戦国ちょっといい話35
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0001人間七七四年
2012/10/18(木) 19:08:22.07ID:/qlGMV2o戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0407人間七七四年
2012/11/14(水) 18:19:54.42ID:oP3uf1gX秀康「お、おう…」
0408人間七七四年
2012/11/14(水) 18:52:45.16ID:2RSu/zLq0411人間七七四年
2012/11/14(水) 20:05:09.76ID:2RSu/zLq0412人間七七四年
2012/11/15(木) 00:54:27.53ID:g6F5c+if小唄の名人の隆達を能舞台にあげて、小鼓を伴奏に唄わせることとなった。
見物者たちが小唄の隆達節ではその場にそぐわないと思ってると、案に相違して
隆達の歌唱は筆舌に尽くしがたいほど素晴らしく、太閤殿もことのほか賞賛なさったが、
太閤「隆達の小唄はあっぱれではあるが、鼓が合っていない。さてどうしたものか」
と細川藤孝に問うた。
藤孝「それならば隆達の歌に合わせて藤孝が鼓をうちましょう」
と細川藤孝が代わりに隆達の歌に合わせて鼓をうつと、その拍子は絶妙な取り合わせであり
太閤殿はじめその場に居合わせたものすべてが感嘆しきりであった。
「焼残反故」より
0413人間七七四年
2012/11/15(木) 15:50:35.83ID:WYmcdPDJ天正12年、高橋紹運は筑後猫尾城攻略中に筑紫広門に宝満城を攻撃されるが和議を結んだ。
その戦いで某(うちの先祖)は足に重症を負い
満足な戦働きが出来ぬからと息子に家督を譲って隠居した。
その際、紹運から相続の許可とねぎらいの感謝の言葉
そしてどこで聞きつけたのか、目を患っていた妻への薬もあわせて届けられた。
某にはとても買うことができない高価な薬だったという。
天正14年、島津氏が北進し岩屋城に侵攻が目前の中
息子は宝満城へ詰めることとなったが
某はどうしても紹運の恩忘れがたく、頭を剃って入道姿になると
妻へ息子への遺言のようなものを残し岩屋城に籠ることを願った。
(このことから岩屋城の士気は高かったのだろうが、まわりからみれば絶望的な状況だったのであろう)
そしてご存知の通り、岩屋城は壮絶な玉砕を遂げた。
某の遺骸は大手門のそばで見つかったそうだが
その時身につけていた甲冑と紹運からの書状は我が家の家宝となっている。
某から息子への遺言を要約すればこのように。
「宝満城で忠義を尽くせ。家を頼む。母や兄弟を大切にしろ。
隠居までに殿(紹運)への忠義は尽くしてきたが
まだいただいた薬の恩をまったく返しておらぬ故にこうのような仕儀と相成った」
立花城からの援軍の面々もしかり、紹運のまわりにはこういう人間が多かったのだろう
0414人間七七四年
2012/11/15(木) 17:40:57.53ID:lXvY0Pro0415人間七七四年
2012/11/15(木) 18:20:09.42ID:/7LaIWeh全然スレ違いでなく、むしろ貴重な話だと思う
家に伝わる話なんかそうそう聞けるものでもないし
0416人間七七四年
2012/11/15(木) 18:25:45.41ID:PMJdOYad0417人間七七四年
2012/11/15(木) 18:33:25.41ID:CTJ+rpLg悪いスレで出てきた烏丸の妻の鶴姫?
信長の娘の鶴姫?
NGMSに殺された鶴姫?
吉宗の義理の姉の鶴姫?
つる姫じゃー?
0419人間七七四年
2012/11/15(木) 21:01:56.92ID:yNsJyBYi暫く隠すべきだ、との異見があった。しかしこれに酒井忠勝が猛反対し、忠勝の意見が通り
死去したその夜のうちに、全ての大小名に秀忠の死去を知らせ、早々に登城し家光への
ご機嫌伺いをするよう触れを渡したため、翌日、在江戸の諸侯・旗本は全て出仕し、それぞれ
着座の席を守り、残らず登城した。
彼らの前で、家光が語りかけた
「大相国(秀忠)はご他界された。この家光は現在、将軍職を賜っているが、
この機会に天下の兵権を望むものが居るのなら、かまわぬ、受け取りに来い。
渡し遣わしてやろう。
但し!弓矢の法に任せた上で、引き渡す!」
秀忠の死に乗じて天下に野望を持つものがいるなら構わない、自分が相手になってやる。
そんな家光の宣言である。
この突然の言葉に、諸侯はどう答えていいか解らず誰も返答しないまま戸惑っていた。
と、ここに一人進み出た隻眼の老人。
そう、伊達政宗である。
政宗、家光に向かって申し上げる
「この御当家の御恩を以って、我らは皆、心やすく過ごしております。そんな所に、
この時期を以って天下の兵権を狙う輩がいるのであれば、そんなもの、上様が出られるまでもない 」
諸侯の方を振り向き、言い放った
「この政宗に仰せ付けられよ。たちまちに踏み潰してご覧に入れよう。」
政宗の言葉に、他の諸侯も皆異口同音に家光の言葉をお請けし、そうして退出したという。
(武野燭談)
さすが政宗は美味しいところ持っていきますね。やっぱり千両役者ですw
0420人間七七四年
2012/11/15(木) 21:04:46.10ID:tmCu0bXZ「やるバカが居るとするならあいつしかいないだろ・・・」
と思われてたから効果的だったのでは
0421人間七七四年
2012/11/15(木) 21:19:26.57ID:/RI90IqI似ているもんだねぇ
0424人間七七四年
2012/11/15(木) 22:10:28.03ID:SBfJx6bPその故事から引用したんじゃないかな?
0425人間七七四年
2012/11/15(木) 22:26:34.63ID:5et3Xusxつうか、ちょっと前は政宗が一番あぶないと思われてたんじゃないの
自分が家光側に立つことによって、そういう疑念をうまく払拭したのかな
0426人間七七四年
2012/11/15(木) 23:14:31.71ID:8nysyoV4家康秀忠もある程度警戒してたと思う
0427人間七七四年
2012/11/16(金) 00:16:00.99ID:agL61KHg家宝うpうpw
は冗談にせよ、面白い話でした
>>417
常山城の鶴姫きぼー
・・・先日常山城に車で登ろうとしたら、道崩落してたでござるの巻
0428人間七七四年
2012/11/16(金) 00:30:39.18ID:rQ8ZDRBb戦前、「玉砕の美学」みたいに一部のキチ軍部に利用されたことを祖父は苦々しく思っており
「何も成せない我々子孫が紹運公や岩屋城のことを他人に軽々しく自慢するものではない」という考えで
父親もほぼ同じ考えです。私自身は自慢とかではなく、
今は損得勘定でものを考える時代かもしれないが、昔はこういう人もいたのだと。
ただし祖父や父親は当然2ちゃんなど見ないので禁を犯して書き込みました。
先述した某はもともと高橋家に仕えていたわけではなく斎藤鎮実の家臣だったそうです。
紹運に姫が輿入れした際に付き随った一人だったとか。(疱瘡を罹って醜くなっても・・・の有名な話ですね)
鎮実は心からこの縁談に感謝して、高橋家に忠節を尽くしてくれとお供の者に何度も言ったとか。
この鎮実は先年、耳川の戦いで戦死していますから
某が岩屋城に籠った理由のひとつに紹運への忠節はもちろんのこと
鎮実の仇を幾分かでも返したかったというのがあるのかもしれません。
このような経歴なので道雪の話も伝わっています。
今風に言えば非常にクセの強かった御方らしく、たまにまわりがドン引きするような言動もあったとか。
在陣中(高橋鑑種討伐の時か?)、寄せ手の吉岡氏と斎藤鎮実の家臣同士のいざこざがあって
どちらも相手が悪いとなかなか引かないでいると、道雪から使者が到着
「このような時に猛々しきは大いに結構。しかしながら軍規を乱さばこの立花の敵。
立花の敵なら大友の敵。敵ならば今すぐあの城に(攻城中の城の事)入ってはいかが?」
このようなニュアンスのことを伝えられてかなり鎮実は困ったそうです。
おそらく吉岡にも伝令がw
0429人間七七四年
2012/11/16(金) 00:31:09.59ID:rQ8ZDRBb夫婦仲はとてもよく、たまに近くの寺へともに参詣していたそうです。
寡黙な御方だったそうですが、気配りというか家臣や領民の困り事はすぐに解決させていたとか。
岩屋城に籠る際も「我らも!」という多くの人を宝満城へ行かせたらしいです。
もう先の運命はわかっていたのでしょうね。
激しく攻めたてられる岩屋城を向かいの宝満城に詰めた方々はどのような気持ちで見ていたでしょう
多くの身内がいたはずですが、それを想像すると我が事のように胸が痛いです。
先述した甲冑と紹運からの書状のほかに伝わっているものがもうひとつ。
僧形の武将を中心に下に二人の武将が描かれている肖像画があります。
賛もあり快心筆とあります。確認する術がありませんが
降伏勧告の使者として遣わされた地元の荘厳寺・快心和尚の可能性もあるかもしれません。
僧形の武将は紹運で、あとの二人は左側は同じく僧形の某
右側は生前に特に親交が篤かった伊藤総右衛門と伝わっております。
もうネタ切れですのでこのことについて書き込むこともないでしょうが
長文&スレ汚しすみませんでした。
0430人間七七四年
2012/11/16(金) 02:00:30.63ID:t6dSQXQO乙です
こういう家伝の話は滅多に聞く事がないから凄く得した気分だわ
やっぱり道雪公は流石だなw
大友家には一癖も二癖もある人がいっぱいいたんだな
0431人間七七四年
2012/11/16(金) 02:13:05.59ID:rlci3xn3ありがとう。非常に面白かったし、道雪という人間を考える上でも参考になった。
道雪は異教徒の癖にフロイスにほめられてたり、興味深い人物だよね。
時に一つ質問なんだけれども、家に伝わっている紹運からの書状って、どこかで活字化されてたりする?
詳しく聞くと身バレになっちゃうだろうから、なってるかどうかだけ教えて欲しい。
大友氏の史料は、滅んだワリに残っているとはいっても少ないからね。
まだ公開されていないのであったら、是非大友研究に寄与して欲しいと思うわけですよ。
0432人間七七四年
2012/11/16(金) 02:54:06.05ID:qvE7DD8g>>428
面白い話ありがとう。
家伝の話なんて聞いたの初めてかもしれんw
しかし、この道雪伝とされるこのセリフ、
>「このような時に猛々しきは大いに結構。しかしながら軍規を乱さばこの立花の敵。
>立花の敵なら大友の敵。敵ならば今すぐあの城に(攻城中の城の事)入ってはいかが?」
いかにも道雪が言いそうで笑ったw
0433人間七七四年
2012/11/16(金) 03:45:38.35ID:fFArB14/眠れなくなった俺にとっては体にちょっと悪い話
0434人間七七四年
2012/11/16(金) 12:29:37.87ID:sjKFlz0o0435人間七七四年
2012/11/16(金) 12:47:17.05ID:pZ5KUHo50436人間七七四年
2012/11/16(金) 15:08:40.76ID:tI6bsvrv今回の人の話は本当に伝わってる事を書き込みしてくれてるが、
便乗して適当書く人が出てくるのは勘弁してほしいよな
0437人間七七四年
2012/11/16(金) 15:25:20.18ID:pZ5KUHo50438人間七七四年
2012/11/16(金) 15:40:37.59ID:tI6bsvrvしかし武士の道では、他人より先を行く気持ちが必要とされる。
たとえば弓は、左右の手を同じ高さに定めるのが望ましい型だが、
とかく右のほうが高くなりがちなので、
弓の師範は、右を低めに意識させることにより、
正しい型へと導くことがある。
実戦も、名のある武士を追い越そうと心掛け、
どうにかして強敵を討ち取りたいと昼夜考えつづけていたならば、
心も自然と勇猛になり、疲れることもなく、
武勇を発揮することができるという。
これは私が昔聞いた老武者の話である。
実戦の時ばかりでなく、平素にもこうありたいものだ 【葉隠】
0439人間七七四年
2012/11/16(金) 16:33:39.54ID:HGbeldF2これが宗滴のじじいとか真田パパンとかお館様とかだと真っ黒になるんだろうな
0440人間七七四年
2012/11/16(金) 16:59:23.10ID:lfgeQGMY0441人間七七四年
2012/11/16(金) 17:03:36.78ID:/V+bX9R6だがちょっと待って欲しい
真っ黒と言えど、発揮できるのが武勇ではなく、知勇に変わるだけでは無いだろうか
0442人間七七四年
2012/11/16(金) 17:10:14.28ID:tI6bsvrv誰が相手でも逃げるようになるから注意しろよ!の教訓だと思ってる
人間は知らないうちに楽なほうに理屈つけて自己正当化しやすいからさ
それに葉隠は集団や組織単位でのスローガンじゃなくて、
山本常朝の個人的心構えだし
紹運一門の子孫さんが言うように、
武家時代の唯心論的なものを近代軍隊で国外戦に適用したり、
一億総玉砕の国是なんかに流用するのはリアルキチガイだと思うよ
最近葉隠投下するとなぜか風当たり強いから、
一応、オレの考え書いとく(笑)
0443人間七七四年
2012/11/16(金) 20:04:42.65ID:Obf7p31t0444人間七七四年
2012/11/16(金) 20:14:09.21ID:lfgeQGMY0445人間七七四年
2012/11/16(金) 22:55:55.23ID:rCjdr2xShttp://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1353070132/
【ソウル聯合ニュース】韓国農林水産食品部が参鶏湯(サムゲタン、鶏のスープ料理)の販路多様化に向けて活発な動きを見せている。(2012年7月24日)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120724-00000043-yonh-kr
アメブロの記事数 有名人、かつキーワード 「サムゲタン」
http://search.ameba.jp/search.html?q=%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%82%B2%E3%82%BF%E3%83%B3&row=100&profileRow=&target=blog&aid=&author=talent&start=0
2009年 1件 2010年 0件 2011年 2件 2012年 122件〜 ←7月から急増
0446人間七七四年
2012/11/17(土) 07:35:06.33ID:TrRLS7Sn下から『この者の儀は斯くの如く候』と言って、その善悪について言上する時に
「その者については、このように聞いている。」
と、良いことについても悪いことについても、老臣よりなお委細にそれについてご存知の事を仰っていた。
例えばこのようなことがあった。
山中源左衛門といって、旗本第一の暴れ者があった。
よって老臣たちよりこの者の処分について言上があった。家光はこれを聞くと
「その者については聞いたことがある。良き男だそうだが、しかし向こう歯が欠けて銀にて入れ歯をしていることを、
かつて私に言った者があった。その通りか?」
老臣たちこの言葉に
「源左衛門の男ぶりについては、その通りでございます。入れ歯のことは細かくは存じません。」
そう申し上げた。
そして家光
「その男の行状の悪さについては8年ほど前に聞いたが、その時は、若気の事なら段々にやり直せば良いと重い、
その後お前たちの報告を待っていたのだ。」
と仰せになり、行状あらたまざるに付き、山中源左衛門は切腹を仰せ付けられた。
後で老中が尋ねさせた所、山中源左衛門には確かに銀の入れ歯があったそうである。
またある時、久世大和守広之にふと、お尋ねがあった。
「大和は今朝、大名共より進物を得たな?」
大和守謹んで
「はっ!上意の通りにて御座候」
すると家光重ねて
「誰が何を贈ったのか?」
このお尋ねに久世大和守、誰から何を受け取ったのか申し上げた所
「まだあるはずだ」
と仰った。
そこで大和守は懐中から書付を取り出し
「何某より何、誰よりは何々を贈り候」
と申し上げると
「それで合っている。」
と言われた。
これに久世大和守は、『恐し恐し』と、広之一代の戒めにしたそうである。
(武野燭談)
0447人間七七四年
2012/11/17(土) 09:57:37.57ID:hq0o6bKe0448人間七七四年
2012/11/17(土) 10:14:18.58ID:sqWsScV10449人間七七四年
2012/11/17(土) 12:07:50.23ID:M/PDtlNL0450人間七七四年
2012/11/17(土) 14:40:57.47ID:Wze4zVIT妙手に至らぬものはない。その手習いの反古を見ると一つの字を数限りもなく
写している。
このような小さなことにも意を深く用いたから筆道は高く凡境を抜けた。
その他にも刀剣の鑑定も行ったし、茶事は小堀遠州に学ぶなど文武を兼ねた。
人となりは一時の傑物といえる。
むかし北鷹峯は丹波に続く山をめぐり人家は少なく樹木が深く生い茂った。
だから盗賊が常にこの辺りに隠れて旅人を悩まし、京城などへも入っていたので
関東より厳命があって、光悦がこの地を賜り住み始めた。それより盗賊たちは
皆逃れ去ってしまったのだから、その武勇の程が窺える。
光悦がこのような人になったのも母の妙秀という尼の教育によるものだったそうだ。
――『仮名世説』
0453人間七七四年
2012/11/17(土) 23:51:51.99ID:blCU6IGI0454人間七七四年
2012/11/18(日) 10:18:06.68ID:5mA3daL2家光を貶すつもりはないけど
もしかして家光はサヴァン症候群だった可能性があるんじゃないか?
結構変わった人だったみたいだし
0455人間七七四年
2012/11/18(日) 15:06:44.40ID:7x5nS06Kそれは諜報で集めた情報をどう使うかによるな
同じ情報でもどういう事に使うかはその人の性格、思考、立場によって変わる
0457人間七七四年
2012/11/18(日) 19:40:15.68ID:FJYTT2Tx「君の事は良い事も悪い事も全て知ってるよ(ニコッ」
とか言われたら恐怖しか感じないわ…
0458人間七七四年
2012/11/18(日) 19:56:07.35ID:LSDQzCQmそれを見ていた忠勝は、二人にこのように声をかけた
「私が若い頃は小身であったために、槍の働きこそ第一だと心がけた。
しかし今は、御厚恩を以って大身となった以上、軍勢を指揮する采配の取り様や備立てなど、
全て大将が知らなくてはいけない分野こそ、第一に学ぶべきだ。
だからといって、槍を学ぶな、と言っているのではない。
時節相応に、主とすべき分野を、専らに励むべき、ということなのだ。」
(武野燭談)
本多忠勝からの、息子への訓戒である。
0459人間七七四年
2012/11/18(日) 20:12:58.00ID:M4aIiWhx0460人間七七四年
2012/11/18(日) 20:53:32.97ID:RAK6Tl5l宇喜多直家と殉死の話はまとめスレにもあったけどこのパターンは無かったので
宇喜多直家が危篤状態に陥った時、左右に居並ぶ家臣達に
「わしが死んだら、誰が殉死してくれるだろうか」
と言った。家臣達は内心慌てたがただ口を閉ざしたままであった。しかし、ある家臣が一人直家の近くに膝を進め
「殿、よくお聞きください。ここに居る家臣は皆賢臣、忠臣です。将来世継ぎの秀家様を支えていく者達です。
そのような家臣をあの世につれていって無駄にして良いものでしょうか。どうせあの世に連れていくならば坊主を連れていくべきです。」
と言った。直家もそれ以降殉死を口に出さなかったそうな。
「閑際筆記」
確かに次世代の事考えると殉死はアレだからいい話っぽいんだが、ただこの家臣が花房某って記録されてるんだよなぁ
花房氏は結構宇喜多騒動で出て行っちゃってるから場合によっては悪い話かもしれない
0462人間七七四年
2012/11/18(日) 22:32:26.52ID:Yy+lfbdE0463人間七七四年
2012/11/18(日) 22:43:10.30ID:TEbo4fL0清正は築城名人だったりするから元々統治の才があったのかもしれないけど
0464人間七七四年
2012/11/18(日) 22:45:07.32ID:uukB3FHGそれを上手く内政に転化すればいい
トップが暴走しなければ組織が支えてくれるので、たいていはそこまで酷いことにはならんよ
問題は駆け引きとか組織を上手く行きぬく処世術的な意味での、政治力だな
市松さんは政治力無いから、統治能力はあっても失脚しちゃったわけだし
0465人間七七四年
2012/11/18(日) 23:20:57.48ID:V8QOjqdsそれなりの官僚機構があれば酷い事にはならない気がする
0466人間七七四年
2012/11/18(日) 23:25:33.47ID:I0cJ4jNX永正18年(1518年)、那須家臣大田原資清は大関宗増らの讒言によって失脚し所領を追われた。
そんな資清を救っていたのが故あって僧籍に入り塩谷家の所領にある長興寺の住職となっていた実兄の麟道和尚で
那須家の力の及ばない所で施しを与え、資清は再起への力を蓄えていた。
そして天文11年(1542年)、実に24年の時を経て大田原資清は大関宗増を降伏させて長男を大関家に送り込み復権を果たす。
復権した資清は居城を従来の水口城から龍体山に移すことを計画し、これと同時に追放時のゴタゴタで今まで行うことのできなかった
両親の菩提を弔うために新たに七堂伽藍を建立した。
資清はこの寺に世話になった兄の麟道和尚を開山第一世として請うて招き、寺の名前を兄弟の父の法号「明庵道光」の光の字と、
母の「真芳妙観」の真とをとって「光真寺」と命名して、300石という破格の寺領を与えて大田原家永代の菩提寺とした。
0467人間七七四年
2012/11/18(日) 23:53:19.47ID:j9G1vpw4Q
家康が征夷大将軍になって真っ先に発令したという「百姓斬り捨て禁止
令」について詳しく知りたい。
A
1603(慶長8)年3月27日 幕府、郷村七か條を出す。この七条目に、「
百姓むざと殺し候事、御停止たり」とあった。おそらくこの条文のことと
思われる。
「新国史大年表第5巻T 江戸時代前期」国史刊行会 29〜30頁より。出
典は「徳川禁令考」。
回答プロセス
家康が征夷大将軍になったのは1603(慶長8)年2月。家康関連の資料をあた
るが、それらしい回答が得られなかったため、「新国史大年表」で、慶弔8年
2月以降の出来事を確認したところ、郷村掟七か條があった。
//crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000109854
新将軍様の民を思ういい話ともいえるが、逆に言えば百姓殺しが横行してい
たって悪い話?既出ネタならご容赦ご容赦。
0468人間七七四年
2012/11/19(月) 00:18:26.18ID:xVwgnoRT0469人間七七四年
2012/11/19(月) 00:28:58.98ID:FXD/ktxV0472人間七七四年
2012/11/19(月) 12:30:12.04ID:h3wlSL+V本多忠勝が彫刻刀ミスって生まれて初めて指に傷をおって
「そろそろ俺も死ぬのか」と言った話の方でないかい?
0473人間七七四年
2012/11/19(月) 14:23:17.35ID:wY2zrM6X0474人間七七四年
2012/11/19(月) 16:08:26.70ID:dwhwgyYa殿様からコレ名乗っていいよと許されたけどこの官名じゃ嫌だとか無かったのか
0475人間七七四年
2012/11/19(月) 16:40:11.96ID:lz20Gs++0476人間七七四年
2012/11/19(月) 18:03:33.22ID:VEoGKfyLカヲルの首に取り付けられたDSSチョーカーが発動し、カヲルは首に数発の弾丸を打ち込まれ死亡する。
覚醒状態を止めた第13号機は地上へ落下するが、フォースインパクトの進行は止まらず、マリが8号機でシンジの乗るエントリープラグを強制射出させたことでようやく終息した。
地上に落ちたエントリープラグの中で蹲っていたシンジをアスカが助け出し、そこにアヤナミレイ(仮称)も現れる。アスカは放心して反応しないシンジを連れて歩き出し、そしてレイも2人についていく。
(エンディングへ
0479人間七七四年
2012/11/20(火) 00:36:13.38ID:V9cxuDJi勝茂公の時代になり石田慶春に家督を譲り隠居となった。
多久美作殿と仲が良かったという。
美作殿は吉之助の人物を高く評価していたので、
隠居となった吉之助にひそかに国のことを相談していた。
美作殿は吉之助の隠居の身をもったいないと思い、
どうにか大禄で召し抱えてもらえるようにと考えていた。
吉之助はそんな美作殿の心のうちを見抜いたので、
わざと馬鹿を演じ、強欲者のように振る舞い、
自家製の目薬を作り商売を始め、
その金をもとに質屋金貸業をするようになった。
普段の態度も猛犬のそばを歩くときは裾からげして、
「人間の傷は治るが、着物の傷は治らない」
などと真面目な顔で放言していた。
けれど美作殿も吉之助の作り馬鹿を見抜いて、
ますます奉公させたいと思うようになった。
吉之助はその美作殿の気持ちを知ると、
今度は腰抜けのふりをするようになった。
鳥居の下をふざけながら走ったり、
お堀のそばを通るときなどは、
「通り魔に出くわしたら、お堀に飛び込めば命が助かる」
と言ったり、
「斬首と磔なら磔を選ぶ。
なぜなら磔のほうが死ぬまでの時間が長い」
などとも言い出し、
「生きるか死ぬか迷ったらとりあえず生きておく」
と言いながら結局最後まで奉公しなかった。
しばらくしたあるとき、筑後へ目薬を売りにいく途中、
山賊に囲まれたが三人を斬り殺し、
二人に手傷を追わせて追い散らした。
吉之助はこの事を隠していたが、
そのうち目撃者によりだんだんと知れ渡るようになり、
やはり剛の者であったかと評判になった。
吉之助は、
「拙者は剛の者などではない。
臆病者ゆえ、斬り殺されそうになったから、
命を惜しみ、相手より早く斬っただけなのだ」
と言い訳をした。
このような事がその後もたびたびあったのだが、
老後は竜泰寺を建て、政家さまの霊廟の横に庵を結び、
そこで余生を終えた。
とうとう一生、欲深と腰抜けを演じきり、
本心を隠し通したわけである 【葉隠】
0481人間七七四年
2012/11/20(火) 12:52:26.80ID:5+5hIUKs政家への忠義が篤かったのか
0482人間七七四年
2012/11/20(火) 13:18:25.90ID:1D2JHR74まあ、隠しきれてない気もするがw
0483人間七七四年
2012/11/20(火) 17:57:05.03ID:rtTNkJx1百姓が武士に虐げられてたとかいまどきどこの左翼売国史観だよw
戦国期の百姓は大名権力に匹敵する武装集団でむしろ武士の方が下手に出てたってのに
0485人間七七四年
2012/11/20(火) 18:21:34.28ID:KPAspN5f0486人間七七四年
2012/11/20(火) 18:27:53.33ID:V9cxuDJiあと町には顔役と言われる存在もいたし、
寺社も大地主も村や町一帯の治安管理の役目を果していた
そりゃ武士は帯刀してるから恐れられていたと思うが、
どこまで百姓の日常に接することがあったかはいまいちわからん
0487人間七七四年
2012/11/20(火) 18:31:34.11ID:tZdan5NC信長とか秀吉とか
0490人間七七四年
2012/11/20(火) 18:47:22.44ID:V9cxuDJiそれは刀狩り以降でしょ
なんだかんだ言って信長を一番苦しめたの本願寺と見てる
刀狩り、檀家制度確立までは武家と寺社勢力に圧倒的な差はないと思うよ
0491人間七七四年
2012/11/20(火) 19:58:14.36ID:EsWFm7r2安房国は下国だから最上位の守でも従六位下
上総国は大国だから守に次ぐ介が正六位下
さらに、上総国は代々守(太守)に親王が就く習わし(親王任国制)があるから、
介でも職掌は他の大国の守(従五位上)と同格
0493人間七七四年
2012/11/20(火) 20:54:33.02ID:89s1chAUttp://www.nikkei.com/article/DGXNASFS20023_Q2A121C1PP8000/
>民主党候補の公認条件について「マニフェスト(政権公約)で打ち出す
>政策を死に物狂いで国民に訴える同志でなければならない」
でも実行はしなくても構いませんってか。
0494人間七七四年
2012/11/20(火) 20:54:39.77ID:egQyUtaH0495人間七七四年
2012/11/20(火) 21:49:10.11ID:fNMicOWF延暦寺にしたって
入念に周辺勢力を切り崩して、他を攻める戦と号して兵を集め、秘匿行動を進めて一気に夜襲、と
下手な大名勢力より念を入れて仕掛けてるし
中途半端では済ませられない危険な相手(≒相応の政治・軍事力を保有)って感じだが
0496人間七七四年
2012/11/20(火) 22:18:46.00ID:tbyy7oPL寺社と武家を分ける意味ってあんまりないと思う。
逆に、寺社が強かったから農民も強いとか言うのもイミフだけど。
武家=寺社 >惣村 だろ。村のトップは地侍とかで武家だろうけど、そもそも。
0497人間七七四年
2012/11/21(水) 00:13:41.93ID:mkCVhKtB佐賀県武雄市の各地には荒踊りと呼ばれる伝統芸能が今もなお残っている。
この踊りの起源については諸説あるらしいが、
一説によると享禄3(1530)年に武雄領主後藤純明の頃、有馬晴純に塚崎城(武雄城)を攻められ山内の住吉城にまで迫られた。
純明は黒髪山に戦勝を祈願し、山内は三間坂に陣取っていた晴純を奇襲し破った。
この戦勝を祝い足軽たちが踊ったのが荒踊りであるということだ。
さて、時は下って永禄6(1563)年、武雄領主は純明から大村家より養子に入った貴明に継がれていた。
晴純はこの貴明を破ろうとしたが、なかなか打ち倒せない。
そこで一計を案じ、宴会を開くとして貴明を島原におびき寄せて討ち取ろうとし、貴明も誘いに乗ってしまった。
しかし島原の老僧がこのたくらみを知り、貴明に警告を送ってきたのである。
「貴明様、今回の宴は有馬の謀略でございます、むざむざ殺されに行くようなものですぞ」
「フム…しかし一度約束した手前行かねば卑怯者のそしりを受けようぞ、それならばいっその事晴純めの方を計略にかけてやろう!」
「計略とは?」
「屈強のもの250人を選び出せ、花衣装を着せ荒踊りで乗り込むのじゃ、まあ見ておれい」
貴明は250人の猛者に大小日本の刀を帯びさせ、花衣装を着せ、十日も早く島原へと乗り込んだ。
これに驚いたのは有馬であったが、晴純は老将の余裕を見せ、貴明がまんまとわなにはまったとほくそ笑んだ。
夕刻、本丸にて有馬家の重臣の居並ぶ前に貴明が出ると、貴明の口上は始まった。
「本日伺ったのは他でもありません、約束の日には急用ができてしまいやむを得ず今日この日に挨拶に参りました」
「そうか後藤殿、ご苦労であったな(フハハー馬鹿め、わざわざ寿命を縮めに来るとは!)」
「急な事で手土産もありません、その代わりと言ってはなんですが今日は我が武雄領に伝わる荒踊りを披露したく、
踊り子たちを連れてまいりました。さあ皆様広いところでご覧ください」
そういって貴明は晴純達を連れて庭まで出てきた。
庭には荒踊りのために連れてきた250人の勇士が控えており、一斉に立ち上がった。
浮立の笛太鼓が鳴り響き、250人の花衣装は貴明を中心に舞いだした。その動きは勇壮かつ華麗で一部のすきもない。
そのまま踊り子たちは舞い続け、貴明を中心としたまま城の外に出ていった。
後には宴の跡と、苦虫を噛み潰したような有馬勢だけが残されていたという。
伝統芸能にまつわるちょっといい話
この辺参考にしました
歴史散歩たけお
http://www.epochal.city.takeo.lg.jp/siryo/Web_data/furusato/html/densetu.html
0498人間七七四年
2012/11/21(水) 00:25:32.96ID:0OI8HCGj0500人間七七四年
2012/11/21(水) 01:14:33.26ID:ZjP5FwHXまあ武家>百姓 なのは揺るがしがたい事実だけど、村は村で同盟関係を結んでる
北近江の菅浦と大浦なんて、百姓だけで近江半国巻き込んでの合戦しちゃうしね
朝廷とか幕府に対して有利な裁定を得るために外交戦を繰り広げるし、百姓はすげぇよ
0501人間七七四年
2012/11/21(水) 02:32:20.09ID:kcx5WHPj弱ってる相手には牙をむく
0502人間七七四年
2012/11/21(水) 04:44:38.69ID:itVqegZS武士:臆病だと家臣・百姓に見限られる
百姓:領主が臆病で頼りにならないと見限る
立場が違うしな
0504人間七七四年
2012/11/21(水) 08:42:00.33ID:TIgqm+cI戦国期も実際には、武家身分と百姓身分は明確に分かれていたようだ。
ただ、村に住みながら武家被官となる在村給人という存在があったが、これは年貢免除の代わりに
軍役を提供しており、百姓とは区別されていた。
総じて戦国時代であっても、実際には身分移動はそうとう難しかった模様
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