戦国ちょっといい話35
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年
2012/10/18(木) 19:08:22.07ID:/qlGMV2o戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話34
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344541435/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話33
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1344939207/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0344人間七七四年
2012/11/09(金) 21:21:35.38ID:cRRPWd/b「小身の私が将軍家よりお取り立てして頂き、この様に大身の数に入り、家臣も多く召抱えることになりました。
そこでご相談なのですが、家臣を管理する目付役・横目役などを申し付けるべき人品は、どのような人柄の者が
然るべきだと考えていらっしゃるのでしょうか?
土井殿の賢慮をお伺いしたく、こちらへ参ったのです。」
この様にまめやかに尋ねた事に、土井利勝
「それは最初に、良きことに気が付きましたね。
役についての、人柄の吟味は尤もの事ですが、その中でも目付などに適した人品について、私にまで相談されるとは、
誠に奥ゆかしいことです。
あなたや私などは、将軍家のご威光のおかげを以って、方々へ饗応に招かれます。
その膳部は爽やかにして切り目正しく、季節折々の初物も食い甲斐があるように料理されて、
この料理が完成するまでの亭主の奔走はどれほどだっただろうか、などと考えている所に、
勝手より人が出てそっと『あの膾にはハエが止まっていました!あの刺身には蚊が止まりました!」などと
言ってきては、それ自体は何の意味もないことではあっても、聞いてしまってはどうしても気分がよくありません。
総じて、欠けた所のない人というのは稀です。ならばその人に適した分野を見立てて仕事に使うべきです。
酢や煎酒に蚊が入ったことまで、取り上げて尽く申し立てるような器量のものは、目付・横目には無用の人品です。
だからといって、砒素石や斑猫(どちらも毒薬)が堂々と入っているのを見逃してしまうような、
律儀過ぎる者も目付役には適しません。
と言うか、そんな者がもし本当にいたら、、それは毒石や斑猫と同じ有毒な存在です。
であれば、その人物の危険性をいち早く察知し、注進するような侍こそ、真の目付になるべき者です。
この大炊頭が家人に目付を申し付ける時は、例えば、人間の目は横に切れているのが天より与えられた姿であるが、
この目で物陰から覗いたり、目を眇めるなどして物を見ようとすれば、まっすぐに見るのとは違って
見損じもある。であれば、ただまっすぐに見たものを実として、途中に脇目をセず、向こうばかり見るのだと思えと、
そう申し付けています。」
と答えたのだという。
(武野燭談)
土井利勝の目付選抜法、というお話。
0345人間七七四年
2012/11/09(金) 21:46:50.68ID:YL2d4lQn聚楽第行幸などでも有力大名扱いでしたっけ
それにしても直江兼続以上の面白い立ち位置だったんだな
0346人間七七四年
2012/11/09(金) 22:19:10.12ID:PZRa+Oyr館林城主にしろとアドバイスしたのもそうだが、秀吉は康政評価してたんだなー。
井伊と同等ってかなりすげー
0348人間七七四年
2012/11/09(金) 23:15:06.62ID:iN8RimByながらもとても良い夫婦だった。
0349人間七七四年
2012/11/09(金) 23:19:30.89ID:m9LGRbKG>言ってきては
俺のことか…
0350人間七七四年
2012/11/09(金) 23:29:29.88ID:FsTELhoz0351人間七七四年
2012/11/09(金) 23:51:49.04ID:khQPPpsy0352人間七七四年
2012/11/10(土) 00:12:56.97ID:77PFQ/KV律義者と呼ばれた方の評価が大分変わってくるな
0353人間七七四年
2012/11/10(土) 00:17:32.57ID:ghAmbUb8加減を知らないってことじゃないかな
弛める部分も大事だと言われると毒にも気付かないほどリラックスして、
引き締めてやれと言われたらチリひとつ落ちてたくらいで打首だと騒ぐような
0354人間七七四年
2012/11/10(土) 02:14:17.51ID:YaJkWQ2/0356人間七七四年
2012/11/10(土) 14:33:05.51ID:CVfvJ0Ol鬼神の如く世に恐れられた織田信長にはいずれの公家も媚びへつらったものだが、
この玖山公は立ちながら向かい会い「上総殿が入洛めでたし」と言って帰ったので、
信長は機嫌を悪くして「九条殿は我に礼を言わせに来られたか」と腹を立てた。
例え一令を失うとしても、公家の行跡を乱して御家の恥を残すまいという心故であろう。
「時勢に従わずに不用なことをなさる」と謗る者もいた。
または「『智者は惑わず、勇者は怖れず』ということだ」と誉める輩もいたのだとか。
――『日本史伝文選(戴恩記)』
0357人間七七四年
2012/11/10(土) 19:36:26.09ID:ghAmbUb8蜂須賀小六、荒木村重との逸話もそうだけど、
織田信長は座敷の場でもタイマン一歩手前な状況になることあるな
すごく威圧感のあるタイプだったんだろう
0358人間七七四年
2012/11/11(日) 00:52:36.28ID:U660Ng4Gその幽閉時代に母は死去、その後は乳母である船橋半左衛門の妻によって育てられた。
信義が藩主になると、国許の家臣をほとんど知らないために船橋半左衛門が重用されることとなったが、国許の家臣、特に譜代の家臣に不満が募った。
そこで、譜代の兼平信孝、乳井建定らが江戸の町屋に篭城し、船橋追放を幕府に訴えた。
これを受け、津軽信義は土井利勝、松平信綱、阿部忠秋らの尋問を受けることとなった。
まず土井利勝は、
「訴状によれば《主君のためにした》としているが平蔵殿(信義)はどのように考えるか」
対する津軽信義は、
「私が若輩のため、家臣どもはいきなり目安をもって公儀に訴え出てしまった。
藩邸より立ち退いた者には帰ってるように再三の説得をしたが、難題を申して聞き入れてくれない。
私には何が良いのか悪いのか判断がつかない。
この上はご公儀においてよろしく御裁断申し上げる。」
と、15歳ながら神妙な回答をしたため、土井利勝は
「若年ながらこの分別、私達も子を持つ者として考えさせられる。
特に平蔵殿には岳父がおらず親族も少ない。
相談相手もなく辛いことだろう。苦衷のほどはよく判る」
と、落涙した。これにつられて同席した幕閣も貰い泣きし、信義に対して「お構いなし」の裁定が下された。
余談であるがその後、津軽信義は、娘の萬を土井利勝四男・利房に嫁がせている。
尋問部分は白川亨さんの「石田三成とその子孫」に書いてあり、元の出典は『服部長門守宛、乾四郎兵衛、船橋半左衛門書状』のようです。
0359人間七七四年
2012/11/11(日) 01:02:18.51ID:Km/8uD4Zそれにしても土井利勝、松平信綱、阿部忠秋の三人の前で話すのは緊張しそうだなー
0360人間七七四年
2012/11/11(日) 01:07:25.65ID:4fW2CcqCそういや白川亨さんって、今年亡くなられたね。
武功夜話を真書として扱ったりミスはあったけど、実証的石田三成研究の
端緒をつけた人で、惜しい人を亡くしたものだ。
0361人間七七四年
2012/11/11(日) 03:43:07.88ID:BonGPYJ30362人間七七四年
2012/11/11(日) 07:49:41.61ID:AKuoj+Ih0363人間七七四年
2012/11/11(日) 09:17:46.43ID:WHBQaoke裁定に反発した藩士たちが両派問わず出て行って、城の警備にも事欠く有様になったそうな。
・・・あれ、悪い話?
0364人間七七四年
2012/11/11(日) 10:46:09.62ID:EbGq1rt8本屋で軽く立ち読みして面白かったので購入しました
遅くなりましたが勧めてくれたこと感謝しています
0365人間七七四年
2012/11/11(日) 17:12:12.93ID:l3BBkEkC当時はどうだったのかな?
0367人間七七四年
2012/11/11(日) 18:20:14.93ID:qfQB4u930368人間七七四年
2012/11/11(日) 18:27:57.00ID:NlOmgjI20369人間七七四年
2012/11/11(日) 18:32:01.13ID:d+NAPoUnだったっけ?
