徳川家光公は、老臣以下、江戸の事もしっかりと知られていたが、仰せ出されることは稀であり、
下から『この者の儀は斯くの如く候』と言って、その善悪について言上する時に

「その者については、このように聞いている。」

と、良いことについても悪いことについても、老臣よりなお委細にそれについてご存知の事を仰っていた。
例えばこのようなことがあった。

山中源左衛門といって、旗本第一の暴れ者があった。
よって老臣たちよりこの者の処分について言上があった。家光はこれを聞くと

「その者については聞いたことがある。良き男だそうだが、しかし向こう歯が欠けて銀にて入れ歯をしていることを、
かつて私に言った者があった。その通りか?」

老臣たちこの言葉に
「源左衛門の男ぶりについては、その通りでございます。入れ歯のことは細かくは存じません。」
そう申し上げた。

そして家光
「その男の行状の悪さについては8年ほど前に聞いたが、その時は、若気の事なら段々にやり直せば良いと重い、
その後お前たちの報告を待っていたのだ。」

と仰せになり、行状あらたまざるに付き、山中源左衛門は切腹を仰せ付けられた。
後で老中が尋ねさせた所、山中源左衛門には確かに銀の入れ歯があったそうである。


またある時、久世大和守広之にふと、お尋ねがあった。

「大和は今朝、大名共より進物を得たな?」

大和守謹んで
「はっ!上意の通りにて御座候」

すると家光重ねて
「誰が何を贈ったのか?」

このお尋ねに久世大和守、誰から何を受け取ったのか申し上げた所

「まだあるはずだ」

と仰った。

そこで大和守は懐中から書付を取り出し
「何某より何、誰よりは何々を贈り候」
と申し上げると

「それで合っている。」

と言われた。

これに久世大和守は、『恐し恐し』と、広之一代の戒めにしたそうである。
(武野燭談)