戦国ちょっといい話35
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0001人間七七四年
2012/10/18(木) 19:08:22.07ID:/qlGMV2o戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0525人間七七四年
2012/11/21(水) 20:26:15.31ID:6pAeQzF3主人自ら調理作って風呂沸かして饗すのが当時の最上級のおもてなしだからね
大抵の武将は料理心を持ってる時代
0527人間七七四年
2012/11/21(水) 21:44:54.34ID:JGRtyo9K光茂公の御代となったばかりのころのこと、
多久美作殿は、作り馬鹿の志田吉之助に相談を持ちかけた。
美作
「御代かわりは最初が大事だ。
そこを考え、勝茂公が拙者に遺言状を残してくださっている。
志田殿にもぜひ読んでもらい、
なにか助言があれば是非とも聞かせてほしい。」
と言い、美作殿は遺言状を読み上げ始めた。
しばらく聞いていた吉之助だったが、
吉之助
「退屈になってきたから帰る」
と言い出した。
美作殿もさすがにお怒りになり、
美作
「普段から武士らしくない放言をふざけ、
金が欲しくなれば金貸しを営み、
腰抜けを演じたかと思えば山賊無頼と喧嘩する、
そんな志田殿には、勝茂様や私が、
真面目に奉公する姿はさぞ愚かに見えるのでしょうな。
この遺言状は主君びいきを差し引いても素晴らしい内容。
なにが退屈なのですか」
とその理由を詰問した。
吉之助
「美作殿は人なみの家老であると見ていたのだが、
どうやら何の役にも立たない家老のようだ。
その理由は、そもそも家老というものは、
主君が家中の者どもに慕われるように計らうもの。
美作殿が読み上げられた勝茂様の遺言状は内容素晴らしく胸打つものがある。
その遺言状を御代替わりの始めに家中の皆に教訓したなら、
家中の者どもは勝茂様をさらに慕い思い、
それを授かった貴方の名も上がるばかりであろう。
勝茂様がお亡くなりになりまだ日も浅く、
ご恩を受けた家中の侍どもが涙もかわかぬうちから、
その遺言状の内容を知ったならいよいよ先代への思いが募ることになる。
それにひきかえ光茂様は江戸生まれで、
肥前の侍どもにも国柄にも馴染み薄く、
新しい主君は、はたして九州者の気持ちをわかってくださるだろうか?
というような世間話が拙者の耳にも聞こえてくる。
そこに遺言状が知れ渡れば光茂様をお慕いする者はいなくなるだろう。
誠の家老であるなら、その遺言状を新しい殿様の考えとして、
美作殿の才覚、手間も隠して公表できるはずだ。
そうして新しい殿様は勝茂様にもまして、
ありがたい主君だと慕われるように計らうべきであろう。」
と答えた。
美作殿は、
「まさにその通りだ。やはり志田殿に相談してよかった」
と言って勝茂様の遺言状を破り捨てた【葉隠】
0528人間七七四年
2012/11/21(水) 22:15:51.75ID:BMvfWn+S0529人間七七四年
2012/11/21(水) 23:26:36.86ID:dMqQwsD50530人間七七四年
2012/11/21(水) 23:51:04.74ID:6pAeQzF30531人間七七四年
2012/11/21(水) 23:53:25.56ID:ioxlymfs勝茂もそうすればよかったのか?
0532人間七七四年
2012/11/22(木) 10:34:46.63ID:GcjH3LWUそもそも勝茂自身が半ば伝説化した直茂パパンの声望に追いつこうと必死だったので
そんな余裕はありませんのだ
0533人間七七四年
2012/11/22(木) 10:47:10.83ID:V6DmeAAv0537人間七七四年
2012/11/22(木) 16:09:04.81ID:RwTP090j0538人間七七四年
2012/11/22(木) 19:19:38.88ID:V6DmeAAv0541人間七七四年
2012/11/23(金) 08:32:42.17ID:X2nhYk3I事である。
伏見でにおいて将軍秀忠が福島正則の改易を決断する。
そこでこの時江戸藩邸にあった正則に対し、改易を伝える使者を出すことになったが、この時将軍秀忠を始め
主な幕閣などは伏見にあり、江戸には留守居があるのみであった。そのため
『彼の者は武功者であり、また心荒き者であるので、上意を素直に受け入れるとは思えません。
そうであれば使者として赴くのは、江戸留守居の者たちからではなく、(現在伏見にある老中格の)
井伊・本多・榊原・酒井などの内から出すべきであると考えます。』
と、評議において意見が出た。重大な事態に陥る可能性の高い使者である以上、相応の
責任を持ったものが行くべきだ、という事であろう。
これを聞いた井伊掃部頭直孝は、言う
「おやおや、いざ合戦となって先陣を務めるのは私の役目であるぞ。この時は江戸留守居に残った
者達の出番はない。
幸いにも、今回のような事は、御上洛の御留守を承り、江戸御城下に居ながらのお使いという、
御留守居衆にとってうってつけの役目である。
各々の察している通り、福島左衛門大夫はこの改易を、とても素直に受け入れるとは思えない。
もし最初の使者からの改易の命を拒否したことが解れば、次は我々から彼に当てた書状を出すべきである。
その内容は
『あなたは咎によって安芸・備後両州を召し上げられ、どこどこに改易されることになった。
この事を御恨みに思うのであれば、広島に下って挙兵するのも、またそちらの屋敷に立て籠もるのも、
心次第にやって頂いて構わない。』
これを見てもまだ左衛門大夫が、むつかしく改易をお受けしないのであれば、その時は他でもない。
この掃部頭に仰せ付けられよ。討ち取って差し上げよう。
ともかく、先ずは穏当に使者を遣わされるべきであろう。」
これを秀忠もいかにもと考え、江戸留守居であった牧野駿河守信成以下が、正則への上使となった。
その頃正則の江戸屋敷は、今の増上寺の近く、愛宕山の下にあった。そのため愛宕山に石火矢を
配備し、緊急の事態になればすぐさま正則の屋敷に向かって撃ちこむ用意をしていた。
ところが、思いの外に正則は静かに改易を受け入れた。この事、江戸より伏見に報告されると、
伏見では秀忠上洛のお供として召し連れられていた、正則の嫡男備後守(忠勝)も取り籠められた。
(武野燭談)
福島正則改易の時の、井伊直孝の発言などについての逸話である。
0542人間七七四年
2012/11/23(金) 09:12:53.57ID:AwgcWyxp秀忠公は落ち着いているなぁ
0543人間七七四年
2012/11/23(金) 10:09:00.99ID:FAotWQ890544人間七七四年
2012/11/23(金) 11:39:39.74ID:HRCXv3lr0545人間七七四年
2012/11/23(金) 11:58:25.63ID:Ol09G7q60546人間七七四年
2012/11/23(金) 16:24:58.24ID:KLdq6rtb0547人間七七四年
2012/11/23(金) 18:19:42.11ID:wu7IoVQ1含むところがあって直孝とは不通となっていた。
(>>541の直前?http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3838.html)
この時、改易は京都で伝えると結論が出ていたのだが、高虎は
若年ではあるが末座の直孝へも話すべきではないかと秀忠に言った。
しかし召された直孝は江戸で伝えるべきだと再三言うので、高虎は直孝に
反対してついには若造は黙れとまで言ったのである。
後に高虎は死に臨んで直孝を招き「今までは京都でのことがあったので
互いに不通のまま打ち過ごしてきましたが、此度大病のために既に
露命も窮まりました。ですからどうか倅の大学のことを頼み入り申す。
万事よろしく御引廻しくだされ」と念入りに頼んだ。
直孝も「大学頭殿のことは絶対に手抜かりのないように承知しております。
懇意に通じていきますとも」と返答した。これより両家はかつてのように
心安く出入りするようになった。
――『名将言行録』
0548人間七七四年
2012/11/23(金) 23:50:04.87ID:nHSjt1hS0549人間七七四年
2012/11/24(土) 16:36:38.14ID:N6nvx2T2福島家は存続してたのかな?
0550人間七七四年
2012/11/24(土) 17:07:12.77ID:QdRWouJn参って料理を賜りたい」と申し伝えた。重長は「これは珍しいことだ。
何を思はれて申し越されたのだろう」と殊の外喜んで直次を饗応した。
直次は機嫌良く料理を賜り、緩々と話して帰っていった。
その後、重長は刀が残されているのを見つけ「うっかりお忘れになったのか」
と思い、近習に命じて直次の乗物を追わせた。
乗物に追いついた近習は側に寄って「御腰物でございます」と申し上げた。
すると直次は乗物の戸を開けて中より刀を取り出し「武士が刀を忘れるわけ
ないだろう」と言って刀を見せると、戸をひしと閉じて帰っていった。
仰天した近習が重長にしかじかと報告すると、重長は何かを察して涙を流した。
「さては今度在所へ帰国される時に隠居なさるおつもりであるぞ。
その刀はそれがしに形見として賜わるということに違いない」
重長の思った通り、直次はその月すぐに紀州へ帰りその年のうちに隠居した。
――『名将言行録』
0551人間七七四年
2012/11/24(土) 19:50:56.20ID:01bEDd5W0552人間七七四年
2012/11/24(土) 20:11:18.83ID:veBfM4Uc0553人間七七四年
2012/11/24(土) 20:52:57.25ID:a+JjAOIw0555人間七七四年
2012/11/24(土) 21:24:06.04ID:veBfM4Uc腫れ物出来た時にはムカついて無理矢理膿を出したら悪化して生死の境をさまよったりとか、
その時に遺言とか形見分けをし始めて死ぬ気満々で医療を拒否し始めて作左に叱られたりとか、
わりと面倒くさい
0556人間七七四年
2012/11/24(土) 22:03:10.72ID:ZeZjyIdy0557人間七七四年
2012/11/24(土) 22:25:07.04ID:/MJ8+Crrググったら、安藤重長は、安藤直次の弟の安藤重信の跡継ぎなんだね
実際には、重長は重信の娘の子(外孫)なんだけど、養子ということに
して跡を継がせた
重長からすると、重次は形の上では伯父、実際は大伯父
つまり、ふだんあまり付き合いのない親戚のオッチャン(しかも幕府の
老中もつとめたエラい人)が突然訪ねてきて、機嫌よく飲み食いして
帰っていったというお話
0558人間七七四年
2012/11/24(土) 22:26:37.34ID:/MJ8+Crr>重長からすると、重次は形の上では伯父、実際は大伯父
失礼、訂正。
○重長からすると、直次は形の上では伯父、実際は大伯父
0559人間七七四年
2012/11/25(日) 00:16:56.97ID:3jF6m7+6田舎臭さがなく結構粋だよね
0560人間七七四年
2012/11/25(日) 03:38:56.83ID:CJcrbyrs0561人間七七四年
2012/11/25(日) 04:29:08.05ID:UJeJOoWB0562人間七七四年
2012/11/25(日) 04:45:47.47ID:V3jPIT9D0563人間七七四年
2012/11/25(日) 14:02:43.82ID:jVWuSVCU呼ばれていた。
この人、初めは箱根別当として出家され、真言の学問を残らず学ばれた。
その上、伊勢氏は代々、巧みな鞍を造るのを家伝としており、早雲寺殿も幼少より嗜んでおられた。
そうであったが北條の系図を請けて、嫡男の氏綱は北条であるということでこの技術を相伝せず、
幻庵は出家の身であったが、生来細工の才能があり、伝わる鞍の製造技術を尽く習得した。
これだけではなく、弓の製作も習得し、矢を剥ぎ弦をさす事、世に並びのないほどであった。
また石台を作り、茶臼を作ることにも優れていた。
その上武勇にも優れていたため、出家の身から、再び武士への還俗された。
又、幻庵は尺八を作ることにおいても名高かった。彼の作った尺八は、『幻庵切りの尺八』と呼ばれ、
彼の作った一節切りの尺八は都鄙に流布し、禁中よりもご所望があった、
これによって関東では尺八が大変に流行り、小田原では若侍たちが、皆これを愛好したという。
(關侍傳記)
0564人間七七四年
2012/11/25(日) 14:51:37.81ID:atcxirTv0565人間七七四年
2012/11/25(日) 14:54:07.41ID:IaK7GtWI0567人間七七四年
2012/11/25(日) 16:31:39.67ID:8NnuOFlf0569人間七七四年
2012/11/25(日) 17:58:59.37ID:GKQf6RL1演射場を設け日を選んで赴きこれを見物した。
ところが他の侍たちは皆多くの矢を当てたが、終日に射った某は一矢も当てることが
できなかったので信長を満足させられなかった。信長は帰ると「見るのと聞くのでは
違うな。人の言葉など当てにならないものだ」と述懐した。
その後、一揆が蜂起しその勢いはすこぶる激しく、信長は自ら将としてこれを討った。
この時、大勢の者たちがしりごみして進まないなか、某は信長の馬前に立ち弓を
いっぱいに引き絞って縦横に放射した。その矢はおおむね外すことなく、賊徒は
このために退却した。
これを見て信長は「なんと深き技よ。あの時、矢が当らなかったのは当てることが
できなかったのではない。余力を養って他日に功を立てようと望んだのだ。
諺に能ある鷹は爪を隠すというが、確かにその通りだ」と感嘆し、厚く褒美を与えて
某を賞した。
――『近古史談』
0570人間七七四年
2012/11/25(日) 18:05:04.16ID:cOAcGLLX練習は下手なだけだったりして
0571人間七七四年
2012/11/25(日) 18:15:08.83ID:m0zzi1T00572人間七七四年
2012/11/25(日) 18:15:37.01ID:GKQf6RL1申し訳ありません訂正します。
×皆多くの矢を当てたが、終日に射った某は
○皆多くが矢を当てたが、終日射ったのに某は
0573人間七七四年
2012/11/25(日) 19:38:54.08ID:OzOieAs2なりふり構わず必死になれば本来の力を発揮するみたいな。
0574人間七七四年
2012/11/25(日) 20:20:32.23ID:8NnuOFlf0575人間七七四年
2012/11/25(日) 20:54:38.72ID:V++vXSTnこれはさすがに無理矢理だと思いました
本番に強いタイプなんだろう
0576人間七七四年
2012/11/25(日) 21:26:28.36ID:161YWbBU0577人間七七四年
2012/11/25(日) 21:30:27.31ID:IL7boC/N0578人間七七四年
2012/11/25(日) 21:48:22.64ID:CJcrbyrs的な何かとか…
0579人間七七四年
2012/11/25(日) 21:56:32.60ID:25XWbAOY0580人間七七四年
2012/11/25(日) 22:04:03.79ID:OjyjOhZ+なAAを連想した
0581人間七七四年
2012/11/25(日) 22:33:30.74ID:uCDCw6Cz0582人間七七四年
2012/11/25(日) 23:12:24.98ID:BY8mcfycスレ対象外な時代の人だけど
0584人間七七四年
2012/11/26(月) 09:33:53.20ID:NjPRmEbA0586人間七七四年
2012/11/26(月) 10:46:24.87ID:ZpyraGFx0587人間七七四年
2012/11/26(月) 10:51:06.88ID:7Jirq2xh0588人間七七四年
2012/11/26(月) 11:11:06.41ID:ogcdr5SB0589人間七七四年
2012/11/26(月) 12:27:54.41ID:5j9NCcQKと叱るわけにもいくまい
そんなの言われたら確実にやる気なくすよ
0590人間七七四年
2012/11/26(月) 16:09:01.90ID:7ZA97t50ノブは性格より機嫌が良い時と悪いときの落差が激しいんで…
多分この時は自ら出馬しての勝ち戦で上機嫌だったんだろう
0592人間七七四年
2012/11/26(月) 17:40:47.85ID:fv8Yc8Y/0593人間七七四年
2012/11/26(月) 17:47:08.15ID:eI89sZWPつか、自分以外の者も自分と同じ考えをすると思ってそうだからな〜
0594人間七七四年
2012/11/26(月) 17:48:42.10ID:L1IjBxPi0595人間七七四年
2012/11/26(月) 18:42:17.91ID:/16afk860596人間七七四年
2012/11/26(月) 18:46:56.06ID:VSIyx/omラスボスの洞察力は凄いと思う。家康は、ホトトギスじゃないけどモノになるまで待てる感じ。
信長は良くも悪くも育ちの良さからくる人の良さを感じる。
0597人間七七四年
2012/11/26(月) 22:59:33.16ID:hma1LAxA0598人間七七四年
2012/11/26(月) 23:33:33.87ID:ORpphC3O豊臣秀吉は使者に二人の名を問わせた。
使者は馳せて「主将の命である。各々名を伝えよ」と言ったが一騎も答えない。
使者が反命すると秀吉は「お前は馬を降りずに問うたから軍礼を失したのだ。
そりゃあ答えはせん」とさらに別の使者を遣わした。
二騎は馬を降りて小早川隆景の家臣、河田八助、楢崎十兵と名乗った。後に
二人は征韓の役で隆景に従いしばしば明兵と戦った。河田の背旗、楢崎の保衣は
ともに雄々しく偉大にして並々ではなかったので、その名を異国に輝かした。
――『近古史談』
0599人間七七四年
2012/11/27(火) 09:05:29.22ID:WR+T6pHfでも、礼というよりもメンツといわれたほうがしっくりするような気も
0600人間七七四年
2012/11/27(火) 10:37:14.67ID:Qx1w0kiF0601人間七七四年
2012/11/27(火) 10:43:18.94ID:SwUk9bgw0602人間七七四年
2012/11/27(火) 12:25:17.12ID:LWIGGGqm使者も戦闘中にいちいち下馬してものをいうなんて、って気持ちがあるんだろう
0603人間七七四年
2012/11/27(火) 12:27:40.80ID:cXcv4PNS0604人間七七四年
2012/11/27(火) 15:32:08.28ID:eahOQBlN0605人間七七四年
2012/11/27(火) 15:37:34.00ID:NJOxbHj50606人間七七四年
2012/11/27(火) 21:24:28.28ID:XOBI6aC/0607人間七七四年
2012/11/27(火) 21:25:43.66ID:CgL4870Aいまさらだが既出?
0608人間七七四年
2012/11/27(火) 21:54:29.04ID:UbDSylm20609人間七七四年
2012/11/27(火) 22:14:25.36ID:Lzd8dpMl挨拶の起源もそんなとこだろうと思ってる
0610人間七七四年
2012/11/27(火) 22:45:46.92ID:UUbXdFOe双方で掴むのが敵意のない戦国時代の挨拶だっけ?
0611人間七七四年
2012/11/28(水) 01:11:03.69ID:n0oLrGDd渡ることも困難であったが、信長が水のほとりに立って「先にこの河を渡るのは誰だ!
古の梶原も佐々木も鬼神ではないぞ!」と、言い終わらないうちに上流より一騎が
流れを乱して宇治川を渡った。
信長は「必ず梶川弥三郎だ、余人ではない! 天晴れな勇士をむざむざ敵に討たせるな!」
と命じ、大勢が競ってこれに続いてついに岸に上り勝利を得た。
初め梶川は博奕を好んで人々に除け者にされたが、信長は独りその勇を愛し、
「急難のある時はこれで功を立てよ」と名馬を与えた。梶川は感涙して「この馬で
先駆けできなければ生きては還らない」と自ら誓い、ここに功を立てたのだ。
大槻磐渓曰く、
「宇治川の先登について世の人は梶原と佐々木だけを知り、梶川を知る者は少ない。
梶原、佐々木は馬を並べて先陣を争ったわけだが、さて梶川の最も勇壮な単騎直進に
及ぶのはどちらであろうか。どちらも及ぶわけがないのだ」
――『近古史談』
0612人間七七四年
2012/11/28(水) 05:26:58.54ID:CiJOS1Ku0613人間七七四年
2012/11/28(水) 06:53:12.68ID:eYxSm6Lj0614人間七七四年
2012/11/28(水) 10:46:47.32ID:yQqXJ/+H0615人間七七四年
2012/11/28(水) 13:23:30.34ID:wAyX7EF70617人間七七四年
2012/11/28(水) 20:06:58.17ID:c1HYOeAe0618人間七七四年
2012/11/28(水) 20:56:36.64ID:sbemlcRK鼻つまみ者のギャンブラーが名を残す勇者になっちまうんだから
0620人間七七四年
2012/11/28(水) 23:49:05.47ID:7gcmoWU5現在も四日市市日永地区に伝わるこの踊りは、
滝川一益が起源に関係していると言われているようです。
説は2つあり、1つは滝川一益が母の隠居所を実蓮寺境内に建築する際に、
地固め工事に歌った歌謡と動作を元にしているというもの。
もう1つは、滝川一益が毎年大雨のため田畑が流出してしまう農民の困窮を見て、
天白川の堤防を築き、その際の地固め、地つきに歌ったという説です。
そしてその踊りがどんなものかというと、天明八年(1788年)の司馬江漢の日記には、
「十二歳から十七歳の男女、手と手をとり、輪になってツンツクツンツクとて踊るなり。
中に十五、六の男の子、白きさらしの手拭いをほうかむりして、うたをうたいて太鼓をたたく。
(中略)その夜も前夕の通りツンツク踊あり。踊と云うには非ず、
ただ手と手を取り、伸びたり屈んだりするのみ。誠に田舎の踊りなり」とある。
こんな思春期の少年少女たちがドキドキできる
マイムマイムみたいな踊りを滝川一益が作っていたとは。
ちょっと面白かったのでいい話に。
0621人間七七四年
2012/11/29(木) 20:54:38.49ID:CYfM9YTg高橋紹運の家臣に谷川大膳という者が居た。
岩屋落城前日に紹運の命を受け立花城に使いをし、
島津軍の厳重な包囲をかいくぐり岩屋に戻ったが
時遅く、城は落城し主君も切腹。
そんな事を知らない谷川大膳は門を叩くがどうも様子がおかしい。
そうこうしている間に島津の兵に囲まれ、島津忠長の陣へ連行された。
大膳は尋問を受けたが、悪びれる様子もなく姓名を名乗り
主君の命で立花城に使いした事を申し述べた。
その態度に感じ入った島津忠長は紹運の死と落城を告げ
「当家に仕える気は無いか?今まで受けていた俸禄と
おなじ分を進ぜよう」と誘った。
0622人間七七四年
2012/11/29(木) 21:03:11.22ID:CYfM9YTg大膳はそれを聞くと
「忝い次第ですが、この期に及んでそんな望みはありません。
主君の最期に遅れ、お供が出来なかった事が残念でなりません。
そこでお願いしたい事があります。
立花城からの返書は私の首にかけてあります。
どうかこれだけは、私の首を落とした後立花城に返していただきたい。
もし叶わぬなら、首をはねた後、ご覧いただきたい。」と涙を浮かべ言った。
これを聞いた忠長は涙を流しつつ
「これぞ誠の武士である。紹運殿はいかに名将であった事かがよく分かる。
この者を殺してはならない、またその書状も見る必要はない
大切にしまって立花城へ帰られるがいい」と言って、縄を解き刀を返したばかりか
馬に乗らせ足軽数人までつけて送り返したという。
0623人間七七四年
2012/11/29(木) 21:12:41.15ID:CYfM9YTg大膳は立花城に帰ると立花統虎に書状を返すと
切腹しようとしたので、統虎は驚いてこれを止め
「今そなたが死ぬ事は犬死に等しい。亡き父上(紹運)も喜ばれまい。
どうか、これからは余に仕え、余の馬前で死んでくれよ。」と言った。
その後は立花家に仕え統虎の兵学師範となったが
後に剃髪し、紹運はじめ戦死者を弔いながら一生を終えたそうである。
浅川聞書に伝わるお話ですが、死んだ人たちよりも生きながらえた方が
つらかったのかも知れませんね。
視点によっては良い話では無いかもしれません。
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