これは元和5年(1619)の福島正則改易について、石谷将監(初名十蔵、後に土入と号す)が語った
事である。

伏見でにおいて将軍秀忠が福島正則の改易を決断する。
そこでこの時江戸藩邸にあった正則に対し、改易を伝える使者を出すことになったが、この時将軍秀忠を始め
主な幕閣などは伏見にあり、江戸には留守居があるのみであった。そのため

『彼の者は武功者であり、また心荒き者であるので、上意を素直に受け入れるとは思えません。
そうであれば使者として赴くのは、江戸留守居の者たちからではなく、(現在伏見にある老中格の)
井伊・本多・榊原・酒井などの内から出すべきであると考えます。』

と、評議において意見が出た。重大な事態に陥る可能性の高い使者である以上、相応の
責任を持ったものが行くべきだ、という事であろう。

これを聞いた井伊掃部頭直孝は、言う

「おやおや、いざ合戦となって先陣を務めるのは私の役目であるぞ。この時は江戸留守居に残った
者達の出番はない。
幸いにも、今回のような事は、御上洛の御留守を承り、江戸御城下に居ながらのお使いという、
御留守居衆にとってうってつけの役目である。

各々の察している通り、福島左衛門大夫はこの改易を、とても素直に受け入れるとは思えない。
もし最初の使者からの改易の命を拒否したことが解れば、次は我々から彼に当てた書状を出すべきである。
その内容は

『あなたは咎によって安芸・備後両州を召し上げられ、どこどこに改易されることになった。
この事を御恨みに思うのであれば、広島に下って挙兵するのも、またそちらの屋敷に立て籠もるのも、
心次第にやって頂いて構わない。』

これを見てもまだ左衛門大夫が、むつかしく改易をお受けしないのであれば、その時は他でもない。
この掃部頭に仰せ付けられよ。討ち取って差し上げよう。

ともかく、先ずは穏当に使者を遣わされるべきであろう。」

これを秀忠もいかにもと考え、江戸留守居であった牧野駿河守信成以下が、正則への上使となった。


その頃正則の江戸屋敷は、今の増上寺の近く、愛宕山の下にあった。そのため愛宕山に石火矢を
配備し、緊急の事態になればすぐさま正則の屋敷に向かって撃ちこむ用意をしていた。

ところが、思いの外に正則は静かに改易を受け入れた。この事、江戸より伏見に報告されると、
伏見では秀忠上洛のお供として召し連れられていた、正則の嫡男備後守(忠勝)も取り籠められた。
(武野燭談)

福島正則改易の時の、井伊直孝の発言などについての逸話である。