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戦国ちょっといい話35

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0001人間七七四年2012/10/18(木) 19:08:22.07ID:/qlGMV2o
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0388人間七七四年2012/11/13(火) 00:16:19.06ID:/UEP4ayn
>>387
小泉次大夫は元今川家臣だね
0389人間七七四年2012/11/13(火) 02:10:29.99ID:qkkxzYjz
本多正信は若年の頃より智慮のある人であった。

大高城を攻めて引き取るという時に諸人は「城中にある米をこのままにしては
たちまち敵のものとなってしまう。米を取り出して敵に渡さないようにしよう」
と皆々相談したが、そう簡単なことではなかった。

しかしこの時、弥八郎が「米をこのまま置いておいて一旦敵のものになったとしても、
明日には敵を追い払ってこちらのものにすればよいではないか。少しも気遣う
ことはない」と言うので、そのままにしたところ案の如く翌日には敵を追い払い
米もすべて味方のものとなった。

その見地は若年の頃より少しも違わなかったのである。

――『良将言行録』
0390人間七七四年2012/11/13(火) 03:57:44.86ID:p8VSHbSC
良将言行録ってのがあるんだ
知らなかった
0391人間七七四年2012/11/13(火) 18:05:18.32ID:m/OfymvL
福岡銘菓の「鶏卵素麺(そうめん)」で知られる福岡市博多区の老舗和菓子店「松屋菓子舗」(松江光社長)が
自己破産申請の準備に入ったことが12日、分かった。信用調査会社の帝国データバンク福岡支店によると、
負債総額は約2億5千万円。本店や福岡市内の百貨店で営業している計7店の閉鎖時期などについては不明。

 同社は1673年(延宝元年)創業。福岡市内の和菓子製造会社としては最も古く、
江戸時代に黒田藩に献上したとされる鶏卵素麺を主力商品に、ようかんや最中などを販売していた。
1996年に株式会社に組織変更。99年4月期には約5億2500万円の売上高があったが、
消費者の和菓子離れなどの影響で、2011年4月期は約3億2千万円に落ち込んでいた。
現在は福岡市・天神の岩田屋本店や福岡三越、博多大丸などに直営店を構えている。

 「鶏卵素麺」はほかのメーカーでも同名の商品がある。

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/333828
0392人間七七四年2012/11/13(火) 18:40:46.46ID:zTJiC/oF
北条と唐国との話が出たので北条五代記の該当部分をば
ただ逸話というほどの分量ではないので箇条書きでまとめるのはご容赦

・三浦三崎はガチの名勝
・名勝ってだけじゃなくて交通の要衝だし、水底は深いし、幾千艘つないでも余裕の良港すぎワロタw
・日本だけじゃなくて唐国にも知れ渡ってるマジスゲーwww
・氏政が三官っていう唐人に虎朱印判状渡して、唐国の黒船が来航したよ
・そいつら三崎の良港ぶりにめっちゃ驚いててワロタwww
・安藤豊前守が通訳交えて唐人と売買したよvv

八王子から外来の器とかそこそこまとまって見つかってるらしいし、
ある程度交易はあったっぽいね
0393人間七七四年2012/11/13(火) 19:24:48.74ID:12gephJg
>>391
鶏卵素麺はあまり旨くはなかったが古いメーカー潰れるのは残念
鶏卵素麺は南蛮の菓子だが、タイにも伝来してるみたい
日タイ交流協会のイベントで紹介されてた
>>392
三崎地図でみたら島と半島で囲まれてんだな
屋島とかあと鎌倉は人口島で同じような地形作ってるね
中世から近世の港の特徴なのかもな
0394人間七七四年2012/11/13(火) 19:29:47.40ID:1hq8lkjn
湾内が広くて水深が深くて沖からの風波を防ぐ
山がそのまま海底につながってるような場所で沖を半島や島で囲まれてる所が天然の良港になるんだろうな
0395人間七七四年2012/11/13(火) 19:48:13.33ID:B2/FBL9K
徳川家康がある時、このような事を言った

「家臣として、主君に向かって、志を立てて諫言を行うものは、大剛・大忠の者である。

平凡な人間には、思い切ったことは言えぬものだ。
何故なら、主君というのは恐ろしい者であり、それに向かって思い切って諫言を言おうとするのは、
大敵の中に駆け入るよりも大変な事だからだ。

大敵の中に駆け入った場合、高名して大利を得ることもあるし、勿論討ち死にするのも勇士の常とする
所であるから、何れにしても多くの者達がこれを励むものである。

ところが、主人の心と違うことを言って、主人に憎まれてしまっては、今自分が得ている身上を失う
どころか、その妻子まで含めて逃れがたい困難な事態になる。

そう言う事を知りながら、自分自身は勿論、妻子・兄弟の事をも顧みず、思い切って諫言を言ってくる。
そういう人間は大剛の忠臣である。必ず疎かにしてはならない。」

(武野燭談)

徳川家康の、諫言についての考えである。
0396人間七七四年2012/11/13(火) 23:00:25.70ID:6Ks1QsGY
この逸話、会社人だとどのくらいの地位から参考にすべきなんだろ?
0397人間七七四年2012/11/14(水) 00:12:02.48ID:mnbwLNRd
最低、部長クラスじゃないのか
課長係長の諫言をまともに聞く度量のある社長は少ないと思う
0398人間七七四年2012/11/14(水) 00:40:11.49ID:lc/a7xsd
彦左が頷いてる姿が目に浮かぶ...(´・ω・`)
0399人間七七四年2012/11/14(水) 01:16:30.68ID:LJ1S3Nzx
>>396
それを知りたい場合は葉隠を読むべきじゃないかな
0400人間七七四年2012/11/14(水) 05:56:16.83ID:0zIQU8jV
やばい、俺、朝鮮人かも。
家系図の一番最初が霧隠才蔵になってる。
0401人間七七四年2012/11/14(水) 06:41:40.36ID:DQ0CVsTB
諫言しやすさ

家康>>>>信長>>>>秀吉(晩年)
0402人間七七四年2012/11/14(水) 13:42:17.09ID:ngiMIftZ
>>396-397
部長になる頃には下にも家庭にも守るものいるからな〜
やっぱ諫言も才能だから、
ガキの頃から間違ってると思う事は怖い先輩にでも言うタイプじゃないと、
大人や役職ついてからでもなかなか言えない
中学の時の同級生にそのタイプいたけど、
そういう奴は大人になってもしっかりしてる
0403人間七七四年2012/11/14(水) 13:54:04.82ID:ngiMIftZ
>>399
才能と度胸のない者が諫言討死する方法はたしかに書いてあるな
常朝さんの覚悟を決められるのも才能な気がしないでもないが(笑)
0404人間七七四年2012/11/14(水) 14:03:11.16ID:364uS6zh
暴れん坊の右腕として享保の改革をリードした松平乗邑。

彼は、(^p^)あうあうあーの家重より文武両道の宗武を
次期将軍にした方が良いという誰もが当たり前に思う事を
暴れん坊に諫言したのだが、その結果、老中を解任され左遷させられた...
0405人間七七四年2012/11/14(水) 17:39:52.21ID:zHTQwAwI
道化(道家)清十郎は織田信長に仕え戦ではしばしば功を立てていた。
信長は清十郎の勇を愛し自ら無双の字を背旗に書いて清十郎に与えた。
人はこれに因んで道化を『無双道化』と呼んだ。

ところで信長が招いた美濃の士に平野某という人がいたのだが道化は
彼と親しく交わった。ある時、道化は気軽に「あなたは進めば先頭に立ち、
退けばしんがりを務めるが、どうしてあのようにできるのだ」と尋ねた。

「死を決するのみ。…ではあるが斎藤家の諸将は皆国の為に死んでしまったから
それがしは独り余命を保ってここにいる。結局は勇気が足りないのだ。今あなたの
問を受けて、恥ずかしさのあまり背中にたくさんの汗をかいてしまったよ」

道化は退くと「勇を誇らない平野殿には、俺は断じて及ばないな」と嘆じた。

――『近古史談』
0406人間七七四年2012/11/14(水) 17:57:22.24ID:QpEfWziE
家重がピーってのも今じゃ否定されているがな
それに家康以来の長子相続の祖法を否定したんだから処分は無理ないこと
0407人間七七四年2012/11/14(水) 18:19:54.42ID:oP3uf1gX
>家康以来の長子相続の祖法
秀康「お、おう…」
0408人間七七四年2012/11/14(水) 18:52:45.16ID:2RSu/zLq
おめーは他所モンになったやないかい
0409人間七七四年2012/11/14(水) 19:45:41.57ID:bjSV0nkb
>>406
信康「だったら徳川家はおれの代で断絶だな。」
0410人間七七四年2012/11/14(水) 19:57:27.89ID:Z/Gbeuf9
>>406
綱吉「えっ」
家宣「えっ」
家継「えっ」
吉宗「えっ」
0411人間七七四年2012/11/14(水) 20:05:09.76ID:2RSu/zLq
そういや松平の庶長子の家系が400石だっけ
0412人間七七四年2012/11/15(木) 00:54:27.53ID:g6F5c+if
伏見城で太閤殿が名人芸者を集められ、諸大名に見物させた。
小唄の名人の隆達を能舞台にあげて、小鼓を伴奏に唄わせることとなった。
見物者たちが小唄の隆達節ではその場にそぐわないと思ってると、案に相違して
隆達の歌唱は筆舌に尽くしがたいほど素晴らしく、太閤殿もことのほか賞賛なさったが、
太閤「隆達の小唄はあっぱれではあるが、鼓が合っていない。さてどうしたものか」
と細川藤孝に問うた。
藤孝「それならば隆達の歌に合わせて藤孝が鼓をうちましょう」
と細川藤孝が代わりに隆達の歌に合わせて鼓をうつと、その拍子は絶妙な取り合わせであり
太閤殿はじめその場に居合わせたものすべてが感嘆しきりであった。

「焼残反故」より
0413人間七七四年2012/11/15(木) 15:50:35.83ID:WYmcdPDJ
家伝である故に出典書はないのでスレ違いならスルーしてください。

天正12年、高橋紹運は筑後猫尾城攻略中に筑紫広門に宝満城を攻撃されるが和議を結んだ。
その戦いで某(うちの先祖)は足に重症を負い
満足な戦働きが出来ぬからと息子に家督を譲って隠居した。
その際、紹運から相続の許可とねぎらいの感謝の言葉
そしてどこで聞きつけたのか、目を患っていた妻への薬もあわせて届けられた。
某にはとても買うことができない高価な薬だったという。
天正14年、島津氏が北進し岩屋城に侵攻が目前の中
息子は宝満城へ詰めることとなったが
某はどうしても紹運の恩忘れがたく、頭を剃って入道姿になると
妻へ息子への遺言のようなものを残し岩屋城に籠ることを願った。
(このことから岩屋城の士気は高かったのだろうが、まわりからみれば絶望的な状況だったのであろう)
そしてご存知の通り、岩屋城は壮絶な玉砕を遂げた。
某の遺骸は大手門のそばで見つかったそうだが
その時身につけていた甲冑と紹運からの書状は我が家の家宝となっている。

某から息子への遺言を要約すればこのように。
「宝満城で忠義を尽くせ。家を頼む。母や兄弟を大切にしろ。
 隠居までに殿(紹運)への忠義は尽くしてきたが
 まだいただいた薬の恩をまったく返しておらぬ故にこうのような仕儀と相成った」

立花城からの援軍の面々もしかり、紹運のまわりにはこういう人間が多かったのだろう
0414人間七七四年2012/11/15(木) 17:40:57.53ID:lXvY0Pro
人徳だな
0415人間七七四年2012/11/15(木) 18:20:09.42ID:/7LaIWeh
>>413
全然スレ違いでなく、むしろ貴重な話だと思う
家に伝わる話なんかそうそう聞けるものでもないし
0416人間七七四年2012/11/15(木) 18:25:45.41ID:PMJdOYad
じゃあ鶴姫のおっぱいについて語らないか(迫真)
0417人間七七四年2012/11/15(木) 18:33:25.41ID:CTJ+rpLg
瀬戸内の鶴姫?
悪いスレで出てきた烏丸の妻の鶴姫?
信長の娘の鶴姫?
NGMSに殺された鶴姫?
吉宗の義理の姉の鶴姫?
つる姫じゃー?
0418人間七七四年2012/11/15(木) 19:35:04.42ID:iHVHX2HN
>>413
ホントに紹運って爽やかでいい話しかないなあw
0419人間七七四年2012/11/15(木) 21:01:56.92ID:yNsJyBYi
徳川秀忠が死去した折、将軍家光の幕閣の中には、天下の動静を見るため、秀忠他界のことを
暫く隠すべきだ、との異見があった。しかしこれに酒井忠勝が猛反対し、忠勝の意見が通り
死去したその夜のうちに、全ての大小名に秀忠の死去を知らせ、早々に登城し家光への
ご機嫌伺いをするよう触れを渡したため、翌日、在江戸の諸侯・旗本は全て出仕し、それぞれ
着座の席を守り、残らず登城した。

彼らの前で、家光が語りかけた

「大相国(秀忠)はご他界された。この家光は現在、将軍職を賜っているが、
この機会に天下の兵権を望むものが居るのなら、かまわぬ、受け取りに来い。
渡し遣わしてやろう。
但し!弓矢の法に任せた上で、引き渡す!」

秀忠の死に乗じて天下に野望を持つものがいるなら構わない、自分が相手になってやる。
そんな家光の宣言である。
この突然の言葉に、諸侯はどう答えていいか解らず誰も返答しないまま戸惑っていた。

と、ここに一人進み出た隻眼の老人。
そう、伊達政宗である。
政宗、家光に向かって申し上げる

「この御当家の御恩を以って、我らは皆、心やすく過ごしております。そんな所に、
この時期を以って天下の兵権を狙う輩がいるのであれば、そんなもの、上様が出られるまでもない 」

諸侯の方を振り向き、言い放った

「この政宗に仰せ付けられよ。たちまちに踏み潰してご覧に入れよう。」


政宗の言葉に、他の諸侯も皆異口同音に家光の言葉をお請けし、そうして退出したという。
(武野燭談)


さすが政宗は美味しいところ持っていきますね。やっぱり千両役者ですw
0420人間七七四年2012/11/15(木) 21:04:46.10ID:tmCu0bXZ
というより諸侯たちに
「やるバカが居るとするならあいつしかいないだろ・・・」
と思われてたから効果的だったのでは
0421人間七七四年2012/11/15(木) 21:19:26.57ID:/RI90IqI
中国の故事にこんなのがあった気がする
似ているもんだねぇ
0422人間七七四年2012/11/15(木) 21:30:29.41ID:PFd0sJIa
>>413
いやーこういうのはもっと書いて欲しいわ
出来れば地元の郷土誌なんかにも残しておいて欲しい
0423人間七七四年2012/11/15(木) 21:40:00.05ID:PMJdOYad
>>420
この時期だとさすがに政宗も枯れてるよね
関ヶ原の時なんかはやる気ムンムンだったけど
0424人間七七四年2012/11/15(木) 22:10:28.03ID:SBfJx6bP
まーくんは行いはアレだけど教養あるから
その故事から引用したんじゃないかな?
0425人間七七四年2012/11/15(木) 22:26:34.63ID:5et3Xusx
>>419
つうか、ちょっと前は政宗が一番あぶないと思われてたんじゃないの
自分が家光側に立つことによって、そういう疑念をうまく払拭したのかな
0426人間七七四年2012/11/15(木) 23:14:31.71ID:8nysyoV4
大坂の陣での動き見る限り政宗は十分危ないよ
家康秀忠もある程度警戒してたと思う
0427人間七七四年2012/11/16(金) 00:16:00.99ID:agL61KHg
>>413
家宝うpうpw
は冗談にせよ、面白い話でした

>>417
常山城の鶴姫きぼー

・・・先日常山城に車で登ろうとしたら、道崩落してたでござるの巻
0428人間七七四年2012/11/16(金) 00:30:39.18ID:rQ8ZDRBb
皆様、レスありがとうございます。
戦前、「玉砕の美学」みたいに一部のキチ軍部に利用されたことを祖父は苦々しく思っており
「何も成せない我々子孫が紹運公や岩屋城のことを他人に軽々しく自慢するものではない」という考えで
父親もほぼ同じ考えです。私自身は自慢とかではなく、
今は損得勘定でものを考える時代かもしれないが、昔はこういう人もいたのだと。
ただし祖父や父親は当然2ちゃんなど見ないので禁を犯して書き込みました。

先述した某はもともと高橋家に仕えていたわけではなく斎藤鎮実の家臣だったそうです。
紹運に姫が輿入れした際に付き随った一人だったとか。(疱瘡を罹って醜くなっても・・・の有名な話ですね)
鎮実は心からこの縁談に感謝して、高橋家に忠節を尽くしてくれとお供の者に何度も言ったとか。
この鎮実は先年、耳川の戦いで戦死していますから
某が岩屋城に籠った理由のひとつに紹運への忠節はもちろんのこと
鎮実の仇を幾分かでも返したかったというのがあるのかもしれません。
このような経歴なので道雪の話も伝わっています。
今風に言えば非常にクセの強かった御方らしく、たまにまわりがドン引きするような言動もあったとか。
在陣中(高橋鑑種討伐の時か?)、寄せ手の吉岡氏と斎藤鎮実の家臣同士のいざこざがあって
どちらも相手が悪いとなかなか引かないでいると、道雪から使者が到着
「このような時に猛々しきは大いに結構。しかしながら軍規を乱さばこの立花の敵。
立花の敵なら大友の敵。敵ならば今すぐあの城に(攻城中の城の事)入ってはいかが?」
このようなニュアンスのことを伝えられてかなり鎮実は困ったそうです。
おそらく吉岡にも伝令がw
0429人間七七四年2012/11/16(金) 00:31:09.59ID:rQ8ZDRBb
あと紹運について断片的に。
夫婦仲はとてもよく、たまに近くの寺へともに参詣していたそうです。
寡黙な御方だったそうですが、気配りというか家臣や領民の困り事はすぐに解決させていたとか。
岩屋城に籠る際も「我らも!」という多くの人を宝満城へ行かせたらしいです。
もう先の運命はわかっていたのでしょうね。
激しく攻めたてられる岩屋城を向かいの宝満城に詰めた方々はどのような気持ちで見ていたでしょう
多くの身内がいたはずですが、それを想像すると我が事のように胸が痛いです。

先述した甲冑と紹運からの書状のほかに伝わっているものがもうひとつ。
僧形の武将を中心に下に二人の武将が描かれている肖像画があります。
賛もあり快心筆とあります。確認する術がありませんが
降伏勧告の使者として遣わされた地元の荘厳寺・快心和尚の可能性もあるかもしれません。
僧形の武将は紹運で、あとの二人は左側は同じく僧形の某
右側は生前に特に親交が篤かった伊藤総右衛門と伝わっております。
もうネタ切れですのでこのことについて書き込むこともないでしょうが
長文&スレ汚しすみませんでした。
0430人間七七四年2012/11/16(金) 02:00:30.63ID:t6dSQXQO
>>428
乙です
こういう家伝の話は滅多に聞く事がないから凄く得した気分だわ

やっぱり道雪公は流石だなw
大友家には一癖も二癖もある人がいっぱいいたんだな
0431人間七七四年2012/11/16(金) 02:13:05.59ID:rlci3xn3
>>428
ありがとう。非常に面白かったし、道雪という人間を考える上でも参考になった。
道雪は異教徒の癖にフロイスにほめられてたり、興味深い人物だよね。

時に一つ質問なんだけれども、家に伝わっている紹運からの書状って、どこかで活字化されてたりする?
詳しく聞くと身バレになっちゃうだろうから、なってるかどうかだけ教えて欲しい。
大友氏の史料は、滅んだワリに残っているとはいっても少ないからね。
まだ公開されていないのであったら、是非大友研究に寄与して欲しいと思うわけですよ。
0432人間七七四年2012/11/16(金) 02:54:06.05ID:qvE7DD8g
>>413
>>428
面白い話ありがとう。
家伝の話なんて聞いたの初めてかもしれんw

しかし、この道雪伝とされるこのセリフ、

>「このような時に猛々しきは大いに結構。しかしながら軍規を乱さばこの立花の敵。
>立花の敵なら大友の敵。敵ならば今すぐあの城に(攻城中の城の事)入ってはいかが?」

いかにも道雪が言いそうで笑ったw
0433人間七七四年2012/11/16(金) 03:45:38.35ID:fFArB14/
真夜中にこんな良い話を知り、妙にアガってしまい
眠れなくなった俺にとっては体にちょっと悪い話
0434人間七七四年2012/11/16(金) 12:29:37.87ID:sjKFlz0o
家伝ですっていう断りいれればやりたい放題でそのうちにそれがソース不明のまま逸話としてネット上を流れ流されしていくんだろうなあ・・・
0435人間七七四年2012/11/16(金) 12:47:17.05ID:pZ5KUHo5
ソース不明の話ならコーエーとかまともなところは取り扱わないだろ
0436人間七七四年2012/11/16(金) 15:08:40.76ID:tI6bsvrv
>>434
今回の人の話は本当に伝わってる事を書き込みしてくれてるが、
便乗して適当書く人が出てくるのは勘弁してほしいよな
0437人間七七四年2012/11/16(金) 15:25:20.18ID:pZ5KUHo5
武功夜話「・・・」
0438人間七七四年2012/11/16(金) 15:40:37.59ID:tI6bsvrv
中庸(中道)は究極の境地なのだろうと思う。
しかし武士の道では、他人より先を行く気持ちが必要とされる。
たとえば弓は、左右の手を同じ高さに定めるのが望ましい型だが、
とかく右のほうが高くなりがちなので、
弓の師範は、右を低めに意識させることにより、
正しい型へと導くことがある。
実戦も、名のある武士を追い越そうと心掛け、
どうにかして強敵を討ち取りたいと昼夜考えつづけていたならば、
心も自然と勇猛になり、疲れることもなく、
武勇を発揮することができるという。
これは私が昔聞いた老武者の話である。
実戦の時ばかりでなく、平素にもこうありたいものだ 【葉隠】
0439人間七七四年2012/11/16(金) 16:33:39.54ID:HGbeldF2
>どうにかして強敵を討ち取りたいと昼夜考えつづけていたならば
これが宗滴のじじいとか真田パパンとかお館様とかだと真っ黒になるんだろうな
0440人間七七四年2012/11/16(金) 16:59:23.10ID:lfgeQGMY
黒田官…もとい黒は勘弁
0441人間七七四年2012/11/16(金) 17:03:36.78ID:/V+bX9R6
>>439
だがちょっと待って欲しい
真っ黒と言えど、発揮できるのが武勇ではなく、知勇に変わるだけでは無いだろうか
0442人間七七四年2012/11/16(金) 17:10:14.28ID:tI6bsvrv
最初から宗滴さんクラスが来たら逃げようって考えてると、
誰が相手でも逃げるようになるから注意しろよ!の教訓だと思ってる
人間は知らないうちに楽なほうに理屈つけて自己正当化しやすいからさ
それに葉隠は集団や組織単位でのスローガンじゃなくて、
山本常朝の個人的心構えだし
紹運一門の子孫さんが言うように、
武家時代の唯心論的なものを近代軍隊で国外戦に適用したり、
一億総玉砕の国是なんかに流用するのはリアルキチガイだと思うよ

最近葉隠投下するとなぜか風当たり強いから、
一応、オレの考え書いとく(笑)
0443人間七七四年2012/11/16(金) 20:04:42.65ID:Obf7p31t
末期の末期の暴走状態の話をされてもなあ
0444人間七七四年2012/11/16(金) 20:14:09.21ID:lfgeQGMY
宇喜多家的には平常運転
0445人間七七四年2012/11/16(金) 22:55:55.23ID:rCjdr2xS
【マスコミ】 「原作改変しておかゆをサムゲタンにしたのは、アニメでわかりやすい表現にするため」「ステマ説は具体性なし」…アニメ業界が反論★2
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1353070132/


【ソウル聯合ニュース】韓国農林水産食品部が参鶏湯(サムゲタン、鶏のスープ料理)の販路多様化に向けて活発な動きを見せている。(2012年7月24日)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120724-00000043-yonh-kr

アメブロの記事数 有名人、かつキーワード 「サムゲタン」
http://search.ameba.jp/search.html?q=%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%82%B2%E3%82%BF%E3%83%B3&;row=100&profileRow=&target=blog&aid=&author=talent&start=0
2009年 1件   2010年 0件   2011年 2件   2012年 122件〜 ←7月から急増
0446人間七七四年2012/11/17(土) 07:35:06.33ID:TrRLS7Sn
徳川家光公は、老臣以下、江戸の事もしっかりと知られていたが、仰せ出されることは稀であり、
下から『この者の儀は斯くの如く候』と言って、その善悪について言上する時に

「その者については、このように聞いている。」

と、良いことについても悪いことについても、老臣よりなお委細にそれについてご存知の事を仰っていた。
例えばこのようなことがあった。

山中源左衛門といって、旗本第一の暴れ者があった。
よって老臣たちよりこの者の処分について言上があった。家光はこれを聞くと

「その者については聞いたことがある。良き男だそうだが、しかし向こう歯が欠けて銀にて入れ歯をしていることを、
かつて私に言った者があった。その通りか?」

老臣たちこの言葉に
「源左衛門の男ぶりについては、その通りでございます。入れ歯のことは細かくは存じません。」
そう申し上げた。

そして家光
「その男の行状の悪さについては8年ほど前に聞いたが、その時は、若気の事なら段々にやり直せば良いと重い、
その後お前たちの報告を待っていたのだ。」

と仰せになり、行状あらたまざるに付き、山中源左衛門は切腹を仰せ付けられた。
後で老中が尋ねさせた所、山中源左衛門には確かに銀の入れ歯があったそうである。


またある時、久世大和守広之にふと、お尋ねがあった。

「大和は今朝、大名共より進物を得たな?」

大和守謹んで
「はっ!上意の通りにて御座候」

すると家光重ねて
「誰が何を贈ったのか?」

このお尋ねに久世大和守、誰から何を受け取ったのか申し上げた所

「まだあるはずだ」

と仰った。

そこで大和守は懐中から書付を取り出し
「何某より何、誰よりは何々を贈り候」
と申し上げると

「それで合っている。」

と言われた。

これに久世大和守は、『恐し恐し』と、広之一代の戒めにしたそうである。
(武野燭談)
0447人間七七四年2012/11/17(土) 09:57:37.57ID:hq0o6bKe
うわあ、恐ろしいってレベルじゃねーよ。
0448人間七七四年2012/11/17(土) 10:14:18.58ID:sqWsScV1
諜報は、どの程度まで情報を得ているかも隠すほうが有益だと思う
0449人間七七四年2012/11/17(土) 12:07:50.23ID:M/PDtlNL
この情報は柳生を使って集めたものなのかな?
0450人間七七四年2012/11/17(土) 14:40:57.47ID:Wze4zVIT
本阿弥光悦の行状記を人から借りて読んだが、光悦の芸は一つとして
妙手に至らぬものはない。その手習いの反古を見ると一つの字を数限りもなく
写している。

このような小さなことにも意を深く用いたから筆道は高く凡境を抜けた。
その他にも刀剣の鑑定も行ったし、茶事は小堀遠州に学ぶなど文武を兼ねた。
人となりは一時の傑物といえる。

むかし北鷹峯は丹波に続く山をめぐり人家は少なく樹木が深く生い茂った。
だから盗賊が常にこの辺りに隠れて旅人を悩まし、京城などへも入っていたので
関東より厳命があって、光悦がこの地を賜り住み始めた。それより盗賊たちは
皆逃れ去ってしまったのだから、その武勇の程が窺える。

光悦がこのような人になったのも母の妙秀という尼の教育によるものだったそうだ。

――『仮名世説』
0451人間七七四年2012/11/17(土) 16:16:22.70ID:Wze4zVIT
>>450
ちょっと訂正します。
×京城などへも入っていたので
○京城などへも入っていたのだが、
0452人間七七四年2012/11/17(土) 23:38:07.79ID:r3654Xdx
>>449
逆にさらけ出すのも一手。
上手くいけば相手が邪推して勝手に恐れ入ってくれる。
0453人間七七四年2012/11/17(土) 23:51:51.99ID:blCU6IGI
幕府隠密 間宮林蔵
0454人間七七四年2012/11/18(日) 10:18:06.68ID:5mA3daL2
>>446
家光を貶すつもりはないけど
もしかして家光はサヴァン症候群だった可能性があるんじゃないか?
結構変わった人だったみたいだし
0455人間七七四年2012/11/18(日) 15:06:44.40ID:7x5nS06K
>>488
それは諜報で集めた情報をどう使うかによるな
同じ情報でもどういう事に使うかはその人の性格、思考、立場によって変わる
0456人間七七四年2012/11/18(日) 15:39:34.20ID:7x5nS06K
>>448の間違いだった
0457人間七七四年2012/11/18(日) 19:40:15.68ID:FJYTT2Tx
一番上の人間に
「君の事は良い事も悪い事も全て知ってるよ(ニコッ」
とか言われたら恐怖しか感じないわ…
0458人間七七四年2012/11/18(日) 19:56:07.35ID:LSDQzCQm
本多忠勝の嫡男、美濃守忠政が未だ平八郎と呼ばれていた頃、その弟の内記忠朝と共に槍の稽古をしていた。
それを見ていた忠勝は、二人にこのように声をかけた

「私が若い頃は小身であったために、槍の働きこそ第一だと心がけた。
しかし今は、御厚恩を以って大身となった以上、軍勢を指揮する采配の取り様や備立てなど、
全て大将が知らなくてはいけない分野こそ、第一に学ぶべきだ。

だからといって、槍を学ぶな、と言っているのではない。
時節相応に、主とすべき分野を、専らに励むべき、ということなのだ。」
(武野燭談)

本多忠勝からの、息子への訓戒である。
0459人間七七四年2012/11/18(日) 20:12:58.00ID:M4aIiWhx
だったらお前も老いてからだろうと手習いくらいしとけよ
0460人間七七四年2012/11/18(日) 20:53:32.97ID:RAK6Tl5l
宇喜多直家と殉死

宇喜多直家と殉死の話はまとめスレにもあったけどこのパターンは無かったので

宇喜多直家が危篤状態に陥った時、左右に居並ぶ家臣達に
「わしが死んだら、誰が殉死してくれるだろうか」
と言った。家臣達は内心慌てたがただ口を閉ざしたままであった。しかし、ある家臣が一人直家の近くに膝を進め
「殿、よくお聞きください。ここに居る家臣は皆賢臣、忠臣です。将来世継ぎの秀家様を支えていく者達です。
そのような家臣をあの世につれていって無駄にして良いものでしょうか。どうせあの世に連れていくならば坊主を連れていくべきです。」
と言った。直家もそれ以降殉死を口に出さなかったそうな。
「閑際筆記」

確かに次世代の事考えると殉死はアレだからいい話っぽいんだが、ただこの家臣が花房某って記録されてるんだよなぁ

花房氏は結構宇喜多騒動で出て行っちゃってるから場合によっては悪い話かもしれない
0461人間七七四年2012/11/18(日) 21:10:51.12ID:knmQNTW/
>>459
忠勝は内政も頑張ってるぞ。
0462人間七七四年2012/11/18(日) 22:32:26.52ID:Yy+lfbdE
清正や市松もそうだけど、槍一筋の武辺者の癖に統治能力が高いのはどういことなんだろ
0463人間七七四年2012/11/18(日) 22:43:10.30ID:TEbo4fL0
森武蔵みたいにしがらみを押し通しているのだろうか?
清正は築城名人だったりするから元々統治の才があったのかもしれないけど
0464人間七七四年2012/11/18(日) 22:45:07.32ID:uukB3FHG
軍隊を維持するのって高度な組織力、つまり優れた官僚機構が必要
それを上手く内政に転化すればいい
トップが暴走しなければ組織が支えてくれるので、たいていはそこまで酷いことにはならんよ

問題は駆け引きとか組織を上手く行きぬく処世術的な意味での、政治力だな
市松さんは政治力無いから、統治能力はあっても失脚しちゃったわけだし
0465人間七七四年2012/11/18(日) 23:20:57.48ID:V8QOjqds
ほんとうの意味での馬鹿でなければ
それなりの官僚機構があれば酷い事にはならない気がする
0466人間七七四年2012/11/18(日) 23:25:33.47ID:I0cJ4jNX
兄弟の絆


永正18年(1518年)、那須家臣大田原資清は大関宗増らの讒言によって失脚し所領を追われた。
そんな資清を救っていたのが故あって僧籍に入り塩谷家の所領にある長興寺の住職となっていた実兄の麟道和尚で
那須家の力の及ばない所で施しを与え、資清は再起への力を蓄えていた。

そして天文11年(1542年)、実に24年の時を経て大田原資清は大関宗増を降伏させて長男を大関家に送り込み復権を果たす。
復権した資清は居城を従来の水口城から龍体山に移すことを計画し、これと同時に追放時のゴタゴタで今まで行うことのできなかった
両親の菩提を弔うために新たに七堂伽藍を建立した。

資清はこの寺に世話になった兄の麟道和尚を開山第一世として請うて招き、寺の名前を兄弟の父の法号「明庵道光」の光の字と、
母の「真芳妙観」の真とをとって「光真寺」と命名して、300石という破格の寺領を与えて大田原家永代の菩提寺とした。
0467人間七七四年2012/11/18(日) 23:53:19.47ID:j9G1vpw4
レファランス協同データベースより 浜松市立中央図書館付


家康が征夷大将軍になって真っ先に発令したという「百姓斬り捨て禁止
令」について詳しく知りたい。


1603(慶長8)年3月27日 幕府、郷村七か條を出す。この七条目に、「
百姓むざと殺し候事、御停止たり」とあった。おそらくこの条文のことと
思われる。

「新国史大年表第5巻T 江戸時代前期」国史刊行会 29〜30頁より。出
典は「徳川禁令考」。

回答プロセス
家康が征夷大将軍になったのは1603(慶長8)年2月。家康関連の資料をあた
るが、それらしい回答が得られなかったため、「新国史大年表」で、慶弔8年
2月以降の出来事を確認したところ、郷村掟七か條があった。
//crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000109854

新将軍様の民を思ういい話ともいえるが、逆に言えば百姓殺しが横行してい
たって悪い話?既出ネタならご容赦ご容赦。
0468人間七七四年2012/11/19(月) 00:18:26.18ID:xVwgnoRT
那須家って何でこんな家臣からボコボコにされるの?
0469人間七七四年2012/11/19(月) 00:28:58.98ID:FXD/ktxV
スケキヨ兄とか住職になるまでに泥沼の権力闘争を征したりしてるんでしょ・・・?(偏見)
0470人間七七四年2012/11/19(月) 01:08:56.24ID:749WevT5
忠勝 「>>459の忠告に従って彫り物でもするか」
0471人間七七四年2012/11/19(月) 07:38:17.00ID:Itc9X9lt
>>470
桜吹雪ですね(違
0472人間七七四年2012/11/19(月) 12:30:12.04ID:h3wlSL+V
>471
本多忠勝が彫刻刀ミスって生まれて初めて指に傷をおって
「そろそろ俺も死ぬのか」と言った話の方でないかい?
0473人間七七四年2012/11/19(月) 14:23:17.35ID:wY2zrM6X
長男ってきたない大関だっけ?
0474人間七七四年2012/11/19(月) 16:08:26.70ID:dwhwgyYa
この頃って大名から一家臣に至るまで官位を勝手名乗りしてるけど、地域や時代によって人気の官名とかあったのかな
殿様からコレ名乗っていいよと許されたけどこの官名じゃ嫌だとか無かったのか
0475人間七七四年2012/11/19(月) 16:40:11.96ID:lz20Gs++
丹羽長秀が信長から官位を薦められたときただの五郎左で結構です!って断った話とか
0476人間七七四年2012/11/19(月) 18:03:33.22ID:VEoGKfyL
物語は破のEDの14年後からはじまる。

カヲルの首に取り付けられたDSSチョーカーが発動し、カヲルは首に数発の弾丸を打ち込まれ死亡する。
覚醒状態を止めた第13号機は地上へ落下するが、フォースインパクトの進行は止まらず、マリが8号機でシンジの乗るエントリープラグを強制射出させたことでようやく終息した。
地上に落ちたエントリープラグの中で蹲っていたシンジをアスカが助け出し、そこにアヤナミレイ(仮称)も現れる。アスカは放心して反応しないシンジを連れて歩き出し、そしてレイも2人についていく。

(エンディングへ
0477人間七七四年2012/11/19(月) 19:49:59.12ID:RbQCKCwP
>>466
これを見習った息子達も兄弟が一致団結、那須資胤と戦ったというわけか
0478人間七七四年2012/11/19(月) 22:46:35.24ID:9Ngaa4lD
>>460
大体どのバージョンも宇喜多騒動で居なくなった家の人間が言ってなかったっけ
0479人間七七四年2012/11/20(火) 00:36:13.38ID:V9cxuDJi
志田吉之助は竜造寺政家さまの小姓であった。
勝茂公の時代になり石田慶春に家督を譲り隠居となった。
多久美作殿と仲が良かったという。
美作殿は吉之助の人物を高く評価していたので、
隠居となった吉之助にひそかに国のことを相談していた。
美作殿は吉之助の隠居の身をもったいないと思い、
どうにか大禄で召し抱えてもらえるようにと考えていた。
吉之助はそんな美作殿の心のうちを見抜いたので、
わざと馬鹿を演じ、強欲者のように振る舞い、
自家製の目薬を作り商売を始め、
その金をもとに質屋金貸業をするようになった。
普段の態度も猛犬のそばを歩くときは裾からげして、
「人間の傷は治るが、着物の傷は治らない」
などと真面目な顔で放言していた。
けれど美作殿も吉之助の作り馬鹿を見抜いて、
ますます奉公させたいと思うようになった。
吉之助はその美作殿の気持ちを知ると、
今度は腰抜けのふりをするようになった。
鳥居の下をふざけながら走ったり、
お堀のそばを通るときなどは、
「通り魔に出くわしたら、お堀に飛び込めば命が助かる」
と言ったり、
「斬首と磔なら磔を選ぶ。
なぜなら磔のほうが死ぬまでの時間が長い」
などとも言い出し、
「生きるか死ぬか迷ったらとりあえず生きておく」
と言いながら結局最後まで奉公しなかった。
しばらくしたあるとき、筑後へ目薬を売りにいく途中、
山賊に囲まれたが三人を斬り殺し、
二人に手傷を追わせて追い散らした。
吉之助はこの事を隠していたが、
そのうち目撃者によりだんだんと知れ渡るようになり、
やはり剛の者であったかと評判になった。
吉之助は、
「拙者は剛の者などではない。
臆病者ゆえ、斬り殺されそうになったから、
命を惜しみ、相手より早く斬っただけなのだ」
と言い訳をした。
このような事がその後もたびたびあったのだが、
老後は竜泰寺を建て、政家さまの霊廟の横に庵を結び、
そこで余生を終えた。
とうとう一生、欲深と腰抜けを演じきり、
本心を隠し通したわけである 【葉隠】
0480人間七七四年2012/11/20(火) 10:03:37.62ID:fNMicOWF
>>479
これはまた派手に面倒くさい男だなw
0481人間七七四年2012/11/20(火) 12:52:26.80ID:5+5hIUKs
素直に奉公すりゃいいだろうにw
政家への忠義が篤かったのか
0482人間七七四年2012/11/20(火) 13:18:25.90ID:1D2JHR74
そういうところだろうなぁ。
まあ、隠しきれてない気もするがw
0483人間七七四年2012/11/20(火) 17:57:05.03ID:rtTNkJx1
>>467
百姓が武士に虐げられてたとかいまどきどこの左翼売国史観だよw
戦国期の百姓は大名権力に匹敵する武装集団でむしろ武士の方が下手に出てたってのに
0484人間七七四年2012/11/20(火) 17:58:56.66ID:fEpD3TWQ
>>483
それも極端だよ。百姓にとって武士はやはり恐ろしい集団だったのは間違いない。
0485人間七七四年2012/11/20(火) 18:21:34.28ID:KPAspN5f
つか戦場の近くの村を焼き討ちしたり37564するのは戦国時代は通常営業じゃあないか
0486人間七七四年2012/11/20(火) 18:27:53.33ID:V9cxuDJi
武家政権時代の警察機構は武士だけではないよ
あと町には顔役と言われる存在もいたし、
寺社も大地主も村や町一帯の治安管理の役目を果していた
そりゃ武士は帯刀してるから恐れられていたと思うが、
どこまで百姓の日常に接することがあったかはいまいちわからん
0487人間七七四年2012/11/20(火) 18:31:34.11ID:tZdan5NC
でも寺社や大地主でも武士の巨大な軍事力の発露に晒されれば木っ端微塵じゃないか
信長とか秀吉とか
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