0370人間七七四年
2012/11/11(日) 18:50:02.47ID:Zn8sZOGz思わずにはいられない名字ってあるよね、問注所さんとか
まあ実際に自己顕示が目的なんだけどさ
0371人間七七四年
2012/11/11(日) 20:37:21.93ID:7MWZQl4Y0372人間七七四年
2012/11/11(日) 22:06:41.38ID:ljQD2uKsこの船は錦の織物、様々な焼き物、沈香、麝香、珊瑚、琥珀の玉など、あらゆる商品を持ち来ていた。
その頃関東は富貴であったので、それら商品は尽く諸人買取り、唐船は売買の利を得て帰国した。
その中に唐人が多数この関東に留まり、目出度き所にこそ住むべきだと、帰国せずに、即ち小田原に居住した。
そこで町家を給わり商人となって、今もその子孫が多数、小田原に有るのだという。
(關侍傳記)
小田原に住み着いた唐人たち、というお話
0374人間七七四年
2012/11/11(日) 22:26:20.72ID:7MWZQl4Y0375人間七七四年
2012/11/12(月) 12:54:38.83ID:UPBETAUxけっこう定期的な入港があったのかも
0376人間七七四年
2012/11/12(月) 15:21:35.21ID:Jl8rqVN20377人間七七四年
2012/11/12(月) 17:48:02.81ID:prlFx6pi謙信は僧に向かって「甲斐の臣に向井与左衛門という者はいるか」と尋ねた。
「はい。おります」
「その人に刀傷はないか」
「はい。面に刀傷があります」
「おお、そうか! 実はな、むかし川中島の戦いで彼は姓名を名乗って
槍で私の背を突いた。その時、私は後ろを見て彼の面に一撃を加えたのだよ。
すでに死んだものと思っていたが…そうか、いまも無事であったか」
謙信はその時に着ていたと思しき槍の痕がある緑色の陣羽織を出して一つの書簡を
添え僧を介して与左衛門に送らせた。世にこれを倒勲状(さかさ感状)という。
大槻磐渓曰く、
「私が聞いたところによると、謙信は甚だ身の丈が大きいというわけでもなく
足を引きずって歩いていたというが、戦いともなれば黒い陣羽織を着し鉄製の
小陣笠を戴き、三尺の青竹杖をひっさげて士卒を指揮したという。
それを踏まえてこの逸話を見ると謙信の心の広きことを想像できる。かの勲状を
自分と敵対する者に与えてこれを賞したのは謙信の度量が広いからだ。そのような人が
どうして逆禿(悪僧、信玄)と親交を結ぶような下策に出るだろうか」
――『近古史談』
0378人間七七四年
2012/11/12(月) 18:06:34.07ID:twErZys30379人間七七四年
2012/11/12(月) 18:07:11.08ID:twErZys30380人間七七四年
2012/11/12(月) 18:53:43.32ID:HrpWlGHh0381人間七七四年
2012/11/12(月) 19:46:03.26ID:/t0cDuhH0382人間七七四年
2012/11/12(月) 20:29:42.40ID:Pw8IDJf40383人間七七四年
2012/11/12(月) 20:40:05.83ID:Kz1pjgFxうらやましい(´・ω・`)
0384人間七七四年
2012/11/12(月) 21:21:54.52ID:065CW0wl北条氏綱の時代、相州小田原では政道に私無く、民を慰撫したので、近国・他国の民も
北条氏の徳に懐いて家を移し、津々浦々の町人・職人、西国・北國より群れ来たった。
それにより小田原の街は、昔の鎌倉もどうしてこれほどだっただろうか、と思うほどの
繁栄を示した。
東は一織より板橋に至るまで、その間一里ほどに、棚を設置し数多の売買を行い、
山海の珍物・琴・碁・書・画の細工に至るまで尽く集まっていた。
異国の唐物でも未だ目にしたこともなく、まして聞いたこともないような器物を数知れないほど
積み置いていた、
小田原における交易売買の利潤は、京の四条、五条の辻にも勝っており、民の収入も豊かで、
小田原を支点にした東西交易は大変繁盛していた。
このころ北条氏は小泉という人物を町奉行に置いた。この人は賞罰厳重にして人の堪否を知り、理非分明にして
物の奸直を糺したので、人の嘆きも無かった。
ここに京都より外郎という町人が来て、様々な薬を売る中にも、透頂香という霊薬を売っていた。
これは長生不死の薬として、北条氏綱にも進上される事となり、小泉はこの外郎を連れて登城した。
外郎は氏綱の前でかの薬の効能を上げ、第一には口中の臭いを除き、眠気を消し去り、
命を延ばすのだと言上した。
外郎の言うところには
『この霊薬は唐にて仙人の秘薬でしたが、我々の先祖がこれを伝え、鎌倉の建長寺の開山・大覚禅師
来朝の時、共をして本朝に渡ってより、この地に居住しています。』
とのこと。
氏綱は
「実に珍しい貴物である。おぬしはここに居住せよ」
と申し付け、明神の前に町家を給わり、小田原に住むことになった。
今の小田原の外郎というのは、これである。
(關侍傳記)
0385人間七七四年
2012/11/12(月) 21:50:32.00ID:GRmcnagB今の物があって当然って感じの東京とは違う活気がありそう
0386人間七七四年
2012/11/12(月) 23:10:12.21ID:1PEFadOEレスが拾われるとはw
北条の内政チート話はよく聞くなぁ
滅ぼされなかった歴史が見たいもんだ
0387人間七七四年
2012/11/12(月) 23:52:28.06ID:AH7QiWE50389人間七七四年
2012/11/13(火) 02:10:29.99ID:qkkxzYjz大高城を攻めて引き取るという時に諸人は「城中にある米をこのままにしては
たちまち敵のものとなってしまう。米を取り出して敵に渡さないようにしよう」
と皆々相談したが、そう簡単なことではなかった。
しかしこの時、弥八郎が「米をこのまま置いておいて一旦敵のものになったとしても、
明日には敵を追い払ってこちらのものにすればよいではないか。少しも気遣う
ことはない」と言うので、そのままにしたところ案の如く翌日には敵を追い払い
米もすべて味方のものとなった。
その見地は若年の頃より少しも違わなかったのである。
――『良将言行録』
0390人間七七四年
2012/11/13(火) 03:57:44.86ID:p8VSHbSC知らなかった
0391人間七七四年
2012/11/13(火) 18:05:18.32ID:m/OfymvL自己破産申請の準備に入ったことが12日、分かった。信用調査会社の帝国データバンク福岡支店によると、
負債総額は約2億5千万円。本店や福岡市内の百貨店で営業している計7店の閉鎖時期などについては不明。
同社は1673年(延宝元年)創業。福岡市内の和菓子製造会社としては最も古く、
江戸時代に黒田藩に献上したとされる鶏卵素麺を主力商品に、ようかんや最中などを販売していた。
1996年に株式会社に組織変更。99年4月期には約5億2500万円の売上高があったが、
消費者の和菓子離れなどの影響で、2011年4月期は約3億2千万円に落ち込んでいた。
現在は福岡市・天神の岩田屋本店や福岡三越、博多大丸などに直営店を構えている。
「鶏卵素麺」はほかのメーカーでも同名の商品がある。
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/333828
0392人間七七四年
2012/11/13(火) 18:40:46.46ID:zTJiC/oFただ逸話というほどの分量ではないので箇条書きでまとめるのはご容赦
・三浦三崎はガチの名勝
・名勝ってだけじゃなくて交通の要衝だし、水底は深いし、幾千艘つないでも余裕の良港すぎワロタw
・日本だけじゃなくて唐国にも知れ渡ってるマジスゲーwww
・氏政が三官っていう唐人に虎朱印判状渡して、唐国の黒船が来航したよ
・そいつら三崎の良港ぶりにめっちゃ驚いててワロタwww
・安藤豊前守が通訳交えて唐人と売買したよvv
八王子から外来の器とかそこそこまとまって見つかってるらしいし、
ある程度交易はあったっぽいね
0393人間七七四年
2012/11/13(火) 19:24:48.74ID:12gephJg鶏卵素麺はあまり旨くはなかったが古いメーカー潰れるのは残念
鶏卵素麺は南蛮の菓子だが、タイにも伝来してるみたい
日タイ交流協会のイベントで紹介されてた
>>392
三崎地図でみたら島と半島で囲まれてんだな
屋島とかあと鎌倉は人口島で同じような地形作ってるね
中世から近世の港の特徴なのかもな
0394人間七七四年
2012/11/13(火) 19:29:47.40ID:1hq8lkjn山がそのまま海底につながってるような場所で沖を半島や島で囲まれてる所が天然の良港になるんだろうな
0395人間七七四年
2012/11/13(火) 19:48:13.33ID:B2/FBL9K「家臣として、主君に向かって、志を立てて諫言を行うものは、大剛・大忠の者である。
平凡な人間には、思い切ったことは言えぬものだ。
何故なら、主君というのは恐ろしい者であり、それに向かって思い切って諫言を言おうとするのは、
大敵の中に駆け入るよりも大変な事だからだ。
大敵の中に駆け入った場合、高名して大利を得ることもあるし、勿論討ち死にするのも勇士の常とする
所であるから、何れにしても多くの者達がこれを励むものである。
ところが、主人の心と違うことを言って、主人に憎まれてしまっては、今自分が得ている身上を失う
どころか、その妻子まで含めて逃れがたい困難な事態になる。
そう言う事を知りながら、自分自身は勿論、妻子・兄弟の事をも顧みず、思い切って諫言を言ってくる。
そういう人間は大剛の忠臣である。必ず疎かにしてはならない。」
(武野燭談)
徳川家康の、諫言についての考えである。
0396人間七七四年
2012/11/13(火) 23:00:25.70ID:6Ks1QsGY0397人間七七四年
2012/11/14(水) 00:12:02.48ID:mnbwLNRd課長係長の諫言をまともに聞く度量のある社長は少ないと思う
0398人間七七四年
2012/11/14(水) 00:40:11.49ID:lc/a7xsd0400人間七七四年
2012/11/14(水) 05:56:16.83ID:0zIQU8jV家系図の一番最初が霧隠才蔵になってる。
0401人間七七四年
2012/11/14(水) 06:41:40.36ID:DQ0CVsTB家康>>>>信長>>>>秀吉(晩年)
0402人間七七四年
2012/11/14(水) 13:42:17.09ID:ngiMIftZ部長になる頃には下にも家庭にも守るものいるからな〜
やっぱ諫言も才能だから、
ガキの頃から間違ってると思う事は怖い先輩にでも言うタイプじゃないと、
大人や役職ついてからでもなかなか言えない
中学の時の同級生にそのタイプいたけど、
そういう奴は大人になってもしっかりしてる
0403人間七七四年
2012/11/14(水) 13:54:04.82ID:ngiMIftZ才能と度胸のない者が諫言討死する方法はたしかに書いてあるな
常朝さんの覚悟を決められるのも才能な気がしないでもないが(笑)
0404人間七七四年
2012/11/14(水) 14:03:11.16ID:364uS6zh彼は、(^p^)あうあうあーの家重より文武両道の宗武を
次期将軍にした方が良いという誰もが当たり前に思う事を
暴れん坊に諫言したのだが、その結果、老中を解任され左遷させられた...
0405人間七七四年
2012/11/14(水) 17:39:52.21ID:zHTQwAwI信長は清十郎の勇を愛し自ら無双の字を背旗に書いて清十郎に与えた。
人はこれに因んで道化を『無双道化』と呼んだ。
ところで信長が招いた美濃の士に平野某という人がいたのだが道化は
彼と親しく交わった。ある時、道化は気軽に「あなたは進めば先頭に立ち、
退けばしんがりを務めるが、どうしてあのようにできるのだ」と尋ねた。
「死を決するのみ。…ではあるが斎藤家の諸将は皆国の為に死んでしまったから
それがしは独り余命を保ってここにいる。結局は勇気が足りないのだ。今あなたの
問を受けて、恥ずかしさのあまり背中にたくさんの汗をかいてしまったよ」
道化は退くと「勇を誇らない平野殿には、俺は断じて及ばないな」と嘆じた。
――『近古史談』
0406人間七七四年
2012/11/14(水) 17:57:22.24ID:QpEfWziEそれに家康以来の長子相続の祖法を否定したんだから処分は無理ないこと
0407人間七七四年
2012/11/14(水) 18:19:54.42ID:oP3uf1gX秀康「お、おう…」
0408人間七七四年
2012/11/14(水) 18:52:45.16ID:2RSu/zLq0411人間七七四年
2012/11/14(水) 20:05:09.76ID:2RSu/zLq0412人間七七四年
2012/11/15(木) 00:54:27.53ID:g6F5c+if小唄の名人の隆達を能舞台にあげて、小鼓を伴奏に唄わせることとなった。
見物者たちが小唄の隆達節ではその場にそぐわないと思ってると、案に相違して
隆達の歌唱は筆舌に尽くしがたいほど素晴らしく、太閤殿もことのほか賞賛なさったが、
太閤「隆達の小唄はあっぱれではあるが、鼓が合っていない。さてどうしたものか」
と細川藤孝に問うた。
藤孝「それならば隆達の歌に合わせて藤孝が鼓をうちましょう」
と細川藤孝が代わりに隆達の歌に合わせて鼓をうつと、その拍子は絶妙な取り合わせであり
太閤殿はじめその場に居合わせたものすべてが感嘆しきりであった。
「焼残反故」より
0413人間七七四年
2012/11/15(木) 15:50:35.83ID:WYmcdPDJ天正12年、高橋紹運は筑後猫尾城攻略中に筑紫広門に宝満城を攻撃されるが和議を結んだ。
その戦いで某(うちの先祖)は足に重症を負い
満足な戦働きが出来ぬからと息子に家督を譲って隠居した。
その際、紹運から相続の許可とねぎらいの感謝の言葉
そしてどこで聞きつけたのか、目を患っていた妻への薬もあわせて届けられた。
某にはとても買うことができない高価な薬だったという。
天正14年、島津氏が北進し岩屋城に侵攻が目前の中
息子は宝満城へ詰めることとなったが
某はどうしても紹運の恩忘れがたく、頭を剃って入道姿になると
妻へ息子への遺言のようなものを残し岩屋城に籠ることを願った。
(このことから岩屋城の士気は高かったのだろうが、まわりからみれば絶望的な状況だったのであろう)
そしてご存知の通り、岩屋城は壮絶な玉砕を遂げた。
某の遺骸は大手門のそばで見つかったそうだが
その時身につけていた甲冑と紹運からの書状は我が家の家宝となっている。
某から息子への遺言を要約すればこのように。
「宝満城で忠義を尽くせ。家を頼む。母や兄弟を大切にしろ。
隠居までに殿(紹運)への忠義は尽くしてきたが
まだいただいた薬の恩をまったく返しておらぬ故にこうのような仕儀と相成った」
立花城からの援軍の面々もしかり、紹運のまわりにはこういう人間が多かったのだろう
0414人間七七四年
2012/11/15(木) 17:40:57.53ID:lXvY0Pro0415人間七七四年
2012/11/15(木) 18:20:09.42ID:/7LaIWeh全然スレ違いでなく、むしろ貴重な話だと思う
家に伝わる話なんかそうそう聞けるものでもないし
0416人間七七四年
2012/11/15(木) 18:25:45.41ID:PMJdOYad0417人間七七四年
2012/11/15(木) 18:33:25.41ID:CTJ+rpLg悪いスレで出てきた烏丸の妻の鶴姫?
信長の娘の鶴姫?
NGMSに殺された鶴姫?
吉宗の義理の姉の鶴姫?
つる姫じゃー?
0419人間七七四年
2012/11/15(木) 21:01:56.92ID:yNsJyBYi暫く隠すべきだ、との異見があった。しかしこれに酒井忠勝が猛反対し、忠勝の意見が通り
死去したその夜のうちに、全ての大小名に秀忠の死去を知らせ、早々に登城し家光への
ご機嫌伺いをするよう触れを渡したため、翌日、在江戸の諸侯・旗本は全て出仕し、それぞれ
着座の席を守り、残らず登城した。
彼らの前で、家光が語りかけた
「大相国(秀忠)はご他界された。この家光は現在、将軍職を賜っているが、
この機会に天下の兵権を望むものが居るのなら、かまわぬ、受け取りに来い。
渡し遣わしてやろう。
但し!弓矢の法に任せた上で、引き渡す!」
秀忠の死に乗じて天下に野望を持つものがいるなら構わない、自分が相手になってやる。
そんな家光の宣言である。
この突然の言葉に、諸侯はどう答えていいか解らず誰も返答しないまま戸惑っていた。
と、ここに一人進み出た隻眼の老人。
そう、伊達政宗である。
政宗、家光に向かって申し上げる
「この御当家の御恩を以って、我らは皆、心やすく過ごしております。そんな所に、
この時期を以って天下の兵権を狙う輩がいるのであれば、そんなもの、上様が出られるまでもない 」
諸侯の方を振り向き、言い放った
「この政宗に仰せ付けられよ。たちまちに踏み潰してご覧に入れよう。」
政宗の言葉に、他の諸侯も皆異口同音に家光の言葉をお請けし、そうして退出したという。
(武野燭談)
さすが政宗は美味しいところ持っていきますね。やっぱり千両役者ですw
0420人間七七四年
2012/11/15(木) 21:04:46.10ID:tmCu0bXZ「やるバカが居るとするならあいつしかいないだろ・・・」
と思われてたから効果的だったのでは
0421人間七七四年
2012/11/15(木) 21:19:26.57ID:/RI90IqI似ているもんだねぇ
0424人間七七四年
2012/11/15(木) 22:10:28.03ID:SBfJx6bPその故事から引用したんじゃないかな?
0425人間七七四年
2012/11/15(木) 22:26:34.63ID:5et3Xusxつうか、ちょっと前は政宗が一番あぶないと思われてたんじゃないの
自分が家光側に立つことによって、そういう疑念をうまく払拭したのかな
0426人間七七四年
2012/11/15(木) 23:14:31.71ID:8nysyoV4家康秀忠もある程度警戒してたと思う
0427人間七七四年
2012/11/16(金) 00:16:00.99ID:agL61KHg家宝うpうpw
は冗談にせよ、面白い話でした
>>417
常山城の鶴姫きぼー
・・・先日常山城に車で登ろうとしたら、道崩落してたでござるの巻
0428人間七七四年
2012/11/16(金) 00:30:39.18ID:rQ8ZDRBb戦前、「玉砕の美学」みたいに一部のキチ軍部に利用されたことを祖父は苦々しく思っており
「何も成せない我々子孫が紹運公や岩屋城のことを他人に軽々しく自慢するものではない」という考えで
父親もほぼ同じ考えです。私自身は自慢とかではなく、
今は損得勘定でものを考える時代かもしれないが、昔はこういう人もいたのだと。
ただし祖父や父親は当然2ちゃんなど見ないので禁を犯して書き込みました。
先述した某はもともと高橋家に仕えていたわけではなく斎藤鎮実の家臣だったそうです。
紹運に姫が輿入れした際に付き随った一人だったとか。(疱瘡を罹って醜くなっても・・・の有名な話ですね)
鎮実は心からこの縁談に感謝して、高橋家に忠節を尽くしてくれとお供の者に何度も言ったとか。
この鎮実は先年、耳川の戦いで戦死していますから
某が岩屋城に籠った理由のひとつに紹運への忠節はもちろんのこと
鎮実の仇を幾分かでも返したかったというのがあるのかもしれません。
このような経歴なので道雪の話も伝わっています。
今風に言えば非常にクセの強かった御方らしく、たまにまわりがドン引きするような言動もあったとか。
在陣中(高橋鑑種討伐の時か?)、寄せ手の吉岡氏と斎藤鎮実の家臣同士のいざこざがあって
どちらも相手が悪いとなかなか引かないでいると、道雪から使者が到着
「このような時に猛々しきは大いに結構。しかしながら軍規を乱さばこの立花の敵。
立花の敵なら大友の敵。敵ならば今すぐあの城に(攻城中の城の事)入ってはいかが?」
このようなニュアンスのことを伝えられてかなり鎮実は困ったそうです。
おそらく吉岡にも伝令がw
0429人間七七四年
2012/11/16(金) 00:31:09.59ID:rQ8ZDRBb夫婦仲はとてもよく、たまに近くの寺へともに参詣していたそうです。
寡黙な御方だったそうですが、気配りというか家臣や領民の困り事はすぐに解決させていたとか。
岩屋城に籠る際も「我らも!」という多くの人を宝満城へ行かせたらしいです。
もう先の運命はわかっていたのでしょうね。
激しく攻めたてられる岩屋城を向かいの宝満城に詰めた方々はどのような気持ちで見ていたでしょう
多くの身内がいたはずですが、それを想像すると我が事のように胸が痛いです。
先述した甲冑と紹運からの書状のほかに伝わっているものがもうひとつ。
僧形の武将を中心に下に二人の武将が描かれている肖像画があります。
賛もあり快心筆とあります。確認する術がありませんが
降伏勧告の使者として遣わされた地元の荘厳寺・快心和尚の可能性もあるかもしれません。
僧形の武将は紹運で、あとの二人は左側は同じく僧形の某
右側は生前に特に親交が篤かった伊藤総右衛門と伝わっております。
もうネタ切れですのでこのことについて書き込むこともないでしょうが
長文&スレ汚しすみませんでした。
0430人間七七四年
2012/11/16(金) 02:00:30.63ID:t6dSQXQO乙です
こういう家伝の話は滅多に聞く事がないから凄く得した気分だわ
やっぱり道雪公は流石だなw
大友家には一癖も二癖もある人がいっぱいいたんだな
0431人間七七四年
2012/11/16(金) 02:13:05.59ID:rlci3xn3ありがとう。非常に面白かったし、道雪という人間を考える上でも参考になった。
道雪は異教徒の癖にフロイスにほめられてたり、興味深い人物だよね。
時に一つ質問なんだけれども、家に伝わっている紹運からの書状って、どこかで活字化されてたりする?
詳しく聞くと身バレになっちゃうだろうから、なってるかどうかだけ教えて欲しい。
大友氏の史料は、滅んだワリに残っているとはいっても少ないからね。
まだ公開されていないのであったら、是非大友研究に寄与して欲しいと思うわけですよ。
0432人間七七四年
2012/11/16(金) 02:54:06.05ID:qvE7DD8g>>428
面白い話ありがとう。
家伝の話なんて聞いたの初めてかもしれんw
しかし、この道雪伝とされるこのセリフ、
>「このような時に猛々しきは大いに結構。しかしながら軍規を乱さばこの立花の敵。
>立花の敵なら大友の敵。敵ならば今すぐあの城に(攻城中の城の事)入ってはいかが?」
いかにも道雪が言いそうで笑ったw
0433人間七七四年
2012/11/16(金) 03:45:38.35ID:fFArB14/眠れなくなった俺にとっては体にちょっと悪い話
0434人間七七四年
2012/11/16(金) 12:29:37.87ID:sjKFlz0o0435人間七七四年
2012/11/16(金) 12:47:17.05ID:pZ5KUHo50436人間七七四年
2012/11/16(金) 15:08:40.76ID:tI6bsvrv今回の人の話は本当に伝わってる事を書き込みしてくれてるが、
便乗して適当書く人が出てくるのは勘弁してほしいよな
0437人間七七四年
2012/11/16(金) 15:25:20.18ID:pZ5KUHo50438人間七七四年
2012/11/16(金) 15:40:37.59ID:tI6bsvrvしかし武士の道では、他人より先を行く気持ちが必要とされる。
たとえば弓は、左右の手を同じ高さに定めるのが望ましい型だが、
とかく右のほうが高くなりがちなので、
弓の師範は、右を低めに意識させることにより、
正しい型へと導くことがある。
実戦も、名のある武士を追い越そうと心掛け、
どうにかして強敵を討ち取りたいと昼夜考えつづけていたならば、
心も自然と勇猛になり、疲れることもなく、
武勇を発揮することができるという。
これは私が昔聞いた老武者の話である。
実戦の時ばかりでなく、平素にもこうありたいものだ 【葉隠】
0439人間七七四年
2012/11/16(金) 16:33:39.54ID:HGbeldF2これが宗滴のじじいとか真田パパンとかお館様とかだと真っ黒になるんだろうな
0440人間七七四年
2012/11/16(金) 16:59:23.10ID:lfgeQGMY0441人間七七四年
2012/11/16(金) 17:03:36.78ID:/V+bX9R6だがちょっと待って欲しい
真っ黒と言えど、発揮できるのが武勇ではなく、知勇に変わるだけでは無いだろうか
0442人間七七四年
2012/11/16(金) 17:10:14.28ID:tI6bsvrv誰が相手でも逃げるようになるから注意しろよ!の教訓だと思ってる
人間は知らないうちに楽なほうに理屈つけて自己正当化しやすいからさ
それに葉隠は集団や組織単位でのスローガンじゃなくて、
山本常朝の個人的心構えだし
紹運一門の子孫さんが言うように、
武家時代の唯心論的なものを近代軍隊で国外戦に適用したり、
一億総玉砕の国是なんかに流用するのはリアルキチガイだと思うよ
最近葉隠投下するとなぜか風当たり強いから、
一応、オレの考え書いとく(笑)
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています