戦国ちょっといい話35
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0001人間七七四年
2012/10/18(木) 19:08:22.07ID:/qlGMV2o戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0567人間七七四年
2012/11/25(日) 16:31:39.67ID:8NnuOFlf0569人間七七四年
2012/11/25(日) 17:58:59.37ID:GKQf6RL1演射場を設け日を選んで赴きこれを見物した。
ところが他の侍たちは皆多くの矢を当てたが、終日に射った某は一矢も当てることが
できなかったので信長を満足させられなかった。信長は帰ると「見るのと聞くのでは
違うな。人の言葉など当てにならないものだ」と述懐した。
その後、一揆が蜂起しその勢いはすこぶる激しく、信長は自ら将としてこれを討った。
この時、大勢の者たちがしりごみして進まないなか、某は信長の馬前に立ち弓を
いっぱいに引き絞って縦横に放射した。その矢はおおむね外すことなく、賊徒は
このために退却した。
これを見て信長は「なんと深き技よ。あの時、矢が当らなかったのは当てることが
できなかったのではない。余力を養って他日に功を立てようと望んだのだ。
諺に能ある鷹は爪を隠すというが、確かにその通りだ」と感嘆し、厚く褒美を与えて
某を賞した。
――『近古史談』
0570人間七七四年
2012/11/25(日) 18:05:04.16ID:cOAcGLLX練習は下手なだけだったりして
0571人間七七四年
2012/11/25(日) 18:15:08.83ID:m0zzi1T00572人間七七四年
2012/11/25(日) 18:15:37.01ID:GKQf6RL1申し訳ありません訂正します。
×皆多くの矢を当てたが、終日に射った某は
○皆多くが矢を当てたが、終日射ったのに某は
0573人間七七四年
2012/11/25(日) 19:38:54.08ID:OzOieAs2なりふり構わず必死になれば本来の力を発揮するみたいな。
0574人間七七四年
2012/11/25(日) 20:20:32.23ID:8NnuOFlf0575人間七七四年
2012/11/25(日) 20:54:38.72ID:V++vXSTnこれはさすがに無理矢理だと思いました
本番に強いタイプなんだろう
0576人間七七四年
2012/11/25(日) 21:26:28.36ID:161YWbBU0577人間七七四年
2012/11/25(日) 21:30:27.31ID:IL7boC/N0578人間七七四年
2012/11/25(日) 21:48:22.64ID:CJcrbyrs的な何かとか…
0579人間七七四年
2012/11/25(日) 21:56:32.60ID:25XWbAOY0580人間七七四年
2012/11/25(日) 22:04:03.79ID:OjyjOhZ+なAAを連想した
0581人間七七四年
2012/11/25(日) 22:33:30.74ID:uCDCw6Cz0582人間七七四年
2012/11/25(日) 23:12:24.98ID:BY8mcfycスレ対象外な時代の人だけど
0584人間七七四年
2012/11/26(月) 09:33:53.20ID:NjPRmEbA0586人間七七四年
2012/11/26(月) 10:46:24.87ID:ZpyraGFx0587人間七七四年
2012/11/26(月) 10:51:06.88ID:7Jirq2xh0588人間七七四年
2012/11/26(月) 11:11:06.41ID:ogcdr5SB0589人間七七四年
2012/11/26(月) 12:27:54.41ID:5j9NCcQKと叱るわけにもいくまい
そんなの言われたら確実にやる気なくすよ
0590人間七七四年
2012/11/26(月) 16:09:01.90ID:7ZA97t50ノブは性格より機嫌が良い時と悪いときの落差が激しいんで…
多分この時は自ら出馬しての勝ち戦で上機嫌だったんだろう
0592人間七七四年
2012/11/26(月) 17:40:47.85ID:fv8Yc8Y/0593人間七七四年
2012/11/26(月) 17:47:08.15ID:eI89sZWPつか、自分以外の者も自分と同じ考えをすると思ってそうだからな〜
0594人間七七四年
2012/11/26(月) 17:48:42.10ID:L1IjBxPi0595人間七七四年
2012/11/26(月) 18:42:17.91ID:/16afk860596人間七七四年
2012/11/26(月) 18:46:56.06ID:VSIyx/omラスボスの洞察力は凄いと思う。家康は、ホトトギスじゃないけどモノになるまで待てる感じ。
信長は良くも悪くも育ちの良さからくる人の良さを感じる。
0597人間七七四年
2012/11/26(月) 22:59:33.16ID:hma1LAxA0598人間七七四年
2012/11/26(月) 23:33:33.87ID:ORpphC3O豊臣秀吉は使者に二人の名を問わせた。
使者は馳せて「主将の命である。各々名を伝えよ」と言ったが一騎も答えない。
使者が反命すると秀吉は「お前は馬を降りずに問うたから軍礼を失したのだ。
そりゃあ答えはせん」とさらに別の使者を遣わした。
二騎は馬を降りて小早川隆景の家臣、河田八助、楢崎十兵と名乗った。後に
二人は征韓の役で隆景に従いしばしば明兵と戦った。河田の背旗、楢崎の保衣は
ともに雄々しく偉大にして並々ではなかったので、その名を異国に輝かした。
――『近古史談』
0599人間七七四年
2012/11/27(火) 09:05:29.22ID:WR+T6pHfでも、礼というよりもメンツといわれたほうがしっくりするような気も
0600人間七七四年
2012/11/27(火) 10:37:14.67ID:Qx1w0kiF0601人間七七四年
2012/11/27(火) 10:43:18.94ID:SwUk9bgw0602人間七七四年
2012/11/27(火) 12:25:17.12ID:LWIGGGqm使者も戦闘中にいちいち下馬してものをいうなんて、って気持ちがあるんだろう
0603人間七七四年
2012/11/27(火) 12:27:40.80ID:cXcv4PNS0604人間七七四年
2012/11/27(火) 15:32:08.28ID:eahOQBlN0605人間七七四年
2012/11/27(火) 15:37:34.00ID:NJOxbHj50606人間七七四年
2012/11/27(火) 21:24:28.28ID:XOBI6aC/0607人間七七四年
2012/11/27(火) 21:25:43.66ID:CgL4870Aいまさらだが既出?
0608人間七七四年
2012/11/27(火) 21:54:29.04ID:UbDSylm20609人間七七四年
2012/11/27(火) 22:14:25.36ID:Lzd8dpMl挨拶の起源もそんなとこだろうと思ってる
0610人間七七四年
2012/11/27(火) 22:45:46.92ID:UUbXdFOe双方で掴むのが敵意のない戦国時代の挨拶だっけ?
0611人間七七四年
2012/11/28(水) 01:11:03.69ID:n0oLrGDd渡ることも困難であったが、信長が水のほとりに立って「先にこの河を渡るのは誰だ!
古の梶原も佐々木も鬼神ではないぞ!」と、言い終わらないうちに上流より一騎が
流れを乱して宇治川を渡った。
信長は「必ず梶川弥三郎だ、余人ではない! 天晴れな勇士をむざむざ敵に討たせるな!」
と命じ、大勢が競ってこれに続いてついに岸に上り勝利を得た。
初め梶川は博奕を好んで人々に除け者にされたが、信長は独りその勇を愛し、
「急難のある時はこれで功を立てよ」と名馬を与えた。梶川は感涙して「この馬で
先駆けできなければ生きては還らない」と自ら誓い、ここに功を立てたのだ。
大槻磐渓曰く、
「宇治川の先登について世の人は梶原と佐々木だけを知り、梶川を知る者は少ない。
梶原、佐々木は馬を並べて先陣を争ったわけだが、さて梶川の最も勇壮な単騎直進に
及ぶのはどちらであろうか。どちらも及ぶわけがないのだ」
――『近古史談』
0612人間七七四年
2012/11/28(水) 05:26:58.54ID:CiJOS1Ku0613人間七七四年
2012/11/28(水) 06:53:12.68ID:eYxSm6Lj0614人間七七四年
2012/11/28(水) 10:46:47.32ID:yQqXJ/+H0615人間七七四年
2012/11/28(水) 13:23:30.34ID:wAyX7EF70617人間七七四年
2012/11/28(水) 20:06:58.17ID:c1HYOeAe0618人間七七四年
2012/11/28(水) 20:56:36.64ID:sbemlcRK鼻つまみ者のギャンブラーが名を残す勇者になっちまうんだから
0620人間七七四年
2012/11/28(水) 23:49:05.47ID:7gcmoWU5現在も四日市市日永地区に伝わるこの踊りは、
滝川一益が起源に関係していると言われているようです。
説は2つあり、1つは滝川一益が母の隠居所を実蓮寺境内に建築する際に、
地固め工事に歌った歌謡と動作を元にしているというもの。
もう1つは、滝川一益が毎年大雨のため田畑が流出してしまう農民の困窮を見て、
天白川の堤防を築き、その際の地固め、地つきに歌ったという説です。
そしてその踊りがどんなものかというと、天明八年(1788年)の司馬江漢の日記には、
「十二歳から十七歳の男女、手と手をとり、輪になってツンツクツンツクとて踊るなり。
中に十五、六の男の子、白きさらしの手拭いをほうかむりして、うたをうたいて太鼓をたたく。
(中略)その夜も前夕の通りツンツク踊あり。踊と云うには非ず、
ただ手と手を取り、伸びたり屈んだりするのみ。誠に田舎の踊りなり」とある。
こんな思春期の少年少女たちがドキドキできる
マイムマイムみたいな踊りを滝川一益が作っていたとは。
ちょっと面白かったのでいい話に。
0621人間七七四年
2012/11/29(木) 20:54:38.49ID:CYfM9YTg高橋紹運の家臣に谷川大膳という者が居た。
岩屋落城前日に紹運の命を受け立花城に使いをし、
島津軍の厳重な包囲をかいくぐり岩屋に戻ったが
時遅く、城は落城し主君も切腹。
そんな事を知らない谷川大膳は門を叩くがどうも様子がおかしい。
そうこうしている間に島津の兵に囲まれ、島津忠長の陣へ連行された。
大膳は尋問を受けたが、悪びれる様子もなく姓名を名乗り
主君の命で立花城に使いした事を申し述べた。
その態度に感じ入った島津忠長は紹運の死と落城を告げ
「当家に仕える気は無いか?今まで受けていた俸禄と
おなじ分を進ぜよう」と誘った。
0622人間七七四年
2012/11/29(木) 21:03:11.22ID:CYfM9YTg大膳はそれを聞くと
「忝い次第ですが、この期に及んでそんな望みはありません。
主君の最期に遅れ、お供が出来なかった事が残念でなりません。
そこでお願いしたい事があります。
立花城からの返書は私の首にかけてあります。
どうかこれだけは、私の首を落とした後立花城に返していただきたい。
もし叶わぬなら、首をはねた後、ご覧いただきたい。」と涙を浮かべ言った。
これを聞いた忠長は涙を流しつつ
「これぞ誠の武士である。紹運殿はいかに名将であった事かがよく分かる。
この者を殺してはならない、またその書状も見る必要はない
大切にしまって立花城へ帰られるがいい」と言って、縄を解き刀を返したばかりか
馬に乗らせ足軽数人までつけて送り返したという。
0623人間七七四年
2012/11/29(木) 21:12:41.15ID:CYfM9YTg大膳は立花城に帰ると立花統虎に書状を返すと
切腹しようとしたので、統虎は驚いてこれを止め
「今そなたが死ぬ事は犬死に等しい。亡き父上(紹運)も喜ばれまい。
どうか、これからは余に仕え、余の馬前で死んでくれよ。」と言った。
その後は立花家に仕え統虎の兵学師範となったが
後に剃髪し、紹運はじめ戦死者を弔いながら一生を終えたそうである。
浅川聞書に伝わるお話ですが、死んだ人たちよりも生きながらえた方が
つらかったのかも知れませんね。
視点によっては良い話では無いかもしれません。
0624人間七七四年
2012/11/29(木) 21:54:11.70ID:oQXW4n1B優劣つける必要ない
0625人間七七四年
2012/11/29(木) 21:58:28.03ID:5Za6BvO60628人間七七四年
2012/11/29(木) 23:08:08.85ID:IJMIozKW某SLGじゃ出てこないかモブ扱いだけどさ
0629人間七七四年
2012/11/29(木) 23:33:50.19ID:CG4P9gBDそんな難しいことわかんねえよ
ただ生きることに理屈はいらないけど、死ぬ時にに生きてて良かったって思うためには死ぬ理由はあった方がいいかもしれない
矛盾してるか
0630人間七七四年
2012/11/30(金) 17:22:35.00ID:pUBJW8Va「武士の兵法に関していろいろな論が世にあるけれど、
何を初心者の技とし、何を武士道の奥義と区別しているのだろうか。
あらゆる芸事には、これが極意である、
これこそが秘伝であるなどと言う奥義が伝わっているものだが、
いざ敵と斬り合うときには、
初心者の技で斬るとか、この場合は奥義を使うなどの区別はない。
我が流派では、初心者にはまず合理的に勝つための技術を教え、
論理で伝えられないところは、
その者の心のわだかまりや執着が薄れる頃合いを見計らって、
次第次第に深いところの理を体得してもらえるよう心がけている。
とは言っても、兵法とは突き詰めれば斬り合いの場での術を学ぶこと。
それ以上でも以下でもないのだから、もともと奥義なんてものはない。
例えば、山奥に行こうとして辿りつき、
そこからさらに奥を目指せばまた入口に出てくるようなもの。
それは兵法に限らず、なんの道でも、
深いところの技が効果を発揮する場もあれば、
初心者の技こそが効果を発揮する場面もあるということだ。
他流派にはこれは奥義だからまだオマエには教えられない。
と、言って奥義なる技を隠す流派もあるようだが、
そもそも斬り合いに勝つということにおいて、
何を隠すことがあり、何を顕すことがあると言うのだろうか。
以上の理由から、拙者宮本武蔵は誓紙や罰文などで、
弟子を型にはめ育てる方法を好まない。
兵法を学ぶ人のそれぞれ生まれもった気質才能を大事にし、
その本来の心へ直に至る道こそを教え、
それまでの人生で後天的に身につけた悪いところを捨てさせる。
そして自らの力で誠の武士の道に入るよう教えるのが我兵法の道である。
よくよく鍛練あるべし」【五輪書】
0631人間七七四年
2012/12/01(土) 15:07:15.72ID:YpmGoFtH花は野にあるが如く、夏は涼しく、冬は暖かく…これを除きて秘法無し」と答えた。
その人が呆然として「…そのようなことは知っています」と言うと、
利休は「あなたがもしこれを知っているのならば、そのように実行してください。
私は礼物を奉ってあなたの弟子になりましょう」と言った。
側にいた笑嶺和尚はこれを「三歳の童でもこれをよく知っている。
しかし八十歳の翁であってもこれを行うことはできない」と評した。
――『日本史伝文選(芸苑叢話)』
0632人間七七四年
2012/12/01(土) 15:33:52.20ID:669Qsn1+0633人間七七四年
2012/12/01(土) 15:40:15.09ID:3tkmdVk/0634人間七七四年
2012/12/01(土) 16:01:22.48ID:TvxLqYCi0635人間七七四年
2012/12/01(土) 17:34:59.80ID:a30u93NX0637人間七七四年
2012/12/01(土) 18:37:02.20ID:WvSaHiAo0638人間七七四年
2012/12/01(土) 20:14:06.14ID:nwosr3HU後継者の立花忠茂の拵えた陣太刀を見た宗茂が、後に周囲に語った話
「大将は言うに及ばず、武士たるもの諸道具の拵えを派手にするのは悪しきことだ。
以下に強い者でも、派手な拵えのせいで、遠矢で射抜かれ手負いになっては何の役にも立たぬものだ。
我ら立花の者は、世の常の刀に蟇肌という地味な拵えの立ちで日本はおろか朝鮮に至りて四十四度の
戦場で一度も事を仕損じたことはない」
これに対して立花壱岐が言上した。
「鎧を着ていると刃渡り二尺三寸の太刀でも抜きにくいので、当節の陣太刀は短めに拵えるそうです」
「昔、道雪公に仕えていた安藤対馬なる武士は、刃渡り三尺一寸を馬上で引き抜き、騎馬三駒、
徒歩武者六人を一瞬で切り伏せたものだ」
しかし壱岐の腑に落ちない顔に気づいた宗茂は続けた。
「太刀の抜き方にコツがあるのだ。一度に抜けぬ時は、中間を取って抜けば良いのだ。もし間に合わない
ようなら脇差を抜けば良い。また馬上にて太刀を抜くときは、柄を逆手に取って抜けば馬に当たる気遣いもない。
小脇差とて抜き打ちにするとしくじって馬を傷つけるので心せよ」
戦国生き残りの武将、立花宗茂のちょっと役に立つ良い話 (浅川聞書より)
0639人間七七四年
2012/12/01(土) 22:00:18.12ID:BgQ/w/CT第1次世界大戦でやっと辿り着く欧米
0640人間七七四年
2012/12/01(土) 22:06:43.45ID:HHbnuqeE0641人間七七四年
2012/12/01(土) 22:35:32.34ID:6uF1uw1O0643人間七七四年
2012/12/01(土) 23:56:29.25ID:uPIsewsJ0644人間七七四年
2012/12/02(日) 00:29:37.31ID:WHuJOZktそういえば騎馬民族ってだいたい湾曲した刀剣を振り回してるよな
0645人間七七四年
2012/12/02(日) 01:04:29.70ID:jMM1blfz0647人間七七四年
2012/12/02(日) 10:36:59.25ID:hn2P8NqH雑兵物語にもあったな
0649人間七七四年
2012/12/02(日) 11:18:08.30ID:l7pidEiq0650人間七七四年
2012/12/02(日) 11:39:20.94ID:IrSTqUOT0651人間七七四年
2012/12/02(日) 12:14:18.39ID:nA/QW6Fi0653人間七七四年
2012/12/02(日) 13:14:33.31ID:aE/h0DSu安藤対馬なる武士は、刃渡り三尺一寸を馬上で引き抜き、騎馬三駒、
徒歩武者六人を一瞬で切り伏せたものだ
三尺一寸って94cmだよね。絶対に一瞬で切り伏せられないよね
某漫画のように斬撃の使い手か刀がビームサーベルだったか...
0657人間七七四年
2012/12/02(日) 14:27:08.34ID:HjRvNDpE余程の精鋭部隊でないと務まりません
0658人間七七四年
2012/12/02(日) 15:41:22.50ID:SgTb1Jl2「人は三十歳までに名を起こせなければ立身できない。つくづくと
世の中の有様を見てみると、連歌師は易い道のようだ。職人も町人も
貴人の御座に連なるくらいだからな。もしそれが無理なら百万遍の長老より
推挙状をもらって関東へ下り、大岩寺で談義を説いて世を渡ろう」
と思い立って上洛し、里村昌休をたのんで連歌を稽古した。
しかし度々退屈しては袋をかたげて「関東へ下る」と言い出したが、
小川の連歌師たちに押し止められた。その内にしばしば人に知られ、
称名院殿(三条西公条)に源氏物語を聞き、三好殿(長慶)の仰せによって
宗養と両吟を仕った。辛労の功がつもり、冥加が有ったのであろうか。
やがて宗養が亡くなって紹巴は天下の上手と呼ばれるようになった。
――『日本史伝文選(戴恩記)』
0659人間七七四年
2012/12/02(日) 20:31:54.11ID:ULkjyKm70660人間七七四年
2012/12/03(月) 21:09:09.62ID:jz2XSlVk鯉を捕り、それを江戸に送って商売をしていた。
ある時、老中の知恵伊豆こと松平信綱に、箕和田の、鯉を獲っている者たちとは別の町人の一団が、
六百両の運上金を差し出しますので自分たちに鯉を捕る権利を与えてほしい、と申し出た。
幕府にとって今までよりも運上金が二百両多く収まることになるので、その一団の者たちは、必ず許可に
なるものと考えていた。ところが信綱は
「よく考えてみよ。今まで四百量だった運上金を、わざわざ二百両増やして六百両にしてくれという者があるか。
それは、今までよりも鯉の値段を二百両上げてくれ、というのと同じ事だ。
その二百両は結局、江戸の武家や町人に売る鯉の値段を吊り上げることによって生み出そうとするであろう。
それは江戸の住人に難儀を与えることになる。
逆に、今までの運上金四百領を、二百両にしてくれと申し出たのなら、許すことにしたであろうに。
幕府が二百両の運上金を多くもらったからといって、その分、江戸の住人が高値に苦しまなければならないというのでは
不義が生まれ、訴訟が増えるばかりである。」
そう言って、前々から四百両の運上金を収めている町人たちに、鯉を捕る権利をそのまま与えたという。
(名将言行録)
0661人間七七四年
2012/12/03(月) 21:30:54.39ID:zk6K1qku0662人間七七四年
2012/12/03(月) 22:00:39.98ID:HKzcnOmV0663人間七七四年
2012/12/03(月) 23:11:01.18ID:32kcS1Ik「足軽は、どうしても侍より早く崩れたがるものだ。そこで譜代の者どもの子を取り立て、
銘々に召し使い、一飯も食べさせ、他へ出仕しないよう育み召し置いておくことが肝要だ。
いざ人数が必要な時には、彼らに槍一本持たせて戦場に召し連れれば、彼らは知行など
なくとも恥を知る者なので足軽共の代わりになり、備えが崩れることがない」
(浅川聞書より)
0664人間七七四年
2012/12/03(月) 23:40:27.87ID:gXfRvWke■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています