戦国ちょっといい話35
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0001人間七七四年
2012/10/18(木) 19:08:22.07ID:/qlGMV2o戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0060人間七七四年
2012/10/25(木) 11:45:31.58ID:eA4Cdxs0信長はそういう人だ、という認識がないと創作だとして成立しないからねー
実際、障害者を保護した話とか信長には弱者保護のエピは複数ある
0061人間七七四年
2012/10/25(木) 12:41:34.88ID:jCf4mcU/関ヶ原の戦いの折、松平忠吉は手を負傷し、布で包んで襟にかけて
父の徳川家康の前に出てきた。その様子を見て家康が「下野は手に傷を負ったのか」
と言うと、忠吉は「たいした怪我ではありません」と答えながら座についた。
また井伊直政も鉄砲疵を蒙り、靱に手をかけながら忠吉に付き添って参上した。
直政は忠吉の勲功を報告して「逸物の鷹の子は皆逸物です」と誉め称え、
これに家康は「それは巧みな鷹匠が良い肉色当てをしたからだよ」と答えた。
続けて家康は「お前の傷はどんな具合だ」と言って懸硯から膏薬を取り出して
自ら直政の傷につけてやった。直政は畏まって「今日はそれがしの手より好んで
軍を始めたわけではありません。時分が良くなりましたので守殿と共に手始め
致しました」と言うので、家康はいたく賞美した。
――『徳川実紀』
息子の前でイチャイチャしやがって…
0062人間七七四年
2012/10/25(木) 12:51:55.10ID:jCf4mcU/すいません少し訂正します。
×布で包んで
○布で肘を包んで
×勲功を報告して
○勲功の様子を報告して
0064人間七七四年
2012/10/25(木) 17:56:14.00ID:BUZQaKpv蒲生氏郷にも似たような話があったな。
0065人間七七四年
2012/10/25(木) 19:15:41.16ID:v8fctGZt0066人間七七四年
2012/10/25(木) 20:00:45.82ID:h13LrtpK中川しようこ大喜びだなw
0067人間七七四年
2012/10/25(木) 20:23:13.50ID:HCSnjYVE0068人間七七四年
2012/10/25(木) 21:17:38.87ID:osVJJnaW息子の前でというより諸侯勢揃いの中でイチャイチャしてますから
家康が息子そっちのけで直政に薬を塗っている間
東軍の愉快な仲間達は立ちっ放しで待たされていたという話がどっかに有ったよな
0069人間七七四年
2012/10/25(木) 21:36:20.19ID:OQzYb+gsあと福島正則の家来バージョンもあった
なんかテンプレみたいなのがあるのかもしれないな
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-239.html
0070人間七七四年
2012/10/25(木) 21:53:07.07ID:7AH9iltL0071人間七七四年
2012/10/25(木) 22:57:41.28ID:NtEXG0w+横手まで進み小野寺義道の降伏交渉を行うことになった。
そのとき主君義光に手紙を送ったのだが、それに対する義光自筆の返事を彼ははっきりと覚えていた。
「おまえたちの活躍で多くの城を勝ち取ることができ、私は大変喜んでいる。
横手へ送る書状の文面案を志村、里見を呼びにも見せたが、皆は読めなかったぞ。
だが私は、水でも流すようにすらすら読めたのだ。
いやあ、流石におまえの文面案は素晴らしいね。直すところなんかまったくない。
秀綱こそ文武両道だと皆にも話しておいたからな。
これからもミスのないよう、しっかりやるんだぞ」
別にこんなものいちいち言わなくてもいいかもしれんけどと…前置きしつつ、
回想ではしっかり残す秀綱。義光に褒められたのがよほどうれしかったらしい。
ちなみに字が義光にしか読めない=達筆だね、ということらしい。
鮭延秀綱、主君に褒められたちょっといい話である。
(『鮭延越前守聞書』)
0072人間七七四年
2012/10/25(木) 23:01:01.52ID:h13LrtpK安心したw
0073人間七七四年
2012/10/25(木) 23:17:51.48ID:dpM0W+KM0074人間七七四年
2012/10/25(木) 23:28:19.15ID:PQEWfqae0075人間七七四年
2012/10/26(金) 07:11:39.31ID:jNLYG0qQ0076人間七七四年
2012/10/26(金) 08:17:38.74ID:wJxlblL8書状類も後世に写し間違いが多発してるし。
0077人間七七四年
2012/10/26(金) 10:41:53.61ID:a+9jzAvD0078人間七七四年
2012/10/26(金) 13:02:44.69ID:X/xvHu/a0079人間七七四年
2012/10/26(金) 18:15:40.74ID:LhmtQg1g関ヶ原の戦いの前哨戦である岐阜城の戦いにおいて、
織田秀信の家臣・木造長正は奮戦して負傷し、岐阜近くの民家にいた。
福島正則はこれを聞いて使者を遣わし「今日の戦の怪我が気掛かりだ。
医者を申し付けたほうが良いのではないか」と、長正に伝えさせた。
これを聞いて長正は「厚いご好意は本当にありがたい。
軽傷ですから些かの御心遣いも無用です、とお伝え下さい」と言った。
その後、長正は前田利長に招かれたがこれには応じず、
正則の招きに応じて二万石を与えられた。
――『名将言行録』
0080人間七七四年
2012/10/26(金) 20:54:01.46ID:y2dtVPgs…酒さえ入らなければ本当に
0081人間七七四年
2012/10/26(金) 21:01:06.60ID:MCgYhkiGしかし最上って分限帳だと70万石越えてたのか
公式には57万石だっけ
ナニこれ?脱税?
0082人間七七四年
2012/10/26(金) 21:26:48.28ID:NaMLM/Cn・・・酒さえ入ってなければの話だが
0083人間七七四年
2012/10/26(金) 21:54:37.64ID:NlwOP3Ki0084人間七七四年
2012/10/26(金) 22:00:27.65ID:gS9QP7Ba0085人間七七四年
2012/10/26(金) 22:12:13.89ID:wJxlblL80086人間七七四年
2012/10/27(土) 01:26:59.76ID:kx+WAarq0087人間七七四年
2012/10/27(土) 02:43:48.08ID:mTSUofq/そしてその謝礼として銀千枚と青江の刀を忠興に贈り、それに因み『青江の茶入』と名付け深く愛用した。
忠興を強欲な人物と批判する声もあったのだが、
青江の茶入を譲られた人物はというと、むしろ安すぎると考えていた様で後日改めて銀千枚を贈った。
忠興はこれを辞さずに受け取りつつ、
「我は価(あたい)を重んずるにあらず、人に懇望せらるれば、
其の価を論ぜず、唯義に依って、之を興(あた)ふるのみ。」と語ったという。
この話から、忠興は価格の高低を問う気持ちが無い事に注目するべきである。
茶道美談より
0088人間七七四年
2012/10/27(土) 06:23:36.87ID:6D8Sx0Er0089人間七七四年
2012/10/27(土) 07:19:32.27ID:aEIVsLLX単に価格の高低を問わないってなら、懇願する人にはタダで上げるのが義なんじゃないのか?
0090人間七七四年
2012/10/27(土) 09:03:22.18ID:YvRJnxfD0091人間七七四年
2012/10/27(土) 09:05:31.73ID:NUAj0tSv「もっとよこせ」
とか
「そんなにいらないよ」
とか言ったらなかなかに向こうの立場がないからじゃないかなぁ
0092人間七七四年
2012/10/27(土) 09:38:59.22ID:C9fQWpwrしかし二歳の時、父と兄・氏綱の争いに乗じた大宝寺義増が鮭延城をのっとってしまう。
父と兄に置き去りにされた秀綱は、そのまま庄内へと連行され、十四歳で大宝寺家に
小姓として出仕することになった。
父と兄は鮭延に戻ることなく没したが、二十一歳になった秀綱は器量を認められ、大宝寺配下の鮭延城主となった。
その翌年、事件は起こった。
かねてより評判の悪かった大宝寺義氏に対し、家老の前森蔵人が謀反を起こす。
前森に反対する者はなく、「もっと早くそうすればよかった」と皆口々に言う始末であった。
このとき秀綱はちょうど正月の挨拶ついでに、義氏のもとにいたのである。
秀綱は義氏の自刃に殉じるべく覚悟をかため、暗く放火された場内を探し回るが、
主君はいっこうに見当たらない。視界が悪いので名乗りつつ進んでいった秀綱は、
名乗ったとたん思いがけぬ目にあった。
「我こそは鮭延源四郎!(秀綱のこと)」
「何!」
敵はなんと、槍を捨てるとしっかりと秀綱を抱きしめてきたのだ!
「おまえは誰なんだ、はなせ!」
「放すもんかよ、おれは中村内記だ」
「あっ、中村のおじちゃん…」
この男中村内記は、まだ幼く実父と引き離された秀綱を、我が子のようにかわいがっていてくれたのであった。
内記は弟・孫八郎とともに秀綱を心配して二日間探し回ったがおらず、
あきらめかけていたところでやっとこうして見つかって喜んでいるのである。
「源四郎よう、あんな運の尽きた屋方に供をしてどうするんだよ。助かろうず」
「あんたたちが助けたくたって、前森はそうは思わないだろ! 後悔するだけなんだからはーなーせー!!」
秀綱は抵抗したが、怪我をして疲れ切ってもいたので兄弟に抱きかかえられて、町屋まで連れて行かれた。
内記が前森にかけあって、助命嘆願をしているにも関わらず秀綱は殺気だっていた。
「よう、源四郎。おまえよく助かったなあ」
「討手か!」
と、昔の仲間が様子を見に来てもこんな調子なので、まわりに誰も近づけないでいた。
孫八郎が、前森からもらった白米と薪を持ってきたところで、
「切腹を命じる奴にこんな日用品届けないよな」とやっと安心し、それから安眠したとのことだ。
命が助かった秀綱は、この数年後最上義光配下となり、八十五の長寿を得るのだがそれはまた別の話。
また軍記や通説では、前森蔵人の謀反は最上義光の謀略ということになっているが、
実際は関与していない模様(ただし義光はこのあと、蔵人を支援することとなる)。
(『鮭延越前守聞書』)
0093人間七七四年
2012/10/27(土) 09:47:36.30ID:KoLg5t1x別に打ったわけじゃないから
謝礼を受け取らないというのは非礼にあたるんじゃないかな
なら、追加も受け取れっていう考えもあるけど、
そこまでいくと価値判断みたいになっちゃって嫌ってことかと
0095人間七七四年
2012/10/27(土) 14:18:51.25ID:ZXiMqwVP0096人間七七四年
2012/10/27(土) 17:01:08.70ID:pB/LZll6鍋島の母袋武者どもが、みな母袋を脱いでくつろいでいた。
直茂公は、
「陣中で物具を脱ぐなど戦場の覚悟が弛んでいるな。
誰かあそこに行って、一番最初に母袋を脱いだ者を見つけてこい。
処分をするから」
とお怒りになられた。
使者が母袋武者どもにそれを伝えると、
「どう申し上げようか・・・」
と、顔を見合わせ困り果てた。
そのとき、小山平五左衛門茂成が、
「直茂さまへ御返答申し上げる。
二十人の母袋武者ども、目と目を合わせ同時に母袋を脱ぎました」
と言った。
使者が戻ってこれを直茂公に伝えると、
「憎い奴らよ。それは平五左衛門の言葉だろう(笑)」
と仰せになった。
小山は竜造寺右馬太夫信門殿の子、
剛の者である 【葉隠】
0098人間七七四年
2012/10/27(土) 18:18:26.15ID:OtUKmgDCじっとしてたら意味ないような
それとも軍服みたいなもんだから着ろと言ったのか
0099人間七七四年
2012/10/27(土) 18:20:05.34ID:OtUKmgDC0100人間七七四年
2012/10/27(土) 18:28:49.00ID:1lZxZ5cJ「私は今日にも死ぬであろう。私の死後、天下はどうなると心得ているか?」
秀忠はこう答えた
「…父上の死後、天下は乱れると思います。」
その言葉を聞くと家康
「そういう心持ちで居るのなら、もう大丈夫だ(夫れなれば、ざつと済みたり)」
そう、心良さげにうち笑われ
「安心した」
と仰った。
そして次に竹千代君(徳川家光)を御側に召され
「其方は天下の主となる人だ。よく心得られよ、天下は慈悲が第一であるぞ!」
そう仰り、それから間もなくしてご他界されたという。
(武野燭談)
家康の遺言、というお話。
0101人間七七四年
2012/10/27(土) 18:42:06.40ID:pB/LZll6今見たけど古語辞典にも母袋では載ってなかったよ。
意味は母衣つけた武者で合ってると思う
>>100
未来は明るいと考える奴と一寸先は闇と考える奴なら、
落ちぶれるのは前者に多いからな
さすが権現さまと2代目
0102人間七七四年
2012/10/27(土) 18:47:26.53ID:6D8Sx0Er0103人間七七四年
2012/10/28(日) 00:31:27.45ID:o3jiBe39稲富喜太夫(祐直)という者があった。
忠興の内室(ガラシャ)が大阪で自害した時、留守居であった小笠原少斎以下の士が尽く討ち死にした中、
稲富はその場を落ち延び命生き延びたのを、忠興は殊の外立腹し、捜し出して必ず罪に問うと言っていた。
この事を徳川忠吉が聞き、忠興に直接に会ってこのように言った
「侍の死ぬべき場所を逃げ出したというのは、情けない侍というものであり。あなたの憤りは
尤もだと思います。ですが、稲富を助け置いてほしい。
彼は天下一の鉄砲の名人です。武勇を習うのではなく、鉄砲を習う者のために、命を助けてほしい。
臆病は、稽古によって身につくものではないでしょう?
鉄砲一流の断絶というのは、如何にも残念だと思うのです。」
この言葉に忠興は、「稲富にとってありがたい仰せです」と、彼を赦した。
これによって稲富は武士をやめ一夢と名を改め、稲富流を指南した。
そして彼の発展させた稲富流砲術により、大阪の陣の折、幕府軍の大筒は
大阪城天守の二層目に撃ち入れる事に成功したのだ、との事である。
(武野燭談)
0104人間七七四年
2012/10/28(日) 00:47:49.19ID:6Fr+uPii0105人間七七四年
2012/10/28(日) 01:24:07.44ID:RaGpenIm火薬で飛ばすやつの放物線を測る技術なら延長線上じゃないの
0106人間七七四年
2012/10/28(日) 01:48:36.72ID:TRnvXtCjそこだけ見ればカッコ悪い話
0107人間七七四年
2012/10/28(日) 01:49:40.19ID:Z8d0eTj6窮地でも必要な人材には助け船出す人がいる
0108人間七七四年
2012/10/28(日) 04:20:56.30ID:1TRjSzFU0109人間七七四年
2012/10/28(日) 12:47:45.50ID:/qWygdPl平岩親吉の弟は名を平右衛門といった。ある時、彼は榊原康政と
口論になり、少し傷を負ったところを駆け付けた傍の者に喧嘩を止められた。
この時の親吉は宿老で、康政は若く小身であった。喧嘩の一件を聞いた
親吉は「康政は今は小身だが、才智勇敢にして上の御用に立つであろう
人傑だ。我が弟は人に斬られる程度の者ゆえ、主君の御用には立たずに
禄を費やす者である」と言って、
弟は武道を止めさせて押し込め、康政はしきりに執り成して昇進させた。
果たして康政は天下の英傑と称美され、人は皆親吉の私心のなさに感服した。
――『名将言行録』
0110人間七七四年
2012/10/28(日) 15:14:44.99ID:xPxBhuCu8月26日、光泰はこの酒宴に出向いていった。
「殿!行ってはなりません!毒を盛られますぞ!」と必死で制止する謀臣を、
「わしも、そのような謀があろうことは察しておる。だが、行かぬとなれば武門の瑕瑾となるであろう。毒死は覚悟の上である。」と、振り切って。
果たして、宴席で供された鮒の吸い物に鴆毒が加えられていた。
光泰はその日から苦しみ始め、翌27日、28日には既に危急の状態であった。
しかし、彼は苦しみながらも、一人の男を待ち続けていたのである。
その男・加藤清正は、27日晩、釜山に戻るや否や、即座に駆けつけてくれた。
光泰は彼の来訪を大いに歓び、
「わしは姦人のために、思いもよらず毒殺という目に遭ってしまった。
このことに我が士卒は憤怒し、これから石田の陣所に討ち入ろうとしている。
だが、三成を討ち取ったところで、わしの命が助かるというものではない。
それに、ここは敵地であるし、同士討ちにもなってしまう。決してそんなことをさせてはならぬ。足下は我が士卒を堅くとどめてほしい。
そして、わしが死んだら、わしの諸勢を率いて帰国し、息子・作十郎(貞泰)に引き渡してくれぬか。」
と、懇ろに、最も信頼する盟友に後事を託したのである。
光泰は29日、この世を去る。
その後清正は、遺言どおり光泰の軍勢を率いて帰国し、貞泰に引き渡したという。
(曹渓院行状記)
0111人間七七四年
2012/10/28(日) 17:48:59.60ID:GY+zhnlv0112人間七七四年
2012/10/28(日) 17:55:30.10ID:RKz866HZ0114人間七七四年
2012/10/28(日) 18:35:56.07ID:QocNS2Vf0116人間七七四年
2012/10/28(日) 19:46:44.46ID:QocNS2Vf0117人間七七四年
2012/10/28(日) 21:22:53.80ID:hbstFqpKこのとき、庄内に協力者が出たため最上義光は石高のより高い者よりも秀綱を選び、
1500人ほどをつけ庄内に先陣とし派遣した。迎え撃つには本庄繁長勢3000。
打出川を挟み対峙する両軍。渡河地点と中州をめぐり両者ひかず、射撃戦だけで
一日が終わることもあるなど、降着した戦況となった。
数では劣る最上勢は善戦し、自軍は損害がないが敵をひとり出すときもあるなど、
よく持ちこたえていた。
いよいよ繁長が川を渡るかと見え、秀綱は警戒し背後から回りこんで討とうと策を練ったが、
繁長はなぜかそのとき引き返し退陣。ようやく戦も終わるかと思われた。
数が劣るもよく戦った、勝ち戦として報告して最上に報告してもよいかなと秀綱が思っていると、
飛脚が最上から届いた。その内容は、
「山形が大火事で本丸だけ残して、二の町、三の町、侍町、通町、みな焼けてしまった。
もう庄内攻めはできないので、和睦したら急いで引き返してこい」
意外な幕切れである。義光は国元への手紙で火の用心をさとしていたり、
山形の植木市も火事がきっかけとされているが、これで大火事が裏付けられたというわけだ。
のちに、
繁長「そういえば昔、庄内の北目で川を渡り敵を倒そうとしたのに、敵がつけてまわり、
こちらの背後をついてきそうなので結局川を渡れないことがあった。
あのときの最上方は誰だったのだろう?」
某「あれは鮭延秀綱です」
繁長「おお、なるほど! かねてより聞いていたあの名高い武将鮭延か…」
という会話があったとか。さすが繁長、敵を褒めるのを忘れない。
そしてさりげなく自慢を忘れない鮭延であった。
(『鮭延越前守聞書』)
0118人間七七四年
2012/10/29(月) 07:12:35.02ID:FBgcykdN津軽為信は焦っていた
「いち早く秀吉公の前に参礼し、御朱印を申し請け津軽三郡の支配を確立せねばならない!
とにかく南部に先を越されては大変である!」
そう言って準備を急いでいた所、為信の老母が、為信が津軽を離れることへの不安を言ってきた
「お前がここを留守にして小田原に行けば、そのあとにどんな異変が起こるか計り知れない。」
この時期の津軽為信の支配は、それだけ不安定だったのである。
「そこで、お前は国に残って仕置をしなさい。私は女の身ではありますが、小田原へ馳せ参り、所領安堵の
御朱印を申し請けるのに問題はないはずです!」
そう、驚く為信を構わず早々に津軽を出立し、相模に赴き秀吉と対面。当主為信に変わり母である自分が
参上したことなど言上すると、秀吉も女性の身で遠くここまで旅してきたことに強く感銘を受け、難なく御朱印を下した。
老母はこれを大いに喜び、急いで本国へと戻り御朱印を為信に渡した。
(天正南部軍記)
津軽為信のお母さん頑張る、というお話。
0119人間七七四年
2012/10/29(月) 10:47:12.17ID:zgHQK22q0120人間七七四年
2012/10/29(月) 10:53:37.83ID:MfZcRhng0121人間七七四年
2012/10/29(月) 10:57:13.47ID:J+fb6Xd7津軽の人間は本当に酷いな
0123人間七七四年
2012/10/29(月) 11:15:39.35ID:mCiLTF6I0124人間七七四年
2012/10/29(月) 11:35:02.90ID:YWgZj1p70125人間七七四年
2012/10/29(月) 11:41:44.16ID:l56Iow4O信直さん乙
為信が40歳くらいだから60歳とかそんくらいかな?
今ならともかく、当時の津軽から、しかも女性だからなーそりゃーラスボスも感嘆するわ。
0126人間七七四年
2012/10/29(月) 12:35:04.59ID:urNB5sC+恋慕した女の旦那は殺すし、拒否した女も殺す悪党だからな
そういや、石川を殺るときも城下の屋敷に押し入って南部方の女性を○姦させたりしてたっけな
0127人間七七四年
2012/10/29(月) 13:19:44.63ID:tsfL8j/uそこに偶然通りかかった武田信繁は、
「敵方に屈辱を与えることは、敵を奮起させることと同じである」
と深くこれを戒めた。
またあるとき戦場で武田兵が苦戦を強いられ劣勢となることがあった。
武田陣には、今回は勝てないだろうといち早く撤退することしか頭にない者、
あるいは、ここを死に場所と決め、捨て身の突撃を直訴する者と、
ふた通りの考えが溢れ、いずれの策も状況に対しての良策とはいえず、
武田の陣には暗い空気のみが漂っていた。
そこで武田信繁は、
「負け戦になりそうな時こそ慌てうろたえてはならぬ。
劣勢のときこそ、敵に対して侮蔑の思いを抱くべきであろう。
『穀梁伝』にある、
善陣はむやみに戦わず、善戦はやたらに死なず
という言葉をよくよく考えてみるべきである」
と諭したという
0128人間七七四年
2012/10/29(月) 13:51:08.25ID:2PVkJ/7y0129人間七七四年
2012/10/29(月) 14:12:07.78ID:38HGUZFm0130人間七七四年
2012/10/29(月) 14:40:44.53ID:MfZcRhng政宗とか、最上義光とか、大友宗麟とか、毛利元就とか、織田信長とか
0131人間七七四年
2012/10/29(月) 14:43:01.13ID:mxWEqU8G弟が優秀で仲が悪いと…
0132人間七七四年
2012/10/29(月) 14:55:00.79ID:V2+EHM7S0134人間七七四年
2012/10/29(月) 15:53:35.99ID:ts+9MPcb0135人間七七四年
2012/10/29(月) 15:57:46.86ID:mCiLTF6I0136人間七七四年
2012/10/29(月) 17:19:53.02ID:wxR127tI明智光秀の家臣・野々口丹波は山中幸盛の旅館に来て「陪臣の身で
申すのは恐れ入りますが、貴方が私のあばら屋に御来訪して下されば、
どれほど幸せなことでしょう」と言った。
幸盛は「私には分に過ぎたことです。きっと参りましょう」と約束した。
このようなところに光秀が「今日は風呂を用意しているから来られよ」と
言ってきたので、
幸盛は「後家来の野々口と先約いたしまして」と打ち笑った。
光秀も共に笑って「これで山中をもてなせ」と野々口に雁一羽と鮭一尾を
与えた。
――『名将言行録』
0138人間七七四年
2012/10/29(月) 19:30:08.41ID:XcVku1Kq彼にとって初めての殿中であったし、また若輩であったものだから、城内で大いに迷ってしまったのだ。
貞泰はなぜこんな事態に陥ったのか?それは、彼を御前へ誘引してくれる者が誰もいなかったからである。
大事なことなので何度となく繰り返すが、彼の父・加藤光泰と石田三成は不和であり、旗本の諸臣は皆、三成にへつらっていたのだ。
しかしその時、山本嘉兵衛尚則という人物が貞泰を見つけ、自ら供を申し出てくれたうえ、お目見えの式を整えてくれた。
貞泰はこの時の恩をずっと忘れず、後年、大坂落城で山本尚則が没落した時には、手を差し伸べ、家中に招いたのである。
尚則は「老齢であるから」と辞退したのだが、貞泰は彼に隠居料を与えるとともに、その子・三郎兵衛則兼を臣下にしたという。
(加藤光泰貞泰軍功記)
0140人間七七四年
2012/10/29(月) 19:47:54.90ID:sJa/mzJc0141人間七七四年
2012/10/29(月) 20:33:22.90ID:UOfu71bB0142人間七七四年
2012/10/29(月) 20:41:11.19ID:lrjK18kf0143人間七七四年
2012/10/29(月) 21:44:45.14ID:B4hZUQSBおいやめろ
0144人間七七四年
2012/10/29(月) 22:27:38.00ID:+skKrbQG0145人間七七四年
2012/10/30(火) 01:08:55.25ID:UbAfimao踏み台にしてる系のいい話ってなんか感じ悪くて嫌いだわー。
書いた奴の魂胆が見え隠れするっていうか
0146人間七七四年
2012/10/30(火) 04:37:37.04ID:5yKyYGl+by織田信成
0147人間七七四年
2012/10/30(火) 06:58:50.77ID:5zL6fSPa「おじさんが白鳥(十郎永久)と氏家(詳細不明)を倒した時、内心大丈夫かなって心配してたんです。
鉄砲を応援に送ろうかと思ったけど、無事解決したとのことでほっとしてます。
小斎に出陣したとき何度か応援してもらってうれしかったことが、ぼくは忘れられません。
おじさんが天童と争っているときは、援軍出したかったけどぼくはまだ家督ついでいないので、
どうしようかと思っているうちにのびのびになってしまいました。
お互い親戚同士だから、これからもなかよくして遠慮とかしないようにしましょうね」
と、まだ仲がよかったころの心温まる交流を感じさせるが、
もうひとつひっかかる点がある。
文面から察するに義光が白鳥長久を軍記にあるようにあっさりと倒せたわけではなく、
氏家某をまきこんでなかなか大変なものだったらしい。
また少なくともこの計画は伊達家も知っていたようである。
(「山形殿宛政宗書状」、兵庫県立博物館所蔵)
0148人間七七四年
2012/10/30(火) 07:48:58.79ID:xM9bR/1I0149人間七七四年
2012/10/30(火) 08:01:14.08ID:8UAPlg+10150人間七七四年
2012/10/30(火) 08:20:48.26ID:MmsQmBNf0152人間七七四年
2012/10/30(火) 16:54:35.09ID:PBrR4TrQ信玄名代として実際の軍事指揮権は信繁にあったなんて説もあるし
ただの善人文弱武将ではない
0153人間七七四年
2012/10/30(火) 17:46:10.00ID:Rgn5Goix浜松町は港区…浜松町は港区…浜松町は港区…浜松町は港区…Lady go!!をお聴きくださった方々ありがとうごさいました!
浜松町は港区…浜松町は港区…浜松町は港区…浜松町は港区…浜松町は港区…ネスサン…ネスサンネスサン
ネスサン…浜松町は港区…浜松町は港区…
https://twitter.com/Uesakasumire/status/262861022715576320
0154人間七七四年
2012/10/30(火) 17:46:42.73ID:Rgn5Goix0156人間七七四年
2012/10/30(火) 19:01:32.16ID:427EBqPV気遣いというよりはもっとドライな、異人の人情ってどんなもんなんだろ、ぐらいの客観的な興味で
聞いただけじゃないのかな、信長ってそんな人っぽい
0157人間七七四年
2012/10/30(火) 19:47:16.72ID:PBrR4TrQ信長は布教のために身ひとつで極東までくる精神性を気にいったんだと思う
信長は基本、秩序制御タイプだけど、
森武蔵みたいな徹底した人間(なんらかの有能さ必須)を好む面もあるから
0158人間七七四年
2012/10/30(火) 20:24:38.88ID:kZZO2kLz目に狂気が宿ってるくらいの人間が好みだったんだろうな
0159人間七七四年
2012/10/31(水) 00:05:35.52ID:9VCDBAR3ひとつ疑問なんだが、普通に父親の代からの家臣に案内させる事は出来なかったんかな?
家老クラスなら一人くらい伏見城内に入れる奴がいてもおかしくないと思うんだが。
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