主と
その家臣らを友にし、我々のキリスト教の信仰に惹かれるようにしてきた。
多くの、しかも大変良い港を、それも大変良い場所に、さらには(伊達)政宗のような
大領主の領地に発見した。

政宗は、領内に来たイスパニア船は常に良好な待遇と補給を受けうることになるので、必ず
その領地に向かうことになるだろうと言った。また自分の家臣がキリスト教徒になるように望む、
とも言った。

江戸に到着すると直ぐ、司令官は皇太子(徳川秀忠)の顧問官らに使いを送り、帰還を知らせると共に、
補給を受けたいものがあるので浦賀港に向かい、その後直ちに御手に接吻するため目通りをし、
発見したものの図をご覧に入れるため立ち戻りたいとの許可を求めた。

その許可を得。(江戸藩邸の)件の政宗にも同様の使いを送った。彼は
「自分に会わぬまま先に行かないでほしい。月曜日に昼食を共に出来るよう自分の屋敷で待っている。
司令官に会わない1時間は1年にも思える」といってきた。

午後3時に我々が彼の屋敷に行くと、彼は司令官と、パードレ・フライ・ルイス・ソテロに
親愛の情あふれる接待をし、神父に見せる尊敬と敬意は言葉では言えないほどだった。
食べ物を手ずから運び、酌まで取り、司令官にも同様にした。

「自分たちは友で、永久にそう望み、武器に誓ってかくありたい。故にカタナを授与するので
自分には懐剣を」と述べ、その様にし、大変恭しく懐剣を受け取った。

十字架に接吻して剣を頭上に押し頂き、彼の流儀で他の儀式も行った。それは中々見物で、
イスパニア人にこれほど殿が好意を示すのを見て、家臣らはたいへん驚いていた。

政宗は極端なまでのことをし、普通なら彼の前には罷り出られないような身分の家臣まで饗応に
呼ばせた。そしてこの者に
「汝は我が家臣である。土下座せずには我が前には出られない輩であることは汝自身がよく知っている。
だが汝はキリシタンで、司令官の友である故に、今日我が食卓に共に着くが良い。殿の三つの印をつけよ」
と言った。これには他の者は驚愕してしまった。

キリシタンの家臣らはパードレの修道服に接吻し、我々の信仰のことを知るために修道院に参じたいと
言った。食事と会話の際に、我々のキリスト教について話が行われた。

彼(政宗)はキリストの漁する網の近くに居た!神よ、その智を照らし給え!この者が受洗した暁には、
キリスト者の保護者と成り殆どの者が改宗する源となるだろう。何故なら、この国のキリスト教は
大根から葉が生じていくように、今日まで逆さまな形で始まってきたからである。

キリスト教に入信したものは貧しい役人や漁夫、平民で、貧しい修道者に保護や支援を与えるどころか、
逆に自分たちが援助されることを望み、献金はわずか。
その上彼らの先祖はキリスト教徒ではないため、先祖のためにミサを挙げて貰う必要もなく、
ミサの依頼も全く無く、宣教師らは自活の手段を持たなかった。

祈りの刻に我々は自分の宿舎に戻ったが、この領主の良き素質を見て大変幸せだった。
(セバスチャン・ビスカイノ旅行航海報告書)

スペイン人使節と伊達政宗との会食、およびキリシタンの事情についての記録である。
0817人間七七四年2012/12/19(水) 19:17:02.57ID:7I0rTZeL
侵蝕していく宗教団体みたいな感じだな。
0818人間七七四年2012/12/19(水) 19:37:11.91ID:rIv0vERY
この時代にイスラムが布教しにきてたら飛び付いた武将いただろうな
イスラム教原理主義派を背景にした戦士は強いしさ
一向衆も強いけどよくよく教え読むと逃げても救われる教えだからな
0819人間七七四年2012/12/19(水) 20:24:50.05ID:2NOO+mdG
ムスリムなんぞよりイエズス会やプロテスタントの方が余程狂信的だと思うぞ
0820人間七七四年2012/12/19(水) 22:21:23.86ID:lmqUdhCU
毛利元就は天文三年(1534)、同じ安芸国内で対立していた宍戸元源と和睦すると、
翌天文四年正月18日、元就は和睦の御礼として、供廻り50人足らずで、宍戸氏の居城・甲立へと訪問した。
吉田と甲立の間は一里ばかり離れていたので、先ず御遣いのものが遣わされ、それに対応するため
宍戸家からも人数が甲立城下川端まで、御案内のために出された。
彼らは毛利家の使者が口上で、元就の御出参の事を申し上げると、それに相当の返答をし、
元就は直接に城に入った。

城では元源親子が揃って元就を待っており、一礼がすむと、種々様々な御馳走は浅からぬものであった。
食事が済むと、元就は城を立とうと思ったが、だんだんと元源と話をしている内に、

「この様に心安く対話ができるとは、一世ならぬ奇縁だと思います。今夜はこちらに留まらせて頂き、
終夜あなたの物語を聞きたく思います。」

と話すと、元源は大変機嫌を良くし、夜陰になっても様々に馳走して、その後寝所を同じくして
元就・元源は枕を並べて、終夜雑談をしようということになった。
そのはじめに、元就が言うには

「あたなのご嫡子、雅楽頭殿には、未だにご縁組も、結婚の約束をしたものも無いと聞いております。
そうであるなら、私の娘に、年齢も相応なものが居ります。これを宍戸家に差し上げたいと思っているのですが、
これを奥方とご相談為されて、ご了承頂けるのなら、私も本懐に思います。」

宍戸元源はこれを聞いて「さて!御年相応なご息女がいらっしゃるか!これは幸いなことです!」
と、早速奥方のところに行って報告し相談をし、その上で奥に元就を呼び込んで、
親同士相対した上でこの縁談を結んだ。
双方祝詞を仰せられ、喜び限りなかった。

その後、元就は語表にて朝食を召し上がり、心静かにお話などされ、そうして吉田へと帰った。
(吉田物語〉

毛利元就と宍戸元源、姻戚関係を結ぶ、という逸話である。

しかしこの手の逸話で、婚姻の許可を得るため、旦那や相手方の父親まで奥さんと相談する、という
話は始めて見た。中国地方はやっぱり女性の権威も強かったのでしょうかね?
0821人間七七四年2012/12/20(木) 00:08:05.36ID:yEemqBjP
それでやってきたのが五龍さんだからなー。

…悪い話?
0822人間七七四年2012/12/20(木) 00:46:24.68ID:v4xPLGH0
>>820
いや元就自体がこういう儀礼を重んじるタイプ
ぶっちゃけ根回しの達人
0823人間七七四年2012/12/20(木) 01:13:25.36ID:9OF+tPRb
>>818
16〜7cのイスラム系帝国で強兵ってイエニチェリやシク教徒傭兵みたいな
他の宗教の信者を使ったものが多いんだが。
0824人間七七四年2012/12/20(木) 03:45:45.49ID:P+Mx/twC
元就のコミュ力ぱねえな
0825人間七七四年2012/12/20(木) 08:39:21.11ID:mpeSImtt
TERUも、もうちょっとコミュ力があれば・・・
0826人間七七四年2012/12/20(木) 08:52:25.32ID:XPWTn5dp
>>825
TERUもちゃんとやってるんだがなぁ
0827人間七七四年2012/12/20(木) 10:04:42.98ID:puc7QdPA
TERUさんはちゃんと礼儀ができてて褒められるレベル
元就さんは礼儀ができてるのが当り前のレベル
0828人間七七四年2012/12/20(木) 10:43:21.87ID:t2vv/StO
これ確か天文3年に和睦したとき、元就は単身で宍戸のところに和睦交渉しに行ってるんだよな。

秀吉が家康を落とした手口とそっくり。
0829人間七七四年2012/12/20(木) 20:38:11.95ID:RoeqA+hv
1日で婚姻を承諾させるとこまで行けるコミュ力・・・・・・
0830人間七七四年2012/12/20(木) 23:55:28.55ID:C4w1xGjF
可児吉長の家臣に竹内久右衛門という者がいた。覚の士であり、吉長は
いつでも知行の半分を分かち与えていた。

長久手の役で羽柴秀次が敗軍したところ、秀吉は怒って吉長を咎めた。
このために吉長は日蔭者になっていたのだが、福島正則が七百石で召抱えた。

そこで吉長はすぐに三百五十石を分けて久右衛門に与えた。

――『名将言行録』
0831人間七七四年2012/12/20(木) 23:58:09.95ID:M59km+lB
元就の兄の代では宍戸とは仲悪くて戦争ばっかしてたのに
しかも宍戸の五龍城が堅城すぎて毛利側は負けまくり
0832人間七七四年2012/12/21(金) 10:50:29.26ID:191HpPKJ
>>830
なんかズレてる
0833人間七七四年2012/12/21(金) 10:57:55.58ID:jBjRZkrw
>>830
なんかアンパンマン思い出した
0834人間七七四年2012/12/21(金) 11:08:05.07ID:5JGushqd
三成に 過ぎたるものの…
0835人間七七四年2012/12/21(金) 11:08:05.28ID:1dAM2XsE
三成・左近の縮小版だな。
0836人間七七四年2012/12/21(金) 13:23:23.79ID:3v211z+y
>>833
可児パンマンの誕生だw
0837人間七七四年2012/12/21(金) 14:37:12.70ID:KpklqrfU
男は侍、武士は食えねど高楊枝なり
牛島新五郎の妻は権藤七兵衛の妹であった。
その七兵衛が、江戸で遊廓通いをしていることが表沙汰となり、
上役たちの相談の結果処分を課されることとなった。
戦の世が終わり、風俗がだらしなくなってきた時期でもあり、
周囲の者たちへの見せしめのためを思い、
七兵衛の所属する一門から縁戚のはしばしまで厳しく咎めることとなった。
そういうわけで新五郎もすぐに国に呼び戻され蟄居となった。
新五郎のまわりの者たちは、
「新五郎殿は上役からの覚えもよいのだから、
すぐに七兵衛殿の妹と離縁するべきだ。
さすれば、新五郎殿までお咎めを受けないですむ。
たった四石の扶持で蟄居ではいずれ暮してゆけなくなりますぞ。」
とたびたび意見を述べにきたのだが、新五郎は、
「男女の情にひかれて離縁を拒んでいるのではない。
自分の身が立つからと理屈をつけて、
罪もない妻を去らせるのは義にはずれたことだろう。
飢え死にする覚悟を決めたので、
もはや私におかまいくださるな。」
と言い、ついに首を縦にふらなかった。
新五郎は三年の後、復帰を認められた 【葉隠】
08388372012/12/21(金) 17:55:06.25ID:KpklqrfU
処罰は「課す」ではなく「科す」の字だな
漢字間違い訂正
0839人間七七四年2012/12/21(金) 21:59:25.08ID:85L79Sj0
河田伯耆守泰親はもとは上杉謙信に属した武功の者であるが後に後北条氏に従い、
上野国利根郡に三千貫の地を領した。

後北条氏の滅亡後、徳川家康が戦死した者の首帳を見ると泰親の名前がなかった。
そこで家康は「きっと当地にいるはずだ」と井伊直政に命じて探させた。

その後、直政の調査によって泰親は先の松井田城の戦いで深手を負って既に
死に際の状態であることがわかった。直政の報告を受けて家康は「かねてより
泰親は忠実の者と聞いている。ぜひとも死ぬ前に目にしておきたい。
籃輿に乗せて連れて来るのだ」と命じた。

さて泰親が板扉に乗せられて御前に現れると家康は側近くに寄り、非常に
沈痛な面持ちで「この傷が治った時には不動山の城主とし、譜代の大名に準じよう。
それまで心のままに養生せよ」と言葉をかけた。また当分の費用として月俸百口を
下したものの、泰親は亡くなった。

そこで家康は泰親の子で当時六歳の助兵衛政親を直政に養わせ、成長した後に
父の跡を継がせたのだという。

――『徳川実紀(諸家譜)』
0840人間七七四年2012/12/21(金) 22:27:39.82ID:mg3ksSrF
良い話なんだけど、深手負って死にそうな人動かしていいのかなぁ・・・。
0841人間七七四年2012/12/21(金) 22:48:42.84ID:rc3mURLw
黒くなる前のラスボスさんなら自ら出向いたんだろうな〜
0842人間七七四年2012/12/22(土) 03:13:35.20ID:4z3z3BNG
>>837
牛島っていうと、死ぬことと見つけたりで猿連れてた杢之助の友人のモデルなのかな
0843人間七七四年2012/12/22(土) 03:16:31.31ID:/5ZuVw+s
大将が敵将の見舞いに行っちゃダメでしょ
0844人間七七四年2012/12/22(土) 09:31:45.29ID:hhYByaof
>>841
「五郎左がむかついたので、死んだ後に難癖付けて息子の石高を大幅に減らしました」
0845人間七七四年2012/12/22(土) 09:33:52.31ID:1bAaG98a
>>841
黒くなる前というか、木下藤吉郎の頃だろうな。竹中半兵衛への三顧の礼の逸話的にw
0846人間七七四年2012/12/22(土) 10:19:08.24ID:i3tuzY2E
助兵衛さんw
0847人間七七四年2012/12/22(土) 11:51:53.05ID:kntVdV6w
すけのひょうえさんを笑う理由は無いだろう
0848人間七七四年2012/12/22(土) 12:18:17.88ID:yefrraZv
硬骨漢の花房さんもスケベにされるのか
0849人間七七四年2012/12/22(土) 23:22:53.40ID:+5dY7iLn
>>842
すまん、それ読んだことない。
読んだことのある葉隠題材のもので面白かったのは、
滝口康彦の「権平けんかのこと」
読後の爽快感が最高なのでオススメ!
マンガの「シグルイ」はネカフェで10巻くらいまで読んだけど、
あれには爽快感なかったw
0850人間七七四年2012/12/22(土) 23:23:58.75ID:1bAaG98a
ここに古老の物語あり。左をこれに記す。

ある時吉川元春様より、宍戸隆家へ年松彌六と申す者が御使として差し越された。
彼は甲立(五龍城)に登城し、元春からの口上を申し上げようとすると、その日は丁度
元就公の御忌日であり、宍戸隆家は書院の床に御位牌をかけられ、その御位牌の前に
座っておられた所に使者がやってきたため、そこで隆家はこの彌六を側に召し、直に
その口上を聞かれた上で、この様に言った

「今日は元就公の御忌日であるので、出家などを招いて焼香をするのだよ。
これについては、家来たちには焼香を免していないのだが、そなたは元春殿の名代として
こちらに来ているので、尊霊に御焼香されるように。」

彌六は恐縮し辞退したが、再三に仰せ付けられたため、お次の間に立って別の香炉に火を入れ
持参し、書院に戻ってこれに焼香した。

この時隆家が彌六に語ったことには

「その方などは歳若いので、元就公のご生前の、常の行状なども知らないであろう。

元就公は、先ず常には物静かで、落ち着かないような気色など少しも見えない人であった。
どれだけ諸方から急難が報告され、大敵が攻め寄せてきたという時でも、いつもと変わった
御気色もなく、却って、春は花、秋は紅葉と、その季節の風景によって連歌の会を開いたり、
歌などを詠まれる事も多かった。

私は最初、軽業などは苦手だと思っていたのだが、馬を乗り弓を射、太刀を遣い走り来る、
こういった飛び技まで優れた人であった。

そうであったから、家中に侍たちは言うに及ばず、新たに幕下に加わり初めて対面するものまで、
この人こそ主君であると頼んだのだ。

元就公は一言の約束が、たとえ年月を経ても、違えること有るまじと、好意を表すように
律儀第一にされ、夫々の者たちに対して礼儀深く、慮外な振る舞い、奢った行跡など露程もなかった。
土民に至るまで、無理非分の事が少しもなかったので、人々はことごとく公を慕い、
『どんな役儀であっても申し付けて下さい!元就様のために御奉公をしたいのです!』
と思い立っていた程の仕置を為されていた。

また、非常に細かく心遣いを為されていた方であった。
公は、夜ぐっすりと眠られるということはなかった。硯・料紙・灯を枕元に置かれ、
諸所や国境に置かれた侍たちに、その時その時に適した指示書の案文、その他要件の事など
思いつき次第に書き置かれ、翌朝家老たちが出仕すると、書付を元にいろいろな指示を
申し付けられたのだ。」
(吉田物語)

宍戸隆家の語る、毛利元就の姿である。
0851人間七七四年2012/12/23(日) 00:20:00.20ID:tsA5WNC2
完璧超人たる隆景の父親も完璧超人だったでござる。

隆元やTERUが自虐気味になるのも仕方がない。
0852人間七七四年2012/12/23(日) 00:30:53.46ID:E8N7OZZb
隆元ももう少し自身持てよと言いたいくらい大概完璧超人だと思う
信用とか内政手腕は元就を凌いでいるじゃないか
0853人間七七四年2012/12/23(日) 01:18:18.62ID:yU+K4tyY
元就すげー。よく70まで長生きできたなぁ
0854人間七七四年2012/12/23(日) 03:36:30.71ID:mWfnJU9O
「萩藩閥閲録」によると
毛利輝元は秀吉死後の混乱に備え、
大阪の毛利屋敷に2万の兵と鉄砲700を備えさせていたという


最終的にはこの毛利勢2万を利用する形で西軍が形成されるんだけど、
この辺りの周到さはTERUも乱世の人だなぁって思うわ
0855人間七七四年2012/12/23(日) 03:51:06.29ID:Aj3PgZs/
2万人収容できる毛利屋敷広いな
0856人間七七四年2012/12/23(日) 08:53:20.13ID:qZHo839D
>>854
それのネタって、いつもホラ吹き全開な内藤周竹さんあたりじゃなかったっけ?

三成襲撃事件などでも、広家が自領から兵を率いて急行してたりするから、
上方に極端な大兵力は置いてないんだけどね。
0857人間七七四年2012/12/23(日) 12:06:50.54ID:mWfnJU9O
>>845
たしかに内藤小源太のやつだねー

三成の件の後に常駐させていた(数にフカシはあっても)可能性もあるし
個人的にはそういった戦力がないと西軍を結集するときに
諸大名を糾合するのに必要な物量がなかったんじゃあ…と考えてるんだけど、どうなんだろ
0858人間七七四年2012/12/23(日) 12:14:02.54ID:qZHo839D
>>857
一応、三成事件の前も伏見に1500程度はおいてたから
あわせて三千程度ならあるかもしれんが、それ以上の数は
毛利氏の動員力的に無理だと思う。

文禄、慶長の役でさえ、軍役を満たせてなかったし。
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