戦国ちょっといい話35
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0001人間七七四年
2012/10/18(木) 19:08:22.07ID:/qlGMV2o戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0650人間七七四年
2012/12/02(日) 11:39:20.94ID:IrSTqUOT0651人間七七四年
2012/12/02(日) 12:14:18.39ID:nA/QW6Fi0653人間七七四年
2012/12/02(日) 13:14:33.31ID:aE/h0DSu安藤対馬なる武士は、刃渡り三尺一寸を馬上で引き抜き、騎馬三駒、
徒歩武者六人を一瞬で切り伏せたものだ
三尺一寸って94cmだよね。絶対に一瞬で切り伏せられないよね
某漫画のように斬撃の使い手か刀がビームサーベルだったか...
0657人間七七四年
2012/12/02(日) 14:27:08.34ID:HjRvNDpE余程の精鋭部隊でないと務まりません
0658人間七七四年
2012/12/02(日) 15:41:22.50ID:SgTb1Jl2「人は三十歳までに名を起こせなければ立身できない。つくづくと
世の中の有様を見てみると、連歌師は易い道のようだ。職人も町人も
貴人の御座に連なるくらいだからな。もしそれが無理なら百万遍の長老より
推挙状をもらって関東へ下り、大岩寺で談義を説いて世を渡ろう」
と思い立って上洛し、里村昌休をたのんで連歌を稽古した。
しかし度々退屈しては袋をかたげて「関東へ下る」と言い出したが、
小川の連歌師たちに押し止められた。その内にしばしば人に知られ、
称名院殿(三条西公条)に源氏物語を聞き、三好殿(長慶)の仰せによって
宗養と両吟を仕った。辛労の功がつもり、冥加が有ったのであろうか。
やがて宗養が亡くなって紹巴は天下の上手と呼ばれるようになった。
――『日本史伝文選(戴恩記)』
0659人間七七四年
2012/12/02(日) 20:31:54.11ID:ULkjyKm70660人間七七四年
2012/12/03(月) 21:09:09.62ID:jz2XSlVk鯉を捕り、それを江戸に送って商売をしていた。
ある時、老中の知恵伊豆こと松平信綱に、箕和田の、鯉を獲っている者たちとは別の町人の一団が、
六百両の運上金を差し出しますので自分たちに鯉を捕る権利を与えてほしい、と申し出た。
幕府にとって今までよりも運上金が二百両多く収まることになるので、その一団の者たちは、必ず許可に
なるものと考えていた。ところが信綱は
「よく考えてみよ。今まで四百量だった運上金を、わざわざ二百両増やして六百両にしてくれという者があるか。
それは、今までよりも鯉の値段を二百両上げてくれ、というのと同じ事だ。
その二百両は結局、江戸の武家や町人に売る鯉の値段を吊り上げることによって生み出そうとするであろう。
それは江戸の住人に難儀を与えることになる。
逆に、今までの運上金四百領を、二百両にしてくれと申し出たのなら、許すことにしたであろうに。
幕府が二百両の運上金を多くもらったからといって、その分、江戸の住人が高値に苦しまなければならないというのでは
不義が生まれ、訴訟が増えるばかりである。」
そう言って、前々から四百両の運上金を収めている町人たちに、鯉を捕る権利をそのまま与えたという。
(名将言行録)
0661人間七七四年
2012/12/03(月) 21:30:54.39ID:zk6K1qku0662人間七七四年
2012/12/03(月) 22:00:39.98ID:HKzcnOmV0663人間七七四年
2012/12/03(月) 23:11:01.18ID:32kcS1Ik「足軽は、どうしても侍より早く崩れたがるものだ。そこで譜代の者どもの子を取り立て、
銘々に召し使い、一飯も食べさせ、他へ出仕しないよう育み召し置いておくことが肝要だ。
いざ人数が必要な時には、彼らに槍一本持たせて戦場に召し連れれば、彼らは知行など
なくとも恥を知る者なので足軽共の代わりになり、備えが崩れることがない」
(浅川聞書より)
0664人間七七四年
2012/12/03(月) 23:40:27.87ID:gXfRvWke0666人間七七四年
2012/12/04(火) 00:47:44.59ID:BNaq4MbTただし娘婿は殺す
0667人間七七四年
2012/12/04(火) 02:56:30.83ID:MF0bttPT0668人間七七四年
2012/12/04(火) 10:00:55.51ID:C3/54/2s0669人間七七四年
2012/12/04(火) 10:15:40.37ID:BNaq4MbT0670人間七七四年
2012/12/04(火) 21:00:00.45ID:4NbwRqVW前にも出ていたが、立花宗茂が興行見物に出かけた際に起こった喧嘩を
落ちついた態度で眺めるなど大器の片鱗を見せていたのが8際の頃。
9歳のある日、立花道雪の所に遊びに行くと食膳が出された。
その膳に鮎がのせてあり、宗茂(当時は千熊丸だが)は骨を取りつつ
鮎をおいしく食べていると何か目線を感じる。
ふっと正面の道雪を見ると
(# ゚Д゚)コラ
Σ(゚д゚lll)
(# ゚Д゚)武士なら骨ごと頭から食わんかぁ!
(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
涙をこらえつつ少年宗茂は鮎を飲み込んだそうな。
雷様直々のお叱り、そりゃ怖いよな。
宗茂らしからぬ、個人的にはちょっといい話。
0671人間七七四年
2012/12/04(火) 21:09:31.33ID:VFuXTFJ0俺なら、「雷を切ろうとして半身不随になった馬鹿が」としか思わん。
0672人間七七四年
2012/12/04(火) 21:18:01.51ID:yYYl/Xuv北九州市ってそのへんに手榴弾が転がってて、
何の変哲もない倉庫から対戦車ロケット弾が見つかるんだよね?
>>670
>涙をこらえつつ少年宗茂は鮎を飲み込んだそうな。
道雪も噛むなとまでは言ってないと思うがw
0673人間七七四年
2012/12/04(火) 21:19:17.42ID:mUQkG0000675人間七七四年
2012/12/04(火) 22:56:35.03ID:r52V4Mxoやはり栄養になるらしいよ…真似するとひどい目にあうけどねw
0676人間七七四年
2012/12/04(火) 23:17:00.72ID:FykM800iおろし大根に醤油つけて一緒に食べるとウマー
0677人間七七四年
2012/12/04(火) 23:47:45.25ID:0sXiHcq5「若年の小腕で寄功を奏したな」と言うと、信昌は「戦闘の道は剣法の巧拙にあります。
筋力の強弱にはよりません」と答えた。家康が重ねて「お前は誰に剣法を学んだのだ」
と問うと信昌は「奥山流を学びました」と答えた。
「ではお前の家臣の急加斎に学んだのだな。私も若い頃はその流派を学んだが、
近頃は軍務が忙しいので久しく怠ってしまった。こたび帰陣のうえは必ず彼を召して対面しよう」
急加斎は奥平貞久の四男で孫次郎公重と称し、上泉秀綱の門に入り神影流の剣法を学んで
奥義を極め、三河奥山明神の社に参籠して夢中に秘伝の太刀を授かりこれより奥山流を唱える。
かつて家康はしばしば岡崎に急加斎を召して演習したが、この後に信昌より召して
重ねて急加斎に学び、誓書を下して家臣に召し加えるとの御書を賜った。
また家康は三河で有馬時貞は新当流の剣法の達人と聞き、時貞を召してその奥義を伝授させた。
家康は時貞に青江の御刀を下して領地を与えたが、後に時貞が死んで嫡流が絶えると庶孫の秋重に
家を継がせ、紀伊家に附属させた。
――『徳川実紀(奥平譜、貞享書上)』
0678人間七七四年
2012/12/05(水) 00:26:51.09ID:1p817mw8まあ仕方のないことなんだけど
0679人間七七四年
2012/12/06(木) 00:08:05.84ID:+8ZHISA40680人間七七四年
2012/12/06(木) 01:35:49.57ID:s2KfBwvjなぜか部隊長にさせられて戦死しちゃったけど
いきなり自分のじゃない部隊の大将にさせられても誰も守ってくれないもの
そりゃ戦死するよなあ
0682人間七七四年
2012/12/06(木) 13:37:35.30ID:9PC/hN//小早川隊の前線に立っちゃったからね
正しく獅子奮迅の働きだった
でも悲しいかな貞治に子は居らず居その戦傷死するほどの働きに報いる
恩賞を受け取れる人は老いた母が1人だけ
0683人間七七四年
2012/12/06(木) 14:39:10.03ID:OQszhWaW老母一人ではかなりの贅沢が出来るな軍役もないだろうし
でも母親からしてみれば恩賞無くても生きて帰って欲しかっただろうな
0684人間七七四年
2012/12/06(木) 15:30:22.99ID:jLcJ78190685人間七七四年
2012/12/06(木) 16:14:35.98ID:9OcRHLoP「寝返り(・A・)イクナイ!」
って戦線離脱してしまったので、代わって奥平貞治が松野隊の指揮を
とることになったんだよね
徳川からの再三の催促の末にやっとこ小早川を動かしたという経緯上、
徳川からの軍艦という立場的に、こりゃ俺が死ななしゃ〜ないな、と
いう感じだったのではないかと
徳川の軍艦死なせて、ぬるい戦い方はできないからね、小早川も
あと、貞治って途中で、ラスボスに乞われて引き抜かれて黄母衣衆に
なってたことも
よっぽどの武者だったんでしょう。
0687人間七七四年
2012/12/06(木) 17:56:22.86ID:MO3aVlm3改めて思うけど生き死にに関してこの時代の人は凄い考えだよな…
ソースはない上つまらないけど実家に伝わる話をひとつ。
名前は明かせないけどうちの先祖は蒲生氏郷に仕えていたらしい。
とある戦で武功がありそれで風呂に入れてもらっただとか手ずから何かを頂いたとかしたらしい。
先祖はえらく感動したそうでこれまで以上に勤め、一度は出奔しようとした息子を斬ろうとしたらしい。
その後その先祖本人は討死。
会津に移ってからのことだそうで葛西一揆の時だろうか。
その後色々あって農民になり一応は現在に続いている。
正月にでも詳しい話を聞きたいんだけど今は別の人の話題でどうも無理っぽい。
よくあるような話ですみません。
0688人間七七四年
2012/12/06(木) 22:54:32.36ID:P8XbksjWその話をも少し具体的に聞きたい
0689人間七七四年
2012/12/07(金) 00:44:44.31ID:aiyPmoBSとりあえず自分が昔聞いた話
・次男が調子こいて家出しようとしたとき、父親は槍持って追いかけまわした。
同僚が若気の至りだろうからと諌めてくれてその次男坊は結局他の養子になったらしい。
これほどに恩をかけて頂いた主を見捨て出奔など言語道断、息子を斬り己も後を追うと言ったそう。
・家自体はたぶんそんな名のある感じじゃなくて下っ端もいいところ。
蒲生家に仕えだしたのは討死した先祖の代かそのひとつ前と思われる。
六角家家臣で滅亡後に仕えたのかもしれないけど自分の推測の域を出ないです。
・してもらったことというのがあまり分からない。
物をもらったのか加増されたのかお得意の風呂(はさすがにないと思うけど)なのか
詳しいことはは不明だけど先祖の身分からすると破格のことをされたらしい。
・帰農したのは蒲生騒動の頃?もしくはお家断絶の時か。
けど何人かは石田家に仕え、関ヶ原で討死した者もいるとかいないとか。
・農民として江戸時代を会津で生き抜いた。
戊辰戦争の時には家が元武士であることを聞いた何人かが会津の軍勢に入ったらしい。
一人は当時十代後半、母成峠か白河で戦死した?らしくその後の話はない。
箱館戦争まで参加したという人がいるけどその人のゆくえも分からない。
身分は百姓だし会津を離れることはなかった。
けど維新前後の事情であまり先祖のことを語らなかったので伝わってるのは結構曖昧。
0690人間七七四年
2012/12/07(金) 00:55:40.36ID:2tCtXm5X0691人間七七四年
2012/12/07(金) 01:05:52.34ID:kbzzmrWJうちは苗字名乗るときに島津の殿様(誰かは聞いてないw)から名前貰ったってくらいかな・・・
>次男が調子こいて家出しようとしたとき、父親は槍持って追いかけまわした。
このくだりは海音寺潮五郎の「かぶき大名」で、
水野勝成が父親の忠重に槍でもって殺されそうになったシーンを思い出したw
0692人間七七四年
2012/12/07(金) 08:04:41.84ID:CNOedMMaあーりがとー!
俺んとこは、実家が三好性で
婿入り先が鎌倉時代から続く城を守る、武家の一党なのに、
なにもそーゆー話を聞かないので羨ましいわ
神社の脇に漢文でなんかごにゅごにゅ書いてくる位だ
0693人間七七四年
2012/12/07(金) 22:10:10.72ID:8BBo+HZN見て、妄りにこれを評してした。その中には織田信長もいた。彼は元信の画を
見るために密かに衆人と共にやって来たのである。
元信はこれに気付いていたが、黙して顧みず脚を机の間に出して画を作り続けた。
客が帰って後、隣人が来て「太守が来たというのにどうして何の礼も無いのだ」
と尋ねると、元信は「彼は潜んでやって来たから、私は敬わなかった。それに私は
彼に何かを求めているわけではない。そういうことだよ」と答えた。
――『日本史伝文選(本朝画史)』
0694人間七七四年
2012/12/07(金) 22:46:14.99ID:EVzTm6u2権力に全くおもねらない
0695人間七七四年
2012/12/08(土) 10:04:23.82ID:Y0vRFKtcこれはその通りだな
こっそり来た人に挨拶したら信長に恥をかかせることになるだろうに
隣人は何を考えていたんだ
0696人間七七四年
2012/12/08(土) 11:49:39.21ID:ynrA/Zmy秀吉はなんかしでかしそうで怖い
0697人間七七四年
2012/12/08(土) 15:15:47.38ID:3t7cDR4o「角蔵流とはどんな流儀ですか」
と聞いてくる者があったから、
「鍋島喜雲の草履取りに角蔵という者がいて、
その者はたいへん力技に優れていたから、
剣術者の喜雲がそれに工夫を重ねて取手の角蔵流と名付けたものです。
これは組討ちやヤワラなどといった偉そうな流儀ではありません。
私が剣術を行うときに心掛けていることも、
それと同じくゲス流で、角蔵の取手のように、
とっさの役に立つものであることだから、
以前から私も角蔵流だと言っているのです。」
続いて、話題は恋の話となり、私は、
「究極の恋は心の中に秘める恋だと覚悟しています。
その人に逢って形に現す恋いでは恋の程度も知れている。
一生、心に秘めて、死んだ後の火葬の煙をその人が見て、
そこではじめてなにかを感じてもらえたならという心こそ、
恋の恋たるゆえんでしょう。歌に、
恋死なん後の煙にそれと知れ
つひにもらさぬ中の思ひは
というのがありますが、これこそが立派な恋だと思っています」
と言ったところ、そのなかの五人が、
「そのとおりですな」
と感心して同意してくださった。
それ以降、五人集まると、
「われらは煙仲間よ」
と笑い合った 【葉隠】
0698人間七七四年
2012/12/08(土) 16:16:10.30ID:QRCWIm9g0699人間七七四年
2012/12/08(土) 17:30:21.86ID:gVYu6ZUl0700人間七七四年
2012/12/08(土) 18:31:43.18ID:P09cG/B+奥深すぎてよくわからんわ
0701人間七七四年
2012/12/08(土) 18:40:13.73ID:qMHWH+Hsそれを伝えてしまっては、いろんな現実的なものが押し寄せる形而下的な物に転化するから、
恋の美しさ、純粋さを保つには秘めておくべきだ、という事なんだろ。
まあ葉隠のいう「恋』なんて、ほぼ衆道の恋のことだと考えていいんだがw
0702人間七七四年
2012/12/08(土) 18:42:51.60ID:/O4Wp2si衆道(特に主君に対する恋)こそが真の恋だとかはっきり言ってなかったっけ
0703人間七七四年
2012/12/08(土) 19:22:45.32ID:3t7cDR4o単品だとスレの時代範囲を越えてしまうけど参考までに、
『究極の恋の悟りは忍ぶ恋だろう。
恋死なん〜(略)という歌があるが、そのようなものだ。
生きているうちに、自分の恋を打ち明けるのは深い恋ではない。
恋いに焦がれて思い死にする恋が立派な恋だ。
たとえ思い人から、
「もしや、そうなのでは?」
と問われても、
「まったく思いもよらない話です」
と答え、忍びに忍んで口に出さず死ぬのが最高である。
恋というのは何と廻りくどいのだろう。
この前、ある場所でこれを話したら同意してくれる者が数人いて、
その者たちの間で煙仲間と名乗っている。
このことは、世の中を渡る上で全てのことの心得となるだろう。
主従のあいだなども、この心で奉公すればよい。
他人の目の届かないところの慎みこそが、
そのまま公の場所での慎みとなって現れるのだ。
誰知らず一人でいるときも、卑しい行いはせず、
他人には推測できない胸の奥ですらも、
卑しいことなど思わないように心掛けないならば、
どんなに外聞を飾ろうとも、いずれ公に胸の内の卑しさは知られるもの。
急ごしらえで消せるものではない』【葉隠】
とのことらしい
0704人間七七四年
2012/12/08(土) 19:25:46.54ID:Aw/fLFPQ0705人間七七四年
2012/12/08(土) 20:04:18.65ID:GbC7Nc8l細川三斎は武に優れ、また歌道を嗜み、父幽斎の風流に劣らず、茶道にも心を寄せて、
風流を愛する心優しい大将であった。(ホントにこう書いてある)
三斎は長崎表に異国船が入港すると聞くと、その地へ家来を派遣して珍しい品物を求めさせた。
ある年、興津弥五左衛門と言う侍に相役を一人つけて、異国船の珍品を買うため使いにやった。
この度は珍しい伽羅(香木)の大木が渡ってきたが、元木と末木の2つがあった。
丁度その折、仙台の伊達政宗からも、唐物を買うため役人が来ていたが、同じ伽羅の元木を競り合って
互いに値段をつけて争った。
興津の相役はこの状況を見て、このままでは値段がひどく高値になるから、同じ木のことだし
末木を買っていこう、と言い出した。だが興津は「立派な元木の方を殿は喜ばれるであろうから、
是非にもこれを買うのだ!」と言いはって口論となり、カッとなった興津は、ついに相役を
斬ってしまった。そして思った通りに元木の方を買い取って隈本に帰り、その経緯を述べて
切腹を願い出た。
三斎はこれを聞いて、自分への奉公のために相手を切ったのだから切腹を剃る必要は無いと言い、
相役の者の子供を呼び出して、決して興津を父の仇と恨んではならないとよく言い聞かせ、
自分の前で、その子と興津に盃を交わさせた。そのため、興津はその後も無事に務めに
励むことが出来た。
その後、三斎は他界した。やがて万治・寛文年間の頃、一周忌の折、興津弥五左衛門は山城の
船岡山の西麓で潔く殉死を遂げた。
大徳寺の清岩和尚は引導を渡し、手厚く葬ったとのことである。
そして興津が持ち帰った伽羅の木は類ない名香で、三斎は事に秘蔵せられ、
銘を初音と付けられた、と伝えられる。
(淇蝶庵翁艸)
0706人間七七四年
2012/12/08(土) 20:19:41.08ID:hhcMNr120707人間七七四年
2012/12/08(土) 21:55:40.75ID:QRCWIm9g…と、心優しい三斎様は思うのでした
0708人間七七四年
2012/12/08(土) 22:03:59.21ID:IZysI9lN王義之の写本の時のように元木を半分に出来なかったのか
↓
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-376.html
0709人間七七四年
2012/12/08(土) 22:04:06.47ID:ynrA/Zmy0710人間七七四年
2012/12/08(土) 22:04:05.90ID:gVYu6ZUlhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1365.html
三歳様は美術品関連だと割とまともなんだよなぁ
奥方様が絡むと瞬間沸騰しちゃうけど
0711人間七七四年
2012/12/08(土) 22:26:36.80ID:OLCesmLg0712人間七七四年
2012/12/08(土) 22:54:27.19ID:2PUqc9rqわざわざ>705がこう書かなきゃならないあたりに三斎様への信用の高さが窺える
0713人間七七四年
2012/12/08(土) 22:54:41.41ID:hfiJWi3Bそうそう、カッとなって人を斬るなんてよくあることだし?
忠義に厚い家臣のおかげで貴重な香木も手に入ったんだから
親を斬り殺されたくらいで騒いじゃいけないよなぁ
三斎様は心優しいなぁ
0714人間七七四年
2012/12/08(土) 22:56:10.32ID:qMHWH+Hs赤崎千夏とかいう次世代ナンバー1声優
http://hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1354974478/
0715人間七七四年
2012/12/08(土) 22:56:44.66ID:qMHWH+Hs0716人間七七四年
2012/12/09(日) 00:01:14.27ID:nkpcJusa何故か相手が目の前で香木巡って口論はじめて激高して仲間切り殺しちゃった、と。
そりゃー競り勝ちにくいわなあ・・・。
0717人間七七四年
2012/12/09(日) 00:19:42.06ID:b4U4/JMy0718人間七七四年
2012/12/09(日) 14:52:27.05ID:wCSDCmbh忠興が香木を買い求めるらしいな、ひとつ邪魔してやれとか
そんな理由で家臣派遣してるだけなのかもしれないねw
0719人間七七四年
2012/12/09(日) 15:24:42.84ID:cUnb5seq江戸中期頃にこの辺の逸話を書き留めてくれていた先祖がいたらしく、
それをさらに大正ぐらいの人が日記に残してた。
・前にスレに出てた裸鎧の話で何人かが工場長に習って服を脱いだらしいw
うちの先祖が入っていたかは不明だけどそれなりの身分の人も混じっていたとか。
・工場長は家臣の顔と名をよく覚えていたらしい。
・家臣の手柄を褒めたときに何かあげる物がないときはとりあえず蒲生姓をというくらい蒲生さんがいっぱいだった。
・少し関係ないけど戊辰戦争後の会津藩士野ざらしの話も聞いた。
降伏後、少し埋葬を禁止していたら雪が降って土を掘れなくなってしまったそうだ。
それから先祖の同僚の話。
氏郷公が病に倒れるその少し前から臥せっていた者がいたそうだ。
あまり具合はよくなく、年も取っていたらしい。
しかし氏郷公の具合がよろしくないと聞いた途端、病を押して床を上げてしまったそうだ。
その後快方に向かってはいたが、氏郷公亡くなるの報の数日後、ぱったりと亡くなったらしい。
0720人間七七四年
2012/12/09(日) 19:36:22.64ID:DMf07Ddb徳川家康との会見を行った)
『水曜日の午前、使節は皇帝(家康)の秘書官である上野介殿(本多正純)に面会に行った。
羅紗、ガラス器、石鹸その他相応な贈り物をしたが、秘書官は大変に謝意を表し、受け取った後
しばらく手元に留めていた。
しかし、すぐに次のように言った
「私は贈り物を受納したが、これは、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)での価値では相当の
ものである。ついては、あなた方に自分の方からこれらを贈り返すので、それらは再び、他の
役に立ててほしい。
私にはこれらを受け取れない。もし受け取れば、自分の職務を忠実かつ清廉に果たすことができなくなり、
あるべきよう自分の主人に仕え、自分の担当となる交渉事について主人に真実を報告できなくなるので、
いかなる外国からもこのような進物は受け取らない習慣になっているのだ。」
我々はそれでも、この贈り物を嘉納してもらおうと何度もやり取りしたが、受け取らせるのは無理で、
むしろ彼は大変立派な理由で、受け取りの拒否を釈明した。それは異教徒のものでも、神や教えを持たない
人のものでもなかった。実際、彼には神の教え以外何ら足りないものはなかった。
この事は、同種の職務で王に仕える人々の模範となることだった。
その後、財務長官の家に行った。彼はジョサブロ(後藤庄三郎)と言う名だったが、この国を動かす
人物である。手ずから甘いもので使節と共の人々をもてなし、大変親切に接遇した。
使節は彼にも、羅紗と他のものを贈り物とした。彼は何のためらいもなくこれを納めた。
人の話によると、彼は金銀で600万を持っているにもかかわらず、四分銀(イスパニアの1ペセタ)よりも
八分銀(メキシコの1ペソ。1ペセタの倍の価値)を望む人物だからだ。
善処のため大いに尽力する、と申し出た。これを以って我々は宿へ帰った。』
(セバスチャン・ビスカイノ旅行航海報告書)
本多正純の廉潔、についての記録である。
0721人間七七四年
2012/12/09(日) 19:44:45.55ID:twLCN4Fg0723人間七七四年
2012/12/09(日) 21:23:14.71ID:FULY31Rh0724人間七七四年
2012/12/09(日) 22:17:03.58ID:UbfwYRJ/この伊藤豊後は、もともと九州日向、飫肥城の城主である伊藤修理の弟という。
天正十五年、秀吉の九州征伐の折、島津と組んで抗戦したが、やがて島津氏は降伏、伊藤修理は改易、伊藤豊後は流浪して岩倉に居を構え、豪族として住み着いた。
やがて時は流れ慶長五年、上杉が最上領を攻めた際、伊藤豊後は家来18人を率い、上杉方として参戦。
だが武運尽きたか、10月2日の八ツ沼の戦いで、伊藤豊後をはじめ家来一党みな討ち死にし、かろうじて山川儀助が伊藤豊後の嫡子・伊藤日向を擁護して、米沢に引き上げた。
直江兼続は伊藤豊後の戦功を賞し、伊藤日向に知行100石を給し、岩倉の地において会津との境の守備役に任じた。
九州から東北まで流れても武士として働き家を残した侍の、ちょっといい話として。
地元の史料に載っている、東北の僻地と九州を繋ぐ意外な縁。でも、文中の「伊藤」は「伊東」が正しいと思うんだ。
なお、文中の伊藤氏の子孫も地元に在住しており、その方の姓は「伊東」。
……九州の飫肥城ってったら伊東氏だし、子孫の方も伊東氏なんだから史料訂正してやれよ。
0725人間七七四年
2012/12/09(日) 22:17:43.30ID:mkdcHAvr報告、上納すればいいという単純な話ではないでしょ
0727人間七七四年
2012/12/09(日) 23:44:58.04ID:mkdcHAvr他国からの贈り物なんて、うちの国には融通効かせてくれ
の賄賂と考えて対処すべきものでしょ
0728人間七七四年
2012/12/09(日) 23:53:41.54ID:w8xpyTjrある時この神谷が城中で、当時徳川秀忠の老中であった酒井雅楽頭忠世と行きあった。
神谷はすぐに脇によって「キリッ」と礼をしたのだが、その時酒井忠世は考え事をしていたのか、
神谷に全く気が付かず通りすぎてしまった。
スルーされた神谷の心に、暗い焔が灯った
それからというものの、神谷は酒井忠世に出会うたびに無礼慮外を度々繰り返した。小学生かお前は。
ともかくこの神谷の忠世に対する人もなげな振る舞いはよほど話題になったらしく、ついに
家康の耳にまで達した。
「秀忠の重臣に対してなんという振る舞いだ!神谷には暇を出そう!」
そう言ったが、内々に神谷の行状を聞いてみると、彼は人品能く、殊更に奉公を第一に勤めている、
忠世の件がなければ武士の鏡のような男であった。
0729人間七七四年
2012/12/09(日) 23:58:52.36ID:PJ/srUfv0732人間七七四年
2012/12/10(月) 04:14:35.53ID:F0ft9ji40733人間七七四年
2012/12/10(月) 09:20:54.88ID:yiTP4QW90735人間七七四年
2012/12/10(月) 18:53:51.03ID:MgMcFtCU僕に命じて庭を掃除させ、その後に利休にも庭の掃除を命じた。
利休が庭を見ると掃除が行き届いておりどこにも手を下すべき所がなかった。
すると利休は林の中に入った。利休が試しに一本の木を揺らすと、落ち葉が
風に舞って地に点じ、庭は一段と風情のある味わいになった。
そして利休は紹鴎に「命を終えました」と告げ、庭を見た紹鴎は利休の奇才を
感じた。このために利休は紹鴎からことごとく秘訣を授けられ、ついには
茶博士の名を得ることとなった。
――『日本史伝文選(芸苑叢話)』
0736人間七七四年
2012/12/10(月) 21:12:46.09ID:zcsSTXjRhttp://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1355133116/
0737人間七七四年
2012/12/10(月) 21:36:40.40ID:C3FsAhZV有名な話の気がしたから既出でないかみてみたが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1787.html
ちょっと似ている話しかなかったか
(高山右近、古田織部、利休の話)
0739人間七七四年
2012/12/11(火) 02:45:59.87ID:y5JZlojb諸大名が来て謁する度に酒宴を催して丁寧にもてなし、あるいは囲碁を打ち、
茶をたて、歌謡や能楽などそれぞれの好みに従って愉快を尽くしていたのである。
要するに皆人の心を引き付け、握るためである。これは心が広く度量が
大きかったのであって、いわゆる天からの授かり物なのか、そうではないのか。
私が思うに天授であろう。
――『近古史談』
0740人間七七四年
2012/12/11(火) 18:28:56.51ID:MDsAJeiJ茶道具名品展に行こうと思うんだけど
戦国板民的には何に注目してみれば良いかな?
九十九髪茄子は当然チェックするとして
http://www.seikado.or.jp/fl_01_2013_01a.jpg
http://www.seikado.or.jp/010100.html
0741人間七七四年
2012/12/11(火) 20:32:19.96ID:fJz8buMZ信長が持ってたり(コレは本能寺で焼けたらしい)家康が持ってたり
同じ模様の茶碗は現存3個だったり(全部国宝)
再現しようと後世の陶芸家が人生注ぎ込んでたりとなかなかドラマチック。
見た目の妖しさもたまらん。
0743人間七七四年
2012/12/11(火) 22:31:28.62ID:vP7HWZQu0744人間七七四年
2012/12/11(火) 22:54:02.66ID:Lmq2x0dX土からにょきにょき生えてきたような力強さと暖かさ、
そして何よりも天衣無縫な無垢の風情がある。
井戸の良さが分かったら君も三斎さまやゲヒ殿の仲間だ!
0745人間七七四年
2012/12/11(火) 23:21:45.63ID:Ye7Kc8JL0746人間七七四年
2012/12/11(火) 23:23:42.60ID:qIZco8yB0747人間七七四年
2012/12/11(火) 23:25:47.46ID:wMrRmq/a0748人間七七四年
2012/12/12(水) 05:12:31.68ID:dEDKJLct0749人間七七四年
2012/12/12(水) 06:30:14.24ID:2RxkZ+Lr■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています