戦国ちょっといい話35
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0001人間七七四年
2012/10/18(木) 19:08:22.07ID:/qlGMV2o戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0467人間七七四年
2012/11/18(日) 23:53:19.47ID:j9G1vpw4Q
家康が征夷大将軍になって真っ先に発令したという「百姓斬り捨て禁止
令」について詳しく知りたい。
A
1603(慶長8)年3月27日 幕府、郷村七か條を出す。この七条目に、「
百姓むざと殺し候事、御停止たり」とあった。おそらくこの条文のことと
思われる。
「新国史大年表第5巻T 江戸時代前期」国史刊行会 29〜30頁より。出
典は「徳川禁令考」。
回答プロセス
家康が征夷大将軍になったのは1603(慶長8)年2月。家康関連の資料をあた
るが、それらしい回答が得られなかったため、「新国史大年表」で、慶弔8年
2月以降の出来事を確認したところ、郷村掟七か條があった。
//crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000109854
新将軍様の民を思ういい話ともいえるが、逆に言えば百姓殺しが横行してい
たって悪い話?既出ネタならご容赦ご容赦。
0468人間七七四年
2012/11/19(月) 00:18:26.18ID:xVwgnoRT0469人間七七四年
2012/11/19(月) 00:28:58.98ID:FXD/ktxV0472人間七七四年
2012/11/19(月) 12:30:12.04ID:h3wlSL+V本多忠勝が彫刻刀ミスって生まれて初めて指に傷をおって
「そろそろ俺も死ぬのか」と言った話の方でないかい?
0473人間七七四年
2012/11/19(月) 14:23:17.35ID:wY2zrM6X0474人間七七四年
2012/11/19(月) 16:08:26.70ID:dwhwgyYa殿様からコレ名乗っていいよと許されたけどこの官名じゃ嫌だとか無かったのか
0475人間七七四年
2012/11/19(月) 16:40:11.96ID:lz20Gs++0476人間七七四年
2012/11/19(月) 18:03:33.22ID:VEoGKfyLカヲルの首に取り付けられたDSSチョーカーが発動し、カヲルは首に数発の弾丸を打ち込まれ死亡する。
覚醒状態を止めた第13号機は地上へ落下するが、フォースインパクトの進行は止まらず、マリが8号機でシンジの乗るエントリープラグを強制射出させたことでようやく終息した。
地上に落ちたエントリープラグの中で蹲っていたシンジをアスカが助け出し、そこにアヤナミレイ(仮称)も現れる。アスカは放心して反応しないシンジを連れて歩き出し、そしてレイも2人についていく。
(エンディングへ
0479人間七七四年
2012/11/20(火) 00:36:13.38ID:V9cxuDJi勝茂公の時代になり石田慶春に家督を譲り隠居となった。
多久美作殿と仲が良かったという。
美作殿は吉之助の人物を高く評価していたので、
隠居となった吉之助にひそかに国のことを相談していた。
美作殿は吉之助の隠居の身をもったいないと思い、
どうにか大禄で召し抱えてもらえるようにと考えていた。
吉之助はそんな美作殿の心のうちを見抜いたので、
わざと馬鹿を演じ、強欲者のように振る舞い、
自家製の目薬を作り商売を始め、
その金をもとに質屋金貸業をするようになった。
普段の態度も猛犬のそばを歩くときは裾からげして、
「人間の傷は治るが、着物の傷は治らない」
などと真面目な顔で放言していた。
けれど美作殿も吉之助の作り馬鹿を見抜いて、
ますます奉公させたいと思うようになった。
吉之助はその美作殿の気持ちを知ると、
今度は腰抜けのふりをするようになった。
鳥居の下をふざけながら走ったり、
お堀のそばを通るときなどは、
「通り魔に出くわしたら、お堀に飛び込めば命が助かる」
と言ったり、
「斬首と磔なら磔を選ぶ。
なぜなら磔のほうが死ぬまでの時間が長い」
などとも言い出し、
「生きるか死ぬか迷ったらとりあえず生きておく」
と言いながら結局最後まで奉公しなかった。
しばらくしたあるとき、筑後へ目薬を売りにいく途中、
山賊に囲まれたが三人を斬り殺し、
二人に手傷を追わせて追い散らした。
吉之助はこの事を隠していたが、
そのうち目撃者によりだんだんと知れ渡るようになり、
やはり剛の者であったかと評判になった。
吉之助は、
「拙者は剛の者などではない。
臆病者ゆえ、斬り殺されそうになったから、
命を惜しみ、相手より早く斬っただけなのだ」
と言い訳をした。
このような事がその後もたびたびあったのだが、
老後は竜泰寺を建て、政家さまの霊廟の横に庵を結び、
そこで余生を終えた。
とうとう一生、欲深と腰抜けを演じきり、
本心を隠し通したわけである 【葉隠】
0481人間七七四年
2012/11/20(火) 12:52:26.80ID:5+5hIUKs政家への忠義が篤かったのか
0482人間七七四年
2012/11/20(火) 13:18:25.90ID:1D2JHR74まあ、隠しきれてない気もするがw
0483人間七七四年
2012/11/20(火) 17:57:05.03ID:rtTNkJx1百姓が武士に虐げられてたとかいまどきどこの左翼売国史観だよw
戦国期の百姓は大名権力に匹敵する武装集団でむしろ武士の方が下手に出てたってのに
0485人間七七四年
2012/11/20(火) 18:21:34.28ID:KPAspN5f0486人間七七四年
2012/11/20(火) 18:27:53.33ID:V9cxuDJiあと町には顔役と言われる存在もいたし、
寺社も大地主も村や町一帯の治安管理の役目を果していた
そりゃ武士は帯刀してるから恐れられていたと思うが、
どこまで百姓の日常に接することがあったかはいまいちわからん
0487人間七七四年
2012/11/20(火) 18:31:34.11ID:tZdan5NC信長とか秀吉とか
0490人間七七四年
2012/11/20(火) 18:47:22.44ID:V9cxuDJiそれは刀狩り以降でしょ
なんだかんだ言って信長を一番苦しめたの本願寺と見てる
刀狩り、檀家制度確立までは武家と寺社勢力に圧倒的な差はないと思うよ
0491人間七七四年
2012/11/20(火) 19:58:14.36ID:EsWFm7r2安房国は下国だから最上位の守でも従六位下
上総国は大国だから守に次ぐ介が正六位下
さらに、上総国は代々守(太守)に親王が就く習わし(親王任国制)があるから、
介でも職掌は他の大国の守(従五位上)と同格
0493人間七七四年
2012/11/20(火) 20:54:33.02ID:89s1chAUttp://www.nikkei.com/article/DGXNASFS20023_Q2A121C1PP8000/
>民主党候補の公認条件について「マニフェスト(政権公約)で打ち出す
>政策を死に物狂いで国民に訴える同志でなければならない」
でも実行はしなくても構いませんってか。
0494人間七七四年
2012/11/20(火) 20:54:39.77ID:egQyUtaH0495人間七七四年
2012/11/20(火) 21:49:10.11ID:fNMicOWF延暦寺にしたって
入念に周辺勢力を切り崩して、他を攻める戦と号して兵を集め、秘匿行動を進めて一気に夜襲、と
下手な大名勢力より念を入れて仕掛けてるし
中途半端では済ませられない危険な相手(≒相応の政治・軍事力を保有)って感じだが
0496人間七七四年
2012/11/20(火) 22:18:46.00ID:tbyy7oPL寺社と武家を分ける意味ってあんまりないと思う。
逆に、寺社が強かったから農民も強いとか言うのもイミフだけど。
武家=寺社 >惣村 だろ。村のトップは地侍とかで武家だろうけど、そもそも。
0497人間七七四年
2012/11/21(水) 00:13:41.93ID:mkCVhKtB佐賀県武雄市の各地には荒踊りと呼ばれる伝統芸能が今もなお残っている。
この踊りの起源については諸説あるらしいが、
一説によると享禄3(1530)年に武雄領主後藤純明の頃、有馬晴純に塚崎城(武雄城)を攻められ山内の住吉城にまで迫られた。
純明は黒髪山に戦勝を祈願し、山内は三間坂に陣取っていた晴純を奇襲し破った。
この戦勝を祝い足軽たちが踊ったのが荒踊りであるということだ。
さて、時は下って永禄6(1563)年、武雄領主は純明から大村家より養子に入った貴明に継がれていた。
晴純はこの貴明を破ろうとしたが、なかなか打ち倒せない。
そこで一計を案じ、宴会を開くとして貴明を島原におびき寄せて討ち取ろうとし、貴明も誘いに乗ってしまった。
しかし島原の老僧がこのたくらみを知り、貴明に警告を送ってきたのである。
「貴明様、今回の宴は有馬の謀略でございます、むざむざ殺されに行くようなものですぞ」
「フム…しかし一度約束した手前行かねば卑怯者のそしりを受けようぞ、それならばいっその事晴純めの方を計略にかけてやろう!」
「計略とは?」
「屈強のもの250人を選び出せ、花衣装を着せ荒踊りで乗り込むのじゃ、まあ見ておれい」
貴明は250人の猛者に大小日本の刀を帯びさせ、花衣装を着せ、十日も早く島原へと乗り込んだ。
これに驚いたのは有馬であったが、晴純は老将の余裕を見せ、貴明がまんまとわなにはまったとほくそ笑んだ。
夕刻、本丸にて有馬家の重臣の居並ぶ前に貴明が出ると、貴明の口上は始まった。
「本日伺ったのは他でもありません、約束の日には急用ができてしまいやむを得ず今日この日に挨拶に参りました」
「そうか後藤殿、ご苦労であったな(フハハー馬鹿め、わざわざ寿命を縮めに来るとは!)」
「急な事で手土産もありません、その代わりと言ってはなんですが今日は我が武雄領に伝わる荒踊りを披露したく、
踊り子たちを連れてまいりました。さあ皆様広いところでご覧ください」
そういって貴明は晴純達を連れて庭まで出てきた。
庭には荒踊りのために連れてきた250人の勇士が控えており、一斉に立ち上がった。
浮立の笛太鼓が鳴り響き、250人の花衣装は貴明を中心に舞いだした。その動きは勇壮かつ華麗で一部のすきもない。
そのまま踊り子たちは舞い続け、貴明を中心としたまま城の外に出ていった。
後には宴の跡と、苦虫を噛み潰したような有馬勢だけが残されていたという。
伝統芸能にまつわるちょっといい話
この辺参考にしました
歴史散歩たけお
http://www.epochal.city.takeo.lg.jp/siryo/Web_data/furusato/html/densetu.html
0498人間七七四年
2012/11/21(水) 00:25:32.96ID:0OI8HCGj0500人間七七四年
2012/11/21(水) 01:14:33.26ID:ZjP5FwHXまあ武家>百姓 なのは揺るがしがたい事実だけど、村は村で同盟関係を結んでる
北近江の菅浦と大浦なんて、百姓だけで近江半国巻き込んでの合戦しちゃうしね
朝廷とか幕府に対して有利な裁定を得るために外交戦を繰り広げるし、百姓はすげぇよ
0501人間七七四年
2012/11/21(水) 02:32:20.09ID:kcx5WHPj弱ってる相手には牙をむく
0502人間七七四年
2012/11/21(水) 04:44:38.69ID:itVqegZS武士:臆病だと家臣・百姓に見限られる
百姓:領主が臆病で頼りにならないと見限る
立場が違うしな
0504人間七七四年
2012/11/21(水) 08:42:00.33ID:TIgqm+cI戦国期も実際には、武家身分と百姓身分は明確に分かれていたようだ。
ただ、村に住みながら武家被官となる在村給人という存在があったが、これは年貢免除の代わりに
軍役を提供しており、百姓とは区別されていた。
総じて戦国時代であっても、実際には身分移動はそうとう難しかった模様
0507人間七七四年
2012/11/21(水) 10:49:00.72ID:ulnsaAvN>250人の猛者に大小日本の刀を帯びさせ、花衣装を着せ
なんでこんなの城内に入れちゃうんだよw
0508人間七七四年
2012/11/21(水) 11:12:09.61ID:8CLiwYSH全く別物。
0511人間七七四年
2012/11/21(水) 15:36:16.82ID:l8+BB7dk惣村は「村の軍事力」を大名に提供することは無かったってのが今の定説じゃないの?
この「村の軍事力」が戦国ヒャッハー百姓の戦闘員達だろ?
つまりそれからもれた在村給人なぞたいしたことない。
0512人間七七四年
2012/11/21(水) 16:06:19.95ID:mUzx7lWs0513人間七七四年
2012/11/21(水) 16:13:42.78ID:l8+BB7dk0515人間七七四年
2012/11/21(水) 16:22:20.99ID:qnahrWYA0516人間七七四年
2012/11/21(水) 17:21:25.71ID:E76JNPm/しかし、日根野は甚だしく貧しいために支度もままならず、
三好新右衛門を介して黒田如水から銀百枚を借りることになった。
日根野は帰国すると三好と一緒に如水を訪ねて御礼を述べた。
この時、借りた銀百枚とは別に利息にと思ってさらに十枚を持参していた。
ところが、対面した如水は人を呼んで「さきに貰った鯛を三枚におろして
その骨を吸物にせよ。それから酒も出せよ」と命じたので、二人は心付けが
足りないと思い、酒を飲み終えた後、三好がさらに銀を取って来て礼を述べた。
だが如水は「いやいや最初から貸す心ではなく合力の心で貸したのだ」
と、再三勧めても受け取らなかったので、二人は大いに感銘を受けて
帰ったのだという。
――『老人雑話』
0517人間七七四年
2012/11/21(水) 17:43:54.63ID:tcbs2ICO0518人間七七四年
2012/11/21(水) 17:47:08.81ID:ghlFElqr0519人間七七四年
2012/11/21(水) 17:59:59.78ID:QQIR8oW30521人間七七四年
2012/11/21(水) 18:52:08.55ID:c7G30z+z0522人間七七四年
2012/11/21(水) 18:58:03.43ID:eJATltdU「こいつだけは裏切らない」という気持ちで身分を失ったときのために貯めるのが犬千代
0523人間七七四年
2012/11/21(水) 19:40:53.92ID:fLOM1lt/本筋からはずれるけど、こういう料理絡みの話は好きだわ
大大名が調理に通じてるってのが何かうれしい
0525人間七七四年
2012/11/21(水) 20:26:15.31ID:6pAeQzF3主人自ら調理作って風呂沸かして饗すのが当時の最上級のおもてなしだからね
大抵の武将は料理心を持ってる時代
0527人間七七四年
2012/11/21(水) 21:44:54.34ID:JGRtyo9K光茂公の御代となったばかりのころのこと、
多久美作殿は、作り馬鹿の志田吉之助に相談を持ちかけた。
美作
「御代かわりは最初が大事だ。
そこを考え、勝茂公が拙者に遺言状を残してくださっている。
志田殿にもぜひ読んでもらい、
なにか助言があれば是非とも聞かせてほしい。」
と言い、美作殿は遺言状を読み上げ始めた。
しばらく聞いていた吉之助だったが、
吉之助
「退屈になってきたから帰る」
と言い出した。
美作殿もさすがにお怒りになり、
美作
「普段から武士らしくない放言をふざけ、
金が欲しくなれば金貸しを営み、
腰抜けを演じたかと思えば山賊無頼と喧嘩する、
そんな志田殿には、勝茂様や私が、
真面目に奉公する姿はさぞ愚かに見えるのでしょうな。
この遺言状は主君びいきを差し引いても素晴らしい内容。
なにが退屈なのですか」
とその理由を詰問した。
吉之助
「美作殿は人なみの家老であると見ていたのだが、
どうやら何の役にも立たない家老のようだ。
その理由は、そもそも家老というものは、
主君が家中の者どもに慕われるように計らうもの。
美作殿が読み上げられた勝茂様の遺言状は内容素晴らしく胸打つものがある。
その遺言状を御代替わりの始めに家中の皆に教訓したなら、
家中の者どもは勝茂様をさらに慕い思い、
それを授かった貴方の名も上がるばかりであろう。
勝茂様がお亡くなりになりまだ日も浅く、
ご恩を受けた家中の侍どもが涙もかわかぬうちから、
その遺言状の内容を知ったならいよいよ先代への思いが募ることになる。
それにひきかえ光茂様は江戸生まれで、
肥前の侍どもにも国柄にも馴染み薄く、
新しい主君は、はたして九州者の気持ちをわかってくださるだろうか?
というような世間話が拙者の耳にも聞こえてくる。
そこに遺言状が知れ渡れば光茂様をお慕いする者はいなくなるだろう。
誠の家老であるなら、その遺言状を新しい殿様の考えとして、
美作殿の才覚、手間も隠して公表できるはずだ。
そうして新しい殿様は勝茂様にもまして、
ありがたい主君だと慕われるように計らうべきであろう。」
と答えた。
美作殿は、
「まさにその通りだ。やはり志田殿に相談してよかった」
と言って勝茂様の遺言状を破り捨てた【葉隠】
0528人間七七四年
2012/11/21(水) 22:15:51.75ID:BMvfWn+S0529人間七七四年
2012/11/21(水) 23:26:36.86ID:dMqQwsD50530人間七七四年
2012/11/21(水) 23:51:04.74ID:6pAeQzF30531人間七七四年
2012/11/21(水) 23:53:25.56ID:ioxlymfs勝茂もそうすればよかったのか?
0532人間七七四年
2012/11/22(木) 10:34:46.63ID:GcjH3LWUそもそも勝茂自身が半ば伝説化した直茂パパンの声望に追いつこうと必死だったので
そんな余裕はありませんのだ
0533人間七七四年
2012/11/22(木) 10:47:10.83ID:V6DmeAAv0537人間七七四年
2012/11/22(木) 16:09:04.81ID:RwTP090j0538人間七七四年
2012/11/22(木) 19:19:38.88ID:V6DmeAAv0541人間七七四年
2012/11/23(金) 08:32:42.17ID:X2nhYk3I事である。
伏見でにおいて将軍秀忠が福島正則の改易を決断する。
そこでこの時江戸藩邸にあった正則に対し、改易を伝える使者を出すことになったが、この時将軍秀忠を始め
主な幕閣などは伏見にあり、江戸には留守居があるのみであった。そのため
『彼の者は武功者であり、また心荒き者であるので、上意を素直に受け入れるとは思えません。
そうであれば使者として赴くのは、江戸留守居の者たちからではなく、(現在伏見にある老中格の)
井伊・本多・榊原・酒井などの内から出すべきであると考えます。』
と、評議において意見が出た。重大な事態に陥る可能性の高い使者である以上、相応の
責任を持ったものが行くべきだ、という事であろう。
これを聞いた井伊掃部頭直孝は、言う
「おやおや、いざ合戦となって先陣を務めるのは私の役目であるぞ。この時は江戸留守居に残った
者達の出番はない。
幸いにも、今回のような事は、御上洛の御留守を承り、江戸御城下に居ながらのお使いという、
御留守居衆にとってうってつけの役目である。
各々の察している通り、福島左衛門大夫はこの改易を、とても素直に受け入れるとは思えない。
もし最初の使者からの改易の命を拒否したことが解れば、次は我々から彼に当てた書状を出すべきである。
その内容は
『あなたは咎によって安芸・備後両州を召し上げられ、どこどこに改易されることになった。
この事を御恨みに思うのであれば、広島に下って挙兵するのも、またそちらの屋敷に立て籠もるのも、
心次第にやって頂いて構わない。』
これを見てもまだ左衛門大夫が、むつかしく改易をお受けしないのであれば、その時は他でもない。
この掃部頭に仰せ付けられよ。討ち取って差し上げよう。
ともかく、先ずは穏当に使者を遣わされるべきであろう。」
これを秀忠もいかにもと考え、江戸留守居であった牧野駿河守信成以下が、正則への上使となった。
その頃正則の江戸屋敷は、今の増上寺の近く、愛宕山の下にあった。そのため愛宕山に石火矢を
配備し、緊急の事態になればすぐさま正則の屋敷に向かって撃ちこむ用意をしていた。
ところが、思いの外に正則は静かに改易を受け入れた。この事、江戸より伏見に報告されると、
伏見では秀忠上洛のお供として召し連れられていた、正則の嫡男備後守(忠勝)も取り籠められた。
(武野燭談)
福島正則改易の時の、井伊直孝の発言などについての逸話である。
0542人間七七四年
2012/11/23(金) 09:12:53.57ID:AwgcWyxp秀忠公は落ち着いているなぁ
0543人間七七四年
2012/11/23(金) 10:09:00.99ID:FAotWQ890544人間七七四年
2012/11/23(金) 11:39:39.74ID:HRCXv3lr0545人間七七四年
2012/11/23(金) 11:58:25.63ID:Ol09G7q60546人間七七四年
2012/11/23(金) 16:24:58.24ID:KLdq6rtb0547人間七七四年
2012/11/23(金) 18:19:42.11ID:wu7IoVQ1含むところがあって直孝とは不通となっていた。
(>>541の直前?http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3838.html)
この時、改易は京都で伝えると結論が出ていたのだが、高虎は
若年ではあるが末座の直孝へも話すべきではないかと秀忠に言った。
しかし召された直孝は江戸で伝えるべきだと再三言うので、高虎は直孝に
反対してついには若造は黙れとまで言ったのである。
後に高虎は死に臨んで直孝を招き「今までは京都でのことがあったので
互いに不通のまま打ち過ごしてきましたが、此度大病のために既に
露命も窮まりました。ですからどうか倅の大学のことを頼み入り申す。
万事よろしく御引廻しくだされ」と念入りに頼んだ。
直孝も「大学頭殿のことは絶対に手抜かりのないように承知しております。
懇意に通じていきますとも」と返答した。これより両家はかつてのように
心安く出入りするようになった。
――『名将言行録』
0548人間七七四年
2012/11/23(金) 23:50:04.87ID:nHSjt1hS0549人間七七四年
2012/11/24(土) 16:36:38.14ID:N6nvx2T2福島家は存続してたのかな?
0550人間七七四年
2012/11/24(土) 17:07:12.77ID:QdRWouJn参って料理を賜りたい」と申し伝えた。重長は「これは珍しいことだ。
何を思はれて申し越されたのだろう」と殊の外喜んで直次を饗応した。
直次は機嫌良く料理を賜り、緩々と話して帰っていった。
その後、重長は刀が残されているのを見つけ「うっかりお忘れになったのか」
と思い、近習に命じて直次の乗物を追わせた。
乗物に追いついた近習は側に寄って「御腰物でございます」と申し上げた。
すると直次は乗物の戸を開けて中より刀を取り出し「武士が刀を忘れるわけ
ないだろう」と言って刀を見せると、戸をひしと閉じて帰っていった。
仰天した近習が重長にしかじかと報告すると、重長は何かを察して涙を流した。
「さては今度在所へ帰国される時に隠居なさるおつもりであるぞ。
その刀はそれがしに形見として賜わるということに違いない」
重長の思った通り、直次はその月すぐに紀州へ帰りその年のうちに隠居した。
――『名将言行録』
0551人間七七四年
2012/11/24(土) 19:50:56.20ID:01bEDd5W0552人間七七四年
2012/11/24(土) 20:11:18.83ID:veBfM4Uc0553人間七七四年
2012/11/24(土) 20:52:57.25ID:a+JjAOIw0555人間七七四年
2012/11/24(土) 21:24:06.04ID:veBfM4Uc腫れ物出来た時にはムカついて無理矢理膿を出したら悪化して生死の境をさまよったりとか、
その時に遺言とか形見分けをし始めて死ぬ気満々で医療を拒否し始めて作左に叱られたりとか、
わりと面倒くさい
0556人間七七四年
2012/11/24(土) 22:03:10.72ID:ZeZjyIdy0557人間七七四年
2012/11/24(土) 22:25:07.04ID:/MJ8+Crrググったら、安藤重長は、安藤直次の弟の安藤重信の跡継ぎなんだね
実際には、重長は重信の娘の子(外孫)なんだけど、養子ということに
して跡を継がせた
重長からすると、重次は形の上では伯父、実際は大伯父
つまり、ふだんあまり付き合いのない親戚のオッチャン(しかも幕府の
老中もつとめたエラい人)が突然訪ねてきて、機嫌よく飲み食いして
帰っていったというお話
0558人間七七四年
2012/11/24(土) 22:26:37.34ID:/MJ8+Crr>重長からすると、重次は形の上では伯父、実際は大伯父
失礼、訂正。
○重長からすると、直次は形の上では伯父、実際は大伯父
0559人間七七四年
2012/11/25(日) 00:16:56.97ID:3jF6m7+6田舎臭さがなく結構粋だよね
0560人間七七四年
2012/11/25(日) 03:38:56.83ID:CJcrbyrs0561人間七七四年
2012/11/25(日) 04:29:08.05ID:UJeJOoWB0562人間七七四年
2012/11/25(日) 04:45:47.47ID:V3jPIT9D0563人間七七四年
2012/11/25(日) 14:02:43.82ID:jVWuSVCU呼ばれていた。
この人、初めは箱根別当として出家され、真言の学問を残らず学ばれた。
その上、伊勢氏は代々、巧みな鞍を造るのを家伝としており、早雲寺殿も幼少より嗜んでおられた。
そうであったが北條の系図を請けて、嫡男の氏綱は北条であるということでこの技術を相伝せず、
幻庵は出家の身であったが、生来細工の才能があり、伝わる鞍の製造技術を尽く習得した。
これだけではなく、弓の製作も習得し、矢を剥ぎ弦をさす事、世に並びのないほどであった。
また石台を作り、茶臼を作ることにも優れていた。
その上武勇にも優れていたため、出家の身から、再び武士への還俗された。
又、幻庵は尺八を作ることにおいても名高かった。彼の作った尺八は、『幻庵切りの尺八』と呼ばれ、
彼の作った一節切りの尺八は都鄙に流布し、禁中よりもご所望があった、
これによって関東では尺八が大変に流行り、小田原では若侍たちが、皆これを愛好したという。
(關侍傳記)
0564人間七七四年
2012/11/25(日) 14:51:37.81ID:atcxirTv0565人間七七四年
2012/11/25(日) 14:54:07.41ID:IaK7GtWI■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています