戦国ちょっといい話35
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0358人間七七四年
2012/11/11(日) 00:52:36.28ID:U660Ng4Gその幽閉時代に母は死去、その後は乳母である船橋半左衛門の妻によって育てられた。
信義が藩主になると、国許の家臣をほとんど知らないために船橋半左衛門が重用されることとなったが、国許の家臣、特に譜代の家臣に不満が募った。
そこで、譜代の兼平信孝、乳井建定らが江戸の町屋に篭城し、船橋追放を幕府に訴えた。
これを受け、津軽信義は土井利勝、松平信綱、阿部忠秋らの尋問を受けることとなった。
まず土井利勝は、
「訴状によれば《主君のためにした》としているが平蔵殿(信義)はどのように考えるか」
対する津軽信義は、
「私が若輩のため、家臣どもはいきなり目安をもって公儀に訴え出てしまった。
藩邸より立ち退いた者には帰ってるように再三の説得をしたが、難題を申して聞き入れてくれない。
私には何が良いのか悪いのか判断がつかない。
この上はご公儀においてよろしく御裁断申し上げる。」
と、15歳ながら神妙な回答をしたため、土井利勝は
「若年ながらこの分別、私達も子を持つ者として考えさせられる。
特に平蔵殿には岳父がおらず親族も少ない。
相談相手もなく辛いことだろう。苦衷のほどはよく判る」
と、落涙した。これにつられて同席した幕閣も貰い泣きし、信義に対して「お構いなし」の裁定が下された。
余談であるがその後、津軽信義は、娘の萬を土井利勝四男・利房に嫁がせている。
尋問部分は白川亨さんの「石田三成とその子孫」に書いてあり、元の出典は『服部長門守宛、乾四郎兵衛、船橋半左衛門書状』のようです。
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